daydream believer ii

屋根裏ネコのゆううつ II

あっけなさ過ぎて、拍子抜けするくらいだった。
「人はどんな事にでも慣れる存在」、とは云うけれど、
慣れ、だけでこんなにあっさりと済んでしまうものかなと思う。
Lが半年ぶりに眼を覚ましたあの場に僕も居合わせていたから、かもしれない。
どうしても比べる対象があの場面になってしまうので、僕の方は格別あっけなく思ってしまうだけ、なのかなとも思う、けれど。それにしても、だった。
昨夜、帰り際にJが僕の頭の上を見上げながら、
「Kもそろそろ、だいじょぶそうだね」
笑顔でそう云った。
だいじょぶそう、とJが云うのが、
体に戻っても、という事だとはすぐに察した。
秘密基地への扉に手をかけていたLがそれを聞いて振り返り、
「あー、おまえの部屋の窓も、昼間は毎日開けといてもらえるよーに、Kのおばちゃんに頼んであるからなー」
ニヤリと笑って手を振り、ドアの向こうへ姿を消す。
Kのおばちゃん、とLが云うのは、僕の母のことだよね。
Lはあの日、僕が眠りについた時が、うちの母との初対面だったはず。
だけれど、あの後も何度か病院へお見舞いに行ってくれたりする間に、Lの持ち前の物怖じしない性格もあって、すっかり母と仲良しになってしまった、らしい。
あの母の性格も、もちろんあるのだろうけれど。
きっとあの人は、Jみたいな子も好きだけれど、Lみたいな子は大好きなはず。
そんなLの細やかな気配りのおかげもあって、Nは開いていた窓からすんなりと僕の部屋に入れた。
数週間ぶりに入る懐かしい僕の部屋は、母がきれいに片付けてくれていて、ベッドでは僕の体がすやすやと寝息を立てていた。
Nは窓辺に立ったまま、ベッドで眠る僕をしばらく見下ろしてた。
「どうしましたか」
オレンジの海のコテージの中、テラスに向かって左手の壁には、ガブリエルの白い部屋にあったのと同じ、大きなNの視界の窓がある。
窓の正面には、これもガブリエルとお揃いの白い操縦席があり、僕はそこに座って、Nの視界をじっと見つめてる。
どうしましたか、とNが尋ねる理由は、わかるようなわからないような、だった。
やっぱり、Lの時と比較してしまっていたのもあるし、
あの地下で、僕は一度、Nの体から自分の体に戻ってる。
あの時とも、比較にならないのは当たり前で、それはもちろん僕にもわかってる。
長い追跡と冒険の果てにようやく自分の体に戻れる、というのと、今とでは。
今回は、Jとのんびり拠点の改装をしたり、ぼんやりとオレンジの海を眺めて過ごしたり、ただただ昼寝をしたりしていただけだったので。
「ははあ」
操縦席に座る僕の膝の上で僕を見上げて、Nの意識体が首を傾げながら、
「物足りない、と?」
ふふんと鼻を鳴らして笑う。
物足りない?
思わぬ一言だったので、オウムのように繰り返して、一瞬、N流の冗談かなと考えて。
いやいや、それは、云い得て妙なのではと、どきっとしてしまった。
そして言葉の意味をかみしめて、自分の事ながら、あらためて唖然とする。
何事もなく平穏無事に「眠り病」の3週間が過ぎ、ようやく自分の体に戻れるという今この時に、
物足りない、っていったいどういう事なの。
何かもっと波乱がないといけない、とでも云うのだろうか。
再び誰かに体を奪い去られるとか?何か空から隕石てきな巨大生物が落ちてくるとか?
実はそんな事態になるのを、僕は密かに望んでいたとでも?
いやいや、そんなはずはないよね。
ふふん、ともう一度Nは鼻を鳴らして、
「勿論、冗談です。お気になさらず。それに、冒険はこれから、体に戻ってからが本番では?」
平然とそんな事を云って、ぺろりと黒い鼻をなめている。
時々、この小さな黒ネコのNは、不思議な預言者めいた事を云う。
出会ったばかりの頃にも、何かそんな風に云われた気がする。
何を云われたのかは、ちょっと思い出せないけれど。
ひらりと音もなくNは窓枠から跳んで、ベッドの枕元に飛び乗った。
どんな技巧を使ったのか、ふわりと着地してベッドは少しも揺れもしない。
相変わらず、忍者のようだった。
「また探索や追跡が必要な際には、いつでもお声がけください。くれぐれも自身の体ひとつで向かわれる事のないよう、お願いしておきます」
僕の膝の上で僕を見上げて、Nの意識体はふふんと鼻を鳴らして云った。
くれぐれも
皮肉ではなく、本当にNは僕を心配してそう云ってくれているのだろう。
「ありがとう」
僕は声に出して云い、この老賢者のような頼もしい友人に感謝を込めて、Nの小さな頭をふわふわなでた。
Nの視界の窓に、僕の顔が近づいてきて、鼻先が僕の鼻の頭に触れる。
ぐるん、と視界が回転するような、お馴染みの感覚がして、
あっけなく、何の波乱の展開もなく、僕の意識は僕の体に戻っていた。
9月に入って最初の土曜日だった。
週末だし、長らく眠っていた体の調子を取り戻すのにもちょうどいいかなと思っていたのだけれど、体は、その調子を取り戻すまでもなく何の問題もなかった。
半年ぶりに目覚めた時にLが云ってたような、二度寝してうっかり夕方まで寝てしまって起きた時に襲われる激しい頭痛、とやらも一切なかったし、関節がギシギシしたりもしなかった。
普段通りに一晩寝て起きた、ただそれだけのような、あっさりとした目覚め。
ふわぁよく寝たなぁと、心地良く感じられるくらいだった。
しばらくは窓辺で僕を見守ってくれていたらしいNも、安心したように小さくうなずくと、ひらりと身を翻して屋根の上へ姿を消していた。
こんなにあっさり起きれるのなら、もう少し眠っていても良かったかも、と思わなくもなかったけれど。
あるいは、それを察して、Nは早々に姿を消していたのかもしれない。
ごめん、N、やっぱりこの土日の間、いやせめて今日1日くらいはNの中にいてもいいかな
もしまだNがそこにいたなら、僕はきっとそうお願いしていたに違いない。
あっけなく目覚めはしたけれど、久々に全身で感じる自分自身の体は、なんと云うか重くてのろのろしていて、こんなだったっけ、という違和感を激しく覚えた。
でも、こんなだったのだ。
Nの体がとてつもなく軽快で無駄なくスピーディで、あまりに快適すぎただけなのだ。
Lがラファエルの体を、
「オレはもう一生あっちでもいいけどね?」
と云い切る理由、
そしてあのJですらもクロちゃんの体を、
「もうあんな風に飛べないんだなあって、残念に思っちゃうかもね」
そう云った理由が、わかる。
それを聞いた時にもそれぞれ「わかる」と思ったけれど、今は実感を伴って、わかる。
ひとりで部屋にいても気持ちがもやもやするばかりだったので、階下へ降りてみた。
土曜日なので、父も母も家にいた。
行方不明事件の認識が消されていて、眠り病の方は残っているはず、という僕の予想は、概ね当たっていたらしい。
キッチンをのぞくと、エプロン姿の母が僕を振り返った。
どう声をかけたものかと一瞬迷っていると、
「あら、おはよ、起きたのね。ご飯食べる?もうすぐお昼だから一緒でいいわよね。ちょっと待ってて」
いつも通りの母が、いつも通りにそう云った。
「うん」
それ以外、僕は何も話す必要がない、全くいつもの母だったので安心、というよりまたもや拍子抜けだった。
拍子抜け
と云うより、逆の意味での違和感を覚える。
母が「いつも通り」な事に。
いや、実際に僕は病気でもなんでもなく、ただ眠っていただけ、なのだ、けれど。
それでも、約3週間、眠り続けていて、ようやく目覚めた僕に、いつも通り?
認識の喪失
昨日、Lたちと予想した通り、僕の「行方不明事件」の認識だけが消され、「眠り病」の方は消されていない、のだとしたら、その境界は、どこなのだろう。
「起きたのね」と云った母の言葉は、「3週間の眠り病から目覚めた」と云うより、「普通に朝起きた」くらいの軽いニュアンスだった、ように、思う。
確かに、「眠り病」と僕らが仮に呼んでいたそれは、病気でも何でもなく、ただの長い眠り、なのだ。
そしてその辺りの事情は、ふたりに余計な心配をかけまいと、Lが上手く説明してくれていたはず、だった。
だから、結果的にいえば、Lありがとう、と云うべきところ、なのだけれど。
あまりにあっさりしすぎていて、これはもしやまた夢なのでは?とか、実は僕はまだNの中にいて、あの「オレンジの海」でうたた寝でもしているだけなのかも?とさえ、思ってしまうくらいだった。
父がニヤニヤしながらリビングから顔をのぞかせて、
「おお、おまえさん、起きたのか。じゃあ明日はお好み焼きパーティだな」
早速わけのわからない事を云う。
お好み焼きパーティ?
どこからそんな話が出てきたの。
「Lちゃんがね」
首をかしげる僕に、母が説明してくれる。
「あんたが目を覚ましたら、みんなでお好み焼きパーティしよう、って。ジーンちゃんとアイちゃんも呼んでみんなで、ってね」
Lが?
あのLが、そんないかにもめんどくさそうな事を云うかな、と考えて、すぐになんとなく察した。
たぶん、うちの父か母が、何かLが照れるとか困るような事を云ったのだろう。
それでLがいつものように照れ隠しで「じゃあ、お好み焼きパーティやろー?Kが眼を覚ましたらみんな呼んでさー」とか何とか云ったのでは、その場しのぎのために。
それなら、わかる。とてもわかる。
そんな理由でもない限り、あの出不精でめんどくさがりのLが自分からそんな提案をするとは、僕には思えない。
「そうは云っても、今日の明日はさすがに無理でしょ。みんなにも都合があるだろうし。また来週以降ね」
母がそう云って、お好み焼きパーティの話題はそこまでになった。
やっぱり、父と母からも僕が行方不明になった4日間の認識は消えている。
もし覚えているのなら、あの時、行方不明からLとアイに伴われて帰宅していきなり眠ってしまって、それ以来はじめて起きている僕と顔を合わせたわけだから、小言や注意のひとつやふたつはあって然るべきだと思う。
4日間の行方不明からLとアイに連れられて帰宅して、そのまま僕は眠りについた。
だから、帰宅したところまで認識が消されているのなら、それはイコール、僕が眠りについたところも認識が消されてる事になる、のかな。
救急車を呼んで、大学病院に運ばれて、そのまま入院した。
ふたりは、どこから覚えているのだろう。
どこまでの記憶が、曖昧なのだろう。
Lが病院へお見舞いに来てくれてた事は、どうやらふたりとも覚えてるらしい。
たぶん、その時なのだろう、Lとお好み焼きパーティの話をした事を、ふたりとも覚えていた。
それに、「あんたが目を覚ましたら」と母が云った事からも、「眠り病」そのものについても、やはり消えていないらしい。
とは云え、「じゃあ、どこから覚えてるの」なんてふたりに聞けるはずもなく。
確かめようと思えば、あの日の事を順番にひとつずつ尋ねてみれば、どこかで認識が消されて、ふたりが固まるはずなので、それで確かめる事はできる、けれど。
そんな事には意味がないし、認識を消されて固まるふたりを見るのは、正直、嫌なので。
昨夜の推察通り、「行方不明事件」の認識は消えてる、「眠り病」の認識は消えてない、ひとまずその結論で、納得するしかない、かなと思った。

だから何、という事でもない、のだよね。
昨夜、「オレンジの海」でLとJと話したそのままその通りの事で、何かが大きく間違ってたわけでもなく、どこかで状況が変わってしまったという事もない。
何という事もないのだから、それで一安心、のはず、なのだけれど。
部屋の机の上に置きっぱなしになっていた夏休みの宿題は見なかったことにして、土日はそのまま、特に何事もなく過ぎていった。
日曜にふと思い出して、あのニュータウンの北の外れのガードレール脇に止めたままになってるはずの僕の自転車を取りに行こうと思い、外へ出てガレージをのぞくと、僕の自転車はそこに止まっていた。
当たり前のように、うちのガレージの隅に。
たぶん、僕が眠っている間に誰かが見つけて警察にでも届けてくれたか、それともアイが気を利かせて取りに行ってくれていたのかもしれない。
行方不明事件の認識が街中から消されているのだとしたら、自転車はあのガードレール脇にあの時のまま、誰からも忘れ去られて止めてあるのかと思ったのだけれど。
その件を抜きにしても、防犯登録のしてある自転車が警察に届けられれば、うちに連絡は来るのだろう。
それは至極当然の事で、何もおかしくはない。
「物足りない、と?」
Nの軽妙な一言が、土日の間、何度も頭の中で繰り返しよみがえってた。
その度に、そんなはずはない、と半ばムキになって僕はそれを否定する。
何事もなく平穏無事に、それが何よりだと僕は思っていたし、今でもそう思ってる。
あっけなく眼を覚まして、あっさりと父と母に迎えられ、自転車も無事に戻っていた。
何も云うことはないはず。
なのに、何か気持ちがモヤモヤするのは、どうしてなのだろう。

月曜日は、残暑の厳しい晴天だった。
久しぶりの登校に、汗をかきながら教室へ入る。
少し早めに着いたせいか、教室にはまだ数人のクラスメイトがちらほら見える程度だった。
窓側から2列目の一番後ろ、自分の席に座る。
先週、夏休み明けの2日間、僕は休んでいた事になるけれど、おそらく、それを気にするような子は僕のクラスにはいないはずだった。
6月に、祖母の葬儀のために3日ほど休んだ時にも、クラスメイトからは特に誰からも何も云われなかった。
それくらい、関係が薄いというか、僕自身の存在が薄いと云うべきか。
クラスの中で、僕は、そんな子だった。
これまでは、別にそれでいいと思っていた、けれど。
なんとなく、それはそれで、どうなのだろうと席に着きながらふと思ってた。
そんな風に思ったのは初めてだったので、自分でも少し驚いた。
JやL、アイやガブリエル、みんなとの出会いとあの冒険の日々が、かなり影響しているのかな。
だからと云って、今日からいきなりクラスメイトたちと親しく話してみよう、とは思えなかったけれど。
なので、いつものように黙って教室に入り、黙って自分の席に座り、黙ったまま頬杖をついて、窓から校庭を見るともなしにぼんやり眺めていた。
くるっと、前の席の女の子が僕を振り返り、
「おはよ」
と云ったので、だから僕は、驚いてしまった。
もしかして、僕の心の声が何かの不具合で漏れ出していて、前の席の彼女に聞こえてしまったのでは、と本気で心配したくらい、びっくりした。
「お、おはよ」
驚いた顔のまま、絞り出すように答える僕の声が、ずいぶん遠くで聞こえる気がした。
前の席の女の子、確か、シミズさん?だったかな。ヨッちゃんと、みんなには呼ばれてたような気がする。
僕のそんな様子は気にも止めずに、ヨッちゃんはにこにこ笑って、
「転校生、来たよ」
僕の右隣の席を左手で指しながら、うれしそうに云った。
なるほど、それを僕に教えたくて声をかけてきたのかな。
転校生が来た、僕の隣の席に。
確かにそれは、大ニュースなのだろう、このクラスにとって。
夏休み明け、休んでいたのでそれを知らない僕に、ヨッちゃんは朝イチでその大ニュースを教えてくれた、ということらしい。
「へえ」
そう思ったので、そのままそう云ったけれど、あまりに素っ気なさすぎだろうかとすぐに思い直す。
こういう時、何て返せばいいのだろう。JやLなら、どう答えるのかな。
「なまえ、は?」
気の利いた返しが何も思い浮かばず、絞り出したのは何とも間の抜けた質問だった。
転校性の話題に僕が食いついた事がうれしかったのかな、ヨッちゃんはぱっと表情を輝かせて、
「名前はねー、えっと、あれ?なんだっけ、ど忘れ」
てへっと舌を出して笑う。
こんなかわいらしい顔をする子だったのか、と僕はそんな事にも驚いてた。
今まで、興味がなさ過ぎたのかもしれない。クラスメイトに、と云うより、周りの人全般に対して、かな。
ヨッちゃんは、友達と何やら大声でしゃべりながら席に着いた隣の席の男の子のシャツの袖を引っぱって、
「ねー、ノッチン、転校生の名前なんだっけ?」
元気にそう尋ねる。
ノッチンと呼ばれたヨッちゃんの隣の席(つまり僕の斜め前の席)の男子の名前を、僕は思い出せなかった。
ノッチン?ノムラとか、ノハラ?ノノミヤ、だったっけ?
「はあ、知らねー興味ねーし」
ノッチンはそう云ってヨッちゃんにつかまれた袖を乱暴に引っ張って振りほどくと、おしゃべりをしていた男の子の席へ逃げるように駆けて行く。
「もう」
ヨッちゃんはふくれっ面だ。小動物のようなくりくりとよく動く眼が、逃げて行ったノッチンをキッとにらみつけている。
「ハバナハナ」
ぽそりと、廊下側の後ろの方から、そう声がした。
席に座り、恐竜の化石か何かの図鑑を広げていた痩せた男の子がこっちを見ている。
この子は、知ってる。ワカちゃんだ。フルネームは、知らないけれど。ワカツキとか、ワカバヤシ?だったかな。
僕と似たようなタイプ、と云うと彼に悪いかもしれないけれど、おとなしくて、クラスでもあまり目立たないタイプの子だった。いつも、ひとりで黙々と恐竜の本を読んでいるイメージの子。
「え、何て?ワカちゃん聞こえなーい。もっかい云ってー」
ハキハキとよくしゃべるヨッちゃんが、教室中に響き渡るような大声で聞くので、ワカちゃんは困ったように下を向いてしまう。
「転校生の名前、ハバナハナ、でしょ」
聞こえない、と云われてムッとしたのかな、ふてくされたようにワカちゃんは云って、もう化石の図鑑から顔を上げなかった。
「あー、そうそう。ハバナハナちゃん、ハナちゃんだ」
にかっと僕を見てヨッちゃんは笑う。前歯の矯正器具がきらっと光った。
「ちっちゃくて、かわいい子だよ」
よかったねえ、とでも云いたげに、ヨッちゃんは僕に笑いかけたけれど、ちょうど仲良しの女の子が教室に入って来たのが見えて、「あ、サッチンー、昨日のあれ見たー?」元気に叫びながら席を立ち、サッチンとやらの方へ行ってしまった。
サッチンが誰なのか、僕は知らなかったけれど、それはまあ、追々でいいかなと思った。
Jみたいに「泡」が見えたらな、と僕は思ってた。
きっと、ヨッちゃんもワカちゃんも青い「泡」なのだろう。
そう云えば、と思い出す。
あの「キクタ」、キクヒコさんの意識が入っていた僕の体が、あの時つけていた、ゴーグルとヘッドホンがあれば、僕にも「泡」が見えるのでは。
あのゴーグルとヘッドホンは、眠ってしまった僕が救急車で運ばれる際に、Lがこっそり回収して預かってくれている、との事だった。
あれを付けて、学校に来ることはできないかな。
あのゴーグルとヘッドホンが、Lの予想通りアルカナの能力に関するアイテムなのだとしたら、地下に関するものと一緒に認識を消されていて、つけていてもみんなには認識されないのかもしれない。
Lは、あのアイテムの秘密を探りたい、とか云ってたけれど、何かわかったのかな。
今日は月曜だから、きっとLもあの公園へ来るのだろう。
忘れずに聞いてみよう。
そんな妄想に耽っていた僕は、なにげなく眺めた隣の席に、ふと、違和感を覚える。
そこへやってきたという転校生に、ではなく、僕の隣の席そのものに。
転校生が来た、という僕の隣の席は、夏休みの前も空席ではなかったはずだった。
誰かがいたはず、女の子が。
席順は男女交互に出席番号順なので、名前の順だった。
シミズヨッちゃんの次が僕、スズキキクタ。
ヨッちゃんの隣、ノッチンの次が僕の隣、転校生、ハバナハナ。
あいうえお順で云えば、ノの次がハならば、別におかしくはないのだけれど。
夏休み前まで、僕の隣にいたはずの女の子は、ハバナハナが転校してきたので、席順がひとつずれた、という事なのだろうか。
ヨッちゃんに聞いてみたら、教えてくれるのかもしれないけれど、さすがに聞くのははばかられた。
隣の席が誰だったのかすら覚えていないなんて、いくら興味がなかったとはいえ、失礼にもほどがあるのでは。
転校生の名前を「知らねー興味ねーし」と平然と云ってのけるノッチンと同レベルか、もしかしたら僕の方がよりひどいのかも。
そう思えたので、ヨッちゃんに聞いてみるのは、あきらめることにした。
予鈴のチャイムが鳴り、すでにクラスのほぼ全員が教室に揃っていたけれど、転校生はまだ現れなかった。
5分後、始業のチャイムとほぼ同時に、担任のナガタ先生が教室に入って来て、日直さんの号令でおはようの挨拶が済んでも、僕の隣は空席のまま。
ナガタ先生が出席簿を広げ、教室をぐるりと眺めまわして出欠を確認しはじめたところで、教室の後ろのドアが、からからと地味な音を立ててゆっくりと開く。
遅刻してしまったのでおずおずとドアを開けて入ってきたのかなと、僕は思っていたけれど、そうではなかった。
制服がぶかぶかな小さな女の子が、両手を使って重たそうにドアを開け、教室に入ってくると向きを変えて、また両手でドアを持ってからからと閉めている。
「ちっちゃくて、かわいい子だよ」
ヨッちゃんは、確かにそう云ったけれど。
いや、小さすぎでは。
1年生か、未就学児が間違って入ってきたのではと思えるくらい、小さな女の子だった。たぶん、見た目で云えば5〜6歳くらい、そう見えた。
その小ささも、だけれど。
まず眼を引くのは、黒い肌。
アフリカ系の人の茶色がかった艶のある黒ではなく、まるで墨を塗ったような黒だった。
しっとりと艶のない黒。まるで人形か、そういう類の陶磁器か何かのよう。
そして、髪型。
ドレッドロックス、というのだろうか。僕は実際に見たのは初めてだった。絡まった髪がロープ状に束になった髪型。それを頭の天辺やや後ろあたりでぐるっとひとつに束ねているので、そこで毛束が花弁のようにぶわっと広がっている。
何か宗教上の事情とかがあるのだろうか。小さな女の子にはちょっと不似合いな違和感を覚える、特徴的な髪型だった。彼女の髪型が似合わない、という意味ではなく、それはそれで、かわいいとは思うけれど。
髪の色は灰色っぽく見えたけれど、よく見ると黒髪にところどころ白いメッシュを入れているのか、あるいは髪全体の3分の1か4分の1くらいの白髪混じりなのかもしれない。
さらに、丸いサングラス。子供用なのだろうか、小さな顔にぴったりフィットした黒い丸レンズのサングラスをかけている。眼が悪いのかな。
それから、右手が、怪我でもしているのか、白い包帯でぐるぐる巻きだった。
小さな手の指先から、制服の半袖のブラウスからのぞく肘までずっと、ぐるぐる巻きの白い包帯。
見れば、ぶかぶかのスカートの下、右足にも太ももから膝まで、白い包帯がぐるぐる巻かれている。黒い素肌の左足と、対照的な白い包帯の右足。
体の小ささ、黒い肌、灰色のドレッドヘア、サングラス、包帯でぐるぐる巻きの右手と右足。
彼女の容姿のインパクトが凄すぎて、僕は言葉を失い、ただ茫然と見つめる事しかできなかった。
「んしょ」と、か細い声で小さくつぶやいて、彼女はようやくドアをぴたりと閉め、こちらを向いた。
もっと本質的な違和感に、そこでようやく、僕は気づいていた。
朝の挨拶が終わり、ホームルームが始まってから、彼女は教室の後ろのドアから入って来たのだ。
それなのに、何故、誰も彼女を気にも留めないのだろう。
誰ひとり、僕以外は、誰も彼女を見ていなかった。ナガタ先生さえも、だ。
教壇に立つナガタ先生の視界には、教室の後ろのドアがゆるゆると開くところも、そしてそこからのんびりと教室に入って来た小さな女の子も、はっきり見えているはずなのに。
これは、いったい・・・。
こちらを向いた彼女の、サングラス越しの眼がきらりと光った、ような気がした。
とことこと小さな歩幅でこちらへ向かって歩いて来る彼女が、相好を崩して僕を見る。
そして満面の笑顔で、小走りに僕に向かって来ると、そのままの勢いで僕に飛びついて、
「キクタ!」
舌足らずな声で、彼女は云った。
静かな教室に響き渡るような、大きな声で。
ふわりと、甘い花のような匂いがした。
これは、キンモクセイ、だろうか。
子犬のように僕に飛びついた彼女は、僕のあごの辺りにぐりぐりとその黒い額をこすりつけている。
「はなちゃん?」
そう、ぽつりと口にしたのが僕自身だった事に、他ならぬ僕が一番驚いていた。
はなちゃん?って何
僕は、この子を知ってる、の。
まるで時が止まったかのような教室で、僕は席に座ったまま、小さな女の子に飛びつかれて、途方に暮れていた。
「はい、欠席はいませんね。ではこのまま、1時間目の授業を始めましょう」
何事もなかったかのように、ナガタ先生はぐるりと教室を眺めまわして、云う。
え、ちょっと待って。
これは、どういう事。
ぱたぱたとランドセルを開けて、教科書と筆記用具を取り出すみんなも、まるで僕らが見えていないかのよう。
「教科書32ページから、じゃあ、ヒロセさん、起立して、読んでください」
ナガタ先生が云って、ヒロセさん、と呼ばれた女の子が「はい」と教科書を持って立ち上がる。
僕より2列ほど廊下側の前から2番目の席、長い髪を三つ編みにした、背の高い女の子。
その横顔にはっとした。彼女だ。
夏休み前まで、僕の隣の席だった子。ヒロセさん。下の名前は、ごめんなさい、憶えていないけれど。
じゃあやっぱり、ハバナハナが転校してきて、席順がひとつずれたの。
いや、そんな事より、この状況。
認識の喪失、だ。
ハバナハナ、この子はみんなの認識から消えている?
けれど、ヨッちゃんは「転校生、来たよ」と覚えていたし、ワカちゃんも「転校生の名前、ハバナハナ、でしょ」としっかり覚えていた。
それに、ナガタ先生も、遅刻して教室の後ろから入って来た彼女には何も云わなかったけれど、教室をぐるりと見まわして「はい、欠席はいませんね」と云っていた。
確かに欠席はいない、遅刻した転校生はいたけれど。
転校生がいる、彼女の名前はハバナハナ、その事は、みんな認識している。
けれど、彼女が遅刻してきた事も、大声で「キクタ!」と叫んだことも、そしてそのまま僕に飛びついた事も、見えていない。
あの時の僕とラファエルだ。Lの意識を体に戻すため、認識を消してミクリヤのお屋敷に入り込んだ僕とラファエル、あの状況といっしょだ。
あの時、シジマ夫人は、僕らがそこにいることはわかっていた。眼の前を通るたびに、丁寧なお辞儀をして通り過ぎていた。けれど、それが誰なのかはわかっていない。見えてもいない。
つまり、今、みんなには、僕と彼女が教室にいることはわかっている。けれど、彼女が大声で僕を呼んだ声も聞こえていないし、彼女が僕に飛びついたまま離れないのも見えていない、という事。
だとしても、だよ。これは、いったい、僕は、どうしたらいいんだ。
それに、さっき無意識に僕の口をついて出た言葉。
「はなちゃん?」
僕は、彼女を知ってるの、だろうか。
ハバナハナ、彼女はいったい、誰なの。
「むぅ」
ひとしきり、僕のあごの辺りにおでこをぐりぐりこすりつけていた彼女が、不満げに顔を上げる。
まだ、僕にしがみついたままで。
「キクタ、おヒゲ、ないねー」
舌足らずなか細い声で、彼女は云う。
おヒゲ?
小学2年生なので、おヒゲがあるわけはないよね。
「ふぅん」
わかったのかわかっていないのか、どちらとも取れるような返事をして、彼女は僕にくっついたまま、くるりと回れ右をする。
そして、ぴょこんと跳びはねて、椅子に座った僕の足の上に乗ろうとしているの?
「これ、じゃまねー」
ぐいと僕の机を前に押すので、ヨッちゃんの椅子にぶつかりそうになり、僕はあわてて机を押さえて止める。
んしょ、と小声で掛け声をかけながら、机と僕の足の間に無理矢理体をねじ込んで、僕の足の上に座り、ようやく彼女は動きを止めた。
これは、つまり、抱っこ?してほしかったのだろうか。
いくら彼女が小さいとは云え、僕だってそれほど大きくはない。
どちらかといえば、小さい部類だ。
アイやせめてJくらい大きければ、彼女を抱っこするくらいどうってことはないだろうけれど。
いや、小さい女の子なので、別に重くはないのだけれど。
でも、ここは教室だし、今は授業中で。
僕の足の上に座ったまま、くるりと彼女は上を向いて、
「むぅ、やっぱり、キクタ、ちっちゃいねー」
はっきり云う。
彼女が顔を動かすと、その小さな頭の上でお花のようにぶわっと広がったドレッドの毛束が、僕の鼻先でふわふわと揺れて当たるので、こそばゆい。
彼女の髪が揺れるたびに、ふわりとあのお花のようなキンモクセイに似た甘い香りが漂う。
「しかたない」
ふん、と彼女は鼻息を荒げて、また、んしょと掛け声をかけて僕の足からぴょこんと跳び下りた。
そして自分の席の椅子を両手でつかむと、重そうにずるずる引きずって僕の椅子の真横にぴったりくっつけて並べる。
椅子を引きずる音が静かな教室に響き渡って、みんなには認識されていないのだろうけれど、僕は気が気でなかった。
並んだ椅子にぴょこんと跳び乗って、ハナは僕の横に座り、僕を見上げて「へへー」と満足げに微笑む。
その小さな黒い左手が伸びてきて、僕の右手をぎゅっと握った時に、何かが僕の中で閃いた。
冷たい小さな手。
ーー 荊の道へ往かん
心の中に、声が響くような
夢のあの子の声がよみがえった気がした。
この声、そして小さな冷たい手をつないだ、僕は、夢で。
まさか、
夢のあの子は、ハバナハナ?
声は、確かにそっくりだった。
幼い感じのする、舌足らずで、か細い声。
けれど、話し方がぜんぜん違った。
夢のあの子は、もっと大人びた、と云うか、年配の?年齢を感じさせる?大人の話し方、だった。
「キクタ、はなちゃんのこと、わすれちゃったの」
僕を見上げるハナの眼が、見えた。
近づいて上から見下ろす形になったので、サングラスの上側から、彼女の素の眼が見える。
明るい、オレンジ色の瞳。
こんな色の眼があるのか。
Lやガブリエルの青い眼も、ちょっと信じがたいくらいきれいな青だったけれど。
ハナの眼は、まるであのオレンジの海のような、きれいなオレンジ色。
眼のきれいさに見とれて、言葉が後からやってきた。
キクタ、はなちゃんのこと、わすれちゃったの
キクタ、忘れちゃった?
そして、さっき云った、
おヒゲ?
彼女の云う「キクタ」は、あの「キクタ」なのだろうか。
先代キクタ
だったら、おヒゲもあったのかもしれない。
いや、ちょっと待って。
どうしてこんな小さな女の子が、8年前に亡くなった先代の「キクタ」を知ってるの。
軽いパニックに陥って、僕の意識が救いを求める。
オレンジの海
授業中、だけれど、Lは今日も学校には来ていないのだろうか。
まじめなJはきっと、窓を閉じてるはず。
あるいは、あれ以来、一度もつながらないけれど、ガブリエルなら。
オレンジの海を「振り返り」Lとガブリエル、ふたりの頼れる天才の名前を・・・
いや、待って、呼んでどうするの。
「夢のあの子っぽいけどちょっと違う感じのする転校生が僕のクラスに来て、どうやら先代キクタの知り合いらしいんだけど、僕はいったいどうしたらいいかなあ?」って聞くの。
「はあ、おまえ、オレが何でも答えてくれるとか思ってねーだろな?そんなわけねーだろ、ばかなの?」
というLの回答が予想できた時点で、僕はいくらか冷静さを取り戻していた。
みんなに相談する前に、まずはきちんと情報を集めて、整理しよう。
ハナは、さっきから声に出して僕に話しかけてくるけれど、たぶん、飛びついたりおでこをくっつけたりしていた時に、僕の心の声が聞こえていたっぽいふしがあった。
それに、今は手をつないでいるし。
ハナは、僕の声が聞こえるんだよね。
心の声で、そう尋ねると、
「うん、キクタの声、きこえるよー」
オレンジの眼をきらきらさせながら、ハナは云う。
返事は、声に出してるけれど。
それは、まあ、いいや。ひとまず、認識の喪失を、たまにはありがたく活用させてもらおう。
さて、と考える。
何をどう、聞いたらいいのだろう。
知りたいのは、彼女がどこの誰で、どうしてキクタを知ってるのか、だけれど。
そう尋ねて、彼女に答えられるのだろうか。
迷っていると、ハナに先を越された。
「キクタ、どうして、ちっちゃくなったの」
丸いサングラス越しに、オレンジ色のきれいな眼がまっすぐ僕を見ている。
あ、と思った。
Jの眼といっしょだ。Jの灰色がかったきれいな眼。
「キミ、めっぽう弱いよねえ」
ガブリエルの声が、脳裏によみがえる。
めっぽう弱い眼の持ち主が、また現れるなんて。
しかも、
どうして、ちっちゃくなったの
それは、困った。僕にもどうしてなのかわからないやつだった。
ハナは、大きいキクタを知ってるの。
困ってしまって、思わずそう尋ねていた。
質問を質問で返すなんて、しかもこんな小さな女の子を相手に、なんて卑劣な。
「しってるよー。はなちゃん、キクタとなかよしだもんー」
オレンジの眼をうれしそうにまんまるにして、ハナは云う。
素直だ。こんな素直で純真な子を、僕はどうしたらいいんだ。
思わず言葉に詰まってしまう。
すると、ハナが続けて云う。
「はなちゃんねー、ずーっとキクタに会いたいなーって思ってたよー。そしたらねー、おねぇちゃんが、がっこーに入れてくれたんだよー」
にまーっとハナが相好を崩す。本当にしあわせそうな笑顔。
お姉ちゃんが、学校に入れてくれた?
そのお姉ちゃんって、誰。
夢のあの子、だろうか。それなら、やっぱりハナと彼女は別人?
「おねぇちゃんは、えーと、なまえはわかんない。でもキクタのおともだちだよー?」
なんでしらないの、とでも云うみたいに、ハナは小首をかしげて僕を見る。
キクタのお友達のお姉ちゃん?
先代の交友関係は、残念ながら僕には全くわからない。
けれど、その人が、キクタに会いたがっていたハナを学校へ入れてくれた。
つまり、ハナを転校させた上で、認識の喪失で彼女を守った、のだろうか。
確かに、どう見ても2年生には見えないハナをキクタ、つまり僕のクラスに転入させようと考えたら、何らかの手続きを進めた上で、認識を消すのが手っ取り早い、気がする。
2年1組にハバナハナという転校生がいる、その事実だけが残るように他の不都合な認識を消したのだろうか。
ふわふわと無邪気に戯れるようなハナから、どうにかして情報を引き出そうとあれこれと質問したり、会話を試みたりしていたので、午前中の授業はほとんど、いや全く頭に入らなかった。
ハナは終始うれしそうににこにこしていて、つられてこっちまで笑顔になってしまうので、精神的にはとても癒されたひとときではあったのだけれど。
どうにか聞き出せた事といえば、彼女が「おねぇちゃん」と一緒に暮らしているらしい事、そしてその住居は海の見える高い場所?にあるらしい事、それから、右手と右足の包帯は怪我ではなく「あとを隠してるんだよー」という事(何の「あと」なのかは、「んんー、わかんないー」と笑っていたので、わからなかった)そして、大きいキクタとはずっと前から「なかよし」だった事、それくらいだった。
さすがに、こんな小さな女の子に「キクタの死」を知っているのかどうか、なんて、そんなひどい事は、僕には聞けなかった。
ハナが云うには「キクタはねー、ちっちゃくなって、いろんな事を忘れちゃったのかも、って、おねぇちゃん云ってたよー」との事だったので、そのお姉ちゃんなる人物が、キクタが仲良しのハナの前からいなくなった事を、彼女にはそんな風に説明しているのだろうと伺えた。
心の声で話ができるので、ハナ自身が能力者である事はほぼ間違いない。「キクタと仲良し」と自称する時点で、地下施設の関係者である事も明白、なのだけれど。
疑問なのは、やっぱり彼女の年齢だった。どう見ても5歳か6歳、小学校に上がる前の幼児としか見えない彼女が、8年前、僕が生まれた頃に亡くなったはずの先代キクタとどうして仲良しになれるのか。
子供のように見えるけれど、実は8年前にも同じ姿で先代キクタと会っていた、のだろうか。
そんな考えが浮かび、ひとつ、思い当たったのは、ヌガノマだった。
80年前から変わらない姿、長い眠りと短い覚醒を繰り返しているらしいというあいつは、ほとんど年を取っていないように見えた。
ヌガノマのように、ハナも何年も眠り続けていたのだとしたら、先代キクタと仲良しだったとしても、おかしくはない、のかもしれない。
ヌガノマで、もうひとつ、ハナとの共通点に気づいてしまい、僕は正直、少し嫌な気分になってしまった。
黒い肌、墨のような艶のない深い黒。
A-0の記憶で見たヌガノマの顔も、あの地下の下水道の、非常口の薄灯りの下で見たヌガノマの顔も、同じ色ではなかっただろうか。
長い眠りの周期で年を取らない(かもしれない)点と、異様に黒い肌の色。
ただの偶然かもしれないけれど、あのヌガノマと同じ、というのは何と云うか、あまり嬉しくはない相似点だった。
まだ出会ったばかりだというのに、純真無垢で素直なハナに、僕はどうやら、だいぶ参ってしまったのかもしれない。
午前中の授業が終わり、給食の時間になっても、ハナは僕の隣にぴったりくっついて離れなかった。
まだ小さいからだろうか、ハナは給食をあまり食べなかった。レーズンの入ったパンを二口ほどかじり、牛乳をちょっぴり飲んだだけ。
たぶんクラスの子たちには人気がありそうな主菜の酢豚にも副菜の揚げたシューマイにも、ハナは手をつけなかった。
嫌いなの?と聞いてみたら、「はなちゃん、おなかすいてないだけー」そう云ってまた「えへへー」と笑っていた。
給食が終わり、昼休みになって、クラスの子たちの姿がまばらになって少しホッとしていたところへ、
「キクタ、これは覚えてるー?なかよしのしるしー」
またハナが元気な声で僕に尋ねる。
午前の授業中、いくらみんなには認識されないとは云え、ハナがあまりに堂々とおしゃべりを続けるのがいたたまれなくなり、
「ハナ、声に出さなくても聞こえるんだよ」
そう教えてあげたら、ハナはオレンジの眼で僕をじっと見上げて、何かをハッと思い出したように
「あ、おねぇちゃん云ってたよー。おべんきょうの時はしずかにねって。あー、だからキクタ、声出さないの」
ぴこん、とJなら人差し指を上げるところだろうけれど、ハナは元気に右手を挙げる。白い包帯でぐるぐる巻きの痛々しく見える右手。何かの「あと」との事なので、たぶんもう痛くはないのだろうけれど。
「はなちゃんわかったよー、おべんきょう中は、声出さないのねー」
おどけるように眼をまんまるにして、心の声でハナは云ってたのだ、けれど。
昼休みなので、声を出してもいいと思ったのだろう。
それは、その通り。ハナは「おねぇちゃん」の云う事をきちんと理解してる。
見た目と喋り方はすごく幼いけれど、中身は意外と、しっかりしているのかも知れない。
長生きしている(?)だけの事はあるのかも。
いやおまえがそれ云う?と、Lが聞いたら笑うだろうけれど。
ハナの云う「これ」「なかよしのしるし」がわからず、僕が首をかしげると、
「これだよー、なかよしのメガネー」
かけていたサングラスを包帯ぐるぐる巻きの右手でパッと外して、つないでいた左手を離すと、両手でぐいっと広げて、僕の顔にかけようとしている。
なかよしのしるし?
なかよしのメガネ?
ハナを手伝って、サングラスをかけてみて、僕は思わず「あっ」と声を上げていた。
「泡」が見える。
廊下側の後ろの席、また恐竜の図鑑を広げて食い入るように眺めているワカちゃんの頭の上に、ふわふわと浮かぶ青い「泡」。
ぐるりと教室を見渡すと、数人のほかの子たちの頭の上にも、青や緑の「泡」があるのが見える。
このサングラスは、もしかしてあのゴーグルと同じ?
ハナはにっこり笑って、
「へへー、思い出した?キクタがはなちゃんにくれたんだよー。なかよしのしるしー」
サングラスを外したオレンジの眼で、僕を見上げている。
そのハナの頭の上の「泡」が眼に入った瞬間、僕は眼を疑った。
すーっと冷たい何かが走り抜け、僕の背筋は凍りつく。
黒い「泡」だった。
艶のない、透明度の低い、不吉な黒い「泡」
僕は、この黒い「泡」を見た事がある。
いや、見た事がある、どころか、きっと一生忘れられないだろう。
6月だった。台風が近づいて、臨時休校になったあの日、
Jとふたりで、家へ走って帰り、祖母の部屋の襖を開けて、そこで眠る祖母の頭の上に、あった。
ハナと同じ、黒い「泡」が。
祖母がただ眠っているだけなのか、それとももうすでに亡くなっているのか、わからなくて、声をかける事もできず、パニックに陥りかけた僕に、Jが能力の交換で、見せてくれた、黒い「泡」
泡がある、その意味は、祖母はまだ亡くなっていなくて眠っているだけ、という事。
けれど、黒い泡は「死」が近い、という事。
ハナがまだ何かを云っていたけれど、僕の耳にその言葉は届いていなかった。
そんな、まさか、この子は、ハナはもうすぐ「死」ぬの?
こんなに小さいのに。
まだ、転校してきたばかりなのに。
なかよしのキクタに、やっと会えたのに。
僕はハナの両手を取り、心の声で云う。
「ハナ、帰ろう」
ハナは、きょとんとした顔で僕を見上げて
「んー?今日おべんきょう、もうおわり?」
不思議そうに首をかしげている。
まだ終わりじゃないけど、もう帰らなくちゃ。
海の見えるハナのお家へ帰って、ハナのお姉さんに、知らせなくては。
ハナと両手をつないだまま、立ち上がりかけた僕の頭の中で、あの声が響いた。
ーー 慌てるな
ハナと同じ声、だけどハナじゃない。
夢のあの子だ。
え、でも何故?僕は今、眠ってもいないし夢も見てないのに。
ーー 思い立ったら即行動か。相変わらずじゃの
夢のあの子が云う。ため息まじりに、少しあきれたように。
そして、
ーー 安心せい、ハナは死なぬ。少なくとも今すぐにはな
いや、でも「泡」が・・・
云いかける僕を制するように、目の前で僕と手をつないだハナが口を開く。
「面倒じゃの。ハナ、しばし借りるぞ」
声に出して、ハナはそう云った。
ハナ?いや、これは、夢のあの子では。
「さっきからおぬしの云う、その「夢のあの子」とはなんじゃ。儂のことか?」
手をつないだハナが、僕をじっと見ている。
サングラスを外した眼が、きらりと光る。
それはハナのオレンジの眼ではなく、灰色の眼だった。
灰色がかったJの眼よりももっと色素の薄い、灰色の眼。
眼の色が変わると、喋り方が変わるの。
いや、喋り方、ではなくて、中の「意識」が変わるのか。
ハナではなく、夢のあの子に?
「ナナじゃ」
咎めるように、ハナが云う。
夢のあの子、ではなく、ナナ。
それが、あの子の名前。
「ああ、面倒じゃ」
はあ、と大きなため息を吐きながら、ナナは云う。
「おぬし、学校の後で、あの金髪どもと会うのであろ。その時にまとめて説明するとしよ」
本当にめんどくさそうに、ナナは云う。
今こうして喋るのさえも面倒だと云わんばかりだった。
あの金髪ども?
LとJの事だろうか。
確かに今日は月曜なので、放課後、公園でふたりに会うはずだけれど、
どうしてナナはそれを知ってるのだろう。
「どうして、とな?さてはおぬし、縮んで何もかも失くしたか」
やれやれ、という口調でナナはあきれ顔をしてみせる。
いや、顔はハナなのだけど。
さっきまでのにこにこ顔がまるで嘘のような、本当に別人のような、あきれ顔だった。
「まあよい。今はひとまず、ハナは死なぬ。それで収めよ」
何が「まあよい」なのか、僕には全然わからないのだけれど、ナナはめんどくさそうにそう云って
「ではの」
短く云うと、灰色の眼を閉じた。
ぱちっとすぐに眼を開けたハナは、さっきまでのきれいなオレンジの眼に戻っている。
えへへ、とハナは笑って、
「キクタ、またナナちゃんに怒られたねー」
うれしそうに云う。
怒られた、のだろうか。
それすらも、僕にはよくわかっていない。
それに、またって。
そんな日常的に、キクタはナナに怒られてたの、だろうか。
ナナは、ハナの中にいるの。
そう、僕はハナに尋ねる。
たぶん、そう、としか思えない。
一緒だった、変わり方が。たぶん、あの時の僕とガブリエルと。
「K、ボクと変わって」
そう云って、ガブリエルは僕と体の主導権を交換した。
「面倒じゃの。ハナ、しばし借りるぞ」
そう云って、ナナはハナから体の主導権を借りていた。
「そーだよー。キクタ、思い出したの」
うれしそうにハナは笑っているけれど、残念ながら、思い出したわけではなかった。
ではそれも、かつてのキクタは「知ってた」のだろうか。
きっと、そうなのだろう。
だから、ハナとは仲良しで、いつもナナに怒られていた。
ひとまず、ハナは、黒い「泡」だけれど、すぐに死ぬような事は、ない、らしい。
その理由は、(たぶん何度も話すのは面倒だから)放課後にJとLも揃った状態で、ナナが教えてくれる、らしい。
夢のあの子は、ナナ。
ナナは、ハナの中にいる。
という事は、ナナが王でハナはその次の王、という事になるのだろうか。
ヌガノマに誘拐され、救出されたガブリエルの意識を、ルリおばさんとおばあちゃんが僕の中へ避難させたのも、ナナとハナという前例があったから、それに倣って、という事だったのかもしれない。
「ス、スズキ君」
怯えて震えるような、男の子の声が僕を呼んでいた。
教室の廊下側、一番後ろの席に座って、恐竜の図鑑を眺めていたはずのワカちゃんが、困り果てた顔ですがるように僕を見ている。
これは、デジャヴュかな。
ワカちゃんの後方、教室の後ろのドアからぬっと顔をのぞかせている、茶髪の巨漢が眼に入って、思わず吹き出しそうになってしまった。
云わずもがな、アイだった。
可哀想なのは、ワカちゃんだ。
全校生徒から恐れられる6年生が、昼休みにまさか2年生の教室にぬっと現れて、「なあ、スズキキクタいるか」とか聞いたのに違いない。
すっかり怯えきって、図鑑を持つ手が僕から見てもわかるくらい、ぷるぷる震えている。
ハナと手をつないだまま、僕は立ち上がって、空いている方の手を大きく振った。
すぐに僕に気づいたアイは、ギョッとしたような顔でたじろいでいる。
なんでなの。
僕がハナと手をつないでいるから?と思ったけれど、違う、サングラスだ。
ハナのサングラスを、僕はかけたままだった。
アイの頭の上に、青い「泡」がふわふわ浮いている。
たぶん、おねぇちゃんの能力で、みんなの認識から消されているはずのハナのサングラスが、アイには見えるのだ。
僕の行方不明事件を、アイが覚えているのと、たぶん同じ理由で。
「アイ?」
ハナが不思議そうな顔で僕を見上げて聞く。
僕はハナにうなずいて、
大きいけど、怖くないよ
そう心の声で云って、席を立ち、ハナの手を引いてアイのいる教室のドアへ向かう。
あ、そうだ、とJの記憶を思い返して、
「ワカちゃん、ありがと」
怯えきってしまったワカちゃんに、にっこり笑って云った。
ワカちゃんは、僕を見て、何か云おうと口を開けたけれど、弱々しいため息をついて、そのまま下を向いてしまった。
「おまえ、眼どうした?悪いのか?」
心配性のお兄ちゃんは、心配そうに僕の顔をのぞき込んでいる。
「僕のじゃない、この子のだよ」
サングラスを外して、ハナの顔にかけてあげながら、そうアイに説明する。
「で、何?」
云ってしまってから、「あ」と思った。
で、なあに?
Jと一緒だった。
「ああ、いや、ちょっと、いいか」
アイは困った顔で廊下の向こうを指さすと、くるりと身を翻してすたすた廊下を歩いて行く。
僕がハナの手を引いて、廊下へ足を踏み出しながら、もう一度ちらっとワカちゃんを振り返ると、彼は恐竜図鑑に顔を埋めるようにして、我関せずといった空気を醸し出していた。
うん、まあ、正しい反応かもしれない。
正しい?いや、アイに関して云えば、ほんとは怖くないので正しくないけれど。未知の恐怖に対してという意味なら、ワカちゃんの判断はきっと正しい。
「アイ、アイ?」
僕に手を引かれながら、ハナは何かを思い出そうとするみたいにぶつぶつ小声で呟いていたけれど、
「あー!」
突然大きな声を上げ、包帯ぐるぐる巻きの右手を上げて、
「あいざっく・あいんしゅたいん?」
前を行くアイの大きな背中を指して、そう呼びかけた。
アイザック・アインシュタイン?
何そのすごい科学者みたいな、名前?
ぽかんとする僕の眼に映ったのは、アイの大きな肩がびくんと跳ねるように動いて、みるみる縮こまっていく姿だった。
本当に、後ろから見てもはっきりわかるくらい数センチ大きく跳ねて、猛獣にでも睨まれたみたいに、しゅんと肩がすぼまっている。
足を止めたアイが、おそるおそるこちらを振り返る。
その顔は、さっきのワカちゃんといい勝負ができるくらい、怯えてすくんでしまっていた。
「な、なんで、知ってんだ。お、おまえ、だ誰、なんだ」
大きなアイの半分にも満たないような、小さな女の子に、本気で怯えているアイが、僕にはまるで理解できなかった。
あいざっく・あいんしゅたいん?
ハナが云ったその言葉は、アイを委縮させる魔法の呪文か何かだったのだろうか。
「んー、じゅもんじゃないよー。名前だよー」
ハナは不思議そうに首をかしげて、僕を見る。
名前
アイザック・アインシュタイン
それって、万有引力の法則と相対性理論がごっちゃになってるのでは。
「お、おいっ!とにかく、こっち来い。ここじゃまずい」
はっと息を吸い込んで、アイは我に返ったかのようにそう云い捨てて、今度は大慌てで廊下の端へ小走りに駆け出した。
わけがわからない。
廊下のつき当たり、図工室の前まで走って行くアイの背中が、いつもより小さく見える。
ハナを見ると、彼女はまだ首をかしげたまま僕を見ていて、眼が合うとにっこり微笑んだ。
アイを追って歩き出しながら、考える。
なんで知ってんだ
そう、アイは云った。
今まで見たことがないくらい、怯えた顔で。
あの工事現場の塀の隙間をこじ開けて、ふたりで初めて中をのぞきこんだ時に、遠くに細長い人影を見つけたアイは、あの時も確かに怯えた顔をしていたけれど。
怪しい工事現場の謎の人影よりも、こんな小さな女の子に云われた一言の方が、怖いのだろうか。
しかもその言葉が、
アイザック・アインシュタイン?
意味がわからない。
僕らが追いつくと、振り向いたアイは、もう怯えた顔をしていなかった。
困ったような、怒ったような、仏頂面で、廊下の床をにらみつけて、「はあ」と大きなため息をつく。
そのまま、アイが何も云わないので、
「で、何?」
しかたなく、僕はもう一度尋ねる。
アイはゆっくりと眼を上げて、僕を見て、ちらっとハナを見て、またすぐに僕を見る。
なんでなの。ハナの何がそんなに怖いの。
「おまえ、その、なんで」
酸素の足りない金魚鉢の魚みたいに、口をぱくぱくさせて、アイはそれだけ云って、また黙り込む。
わけがわからない。
けれど、何だかアイがかわいそうに見えてきて、僕はため息まじりに説明する。
「この子は、うちのクラスの転校生。名前はハバナハナ。僕の隣の席で、僕の、えーと、古い知り合い?」
しまった、と思ったけれど、疑問形で終わらせてしまう。
Lはいつも、こんな気持ちで話していたのかな。
「なかよしだよー」
ハナが不満そうに、口をとがらせてそう指摘する。
「うん、なかよし」
うなずくと、満足げに「えへへー」と笑う。
「きょ、教会の、何か関係の、ある、子なのか?」
アイの質問は、何とも要領を得ない。
教会
Jの家、アイも幼い頃に住んでいた、ホタルが丘教会の事、なのだろうけれど。
ハナは、教会とは関係がない、はず。
4人の赤ちゃんとも特につながりは、
あ、ナナは少し関係があるのだろうか。
あの夢で、赤い地下道で、キクヒコさんとルリおばさんに救出された4人を見送った、という意味では。
少なくとも、あの当時、ナナはあの地下にいた、という事になるけれど。
「なんで?」
アイの質問の意図がわからないので、失礼を承知で僕も質問で返した。
何だか、以前にも同じような事があった気がする。
アイは時々、何と云うか少しズレているので、そうなりがちなのかもしれない。
「んああ」
妙な声を上げて、ぱしっと自分の額を叩くように手を当てると、アイは天井を見上げ、
「誰にも云うなよ」
上を向いたまま、ぼそりと云う。
「何を?」
わからないので、そう聞いた。
「名前だよ」
ぱん、と今度は両手で顔を覆って、そのままもごもごとアイは云う。
名前
つながった、かもしれない。
さっきの、ハナの言葉
「んー、じゅもんじゃないよー。名前だよー」
アイの名前?
「アイザック・アインシュタイン?」
僕が云うと、まるで魔法のように、アイの顔がカッと耳まで真っ赤になった。
「え、本名ってこと、アイの?じゃあ本当は、アイザック・アインシュタイン・アンドウなの?」
僕は真面目に聞いたのだけれど、
「云うなってー!」
悲鳴のようにアイは天に向かってそう叫び、廊下に膝をついて崩れ落ちた。
ええ?
それは何、アキレスのかかと的な何かなの。
触れただけで、巨人が大地に崩れ落ちるような。
ハナが眼をまんまるにして、驚いた顔でアイを見つめ、固まっている。
顔を覆っていた両手がだらりと下がると、ひどく疲れ切った表情でアイは床の一点を見つめていた。
「本名じゃねえ、元の名前だ」
ぼそりと、アイは云う。
「アンドウの家に引き取られる時に、親父が「アイ」に改名した。理由は、聞いてねえけど、聞かなくてもわかるだろ。小学校入学前だぞ。入学式で、ひとりずつ名前呼ばれて、手ぇ上げて元気に返事すんだろ。体育館で全校生徒と父兄の前で。名付けた親は、そんな日本の風習、知らねえで付けたんだろうけど。それに、小学校だけじゃねえ。中学、高校、大学、この先ずっとだぞ」
アイの本当の両親は、あの地下施設の軍の研究者か科学者かその関係者、なのだろうと思う。
偉大な科学者にあやかって、その名前を付けたのかもしれない。
特にヨーロッパ系、ドイツの方だったっけ、子供の幸福を祈って、ミドルネームをいくつも付けたりするって、何かで聞いた覚えがある。
でも日本の、地方都市の小学校で、アイザック・アインシュタイン・アンドウは、確かに少し、何と云うか、重すぎる、かもしれない。
あのアンドウ先生なら、アイの将来の事も考えて、養子にするそのタイミングで、改名を、と考えてそうしたのもわかるような気がする。
「じゃあ、本名はアンドウアイなんだ」
確かめるように僕が尋ねると、
「そうだ」
ふてくされた顔のまま、アイは答えた。
「アンドウアイだよ、ハナ」
きょとんとした顔でアイを見つめるハナに、僕はそう云った。
ハナは僕を見て、にっこり笑って
「アンドウアイ。はなちゃん、わかったよー」
元気にそう云った。
はあ、と大きなため息をついて、アイは廊下にぺたりと座り込む。
「ったく、おまえが眼覚ましたって聞いたから、様子を見に来ただけなのによ」
ちらっと恨みがましい眼で僕を見て、
「なんなんだよおまえ、俺に何か恨みでもあんのか。実はまだ怒ってるとかか」
ぶつぶつと愚痴り始めたので、何だかおかしくなってしまった。
「そんなわけないでしょ。感謝してるよ、お兄ちゃん」
わりと素直に、僕はそう云ったのだけれど。
「ほら、またそういう。ほんとかわいくねーよなあ」
まだぶつくさ云いながら、アイは、ぱんぱん、とお尻のほこりを払って、立ち上がる。
「で、どこで見つけてきた?そのびっくり娘」
ふてくされた顔で、ハナをじろりと見下ろしてアイは云う。
びっくり娘?
アイの日本語のセンスって、何と云うか、どうなんだろうと思う。
「びっくりむすめ?ちがうよー、はなちゃんだよー」
不満げに口をとがらせて、ハナはアイをにらんでる。
この子もなかなか、怖いもの知らずなのかもしれない。
「あー、ハナちゃんな。ごめんごめん」
ふふっと、アイの顔に笑みがこぼれる。
ハナの無邪気さは、ある意味、無敵なのかもと思った。
ふてくされたマッチョな6年生すら、思わず笑顔にしてしまうほどに。
アイだから、と適当にごまかすのも何だか悪い気がして、
「うーん、教会って云うより、4人の関係者、って云うか」
明かせる範囲で、アイにも本当の事を云うべきかなと、僕は思った。
「なんだそれ」
アイの眉間にしわが寄る。それは、まあそうだろう。
「まだよくわからない、鋭意調査中って感じかな。たぶんハナは、4人の赤ちゃんと関係のある子、だよ」
正直に、そう云った。
「なんだ、隕石の次は、俺たち4人のこと調べてんのか。あーまあ、眠り病の続きって考えたら、つながってはいるのか」
やっぱり、アイは察しがいい。
そう、つながってる。
「まあ、おまえも眠っちまったしなあ。関係者って事で云えば、実際おまえも、もう完全に巻き込まれてるんだよなあ」
困ったような顔で、アイは云う。
アイは、眠らない。能力を使わないから。
けれど、アイは覚えてる。認識が消されていない。
わからない、で云えば、アイもわからない。
「おまえがいなくなった事、みんなが忘れてるってのが、どうにも気持ちわりいけど。親父さんたちもやっぱり覚えてねえのか?」
アイにそう云われ、あらためて、ふと思った。
僕の行方不明事件が街中の認識から消されてるという事は、当然そこには、ルリおばさんの件も含まれている、という事なのだろう。
認識が消えてちょっぴり得をしたのは、僕だけではなく、ルリおばさんも、なのかもしれない。
「うん、「ミドノ原」といっしょだね。父も母も、全く覚えてないらしい」
そう答えながら、思う。
アイだって、もう十分に関係者だ。僕を助け、父と母を手伝い、ルリおばさんも助けてくれている。
だからやっぱり僕は、アイに適当な事を云ってごまかしたりはしたくない。
「まあでも、いい方に考えりゃ、学校で騒ぎにならなくて良かったけどなあ」
そう云って、アイは苦笑いを浮かべる。
「ミカエルもジーンも眼を覚ましてるし、おまえも、もうひとりで突っ走ったりしねえとは思うけど。何かあったら、遠慮なく云ってくれ。また手伝うぜ」
ようやくいつもの頼れるお兄ちゃんの顔になって、アイはニッと笑う。
「ありがとう。頼りにしてるよ」
思ったまま、そう云った。
クラスの子には何をどう云ったらいいのかわからないのに、アイには不思議と、思ったまま言葉がすらすらと出る。
この違いは何だろうと、僕は不思議に思った。
アイが特別、という事ではないと思うけれど。
JやL、ガブリエルとも、出会ってすぐに打ち解けていたような気がする。
アルカナのつながりも関係あるのだろうか。
そうだとしたら、やっぱりアイのアルカナも僕の「海」につながっているのかもしれない。
「おっと、昼休み終わっちまうな。じゃあまたな」
アイはそう云って、僕とハナに軽く右手を上げてみせ、いつものように堂々と廊下を歩いて行く。
さっきまで怯えていたのが嘘のような、いつもの肩で風を切る歩き方で。
「またね」
その背中に声をかけると、隣でハナも
「アイ、またねー」
大きな声で云って、右手をぶんぶん振っている。
アイは振り返りもせずに、右手を上げてぐいっと力こぶを作るいつものポーズを見せ、すたすたと廊下を歩いて行った。


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