大きな手提げの付いた、衣装鞄(ガーメントバッグ?とかスタイリストさん達は呼んでた)にレンタルした衣装一式を入れてもらって、同じくレンタルした靴の入った箱は別の手提げ袋に入れてもらい、それを両手に提げて、帰りはハイヤーとやらで家まで送ってもらった。
明日も同じハイヤーで、ホテルまで送迎してもらえるらしい。
玄関先まで迎えに出てきた父と母に、ハイヤーの運転手さんがそう説明してくれて、父は「ははあ」とすっかり感心してしまっていた。
「どんなの借りてきたの。ちょっと着て見せてよ」
家に上がるなり母はそう云って、僕をリビングへ連れて行き、せっかくしまってもらった服を全部引っ張り出して、一式を僕に着せた。靴まで、家の中で履かせる事はないのでは。と思いつつも、母が何やら楽しそうなので、僕はおとなしく従う事にしたけれど。
「へえー、馬子にも衣裳ねえ」
借りてきたスーツ一式を僕に着せ、上から下までじろじろ眺めての、母の第一声はそれだった。
それは、お母さん、どういう意味なの。
我が子だから、謙遜してるのかな。
僕の借りた衣装は、真っ白なつやつやのシルクのシャツに、淡いベージュのジャケットと半ズボン、お揃いのベージュのボウタイと、ご丁寧に真っ白なハイソックスまでレンタルに含まれてた。靴は薄い茶色のローファーで、甲の部分に同じ革製の房みたいな飾りが付いていて、歩くと揺れる。
黄色い眼鏡のスタイリストさんのセンスを疑うわけではないけれど、似合うのかどうかは、僕自身よくわからない。
何だか、僕ではなくて服が歩いてる、みたいな感じがしなくもないけれど。
「いやあ、似合うじゃないか。さすがプロだねえ」
ニヤニヤしながら、父はそう云ったけれど、いつもよれよれのスーツにしわしわのシャツを着たおじさんに褒められてもなあ、と正直思わなくもない、かな。
ひとしきり眺めて満足したのか、母は急にぽんと手を打って、
「汚したら大変、早く脱いで、皺にならないように、吊っておきましょ」
今度はそそくさと脱がせ始める。
だったら、着せなければいいのに。
どうせ明日また着るのだし、見るのはその時でも良かったのでは、と僕は思った。
翌日の日曜は、朝から良く晴れていた。
ホテルの中でのパーティだし、行き帰りはハイヤーの送迎付きなので、お天気はあまり関係ないのかもしれないけれど。
でも、空が晴れていたら、気持ちも晴れやかになるし、Lも少しは気が楽になるかな、と思う。
昨日の様子では、思っていたよりも元気そうだったし、何か「策」があるとも云ってたので、もうそれほど心配はないのかもしれない。
それでも心配してしまうのは、いつもの僕の悪い癖、なのかな。
市街地からククリ島へ、ビッグブリッジをハイヤーは滑るように渡り、道路は巨大な巻き貝のようなビルに吸い込まれるように入って行く。
「HOTEL」という案内表示に従って、車は左の分岐へ入り、坂道を上る。
ビルの3階に当たる場所に、ホテルへの専用のエントランスがあるようだった。
ハイヤーはその広い車寄せに静かに停車して、後部座席のドアが自動で開く。
昨日と同じ、黒縁メガネの運転手さんが僕を振り返って、
「正面の自動ドアを真っ直ぐ進むと、ホテルの直通エレベータがあります。帰りも、この場所へお迎えに来ますよ」
「わかりました。ありがとうございます」
ぺこりとお辞儀をして、僕は車を降りた。
何だか、戦場へ送り込まれる兵士のような気分、なのかな。
よくわからないけれど、僕はたぶん、緊張しているみたいだ。
左右にホテルの制服を着たドアマンの立つ、大きなガラスの自動ドアをにらみつけ、深く息を吸い込む。
だいじょうぶ、本当に戦いに行くわけでもないのだし。目的地は、戦場ではなくホテルのパーティ会場だ。
開いた自動ドアをくぐると、広いエレベーターホールがあった。足元に敷かれたカーペットを革靴で踏む感触は、昨日のLのお屋敷と一緒だけれど、やっぱりまだ慣れない。
天井の高い四角いホールの正面に、3機のエレベータの扉が並んでいる。
ホテルの利用客らしき、スーツを着た大人の男性がふたりほどエレベータを待っている様子だったので、僕もその近くに立つ。
ふたりの男性は連れではなく、それぞれ個人のお客さんみたいだった。
大きなキャリーバッグを引いたおじさんが、ちらりと僕を見下ろしたけれど、すぐに眼をそらす。
もう一人の男性は、熱心にスマホ画面をタップしていて、僕には気づいてすらいないみたいだった。
だいじょうぶ、ゴーグル越しに見える「泡」は二人とも緑色。
軽やかなベルが鳴り、エレベータが到着した。
扉が開いたけれど、降りてくる人はいなくて、エレベータの中は無人だった。
おじさんたちに続いて、エレベータに乗り込む。
押しボタンは、24から30まで、24のボタンを押したキャリーバッグのおじさんが僕を振り返り、「何階ですか」と敬語で尋ねる。
「あ、はい、一緒です」
僕が答えると、おじさんはかすかに微笑む。
「24階のロビーで待ち合わせ」、昨日、サモンジさんからはそう聞いていた。
スマホのおじさんはちらりと押しボタンを確認して、小さくうなずいてまたすぐにスマホに目を落とす。
エレベータが24階に到着すると、スマホのおじさんがそそくさと降りて行く。キャリーバッグのおじさんが「開」ボタンを押したまま、「どうぞ」と僕に云う。
「ありがとうございます」
おじさんにお辞儀をして、エレベータを降りた。
ロビーにはたくさんの人がいて、喧騒がわっと押し寄せてくるような気がした。
けれど、だいじょうぶ。
ヘッドホン越しの音は、緩和されて僕の耳に届くようだった。
実は昨日、ずっと首にかけたままでいたヘッドホンを、思い切って付けてみた。あの、着せ替え人形の時に。
着せ替えを待つ間の退屈しのぎ、というのもあったけれど、僕とガブリエルの周りでいそいそと働くスタイリストさん達の音やその声が、どんな風に聞こえるのか少し気になったので。
付けてすぐには、やっぱり耳を塞がれる感覚があって、周りの音が遠くなる気がした、けれど。
すぐに何かセンサー的なものが働くらしい。聞こえるべき音はちゃんと聞こえ、そうでない音は小さくなっている、ような気がした。
どんな仕組みなんだろう。
そう尋ねたら、Lは肩をすくめて、
「仕組みはさすがに、わかんねーけど」
そう前置きをして、
「おまえの意識か、それともアルカナの方の何か?それを読み取って、いい感じに調整してくれるんじゃね」
ニヤニヤしながら、そう説明してくれた。
Lの云う通り、なのかもしれない。
さっき、ハイヤーの中では、運転手さんの声はしっかり聞こえたし、エレベーターでも、キャリーバッグのおじさんの声はちゃんと聞こえていた。
この賑やかなロビーでは、周囲の音は少し遠くにあるみたいに、小さめに聞こえている気がする。
そして、
「K」
少しハスキーがかった魔法の声は、他の音とは違って、僕の耳にはっきり届いた。
その声に振り返ると、そこには、天使がいた。
ゴーグルを操作したわけじゃないのに、ぐっとズームしたみたいに、ロビーの壁際に立つJの姿がくっきりと浮かび上がって見える。
紺に近い紫色のサテン地のワンピースのドレスは、裾へ向かうに従って淡いグレーにグラデーションがかかっていて、大きなひだのある裾はお花のレース模様がふわふわと揺れている。
黒くて真っ直ぐなJの髪の間に、服と同じ紫と白のお花のティアラが、ロビーの明るい照明を反射してきらきら輝いてる。
手を振って小走りにこちらへ駆けてくるJの歩調に合わせて、腰に付いてる大きなリボンが揺れて、今にも妖精のように、そのままふわりと空でも飛べそうに見えた。
「わあ」
僕の前で立ち止まり、僕を上から下までじろじろ眺めて、
「うんうん、かわいいねえ」
Jはそう云って、満足げに何度もうなずいてる。
ぼんやりとJに見惚れていた僕の脳裏に、あの時の母の声が不意によみがえる。
「ちょっとあんた、何とか云いなさいよ。かわいいとかきれいとか、ほら」
あ、そうだった。
そう思って、僕もJをまじまじと上から下まで眺めて、
「J、きれい。天使みたいだ」
思った通りをそのままそう云ったら、Jは眼をまんまるにして、驚いた顔で固まった。
そしてすぐに頬を真っ赤に染めて、両手で顔を覆って、
「ちょ・・・何、ど、どうしたの、K?」
ぱたぱたとその手を顔の前で振り回して、Jは視線をあちこち彷徨わせる。
「おやおや」
オレンジの海に窓が開いて、ガブリエルの楽しそうなくすくす笑いが聞こえた。
「レディを困らせるなんて。いけないおじいちゃんだねえ」
姿は見えないけれど、ガブリエルはそう云って、ふふっと笑う。
「ち、違うの、びっくりして」
Jのお庭の窓から、慌てたようにJが云う。
「だって、Kがいきなり、「きれいだ、天使みたいだ」なんて云うから。まるで、映画か何かの、プレイボーイ?みたいに」
Jが云うと、ガブリエルがめずらしく大きな声で、あははー、と笑う。
まるで、Lか、ハナみたいに。
「いや、ごめん。それはJも驚くよねえ。K、どうしたの。あ、ひょっとしてそのゴーグルとヘッドホンのおかげで、いつもより大胆になっちゃったのかな」
僕は何だかぽかんとして、ふたりのやり取りを聞いてた。
プレイボーイとか、いつもより大胆とか?
僕は全然そんなつもりはなくて、ただ以前、Jの浴衣姿に見惚れてぼんやりしていた時に、母に云われた言葉を不意に思い出しただけで。
「ああ、なるほど」
ぽんと膝をうつ、その音まで聞こえそうな声でガブリエルは云う。
「云ってた云ってた、それを覚えてたから、今回はちゃんとすぐに褒めたんだね。えらいえらい」
あ、そっか。あの時、ガブリエルも聞いてたんだ。
それに、Jも一緒にいて聞いてたはず。
「うん、聞いてた。思い出したよ」
Jはようやく落ち着いたのか、顔から手を離して、
「あーでも、びっくりしたあ。ゴーグルのせいかな?一瞬、Kじゃなくて中身はキクヒコなの?って思っちゃった」
ふふっと笑う。
キクヒコさん?もプレイボーイのイメージはないけれど。
でも「きれいだ、天使みたいだ」くらいは、平然と云いそうな気はする。なんと云っても「よく来たな、勇敢な子供たち」とか、恥ずかしげもなく云っちゃうくらいだし。
「ジーン様、キクタ様、本日もご機嫌麗しゅう」
そう声をかけられて、振り返ると、サモンジさんとガブリエルがそこにいた。
車椅子に座った、ガブリエルが?
「サモンジさん、こんにちは。え、ガブリエル、どうして?」
にっこり笑ってサモンジさんにお辞儀をしかけて、ガブリエルの車椅子に気づいたJが、表情を曇らせる。
ガブリエル、昨日は、普通にお屋敷の中を歩いてた、よね。
「ごめん、びっくりしたよね」
車椅子のガブリエルは、そう云って苦笑して、頭をかいて、
「今日は人が多いし、心配だからって父がね。元々、屋敷の中での移動のために用意してたらしいんだけど。ほら、うちは無駄に広いからねえ」
そう云ってから、海で
「と云うのは、半分ほんとだけど建前で、車椅子で来れば、押す役が必要でしょ。その役をサモンジに任命したら、パーティの間、彼をそばに置いておけるからね」
ふふっと何か含みのある笑い声で云う。
パーティの間、サモンジさんをそばに置く?
ボディガード的な意味で、かな。
そう尋ねると、ガブリエルはまたくすくす笑う。
「ボディガードって、映画や何かじゃあるまいし。パーティ会場に敵のスパイや暗殺者なんて潜んでないから、そこは安心して。そうじゃなく、サモンジをそばに置く理由はね、今日はミクリヤだけじゃなくて、市の関係者やよその会社の偉い人もいろいろ招待されてるみたいだからねえ。サモンジなら「あれは誰?」って聞いたら、たぶん全部ばっちり教えてくれるだろうなって思って」
そう、ガブリエルは説明してくれる。
なるほど?よくわからないけれど、さすが、ミクリヤの跡取り息子って事、かな。
帝王学とか、何かそういうあれ?
「またそういう。どうしてKは、そういちいち重苦しく考えるのかなあ。単なる好奇心だってば」
オレンジの海に、ガブリエルの楽しそうな笑い声が響く。
いちいち重苦しいのは、何でだろう。そういう性分なのかも。
ほっと安心したように小さく息をついて、Jはあらためて、ガブリエルを上から下まで眺めて、
「うんうん、ガブリエルも素敵。よく似合ってる」
また満足げにうなずいて、にっこり微笑む。
確かに、淡いグリーンの三つ揃えのスーツと、深緑色のお花の模様のネクタイもガブリエルにはよく似合う。
Jの好きそうな色合いかも。
「ありがと」
そう云って、ガブリエルも車椅子から眩しそうにJを見上げて、
「Jも、本当にきれいだね。天使みたいって、Kが云うのも納得だよ」
いつものやさしい笑みを浮かべる。
「いや、そんな、へへへ」
また、Jは顔の前で手をひらひら振って、しきりに照れていたけれど。
「ミカエルは」
照れ隠しのように、Jがそう尋ねると、ガブリエルは一瞬だけ、困ったような苦笑を浮かべたけれど、すぐにいつもの笑みになる。
「ミカエル様は、あちらに」
サモンジさんが云って、人だかりのしているロビーの真ん中辺りを見る。
「あら、連れが来たみたいだわ。皆様、ごめんあそばせ」
そんな、どこか気取った女の子の声が、何故か僕のヘッドホンから一際大きく聞こえた。
今の声、Lに似てたような気がするけれど。
ごめんあそばせ、なんてLは口が裂けても云わない、よね。
さっと人だかりが左右に分かれて、割れた海を行く聖人のように、人の波の間を、真っ赤なドレスの女の子が、道を開けてくれた左右の人たちにお辞儀をしながら、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
長いきれいな金髪をアップにまとめて、大きなリボンで留めた頭のてっぺんには、ドレスと同じ、真っ赤なお花が飾られてる。すごい、バラの生花かな。
たぶんL、今日は朝からヘアサロンに連れて行かれたのかも。
とってもきれい、だけれど。
「えー?!」
オレンジの海に、Jの悲鳴に似た素っ頓狂な声が響き渡った。
なんで?
Jは、昨日一緒に衣装合わせをして、Lのドレス姿もその時に見ているはず、では。
そんな僕の疑問は、こちらを向いたLの顔とその全身を見て一瞬で解消される。
Jの悲鳴の理由は、Lのドレスでもその素敵な髪型でももちろんなく、眼帯とホルスターだ。
まるで童話の中から飛び出したみたいな、真っ赤なドレスのかわいいお姫様が、黒い海賊みたいな眼帯を嵌めて、その可憐なドレスに黒い革のガンベルトを巻いて、脇のホルスターには黒光りするデリンジャー(のモデルガン)を差している。
お姫様、と云うより、正体を現した女スパイか、パーティに忍び込んだ暗殺者、ってところかな。
「はっはー、さすがK、おまえ、わかってるねー」
基地のドアが開いて、ご機嫌なLの声が海に響く。
「はあ」
という、大きなガブリエルのため息もかき消す、元気なLの笑い声。
「ああ、もう」
Jがまた悲鳴のように叫んで、多分、お庭で頭を抱えている。その姿は、見えないけれど。
しずしずと僕らの前まで歩いて来て、その真っ赤なドレスの裾をつまんで優雅なお辞儀をしてみせ、
「皆様、ごきげんよう」
借りてきたネコかな、と思うようなお上品な声でLはそう云って、けれど顔はニヤリと悪い笑みを浮かべてる。
まさか、Lの思いついた「策」って、これの事?
当然、眼帯と銃とガンベルトの認識は、消してある、のだろう。
「まあ、極めて平和的な使い方、ではあるよねえ、「能力」の」
やれやれとため息まじりに、ガブリエルが海で云う。
確かに、誰にも迷惑はかけないし、誰も痛くも痒くも、悲しくも辛くもない。
「な、みんなハッピーだろー?」
はっはー、と勝ち誇ったようにLは云う。
そうかも。
ガブリエルの後ろで、その車椅子に手を添えて立つサモンジさんの、尊いものを愛しむようにLを見る眼は、Lの云うハッピーに満ち溢れているのは間違いない。
「あ、でも」
気を取り直したように、Jがコホンと小さく咳払いをして、
「Kと並んだら、それなりに見れるかも。ゴーグルと眼帯で、ね。何だか、子供向けの映画の主人公?とか、その仲間にいそうな感じ?」
そんな事を云う。
疑問形、だけれど。
なんとかヒーローとか、なんとかキッズ的な、あれ、って事かな。
まあわからなくもない、かも。
「はあ?子供向けとは失敬なやつだなー。まあ、いっか。ほら、K、腕出して」
真っ赤なドレスで僕の隣に立ち、Lはそう云って、ニヤニヤしてる。
腕出して、って何?
僕は、どうすればいいの。
「お姫様をエスコートして、って意味だと思うよ、王子様」
くすくす笑いながら、楽しそうにガブリエルがそう教えてくれる。
王子様って、
ああ、こういう事?
Lの方に右肘を少し曲げると、白いレースの手袋をしたLの両手が、そっと僕の腕をつかむ。
これでいいの。
そう聞くまでもなく、ガブリエルが盛大に吹き出す音と、「きゃー」と云うJの奇妙な悲鳴が、穏やかなオレンジの海に響き渡る。
サモンジさんは、目頭をおさえて、満足げに無言で何度もうなずいてる。
みんながハッピー
確かに、Lの云う通りかも。
僕は何だか不思議な気持ちで、しみじみとそう思った。
パーティ会場は、巻き貝みたいな形をしたビルの最上階、貝の尖った先端に当たる部分が、1フロア丸々、広いホールになっていた。
サモンジさんの説明によると、仕切って幾つかの会場に分けてイベントなどで使われることもあるらしいけれど、今日は半円形のフロア全体がパーティ会場になっているとの事だった。
半円の残り半分は、エレベーターホールと、什器や仕切り、椅子やテーブルなどの倉庫、パーティのための食事や飲み物を用意するための厨房などになっているらしい。
半円形の会場の周囲の壁全体が大きな窓になっていて、海や市街地が一望できる。
ルリおばさんの部屋よりもさらに高い場所なので、眺めは抜群らしいけれど、僕はなんとなく怖いので、離れてちらっと眺めるに留めておいた。
会場の中心には大きな丸いステージがあって、ピアノと弦楽四重奏、と云うのかな、演奏家の人たちがいて、楽器の生演奏が流れている。
まさかあの人達は、パーティの間中ずっと演奏してるのかな。さすがに疲れるよね。
なんとなくそうつぶやいたら、Lが、
「んなわけねーだろ。じきに挨拶やらお祝いのスピーチやらが始まるから、それまでの間だよ。あとは、そのスピーチやらが終わった後、みんなの歓談タイムの後ろで、なんとなくBGM的に鳴らしてくれる感じじゃね」
そう「海」で説明してくれたので、それならよかった、とほっと安心する。
Lのお父さんは、背が高くがっしりとした、渋い口髭を生やしたやさしそうなおじさんだった。
僕らが会場へ入っていくと、主催者とは思えない軽いフットワークで駆け寄って来て、
「いつもミカエルがお世話になって、ありがとうね」
そう云って、にっこり笑って、大きな手で僕とがっちり握手をした。
「暑苦しい親父で、すまねー」
僕の隣で、にこにこ顔のドナドナモードで固まったまま、海でLがうんざりしたように云ったけれど、全然嫌な感じはしなかった。
なんとなく、うちの父に雰囲気が似ていたから、かな。
もちろん、Lのお父さんの方がビシッとスーツも決まっていてきちんと整えられた髪型もお髭も渋いので、百倍くらいかっこいいけれど。
Lのお父さんがステージに上がって短い挨拶をしてパーティが始まり、来賓の人たちの挨拶が一通り終わると、僕らは会場の奥の壁際(というか窓際)で、招待されたお客さん達の挨拶に応えるLのお父さんお母さんと並んで立つ。
本来は、僕とJは招待されたお客さん側のはずなので、こちらに立つのではなく、挨拶のために他のお客さんと一緒に並ぶべきなのだろうけれど。
「ごめんなさいね。しばらく窮屈でしょうけれど、ミカちゃんと一緒に、ここにいてあげて頂戴」
Lのお母さんにそう云われたので、「はい」とうなずいてJとふたりでLの左右に立つ事になった。
「よっし、休憩しよーぜー」
Lの秘密基地のドアが開いて、いつもの姿のLが砂浜にぴょんと降り立つ。
え、ドレスじゃないの、なあんだ。
ちょっぴり、僕はがっかりする。
「勘弁してくれー。こっちではせめて、のんびりしたいじゃん」
少しふくれた顔でLにそう云われてしまうと、納得するしかない。
と云うか、僕らも休んでていいの、かな。
「うん。にこにこ笑って、「こんにちは」「ありがとうございます」って云ってるだけだからね。ドナドナモードで十分でしょ」
ガブリエルもそう云って、もうテラスに腰掛けて、うーんと伸びをしてる。
それなら、と思って、僕も「海」へ移動する。
何も考えずに降り立ったら、レンタルのスーツを着たままだった。
ガブリエルも、スーツ姿で寛いでいるので、そのまま来ると、いま着てる服、なのだろう。つまり、Lはわざわざ着替えて来てるのだ、小学校の制服に。
「ね、かわいいのに」
Jの声がして、振り返るとJはドレスのまま、ふわりと砂浜に降り立つ。
ね、僕もそう思うけれど。
でも、Lが嫌なら、仕方がないか、とも思う。無理を云って着替えさせるまでもなく、視線をあちらへ向ければ、Lのドレス姿は見る事ができるのだし。眼帯付きだけれど。
「K、窓出してー。人間ウォッチングしよーぜー」
着崩した制服の、頭のてっぺんで金髪を雑に括っただけの、いつものLがテラスで云う。
はいはい。
ぱちんと指を鳴らして、僕の視界の窓と、ついでにテーブルの上に紅茶を4つ、出した。
「さっき、会場に入って来た時から、ちょっと気になってる人がいるんだよなー」
そう云って、Lは僕の視界の窓をのぞき込む。
「お、そっか、ゴーグル付けてるから、視界の窓で「泡」も見えるんじゃん。いいねー」
そう云ってニヤリと笑い、Lは、「反対側の壁際ね」「あーもうちょい右」「通り過ぎた、戻って」と僕に視線の位置を細かく指示して、
「いた。ほら、あの人って、あれ?」
首をかしげる。
Lが指差すのは、ちょうど僕らの反対側、入り口に近い壁際に立つ、体にピッタリとした、上品なえんじ色のスーツ姿の小柄な女性。「泡」は青。
長い栗色の髪をくるんとまとめてアップにして、大きめの薄い茶色のサングラスをかけている、あれ?
「ルリさん?」
僕の視界の窓をのぞき込んで、Jが云う。
興味なさそうになんとなく見ていたガブリエルが、「ルリさん」と聞いて身を乗り出す。
「ほんとだ。なんで?」
そう云うなり、ガブリエルは車椅子の後ろをさりげなく振り返って、小声で
「ねえ、サモンジ。対面の壁際、入り口のすぐ近く、ひとりで立ってる、えんじ色のスーツの女性は、誰かな?」
素早くそう尋ねる。
かがみ込んだサモンジさんが、メガネの奥の眼を細めて、ガブリエルの云う人物を見定めて、
「ああ」
納得したように、ひとつうなずいて、
「あちらの女性は、このホテルのオーナーのキリノ様です」
淡々とそう答えた。
このホテルのオーナー?
って、何。
そう尋ねると、
「このホテルの持ち主、って事じゃね」
何故かニヤリとLが笑って僕に答える。
「オーナー?経営者って事?」
ガブリエルがそう尋ねると、サモンジさんは首を横に振って、
「いいえ、経営は、ミクリヤグループのホテル運営会社です。キリノ様は文字通りのオーナー、つまり家主という事ですね。ミクリヤは彼女からこのホテルを借りて、経営しているわけです」
「じゃ、彼女には家賃収入があるの」
重ねてガブリエルがそう尋ねると、サモンジさんは少し首をかしげて、
「詳細な契約内容までは、存じ上げませんが。家賃をお支払いする形なのか、あるいは売上の何%をお支払いするという形なのかもしれませんね」
そう教えてくれた。
ルリおばさんが、このホテルの持ち主なの。
でも、前にナナに聞いた時、ルリおばさんは「無職」って云ってた、よね。
そうLに確認したら、
「あーまあ、家賃収入なんだとしたら、不労所得ってやつだからね。無職には違いねーんだろ」
ふふっと何故か楽しそうに、Lは笑う。
なんでLは、そんなにうれしそうなの。
「いやあ、さすがルリちゃん、って感じ?おじいちゃんの残した財産だけで食ってるんじゃなくて、ちゃんと資産運営してるんだなーってね」
資産運営
よくわからないけれど、例のキクタの特許料とかでこのホテルを買い取って、その家賃か売上の何%かを収入として得てる、って事、かな。それで、あんな高級マンションに住んでるの。
「そ。何かルリちゃん、かっこいいよなー」
Lが云うと、何故かガブリエルが、ふふっとうれしそうに笑う。
このホテルのオーナーだから、今回のミクリヤのパーティにも招待されていて、それで出席した、という事なのかな。
だったら、事前に教えてくれてもいいのに、と思わなくもなかったけれど。
「まあね。でも、オレとガブリエルがいるだろうってのはともかく、おまえやJまで招待されてるとは、ルリちゃんも思わなかったんじゃね。あっちもびっくりしてるのかもよ」
ふふっと楽しそうにLは笑う。
あ、そっか。それは、そうかも。
僕らの視線に気づいたのか、じっとこちらを見つめていたルリおばさんが、すっとサングラスを外した。
いつもは、白い医療用の眼帯をしているけれど、今日はパーティだから、目立たないように、なのかな、黒い医療用の眼帯をしてた。
それを隠すために、大きなサングラスをかけてたのかも。
ルリおばさんは、かすかに笑って、ちょんちょんと人差し指でその黒い眼帯を指さしている。
眼帯が、どうかしたのかな。
ぴこん、とJが人差し指を立てて、
「あー、Lと「お揃いね」って事?」
そう云ったので、なるほど、と思った。
Lが胸の前で小さく手を振って、自分の眼帯をちょんちょんと指差す。
ルリおばさんはにっこり笑って、またサングラスをかける。
その時、前を横切っていたスーツのおじさんが、ルリおばさんに気づくとくるりと身をひるがえして立ち止まり、何やら声をかけて、丁寧に何度もお辞儀をしていた。
「あれは?」
ガブリエルが尋ねると、サモンジさんがすかさず、
「あれは、このホテルの支配人です。オーナーにご挨拶をしているのでしょう」
そう教えてくれる。
支配人、っていうのは?
「あー、ホテルの一番偉い人、だよ」
そうLが僕に教えてくれる。
そんな偉いおじさんが、あんな風にルリおばさんにぺこぺこ頭を下げるの、何かすごいな。
「まあ、オーナー様だからねー。あれ?ってことはおまえ、ホテルオーナーの甥っ子じゃん。すげーじゃん」
Lはそう云って、ニヤニヤ笑うけれど。
いやいや、何云ってるの、ぜんぜんすごくないでしょ。ミクリヤのご子息ご令嬢に比べたら。
支配人が挨拶を終え、深々とお辞儀して去って行くと、ルリおばさんはこっちを見て、小さく肩をすくめるような仕草をする。
そして、もう一度サングラスを外して、声を出さずに「ま・た・ね」と口を動かして、小さく手を振る。
「あれ、ルリちゃん、帰っちゃうの」
Lが残念そうに云う。
「まあ、ルリさんもこういう場所、あんまり得意じゃなさそうだよねえ。顔出しに来ただけで、支配人とも挨拶したし、もう用は済んだって事かな」
ガブリエルも残念そうに、苦笑を浮かべている。
「え、残念。ルリさんと、みんなで写真撮りたかったなー」
ぽつりとJがそう云うと、Lが「げ」という顔で、Jを恨めしそうににらんでた。
ルリおばさんはサングラスをかけると、ひらりと僕らに手を振って、会場の出口から、エレベータホールへと出て行った。
長く伸びていた挨拶の列もようやく途切れ初め、終わりが見えてきた頃、Lのお母さんが僕らを振り向いて、
「ごめんなさいね、お腹空いたでしょ。向こうにおいしそうなケーキやお菓子もたくさん並んでたわよ。みんなで行ってみたらどう」
にっこり笑って、そう声をかけてくれた。
半分は、オレンジの海でくつろいでいたとは云え、慣れないパーティで緊張していたのか、僕は、あまりお腹も空いてなかったのだけれど。
「まあ、ドナドナモードも飽きたし、なんとなくでも見に行ってみるかねー」
どっこらせ、とLが椅子から立ち上がりかけて、
「あ、違うわ。オレはドナドナのままだから、ここに居させてもらうぜー。Kの視界の窓、このまま置いといてねー」
そう云って、また椅子にどっかり腰を下ろして、ひらひらと僕らに手を振る。
やれやれ、とJが肩をすくめて、
「じゃあ、せっかくだし、見に行ってみよっか」
ふわりと舞うように砂浜へ下りて、お庭の窓へとジャンプする。
本当に、天使か妖精みたいだな、と僕はつい、その後ろ姿に見惚れてしまう。
「K、ぼんやりして、お姫様のエスコートを忘れないでね」
くすくす笑って、ガブリエルもひらりと窓へ消えて行く。
お姫様のエスコート?
あ、そっか。
Lはドナドナのままだから、僕が連れて歩いてあげなきゃ。
くるりと視界を戻して、お姫様のLが僕の腕につかまってるのを確かめる。
眼帯とガンベルトの、ちょっぴりおてんばなお姫様だけれど。
「おおー」
海ではLが、僕の視界で自分のお姫様ぶりを見て、何やら歓声を上げてる。
「いやあ、我ながら、いいね。このダークヒーローっぷりが何とも、うん」
ナナが聞いたら、また「自画自賛じゃな」とか云いそうだけれど。
「そう云えば」
Lがふと思い出したみたいに、
「ナナちゃんは知ってたのかなー、ルリちゃんがこのホテルのオーナーだって事」
そんな事を云う。
たぶん、知ってたんじゃないかな。「無職じゃ」って妙に強調してたのは、「ホテルのオーナーだけれど」みたいな、そんな含みがあっての事、だったのかも。
「あー確かにねー」
中央のステージでは、ピアノと弦楽四重奏の演奏者の人たちが、ゆったりとした心地良い曲を演奏してくれてる。
残念ながら、僕にはクラシックはまるでわからないので、とても良い曲だけれど、誰の何て曲なのかは、さっぱりだった。
中央のステージの左右に、コック服を着たホテルのスタッフの人達が立つカウンターがあって、Lのお母さんの云う通り、ケーキやお菓子、ちょっとした軽食を提供してくれていた。
大人の人にはビールやワイン、それから、僕らにも飲めそうなジュースや紅茶、コーヒーなどもあるらしい。
Jとサモンジさんに押された車椅子のガブリエルは、楽しそうにそのカウンターをのぞき込んで、何やら選んでいるみたいだった。
僕とLは、少し離れた壁際で待つ。
その時、何かを知らせるような、ぴぴぴという軽めの警告音がヘッドホンから聞こえた。
はじめての事で少し驚いたけれど、なるほど、ヘッドホンのおかげで、あの「音」は、こんな風に変換されて聞こえるようになる、のかな。
音がしたのは、会場の入り口の方だった気がして、何気なくそちらを振り返る、と。
「ん、なんだありゃ」
僕の視界の窓を見ていたLが、思わずといった感じでそうつぶやいてる。
まさに、何だろう、あれは。
そう思ってしまうような、奇妙な人物がパーティ会場へ入って来るところだった。
車椅子の男性と、それに付き従う、黒いドレスの女性、かな。
「ガブリエル、サモンジに聞いてくれ。あいつ、どこの誰だ?」
Lの声が少し緊張しているのは、その人たちの奇妙な見た目のせい、ばかりではないのだろう。
「ああ、おまえの視界、なんだあの「泡」?それにオレの「線」もだ。こんなの見た事ねーぞ」
ただならぬ気配に、ケーキを選んでいたJとガブリエルも、それを中断して僕らのそばへやって来る。
僕の視界に見える、その人の「泡」は、透明だった。
透明では見えないはずなので、わずかに色はあるのだろうと思う。色で云うなら、灰色に近いのかもしれない。
でも、Nやラファエルにあるような、半透明のくすんだ灰色の「泡」とも違う。
ほとんど透明な、つやのないシャボン玉のような、「泡」だった。
シャボン玉は、表面がきらきらと反射して、虹色に光るけれど、彼らの「泡」にはそれがない。
似ていると云えば、眠りに落ちていた時のLの「泡」にも似ている、かも。
あれは、つやと表面の光彩のない、白い「泡」だった。彼らの「泡」には、その白さもないのだけれど。
車椅子の男は、ほとんど白に近い薄い灰色のスーツを着ていた。
髪の色は、白。年齢を重ねた事によるいわゆる「しらが」ではなく、たぶん生まれつきの白い髪。
肌の色は白く、車椅子なのでわからないけれど、おそらく、背は高そうに見える。
立ち上がれば、きっとサモンジさんと同じくらい、180cm以上はありそうだった。
奇妙なのは、その顔、に装着した丸いゴーグルだ。
彫金細工の職人や、時計屋さんが作業の時に付けるような、レンズを何枚も重ねて、倍率を変更できるようにしたルーペに似た、ゴーグル。その左右のレンズの数も大きさも不揃いで、本当にあれでちゃんと前が見えるのか、不思議な感じのするゴーグルだった。
長い膝掛けで覆われた足は見えないけれど、つま先からほんの少しのぞいているのは、義足の先端、かもしれない。
黒いドレスの女性が、車椅子の後ろに立っているので、彼女が押しているのかと思ったけれど、車椅子は電動らしい。
男が右手のレバーで、車椅子を操作しているようだった。
女性の見た目は、さらに奇妙で、肌が一切見えない。
黒いドレスは、一見するとLのお屋敷のお手伝いさんが着ているドレスに似ているような気もして、もしかすると車椅子の男性に従うメイドさん的な人なのかもと思ったけれど、よくよく見るとそれは全く別物だった。
全身真っ黒なそのドレスは、喪服のようにも見える。
長いドレスの裾は床に引きずるほどで、足元は見えなかった。
ドレスの上に袖の長い薄手のローブのようなものを纏っていて、腕も見えない。ローブの先からわずかに見える指先も黒いレースの手袋を嵌めている。
ドレスは高い襟が首元までぴったりと覆っていて、顔は羽織ったローブに付いたフードを深く被っているので、見えない。
さらにそのフードの下に、すだれのようなベールを付けているらしい。深く被ったフードの下は、真っ黒な穴が空いているよう。
「サモンジ、あの車椅子の男性は、誰なの」
ガブリエルが尋ねると、サモンジさんは少し眉を寄せ、考える顔になって、
「お待ちください」
短く云うと、壁の方を向き、口元を手で覆って、何やら耳に装着した小型のインカムで誰かに連絡をしているらしい。
連絡を終えたサモンジさんがこちらを向き、
「坊ちゃま、失礼いたします」
そう云って、ガブリエルの車椅子の背もたれを後ろに開いて、中から薄型のタブレット端末を取り出す。
慣れた手つきでタブレットを操作して、
「お待たせいたしました」
そう、声をひそめるように云って、サモンジさんは僕らに近くへ来るよう眼で合図をする。
車椅子の男に、こちらの声が聞こえるような距離ではないけれど、周囲の人にも聞こえないように、という配慮、だったのかもしれない。
僕がLの手を引いてガブリエルの左側へ、Jが右側へ近づくと、「ありがとうございます」と小声で云って、サモンジさんは続ける。
「あちらの車椅子の男性は、分家の九曜グループの子会社で、クヨウ・ケミカルという製薬会社の顧問を務めておられる方です。お名前は、ハンス・オスヴァルト・アンダーソン博士と仰られます」
囁くようにそう告げるサモンジさんの言葉は、どこか遠くの暗い地下から響くように、僕には聞こえた。
ハンス・オスヴァルト・アンダーソン博士
確かに、サモンジさんはそう云った。
僕らは、数秒間言葉を失って、ただ茫然と、かすかに微笑みを浮かべながらパーティ会場へ入って来る車椅子の男性を見つめていた。
「ハンス・オスヴァルト・アンダーソン博士?間違いない?」
ガブリエルが、かすれた声で、振り返らずじっと車椅子の男性を見つめたまま、サモンジさんに確認する。
「はい。これを」
サモンジさんはそっと、ガブリエルにタブレットを差し出す。
画面に映し出されていたそれは、履歴書のような何かの登録用紙、かな。そんな書類の写しのようだった。
モノクロの写真が貼られていて、そこには、同じ奇妙な丸いゴーグルをかけた、白髪の白人男性が正面を向いて写っている。
氏名の欄には、日本語で「ハンス・オスヴァルト・アンダーソン」とあった。
年齢は、32歳。あり得ない。
僕はとっさにハナの海を「振り返り」、ナナを呼んでいた。
ナナ、僕の海に来れる?今すぐに。
ふわりと、金木犀の甘い香りが、テラスに漂ったような気がして、
見ると、不機嫌そうな顔をしたナナが、いつもの席にふわりと座っていた。
「何事じゃ、騒々しい。おぬしら、今日は上のホテルでミクリヤのパーティとやらじゃろ。ほんの今しがた、跳ねっ返りめが何やらうれしそうに帰ってきおったぞ」
ちらりとテラスを見渡して、Lの姿しか見えない事に不審そうに小首をかしげて、ナナは云う。
「いやあ、急にごめんね。ナナちゃん、あれ見てよ。あの書類、何て書いてあると思う?」
Lが僕の視界の窓を指して云う。
僕の視界には、サモンジさんが見せてくれているタブレットの画面が、まだ映っているはず。
「ハンス・オスヴァルト・アンダーソンじゃと、此れは何じゃ?」
ナナがさらに不審そうな顔で、Lをにらむ。
「じゃあ、K、あいつを・・・あ、いやちょっと待って、オレの視界の窓って出せるの」
Lの云う意図がわかったので、ぱちんと指を鳴らしたつもりで、僕の視界の窓の横に、Lの視界の窓を出す。
こうすれば、ナナは同時に両方を見れる、はず。
「さんきゅー」
僕の隣のドレスのLが、タブレットから眼を上げて、車椅子の男を見る。
「あの車椅子の男が、ハンス・オスヴァルト・アンダーソンじゃと。パーティに来ておるのか。なにゆえ・・・」
そう云って、ナナは、むむむと唸って黙り込む。
「あー、クローンじゃね」
テラスのLが、ふたつの画面を見比べながら、云う。
「32年前に生まれた、博士のクローン人間。だとしたら、32歳でも、まあおかしくはねーかな」
さすがのLも、いつものように「はっはー」と笑い飛ばすわけにはいかないらしい。真面目な声で、云う。
確かに、それなら、あり得るかもしれない。
H・O・アンダーソン本人ではなく、そのクローン、なのだとしたら。
でも、そいつが何故このパーティに。
「それは、ほら、さっきサモンジが云ってたじゃん。九曜グループ傘下の製薬会社の顧問だって。だから、まあ招待されて、フツーに来たんだろーね」
どことなく投げやりな感じで、Lは云う。
招待されて、フツーに来た
それは、まあ、そうなのだろう、けれど。
「クヨウの製薬会社じゃと。そこの顧問に、H・Oのクローンが収まっておるのか。なんと・・・」
そう云って、またナナは、むむむと唸って黙り込む。
博士のクローン人間が、成長して大人になり、地下を出たとして、いったいどうやって、製薬会社の顧問になんてなれるのだろう。
「顧問ってくらいだから、何か特別な能力や技術を持ってるんだろーけどね。九曜は、まあ半分は外国資本みたいな会社だし、日本の一般企業に比べたら、入り込みやすかったのかもしれねーけど、それにしてもなー」
むむー、と腕組みをして、Lもうなっている。
「それで」
しばらく黙って、じっと視界の窓をにらんでいたナナが、重々しく口を開く。
「あの、奴の後ろにおる幽霊が如き女は何じゃ」
幽霊が如き女
僕も、決して、忘れていたわけではなかった。
見た目のインパクトで云えば、車椅子の男よりも後ろの女性の方がよほど奇妙だ。
でも、「ハンス・オスヴァルト・アンダーソン博士」、その名前の持つ強烈な印象に押されて、女性の方は、つい後回しにしてしまってた。
後回しどころか、一瞬は忘れていたかもしれない。
「サモンジ、彼の後ろの女性は、誰なの」
ナナの声が聞こえたのだろう。ガブリエルが、サモンジさんにそう尋ねてくれる。
けれど、サモンジさんは、怪訝な顔をする。
「失礼、坊ちゃま、今、何と仰いましたか」
遠慮がちに、サモンジさんはガブリエルにそう尋ねる。
まるで、ガブリエルの質問が聞き取れなかったみたいに。
あからさまに困惑した顔で、ガブリエルは後ろを振り返る。
サモンジさんが、ガブリエルの質問を聞き逃したり、するだろうか。あの、サモンジさんが?
小さく息を吸い込んで、ガブリエルは口を開き、
「あの車椅子の男性の後ろに、女性が立ってるでしょ。彼女の名前は、わかる?」
ゆっくりと一言ずつ、サモンジさんにそう尋ねる。
しっかりと耳を傾けて、ガブリエルの質問を聞いていたサモンジさんは、聞き終えてますます怪訝な顔をする。
顔を上げて、見透かすように、車椅子の男の方をじっと見ている、けれど。
まさか。
嫌な予感が、僕の中で湧き上がる。
「坊ちゃま」
顔を下に向け、ガブリエルをまっすぐに見つめて、サモンジさんは云う。
「申し訳ございません。私には、そのような女性が見えません。あの車椅子の男性は、おひとりで来られているようにお見受けいたします」
認識が、消されてるの?
あの女性自体の。
「おいおいおい」
そう云って、Lも言葉を飲み込む。
ハンス・オスヴァルト・アンダーソンを名乗るクローン人間らしき車椅子の男と、認識を消された全身黒ずくめの女。
九曜グループ傘下の製薬会社で顧問を務めるという彼が、ミクリヤ150周年のパーティに招待されてやって来た。
いったい、何のために。
「童ども、落ち着け」
オレンジの海のテラスの椅子に浅く腰かけ、何か辛そうに片眼を閉じて、開いた薄灰色の左眼で、Lをじっと見つめてナナが云う。
「落ち着け」
まるで自分自身にそう云い聞かせるみたいに、ナナはもう一度、そう云って、
「噂ではあったが、H・O・アンダーソンに幾人ものクローンがおるらしい事は、既知の情報じゃ。それがついに眼の前に現れたとて、何もそう驚くには当たらぬ。そして、その連れ、幽霊が如き謎の女の認識は、どうやら世間から消されておるらしい。じゃがそれも、程度の違いはあれど、云わばハナや此奴と同じじゃ。何も騒ぎ立てる程の事でもないの」
ふう、と大きく息を吐く。
Lの視界の窓では、車椅子の男がゆっくりと会場の中へ進み、中央のステージの前で止まる。
ピアノと弦楽四重奏の生演奏に聴き入っているようにも見える。
眼には奇妙なゴーグルを嵌めているので、彼の視線がどこを向いているのかは、わからないけれど。
黒ずくめのドレスの女性は、しずしずと彼に従っている。
足先まで覆い隠すドレスのおかげで足の動きが見えないので、本当に幽霊みたいに、カーペットの敷かれた床の上にふわふわと浮いているようにも見える。
ナナの云う通り、H・Oにクローンがいるという噂は、僕らもすでにナナから聞かされていたし、認識の喪失については、云わずもがな、僕ら自身がすでに何度もその「力」を使い、あるいはその影響を受けている。
あらためて、驚くような事でもないのかもしれない、けれど。
「いやあ、無理。驚くし、ビビるよねー。何でだ?あいつらの見た目のインパクトのせい?もあるだろうし、場所もだなー」
そう、Lはひとりごとのように分析する。
見た目のインパクトは、確かに、そうかも。
それに、場所。
こんなにも明るい、良く晴れた日曜日の、ホテルのパーティ会場。
「しかも、ミクリヤの、だよ。云うなれば、ホームグラウンドにいきなり殴り込みをかけられた、みたいな感じだねえ」
いつものようにおだやかな声で、ガブリエルがあまりおだやかでない事を云う。
「殴り込み、なのかな。本当に、ただ挨拶をしに来ただけ、なのかも」
お庭の窓から、Jの声が云う。姿は見えないけれど、たぶん、人差し指をあごに当てる、いつもの考えるポーズで。
「さもありなん」
包帯ぐるぐるの手を唇に当てて、ナナも云う。
その時また、僕のヘッドホンからぴりりと甲高い警告音が鳴る。
生演奏の音楽を楽しむように、ゆったりとパーティ会場を見渡していた車椅子の男の顔が、こちらを向いてぴたりと止まる。
真っ直ぐに、壁際のケーキやお菓子のカウンターの脇にいる僕らを、丸いゴーグル越しの眼が見つめているのを感じた。
男はニヤリとかすかな笑みを浮かべて、右手で車椅子を操作して体ごとこちらへ向けると、ゆっくりと前進を始めた。
こっちへ、近づいて来る。
黒いドレスの女性も、ふわふわと漂うようにその後に従う。
数秒間、僕らは声を出す事もできず、たぶん息をする事も忘れて、こちらへ向かってくる電動車椅子のモーター音だけを聞いていた。
男が口を開いて、
「これはこれは」
壊れたスピーカーから聞こえるような、ひび割れてくぐもった声が男の口から聞こえた。
「本家のご子息ご令嬢にお会いできるとは、たいへん光栄です。ご挨拶をさせていただいても?」
そう云って男はにっこり笑うと、僕らの眼の前で車椅子をぴたりと止める。
「どうぞ」
ガブリエルの車椅子の後ろに、背筋を伸ばして真っ直ぐに立ち、小さくうなずいたサモンジさんが短く答える。
「ああ」
男は大袈裟に、天を仰ぐように上を見上げて、すぐにまた前を向き、
「お聞き苦しい声をお聞かせして申し訳ない。生まれつき体が弱いもので、機械を入れておりまして」
ちょんちょん、と右手の指先で自分の喉元を指差す。
割れたスピーカーみたいな声は、その機械のせい、という事なのかな。
コホンと男は小さくわざとらしい咳払いをして、
「クヨウ・ケミカルで顧問を務めさせていただいております、ハンス・アンダーソンと申します。よしなに、お願いいたします」
車椅子の上で、うやうやしくゆっくりと頭を下げる。
体を前屈みにした時に、左腕が少し遅れて、何かに引っ掛かるような妙な動きをしたのが気になった。
ゆっくりと顔を上げた男は、僕の視線に気づいたのか、困ったような顔で左腕を少し持ち上げて、
「これも機械でして。不恰好な事で、申し訳ありません」
そう云いながら、左手を開いて見せる。ウィーンというかすかなモーター音と共に、手袋を嵌めた左手の5本の指がぎくしゃくと開く。
「失礼ですが、ひょっとして」
ガブリエルが淡々とそう云って、
「足も?」
短く尋ねる。
ふふっと男はかすかに笑って、
「さすが、お坊ちゃまは目ざといですね」
そう云って、機械の左手を動かして、膝掛けを掴むと、さっと持ち上げてみせる。
淡いグレーのズボンの裾からのぞく足には靴を履いておらず、その両足が、金属製の義足だった。
僕らがそれを見たのを確認してから、男は左手をぱっと離して、膝掛けを元に戻す。
「かような得体の知れぬ外国人を、顧問として迎え入れていただき、クヨウ本社を始めとしてミクリヤ家の皆様には、感謝しかありません。本日は150周年の集まりとお聞きしましたので、是非、直接お礼とお祝いを伝えさせていただきたく、こうして参上いたしました」
耳障りなざらざらの声、ではあったけれど、流暢な日本語で、淀みなく男はそう云って、また丁寧にお辞儀をする。
「ありがとうございます」
ガブリエルがにこりと作り笑いを浮かべて、お辞儀を返す。
サモンジさんも、そして僕とJ、ドナドナモードのLも無言でお辞儀を返した。
ナナがじっと黙ったまま、視界の窓越しに男をにらみつけているようなのが、僕は気になったけれど。
顔を上げた男が、あらためて僕らをぐるりと見渡して、
「いや、しかし幸運でした。ミクリヤ本家のお嬢様、そしてお坊っちゃまにも、こうしてお眼にかかれるとは」
ニヤリと笑って、身を乗り出すような動きをする。
いや、実際にほんの少し、車椅子を前進させて僕らに、その中心にいるガブリエルに彼が近づいた。
その時、僕の体が勝手に動いてた。
「K?」
海で、ガブリエルがそう云うのが聞こえてはじめて、僕は自分が一歩前に出ていた事に気づいた。
僕の右腕を掴んだままのLを右手で庇うように、そしてガブリエルに近づこうとする男の前に左手を伸ばして、立ち塞がるように。
「ほう」
割れたスピーカーのような声が、少し驚いたように云う。そしてその奇妙な丸いゴーグルが、かちゃかちゃと重なったレンズの焦点を合わせるみたいに細かく動いて、僕を見る。
「これは失礼。小さなボディガードを驚かせてしまったようです」
ニヤリと男は笑う。相変わらず、分厚い何枚ものレンズに遮られて、どこを見ているのかはわからないけれど、その顔は真っ直ぐに、僕の方を向いていた。
僕は、僕自身のとっさの行動に戸惑いながらも、男から眼を逸らさなかった。いや、たぶん、眼を逸らす事ができなかった、のだと思う。
男はまた、ニヤリと声に出さずに口元だけで笑う。
そしてゆっくりと首を動かして、僕の右後ろにいるLを見て、次に左後ろのガブリエルを、そしてその左にいるJを順に見る。
ぐるりとひと回りして、また僕を真っ直ぐに見据えて、ゆっくりと口を開く。
「4人の「子供たち」、なるほど、たいへん興味深い」
つぶやくように、割れた声がその口からもれる。
「特に、あなたは」
そう云って、男は機械義手の左手を上げる。
掴まれるか、触れられるか、何かされるのでは、と思い、反射的に僕はその場で身を引いたけれど、男はそれはせず、耳障りなモーター音を立てながら、左手の人差し指をまっすぐに立てる。
ぴりぴりぴり、僕のヘッドホンから警告音が鳴り響いたけれど、だめだ、間に合わない。
ぐるん、と視界が回転するような感覚。
まさか、「渦」の能力?どうして、この男が。
考える間もなく、視界がぐるぐるの渦に呑まれて行く。
「K!」
オレンジの海で、Lがそう叫ぶのが聞こえたけれど、すぐに猛烈な風の音にかき消される。
渦は嘘のようにすぐにぴたりと止まった、けれど。
吹き荒ぶ強い風に、眼を開けていられない。
いや、これは、風が吹いているわけではなく、僕は落ちているのでは。
うっすらと眼を開くと、足元の灰色の地面が、ものすごい速さで後ろへ流れて行く。
地面、ではなく、これは、ビルの壁面では。
足元にあるのは、巨大なビルの外壁、はるか遠くの前方に、地上らしき黒い地面と、暗い紺色の海が見える。後ろは、空。
ほとんど無意識に、僕は両手を広げて、落下を止める。
慣性も重力も無視して、ぴたりと僕の体が止まる。
この感覚は、知ってる。前に、ハナの意識空間で、ナナに記憶の保管場所へ連れて行ってもらった時と一緒だ。
つまり、ここは、誰かの意識空間だ。誰かの?いや、ほぼ間違いなく、あの男の。
「素晴らしい」
割れたスピーカーみたいな声が云う。
落下が止まったので、風も止んでいる。
僕はビルの壁面のガラスの上に垂直に、地面を見下ろす形で立っていた。
僕の後ろ、つまり空の上から、白い灰が降りしきる。僕の前、遠くて暗い地面に向かって。
「あなたは、もしや、「キクタ」では?」
僕の正面、10mほど下のビルの外壁に、僕と同じように垂直に、車椅子の男が立ち、こちらを向いていた。
文字通り、義足で車椅子から真っ直ぐに立ち上がって、僕を見下ろしている。いや、位置的に云えば、僕を見上げている、のかも。
僕は、答えない。
この男に、何をどう答えればいいのか、僕は知らない。
彼の云う「キクタ」があのキクタを指しているのだとして、僕があのキクタであるのかどうか、僕にはハッキリとした確信はない。
それに、仮にそうだとして、それを彼に明かして良いものなのかどうか、その判断も、僕にはできない。
真っ暗な空から、ただひたすらに灰が降る。真っ白な灰が、まるでこの世界の全てを覆い尽くそうとしてるみたいに。
足元のビルは、おそらくあのククリ島の巻き貝みたいな巨大ビル、なのだろう。
僕がいるのは、その外壁、たぶん、最上階より少し下の、マンション部分の辺りかも知れない。
ビルの中は真っ暗で、足下の分厚いガラス越しに、中の様子はわからない。
前を見ると、ビルの根元の地面も真っ暗で、灯りはひとつも点いていない。
視界の端、遠くにビッグブリッジらしき黒い影が見えるけれど、そこにも灯りはない。その先にあるはずの、市街地の灯りも、ない。
死の灰の降る、ククリ島。
これがあの男の意識空間なの。
あるいは、あえてそんな風景を、意識空間に作っているのかも知れないけれど。
もしそうなのだとしたら、ちょっとセンスを疑う、かな。
「いつも、「キクタ」の話は、常に断片的です」
大袈裟に肩をすくめて、どこか芝居がかった云い方で男はそう云って天を仰ぐ。
いや、ビルの壁面に垂直に立っているので、仰いでいるのは天ではなくて、ビルの横の空中のどこか、なのかも。
どこかの空中に両手を広げて、男は云う。
「曰く、狂気の科学者から哀れな身無し子たちを救った。曰く、世界を揺るがす大発明をした。曰く、其のアルカナを4人の子供たちに分け与えた。そして曰く、数多を聞くものである、と」
歌うように、何かの詩でも吟ずるみたいに、男は空を見上げて云う。
僕に、というより、眼には見えない「キクタ」という幻に語りかけるみたいに。
何か、キクタとは無関係な話が混じっていたような気がして、何かが僕の中で引っかかる、けれど。
「それがもし、あなたなら」
構わずそう云って、男が僕を見る。
ぴりりり、ヘッドホンから警鐘が鳴る。
はっと僕は息を飲む。
次の瞬間、男の姿が消え、目の前に男が現れる。僕の眼と鼻の先、手を伸ばせば届く位置に。
意識空間なのだ、義足であろうと立ち上がる事はできるし、瞬間移動も自由自在。
ブーンと耳障りなモーター音が鳴って、男の左手が開きながら素早く僕の喉元に伸びる。
この距離で、この速さ、無理だ、逃れようがない。
半ば諦めて、眼を閉じかけていた僕の手が勝手に動く。
また、僕の意思とは関係なく、勝手に左手が動いて、男の肘の少し下、前腕の急所を内側からがっしりと掴んでいた。
まさか掴まれるとは思わなかったのだろう。何が起きたのかもわからない様子の男を、そのまま腕を捻って膝をつかせ、がら空きの首筋に右手で手刀を叩き込む。僕の右手が、勝手に動いて、だ。
まさか、これもヘッドホンの効果、なの。いや、さすがにそれはないのでは。
崩れ落ちる男を、ぽいと足元へ投げ落として、こんな場面をどこかで見た気がすると思って、すぐに思い出す。
ヌガノマ、ではなく、ナガヌマの記憶の一場面。
でもあれは、ただ記憶の映像を見ただけだ。それだけで、僕に同じ動きができるようになるなんて、そんなマンガや何かじゃあるまいし。
足元に崩れ落ちた男の姿が、まるで映像が乱れるようにノイズ混じりになり、歪んで消えた。
同時にまた、ぐるん、と視界が回転するような感覚がして、真っ暗な死のククリ島の風景がぐるぐるの線になって滲む。
それが唐突にぴたりと止まり、僕はオレンジの海に立っていた。
海の明るさに、眼が眩む。
「K!」
お庭の窓から身を乗り出していたJが、大声で僕の名を呼んで砂浜に飛び下りて来る。
「おまえ、大丈夫か」
Lもテラスから飛び降りて、両手で僕の腕を掴み、僕の体をぐらぐら揺さぶる。
「だいじょうぶ。ちょっと、びっくりしたけれど」
「いきなりおまえがいなくなって、あ、いや、まあ、オレは海にいたし、姿が見えてたわけじゃねーけど。おまえが、引っ張り出されたみたいに感じたけど、今の「ぐるぐる」なのか?あいつの?」
めずらしく、Lが慌てふためいている。
興奮していて、何だかいっぺんに全部云おうとする所がアイみたいだなと思って、つい、ふふっと笑ったら、
「おい、笑うなおまえ」
べしっとおでこにチョップされた。
「うん、ぐるぐる。たぶん、あの男の」
そう答えたら、僕は全然だいじょうぶなのだけれど、LとJが両側から僕の体を支えてくれて、テラスに上がり、ナナの向かい側に座らされた。
ナナは難しい顔のまま、無言で僕をじっと見る。
ガブリエルの窓が開いて、
「こっちでは、Kとアンダーソンが、突然ドナドナモードに入ったみたいになって、しばらく無反応のまま見つめ合ってたけどねえ」
そう説明してくれたので、さっき僕の身に起きた事を、みんなに説明する。
「ぐるぐるで、死の灰の降るククリ島のビルの壁面に連れて行かれた?何それ、なんでいきなりそんな戦闘モードなの」
Lが首をかしげるけれど、それは、僕もわからない。
「それで、K、あいつに何かしたの。何だか、彼、たいへんそうだけど」
ガブリエルにそう云われ、みんなで僕の視界の窓をのぞき込むと、車椅子のアンダーソンが、苦しげに身を捩りながら、激しくむせ返っていた。
「ミスターアンダーソン?大丈夫ですか、お加減が優れないご様子ですが。ホテルドクターをお呼びしましょうか」
サモンジさんがガブリエルの前に進み出て、片膝をついて心配そうにアンダーソンの顔をのぞき込んでいる。
「ああ、失礼。親切な執事さん、ありがとう。大丈夫、ちょっと、喉の機械の、調子が悪い、だけです」
がらがらとノイズまじりの割れた声で、げほげほとむせ返りながら、途切れ途切れにアンダーソンは云う。
「おまえ、何したの」
Lが何故か、ニヤニヤしながら僕に尋ねる。
「何って、僕は何も。ただ、体が勝手に・・・」
仕方がないので、僕は詳細を説明する。
「体が勝手に、ナガヌマ拳法で、あいつを叩きのめしたの?いやいや、おまえ、いくら何でもそんな、あっはっはー」
Lは、冗談だとでも思ったのかな。いつもの陽気な声で笑い飛ばしてるけれど。
冗談でも何でもなく、真面目に、このヘッドホンとゴーグルに、そんな機能が付いてるって可能性はないのかな。
はっは、とまだ眼に涙を浮かべて笑いながら、Lが僕を見て、
「ないない。いくら魔法のアイテムだからって、身に付けるだけで拳法の達人になれるなんて、まるでマンガじゃん。まあでも意識空間だし、場所はあいつのテリトリーとは云え、意識体はおまえのだからね。見よう見まねで、無意識にナガヌマ拳法を使ったとしても、不思議じゃないかも?いやでも、さすがに勝手には動かねーだろ。どこかで意識して、真似して動いてたんじゃね」
何やら楽しそうに云うけれど。
意識体だから、ある意味、何でもありで、あの時のナガヌマの動きを無意識に真似ていたの?
いや、だからって、見よう見まねであんなにうまく動けるものだろうか。
しかも僕は、動こうと思ってさえいない。首を掴まれそうになって、とっさに無理だと判断して、半ば諦めて、眼を閉じかけてさえいたのに。
「ふーん」
ようやく、Lが笑いを収めて、真面目に考えてくれる気になったらしい。どっこらしょと椅子に座り直して、まじまじと視界の窓でアンダーソンを眺めて、
「あいつの意見も聞いてみたいところだよねー」
ニヤリと笑って、そんな事を云う。
あいつの意見?
どんな風にやられたのか、って事、かな。
「うん、本気で、Kをどうにかしようと、掴まえようとして向かって行ったのか、それともちょっと脅かすだけのつもりだったのか、それによっても違うかも?まあでも、チビすけだからって侮ってたのは、まず間違いねーだろーけどなー」
そう云うと、Lは椅子から立ち上がって、
「ちょっとやってみてよ。あいつがこう、手を伸ばして来たんだろ、それで、おまえは?」
そう聞くので、僕も席を立って、さっきの動きを再現してみる。
本当に、僕にあんな動きができるのか、僕自身、疑わしい思いもあったので。
Lの左腕の肘の少し下辺りを、内側から掴む。まず、この時点で僕には無理だと思えるけれど。向かってくる相手の腕を掴むなんて。
「ほう、それで?あ、ちょい待ち、思いっきりやるなよ?軽ーく軽ーくだぞ」
云われなくても、いまLの腕を掴んでるだけでも、恐る恐るなのに。
よく覚えていないけれど、何かこう、ぐいっと捻って引っ張ったような気がする。そしたら、あいつが、がくんと膝をついた。
「ほう、こんな感じ?」
Lが僕の前で膝をつく。
そうそう、それでがら空きになった首筋に、手刀を。
とん、とごく軽く、Lの細い首に手を当てる。
いや、やっぱりこれは無理では。こんなの僕にできっこない。無意識でも何でも、無理なものは無理だと思う。
「うーん、無理っぽいなー。しかも相手は大人だろー?サモンジと同じか、もっと背高いような。いくら意識空間だからって、なー」
Lも実際に僕を動かしてみて、どうやら無理だと気づいたらしい。
じゃあやっぱり、アイテムの機能、なのでは。
「付けるだけで?ヌガノマンになれちゃうの?」
Lはアイテム説も、納得いかないらしい。
て云うか、ヌガノマンて何。すごく、何と云うか、かっこわるいんだけど。
「じゃあ、ナガヌマン?オレはどっちでもいいけどねー。まあそれはさておき、センサーや何かで能力の感度を上げるって所までは、すごく納得なんだけどさー。体が勝手に動いて、護身術みたいなのまで使えるようになっちゃうってのは、さすがに説明つかねーだろ」
ふむー、とLはため息をつく。
Lの云う事も、わかる。
わかるけれど、じゃあ、体が勝手に動くとしか云いようのないあの感覚は、いったい何なのだろう。
「お取込み中だけど、こっちはアンダーソンが復活したよ」
そうガブリエルが知らせてくれて、またみんなで視界の窓を見る。
アンダーソンは、サモンジさんがどこかで貰って来てくれたらしい水の入ったグラスを受け取り、ごくごくと喉を鳴らして半分ほど一気に飲んでいた。
そして、はあ、と深く息を吐いて、
「ありがとう、親切な執事さん。おかげで、少し、楽になりました」
まだ途切れ途切れながらも、むせ返る事はなく、グラスをサモンジさんに返してお辞儀をする。
そしてちらりと僕を見て、眼が合ったと気づくと、「ひっ」と短く息を吸い込んで、首の後ろを押さえて身を引きながら、眼を逸らす。
「へんなやつ。ビビるくらいなら、最初からちょっかい出さなきゃいいのになー」
海で視界の窓を見ていたLが苦笑して、肩をすくめる。
ビビるって、僕に?彼が?
にわかには信じがたい、けれど。
大の大人が、しかもどこかの会社の顧問まで務めているような偉い博士が、僕みたいなただの小学2年生の子供に、ビビるのかな。そんなはずないと思うけれど。
「あ、あなたは、その」
割れた声が云う。ピーッと奇妙なノイズが入ったのは、まだ調子が万全ではないのかも。
「お嬢様の、ご学友、でしょうか」
何故か下を向いて、彼はそう尋ねる。そうでなくとも、妙なゴーグルのせいでどこを見ているのかわからないのに、下を向いて「あなたは」って云われても。
「僕?」
仕方がないのでそう尋ねると、また喉からピーッとへんなノイズを出して、
「え、ええ、あなた、ボウタイの素敵なあなた、です」
下を向いたまま、アンダーソンは云う。
お嬢様の、ご学友?
学校の友達って事かな。
Lは、ほとんど学校に来ないし、僕もLとは学校で会った事がないけれど、それでも「学友」でいいのかな。
「おまえさ、その、急に莫迦な子になるの、やめて。面白いから」
Lが海でくすくす笑う。
「うん、だいじょうぶ。学友だよ」
Jがにっこり笑って、そう云うので、
「うん。学友、だよ」
そう、僕はアンダーソンに云う。
「ああ、はは、そう、それはそれは」
アンダーソンは曖昧な笑みを浮かべて、どこか上の方、壁際の窓の方を見上げて、云う。
「ハル君は、お元気ですか?」
その一言で、ぴりっと僕らの間に緊張感が走る。ヘッドホンの警告音は、鳴らなかったけれど。
なんでこいつが、ハルを知ってるの。
いや、この男がH・O一派で、ハルの誘拐事件にも関与しているのだとしたら、知っていても何も不思議な事はない、のかな。
H・O一派が、クヨウグループの会社の顧問、というのは、ちょっと、いろいろと問題、なのかもだけれど。
「ハル君って、だあれ?」
ドナドナモードのLの口から、ぽつりとそんな言葉が飛び出す。
僕は、はっとする。
そうか、あのハルとは限らない。いや、そうじゃなく、こいつは「ハル君」としか云ってない。
何か誘導尋問的に、僕らからハルの情報を聞き出そうとしてた可能性もある、のかも。
「可能性はね。まあ、同級生なら知ってても当然だけどね。念のため、だなー」
ふっふー、と海でLは笑う。
「お嬢様の同級生でしょう、ミハラハルオミ君。彼は、元気に学校へ通われてますか?」
作り笑いのような、奇妙な笑みを浮かべたまま、アンダーソンはそう尋ねる。顔は、まだどこかそっぽをむいたままで。
ミハラハルオミなら、あのハルの事で間違いはなく、おそらく彼は、ハルの誘拐事件を知っている。
質問の意図は、わからないけれど。
ひょっとしたら、僕らがハルの誘拐事件を知ってるかどうかを、確かめてる、のかな。
「うん」
僕はうなずいて、尋ねる。
「ミスターアンダーソンは、ハルの知り合いなの?」
まっすぐに、その奇妙な丸いゴーグルを見つめて。
ヒッ、とまた、アンダーソンは短く喉を鳴らす。やっぱりこれは、ビビってるとかではなく、喉の機械が故障しちゃったんじゃないのかな。
「ええ、まあ、少し前にね、彼とは、知り合いました」
ようやくアンダーソンが、顔をこちらに向ける。眼はゴーグルのせいで見えないので、もしかしたら逸らしてるのかもしれないけれど。
「へえ、虫仲間とか?」
そう尋ねると、アンダーソンの肩がびくりと跳ねた。
演技にしては、白々しい。でも、挨拶からして、妙に芝居がかっていたし、この人は、よくわからない。
「ええ、そんなところです」
にんまりとアンダーソンは笑う。作り笑い。
「ふーん」
うなずいて、僕は彼をじっと見る。
こいつは、何を知りたいんだろう。
何が目的で、僕らに声をかけてきたの。
まさかさっきの、ぐるぐるで灰の降るククリ島を見せるため?それが目的とは思えないけれど。
アンダーソンの左腕が動く。モーターの音を立てて腕が上がり、彼はちらりとその腕を見て、
「ああっと、ぼくとしたことが、つい楽しくて、長々とおしゃべりをしてしまいました」
腕時計は、していないように見えるけれど、わざとらしく、そんな事を云う。
「たいへん楽しかったです。ありがとうございます」
仰々しいくらい大袈裟にお辞儀をして、アンダーソンは云い、右手で車椅子を操作して、くるりと回れ右をする。
「ああ」
またわざとらしく、振り向いて、
「最後にもうひとつだけ」
そう云って、僕を見て、アンダーソンは尋ねる。
「あなたの、お名前は?」
かちかちかち、ゴーグルのレンズが動いて、僕を見ている、たぶん、だけれど。
「K」
そう、僕は答えた。正直に、スズキキクタと名乗るのは、今は得策ではない気がして。
たぶん、調べたら、すぐにわかる事なのだろうけれど、今は、云いたくなかったから。
K、とアンダーソンはつぶやくように繰り返す。そして、
「いいお名前ですね。K、またお会いしましょう」
仮面のような作り笑いを見せて、くるりと振り向いて、車椅子のモーターを鳴らしながら、去って行った。
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屋根裏ネコのゆううつ II