翌日の火曜日。
ハナは、今日はいつも通りお休みらしい。朝、テラスを振り返ってみると、テーブルの上の花瓶は空だった。
昼休みになり、6年生の教室へ向かおうと、席を立つ。
昨夜のうちに、昼休みに一緒にアイのところへ行こうって、Jと約束をしていた。
廊下側の一番後ろの席で、今日も何かの図鑑を熱心に眺めているワカちゃんを横目に、教室の後ろのドアから廊下へ出ようと引き戸を横に開けたら、目の前にぬっとアイが立っていて、びっくりした。
アイがぎょっとしたような顔をしたので、何だろうと思ったけれど、その理由にはすぐに気づいた。
ヘッドホンとゴーグルだ。
試しに学校へ持って来て、付けてみて、そのままだった。
予想通り、と云うか何と云うか、既にこれ自体の認識が消されているらしい。
教室で付けていても、誰も何も云わないし、見えてすらいないみたいだった。
ヘッドホンは、やっぱり使い方がわからないので、また外して首にかけているけれど。
「あ、えーと、これは、ハナのサングラス的な?アイにしか見えないやつだから、気にしないで」
自分で云いながら、すごい理屈だなと思ったけれど。
アイなら、きっとだいじょうぶ。
「おお、そっか。わかった」
何がわかったのか、よくわからないけれど、納得してくれたらしい。
うなずいて、僕を見下ろして、
「おまえ、どこか行くのか。いま、ちょっといいか」
何やらご機嫌な顔で、アイは云う。
あんたの所へ行こうとしてたんだけど。
そう云ってやろうかと思ったけれど、ややこしくなりそうなので堪え、「海」を振り返って、
「J、アイがこっちに来たよ」
そう、声をかける。
「あらら、じゃあ、そっちへ行くね」
お庭の窓が少し開いて、そうJの声がした。
うん、と海でJに答えてから、
「だいじょうぶだけど、どうしたの」
アイを見上げて、尋ねる。
にやりと無言で笑って、アイが体を半分、廊下の方へずらす、とその巨体の後ろに隠れるように、小柄な少年が所在なさそうに立っていた。
ハル
無事だったんだ、良かった。
思わずそう声をかけそうになり、またぐっと堪える。
僕とハルは初対面なのだ。
いきなり呼びかけたりしたら、またアイが何か超能力系の話をし始めてしまうところだった。
「え、ハル君?無事なの。って云うか、もう学校に来てるの」
Jのうれしそうな声が、「オレンジの海」に響く。
そうみたい、だよ。
「ハルだ。昨日、無事に帰って来た」
そう、アイはうれしそうに僕にハルを紹介して、すぐに声をひそめ、
「でも、少し気になる事あって、連れてきた。ちょっと、来てくれ」
そう云って、くるりと回れ右をして、ハルをうながして、例の廊下の端へのしのしと歩いて行く。
海を振り返って、
「J、2年生の教室のはずれ、廊下のつき当たりの、図工室の前に来て」
そう声をかけながら、アイとハルの後を追う。
「わかった、向かうねー」
Jの声も、何だかうれしそうだ。
それは、そうだよね。
図工室の前で足を止め、振り返って、アイはハルに、
「こいつ、スズキキクタ。小さいけど、頼りになるやつだ」
そう、僕を紹介したので、何だかむずむずした。
「ほっほ、照れるかや」
海で楽しげな声がして、振り返ると、ナナがいた。
いつの間に来たのか、もうテラスのいつもの席に座って、すっかりくつろいだ様子だった。
それなら、と思って、ぱちんと指を鳴らした、つもりで、視界の窓をテラスのテーブルの上に出す。
「気が利くの。感謝する」
ふふん、とナナが満足げに笑う。
僕は僕で、指を鳴らさずに窓を出せた事に、ちょっぴり満足してた。
少しずつではあるけれど、いろんな事が出来るようになるのは、やっぱりうれしい。
ぺこり、とハルにお辞儀をする。
不愛想な僕にしてはあり得ないくらい、にこにこしてたはず。
やっぱり、こうして無事に目の前にいるハルを見ると、うれしさがこみ上げてくる。
ハルは怪訝そうな顔で、僕にぺこりと頭を下げる。
ハルの頭の上には、アイと同じ青い「泡」がふわふわと浮かんでいて、お辞儀に合わせて揺れている。
たたっと小走りの足音がして、廊下の角からJが現れた。
通りすがり、には全然見えなかったけれど、まあ、アイだし、だいじょうぶかな。
「わたしも、いい?」
いきなり現れたJがいきなりそう、アイに声をかける。
「お、おう。なんだ、まあ、おまえも関係者だしな?」
驚いた顔はしたものの、何だかよくわからないけれど、アイは納得したらしい。
「ハル君」
にっこり笑って、Jは目の前のハルに手を振る。
「ジョウノジーン?」
ハルは不思議そうな顔で、Jを見て、それから横に立つアイを見上げる。
「おう、こいつは知ってるよな。俺、幼なじみなんだ」
何だかよくわからない説明を、アイはハルにする。
「あ、そうなの」
ハルもあいまいな返事をする。まあ、そうだよね。なんて答えたらいいか、わかんないよね。
僕を見て、コホンと咳払いをひとつして、
「こいつ、昨日の夕方、突然家に帰って来たらしい」
おもむろに、アイはそう話し始める。
「おふくろさんから電話もらって、すぐにこいつの家へ行ったんだ。着てた服が泥まみれで汚れてたくらいで、見たところどこも怪我はなかった。けど、念のため、タクシーで病院へ連れてって、あ、昨日はたまたま、親父が夜勤で病院にいたからな、診てもらって、どこも異常はないって、確認済みだ。体はな」
服が泥まみれだったのは、穴に落ちたか何かって、スマホの記憶を見たルリおばさんも云ってた。
体は、怪我がなくて、何よりだけれど。
「ただ、こいつ、何も覚えてねえらしい。土曜日に、どこへ何しに行ってたのかも、日曜と昨日の夕方まで、どこで何してたのかも。気づいたら、家の前に立ってた、って」
土曜日、日曜日と昨日、月曜の夕方まで。
黄金虫を探しに行こうと家を出た土曜日から、それを捕まえて、持っていた間の記憶と、ヌガノマに襲われ、さらわれた記憶もないのか。
やっぱり、黄金虫とヌガノマ、そのふたつに関する認識は、ことごとく消されているのかも。
そして、認識を消された上で、最後に「輪」で飛ばされた、のかな。飛び先の候補には自宅があったのだろう。あの時のガブリエルと同じように。「輪」の行き先候補として現れるのは、飛ばされる方の行った事がある場所。
「何も覚えてない、って事はないけど。アイと、日曜に約束してたのは、覚えてるよ。何の約束だったのかは、ちょっと、忘れちゃったけど」
おでこに指先を当てて、何かを思い出そうとするみたいに、ハルが云う。
アイと黄金虫を捕りに行く約束
そこから、黄金虫だけが消されて、アイとの約束だけが、残ってる、のかな。
「黄金虫は」
おそるおそる、ではあったけれど、思い切って、聞いてみる。
アイが、はっと息を飲んで、ハルを見る。
「え」
そう云って、僕を見て、ハルは固まった。
同じだ、あの時の、うちの父と。「ミドノ原」を思い出そうとすると、固まる。そして、思い出そうとした事さえ、忘れる。
「ううん、何でもないんだ、ごめんね」
僕がそう云うと、ハルははっと息を吸い込んで、ぼんやりとした眼で、僕を見る。
間違いない、認識が消されてる。
黄金虫の事、そして、たぶんヌガノマの事も。
アイは知ってたのかな。たぶん、そうなのだろう。昨日の時点で、「黄金虫」の事をハルに尋ねて、今と同じ反応をすでに見ていたに違いない。
「お母さんは」
そう、Jがアイに尋ねたのは、ハルのお母さんの認識がどうなってるのか、という事、かな。
「ああ」
アイは、何か苦いものでも飲んだみたいな顔になる。
「一緒だ、みんなと。けど、ところどころ、覚えてるってほどじゃねえけど、何か心にひっかかるみてえだ。例えば、こいつが昨日、「ただいま」って家に帰って来た時に、何でかわからねえけど、俺に電話しなきゃと思った、って。「ハルが帰って来た事を、アイちゃんに教えてあげなきゃって思ったの。どうしてかしら」って首かしげてた」
ところどころ、何か心にひっかかる
それも、僕には思い当たるフシがある。
Lのお屋敷の、執事のサモンジさんだ。他の人と同じように、僕とラファエルの認識が消されたはずのサモンジさんは、けれどあの時、玄関で僕らを待っていた。何かに抗うように、ラファエルの頭をなでていた。まるで、Lの意識がそこにいる事が、わかってるみたいに。
「クラスのみんなも、普段通り?」
Jが尋ねると、アイはうなずいて、
「ああ、笑っちゃうくらいにな、いつもと一緒だ。何もなかったみてえにさ」
そう云って、肩をすくめる。
ハルは、怪訝な顔でアイを見上げている。
それは、そうなるよね。何も覚えていないのだとしたら、ただ、アイがへんな事を云ってるだけのように、感じるのかも。
ううん、とJが僕を見て、首を横に振る。
「アイがおかしくなっちゃったわけじゃないって、ハル君にはわかってるよね。アイだけが、何かに気づいてるかもって」
そうJがハルに尋ねると、それまでどこかぼんやりとしていたハルの表情が、ぱっと明るくなったようだった。
そっか、記憶はないけれど、何も覚えていないからこその、違和感は残るのかも。
まるで、時間と記憶が切り取られたみたいに、ふと気が付いたら、家の前に立ってた、のだとしたら。
「うん、わかる。ジョウノは、それを知ってるの」
すがるような眼で、ハルがJを見る。
Jは小さくうなずいて、ゆっくりと言葉を選ぶように、云う。
「知ってる、わたしも、この子、キクタ君もね。何かが起きて、ハル君やみんなの記憶が、ちょっとずつ消されてる事。でも、何が起きてるのかは、わからない。だから、ごめんね、ちゃんと説明もできないの」
そう云って、Jは「オレンジの海」の窓から、
「K、キミの事、ハル君に教えてあげてもいい?キミも行方不明になって、その記憶がみんなから消されてるって事」
そう、尋ねる。
それは、いいかもしれない。
そんな目に遭ったのが、自分だけじゃないとわかれば、ハルも少しは安心できるかも。
そんな目に遭っても、何事もなかったかのように、普通に過ごせている子がいると知れれば、きっと少しは安心できる、よね。
「ふむ、妙案じゃの」
ナナもぽんと太鼓判を押してくれる。
「ふふ、ありがと。ナナちゃんも」
律儀にJはそう「海」でお礼を云ってから、
「キクタ君もね、夏休みに4日間くらい、行方不明になってたんだ。でも、その事を誰も覚えてないの、キクタ君の家族も、先生も、みんな。けど、わたしと、アイはそれを知ってる。何が起きてるのかは、わからないんだけど」
ゆっくりと一言ずつ丁寧に、ハルにそう説明してくれた。
「そうなの」
ハルが僕を見る。
僕は、黙ったまま、まっすぐにハルを見て、うなずいた。
「そっか」
ぽつりと、ハルはつぶやいて、下を向く。何かを、自分の中で納得させるみたいに。
そしてすぐに顔を上げて、人懐っこそうなその顔に苦笑いを浮かべて、
「でも、ちょっと悔しいな。スマホ、失くしちゃったし。あと、虫網と虫かごも」
ひとりごとのように、そう云った。
あ、スマホは、と思ったけれど、僕の口からは云えるはずもなく。
「うむ、いずれ、アイ経由で返してやるがよかろう。どこぞの親切なおばさんが、拾って届けてくれた事にでもすれば良い」
そう、「海」でナナが云う。
どこぞの親切なおばさんて。まあ、間違いではないのかもしれないけれど。
いや、そこではなくて、
あのスマホには、ハルが撮影した、黄金虫の写真が残ってるはず。
バッテリーを充電してスマホが生き返ったら、あの写真をハルが見る事になるのでは。
「見たとて、何も起こらんじゃろ。認識が消えておるのじゃ。見えても眼に入らぬはず」
ナナはそう云う、けれど。
黄金虫の写真の入ったスマホなんて持ち歩いてたら、H・O一派がまた何か手を出してくるのでは?スマホを奪おうとしてきたりだとか。
はあ、とナナは大袈裟にため息をついて、
「ほんに心配性な爺いじゃの。認識を消した時点で、それ以上、彼奴らは何もしはせぬわ。下手に手出しなどしようものなら、それこそ馬脚を露すようなものじゃろ。それに、超能力者でもあるまいし、如何にしてハルの落としたスマホの中身を、彼奴らに覗き見る事ができると云うのじゃ」
やれやれと肩をすくめている。
それは、そう、なのかな。
それなら、いいけれど。
ははっ、とアイが陽気に笑って、ハルの背中を大きな手でばしんと叩きながら、
「スマホや虫網なんて、また買えばいいだろ。おまえが無事に帰って来たのが、何より一番だぜ」
そんな事を平然と云う。
へえ、Jには、恥ずかしいだの何だのと云って、裏返しでわけのわかんない事を云ってたくせに。
「まあ、照れ屋のお兄ちゃんだから、ね」
Jが「オレンジの海」でそう云って、ふふふ、と笑う。
あ、そうだ。
ナナ、ルリおばさんに、ハルの事、
そう云いかけたら、
「うむ、今しがた、あれも起きてきた故、ハナに伝えてもらったぞ」
ナナはそう云って、顔をしかめて、
「あやつめ、「あら、良かったわね」とか、平然と抜かしておったわ。「スマホを返したいから、今日は予定通り帰りに寄って頂戴」だそうじゃ」
面白くなさそうに、ふん、と鼻を鳴らす。
それはそれは、ありがとう。
僕は心の中で、ナナに丁寧なお辞儀をした。
放課後、ランドセルを背負って、教室を出ようとしたら、「オレンジの海」で貝殻の風鈴がからからと鳴った。
振り返ると、基地のドアが開いていて、
「今日、ルリちゃんのマンションへ行く前に、公園へ寄ってくれー」
Lの声が、そう云った。
公園?
今日は、ハナも休みだし、何より、公園には入れないのでは。
「あー、まあ、内緒にしといて驚かすほどの事でもないから、もう云っちゃうけど、例の塀がなくなってるぜー」
はっはー、と楽しそうにLは笑う。
例の塀がなくなってる
公園を取り囲んで閉鎖してた、あの塀が?
昨日の今日で?
H・O一派、仕事が早すぎなのでは。
云われるままに、急いで公園へ向かうと、いつもの風景、いつものベンチにLがふんぞり返って座っていた。
隣には、あきれ顔のJが立っている。
本当に、何事もなかったみたいに、いつも通りの公園だった。
「いやあ、見事すぎて、ちょっと怖いよねー」
そう云いながらも、全然怖くなさそうに、Lは陽気に笑っているけれど。
「でも、Kの予想通り、あの人たちも、騒ぎを起こしたいわけじゃなくて、ただ秘密を守りたいだけ、なんだね」
あきれ顔のJが、公園をぐるりと見渡して云う。
本当に、そう、なのかも。
その点についてだけは、ひとまず、安心していいの、かな。
その守りたい秘密とやらが、人様に迷惑をかけたり、世の中をひっくり返すような事じゃなければ、だけれど。
ふふん、とLが笑って、
「それもまた、おじいちゃん心配しすぎじゃね。そもそも人様に迷惑かける事を意にも介さない連中なら、ハルを助けはしねーだろ。黄金虫だけ回収して、知らん顔もできたはずだぜー?」
よっこらせ、とベンチから立ち上がりながら、オレンジの海で、Lは続ける。
「あいつらの側から云うとだなー、黄金虫が誰かに持ち去られた→たいへんだ、秘密を守らなきゃ→で、まず公園を閉鎖して、Mちゃん(仮名)が能力で黄金虫を探す→何と子供が持ち去ったらしい、しかもその子供をヌガノマが連れ去った→おいおいまじかよー、ヌガノマさあ、何してくれてんのー?って事になり、Mちゃん(仮名)が王の力で見つけたハルを、偽キクヒコ(仮名)が「輪」で秘密の研究所へ飛ばす→黄金虫を回収して、ハルの認識を消す→偽キクヒコ(仮名)が「輪」でハルを家に送り届け、やれやれ、これで一安心だねーって事で、しれっと公園の封鎖を解除。ミッションコンプリート、ってわけだなー」
はっはっはー、とLはいつにも増して陽気な高笑い。
まあ、ゴキゲンなのは何よりだけれど。
「んー、(仮名)が多くて、かえってわかりにくいんだけど」
立ち上がったLと並んで歩き出しながら、Jが云う。
「昨夜のLの推理だと、ヌガノマは一派が作った?偽者?なんでしょ。あの本物のナガヌマさん?とは別人の。なのに、一派とは仲が悪いの?」
公園の入り口まで来て、僕と並んで3人で南へ歩き出しながら、Jはそう尋ねる。
「うん。状況証拠てきに、だねー。怪人ヌガノマは、昨夜のあの小部屋でもう何年も暮らしてるんだろー?ガブリエルを攫ったのも、Kを襲ったのも、奴の単独犯行だよねー。だったら研究所とは、どこかで仲違いか何かして、ヌガノマは追い出されたか、自分から逃げ出したか、したんじゃね。今や秘密の研究所とヌガノマは、完全に別行動というか、全く関りがないんじゃないかねー」
Lが云う意味は、なんとなくわかる気がした。
H・O一派の、今回の一連の対応の速さ。それから、秘密を守るための徹底した仕事ぶり。
それらは、あの怪人ヌガノマとは相容れないもの、のような気がする。
一線を画す、と云うか、全く別物、と云うか。
怪人ヌガノマの方は、何と云うか、ものすごく短絡的で、衝動的で、稚拙な感じ、かな。いかにも、ひとりで勝手に振舞ってる感じがする。
「だから仲悪いかもって?おまえもなかなか、おとなしい顔して、ひどいコト云うよねー。でもまあたぶん、そうなんだろねー」
はっはー、という陽気なLの笑い声が、「オレンジの海」に響く。
おだやかでやさしい海の風景に、とても良く似合う明るい笑い声だ。
「ところでおまえ」
歩きながら、ちらりとLが僕を見て、
「ゴーグルとヘッドホン、付けないの」
そう、聞かれた。
うん、ヘッドホンは、ずっと首にかけたままだったし、ゴーグルも、なんとなく、ずっと付けていると体に負荷が貯まるのかなと思って、外して首から下げていた。
「あーね。でも、どーなんだろーなー。発明王ともあろう者が、その辺、きっちり調整済みだったりしないもんかねー」
そんな事を、Lは云う。
その辺、きっちり調整済み、と云うと、
体に負荷が貯まらないような調整が、既に施されてるかも、って事、かな。
「うん、それなー。おまえ、キクヒコについてのネコチャンの話、覚えてるかー?キクヒコは、ネコチャンの中で1日の大半を眠ってて、起きてられるのはせいぜい2~3時間だった、って云ってたよねー。それが、あの日のキクヒコは、朝から午後まで、少なくとも7時間くらいはぶっ続けで活動できてただろー?しかも、あんな飛んだり跳ねたりしながらさー」
そう、Lは説明する。
なるほど、てっきり逆だと思ってた。
2~3時間しか起きていられないキクヒコさんが、あの日は無理して長時間活動していたために、限界が来てダウンした、僕はそう思っていたけれど、実はそうではなく、
このゴーグルとヘッドホンのおかげで、本来は2~3時間しかないはずの稼働時間が延長されてた、って事?
「かな?と思ってね。確証はないけど。だとしたら、付けてた方が負荷が貯まらない、まであるかも?わかんねーけど」
ふっふー、とLは笑う。
Lの云う事にも、一理あるかも。
だとしたら、ハナのサングラスや、ルリおばさんのバッグにも、同じ事が云えるのかな。
そう云うと、Lは
「だろねー」
歩きながら、うんうん、とうなずいてから、
「あー?」
何かに気付いたみたいに、大袈裟に首をかしげて、
「ああいや、負荷軽減は、そうだろーけど。ただ、ルリちゃんの場合は、どーだろーね。通常なら、バッグを持ってるだけで能力の体への負荷は軽減されるよーになってるんだろーけど、今のルリちゃんは、記憶を失くしてる。だから、常時バッグの記憶につながって、それを読み続けてる。そのせいで「燃費が悪い」ってナナちゃんが云うくらいにねー。負荷が軽減されてても、燃費が悪い状態でぶん回してたら、プラマイゼロかも?いや、でもまあ、負荷の軽減が役に立ってるのは間違いないよね。燃費の悪さを、多少は緩和してるのかも。あ、つまりあの時のキクヒコと同じ状態か」
うんうん、とLはまたうなずいてる。
それなら、付けようかな。
ヘッドホンは、使い方がよくわからないけれど。
「うん、首にかけてるのもかわいいけど、付けたらもっとかわいいかも」
Jがにっこり笑ってそう云うので、本当に?と思う。
こんな黒くてごっついヘッドホンとゴーグルが、かわいいの?
いや、もちろん、J先生のセンスを疑う気持ちなんて、これっぽっちもないけれど。
「じゃあ、付けて」
ふふふ、と、Jは魔法の声で笑う。
それは、ずるいなあ、と思う。
だってそれは、僕には、逆らえないやつだから。
マンションの入り口のガラス扉の前で、立ち止まる。
今日はハナが一緒にいないので、カードキーがなく、扉を開けられない。
Lが慣れた仕草で、インターホン脇のタッチパネルを操作して、呼び出しボタンを押す。
なんで知ってるの。
まさかL、本当に、普段ひとりでここへ遊びに来てるとか?
「んなわけねーだろ。こんなのはねー、だいたい、部屋番号押して呼び出し、でしょ」
ふふん、と鼻で笑って、Lは肩をすくめている。
だいたい
それでどうにかなっちゃうのは、やっぱり、Lだから、なのでは。
かちゃっとインターホンから受話器を取り上げるような音がして、
「開けるわね、どうぞ入って」
ルリおばさんの声が云い、ガラス扉が開いた。
え、何も云ってないのに、どうして僕らだってわかるの。
「ん?前にナナちゃんが云ってたろー?セキュリティってやつだねー」
公共の場だから、かな。
Lはそう云って、声を殺してくすくす笑う。
なるほど、これがセキュリティ。
カメラか何かで部屋からこっちが見えるのかな。
「ね、安心」
ふふふ、とJが魔法の声で笑う。
Jの魔法の効果も相まって、何だかとっても安心なセキュリティ、という気がする。
3人でエレベータに乗り、23階へ上がる。
軽やかなチャイムの音とともに到着すると、待ちかねていたように両開きの部屋の扉が開いて、ハナが元気に飛び出して来た。
「キクタ、遊びにきたのー?」
満面の笑みで駆けてきたハナが、ぴょん、とジャンプして僕に飛びつくのを、しゃがみ込んで受け止める。
来たよ、って云うか、ハナ、昨日も会ったでしょ。
「きのう?そーだっけ」
包帯ぐるぐるの手を唇に当てて、ハナは首をかしげてる。
昨日、Lと温泉に入って、じゃぶじゃぶ泳いだんでしょ。
僕がそう云うと、ハナはオレンジの眼をまんまるに開いて、LとJを見て、
「そうそう、おんせん入ったよー。Lちゃんねー、ひゃっほーっておんせんに飛び込んでたよー」
わははー、と楽しそうに笑う。
僕の膝からぴょんと飛び下りると、ハナはLと右手を、Jと左手をつないで、部屋の中へぐいぐい引っ張って入って行く。
昨日の温泉で、ずいぶんふたりとも「なかよし」になったみたいだ。
3人の後ろ姿をなんだか微笑ましく眺めながら僕も部屋に入って行くと、
「いらっしゃい。どうぞ、かけて」
窓の方を向いたソファでくつろいでいたルリおばさんが、ちらりと僕らを振り返って、云う。
「あれ、ソファ増えてるね。向かい合わせにしたの」
Lが目ざとく気づいて尋ねると、
「そうよ。今まではふたりだったから、向かい合わせに座るのも寂しいと思って、ひとつしか置いてなかったのだけれど、お客様が増えたからね。ほら、昨日、5人で横並びに座ってたでしょ。後から考えたら何だか可笑しくって」
くすくすと楽しそうに、ルリおばさんは笑う。
ハナ、ここへ座って。お客様が奥に座るのよ。そう云って、ルリおばさんはハナを隣に座らせ、僕ら3人に奥のソファを勧めた。
僕が真ん中に、Jが右、Lが左にソファへ腰を下ろす。5人で並べるくらいの長いソファなので、3人だとまだまだ余裕がある。
「ミカエルに返してもらったのね」
僕の顔を見て、ルリおばさんが云うのは、もちろんゴーグルとヘッドホンの事だろう。
「うん」
何と答えたものかと思ったので、とりあえずうなずくと、まじまじと僕を見て、
「ふぅん、意外と似合うじゃない。かわいいわよ」
ふふっと、ルリおばさんは笑う。
また、かわいい、なの。
本当かな。いや、疑うわけじゃないのだけれど。
「あー、キクタ、めがねー」
いま気づいたみたいに、ハナが包帯ぐるぐるの指で僕の顔を指さして、
「はなちゃんといっしょだねー。なかよしのしるしー」
えへへーっと、うれしそうに笑う。
まあ、ハナがよろこんでくれるなら、いいかな。
Jもルリおばさんも、かわいいって云ってるし。きっと、たぶん、おそらく、そんなにヘンじゃないのかも。僕が思っているほどには?
本当のところは、よくわからないのだけれど。
「ハル、戻って来たんですってね。もう登校してるの」
ソファの間にある低いテーブルに、ハルのスマホを置きながら、ルリおばさんが尋ねる。
「はい。まだちょっと混乱してるけど、でも元気そう、だったよね」
Jがうなずいて、僕にそう同意を求めたので、僕もうなずいた。
「そう。良かったわね」
にっこりとルリおばさんは微笑んで、
「スマホ、充電しておいたわよ」
テーブルに置いたスマホにちらりと目をやって、何だかいたずらっぽい笑みを浮かべて、云う。
それは、ありがとう、だけれど、何故その笑み?
「ね、見たいでしょ、黄金虫」
悪魔の笑みで、ルリおばさんは僕らを順に見て云う。
見たいでしょ、って、
僕はアイの記憶ですでに一度見ているので、特に見たくはないけれど。
LとJは、見たいの、かな?
え、でも見たいからって、見てもいいものなの、スマホって。
いやいや、だめだよね。
「他人のスマホを勝手に覗き見るなんて。それは、だめなのでは」
思わずそう云ったら、ルリおばさんは大袈裟に肩をすくめて、
「云うと思った。キクちゃんて昔からそう、へんなとこ堅物なのよねえ」
苦笑しながら云う。
へんなとこって何。
「へんじゃないでしょ、普通にだめでしょ」
同意を求めるように、僕は左右を見る。
Jはにっこり笑ってうなずいてくれたけれど、
「まあ、普通はねー、そーかも?」
Lは知らん顔でそう云って、テーブルの上のスマホを取る。
「だいたい、何かパスワードとか指紋のあれとかで、持ち主以外は見れないんでしょ」
そう、僕はLに訴えるけれど、Lはまだ知らん顔で、
「まあ、だいたいねー、そーかも?」
まるで自分のスマホのような慣れた手つきで、画面をタップして、
「あー指紋認証じゃなくてパスワードだね。ハルの誕生日は何月何日かなー」
楽しそうにそう云って、人差し指で画面を叩く。
いや、知らないでしょ、ハルの誕生日なんて。
だって、ついこの間まで、ハルの名前すら知らなかったよね、Lは。同級生なのに。
「あー」
ニヤニヤしながら、Lはスマホの画面をみんなに向ける。
「開いちゃったねー。だめだよハル君、めんどくさいからって「1.2.3.4」とかさー。パスの意味ないよねー」
はっはー、と、肩をすくめて、Lは苦笑する。
なんで、よりによって「1.2.3.4」なの。
それは、ハルも悪い、かも。
「黄金虫の写真だけだぜー。それ以外のハルのプライベートな何かとかは、ごめんね、オレあんまり興味ないかも?」
そう、云い訳をしながら、スマホ画面を自分に向けて、Lはまた慣れた仕草で、画面をささっとタップする。
「おお、あったぜー。んん、これは・・・ゴミかな?」
そう云って、Lはスマホ画面を上向きにして、テーブルに置く。
拡大された、黄金虫の写真が、画面には映っている。
土と小石の混じった地面と、緑の雑草の根元。
錆びた鉄のような色の、気味の悪い虫。
「あら、ほんとに人の顔みたいな模様ね。ちょっと気持ち悪いかも」
画面をのぞき込んで、ルリおばさんが素直な感想を述べる。
「うん。これで10cmもあったら、ちょっと怖いね」
Jもあからさまに嫌な顔をしてる。
「ロリポリっぽいかと云われると、うーん、似てるような、そうでもないような、だなー」
わりとまじまじと画面を眺めて、Lは首をひねっている。
「ここは、生物学に明るい、ナナちゃんの意見も聞きたいところだねー」
そう云って、Lはハナを見る。
「んー?ナナちゃんはねー、「めんどうじゃ」、って云ってるよー」
オレンジの眼をくるりと回して、Lを見つめて、ハナがにっこり笑う。
「ええ・・・」
Lが何とも残念そうな顔をする。
ハナと交代して、出てくるのが、面倒?って事かな。
そう思ったので、
オレンジの海ならどうかな、僕の視界の窓を出すから。
ハナの海を「振り返って」、ナナにそう声をかけてみる。
からから、と貝殻の風鈴が鳴って、テラスのいつもの席に、ふわりとナナが現れる。
「良かろ、見せよ」
めんどくさそうに、低い声でナナが云う。
寝起きかな、あまりご機嫌がよろしくないみたい。
テラスのテーブルに視界の窓を出して、もう一度、僕はハルのスマホ画面をのぞき込む。
「ふむ」
テーブルに頬杖をついて、ナナは億劫そうに僕の視界の窓をのぞき込む。
しばらく無言で、ナナは画面を眺めていたけれど、
「わからん」
そう云って、ぷいとそっぽを向いた。
「ええ・・・」
基地のドアから、悲し気なLの声が云う。
「そもそも、ロリポリは地球外生命体じゃぞ。それの幼虫かどうかなぞ、見ただけでわかるものかよ。そう云われればそのようでもあり、違うと云われれば違うようでもある」
そうナナは説明してくれる。
つまり、わからん、という事だね。
うむ、とナナはうなずいて、
「見た目がどうあれ、彼奴らが必死の剣幕で回収したのが何よりの証左であろ。黄金虫であれ何であれ、怪しげなものには近づかぬ事じゃ」
眠たげに片目を閉じて、あくびをかみ殺すような声で云う。
ほんとに寝起きだったのかも。
「ではの」
すっとナナが席を立って右手を上げる。
うん、ありがとう。
僕のその声が聞こえたのかどうか。
ひらりと右手を翻して、ナナは現れた時と同じように、ふわりと姿を消した。
ハルのスマホは、電源を落として、僕が預かる事になった。明日、学校でアイを呼び出して、アイからハルに返してもらう事にする。
昨日の晩の、「オレンジの海」での会議の内容を、Lがルリおばさんに共有してくれた。
もっとも、ハルの件はおそらく昨夜僕らが予想してた通り、彼が無事に帰って来た事でほとんど解決していたので、Lの話の中心は、ヌガノマ偽者説の方だった。
「へーえ」
興味があるのかないのか、よくわからない返事をルリおばさんはしてた。
偽者でも本物でも、ルリおばさんにとってはヌガノマはヌガノマ、という事かな。
「昔から不思議なのよね」
そう前置きをして、ルリおばさんは云う。
「あいつはどうして「ヌガノマ」なのかしら、って。偽者なのだとしたら、尚更ね。あいつはいつから「ヌガノマ」になったの。まさか、自分で名乗ったのかしら」
どうして、いつから
云われてみれば、おかしな話だ。
ナガヌマ、ではなく、ヌガノマ、である事も。
片目片腕片足、という身体的特徴が似ている、というだけで、誰からともなく「ナガヌマ」と呼ばれた?
それが怪人の都市伝説として広まるうちに、いつの間にか、「ヌガノマ」に変わっていった、のかな?
Lがふと思いついたように、
「ルリちゃんは、いつからあいつが「ヌガノマ」だって知ってたの。ガブリエルが誘拐された時?」
そう尋ねると、ルリおばさんは少し驚いたような顔でLを見る。
「ミカエル、あんたって子は、酷な事聞くわねえ。あたしが記憶の大半を失くしてるって事、まさか忘れたの?」
そして、大袈裟に肩をすくめてみせて、くすくす笑い出す。
「なんてね、冗談よ。あまりにもあっけらかんと普通に聞くから、ちょっとびっくりして、揶揄いたくなっただけ」
そう云って、ルリおばさんはまた、ふふっと楽しそうに笑う。
「さあ、いつから、だったかしら。ガブリエルが攫われた時は、まだあいつが誰なのかは知らなかったわね。単に「あいつ」とか「犯人」とか呼んでたと思うわ。「ヌガノマ」っていう名前は、どこから聞いたのかしら。キクヒコ、だったかしらねえ」
ルリおばさんのいささかブラックな冗談には、僕の方がどきっとした、けれど。
「いやあ、ごめんね?」
おどけるように、Lはそう云って、ニヤッとルリおばさんに笑いかけて、
「オレもずっと不思議だったんだよねー。はっきりとは覚えてねーんだけど、たぶん、屋敷で誰か大人が、うーん、親父とか執事のサモンジとかがね、犯人の名前を「ヌガノマ」って云ってるのを、こっそり聞いてたんだと思うんだよなー。なんせ、当時4歳だからねー。さすがに記憶があいまいだよなー」
肩をすくめて、首をひねる。
そしてそのままLは、ふと僕を見て、
「あ、おまえの「海」に、その時のオレの記憶も残ってるんだよね?」
ぴこん、と思いついたように云う。
それは、残ってはいるのだろうけれど。
「あれ、なんでおまえ、そんな嫌そうな顔すんの。そんなにめんどくさいの、その、記憶を見るのって」
嫌そうな顔なんて、してたのかな。そんなつもりはなかったけれど。
「その、4歳のLが「ヌガノマ」の名前を聞いたという場面を、膨大な記憶の中からピンポイントで探し出すのは、たいへんだろうな、とは思ったけれど」
そう、云い訳のように、僕はLに説明する。
「ナナちゃんが、ナガヌマさんの記憶を見て、あんなにくたくたになってたくらいだもんねえ。なかなかたいへんなのかも?」
Jがフォローするように、そう云ってくれる。
「まあある程度は、慣れもあるでしょうけどね。キクちゃんとナナは、初めてだったから、端から全部見ようとしたのでしょ。そりゃ疲れるわよ」
ふふん、とルリおばさんが笑いながら云う。
「あ、そっか。記憶を読む事に関しちゃ、ルリちゃんはもうベテランじゃん。じゃあ、さっさとルリちゃんの記憶をつなげて、それから一緒に海でオレの記憶を探してもらえばいいんだよねー」
はっはー、とLは陽気に笑うけれど。
それは何と云うか、順番が、あべこべでは。
ルリおばさんはあきれ顔でLを見て、
「ミカエル、あんたってほんと、たまにすごく子供っぽいコト云うわよね」
それから僕を見て、
「キクちゃんもたいへんねえ。でも、これがやりたかった事なのだったら、仕方ないわよねえ」
ふふふ、と何だか楽しそうに笑う。
これがやりたかった事、かどうかは、どうなのかな。僕には、まだよくわからないけれど。
慣れもあるでしょうけど、って、さっきルリおばさんは云った。
記憶の大半を失くしたルリおばさんが持つ、物に残された記憶を読む「能力」
その力のおかげで、バッグや髪留めに残された記憶を読むことで、ルリおばさんは、傍目にはとてもそうは見えないくらい、普通に生活が出来ている、けれど。
それでもなお、「記憶」というものの、その、あいまいさ、みたいなものを、僕は感じていたのかもしれない。
ナナと一緒に見た、ナガヌママゴイチの記憶や、もっと前に、あの灰の海の夢で見た、ナナの記憶。
記憶について、以前、ナナは云ってた。
「所詮は記憶であるが故な。ある程度は、本人の頭の中で整理されわかりやすく解釈された形で保管されておるのじゃろ。」
「とは云え、人の記憶じゃからの。あまりに辛い惨い場面は、消されて見えぬようになっておると思うぞ。儂にもひとつ、覚えがある。ほれ、おぬしも見た、あの地下で小僧と跳ねっ返りに出くわした所の記憶よ。ハナの姿は見えんかったろ。儂が腕に抱いていたはずの、死にかけたハナの姿は」
「あまりに辛い記憶は、無意識にその部分が消されたりフィルターのようなものがかかるのかも知れんの。精神の安定のためか、自己防衛かの。人の心とは、不思議なものじゃの」
人の記憶
それは実際にその人の身に起きた事、まぎれもない事実ではあるのだろうけれど、決して真実とは限らない、のかもしれない。
人の心、というフィルターを通して、整理され解釈された形で、意識の底に保管されるもの、なのだとしたら。
「ヌガノマ」の名前を初めて聞いた4歳の時の記憶を、Lは「あいまいだ」と云った。
確かに経験したはずのその場面、実際に4歳のLはそこにいて、それを見て聞いたはず。
天才少女のLでさえ(なんて云い方をしたら、Lはきっと嫌がるだろうけれど)、その人並外れた頭脳をもってしても、全てを完璧に覚えておく事は、できないのだろう。
整理されわかりやすく解釈された形で保管されるもの。
自己防衛とか、精神の安定のために、無意識に部分的に消されたりフィルターがかかったりもするもの。
「記憶」のあいまいさと、それに慣れる事、
「海」の底にある膨大な記憶を探索するためには、それが必要なのかも。
なんとなく、僕はそんな事を思っていた。
ルリおばさんのマンションからの帰り道、いつもの公園で、JとLに手を振って北へ向かおうと思ったら、
「あ、忘れてた、ちょーっと待ってくれー」
Lが何やら、制服のポケットをごそごそし始める。
あちこち探して、スカートのポケットから取り出したのは、しわしわになった、封筒、だろうか。
「日曜日、パーティあるよー」
ふん、とどこか投げやりな感じで、2通の封筒を僕とJにそれぞれ差し出しながら、カタコトの外国人留学生みたいに云う。
日曜日、パーティ
それはいいけれど、Lは、何でそんなに嫌そうなの。
Jとふたりで、封筒を受け取って、顔を見合わせる。
紙質の良さそうな真っ白な封筒は、招待状、なのかな。しわしわだけれど。
糊付けされていない三角の封をぱかっと開けてみると、金色の縁の、おしゃれなカードみたいな招待状が出てきた。
「ミクリヤ150アニバーサリー?」
僕の手元のカードをのぞき込んで、Jがそう読み上げる。
「親父の会社の150周年記念パーティ、とは名ばかりの、ガブリエル君おはようパーティ?」
ふてくされたような顔で、Lは云う。疑問形で。
「Lのお父さんの会社の150周年をお祝いするパーティ?それに、わたしとKが招待されるの」
Jがそう尋ねると、
「だーかーらー、親父の会社の何たらは後付けで、よーするにガブリエルが目を覚ましたのがうれしくて、親父が舞い上がってパーティやるんだってさー。あのバベルの塔のホテルで」
なるほど。
バベルの塔って、あのククリ島のルリおばさんのマンションのある巨大ビル。
マンションの上、24階から30階まではホテルになってるって、そう云えば初めて行った時にLから教えてもらってた。
それはなんとなくわかったけれど、どうしてLはそんなに不機嫌なの。
なんだろう、どうして僕は、こんなにどぎまぎ?してるのかな。
考えてみれば、Lがご機嫌ナナメという状況には、これまであまり出会った事がなかった。
だから、僕はどうしていいのかわからない、のかも。
「めんどくさいじゃん」
あさっての方を向いたまま、Lが云う。
めんどくさい
パーティが、かな。
Jが何か僕に目配せをして、Lに見えないように手をひらひら振っている。
なんだろう、よくわからないけれど、ここはJに任せよう、かな。
「じゃあ、ガブリエル、退院だね」
にっこり笑って、Jが云うと、
「あー、まーね?」
ちらっとこっちを見て、Lは無表情にそう云って、またそっぽを向く。
そしてくるりとまたこっちを向いたと思ったら、
「じゃー、渡したからなー」
棒読みのようにそう云って、ふわふわと投げやりに手を振って、Lは去って行く。
残された僕とJは、しばらくあっけにとられて、その制服姿が小さくなって路地の角を曲がって消えるまで、どこか元気のないLの背中を、ただ見送ってた。
本当に、あんなLははじめて見たので、僕はちょっとしたショック状態?だったかもしれない。
いつも陽気で、めったに笑顔を絶やす事のないLが、あんな、何と云うか、無気力と云うか、投げやりというか。
ちょいちょい、とJが僕に手招きをして、公園の中へ入って行く。
あとについて行くと、Jは電車ブランコまで歩いて、
「座ろっか」
いつもの笑顔で云う。
Jと向かい合わせに、電車ブランコに座る。
なんだろう、すごく懐かしい感じがする。
「ふふふ」とJは笑って、
「ね。でもあの頃は、手をつないで話してたから、並んで座ってたよね」
「あ、そっか」
6月、だから、まだほんの3か月ほど前の事、なのだけれど。
もう何年も経ったような気がする。
「びっくりした、でしょ」
そう、Jに聞かれて、
「Lの事?うん」
正直にうなずいた。
「あの子の唯一の弱点だねえ。お家の事、お父さんお母さんの事。あ、ガブリエルの事も、かな」
そう、ちょっと困ったような笑顔で、Jは云う。
確かに、何事にも、いつ何時も、あの陽気な笑顔で「はっはー」と笑い飛ばせるのが、Lのすごいところ、なのだけれど。
「まさか、嫌い?とか、苦手?ってことじゃない、よね」
つい、心配になってそう聞いてしまう。そんなはずはないと思いつつ。
「うん、違うよ」
きっぱりと笑顔でJはそう云って、
「ほら、あの子は、極端に照れ屋でしょ。家族の事となると、特に、ね」
また、困ったように微笑む。
「あ、なるほど」
納得だった。それが、パーティともなれば、たくさんの人の眼もあるのだろうし。
僕自身の身に置き換えてみたら、わかる。すごくわかる。同情する。
もしも、僕が今のLと同じ立場だったら。僕も、たぶんすごく、めんどくさいかも。
うん、とJはうなずいて、
「さっき云ってた、めんどくさい、って云うのも、本心だと思うけどね。Lは、出不精のめんどくさがりだから」
やれやれ、という顔で、肩をすくめる。
「でも、お父さんはお父さんで、Lに気を使って、会社のパーティって形にしたんじゃないかなあ。Lやガブリエルの負担にならないようにって。違うかな?」
Jにそう云われて、あ、そうかも、と思った。
さすが、J。僕は、とてもそこまで考えが及ばなかった。そっか、お父さんにはお父さんなりの、子供達への気遣いがあるんだ。
「お友達も招待して、っていうのは、きっとお母さんのアイディアだよね。そんな感じ、しない?」
「する。きっとそう。お母さんはお母さんで、気難しいLが機嫌良くパーティに参加できるように、とか考えてるのかも。あ、気難しいって云うのは、あくまでお母さん目線で」
「わかるわかる」
くすくすとJが笑う。鈴が転がるような、Jの魔法の笑い声も、何だかすごく懐かしい気がする。なんでだろう、いつも聞いてるはずなのに。この場所で聞くから、なのかな。
「まあ、ガブリエルも退院してお家へ帰れるのなら、いい事だよね。ホテルでのパーティは、Lにはちょっと災難かもだけど、がんばってもらうしかないねえ」
そう云ってまた、Jは困ったような笑顔になる。
「うん。応援に行く、Lの」
わりと本気で、僕はそう云ったのだけれど、Jは冗談だと思ったのかな。くすくす笑って、
「そうだね。もちろん、ガブリエルのお祝いもね」
そう云って、手に持ってた招待状の封筒をひらひら振って、Jはにっこり笑った。
裏庭の、夢を見た。
大学病院の裏の小さなお庭。
という事は、これは、ガブリエルの記憶、かな。
ベンチに腰かけて、見るともなしに、お庭の隅の花壇を眺めている。
日に日に秋が深まって、お花の枯れて寂しくなった小さな花壇。
空は晴れていて、気持ちのいい風がそよそよと吹いていた。
「坊ちゃま」
そう、後ろから声をかけられて、振り返る。
黒いスーツに縁なしのメガネをかけた、長くてまっすぐな総髪を首の後ろでひとつに束ねた背の高い男性がお辞儀をして立っている。
執事のサモンジさんだ。
「遅くなりました。お待ちになられましたか?」
顔を上げて、サモンジさんがそう尋ねる。
「いやあ、時間は持て余すくらいあるからねえ。全然だいじょうぶだよ」
ふふっとガブリエルは笑って、ベンチを少し左へ移動して、サモンジさんのためにスペースを空ける。
「いえ、私は」
サモンジさんが片手を上げて断ろうとすると、
「ええ?ミクリヤの坊ちゃんが、執事を立たせたままで偉そうに応対してたー、なんて、大学病院で噂になるのはいやだなあ」
小さな声でそう囁いて、ガブリエルはくすくす笑う。
「承知しました。では、失礼して」
そう答えて、かすかに微笑んで、サモンジさんはガブリエルの隣に浅く腰かける。
「忙しいのに、名指しで呼びつけちゃって、ごめんね」
苦笑しながらガブリエルは云って、サモンジさんにぺこりと頭を下げる。
「いえ、坊ちゃまのご要望とあらば」
すっとそういうセリフが出るんだ、すごいな。父に聞かせてあげたい。
「ミカエルの次くらいに、かな」
くすくす笑いながら、ガブリエルが云う。
「坊ちゃま」
「ごめんごめん、冗談だよ」
なんだこれ。ガブリエルも、なかなかすごいな。本物のお坊ちゃまみたいだ。あ、いや、本物だけれど。
サモンジさんは、困った顔でガブリエルを見て、
「それで、私に御用と仰るのは」
あらたまった様子で、尋ねる。
「うん、サモンジにしか聞けない事でね。8年前の事件の時のこと」
笑いを収めて、ガブリエルが云う。
8年前の事件
誘拐事件のこと?
それは、確かに、サモンジさん以外には聞けないかも。お父さんやお母さんには、絶対に聞けないだろうし。
「はい」
サモンジさんは、驚きもせずにうなずく。
ガブリエルから用事があると呼ばれた時点で、ある程度は、その話かもと予測していた、のかな。
「私にお答えできる事であれば、何なりと」
ぴしっと姿勢良くベンチに浅く腰かけたまま、まっすぐにガブリエルを見つめて、サモンジさんは云う。
うん、と小さくうなずいて、
「犯人から、電話があったでしょ、家に」
そう、ガブリエルは切り出した。
そうだった、この子もいつも単刀直入だ。
「はい、ございました」
サモンジさんの返答も、淀みない。
まっすぐで誠実で、信頼できる大人。
あのお屋敷ではじめて会った時に感じた、そのままのサモンジさんだ。
「その時の様子を、詳しく教えて」
午後の明るい、病院の裏庭の小さな公園で、まさかこんな話をしているとは、誰も思わないような穏やかな表情で、ガブリエルは、サモンジさんに、そう云った。
「はい」
サモンジさんも姿勢良くまっすぐに座っているけれど、緊張している風でもなく、自然体でうなずいて、口を開く。
「電話があった時には、坊ちゃまの姿が見えず行方がわからないと庭師のシジマ老から報告を受けて、既に2時間ほど経っていました。警察の方もお屋敷へ駆けつけており、庭や屋敷周辺の捜索を始めると同時に、旦那様の執務室の電話機に、録音用のテープレコーダーを設置し終えたところでした」
やっぱり、ガブリエルに聞かれる事を想定していたのかもしれない。
特に考え込んだり思い出すような様子もなく、すらすらとサモンジさんは話す。
「電話を取ったのは、私です。当時は、それが普段通りでした。「ミクリヤでございます」と私が云うと、相手は聞き取りにくい声で「子供」と一言だけ、云いました」
聞き取りにくい声
あのヌガノマの、錆びた金属をこすり合わせるような、耳障りな声。
電話では、それは余計に聞き取りにくいだろう。
「しばらく黙り込む様子でしたので、「どちら様ですか」と私が尋ねると、何か考え込むように押し黙った後、相手はまた一言、「ヌガノマ」と答えました」
「え」
思わず、声が出たのだと思う。僕もガブリエルと一緒に「え」と云ってた。夢の中で、だけれど。
そんなばかな、というのが、正直な感想だった。
誘拐犯が被害者の家に電話をかけて、「どちら様ですか」と聞かれて、素直に名乗る?
しかも、「ヌガノマ」?「ナガヌマ」ではなく。
「偽名を名乗るための、数秒の間、だったのかと私は感じました。少し考え、とっさに思いついた適当な名を名乗ったのでは、とその時に私は思いました」
そう、サモンジさんは説明してくれる。
ふむ、とあごに指を当てて、ガブリエルは考え込む。
「一字一句、間違いない?ヌ・ガ・ノ・マ?例えば、クガヤマとかナガヌマとかの、聞き間違いではなく?」
そう、ガブリエルは尋ねる。
クガヤマやナガヌマの聞き間違いで、ヌガノマ。それで犯人が「ヌガノマ」になった?
「はい、間違いございません。後で旦那様も含め、警察の方と何度も録音を聞き直しましたので。犯人の答えは「ヌガノマ」でした」
淡々と、一言ずつはっきりと、サモンジさんはそう云った。
ふむ、とガブリエルはうなずいて、「続けて」とサモンジさんに云う。
「はい」
サモンジさんはうなずいて、口を開く。
「相手は名乗った後、また無言でした。私は「ヌガノマ様、御用件をお聞かせ願えますでしょうか」と尋ねました。それも、普段通りの対応です。相手はまた数秒押し黙り、「子供」と云いました。そして続けて「ミクリヤの子供」と。その時に私は、相手は、外国人では、と感じました。聞き取りにくい声でしたが、日本語のあまり得意でない、外国人の話す言葉、そのように感じました」
外国人
そのサモンジさんの予想は、ナナの推測とも一致する。
ヌガノマの顔を見たナナは、「白人、ヨーロッパ系の顔」、はっきりとそう云ってた。
あの地下で聞いた、ヌガノマの言葉、
「きりのるり、オマエ、イツモ、邪魔ヲスル」そして、「オマエモ、コロス」
あれは、記憶の大半を失くして、長い地下での生活で心が壊れて、それで普通に話す事ができなくなったのかと僕は思っていたけれど。
元々、外国人で、日本語があまり得意ではなかった、のか。
でも、とひとつ思い出す。思い出したのは、僕ではなく、ガブリエルが、だけれど。
あくまで僕は、そのガブリエルの記憶を、夢で見ているだけなので。
「おまえ、ミクリヤの子供か」
攫われて、地下の小部屋へ担いで連れて行かれ、目隠しと猿轡を外したガブリエルに、あいつはそう云った。
今のヌガノマよりも、かなり流暢に、普通に喋っていた、
あの白い部屋で、僕とMにガブリエルはそう云ってた、けれど。
そのガブリエルの「当時の記憶」は、今のサモンジさんの証言とは食い違う。
「日本語のあまり得意でない、外国人の話す言葉」
電話のヌガノマの声を、サモンジさんはそう記憶している。
カタコトの日本語
それは、あの地下で聞いた、今のヌガノマの特徴と一致してる。
「おまえ、ミクリヤの子供か」
ガブリエルの記憶にある、ヌガノマのその言葉は、ひょっとすると、4歳のガブリエルの意識下で、
「整理されわかりやすく解釈された形で保管」されたもの、なのかもしれない。
実際は、
「おまえ、ミクリヤ、子供」
とか、せいぜいそれくらいだったのかも。
4歳の子供で、誘拐に遭って、暗い地下の小部屋に連れ込まれて、「怖かった」とガブリエル自身も云ってた。
流暢に話していたように覚えていたのは、ガブリエルがそう記憶していただけで、事実とは少し違っていたのかも。
いずれにせよ、些細な思い違いに過ぎない。
サモンジさんの証言と、ナナの推察から、ヌガノマが外国人である事は、ほぼ間違いなさそうだった。
そして、自ら「ヌガノマ」を名乗った事も。
外国人?
ぴこん、とガブリエルが何か閃いた、らしい。
外国人であればこそ、「ナガヌマ」を「ヌガノマ」と云い間違えたのかも。
あるいはそもそも聞き間違えていて、「ナガヌマ」を「ヌガノマ」と勘違いして覚えていたのかも。
そう、ガブリエルは思っていた、あごに手を当てて、枯れた小さな花壇をじっと見つめながら。
そうかもしれない、と夢でその記憶を見ながら、僕も同意する。
と同時に、僕もひとつ、思い出していた。
あの、ハナの海で見たナガヌママゴイチの記憶で、モニカは、彼を「ナガヌマ」と呼んでた。
つまりあの地下施設、ベースでの彼の呼び名、そしておそらくH・Oの秘密の研究所での呼び名も「ナガヌマ」だったのでは。ファーストネームの「マゴイチ」ではなく、ラストネームの「ナガヌマ」と。
Lの考えた最強(?)のヌガノマ別人説が正しいのだとしたら、怪人ヌガノマは、H・Oの秘密の研究所で作られたクローンで、左眼を潰され左手足を切り落とされ、レムナントに「改造」された、はず。
クローンとは云え、生きているヒトである以上、意識も意思もあったのだろうと思うので、その「改造」がどんな風に行われたのか、本人の同意は(あるはずがないとは思うけれど)あったのかはわからない。
でもその「改造」が何を目的としたものかは、わざわざ知らされたかどうかはさておき、本人も知ってたのでは。
自分が何に「改造」されるのか、その「改造」が何を目指したものなのか。
彼はそれを、知ってたのではないだろうか。
自分が「ナガヌマ」を模して作られた「実験体」だという事を。
自分が「ナガヌマ」に「改造」されたという事を。
だから、誘拐犯として、名を尋ねられ、少し考えて、そう答えたのでは。
自分自身をそんな目に遭わせた元凶である「ナガヌマ」の名を。
ただ、そこに、さっきのガブリエルの想像がプラスされる。
外国人であればこそ、「ナガヌマ」を「ヌガノマ」と云い間違えたのかも。
あるいはそもそも聞き間違えていて、「ナガヌマ」を「ヌガノマ」と勘違いして覚えていたのかも。
つまり、怪人ヌガノマが「ヌガノマ」と呼ばれるようになったその理由は、
本人の勘違いか、云い間違え
ただそれだけだった、という事?
そして自らそう名乗ってしまったから、という事。
わかってみれば、単純、と云うか、何ともお粗末と云うか。
何だか莫迦莫迦しいような気もしてしまうけれど。
「またしばらく、相手は沈黙していました。時間にして、1分もなかったと思います。30秒か、それくらいでしょう、けれど、私には長い長い沈黙に感じられました。私がもう一度、用件を尋ねようと口を開きかけた時、相手が云いました。「おまえ、ミクリヤの子供、返して」そこまで云ったところで、ブザーが鳴り、電話が切れました」
電話が、切れた?
「おまえ、ミクリヤの子供、返して」
その後、ヌガノマは何を云いたかったのだろう。
テレビの刑事ドラマや何かでよくある誘拐犯からの電話シーンなら、
「子供を返してほしければ、今すぐ○○○万円を現金で用意しろ」とか、だろうか。
「坊ちゃまはご存じないかと思いますが、当時の小銭を投入するタイプの公衆電話には、10円玉を何枚か用意して入れておくのです。通話時間によって投入した小銭が消費され、全て使い切ると、ブザーが鳴って通話が切れます」
そう、サモンジさんが丁寧に説明してくれたのは、ガブリエルが4歳の時からつい先日まで8年間眠り続けていた子供だと思っているから、なのだろう。
それは、間違いではないのだけれど、たぶん、ガブリエルはコイン式の公衆電話を知ってる、はず。
僕が以前、母と祖母と住んでいた市内のアパートの廊下には、ピンク色のその公衆電話があったし、それこそ、母や祖母が見ていたテレビドラマや何かで、(僕の中から、僕と一緒に)そんな電話を使う場面を見た事もあったはず。
「ああ、そうなんだね」
微笑んで、ガブリエルはふむふむとうなずいている。やさしい、いつもの笑顔で。
「その後、犯人からの電話はありませんでした。すぐに警察が通信会社に連絡を入れ、通話の発信元を特定しました。ミドノ原のニュータウンと呼ばれる分譲住宅地の外れにある、公衆電話でした。今はそこにコンビニエンスストアが出来ているようですが、当時は近くにバス停がある以外には何もなく、電話ボックスが立っていただけの寂しい場所です。もちろん、すぐに警察が向かいましたが、犯人もその遺留品らしき物も、何も見つけられませんでした」
淡々と、サモンジさんはそう話してくれた。
僕は、何と云うか、呆れて物が云えない、というのはこういう事かな、と思っていた。
もちろんそれは、ヌガノマに対して、だ。
誘拐した子供が市内でも有数の大地主、ミクリヤ家の子だと知って、嬉々として電話をかけに出かけたものの、言葉が不自由で身代金の要求すらまともにできず、持っていた小銭はあっという間に底をついて電話が切れてしまった、なんて、笑い話にもならないのでは。
ものすごく短絡的で、衝動的で、稚拙な感じ
Lと話した時に、H・O一派と比較して、あの怪人ヌガノマは、と云って僕は彼を少し大袈裟にそう評したけれど。
全くその通りで、驚くのを通り越してあきれ果ててしまっていた。
別人説は、ほぼ確定していたけれど、今のサモンジさんの話で、僕の中ではそれはもはや確信に変わってた。
あのナガヌママゴイチのはずがない。全くの別人だ。
何と云うか、ただ外見の特徴を真似ただけの、似て非なる何か。文字通り、偽者だ。
「それから1時間ほど経った頃に、別の電話が鳴りました」
そう、サモンジさんが話を続けてくれて、僕は何とも云えない不毛な妄想から引き戻される。
そうだった、事件はまだ終わってなかったんだ。
「私が電話を取ると、相手は開口一番、「ミクリヤさん、かしら」と仰いました。若い女性の声でした」
ぴこん、とガブリエルがあからさまな反応を見せるのが、何とも微笑ましい。
電話の相手は、ルリおばさんだろう。
「私が「はい、ミクリヤでございます。どちら様でしょうか」とお尋ねすると、「名乗るほどの者ではないわ」とその女性は仰り、とある住所番地を読み上げました。そして、「そこに、小さな公園があるの。善良な市民のお爺様が、そこでお宅の坊ちゃんを見ていてくれているから。すぐに迎えに来て頂戴」そう仰られ、電話は切れました」
何故かガブリエルが微笑みを浮かべてその話を聞いているのを、サモンジさんは不思議そうに見つめながら、続けて、
「警察が通信会社に確認すると、発信元は市内でした。その女性が仰った住所のすぐ近くの、通り沿いの電話ボックスからでした。地図で確認したところ、女性の云う通り、その住所には、小さな公園がありました」
まさか、あの公園、だろうか。
ふと、あのおじいさんが脳裏に浮かんでいた。
はじめて、Jに連れられてあの公園へ行った時、ベンチに腰かけてうたた寝をしていた、あのおじいさん。
思えば、あれ以来見かけた事はなかったけれど、あの公園へ入れたという事は、彼もアニーのはず。
年齢的には、祖母と同じくらいに見えたので、ロリポリが墜落した際に、こぼれ落ちたアルカナが入った赤ちゃん、だったのかもしれない。
「すぐに警察の方と一緒に、旦那様と私のふたりでパトカーに同乗させてもらい、公園へ向かいました。電話の女性が仰った通り、公園のベンチでは、老紳士が眠る坊ちゃまを抱いて待っておられました。すぐに私共に気づいてベンチから立ち上がり、坊ちゃんを抱いたまま公園を出て来られた老紳士にお尋ねしたところ、「見知らぬ若い女性から、「すぐに迎えを呼んで来るので、この子をしばらく見ていてもらえないか」と頼まれた」そう仰いました。老紳士が、すぐにも駆け出そうとする女性に「それは構わないが、あんたはこの子の母親かい。ずいぶん若いお母さんだ」と声をかけたところ、女性は振り返って、「この子はミクリヤガブリエル。あたしはこの子の、叔母?みたいなものかしら」そう云ってにっこり笑って、走り去ったそうです。老紳士は迎えに現れた旦那様の顔を見るなり、「じゃあこの子は、本当にあのミクリヤの坊ちゃんだったのかい」とひどく驚いておられました」
ふふふ、とガブリエルが心の声で楽しそうに笑うのが聞こえて、僕まで何だかうれしくなった。
「以上が、あの事件の全容です」
そう云って、話し終えたサモンジさんは、不思議そうにガブリエルを見つめている。
「うん、ありがとう。だいたい、聞きたかった事は聞けたかな」
いつものやさしげな微笑みを浮かべた顔で、ガブリエルはそう云ってサモンジさんにお辞儀をする。
「坊ちゃまは」
思わず口をついて出てしまったみたいに、サモンジさんは云いかけて、「いえ」と押し黙る。
「ん?」
ガブリエルは微笑んだまま、小首をかしげてサモンジさんを見つめる。
サモンジさんは小さく首を横に振って、
「いえ、失礼しました。坊ちゃま、他に何か御用はございますか」
いつもの執事の顔になると、ガブリエルにそう尋ねる。
「うん。もうだいじょうぶ、ありがとう。忙しいのにごめんね」
ガブリエルがそう答えると、サモンジさんはまた、かすかに微笑みを浮かべて、
「いいえ、坊っちゃまにお声がけいただける事は、私にとって、この上ない喜びです」
しみじみと、噛み締めるように云う。声も届かず、眠り続けるその姿を見る事すら、めったに叶わなかったこれまでの長い長い月日をふと思い返すみたいに。
「ありがとう」
ガブリエルももう一度そう云って、ぺこりとお辞儀をする。
すっとサモンジさんは立ち上がり、まっすぐ正面にガブリエルを見て、
「またいつでも、何なりとお申し付けください」
そう云って、微笑む。
爽やかな晴れた日の、秋風のように心地よい、やさしい笑顔だった。
scarborough fair
屋根裏ネコのゆううつ II