yesterday once more iii

屋根裏ネコのゆううつ II

西にそびえるススガ岳の黒い山影が、市街地から見るよりもだいぶくっきりと大きく見えてくる。
その裾野に広がる田園地帯の南の端、森と湖の間を縫うように、高速道路が通っていた。
道幅の拡張工事が行われているらしく、今は二車線の車道を片側交互通行にしているらしい。
工事区間の信号待ちで多少は待たされたけれど、道路自体は比較的すいていたようで、僕らを乗せた四輪駆動車は10分程で高速道路を下りて、学園都市の外周道路へと進んでいた。
キクヒコさんの住むマンションは、住所によるとその学園都市の南の外れ、海沿いの住宅街にあるらしい。
学生や学園都市で働く人達の多く住む住宅街は、海沿いの断崖の上にあり、大地震の際にも、津波の被害はほとんどなかったようだとサモンジさんが教えてくれた。
坂道の多い住宅街を5分ほど走ると、ナビが「目的地周辺です」と告げる。
目の前に建つ、白亜のマンションがどうやらそれらしい。
竣工当時はきっと、おしゃれできれいなマンションだったのかな、と思わせるだいぶ古びた建物。
たぶん、築20年は経ってるかもしれない。
正面玄関の左右に立つ、パルテノン神殿かなと思わせるような立派な2本の石柱も、すっかり汚れて灰色になってしまっているし、地震の影響かな、あちこちひび割れて、ところどころ欠けてしまってる。
崖沿いの坂道から少し奥まった造りになっていて、玄関前に狭いけれど車寄せもあったので、サモンジさんはその端っこに車を停めてくれた。
「私は、こちらでお待ちします」
運転席のシートを少しリクライニングさせて、足元に置いてたリュックサックからタブレットPCを取り出しながら、サモンジさんは云う。
「ありがとう。そんなに時間はかからないと思うけど」
シートベルトを外しながらガブリエルはそう云って、Nを片腕で抱いてドアを開け、車を降りる。
「何かあれば、スマホで呼ぶから」
何もないと思うけど、そう云ってにっこり笑うガブリエルに、サモンジさんも「はい」と微笑みを返す。
何かあれば
まあ、何もないよね。キクヒコさんが眠っているか、もしかしたら起きているか、それとも誰もいないか、かな。
いずれにしても、危険な事は何もないはず。
「心配性だね」
海でガブリエルが、くすくす笑う。
何もないはず、と云ってるのだから、心配性じゃないのでは。
そう思ったけれど、そもそも「何もない」って何度も云ってる時点で、って事かな。
それはもう、僕の癖のようなものだから。
「ありがとうございます。行ってきます」
サモンジさんに声をかけて、僕も車を降りる。
「行ってらっしゃいませ」
サモンジさんのにこやかな微笑みに見送られて、玄関ポーチを歩き出す。
左右にある花壇は、雑草が伸び放題に育っていて、半ば玄関前の通路を塞ぎそうな勢いだった。
だいぶ秋も深まっているけれど、まだ枯れそうな気配もない。冬になるまで、このまま放置されるのかな。
「もしかすると、一年中放置されてるのかもしれないね」
開いたままのエントランスのガラス扉をくぐりながら、ガブリエルが云う。
エントランスの正面は吹き抜けの中庭になっていたけれど、なるほど、そちらも雑草のジャングルと化していた。
管理人さんとか、お掃除の人とかは、いないのかな。ちょっとサボってる、というレベルではないくらい、荒れ放題だけれど。
エントランスの左の壁に並ぶ郵便受けからは、ポスティングされた投げ込みチラシが乱雑に溢れ返って床に散らばってる。
元はおしゃれな白亜のマンションだったのだろうと思われる、ギリシャ風と云うか、神殿風の白い石造りの建物なだけに、余計に荒んだ印象に見える、ような気がする。
「それも含めて、廃墟っぽいデザインだと思えば、そう見えなくもないけど。それにしてもだね」
ガブリエルも肩をすくめて、苦笑してる。
エントランスの扉も、開けっ放しになってたけれど、セキュリティは、だいじょうぶなのかな。
「もしかしたら、夜には閉めるのかもね?わかんないけど」
困った顔で云いながら、ガブリエルはエントランスをまっすぐに進む。
中庭の手前が、狭いエレベーターホールになってた。
「部屋は5階だったよね。まさかとは思うけど、ちゃんと動くよね」
くすくす笑いながら、ガブリエルがエレベーターの呼び出しボタンを押すとランプが点灯して、どこか上の方でモーターの唸るような低い音が聞こえた。
すぐにエレベーターが到着して、ガタガタ云いながらその扉が開く。
築20年くらいと思ったけれど、実はもっと古いのかも。
「何だか別の意味で、スリリングだねえ」
そう云って楽しそうに笑うガブリエルの方こそ、困った子だなと思うけれど。
何でも楽しめるのは、Lと同じ素質って事なのかな。
ふたりでエレベーターに乗り込んで、僕が5階のボタンを押す。
中身の箱だけはリフォームされてるのかな、ボタンは薄いタッチ式のものだったし、天井の照明も明るく、階数表示も液晶画面だった。
閉まるドアは、相変わらずガタガタうるさかったけれど。
そう云えば、と思い立って、僕は尋ねる。
「Nは、ここへ来たことがあるの」
普通に声に出して尋ねてしまって、あ、そうか、今は意識体じゃないから、話せないよね、と思い出す。
Nは青と琥珀色のきれいな眼でまっすぐに僕を見上げて、小さく首を横に振る。
話せませんが、返事はできます、とその小さな顔に書いてあるような気がした。
「ナナちゃんが云うように、動物に入れるのがボクらだけの特性なのだとしたら、Nもクロちゃんも、ほぼキクタ専用だったって事なのかな」
ガブリエルが、片手をあごに当てて、首をひねる。
そうかもしれない。
あるいは、「子供たち」のために、準備してたのかも。
なんとなくふと思いついてそう云ったら、ガブリエルが驚いた顔で僕を見て、
「それ覚えてた、わけじゃないよね?びっくりした、おじいちゃんの記憶が戻ったのかと思ったよ」
苦笑しながら云う。
あ、ごめん、もちろん、覚えてないけれど。
ナナが、「動物使いが如き有様」とか云ってたので、いろんな動物を使って、試していたのかな、とも思ったけれど。
その過程で、「子供たち」のために準備しようと思いついたとしても、不思議じゃない気がする。
「あーなるほどね。動物によって、相性とかもありそうだもんね。Jとクロちゃんみたいにさ」
ガブリエルが云うのも、うなずける。
最初こそJは、カラスのクロちゃんに少し抵抗があったみたいだったけれど、「お話し」をして打ち解けた後は、相性抜群の仲良しパートナーみたいになってるし。
エレベーターが5階に到着して、特に到着のベルもチャイムも鳴らずに、ガタガタとまたうるさいドアの音が鳴って開く。
しんと静まり返ったマンションは、だから余計に、廃墟っぽい感じがしてしまうのかも。
平日ならまだしも、日曜の昼過ぎなのに、人の気配がまるでしないというのも、何だか不思議だ。
「学生が多いにしても、だねえ。どこかで洗濯機が回ってたり、テレビの音が漏れたりしてても、おかしくないと思うけれど」
エレベーターを降りて、左右の通路を見渡しながら、ガブリエルも声をひそめて首をかしげる。
「部屋は501、だよね。角部屋かな」
こっちかな、と当たりをつけて、ガブリエルは廊下を左へ進む。
ざっと見渡した感じでは、通路の左側は吹き抜けの中庭になっていて、右側の壁にドアが5つほど並んでいた。
吹き抜けの向こう側にも同じように廊下があって、ドアが並んでるのが見える。
ドアとドアの間隔はあまり広くないように見えるので、全室ワンルームのマンションなのかな、と思う。
学生向けのマンションなら、ワンルームで十分なのかもしれない。
ガブリエルの後について、僕も廊下を進む。
それぞれのドアの上に、部屋番号の書かれた小さなプレートが掲げられているけれど、プレートの数字は剥がれてしまったのか、それとも日に灼けて薄れてしまってるのかも。「5」「0」まではかろうじて読めるけれど、最後の数字がほとんど読めない。
これじゃ意味ないのでは。
「セキュリティのために、部屋番号を消してあるとか?いやあ、意味ないか。不便なだけだよねえ」
廊下の端まで歩くと、通路はそのまま吹き抜けを囲むように左に折れて、反対側へ進めるみたいだった。
「501なら、端のはずだけれど、数字が読めないんじゃなあ」
端の部屋のプレートをまじまじと眺めながら、ガブリエルが肩をすくめる。
と、「あ、そっか」Nにそうつぶやいて、くるりと僕の方を向く。
「我らがNが、「キクタのゴーグルなら、消えかけた数字も読めるのでは」って」
そう云ってガブリエルは、Lみたいにニヤッと笑う。
なるほど?ゴーグルにそんな便利機能が。
でも、ありそうな気はする。
あらためて、その角部屋のドアを見て、気付いた。
「線」が出てた。灰色の。
「灰色?青や緑じゃなく?」
ガブリエルがそう云うのは、部屋の中でキクヒコさんが眠ってるのなら、だよね。
でも残念ながら、線は灰色。
つまり、この部屋の中に、動物がいる。
あ、それで、プレートは、と見上げると、うっすらと消えかけてはいるけれど、「501」と読めた。
ここで間違いないらしい、けれど。
「もしかして、キクヒコのペットかな。まさか、野性の動物が入り込んでるって事はないよね。それとも、ネズミとか、でっかいゴキブリとか」
ガブリエルが、めずらしく子供みたいな事を云うので、何だかおかしくて笑ってしまった。
「何で笑うの。キミの心配してあげてるのに。じゃあでっかいゴキブリでもいいの」
そう云って、ガブリエルもくすくす笑い出す。
いや、ごめん、それは嫌だけれど。
「まあ、開けてみればわかるよね。もしかしたら、ミカエルの大好きなネコチャンかもしれないし」
そうガブリエルが云うので、僕はポケットからカードキーを取り出して、ガブリエルの手に押し付けて、Nに手を伸ばす。
空気の読める賢いNは、ひらりと僕の腕に飛び込む。
「何でなの。ほんとにでっかいゴキブリがいるわけないでしょ」
楽しそうにくすくす笑いながら肩をすくめて、「仕方ないなあ」とガブリエルはカードキーを迷わずドアノブの上にあるスロットに差し込む。
特に、何の音もしないし、反応もないみたいだけれど。
「ははあ、カードを差して、こうかな」
ガブリエルがL字型のドアノブをひねると、ガチャッと意外と重い音が響いて、ドアロックが解除された、らしい。
「開いたかな」
そのままガブリエルがカードキーを引き抜いてドアを引くと、きいいい、と壊れたバイオリンみたいな大きな音を立てて、ドアが手前に開いた。
その音に驚いたのか、それとも急にドアが開いたから、かな。
何かの影が、さっと室内で素早く動くのが見えた。
灯りの点いていない室内は薄暗いけれど、角部屋なので窓がふたつあって、それなりに明るい。
ガブリエルも動く影に気づいたらしい。
「うん、何かいたね」
海でそう云うと素早く僕の体を押して玄関の中へ入り、後ろ手にドアを閉めて、かちゃりと鍵をかけた。
ガブリエルは、靴のままずんずん部屋の中へ上がり込む。
一瞬、靴を脱ごうかと思ったけれど、僕もそのまま上がり込んだ。深く考えたわけじゃなく、なんとなく、だったけれど。
短い廊下の右手にドアがあるのは、たぶん、ユニットバスかな。
廊下の左側は作り付けの小さな流しと、電気の調理台がある簡単なキッチンになってた。
調理器具どころか、調味料のひとつすら見当たらないけれど。
廊下と部屋の間に仕切りはなく、部屋に入ると、正面には大きな掃き出し窓があり、その向こうはベランダになってるらしい。
窓は閉まっていて、レースのカーテンが引かれてた。深緑色の分厚そうな遮光カーテンが、窓の端にきれいに畳まれて留めてある。
部屋は8畳ほどの縦長のワンルームで、右の壁際に低めのサイドボードがひとつ、ぽつんと置かれている以外は、家具らしい家具はない。
左手の壁には窓があり、その下にベッドがある。
ベッドの足元に、ポールハンガーと云うのかな、キャスター付きの衣類掛けがあって、コートやジャケット、それから白衣みたいなものも掛けられてた。
さっきの影は、右から左へ、床の上から左のベッドの方へ動いたように見えた、けれど。
ベッドの上には、何もいない。
妙に几帳面に、きれいに畳まれた掛け布団が端の足元がわへ寄せられていて、その上に枕がひとつ、置いてある。
とても誰かが生活していた部屋には見えない、かな。
モデルルームか何かのように、まるで生活感のない部屋だった。
「いました、窓辺のカーテンの向こうです」
Nが云うので、とっさにガブリエルの手を引いて、
「ガブリエル、いたって、Nが。カーテンの向こうに」
海でそう声をかけて、僕にも見えた。
左手の窓は、出窓になっているらしい。
レースのカーテンの閉じた、その向こう側、カーテンと窓の間の出窓部分にいる、黒い影。
ネコだ。
「あれは」
そうNの声が云うのとほぼ同時に、彼は僕の腕を蹴って飛んでいた。
左の出窓へ、まっしぐらに。
けれど、Nが飛ぶのとほとんど同時に、出窓のネコの影もさっと動いてた。
カツッと音がして窓が開く。
影は、窓から外へ飛び出したらしい。
カーテンの向こうへ飛び込んだNも、影を追って窓から飛び出す、けれど。
え、ちょっと待って、ここ5階だよね。
慌てて窓へ駆け寄ろうとしたけれど、ベッドがあるので左の窓辺へ近づけない。
まさか靴のまま、他人のベッドへ上るわけにもいかないし。
「全く律儀なおじいちゃんだなあ」
どこか楽しそうにガブリエルがそう云って、靴を脱ぎ捨ててベッドへ飛び上がる。
僕も靴を脱いでベッドに上り、ガブリエルがレースのカーテンを開けてくれた出窓に飛び付く。
窓の外は、森だった。
森、と云うか、海沿いの断崖の上の防風林、なのかな。
マンションよりも少し背の高い木々が、割と密に立ち並んでいて、その木の枝の上に、Nがいた。
怖くないのかな。見てる僕の方が怖いけれど。
辺りを見渡していたNが、僕らを振り返って小さく首をかしげてみせる。
逃げられちゃったの、かな。
「もういいから、早く戻って来て、危ないから」
思わず声に出して、そう云ってしまう。
「その云い方、キョウコさんそっくりだね」
ガブリエルが僕を見て微笑む、けれど。
それはまあ、親子なので。
Nは僕を見て、ぺろりと鼻をなめると、小さく肩をすくめるような仕草をする。
そして、とんとん、と手近な枝に飛び移りながら、開いていた出窓からひらりと中へ飛び込んで来た。
出窓は、正面ははめ殺し、と云うのかな、開かない窓だけれど、左右がそれぞれ、水平に90度くらい回転して開くようになってた。
それを中から押して開けて、さっきのネコは外へ飛び出して行った、のだろう。
元々、ネコが出入りするために、きっちりとは閉じていなかったのかも。
ほっと息をついて手を伸ばすと、Nが僕の腕に飛び込んで来て、片手をガブリエルに伸ばす。
その手をガブリエルがそっと握ると、
「逃げられました」
いつものように淡々と、でも少し悔しそうに、Nが「海」で云う。
「この辺りの地形を熟知しているようですね。あれもキクタのネコです。名はブランシュ。しばらく見かけないと思っていたのですが、キクヒコが連れていたのですね」
またぺろりと鼻をなめて、さらりとNは云う。
なるほど、悔しそうだったのは、知り合いを逃してしまったから、なのかな。
そう尋ねたら、
「いいえ」
あっさりとNは首を振って、
「体格差もあり、あちらの方が若いのです。しかも地の利があるとなれば、まず追いつけませんので」
「ははあ、深追いはせずにさっさと諦めた、という訳だね。さすが、賢明な判断だねえ」
ふふふ、と笑って、ガブリエルはNのあごの下をなでて、
「体格差って、あの子の方が大きいの。白っぽいネコだったよね。ああ、それでブランシュなの」
そう尋ねる。
「はい。ひと回りは大きいですね。名の由来は、おそらくその通りです。ブランシュ、フランス語で「白」だそうです」
黒だからノワールで、白だからブランシュ。その名前って・・・
いや、聞くまでもないかな、と思ったので、僕は言葉を止めたのだけれど。
「はい。キクタが名付けました」
律儀で賢いNは、しっかりそう教えてくれた。
やっぱり、そうだと思った。何ていうか、名付けのセンスが、キクタっぽい、かなって。
「まあ、それはともかく」
楽しそうにガブリエルがニヤニヤ笑って、
「どうして逃げたんだろうねえ。Nだって事がわからなかったのかな」
そう尋ねると、Nはゆっくりと首を振る。
「気づいていたと思います。ですが、あれは、ワタシが云うのもどうかと思いますが、いかにもネコらしいネコですので。何を考えているのやら、気まぐれで自由気ままです。逃げたのも、単なる思いつきかと」
ネコらしいネコ
単なる思いつき
顔見知りのNだとは分かったけれど、なんとなく逃げたいから逃げてみた、ってだけなの。
まさかそんな、と思いながら聞いてみたら、
「はい」
Nはあっさりうなずいてた。
僕には、ちょっと信じがたいくらいの気まぐれっぷりだけれど。
まあ、Nがそこまではっきり云い切るのなら、きっとそうなのだろう。
「あの子がここにいた事については、どう思う?最近までキクヒコがここにいたから、って可能性はないかな?」
ガブリエルが重ねてそう尋ねると、Nは少し首をかしげて、
「状況から考えれば、キクヒコがあれをここへ連れて来たのは、かなり以前の事なのでしょう。誘拐よりも以前、であるはずです。何故なら、誘拐以後、いいえ、より正確には、ヌガノマとの対決以後、ですね、キクヒコはしばらくの間、ワタシの中に居ましたので。「キクタを救いに行く」と云ったあの日まで、です」
ゆっくりと、言葉を選ぶように、そう云った。
それは、そうか。ヌガノマとの対決から「惨憺たる状態」でNの中へ戻ったキクヒコさんは、それから「長い間」、Nの中にいた。その期間は、後からNが悟った事によれば、8年間。
だから、体はその間、眠り続けていたはず。おそらく、だけれど。途中で「輪」で飛んで、一時的に体に戻ったりした事が、一度もなかったとは限らないけれど。
「それは、確かに」
Nがうなずいて、
「8年間、一度もワタシの中から出る事なく居続けていた、という訳ではありません。特に、ある程度回復してからは、ふらりとどこかへ出かけて、また戻って来る、というような事も少なからずありました。いずれも、ほんの数時間か、せいぜい半日程度の事ですが」
体も、ダメージを受けていた、のかな。何か大怪我や、重傷を負って、それで回復のために眠り続けてた、のかも。でも、そんな大怪我なら、まず病院へ行くはずだよね。いや、違うか、意識が「惨憺たる有り様」では、病院へ行くどころではなかったのかもしれない。ひとまず、意識の回復を優先させて、Nの中へ避難した。
だとしたら、体はただあの眠りに陥っていただけなのかもしれない。
「はい、概ねその通りかと思います」
そのNの口ぶりでは、あの後、という可能性も、ないって事かな。
僕に体を返した後、Mのぐるぐるの「渦」の能力から、みんなを逃した後、何らかの方法でブランシュの中へ飛んで、この部屋へ来た?
いや、違うかな。キクヒコさんの「輪」の能力なら、ブランシュがどこにいようと関係なく飛べるはず。それ以前に、ブランシュの中へ入った事がありさえすれば。
うん、とガブリエルがうなずいて、
「それに、Nがしばらくブランシュを見かけてなかった。だから、ブランシュはだいぶ以前にここへ連れて来られてて、そのままここで暮らしてた、と考えて良さそうだね」
そう云って、ふむー、とあごに手を当てて、
「Nの中にいたのは、近くでキクタを見守るため、かな。それが、あのぐるぐる以降、何らかの理由があって、ブランシュの中へ飛んだ。Kに体を返して、ボクも体へ飛ばしていたのだから、Nに入れなかった、って理由にはならないよね。Nではなくブランシュへ飛んだ理由が、何かあったはずだねえ」
ガブリエルがまるで自分の部屋のようにベッドに腰かけるので、自然と僕もそのまま隣に座る。
「あの子にもいろいろ聞いてみたいところだけれど、気まぐれなネコチャンじゃあ、すぐに戻って来るのかどうかもわからない、かな」
そう云って肩をすくめて、ガブリエルはくるりと部屋を見渡す。
「しかしまあ、びっくりするくらい、これと云って何もない部屋だね。最近ここへ帰って来たようにも見えないし。例のノートパソコンが、ここにあったりしないかな、とも思ってたんだけど、なさそうだねえ」
ガブリエルが云うのは、もちろん、うちの屋根裏にあった、キクヒコさんのノートパソコン。
あの日、僕の体を返してもらった日に、なくなっていた。
キクヒコさんの「輪」で屋根裏へ飛ばされたNが見た時には、すでになかった、と云う。
少なくとも、その日の朝、僕らが出かける時までは、そこにあったのに。
てっきり、キクヒコさんが回収したものとばかり思っていたけれど、違うのかな。
いや、でも、あの場所にノートパソコンがある事を知っていて、足跡も残さずにあそこから持ち去れる人物は、「輪」の力を持つキクヒコさんしかいないはず、だけれど。
「ここではなく、別の拠点があるのかな。まあ今となっては、あのパソコンの中身にはそれほど意味はないけれどねえ。本物のデータを、ハンスがいくらでも見せてくれるって云ってるのだし。ただ、あのパソコンそのものには、まだ十分に価値があるんだよね。キクヒコの足取りを追うって意味では」
それは、そう、ガブリエルの云う通り。
あの日に、あのノートパソコンをキクヒコさんが持ち去ったのだとしたら、少なくともその時には、キクヒコさんは自分の体で「輪」の力を使ってあの屋根裏へ飛んだはず。
そして、そこからどこへ向かったのか、あのパソコンを追えば、わかるかもしれない、けれど。
ガブリエルはすっと立ち上がると、僕とNを振り向いて、
「あまり気は進まないけれど、ぱぱっと室内を調べさせてもらおうか。と云っても、このサイドボードの中くらいしか、見るべき場所もないかな。あとはベッドの下とか、ベランダくらいかな」
くるりと部屋の中を見渡して、
「あまりサモンジを待たせるのも悪いし、ね。さっと見せてもらって、次へ行こうか」
そんな事を云う。
次へ?
ガブリエルはこの部屋の他にも、キクヒコさんの居場所の心当たりがあるの。
「せっかく車で来てるんだからねえ。山の上の研究室とやらにも、行ってみたいよね」
そう云って、ガブリエルはにっこりと笑う。
あ、おヒゲの先生の。
キクヒコさんが研究助手をしてた、って云う。
「そう、この部屋よりもむしろ、研究室に籠りきりだったって、ルリさんも云ってたでしょ」
ふふん、とガブリエルは鼻を鳴らしてる。
まさか、そこまで考えてサモンジさんに車を出してもらったの。
「まあ、少しはね。ここがハズレだった場合、山の上にも行ってみたいかなあって。そのおヒゲの先生に運良く会えれば、もしかしたら最近のキクヒコの話が聞けたりしないかなあって、思ってさ」
すごい。やっぱり天才だよね、ガブリエル。
「いや違うけどね」
くすくす笑って、ガブリエルは「失礼しまーす」とか云いながら、サイドボードを開けて中をのぞきこんでるけれど。
Nもひらりと僕の腕から飛び出して、ベッドの下へするりと潜り込む。
僕も立ち上がって、窓を開けてベランダを見渡したり、部屋へ戻ってユニットバスのドアを開けてみたりしたけれど。
本当に、ここに住んでたのかな、って思うくらい、きれいに片付いていて、何もない部屋だった。
「ほんとにね、引っ越してきて間もない人か、もうすぐ引っ越しする人みたいだよねえ」
苦笑しながらそう口にして、ふっとガブリエルは何やら考え込む表情になる。
「実は引っ越すつもりだった、とか。それとももうすでに、ほとんど引っ越してたような状態だった、とか」
ひとりごとのように、ガブリエルはつぶやく。
うん、部屋の状態を見る限りでは、そう云われても何も不思議ではないくらい、だけれど。
だとしたら、どこへ?ルリおばさんにも何も告げずに?
「うん、わからない。ただ、部屋はそんな風に見える。ひとまず、それだけ覚えておこうか」
そう云ったガブリエルは、いつもと同じやさしい微笑を浮かべていたけれど、どこか、寂しそうに見えた気がした。

ひと通り部屋の中を調べてみたけれど、結局何も見つける事が出来ず、僕らはそのまま、キクヒコさんの部屋を後にした。
元通りにドアの鍵を閉めて、出窓はブランシュが戻ってきたら入れるように、開けたままにしておいた。
車に戻り、待っていてくれたサモンジさんに、ガブリエルが「おじさんはいなくて、会えなかった」と報告をして、山の上の研究室へ行ってみたいと話をする。
サモンジさんの表情がわずかに曇って、
「ススガ丘学園大学の研究棟、ですか」
少々お待ちを、と云うと、サモンジさんは手にしたタブレットPCを操作してる。
「うろ覚えなのですが、少し前にそこで何か事故があったと、ニュースを見たような覚えがあります」
そう云いながら、サモンジさんは素早く画面をタップしていたけれど。
その事故のニュースを思い出したから、表情が曇っていたのかな。
「ありました。これ、でしょうか」
何だか自信がなさそうなサモンジさんに、僕は少し違和感を覚える。
いや、でも、いくらサモンジさんが優秀な執事だからと云っても、何もかも知ってるはずはないし、ましてや仕事とはあまり関係のなさそうな、大学の研究棟での事故のニュースなんて、覚えていて思い出せるだけでも、十分すごいと思うのだけれど。
サモンジさんがガブリエルに差し出したタブレットの画面を、僕も後部座席からのぞき込む。
ネットのニュース記事、かな。
文字だけで、写真はない。日付は、今年の8月だから2カ月ほど前。
ちょうど、僕が行方不明になってた前後、だと思うけれど、もちろんそれとは関係がない、よね。
「ススガ丘学園大学の研究棟で爆発事故」というタイトルと、その下に3行ほどの簡単な説明文があるだけの小さな記事だった。
8月X日午後6時頃、ススガ丘学園大学の研究棟・西棟で爆発が起き、消防隊と救急隊が出動。夏季休暇中という事もあり、当時現場にはひとけがなく、怪我人は出ていない。西棟には化学薬品を扱う実験室が多くあり、爆発の原因と見られている。西棟は全焼し、東棟も当分の間立ち入り禁止となっている。
それだけの、小さなニュース記事だった。
これを覚えていて、「研究棟」と聞いて思い出せるサモンジさんは、やっぱりすごい、と思うけれど。
「妙ですね」
ぽつりと、サモンジさんが云う。
そして、自分が云った言葉に驚いたみたいに、
「ああ、すみません。失礼しました」
慌ててそう、お詫びをしてる。
「妙、と云うのは」
ガブリエルが尋ねると、サモンジさんは困った顔をして、
「いえ、坊ちゃま、すみません。私にも、よくわかりません」
そう云って、口をきゅっと引き結んで難しい顔でうつむいて、何か考え込んでしまった。
妙、かな。
何て事のない、ただの事故のニュースのように思えるけれど。
夏休み中の誰もいない実験室で爆発が起きて、誰もいなかったので怪我人も出なかった。
研究棟は全焼してしまったらしいので、大学にとっては、たいへんな事故だろうとは思うけれど、被害に遭った人がいないのは、不幸中の幸いでは。
「坊ちゃま」
下を向いていたサモンジさんが、いつの間にかまたじっとタブレットの画面を見つめていて、
「やはり、何かおかしいです」
顔を上げて、まっすぐにガブリエルを見て、そう云った。
「おかしい?」
ガブリエルが尋ねると、サモンジさんはまっすぐにガブリエルを見つめたまま、
「はい」
きっぱりと云って、うなずく。
「ススガ丘学園大学の研究棟、と坊ちゃまが仰った時に、私は「何か事故があったはず」と思い出しました。しかし、詳細は覚えていませんでした。そこでニュースを検索して、この記事が出て来たのですが」
タブレット画面をもう一度見下ろして、サモンジさんはまたガブリエルをまっすぐに見る。
「私は、この記事を見た覚えがありません」
はっきりと、サモンジさんはそう云った。

「おかしな事を云うと思われるかもしれませんが」
サモンジさんが云いかけると、
「いやあ。サモンジに限って、おかしな事なんて云わないってボクは思ってるよ」
いつものやさしい微笑で、ガブリエルは云って、
「そのサモンジが、おかしな事を云い出したのだとしたら、おかしいのはサモンジではなく、このニュース記事だって事だよね」
とんとん、と指先でタブレット画面を軽く叩く。
「恐れ入ります」
サモンジさんは小さくつぶやくように云う。
そして、少し押し黙った後、意を決したように顔を上げて、
「この記事は、改ざんされているのではないでしょうか」
何か苦いものでも吐き出すように、そう口にした。
改ざん
ぴこん、と何かが反応したような気がして、まさか、と思う。
けれど、
認識が、消されてるの。
でも、どうして。
「念のため、他の記事も検索してみようか」
ガブリエルが云うと、サモンジさんはうなずいて、
「少々お待ちを」
タブレットを手元に引き寄せて、また素早く画面を操作する。
けれど、すぐに表情を曇らせて、
「同じですね」
首を横に振りながら、云う。
「複数の別のニュースサイトの記事も、内容は同じものです。検索エンジンを変えて試しましたが、検索結果は変わりません。この事故に関するニュースは、全く同じ内容のものしか出て来ません」
そう云って、サモンジさんはタブレットをガブリエルに差し出す。
ガブリエルが受け取って、画面をのぞき込みながら、僕にも見えるようこちらを向けてくれる。
画面には、別のウィンドウで別のニュースサイトの記事が、いくつか並べて表示されていた、けれど。
タイトルも本文も、写真がないところも、判で押したように、一字一句、どれも全く同じだった。
「改ざんと情報規制、かな」
ぽつりとつぶやくように、ガブリエルが云う。
「おそらく、そのようです」
サモンジさんも苦い顔でうなずく。
学園都市にある大学の実験室での、爆発事故。
そのニュース記事が改ざんされ、情報が規制されてる。
学校側が、何らかの事情で、例えば表沙汰に出来ない何らかの事情があったりとかして、真相が明るみに出るのを恐れて隠蔽した、ともとれる、けれど。
だから認識が消されてるわけじゃない、とは僕には云い切れない。
何故なら、その研究棟で助手として働いていたはずのキクヒコさんが、行方不明だから。
その爆発事故に、キクヒコさんが関わっているのかどうかは、わからないけれど。
少なくとも、僕が行方不明になっていたあの4日間は、キクヒコさんの意識は僕の体の中にいた。
だから、爆発自体やその原因に直接関わっているとは、考えにくい。
でも、彼の体は?
マンションの自室には、いなかった。
部屋よりも、研究棟の方に籠りきりだったみたい、とルリおばさんは云ってた。
その研究棟で、爆発事故があった。
もしも、そこにある研究室で、キクヒコさんの体が眠りに陥っていたのだとしたら。
無関係なはずの爆発に、彼の体が巻き込まれた可能性は、あるのかもしれない。
そこで体の方に何か深刻なダメージを受けて、意識にも異常をきたしてる、とも考えられるのでは。
キクヒコさんの勤める研究室は、どちらにあったのだろう。
西棟か、東棟か。西棟は全焼したとの事だけれど、東棟は立ち入り禁止、と書かれているだけ。
つまり、東棟の建物自体は燃えていなくて、まだそこに建ってるはずでは。
「ルリさん」
海で、ガブリエルがそう呼びかける声が響いて、貝殻の風鈴がからからと鳴る。
振り返ると、すぐに白い木枠の窓が開いて、
「あら、どうしたの。もうとっくに、あいつの部屋に着いてるのかと思ってたけれど」
どこかのんきなルリおばさんの声が云う。
けれど、反応が早かったのは、きっと待機してくれてたのだろう。
僕らから何か連絡があるかも、と待っててくれたに違いない。
「残念ながら部屋にはいなくて・・・」
ガブリエルがそう云って、ひと通りの状況を説明してくれる。ネコのブランシュが部屋にいた事も。
「ブランシュだなんて、久々に聞いたわね。しばらく見ないと思ったら、あいつの所にいたのね」
それで、どうするの、そうルリおばさんが尋ねるのは、この後の事なのだろう。
「大学の研究棟へ行ってみようと思うんだけど」
そう云って、ガブリエルはルリおばさんの反応を待つように言葉を止める。
「へーえ、それで執事さんに車を出させたってわけね。確かにそっちの方が、あいつがいる可能性は高いわねえ」
そう答えるルリおばさんは、では爆発事故の事は知らないのだろう。
「そう思ったんだけどね、ルリさん知ってる?8月にその研究棟で爆発事故があって、西棟は全焼だって。ボクらも今、ネットのニュースで見て知ったんだけど」
「え、嘘」
一瞬、ルリおばさんはそう云って息を飲むように黙り込む。
知らないのも、無理はないかもしれない。
小さなニュース記事しか出ていないくらいだし、改ざんされて規制されていたなら尚の事。
認識の消失は、ルリおばさんに直接は効かないとしても。
しかも事故当時、ルリおばさんは入院してたのでは。
ルリおばさんは、自分でも手元のスマホか何かで調べてみたらしい。
「あら、ほんとね。え、待って、8月X日って、キクちゃん、あんたが行方不明になってた最後の日じゃない」
そうルリおばさんに指摘されて、どきりとした。
近い日付だったような気はしてたけれど、はっきりとは覚えてなかったので。
まさか、被ってたなんて。しかも、最後の日?
「キクヒコさんに、僕の体を返してもらった日、って事?」
聞いたのは、質問ではなく確認、かな。
「そうよ、あたしがアイに発見されて、救急車で運ばれたのが日曜でしょ。X日はその週の水曜日、つまりあんたが家に帰った日でしょ」
云われて、そうだったかな、と頭の中で確かめる。
僕がルリおばさんを追いかけて、あの防空壕の先の地下道でヌガノマに襲われたのが、土曜日だった。
翌日の日曜にアイが僕を探しに家へ来て、ひとりであのマンホールに入り、そこで倒れてたルリおばさんを助け出してくれた。
月曜に公園でアイからその話を聞いて、火曜はお休みしようと云う事になりJのお庭でのんびりピクニックをしてた。(実はいろいろあって、云うほどのんびりとはしていなかったのだけれど、それはひとまず置いて)
翌日の水曜が、ルリおばさんの云う「最後の日」だ。
その水曜日が、ニュースにあった8月X日?
大学の研究棟で、爆発事故があった日。
偶然、なのかな。
いやたぶん、偶然、なのだろう。
僕の行方不明と、大学の実験室での爆発事故には、何のつながりもあるはずがない、けれど。
唯一、つながりと云えるものがあるとしたら、キクヒコさん、だけれど。
「そうね、偶然。ひとまずそう考えましょ。それにしても、爆発事故で全焼、だなんて、ね。あんた達も心配でしょうけれど、立ち入り禁止じゃ、行ってもどうしようもないわね。入れないんじゃ、遠くから建物を眺めるくらいしか出来ないでしょ」
いつもの調子で結論まで云ってしまうルリおばさんに、
「そうなんだよねえ」
ガブリエルはふんわりと同意して、
「ね、ルリさん、キクヒコの研究室って、どっちにあったの。西棟?東棟?」
やわらかくそう尋ねたけれど、ルリおばさんはその質問の意図をすぐに察したらしい。
小さく息を飲むのが聞こえて、
「待って、どっちだったかしら」
そう云って、ルリおばさんは記憶を辿ってるみたいだった。
しばらく黙り込んだ後、ぽつりと
「東棟、だったかしら、ああでも、自信はないわね。何度か行った事はあるのだけれど、毎回迷うのよ、どっちだったかしら、って」
自信はないと云う通り、自信のなさそうな声で、ルリおばさんは云う。
「その、おヒゲの先生の名前って、ルリさん覚えてる?」
ガブリエルがそう尋ねるのを聞いて、さすが、と思った。
先生の名前がわかれば、その研究室がどちらの棟にあったのか、調べたらわかるかも。
「ウミノゲンゴロウ、よ。すごい名前でしょ。だから覚えてたんだけれど」
さらりとルリおばさんは、何だか失礼な事を云う。
すごい名前、かどうかはともかく、印象深い名前のおかげで、ルリおばさんが覚えていてくれたのは何よりだった、かもしれない。
いつの間にかポケットから取り出していたスマホを眺めながら、
「ウミノゲンゴロウ先生。ウミノ教授の研究室って事、だね」
ガブリエルが声に出して云うのは、サモンジさんに聞かせるため、だろう。
まさかルリおばさんに「海」で聞いた、とは云えないので、例の小芝居で、スマホのメールか何かから先生の名前の情報を得た事にしたらしい。
サモンジさんはタブレットを手元に引き寄せると、また素早く画面をタップする。
「ありました。ウミノゲンゴロウ教授。生物学の学部長だそうです。専門は遺伝子工学。研究室は、東棟3F-1A。東棟3階の1A教室、という事でしょうか」
云いながら、サモンジさんが見せてくれたタブレット画面には、先生の経歴や紹介文と一緒に、大学教授と云うより山男みたいな髭モジャのおじさんの写真が映ってた。
確かに、おヒゲの先生だ。
専門は、遺伝子工学。
キクヒコさんは、遺伝子の研究をしていたの。
「ルリさん、研究室は東棟みたい。大学のホームページに先生の紹介が出てたよ」
ガブリエルが海でそう報告すると、ルリおばさんはほっと息をついて、
「そう、だったら少なくとも、爆発に巻き込まれてはいないのかしらね」
安心したように云って、それから少し口調をあらためて、
「でも、いくらあいつでも、堂々と研究室で眠ってたりするかしら。先生や学生だっているでしょうから、不審に思われるでしょう?それにもしそうだとして、ずっと眠ってたりしたら、それこそ病院へ運ばれるのが普通じゃないのかしらね」
そう云われてみれば、そうかもしれない。
まさか、8年前からずっと、研究室で眠り続けてるとは思えないし。
Nの話では、途中で何度か(何度も)眼を覚ましていた可能性もあるらしい、けれど。
8月のあの行方不明の間、少なくとも僕の体の中にいたあの4日間に関して云えば、キクヒコさんの体は眠っている状態だったはず。
それがいつからなのかは、わからないけれど。
それとは別に、研究棟で爆発事故が起きた。
さらに、爆発の後、東棟は立ち入り禁止になった。
そしておそらくだけれど、認識が消されてる。
だとすれば、誰もいない東棟の研究室で、キクヒコさんの体がいまだに眠り続けてる可能性も、あるかもしれない。
あの眠りだとしても、8月から今日まで、2カ月は、少し長すぎる気もするけれど、半年間、自らの意志で眠り続けていたLの例もあるのだから、なくはないはず。
しかも、キクヒコさんの今の状態を考えれば・・・。
ルリおばさんは、「オレンジの海」に響き渡るような大きなため息をついて、
「あんたがそう云うのも、まあわからなくはないけれど・・・」
そう云って、黙り込んだ。
あれ、
てっきり、また何かあれこれ云われるのかと思ったのだけれど。
「また、って何よ。あたし、そんなにあれこれ云ってないでしょ。だって、キクちゃんにはあれこれ云っても、無駄だって知ってるもの」
いや、それは前にも云われた覚えがあるし、それだってあれこれに含まれるのでは、と思ったけれど、口には出さずに、僕は黙り込んだ、のだけれど。
「どうせキクちゃんの事だから、行くなって云っても行くんでしょうし。立ち入り禁止だから入るなって云われても、「でも認識されてないんだったら入れるよね」とか云うんでしょ」
淡々と、どこか諦めの混じった声で、ルリおばさんは云う。
それは、まあそうかも。
「ゴーグルとヘッドホンは、ちゃんと付けてるのよね?「糸」じゃなくて、「線」も見えるようになったのよね?」
何だか、はじめてのお使いに出かける子供を、あれこれと心配するお母さんみたいなこと云ってるけど、ルリおばさん。
「だいじょうぶ。ちゃんと付けてるし、「線」も見えてるよ」
海で声に出して、僕はそう答える。
「まあ、執事さんも一緒なら、そんなに無茶はしないでしょうけれど」
はあ、とまた大きなため息をついて、
「おヒゲのゲンゴロウ先生にでも会えれば、と思ったけれど、認識が消されてるんだとしたら、会えたとしても、話が聞けるかどうかはわからないわね」
ぽつりと残念そうに、ルリおばさんはつぶやく。
認識、で思い出したので、
「ルリおばさん、僕ら以外で、認識を消せる人に心当たりはある?」
そう、僕は聞いてみた。
ナナは以前、「どこかにいても不思議はない」みたいな事を云ってた気がするけれど、具体的な心当たりは、H・O一派くらいしかないとも云ってた、気がする。
そのH・O一派への疑惑も、ハンスと会った事でほぼ晴れている。
あとは、僕が思いつくのは、Mくらいだけれど。
地下のベースにいる(と思われる)Mが、遠く離れた大学の爆発事故を知るはずがないし、その認識を消す理由もあるとは思えない。
だから、大学の爆発事故の認識を消すような人物に、僕はまるで心当たりがなかった。
少しだけ黙り込んで、ルリおばさんは記憶を辿ってくれてたのかな。昨日取り戻した記憶を。
でも、
「ないわ」
あっさりと、そう云った。
そして、言い訳するみたいに、付け足して、
「軍の撤退以降は、と云うより、それ以前も、軍がいた頃も含めてだけれど、意外と慎ましく穏やかに暮らしてたのよ、あたし達。だから、今ごろになって、わざわざススガ丘の学園都市まで出向いて、爆発事故の認識を消そうとするようなお友達は、いないわねえ」
歌うように、一言ずつ言葉に節をつけるように、ルリおばさんは云う。
「それに能力者、ああ、あんた達の云う「アニー」の知り合い自体が、ナナとハナ、それから亡くなったおキクさんくらいしかいないのよ。だからキクちゃん、その点では、今のあんたとそう変わらないわ」
静かなトーンで、そう云って、
「当時のキクちゃんなら、もしかしたら、あたし達も知らないような心当たりがあったかもしれないけれど。それも今となっては、ね」
いつもの3段落ち、ではないのだろうけれど、ルリおばさんはそんな風に話をまとめてくれた。
そして、「オレンジの海」に、白い木枠の窓がかちゃりと開く。
ルリおばさんがふわりと星の砂浜に降り立つと、
「ヤキモキしながらただ待つのは嫌だから、あたしもここで見せてもらう事にするわ」
すたすたとテラスへ上がりながら、しれっと云う。
「おお、さすがルリさん」
ガブリエルは、何だかとてもうれしそうだけれど。
「あ、何よそれ、失礼ね。キクちゃん、あんたはうれしくないの」
どすんとテラスの椅子に座ると、ルリおばさんは頬杖をついてふくれっつらをしてる。
いや、うれしいよ、うれしいです。頼もしい、援軍だよ。
何度かその研究棟まで行った事のあるルリおばさんが、海から一緒に見ててくれるなら、それほど心強い事はない。
ぱちんと指を鳴らしたつもりで、僕の視界の窓と、ガブリエルの視界の窓もテーブルに出す。
それから、温かいお茶も。
「あら、気が利くじゃない。ナナに鍛えられたの」
さっきまでのふくれっつらはどこへやら、くすくす楽しそうに、ルリおばさんは笑ってる。
ナナには、別に何も鍛えられてはいない、かな。いやそんな事もない、かも。
ふむ、とガブリエルはうなずいて、タブレット画面から顔を上げると、
「とりあえず、近くまで行ってみようか。ウミノ教授に会えるなら、話を聞いてみたいけれど、日曜だからお休みかなあ」
スマホをポケットにしまいながら、苦笑する。
「承知しました」
サモンジさんもうなずいて、運転席と助手席の間のコンソールボックス、と云うのかな、物入れにスッとタブレットを差し込んで仕舞うと、車のエンジンをかけてハンドルを握る。
「あら、執事さんて云うから、もっと渋い感じのおじさまなのかと思ってたけれど、意外と若いのねえ」
すっかりくつろいで椅子にもたれ、視界の画面を眺めて、ルリおばさんがそんな事を言う。
「ああ、パーティの時に、ガブリエルの車椅子を押してた人ね。スーツじゃないからかしら、見違えるわねえ」
聞こえないのをいい事に、かどうかはわからないけれど、ルリおばさんはテレビでも見てる人みたいに、好き勝手な事を云ってる。
「だって聞こえてないんだし、いいでしょ。それに、あたしの方が年上でしょ」
「え、そうかな」
ガブリエルが、すかさず異を唱える。
いやまあ、僕もそう思ったけれど。
童顔な点を差し引いても、ルリおばさんの方が年下なのかな、って、なんとなく思ってた。
「え、キクちゃん、何よその微妙な云い方。褒めてるの、貶してるの」
ルリおばさんはまた不機嫌な顔になって、じろりと視界の窓をにらんでるけれど。
何でなの。
貶してはいないでしょ、そんなつもりで云ってないもの。
ルリおばさんの方が若いって云ってるんだから、むしろ褒めてるのでは。
「突然だけどさ、サモンジって、いま何歳なの」
本当に突然、くるりと横の運転席の方を向いてガブリエルが云うので、びっくりした。
忘れてた、この子も、いつも直球勝負だったっけ。
サモンジさんは特に驚きもせず、前を向いてハンドルを握ったまま、
「今年で32になります」
さらりとそう答えた。
「え、嘘、2つも上なの。なんでそんなに肌ツルツルなのよ」
ルリおばさんは、何やら違う所で驚いてるみたいだけれど。
32歳
と云う事は、ハンスと同じ年?
いや、比較するのがあのハンスでは、ね。
あの妙なゴーグルのせいで、ほとんど眼が見えないから、若いのか老けてるのかもよくわからない人だし。
「え、あいつも32なの。あたしより年上?もっと若いのかと思ってた」
へえ、とルリおばさんは、本気で驚いてた。
それで、初対面のハンスに向かって、あんな偉そうにケンカ腰で話してたの。
「ちょっと、云い掛かりはやめて頂戴。あたし、ケンカなんかしてないでしょ。偉そうなのは、まあ仕方ないわねえ。あたし、元々そういう話し方なんだもの」
仕方ない、事はないのでは。話し方は、まだ変えようがあるでしょ。
そんな僕らの不毛な云い争いは軽やかにスルーして、
「へえ、ボクは今年12だよ」
にこやかに、ガブリエルがサモンジさんにそう返すと、
「存じております」
一瞬、執事の顔になって、サモンジさんもやさしく微笑む。
僕は何だか、急に恥ずかしくなる。
「そうね。ミクリヤ家のふたりと比べたら、何だかあたし達、育ちの悪い野良犬みたいだわ」
そんな事を云って、ルリおばさんも少し反省してますみたいな顔になる。
ごめん、育ちが悪いのは、たぶん、キクタのせいなのだけれど。
でも、野良犬は、ちょっと卑下しすぎでは。
「あら、それはちょっと野良犬に失礼じゃない。彼らだって立派に生きてるのよ。野良かそうでないかは、人間が勝手に決めてるだけの事だもの」
そう指摘されて、ハッとする。
それは、そうかも。「育ちの悪い野良犬」を卑下と捉えた僕は、野良犬に対してすごく失礼なのでは。
ルリおばさんって、たまにハッとするような、すごくいいコト云うよね。普段は、何て云うか、雑なのに。
「まあね?」
一瞬得意げな顔をしたルリおばさんが、何かに気づいたみたいにまた画面をにらんで、
「え、雑ってなあに?ちょっとキクちゃん、年上のしかも女性に対して、雑はひどいんじゃない。まあ、あたしが雑じゃないとは云わないけれど。だからって、そんなはっきり云っちゃダメよ」
ふくれっつらのルリおばさんにふんわりと怒られた。
あ、そっか。これがナナの云う、「デリカシーじゃ」ってやつなのかも。
Nは何て云ってたっけ、「繊細な気配り」「思いやり」だったかな。
確かにそれが、僕には足りない。
だから、ごめんなさい、気をつけます、と思う。
「何でもいいけど、なんだかんだ云っても、ふたりは仲がいいよねえ。うらやましいなあ」
ふわりと海のカーテンが揺れて、本当にうらやましそうにガブリエルが云うので、僕はちょっとびっくりする。
「そりゃまあ、長い付き合いだもの。キクちゃんは、覚えてないでしょうけれど」
しみじみと、ルリおばさんまでそんな事を云うので、そうなの、と思う。
僕、ルリおばさんと「なかよし」なの。
それは、何だかうれしいな。
「何よ、急にあらたまってそんな。やめてよ、照れるじゃない」
ルリおばさんは本気で照れてるみたいで、Jみたいに顔の前でぱたぱた手を振ってるけれど。
「まあ、そうだよね。長年、トラウマを抱えてたキミにとっては、ようやく仲直りできたんだもの。それは、うれしいよね」
ふふふ、とガブリエルのやさしい笑い声が、「オレンジの海」にやわらかく響いてた。

サモンジさんの四輪駆動車は、坂道の多い住宅街を力強く走り抜け、林の中の山道も楽々ぐんぐん登って行った。
途中、信号待ちの間に、サモンジさんが手慣れた動作で素早くナビを操作して、大学の研究棟を目的地に設定してくれた。
やがて、学校の敷地の入口らしきところに辿り着く。そこには鉄製の可動式のゲートがあって、その傍の詰所みたいな小屋の前に、守衛さんらしき制服を着たおじさんが立っていた。
「どちらまで」
愛想のいいおじさんにそう尋ねられて、
「中等部の見学です」
ちらりと助手席のガブリエルを見ながら、サモンジさんがさらりと云う。
小学6年生の子供を連れて、学園の中等部の見学に来た、という体なのかな。
ずいぶん若いお父さんだけれど。
「はいはい、じゃあこちらにお名前と連絡先をいただけますか」
日曜日だし、子供を連れて学園の見学に来る父兄も多いのかな。おじさんは手慣れた感じでそう云いながら、バインダーに挟んだ用紙をサモンジさんに手渡す。
サモンジさんが何やら書き込んでバインダーを返すと、おじさんは車の中をちらりとのぞき込んで、
「3名様ですね」
そう云って、長いストラップの付いたネームホルダーみたいなものをサモンジさんに手渡す。
青い縁取りのされたカードは、名札かな。表面には、大きく「GUEST」と書かれてた。
ゲスト?来客って事かな。
同じく、ひと回り大きな「GUEST」のカードを、車窓からダッシュボードの運転席の前辺りにさっと置いて、
「車を降りられたら、名札を首にかけてくださいね。行ってらっしゃい」
にこやかにお辞儀をして、おじさんはゲートを開けてくれた。
「ありがとうございます」
律儀にお礼を云って、サモンジさんは車をゲート内へ進める。
窓を閉めて、しばらく車を走らせてから、
「坊ちゃん、失礼しました。とっさの事とは云え、つい」
サモンジさんは、まじめな顔で、ガブリエルに頭を下げてる、けれど。
「いやあ、サモンジがパパだなんて、ボクうれしいなあ」
ガブリエルが、Lみたいにニヤニヤしながら、そう云ってサモンジさんを揶揄うので、
「いやいや、パパだなんて云ってないでしょ。あのおじさんはそう思ってたかもしれないけれど」
慌てて僕は、そう云ってサモンジさんをフォローしようとしたけれど、フォローになってなかったかもしれない。
「いいえ、そう思わせてしまうような云い方を、私がしてしまい・・・」
まじめなサモンジさんは、そう云ってただただ恐縮してるし。
「もちろん、冗談だよ」
ふふふ、と笑って、いつものやさしい微笑に戻って、ガブリエルは、
「ごめん、事前に話を合わせておけばよかったね。でもサモンジの機転のおかげで助かったよ、ありがとう」
ぺこりとサモンジさんにお辞儀をする。
「坊ちゃま、恐れ入ります」
サモンジさんは恐縮したまま、そう云ってガブリエルにお辞儀を返してた。
「まじめでいい執事さんねえ。ガブリエル、あんまり揶揄っちゃだめよ」
海で見ていたルリおばさんに、やんわりと叱られて、
「はあい」
素直にそう返事をするガブリエルの声は、どこかうれしそうに弾んで聞こえた。

ナビの案内に従って、車は学園の外周道路を西へ、山道をぐるぐる登って行った。
大学の校舎や講堂らしき建物はとっくに通り過ぎ、山道をしばらく進んだところで、道が塞がれてた。
工事用のウマが簡易的なバリケードのように、二車線の車道を塞いで並んでいて、「この先立ち入り禁止」と書かれた黄色と黒の看板が掲げられている。
ナビによると、この場所から研究棟までは、あと200mほどあるらしい。
道の先は大きく右へカーブしていて、右手の木立の向こうに、それらしき大きな建物の屋根が小さく見えていた。
「入れるのは、ここまでのようですね」
柵の手前で車を止めて、サイドブレーキを引きながらサモンジさんが云う。
ふむ、と小さくうなずいて、あごに手を当てて、何やら考え込んでいたガブリエルが、
「サモンジだから、云うのだけどね」
そう口を開いて、サモンジさんを見る。
「はい」
応えて、サモンジさんもじっとガブリエルを見つめる。
ガブリエルは大きく息を吸い込むと、淡々といつものあの穏やかな表情で、
「ボクらが捜してる、Kのおじさん、キリノキクヒコって云うんだけど。その人、ボクをあの誘拐犯の所から助け出してくれた人なんだよ」
静かにそう云った。
まるで、お告げか何か、宣託のように。
はっとサモンジさんが息を飲むのが聞こえた。
少し力を抜くみたいに、ガブリエルは、小さく、ふっと息をついて、
「お礼くらい云いたいなって、ずっと思ってたんだけど、まあ、ボク、眠っちゃってたからね。でもこうして眼を覚まして、歩けるようにもなったし、きちんと会って、お礼を云おうと思って。それで、探してるんだけど、マンションはもぬけの殻で、仕事先は、爆発事故で立ち入り禁止になってて」
そう云って、あごに手を当てて黙り込む。
どう云おうかな、と考えるみたいに。
「はい」
じっとガブリエルの顔をまっすぐに見つめたまま、サモンジさんはそう云って、ひとつうなずく。
サモンジさんはサモンジさんで、ガブリエルの云った言葉の意味を、ゆっくりと考えてるみたいだった。
「キクタ様」
ふっとサモンジさんが僕の方を向いて、云う。
僕は驚いて、返事も出来ずに、ただサモンジさんを見つめ返して、背筋を伸ばす。
「あなたのご両親は、この事は、ご存じなのでしょうか」
そう、サモンジさんは僕に聞いた。
この事、と云うのは
ガブリエルの誘拐事件の事、彼を助けたのがキクヒコさんだという事、そして、そのキクヒコさんを僕とガブリエルが探しているという事、だよね。
「いいえ、父と母は、知りません。でも・・・」
云いかけて、僕は海を「振り返る」
ルリおばさん、
そう声をかけるよりも早く、
「いいわよ。あんた達の判断に任せるわ」
困ったような苦笑を浮かべて、ほんの少し肩をすくめながら、ルリおばさんは云う。
「ありがとう」
心の声で僕はルリおばさんにお礼を云って、心の中でお辞儀をする。
「でも、おばさんは知ってます。キクヒコさんの妹の、ルリおばさん」
僕がそう答えると、ああ、とサモンジさんは納得したように小さくつぶやいて、
「マンションの鍵を貸してくださった叔母様ですね、なるほど」
そう云って、うなずく。
「あ」
ぴこん、と何故かガブリエルの人差し指が立つ。
「サモンジは、話した事があるはずだよ。その、ルリさんと」
いつものやさしげな笑みを浮かべて、ガブリエルは云う。
「ええ?」
素っ頓狂な声を上げたのは、テラスの椅子にもたれてたルリおばさんだった。
「嘘でしょ。それ、いつの話よ?」
テーブルに身を乗り出して、テレビ画面に噛みつく人みたいになって、ガブリエルの視界の窓を食い入るように見つめてる。
「私が、ですか」
サモンジさんが尋ねると、ガブリエルはにっこりとうなずいて、
「8年前に、電話でね。「ミクリヤさん、かしら」「そこに小さな公園があるの」「善良な市民のお爺様が、そこでお宅の坊ちゃんを見ていてくれているから。すぐに迎えに来て頂戴」、それが、ルリさんだよ」
さらりと、そう云った。
「ちょっ・・・、ガブリエル?なんであんたがそれ知ってるの?」
何故か、テラスでルリおばさんが、Jみたいに恥ずかしそうに頬を赤く染めて、顔の前でぶんぶん両手を振り回してるけれど。
Jとルリおばさんって、どこか似てるところがあるのかな。内面的なところが?よくわからないけれど。
「え、だって、サモンジに聞いたからねえ」
レースのカーテンがふわりと揺れて、しれっとガブリエルが「海」で云う。
「だからって、なんでそんな一字一句はっきり覚えてるの。あたしだって覚えてないのに。やめてよ、恥ずかしい」
本当にJみたいに真っ赤になって、ぱたぱたと両手を振り回す仕草もJにそっくりだった。
意外と、照れ屋さんなのかな、ルリおばさん。
「あの方が、なるほど、それで」
そうつぶやいている事にも気づいてないみたいに、サモンジさんは驚いた顔で、しばらく固まってた。
沈黙を破るように、ガブリエルが静かに口を開いて、
「だからね」
そう云いかけると、サモンジさんが顔を上げる。
そして、サモンジさんは、ぴんと伸ばした右手の人差し指で縁のない眼鏡の位置を直すと、ガブリエルをまっすぐに見つめて、
「わかりました。行ってみましょう」
きっぱりと、そう云ったので、僕はびっくりした。

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