don’t let me down

屋根裏ネコのゆううつ III

土曜日も良く晴れた寒い日だった。
日なたはぽかぽかと暖かかったけれど、風が強くて、耳元でぴゅうと鳴ると、寒さに身がすくむ。
午後2時過ぎに家を出て、Jと待ち合わせをしてる公園へ向かう。
ハンスとの約束は午後4時だったけれど、ゲンゴロウ先生を迎えにルリおばさんの部屋にも寄るし、だったら少し早めに行こうか、という事になって。
部屋にはルナやハナもいるので、早く着く分には時間を持て余す事もないよね。
父と母には、「Jとルリおばさんの家へ遊びに行って来る」と云ってあった。
また父が「車で送るよ」なんて云い出したけれど、Jと待ち合わせしてるから、と丁重に断った。
「じゃあ、電話してくれたら、帰りは迎えに行くよ。もちろん、ジーンちゃんもしっかり教会までお送りするぞ」
いつものようにニヤニヤ笑いながら父が云うので、「わかった。ありがとう」と云っておいた。
本当に、どこまでも甘い父だな、と思う。ありがたい事なのだろうけれど。
家を出ると、塀の上からひらりとNが歩道に飛び下りて来たので、手を伸ばす。
歩きたいのかな、とも思ったけれど、今日は寒いので。
ひらりと僕の腕に飛び込んで、Nは、
「カイロ代わり、という事ですか」
青と琥珀色の眼で、じっと僕を見上げてる。
どうしても歩きたいなら、下ろすけれど。でもこの方が、お互いに暖かいよね。
ふむ、とNは鼻を鳴らして、
「そういう事でしたら、お言葉に甘えましょう」
くるりと僕の腕の中で丸くなってた。
公園に着くと、既にJは来ていて、ベンチで寒そうに身を縮こまらせてた。
真夏には暑かった日なたのベンチだけれど、公園の真ん中に吹き曝しで、風を遮るものがなにもないから。
僕に気づくと、Jはベンチから駆けて来て、
「寒いねー」
手に息を吹きかけながらそう云って、じっと僕の腕に抱かれたNを見る。
空気を読める賢いネコのNは、ちらりと僕を見上げるので、うなずいて、両手でNをJに差し出す。
「え、いいの。わあ、ありがとう」
そんな魔法の笑顔を見せられたら、ね。
ふわりとNを両手で受け取ったJは、灰色がかった眼をまんまるにして、
「うわあ、あったかーい」
Lみたいに頬ずりしそうないきおいで、Nをぎゅっと抱きしめながら、「あ、Nちゃんこんにちはー」律儀に挨拶してた。
Nを抱いたJと並んで商店街を抜けて、川沿いの遊歩道を南へ下る。
川沿いは特に風が強くて、冷たい。
ゆっくり歩道を歩きながらJが、フェンス越しに川面を眺めてた視線をふっと僕に移して、
「L、今ごろ試験頑張ってるかなあ。もしかして、もう終わってたりして」
ふわりとイタズラっぽく微笑む。
もう終わってたり
「え、天才だから?みんなより先に終わらせて、さっさと会場を出てるかもって事?」
まさか、と思ったけれど、「Lだから」ね。あり得なくないかもしれない。
「ね、Lだから」
ふふふ、と魔法の声でJは笑う。
「まあ、ぜんぜん心配はしてないけどね。Lだから」
試験の結果については、って事かな。それは、そうかもしれない。
昨夜はたぶん、あのまま「海」のテラスのソファで眠って、体調はバッチリだろうし。
「模試も良かったって云ってた。1600点満点で、1580点だって」
「へえ、何を間違えたんだろ。そっちが気になるねえ」
「英文のナントカが難解で、とか云ってたかな」
「あ、そっか。全部英語なんだもんねえ。じゃあ何を間違えたか聞いても、たぶんわかんないね」
あはは、楽しそうに笑うJの声を、何だか久しぶりに聞いたような気がした。
毎日のように「海」で何かしら話してたのが、例の禁止令のおかげで、先週以来なくなってたから、かな。
でも来週からは、またあの日常が帰って来るんだよね。
いつまでも、永遠に続く事はないにしても。
Lがアメリカへ行く事になっても、春になって、Jとガブリエルが中学へ行っても。
まだしばらくは、あの楽しい日々が続くはず。
なんとなく、あらためて、僕はそんな事を思ってた。
何か、予感めいたものが「聞こえて」いたわけではなかったと思うけれど。

午後3時少し前に、リバーフロントビルのマンションのエントランスに着いていたと思う。
ハンスとの約束まで1時間ほどあるけれど、ルリおばさんの部屋でのんびり待たせてもらえばいいよね。
ロビーのガラス扉をインターフォンで開けてもらって、23階へエレベーターで到着すると、待ち構えていたように部屋の両開きのドアが開いて、ハナが元気に飛び出して来る。
「キクタ、遊びに来たの?」
ぴょこんと僕に飛びついて来るハナを抱き上げて、ドレッドヘアをふわふわなでる。これもいつもの習慣、と云うか、恒例行事みたいなものかな。
「ハナちゃん、こんにちは」
Jが挨拶をすると、くるりと振り向いたハナが、
「Jちゃんこんにちはー。あー、Nちゃんもいるー」
あっさりと僕を突き放すように飛び下りて、もうNに両手を伸ばしてる。
「あははー、キクタ、フラレてるー」
玄関の扉を押さえてくれてたルナが、僕を見てニヤニヤ笑ってた。
フラレてはいないでしょ。Nに負けるのは、まあ仕方ないよね。
「かわいそーだから、はい、ゲンゴローを貸してあげるねー」
ほい、と雑にスマホを僕に手渡すけれど、そんな扱いでいいの。
ゲンゴロウ先生は、ルナのパパだよね。
「そのはずですが」
機械の声が自信なさそうに云うので、僕は困ってしまう。
「ルナちゃん、ゲンゴロウ先生、こんにちは」
JがハナにNを渡して、いつも通り律儀にふたりに挨拶する。
「いらっしゃーい。どーぞー、入ってー」
ルナはまるで我が家のようにJを室内へ招いて、いや、まあ、居候でも我が家には違いないのかな。
「ジーンさん、今日はよろしくおねがいします」
ゲンゴロウ先生も、何と云うか、律儀だよね。大人だから、なのかな。ちゃんとしてる。
「いらっしゃい。早かったわね」
ソファから立ち上がりながら、ルリおばさんが云うので、
「うん。ここで待たせてもらおうと思って、早めに来た」
「なるほどね、ゆっくりしていって。お茶入れるわね」
ふふふ、と軽やかに微笑んで、ルリおばさんはキッチンへ向かう。
夏からずっと右眼に付けてた眼帯は、しばらく前にもう外されてる。
聞いてた瞼の傷跡も、パッと見ではわからないくらいだ。たぶん、上手にお化粧で隠しているのだろうけれど。
「どーぞー、座ってー」
ルナに奥のソファを勧められて、座ろうとして、視界を何かがかすめた。
ソファの向こう側、一面の大きな窓の外に、縦の線が何本か見える。
あれは、ワイヤーかな。窓の外に?
「んー、ああ、お掃除のゴンドラだよー」
僕の視線に気づいたルナが、「ハナ、おいで」と隣にハナを座らせながら教えてくれる。
お掃除のゴンドラ?
窓拭きのお掃除、かな。え、でも、ここってビルの23階だよね。
高層ビルの外壁に設置され、ワイヤーでぶら下がったゴンドラに乗り込んで、窓拭きする人を想像して、背筋がゾッと寒くなる。
今日は風も強いし、危なくないのかな。
「キクタ、高所恐怖症?今どき人は乗らないでしょ。お掃除ロボットだよー」
僕の顔色が変わったのが面白かったのかな。ルナはそう説明しながら、くすくす笑ってる。
ロボットなの。それなら良かった。
「Kだから、ね」
座ろ、と僕を奥のソファへ促しながら、Jが云う。
また、Kだから?
でも今のは、わかる。「心配性」って事だよね。
奥のソファへ座ったら、窓は後ろになって見えなくなり、ワイヤーもそこにぶら下がるゴンドラとやらも目に入る事はないので、少しホッとする。
「心配性で、高所恐怖症で、あんたもいろいろたいへんだねー」
ルナが云うと、全然たいへんそうに聞こえないけれど。
「あと、虫もニガテって、Nちゃんが」
Nを抱いたハナが云うので、僕は困ってしまう。事実なだけに、何も云えない、よね。
「あら、なあに、キクちゃんのダメなところを上げてるの。面白そうね」
トレイに載せたポットとティーカップをテーブルに置きながら、ルリおばさんまでニヤニヤしてる。
なんで「面白そう」なの。そこは庇ってくれるべきでは。
「あら、あたしは貶さないわよ。キクちゃんは恩人だもの。でも、ナナが起きてたら、もっといろいろ教えてくれそうね」
あの悪魔のような笑みを浮かべて、並べたカップにしずしずと紅茶を注ぎながら、ルリおばさんが物騒な事を云い出すので、思わずハナを見る。
「んー、ナナちゃん?寝てるよー」
ハナが僕を見てにっこり微笑んでくれて、ホッと胸をなで下ろしてた。
まあ、ナナに云われそうな事はだいたい想像が付くし、これまでにもさんざん云われ続けてる事なので、今さらビクビクする事もないかもだけれど。
「ミカエルは、今日が試験本番なんですってね」
ソファに腰掛けたルリおばさんが、さりげなく話題を変えてくれる。
「ルナに聞いてもよくわからないのだけれど、アメリカの大学入試なの?」
という事は、ルナはそう理解してたんだ。
アメリカの大学入試
概ね間違いではない、のかな。
「僕も詳しくは知らないのだけれど、アメリカの大学へ入学するための、必要な学力を証明する試験、みたいな。学力評価試験?だったかな。それである程度の成績を取ったら、お世話になってるメンターの先生のいる大学で、面接と論文の試験があって、それに受かれば入学させてもらえる、ってLは云ってた、かな」
Lの話を思い出しながら、そう説明する。
「そーそー、それー。なんかー、NASAのすごい人もいる研究室に、Lも誘われてるんだってー」
ルナもちゃっかり乗っかって、まるで自分の事のように自慢げに、追加の情報をみんなに披露してくれる。
ルリおばさんがあきれたような顔で、
「飛び級入学ってやつかしらね、あたしも良くは知らないけれど。NASAとか研究室とか、いかにもミカエルって感じねえ」
ミカエルって感じ
Lだから、みたいな事だよね。
「まあ、物怖じしないあの子の事だから、飄々と合格してみせるのでしょうけれど。そしたら、春からアメリカ?」
春から、なのかな。具体的な時期は、聞いてなかったような。
中学へ入学してしまうと、また3年間のんびりしてしまいそうだから、小学生のうちに、みたいな事は云ってたけれど。
「アメリカの大学も、4月からなの」
ルナが誰にともなく尋ねると、僕が首から下げたルナのスマホのゲンゴロウ先生がぴこんと反応して、
「あちらは9月から新学期が始まる所が多いようですね。州や学校によって違う所ももちろんあるのでしょうが。ミカエルさんの場合は、特例で中途入学もアリなのかもしれません。教授の推薦があるのですよね」
そう説明してくれて、なるほど、と思う。
その特例の中途入学のための、今回の大学進学適性試験+面接と論文、なのかも。
ふぅん、といつものようにルリおばさんは軽めにうなずいて、
「いずれにしても、少し寂しくなるわね」
苦笑するように僕を見るのは、何だろう。僕が寂しがるだろうって、心配してるのかな。
「僕もそう云ったら、ナナが「いつでも「海」で会えるじゃろ」って」
「ああ、それもそうね」
ホッとしたように微笑むのは、ルリおばさん自身も、少し寂しいような気持ちがあったのかもしれない。

ずっと抱いてたNをルナに預けて、ハナが紅茶のカップを両手で持ち、おそるおそる持ち上げてる。
まだ熱いかなと紅茶にフーフー息を吹きかけてたハナが、ふとオレンジの眼を上げて、じっとこちらを見る。
「ねー、ルナ、あれもおそうじのロボットなの?」
窓から眼を離さずに、そう隣のルナに尋ねてる。
「えー?」
片手でNを抱き、もう片方の手でカップを持って紅茶をすすっていたルナが、カップをテーブルに戻しながら目線を上げて、固まる。
ハナとルナ、ふたりの視線は、奥のソファに座る僕とJの間、たぶん、後ろに見える窓の方を見てる。
何だろう、と何気なく振り返った僕は、呼吸が止まった。
リビングの一面にある大きな窓の向こう側、太いワイヤーで下げられたゴンドラの上に立つ、黒い人影。
強風になびく黒いコート、黒い帽子、そしてその顔には、不気味なピエロの仮面。
「嘘でしょ、何でよ」
ルリおばさんの悲鳴のような声と、僕の隣で窓を振り返ったJがハッと息を飲む音が、同時に聞こえた。
「爆弾魔、何でー?」
いつものんびりしてるルナの声も、さすがにうわずってかすれてる。
夢でも幻でもなく、ピエロ面のブラウンが、ルリおばさんの部屋の窓の外、リバーフロントビルの23階の清掃用ゴンドラの上に立ってた。
不気味な笑みを浮かべた仮面は、まるで悪夢のよう。
誰も動けず、言葉も出ない。
ごおっ、と分厚い強化ガラス越しに、ひときわ強い風の音が聞こえた。
風に煽られたゴンドラが大きく揺れて、ブラウンは手袋を嵌めた両手で、ゴンドラの縁を掴む。
それでも体がよろめいて、ゴンドラを吊る太いワイヤーに当たったらしい。
その反動で仮面が顔から外れ、強風に巻き上げられるようにみるみる飛ばされて行く。
仮面の下から現れたのは、あのキクヒコさんの記憶で見たのと同じ、顔のない黒い顔。
ヒッ、と誰かが悲鳴を上げかけて飲み込んだのは、ルリおばさんだろうか。
僕の眼はブラウンの顔のない顔に釘付けで、振り返って確かめる事はできなかった、けれど。
「いやあああああーーー!!!」
魂の引き裂かれるような甲高い悲鳴が、広いリビングに響き渡り、僕は慌てて振り返る。ハナの声だ。
ハナは、思わず手を離してしまったのだろう、中身のこぼれた紅茶のカップが倒れて転がるテーブルの向こう側で、呆然と立ち尽くしてた。
丸く開いた両眼で、窓の向こうを見つめたまま、大きく開いた口からは、甲高い悲鳴を上げ続けて。
「ハナ!」
思わずソファから飛び上がり、低いテーブルを飛び越えて、ハナの視界を塞ぐように抱きしめる。
「いやあ!顔のないおじさん!顔のないおじさんがくるよ!!」
顔のないおじさん
ハナは、ブラウンを見た事があるの。
がくがくと全身を震わせて、オレンジの眼を大きく見開いたまま、ハナは叫び続けてる。
「いやあー!!顔のないおじさんが、火をつけてる!みんなのお家が、燃えちゃう!はなちゃんのお家、燃えちゃうよ!!」
僕が抱きしめた事にも気づいていないかのように、ハナは全身をこわばらせ眼を見開いたまま、半狂乱に叫び続ける。
顔のないおじさん、火をつける?
みんなのお家が、燃えちゃう?
それってどういう・・・
まさか、
ハナは、見たの。
家に火をつける、ブラウンを?
「ナナ!」
僕は両手で強くハナの肩を掴んで、ハナのオレンジの眼を見て呼びかける。
ナナ、お願い、ハナと交代して。
このままじゃ、ハナが、壊れてしまう・・・
ーー できぬ。
悔しげなナナの心の声が、僕の中に響く。
できないって、どうして。
ーー 王であるハナがパニックに陥っておる故じゃ。意識の交代が、できぬ。
そんな・・・。
「いやあ!いやああ!!キクタ!たすけて!!!」
叫び続けるハナを、僕はぎゅっと抱きしめる事しかできない。
「だいじょうぶ、ハナ、僕はここにいるよ、だいじょうぶ」
そう声をかけながら、でも、今ハナが助けを求めてるのは、僕じゃない。僕だけれど、僕じゃなく、かつてのキクタだ。
ハナやみんなを守ってくれる、頼もしいおじいちゃんのキクタ。
悔しさに、グッと唇を噛み締める。
僕はどうして、何もできない子供、なんだろう。
辛そうな表情で、悲鳴を上げ続けるハナから眼を逸らしたルナが、窓を見て息を飲み、叫ぶ。
「ちょ、あれ何?!あいつ、何してるの?!」
その声に押されるように、僕の眼が自然と窓を見る。
同時に、ヘッドホンからあの警告音がピリピリと鳴り始める。何で今頃、と思った、けれど。
窓の外では、ゴンドラの中へ身を屈めていたブラウンが、何やら黒っぽい包みを片手に持って立ち上がる。
顔のないその顔は、表情も全く読めず、まるで作り物の人形か、本当にロボットのよう。
僕の腕の中でハナの悲鳴が止み、ふうっと大きく息を吸い込んで、眼を閉じる。
すぐにパッと開いた眼は、薄灰色の力強いナナの眼だ。
「叫び疲れて眠ってしもうた。じゃが一先ずハナは良い」
ずいっと僕の腕を押しのけて、ナナの薄灰色の眼はじろりと窓を見る。
ブラウンは、まるでおどけるような緩慢な動きで、右手に持った黒っぽい四角い包みを眺めて、こちらに見せびらかすようにぐいと高く掲げて見せる。
分厚い強化ガラスに遮られ、声も物音も聞こえないので、パントマイムか、本当にサーカスのピエロのよう。もう仮面は、付けていないけれど。
「あれは、まさか・・・」
ハナの体が離れたので、スマホのカメラの視界が開けたらしい、ゲンゴロウ先生の機械の声が云う。
「爆弾では?」
その声がブラウンに届くはずはないけれど、まるで「正解!」と云わんばかりにブラウンが大袈裟に手を広げて、その姿勢のまま、包みを窓の真ん中辺りにぐいと押し付ける。
包みに何か粘着性のあるものが塗られていたのだろうか。包みは押し付けられたそのままの形で、窓の向こう側に貼り付いてる。
爆弾
黒いビニールかナイロンのようにも見えるツヤのある四角い包みの真ん中に、よく見ると白く光るデジタル表示が「00:32」と読める。
0時32分?
ではないのは、すぐにわかった。
見ている間にもその数字がどんどん減っていく。31、30、29。単位はもちろん「秒」だろう。
研究棟に届けられた爆弾のデジタル表示は、カウントダウンなどではなく現在時刻のようだった、とゲンゴロウ先生は話してくれたけれど。
これは、こっちの爆弾は、
「カウントダウンでしょう、逃げて!早く!!」
ゲンゴロウ先生の機械音声が叫ぶまでもなく、片手にNを抱いたルナがJの手をぐいっと引いて、ソファの背もたれを飛び越えて廊下へ駆け出してる。
貼り付けられた爆弾は、強化ガラスとはいえ窓を簡単に粉々にするだろう。
爆風は、外へ向かうのだろうか、それとも中へ吹き込んでくるのか。
真っ直ぐにこの部屋を出ても、そこはエレベーターホールで行き止まりの壁。部屋のドアは木製で、閉めても爆弾の衝撃と爆風を防ぎ切れるかどうか。
廊下は、窓から見て直角だ。廊下まで爆風が届くとしても、一度部屋の壁に当たり、曲がった爆風だけ、のはず。
ほんの数秒で、そこまで考えたわけではなかったけれど。
ルナも、たぶんそこまでは考えていなかっただろうけれど。いや、もしかしたら、ルナならそこまで考えてたのかもしれない。
「廊下へ!」
僕は知らずにそう叫んでた。ヘッドホンからはピリピリと警告音が音高く鳴り響いてる。
ナナを両手で抱き上げて、廊下へ走る。
ちらりと振り返った窓の外には、もうゴンドラはなく、ブラウンの姿も見えない。
デジタル表示は、「00:12」まで減ってた。
ほんの10秒で、この広いリビングを駆け抜けて、廊下に飛び込み、どこまで奥へ進めるだろう
廊下とリビングを仕切るドアはない。爆発すれば、爆風は窓からまっすぐリビングに吹き込み、壁に当たってそのまま廊下へ進むだろう。
爆発すれば?
爆発しない、そんな可能性があるだろうか。
あくまで脅し、なのだとしたら、爆弾に見せかけたデジタル表示だけ、なのかも。
あるいは不発に終わる可能性、とか。
そんな事を考えたのは、全てが終わった後だった。
その時は、何も考えていなかった。
ただナナを胸にぎゅっと抱いて、呼吸すら忘れて廊下へ駆け込んでいた。
振り返った時に、ルリおばさんを呼んだような気もする。
すぐ後ろに、まるで僕を爆弾から庇おうとするみたいに、ルリおばさんがいたのは覚えてる。
その後は、閃光、そして激しい爆発音と衝撃。
耳をつんざく爆音に飛ばされたように、僕らは狭い廊下に倒れ込んでた。

恐ろしいほどの静寂と、薄暗い闇の中で眼を開く。
首から下げたスマホ画面の灯りで、腕の中、ナナがうっすらと眼を開くのが見えた。
「ナナ、だいじょうぶ?」
声に出したはずの、僕自身の声が聞こえない。
キーンという微かな耳鳴り以外、何も聞こえない、無音の世界。
「爆音で耳をやられたようじゃな。一時的なものじゃろうが」
心の声で、ナナが云う。言葉の内容はともかく、ナナの心の声が聞こえただけで、ホッとする。
「ハナは?」
「案ずるな、眠っておる」
いつも通りのナナらしい短い会話だけれど、心の声で話せてよかった、と思う。
アニーじゃなければ、みんな揃って耳をやられて、会話もままならないところ、だったのかもしれない。
「ルナ、Jは無事?」
暗い廊下の奥にうずくまる人影が見えて、心の声で呼びかける。
廊下が暗いのは、爆発で部屋中が停電して灯りが消えているのだろう。
「ちょっとー、「ふたりとも無事?」じゃないの。なんでJだけ心配してるのよー」
いつも通りのルナの声が聞こえて、場違いだけれどやっぱり少し可笑しくなってしまう。
ルナって本当に、不思議な子だよね。
「ルナちゃんがすぐに引っ張ってくれたから、わたしは、だいじょうぶ。Kとナナちゃんの声も聞こえたよ。ゲンゴロウ先生は?」
魔法の声がして、Jが暗い廊下を這うように近づいて来る。
「私はこの通り、衝撃保護シールで守られていますからね、傷ひとつありませんよ」
また何かこんな時にまでゲンゴロウ先生は、シュールなスマホジョークを云ってるけれど。
でも暗い廊下でスマホの灯りが、いい目印になってくれてたのは確かだった。
「ルリさんは?」
Jに問われて、振り返る。
その時になってはじめて、強い風が吹き込んで来るのに気づいた。窓が割れたから、なのだろう。
風に混じって、かすかに鼻をつくような薬品の臭いと、何かが焦げたような臭いもする。
僕の後ろで、うずくまるように体を丸めているのは、ルリおばさんだろう。影になっていて、その顔は見えないけれど。
「おねぇちゃん?」
Jと並んで廊下の奥から姿を現したルナが、廊下に座り込んだ僕を飛び越えるようにして、ルリおばさんに駆け寄って、体を起こそうとしてる。
まさか、ルリおばさんの反応が、ないの。
「ちょっとー、キクタ、ぼーっとしてないでー。おねぇちゃんを起こすの、手伝って」
ぐったりとしたルリおばさんの腕を引っ張って、体を起こそうと苦戦しながらルナが僕を呼ぶ。
抱いてたナナを床に下ろして、慌ててルリおばさんに駆け寄る。
首から下げたスマホの灯りが、ルナが引っ張って半分身を起こしたルリおばさんを照らす。
ほつれた髪が頬にかかり、眼を閉じたルリおばさんは、気を失っているのかもしれない。
「ルリおばさん?」
ルナの反対側、右腕を抱えるように持ち上げて、ルリおばさんの背中へ腕を差し込んで、持ち上げる、けれど。
やっぱり意識がないらしい。ぐったりと力のない体は、重くて持ち上げられない。
ぐらりと大きく上体が揺らいで、慌ててルリおばさんの頭を、胸で受け止める。
「ひゃっ」と短い悲鳴を上げて、ルナが僕が首から下げたスマホを掴んで、ルリおばさんの顔を照らす。
「たいへん!おねぇちゃん、耳から血が出てる!」
ルナの云う通り、スマホ画面に照らされたルリおばさんの左の耳の穴から、つうっと血が首筋に流れて落ちる。
「き、救急車!キクタ、救急車呼んで!」
「ルナちゃん、落ち着いて。スマホはルナちゃんが持っています。まずこれをキクタさんに渡して」
淡々と冷静な機械音声に云われて、「あ、ああ」ルナもハッと我に返って、僕にスマホを渡す。
「救急車は、もう来ているようじゃな。まだ多少耳鳴りはしておるが、聞こえぬか」
ナナに云われて、耳を澄ます。
確かに、さっきまで何も聞こえなかった耳に、風の音と、遠くから響くサイレンの音が聞こえる。
「救急車と、消防車も来ておるようじゃ。まさか、燃えておるのか」
ナナがそう云って、ずんずん廊下を戻ってリビングへ向かうので、僕は慌ててしまう。
「ナナ、待って。危ないよ」
スマホをルナに返して、ナナを追いかけようとして、あ、ルリおばさんをまだ支えたままだった、と気づく。
Jがスッと僕の横へ来て、
「K、代わるよ。あまり動かさない方がいい、ですよね?」
スマホのゲンゴロウ先生に尋ねる。
「おそらく耳の鼓膜の損傷と、衝撃で倒れた際に気を失っているのでしょう。念のため、救急隊が来るまで安静にしておきましょうか」
ゲンゴロウ先生の説明にJが「はい」とうなずいて、ルリおばさんを膝枕するようにそっと支えてくれる。
「お願い」
Jにうなずきかけて、僕はナナを追って廊下の端、リビングの入り口へ進む。
ひらり、と廊下の暗がりからNが飛び出して、僕について来たので、かがみ込んで抱き上げる。
強い風の吹き込むリビングは、さっきまでとはまるで別世界のようだった。
粉々に砕けた強化ガラスの破片が、砂利か小石のように、辺り一面に散らばっている。
爆発の衝撃で、その粒状の破片が勢いよく飛び散ったのだろう。カーテンもソファも穴だらけのボロボロで、壁にも破片がいくつも突き刺さり、まるで機関銃でも乱射されたような跡になっていた。
ガラスのなくなった窓から強い海風が遠慮もなく吹き込んで、穴だらけのちぎれかけたカーテンがバタバタとはためいてる。
「窓に近寄るなよ。風に巻かれて飛ばされては、ひとたまりもない」
ナナに云われるまでもなく、まずリビングへ進むのも怖いくらいだった。
風で飛ばされる恐れはもちろん、床の絨毯の上に散らばる強化ガラスの破片で怪我をしかねない。靴を履いてるとは云え、普通のゴム底の布製の運動靴だし。
「よもや、いきなり本丸を狙われるなど有り得ぬと思うておったが、まさかの。あれの目的は何じゃ」
ふむう、とナナは包帯ぐるぐるの右手を唇に当てて、首をひねる。
ブラウンは、この部屋を知ってた。それは間違いない。
だとしたら、狙いはいったい、何。
わからない。
ビル清掃用のゴンドラに身を潜めて、窓の外から部屋へ近づき、ガラス窓の真ん中に爆弾を仕掛けて、逃走する。
その目的は、何なのだろう。
脅しか、警告か。
おまえ達の住処を、俺は知ってるぞ。いつでもこうして近づいて、爆弾を仕掛けられるんだぞ。そんな脅し、だろうか。
でも、何のために?
僕らを脅して、あいつに何の得があるの。
「そもそも、何を考えているのかわからない。彼奴の考えは読めない。いわゆる人格障害、性格破綻者。ゲンゴロウは、そう評していました」
淡々と、Nに云われて、そうだね、と思う。
何を考えているかわからず、何をしでかすかもわからない。そんな人物が、何を思ってこんな事をしたのか、その理由を推し量る事自体がナンセンスだ。
何の意味もないのかもしれない。
「であるな。意味はない。それに、儂らにできる事など、限られておる。事がここまで大きくなると、警察やらも動かざるを得まい。認識が消されておる故、最後の最後で逮捕とまでは行かぬであろうがの。あるいは以前、ヌガノマホワイトで検討したように、逮捕され、そのまま拘置所で放置され続けるのやも知れぬが」
ナナの言葉に、僕は黙ってうなずく。
だいぶ耳鳴りが治まって来たらしい。遠くから重なるようにして、幾つものサイレンの音がけたたましく響いている。
ガラスがなくなり、大きくひしゃげて歪んだ窓枠の周辺やその外側をこちらから見た限りでは、煙や炎のようなものは見えないので、火災は起きていないようだった。
実際、爆弾が炸裂した大元であるこのリビング自体、どこか焦げ臭いような臭いはするものの、燃えている様子はなかった。
どんどんどん、激しく部屋のドアがノックされて、
「キリノさん!おられますか?消防です!」
大人の男性が大声でそう呼んでる。
玄関はオートロックなので、中からドアを開けてあげた方がいいのだろうけれど、リビングはガラスの破片だらけだし。
躊躇していたら、ナナがドアに向かって、
「ドアを破ってくれて構わぬ!怪我人がおるのじゃ、急いでくれ!」
大声で、そう叫ぶ。
すぐに声が反応して、
「承知しました。ドアを破ります!扉から離れてください!」
男性の声が云う。
僕らは、廊下の端から広いリビングを眺めていたので、すでにドアからは十分に離れている。
「行きます。・・・3、2、1」
男性の声が云って、ドン!と大きな音を立てて、ドアが開く。
たぶん、鍵が壊れたくらいで、ドアそのものが破られたわけじゃなかった。
どのみち、ドアも壁もガラスの破片で穴だらけなので、交換しないといけないのだろうけれど。
エレベーターは動いてるのだろうか。開いたドアの向こう、エレベーターホールには、灯りが点いているのが見えた。
すぐに消防服を着込んだ男性ふたりと、白衣にヘルメットを被った救急隊員らしき数人の男性が部屋へ駆け込んで来る。
「此方じゃ。足元に気をつけてな」
小さなナナが、まるで大人のような声色で隊員達を呼びつけて、先頭の消防隊のおじさんは、ぎょっとしたような顔をしてた(ような気がする)。
消防隊員ふたりが懐中電灯で廊下を照らしてくれて、救急隊員が折りたたみ式の担架を広げて、ルリおばさんがその上に乗せられる。
「これで全員ですか、他に住人の方は?」
消防隊のおじさんに尋ねられて、
「全員じゃ。他には誰もおらぬ」
またナナが淡々と答える。
大人ひとりと、小学生の子供が4人、ネコが1匹。
随分と不思議な家族構成だけれど、消防隊員のおじさんは、そこには触れずに、
「では皆さん、救急車で病院へ。念のため、全員検査を受けてください」
くるりと僕らを見渡して、云う。
「わかりました」
年長のJが、代表してそう返事をしてくれた。見た目では年長の、だけれど。中身で云えば、Jが一番年下になる、のかも知れない。
「キクタ」
Nが心の声で僕を呼ぶ。
腕の中を見下ろすと、青と琥珀色の眼でじっと僕を見上げて、
「別行動です。ワタシは、周辺を調べて来ます。何か彼奴の痕跡が残されているかも知れません。それに、どのみちワタシは病院へは入れないでしょう」
淡々と、いつもの落ち着いた声で云う。
病院に入れないかどうかは、どうだろう。非常時だし、連れて入っても怒られはしないと思うけれど。
でも、僕らが検査を受ける間、Nがどこへ連れて行かれるかわからないのは困る、かな。
「ケージに閉じ込められるくらいでしょうが、ワタシはあれがどうも苦手ですので。後ほど、病院の裏庭へ伺います。おそらく、大学病院なのでしょう。もしもそこで落ち合えなければ、あなたの屋根裏でお待ちします」
じゃあ、エレベーターで下へ降りて、救急車に乗る前に、どこかで別れようか。
そう云ったら、Nは静かに首を横に振る。
「いいえ、ここで。あのゴンドラとやらを調べてみたいのです。彼奴が何か残すとすれば、あそこでしょう」
でも、ゴンドラは、ビルの屋上からワイヤーで吊られてるんじゃないのかな。
ここは23階で、屋上はこの上のホテル部分のさらに上、30階だよね。
「このビルの構造上、マンション部分とホテル部分のゴンドラは別々であるのでは。だとすれば、マンションのゴンドラは、このすぐ上の階、24階のホテルロビーの外側にあるのではないかと」
さらりとNがビルの構造をそう推察するので、驚いた。
Nは、何なの。建築家か何かなの。
「いいえ、ただのネコです。只、人間の建築物の構造には少々興味がありまして。趣味のようなものですが、いろいろと見て周っているのです。故におそらくですが、マンション部分のゴンドラは、このすぐ上にあるはずです。でなければ、彼奴が爆発までの時間をあんなに短く設定するはずがありません。すぐ上の階にクレーンがあればこそ、ほんの数十秒程でゴンドラを降り、彼奴自身は安全な場所へ行ける、それも納得でしょう」
建築物への興味と、爆発までのカウントダウン時間の短さ。それでNは、ゴンドラはビルの屋上から吊られているのではなく、すぐ上の階から吊られているのではと気づいたの。
やっぱりそれは、只者ではないよね。ただのネコではありえないよ。
「過分なお言葉、感謝いたします。窓から出ます、ここで降ろしてください」
さらりと云うので、またどきっとする。
窓からって、ここはビルの23階だよ。Nの身体能力の凄さは、もちろん僕は身をもって知ってるので、間違っても足を滑らせて落ちるような事はないと信じてるけれども。
靴紐でも直すようなフリをして、かがみ込んでNを床に降ろす。
カーペットの床に、きらりとガラスの破片があちこちで光っていて、怖い。
くれぐれも、気をつけてね。
そっと頭をなでながら心の声で云う。Nは不思議な色の眼で僕を見上げて、ぺろりと鼻をなめてうなずいた。

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