fly me to the moon iii

屋根裏ネコのゆううつ II

翌日からはどんよりとした曇り空が続いてた。
台風が近づいているらしく、湿気を帯びた強い風が吹いて、時折、ぱらぱらと雨が落ちてくるような不安定な天気。
何だか、僕らの心の中のそこはかとない不安を、秋の空が映しているよう。
教室の席から、ぼんやりと空を眺めていたら、
「そんな顔してたって、お空が晴れるわけじゃないよー」
えい、と僕の頭にチョップをして、ルナはニッとネコみたいな赤い眼を細めて笑ってた。
転校2日目にしてもうすっかりクラスに馴染んでるのは、もしかしたら消された認識が、良い方へ作用してるのかもしれない。
転校生、という遠慮やよそよそしさはもうどこにもなく、以前からずっとこのクラスにいた子、みたいな空気になってた。
どちらかと云えば、僕の方がまだまだクラスに馴染んでいないくらい、かもしれない。
帰りのホームルームが終わり、後ろの席のルナを振り返って「送らなくてもだいじょうぶ?」と尋ねたら、
「うん、南の通学路から帰るトモちゃんたちのグループに入れてもらったからねー」
ルナはそう云ってパッと席を立ち、「ばいばいキクタ」ふわりと僕の頭を軽くなでるようにチョップして、こちらを振り返りもせずにトモちゃんとやらのグループの方へと軽やかに駆けて行った。
何やら楽しげにきゃっきゃとおしゃべりしながら、ルナと一緒に教室を出ていく3人の女の子の、誰がトモちゃんなのか僕にはわからなかったし、ごめんなさい、他のふたりの名前も、まだ知らないのだけれど。
昨日、親分が云ってた通り、ピエロ面の爆弾魔が、昼日中から堂々と街中をうろつくとは思えない。
あいつの正体がブラウンなのだとしたら、それは尚の事だ。
何を考えているのかまではわからないけれど、まさか通学路に現れて小学生に何かしようだなんて、さすがにできないのでは、と思える。
そもそも、あいつが最初から何も気にせず強硬手段に出るつもりなら、ピエロの仮面を被る必要だってないのだし。
爆弾で狙ったのが研究棟1C実験室の「ロリポリの尾」なのか、それとも御子の「核」の方なのか、それもわからないけれど。
少なくとも、御子の「核」が、今ルナの左足にある事を、あいつには知る術はない、はず。
なので、ルナを直接狙って何かしてくるような危険性は、ない、と思うけれど。
何より、ルナには御子の「核」があるからこそ、万一危険が迫るような事があれば、それが「聞こえる」はず。
だから、だいじょうぶ。ルナは、だいじょうぶ。
そう、僕の中で落ち着きなく騒ぎ立てそうになる心配性なおじいさん気質を、僕はどうにかなだめてた。
それに、心配だからと僕がのこのこ付いて行ったところで、何ができるわけでもないし。
万が一とか、いざという時なんかには特に、ただの小学生にすぎない僕に、何ができるとも思えない。
ナガヌマだって、そう毎回都合よく、助けてくれるとは限らないのだから。

木曜日の晩にふと思い出して、すっかり忘れて部屋の机に置きっぱなしになってたスマホの説明書を引っ張り出してみた、けれど。
子供向けに書かれたもの、ではないものね。ぱらぱらと目次の項目の数を眺めただけでその多さにうんざりしてしまい、あっさりと諦めて、元通り、紙袋にそっとしまった。
ひとまず、メールと通話の仕方さえわかればいいので、今度ガブリエルに教えてもらおうかな、と思って。
からん、とずいぶん遠慮がちに貝殻の風鈴が鳴った。
空耳かな、と思ったけれど。
いや、これは、呼び鈴ではなく、誰かが来た方かな。
海を振り返ると、Lが何やら難しい顔で、テラスの手すりに腰掛けて、ルナみたいに足をぶらぶらさせながら海を眺めてた。
「どうしたの、勉強疲れかな」
テラスに降り立って尋ねると、Lが顔を上げて振り返り、あ、違うな、と思う。
眼がきらきらしてた。
「おお。いや、例の資料ね、いろいろと面白いぜー」
きれいな青い眼をまんまるに見開いて、口元でニヤリとLは笑う。
例の資料
ガブリエルがハンスにコピーしてもらった、あの軍の資料かな。
「そーそー。それと、ゲンゴロー先生の、キクヒコのノートパソコンの中身のコピーね。比較用にもらってくれたガブちゃんのお手柄なんだけど、だいぶ中身に差があるんだよなー」
面白い、とLが云うのは、その中身の差が、ってこと?
「いやあ、もちろん資料としても純粋に面白いのよ。何てったってあのロリポリやアルカナを、軍の研究者達が70年に渡って観察・研究した記録が中心だからねー。まだ、ざっと眼を通しただけなんだけど、これがまた、だいぶやばいぜー」
はっはー、とLはいつものように陽気に笑う、けれど。
じゃあ、さっきの難しそうな顔は何だったの。
「え、オレ、そんな顔してたの。ああ、それで「勉強疲れ」か」
ふふん、とLは力が抜けたように鼻で笑って、
「いやあ、その、ハンスちゃんの資料と、キクヒコの資料の差が、ね。あまりにも露骨で」
差が、露骨?
キクヒコさんの方が、何と云うか、ぜんぜん足りないとか少なすぎるとか、そういう事、なのかな。
軍の撤退間際に、大慌てでコピーしたらしいって、ガブリエルも云ってたくらいだし。
「って、思うじゃん」
困った顔で苦笑して、
「それが逆なんだよなー。ハンスちゃんの方が、あからさまに少ないの。おかしくね?」
Lは肩をすくめる。
「あっちは撤退した軍の全部の、それこそベースも海沿いも隣の市の駐屯地も、全てひっくるめた資料のはずだよなー。逆にキクヒコの方は、ベースだけのはず。しかも大慌てでコピーしたのなら、漏れがあってもおかしくないくらいなのに」
そう云って、Lはまた難しい顔で海を見つめてる。
全てお見せしましょう、と快くハンスは云ってくれてた、よね。
いや、違うかな、質問には、「全て正直にお答えしましょう」だ。
資料の方は、「必要とあらば、喜んで提供します」だったっけ。全て、とは云ってなかった、けれど。
その上で、ガブリエルと約束をした。そして、ガブリエルが取りに行くと、既にデータをコピーまでして、用意してくれてた。「だから、受け取っただけ」、とガブリエルは云ってた、よね。
データをコピーする時に、ハンスが何か操作をミスして、漏れがあった、という事なのかな。
Lは口元を歪めるみたいに、僕を見て苦笑いを浮かべる。
ふわりと、視界の端でレースのカーテンが揺れる。からりと貝殻の風鈴が鳴って、
「やっぱりねえ」
上からそう声がして、見上げると窓辺に腰かけて、Lと同じように足をぶらぶらさせながら、ガブリエルはくすくす笑う。ガブリエルの窓は、テラスの手すりのほぼ真上にあるので。
「キミはそう云うだろうと思ったよ」
僕が、そう云う、と云うのは?
「云ったろ、役割分担だよ。おまえは素直ないい子だからね、それでいいの」
ニッといつものように笑って、Lは僕の頭をふわりとチョップする。
どういう事?とガブリエルを見上げると、
「ボクはその差に気づいた時、ハンスが敢えて「データを選んで」ボクらに渡したんじゃないか、って思ったよ。ボクらに見せても差し支えないものだけを、選り分けた上で、コピーしたんじゃないか、ってね」
そう云って、ひらりとテラスに降りて来ると、ガブリエルはLの反対側、僕を間に挟むように手すりにふわりと腰掛けて、
「彼は、キクヒコのノートパソコンの存在を知らない。いや、厳密に云えば、ゲンゴロウ先生の話は彼にもしてるから、ノートパソコンがある事は知ってるね。でもその中に、キクヒコがコピーしたベースの研究データが入ってる事は知らない。だよね?だから、彼が事前に「選んだ」欠けたデータであっても、「これが軍のデータの全てです」、と渡せば、ボクらはそれが選り分けられたものだと気づかない。そう思ってるんじゃないかな」
ハンスが敢えて「データを選んで」?
つまり、彼にとって、何か僕らに見られては都合が悪いデータがあって、それを除いた上でコピーした。それをガブリエルに渡した。そういう事?
でも、いったい何のために?
「それはわからない。けど、ボクのハンスの第一印象、覚えてる?サモンジに見せてもらったクヨウの資料を見た限りでは、グレーに限りなく近い白、でもボクの印象だけで云えば、黒に限りなく近いグレー。それは今も変わらないし、このデータのコピーの件で、より黒に近づいたよ。あくまで、ボクの印象はね」
それは、でも・・・。
何か反論したいような気がしたけれど、いや、違うよね、と思い直す。
あくまで、ガブリエルの感じたハンスの印象、そうガブリエル自身が云う通りだ。どう思うかはそれぞれ自由で、僕が反論してまで、それを覆そうとするようなものじゃない、よね。
役割分担、とLが云うのも、たぶんそういう事。
「うん、だからもちろん、キミからハンスに聞いてもらって構わないよ。「この間の資料は、あれで全部なの」ってね。もしキミの云うように、操作ミスか何かでコピー漏れがあったのだとしたら、彼もそれに気づくでしょ。あるいは、自分の操作ミスを疑って、もう一度コピーしたデータを確認してくれる、とかね。それならそれでいい。ボクが疑り深い、ちょっと嫌なヤツになるだけだからねえ」
じゃあ、Lも?
さっき難しい顔してたのは、そのせいなの。
「あー、まあね。オレはほら、こないだの取り調べの映像の件で、ハンスちゃんをちょっぴり警戒しちゃってるからなー。そのせいか?って思ってたら、ガブちゃんも同じ事を云い出したからね。じゃあ、おまえがどう感じるか聞いてみるか、ってね。まあ、ほぼ予想通りで、安心したけど」
ニヤリと笑って、Lはまた僕の頭をふわふわチョップしてる。
「それで、Kに「ふたつ」、お願いがあるんだけど」
ぴこん、と二本指を立てて、ガブリエルが云う。
前にもあったよね、ふたつ、お願い。
「そーだっけ」
ガブリエルはとぼけた顔で笑って、口調をあらためて、
「ひとつは、キクヒコのノートパソコンの事。中にキクヒコがコピーしたベースのデータがある事は、ハンスには云わないでほしい。それと、ゲンゴロウ先生をハンスと会わせるのも、ちょっと待ってほしい。もちろん、はっきり断るんじゃなくて、先生の体調が芳しくないとか何とか云って、先延ばしにしてくれるだけでいいから」
それは、うん、そうかも。
ゲンゴロウ先生が少し疲れているようで、あまり体調が良くなさそうなのは、全くの嘘ではないし。
ハンスがあえて僕らにデータを隠したりするような理由は、僕にはちょっと思いつかないけれど、それとは別に、Lとガブリエルがそう感じたのなら、それは尊重すべきだと思う。何より僕は、僕自身のあいまいな感覚よりも、Lとガブリエルをはるかに信用してるから。
「それは、身に余る光栄だなあ」
ふふふ、とガブリエルはうれしそうに笑って、
「もうひとつは、ルリさんの事。まだハンスには云ってないよね、ルリさんが同じマンションの上のフロアに住んでる事。それと、ルリさんがリバーフロントホテルのオーナーだって事。それも出来る限り内緒にしておきたい。とは云え、同じマンションで同じエレベーターやエントランスを利用してるからねえ、いずれどこかでばったり会って、とかで、あっさりバレそうな気はするけど。そうなるまでは、内緒にしてほしい。ハナちゃんやルナも一緒に住んでるし、ゲンゴロウ先生もいるとは云え、女性だけの家だからね。念のためって感じかな」
そう云われてみれば、ナナもそんな風だった。ナナとふたりで初めてハンスのオフィスを訪れた時、意識してかどうか、いやたぶん意識して、だと思うけれど、帰りにナナは、一度エレベーターで3階へ降り、一旦ビル内へ出てから、23階の部屋へ戻った。あの時はまだ、ハンスを完全に信用できるかどうかわからなかった、というのももちろんあるのだろうけれど。ナナはしっかり最初から、ハンスを警戒してた、という事。
うん、とLもうなずいて、
「ナナちゃんが云うように、あの部屋が「万が一に備えて、「キクタ」おじいちゃんが用意した最後の砦」なんだとしたら、余計にね。秘密にしときたいよねー」
そう云われると、そうなのかも、と思える、よね。
ハナやルナを危険な目に遭わせるわけにはいかないし。
いや、ハンスが危険だとは、やっぱり僕には思えないけれど、それは別としても。
「ミカエルの云う「秘密にしときたい」って、それはシュミなんじゃないの。キミ、大好きでしょ、そういう秘密基地てきなやつ」
「そーだけど、だから何。おまえね、あんなワンフロアぶち抜きの高級マンションが秘密基地って、ハリウッド映画の主人公かよって感じだろー。岩風呂の温泉付きで、プールまであるんだぞー」
「ふぅん」
唐突に、またいつもののんびりした声がして、3人で一斉に振り向くと、手すりのLの隣にいつの間にかルナがちょこんと座ってた。足をぶらぶらさせながら。
「Lは温泉が好きなんだよねー。聞いたよー、いきなり飛び込んでじゃぶじゃぶ泳いでたんだってねー」
ネコみたいな赤い眼を細めて、ルナはニヤニヤ笑ってる。
その「聞いたよ」は、御子の力で、じゃないよね。
「うん、ハナに聞いたんだよー」
「え、泳ぐでしょ。ルナチャンも泳いでいいのよ。だって、ルリちゃんが泳いでいいって云ったもん」
小さな子供みたいな無邪気な顔でLが云って、ルナはあきれたように苦笑してる。
やっぱり、ルナには反応しないね、貝殻の風鈴。
トーテムの中には普通に入れるし、特に不便ではないけれど。
「窓も開かないよね。そもそもルナの海に窓はないのかな。ナナちゃんも、窓は開かずにいきなり現れるけど」
ガブリエルが首をかしげると、
「え、窓あるよー、チョコレートの窓がー」
そこは大事、みたいに、ルナは口を尖らせてる、けれど。
それはルナのお菓子のお家の窓で、ガブリエルの云う「僕の海とつながる窓」ではないよね。
からからと軽やかに風鈴が鳴って、お庭の窓が開く、
「え」
魔法の声が短く云って、Jは窓辺から僕らを見下ろして固まってる。
J、どうしたの。
「え、何で?どうしてみんな手すりに座ってるの」
云われてみれば、だった。
テラスに椅子もあるし、中にはソファもあるのに、ね。
ふわりと砂浜に舞い降りて、J先生はあきれ顔で肩をすくめてる。
「ソファあるの。じゃあ、るな、ソファがいいー」
ぴょーんと手すりからテラスへ飛び下りて、ルナは我が家のような気安さで、室内へ駆け込んで、奥のソファにぴょこんと飛び乗ってた。
「そーだった。じゃーオレもソファがいいー」
Lがしれっとソファへ移動して、しっかりルナの隣に座る。
「ふたりも、入ろ」
魔法の声でにっこり云われたら、それはもう、そうせざるを得ないよね。何がなんでも手すりに座っていたかったわけでもないし。
僕とガブリエルもJに云われるまま、なんとなく叱られた子供みたいにすごすごと手すりから下りて、室内へ入る。
Lとルナの向かいのソファに、Jを真ん中に奥にガブリエル、手前に僕が腰掛ける。
ぱちんと指を鳴らして、人数分のお茶を出した。
「で、今日は?作戦会議?」
ありがと、と僕にお辞儀をして、JがLに尋ねる。
今日は
そう云えば、約束していたわけでもなかったけれど、なんとなく、僕はLがいたので来てみただけだった、かな。
「るなもー」
お茶のカップを右手に、ルナが左手を上げて云う。
「いやあ」
Lは少し肩をすくめるように、
「例のコピーしてもらったデータの件で、Kの意見を聞きに来ただけ、だったんだけどねー」
うん、とガブリエルもうなずいて、
「でも、週末に行くのなら、今日はもう木曜だし、このまま作戦会議でもいいかもねえ」
「じゃあ」
Lがちらりと僕を見る。
ナナを呼ぶ、のかな。
さっきの話ではないけれど、ナナは窓がないので、呼び鈴がない。
僕がハナの海を「振り返って」、呼ぶしかない、よね。
「あの、おまえさ、どうして毎回、ナナちゃんを呼ぶのにそんな構えるの。何かまた隠れて悪い事でもしてんの」
そんなわけないでしょ。特に構えてるつもりも、なかったけれど。
ハナの海を「振り返り」、ナナを呼ぶ。
「ナナ、今だいじょうぶ?僕の海に・・・」
云いかけると、ふわりとソファのLの隣、ルナの反対側に、ナナが現れる。まるで、聞いてたみたいに。
しかも、いつもふわりと現れるテラスの席ではなく、ちゃんと室内のソファの方に。
「人聞きの悪い。まるで儂が覗いておったようではないか」
薄灰色の眼を細めて、僕をじろりとにらんでるけれど。
いきなりゴキゲンななめなの。
「呼ばれて振り返れば、おぬしらがテラスでなく室内におるのも、金髪の隣が空いておることも一目でわかろう。四六時中、おぬしの海を覗いておるほど儂も暇ではないぞ」
それは、そうだよね、失礼しました。
ぱちん、と指を鳴らして、僕はナナの分のお茶を出す。
「週末の作戦会議をね、しようと思って。でもその前に」
そう云ってLは、
「ナナちゃんの意見も聞きたいなー」
さっきの話をナナにする。
ハンスにもらったデータのコピーが、キクヒコさんのノートパソコンにあったベースのデータよりも、明らかに少ない、という話。
ふむ、とナナは包帯ぐるぐるの右手を唇に当てて、
「妙じゃの」
首をひねる。
「あやつは「聞かれた事には、全て正直に答える」「データも、喜んで提供させていただく」そう云うておったの」
そう、僕に尋ねるのは、確認だろう。
僕がうなずくと、「厭」と首を横に振り、
「聞かれぬ事には答えぬ。データも「全て渡す」とは云うておらぬ。そうも取れるの」
という事は、ナナもやっぱり、ハンスは怪しい、と思うのかな。
「怪しい・怪しくない、で云えば、怪しいの。あやつにはあやつの思惑があり、それに触れそうな情報は聞かれぬ限り答えぬし、進んで提供するつもりもないのであろ」
さらりと、なんでもない事のようにナナは云う。
「そも、善悪ではないのじゃ」
両手を広げて、肩をすくめるようにしながら、
「人にはそれぞれの思惑があり、立場もある。あやつのように、クヨウという大企業の顧問を務める身ともなれば、尚の事な。「アルカナの安全を守る」、というあやつの言葉に嘘偽りはなかろうが、あやつがホワイトの非道な実験により造られたクローン人間であり、失敗作として廃棄された存在であった事も事実。そこからどうにか生き延びて這い上がり、アメリカへと渡り、学と職を得、クヨウ・ケミカルの顧問という地位を手に入れるまでには、並々ならぬ苦労もあった事であろ。あやつの思惑の中に、おぬしらに見せられぬ何かがあったとて、別に驚くには当たらぬ。それをもってあやつを「悪」だと決めつけるつもりもないし、儂らの信頼を裏切った、と断罪するには、まだ早い」
そう云って、ナナはくるりと僕らを見渡して、
「おかっぱよ、おぬしはどう思う」
そう尋ねる。
Jは、まさか自分が意見を求められるとは夢にも思ってなかったの、かな。
「え、わたし?」
灰色がかった眼をまんまるにして驚いてた。
わたしは、とJは人差し指をあごに当てて、少し考えて、
「ハンスさんが、何か悪意をもって、わざと情報を隠したりするようには、思えない、かな。本当に、彼が入手できたデータはそれで全部、だったのかも」
ゆっくりと、言葉を選ぶように云う。
ふむ、と満足げにナナはうなずいて、横を向く。
Lを挟んだ向こうに座ったルナがその目線に反応して、はーい、と右手を上げて、
「るなはねー」
まだナナが何も聞かないうちから、赤い眼を得意げに見開いて、
「ハンスちゃんはー、まじめないい子だと思うよー。お父さん思いの、やさしい子だよー」
そう云って、えへへ、と照れたように笑う。
うむ、とナナは何故か笑顔でうなずいて、
「これで引き分けじゃの。金髪の云う「役割分担」が、きれいにできておるという訳じゃな」
引き分け
ハンスを「怪しい」と云うナナと、「警戒してる」Lと、「限りなく黒に近い」と感じるガブリエル。
対して、「いい子」と云うルナと、「悪意はない」と云うJ、そして、「データの差はコピー時の操作ミスでは」と云う僕。
確かに、3対3で引き分け。きれいに分かれてる。
それにナナのいう、立場や思惑、というのも、実感として僕にはピンと来ないけれど、話としては、わかるような気がする。
ハンス自身は「アルカナの安全」を第一に掲げているけれど、クヨウの顧問という立場や、仕事上の何かの都合が、それを邪魔するというか、何らかの影響を及ぼす事も、きっとあるのだろう。
「一先ずはの。それで良いか、金髪」
ナナが尋ねると、Lは「おっけーだよー」と笑顔でうなずいて、
「そこでガブちゃんから、お願いがふたつ、あるそーだよー」
そうガブリエルに振る。
うん、とガブリエルはうなずいて、さっき僕に云ったふたつの「お願い」を、ナナとJ、それからルナに、説明してくれる。
ルナはさっき、どこから聞いてたのか、わからないけれど、と思ったら、
「ぜんぶ聴いてたよー。ゲンゴローをハンスちゃんに会わせないってところもねー。確かに最近お疲れみたいだしー、その方がいいかもねー」
けろりとした顔で云う。
「儂も異論はない」
ナナがうなずくと、
「あ、はい、わたしも」
Jもかしこまった顔でうなずいてた。
「それじゃ、作戦会議といきますかー」
Lが陽気に宣言をして、どっこらせ、とソファに胡座をかく。
ぴくっとJが反応するけれど、Lは今日も制服のスカートの下にはスパッツを履いてた。
そこまでして、制服を着たいし、胡座もかきたいのかな。Lらしいと云えば、Lらしいけれど。
「ナナちゃんに来てもらったのは、あのニュータウンの地下、ベースへの入り口を聞きたいなと思ってね。どこにあるの」
Lがまっすぐ直球勝負で尋ねると、
「西と北じゃが」
ふむ、とナナは少し考える顔になって、
「西が良かろ。わかりやすいし距離も近い。北は、あの川沿いの防空壕の先ゆえ、地下に入ってから少し歩く事になるぞ。あれのねぐらの付近を通る事にもなるしの」
あれのねぐら
あの防空壕の先、市の古い地下道にベースへの入り口があるの。
それは、ちょっと意外だった。
ヌガノマ、いや、ホワイトのねぐらの付近を通る、と云うのも含めて。
当時、その地下道で、軍や研究者達がホワイトと遭遇するような事はなかったのかな。
「北は居住区であったが、入り口は云うた通り不便ゆえな。あまり使われてはおらんかった。それに何より、時期が被っておらぬじゃろ。あれがレムナント化したのが30年前としても、しばらくは博士の元におったようじゃしの。あのねぐらに棲みついたのは、軍の撤退後、つまり、H何某が博士のラボを封鎖した後ではあるまいか」
あ、そうか、云われてみれば、そうだった。
「当然、北も西も、入り口にはあのロックされた鋼鉄製のハッチがあるゆえ、いずれにせよホワイトには入れぬ。ナガヌマやモニカがベースへ戻らなかったのも、本人達の事情はともかく、戻ろうにも物理的に戻れんかった訳よ」
ナガヌマが探していた子供は、御子の抜け殻、つまり「キクタ」だったのだろう。
キクタがベースにいる事は、あの河原の記憶でモニカもそう語っていた通り、ナガヌマも知ってた、はず。
居場所はわかっていても、それが地下深くにあり、限られた入り口しかないベースの中では、外にいるナガヌマには、どうしようもなかった、のかな。
ふむ、と湯呑みに手を伸ばし、ゆっくりとお茶の香りを吸い込んでから、
「西には、変電所がある」
口調をあらためるように、ナナが淡々と云う。
「ベースのみならず、地下道で結ばれた海沿いの施設まで、地下へのすべての電力を供給するための変電所じゃ。当然、まだ生きておる。当時はそこも軍の管轄であったはずじゃが、管理自体は、市内の電力会社へ委託しておったようじゃ。撤退後、ベースの認識は消されたが、認識されないとは云え、消えてなくなったわけではない。認識されぬまま、今も電気は供給され続けておる、という訳じゃな」
だとすると、海沿いの地下施設の照明が生きているのを見た時に、Lが推察していた事は概ね当たってた事になる、よね。
「まあ、そーね。まさか、はるばるニュータウンの西から引っ張ってたとは、思いもしなかったけど」
「変電所、と云うと、金網に囲まれた敷地に高い送電鉄塔が立ち並び、高圧送電線が引き込まれた屋外の施設を想像するじゃろうが、西にある変電所はそれとは少し様子が違う。変圧器やらの設備は、全てコンクリートの建物の中じゃ。その建物も、コンクリートの塀に囲まれておる。一見すると、窓のない工場か大きな倉庫が如き味気のない建物じゃ。遠目に見ただけでは、変電所、とはわからぬかもしれんの」
そう云われて、思い出す。
確かに、アイとふたりであの工事現場の周りを入り口を探して何周もした時に、西側の更地の住宅街の向こうに、灰色の工場のような大きな建物があるのを見た、ような、気がする。
ほとんど塀の方ばかり気にして見ていたので、どんな建物だったのかまでは覚えていないけれど。
西側の住宅地には一軒も家が建っておらず、延々と更地が続いていたので、その向こうにある灰色の大きな建物は自然と目に入っていた、気がする。
「それよ。周囲には他に建物もないしの。まず間違いあるまい」
「それって、稼働してるって事は、まだ人がいるんだよね。その、電力会社の人が。土日はお休み?そんなはずないか、電力会社だもんねー」
「ふむ。おぬしの想像通りじゃろうの。ご苦労な事に、無人のベースのために、24時間365日、職員が詰めて電気を送り続けてくれておる訳じゃ。もっとも、ベースのみならず、ニュータウンの電力もその変電所から供給されておるはずじゃから、此奴の家やコンビニ、それに街灯やらのインフラ設備の電気もそうであろうの」
それは、そうだよね。ゴーストタウンのような住宅地だけれど、水道をひねれば水が出るし、スイッチを押せば灯りが点く。
大通りの瀟洒な街灯も、(節電のためにひとつおきに消されてしまってるみたいだけれど)毎晩家の前の通りを明るく照らしてくれてる。
その、電力会社の人達が働いてる変電所の中に、地下への入り口があるの。
「否、変電所へ忍び込む必要はない。変電所の周囲を囲む高いコンクリートの塀の北面、東の角に、一見すると通用口のように見える鉄のドアがある。それが地下への入り口じゃ」
変電所の塀に、ベースへの入り口があるの。
元は軍が管轄していて、そのために作られた変電所なのだとしたら、それも不思議ではないのかもしれないけれど。
「そんな所から出入りしていて、だいじょうぶだったのかな。いやその、当時ね。変電所の人に、不審に思われたりとか」
ガブリエルが尋ねると、
「それも時期の問題じゃの。軍がおる間は、軍が委託しておった事は当然変電所側も承知の上じゃ。地下施設の詳細は秘密であったろうが、その「通用口」から軍や研究者が出入りするのは、何も不審に思われるような事ではないであろ。撤退後は、認識が消されておるし、出入りするのも儂らくらいのもので、それもごくたまに、じゃ。元々、人けのない寂れたニュータウンゆえ、誰に見られる事もないしの」
「当然、その「通用口」には鍵がかかってるんだよね。ハッチと同じ、パスコード式かな」
「その「通用口」自体に鍵はない。鍵がかかっておるのは地下へ降りてからの扉じゃ。金髪、パスコードやらは覚えておるか」
ナナがニヤリと笑って尋ねると、
「え、覚えてるけど、オレはラファエルで行くからね?パスを入力するのは、Kだよね」
Lがニヤニヤしながら、僕を見る、けれど。
いやいや、僕が覚えてるわけないでしょ。2ヶ月も前に一度聞いたきりの、16桁もあるパスコードだよ?
「ほんとに?」
不思議そうに尋ねるのは、魔法の声。
なんでなの、Jは覚えてるの。
「わたし?覚えてないけど。Kなら覚えてるでしょ、記憶力いいもん」
1/fのゆらぎが、ものすごく高いハードルを僕の前にポンと気軽に置いてる、けれど。
Lもガブリエルも、ニヤニヤしながら僕を見てるだけだし。
あの時、15桁以上もある、と僕が云ったら、「16桁なー」とLが教えてくれたのは、覚えてる。
それからLは、「妙に7が多いなって、まあそれはどーでもいいか」とか、「最後がちょい微妙だけど。0か#か指がじゃまでよく見えなかったんだよなー」とかも云ってた、よね。
「・・・7234?5677?7234?5670、・・・かな」
ぜんぜん自信はないけれど、なんとなく、記憶にあるLの声を思い出して、そう答える。
「おお」
ぴこん、とLが人差し指を立てて、
「やるね、さすが、正解だぜー」
はっはー、とうれしそうに笑うので、ほっとするよりも、びっくりした。
まさか、当たってるとは思わなかったので。
「ほら、やっぱり覚えてる、でしょ」
ふふーん、とまるで自分が云い当てたみたいに、Jが自慢げに笑って云う。
その声を聞いて、ようやくほっとしてた。
Jの期待を裏切らずに済んで、よかった。本当によかった。

「西の地下には、研究所があったんだよね」
青い眼をきらきらさせながら、Lが隣のナナに尋ねる。
「左様」
ナナは湯呑みから少し顔を上げて、
「じゃが、おぬしの期待するようなものは、もはや何も残っておらぬよ。残念ながらの」
「それは、撤退で全て持ち帰ったから、って事?それとも、火事で?」
Lが尋ねると、ナナは小さくうなずいて、
「左様。手で持てるもの、車や何かで運べるものは全て撤退で、持てぬような大型の機材やらは残されておったが、それらは全て火災で焼かれた」
お茶の湯気を吸い込んで、ふうとため息をつく。
そして何かを振り払うように、小さくゆっくりと首を左右に振る。
「変電所の塀の入り口をくぐれば、小部屋がある」
口調をあらためて、淡々とナナは語り出す。
「部屋と云うても、コンクリートに囲まれた、飾り気のない階段の踊り場よ。エレベーターもあるが、動かぬ。電気は通じておるはずじゃが、故障じゃろうの。あれも50年近く前の代物のはず。素直に階段を下るがよかろ。長い階段を底まで下れば、そのまま道なりに東へ、研究所のメイン通路へ入る。左右に大小の研究室が並ぶ、まっすぐな広い道じゃ。火災はその通路に沿って燃え広がったのじゃろ。見る影もなく、真っ黒焦げじゃ。当然、灯りは点かぬ。おぬしらならば、その「なかよしのメガネ」で見えるのじゃろうが、念のため、灯りは持ったほうが良いやもしれんな」
灯りは点かない。
あらためて、12年前の火災の現場へ足を踏み入れるのだと思うと、少し怖いような気がした。
何がどう、と具体的に怖いわけではないけれど、なんとなく、身がすくむような思いになる。
「とは云えじゃ。おぬしもそこで暮らしておったわけじゃからの。火事の後、およそ3年ほどか、無論当時の記憶は、既に失くしておるのじゃろうが」
それは、そうだけれど。
「そのメイン通路をまっすぐ行ったら、あのでっかいハッチがあるの」
Lが身を乗り出し気味に尋ねると、
「左様」
「じゃあ持ち物は、懐中電灯と水だなー。遭難する恐れはないだろうから、食料までは要らないよね。おやつくらいなら、別に持ってってもいいけど」
ふふん、とLが何かを思い出したように鼻で笑う。
前回の事かな。ランドセルに入れたおやつと水筒を持って出なかった事を後悔してたよね、L。
「あんな延々と走らされるとはね、思わねーもんなー」
「でもー、るな、おなか空いたら「飛んで」帰れるし。おやつは、いいかなー」
確かに。
いや、おやつの事ではなくて、ルナは今回、あのロリポリのホールへ行きさえすれば、次からは「輪」で飛んで行けるようになるんだね。
「おやつや何かで気軽にほいほい「飛ぶ」のは、あまり感心せぬがの」
ナナは苦い顔をしてる。
ルナの体への負担を考えたら、それはそう、だね。
「持ち物の事でひとつ、確認なんだけど」
ガブリエルがすっと小さく手を上げて、
「ふたりとも、スマホは家に置いて行った方がいいかもしれないよ。もしかしたら、壊れるかも」
まじめな顔で何やら物騒な事を云い出したので、驚いた。
「え、るなのスマホ、壊れちゃうの?それは困るよー」
スマホが壊れるような、何か危険な電磁波?とかが出てるの。
研究施設は焼け跡で、何もないのでしょ。
そっちではないとしたら、まさか、ロリポリから?
え、でも、じゃあナナたち、地下で暮らしてた人たちは、だいじょうぶだったの。スマホ持ってなかったのかな。
ナナを見ると、うんざりしたような顔でそっぽを向く。
あ、儂に聞くな、かな。
それなら、とガブリエルを見たら、「詳しくは」と云いながら、Lに手のひらを向けてる。
「あ、おまえね、云いかけたんならちゃんと最後まで面倒見なさいよ。途中で投げるとか、ずるいからね」
「ごめんね、ミカエル。ボクまだ、理科は2年生レベルだからさ。よくわかってないし、だからちゃんと説明できる自信もなくて」
「だったら云わなきゃいいでしょ。全く困ったお坊ちゃんだなー」
口ではブツクサ云いながら、Lはニヤニヤ笑ってるのだけれど。
Lは大袈裟に肩をすくめてから、
「結論から云うと、スマホは壊れないよ、たぶんねー。研究施設じゃなくてロリポリから、ってのは、Kの想像通りだけど。いや、ロリポリから出てる、と云うかあの隕石ボディを包んでるのは、「磁場」なんだってさ。軍の研究データによると、ロリポリは、磁場のバリアを持ってるらしい。地球と同じだねー。宇宙空間を旅する生き物なわけだから、危険な放射線から身を守るための磁場を持ってるってことだぜー。だから、スマホとか精密機器を近づけすぎると、磁気の影響で誤作動を起こしたり、もしかしたら内部のスピーカーやコンパスは壊れる?かもだねー、でっかい磁石みたいなもんだから」
磁場
ロリポリは、それで放射線から身を守ってるの。地球もそう、というのは、図書室の図鑑か何かで見た覚えがあるような。地磁気、とかいうやつだよね。
「そうそれな。宇宙線や太陽風から、地球を守るバリアが、地磁気だねー。ただ、まあ実際、おまえはロリポリに触る必要は、ないよね。「王」なら接触なしでつながれるんだろ?」
Lが云うと、ふむとナナがうなずいて、
「可能であれば、ロリポリの前で呼びかけて、M何某に此方へ来てもらうのが良いかもしれんの。であればよ、あやつの「ぐるぐる」で灰の海へ行かずとも済むであろ」
ナナは、ぐるぐるが苦手だものね。僕も得意とは云い難いけれど。
でも、此方、って
僕の「オレンジ海」にMを呼ぶの。
確かに、「王」ならそれも可能だろうけれど。
でもそれなら、わざわざロリポリのホールまで行かなくても、この場でMの海を「振り返って」呼べばいいのでは。
「あくまで、仮定の想像だからねー。Mちゃんが本当にA-0の「次の王」なのかどうか、まだわかんねーし。ロリポリの中にいる、ってのもMちゃんがそう云ってるだけで、証拠はない、だろー。だから、それを確かめるためにも、あそこへ行く意味はあるんだよねー。「虫嫌いのおじいちゃん」は、あんまり行きたくないだろーけどさ」
Lがなだめるように云うので、何だか、それはそれで、気を使わせているようで申し訳なくなる。
僕だって別に、虫が怖いからあの地下ホールへ行きたくないわけじゃ、ない、はず、たぶん。
それに、御子の「核」を持つルナを連れて行く事、そこにも大事な意味がある、それもわかってる。
だから、ごめんなさい。「この場で振り返って呼べばいい」は、ちょっと浅はかな発言だったね。
「わかれば良い」
ふふん、とナナは鼻で笑って、
「触れずともつながれるのは、金髪の指摘通りじゃろ。つまり今回は、「ぐるぐる」に巻かれる必要もなければ、小僧のように、わざわざロリポリの上に乗る必要もないわ」
そう云われて、あらためて、思い出す。
そうだ、あの時、キクヒコさんは・・・
思い返して、背筋がひやりと寒くなる。
キクヒコさんの意識が入った僕(の体)は、ロリポリの上にちょこんと座ってた、よね、あの時。
あれは、だいじょうぶなの。
「だいじょぶだぜー。だって実際、だいじょぶだったでしょ、おまえの体。キクヒコから返してもらった時、どこかおかしいところあったか?まあ疲れ果てていきなり眠っちゃったのはしゃーないとしても、静電気でピリピリするとか、磁石みたいに金属にくっついて離れないとか、なかったでしょ。ただの磁場だし、しかもほんの数分程度の短時間だし、問題ないはずだぜー」
Lは、ふふん、と僕に微笑みかけて、
「ちなみに、おまえの云う「電磁波」ってのも基本的にはだいじょぶだけどね。Wi-fiだとかBluetoothとか、そもそもスマホはその電磁波を使っていろいろやってるからね。フツーに壊れないでしょ。おまえやガブリエルが勘違いしてるのは、電子レンジとかのマイクロ波じゃね。あれも電磁波だけど、用途が違うからね。電子レンジにスマホ入れたら壊れるくらいはわかるだろーから、勘違いしてビビッちゃったんだろーけどなー。もっかい云うけど、ロリポリのは「磁場」だからね、電磁波じゃねーから、だいじょぶ」
Lが殊更丁寧に説明してくれるので、ほっと安心できた。
それも、例のベースの資料に書いてあったの。
「そ。なんてったって、宇宙から落ちて来た未知の隕石生物だからねー。最初は、研究者たちも化学防護服をがっつり着込んで、慎重に近づいてみたり、棒でつついたり、ガイガーカウンターやらを近づけてみたり、いろいろたいへんだったみたいよ。こっちは、そんな緊迫のレポートを楽しく読ませていただいたけどねー。磁場のバリアも、ロリポリの体の外側15センチほどの所をぐるりと覆ってて、バリア自体の厚みは10センチくらい、らしい。だから、もしかしたら、キクヒコはあの上に座ってた時、お尻がむずむずしてたのかもね」
冗談めかして、Lはふふっと楽しそうに笑う。
ベースの研究者でもあったキクヒコさんなので、僕の体に危険のあるような事は、さすがにしないだろうとは、思う。
そこは信じてる、けれど。
いや、でも、あの時、頭の上にいたんだよね。
高さ10m以上ありそうな、ロリポリの上に・・・。
「まあ、キクヒコって感じだよねえ」
ガブリエルが肩をすくめるのも、わかるような気が、してしまった。
しかも、両手を広げて朗々と、「よく来たな、勇敢な子供たち」だものね。
「感極まっちゃったのかな。キクヒコにしてみたら、12年ぶりに、子供たちがベースへ帰って来たから」
Jの魔法の声でそう云われると、なるほど、そうなのかもしれない、とも思う。
「あー、あいつ、ゴーグルの下で、泣いてたのかもねー」
Lはニヤニヤ笑ってるけれど、その声はどこかやさしい。
「キクヒコ、どこにいるのかなー」
ぽつりと、いつもののんびりとした声でルナが云う。
という事は、ルナは、生命維持装置の中のキクヒコさんの体に、彼がいない事は知ってるの、かな。
「知ってるよー。あっちこっち「飛んで」るんでしょー」
困ったように、ルナは赤い眼を細めて苦笑してる。
じゃあ、ルナは、最後にキクヒコさんに会ったのは、いつなの。
そう尋ねたら、むむっ、と眉間にしわを寄せて、ルナは腕組みをして、
「んー、小さい頃だねー、まだ、寝たり起きたりしてた頃、4歳か5歳くらいかなー。あ、でも、るなの歳は年数じゃなくて、ゲンゴローが見た目の大きさ?で決めてたからなー。はっきり何年前とかは、わからないよー」
お手上げ、みたいに両手を広げて上げてみせる。
生命維持装置のルナが研究棟に運び込まれたのが、12年前。
ガブリエルの誘拐が、8年前の夏。
だとすると、それまでの間、約4年間、頻繁に眠りに落ちるルナの面倒を、キクヒコさんは見ていてくれたのだろう。
ふと思いついて、「ルナ、ブランシュは知ってる?」そう聞いてみた。
「あれ、キクタもブランシュ知ってるの。キクヒコのネコちゃんでしょ、白い、毛の長い、かわいい子」
もちろん知ってるよー、とルナがにっこり笑うのは、意外、でもないのかも。
キクヒコさんのマンションと、あの山の上の研究棟は、だいぶ離れてはいるけれど、ネコの足で歩いて行けない距離ではないだろうし。
ルナに、あの日ガブリエルとキクヒコさんのマンションを訪ねた時、部屋にいたんだよ、と説明したら、
「ふぅん。最近見かけないなーと思ったら、マンションにいたの。キクヒコ、ぜんぜん帰らないのにね。ああ、だからか。あっちなら、ひとりでのんびりできるもんねー」
そう云ってルナは納得した様子で、「あの子、研究棟はあんまり好きじゃないみたいだからねー」と教えてくれた。
もしかしてキクヒコさんは、ブランシュの中に、いるの、かな。
8年前のあの事件の後は、ずっとNの中で眠っていた、らしいけれど。
ふむう、とLがうなって、
「ゲンゴロー先生の話じゃ、酷い怪我を負ったまま、生命維持装置に入れてあるだけ、なんだろー。体はぼろぼろで、意識が戻れるような状態じゃねーのかもだなー。だとしたら、一刻も早く、ちゃんとした病院へ運んで、治療を受けさせてやりたいよねー。体が治れば、あの砂嵐みたいな記憶も、ちゃんと見れるように戻るのかもしれないしなー」
うん、とガブリエルがうなずいてから、少し肩をすくめて、
「あまり気は進まないけど、こればっかりは、ハンスを頼らざるを得ないかなあ。生命維持装置の運搬は、親分が請け負うって云ってくれてるし、少しでも早い方がいいよねえ」
「そっちはオレ、だいじょぶだと思うけどなー。ヌガノマホワイトやベースのデータには、ハンスちゃんもいろいろ含むところがあるにしてもさー。キクヒコは、同じクローンの兄弟だよ?悪いようにはしないと思うぜー」
僕も、Lの云う通りだと思う。
ハンスも、キクヒコさんの事は、
「ぼくに何かできることがあれば」「キクヒコとは、記憶にある限りでは直接面識はありませんが、彼は僕にとって兄に当たる人ですから」
そう、云ってくれてた。
アルカナを思う彼の気持ちに嘘はないと思うし、同じクローンで「兄に当たる」とまで云うキクヒコさんの事なら、任せても大丈夫な気がする。
それにハンスは製薬会社の顧問だから、お医者さんの知り合いも多いだろうし、もしかしたら社内に頼れる医師がいるのかもしれない。
「うん、またメールで相談してみるよ。親分にもね」
いつものやさしい笑顔で、ガブリエルはそう云ってた。

ベースのロリポリのホールへ、Mを訪ねるのは明後日土曜日の午後に決まった。
「まあ、近所だし、行き先もわかってるからね。Kの捜索の時みたいに、朝から出る必要はないよねー、おなか空いちゃうし」
Lは、あの日の空腹がよほど応えたのかな、ちょいちょい、食べ物の事を口にしてた。まあ、気持ちはわかる、かな。
「じゃあ、何もなければ、明後日、13時に現地集合だね。コンビニの前でいいかな」
Jが云うと、Lがちっちっと指を振る。
「オレはラファエルだからいいけど、J、おまえ、クロちゃんだよ?」
「どうして?コンビニ前に電柱あるでしょ」
Lは、コンビニの前でちょこんとクロちゃんが待ってるのを想像したのかも。それは確かに違和感だけれど、Jの云うように、電柱の上ならだいじょうぶ、だよね。
「あーね」
「あ、それで思い出した」
ぴこん、とJは人差し指を立てて、
「ルナちゃん、明後日、ルリさんに「おじいちゃんのプロテクター」を借りて、手に着けて来てね。そう云えば、きっとわかるから」
おじいちゃんのプロテクター
ぴこん、と僕も思い出す。
あの、ハルの捜索の時に、ルリおばさんが左手に着けてた革のプロテクター、かな。
「キクちゃんのを引っ張り出して来たのよ」って、あの時ルリおばさんは云ってた、よね。
「りょうかーい。「おじーちゃんのぷろてくたー」ねー。借りてくるよー」
わかっているのかいないのか、たぶんわかってないだろうけれど、ルナはいつものように手を上げて返事をしてた。
「儂と跳ねっ返りは部屋で待機しておる。まあ、儂はここで見物させてもらうがの」
念押しのようにナナが云うのは、なんだかんだと云いながらも、子供だけで向かわせる事に心配があるのだろう。
危険は、ないはずだけれど、それでも、だよね。
ふん、とナナは答えずにそっぽを向いて、
「ではの」
ひらりと右手を翻すと、ふわりといつものように姿を消した。
「るなも帰るよー」
ふわあ、と眠たげにあくびをかみ殺してから、ぴょこん、とルナはソファから立ち上がって、
「おやすみー、またねー」
みんなに手を振りながら、踊るようにテラスへ駆け出して、とんとん、とスキップの途中で、すっと姿を消した。
やっぱり、窓は出ないんだね。
「まあねー、なんたってルナチャンのアルカナは、御子ちゃん仕様の特別製だからなー。いろいろ便利にカスタマイズされてるんじゃね」
そう云って、Lは両隣が空いてひとりになってしまったソファの上で、「どっこらせ」と胡座の足を組み直す。
「話は戻るんだけど、ハンスちゃんの消されたデータの件で、もうひとつあるんだよね」
ニヤリとも笑わずに云うので、なんとなく察したけれど。
ルナに聞かせたくない話、だったのかな。
「まーね。それを察して、先に席を立ってくれたナナちゃんには、後でおまえから共有しといてね。まあでも、ルナチャンにどこまで内緒にできるのかも、微妙っちゃ微妙なんだよな。「聞こえ」ちゃうんだとしたら、さ。すでに知ってる、まであるよね」
ルナに「聞こえ」ちゃうのは、確かに、それもそうなのだけれど。
でもだからと云って、何でもかんでもルナの聞こえるところで遠慮なく話すというのは、なんだか違う気がするよね。
ルナも「聞こえる」のは、「そんなにいつもは聞こえないよー、たまーにだよー」って云ってたし。
ナナが妙にそそくさと席を立ったのは、そのためだったの。
てっきり、今日もお疲れでもう眠いのかと思ってた。もちろん、明日にでも直接ハナの海へ行って、この後の話も僕から共有するよ。
さんきゅー、とLは微笑んで、本題に入る。
「ざっくり云うと、ハンスちゃんに消されてたデータは大きく分けて4つだよ。
1)ゴーストに関するデータ。概要を除く、ほとんど全てが欠けてる。
2)キクヒコの「輪」の能力に関するデータ。これも同じで、概要だけ残されてて、キクヒコが積極的に協力して軍の研究者と一緒に調べたらしい詳細データが全て欠けてた。
3)認識の喪失に関するデータ。これは、まるごと全部。ハンスの方にはひとつもなかった。
4)他にもいくつか、いや、いくつも、だな。何でこれがないの、っていうようなものも抜かれてる。ベース内の資材管理台帳とか、軍の補充人員リストとか。居住区の飲食エリアのメニュー表とかね。これはたぶん、万が一、抜き取りがバレた時のためのダミーじゃねーかな。コピーのミスやファイルの破損で、偶然、データの一部が欠けたと見せかけるための、かなとオレは思った」
ダミー?
偽装のために、無関係なデータもランダムに、しかもいくつも消してる、って事?
そこまでするかな。
Lはまだ、にこりともせずにゆっくりうなずいて、
「だってさ、あからさまに見せたくないものだけ抜いてて、万が一それがバレたら?隠そうとしたものがピンポイントに露見するじゃん。ランダムに欠けてりゃ事故ですとか、そもそも元データが紛失してますとか、どうとでも云い訳が立つでしょ。実際、比較すると欠けたデータが多すぎてね。どれが本当に隠したいものなのか、こっちは頭を悩ませてるわけだしなー」
口元を歪めるような、苦い笑み。
なるほど、それはそうなのかも。
Lだからこんなにも早く、消された怪しいデータに目星を付けて並べ立ててくれたけれど、もし僕がひとりで見比べてたとしたら、どれがあってどれがないのやら混乱するだけだったろう。
ましてやハンスが消したデータの狙いがどこにあるのかなんて、気づけなかったに違いない。
それにしても、
1)ゴースト
2)「輪」の能力
3)認識の喪失
どれも重要なデータで、しかも云ってみれば、どれもすでに僕らも知ってる事、だけれど。
「だからこそ、じゃないかな」
ガブリエルがあごに手を当てたまま、口を開く。
「なまじボクらが知ってる事だからこそ、これ以上、詳細を知らせたくなかった。知られては困ることがあった。そういう事なんだろう、とボクは思ったよ」
「あと、消し方がね、イヤラシイよね。オレたちとの会話から引き出した情報を元にしてるっぽい。ゴーストや「輪」に関しては、ドーリーちゃんとも会ってるし、キクヒコとの接点があるのも知ってる。だから、ある程度の概要がわかるだけのデータは残してる。ほんとは全部消したいんだろーけど、それやっちゃうと一気に怪しまれるってのはわかってるだろーからね」
でも、それを云うなら、認識の喪失も、だよね。
僕らはそれを知ってるし、実際に使ったこともある。けれど、それが全部消されてるのはどうして?
そのデータを全部消したら、怪しまれるのは必至なのでは。
「うん、それな。これまでの会話の中で、「認識の喪失」をオレたちが知ってる、ってのはハンスちゃんも承知してるよね。撤退の後に「認識が消された」とか、ハルの行方不明の「認識が消えてる」とか、こないだの研究棟の話でも、ゲンゴロー先生がルナチャンにお願いして周辺の「認識を消した」って説明を、ハンスちゃんにしちゃってるからね。ただ、これに関しては、消されてない方のキクヒコのデータを見ても、詳細は書かれてないんだよ。A-0と研究者との会話の中に、「アルカナにはそういう能力がある」という話が出てくるだけ。その話の中で、A-0は彼女が知る限りの「認識の喪失」についての情報を語ってくれてるんだけど、それにしたって、オレたちがいま知ってる事と大差ないくらい。何でかって云うと、A-0自身も「その力は使ったことがない」から、らしい。アルカナにとってもあの力は、ある種の禁じ手というか、最後の手段、みたいな位置づけ、らしいんだよね。オレたち、わりと雑にほいほい使っちゃってたけど」
禁じ手、最後の手段
確かに、一度使えば二度とは元に戻せない。消す事も、書き換える事もできない。それくらい、重いものだというのは、使ってみて、わかったけれど。
「そう、まさにそれ。実験大好きなはずの軍の研究者たちが、「認識の喪失」に関しては、一度もそれを使わせなかったし、実験さえもしなかったのは、「二度と元に戻せない」って点を重要視したため、らしい。それは、レポートからひしひしと伝わってきた。研究者ではあるけれど、軍の所属だからってのも関係あるのかもしれないなー。誰の命令で、誰の責任において、その実験を行うか。誰がそれを許可するか、みたいな事がしきりに書かれてて、結局、一度も行われずに、終わったっぽい。当時ベースにいたアニー、たぶん、キクタやキクヒコだと思うけど、彼らもあからさまに拒否はしなかったらしいけど、実験への協力には消極的だった、って書かれてた」
つまり、そのデータを信用するなら、ロリポリが落ちて来て以降、あの撤退の後までの約70年間、「認識の喪失」は一度も使われなかった、という事?
「そうなるね。情報としては、もちろん知ってたんだろーけど、禁じ手だからなー。それがあの火事の後で初めて使われて、ベースやロリポリの全ての認識が消された。それは、おじいちゃんも驚いて「消された」ってなるよね。まさかの禁じ手が、そんなタイミングで使われちゃったんだから」
キクタは、おそらくそう。Lの云う通り、まさに青天の霹靂といった感じだったのだろうと、想像できる。
ルリおばさんの「記憶」で、親分に「そんな力がある」と教えていたので、「認識の喪失」をキクタが知ってたのは、間違いない。
ホワイトが子供たちを閉じ込めていた軍の難破船が、認識を消されているのでは、とキクタは疑ってたみたいだったけれど、考えてみれば、20年前のあの時点で、それができる能力者は、H・O一派にはいないはず。ヌガノマホワイトには、あの力は使えない。
ブラウンはすでに亡くなってた。いや、実際は、レムナント化していたので、「使える・使えない」で云えば、使えるのかもしれないけれど、どこかへ姿を消してた彼が、ホワイトが使っていたあの難破船の「認識」をわざわざ消すとは思えない。
ハンスも、そんな能力がある、という事だけは、話に聞いて知ってたのかな。
そしてアメリカへ渡った後、それが使われたことに気づき、軍から忘れ去られたベースの研究データを全て回収した、という話だった。
僕らアニーが、「認識の喪失」に気づくのは、それを「消された人」を実際に目にした時。
帰国した米軍の中にいたアニーであるハンスには、それはすぐに気づく事ができたはず。
けれど、だとしたら何故、僕らに渡すデータから、それを抜き取る必要があるの。
ぴこん、とLが人差し指を立てて、
「ひとつ、あるとすれば、A-0はオレたちの知らない事を、ひとつだけ云ってる。そして、それがレポートに残されてる。元に戻す方法、認識の喪失をなかったことにする方法が、ひとつだけある、ってね」
元に戻す方法が、あるの。
認識の喪失をなかったことにする方法が?
「ある。ってA-0は云ってる。それは、「能力の使用者が亡くなる事」。認識を消したアルカナが亡くなれば、消された認識は元に戻る。わかりやすく云えば、いや、あんまりいい例えじゃねーけど、ごめん、あくまで例としてな。Kがもし不慮の事故か何かで突然死んじゃったら、うちの屋敷のシジマのばあちゃんやナガタ先生の消された認識はその瞬間に戻る、って事だよね」
それは、驚きではあったけれど、云われてみれば、という感じもしなくはない、かな。逆に、使用者が亡くなった後も延々と能力だけが残り続ける、という方が不自然な気がする。
いったいどんな仕組みで、あの能力が認識を消しているのかはわからないけれど、それが消しゴムでまっさらに消してしまっているのではなく、修正テープのようなもので見えなくしているだけなのだとしたら。
その修正テープを貼った人物、能力の使用者が亡くなれば、能力である修正テープも消えてなくなり、元通り認識がされるようになる、そんなイメージだろうか。
「うん、そんな感じだろーね。わかんねーのは、なんでこれをハンスちゃんが隠そうとしたのか、だよなー」
僕らが、「認識の喪失」を知っている事は、ハンスも承知してる。でも、実際に使った事があることまでは、たぶん知らないはず。ルナが使った事は彼に話したけれど、それ以外の、職員室やLのお屋敷での事までは、ハンスには話していない。
消えた認識は、戻らない。そう僕らが思っていると、ハンスは思ったのかな。だから、元に戻す方法がある事を教えたくなかった?けれど、その方法は使用者が死ぬ事だ。教えられたからといって、簡単に試してみるというわけにもいかない。
それを僕らに隠す意味が、僕にはわからない。
「元に戻す方法、だけに限った話じゃないのかもしれないね」
ガブリエルがぽつりと云う。
「Kの云う通り、彼はボクらが「認識の喪失」を知ってる事は承知してる。だから今さら、そのデータを隠したところで意味はないように思える。強いて云えば、ミカエルの云う「元に戻す方法」それをボクらに知られたくなかったのか?って事になるけど、ボクらが何をどこまで知ってるのかは、実はハンスにはわからないんだよね。どこまで知ってますか、と聞かれて、ボクらが知ってる事を並べ立てたわけじゃない。だから、ハンスからしたら、ボクらは「元に戻す方法」まで知ってるかも知れない、そうも云えるよね。にも関わらず、「認識の喪失」の研究データを全て抜いた状態で、ボクらにコピーを寄越した。その意図は、「軍は認識の喪失に関するデータを持ってない」と思わせる事、じゃないかな。つまり、軍の研究者は「認識の喪失」なんて知らない。そうボクらに思わせるため、なんじゃないかな」
「なるほどな。確かに、オレたちは誰に教わるでもなく、「認識の喪失」を知ったよね。偶然、Kが職員室で使った事によって、ね。ハンスちゃんにしたら、それは驚きだったわけだ。ベースの研究データでさえ、A-0のコメントとして「そういう能力がある」としか書かれていないもの、軍の研究者たちが一度も実験する事ができなかったものを、子供のオレたちがしれっと「あーそれ知ってる」とか云ってるんだもんな。アルカナにとっての禁じ手、最後の手段。そんな恐ろしい物を平然と知ってる、恐るべき子供たち、ってわけだよね。そんな危なっかしい子供たちに、能力の実態を教えないために隠した、って事か?逆効果な気もするけどな。危険なものを危険と知らずに遊んでる子供に、それは危険だよって教えずに放置するよーなもんだろ。あーまあ、あいつなら、それくらい平気でやりかねないけどなー」
あ、そうか。
Lはハンスを「警戒してる」から、そういう見方になるのか。
「考えすぎじゃない?」
ずっと黙って聞いていたJが、さらりと魔法の声で云う。
「いかにも大事そうな「認識の喪失」の研究データがひとつも入ってない、そう聞くと、まあたいへん、って思っちゃうけど。実はそんな深い理由はなくて、居住区の食堂のメニューと同じくらいの感じで、消されただけなのかも。わざと消したのだとしたら、だけどね」
「つまりJは、「認識の喪失」のデータは、本命の「消したいデータ」ではなく、ダミーで消された食堂メニューや何かと同じ扱いだって云うの」
ガブリエルが、例の「天才?」という顔でJを見て云う。
「ほほう。大胆な仮説だけど、確かになくはないよねー」
ニッと笑って、Lがはっと何かに気づいたように、
「あー違う違う。だいぶ話が逸れてるぜー。「認識の喪失」が気になるのはわかるけど、今はそっちじゃねーの。ゴーストの方なー」
あ、そうか。
ルナに聞かせたくなかった話、だものね。
ゲンゴロウ先生にも関わりのある、ゴーストの話。それはそう。
「消されてたデータをキクヒコの方のデータで確認したところ、それは、ベースで唯一確認された、ゴーストに関するレポートだった。20代の若い研究者で、元々アニーではなかった人、らしい。ベース建設の5年目頃、ロリポリのホールの天井、つまり地上で云う工事現場の地面だね、その一部が大規模な崩落を起こして、その下敷きになった。すぐに助け出されたらしいけど、その時には既にレムナント化してた。死にかけたその人に、ロリポリの中のアルカナが飛び込んだんだね。一命を取り留めたその研究者は、その後もベースに残って、レムナントの研究に随分貢献したらしいよ。それはまあ、そうだよね。最初のレムナントのナガヌマちゃんは、早々に脱走しちゃってたしな」
ベース建設の5年目、と云う事は、キクタは5歳。
レムナント化したその研究者もベースにいたのなら、出会ったこともあったのだろうけれど。
ナナは、知らないのかな。ベースの研究者にレムナントがいた、という話は、ナナからは聞いた事がなかったから、研究所ではなく居住区の方にいたナナは、彼に会った事がなかったのかもしれない。当時ベースには200人以上の人がいて、半分は名前も知らない人だった、って前に云ってたし。
「あー、ところがその人、3年ほどで亡くなっちゃったらしいんだよね。まだ若い上にレムナントなのに何で、って感じだけど、働きすぎかな。死因は、病死って書かれてた。病名は肺炎の一種らしいんだけど、ごめん、医学用語で、知らない英単語だったわ。ともかくその人が亡くなって、数日後にゴーストが彼の所属してた研究室に現れたらしい。同僚の女性研究員ひとりだけに彼の姿が見えて、だから彼女が残したレポートが唯一のもの。周りの研究者たちは、半信半疑だったみたいだね。だって、見えないからね」
それなら、ナナが噂で聞いたゴーストの話、というのもきっと彼の事なのだろう。
研究室に現れた、ひとりの女性研究員だけに見えた、ゴースト。
「特徴は、オレたちの知るゴーストとほぼ一緒だね。ふわりと煙のように姿を現して、まるでそこにいるように見える。触れる事もできたらしいよ、「そこに彼がいるのと何も変わりなく」って書いてあった。だけど、話は出来ない。ゴーストが物に触れる事も出来て、彼女の研究の手助けをしてくれたりもしたらしい。でも、いつもだいたい数分から数十分、長くてもせいぜい1時間くらいで、またふわりと消えてしまう。そんな日々が、2年ほど続いたらしいんだけど」
そう云って、Lはめずらしく云い淀む。
「ああ、いや、ごめん。ある日、彼が去り際に、彼女をそっと抱きしめて、小さく手を振ったんだって。それが、最後だった、って。それきり、彼が現れる事は二度となかったんだってさ」
しんみりとLは云って、困った顔で頬を掻いて、口を尖らせる。
じゃあ、彼には、わかってたのかな。
その日が、最後になる事が。
「たぶんね。彼女もレポートにそう書いてた。タイムリミット、制限時間のようなものがあって、それがゴースト本人にはわかるんじゃないかって」
ぽつりとLはそう云うと、ふるふると水浴びをした犬みたいに激しく顔を左右に振って、ぱちん、と両手で自分の頬を叩く。
そして、こほんと小さく咳払いをして、
「彼女の貴重なレポートからわかった事は、ゴーストには制限時間があるって事。それから、たぶん、ゴースト化の条件は、レムナントが亡くなる事、かな」
いつになく静かなハスキーボイスでそう云われて、僕ははっと息を飲む。
条件はレムナント
確かに、ナガヌマも、モニカも、そしてゲンゴロウ先生も、レムナントで、亡くなってる。
うん、と小さくLはうなずいて、
「レムナントが亡くなると、100%ゴースト化するのかどうかは、まだわからないけどね。でも、知る限りでは、かなりの確率でゴースト化してる、って事になるよね」
そして、制限時間
だったら、ナガヌマも、ドーリーも、ゲンゴロウ先生も、いずれその時が来て、もう会えなくなる、の。
それは、確かに、ルナには聞かせたくない話、だけれど。
うん、と静かにうなずいたのは、ガブリエルだった。
「でも、みんなそうだよね。人も、動物も、みんな。いつかはその時が来て、もう二度と会えなくなる」
淡々と、諭すように云う。
それは、そう。
それが、自然の摂理、宇宙の理。
いつかのナナの声が、僕の頭の中でよみがえってた。
静まり返ったコテージに、オレンジの海のやさしい波音が、遠く響いてた。

「もういっこ」
穏やかな静寂を遠慮がちに破るように、陽気なハスキーボイスがぴこんと人差し指を立てて、
「どちらにも含まれないデータがあったよ。残念ながら、かなー」
Lらしくもなく、思わせぶりに云う。
どちらにも含まれない
ハンスの方にも、キクヒコさんの方にも?
残念ながら?
なんだろう、首をかしげる。
残念、という事は、楽しみにしてた、もしくは、知りたかった、そんな情報、なのかな。
「あ」
ぴこん、とひらめいたらしい、Jが人差し指を立てて、
「カントリーロード、かな」
ニヤリと笑うLの顔を見るまでもなく、それだね。
でも、なかったの。
「な。ハンスの方はともかく、キクヒコの方にはあるだろって思ってたんだけどなー。これも、明後日だな。Mちゃんが本当に「A-0の次の王」で、モニカの記憶を持ってるのなら、確かめてもらおーぜー」
ちょっぴり残念そうに、けれど、まだ探索のアテが途絶えたわけではないから、かな、いつもの楽しそうな声でLは云う。
Mに尋ねる事のメモが必要だね。
そもそもは、ルナの事を聞きたかったんだよね。眠り続ける子供だった「いばら姫」の事を。
それから、カントリーロードのこと。A-0の記憶の中に、それに関するモニカの記憶が残っているかどうか。
そして、金色の左眼の在処。ロリポリの中に、あるのかどうか。
「うん。ちゃんと覚えてるね」
また、「当然」みたいな顔でJが得意げに笑う。僕の記憶力の良さを、Jが自分の事のように誇ってくれるのは、すごくうれしいけれど、何と云うか、少しこそばゆいような気もする。
にこにこしながら僕らを眺めていたガブリエルが、ふと表情をあらためて、
「ミカエル、もうひとつあるよね」
ぽつりと云うのは、何だろう。
もうひとつ
カントリーロードと同じように、どちらのデータにも含まれていなかったもの?
「あー、まあね」
Lはそう云って、何やら意味深な笑み。
「知ってると思うけど、パソコンはファイル名だけじゃなく、そのファイルに含まれるワードでも検索ができるんだよね。さっきの例でいえば、「カントリーロード」ってワードで、ハンスのデータ全体、あるいは、キクヒコのデータ全体を検索したら、「カントリーロード」というワードを含むファイルがヒットする。ファイルが文書ならその文書の中身まで探せるってわけだ。まあ、なかったんだけどね、どっちにも」
それは、わかる。
けれど、なんだろう。ガブリエルの云う「もうひとつ」は、そんなに云いにくいものなの。
Lにしてはめずらしく、何だかずいぶん、遠回しな云い方だよね。
そう云ったら、Lは少し驚いた顔をして、すぐにふふっと笑う。
「そりゃあれだ、おまえと一緒で、ちょっと身構えてたのかも?」
疑問形で。
身構えてたのかも?
そう云われて、ぴんと来た。
ナナのこと?
「キクタやキクヒコ、ルリちゃんの事は、いくつか資料が出てきたよ。前にハンスちゃんが云ってた、健康診断の結果みたいなのとかね。ちなみに、「4人の子供たち」の名前や記録も、ちゃんと残ってた。アイはほんとに、アイザック・アインシュタインだったぜー。でも・・・」
そう云って、Lが口ごもる時点で、それがもう答え、だよね。
ナナの名前は、ベースの資料になかったの。
「あれ、あんまり驚かないね。もしかして、予想してたとか?」
Lに云われて、僕は自分があまり驚いていなかった事に気づく、けれど。どうしてかな、予想なんてできるはずもない、よね。
「神様てきな、ナナちゃんだから、って事かなあ。まあ、そう云われると、そんな気もするよねえ」
ガブリエルは、いつものやさしげな笑顔で云う。
ベースのデータに、ナナの名前がない。
普通に考えれば、それは確かに不思議な事なのかも。
キクタやルリおばさんだけでなく、4人の子供たちの名前も記録に残っていたのに。
ナナは、ベースに存在しない人だった、という事。記録の上では、そういう事になる。
「ハナも?」
ふと思いついて、Lに尋ねたけれど。
それは質問ではなく、確認、だね。
「そうだけど。何なの、おまえ、もしかして、それ「聞こえた」ってやつ?」
Lは困ったような笑顔で、首をかしげる。
聞こえた、わけではないけれど。
というか、ルナじゃあるまいし、僕にはそんなにはっきりくっきりとは聞こえないし。
なんとなく、かな。
そんな気がしてた、というほど明確に思ってたわけでもなくて、そう聞いてはじめて、なんとなくそんな気がした、という程度の。
「まあ、一応イイワケしとくと、オレも別に興味本位で調べたわけじゃないんだけどね。カントリーロードが出てこないから、キクタの周辺から何か出ないかなと思っていろいろワードを変えてみた中で、ふとね、気づいちゃった、という感じ」
「そう?ボクは、興味あったから、わりと積極的に調べてたけどねえ。だって、ナナちゃんの正体、知りたいでしょ」
「知りたいかで云えば、そりゃ知りたいけどなー。でも、あそこまで徹底してのらりくらりとかわされたら、よっぽど云いたくねーのかなって、ね。それに、そんなナナちゃんの記録が、しれっとベースのデータに残ってるはずないんだよな、それこそ、神様てきな存在なんだとしたら、だよ」
それは、まあ、そうかな。
ガブリエルの気持ちもわかるし、Lが云うのもわかる。
「まあ、カワイイハナチャンの詳細な情報が、軍やらハンスちゃんやらに知られてないってのは、オレとしては一安心、だけどなー」
ふっふーん、とLはいつものように陽気に笑う。
そうだね、それが何よりかもしれない。
「うん」
Jもにっこり笑顔になって、魔法の声でうなずいてくれたので、僕はほっと息をつく。
ハンスは、ハナにもナナにも会ってるので、全く知らないわけではないけれど。
ナナが内緒にしたがっている詳細なプロフィールが、ハンスに限らず軍の誰の手にも渡ったりはしていない、というのは、ひとつ、安心できる材料かもしれない。

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