eine kleine nachtmusik iv

屋根裏ネコのゆううつ II

いっぺんにいろんな記憶を見過ぎたせい、だったかもしれない。
思った以上に疲れていたようで、土曜日はそれ以降、何も手につかなかった。
買い物から帰った父と母の楽し気な土産話もほとんど耳に入らずに夕食を終え、お風呂に入って部屋に戻ると、ベッドに倒れ込んで、そのまま翌朝まで夢も見ずに眠りこけてしまった。
あれらは、断片的な記憶の風景、ではあるけれど、本物の人の記憶であり、人生なのだ。
しかもそれは、あのヌガノマのものだ。
「何が出てくるかはわからぬ。覚悟だけはしておけよ」
そう、ナナにも事前に云われていたし、そのつもりでいたのだけれど。
これは、想像以上にたいへんかもしれない。
もちろん、簡単な事だとは初めから思っていなかった。
失くした記憶を取り戻す、だなんて。
冷静に考えれば、とんでもない事をしようとしてるんだなと、あらためて途方に暮れるような思いもある、けれど。
そう考えて、ヌガノマはどうだったのだろうと、思う。
仕事とは云え、元帥殿から「あの島へ行き御子を回収する」という、何だかとても抽象的でよくわからない任務を言い渡されて、どんな思いであの嵐の中、島へ向かっていたのだろう。
とんでもない事をしようとしてるという、自覚はあったのだろうか。
それとも、途方に暮れるような思いで、あの小船の甲板で激しい雨に打たれていたのだろうか。
日曜日、朝食を食べ終えて、リビングで新聞を読む父の横で、なんとなくテレビで流れていたにぎやかな情報番組を見るともなしに眺めていると、からからと貝殻の風鈴が鳴った。
反射的にソファから飛び上がるように立ち上がると、
「おお、何だいどうした?」
父が驚いて新聞から眼を上げ、目を丸くして僕を見る。
「あ、ごめん。宿題やらなきゃと思って?」
ついうっかり疑問形で適当な言い訳をして、2階の部屋へ駆け上がりながら、海を「振り返る」と、誰もいない。
「すまぬ、暇乞いじゃ」
ナナの声が云う。姿は、見えないけれど。
いとまごい?
今日はお休み、という事かな。
「うむ。つづきはまた来週、じゃの」
申し訳なさそうに、ナナは云う。
それは残念、と思いながら、実は少しだけほっとしている僕自身に気づいて、自分でも驚いた。
思った以上に、くたびれていたのかもしれない。
ふふ、とナナは笑って、
「はじめての挑戦ゆえ、ちと張り切りすぎたの。次は、もう少しペース配分を考えるべきかもしれん」
まじめな声で云う。
と云う事は、ナナもだいぶお疲れなのかな。
だったら、無理せず、今日はお休みにしよう。
「うむ。「いちいち驚いておっては、キリがない」とは云うたものの、いちいち驚かされるのは、もはや致し方ないのかも知れぬな」
しみじみと、噛み締めるようにナナは云う。
確かに、実感として、僕もそう思う。人の本物の人生の記憶、なのだから、驚きに満ちているのが当たり前なのかも。
「さにあらん」
ため息まじりに云うナナの声にも、実感がこもっている。
「ではの、ゆっくり休めよ」
うん、ありがとう。ナナもね。
そう答えたら、「ふっふ」と意味深な笑いを残して、ナナの気配はふわりと消えた。
まさか、ナナは休まない、つもりなのかな。
最後に見たヌガノマの記憶の、気掛かりの調査を、続けるのだろうか。
ハナの海を「振り返って」、こちらから声をかけてみようかな、とも思ったけれど。
なんとなく、「余計な事」「心配しすぎ」という誰かの声が聞こえたような気がして、それはやめておいた。

そのまま、何をする気にもなれず、だらだらと日曜は終わってしまった。
ゆっくり休めたと云えば、その通りなのかもしれない。
体の疲労ではなく、おもにくたびれていたのは頭のはずなので、何もせずにただぼんやり過ごしていたのは、ある意味では正解だったのかも。
ただ、気持ち的には、何だか無駄な時間を過ごしてしまったようで、ちょっぴり後ろめたいような、もやもやする感じがなきにしもあらずだったけれど。
ヌガノマの記憶の事を、JやL、ガブリエルに話したいなという思いはあったのだけれど、たぶん、僕自身、整理が追いついていない事が多すぎて、どこからどこまで、何をどう話せばいいのかなんてぼんやり考えているうちに、あっという間に日が暮れて夜になってしまった。
明日は月曜日だし、ナナもいる時に、一緒に話せばいいかな(ナナはきっとまた「面倒じゃ」って云うだろうけれど)なんて考えて、結局そのまま誰にも声をかけることなく、いつの間にか眠ってしまっていた。

たっぷり休んだおかげか、月曜は早々と目が覚めたので、いつもより早い時間に階下へ降りると、母にとても驚かれた。
「いやあね、雨でも降るの」
母はそう云って、心配そうに窓の外を眺めたけれど、今日も爽やかな秋晴れの空。
ふと思い出して、バッグを手にして出掛けようと玄関へ向かう母の背中を追いかけて、
「お母さん、僕の部屋の屋根裏の鍵だけど」
開けてもらえないかな、とお願いしようと思ったら、
「屋根裏、あんたの部屋の?鍵なんてないわよ」
きょとんとした顔で、母は云う。
あれ、僕が大きくなるまで、鍵を閉めておくから、って話だったのでは、と思いそう尋ねると、
「そんな事云ったかしら。あんたが小さいうちは、落ちたら危ないと思って、そう云ったのかもしれないわね。でも、鍵なんてないわ、開くはずよ。ただ、朝から開けるのはやめなさい。ほこりが降って来るわよ。休みの日にしたら」
靴を履きながらしれっとそう云って、じゃ、行ってきます、と母は仕事に出掛けて行った。
「行ってらっしゃい」
なんとなくぽかんとしたまま、ドアを開けて家を出て行く母の背中に手を振る。
なんだ、鍵は付いてなかったの。
この家に引っ越してきたばかりの頃、2階の部屋が僕の部屋になった時に、屋根裏の扉には鍵をかけておくから、と聞いたそのイメージだけがずっと頭に残っていて、てっきり鍵が付いているものだとばかり思ってた。
だから今日まで、あえて開けてみようともしなかった、のだけれど。
昨日のうちに聞いてみればよかったかな、と少し後悔する。
何もせずに無為に過ごした日曜が、何だかとてももったいない事をした気持ちになる。
けれど、「休みの日にしたら」と母は云った。
つまりそれは、屋根裏を開けてもいいという、許可を得た、という事だよね。
そう、前向きに考える事にする。
部屋の天井の扉を開ける事が出来れば、Nは屋根裏からまっすぐに僕の部屋へ来れるし、僕もNのいる屋根裏へいつでも行く事が出来るようになる、という事。
何だか、世界がぐんと広がったような気がして、うれしくなった。
早めの朝食を食べて、早めに家を出て、いつもより早く、学校へ着いた。
席に座り、オレンジの海を「振り返る」。
テラスのテーブルの上、小さな花瓶には、金木犀の花が咲いている。
朝のホームルームのチャイムが鳴る前に、開け放たれていた教室の後ろのドアから、とことことハナがやって来た。
遅刻せずに来るなんて、初めてじゃないかな。
「キクタ!」
満面の笑みで元気にハナは僕の名を呼び、小走りに駆けて来て、体ごとハナの方を向いていた僕の膝にぴょんと飛び乗って来る。
「おはよう、ハナ。今日も元気だね」
ふわふわっと頭をなでると、ハナはにっこり微笑んで、
「おはよー。うん、はなちゃん今日もげんきだよー」
えへへーとうれしそうに笑う。
けれど、ふっとその笑みに陰がさして、
「でもー、ナナちゃんは、げんきないみたい」
心配そうな顔で僕を見上げて、ハナは云う。
ナナ、元気ないの。疲れてるのかな。
「うーん、そうみたい。ねてるよー」
ぽつりと少し寂しそうに、ハナは下を向いてつぶやく。
ねてる
あの眠り、ではないよね。
ハナの出欠の目印、金木犀はテラスの花瓶に挿してあった。
朝からそれを挿して、寝てしまった、のかな。
土曜日の疲れ、だけではなくて、やっぱりその後、ひとりで気掛かりを調べてたのかもしれない。
「あー、でも、長いほうのねるやつじゃないよー。だから、ナナちゃん、すぐ起きるよ。たぶん」
僕に余計な心配をかけまいとするみたいに、ぱっと顔を上げてハナはそう云って、ぎこちない笑顔をみせる。
そんなハナが健気でかわいらしくて、僕はもう一度、ハナの頭をふわふわとなでた。

昼休み、ハナと「犬とネコはどっちが好きか」という、わりとどうでもいい話で盛り上がっていたら、
「ス、スズキ君」
また、怯えたような男の子の声に呼ばれた。
また?デジャヴュかな。
声の方を振り返ると、今日は何か文庫本を読んでいたらしいワカちゃんが、困り果てた顔で僕を見ている。
その理由は、あらためて見るまでもなかったけれど。
教室の後ろのドアをくぐるように、のっそりと顔をのぞかせているアイと眼が合った。
席を立ち、ハナと手をつないで教室の後ろのドアに向かう。
「ワカちゃん、ありがと」
いつもごめんね、と僕は頭を下げる。
「う、ううん」
困り果てた顔のままワカちゃんは首を横に振って、開いたままの文庫本に眼を落とす。
次からは、教室の前のドアから来るように、アイにお願いしようかな、と思う。
それはそれで、今度は別の子が、ワカちゃんと同じ目に合うだけなのかもしれないけれど。
「どうしたの」
と、アイを見上げて、「あれ」と思った。
いつもの覇気がない。と云うより、こんなアイを、僕は前にも見た事がある。
青ざめた顔、眼の下には隈、肩をすぼめて、大きな体がひと回り小さく見える。
「ああ、すまん。ちょっと、いいか」
声にも張りがない。ぼそぼそとつぶやくように云って、アイはのっそりと廊下を歩いて行く。
「アイ、げんきないねー」
ハナが、心の声で僕に云う。
ハナが見てもわかるくらい、何だか本当に、元気がない。
肩を落としてとぼとぼと歩くアイを追って、僕とハナも廊下を歩く。
つきあたりの、図工室の前で立ち止まると、アイはこちらを振り返り、床に眼を落したまま、小さくため息をついた。
まるで、あの時のよう。
夏休みに、僕が行方不明になっていた、あの時。
アイは心労と、誰にも言えない秘密を抱えて、こんな風になってた。
下を向いたまま何も云わないアイに、
「だいじょうぶ?何かあった?」
僕はそう、声をかける。
何だろう、何がこんなにもアイを憔悴させているの。
あの時は、僕が行方不明になり、アイは僕の家へ来て、あの工事現場へひとりで入り、マンホールの地下で倒れていたルリおばさんを発見して、担ぎ出してくれた。
そしてその帰り道、夜のコンビニの交差点で、アイは行方不明の僕の姿を見た。
それは、実はキクヒコさんの意識が入った僕の体で、何も怖い事はなかったのだけれど、アイにはそんな事わかるはずもなく。
そのまま、眠れぬ夜を過ごしたアイは、翌日、Lと公園で会う約束をしていて、姿を現した時、今と同じように憔悴しきっていた、けれど。
あの時と同じような事が、今またアイの身に起きているの。
いったい何が?
まるで想像もつかなくて、何だか気持ちがひりひりする。
「ああ、いや」
やっと口を開いたアイは、下を向いたまま、それだけ云って、また口ごもる。
何だろう、と僕は記憶を辿る。
記憶?
アイの記憶、夢で見た、学校の3階の階段の踊り場で、友人のハルと虫の写真を見て楽しそうに話していた。
土曜日は、バスケがあるから、日曜なら朝から付き合うぜ、
そう、アイは云ってた。その日曜が、昨日。
昨日、何かあったの。
「何から、どう云やいいのか」
ひとりごとのように、アイは小さくつぶやいて、意を決したように、ゆっくりと顔を上げる。
伏し目がちに、僕を見て、
「お、黄金虫、って、知ってるか」
アイは、そう云った。
やっぱり?と思いながら、僕は、アイにうなずいて、
「聞いた事はある。錆びた鉄の塊みたいな、背中に人の顔みたいに見える気味の悪い模様のある虫、でしょ」
記憶を見た、とはさすがに云えないけれど。
アイから話を引き出すには、こちらも知ってる情報を開示すべき、と思ったので、そう云った。
「知ってんのか」
アイは心底驚いた顔をする。それは、そうかもしれない。黄金虫?なにそれ、知らないなあ、という返事を、きっとアイは予想してたはず。
もう一度うなずいて、
「ある人に、最近云われた。「気をつけろ」って。それが何の事かは、ぜんぜんわからないけれど」
そう答える。アイに嘘はつきたくなかったので、正直に。
「そ、それ、誰だ」
そう尋ねるアイの眼には、何かすがるような救いを求めるような必死さがあった。
「キクヒコさんっていう、父の古い知り合いの、大人の人」
アイ達4人の赤ちゃんを教会へ送り届けた人、という事は、あえて伏せた。話がややこしくなると思ったので。
「その人、いまどこに?会えるか?」
まるで、沈む船から海に投げ出された遭難者が、必死に救助のロープに手を伸ばすような、そんな真剣な、深刻な必死さが、アイにはあった。けれど、残念ながら、
「ごめん、連絡先はわからない。父もたぶん知らない。自由な人でね、ふらっと来て、ふらっとどこか行っちゃうような。でも、僕は信用してるよ」
そう云った僕自身が、少し驚いた。そうか、僕はキクヒコさんを信用してるんだ、と。
でも、それはそう、危機一髪の所を、助けてもらったのだから。
「その、黄金虫が、どうかしたの」
信用できるキクヒコさんからの情報は、「気をつけろ」、ただそれだけだった。
僕が知ってるのは、ただそれだけ。
アイには申し訳ないけれど、それが事実だった。
だから、僕から尋ねたのだけれど、黄金虫について。
それに対するアイの返答は、意外なものだった。
「友達が、いなくなった」
ぽつりとつぶやくように、アイは云う。
そして、その一言で、何か、胸のつかえが外れたみたいに、アイはぽつりぽつりと言葉を続けて、
「ハルって、同級生。そいつが、黄金虫を見つけて、日曜に、一緒に捕りに行く約束してた。けど、昨日、朝からあいつの家に行ったら、おふくろさんが「昨日から戻らない」って。「アイちゃん、どこか、心当たりないかしら」ってさ。まるで、あの時の、おまえのおふくろさんみたいに」
くっ、と何かを飲み込もうとするみたいに、言葉を切る。
ハルが、いなくなった?
どうして
黄金虫を探してたから?まさかそんな。
「それで、警察には」
そう、僕は尋ねる。
小学6年生の子供が、前日から家に戻らない。
どこかで事故にでも遭って、帰れない状態に陥ってるのかも、そう考えるのが普通だ。
「ああ、あいつんち、母子家庭でさ。母ひとり子ひとり、だから、おふくろさん、すっかり気落ちしちまってて。それで、昨日、俺があいつんちから警察呼んで、捜索願やら何やら手続きしてもらって」
はあ、とアイは大きなため息を吐く。
いったいどんな星の下に生まれて、アイはこんなにも気苦労が絶えないのだろうと、何だか可哀相になってしまう。
僕の時といい、今回といい、どうしていつもアイばかり、なのだろう。
「虫取りに行くはずだった場所も、警察に全部話して、昨日はその河川敷を重点的に捜索してもらったんだけど、見つからなくて」
アイはそう云って、また大きなため息をついて、下を向いて押し黙る、かと思いきや、がばっと顔を上げた。
「違う、おまえんとこ来たのは、そうじゃねえ。その話なんだけど、それだけじゃねえんだ」
急に勢いよく、アイがそう云って、掴みかかられるんじゃないかと、僕は思わずたじろいだ。
その話なんだけど、それだけじゃねえ
確かに、僕は人探しのプロでも何でもない、ただの小学2年生の子供だ。
行方不明の友人を探すために、そのために僕の所へ来るというのは、話がおかしい。
アイが来た本当の目的は、それだけじゃねえ「何か」のため。
「ま、また、消されてるんだ。ハルが行方不明になった事が、みんなから」
震える声で、そう、アイは云った。
消されてる
アイの云うそれは、
認識の喪失?
でも、誰が何のために。
「みんなからって、クラスの?まだ知らないだけなんじゃないの。土曜に行方不明になって、日曜に捜索願を出して、今日が月曜でしょ。みんなは、まだ知らなくて当然なんじゃない?」
そう、僕が云うと、アイは激しくかぶりを振って、
「すまん、違うんだ。昨日の時点で、おふくろさんはあんな風だし、俺ひとりじゃどうにもならなくて、担任に連絡して来てもらってんだ。それから、クラスの連中にも、来れるやつは全員来いって声かけて、20人近く、集まった。それでみんなで手分けしてハルを探したんだよ。それなのに、今日、学校へ来たら」
また、アイは何かを、くっと飲み込む。
「おまえの親父さんといっしょなんだ。あの「ミドノ原」を思い出そうとして、固まっちまう、あの状態。クラス全員、昨日来てたやつも来なかったやつも、担任もだ。「ハル」って名前を出すと、固まる。ハルの席はあるし、クラスにミハラハルオミってやつがいる事は、みんなわかってる、はず。だけど、なんでハルがいないのか、どうして休んでんのか、それを考えると、固まる。ハルが行方不明になってる、その事を思い出させないように、消してるんだ、誰かが」
それは、アイの勘違いや思い過ごし、なんかじゃない、よね。
間違いなく、認識が消されてる。
でも、誰に?
いったい何のために?
「只事ではないの」
そう、心の声がして、ハナの海を「振り返る」
灰の海に、腕組みをしたナナが立っている。ハナの姿の、ナナが。
ナナ、ごめん。寝てたのに、起こしちゃったね。
「なんの。アイがただならぬ顔で現れた時から、起きて見ておった。気にするな」
ナナはそう云って、
「ところで、小僧の「気をつけろ」というのは、何じゃ」
と、僕に尋ねる。
それは、ナナには話してなかったかもしれない。
Nがガブリエルの病院へお見舞いに寄っていた時に、突然、キクヒコさんが「飛んで」来た、Nの中に。
そして、ガブリエルに向かって「黄金虫、気をつけろ」それだけ云って、またどこかへ「飛んで」しまった。
Nが云うには、キクヒコさんは能力をコントロール出来ておらず、意志とは無関係に「飛ばされて」いるようだった、と。
ふむー、とナナはうなって、
「あやつめ、またひとりで何をしておるのじゃ」
そうつぶやく。
そしてちらりと眼を上げて、
「あれはおぬしに似て、何でもひとりでどうにかしようとしよる。全く人騒がせなやつよ」
困ったようにナナは笑う。
それは、その、ごめんなさい。
「それはさておき、アイじゃの。さて、どうしたものか」
そう云って、ナナは腕組みをして考え込む。
そう、なのだけれど。
アイに「認識の喪失」だけを、うまく説明できないかな。
そういう「力」がある。
それ自体は、たぶん、アイにもわかってる。
おまえの親父さんといっしょなんだ、
そう思えるくらいには、アイはあの力を理解してる、はず。
けれど、アイ自身には、何の「力」もなく、海とのつながりもない。
そんなアイに、どう説明すれば。
アイは両手で頭を抱えるようにして、うつむいて、茫然としている。
「何なんだ、何で俺だけ、いつも覚えてるんだ。みんな忘れてんのに、なんで」
そう、ぶつぶつと声に出している事さえ自分では気づいていないみたいに、アイは下を向いたままつぶやき続けている。
すうっと息を吸い込む音が、ハナの灰の海から聞こえて、
「アイザック・アインシュタイン、顔を上げよ」
突然、ハナの口から、凛と響くナナの声が云った。
空気まで、ぴりっと緊張したようだった。
はっと大きく息を飲んで、アイが顔を上げる。
何か雷にでも撃たれたみたいに、ぴしっと背筋を伸ばして立ち、アイはハナを見つめている。
ハナの(ナナの)薄灰色の眼が、サングラスの上からじっとアイを見上げて、
「アイよ、よく聞け。おぬしだけではない。ここにいるキクタもそして儂も、覚えておる。それだけではないぞ、金髪のミカエルも、おかっぱのジーンも、三つ編みのガブリエルも、おぬしと同じように全て覚えておる。良いか?」
小さなハナの口から、威厳に満ちたナナの声でそう云われ、アイはハナの眼を呆然と見下ろしたまま、大きくひとつうなずいていた。
「忘れるなよ、おぬしはひとりではない。決しておぬしだけではないのじゃ。努々それを忘れるでない。良いな?」
そう云われて、また、アイは大きくうなずく。
「宜しい。ハルの事は、心配じゃろうが、無闇に動くでないぞ。儂に任せよ。何かあれば、此奴に云うが良い。いずれまたおぬしの力が必要な事もあろう。その時は、頼むぞ」
アイの半分くらいしかないハナの小さな体が、その時の僕には(たぶんアイにも)、アイよりも大きく見えた。
それくらい、威厳と慈愛に満ちた、何かとても大きな存在に感じた。
「わかった」
大きくうなずいて、アイは云う。心なしか、顔色も良くなったように見えた。
「宜しい」
ナナが云うのと同時に、5時間目の開始を告げるチャイムが鳴る。
「ほれ、行くが良い。そうひとりで気に病むでないぞ」
にっこり笑って、ナナが云うと、
「わかった、ありがとう。じゃあ、またな」
アイはハナに大きくうなずいて、何だかすっきりした顔で僕に手を上げると、すたすたと廊下を駆けて行く。
僕はたぶん、眼を白黒させて、ハナを見る。
すっとハナの眼が、薄灰色からあの海みたいなきれいなオレンジに変わって、僕を見て、にっこり笑う。
これは、ハナ。
さっきのは、何?
「何とはなんじゃ、失敬じゃなおぬし」
灰の海から、ナナが僕をにらんで云う。
いや、だって、何?あれ、魔法?何あれ。
自分でも何を云ってるのかわからないけれど。
それくらい、びっくりした。
「何を驚く。あれしきの事、おぬしにも出来よう」
ふふん、と面白くもなさそうに、ナナは鼻で笑う。
え、いやいや、僕にあんなのできるわけないでしょ。
何なのあれ。何の能力?
もしかして、あれも王の力なの。
「そんな訳なかろ。あれはただの芝居よ。云わば、年の功じゃな」
芝居
演技ってこと?
演技であんな、何かすごい、神様みたいな威厳が出せるの。
それが、年の功?
本当かな。
「もう良い。それよりおぬし、5時間目は廊下で過ごすつもりかえ」
そう云われて、あ、そうだったと思い出す。
チャイムが鳴ってた、もう授業が始まってる。
認識を消されているので、廊下にいようが教室にいまいが、お咎めなしなのはありがたいけれど。
ハナの手を引いて、そっと教室に戻り、素知らぬ顔で席に着く。
もちろん、ナガタ先生をはじめ、クラスの誰も僕らを気にもとめない。
そんな事より、ハルだった。
黄金虫を探していた、アイの友人。
アイの記憶で見た、人懐っこそうな笑顔が印象的なやさしそうな少年。
そのハルが、行方不明。
「只の行方不明ならば、警察に任せよで終いなのじゃがの」
ふむー、とナナが鼻でため息を吐く。
認識を消されているとなると、犯人は、能力者。
「犯人、かどうかはさておき、じゃ。能力者が関与しておる事は、間違いないの」
ハルが行方不明になった、その認識を消した。という事は、単純に考えれば、その事が、大っぴらに騒がれては困る人物がいる、のだろう、けれど。
「邪魔するぞ」
そう、ナナの声が僕の「オレンジの海」から聞こえる。同時に、貝殻の風鈴がからからと鳴る。
ナナが、僕の「オレンジの海」に移動したらしい、けれど、どうしてだろう。
「時におぬし、ここから金髪どもを呼ぶには、どうするのじゃ」
急にそんな事を、ナナは僕に聞く。
え、今?
LとJを呼ぶの。
Lはともかく、Jはさすがに授業中なので、窓を閉じてると思うけれど。
「また公園で一から説明するのは面倒じゃろ。それともおぬし、この件にはあやつらを巻き込まぬつもりか?それならばそれでも良いが」
そう云われると、僕も少し躊躇してしまうけれど。
巻き込む・巻き込まない、で云えば、巻き込まずに済むのなら、そうしたい気持ちは少なからず、ある。
けれど、そうやってひとりで突っ走って、挙句にふたりにはたいへんな心配をかけた、という前科が僕にはある。今回は、ナナもいるのでひとりではない、けれど。
それに、ハルは6年生で、LとJも同級生だ。全く見知らぬ相手ではないのだから(学校に来ないLには、もしかしたら知らない子なのかもしれないけれど)、行方不明と聞けば心配だろうし、何かできるのなら手助けをしてあげたいと思うのでは。
それに何より、Lは頼りになる。Jもガブリエルも、そうだけれど。
やっぱりみんなには、話しておきたい。
そう思ったので、僕は「オレンジの海」を「振り返って」3人の名前を大声で呼んだ。
コテージの前の砂浜で、ナナがきょとんとした顔で、僕を見ている。
「まさかよ。何じゃその原始的な伝達方法は」
呆れた顔で、ナナはため息をついて、
「おぬしの側には呼び鈴がわりの風鈴を吊っておきながら、あやつらを呼ぶのは、大声かえ。全く何という」
そう云って言葉を失ったように、また大きなため息をつく。
それは、そうだね。ナナの云う通りだ。
今度、みんなにもそれぞれ呼び鈴をつけてもらおう。
「なんだなんだ?またいきなりナナちゃんに怒られてんの」
秘密基地のドアを開けて砂浜に降りて来たLが、ハナの真似をして「わははー」と笑う。
「どうしたの、何か緊急事態?ごめん、授業中だから、窓開けて聞くだけもでいいかな」
お庭の窓が開いて、Jの声が囁くように云う。
ごめんね、J。実はそうなんだ。もちろん、聞いてるだけでいいから。
「ボクはいつも聞いてるけどね、リハビリ中のラジオ代わりに」
くすくすと笑いながら、ガブリエルの声が云う。
「あ、でも、みんながトーテムの中に入っちゃうと、聞こえないんだよねえ」
ガブリエルのかわいいふくれっ面が眼に浮かぶ。顔は見えないのだけれど。
「それは三つ編み、おぬし次第じゃ。おぬしの窓を、トーテムの中に開けば良い。おかっぱもじゃ。ご苦労じゃが、窓をちいと内側へ動かしてくれい」
ニヤリと笑って、ナナがそうアドバイスをしてくれる。
「あ、そうなの。なあんだ、じゃあ聞けるね。ちょっと待ってね」
そう云って、ガブリエルの声が途切れ、窓の位置を調整したらしい、
「これでいいかな。あ、窓はまだ出さないけどね。だいじょうぶ、これで聞こえるはず」
ふふふ、と満足げにガブリエルは笑った。
Lが無言で肩をすくめて、いつものように我が家のような気楽さで、コテージのテラスへ上がって行く。
Jの返事はなかったけれど、お庭の窓が閉じて消え、すぐにまたトーテムの内側に開く。ナナの指示通り、Jも窓を内側へ移動してくれたらしい。
それを確認して、ナナもふわりとテラスに上がって、いつもの席に座る。
僕もいつものナナの向かいに座り、ぱちんと指を鳴らすと、グラスに入った冷えた麦茶が三つ、テーブルに並んだ。
実は、さっき、昼休みにアイが僕のところへ来て、と先程の話をみんなに説明する。
それから、前に僕が夢で見た、アイの記憶の話も。
「へえ」
いつものように青い眼をきらきらさせながら聞いていたLが、
「あいつの記憶もこの海にあるんだなー。まあ、そりゃそーか、アルカナは入ってるんだもんねー」
何だかうれしそうに、そう云った。
けれど、すぐに真面目な顔になって、
「その、ハルって子の事は、ごめん、オレわかんねーわ。Jは、知ってんだろーけど」
申し訳なさそうに云う。
「うん、昆虫博士のハル君だね。3.4年生の時、同じクラスだった。先生よりも詳しいくらい、虫の事なら何でも知ってる子、だよ」
囁くような声でJが云うのは、授業中だから、だろう。
こっちの話も聞きながらでは、授業も頭に入らないよね。J、ごめんね、と思う。
「ふむ。では、順に整理するとしよ」
ナナが云って、
「まずその、ハルというのは、どんな子じゃ。よもやアルカナ持ち、アニー?という事はあるまいが」
そう僕に尋ねる。
ハル
名前はミハラハルオミ、ってさっきアイが云ってた。
アイと同じクラスの6年生男子。
くりっとした眼と大きな前歯の、小動物を思わせるような愛嬌のある顔。
小柄でやせ型。
昆虫を集めるのが趣味、らしい。
小学校では原則禁止のスマホを持ち歩いてる。見つけた黄金虫の写真は、そのスマホで撮影したものらしくて、夢の記憶でアイにそれを見せてた。
平日はハルの塾通いが忙しく、土曜はアイがバスケの練習があるので、日曜にふたりで黄金虫を捕りに行く約束をしてた。
その日曜が、昨日。
僕が知ってるハルの情報は、それくらいかな。
「ふむ。そして母子家庭で、母ひとり子ひとりのふたり家族か。母御は、さぞや心配な事じゃろうの」
ナナはわずかに眼を細め、何か痛みをこらえるような表情を浮かべたけれど、すぐにかぶりを振って、
「取り立てて、怪しむべき点はなさそうじゃの。昆虫採集が趣味か。それで黄金虫やらを見つけてしまったのが、此度の不運の始まりか」
ふむ、とまた腕組みをする。
不運
まさに不運、としか云いようがないのかも。
「もう一度聞くが」
ちらりとナナは眼を上げて、
「ハルはアニーではないのじゃな」
そう、あらためて僕に尋ねる。
もちろん、ハルがアルカナ持ち、アニーである可能性は、極めて低い、と思う。
けれど、ゼロではないのかも。
小学6年生、アイと同じ、12歳。(いや、実はアイがひとつ年上の13歳という事がこの前判明したんだけれど、それはこの際、置いておくとして)
0歳の時にアルカナが入ったのだとしたら、12年前、のはずだけれど。
「地震と火災の年じゃの。あの混乱に紛れて、地下から外へ逃れ出たアルカナが?いや、おらぬじゃろ」
ナナは静かに首を振る。
「アルカナがおるとすれば、眠り続けるロリポリの中、じゃが。あの中にどれほどのアルカナが残っておるのか、儂は知らぬ。研究者どもならば、知っていたかもしれぬがの。彼らには見えずとも、アルカナ自身、例のA-0なりに聞けば、おおよその数はわかるのじゃろうが、いずれにしろそう多くはなかろ。地震後の撤退や火災からの避難に紛れてアルカナが地下から出ようとすれば、まずはロリポリの体から出て、何かに入らねばならん。オレンジの海を持つ、赤子か動物にの」
ナナは包帯ぐるぐるの右手を唇に押し当てて、いつもの考え込むポーズで云う。
僕は少し、また思い違いをしていたかもしれない。
アルカナは、もっと、何と云うか自由に?動き回れるイメージだった、かも。
肉体を持たない、意識生命体、だから、かな。
ロリポリから飛び出してその辺をふわふわ飛んだり、それこそ自力で地下から飛び出して、入れそうなオレンジの海(を持つ赤ちゃんか動物)を見つける、とか、それくらいできるのかな、と。
それこそマンガや絵本にあるような、妖精とか霊的な何かみたいに。
でも違う。考えてみれば、そんなはずはなかった。
アルカナは、オレンジの海でしか生きられない、地球外生命体、だ。
体がちぎれて落下するロリポリからこぼれ出て、瞬間的に、キクタやヌガノマの「海」に飛び込んだように。
外に出れるのは、つまりオレンジの海以外の空間へ出れるのは、ほんの数秒とか、せいぜい数十秒くらいのもの、なのだろう。僕らが水中で息を止めていられるのが、せいぜい数十秒くらいの間、というのと同じようなものかも。
であればこそ、12年前に、ロリポリの中で生き残っていたアルカナが、何らかの方法で外に出て、生まれたばかりのハルのオレンジの海に飛び込む、というのは、かなり無理がある。
ナナがちらりと眼を上げて、云う。
「あの地下に、動物がおらんかった訳ではないがの。動物使いがごときおぬしがおった頃じゃ。ノワールやクロウ、あるいは他にもおぬしの飼っていた動物は少なからずおった。じゃが、アルカナが自らの意志でそれら動物のいずれかに入り、その体をもって地下から外へ出たとして、そう都合良く入れそうな赤子を探せるとは思えん。オレンジの海を探すセンサーを持つのはロリポリじゃ。アルカナにその能力はない、じゃろ」
可能性、で云えば、という事だろうか。
キクタが地下で飼っていた動物にアルカナが入り、その動物が、軍の撤退に紛れて外へ出る。
そこまでなら、あり得なくはないのだろうけれど。
「いやあ」
Lが、ちっちっと僕に指を振ってみせながら、口を開く。
「それもだいぶ無理があるよねー。ロリポリの中のアルカナが、そこまで正確に軍の動向を把握できるもんかなー。ロリポリも揺れただろーから、地震には気づいたとしても、さ。それで軍が撤退するとかなんて、アルカナにはわかんねーだろ。仮に状況を把握できたとしてもだなー、その非常時をチャンスと捉えて、とっさに動物に入って脱出するなんて大胆なコト考えて、実際に行動までできるもんかねー。いやあ、できないんじゃね。それとも、非常時だからこそ、後先考えずとっさにそんな事しちゃったアルカナがいた、とも考えられなくはない、のか?うーん」
そう云って、Lは腕を組んで考え込む。
それに、万が一そのアルカナの脱出があり得たとしても、動物の体で都合良く赤ん坊のハルを見つけて、しかもハルの中へ入る?赤ちゃんの鼻と動物の鼻先を接触して?そんな事できるだろうか。
偶然にしても、その確率は、限りなく低いのでは。そう思えた。
「うむ」
ナナはうなずいて、Lと僕を交互に見て、
「ハルがアニーかもしれぬ、という線は、一旦忘れるとしよ」
そう云った。そして、あらためて僕の方を見て、
「黄金虫、とは何じゃ。おぬしはアイの記憶で、その写真やらを見たのじゃな」
そう尋ねるので、僕はうなずいて説明する。
見た目は、錆びた鉄の塊のように見える、丸くてひしゃげた甲虫のような虫、に見えた。
背中の、たぶん甲虫で云えば羽に当たるところに、人の顔みたいに見える気味の悪い模様がある。
大きさは、とアイに問われたハルは、これくらい、と親指と人差し指を広げてみせたので、おそらく体長10cmくらい。
写真では、土と砂利の混じった地面、雑草の根元のところに、いた。
「それは、本当に虫なのか。何か他のゴミやらを見間違えた可能性はないかの」
ナナがそう問うのも無理ないかもしれない。僕も初めは、虫には見えなかった。アイは写真を見るなり「何だこれ、燃えないゴミか?」と云ってた。
でも、ハルは、素手で捕まえるのは躊躇われたので、何か道具はないかと辺りを探していた、その間に逃げられちゃった、と悔しそうに云ってた。
「逃げたか。ではゴミではないのであろ。虫かどうかはともかくの」
ふむー、とナナはまた唇に手を当てて考え込む。
虫かどうか
虫じゃないの、かな。
僕がひとりごちると、ナナは肩をすくめて、
「知らぬ。じゃが、そんな虫がおるなぞ、儂は聞いた事もない。であれば新種か、あるいは未知の生物やもしれぬ」
未知の生物
図書室の図鑑か何かで見た覚えがある。地球上にいる生物の、およそ80%以上は、未知の生物だって。
「おー、さすが、物知りだねー」
Lが感心したように僕を見て、云う。
「補足すると、これまでに確認され、人間によって名前が付けられた生物は、約120万種って云われてるぜー。けど推定では、この地球上には870万種の生物が存在してる、らしい。その870万って数も、あくまで計算上は、って話で正しいかどうかはまだわからない。だから、実はもっとたくさんいるのかもしれないって事だなー」
うむ、と、ナナはうなずいて、
「但し、その870万種には、眼には見えぬような菌類や微生物なぞも含まれておるがの。見つけやすい大きさの生物には、既に軒並み名前が付けられておるはずじゃ。10cmもあるような大きな虫が、これまで人知れず生きておったとは、到底思えぬ。しかもアマゾンの密林やチベットの山奥でならばまだしも、この日本の街中で、じゃぞ」
あり得ぬ、とナナはつぶやいて首を振る。
だとすると、黄金虫は、何なのだろう。
「さての」
ため息まじりに、ナナは云う。
「ロリポリのように、宇宙の彼方から来た、地球外生命体ではないかの」
半ば投げやりに、ナナはそう云ってから、はたと何かに思い至ったように薄灰色の眼を見開いて、僕を見て、Lを見る。
ロリポリのように?
Lがぴこん、と人差し指を立てる、けれどそれよりも先にナナが、
「まさか、ロリポリの子、ではあるまいな」
愕然とした表情で、つぶやくように云う。
ロリポリの、子?
子供?
「いやあ、幼虫、と云うか、幼生?かなー」
Lも青い眼を見開いて、驚いた顔で云う。
ふむー、と、ナナは長々とうなって、
「あり得なくはないの。むしろ、未知の生物なぞよりは、余程あり得るのではないかの。あやつは、落下中に体がちぎれていたはずじゃ。その際に、体内から卵なり何なりがこぼれ落ちていたとしたら」
そう云って、また唇に右手を当てて、考え込む。
体長10cmもあるような大きな虫が、今まで誰にも発見されずに、この街に潜んでいたとは、確かに考えにくい。
けれど、80年前に宇宙からこの街に落ちて来たロリポリの、そのちぎれた体内からこぼれ落ちた卵に幼虫が入っていたとしたら。
可能性としては、ナナの云う通り、未知の生物説よりは、あり得そうに思える。
けれど、卵の状態で外へ放り出されて、仮にどうにか孵化できたとして、それから80年もの間、生きていられるものだろうか。エサもなく、アルカナの星とは環境の大きく異なる、この地球上で。
ナナがゆっくりと顔を上げ、唇から右手を離して僕に云う。
「おぬし、M何某の、A-0の昔話とやらをもう一度思い出してみよ」
A-0の昔話?
ロリポリは、落下の途中で体がちぎれ、大きく三つに分かれた、というあの話?
「左様」
一番大きな頭部を含む本体はミドノ原、あのベースと呼ばれた地下施設のあった場所に落ちた。
次に大きな尾は、海沿いの漁村のあった場所に落ちて大きなクレーターを作った。
「左様。して、残りは」
残りの推定2~3mほどの腹部は、ミドノ原と海沿いの間のどこかに落ちたとされているけれど、A-0には、その詳細は知らされなかった。
Lとガブリエルの推理では、おそらく既に米軍によって密かに回収されているのでは、と。
「その腹部よ」
ナナは云う。
「それが、ロリポリの体内に卵を保管する部位であったとしたら、どうじゃ。あやつの腹の中には、オレンジの海に性質がよく似た器官があった、そうM何某は云っておったの。そこに、大勢のアルカナも「乗り込んで」いた、と」
「おいおいおい」
Lはテラスのガラスの天井越しに、オレンジの空を見上げて頭を抱える。
「じゃあ、一番重要なのは「腹部」だったんじゃね。オレンジの海と、大量のアルカナと、ロリポリの卵が入ってた?そりゃ、A-0ちゃんにも黙ってそそくさと回収するよなー。あれ?でも待って、それなら「腹部」は、とっくの昔に本国へ持ち帰ってるんじゃね。推定2~3mだろ。それが仮に5~6mだったとしても、輸送機にでも何でも乗せて、ひとっ飛びだよねー」
そう云って、Lは上を向いていた顔を下ろし、テーブルに肘をついて、手の上にあごを乗せる。
「じゃあ何で、黄金虫はこの街にいるの」
Lはそう云ったけれど、それは疑問形ではなく、
「じゃあその腹部を回収したのは、いったい誰なの」
その答えに、きっとLはもう、辿り着いているのだろう。
「いやあ、そう云うおまえも、だろ」
きらりとLの青い眼が光ったように感じた、けれど、Lはいつものように、笑わなかった。
声は、いつもの陽気なLの声、だったけれど。
「笑えねーなー」
神妙な顔で、Lは云う。
それは、そう。
あくまで、想像だけれど、とても笑い事ではない結論に、たぶん、僕らは辿り着いてしまった。
黄金虫が、ロリポリの幼虫だったとして、その卵とオレンジの海の入った「腹部」を回収したのは、米軍ではなく、彼らに隠れて密かに独自の研究を進めていた一派。
黄金虫を見つけてしまったハルが姿を消し、そのハルが行方不明になった事実が、街の認識から消された。
その認識を消したのは、それをする事ができるのは。
「あくまで、想像じゃ」
黙っていたナナが口を開き、淡々とそう云った。
僕も、そしてLも、ナナを見る。
ナナは困った顔で僕らの視線を受け止めて、肩をすくめる。
「嫌な想像じゃが、80年前、ロリポリが落下した当時、この地に派遣されてきた軍と研究者どもは、手分けをして、この辺り一帯を捜索したはずじゃな。落ちた隕石の痕跡を求めて、の。ある者らはミドノ原のクレーターを見つけ、またある者らは、海沿いの集落を潰したクレーターを見つけた。そして、運悪く、腹部を見つけてしまったのが、彼奴らだったのだとしたら、その後の連中の動きにも大いに納得できる。おぬしらが予想した通り、2~3mほどの腹部であれば、運搬も隠ぺいも容易であった事じゃろ。彼奴らはそれをいずこかへ隠し、軍にも他の研究者にも見つからぬ場所を見つけ、それを己が研究所とした。そして、隠した腹部をそこへ運び込み、己らの野心を満たすための研究に没頭した。筋書きとしては、そんな所か」
淡々と、そう語り終え、ナナは深いため息をつく。
うつむいて、何やらまた考えに沈む風に見えたナナが、おもむろに顔を上げて、カッと薄灰色の眼を見開いて、
「あの小僧め、いったいひとりで何をしておるのじゃ」
怒鳴った、わけではなかったけれど、早口にそう云って、雷にでも撃たれたみたいに、僕とLの体がびくん、と跳ねる。
「ああ、すまぬ」
ナナは途端に、やさしい眼になって、苦笑する。
キクヒコさん
黄金虫、気をつけろ
あれは、やっぱり警告だった、のかな。
黄金虫が、危険な何かとつながっている。少なくとも、キクヒコさんはそう思ってる。
だから、気をつけろ、と、僕らに注意を促した、のだろうか。
「あくまで、想像じゃが」
もう一度、ナナはそう云って、僕を見る。
「確かめる方法は、ないではないの」
ないではない
あるの?それを確かめる方法が?
「想像じゃぞ、確実ではないがの」
そう云って、ナナはオレンジの海を見る。
白い星の砂浜の向こう、遠浅のオレンジの海のそのずっと向こう。
あ、記憶の保管場所?
でも、誰の
そう考えて、すぐに思い当たる。
ルリおばさんだ。
「あん?何でおばさんの記憶が今の話とつながって、あー」
云いかけて、Lも思い出したらしい。
キクヒコさんとルリおばさんは、20年ほど前に、キクタがどこからか連れて来た子供。
「どこぞの研究所から逃げ出したか、此奴が救い出したか」
そう、ナナは僕らに教えてくれた。
その研究所が、同じ研究所なのだとしたら。
いや、そんな邪な研究所がいくつもあっては適わないので、同じ研究所であってほしいところだけれど。
ふむ、とナナはうなずいて、
「より確実なのは、ナガヌマの方かもしれんの。あやつは「博士のラボ」とやらへ何度も入った事があるのじゃろ。実験がどうのと云うておったし、の」
そう云って、僕にニヤリと苦笑してみせる。
やっぱりまだ、だいぶお疲れなのかな。
「んん?ヌガノマの方って何。それ知らないぞー」
Lがふくれるように、かわいく口を尖らせて僕に云う。
ごめん、それは、云ってなかった。
慌てて僕は、ナナとヌガノマの記憶を見に行くことになったいきさつを説明する。
ざっくりと概要だけ、だけれど。
詳細は、長くなるし、まだ僕もとてもじゃないけれど整理しきれていないし。
「まあたおまえは、ひとりでそんな楽しそうな事してんのかー。あ、今回はナナちゃんが一緒だからひとりじゃねーけど」
何だか、ガブリエルと同じような事を云って、Lはいつものように、はっはーと陽気に笑って僕の肩をばしばし叩いた。
「小僧の行方も気になるが、それを探す手立ても、ないではない」
また口に手を当てて、ナナはそんな事を云う。
ないではない
キクヒコさんを探す方法が、あるの?
ナナはちらりと僕を見て、
「そろそろ3週間じゃ。あれも眼を覚ます頃じゃろ」
何だかあまりうれしくなさそうな顔で云う。
あれ
眼を覚ます?
「あれが進んで協力するかどうかは、さておき、の。あれの「能力」は人探しには向いておるはずじゃ」
あれ
云うまでもなくそれは、ルリおばさん。
彼女の能力は、物に残された記憶を読み取る事ができる。
「金髪、おぬしは小僧が此奴の体に入っていた時に、身につけていたあれを持っておるのじゃろ」
Lの方を向いて、ナナは云う。
また、あれ
やっぱりナナ、まだ疲れてるのかな。
今度の「あれ」は、ヘッドホンとゴーグルの事。
「それよ」
めんどくさそうに、ナナは僕を見て云う。
「小僧がそれを着けていた時の記憶を覗ければ、あやつが今どこをねぐらにしておるのか、わかるやもしれん。あの跳ねっ返りが、喜んで協力してくれれば、の話じゃが」
うんざりしたような顔で、ナナは云う。
ルリおばさんの協力は、あまり望めない、のかな。
「さての」
ナナは肩をすくめて、
「儂の云う事は、まず素直に聞かぬ。おぬしらが「お願い」すれば、あれも悪い気はせぬじゃろうが、探すのが小僧ではの。あれも気乗りはせぬじゃろな」
力なく、苦笑する。
僕の記憶にあるルリおばさんに当てはめて想像してみると、どうだろう。
確かに僕らが、特にJやガブリエルが「お願い」すれば、「いいわよ」と云ってくれそうな気はする、けれど。
あのマンホールの地下で倒れているところを発見され、アイに担ぎ出されながら気を失ったルリおばさんは、うわ言で何度も「キクヒコめ」とつぶやいていた、らしい。
それが何を意味するのか、僕にはわからないけれど。
うむ、とナナはうなずいて、
「ひとまず、報告と情報共有はこんなところじゃ。授業中にすまんかったの。また後ほど、公園で会おうぞ」
そう云って、ふわりと席を立つ。
授業中、なのは、おもにJだけ、なのだけれど。
僕はどのみち、月曜はハナとおしゃべりしているので、ほとんど授業は聞いていないし。
「それも考えものよの」
コテージを去りかけて振り返り、ナナが云う。
「おぬし、・・・まあ良いか。元々、ロクに学校なぞ行った事もない爺いじゃからの」
何か云いかけたくせに止めて、かっかっと笑って、ナナはひらりを手を振って姿を消す。
また、まあ良いか、なの。
ナナが良いと云うのだから、きっと良いのだろうけれど。
ナナと一緒に席を立ち、僕とナナの様子を黙って見ていたLが、無言のままニヤニヤ笑って、僕の肩をぽんぽん叩いた。
Lまで、何なの。
「いやあ、理解ある神様でいいなあって思ってね?」
何だかよくわからない事を云って、Lはニヤリと笑い、
「じゃあオレもいったん帰るわ、また公園でなー」
ひらひらと手を振って、基地のドアへと消えて行った。

授業が終わり、お掃除の時間と帰りのホームルームも済んで、ハナとふたりで学校を出る。
北向きの通学路を公園へ向かっていると、貝殻の風鈴が鳴った。
海を「振り返る」と、基地のドアが開いていて、けれど、Lの姿は見えない。
すぐに公園で会えるのだし、何も慌てて海でつながる事もないのでは、と考えて、
あ、もしかしてLは、ナナに何か用事かな、と思ったら。
「いやあ、参ったねこりゃ」
そう、Lの声がする。
何かあったの、と急に不安になる。
黄金虫の、ハルの行方不明事件が起きたばかりだし。
L、どうしたの?何かあった?
そう尋ねると、
「え、ああ、ごめんごめん。オレはだいじょうぶ。でも公園が、ちょっと困った事になってるぞー」
いつもの声で、Lが云う。
公園が困った事
Lはもう公園に着いていて、その困った事に直面してる、のだろうか。
「うーん。あ、Jも来たわ。とりあえず、おまえが来るの待つぞー」
Lはいつもの声だけれど、なんとなく、元気がない。
とりあえず待つ、と云うくらいだから、緊急な何かが起きたわけではなさそうだけれど。
何とも不安な気持ちになって、ハナの手を引いて、急ぎ足で公園へ向かう。
その異常は、遠くからでもわかった。
路地の先、いつも見える公園の向こうの竹林が、白い鉄の塀に塞がれていた。
それは見覚えのある、工事用の仮囲いの白い塀。
あの公園が、その塀でぐるりと囲まれていた。
「お、来たなー」
オレンジの海でLが云う。
公園の入り口、があった場所。高い塀の前の路地に、LとJが所在なげに佇んでいる。
どういう事だろう。
あの公園が、工事?改修とか、まさか取り壊し?
認識を消されて、誰からも忘れられているはずの公園が?
あり得ない。
「うん」
塀の前で右手を上げて、Lが海で云う。
「さっきJとぐるっと一周回ってみたけど、どこにも何の表示も出てなかったなー」
表示
よく工事現場の塀に掲げられてる、建設業の許可票、とか、かな。
うちの前の、あの工事現場にもそれはどこにも見当たらなかった。
認識を消されているのだから、必要ないと云えば、必要ないのだろうけれど。
「このタイミングで?昨日の今日で?関係ねーとは思えねーよなー」
いつもの陽気な声、ではあるけれど、Lは、怒ってる、みたいだった。
「そりゃ怒るわよ。ハナちゃんが、電車ブランコ乗れねーじゃん」
基地のドアを開けて砂浜に下りながら、Lは大真面目な顔で、そう云った。
それは、そうだけど。
怒ってるって、そこなの。
僕の隣で眼の前の白い塀を見上げてたハナが、
「むー?キクタ、今日公園お休みー?」
すねたように口を尖らせてる。
「ほらあ」
Lは青い眼をかっと見開いて、怒りの形相だ。
「かわいいハナちゃんに、こんな顔させるなんて、ゆるせねー」
ぷんすか怒りながら、Lはつかつかとテラスへ上がって、いつもの席にどっかと腰を下ろす。
リアルなLはハナの前にしゃがみこんで、ドレッドの髪をふわふわなでながら、
「ごめんなーハナちゃん、公園、しばらくお休みだってさー」
申し訳なさそうに云う。
「ふぅん」
ハナは小首をかしげて、何か少し考え込むような表情をして、
「じゃあ、しかたないねー。今日は、帰ろっか」
元気のないLを慰めるように、そう云った。
「あ」
と、僕が身構えるよりも早く、Lはハナをふわっと両手で抱き上げて、
「もう、ハナチャンはカワイイネーカワイイネー」
小さな顔にぐりぐりと頬ずりをする。
ハナはいつも通り、きゃっきゃと声を上げて、笑っている。
「どうじゃ」
参ったか、と云わんばかりの得意顔で、ナナが「オレンジの海」のテラスにふわりと姿を現した。
なんでそんなに自慢げなの。
「ハナじゃ、かわいかろうが」
おぬしこそ何を云うておるのじゃ、という顔で、ナナは僕をにらんで、ふん、と鼻を鳴らす。
「いやあ、参ったなー。逆に慰められるとはねー」
Lは、ほんとに参ってしまったらしい。崩れるようにテラスの椅子に体を伸ばして、茫然とした表情だ。
「であろ」
ふふん、とうれしそうに笑って、ナナもいつもの席に座る。
「でも本当に、無関係、とは思えない、よね」
お庭の窓が開いて、Jがふわりと砂浜に降り立って、云う。
さっき、Lの云ってた、タイミングの事、かな。
確かに、昨日の今日では、無関係とは思えない、けれど。
おじゃまします、と律儀に僕におじぎをして、Jはテラスに上がる。
正直に云えば、意味がわからない、というところだった。
ハルが黄金虫を見つけたのが、たぶん先週。
土曜日に、ハルはひとりで黄金虫を探しに出かけ、行方不明になった。
日曜日、アイがハルの家へ行き、ハルの母親からそれを聞かされ、警察へ捜索願を出して、担任の先生とクラスメイトを呼んでみんなでハルを探した。
月曜日、今日、アイが登校すると、みんなから認識が消されていた。
ハルが行方不明になった、という認識が、たぶん、街中から消されたはず。
僕の時と同じ、小学生の行方不明事件、であるにも関わらず、市の放送は、今日まだ一度も流れていない。
街全体から、認識が消されたのは、たぶん間違いない。
そして、公園が塀で封鎖された。
実際にいつ、この塀が立てられたのかはわからないけれど、少なくとも先週の月曜日までは、いつもと同じ公園だった。
工事をするような告知も何もなく(認識を消されているのであるはずもないけれど)、僕ら以外の誰かが出入りするのを見かけた、なんて事は、先週まで一度もなかった。
意味がわからない。
ハルを攫ったのも、ハルの行方不明の認識を消したのも、この公園を塞いだのも、全部同じ人物、というか同じ意志、同じ意図、によるもの、なのだろうか。
あるいは、僕らが考えすぎなだけで、実はすべて関係がなく、それぞればらばらに起きた出来事、なのかも。
いや、やっぱりそうは思えない。
つながりはまだ、見えないけれど、すべてに共通するのは、アルカナに関係している、と思しき事。
三つの事件は、まだ見えない根っこのところで、ひとつにつながっているはず。そんな気がする。
Lがそっとハナを下ろして、「じゃあ、帰ろっか」と手をつないで南向きの通学路へ向かって歩き出す。
僕とJも、並んでふたりの後に続く。
路地を出るところでもう一度振り返って、公園を不気味に囲む白い塀を見る。
あの工事現場と同じ、隙間なくぴっちりと並べられた、高い鉄の塀。
ふと、上を見上げて、空からなら、クロちゃんだったら、中の様子が見えるかも、と思った。
そして、いつも月曜日にここへ来ているNも、この急な変化に気づくはず、とも。
「そっか、クロちゃんね。帰ったら、聞いてみるよ」
テラスの椅子に座りながら、Jが云う。
帰ったら?
クロちゃんは、Jの教会にいるの。
「あれ、Kに云ってなかったっけ」
そう、Jは小首をかしげて、
「クロちゃん、あの後、あ、わたしが眼を覚ました後ね、うちにご飯食べに来てるんだよ」
そう云った。
ご飯食べに来てる
それはまた、どうして。
そう考えて、ぴんと来た。
食べるものを探して、ゴミを漁ったりしなくてもいいように、かな。
「そうそう。眠ってる間、お世話になったからね。お礼に、ご飯、用意するねって約束してたの」
そう云って、Jは何かを思い出したのか、くすっと笑って、
「クロちゃん、生ものが好きみたいで、最初はどうしようかなって困ったんだけど。お部屋の窓の外にね、まさか、生のお魚とかお肉を出しておくわけにもいかないでしょ」
それは、そう。
クロちゃん以外の、何か虫とか野生のけものとかも寄って来そうだし。
「それで、ちょっと考えて。ネコちゃん用の缶詰のキャットフード、あるでしょ。あれをあげてみたの。そしたら、「おいしい」って気に入ってくれて。だから、お小遣いで缶詰のキャットフードを買って来て、毎日あげてるの。今日も来てくれると思うから、公園の様子、聞いてみるよ」
そう云って、Jはにっこり笑った。
なるほど、と僕は感心していた。
さすが、J。僕もNにご飯を用意してあげよう、そう思った。部屋の天井の扉を開ければ、それも出来るようになるだろうし。
ほっほ、とナナは笑って、
「動物使いの仲間が増えたの。何よりじゃ」
僕を揶揄うような口調だったけれど、うれしそうにそう云った。

マンションに到着して、エレベータで23階へ上がる。
何度来ても、まだ慣れないのか、やっぱりこの巨大ビルには圧倒されてしまう。
橋からマンションの入り口までのビル内の通路も、ハナは慣れたものですたすた歩いて行くけれど、僕はまだ、眼が回るような、軽く目眩を覚えるような感じがしてた。
軽やかなチャイムが鳴り、エレベータが23階に到着する。
今日も、甘いお花のような良い香りが漂っている。
両開きの扉の脇にあるパネルに、ハナがカードキーをかざして、ドアが自動で内側に開く。
「あら」
リビングの奥から、かすかな声が聞こえた。
「お帰り。学校、楽しかった?」
どこか懐かしさを感じる、少し鼻にかかった女性の声。
先週までと同じポーズで、右手で頬杖をつくように、ソファに斜めに座ったまま、ルリおばさんが僕らを見ていた。
「ただいまー、おねぇちゃん、起きたのー?」
ハナがLの手を引いたまま駆け出して、ソファの前に立つ。
「ええ、たった今ね。あら、みんなも来たのね、いらっしゃい」
たった今
つまり、寝起きだから、かな。
気だるげな声で、ルリおばさんは云う。眼帯をはめていない方の眼で、くるりと僕らを見回して。
Lがどこか楽しそうに、
「あれ。意外と驚かないねー」
笑いを噛み殺すような顔で云う。
「あたしが?どうして」
可笑しそうに小首をかしげてLを見て、ルリおばさんは云う。
「ハナをキクちゃんのクラスに転校させた時点で、遅かれ早かれあんた達には会えると思ってたもの。もう何度か来てくれたんでしょ。うっかり眠っちゃって、ごめんなさいね」
ふふふ、とルリおばさんは僕を見て、それからJを見て、やさしく笑いかける。
声は確かに、ルリおばさんだった。あの頃と同じ、少し鼻にかかった甘えるような声。
化粧っ気のない見た目もほとんど、4年前と変わらない、気がする。もちろん、右眼の眼帯と両手の包帯は別として、だけれど。
不思議と、嫌な感じは全くしなかった。
あの頃のルリおばさんに対して、僕が抱いていた、何と云うか、苦手な感じは、今はまるで感じない。
それよりも、むしろ、
「キクちゃん、逃げて」
あの時、あの地下道で、そう叫んだルリおばさんの声が、まるで今聞いたくらいのリアルさで、僕の耳の奥によみがえっていた。
右眼を覆う、白い医療用の眼帯が痛々しい。
その僕の視線に気づいたのか、ルリおばさんは僕を見て、
「キクちゃん、そんな顔しないで。あんたが無事でよかったわ」
そう云って、小さく笑った。
ちっとあからさまな舌打ちが聞こえて、見るとナナが、テラスの席で腕組みをして、露骨に面白くなさそうな顔をしている。
ルリおばさんがびっくり仰天してソファから転げ落ちるところを、本当に楽しみにしてたのかな。
それが見れなくて、しかも意外に平然とルリおばさんが「いらっしゃい」なんて云うものだから。
「もう良い、みなまで云うな」
じろり、とナナににらまれた。
わはははー、と楽しそうにハナが笑って、
「キクタ、またナナちゃんに怒られたねぇ」
僕を振り返って、うれしそうに云う。
「あらあら」
くすくすとルリおばさんも笑って、
「もうすっかり、ナナとも仲良しなのね。良かったわ」
ふふふ、と眼を細めて僕を見る。
仲良し
しょっちゅう怒られてはいるけれど、仲良しには違いないと思う。
ナナは無言で僕を見て、ふふん、と鼻で笑ってるけれど。
さて、とルリおばさんはソファから立ち上がり、
「ちょっと、お風呂入って来てもいいかしら。ずっと眠ってたから、何だか気持ち悪くて」
誰にともなく、そんな事を云う。
そう云えば、Lもあの眠りから目覚めた時に、まず「風呂入ってくる」と云った。
まあ、Lの場合は、半年も眠ってたから、だろうけれど。
女の人は、そういうものなのかな。
僕は、フツーに起きて、そのままだった。
「おんせん?おねぇちゃん、おんせんいくのー?」
ハナがルリおばさんを見上げて、尋ねる。
「ええ、そうよ。ハナも一緒に入る?」
そう、ハナに答えて、ルリおばさんは何かを思いついたみたいに、少しいたずらっぽい笑みを浮かべて、
「あ、そうだ。せっかくだからみんなも一緒にどう?お風呂、広いのよ」
そんな事を云い出した。
Jが、びっくりしたように、灰色がかった眼をまんまるにしている。
Lはニヤニヤ笑って、
「おおー、いいねー。みんなで温泉、入ろーぜー」
はっはー、といつものように陽気に笑う。
「わーい、おんせんー。はなちゃんもおんせんいくー」
ハナも満面の笑みで、Lとつないだ手をうれしそうにぶんぶん振っている、けれど。
いやいやいや、ちょっと待って。僕は、無理だけど。
ハナは小さいからまだしも、LやJ、ましてやルリおばさんと一緒にお風呂に入るなんて、それは、ダメでしょ。
「はあ、なーに生意気云ってんだ、2年生のちびっ子が。温泉だぞ?気になるだろ?どんなのか、見たくねーの?」
Lが僕を振り向いて、ニヤニヤしながら云う。
そりゃ、温泉は気になるけれど。でも
「ダメでしょ、僕だけ男子だし」
ルリおばさんにも聞こえるように、声に出して僕はそう云った、のだけれども。
「あら、なあに、照れちゃって。小さい頃いっしょに入ったでしょう?おばあちゃんと3人で。忘れちゃったの」
ニヤリと笑うルリおばさんに、はっと思い出す。
一緒にお風呂に入った事、ではなくて(それは全く記憶にないので、きっとすごく小さい頃の事、だと思う。ガブリエルなら、覚えてるのかも知れないけれど)、
思い出したのは、あのアパートの裏の空き地で、おかしな儀式に熱中していた(あるいはそのフリをしていた)ルリおばさんの、悪魔のような笑み。
あれはガブリエルの云う通り、僕らを引越しさせるためのお芝居だったのかも知れないけれど。
だとしても、そうだった。ルリおばさんは、こんな怖い笑みを浮かべる事ができる人だった。
4歳の僕の記憶に刻み込まれた、トラウマ的な悪魔の笑み、だ。
「はあ、男の子って、つまんないわよね」
まるでいつかの母と同じような事を云って、ルリおばさんは残念そうに、わざと大袈裟にため息をついてみせる。
まあいいわ、とあのピンクのバッグを肩にかけ直しながら、ルリおばさんは頭の後ろで髪をまとめていた髪留めを外して、
「ミカエル、これ触って頂戴。終わったら、ジーンにも触らせてあげてね」
と、何やら不思議な事を云う。
んん?と首をかしげながら、そのプラスチック製に見える貝殻のような形の髪留めを受け取って、ああ、とLはぴんと人差し指を立てる。
「記憶だね、お風呂にはそのバッグを持って入れないもんねー。このヘアクリップも例の特別製?キクタの発明品なの」
ぺたぺたとクリップを何度か手のひらで触れてから、Jにそれを渡しながら、Lが尋ねる。
「そうよー。ハナは前にこれ触ってるから、大丈夫」
ルリおばさんがそう云うのを聞いて、あらためて僕はハッと思い至る。
本当だ、今のルリおばさんを見る限り、記憶の大半を失くしているようには、とても見えない。
あの頃と同じ、僕のよく知るルリおばさん。いや、あの頃もすでに一度ヌガノマに意識を移されて、記憶を失くしていたはずだけれど。
「であろ」
ようやく怒りも収まったのか、腕組みを解いて、ナナが云う。
「あの「能力」のおかげ、というのも妙な話じゃがの。改造やら実験やらの結果、身につけた力なのじゃとしたら、とても喜ぶべきものではないがの。少なくとも、あやつはあの「能力」とおぬしのアイテムやらのおかげで、それに触れてさえ居れば、支障なく生活できる程度の記憶は保てておる」
確かに、ナナの云う通り、その力の由来について考えると、複雑なものがあるけれど。
でもその力が、物の記憶を読み取れるものだった事は、ルリおばさんにとっては、幸運だったと云うべきなのかも。
「但し、おかげで燃費はすこぶる悪い」
何か苦いものでも口にしたような顔で、ナナがぽつりと云う。
燃費が悪い?
あ、そうか記憶を保つためには、常に能力を使い続けるから。
「左様。あやつは、眠りに陥るサイクルが、かなり早い上に頻繁じゃ」
それは、そうなのだろう。
記憶を維持し続けるために、常にアルカナの能力を使っていたら、体に負荷が貯まるのも早いはず。
海とのつながりもないので、そんな僕らの会話も聞こえていないルリおばさんは、
「じゃあね、キクちゃん」
Jから髪留めを受け取って、くるんと雑に髪をまとめて留めると、僕にひらひらと笑顔で手を振る。
「その辺に座って、ゆっくりナナとおしゃべりでもしてて。すぐ戻るわ」
そう云って、行きましょ、とルリおばさんは両手を広げ、それぞれの手でJとLの肩を抱くようにして、リビングの左手の壁際からつながる、廊下の方へ歩いて行く。
ハナの云う「おーっきい温泉」が、そちらにあるのだろう。
Lはご機嫌で、ハナとつないだ手を元気に振って、「おんせん、おんせん」とハナと声を合わせて歌うようにコールしながら。
Jは困ったように(けれど、心なしかうれしそうに)戸惑った表情で、ちらちらとソファの前の僕を振り返りながら。
僕はJにうなずいて微笑み返して、オレンジの海で「行ってらっしゃい」と声をかける。
「うん、行ってきます」
テラスに座ったJは、何故か照れたようにぽっと頬を赤らめながら、恥ずかしそうに云った。

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