台風一過、とは少し違うのかもしれないけれど、熱帯低気圧が通り過ぎた翌日の金曜日は、爽やかな秋晴れの一日。
小学校では、朝からお昼まで、明日の運動会に備えて、全校での予行練習だった。
金曜日なので、今日もハナは学校へ来ない。
明日、土曜の運動会本番にも、ハナは参加しないことになってた。
もともと、ハナが学校へ来る目的は、なかよしの「キクタ」に会いたかったからで、勉強をするためでも運動をするためでもないらしい。
だから、というわけでもないのだけれど。
ハナが運動会に参加しないのは、単に「人目を避けるため」だった。
週に一度、月曜しか登校しないので、運動会の練習にもまったく参加できていなかったというのも理由としてはあったし(そもそも認識が消されているので、どこまでまともに参加できるのかも疑問だったけれど)、何より、小学校の運動会だから、父兄もたくさん見に来るし、市内の老人会や福祉団体の人たちも参加したり、市長さんや市の偉い人が来賓として見物に来たりと意外に人目は多い。
とは云え、クラスでのハナの認識の状態を見る限り、おそらく街中から、「ハナが学校にいる」という認識を消されているはずなので、競技には参加しないまでも顔を出して、運動会の雰囲気を楽しむくらいならだいじょうぶなのでは、と僕は提案したのだけれど、それは、Jが断固反対した。
レムナントであるハナの一番の懸念事項だった、噂のH・O一派の正体が、アメリカ帰りのハンスと、地下の「揺り籠」で眠り続けるH・O博士だけだった事も判明しているし、ナナの云うように「明確な敵」は僕らにはいないはず、だけれど。
しかもそんな一般人の中に、かつてのベースやアメリカ軍の関係者が潜んでいる可能性は、ほとんどないのでは、と僕には思えるのだけれど。
でも確かに、それが「0」とは云い切れない。
ハンスが小学校の校門前に僕を訪ねて来た時、「ハンスの認識は消されてないの」と尋ねた僕に彼は、
「ハンス・オスヴァルト・アンダーソン本人の認識は兎も角、ぼく個人の認識は、あなたの仰る通り消されてはいないようです。タイミング的な問題でしょうね。ベースやアルカナの認識が消されたのは、ぼくが軍と共に本国へ撤退した後です。その時点でこの国に残っていたアルカナとそれに関するもの、それらが対象だったのでしょう。つまりぼくは対象から外れているわけですね」
そう云ってた。
ベースや海沿いのクレーターを含む、アルカナの認識が消されたのが、ハンスと軍がアメリカへ撤退した後、なのだとすると、それを消したアルカナもしくはアニーを僕らはまだ知らない、という事になる。
ベースに残されたキクタたち以外のアニーと云えば、モニカとナガヌマくらいしか、僕らは知らない。
あるいは、可能性だけで云えば、ヌガノマことウィリアム・ホワイトもいるけれど、あいつがそんな事を気にするかな、と思える。軍がいなくなった事で、物資を盗む場所に困るようにはなったのかもしれないけれど、だからと云ってあいつが、ベースやアルカナの認識を消して、あいつ自身の認識も消したりするだろうか。
認識が消されたその後も、堂々と街中をうろついたりしているわけではない点から云っても、あいつには到底そこまで考えが及ばないのでは、と僕には思えた。
ある意味、それは僕らにとっては幸いだったのかもしれないけれど。
それに、まだ敵か味方かわからないMのような存在もいる。
僕らに接触するのがMの目的だったのだとしたら、前回は途中でキクヒコさんにじゃまされた事になるので、今もなおその機会をうかがっていないとも限らない。
諸々考えた結果、Lの「まあ、オレも運動会とかキョーミないから出ないし?」というあまり参考にならない意見(?)もあって、明日の運動会には、ハナは参加せず、僕とJだけが出る事になってた。
てっきり、ガブリエルも参加するのかと思っていたのだけれど、
「いやあ、だって、ミクリヤミカエルとして出るんだよ。徒競走や何かはまだしもだけど、フォークダンスとか女の子側だから、男の子と手をつないで踊るわけだよねえ。それは、あんまりうれしくないかも?」
そう云って、何やらくすくす笑ってた。
なので、予行練習の今日も、ガブリエルはお休みだったらしい。
空は気持ちよく晴れていたけれど、なんとなく、僕は一日中、妙な緊張感をずっと抱えてた。
もちろんそれは、明日の運動会に対するものではたぶんなくて、今夜の、ルリおばさんの記憶に潜る方に対して、だったのだと思う。
記憶に潜る事それ自体は、ハナの海でナナと何度か経験してるので、だいたいの様子はわかってる。
場所が今度は僕の意識空間で、ナナは参加しないので、その不安は多少あるのかもしれないけれど。
緊張してるのは、きっと初めて僕自身の意思で、誰かの記憶に潜るから、なのだと思う。
夢で見る記憶と違い、潜る方の記憶なので視界は僕自身のものになる。眼をそらす事も閉じる事もできるし、記憶の再生も停止も僕の思いのまま、のはず。
だから、心配するような事は、たぶん何もない、はず、なので、そこまで緊張する必要は、ないとは思うのだけれど。
きっといつもの、僕の心配性が出ているだけ、だよね。
晩ご飯とお風呂を済ませて、2階の僕の部屋へ戻る。
屋根裏に、今日もNの姿は見えなかった。
ネコは夜行性だし、今夜もどこかへ出掛けているのかな。
器のキャットフードは減っていたので、昨夜も戻ってはいるのだろうけれど。それとも、昼間僕が学校へ行っている間に戻って食事をして休んでいるのかも。
キャットフードを補充して、水の器も台所で洗って水を入れ替えた。
夜8時、からからと貝殻の風鈴が鳴る。
ベッドに腰掛けて、オレンジの海を「振り返る」と、砂浜の流木の前に、完全武装のLが立ってた。
黒い眼帯と、ガンベルトと、デリンジャー(のモデルガン)
小学校の制服は、今日はスカートだ。ガブリエルがお休みしてたから、返してもらったのかな。
「いやあ」
ちっちっとLは立てた人差し指を振って、
「あいつ、返してくれねーんだよ。これは、洗い替え用の制服、仕方ねーからクローゼットの奥から引っ張り出したの」
腰に手を当てて、ふふん、と笑う。
「おや?」
レースのカーテンがふわりと揺れて、ガブリエルの声がする。遅れて風鈴がからからと鳴る。
「洗い替え、あったんだねえ。じゃあそれも貸してくれる?そしたら気兼ねなく、毎日学校行けるし」
ふわりと砂浜に降りて、ガブリエルはくすくす笑ってる。
「おまえな、その「気兼ねなく」って言葉の使い方、間違ってるからね?まずはオレに気兼ねしなさいよ」
Lは肩をすくめてるけれど、その顔は楽しそうにニヤニヤ笑ってた。
もう一度、からからと貝殻の風鈴が鳴って、お庭の窓が開き、Jがふわりと砂浜に降りてくる。
「お待たせ。みんな早いね」
ふふふ、と魔法の声で笑う。
「ふたりは、明日運動会だからねえ。今日はあんまり遅くならない方がいいでしょ。Jはリレーの選手だし」
ガブリエルがいつものやさしい笑顔で云うと、Jは慌てて顔の前で手を振って、
「リレーの選手って、違うでしょ。6年生のリレーは、クラス対抗で全員参加なの」
そう、僕に説明してくれる。
Lがまた肩をすくめて、
「ご苦労さんだぜー。どーせアイのクラスが優勝だろー?ずるいよなー、中学生が混じってるんだもんなー」
ニヤニヤしながら云う。
それは、まあ、そうかも。誰も知らない事とは云え。
「でも、今日の予行練習では、うちのクラスが勝ったんだよ。だから、明日もわかんないよ?」
Jはそう云って、腕組みをしてふふん、と笑う。
ちょっと意外だった。Jってそういうのに燃えるタイプだったんだ。
「いやあ、そりゃあれだろ、予行練習だからって、アイが手ぇ抜いたんじゃね。明日はアンドウセンセーも見に来るんだろーし、アイも必死で走るだろーねー」
はっはー、と楽しそうに笑うLの言葉に、あのアンドウ先生の冷たい眼差しを思い出す。
もし負けたら、アイはまたあの顔で怒られたりするのかな。
銀縁メガネをキラッとさせながら、「アイ、おまえ、一体何してるんだ」とか淡々と云われるの。
うーん、それはちょっと、可哀想かも。
「それはまた、おじいちゃん心配しすぎじゃね。たかが運動会のリレーごときで、まさかあのセンセーもそこまでマジギレしたりしねーだろ」
はっはっと軽く笑い飛ばしながら、Lが僕の肩をぽんぽん叩く。
そうかな、だったらいいけれど。
「そんな事より、全員揃ったし早速出発しよーぜー」
Lが腰に手を当てて、オレンジの海を真っ直ぐに見て、云う。
うん、行こう。
僕はLの隣に立って、右手をLとつなぐ。
茨の道を往くか
あの夢で、ナナはそう云ったけれど、だいじょうぶ。
それがたとえどんな道でも、僕には頼りになる仲間がいる。
すっと僕の左手を、Jのやわらかくてほんの少し冷たい手が握る。
「ふふふ」
魔法の笑い声が、僕のヘッドホンから聞こえる。
「わくわくするねえ」
ガブリエルがJの左側に立って、Jと右手をつなぐ。
ふわりと、体が浮き上がる。
そのまま、すーっと海の上を僕らは手をつないで飛ぶ。
場所は、わかる。
ゴーグル越しの視界の先に、まだ見えないはずのオレンジの海の底が見えるような気がした。
「あのな」
右側でLが不満げに、
「いきなり飛ぶなよ、おまえ。せめて何か云ってから飛びなさいよ。はーい皆さん行きますよー、とかさ」
そう云って、両手で僕の右手を掴む。
あ、そうか。これは、並び順、ミスったかもしれないね。
ガブリエルが左端なのはいいとして、ジェットコースターとか平気なJが右端の方が良かったかも。
「あ、そっか。じゃあ、今から変える?」
Jがしれっと云うと、Lがとんでもないと云わんばかりに首を振って、
「J、あんたバカなの。こんな空中で飛びながら順番入れ替えるとか、何云ってるの。雑技団じゃねーんだぞ、おい」
僕の右手に両手で必死にしがみつきながら、云う。
威勢だけはいいけれど、ポーズはすごく、かっこ悪い、かも。
「かっことか、おまえな。だいたい、飛ばしすぎじゃね。ここ制限速度いくつなの。お巡りさんに怒られるよ?もっと何て云うか、その、ゆっくりでもいいのよ」
Lにそう云われて、そうかな、と思う。
ナナの時より、だいぶゆっくり飛んでるつもりだったのだけれど。
それに、目的地はまだだいぶ遠いから、これ以上ゆっくりだと、時間がかかりすぎちゃう、かな。
「L、怖かったら、眼をつぶってればいいんじゃない」
Jがぴこんと閃いた顔で云う。両手が塞がってるので、人差し指は立てられなかったらしい。
「あーなるほどな?って、J、あんたばかじゃないの。眼なんかつぶったら、余計に怖いでしょ」
僕の手にしがみついたまま、顔だけは元気よく、Jに噛みつきそうな勢いでLは云う。
それは、そう。僕も同じ事をナナに云われた。「怖いなら眼を閉じればよかろ」って。そしてLと同じ事を思った。そんなの余計に怖いよね。
まさか、普通に飛ぶだけで、Lがこんなに怖がるとは思わなかった。もしかしたら、Lは僕以上にこういうのが苦手なのかな。
だとすると、この先が思いやられる、かも。
「おい、おまえ。あのな、手ぇつないでんだぞ。そーいうの、頭ん中で云うな」
そんな無茶をLが云う。
云うなって云われても、頭の中で思ったら、それは聞こえちゃう、よね。
Lが僕の右腕を抱きしめるくらいの勢いで右手にしがみつくので、ふわふわの長い金髪が僕の鼻先で揺れてこそばゆい。
お風呂に入ってきたばかりなのかな。シャンプーのいい匂いがする。
「おま、おまえ、ばかだろ。何云ってんの。ちょっと黙れ。その思考を止めろ」
またそんな無茶ばかりをLは云う。僕の右手に両手でがっしりとしがみついたままで。
4人で手をつないでるから、Jが声を殺して「ふふっ」と笑うのも、ガブリエルがくすくす笑うのも聞こえる。
Lには悪いけれど、僕は何だか、とっても幸せな気持ちになってた。
ごめんね、L。
一度行きさえすれば、次からは一瞬で、ひとっ飛びに行けるから。
「ほんとに?」
そう云って、Lはきれいな青い眼を潤ませて、すがるように僕を見る。
いつも自信満々で、どんな事でも「はっはー」と笑い飛ばすLが、そんな眼で僕を見るなんて。
何だかLがとても健気でかわいくて、僕はLの手を握る右手にぎゅっと力を込める。
もうちょっと、たぶんもう少しで、目的地上空のはず。
ぴこん、とヘッドホンから音がして、僕は空中でぴたりと止まる。
例の慣性を無視した止まり方で。
ここかな。
ふわりと海面から2mほど浮かんだ僕らの足の下には、見渡す限りオレンジの海が延々と続いていて、なんの目印もないけれど。
「着いたの」
涙目で僕を見上げるLに、僕は静かに首を振る。
ここから、このオレンジの海の底まで行かないと。
「おお、ダイビング?」
どこまでも楽しそうな、ガブリエルの声が云う。
そう、だね。ハナの海は枯れていて、ひび割れた海の割れ目から、マグマの底まで降りて行ったのだけれど。
僕の海だと、どうなるのだろう。
「行ってみよ」
魔法の声で、Jが云う。
そうだよね、行ってみるしかない。
「はい、じゃあ、行きますよ?」
声に出して、Lに云う。
Lは泣きそうな顔で僕をにらんで、無言でカクカクうなずいてる。
すっと支えを失ったみたいに、僕らの体が落下する。
「ひっ」と短く、Lが息を飲むのが聞こえて、僕も胃袋をキュッと掴まれたような感覚に襲われる。
ぽしょ、みたいな地味な水音を立てて、僕らの体は手をつないだままオレンジの海に落ちる。
抵抗の少ない、オレンジの海の水、だからなのかな。
「わあ」
Jの歓声が聞こえて、眼を開けると、そこはオレンジの海の中。
「これはまた、絶景だねえ」
ガブリエルがため息まじりに云う。
本当に、その通り。
星の向こう側にある二重の太陽の光にぼんやりと浮かび上がる、夜のオレンジの海。
仄かにきらきらと輝くたくさんの小さな泡が、僕らの軌跡を辿るように水面へ向かって浮かび上がって行く。
意識空間だからかな、海の中だけれど、息ができないって事はないらしい。
「L、見て。きれいだから」
僕の腕にしがみついて、ぎゅっときつく眼を閉じているLに、そう声をかける。
これは、見ないともったいない。
恐る恐る開いたLのきれいな青い眼が、大きく見開かれる。
「おお」
元気なハスキーボイスが云う、けれど。
「ちょ・・・おまえ、何これ。落ちてるじゃん、落ちてるよ?」
きれいな海に見惚れていたのはほんの一瞬で、すぐにその風景がものすごい速さで上へ向かって流れて行くのに気づいたらしい。
Lは僕の右手にしがみついたまま、僕にそう食ってかかる。
悲鳴みたいに、ハスキーボイスがうわずってる。
僕はLの手をぎゅっと握って、云う。涙を浮かべたきれいな青い眼をじっと見つめて。
うん、ハナの海に落ちて行く時は、真っ暗な海の底の地割れの中だった。
落ちると云うより、その暗闇に吸い込まれるような感じがして、ブラックホールに吸い込まれるのって、こんな感じかなって思った。
だから、Lに見せてあげたいな、って思った。
「ほんとだねえ、吸い込まれてるみたいだ。こっちはきれいなオレンジの海だけど」
くすくすと楽しそうにガブリエルが笑う。
うん、ナナもそう云ってた。
そちらはあの海に落ちて行くのじゃろ。それはさぞかし壮観じゃろ、って。
「そっか、ナナちゃんも来れればよかったのにね」
ポツリと少し寂しそうにJが云う。
そうだけれど、ナナはこうも云ってたよ。Lに見せてあげたい、って云った僕に。
おぬしが死んでガブリエルが王となり、海が灰の海となれば、金髪にもこれが見れるじゃろの、って。
「はっは」
ハスキーボイスが笑う。
「ナナちゃんらしい、ブラックなユーモアじゃん。さすがだねー」
いつものように、陽気に云って、けれどすぐにまたぎゅっと僕の手にしがみついて、
「それにしてもこれ、いつまで落ちるの。長すぎじゃない?向こう側に突き抜けちゃうんじゃないの」
青い眼で僕をにらむ。
向こう側に突き抜けたりは、しないでしょ。
下を見ると、白い海の底に大きな谷間のような、暗い部分が見える。
海溝、かな。
そう思う間もなく、まるで水中を滑り落ちるように、すごい速さで落ちて行く僕らの体は、その海溝に吸い込まれて行く。
海溝の中は、暗い。
二重の太陽の光も、さすがにこの中までは届かないのだろう。
真っ暗ではないけれど、周囲の暗い岩壁がどうにかそこにあるのが見えるくらいの明るさだった。
海溝の幅は、数十mくらい、かな。
その中を、僕らは吸い込まれるようにぐんぐん落ちて行く。
なんとなく不安になって、左手をつないだJを少しこちらに引き寄せる。
右手のLは、これ以上ないくらいくっついて僕の腕にしがみついてるので、だいじょうぶ。
本当に、どこまで落ちるのだろう。
ハナの海では、いつまで落ちるんだろう、って思い始めた頃に、あれが見えてきたはずだけれど。
「あれ?」
ガブリエルに聞かれて、
うん、ぐるぐる螺旋を・・・そう答えかけたら、見えた。
周囲の岩壁に沿って、ぐるぐると螺旋を描くような白い梯子状の構造物。
でも、何だか多い、かな。
「多い?」
Jが云うので、うなずく。
ハナの海の場合は、あの螺旋の梯子は、2〜3本くらい、だったような。
ぐるぐると周囲を巻いてるので、正確な本数をきちんと数えたわけじゃないけれど。
僕の海の螺旋は、それより明らかに多い。螺旋の密度が濃い、と云うか、単純に本数も多い、気がする。
「ははあ」
Lが顔を上げて、おそるおそる辺りを見渡しながら、
「保管されてる記憶の人数かなー。ひとり1本なんだとして、ハナちゃんの海は、ハナちゃん、ナナちゃん、ナガヌマちゃん、で3本。でもおまえの海は、オレたち4人とアイで5人、あとルリちゃんとキクヒコで7人かな。まあ、倍ほどあっても当然かもねー」
ふふん、と鼻を鳴らす。
いつの間にか、落下速度がゆっくりになっていて、暗い岩壁を背景に、白い螺旋の梯子がよく見える。
Lがちょっぴり元気になったのも、たぶん、ゆっくりになったから、かな。
「もうね、いい加減に慣れたしなー。いや、だからってもっかい急に落ちるとかはナシでお願いね」
そう云って、Lは苦笑いを浮かべる。
もう、急に落ちたりはしなかったと思うけれど。
この後は、最後までゆっくりだった、はず。
ハナの方は、底にマグマが溜まっていたので、それを突き抜けて下まで落ちたのだけれど。
こちらは、マグマはなさそう、かな。
下を見ると暗く、まだ底まではだいぶありそうだけれど、赤黒く光るマグマは、どこにも見えない。
「しっかしまあ、この梯子の横木?その1本1本が記憶なんだとしたら、確かに膨大な数だなー。おまえやナナちゃんがうんざりするのも、そりゃ納得だわ」
周囲の梯子をあらためて見渡しながら、Lがため息まじりに云う。
「うん。見つけられるかな、この中から」
Jがそう、不安そうにつぶやくのも、わかる。
「でも、これ全部見る必要はないからね。まずルリちゃんのがどれなのかを確かめたら、後は重点的にそいつを、かなー」
Lがそう云って、思い出したみたいに急に片手を僕の手から離して、その手で人差し指を立てる。
「何か、それっぽい「線」が出てるんだよねー」
ニヤリと笑う。
「線」?
それは、気づかなかった。
ハナの海でナガヌマの記憶に潜っていた時には、僕はまだゴーグルをしていなかったのだったかな。
だとしても、ナナには何かが見えていたのかも。見えていて、ナナはそれっぽい記憶を選んでくれてたのかもしれない。
それに、結局ナガヌマは記憶を失くしてはいなかったし、だから海とのつながりも切れていなかった。
ゴーグル越しに下を見ると、確かにうっすらと黄色い線が見える。「線」モードに切り替えればもっとよく見えるかもだけれど、今は両手が塞がってるので、ゴーグルを操作できない。
でも、黄色なのが気にかかる。危険なのかな。
「いやあ、危険度じゃなくて、状態じゃね。本来つながってるはずのものが切れてるんだから、状態としては異常だよね。だから黄色なんだろね。そーいう意味では、「赤」でもおかしくはねーけど」
Lがそう説明してくれて、なるほど、と思う。
するりと体全体に感じていた水の抵抗がなくなって、どうやら水の層を抜けたみたいだった。
ハナの海で云う、マグマの層、かな。
とすると、もうすぐ到着かも。
ふわふわと漂うように、僕らは暗い谷底を下へ下へと落ちて行く。
「何か見えた、あれ、何だろ」
じっと下を見つめていたJが云う。
「うん、何か白い、お花かな」
ガブリエルも云う。
あらためて、下に眼を凝らすと、確かに、ぼんやりと白く光る、無数の点々。
あれが、お花なの。
ハナの海の底、記憶の保管庫は、黒いツルツルの石かプラスチックのようにも見える床に、うっすらと水が溜まっていた、けれど。
そう思い返して、もう一度周囲を見渡す。
周りの壁は、一緒かもしれない。
黒く艶々と光る滑らかな壁。
表面にはうっすらと、水の層が覆っている。
では、下も一緒なのかな。
あっちには、お花は、なかったけれど。
「うん。お花だね、きれい」
Jの魔法の声がそう云って、ようやく、僕にもその全体が見えた。
うっすらと透明な水の層に覆われた、黒い艶々の地面、その一面に、小さな白い花が咲き乱れてる。
どこかに光源があるのか、あるいは、その白いお花ひとつひとつがぼんやりと仄かに光っているのかもしれない。
オレンジの海の、記憶の保管庫、その底は一面の白いお花畑だった。
滑るようにゆっくりと落ちていた僕らの体は、そのお花畑の上、1mほど上空でぴたりと止まる。
止めたのは、たぶん、僕。
なんとなく、お花を踏むのが憚られて、だったのだけれど。
「とは云え、これは、踏まないと降りられないね」
ガブリエルがそう云って苦笑する。
本当に、それくらい、文字通り、足の踏み場もないほど、辺り一面に、その白くて丸い小さなお花が咲いてた。
シロツメクサかな。
お花自体は、それに似てるけれど、その周辺にあるはずの緑の葉っぱはひとつも見えない。
白い茎と白い丸いお花だけ。
「ハルジオンみたいなのもあるね。こっちもお花だけで葉っぱがないけど」
Jが云うので、その視線の先を見ると、確かに背の高いお花の群生も見える。
そちらも、Jの云う通り、白っぽい細い茎と、その上に咲く白いお花だけ。
踏まずに降りるのは諦めて、そっとお花の上に着地する。
ふわりと甘い香りが漂う。
こんな日光も差さない暗い穴の底に、お花畑なんて。
「うん、不思議だなー。でもこれ、かつてのアルカナの星の風景で、しかもおまえの意識空間だからねー」
パッと僕の右手を離して、照れ隠しみたいにその辺のハルジオンっぽいお花を指先でつついて、Lが云う。
アルカナの星の海の底に、こんなお花畑が本当にあったのかな、それとも僕の意識空間だから、ここがお花畑なのかな。
「きれいだから」
Jがぽつりと云う。どっちでもいいよ、という事かな。
確かに、ちょっと座ってぼんやりしたくなるくらい、きれいだけれど。
「座ったらお尻が濡れちゃうけどね」
ふふふ、とおかしそうにJが笑う。
それは、そう。お花畑の下の地面は、水の層に覆われたつるつるの黒い床。
座ってぼんやりするには、椅子が必要だね。
こんな硬そうなつるつるの地面からお花が生えてるのも、考えてみたら不思議だ。
「そもそも、あんな梯子に、記憶が保管されてるのも不思議だからなー」
そう云って、Lが壁際に向かってつかつかと歩き出す。
もうすっかり、いつものLに戻ったようで、僕はホッと安心する。
僕の視界では、Lの向かった方向を、黄色い「線」が指してる。
指先でゴーグルを操作して、「線」モードに切り替えた。
「うーん、見るからにこれじゃね」
黒い壁の手前で立ち止まり、しげしげとその巨大な梯子状の構造物を見上げてLが云う。
左右にある、別の梯子と見比べたりしながら、
「この子、明らかに、元気がないよね」
そんな事を云う。
元気がない
云われて、Lの前にある梯子を見て、そのすぐ右にある梯子を見たら、その違いは一目瞭然だった。
色が、薄い?
「うん。他のは白くてぼんやり光ってるけど、この子だけくすんで灰色っぽくなってて、光も弱い、今にも消えそう」
今にも消えそう、とLが云うのは、そのぼんやりとした光が、なのだろう。
確かに、元気がないように見える。
それは、海とのつながりが切れてるから、なのかな。
「だろーねー。物理的に切れたりは、してなさそうだけどなー。いやあ、物理的に切れてる方が、わかりやすくて良かったんだけどね。そこをどうにかつないであげるだけでいいんだとしたら、さ」
ふむー、とLは腕組みをして、目の前のねじれた梯子を見上げる。
たぶん、ルリおばさんの記憶が保管されてるはずの、元気のない梯子を。
ナナが云うには、その「切れ目」もその「直し方」も、見れば「自ずとわかるはず」との事だったけれど。
「此れもあるし、の」
そう云って、ナナは「なかよしのメガネ」をぴこぴこ動かしてみせてた。
ふむ、とLはうなずいて、僕を振り返る。
「ちなみに、黄色の「線」はどこを指してるの」
そう、Lは僕に尋ねる。
答え合わせ、という事かな。
視界の「線」の指す方へ、Lの前の黒い壁面に沿うように螺旋を描いてそびえる梯子に近づく。
梯子の幅は、ハナの海にあったのと同じ、大人が手を広げて届くかどうかというくらい。2m弱かな。
横木と横木の間隔は、横幅よりだいぶ狭くて50cmくらいだろうか。
黄色の「線」は、対象が近いのでその表面がぐるぐる回転して見える。
それが指すのは、下から2本目の、ねじれた横木。
「うん、たぶんそれだなー。いやあ、ここまでピンポイントで指してくれるなら、案外すんなり終わるかも?まあ、切れてんのが1箇所だけなら、だけどなー」
確かにLの云う通り、記憶と海とのつながりが「切れてる」という異常が発生していて、それを「線」で探知できるのだとしたら、ナガヌマの記憶を探索するナナのように、ひとつずつ記録を確かめる必要がないので、格段に早いかも。
切れてんのが1箇所だけなら、とLが云うのは?
何箇所も切れてたりする可能性もあるのかな。
Lを振り返ると、ぴこんと二本指を立てて、
「ルリちゃんは2度、あいつに意識を移されてるからね。壊されてるのが1箇所だけとは、思えねーかなー」
いつものハスキーボイスだったけれど、Lの表情は少し険しい。
あいつ、
ヌガノマことウィリアム・ホワイト
夢で見たあの冷たい船底の記憶が甦りそうになり、僕は慌ててかぶりを振る。
目の前の、灰色のねじれた横木に意識を集中する。
そうだ、目次。
ナナはこの横木に手をかざすと、記憶の中身が見えるって云ってた。まるで映画の予告編みたいに。
「へえ、そんな便利機能もあるの。まあでも、この数だからなー。そんな機能でもないと、永遠に見つからねーかも」
Lは梯子を見上げて苦笑しながら、僕の隣に来て右手をひらひら振る。
うなずいて、Lと一緒に、梯子の横木に手をかざす。
ナナの云う通り、文字通り、頭の中に映像が浮かぶ。面白い。
これは、森の中の遊歩道、かな。
木々の緑が鮮やかで、眼に眩しい。その緑の間を煉瓦敷きの広い歩道がまっすぐに伸びている。
「おお、ほんとに映画の予告編じゃん」
Lがニヤリと笑って、
「で、触るとどうなるのかなー」
ちょん、と指先でくすんだ灰色の横木に触れると、ぐにゃりと横木を中心に梯子全体が歪んで、アーチ型の入り口が開く。
アーチの中には、さっき頭に浮かんだ煉瓦の歩道と森の緑が奥へと続いてる。
さわさわと梢を揺らす風の音がする。
「おおー、すっげー」
すっかりご機嫌も直ったらしい、いつもの陽気な笑顔でLが歓声を上げる。
「あー、L、わたしも、予告編見たかったのに」
不満げにそう云いながら、後ろから近づいてきたJが、アーチを覗き込んで、
「わ、すごい」
口をぽかんと開けて、その口に手のひらを当てながら云う。
「このアーチの中がもう記憶なの、ルリさんの」
Jの隣で、ガブリエルも驚いた顔で開いたアーチの中を覗き込んでる。
うん。
うなずいて、僕は横に立つLと手をつなぐ。
「ん、なんで?ま、また落ちるの」
すっかりトラウマになってしまったのかな、Lは怯えた眼で僕を見る。
だいじょうぶ、落ちないよ。
ただ、ずっと歩いて行くのはたいへんだから、ナナとナガヌマの記憶に潜る時も手をつないで飛んでた。
意識空間だし、危険はないはずだけれど、記憶の中身には触れないし、何が起きるかわからないから。
「なるほどな、了解。じゃあおまえは、片手が空いてた方がいいかもだなー」
そう云ってLは、後ろにいたJと左手をつなぐ。
「うん、了解」
Jもうなずいて、左手を隣にいたガブリエルとつなぐ。
「じゃあ、行きますよ」
声に出して云うと、3人がそろってうなずいた。
ふわりと浮き上がり、アーチの中へ進む。
初夏の眩しい日差しが降り注ぐ、林の間の遊歩道、だろうか。
木々の薫りがする。
そよそよと風が吹いて、煉瓦の歩道に落ちる木々の葉陰が揺れている。
Lのお屋敷の周りの、田園地帯とかお庭の林、に似ているような気がする。
「すげえな。まるで本物じゃん。まあ本物の記憶なんだから当たり前なんだろーけど」
ぐるりと辺りを見渡して、最後に後ろを振り返りながらLが云う。
後ろに、僕らが入ってきたアーチはもう見えない。
僕らの背後にも、記憶の風景はつながって、煉瓦の歩道が続いてる。
だいじょうぶ、帰りは、あのお花畑へひとっ飛びだから。
そう説明すると、
「なるほど、りょーかい」
Lがニヤッと微笑んでうなずく。
「お屋敷の周りに似てるってKが云うのは、確かにねえ。ボクもそう思った。ススガ森のどこかなのかな」
ガブリエルも辺りを見渡しながら、首をかしげる。
「さて、どうかなー」
Lは、ここがどこなのかわかったのかな。ニヤニヤしてるけれど。
「いやあ、森の遊歩道にしては、道幅が広すぎるよね。車が通りそうな広さじゃね。それに」
そう云って、僕とつないだ手で、右手の木立の向こうを指さして、
「あれ、テニスコートっぽくない」
ふふっとLは笑う。
云われた先を見ると、右手の木立は緩やかな下りの斜面になっていて、下の方に四角く区切られた茶色の地面が見えた。
テニスコートっぽいかもしれない。
「あ、運動公園かな」
ぴこんとJが人差し指を立てて、云う。
運動公園って、あのお屋敷の最寄りのバス停の?
そうかもしれない、と思った矢先、
「はあ、もう!」
すぐ後ろから、ため息まじりの女の子の声がして、驚いて振り返る。
高校生かな。
白い夏服を着た栗色の髪の女の子が、重そうな黒い布の鞄を肩に掛け直しながら、僕をにらんでる。
いや違う。僕が見えているはずはないので、前方をにらんでいるだけ、なのだろうけれど。
あ、この子、
「ルリちゃん?」
Lが、ずいっと彼女に近づいて、まじまじと顔を眺めるのでびっくりする。
「え、何で?だってオレたち見えてないんだろー」
そうだけど。さすが、L、順応力高すぎでは。
「セーラー服だ、スス高かな。かわいい」
Jもわりと遠慮なく、ぐいぐい寄って行く。
結果、手をつないだ4人で彼女の行く手を塞ぐような格好になってる。
まあ、見えないのだし、たぶんそのまま彼女が進んでも、僕らにぶつかることもないはずだけれど。
「スス高って、どこの高校?」
ガブリエルがJに尋ねる。僕も、同じ市内でも高校の名前なんかは、さすがにわからない。
「ススガ丘高校だね。ススガ岳の南、つまり市の南西あたりがススガ丘って場所で、そこにある学校だよ」
そうJが説明してくれるけれど、目線はじっとセーラー服の彼女を見つめてる。
「正確には、ススガ丘学園高等部、だなー。その辺り一帯が、ススガ丘学園っていうでっかい学校を中心とした学園都市になってるんだよ。幼稚園から大学院とかちょっとした研究機関まであるらしいぜー」
Lは僕にそう補足してくれてから、またまじまじと彼女を見つめて、
「それにしても、ちょっとスカート短すぎない?そーいうお年頃なのかしら」
何だか、口うるさいお母さんみたいな事を云ってる。
目の前の、高校生のルリおばさんは、小柄で童顔なところは変わらないので、見た目だけで云えば中学生でも十分通るくらい、幼い印象があった。
髪型のせいもあるのかな。今みたいに長くなくて、襟足くらいで切り揃えたショートカットなので、余計に幼く見えるのかも。
「ルリちゃんって、眼青いんだなー」
じろじろと間近で顔を覗き込んで、Lが云うので、え、そうなんだ、と思う。
「青って云うか、紺かな。青みがかった黒、と云うか。ナナちゃんなら、こーいう眼の色をなんて云うのか知ってるんだろーけどなー」
ぴこん、とJが人差し指を立てて、
「それで「ルリ」なのかな。瑠璃って濃い青の宝石の事だよね、ラピスラズリ、だっけ」
「あら、あなた博学なのねえ」
Lが何故か、ルリおばさんの口真似で感心してる。
それはでも、僕も知らなかった。黒だと思ってた。ルリおばさんだし。
「それはおまえ、キクヒコだって実はドイツ系の白人だったくらいだからね?」
そうLに云われて、ピンと来る。
人身売買。海外には子供の誘拐を専門に行うような、そんな組織もあるって前に父から聞いたことがあった。
赤ちゃんの時に、どこか海外から買われてきた、そんな可能性は決して低くはない、けれど。
じっとルリおばさんの顔を見つめていたLが、また僕を振り向いて、
「んで、ルリちゃんが固まってるのは、何?Kが止めてくれたの」
そう尋ねるので、僕はうなずく。
みんながすごい勢いでルリおばさんに食いつくから、じっくり見たいのかなと思って、さっき記憶の再生を止めてた。
「へえ、そんなこともできるの、すごいね」
Jが云って、ふふっと魔法の声で笑う。
いや、それはいいとして、ガブリエルが、何故かルリおばさんと一緒に固まってるみたいなんだけれど。
そう云ったら、ガブリエルは、はっと短く息を吸い込んで、
「ああ、ごめん。制服かわいいなーと思って見惚れてた」
へへっと笑って、
「いいなあ、ボクもスス高へ行こうかな」
あごに手を当てて、真面目に思案してる。
「ね、わたしも思った。スス高行きたい」
Jがガブリエルとつないだ手をぶんぶん振って、にっこり笑う。
Lが肩をすくめて、
「おまえら何云ってんの。スス高へ行ってもこのルリちゃんがそこにいるわけじゃないでしょ。それにガブリエル、おまえね、男子はセーラー服じゃないのよ?わかってると思うけど」
そう云うと、ふたりは顔を見合わせて、
「あ、そっか」「あ、そうだねえ」
しみじみと残念そうに云う。
「ダメだこりゃ。K、もういいよ、こいつらほっといて、さっさと進めよーぜ」
Lが呆れ顔で云って、僕らの手を引いて、ルリおばさんの進路から外れるように歩道の端へと移動する。
うなずいて、記憶の一時停止を解除すると、ルリおばさんはぎゅっと両手を握りしめて、大きく息を吸う。
そしておもむろに上を向くと、
「キクヒコめ!」
辺り一体に響き渡るような大声で云ったので、びっくりした。
いや、周囲には、少なくとも目に見える範囲には、誰もいない、けれど。
はあ、とまた大きなため息をついて、重そうな布の鞄をもう一度肩に掛け直し、ルリおばさんは煉瓦の歩道をずんずん歩いて行く。
ぷっとLが吹き出して、大口を開けて「わはははー」とハナみたいに笑い出す。
ガブリエルが肩をすくめて、
「ほら、まただよ。「キクヒコめ」、あの人、どれだけみんなに迷惑かけたら気が済むの」
困った笑顔で云う。
怒りのエネルギーのおかげだろうか、すごく元気に歩道を進むルリおばさんの後ろを、僕らはふわふわと宙に浮いてついて行く。
ルリおばさんが高校生、と云うことは、キクヒコさんも高校生、なのかな。
「いやあ、どーかな。ここがそのススガ丘学園の敷地内なんだとしたら、大学もあるだろーからねー。まあ何にせよ、このままルリちゃんについて行ったら、いよいよキクヒコにも会えるのかもだなー」
ふっふ、と楽しそうにLは笑う。
キクヒコさん
本当に彼もH・O・アンダーソン博士のクローンなのだとしたら、やっぱりハンスに似てるのかな。
公園でハンスを見たルリおばさんは、「あら、やだ、ほんとによく似てるわね」とか云ってたけれど。
と云うか、当時のルリおばさんたちは、例の地下のベースの居住区に住んでたはずだよね。
あのミドノ原の地下から、ススガ丘の高校まで、通ってたのかな。
「まあ、バスもあるし、通えない距離じゃねーと思うけど。そうじゃなくて、ベースの事情的にって事か?うーん、認識はまだ消されてねーはずだし、隕石の調査に米軍が来てること自体は、別に秘密でもなんでもなかったよね。あの地下のベースの存在は、一般市民には秘密だったかもしれないけどなー。その辺は、おじいちゃんが上手い事どーにかしたんじゃねーのかな。ナナちゃんの話じゃ、ベースの中でも中心的な古株だったらしいし、市内にもいろいろと協力者がいたみたいな事も云ってたよねー」
Lにそう云われて、なるほど、と思う。
今の僕には実感がないけれど、当時のキクタにしてみたら、米軍は敵でも何でもなく、むしろ身内?とまでは云えなくても、味方ではあったのだろう。
その米軍の影響力を上手く利用していたのか、あるいは、市内のどこにどんな伝手があったのかはわからないけれど、子供ふたりを学校へ通わせるくらいの事は、それほど難しいことでもなかった、という事なのかな。
ナナが云うには、キクタ自身は「ロクに学校も行かず、研究施設に籠って機械やら何やらいじってばかりおった」らしいけれど。
学校にも行かず、というナナの云い方は、行こうと思えば行く事は出来たのに、彼はそうしなかった、ともとれるのかも。
そう考えると、僕がすっかり忘れている「キクタ」の記憶も、気にならなくはないけれど、今はまだ、いいかな。
まずはルリおばさん。それから、ナガヌマの記憶の、ナナの「気掛かり」も手伝いたいし。
キクタの記憶を探しに行くのは、その後でもいいかもしれない。
ずんずん歩くルリおばさんの後についてしばらく進むと、左右の木立が開けて、建物がいくつか見えてきた。
学校の校舎らしき3階建ての大きな建物や、体育館やホールのような外観の建造物も遠くに見える。
これは、大学、なのかな。
校門らしきものはなかったけれど、たぶんもう敷地の中、だよね。
「最初のあの林もすでに敷地内だったんじゃね。それか、学園都市ってくらいだからねー、ここいら一帯がススガ丘学園で、中の高校や大学にいちいち校門はないのかも?知らねーけど」
はっはー、とすっかりいつもの調子で、Lは笑い飛ばしてる。
周囲に人の姿もちらほら見えてきて、どうやらここは、大学らしい。
広い歩道の左右は桜の木かな、並木道のようになっていて、そこここにベンチやちょっとしたピクニックテーブルのようなものが置かれている。何やらおしゃべりをしているいかにも大学生っぽいお姉さんたちや、ベンチで本を読む大人っぽいお兄さんも見える。
正面に歩道の交差点が見えてきて、その周辺はちょっとした公園のようなスペースになっているらしい。
ルリおばさんは、そんな辺りの様子には目もくれず、ややうつむきがちに、まっしぐらに歩道の真ん中をずんずん進む。
交差点に差し掛かったところで、
「あら、ルリちゃん?」
右手側から、どこか聞き覚えのある声がかけられて、ルリおばさんの足がぴたりと止まる。
声の方を向いたルリおばさんが、声の主を見つけたのか、にっこり微笑んで、片手を上げる。
「あ、キョウコさーん」
キョウコさん?
ルリおばさんの視線を追った僕の眼が見たものは、若かりし母の姿。
細身のジーンズに、薄いベージュのカーディガンを引っ掛けて、いかにも大学生っぽい、けれど。
「おお、若い」
Lがニヤリと笑うと、
「ちょっと、L、失礼でしょ。Kのお母さんは、今でも若いよ」
Jが慌ててそうフォローする。
いや、J、お気遣いありがとう。でも、それはそう、若いよね。大学生でしょ。10年以上前だよね。
右の歩道から小走りに駆け寄る母と、重い鞄を引き摺るようにずんずん歩くルリおばさんが交差点で対面する。
でも、何でこの記憶なの。
僕はいったい、何を見せられているの。
「え、でも、良くない?お母さんとおばさんの、学生時代が見れるなんて」
Jの声でそう云われると、いや本当にその通りだよね、としか思えないので困るのだけれど。
「どうしたの、大学まで来るなんて、珍しいじゃない」
若くても大学生でも母は母、なのかな。有無を云わせぬ単刀直入さで、ズバッとルリおばさんに尋ねる。
「これ、あいつのパソコン。忘れたから持って来いって。ルリ、昨日で夏期講習終わって、今日からのんびりーって思って、家で寝てたら、電話かかって来た」
肩にかけた重そうな鞄を、迷惑そうな顔でにらみつけ、唇を尖らせてルリおばさんは母に訴える。
いつもの、少し鼻にかかった甘えるような声で。
「え、ルリちゃんって1人称「ルリ」だったの。めっちゃかわいいな」
Lが楽しそうに云うのは、そこなの。確かに以前、僕がまだ小さかった頃、たまに会うルリおばさんが自分の事を「ルリ」って云いかけて「おばちゃん」って云い直してたような覚えはあるけれど。
「え、キクヒコのやつ、自分が忘れたパソコンをルリさんに届けさせてるの。そんなの「輪」で飛べばいいじゃない」
ガブリエルは、眼を三角にして怒り出すし。まあ、確かに、家に忘れたとかなら、「輪」で飛んで取りに戻れば済む話、だとは思うけれど。
母は大袈裟に口に手を当てて、
「あらまあ、それはたいへんだったわね。重かったでしょ。どこかで冷たいお茶でも飲まない?おごってあげるわ」
そう云って、ルリおばさんが肩にかけた黒い鞄に手を伸ばす。
「わあ、キョウコさん大好きー。あ、鞄はだいじょぶ、重いから、ルリが持つよー」
えへへ、と笑うルリおばさんは、その幼い見た目もあって、確かにかわいい、けれど。
母とルリおばさんって、こんなに仲良しだったの。
それがどうして、あんな・・・と思い返して、でもあれは、僕らを守るためのルリおばさんのお芝居だったなら、と考えたら、何だか胸の奥がきゅっと締め付けられるような気がした。
ふたりは連れ立って、冷たいお茶の飲めるどこかへ向かうらしい。交差した歩道を、母が歩いて来た方へ向かって、仲良く並んでゆっくり歩き出す。
「そういえば、ルリちゃん、お父さんのお加減はどう?キクヒコに聞いても、興味がないのか関心がないのか、さっぱり要領を得なくて」
母がふと思い出したように、隣を歩くルリおばさんを見て、そんな事を尋ねる。
ルリおばさんは、くるくるとよく動く眼で母をまっすぐに見返して、大袈裟に顔をしかめて、
「あいつに聞いてもムダだよー。たまーに家帰ってもずーっとパソコンいじってるし、キクちゃんの様子なんて、見に行きもしないんだから。キョウコさんの云う通り、キョーミもカンシンもないんじゃない?あの恩知らず」
そう云って、見えないキクヒコさんに向かって、ベーッと舌を出す。
それから、ルリおばさんは、少し神妙な顔で、ふっと青い夏空を見上げて、
「キクちゃんの体調は、相変わらずかなー。ナナが云うには、もって1年だって」
そうぽつりとつぶやくように云う。
そしてまたくるりと母の方を向いて、彼女がまだ何も云わないうちに、
「キクちゃんもさー、ルリの云う事なんかぜーんぜん聞いてくれないんだよー。お願いだから入院してーって何度も頼んでるのに、「あー」とか「うーん」とか生返事ばーっかりでねー」
ぷうっとふくれっつらをして見せて、それからクスッと笑う。
「まあ、キクちゃんが素直にルリの云う事聞いてくれたら、それはそれで怖いけどねー」
母はそんなルリおばさんをじっと見つめて、困ったような微笑を浮かべる。
「そっか」
小さくつぶやくように母は云い、すっと右手を伸ばして、ルリおばさんの栗色の髪を、ぬいぐるみでもなでるみたいに、ふわふわっとやさしくなでた。
「だいじょぶか、K、一時停止?」
つないだ手にぎゅっと力を込めてLがそう云って、僕ははっと息をつく。
記憶の再生を止めて、「ごめん、ありがと」、Lにぺこりとお辞儀をする。
昔から、そう。ルリおばさんは、自分の思う事をわりとお構いなしにいっぺんに話すので、面食らう事が多いのだけれど。
もって1年
この記憶が、10年ほど前なのだとしたら、だいたい、計算は合ってるのだと思う。
僕が生まれたのが、8年前。その同じ年、僕が生まれる少し前に、先代キクタが亡くなってる、はずなので。
だとすると、ナナの見立ては外れて、この時から少なくとも2年以上は、もったのかもしれない。
この記憶の時点で、キクタは、たぶん70代。
無口で不愛想でパソコンばっかり触ってる兄、キクヒコさんは大学生。
明るく元気でおしゃべりな幼く見える妹、ルリおばさんは高校生。
なんだろう、さっきのルリおばさんの話だけで、キクタたち家族の映像が眼に浮かぶようで、何だか急に、リアルに感じられた、と云うか。
当たり前の話なのだけれど、ルリおばさんはずっとあのルリおばさんだったわけじゃなく、こんな無邪気に笑う高校生だった頃もあって、母もずっとあの母だったわけではなくて、大学生だった頃もあったんだ。
そのリアルさが、なんだか不思議で、すごく切ないような、とても堪らないような、よくわからない感情が溢れて、ちょっとぼんやりしてしまってた。
Lがつないでた手を離して、僕の肩に乗せ、ぽんぽんとやさしく叩く。
「あと、ナナちゃんっていったい何者?っていう謎がさらに深まったよなー。医者なのかな」
Lはそう云って、首をかしげる。
ナナが云うには、もって1年
確かに、ルリおばさんのその云い方を聞く限りでは、ナナはお医者さんなのかな、と思える。
ベースの居住区で、お医者さんをしてた人?
聞いたら教えてくれるのかもしれないけれど、いや、どうだろう。
なんとなく、ナナ自身の事に関しては、あまり話したくないのかな、いつも適当にはぐらかされるような気がする。
「そうなんだよなー。オレとした事が、どうもいつも上手にごまかされてる気がするよなー」
むむー、とLは上を向いてうなってる。
前に一度、ガブリエルがずばっと「神様なの?」みたいに聞いた時は、びっくりしたけれど。
「え、がぶちゃん、おまえ、勇気あるねー。そんなはっきり聞いたの」
Lが尋ねると、ガブリエルは笑顔でうなずいて、
「初対面の時だったかなあ。その前に、Kから、ミカエルの「最強ナナちゃん説」を聞いてたからねえ。で、実際に会ってみたら、ほんとに神様っぽいなあと思って、「ナナちゃんは、本当に神様てきな何かなの」って聞いた気がする」
「で、ナナちゃんは何て?」
「なんだったっけ、「はて何の事やらじゃ」だったかな。さらっと流されて、おしまい」
ふふっと笑って、ガブリエルは肩をすくめる。
「ぐむむ・・・強えなー」
僕の肩をぽんぽん叩きながら、Lは下を向いて、苦笑いを浮かべてる。
ガブリエルがぴこんと人差し指を立てて、云う。
「あ、思い出した。その後で「リハビリも大事じゃが、休養も大切じゃぞ」とか云ってたよね。お医者さんっぽいって云えば、だいぶお医者さんっぽかったかなあ」
うん、云ってた。その時はまだ、お医者さんなの?とは思わなかったけれど。
「いやあ、それはさておき、ルリさんかわいいねえ。見てよ、ほら、Jなんか、放心状態だよ?」
ガブリエルがくすくす笑いながら指をさすと、はっとJが息を吸い込んで、
「ちょ、放心状態って。ガブリエルだって、さっきまで、ぽーっとなってたくせに」
頬を赤く染めて、ガブリエルをにらんでる。
「はいはい、わかったわかった。だからほら、ちゃんとKに頼んで止めてあげたでしょ。あんたたち、好きなだけ眺めなさいよ」
Lがあきれ顔で、僕の肩に乗せた手をひらひら振ってる。
Jがくるっとこっちを向いたので、てっきり怒るのかと思ったら、
「うん、それは、ありがと。でも、違うの」
何やら真面目な顔で云う。
「ルリさんかわいいな、って思うんだけど、でもこれは記憶でしょ。だから、何て云うか、悔しくて」
悔しい?それはまた、どうして。
「あのマンションへ行けば、今のルリさんには会えるし、もちろん、今のルリさんもとっても素敵なんだけど。でも、こっちの、セーラー服のかわいいルリさんには、どう頑張っても会えないでしょ。記憶で見るだけ、でしょ」
Lとつないでた手を離して、Jはぴこんと人差し指を立てて、云う。
それは、そう。今のルリおばさんは、あのマンションにいるホテルオーナーのルリおばさん。セーラー服のルリおばさんでは、ないよね。
「それが悔しくて。わたし、こっちの記憶の頃から、生きてたらよかったなーって。ルリさんと一緒の高校行って、同じ制服着てね、一緒に大人になりたかったなー」
そう云って、Jは、母に頭をなでられて、照れくさそうに微笑むルリおばさんをじっと見つめる。
ぽかんとしていたLが、青い眼をぱちくりさせて、
「おまえ、それ、重症だな。そりゃあ、ご愁傷様だぜー」
何だか力が抜けてしまったみたいに、云う。
黙ってJの話を聞いていたガブリエルが、深々とうなずいて、
「いやあ、わかる。ボクもだなあ」
そう云って、Jと同じ顔をして、ルリおばさんをぼんやりと見つめるので、僕は困ってしまった。
「ガブリエル、おまえもか」
Lが何かの格言みたいに云って、肩をすくめる。
残念ながら、僕には、Jとガブリエルの気持ちは、よくわからない。
ふたりにそこまで思わせるルリおばさんがすごいな、とは思うけれど。
おばさんとしてではなく、見知らぬお姉さんとしてルリおばさんに出会っていたら、僕もJやガブリエルみたいに、なってた可能性はあるのかな。
「まあね」
Lが呆れた笑顔のまま、僕を見て云う。
「確かに、ルリちゃんはかわいいしかっこいいからね。こいつらがぽーっとなって目ん玉ハート型になっちゃう気持ちも、わからなくはねーけどなー。それにしても、だぜ。まさか、あのJが「一緒に生きたい」なんて云うとはねー。すげーなー、大恋愛じゃん」
そう云って、Lは僕の肩に手をぽんと置いて、もう一方の手をJとつないでいないのを確かめるみたいにひらひら振って、心の声で、
「でも、冷静に考えるとだなー。オレたち、って云うのは、おまえ以外の4人の事な。オレたちには、キクタから分裂したアルカナが入ってるから、どこかでルリちゃんを我が子のように愛おしく思う気持ちが、残ってるんじゃねーのかなーってね。だとしたら、「一緒に生きたい」の意味も、またちょっと違うものになるよねー」
そう云って、ニヤリと笑って、
「ま、わかんねーけど」
声に出して云って、Lは「ふふふ」と笑う。
なるほど、と僕は思う。
僕がふたりほどルリおばさんに対して、何と云うか、ぽーっとならないのは、元々「おばさんと甥っ子」として知り合ったから、という以前に、かつて「キクちゃんとルリ」として、生きていたから、なのかもしれない。
その記憶は、僕には全くないけれど、どこかにそれが経験として残っているから、そこまでぽーっとは、ならないのかも。
まあ、僕にも、わからないけれど。
ぱんぱん、とLが手を打って、
「はい、そろそろ次へ進みますよー。おふたりさん、眼を覚ましてー」
そう云って、僕の肩をぽんと叩いたので、そのタイミングで記憶の一時停止を解除する。
「いちいち止めておってはキリがないのかもしれんの」
ナガヌマの記憶に潜った時に、そう云って苦笑していたナナを思い出す。
全くその通りなのだけれど、なかなかそうはいかない、よね。
ルリおばさんと母がにこやかに微笑みを交わしながら歩き出すと、Jとガブリエルがはっと息を飲んで、夢から醒めたみたいに現実に戻って来る。
夢から醒めたわけではないのは、夢の続きはまだ絶賛上映中なので、途端にふたりはまた、ぽーっとした顔でルリおばさんを見つめ始めるのだけれど。
「キクヒコ、この時間はどこにいるのかしら。研究室かな?あそこ、遠いのよねえ」
前を歩く母が、そんな事を云う。
「ケンキュー室?あー、あの山の上の、おヒゲのセンセーのとこ?ええー、ルリ、あんなとこまで歩くのやだなー」
ルリおばさんはふくれっつらで、歩きながら、見えない小石を蹴るポーズをしてる。
そのかわいいポーズに、いちいち息を飲んで反応するふたりを見ているのが、面白いかもしれない。
「おまえ、たまにそーやって、性格悪くなるよね」
Lが僕の耳元で云って、ニヤニヤ笑ってる。
うーん、と何やら良策を考えながら歩いていたらしい母が、何気なく眼をやった右の方で、何かを見つけたらしい。「あ!」と声を上げて、ぴこんと人差し指を立てる。
まさか母まであのポーズをするとは、思わなかったけれど。しかも10年も前に。
「ルリちゃん、山登りしなくて済むかも」
にっこり笑って、ルリおばさんにそう囁くなり、母は右手の建物の方を向いて口元に手を当てて、
「おーい、キイチロウさーん」
大声で呼ぶので、びっくりした。
一瞬、僕の脳がバグる。これは現実?僕はどこにいるの、父の家じゃないよね。
建物の入り口から出てきた辺り、両手で段ボール箱を抱えた、のっそりした背の高い男の人が母の声に振り返る。
ぼさぼさの長髪に無精髭の、老けたおじさんみたいな大学生。
「あれ、キョウコさん。え、ルリちゃん?」
まあ、その声を聞くまでもなく、父なのだけれど。
Lは何だか楽しそうに「わはははー」って、まるでハナみたいに笑ってるし。
何なのこの記憶。
いったい僕は何を見せられてるの。
「いやあ、どんまいだぜー。スズキ家の歴史がいま明らかに、みたいな?」
ぽんぽんと、Lは僕の肩を叩くけれど。
段ボールを抱えたままのっそり男が、小走りに駆けて来て、何故かルリおばさんの前にひざまずく。
「え、何そのポーズ。あたし、まだ何も云ってないんだけど」
早速母に怒られて、父はきょとんとした顔で母を見上げる。
「え、だって、キョウコさんがお呼びで、隣にルリちゃんがいて、何やら重そうなバッグを持ってるでしょ」
何だかよくわからない云い訳を、父はする。
「すっごーい、キイチロウさん、天才なのー?わあ、ありがとー。じゃあ、このバッグ、よろしくねー」
決して父は天才ではなく、たぶん何もわかってないと思うのだけれど、そんな事にはお構いなしに、ルリおばさんはキクヒコさんのパソコンが入った重い黒い鞄を、どすんと父が抱えた段ボール箱の上に乗せる。
予想以上に重かったらしく、「お、おお」とか云いながら父はよろめきかけて、慌ててあごでバッグが滑り落ちないよう押さえてる。
母はあきれたような困ったような笑みを浮かべて、
「それ、キクヒコのパソコンなんですって。キイチロウさん、悪いんだけど、届けてもらえるかしら」
眼の前に、従者のようにひざまずくのっそり男に云う。
父は眼だけ動かして、母を見て、それからルリおばさんを見て、最後に段ボール箱の上の黒い布製の鞄を見て、白い歯を見せて、にっこり笑う。
「はい喜んで!」
何なの、その爽やかな笑顔は。
その前にそのぼっさぼさの長髪、切った方がいいと思うのだけれど。
「やったー!キイチロウさん、大好きー」
ルリおばさんの満面の笑みはまるで天使のようで、あの悪魔の笑みを浮かべる人と同一人物だとは、到底信じられない。
「はっはっはー、僕もルリちゃんが大好きだからねー。これくらい、お安い御用だよー」
いや、父さん、大学生とは思えないよ。そのセクハラ中年おじさんみたいな発言、やめてよ。
Lが必死に笑いをこらえながら、僕の肩をぽんぽん叩く。
Jとガブリエルは、おじさんみたいな老けた大学生など眼にも入らない様子で、天使のように微笑むルリおばさんにぽーっとなってる。
どうして僕ばかりがこんな目に?
思わず僕がハンスのように、天を仰ぎかけたその時、
ジジッ、ジジジ、
世界が歪むような雑音が鳴り響く。
全ての音が止まり、耳障りなノイズだけが不規則に鳴り続ける。
記憶の映像がばらばらのモザイク模様みたいにひび割れ、乱れて、止まり、色を失う。
そして、ノイズが止むと、最後に、ぱりん、と音を立てて、記憶の世界が砕けた。
後には、気の遠くなるような静けさと、宙を漂う砕けた無数の記憶の欠片。
まるで、世界の終わりのような、そんな光景。
これは、何?
まさか、これが、
「切れ目か?」
Lのハスキーボイスが云う。
さっきまで晴れていた明るい夏空が、モノクロのモザイク模様みたいにひび割れて、欠片となって浮かんでいた。
目の前の、ルリおばさんも、母も、父も、その背景ごと1枚の大きなモノクロ写真のようになって固まりそれがひび割れてた。
そして、それはぱりんと割れて、モザイクタイルみたいにばらばらの欠片になって、浮いている。
さっきまでは、記憶はリアルな映像として流れ、その中に僕らもいた。
けれど、あの奇妙な雑音の後、まるで映画のフィルムが止まって、残りがばらばらに切り裂かれてしまったみたいに、記憶はそこで途切れた。
ナナの声が、頭の中に甦る。
「切れたつながり。本来はつながっているべき物が、切れておる状態じゃ。いわば、王の海に異常が発生しておるのよ。それを儂らが見落とすことは、まずあるまい」
切れたつながり
失くした記憶と、本人の意識とのつながり
それを元通りにつなぐ事ができれば、記憶が取り戻せるかもしれない
今、僕らの眼の前にあるこれが、切れたつながり。
それは、たぶん間違いない。
「見落とすことはあるまい」と、ナナの云った通り、これを見落とすなんて、まずあり得ない。
けれど、
あまりに突然の出来事に、僕の思考は停止して、ただあっけにとられて、呆然と目の前の変わり果てた記憶の風景を見つめてた。
物音ひとつしない、辺りは、耳が痛くなるほどの静寂に包まれてる。
モノクロに色褪せた、割れた記憶の世界。
「何か、臭うね」
ぽつりとLのハスキーボイスがそう云って、気づく。
確かに、臭い。
けもののような臭いが漂う。
ヌガノマ
あいつがここにいるはずはないけれど。
ここがルリおばさんの記憶の、海とのつながりの「切れ目」なのだとしたら、それを切ったのは、あいつだ。
ふん、とLが鼻を鳴らす。
「そんな「能力」って事はねーんだろーけどな。ハンスちゃんの、いや、H・O・アンダーソン博士の見立てじゃ、あいつはブラウンの試作品か失敗作の人造アルカナから生まれたレムナント、なんだろ。ホワイトの死にたくないって一心だけで、ね。云うなれば、あいつは生まれた時からすでに壊れてるんだ。そんなあいつの壊れた意識を無理矢理体に移されたら、こっちまで壊されたり、不具合が生じたりするって事なんだろーなー」
腕組みをして、Lはちらりと周辺を見渡して、
「んで、これがその現場ってわけだ。ムカつくなー」
青い眼を細めて、短く云う。
この場にはいない、あいつをにらみつけるみたいに。
昨夜、ナナに云った言葉を、僕は思い出す。
あいつが切ったルリおばさんの「海とのつながり」を、絶対にそのままにはしておけない。
あいつが無理矢理壊したものを、元通りに戻せるのなら、それをしない理由はない。
砕けた空をにらんでいたLが、ふっと青い眼で僕を見る。やわらかな、やさしい眼差しで。
聞こえないように、心の中で思いだしただけなのだけれど、もしかしてLには聞こえたのかな。
さあね、みたいにLは軽く肩をすくめただけで、何も答えずかすかに微笑んでた。
end of the world ii
屋根裏ネコのゆううつ II