over the rainbow iv

屋根裏ネコのゆううつ

オレンジ色の海にいた。
これは夢だと、僕はもう知ってる。
夢だけれど、夢じゃない。「オレンジの海」は、意識のつながる場所。
波打ち際の砂の上に座って、腰まで水に浸かりながら、ぼんやりと海を見ていた。
今日も温かい雨が降っていて、海の水は心地良い冷たさだった。
ここは一体、どこなのだろう。
何か途方もなく大きな生き物の、その体内にいるようにも思える。
僕は今まで、そんな大きな生き物の、体の中へ入ったことはないはずだけれど。
「そりゃたいへんだ。おまえ、消化されちゃうかもよ?」
くすくすと楽しそうに笑うLの声が聞こえた。
姿は、やっぱり今日も見えない。
消化されちゃうかも?
ああ、なるほど。胃の中とか、お腹の中とか、そういうイメージじゃなかったかもしれない。
ここが、「意識」のつながる場所なのだとしたら、大きな生き物の頭の中?あるいは脳の中?
そんなイメージかな。
「つまんない子だなー。もっと子供らしく、素直に怖がるとかさー、おまえ、そーいうのぜんぜんないのなー」
つまんない子、と云いながらも、Lは楽しそうに笑ってる。
Lとの会話は、逆説的であったり、抽象的であったり、そうかと思えば至極論理的であったりもするので、ジェットコースターに乗っているようでとても楽しい。
「あーそう?でも、オレ、絶叫系ダメなんだよねー。Jのお嬢は、どんな絶叫マシン乗っても平然としてるけどなー」
へえ、それは意外かも。逆のイメージだったかな。
Lは平然としてそうで、Jは苦手そうに見える。
「それって、わりと見たまんまじゃね。なるほどなー、おまえもその辺はまだ子供ってことかー」
その辺がどの辺なのかは、僕にはわからないけれど。
そう云えば、L、無事に大騒ぎは乗り切れたの。
心の声で、僕は尋ねる。
原因不明の「眠り病」から、半年ぶりに眼を覚ましたのだから、お屋敷じゅうが、大騒ぎだったのでは。
「あーまあ、無事、かどーかはさておき、ね。親父が海外出張中だったのがせめてもの救いって感じだなー。あいつがいたら、三日三晩祝宴とかやりかねないからねー。とりあえず、ひと騒動は終わったかなー。明日、また大学病院へ行かなきゃだけど。検査だとかで」
それは、お疲れ様。
でも大学病院での検査は、ちゃんと受けておいてもらった方が安心かな。
眠ってただけだから、何もないとしても。
きちんと病院で検査してもらえたら、安心だよね。
「はいはい。まあ、最初に眠っちゃったからね、どーしてもオレが実験サンプル1号って感じにはなるよなー。おまえとJの安心安全のために、明日はその検査とやらにつき合ってくるよー」
はっはー、と、半分ヤケみたいに、Lは笑ってる。
冗談めかしているだけなのか、本当にヤケになっているのかは、声だけではわからなかったけれど。
「ところで、Jはどーした?あいつ、まだお庭の散策に夢中なのか?」
そう云えば、今日はまだJの声を聞いていない。
オレンジの海に、つながっていないのかな。
僕も呼んでみようか、と思った矢先に
「うう」
何かとても不機嫌そうな、Jのうめき声?が聞こえてきた。
やっぱりJも姿は見えない。
具合でも悪いのかな。いや、そもそも体は眠りについていて、意識だけの状態でも、具合が悪くなったりするのかな。
「ううん、だいじょうぶ。L、目が覚めたんだね、良かった」
だいじょうぶ、ではなさそうな声で、Jは、ぽつりぽつりと云う。
苦しそう、というか、なんだろう、元気がない。
「おー、起きたぞー。んで、Kとふたりで、おまえのお見舞いに大学病院にも行ってきたぜー。おまえ、来週退院できるってさー」
Lも、Jの元気がないことには気づいているのだろうけれど、特にそこには触れず、あえて普段通りに話しているみたいだった。
「あ、うん。ありがと。Kも、ありがと、ね」
Jはもともと口数が多い方ではないし、おしゃべりが得意な子というわけでも、たぶんない。
でも、それにしても、今日のJは少し変だ。
どこがどう、とは、声だけなので、わからないけれど。
Lがいつもの調子でつづけて、
「あと、退院して家に帰ったら、おまえの部屋の窓を開けといてもらえるよーに、おばちゃんに頼んどいたぞー」
「部屋の窓を、どうして?」
「どうしてって、おまえが目を覚ます時に、部屋に入れるように?ネコチャンが。あ、おまえまさか、まだ見つけてねーとか?そんでそんなに凹んでんの?」
そうなのかな。
Jはそんなことでこんな風に落ち込むだろうか。それはまあ、多少気落ちしたりはするかもしれない。
けれど、こんな、息をするのもしんどい、みたいな?そんな落ち込み方は、しない気がするのだけれど。
「部屋に、入る?」
Jの声は、固い。
「あ、そーか。まだおまえに、戻り方を教えてなかったなー。いいか、ある程度の期間眠って、体が回復したら、おまえの意識の「泡」に光の虹彩が戻るから。そしたらおまえの体のとこへ行って、おまえが動物に入った時と同じことをしろ。ってか、おまえ、動物に入ったとこは覚えてないんだっけ」
「・・・うん」
「オレとラファエルの場合は、ラファエルの鼻先でオレの鼻に触れた。だから戻る時も同じように、ラファエルの鼻先で、眠ってるオレの鼻に触れた。そしたら戻れた」
いつも、特にJに対しては、ざっくりとした説明しかしないLにしては、ずいぶん詳細でわかりやすい説明だなと思った。
LはLなりに、元気のないJを心配しているのかもしれない。
「鼻に、触れる?」
Jの声がうわずった。
少し、悲鳴にも似た声。
「うう、やだ」
短く、Jは云う。
やだ?
まさか、戻るのが?いや、そんなはずはない、よね。
「はあ?おまえ、なに云ってんの。かわいいネコチャンの鼻で寝てるお前の鼻に触るだけじゃねーか、何が嫌なんだよ」
Lの言葉を聞いて、ひとつ、思い当たる。
そう、またLは、動物がネコチャンだと決めつけているけれど、もしかして、
「ネコチャンじゃないよ」
ぽつりと、ほとんど聞こえないくらいの声で、Jは云う。
ネコチャンじゃない、
鼻に触れるのが「やだ」
まさか、
「ええ?じゃーなんなの。おまえ、今、何に入ってんの?」
何故か、Lは俄然興奮し始める。
いや、まあ、気持ちは、少し、わからないでもないけれど。
確かに僕も興味はあるし、気になるけれど。
でも、
Jが嫌がるような動物?
触れるのが嫌な?
「うう・・・、云いたくない」
消え入りそうな声で、Jはつぶやくように云う。
ひょっとして、Jは、拗ねてるのかな。ネコチャンじゃなかったから?いや、まさか、Jはそんな子じゃないよね。
云いたくない?
鼻に触れるのが嫌な動物?
あのJが、「やだ」とまではっきり云い切るような?
「おまえなー、それじゃわかんねーだろ。鼻に触れるのは「やだ」?、何の動物なのかは「云いたくない」?、それで、どーしろっての?」
Lが、爆発した。
もちろん本気で怒っているわけではなく、怒ったふり?なのだろうけれど。
いつでも陽気で飄々として落ち着いている印象のあるLだけれど、何故かJに対しては沸点が低い気がする。すぐ怒る。もちろん本気で怒ってるわけではなくて、そういうポーズというか、ふざけ半分なのかな?まあ、それだけ、遠慮のない親しい間柄、という事なのだろうけれど。
「うう・・・だって」
Jは困り果ててるみたいだった。
J自身にも、どうしたらいいのかわからないのかな。
きっと、そう。
「だって、あの子、ゴミを漁って食べるんだよ。ううん、ゴミだけじゃなくて、し・・・。やだ、やっぱり云いたくない」
ぽつりぽつりと云いかけては、Jの言葉が止まる。
ゴミを漁って食べる
それは、真面目で潔癖なJには、かなりきついかも。
それに、ゴミだけじゃなくて、し・・・。
し?
ひとつ、頭に浮かんだ言葉はあったけれど、それは、僕にも云うのは憚られた。
そして、ゴミや何かを食べているその子の鼻先と触れるのが、「やだ」と云うJの気持ちも、わからなくはない、かな。
「あーね」
Lも察したらしい。少し声のトーンを落として、
「うーん、そこは、ダメもとでお願いしてみたら?オレは、まあラファエルだったからねー、その辺だいぶイージーモードだったわけだけど。でも、最初にあいつが拾い食いをした時に、「おい」って止めて、説得してみたぞ。何が落ちてるかわかんねーし、万が一、それが毒だったらどーするんだ、と。あと、他所様のゴミ箱を漁るのもみっともねーからやめてくれん?と」
「・・・それで、ラファエルはやめてくれたの?」
「うん。まあ、ごめん、ラファエルだからね?元々うちの犬だし。だから、おまえのそのネコチャン?じゃなくて、何チャン?だかは知らねーけど、その子が云うこと聞いてくれるかどーかは、わかんねーけど。少なくとも、ゴミ漁りは、おまえの見てないところでやってもらう、とかさ。そーいう交渉を、ね」
そう云って、Lはいったん言葉を切り、
「でも、やってみる価値はあると思うぜ。次に控えている、Kのためにも」
キリッとした美少女のキメ顔が目に浮かぶような、Lの口ぶりだった。
しかも、僕をダシにするなんて、ずるい。
そんな風に云われたら、Jはきっと、
「・・・わかった。やってみるよ」
ポツリとJはつぶやくように云う。
ほら、ね。
あの、J、無理しなくていいから、
僕が云いかけると、
「おい、心配性オヤジ。おまえは少し黙れ」
Lに、笑いながら叱られた。
まあ、確かに、Lは正しい。
いずれにしても、この問題は、Jがどうにかするしかない、んだよね。
そして、「お願い」と「交渉」によってその動物との友好関係が築ければ、それは何より、Jのためになる。
だから、僕が横からどうこう云って、止めるべきことじゃない。
それはわかるんだけれど、ね。
「K、ありがと。だいじょうぶだから、心配しないで」
さっきまでよりも少しだけ元気な声で、Jはそう云った。
多少、無理しているのかもしれないけれど。
「一度、あの子をお庭に招待して、ゆっくり話してみるよ」
ふふっと、少しだけ、Jは笑った。
お庭に招待、
すごい、そんなこともできるの。
「うん。お互い意識だけだからなー、相手の意識が同意すれば、わりとすんなり入れるはず。ラファエルの意識も、オレの基地に来てたし。だから、Jのネコチャン、じゃなくて、何チャン?」
「やだ、教えない」
Lの問いかけに、Jは即答。
そこは、頑なに教えたくないらしい。
「あっそ。まあ、おまえのその反応で、何となく想像ついたから、別にいいけどねー」
すっかり興味を失ったように、Lは云う。
何となく想像は、僕も、何となくだけれど。
真面目で潔癖なJが触れたくない動物、
ゴミを漁って食べたり、他にも言葉で云えないようなものを食べたりもする動物、
つまり、あまり衛生的とは云えず、どちらかと云えば清潔でないイメージの。
「ごめん、何か、気持ちがもわもわするから、ちょっとお庭で癒されてくる。ふたりとも、また明日ね」
Jはそう云って、「オレンジの海」につながる窓を閉じたらしい。
何も聞こえなくなった。
「はいよー、ミッキー?いや、ミニーチャン?によろしくなー」
もうJは聞いていないと知って、なのだろうけれど、Lはそんなことを云ってた。
まあ、僕の想像も、おおむねその辺りだったのだけれど。
でも、ネズミって、入れるのかな。意識だから体の大きさは問題ないのかも、とは云え。
「さてなー、オレも知らん。動物園で「灰色の」を調べた時も、そもそもネズミはいなかったしなー。あーでも、ウサギとか、ハリネズミとかは、いたかもしれねーなー。ただ、ぜんぜん記憶にないな。メモは残ってるはずだから、あとで見てみるかー」
その子が、Jとの話し合いに、応じてくれるといいけれど。
「あー、そこら辺は、実はあんまり心配してないんだよなー。入れる・入れないの時点で、その辺もしっかり基準になってるんじゃないかねー、とオレは思ってるぜー」
つまり、きちんと意思疎通ができて、ある程度こちらの要求や言い分を受け入れてくれるような動物だけが、灰色の「泡」で「入れる」として選ばれている、ってこと?
「おそらくね。だってうっかり、敵意や悪意をもってるやつに入っちゃったりしたらたいへんだろー?あとぜんぜん話が通じねーやつとかさー」
なるほど、確かに。
そう考えてみると、共生、とかに近い感じだろうか。
図鑑か、おばあちゃんの見ていた動物もののドキュメンタリーだったかな、それで見た覚えがある。
イソギンチャクとクマノミのような。
「おーそれなー。いい例えだねー、さすがだぜー」
いい例え、なの。
「うん。オレ、実は「寄生」してるみたいで何かちょっといやだなーと思ってたの。だから、「共生」のがいいよねー」
言葉の違いで、確かにイメージがだいぶ変わる。
これも「認識」なのだとしたら、Lの云う通り、共生の方がいい。
「だろー?じゃあそーいうことで」
Lは「ふふふ」と笑って、
「さて、おまえもお疲れだろーから、そろそろ休むかー。土日は大人しくしとけよー、無理ばっかしてると、どっかその辺で眠っちゃうぞー」
冗談なのか本気なのか、よくわからない事を云う。
どこかその辺で眠っちゃうのは、できれば避けたい、よね。
今度はラファエルも助けに駆けつけてくれないだろうし、土日は大人しく、家で夏休みの宿題でもすることにしよう、と思った。
「頼むぜー。まあ、万が一またおかしな「線」でも見えたら、その時はラファエルで駆けつけるけどなー」
ふっふー、とLは笑っているけれど、それは、単にLがラファエルに入りたいだけなのでは。
半年ぶりにようやく解放されたばかりなのに、また酷使されたのでは、ラファエルもかわいそうだ。
やっぱりしばらく大人しくしていよう、と思った。

土曜日、昼過ぎに、にわか雨が降った。
いかにも夏らしい、夏の夕立、と呼ぶに相応しい、急な雨だった。
父と車で買い出しに出ていた母から電話があって、庭に出している洗濯物を取り込んでほしい、と頼まれた。
ぱらぱらと降り出した雨に濡れながら、干してあった洗濯物を両手で抱えて、縁側の廊下の掃き出し窓から中へ放り込む。
遠くで、ごろごろと雷が鳴っているのが聞こえた。
今日は、耳の奥の「音」も、雷に似た音だったので、どちらが本物の雷の音なのか、注意して聞かないと区別がつかないくらいだ。
Lはあの認識の喪失の能力を「なんとも煮え切らねー、中途半端な「力」」と評していたけれど、僕のこの「音」の方こそ、何ともはっきりしない「力」という気がする。
この「音」が、今まで何かの役に立った事があったか、今後何か役に立つ事があるのか、甚だ疑問だった。
慌てて取り込んだ洗濯物は、もうほとんど乾いていた。
母の電話が早かったおかげかな、あるいはいま母たちがいる場所よりもこちらの方が、雨雲が来るのが少し遅かったのかもしれない。
縁側に腰掛けて、適当に洗濯物を畳んで重ねておく。
きちんと畳み方を教わったわけでもないので、シワにならないように、とか、それくらいの適当さで。
洗濯物を畳み終える頃には、もう雨も上がっていて、遠くの雷も聞こえなくなってた。
すぐに明るい日が差してきて、どこかで蝉が鳴き始めてる。
部屋に戻って夏休みの宿題の続きをしようと立ち上がる。
その前に、キッチンで冷たい麦茶でも持って上がろうかなと思いつき、廊下を歩き出した時、
ぴぴぴとあの「音」がかすかに聞こえた。
耳の奥の雷の「音」はもう聞こえない。
遠くかすかな、ぴぴぴという警告音に変わってた。
役に立たない「音」だと評したことが、気に障ったのだろうか。
急にやる気を出したみたいな、そんな鳴り方だった。
前回と同じだとすれば、あのヌガノマ、なのかな。
だとしたら、わざわざこちらから近づいてやる必要もないので、「音」は、無視して、部屋に戻って宿題を続けるべきだろう。
くるくると顔の向きを変えてみると、どうやら南の方角から聞こえてくるらしい。
まだかすかに聞こえるくらいなので、距離はたぶん遠い。
本当に、あのヌガノマなのかな。
もしも、そうでなかったとしたら?
何か別の警告を発しているのだとしたら?
確かめるべき、かな。
好奇心は猫を殺す、と云うけれど。
この「音」も、あの能力のひとつなのだとしたら、ガブリエルの行方に関する何か、という可能性もあるのでは。
もしかしたら、ガブリエルの入ってる「動物」に反応しているのかもしれない。
行くだけ行ってみよう、と思った。
「動物」が見つからなければ、すぐに帰ってくればいい。
もしも「動物」を見つけたら?
その動物が何かにもよるけれど、危険がなさそうなら、呼びかけてみる、とか。
玄関へ向かいながら、懐中電灯と方位磁針は?と頭の中で声がする。
誰もいないし、「オレンジの海」にもつながっていないので、もちろんそれは、僕の声だ。
いや、さすがに、警告音が地下を示しても、今日は入らないよね。
それに、「音」は南から聞こえているので、あのマンホールではない、はず。
懐中電灯を持って出たら、万が一、「音」が地下から聞こえた時に、深追いしてしまいそうだ。
持っていなければ、そこで諦めて引き返せる。
明日は日曜で、アイもバスケが休みのはずだし。
今日は場所だけ確認しておいて、明日、あらためてアイを呼んで一緒に行ってもらうこともできる、よね。
そう結論付けて、懐中電灯も方位磁針も持たずに家を出た。
念のため、自転車で行こう、と思った。
もしも「音」がヌガノマを示していたとしても、自転車でならば逃げ切れる、はず。たぶん。
まあ、それ以前に、あいつが、昼間から人目につくような場所をうろうろしているとも思えないけれど。
念のための逃走手段、だ。
ガレージから自転車を出して、門を閉める。
家の玄関も、しっかり施錠した。
ふと見上げると、雨上がりの夏空に、虹がかかっていた。
ただの偶然だと思うけれど、虹の端は塀の向こう側、南の方から始まってた。
ぴぴぴぴ、というあの「音」は、変わらずに南の方から、かすかに聞こえている。
2ブロックほど南へ進み、ヤマダさんの家の横を通り過ぎる。
前方、1ブロック先に信号のある交差点が見えた。
交差点を右へ渡ればあの駐車場の前、交差点の左の角にはコンビニの看板が見えた。
ぴぴぴ、とわずかにあの「音」が大きくなった気がした。
右手の駐車場の方から交差点を渡ってくる人影に、眼を吸い寄せられた。
白っぽい夏物のワンピースを着た女性、左肩から、ピンクのハンドバッグを下げている。
まさか。
とっさに、ヤマダさんの家の塀と電柱の間で自転車を止めた。
自転車に乗ったまま、体を、電柱の影に隠すように立ち、頭を半分だけ出して前方をうかがう。
1ブロックの距離はあるけれど、コンビニからヤマダさんの家までの間には、遮蔽物は何もない。
区画整理された空き地なので、見通しはいい。
間違いなく、ルリおばさんだった、けれど。
様子が、少しおかしい気がした。
遠いのでよくわからないけれど、足を引きずっているような。
怪我でもしたのかな。
昨日の、あの弾むような楽しそうな様子とは全く違う、ふらふらと頼りない足取りで交差点を渡っている。
そのまままっすぐに進めばコンビニ、渡り終えて左を向けば僕と正面から鉢合わせることになる。
電柱の影で、自転車の向きを変えるべきかどうか、迷った。
普通の電柱なので、完全に姿を隠すことはできていないはず。
それに、昨日のLの話、ルリおばさんも「能力」を持っているのだとしたら、すでに、僕の「色」に気づいているのかもしれない。
交差点を渡り終えたルリおばさんは、正面のコンビニの方を向いていた。
そのまま、ふらふらとコンビニの入り口へ近づいていく。
まだ気づかれていないのなら、今すぐ家へ逃げ帰るべきだろうか。
いや、すでに「色」に気づかれているのだとしたら、今、このまま帰ったら、家の場所をわざわざ教えてやるようなものでは。
確認すべきだ。気づかれているのかどうかを。
そしてもしも気づかれているのなら、それを利用してどこか遠くへ誘導すべきだ。できれば、家とは逆の市内の方角へ。
まだ気づかれていないのだとしたら、ルリおばさんがどこへ向かうのかを確認しておきたい。このまま気づかずに去ってくれるのさえわかれば、それでいい。
コンビニの建物の向こう側へ姿を消すルリおばさんの左手に、何か細長い棒状のものが握られているのがちらっと見えた。一瞬だったので、何なのかはよくわからなかったけれど、短い杖のような?
すぐに電柱の影から出て、交差点の角へ急ぐ。
まっすぐに東へ続く左手の路上に、人影はなかった。
コンビニ以外には空き地しかないので、どこかに身を隠すことはできそうにない。
ルリおばさんは、コンビニに入ったのだろう。
あまり店に近づきすぎないように、交差点で信号を待つようなふりをして、さりげなく店内の様子をうかがう。
ルリおばさんは、コンビニの中にいた。
やはり少し足を引きずるようにして、狭い店内を右へ左へ移動している。
何かを探しているようだった。
店内に他にお客さんはいない。
レジの向こうで、店主のおばさんが退屈そうにあくびをしながら、うろうろと店内を歩き回るルリおばさんを不審そうにちらちら眺めていた。
やがて、目当てのものを見つけたらしい、ルリおばさんはレジに向かい、お会計をしているようだった。
お会計をして店を出てくるのなら、一度身を隠したほうがいいかもしれない。
そう考えて、コンビニの建物の影へ移動しながら、もう一度さりげなく店内の様子を窺ってみた。
ルリおばさんは、店内の左側にあるレジカウンターに向いて立っているので、入り口のガラスドア越しにその全身がよく見えた。
左の肩にかけたピンクのハンドバッグを右手でかき回して、財布を探しているようだ。
やはり左手に何か棒のようなものを持っている。
杖にしては、短い。1mくらいの細い木の棒。あの棒、どこかで見た覚えが。
考えてすぐに思いつき、ぞっとした。
あれは、「伝説の剣」だ。
工事現場を探索した時に、アイがどこかで拾って、塀を叩いたり、塀の隙間をこじ開けたり、草むらを切り開いたりするのに使っていた、あの「伝説の剣」。
もちろん、それは本物の剣などではなくて、僕らが勝手にそう呼んでいただけの、ただの木の棒だ。
それを、何故、ルリおばさんが持ってるの。
コンビニの影に自転車ごと身を隠しながら、考える。
あの「伝説の剣」を、僕は最後に、どこで手放したのだったろう。
ひとりで工事現場へ行った、あの日、木曜日のはずだ。
その前日に、あの駐車場でアイのお父さん、アンドウ先生に会って、その時には僕が手に持っていた。
その後、駐車場でアイと別れてから、僕は塀の切れ目まで戻って、「伝説の剣」を塀に立てかけておいた。
誰かが塀の隙間を開けたら、棒が倒れてわかるはずだと考えて。
そして、木曜日、ひとりであの塀の隙間へ行った時、「伝説の剣」は前日と同じ形で塀に立てかけられていた。
僕はそれを手に取って、それを使って塀のすき間をこじ開けて、その後は?
それを持ったまま、塀の内側へ入り、マンホールに向かっただろうか。
それとも、棒はその場に置いて行ったのだったろうか。
覚えていなかった。
さっき、ルリおばさんは、あの駐車場の方から歩いてきた。
あの棒、「伝説の剣」を持って。
ルリおばさんに、その辺に落ちてた木の棒を拾って持ち歩くような趣味がある、とは思えない。
あれくらいの年齢の大人の女性が、木の棒を拾って持ち歩くことが、よくある事とも思えない。
ルリおばさんは、何らかの方法で、あれが「伝説の剣」だと知って、拾ったのかな。
そういう「能力」なのかもしれない。
物に残った誰かの意識の残滓のようなものを感じ取れる、とか。
おそらく、僕の「色」が、あの木の棒に残っていた、だからルリおばさんは、あれが僕と関わりのある「物」だと知って、拾って持ち歩いてるのでは。
という事は、ルリおばさんは、僕を探して、このニュータウンまでやってきたのか。
何らかの「能力」を使って?
何かの痕跡をたどって?
コンビニの自動ドアが開く音がした。
「ありがとうございましたー」
愛想のない、店主のおばさんの声が聞こえた。
ルリおばさんは、どちらへ向かうのだろう。
とっさに、その場を離れて、コンビニの裏手に回り込んだ。そのまま、敷地の北東の角まで移動する。
北西、南東、どちらかからおばさんの姿が見えたら、すぐに逆方向へ移動して建物の影に隠れられるように。
ルリおばさんが店を出て右へ、交差点を右へ折れて僕の家の方へ進むのなら、北西の角から姿を現すはず。
左を向いて、東へまっすぐ進むのなら、南東の角から見えるはず。
それ以外の方角、まっすぐ南へ市内の方へ進む場合と、西へまっすぐに交差点を渡って工事現場の駐車場に戻るのだとしたら、ここからは見えないけれど。
1分、ここで待機しよう。1分経ってどちらの角からも姿を現さなかったら、さっきの場所に戻ってみよう。
そう決めた。
角に立ち、左右両方に眼を配りながら、秒数を数えた。
30まで数えたところで、左側、コンビニの南東の角から、ルリおばさんが姿を現したので、さっと自転車ごと右側へ身を隠した。
自転車を止めて、建物に張り付くように立ち、顔を半分だけ出して様子を窺うと、ルリおばさんはぼんやりとした様子で、まっすぐ東へ歩いて行く。
左足を引きずりながら、左手に「伝説の剣」を持ち、右手にコンビニ袋を下げて、ゆっくりゆっくりと歩いていた。
ふと思い立ち、建物の影に戻って自転車に乗り、西側から回り込んでコンビニの正面に戻った。
東へ向かう通りの歩道、15mほど先に、ルリおばさんの白いワンピースの後ろ姿が見えるのを確認してから、自転車を止めて、コンビニの店内へ入った。
まっすぐレジに向かうと、レジの中から店主のおばさんが、
「あら、スズキさんちの坊っちゃん、いらっしゃい」
数少ないご近所さんで顔馴染みのためだろう、愛想良く微笑みかけてくれた。
「おばさんこんにちは、あの、さっきのお客さん」
何を買ったのか、何か聞かれなかったか、そう尋ねようと思っていたのだけれど、誰かに話したくて仕方なかったのかな、何も聞かないうちにおばさんが喋り出す。
「あ、あんたも見たの?気味の悪いおばさんだったねえ。何かひとりでぶつぶつ云いながら店の中うろうろしててね。手に棒なんか持っててさ、あたし、コンビニ強盗かと思ったわよ。お会計の時も、セルフレジがわからないらしくてね、お財布から1万円札をこう、ぽいと放り出して、お釣りを出したら、ばっと引っ掴んでお財布じゃなくてバッグにそのままじゃらじゃら放り込んでね。何か変な薬でもやってるのかしら、いやねえ」
おばさんの話を聞きながら、ふとセルフレジを見ると、レシートが取り出し口に残ったままになっていた。
素早く目を走らせて、レシートに記載された品目を確かめる、
500mlペットボトルのミネラルウォーターと梅干しのおにぎり、それから、LED懐中電灯?
「親戚のおばちゃんに似てたから。でも、人違いだったみたい」
ぺこりと店主のおばさんにお辞儀をして、店を出る。
「ああ、人違いに違いないよ。きれいな服着てたけど、全身泥だか煤だかで真っ黒だし。変質者かもしれないから、あんた、気をつけなさいね」
まだ喋り足りなかったらしく、僕が店を出てもまだおばさんは大声で僕の背中にそう話しかけていた。
もう一度、店の外からぺこりとお辞儀をして、自転車に乗る。
東の通りを確認すると、だいぶ小さくなってはいたけれど、まだルリおばさんの後ろ姿は見えていた。
まっすぐに東へ向かえば、店主のおばさんにまた何を云われるかわからないと思ったので、念のため、家へ帰るようなそぶりで、西からぐるりとコンビニの後ろを回って通りへ出た。
ルリおばさんは、次の角を北へ曲がるところだった。
北?あの向こうには、何があっただろう。
自転車を漕ぎながら、記憶を辿る。
確か、川があった。
西のススガ岳の山裾から流れてくる川が、ニュータウンの北側を西から東へ流れていたはず。
そのまま川を東へ下れば、東の丘陵地帯をまわり込むように流れて、やがて海へ注いでいたと思う。
角を北に曲がると、ルリおばさんは20mほど先を歩いていた。
ニュータウンの外れなので、通りはそれほど広くはなく、歩道もない。
二車線の車道の路肩を、しばらく北へ進んだ。
ぴぴぴ、というあの「音」は、前方を歩くルリおばさんの方から聞こえてくる。
昨日は、ルリおばさんに会っても、同じバスに乗り合わせても、警告音を発したりはしなかったのに。
道の端に、何かが落ちていた。
近づいてみると、コンビニのおにぎりの包装フィルムのようだった。
ルリおばさんが、歩きながら食べたのだろうか。
拾ってみると、破れた品質表示シールに印字された賞味期限が、今日の22時迄、と書かれてる。
やっぱり、おばさんが捨てたものらしい。
一応、親戚として、僕が拾っておくべきかな、と思い、丸めてポケットに突っ込んだ。
辺りは、寂しい田舎道だった。
左側は、区画整理されただけのかつてのニュータウンの空き地が続き、右側は、手付かずの藪や荒地が目立つ。
何か用事があって歩くような道ではないように思える。
この先の川へ向かうためか、あるいは川の向こう側、だいぶ先だけれど隣の市へ向かう、とか。
いや、いずれにしても、僕の家の前の大通りも北へ進めば同じ川を渡り隣の市へ通じているので、わざわざこちらの道を通る人は少ない気がする。
200mほど進むと、正面に川が見えてきた。
実際には、川は道路よりも低い場所を流れているので、ここから川面はまだ見えない。
ルリおばさんは、迷いなく川沿いを左へ曲がった。
ふらふらと頼りない足取りではあるけれど、進むべき道はわかっているらしく、そこは迷いがなかった。
20mほど距離を置いて後をつけていたので、見失わないよう少し急いで距離を詰めた。
僕も角を左へ曲がる。
そのまま、おばさんの10〜15mほど後ろを、自転車に乗ったままついて歩いた。
もしも急にルリおばさんが振り返ったりしたら、隠れる場所はない。
距離的にも、顔を見て僕だとはっきりわかるはずだけれど、もうその心配はあまりしていなかった。
こちらは自転車だし、足を怪我しているらしいおばさんに追いつかれる心配はたぶんない。
くるりと向きを変えて、逃げればいいと思ってた。
それに、何故か、ルリおばさんは振り返らないだろうとも思った。
理由は、わからない。
黙々とただ前だけを見て、何かを目指して歩いているように見えたから、だろうか。
ここまで来ると、ガードレールの向こうに川が見える。
道路よりも4〜5mほど低いところを流れていて、川幅は15mくらいだろうか。
対岸は、川沿いが遊歩道とサイクリングコースになっていた。
ニュータウン開発の一環として、整備されたものなのかもしれない。
わりとしっかりと造られたサイクリングコースなのに、道端の雑草が伸び放題に茂っていたり全体的に放置されて古びた印象は拭えない。
それでも、休日のためか、ジョギングをしている人や、犬の散歩をしている老夫婦、川に釣り糸を垂れている高校生くらいの少年などがちらほらと見えた。
川沿いを少し西へ進んだところで、ルリおばさんは不意に道路を渡った。
車通りがなかったから良かったようなものの、左右を確かめもせず、ふらりと急に思いついたみたいな渡り方だった。
もっとも、車が来るのを確かめようと立ち止まって左右を見渡せば、後ろを歩いている僕に気づくはずなので、その点では、助かったけれど。
西へ向かう通りを南から北へ、つまり、ニュータウン側から、川の方へ渡った事になる。川に何か用があるのだろうか。
川の対面のサイクリングコースが、小さな公園になっていて、そこで終わっていた。
そこから西側は、自然の崖になっていて、こちら側と同様に4〜5m上を道路が通っているようだ。
藪の向こうに、白いガードレールがところどころに見えていた。
こちら側のガードレール沿いをしばらく進んでいたルリおばさんの姿が、不意に見えなくなった。
電柱の影に隠れて見えなくなったのだろうか。
少し足を早めると、電柱の向こう側にガードレールの切れ目があり、そこから、崖下へと下る細い獣道のような道があって、ルリおばさんの白いワンピースの後ろ姿がそこを降りて行くところだった。
自転車では、降りられそうにない。
追跡は、ここまでにすべきだろうか。
さっきのコンビニ店主のおばさんの言葉を思い出した。
「きれいな服着てたけど、全身泥だか煤だかで真っ黒だし」
確かに、ルリおばさんは、昨日と同じ、夏物の白いワンピースを着ていた。
泥だか煤だかで汚れたのは、この獣道を行き来したせいなのかな。
つまり、昨日から家にも帰らずに、この辺りをうろついていた、という事?
どこかで転ぶか何かして、足を怪我してまで。
そして、あの駐車場で見つけた「伝説の剣」をずっと左手に握り続けて。
何か、おかしい。
昨日、バスから見たルリおばさんは、とても機嫌が良さそうで、何か嬉しいことでもあったみたいに、弾むように歩いてた。
帰りのバスで見たルリおばさんは、ぼんやりと頬杖をついて窓の外を眺めていたけれど、Lの「線」によれば、危険はないということだった。
僕の「音」も、特に何の警告も発してはいなかった。
大学病院前のバス停で、僕らの後に続いてバスを降りてきたようだったけれど、偶然そこで降りただけだったのか、僕の後をつけてきたのかはわからない。
それでもLの「線」は危険を示さなかったし、ルリおばさんを指していたのかどうかはわからないけれど「安全」を意味する青い「線」が出てた、とLは云ってた。
昨日から、今日までの間に、ルリおばさんの身に何かが起こったのかな、と思わずにいられなかった。
それくらい、様子が違いすぎる。
たまたま、昨日の印象が悪くなかっただけ、なのかな?
もしかすると、そうかもしれない。
元々、ルリおばさんは変わった人だった。
昨日のルリおばさんを見ずに、今日、4年ぶりにルリおばさんに会ったのだとしたら、「相変わらず変な人だな」で終わっていたようにも思う。
でもやっぱり、何かがおかしい。
好奇心は、猫を殺すかも
頭の中で、誰かの声が云う。誰もいないし、あの「海」にもつながっていない。
それは、僕の声だ。
これは、好奇心、だろうか。たぶん、そうなのだろう。
ルリおばさんの奇妙な行動が、ガブリエルの行方につながるとは、どう考えても思えない。
これは、ただの、僕の個人的な、好奇心からの追跡だ。
僕は自転車を降りて、電柱の脇、ガードレールにぴったりくっつけるように止めた。
念のため、鍵もかけた。
そして、獣道へ足を踏み入れる。
ルリおばさんは、もうほとんど崖を下り終えたところみたいだった。
崖に生えた木々と藪の向こうに、白いワンピースがちらちら動いているのが見えた。
崖の下は、川のはず。岸はあるのだろうか。
道は、急な崖を斜めに下りていく。足元は、意外にしっかりと踏み固められていて、滑り落ちさえしなければ、上り下りにはそれほど苦労しなさそうだった。
すぐに崖下に着いた。
河岸は、大きな岩がごろごろ転がった砂地で、岩の間を縫うように獣道が続いていた。
岸の幅は、2mほどだろうか。大雨でも降れば、あっという間に川に沈んでしまいそうな岸だった。
しばらく、川岸の獣道を西へ進んだ。
不思議なことに、足を引きずって歩いていたはずのルリおばさんの歩くペースは、この歩きにくい獣道でも変わらなかった。
まるで、この道を歩き慣れているかのような、そんな確かな足取りだった。
川幅は、変わらず15mくらいだろうか。向こう岸も、こちらと同じように大きな岩がごろごろ転がる砂地みたいだった。
川の水深はそれほど深くないみたいだけれど、流れは結構早く、子供が水遊びをするのにはちょっと危なそうな印象だった。
15mほど先を進んでいたルリおばさんの白いワンピースの後ろ姿が、崖側の薮の方へふらりと寄って行き、視界から消えた。
藪の向こう側へ入ったようだった。
また、少し足を早める。
とは云え、右は川、左は崖、狭い川岸に1本しかない獣道なので、見失う心配はなさそうだったけれど。
藪を回り込むと、目の前に崖が迫っていて、そこにぽっかりと黒い穴が見えた。
穴の入り口は、檻のような鉄の柵で塞がれていたけれど、その柵の真ん中が少し開いていた。
開閉式の、柵になっているらしい。
これは、洞窟?いや、防空壕、だろうか。
人の手で掘られた穴のように見える。
さっきのコンビニのレシートを思い出した。
ペットボトルのミネラルウォーターとおにぎり、そして、LED懐中電灯。
この穴に入るのが目的で、ルリおばさんはコンビニで懐中電灯を買ってきた、のだろう。
少し開いた柵の隙間から中をのぞき込むと、前方に懐中電灯の灯りが揺れているのが見えた。
あの灯りを目印に後を追えば、ルリおばさんについて行けるかもしれない。
迷う暇はなかった。
灯りが見えないほど先に進まれてしまったら、追跡はここまでとなってしまう。
柵の隙間に体を滑り込ませて、暗い穴の中に入った。
前方に灯りが見えるとはいえ、足元はほとんど見えない。
すぐに外の光も届かなくなり、じりじりと足元を探りながら進むしかなくなった。
意外に、しっかりと平らに踏み固められた地面が続いているようで、何かにつまづいたりすることはほとんどなかったけれど。
穴は、幅も高さも2m弱くらいだろうか。
前方で揺れるルリおばさんの懐中電灯の灯りと、左手で土の壁に軽くふれて進む方向を確かめながら、右手は何もない前方に伸ばして、一歩ずつ足元を確かめながらゆっくりと闇の中を進んだ。
まるで、誘蛾灯に誘われる羽虫にでもなったような気分、かな。
ふと、帰りのことを何も考えていなかったことに気づいて、自分の短慮さに愕然とした。
このまま後をつけてルリおばさんの目的地を確かめたとして、そこからどうやって帰ればいいのだろう。
来た道を戻るにしても、僕には灯りがないのだ。
後ろを振り返ってみると、穴はほぼまっすぐに掘られているようで、遠くに小さく、入り口の外の光が見えた。
どこまで奥へ進むのかはわからないけれど、あの光を頼りに帰るしかなさそうだった。
目的地が、このまままっすぐ先で、あの光が見えている間の距離にあればいいなと、ひそかに願った。
入り口の雰囲気から、防空壕なのかと思っていたけれど、それにしては穴が深く、距離が長すぎる気がする。
外の光の大きさから見ても、もう4~50mはまっすぐに進んでいそうに思えた。
方角は、おそらく南のはずだ。
コンビニから東へ、そこから北上して、川にぶつかった。そして、川沿いを西へ進み、崖を下りて更に西へ。
その崖に面した穴に入ってまっすぐ、つまり南へ。
ニュータウンの地下に向かっているのかな。
川沿いで、どれくらい、西へ進んでいただろう。その距離によっては、ニュータウンのほぼ中心、あの工事現場の地下へ向かってる可能性もある。
また、だ。
もし本当にこの穴も、あそこへ向かっているのだとしたら、あの工事現場には、いったい何があるというのだろう。
少し暗闇に眼が慣れてきたのかな、うっすらと辺りの様子が見えてきたような気がした。
いや、違う、どこか先の方にぼんやりとした光源があるらしい。
先へ進んでいるルリおばさんの懐中電灯の灯りとは別、さらに先に、ぼんやりとした緑色の光が見える。
がちゃっという、金属音が遠くから聞こえた。
ドアノブを回す音、だろうか。
と、思う間もなく、懐中電灯の灯りが細くなり、消えた。
まさか、灯りを消したの?と一瞬慌てかけたけれど、違う、そうじゃない。
ばたん、という音と共に、風だろうか、少し周囲の空気が動く気配がした。
ドアノブを回してドアを開け、その向こうへ行ったのだ。
そしてそのドアを閉じたので、灯りがドアに隔てられて見えなくなった、ということなのだろう。
懐中電灯の灯りが消えた暗闇の中、ぼんやりとした緑の光を頼りに少し進むと、見慣れた非常口のマークが見えてきた。
防空壕に、非常口?と違和感を覚えた、けれど。
左手で触れていた土の壁が、固い石材のような壁になった。
四角く、規則正しく並ぶ、ざらざらの石。これは、煉瓦、かな。
非常口の灯りの下に、灰色の鉄製のドアが見えた。
周囲の壁は、古い煉瓦造りだった。
これは、あの昔の市の下水道と同じ、だ。
同じ時期に同じ工法で作られた地下道、なのかもしれない。
防空壕の非常口ではなく、地下道の非常口、という事らしい。
あの時の市の下水道は、もっと東のはずだった。
この非常口の先の地下道が、どこかであの下水道とつながっているのかもしれないけれど。
そっとドアノブに手を伸ばし、ゆっくりと音を立てないように、慎重に少しずつ力を込めてドアノブを回す。
ノブが回り切ったところで、少し押してみると、ドアは向こう側に開くようだった。
ゆっくりと少しだけドアを開けて隙間をのぞくと、向こう側にも緑色の非常口の灯りがあり、さらにその奥に、懐中電灯の灯りが揺れているのが見えた。
ルリおばさんだ。先に進んでいるらしい。
あの灯りさえ見えているなら、見失うことはない。
慌てずに、そっとゆっくりドアを押し開けて、隙間から体を滑り込ませる。
そしてゆっくりと、音を立てないように、ドアを閉めた。
地下道は、真っ直ぐ前に続いていた。
道幅は少し狭くなっているような気がするけれど、さっきまで真っ暗な中を進んでいたので、いつ狭まったのかはわからない。
地面は土、左右の壁は古い煉瓦だった。
天井も、暗くてよく見えないけれど、おそらく同じ煉瓦の丸天井のようだった。
地面がコンクリートでないことを除けば、やはりあの古い下水道と同じ作りのようだ。
暗いので距離感がよくわからないけれど、懐中電灯の灯りは、15〜20mくらい先を進んでいるようだった。
また左手で壁に触れながら、少し急ぎ足で灯りを追った。
地下道の匂いが、さっきまでと少し違っていた。
土と湿気まじりのカビ臭い匂いだったところに、何か下水のような悪臭が少し混じっている気がする。
それから、どことなく動物園のような、けもの臭も。
ドアが閉じられていたことを考えると、けものが住み着いているとは考えにくいけれど。
嫌な予感を、気づかないふりで押し隠そうとするのは、僕の悪い癖かもしれない。
あの下水道とつながっているのだとしたら、けもの臭の原因としてまず思い浮かぶのは、
ヌガノマだ。
あの正体不明の浮浪者が、地下で暮らしているのだとしたら、この地下道も活動範囲に含まれていたとしても何も不思議ではない。
けれど、ルリおばさんは?
僕の痕跡を追って、このニュータウンまでやってきたのだとしたら、わざわざコンビニで懐中電灯を購入してまで、この地下道へ来たのは何故だろう?
それに、ここまでの彼女の様子を見る限り、そこには確かに何らかの目的があって行動しているように見える。
何かを探してここへたどり着いたというよりは、はじめからここに来ることを決めてそうしていたかのような。
もしや、ルリおばさんは、ヌガノマを追っているの?
いや、そんなはずはない。
ちょっと変わった人ではあるけれど、ただそれだけの普通の大人の女性、のはず。
怪談的な噂話を持つ謎の地下浮浪者で、8年前の誘拐事件の犯人でもある男と、何らかのつながりがあるとは、思えない。
考え事をしながら歩いていて、灯りの変化に気づくのが少し遅れた。
あの灯り、さっきから、同じ場所をずっと照らし続けているような気がする。
つまり、止まっている?
その証拠に、僕が進むにつれ、灯りがどんどん近づいている。
追いついてしまうかもしれない、と思い、少し歩く速度を緩めた。
また、前方に非常口があるのだろうか、遠くにぼんやりとした緑の灯りがかすかに見えている。
それよりもだいぶ手前、僕のほんの10mほど前で、懐中電灯の灯りは、地面を照らしたまま動かない。
ルリおばさんは、あそこで何をしているのだろう。
立ち止まって、何か、例えば進む道でも確かめているのだろうか。
いや、ここまでずっと、一本道なのに?それはない。
ゆっくりゆっくり、足音を立てないように、慎重に近づいてみる。
前方の緑の灯りは、まだだいぶ遠いらしい。ぼんやりとしたその輪郭が小さく見えているだけだった。
後ろを振り返ってみると、さっきの非常口の灯りも同じように小さくぼんやりと見えていた。
あのドアから、おそらく40〜50mくらい歩いていたはずだ。
前方の非常口までの距離も同じくらいだとしたら、50mほどだろうか。
つまり、非常口から非常口までの間は、約100mの真っ直ぐに続く狭い地下道、という事になる。
懐中電灯の灯りが、古びた煉瓦の壁と、黒っぽい土の地面を照らしている。
ルリおばさんの白いワンピース姿は、見えない。
見えない?そんなはずはなかった。
懐中電灯を手にして立っているのだから、その光の輪の中に、足やスカートの裾くらいは見えるはず。
さらに近づいて、わかった。
懐中電灯は、右側の煉瓦の壁からぶら下がっていた。
尖った煉瓦の角に、ストラップを引っ掛けているらしい。
ぴぴぴぴ、という警告音が頭の中で大きくなった。
遅すぎる。
いや、文句を云える立場ではないかな。
警告自体はずっと発せられていて、それを無視してここまで来たのは僕なのだから。
そばには誰もいない。
少なくとも、眼に見える懐中電灯の灯りの周辺には、だけれど。
見えている場所は、ほんのわずかだ。
周辺は、真っ暗な闇。
その中に身を潜めているのだとしたら、いくら白いワンピースを着ていても、見つけることはできないだろう。

という言葉が、頭に浮かんだ。
懐中電灯の灯りは、まさに、誘蛾灯だ。
僕はその灯りに誘われた、哀れな羽虫?
がつんと強い衝撃を首筋、後頭部の辺りに感じた。
目の前が、真っ暗になった。
懐中電灯の灯りも見えない、真の暗闇だった。

気を失っていたのは、一瞬だったらしい。
ようやく青あざが見えなくなるくらいまで回復していた両膝から地面に崩れ落ちて、その膝の痛みで気がつき、とっさに両手をついて倒れた。
先に両手をついていたので、顔から地面に倒れなかったのは幸いだったかもしれない。
何が起きたのかはわかっていなかったけれど、倒れるなり背中に何か重いものがのしかかってきて、首を後ろから押さえつけられた。
暗闇に潜んでいた何者かに後ろから殴られて、気を失いかけて倒れたところを押さえつけられた、という状況らしい。
懐中電灯を煉瓦の壁にぶら下げて暗闇に身を隠し、その灯りで僕を誘った何者か。
ルリおばさんしかいない。
化粧品の匂いがした。それに混じって、かすかにあのけもののような匂いも。
おそらく、膝で僕の背中を踏みつけて、手で後ろから首を押さえつけているのだろう。
懐中電灯の灯りはすぐ近くにあるけれど、うつ伏せに押さえつけられているので、目の前の黒い土の地面以外には何も見えなかった。
首筋に、息がかかった。
振り返れば、すぐ後ろにおばさんの顔があるのだろう。
女性とは思えない力で首を押さえつけられているので、とてもこのまま振り返れそうにはなかった。
「がぶ、りえる」
しわがれた、金属を擦り合わせるような耳障りな声が、耳のすぐ後ろで聞こえた。
背筋が、ゾッとした。
僕を押さえつけているのは、ルリおばさんのはず。
どうして、ここにヌガノマがいるの?
手足をばたつかせて、どうにか脱出できないかと試みたけれど、首と背中にずっしりと体重をかけられていて、拘束を解くことは難しそうだった。
と、体勢を変えようとしたのだろうか、首と背中にかかっていた重みが、一瞬、緩んだ。
素早く体をひねって抜け出そうとする。
体が横向きになったので、後ろが見えた。
泥と埃で汚れた、白い夏物のワンピース、ルリおばさんだった。
横向きになった体を膝でどんと押され、僕は仰向けにされた。
重みが緩んだのは、このためだったのかもしれない。
ぐいと体重をかけたルリおばさんの右膝が、僕の脇腹から胸にかけて乗せられた。
右手は、僕の首を真上から押さえつけている。
息が、できない。
ルリおばさんは、笑っていた。
声は出していなかったけれど、口角を釣り上げ、喜色満面といった表情で、僕を見下ろしている。
こいつは、ヌガノマなのか、それともルリおばさんなのだろうか。
呼吸を止められ、薄れていく意識の中で、必死に思考を巡らす。
Lの言葉が、脳裏を駆け巡っていた。
「そもそも、意識の避難場所っていうなら、なんで他の動物なんだ?人間には入れないのかな」
「もしかしたら、おまえのおばさんも、あのヌガノマも、「力」が使えるのかもしれねーなー、ってね」
人間には入れないのかな
おばさんも、ヌガノマも、「力」が使えるのかも
まさか、
ルリおばさんの中に、ヌガノマの意識がいるの?
さっきのあの声、そして、おばさんの奇妙な行動、
歩く時には、左足を引きずっていた。
ヌガノマは、左足がないから?だから、ルリおばさんの体に入っても、左足を動かせない、のだろうか。
「動物の中に入ると、うーん、どう云えばいいのか、当然、その動物の意識もいるんだよ、体ん中に。んで、その体は、当然そいつが動かしてるわけで。その辺の、なんて云うか、権限の交渉とか?」
ルリおばさんの体に、ヌガノマの意識が入っている、だとしても、体の中には、ルリおばさんの意識もいる、はず。
「眠くなったら、こいつに体の主導権を交代すれば歩きながらでもいつでも寝れるし」
主導権を交代
つまり今、ルリおばさんの体の主導権を、入り込んだヌガノマの意識が奪っている、という事?
だとすれば、ルリおばさんの意識が、体の主導権を取り戻せば。
思いつくなり、僕は叫んでいた。
肺の中にわずかに残っていた空気を全部使って、
「ルリおばさん!」
ビクッと僕を押さえつけていたルリおばさんが、全身を震わせた。
聞こえたのだろうか、ルリおばさんの意識に?
体を押さえつけていた力が、ほんの少し緩んだ気がした。
まだ重みから抜け出すことはできないけれど、呼吸はひとまずできる。
気味の悪い笑顔で僕を見下ろしていたルリおばさんの顔が、ぴくぴくと痙攣して、左眼がぐるりと回った。
まるで左眼だけが、別の生き物みたいに動いて辺りを見回し、僕を見た。
「キクちゃん?どうして・・・」
ルリおばさんの口から、ルリおばさんの声がそう云った。
さっきの、耳障りなヌガノマの声ではなく、おばさんの声だった。
どう云えばいい?助けて?違う。離して?
一瞬、そんなことを考えていると、また、ルリおばさんの顔がぴくぴくと痙攣した。
くわっとルリおばさんの右眼が見開かれる。
「きりの、るり!・・・オマエ、イツモ、邪魔ヲスル!」
ヌガノマのしわがれ声が憎々しげに云って、また、僕の首と胸にかかる重みが戻った。
呼吸が、止まる。
「あんた、ヌガノマ?・・・まさか、あいつ、しくじったの?」
左眼がぐるぐる動いて、また、僕を見た。
もう一度声を出そうとしたけれど、喉を強く締め付けられていて声が出ない。
息が、できない。
「キクちゃん!」
ルリおばさんが叫んで、その左手が動いた。
握ったままだった「伝説の剣」で、僕の首を締め付ける自分の右手を叩いた。
棒で叩かれた衝撃が、首を締め付ける右手を通して僕にも伝わったけれど、おばさん、それじゃだめだ。
そんなのじゃ、こいつの手は外せない。
必死に息を吸い込もうとして、僕の喉がひゅうと鳴った。
視界がちかちかと瞬いている。
ヌガノマは、僕を、ガブリエルを、殺すつもりなのだろうか。
最初から、それが目的だったの?
でも、なぜ?
消えかけた意識で、思考がまだそんなことを考えていた。
ちらつく視界の中、ルリおばさんの左手が「伝説の剣」を投げ捨てて、肩から下げたピンクのハンドバッグを掻き回しているのが見えた。
そして左手はバッグから万年筆を取り出して、キャップを口に咥えて外し、尖ったペン先を躊躇なく右手に振り下ろした。
衝撃が、僕の首に伝わる。
何か嫌な音が聞こえた。
万年筆のペン先が、右手の皮膚を突き破って刺さる音。
「!!!」
声にならない叫び声が、ルリおばさんの口から聞こえたけれど、それでも、ヌガノマは右手を離そうとはしなかった。
ほんの少し緩んだ力が、すぐにまた込められる。
「きりの、るり・・・オマエモ、殺ス!」
ヌガノマの、どす黒い感情が、渦を巻いて眼に見えるようだった。
それくらい、暗く憎しみと殺意に満ちた声だった。
人間が、こんな声を出せるの。
また、視界が白くちかちか瞬き始めていた。
いよいよ、ダメかもしれない。
「おまえ、ひとけのない場所をひとりでうろうろ出歩くなよ」
そう、Lから注意されていたのに。
アイも、「日曜にはまた付き合うぜ」と云ってくれてたのに。
僕は、ダメな子だな、と思った。
「まだ」
心の中で誰かの声がする。
僕の声、なのだろうか。
薄れていく視界に、ルリおばさんの左手が動くのが見えた。
右手に突き刺していた万年筆を引き抜くと、
「キクちゃん、逃げて!!」
ルリおばさんは大声でそう叫びながら、そのペンを自分の右眼に突き刺した。
「!!!!」
獣のような叫び声をあげて、ルリおばさんの体が大きくのけぞった。
右手が僕の首から離れ、左手を掴んで万年筆をもぎ取る。
のけぞり、仰向けに地面に倒れながら、その左手を何度も何度も右手に握った万年筆で突き刺している。
激しく咳き込みながら、僕はどうにか半身を起こした。
けれど、立ち上がれそうになかった。
ずっと体重を乗せられていた胸が痛い。肋骨が折れているのかもしれない。
何度も呼吸が止まりかけたせいか、まだ視界の白いちかちかが消えない。
酸欠のためか、それとも恐怖のせいだろうか、全身ががくがくと震えてた。
僕はただ茫然と、右眼から血を流しながら狂ったように自分の左手を刺し続けるルリおばさんを見つめていた。
「まだ」
また、心の中で誰かが云った。僕の声で。
ルリおばさんは万年筆を地面に叩きつけ、這うような姿勢で、でたらめに辺りを探りながら、
「がぶ、りえ、る!!」
あの、錆びた金属を擦るような声で叫ぶ。
眼は見えていないはずなのに、まだ、殺意は消えていないらしい。
ルリおばさんの意識は、どこかへ押し込められてしまったのだろうか、もう声も聞こえず、左眼は、閉じられていた。
「K、ボクに代わって」
心の中の僕の声が云った。
いや、僕の声?ではないのかも。
代わって?って、
何をどう代わるというのだろう。
「時間がない、早く!」
僕の中の誰かの声がそう云うと、無意識にわき腹を抑えていた震える僕の両手から両手?が出てきた。
半透明に光る両手が、僕の手首から生えている、ように見えた。
酸素が足りなすぎて、幻覚でも見ているのだろうか。
そう思う間もなく、半透明な両手が動いて、僕の両手を上からぎゅっと包み込む。
ぐるん、と視界が回転するような感覚。
これは、能力の交換?
でも、誰と?僕の中の僕と?
交換した視界の中で、スローモーションのようにヌガノマの意識に操られたルリおばさんがこちらに近づいてくるのが見えた。
血まみれの両手で地面をかいて、四つん這いの獣のように、口からは獣じみた唸り声を上げながら。
「うん。どうにか」
心の声が云う。
僕は、体が動かせなくなっていた。
動かせなく、と、いうより、体の感覚が、ない?
さっき、ぐるんと回転して「交換」した視覚以外、がくがくと震えていた手も足も体も感じない。さっきまでの胸の痛みも、全く感じない。
「よっ」
という、この場にそぐわない、どこか陽気な声が心の中で聞こえて、
視界の地面に、白く光る線が現れた。
幅50cmくらいの線が、ヌガノマとは反対側の、暗闇に向かって伸びている。
これは「道」だろうか。
「そ。ボクも「道」って呼んでた。久々だからちょっと心配だったけど、ちゃんとできたね。これを辿れば・・・、あ、待って」
僕の中の声が云いかけると、暗闇へと向かっていた白い道の先に、今度は白く光る「輪」がふわりと音もなく現れる。
「助けが来た」
僕の中の声が云う。嬉しそうに。
直径30センチほどの光る「輪」の中の空間がぼやけ、モザイクを描くように歪んだ。
そのモザイク模様がくるくると動き、すぐに黒い小さな影になった。
あれは、黒いネコ?だろうか。
と思うやいなや、半身を起こした姿勢のまま、僕の体が白く光る「道」の上をするすると滑るように進んで、ネコの目の前で止まった。
僕の視界が、僕の意志とは関係なく、確かめるように後ろを振り返る。
ヌガノマの意識に奪われたルリおばさんの体は、5~6m後方で、這うような姿勢のまま、獣のような雄たけびを上げながら、見えない空間で両手を振り回してまだ僕を探していた。
目の前の黒ネコが、肩をすくめるようなしぐさをして、僕に近づき、僕の顔に顔を寄せてきた。
半身を起こした姿勢のまま、僕の顔が少し下がって、僕の額がネコの額に触れる。
「ありがとう」
僕の中の声が云った。
「致し方なし、だな」
ネコがちらりと僕の後方、ルリおばさんの方を見て、ため息交じりにそう心の声で答えた。
大人の、男の人の声?
目の前に、黒ネコの小さな顔が見える。
右眼が夏空のような青で、左眼が琥珀のような黄色。この子は・・・
「・・・ごめんな」
つぶやくように、黒ネコが心の中でそう云うのが聞こえ、その湿った温かい鼻先が僕の鼻に触れた。
ぐるん、と視界が回転するような感覚。
そこで、僕は気を失った。


  


タイトルとURLをコピーしました