over the rainbow v

屋根裏ネコのゆううつ


灰の海の夢を見た。
かつての海は干上がって灰に沈み、浜には砕けた星の砂が塵となって堆積していた。
どんよりと黒く濁った空からは、真っ白な灰がいつ果てるともなく、はらはらと降り続いている。
くすんだ灰色の海の底には、ところどころ血のような赤いひび割れが走り、時折疼くように鈍い光を放っていた。
どこかで何かが焦げるような匂いがする。
それから、熟しすぎた果実が腐り果てていくような、甘酸っぱく苦い匂いも。
そう思っていたけれど、すぐに嗅覚が麻痺してしまったみたいに、何の匂いもしなくなった。
足元から、手指の先から、寒さが体に染み込んでくる。
ぴんと張り詰めた、鋭利な刃物のような空気の冷たさが、皮膚を突き破って骨に染みるほど、恐ろしく、寒い。
そう感じていたけれど、やがてその寒さもわからなくなった。
風もなく、何の物音も聞こえない。
灰の海は、まるで「死」そのもののような静寂に満ちていた。
何もかも、消えてしまった。
あのやさしい鈴の音のような笑い声も。
明るくあたたかい陽だまりのような笑顔も。
名前すら残さず、すべてが真っ白な灰となった。
最後に残されていた宝物のような記憶さえも、すでに跡形もなく消えてしまった。
僕は声もなく泣いていた。
僕の眼から溢れ出す涙も、こぼれ落ちたその瞬間に全ての水分とエネルギーを失って燃え尽き白い灰となり、はらはらと音もなくひび割れ砕け落ちて、乾いた死の海に積もっていく。
何も聞こえず、何も感じない。
そして、やがては、僕自身も。

とても悲しい夢を見て、眼を覚ますと見知らぬ部屋にいた。
夢の内容は覚えていなかったけれど、身を捩るほどの悲しさに堪えきれずに、僕は目を覚ましていた。
真っ白な、見たことのない、広い部屋。
清潔そうな白いベッドは、何の匂いもしなかった。
母のお気に入りの柔軟剤の香りもしない。
白い部屋、白いベッド、病院かな。
これはまだ、夢のつづきなのかもしれない。
体を起こすと、大きくてふかふかなベッドの上に、僕はいた。
見覚えのない、肌触りの良い真っ白なシャツを着ていた。
初めて見る膝丈の白い半ズボンを履いている。それも、シャツと同じさらさらの生地だった。
あらためて、周囲を見回してみる。
真っ白な壁には、4面とも大きな窓があって、白いレースのカーテンがかかっていた。
繊細なレース模様の向こう側、白く光る窓は、見えない。
白い天井は高く、真っ白な壁との境目も見えない。
もしかしたら天井はなくて、見えているのは壁と同じ色の真っ白い空なのかもしれない。
病室にしては、ずいぶんとだだっ広いし、僕が寝ているベッド以外には、他に家具らしい家具も見当たらない、けれど。
やっぱり、これもまだ、夢なのでは。
ふかふかのベッドに手をついて、起き上がろうとして、胸にちくりと痛みを感じた。
痛みを感じる夢なんてあるのかな。
それならやっぱり、これは夢じゃないのかも。
痛みを感じた箇所に指先で触れてみると、飛び上がるような激痛が走った。
骨が折れているのかもしれない。
おそるおそる、もう一度、少しずつそっと触れて、確かめる。
触れてわかるほどポッキリとは折れてはいなさそうだけれど、かなり、痛い。
骨にヒビくらいは入っているのかもしれない。
あまり触れたり、無理な体勢をしたりしない方がよさそうだ。
そう思い、もう一度、ゆっくりとベッドに横になった。
足を伸ばすと、両膝にも痛みを感じた。
見ると、ほとんど消えかけた両膝の大きな青あざの上に、真新しい擦り傷と小さな青あざができていた。
治りかけのあざは、Jを担いで海岸通りで転んだ時のもの。
新しい擦り傷とあざは、地下道で懐中電灯の罠にかかり、後ろから殴られて前に倒れた時のもの。
ヌガノマの意識に体を奪われたルリおばさんに、襲われた時の怪我だった。
あの後、どうなったのだろう。
あの後?いや、あの時?
記憶が、ひどく断片的に感じられた。
あの時、
ヌガノマの意識が、ルリおばさんの体を乗っ取り、僕を、ガブリエルを、殺そうとしてた。
僕を地面に仰向けに転がして、右膝で僕の胸を押さえつけ、右手で僕の首を絞めて。
僕の呼びかけに応えてルリおばさんの意識が目を覚まし、左手でバッグから万年筆を取り出して、右手を刺し、そして、右眼を刺した。
ヌガノマには、左眼がなく、左手も肩から先がない。
自身の体が持たない部分は、たとえ他人の体に意識を移しても、動かすことができないのだろう。
だから、ルリおばさんは左手を動かして、僕の首を絞めていた右手を刺し、ヌガノマの視力を奪うために自分の右眼を刺した。
なんの迷いもなく。
僕は、ルリおばさんを誤解していたのかもしれない。
いや、誤解と云うより、本当のルリおばさんを、知らなかっただけなのかも。
「あんた、ヌガノマ?」
目を覚ましたルリおばさんは、そう云っていた。
彼女は、ヌガノマを知っていた。そして、
「・・・まさか、あいつ、しくじったの?」
そうも云った。
あいつ
あいつと云うのは、誰の事を指しているのだろう?
そして、しくじった?
言葉の意味だけを捉えれば、「あいつ」はヌガノマをどうにかしようとしていた。捕らえて警察に突き出すとか、なのかな。そしておそらくどうにかしたと、それは成功したとルリおばさんは認識してたのだろう。
ところが、そのヌガノマが現れた、だから、「あいつ」はしくじったのかと悟った、そう思える。
そして、ヌガノマも
「きりの、るり!・・・オマエ、イツモ、邪魔ヲスル」
そう云った。
いつも邪魔をする
これまでにも何度か、あるいは何度も?
ルリおばさんはヌガノマと対峙していて、その度にあいつの「邪魔を」していた?と云うのだろうか。
あの、ルリおばさんが?
やっぱり「少し変わったおばさん」という程度の、僕の彼女に対する認識は、事ここに及んでは、あらためざるを得ないのかもしれない。
敵の敵は味方、ではないけれど。
ルリおばさんが、ヌガノマに敵対していたのだとしたら、彼女は、僕の、そしてガブリエルの、敵ではない、ということになる。
実際、ルリおばさんは僕を救うために、なんの躊躇もなく自分の右手を尖ったペンで突き刺し、自分の右眼にも迷いなくペンを突き刺した。
そう簡単に、できることとは思えない。
キリノルリ、それが、ルリおばさんのフルネームだった。
そういえば、僕の保育園のカバンや名札には、当初「キリノキクタ」と書かれていたような、気がする。
すっかり、忘れていたけれど。
そして4歳の冬に、あのルリおばさんの一件があって、母が今の父と再婚することを決め、「スズキキクタ」になったのだった。
どうして、忘れていたのだろう。
特に興味がなかった?自分の名前に、ましてや苗字なんて、キリノでもスズキでも、どっちでもいいと思っていたのかな?
無気力無関心な僕の事だから、おそらく、それもあるのだろう。
でも、それだけではないような気もする。
認識の喪失
ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。
でも誰が、何のために?
僕が自分の昔の苗字を忘れることに、何の意味があるの?
それは、わからないのだけれど。
それに、
ヌガノマは、一体何者なのだろう。
もう今となっては、ただの浮浪者、とは思えない。
もちろん、ただの怪談話の登場人物、でもない。
ガブリエルに対する、暗い執念とあの殺意。
あれは一体、何なのだろう。
8年前、誘拐が失敗したことで、ガブリエルを恨んでいる?
だとしても、殺したいほど恨むだろうか?当時4歳の子供を?
それだけではない、気がする。
もっと根深い、何かが、ありそうな。
それが何なのかは、まだ、見当もつかないのだけれど。
それから、あの「声」
僕の心の中で聞こえた、僕に似た誰かの声。
僕の心の中の、僕以外の誰かの声?
思えば、これまでにも何度か、あの声を聞いたことがあったような。
それがいつだったのか、その時に何を言われたのかは、はっきりとは思い出せないけれど。
あの時、
「K、ボクに代わって」
あの声は、そう云った。
僕を「K」と呼ぶ人は、世界中でふたりしかいない。
JとL
そのふたりだけのはず。
でもあの「声」は、Jの声でも、Lの声でもなかった。
そして、心の声で会話ができるのも、あの「オレンジの海」でつながった、僕らだけのはず。
JとL、そして、
僕?
多重人格、という言葉が浮かんだ。
確か、神経症の一種だった。
解離性同一性障害?だったろうか。
ひとりの人間の中に、全く別の記憶・意識を持つ複数の人格が現れる精神障害、とか、祖母が見ていたテレビのドキュメンタリー番組か何かで、見た覚えがある。
幼い頃に虐待などのトラウマ体験を持つ人が、まれに発症することがある、とか。
あの耳の奥の「音」や、あのルリおばさんの事件が、幼い僕の心に何かのトラウマを残していて、知らないうちに僕の中に別の人格が生まれていたの?
あり得ない、とは云えないけれど、あまり現実味がない、というか。
そういう心の病気は、もっと繊細な、ナイーブな子がかかるもの、というイメージだった。
僕はどちらかと云うと、そういうのとは縁遠い感じが、する。
それほど感受性豊かではないし、繊細でもない、ような。
むしろ、鈍くて図太い、とか、そっちでは。
アイにも、何度か云われた覚えがあった。
「おまえ、ほんとそのクソ度胸というか、怖いもの知らずだよなあ」
その、怖いもの知らずなクソ度胸が、解離性同一性障害?
やっぱりあり得ない。
そうだ、アイに電話をしないといけない、ふと思いだす。
今日は、日曜日、じゃないのかな。
あの後、僕はどうやって帰ったのだろう。
いや、僕は、帰ったのかな?
「K、ボクに代わって」
そう云われて、その後、僕はどうしたの。
ルリおばさんは、どうなったのだろう。
断片的な記憶は、形にならずにふわふわと頭の中を漂っているみたいだった。
眼を閉じて、どうにかしてあの後の記憶を辿ろうとして、
いつの間にか、また眠ってしまった。

オレンジ色の海に、白い灰が降っていた。
「オレンジの海」の、これは夢。いつもの、意識がつながる場所、だけれど。
様子が、一変してた。
明るいオレンジ色だったはずの空は、大きな黒い染みをいくつも落としたようにまだらに濁り、そこから、不吉な白い灰が音もなく舞い落ちている。
海は波が止まって澱み、降りしきる真っ白な灰に埋もれていく。
風も凪いで、何の物音もしなくなった海は、不気味に静まり返っていた。
「なんなんだ、・・・いったい・・・どーなってんだよ!」
静かな海に、Lのわめく声が、途切れ途切れに聞こえた。
映りの悪いテレビから聞こえる、雑音混じりの音声のよう。
「K!・・・いるんだろ?・・・返事しろ!」
L!聞こえてるよ!
僕の声は聞こえないの?
心の声でそう呼びかけてみたけれど、
僕の返事は、Lには聞こえていないみたいだった。
「K、どうしたんだろう。・・・それに、海が・・・」
不安そうなJの声も聞こえる。
やっぱり、Jの声も途切れ途切れだった。
「おまえの方も、灰・・・これは、ただ事じゃねーのかも・・・」
いったい、「オレンジの海」に何が起こっているのだろう。
これは、僕が、ヌガノマに襲われた事と関係があるのだろうか。
と云うか、僕は今、どこにいるんだろう。
どこで、この変わり果てた「オレンジの海」を夢に見ているのだろう。
自分の部屋のベッドで?
でも、家に帰って、自分の部屋で眠った記憶は、ない。
「ひょっとして、・・・「オレンジの海」は・・・だとしたら、Kの・・・やばいかもしれねー」
せっかくのLの考察も、途切れがちで、ところどころしか聞こえない。
オレンジの海は?
もしかして、Lは、「オレンジの海」の場所に見当がついたのだろうか。
だとしたら、僕の?
何が「やばいかも」なの。
やばい?
あ、いや、その、ごめん。
実は、だいぶやばいことには、既になっていたのだけれど。
僕は、どうなったのだろう。
助かったのか、それとも、ヌガノマに?
いや、殺されては、いない、と思う。
さすがに、死んでいたら、こうして海につながって、LやJの声を聞くことは、できないのだろうし。
あの時、
「K、ボクに代わって」
そう、僕の中の誰かの声に云われて、
そして・・・視界が、ぐるんと・・・、
能力の交換、だ。
ばらばらの記憶が、少しずつ、つながりつつあるみたいだった。
能力の交換をして、視界が、ぐるんと回り、
でも、誰と?
僕は、誰と、能力の交換をしたの?
ルリおばさん、ではないはず。
彼女は、ヌガノマに体を奪われて、僕を、ガブリエルを、殺そうとしていた。
では、他に誰がいたの?
「どうすりゃいいんだ・・・オレがいきなり・・・Kの家に行くわけにも・・・アイだ、あいつなら・・・」
Lは、本当に頼りになる。
必ず、今いちばんいい方法を、見つけてくれる。そう、信じられる。
でも、だからといって、僕だけ、のんびり眠っているわけにはいかない。
思い出すんだ、あの後、どうなったのか。
今、僕はどこにいるのか。
能力の交換をした、それは覚えてる。
視界がぐるんと回って、体が、そう、体が動かせなくなった。
体ごと、「代わった」のか。
僕の中の、誰かと。
そして・・・。
「・・・ダメだ、アイの家・・・電話、誰も出やしねー・・・」
くやしそうな、Lの声が聞こえた。
今日は、いったい何曜日なのだろう。
今は、何時なのだろう。
アイは、バスケの練習に出かけているのかもしれない。
「わたし、・・・Kを探しに行く・・・」
急に、Jがとんでもないことを云い出して、驚いた。
話の前後が途切れて、僕には聞こえなかったのだろうか。
どういう流れで、Jはいきなりそんなことを云い出したのだろう。
「はあ?おまえ・・・わけねーだろ!だいたい・・・動かせるのかよ?」
声は途切れていても、Lの云わんとしていることは、だいたいわかった。
Jの体は、今もあの大学病院の病室で眠ってる、はず。
今のJに、僕を探しに行く事なんて・・・
「だいじょうぶ・・・、わたし、飛べるから」
はあ?
思わず、Lと同じ反応を、僕はしてた。
「はあ?・・・空飛ぶネズミなんて・・・ねーだろ・・・ばかなの?」
たぶんLと全く同じことを、僕も思った。「ばかなの?」は思わなかったけれど。
「ネズミ?なんで・・・L、なに云ってるの?」
Jのきょとんとした顔が、眼に浮かぶようだった。
いや、でも、
それは「云いたくない」って、Jが「動物」の名前を教えてくれなかったからで。
「え、マジで?・・・空飛べるの?・・・おまえ、それ、なんなの?・・・おい、教えろ!」
Lが興奮し始めた。
空を飛べると聞いては、それは、ね。その気持ちは、僕にもわかるよ。
「・・・やだ、教えない」
Jは即答だった。
そこは、頑なに教えないんだ。
Jらしいと云えば、とても、Jらしいけれど。
「とにかく、今は・・・、ふざけてる場合じゃ・・・でしょ・・・わたしは、Kを探しに行くから・・・Lは、知恵をしぼって、・・・Kの居場所を見つけて」
こういう時、Jはすごくしっかりしてる。
いつでも真面目でまっすぐな、Jのすごいところだ。
「もしかしたら、・・・家で眠ってるだけかも、・・・でしょ」
途切れがちなJの声に、それでも、何故だか、僕まで元気をもらった気がした。
やっぱり、これも「魔法」に違いない。
「わかったよ、・・・家で眠ってるだけ、・・・そーだといいな」
Lも、冷静さを取り戻したみたいだ。
JとLに、余計な心配をかけてしまった。
申し訳なさが半分、あと半分は、ふたりが僕の仲間で良かった、といううれしさ、だった。
それぞれに、窓と扉を閉めて、動き出してくれたのだろう。
静かな海に、もうふたりの声は聞こえない。
僕は僕で、できることをやらなくては。
あの後、僕はどうなったのか。
今、僕はどうなっているのか。
それを、見つけなくては。
そう、思った。

眼を開くと、セピア色の世界だった。
これは、夢ではなく、現実、なのかな。
今は夜のようで、空には煌めく夏の星座と、白く細長い月が見えた。
完全にモノクロというわけではなくて、古い映画のような、色数が少ないフィルムで見る映像のような。
こんな景色を、最近どこかで見た覚えがある。
どこで見たのだろう。
少し思い返してみたけれど、思い出せなかった。
頭の中に、もやがかかっているみたいに、なんだかすべてがぼんやりしている。
夜空を見上げていた映像が、動いた。
視界がゆっくりと降りてくると、足元に建物の屋根が見えた。
屋根の上で、夜空を見上げていたらしい。
遠くに、黒いシルエットになった山と、街の夜景が見える。
その手前に、見覚えのある白い塀に囲まれた、広い工事現場が見えた。
あの工事現場を、見下ろす屋根。
つまりここは、僕の家の屋根の上、なのだろうか。
屋根の上から見下ろしているので、僕の部屋の窓から見るよりも、少しだけ、工事現場の中の黒い土の地面が多く見えている。
それでも、大部分は高い塀に遮られて見えないのだけれど。
細い月の光に照らされた工事現場は、真っ暗だった。
黒い地面が、まるでそこに黒い大穴が開いているように見えなくもない。
実際には、そこに穴は開いてなかったのだけれど。
不意に視界が、とん、と軽いステップで屋根のてっぺんから、斜めになった屋根へ飛び降りる。
これは、ちょっとした絶叫系というやつなのでは。
胸の奥をひゅんと掴まれたような、身のすくむような気分。
Jなら、大喜びするところ、なのかもしれない。
屋根の斜面の真ん中に、四角く切り取られた天窓があった。
埃に汚れた窓に、空の月がうっすらと映っている。
僕の家に、天窓なんてあったのだろうか。
そんなことを考えていると、視界がぐいと天窓に近づいて、どうやったのか、天窓がくるりと90度回転して開いた。鍵はかかっていなかったらしい。
まさか、と思う間もなく、とんと軽いステップで、天窓から中へ飛び込んだ。
これはいったい、どんな映像なのだろう。どうやって撮影しているの。
そんなことを考えている余裕は、実はなかったけれど。
悲鳴を上げそうになり、ごくりと唾を飲む。
とても身軽に、撮影者は屋根裏の床にひらりと降り立った。
まるで忍者みたいだ。足音ひとつたてなかった。
屋根裏部屋は、2階の僕の部屋の真上にあるはずだ。
僕の部屋の天井の片隅に、屋根裏部屋へ上がる入り口があった。
そこは鍵がかけられていて、もう少し大きくなって、入り口に手が届くようになったら、母から鍵をもらえる約束になっていた。
その、まだ見ぬ屋根裏部屋に、この映像の撮影者は潜入したらしい。
屋根の上の、天窓から飛び降りるという荒技で。
想像していたよりも、屋根裏部屋は広かった。僕の部屋よりも、広い。
部屋、というより、2階の屋根裏全体、なのだろう。
仕切られて部屋になっている空間を想像していたけれど、そうではなく、屋根裏そのもの、だった。
屋根の真下なので、天井は、つまり屋根の裏側だから、斜めに壁に三角形を描いていた。
天窓は2カ所あるらしく、月明かりが差し込む四角いエリアが、床の上にふたつできていた。
なにもない空間を想像していたのだけれど、違った。
隅の方に、背の低い箪笥のような引き出しのある物入と、その脇にはカウチ、というのかな、足のない低いソファが置かれてた。
一番高さのある部屋の真ん中の壁際に、縦長の細い姿見がかけられている。
床は板張りで、ソファの前の床の上には、ずいぶんと古そうなデザインのリンゴのマークのノートパソコンが置かれていた。
壁にコンセントの差し込みがあるらしく、ノートパソコンから電源ケーブルが壁に向かって伸びている。
まさか、起動できるのかな。だいぶレトロなパソコンだけれど。
ぐるりと屋根裏を見渡していた映像が、壁の姿見の前で止まった。
そして、撮影者がそちらへ移動していく。
鏡の中には、誰も映っていなかった。
いや、小さな黒い影が、ネコだろうか。
ふん、とため息のような音が聞こえて、さらに鏡に近づいた。
映像の感度が変わり、暗視カメラのように、鏡に映る姿がくっきりと見えてきた。
黒ネコだった。
映像?
撮影者?
違うのでは。
これは、ネコの視界?
「やれやれ、気づくのが少々遅いですね。アナタ、本当にキクタなのですか?」
頭の中で、声が聞こえた。
頭の中で?
それも違うのでは。
振り返ると、白い部屋だった。
真っ白な壁の、真っ白な部屋。
3方の壁に大きな窓があって、白いレースのカーテンがかけられている。
もう一度、振り返る。
目の前に、窓があった。
レースのカーテンは開いていて、窓も、大きく開いていた。
その窓の向こうに、暗い屋根裏部屋と、その奥の壁際に細長い鏡が見える。
鏡の中に映る黒ネコが、とんと床を蹴って鏡から飛び出すと、そのまま窓枠を軽々と飛び越えて僕の眼のまえにすっと音もなく着地した。
「こんばんは、キクタ。ようこそ、ワタシの中へ」
黒ネコが、僕にそう云った。
青と琥珀色のきれいな眼が、まっすぐに僕を見上げていた。
「え?・・・、き、君は?」
我ながら、間抜けな質問だったとは思う。
黒ネコは小さくため息をついて、
「ワタシは、御覧の通りの黒ネコです。ネコとお呼びいただいて結構ですよ。ああ、もし名前が必要でしたら」
そう云ってネコは少し考えるように首をかしげて、
「ノワールと呼ばれた事もありましたが、ご面倒なら「N」でよろしいかと」
ふふん、と得意げに鼻を鳴らした。
N。
Lの好みに合いそうな呼び名だな、と思った。
Lが考察した通りなのだとしたら、僕がいま話している「N」は、黒ネコの意識、なのだろうか。
ということは、
僕は、いま、黒ネコの中にいる、の。
おぼろげな記憶はあった。
いま目の前にいるNと同じ、青と琥珀色の眼のネコの記憶。
そのネコの湿った鼻先が僕の鼻に触れて、ぐるん、と世界が回るような感覚がして。
あれは、あの地下道での出来事だった、だろうか。
「ははあ、記憶が混乱しておられる?」
心の声でそう云って、Nが小首をかしげて僕を見る。
僕は、おずおずとうなずいた。
「ふむ」
Nは小さくひとつうなずいて、
「ワタシの知る「情報」のいくつかをアナタにお教えする事は、やぶさかではありません。只、それがアナタの記憶の整理に役立つモノかどうかは、保証いたしかねますが。ワタシは、ご覧の通りただのネコですので」
きらり、とNの青い右眼が光った、ような気がした。
ずいぶん、古風な物云いをするネコだな、と思った。
「ああ、それから」
ためつすがめつ、僕の全身をまるで何かを試すように眺めて、
「声に出して話す必要もありません。ご想像通り、ここは「ワタシの中」ですので、アナタの考えは全て「聞こえ」ます。先程の、ワタシに対するアナタの「感想」も、もちろんの事」
笑った、のだろうか。少しおかしそうに、そう云った。
あ、ごめんなさい。
思わず、謝ってた。
失礼な事を思ったりはしなかったはずだけれど、聞こえてるとは思ってなかったので。
「お気になさらず。ひとつの「情報」としてお伝えしたまでの事。立ち話も何ですので、掛けませんか。お疲れでしょう」
そう云って、Nはすたすたと僕の傍を進み、白い部屋の真ん中へ向かう。
白い丸テーブルと、白い椅子が2脚あった。
その椅子のひとつに、Nはふわりと飛び乗った。
本当に、足音ひとつ立てない。
「とは云え、ここはアナタの部屋ですので、ワタシが椅子を勧めるのもおかしな話ですが」
僕の部屋
ここが、僕の心象風景、という事なのかな。
Jの素敵なお庭や、Lの秘密基地に比べると、ずいぶんと、寂しい感じのするただの真っ白な部屋だ。
実際にふたりのそれと見比べたわけではないけれど、なんとなく、イメージ的に、かな。
勧められるまま、僕もNに続いて部屋の中を歩く。
部屋の床には、毛足の短い白いカーペットが敷かれてた。
僕は靴を履いておらず、裸足にカーペットの柔らかな毛足が心地良い。
椅子は、白い木の椅子だった。
座面には適度な厚みの柔らかいクッションが敷かれていて、座ると程良く沈み込んで、座り心地は悪くない。
向かいの椅子の上にちょこんと座ったNをあらためて眺める。
空のような青い右眼と琥珀のような黄色い左眼、全身真っ黒の、小さなネコ。
やっぱり、あの公園にいつもいた、あの黒ネコによく似てる。
「アナタの云う「あの公園」が、ワタシの知るあの公園の事なら、それはワタシで間違いないでしょう」
謎かけのような回答だったけれど、肯定、ということでいいのかな。
だから、Nは僕を知っていたのだろうか。僕の名前を?
「それは、少し違います」
Nは小さくかぶりを振って、
「ワタシがアナタを「キクタ」と呼んだのは、少し前までずっとワタシの中にいた人が、去り際に口にしていた言葉からの推測です。あの人は云いました。「キクタを助けに行く」と。それはワタシに対して云ったのではなく、あの人の「声」をワタシが聞いただけのものです。先程、アナタの「声」を聞いたのと同じように、ですね。ワタシに対して、あの人から最後にかけられた言葉は、「キクタが来る。よろしく頼む」でした。従って、あの人が去った後にやってきたアナタを、「キクタ」だとワタシは認識しました」
少し前までずっと中にいた、あの人?
黒ネコと出会ったあの時の記憶が、脳裏によみがえってた。
「致し方なし、だな」
そんな、男の人の声が聞こえた。
あれは、Nと僕の額を合わせた時、だ。
その直前に、
「助けが来た」
僕の中の誰かの「声」がそう云って、僕の前にNが現れた。
そして額と額を合わせて、
「ありがとう」
そう僕の中の誰かの「声」が云うと、Nが肩をすくめるような仕草をしながら
「致し方なし、だな」
そう、云った。
大人の男の人の声で。
そして、
「ごめんな」
同じ声が、そう云って、僕の鼻にNの鼻先が、触れた。
ぐるんと世界が回るような感覚がして・・・。
「いくらか、記憶がつながったようで何よりです」
ふふん、とNが鼻を鳴らす。
確かに、いくつか思い出した、けれど。
あの人は、誰なのだろう。
Nの中にいた、ということは、あの人も僕らと同じ「力」を持っている、ということなのだろうけれど。
「あの人の名は「キクヒコ」です。誰なのか、という問いには、お答えできかねます。ワタシはただのネコですので、キクヒコの詳細なプロフィールを、説明できません。ワタシは、彼をただ「キクヒコ」として認識しております」
キクヒコ
聞き覚えのない名前だった。初めて聞く名前のはず。
でも、彼は僕を知っている。
彼は心の声で、「キクタを助けに行く」と云い、Nには、「キクタが来る。よろしく頼む」と云い残して、去った。
では、彼はどこへ?
「さて、それもワタシにはわかりかねます。「情報」として、ひとつ云えるとすれば、ワタシの中に入れる「人」の意識は、「ひとり」までです。アナタを「助ける」ために、「アナタの意識」をワタシの中へ入れる必要があった、故に「キクヒコの意識」は、ワタシの中から去った。ワタシは、そう推察いたします」
それは、おそらく、Nの推察通り、なのだろう。
あの時、何らかの方法で、彼(キクヒコ、さん?)は僕の危機を知り「助けに行く」と決めて、駆けつけた。
僕を助ける、そのために、僕の意識をNの中に入れる必要があった。
「致し方なし」は、そういう意味なのだろうか。
彼が、Nの体を出てどこかへ行くこと、それは、僕を救うためには「致し方ない」ことだった?
他に何も方法がなく、もうどうしようもない、そんな状況だった?
それなら、彼は、だいじょうぶなのかな。
無事、なのだろうか。
Lと考察したように、意識をどこか近くの避難所となりうる「動物」の体へ飛ばすことができるのならば、あるいは。
僕の心の声に、Nは黙って首を横に振る。
声は聞こえなかったけれど、「それもワタシにはわかりかねます」という事なのだろう。
では、彼が最後に云った「ごめんな」という言葉の意味は?
あれは、一体、誰に向けた謝罪だったの。
僕、ではないはず。何故なら、僕は彼に救われた側なのだから。僕を救ったことを、彼が僕に謝る謂れはない。
Nに対して、だろうか。
「はて、ワタシにも、キクヒコに謝罪されるような謂れはありません。長年ワタシの中に滞在して迷惑をかけたとかで?いいえ、あの人は、それを謝るような人ではありません」
ずいぶん親しそうだけれど、長年って、彼はどれくらいの期間、Nの中にいたのだろう。
Lの場合は、半年ほどでラファエルの体に負担がたまり、元の体に戻っていたけれど。
「長年は、長年、としか。キクヒコが使っていた言葉をそのまま借りたに過ぎません。ワタシはネコですので、アナタがたのように年月を数えたりはしませんから。只、その「長年」の彼の滞在によって、ワタシが、特に体の負担を感じた事は一度もありません」
負担がなかった、つまり、彼は能力を使わなかった、のかな。
Lの説が正しいとすれば、能力によって負荷がたまる=能力を使わなければ負荷はたまらない、ということになるのかも。
いずれにしても、これは、Lには教えられない情報かもしれない、と思った。
もし、そうする事で何年でもラファエルの中に居続けることができると知れば、いよいよLは戻ってこなくなる、かもしれない。
ただ、Lが能力を使わずにいることができるかどうかは、わからないけれど。
Lの「線」は、彼女の意思に関係なく常に発動しているようだったし。
「能力というのは」
思いに沈んでいた僕を、Nの声が現実に引き戻す。
今のこれを現実、と云っていいものかどうか、少々疑問は残るけれど。
「キクヒコの「輪」の力のことでしょうか。だとすれば、アナタの想像通りです。彼はあの力をほとんど使いませんでした。便利なのでもっと使ってくれても良かったのですが、使わずにワタシに足での移動を強いていましたから」
「輪」の力?
おぼろげな記憶だったけれど、Nが僕の前に現れた時、白く光る「輪」の中に現れた、ような。
夢のように、ぼんやりとしか思い出せない、断片的な、記憶だけれど。
「そう、それが「輪」の力です。ワームホールのようなもの、とキクヒコは云いました。「輪」を通ることで、瞬時に別の場所へ移動できるのです。移動場所には条件がある、とも彼は云いました」
ワームホール
宇宙にある、ブラックホールと別の地点をつなぐ、時空を超える穴、だったかな。
その穴の中は通常の時間や空間とは異なるトンネルのような構造になっていて、遠く離れた場所でも瞬時に移動できる、とか。
SF映画か何かで見たような気がする。
その「輪」の力で、彼は僕のところへ駆けつけ、僕の意識をNの中へ避難させた。
その後は、どうしたのだろう。
どうやって、Nはあの地下道から脱出したのだろうか。
「ああ、なるほど。アナタは、ワタシの中へ入るなり気を失ってしまいましたから、その後の記憶がないのも道理です。あの直後、キクヒコは「輪」の力でワタシを元いた場所へ飛ばしました。この屋根裏部屋へ。アナタの救出は、これにて無事成功というわけです」
窓の向こう、薄暗い屋根裏部屋の方を眺めながら、Nはそう云った。
僕も、あらためて屋根裏部屋を見る。
「そう云えば、あの屋根裏部屋が、アナタの自室の真上だったとか?それはワタシも知りませんでした。以前から、頻繁におじゃましていたのですが。ここはとても安全で、静かで、快適ですので」
そう云って、Nの体が屋根裏部屋を見回したらしい。窓の向こうの屋根裏の風景がゆっくりとパンするようにぐるりと回転する。
それを僕は、白い部屋から窓越しに見ている。
つまりあの窓は、Nの視界を映す窓、なのだろう。
より正確には、
僕の意識が、僕の意識空間である白い部屋から、その窓越しにNの視界を見ている、ということ、なのかな。
なんとも云えない、不思議な気分だった。
いま、黒ネコのNは、僕の家の屋根裏にいる。
僕の意識は、そのNの中にいる。
つまり、僕はいま、僕の家の屋根裏にいる。意識だけの存在で、ネコの体の中に入って。
ふふ、と目の前に座るNが笑うように鼻を鳴らして、
「あらためて云うほどのことではない気もしますが、アナタの記憶と認識の整理のため、なのでしょうか。それならば、「その通りです」とお答えしましょう」
うやうやしく、そう云った。
屋根裏を気に入って使ってもらえていたことは、単純にうれしいけれど、ひとつ、疑問が湧いた。
Nは、この安全な屋根裏を、一体どうやって知ったのかな。
たまたま偶然、散歩の途中で見つけるような場所には、とても思えないのだけれど。
「キクヒコです。彼が教えてくれました。あそこに置いてあるパソコンも、彼のものだとか。この家の主人、つまり、アナタのお父上でしょうか、その方は、キクヒコの旧い友人だそうです」
父の、友人
なるほど?
父の友人で、「能力」を持った人。
だから、この家の屋根裏を知っていたし、僕の名前も知っていた。
僕を助けに来たのも、友人の息子だから、なのかな。
ふと、Lの言葉が、脳裏に甦った。
「おまえの両親に対するそれは、あの土地を守ってるって云うより、あの土地に関わらせないように、おまえの両親を守ってる、そんな「意志」みてーなものを感じる、気がする。もしそうなんだとしたら、それこそが、煮え切らねー中途半端な「力」の本当の使い方、なのかもしれねーなー」
あの日、黒犬のラファエルの姿で僕を助けに来て、そのまま僕の家まで送ってくれたLが、僕の家を見て云っていた言葉だった。
父と母に、「能力」を使った人。
ふたりから、「ミドノ原」に関する認識と記憶を消し、ふたりを守ろうとした人。
それが、キクヒコ、さん?
Nに屋根裏を教えたのも、すぐそばでふたりを見守るため、だったのかもしれない。
そんな彼は、父の息子である僕をヌガノマから救うためにNの体を借りて現れて、
そして・・・。
もしかすると僕は、とんでもない失態を演じてしまったのでは。
「おや、それはまた、どうしてでしょう?」
どうしてって、それは、
僕のくだらない好奇心が原因で、キクヒコさんを危険な目に合わせてしまった。
彼がいまどこにいるのか、無事なのかどうか、それは、Nにもわからない、って。
「ああ、なるほど。彼がどうしているのか、無事なのかどうか、確かにそれは、ワタシにはわかりかねます。それは、言葉通りそのままの意味です。彼はいまワタシの中にいるわけではなく、つながりもないので状況がわからない、ただそれだけの事」
言葉通りそのまま
それは、そうなのだろう。
淡々とNは続けて、
「まず前提として、キクヒコは自身の意識を「輪」の力で飛ばす事ができます。キクヒコ自身の「体」へ、です。アナタの意識が入ったワタシをこの屋根裏へ飛ばし、同時に自身の意識を元の体へ飛ばす。そうすればひとまずは、全員が無事にあの場を脱出できます」
自身の意識を「輪」で飛ばす
そんな事ができるの。
確かに、それが出来るのなら、あの地下道からNをこの屋根裏へ飛ばし、同時に自身の意識も元の体へ飛び、無事に脱出はできる、けれど。
でも、ヌガノマに意識を移されたルリおばさんは、あのままあの場所へ置き去りになる。
「ごめんな」
そう云ったキクヒコさんの声を思い出す。
あれは、僕でもなくNでもなく、ルリおばさんにかけた言葉、だったのかな。
ふむ、と、Nはうつむいて何やら考え込んでいる様子だった。
「それとは別に、この件に関してアナタが責任を感じる必要はない、とワタシは考えます。理由は、ふむ、言葉にするのは、非常に困難ですね。何故なら、ワタシはただのネコですので」
椅子の上で首をかしげて、考えに沈むNは、まるで思慮深い賢者か仙人のよう。
やがて、何かを思い出したかのように顔を上げて、Nは不思議な光を湛える眼で真っ直ぐに僕を見る。
「キクヒコの言葉を借りるなら、「キクタ」は、かつてキクヒコの「命を救った」そうです。彼がその恩を返せぬうちに「キクタ」は亡くなった、と。故に彼は、同じ「キクタ」であるアナタを救うことを己の使命と感じていたのではないでしょうか」
淡々と、そう云った。
まるで、今夜は月がきれいですね、とでも云うみたいに、さらりと。
Nが何を云っているのか、一瞬、僕は理解ができなかった。
いや、ひとつひとつの言葉の意味が理解できても、内容は少しも理解できなかった。
「キクタ」は、かつてキクヒコの「命を救った」?
その恩を返せぬうちに「キクタ」は亡くなった?
それは、僕の事ではなくて、どこかにいる別の「キクタ」さん?の事なのでは。
まず、そう考えた、けれど。
仮にそうなのだとしたら、キクヒコ、さん、は、ただ同名の人違いで、僕の救出に臨んだことになってしまう。
そんなうっかりは、さすがにありえない、よね。
Nの言葉をその通りに受け取るとしたら、僕は、「一度死んでいる」ことになる。
でも、当たり前だけれど、僕には、そんな覚えはなかった。
「覚えがないのは、当然でしょう。命を落とせば、記憶も全て失うでしょうから」
不思議そうに、Nは小首をかしげて僕を見ていた。
いや、そうだろうけれど、それは、そうなのかもしれないけれど。
え、そうなのかな?頭が混乱してる。
「その証拠、と云うのもおかしいかもしれませんが、ワタシは、亡くなる以前の「キクタ」を知っています。今のアナタと同じように、ワタシの中で会ったことがありますから」
Nには決して悪気はなく、むしろ、僕の理解を助けようとして云ってくれているのだろう、けれど。
残念ながらそれは、僕にとってますます混乱に拍車をかけることになった。
亡くなる前の「キクタ」と会った?
今の僕と同じように、Nの中で?
ずっと引っかかっていた、Nの第一声、
「やれやれ、気づくのが少々遅いですね。アナタ、本当にキクタなのですか?」
あれは、以前の「キクタ」と比較して、僕の気づきが遅すぎ、と云ってたの。
アナタは本当に、あの「キクタ」なの、と。
前世、とか、輪廻、とか、そういう話なのかな。あまり、詳しくはないけれど。
Nは今、何歳なのだろう。
以前の「キクタ」と出会ったのは、Nが何歳の時?
そう尋ねようとして、いや、ダメだ、と思う。
Nは「年月を数えたりはしない」ってさっき云ってた。
「アナタは今、ワタシの年齢の話をしておられるのですか?それならば、キクヒコが云うのを聞いたことがあります。ワタシは今、12歳だとか。であれば、おそらく、以前の「キクタ」に出会ったのは、1歳から2歳くらいの頃かと。それに一体どんな意味があるのかは、わかりかねますが」
不思議そうに小首を傾げながらも、Nはそう教えてくれた。
今12歳で、1〜2歳の時、つまり、10〜11年前。
僕が生まれる前のこと。
以前の「キクタ」が8年前に亡くなったのだとしたら、彼が亡くなった後で、僕が生まれたの?
つまり、生まれ変わり?
いや、ちょっと待って。
あの地下道での出来事の、途切れ途切れの僕の記憶を整理していたはず。
それが、いつの間にか、話がどんどんとんでもない方向に進んでる気がする。
「予想外の迂回が、時に近道であることもままあります。どうぞ心穏やかに、ゆっくりと記憶を整理してください。時間はたっぷりありますから」
Nはまるで全てを知る老師のように悠然と構えて、椅子にちょこんと座ったまま不思議な色の眼で僕を見つめてる。
その様子を見ていると、少し、気持ちが落ち着いてくるのを感じた。
そう、だいじょうぶ。Nの云う通り、時間はある。
たっぷり、ではないかもしれないけれど。
それに、動き出すにしても、まず現状を把握しなければ、次に何をすべきか、どこへ向かえばいいのかも、わからない。
いま僕に、何が必要で、何が必要でないのか。
それを判断するための「情報」は、多ければ多いほどいい、はず。
「ふむ、前言撤回します。やはりアナタは「キクタ」に違いない。先程のワタシの無礼な物云い、どうぞご容赦ください」
ぺこりとNが僕にその小さな頭を下げた。
何をもって、僕が「キクタ」に違いない、なのか、少し気になったけれど、今聞くべきことはそれじゃない、よね。
Nは、以前の「キクタ」の年齢を、知ってるのかな?
何歳くらいの人だったのか。そして、いつ亡くなったのか。
輪廻転生や生まれ変わりを頭から信じるわけではないけれど、
少なくとも、僕よりも以前に「キクタ」と呼ばれる人が存在していた事は、どうやら間違いない。
そしてその人は、僕やキクヒコさんと深い繋がりがある、はず。
だとすれば、その人物像を知ることは、決して無駄ではない、よね。
ふむ、と肯定するように小さくひとつうなずいて、Nは云う。
「彼の年齢を聞いた事は、残念ながらありません。只、自身を称して「老人」と呼んでいた事は何度かありました。「私のような老人は」といった風に。それから、キクヒコは彼のことを「親父」と呼んでいました。それが、血縁上の父親の事なのか、愛称としてそう呼んでいたのかまでは、ワタシにはわかりかねます」
老人
親父
キクヒコさんが僕の父の友人で、同年代なのだとしたら、30代半ばくらい、だろうか。
その彼が「親父」と呼ぶ人物、そして自身を「老人」と称する人物、だとすると、60歳以上、70歳くらいかもしれない。
8年前に70代だったとすれば、もしも亡くなっていなければ、現在は80歳くらい。
祖母と同じ年代、だろうか。
何かが、頭の中で引っかかっている気がする。
何だろう、「老人」?、あるいは「80」という数字?
それが何なのかは、今はわからない。
Nの中に意識が入れるということは、以前の「キクタ」も、もちろん能力者なのだろう。
8年前にNの中に入っていたのだとすると、以前、Lと考察していた「子供だけが使える能力」という説はなくなったことになる。
大人でも、70代の老人でも、「能力」に差はないのかもしれない。「眠る」「眠らない」の差はあるのかもしれないけれど。
「そう、能力。話が戻ってきましたね。アナタがこの件に責任を感じる必要がない、もうひとつの理由」
ふふん、とNが鼻を鳴らす。まるで、こうなることは全てお見通し、とでも云うみたいに。
「アナタがキクヒコの心配をする必要は、ないと思われます。何故なら、キクヒコには「輪」の能力があるためです。敵が何者であれ、「輪」に入ったキクヒコを捕らえる事が出来る者はおりません」
得意げに、Nはそう断言した。
光る白い「輪」
ワームホールのような、時間と空間を超え、通ったものを、瞬時に別の場所へ移動できる「力」
移動先に条件があるとは云え、それは、かなり強力で、便利な能力に思える。
わけのわからない僕の「音」とは比べようもないほど。
「ああ、アナタには「音」が聞こえるのですね。なるほど、やはりアナタは「キクタ」に違いない。只、わけのわからない「音」とは、少々聞き捨てなりませんが」
不満そうに、Nは鼻を鳴らした。
あの「音」は、以前の「キクタ」にも聞こえていたの。
いま、Nはそう云ったようだった。
そして、少し怒ってるの?
「いいえ、怒っているわけではありません。アナタの云う、わけのわからない「音」という表現で、おおよその理由は想像できました。アナタには、まだ「音」の意味がわかっていないのですね」
ふむ、とNは鼻を鳴らしてうなずく。
「音」の意味は、もちろん、僕にはわからない。
Nは、知ってるの。あの「音」の意味を?
「ワタシが?いいえ、存じません。ワタシはただのネコですので。しかしながら、以前の「キクタ」はわかっていたようです。キクヒコは、あの「音」こそが「王の力」と称しておりました。「キクタ」であればこそ、いずれ、アナタにもわかることでしょう」
年老いた偉大な賢者のように、Nはそう云って、僕にうなずいてみせた。
けれど・・・
あの「音」こそが「王の力」?
それを、何も知らない僕が「わけのわからない」なんて云うのを聞けば、Nが「聞き捨てならない」のも、無理はない、かもしれない。
でも、本当に?
そうなのだろうか。
「あんたには冠が見えるよ、王冠かね、あんたはまるで王様みたいだ」
祖母の最後の言葉が、耳の奥によみがえる。
あれは、祖母の見た幻や何かではなく、祖母はあの「音」の能力の本質を見抜いていた、とでも云うの。
そうだとしても、僕には全く、そんな実感はない。ぜんぜん、そんな気はしないのだけれど。
それは、僕があの「音」の意味を理解できていないから、なのかな。
「焦ることはありません。まだ、時間はあるのですから」
もう一度、不出来な弟子を諭すように、Nはおだやかにそう云った。
そして、何かを透かし見るように、その青と琥珀色の眼を僅かに細めて、
「それよりも、今アナタには、他になすべきことが、あるのでしょう」
Nはゆっくりと言葉を選ぶように云い、僕をじっと見つめてる。
空の青と琥珀の黄色。
まるですべてを見通しているかのような、不思議な色だった。
なすべきこと
そうだった。
ずっと、心にぽっかりと穴が開いたような感じがしていた。
とても大事な何かをなくしてしまったような、
そしてそれが何だったのかを思い出せないような、
ずっと、そんな不安な感覚があった。
あの時の記憶が曖昧なことがその原因なのかと思っていたけれど、そうではなかった。
なくしてしまったもの、どこにあるのかわからないもの、
それは、僕の「体」だ。
僕の意識が、Nの中にいるという事は、僕の体はどこかであの眠りについている、という事なのだろう。
意識のない体が、ひとりで勝手に歩き回るとは思えない。
探しに行かなくては。
「はい。お手伝いしましょう」
当然のようにさらりとそう云って、すっとNが椅子から立ち上がり、床の上にひらりと音もたてずに降り立つ。
「椅子を、そちらの窓辺へ運んでいただけますか。いずれは、専用の椅子があると良いかと思いますが、ひとまずその椅子でも問題ないでしょう」
そう云いながら、Nは部屋の中をすたすたと移動して、屋根裏部屋の見えるNの視界の窓の前に立つ。
僕も云われるままに立ち上がって、今まで座っていた椅子を両手で持ち上げて窓辺に運ぶ。
椅子は、びっくりするくらい軽かった。もしかしたら、片手でも持てるかもしれない。
ふふ、とNが笑って、
「この部屋は、アナタの意識の中の世界であることをお忘れなく。本来、運ぶ必要すらないのです。あるいは、椅子に座ったまま、窓を動かすという手もあります」
そうなの。
いや、云われてみれば、そうかもしれない。
思いのまま、椅子を動かしたり、窓を動かしたり、部屋自体を、作り変えることができる、はず。
何故なら、この部屋は僕の意識が作り出した世界、意識空間なのだから。
ここが今、真っ白でどこか寂しい雰囲気なのは、僕の深層意識の表れ、という事なのかもしれない。
もっと明るく、元気になるような部屋にしなくちゃ。
「そう身構えずとも、次に部屋を見る時には、また変わっているはずです」
やさしく諭すように、Nが云う。
この不思議な世界について、Nが全てを心得ていてくれるのは、とてもありがたいし、頼もしい。
窓の正面に椅子を置いて、そこに座る。
窓の向こうに、天窓越しの月明かりに照らされた屋根裏が見える。
椅子に座った僕の足の上にひらりとNが飛び乗って、こほんとひとつ咳払いでもするみたいに、Nがごろごろと小さく喉を鳴らした。
「では、視線と、進むべき方向はアナタにお任せします。体の方はワタシが動かしますので、アナタは何もしていただかなくて結構です。歩く、止まる、走る、またその速度は、普段と同じように心の中で思っていただければ、ワタシがそのようにいたします。ある意味、ワタシはベテランですので、安心してお任せください」
つまり、目線を動かす、心の中で思う、それだけ。
あとはNがその僕の心の声を読み取って、その通りに動いてくれる。
それで、僕にもネコの体を自在に動かせる、というのだろうか。
すごい。
これは、ひょっとして、Lとラファエル以上のイージーモードなのでは。
窓越しに見ていた屋根裏の風景が、いつの間にか僕の視界になっていた。
さっき、眼を覚ましてすぐに見ていたのと同じ、セピア色の世界。
暗いはずの屋根裏が隅々まで見えているのは、ネコの視力のおかげなのだろう。
さっきまでと違うのは、目線を自在に動かせること。
なるほど、さっきまでNの視線で見ていたものを、今は僕の視界で見ている、という事なのだろう。
「左様です。飛びますよ」
Nはそう云うなり、とんと床を蹴って飛び、開いていた天窓の枠に飛び乗った。
すごいジャンプ力だ。
しかも、とても滑らかな動き、全く無駄な力が入っていない。
ネコって、・・・すごいな。
「お褒めにあずかり光栄です。では、参りましょうか」
ふふん、と少し得意げに、Nは鼻を鳴らした。

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