livin’on the edge iv

屋根裏ネコのゆううつ III

御子の去った記憶の保管庫は、どこかでかすかに水の流れる音と静寂だけが満ちていた。
その静けさを、いつも通り、どこかのどかな声が破る。
「ねーキクタ、線が指してるのはどれー?開けてみてよー」
ルナの声に、はっと我に返り、自分がぼんやりとしていた事に気づく。
そうだね、確かめてみなくちゃ。
キクヒコさんの梯子に近づいて、歪んだ縦木に触れる。
黄色の「線」は上向きだった。斜め45度くらい上。
あの時のLを真似て、縦木を軽く下へ引くと、梯子がするすると回転し始める。
少し擦れるような、古い板戸を引く時にも似た、ずずっという音がする。けれど、止まったり引っかかったりする事はなく、梯子は滑らかに回って、目当ての横木が目の前に現れた所で、縦木をぎゅっと掴んで止める。
「これなの」
ルナに問われて、うなずく。
そのまま横木に指先で軽く触れると、ぎぎぎとわずかに軋みながら梯子はアーチ状に開く。
アーチの中は、暗闇だった。
ハッと背後でガブリエルが息を飲んで、ほぼ同時にJの魔法の声が囁くように、
「砂嵐じゃない、ね」
僕の耳の後ろで云う。
砂嵐じゃない
暗闇だ。光も差さないどこか暗い場所の記憶か、あるいはキクヒコさんが眼を閉じているのかもしれない。
どうする?
心の中で問いかけるのは、僕自身に、だろうか。
「どうする?って」
ルナがつないだ僕の右手をぎゅっと強く握って、
「ここまで来て「どうする」も何もないじゃん。行くよー、みんな行くんでしょー」
くるりと後ろを振り向いて、ガブリエルとJを手招いてる。
確かにそう、どうするも何もない、よね。
ガブリエルがルナの右手を、Jが僕の左手をつないで、4人で横一列に並ぶ。
「「この後はみんなで「記憶」の大冒険」か。さっきの御子のあの予言は、云ってもいいやつだったのかな」
去り際の御子の言葉を繰り返して、ガブリエルはくすくす笑ってる。
確かに、ナガヌマの事をいろいろ云うわりに、御子自身も時々ぽろっと云うよね、制約とやらに触れそうな事を。
「お茶目な血は争えないと云う事かな。いや、この場合、DNAは、か。キミも含めてだけどね」
そう云って、楽しそうな笑顔でガブリエルは僕を見る。
DNAって事で云うなら、ルーツはナガヌマなのかな。
でもナガヌマの場合、お茶目と云うよりも、ただ「人の云う事を聞かないだけ」のような気もするけれど。
「云うコト聞かないのは、あんたもじゃん。だから合ってるよねー」
あははー、ルナは軽く笑い飛ばして、
「ほら、行くよー。これの切れ目?を直せば、キクヒコの記憶が戻って「海」にもつながるんでしょー」
真っ暗なアーチの中を赤い眼で挑むように見る。
そうだね。ルリおばさんと同じなら、この「記憶」のどこかに、切れ目があるはず。
それを修復すれば、「海」とつながり、キクヒコさんの失った記憶が戻る、はず。
「うん、行こう」
ガブリエルが力強くうなずく。
「うん」
Jが魔法の声でうなずいて、
「暗いので気をつけて、飛ばさずゆっくり行きましょう」
ゲンゴロウ先生が機械の声で淡々と云うと、
「りょうかーい。れっつごー」
ルナがのんびりと云って、僕らはふわりと暗闇のアーチへするりと入り込む。
暗い、けれど闇の靄が薄まるように、視界が広がる。
やっぱり、記憶の主であるキクヒコさんがさっきまでは眼を閉じていて、それを開いたのかもしれない。
濃い灰色のひび割れた大地に、白い灰が降るのが見える。
これは、灰の海。
だけれど、ハナやMの灰の海とは明らかに違う。
ケモノのような酷い悪臭と、腐臭と云うのかな?血や肉や何かが腐ったような、吐き気を催すような臭い。
両手が塞がってるので、ぱちんと指を鳴らしたつもりで、みんなの嗅覚をオフにする。
海に保管された「記憶」である以上、それくらいの操作は、僕にもできる。
「おー、ありがと。鼻が曲がって取れちゃうかと思ったよー」
いつの間に嵌めたのか、銀のゴーグルを付けたルナが僕を見てニッと笑う。
僕もゴーグルを付けているので、薄暗い灰の海だけれど、辺りの様子はよく見える。
ハナやMの海よりもさらに暗いけれど、Jとガブリエルは、だいじょうぶかな。
「うん」
Jが短くうなずいて、
「だいじょうぶ。あれはキクヒコかな」
ガブリエルが云って、ふわりと灰の海を進む。
4人で手をつないでるので、引っ張られるように並んで飛ぶ。
暗い灰の砂浜に、眼をひく白い後ろ姿。
長い白衣を着た、白い髪の背の高い男性。
「キクヒコだー」
ルナがうれしそうに近づこうとして、空中で静止したガブリエルに手を引かれて止まる。
「待って、ルナ。あいつもいる」
キクヒコさんの向こう側、片腕片足の不吉な黒い影が立っていた。
ヌガノマこと、ウィリアム・ホワイトだ。
「2ゴウ・・・」
錆びた金属を擦り合わせるような耳障りな声が云う。
ふふん、とキクヒコさんは笑ったようだった。顔は、向こうを向いてるのでこちらからは見えないけれど。
「素直に戻って来たんだな。片腕片足の不自由な体でも、他人に奪われるのは嫌なのか。哀れだな」
本当に、彼を憐んでいるのかな。
悲しげな、やるせないような、そんなキクヒコさんの声。
「2ゴウ、オマエ、コロス」
暗い殺意を宿した右眼で、ヌガノマホワイトはじっとキクヒコさんを見据え、喉から声を絞り出す。
手を伸ばせば届きそうな距離だけれど、お互いに意識体だから、なのだろうか。
キクヒコさんは恐れる素振りもなく、ヌガノマも「コロス」と云いながらいきなり襲いかかる風でもない。
「2号か」
ぽつりと云って、キクヒコさんは困ったように肩をすくめる。
「まさか誘拐犯ヌガノマの正体が、あんただとはね。ウィリアム・ホワイト、だったか」
そう云ったキクヒコさんの体が大きく揺らいで、その場にがくりと片膝をついて崩れる。
ヌガノマホワイトは動いていない。彼に何かをされた風には見えなかった。
眼には見えない、何か毒のようなダメージを受けたのかも。あるいは、ここであいつの意識が体へ戻るのを待つ間、ずっとその毒を受け続けてたのかもしれない。
「キクヒコ!」
ガブリエルがルナの手を離して飛び出し、キクヒコさんを横から支えようとするけれど、これは記憶の映像だ。
残念だけれど、僕らには手を触れる事はできない。
「がぶちゃん」
ルナがガブリエルの手をつないで引っぱり、半歩ほど横へ離れる。
「ああ、ごめんね」
ぽつりとつぶやくガブリエルの横顔は、悔しげにゆがんでた。
灰の地面に片膝をついたキクヒコさんは、それでも不敵に、前に立つヌガノマホワイトを見上げて、
「あんたがあの頃のままのホワイトなら、積もる話も山ほどあるんだがな。残念ながら、ここにはあまり長居しない方がいいようだ」
ヌガノマホワイトの体には、他の人の意識や記憶を壊す「毒」のようなものがある。
その僕らの予想は、どうやら当たっていたらしい。
グッと膝に力を込めて、キクヒコさんは立ち上がり、
「ひとつだけ云っておく」
まっすぐにホワイトをにらみつけて、
「2度と、子供達に手を出すな。もちろん、ルリにもだ」
低い声で、云った。
「・・・オマエ、コロス」
キクヒコさんの声は聞こえているはずだけれど、ヌガノマホワイトは同じ言葉を繰り返す。
もしかして、何が起こっているのか、ここがどこなのかさえ、理解していないのかもしれない。
奇妙な悪夢でも見ていると思ってるのかも。
「哀れだな」
もう一度そうつぶやいて、キクヒコさんの体がふわりと宙に浮く。
足元に白く光る「輪」が現れ、次の瞬間、辺りの様子が一変してた。
キクヒコさんの意識体がヌガノマホワイトの体を出て、自分自身の体に戻ったのだろう。
暗い地下道の土の上に、キクヒコさんは跪くように座っていた。
右手の地面に置かれた懐中電灯が、扇形に照らすその眼の前の光の中に、横たわる小柄な女性。
ルリおばさんだ。あちこち泥まみれでひどく汚れているけれど、どこにも怪我はなさそうに見える。
「あの時は、眠ってたのよ」
そう云ってた通り、深い眠りに落ちているようだった。
一通り彼女の様子を確認して、キクヒコさんは眼を上げる。
懐中電灯の光の境界辺り、5mほど先に、うずくまるように倒れているのはヌガノマホワイトだ。
ここが地下のどの辺りなのかはわからないけれど、辺りの様子はラボの周辺の古い坑道に似てる気がする。
前に見た市の古い下水道はレンガ造りだったけれど、あれとはだいぶ雰囲気が違う。この坑道は、あれよりももっと古い時代のものなのだろう。
地下道の天井は低く2mもないくらいだけれど、目の前の空間自体は広く、坑道が何本かつながる交差点のような場所に見える。
5〜10mほどの、いびつな丸い広場のような地下空間。
向かって左手半分ほどが一段低くなっているようで、黒く水が溜まっているのは、地下水か雨水だろうか。
「2ゴウ・・・」
錆びた金属を引っ掻くような声が云って、ヌガノマホワイトがゆっくりと身を起こす。
その声を聞いて、キクヒコさんはすでにヌガノマが体に戻っている事をあらためて確認したのだろう。眠るルリおばさんの体がふわりと浮き上がり、光る「輪」に包まれて一瞬で消える。
ホッと小さく息をついたキクヒコさんの前で、ホワイトがガバッと体を起こした。
そのまま勢いよく立ち上がったのを見て、キクヒコさんが身構える。
しかしホワイトは素早く踵を返すと、背後の暗い闇の地下道へと転がるように駆け込んだ。
一瞬、呆気にとられたのだろう。キクヒコさんの反応が遅れた。僕らも、だけれど。
てっきり、襲いかかって来るものと思い込んでいた。
「だよね、「コロス」とかさんざん云ってたし。あれは何、ハッタリ?」
ガブリエルが云う。
だとしたら、全員がそのハッタリに騙された事になる。
懐中電灯を掴み直し、キクヒコさんは立ち上がるなり、ヌガノマを追って暗い地下道を駆け出す。
「え、行くの。もういいよ、やめなよー」
ルナが心配そうに云うのもわかる。僕も同じ事を思ってた。
残念ながらその声はキクヒコさんには届かないし、これは「記憶」なのだ。
ただ、起こった事実がそのまま再生されるだけ。記憶の内容が変わる事はない。
それにしても、ヌガノマホワイトは、夜目が効くのだろうか。いや、僕の懐中電灯を奪おうとした事があるくらいだから、そんなはずはないけれど。
あいつの細長い黒い影は灯りのない暗い地下道へあっという間に姿を消し、懐中電灯の光の範囲から消えていた。
チッ、と短く舌打ちしながらも、キクヒコさんはそのままヌガノマが飛び込んだ地下道へと駆け込む。
その背後から、地下道全体を震わすような銃声が突然響いた。
思わず身をすくめてその場に止まり、振り返る。
キクヒコさんも素早く身をかがめ、壁際に身を寄せて懐中電灯の灯りを消していた。
振り返った僕の眼に映ったのは、先程の少し広くなった交差点のちょうど反対側、左斜め上へ坂道になった地下道に立つ黒い人影。
手にした銃から、白い煙が細く上がってる。
あれは・・・
「あいつ、爆弾魔じゃん。お面は付けてないけど」
ルナに云われて、ギョッとした。
ゴーグルに触れて、その人影にズームする。
灯りのない暗闇に立つ、黒い人影。黒い肌は、レムナントのそれだろうか。
黒っぽいコートのような服、黒い帽子を被った、中肉中背の人物。
顔を見て、ゾッとした。
その顔は、なかった。
いや、顔はある、けれど。鼻も唇もなく、瞼もない。顔の皮膚ごと、鼻も唇も全て剥がれ落ちてしまったかのような、顔のない顔。
ハンスに聞いた話が、僕の脳裏をよぎる。
ーー 揉み合いになり、銃が暴発して、その爆風をまともに浴びたブラウンは・・・
爆風を浴びた?
だから、顔の皮膚が吹き飛ばされて何もないのか。そのままレムナント化して、固まった。だから?
顔のない男・ブラウンが右手に構えた拳銃の引き金を立て続けに引く。轟音のような銃声が地下空間に響き渡る。
当たるとは思っていないのか、当てる気もないのだろう。めくら撃ちに、弾倉が空になるまで撃ち尽くしたらしい。
カチッカチッ、乾いた音が何度かして、ようやくブラウンは引き金を引くのを止めた。
キクヒコさんは土の壁に貼り付き、頭を両手で抱えてうずくまったままでいる。
狙ってもいない銃弾が当たる事はないだろうけれど、これでは動けない。
下手に動き回る方が、かえって危ないかもしれない。
ブラウンは弾を撃ち尽くした拳銃を無造作にコートのポケットにしまうと、その手をコートの内側へ突っ込んで何か丸い球のようなものを取り出した。
あれは、何?
右手で持ったその丸い鉄の球に、ブラウンは左手を添えて、何かを引き抜くような動きをする。
ピンッ、という高い金属音がして、球から何かが引き抜かれた。
あれは、まさか手榴弾?
実際に見た事が、あるはずはない。映画や何かで見た事があるくらい、だけれど。
「逃げてー!キクヒコー!!」
悲痛なルナの叫びは、けれどキクヒコさんには届かない。
もしかしたら、ピンを抜く音は聞こえていたかも知れないけれど、真っ暗で辺りの様子が見えないキクヒコさんには、何の音なのかわかるはずもない。
右手を大きく振りかぶったブラウンが、それを投げた。キクヒコさんが身を隠す、地下道へ向かって。
そしてブラウン自身は、くるりと身を翻して、坂道になった地下道の奥へと姿を消す。
地面の土の上に鉄の球が落ちる音と、それが転がる音。
手榴弾が落ちたのは、キクヒコさんのいる地下道よりもだいぶ手前だった。
交差する地下道の真ん中から、少しキクヒコさんの方に近い辺り。だけれど、それでも。
「キクヒコ!」
叫ぶルナを、ガブリエルが引き寄せて、庇うように視界を塞ぐ。
僕もとっさにJの手を引いて、落ちた手榴弾とJの間に壁になるように背を向けて立つ。
僕の方が小さいので、どれだけ壁になれるのかは疑問だけれど、その時はそんな事を考える余裕はなかった。
「記憶」の映像なので、手榴弾が目の前で爆発しようとも、僕らには何の影響もないのだけれど、それに気づくのももう少し後の事だった。
閃光と爆音は、どちらが先だったのかわからない。同時だったかも知れない。
爆発の衝撃が、キクヒコさんに当たったのかどうかも、わからなかった。
けれど、爆発の直後、地下道が、轟音と共に崩れた。
天井も壁も、そして足元の地面も。
ゴーグルを嵌めていても、何も見えない。土煙と、崩れる土砂以外には何も。

ジジッ、ジジジ、
世界が歪むような雑音が、唐突に鳴り響く。
全ての音が止まり、耳障りなノイズだけが不規則に鳴り続ける。
もうもうと視界を覆う土煙が静止して、全体がモノクロに沈む。
視界がばらばらのモザイク模様みたいにひび割れて、止まり、色を失う。
やがてノイズが止むと、最後に、ぱりん、と音を立てて、記憶の世界が砕けた。
後には、気の遠くなるような静けさと、宙を漂う砕けた無数の記憶の欠片。
まさか、こんな所で。
まるで、世界の終わりのような、あの時と同じ光景。
「ええ?何これ、どーなってるの」
ルナがガブリエルの小さな背中にしがみついて、恐る恐る辺りの様子を窺ってる。
「これが「切れ目」だよ。この割れて砕けた記憶の映像を、元通りにつなげれば、記憶は修復されて、「海」ともつながる、のだけれど」
説明しながら、これはどうしたものだろうと、僕は半ば絶望しかけてた。
僕とルナは、ゴーグルをしてるからまだこの暗闇でもどうにか周りが見えているけれど。
「うん、これは間違いなく最高難易度だね。何にも見えないよ」
ガブリエルが困った顔で僕を振り返り、肩をすくめる。
「こうしたら」
僕の後ろで魔法の声がして、ぱちんと指を鳴らす音がする。
振り返ると、ふわりと光る珠が現れて、Jの周囲を照らしてる。
「良かった、出たね。Mちゃんの真似だけど。これで見えるようにはなるかな。それでも、難易度はあまり変わらないけど」
Jは辺りの様子を眺めて、眉を寄せてる。
割れた記憶の画面は、ほとんど真っ暗で何も映っていない。
「いやあ、とんでもない。さすがJだね。破片が見えさえすれば、どうとでもなるよ」
云いながら、ぱちん、とガブリエルも指を鳴らして、近くにJと同じ光る珠を出す。
「どうとでもなるって?がぶちゃん、これをどーするの。こんなのほんとに直せるのー?」
灯りがついたので、ゴーグルを外して首に引っ掛けながら、ルナが口を尖らせてる。
「見ててね」
ガブリエルが云って、ルナの眼の前で記憶のパズルをつなげる。
本来なら、つながると色が戻って、モノクロがカラーになるのだけれど。今日のパズルは元々真っ暗なので、色が戻った感じがあまりない。
「ふむ、つながるのね。で、この辺のを全部つなげたら?」
「記憶がつながって、また映像が流れ出す、はずだよね」
ガブリエルが僕に尋ねるので、うなずく、けれど。
「K、心配しないで。キクヒコは、助かってる、でしょ。ぼろぼろで埃まみれだったけど、研究棟の生命維持装置へ飛んで、ちゃんと助かってる」
Jの魔法の声でそう説明されて、そっか、と思う。
この記憶がそこへつながるのだとしたら、最後はあの研究棟のゲンゴロウ先生の実験室。
そしてもしも「記憶」の映像が続くなら、今現在、キクヒコさんの意識がどこにいるのか、それもわかるかも知れない。
ぱちんとJがもう一度指を鳴らして、僕のすぐそばにも光る珠を出してくれる。
「ありがとう」
Jにお礼を云い、ゴーグルを外して眼の前の破片をつなげ始める。
記憶が砕け、止まった世界は、しんと静まり返っていた。
「それにしてもさ」
ぽつりとつぶやいたガブリエルの声は、意外に大きく響く。
「あれはブラウン、だよね。何故?」
声を頼りに見上げると、ガブリエルはふわりと宙に浮かんでいて、崩れた地下道の天井辺りのパズルを修復してくれている。
腕組みをして考え込む表情で、パズルは、前回のLのように手を使わずに目で見て念力で動かしてるらしい。
あれはブラウン
「そうだね、ブラウンだと思う。ここにいたのは、何故だろう。偶然?とは思えないけれど」
僕も目の前のパズルに集中しながらも、思考はどうしてもそちらへ向かってしまう。
誘拐事件の後、ならばこの記憶は8年前の夏のはず。
その時すでに、ブラウンはレムナントとして目覚めていた。時期的にはおかしなところはない。むしろ、20年前にレムナント化していたのだとすれば、起きて活動していても当然なのかも。
まさか、
「まさか、あいつ、ホワイトとグルだったの。キクヒコを罠にはめたってコト?」
僕の心の声を読んだ訳ではないのだろうけれど、ルナの疑問は僕も同じ事を思ってた。
そのルナは、ガブリエルの隣で素早く両手を使ってパズルを組み立てて行ってる。元々器用なのかな、かなり早い。
ガブリエルが腕組みしたまま首をかしげて、
「どうだろう、ホワイトの逃げっぷりは、どちらとも取れるね。後ろにブラウンが隠れてるのを知ってたとも、知らずにただ逃げたとも」
話しながらも、目の前のパズルは、魔法のように次々に組み上がってる。
僕も手元のパズルをつなげながら、首をひねる。
どうだろう。あのヌガノマホワイトに、そこまで知恵が回るかな、とも思える。
それに、
「あのハンスの取り調べ映像で、「ブラウンがレムナント化して生存してる」と告げられた時のホワイトの驚いた顔、あれが演技だとは僕には思えない」
破片のパズルをつなげながら、つぶやくように僕は云う。
記憶の中であっても、心の声で話したら「海」を経由してしまうので、Lに聞こえてしまう(かも知れない)
大事な試験の前に、こんな話は聞かせられないよね。後で話したら、また怒られそうな案件ではあるけれど。
「でもそれは大丈夫でしょ。Lに聞かせないように意識して心の声で話せば、「海」を経由してもあの子には聞こえないよね」
隣で黙々とパズルを組み上げていたJに魔法の声でそう云われて、あ、そうか、と思う。
そもそも、そうだった。「海」での通話は、意識して聞かせる相手を選べるんだった。以前、Lやナナが、ハナに聞かせないように話してたように。
「え、そうなの。そんな便利機能あるのに、あんた何で使わないの」
ルナがその「海」の仕様を知らなかったのは無理もないとして、それでどうして僕が怒られなきゃいけないの。
「だって、じゃあ先に云えばいいじゃん。るなが「海での会話は当分禁止だよ」って云った時にさー。「会話の相手を切り替えできるよ」って教えてくれなかったじゃん。いじわる」
ルナはふくれっつらで、上から僕をにらんでる。
それは、単に忘れてたと云うか、ルナが「禁止」って云うのも、もっともだと思ったからで。
いじわるのつもりなんて、全然ないのだけれど。
「ふぅん。それならまあいいけど」
さらりとルナはどうでもよさそうに云って、
「じゃああいつ、何なの。ほんとに偶然なの。偶然であんな、銃とか爆弾とかをいつも持ち歩いてるの」
話を元のブラウンに戻してくれる。
ふむ、とガブリエルが小さくうなずいて、
「偶然とは思えないね。キクヒコか、ホワイトか、あるいは両方かな、あいつはその様子を探ってたのかも。と云っても、尾行するみたいに四六時中監視してたわけじゃないんだろうけど。
見かけたのは偶然で、そこからこっそり隠れて着いてきて、さっきのあの現場に出くわしたって感じじゃないかな。銃や手榴弾を持ち歩いてるのは、偶然じゃなく、常に持ってるのかも知れないね」
いつもの穏やかな声で淡々と云う。
見かけたのは偶然
銃や手榴弾を持ち歩いてるのは、偶然じゃなく、常に持ち歩いてる
だとしたら、あの場でキクヒコさんに向けて銃を発砲したのは何故だろう。
まるでキクヒコさんのホワイトへの追跡を阻止した、みたいに見えたけれど、彼がそれを止める理由はないよね。
ホワイトとブラウンは、ハンスによれば「犬猿の仲」だったはず。
ホワイトを「カジモド(出来損ない)」という不名誉なあだ名で呼んでいたのもブラウンだった。
それにほんのひと月ほど前には、どこかの地下でホワイトの前に現れ、肩を撃ち抜いて重傷を負わせてる。
そんなブラウンが、8年前にホワイトを庇ったりするだろうか。あいつがキクヒコさんに追い詰められようが、どうなろうが、ブラウンにとってはどうでもいいのでは。
「うん。拳銃の弾を撃ち尽くすまで乱射した挙句、手榴弾まで投げつけて、だよ。しかもこんな地下の古い坑道でさ。こんな場所で爆発なんて起こしたら、落盤の恐れがありそうな事くらい、子供でもわかると思うけど」
確かに、ガブリエルの云う通りだ。だからこそ、ブラウンの狙いが何なのかわからない。
本気でキクヒコさんを殺そうと狙っていたなら、もっと確実に、一発で狙い撃てるチャンスを待つとか、方法は他にいくらでもあるはず。
はい、とルナのスマホからゲンゴロウ先生の声が云う。
「やはり爆弾魔はブラウンで間違いないのでしょう。何を考えているのかわからない。いえ、何も考えていないのではと思えるほど、過激で直情型。その手段は杜撰で稚拙でさえある」
何も考えていない
だから、地下道で手榴弾を投げた?
大規模な落盤が起これば、自分自身すら巻き込まれて生き埋めになる恐れもあるというのに。
「厄介だね」
短く云う、ガブリエルの一言に、全てが込められてる。
厄介だ
何を考えているかわからず、何をしでかすかもわからない。
そんな人物がレムナント化して地下に潜んでいて、しかも銃や爆弾を隠し持ってる。
実際に、キクヒコさんは生き埋めにされかけた。
そんな相手、いったいどうしたら。
思考の深みに嵌りそうな僕に、魔法の声が囁くように云う。
「逃げるのよ」
ぽつりと、Jがつぶやいて、僕を見る。
灰色がかった眼が、まっすぐに僕を見て、
「降りかかる火の粉から、逃げ出すの。それしかない、でしょ」
それは、いつかのルリおばさんの言葉。
そうだよね、それしかない。
いったいどうすれば、なんて考えるまでもなく、一目散に逃げるんだ。
「うん」
僕が小さくうなずくと、Jは眼を細めて、やさしくかすかに微笑んだ。

話しながらではあったけれど、それに画面が真っ黒な高難易度のパズルではあったけれど、パズルの得意なみんなのおかげで、小一時間ほどで修復は完了してた。
最後のひと欠片を手にしたルナが、みんなを振り返って、
「これ戻したら、さっきのバクハツの続きだよね。ほんとにだいじょぶかな」
不安げに尋ねる気持ちは、わかる。
あくまでこれは過去の「記憶」で、当人であるキクヒコさんは(少なくともその体は)無事にあのゲンゴロウ先生の実験室へ辿り着いてる、はず。
逆に直さなければ、キクヒコさんは「記憶」を失くしたまま、「海」とのつながりも戻らない。
「そーだよね、そー」
自分自身に云い聞かせるみたいに、ルナは小さくつぶやいて、両手で持った黒い記憶の破片を見つめる。
すうっと短く、ルナは息を吸い込んで、
「えい」
いつもの声で云って、最後の記憶の破片を嵌める。
ぶーんと古いスピーカーがつながったような低い音がして、同時に記憶の世界が動き出す。
けれど、見えるのは光る白い珠に照らされた、もうもうと立ち込める土煙だけ。
あちこちで地下道の崩れる大きな音が響く中、土埃の中に、白く光る「輪」がちらりと見えた。
瞬間、また世界が一転する。
ぬるい夏の夜風が、開け放たれた窓から吹き込む。
蛍光灯の黄色い光に照らされた、ここは・・・、
「アパートだ。K、キミの」
呆然とつぶやくガブリエルの声は、聞こえていたはずだけれど僕は聞いていなかったかも知れない。
懐かしい、あの狭い市内のアパートの部屋。
蛍光灯の灯りに照らされた夜の室内に、僕らはいた。
目の前には窓が開いていて、窓の向こうに見えるのは、すぐ隣に立つビルの壁。
その窓辺に置かれたベビーベッドの上、タオル地の薄い布団をかけられた赤ん坊が、窓に向かってその小さな手を伸ばしてる。
「K?」
魔法の声で尋ねられて、僕は無言でうなずいてた。
僕だ、0歳の僕。
実際には、光る繭が割れ、その中から再生して、たぶんこの部屋へ連れて来られたばかりの頃、なのだろう。
ガブリエルの意識は、もう中にいるはず。
ハッとガブリエルが息を飲む。
まさか、覚えてるの。
そう思ったけれど、違った。
その視線の先、窓のすぐ外、手を伸ばせば届きそうな位置に佇む、土埃に塗れた白衣の男性は、キクヒコさん。
アパートの部屋は1階で、窓の外は数十センチの隙間が空いているだけで、すぐに隣のビルの壁だった。
角部屋だったので、もう一つ窓があり、そちらも隣の建物と密接してはいたけれど、だから昼間はそれほど暗くはなかった。
今は夜で、窓の外は暗く、室内の蛍光灯に照らされたキクヒコさんの後ろのビルの壁は、暗い影と夜の闇に沈んでいる。
ーー ・・・おや・・・じ
かすれた心の声がかすかにつぶやくのを聞いた時、胸がきゅっと締め付けられるような気がした。
ボロボロのキクヒコさんは、土埃のせいで目もよく見えないのだろうか。
ふらりとよろめくように窓枠にもたれかかり、開いた窓から赤ん坊に向かって手を伸ばす。
ざざっと、画面にノイズが走るのは、キクヒコさんが体に負ったダメージのせいだろうか。
赤ん坊の僕が伸ばした手に、キクヒコさんが触れたのかどうか。大きく乱れた画面のせいで、僕にはよく見えなかった。

ノイズが消えると、場面が変わっていた。また、「輪」で飛んだのだろうか。
もしかしたらダメージのせいで、「輪」が操作不能になっていて、意思とは無関係に飛ばされてるのかもしれない。
暗く、広い空間。コンクリートの床に、キクヒコさんは倒れるように膝から崩れ落ちる。
土埃を吸い込んだのか、激しくむせ返っている。
「ロリポリちゃんだ」
またいつの間にゴーグルを嵌めたのか、ルナが暗がりを見上げて云う。
僕もゴーグル越しに、見えた。確かに、ロリポリだ。
ではここは、ベースのロリポリのホール。
8年前では、Mは、まだロリポリの中にいなかったはず。
画面にノイズが走り、また大きく乱れる。
むせかえるキクヒコさんの足元に、一瞬、光る「輪」が見えて、また飛んだらしい。
周囲の景色がまた変わる。
今度は、マンションの一室らしい。
灯りが消えているのではっきりとはわからないけれど、あのススガ丘のマンションの部屋、なのかも知れない。
出窓から、レースのカーテン越しの白い月明かりがベッドの上に落ちている。
キクヒコさんは床に倒れ、大きく喘いでいる。意識はまだあるようだけれど、かなり朦朧としているのかも知れない。
ブランシュは部屋にいないのだろうか。姿は見えなかった。
ざざっ、ざざざっ、大きく画面全体が乱れて歪む。
ノイズが消えると、また場面が変わっていた。
見覚えのある、暗いサーバールーム。
ガラスの向こうには蛍光灯の灯りが点っていて、たくさんのモニターが忙しく何かを映し出しているのが見える。
誰からともなく、たぶん、全員が同時に、ほっと大きく息をついていたかも知れない。
キクヒコさんは、あの生命維持装置の中に横たわっていた。
青い光が灯っていないので、電源は入っていないらしい。
ふわりと画面全体が暗くなって、幕が降りるように闇が降りて来る。
「え、これで終わりなの。じゃあキクヒコはやっぱり、体の中にいるの」
ルナが尋ねるけれど、それはどうだろう。
この後、たぶんキクヒコさんの意識だけが「輪」で飛んで、Nの体の中へ入ったはず。
「惨憺たる状態」とNが云ったのも、今ならわかる。
ヌガノマの体へ意識を移し、毒にやられて記憶を壊され、その上、ブラウンに生き埋めにされかけたのだから。
「戻ろうか」
ガブリエルが云って、ルナと手をつなぐ。ルナが僕に手を伸ばすのでつなぎ、僕はJに手を伸ばす。
4人で手をつないで、記憶の保管庫へ戻る。
白いお花畑を眼にした瞬間、僕は心からほっと大きな息をついてた。
けれど次の瞬間には、はっと息を吸い込んでキクヒコさんの「記憶の梯子」を見上げる。
みんなも、同じように梯子を見上げてた。
大きく歪んでいるのは、変わらない。けれど、あちこち途切れていた横木はルナの「いたいの飛んでけ」で修復されているし、ゴーグル越しの僕の視界に、もう黄色の「線」は見えない。
それなら、キクヒコさん、「海」とまたつながったのかな。
僕にはその感覚は、わからない。ルリおばさんの時も、僕に「つながった感覚」があったわけじゃなかった。
「ここで呼んでみても、いいかな」
ガブリエルが僕を見て、ぽつりと云う。
もちろん、それは構わない。
ここも「海」の一部である以上、つながってるのなら聞こえるはずだよね。
「もちろん、ミカエルには聞こえないように、キクヒコだけを、ね」
ガブリエルが隣のルナに云うと、
「わかってるよー。るなも呼ぶー」
ルナは拗ねたようにちょっとだけ口を尖らせて、
「キクヒコ―」
いつもの声で、そう呼んだ。
「キクヒコ?」
ガブリエルも、ルリおばさんの時ほど大声ではなかったけれど、キクヒコさんを呼ぶ。
「窓が開くとしたら、テラスの方かな」
Jに云われて、そうだね、と思う。
声だけなら、ここでもつながれば聞こえるだろうけれど。
「テラスに戻ろ。あっちで呼ぼうよ」
ルナに云われて、うなずいて、4人で手をつないだまま、テラスへ飛ぶ。
波音を聞いた瞬間、また心がほっとほどけるのを感じる。
テラスの手すりの前に並んで立ち、見えないキクヒコさんの窓に向かって4人で呼びかけてみたけれど。
やさしい「オレンジの海」の波音の他には、何も応えてくれなかった。

日曜の晩になっても、まだ降ったり止んだりの気まぐれな雨が降り続いてた。
夕食とお風呂を済ませて、2階の部屋へ上がる。
なんとなく習慣のように屋根裏へ続く梯子を見上げたら、青と琥珀色の眼が僕を見下ろしてた。
N、雨降りなので日課のお散歩はお休みかな。
手を伸ばすと、ひらりと腕へ飛び込んで来たので、そのままベッドへ腰かけて、昼間の話をNに共有する。
聞き終えたNは、鼻でふふんと小さくため息をついて、
「キクヒコ、まさか地下で崩落に遭い、あわや生き埋めの所だったとは。あの惨憺たる有り様にも、それで納得です」
いつものように淡々と云う。
「それで、記憶の梯子も修復し、「海」につながったはずなのに、彼からは何の応えもない、と」
ふむ、Nは首をかしげる。
「しかしそれなら、確かめようはあります。キクヒコの体がまだあの研究棟にあるなら、そこでワタシとつながれば、直接声をかけて・・・」
Nがそう云うのを聞いて、そう云えば昨日の事をまだ話してなかったと気づく。
キクヒコさんの体は、生命維持装置ごとハンスに引き受けてもらったから、もうあの場所にはいないんだよ。
「なるほど、そんな話もありましたね。それが昨日、ようやく実現した訳ですか。しかし、間の悪い事ですね。その翌日に、キクヒコの記憶がつながるとは」
Nからそう云われて、あらためて気づく。
確かに、タイミングが悪い。
もう少し早くキクヒコさんの記憶の修復が出来ていれば、Nの云うように直接キクヒコさんとつながって、呼びかけてもらうなり何なりできただろうに。
もしもそれでキクヒコさんが目を覚ましてくれていれば、ハンスに預ける必要すらなかったかもしれない。
「キクヒコらしい間の悪さとも云えますが」
いつものようにNはさらりとキクヒコさんへの皮肉を吐いて、素知らぬ顔をしてるけれど。
間の悪さまで、キクヒコさんのせいなの。いったいどれだけの不運や不幸を背負わされてるのかと思うと、キクヒコさんがますます不憫に思えてくる。
「ひとつ、お願いがあります」
まじめな顔で何やら考え込んでいたNが、ふっと僕を見上げて、
「ハンスのところへ、ワタシを連れて行ってもらえませんか」
淡々と云う。
ハンスのところへ
それは構わないし、どのみち僕も近いうちにキクヒコさんのお見舞いに一度は行きたいと思っていたけれど。
だいじょうぶかな。
無意識にそう思ってしまって、何がだろう、と自分に問い返す。
「ハンスの前で、ワタシがキクヒコとつながるのを、かの御仁に見せる事が、でしょうか」
Nが首をかしげて、僕も首をかしげる。
そうなのかな。
「キクタ」と「4人の子供たち」が、動物の体へ意識を移せる事、それはたぶん、ハンスは知らない。
僕はそこまで話してはいないし、ベースの軍の資料にも、それは載ってないだろうと思える。ナナによれば、それは「キクタ」独自の発明だから。
それをハンスに見せたくないと、僕は思ったの。
ハンスにそれを知られても、だいじょうぶなのかな、と。
驚いたのは、たぶんそれ。
いつの間にか僕の中にも、ハンスへの不信感が芽生えていたらしい事に気づいたから。
だったのかも知れない。
いや、不信感、と云うより、警戒心、かな。
「キクター?」
呼ばれて、オレンジの海を「振り返る」
貝殻の風鈴は鳴らなかった。呼んでるのは、ルナだから。
「草の海ー」
まだ返事もしていないのに、一方的にルナはそう告げて、ふっと気配が「海」から消える。
「ルナですね。ご一緒してもよろしいでしょうか」
Nが僕に尋ねるけれど、もちろん僕はそのつもりだった。
「何だろうね。行ってみよう」
うなずいて、Nに答えて、首をひねる。
今日の日課は午後に済ませていたはずだし、その後、キクヒコさんの事もあったので、もう今夜はナガヌマの記憶の探索へは行かないのだろうなとは思ってた。
はっきりとそう、ルナと相談して決めたわけではなかったけれど。
「草の海」に呼ばれてるので、探索ではなさそう、だね。
部屋の灯りを消して、ベッドに横になる。
Nの鼻が僕の鼻先に触れて、ぐるんと視界が回り、ルナの「草の海」を振り返る。
風がそよぐ、金色の草の海。
お菓子の家のお庭に、ルナはいた。
いつものようにブランコに腰掛けて、足をぶらぶら揺らしてる。
僕に気づくと、ルナはネコみたいに赤い眼を細めて、
「ごめんねー、もう寝てたー?」
歌うように語尾を伸ばして、僕に尋ねる。
さすがにまだ、寝るには少し早いよね。
「あ、Nちゃんだー」
返事も聞かずに、ルナは僕に向かって両手を伸ばす。
僕に、ではなくて、僕が腕に抱いたNに、だけれど。
「こんばんは、ルナ」
云いながら、差し出された手に素直に飛び込むNは、何というか、さすがだね。
「じゃあ交換ねー、はいー」
まるでぬいぐるみみたいに片手でNをぎゅっと抱いて、もう一方の手で首に下げてたスマホのストラップを外して、ルナは僕に差し出してる。
交換て、Nとスマホを?
「ゲンゴローが、「キクタと話したい」んだってー」
ほい、とおざなりにルナはストラップのついたスマホを僕の眼の前で振る。
いや、だからそれ、ゲンゴロウ先生が揺れてるよね。
慌てて両手で受け取ると、暗かった画面が瞬いて、ゲンゴロウ先生のアバターが現れる。
あれ、でも、稼働時間、いやスリープモードは、だいじょうぶなのかな。
今日は、昼間もずっと僕らに付き合ってくれてたけれど。
ご機嫌な顔でNに頬ずりしてたルナが、
「あーねー。ダイジョブみたいよー」
どうでもよさそうに云う。
そんな適当な感じでいいのかな。
「キクタ・・・さん」
スマホからゲンゴロウ先生の機械音声が途切れがちに聞こえた気がして、僕は慌てて画面に眼を落とす。
先生、やっぱり体がつらいんじゃないの。だいじょうぶ?
思わず心の声で尋ねたら、画面のアバターがぴくりと反応して、四角い眼を瞬いて、
「大丈夫、大丈夫です」
淡々といつもの機械の声で云うので、本当にだいじょうぶなのかどうかは、わからない。
ルナがちらっとめんどくさそうに僕を見上げて、
「まあ座れば」
赤い眼で隣のブランコを差して、すぐに腕の中のNに眼を移す。
やさしいのか何なのか、よくわからない子だな、と思う。気配り、というやつかな。いや単に横で立ってるのが邪魔だっただけなのかも。
ブランコに腰掛けて、あらためてゲンゴロウ先生に、
「それで、僕に話って?」
尋ねたら、先生のアバターがコクリとうなずいて、
「ひとつ、お願いがあります」
どこかで聞いたような台詞を、淡々と口にする。
でも、ゲンゴロウ先生が僕にお願いって、
「何だろう。僕にできる事なら」
スマホ画面の先生に、そう答える。
「ありがとうございます」
先生のアバターがぺこりとお辞儀をして、
「ハンスのところへ、私を連れて行ってもらえませんか」
機械の声で淡々と云うので、思わず僕は、隣のルナの腕に抱かれたNを見る。
Nも同じようにまっすぐに横を向いて、僕を見てた。
偶然、なのだろうけれど。
ほとんど同じタイミングで、同じお願いを、Nとゲンゴロウ先生からされるなんて。
こんな事ってあるの。いや実際に、あったのだけれど。
「るなは、あんまり行きたくないからねー。ほんとは、ゲンゴローをハンスちゃんに会わせるのも、ちょっとなーって感じなんだけどー」
云い訳のようにルナは云って、少し口を尖らせる。
「どーしても行きたいって云うからさー。じゃあキクタに頼みなよーって。あんたなら、ハンスちゃんに会うのも平気でしょー」
平気かと云われれば、まあ平気、かな。
以前よりも少しだけ、不信感?警戒心?もあるにはあるのだけれど。
いや、それはともかく肝心なのは、
「先生は、どうしてハンスに会いたいの」
尋ねると、画面でアバターが一瞬固まって、フリーズかな。
それとも通信エラー?いや、そもそも意識空間に通信状況とか関係あるのかな。
「キクヒコ・・・君の、事です」
機械音声も、少し途切れ途切れに聞こえる。
キクヒコさんの事
つまり、目的はNと一緒って事かな。
ちらりと横目でNを見たら、Nも僕を見て、大きくうなずいてた。
「実はね」
僕はルナとゲンゴロウ先生に、さっき部屋でNと話してた事を共有する。
「へえ」
ルナはいつもののんきな声で、
「じゃあNちゃんがキクヒコの体に触れば、その中に意識がいるかどうかはわかるの」
腕の中のNを見下ろして尋ねる。
「彼が応えてくれれば、ですので、キクタの「海」で呼びかけるのと、そう違いはないのかもしれませんが」
Nが云うのは謙遜や何かではなく、あくまで冷静かつ客観的な意見なのだろう。
「それでもー、直接体に触って声かける方が、よく聞こえそうだよねー」
ルナの感覚論には相変わらず根拠も何もないのだけれど、何故か説得力は十分あるよね。
「あんたのムズカシイ話は、るなにはさっぱりわかんないけどねー」
わははー、ルナはハナみたいに笑って、Nの頭に顔を埋めてる。
「では、お願いできますか」
ゲンゴロウ先生が云うので、僕はうなずいて、
「明日にでも、ガブリエルに頼んでハンスにメールしてもらうよ」
そう云えば、親分からスマホをもらってしばらく経つけれど、僕はいまだにハンスの連絡先を知らなかった。
ガブリエルに聞けば教えてくれるのだろうけれど、それを聞く事すらすっかり忘れてた。いや忘れてたと云うか、どこか意識の片隅にはあったけれど、後回しにしてた、かな。
それももしかして、ハンスへの不信感が原因なの、なんて思ってしまうのは、さすがに考えすぎだよね。
キクヒコさんの移送の件では、ガブリエルがハンスとやり取りをしてくれていたし、僕には他に、これと云って急いでハンスに連絡しなきゃいけないような用事もなかったので。
今度会った時に本人から直接聞けばいいかな、なんて思いながら、なかなか会う事もなく今に至る、という感じかな。
なんとなく視線を感じて隣を見たら、ルナが赤い眼を細めて、じっと僕を見てた。
「どうしたの」
尋ねたら、ルナはふいっと視線をそらして、
「ベーつにー」
また歌うみたいに云って、
「Nちゃんもたいへんだねー。嫌になったらいつでも、るなのとこ来ていいからねー」
足をぶらぶらさせながら、Nにぐりぐり頬ずりしてた。

明日は月曜で学校もあるし、と早々にルナの「草の海」から引き上げて、部屋に戻った。
体に意識を戻して、Nを腕に抱いてベッドから立ち上がる。
「雨は上がったようですね」
窓の外を眺めて、Nは鼻をぴくぴく動かして、
「ワタシは少し出かけます。アナタはどうぞ、ごゆっくりお休みください」
さらりと云う。
出かけるって今から?と思ったけれど、夜行性だものね。むしろこれから、元気になるのかもしれない。
「気をつけてね」
ふわりと頭をなでて、梯子の下まで行くと、
「キクタ」
Nが僕を見上げて、
「ゲンゴロウですが、何か少し、様子が変わりましたか」
不意に思い出したようにそんな事を尋ねる。
ゲンゴロウ先生?
様子は、どうだろう。さすがに今日は少しお疲れのようだったけれど、変わった感じは、特にしなかったかな。
「そうですか。では、ワタシの思い過ごしでしょう」
Nは小さくうなずいて、ふふんと鼻を鳴らす。
「ハンスの件、よろしくお願いします」
「うん、了解。日程が決まったら、早めに知らせるよ」
Nは小さくお辞儀をすると、とんとんと軽いステップで梯子を駆け上がる。
黒い小さな後ろ姿は、屋根裏の暗闇に紛れてすぐに見えなくなってた。

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