daydream believer iv

屋根裏ネコのゆううつ II

上品な紺色のカーペットの敷かれた床から白い天井まで、奥の壁一面が窓になっているリビングには、西の空から午後の日差しがまっすぐに差し込んで、灯りを点けなくても十分に明るかった。
逆光になった手前のソファは黒い影の中に沈んでいたけれど、近づけば窓の明るさでそこに座る人物が表情までよく見える。
長い栗色の髪を頭の後ろでくるんとひとつにまとめてアップにした、童顔の大人の女性が、軽く握った右手をこめかみのあたりに当てて、頬杖をつくようにソファに斜めにもたれて眠っていた。
右手の甲から手首にかけて、白い包帯が巻かれているのが痛々しい。
眼を閉じて眠る顔の、その右眼には、白い医療用の眼帯を嵌めている。
だらりと力なく、お腹の上に乗せた左手にも、右手と同じ甲から手首までを覆う白い包帯。
化粧っけのない顔は、少しやつれて見えるけれど顔色は良さそうだった。
ゆったりとした着心地の良さそうな部屋着かパジャマは光沢のあるえんじ色で、斜めにソファに横たわる姿は、僕の記憶にある彼女のイメージよりもずっと小柄に見えた。
白いふわふわのスリッパを履いた足元の床に、見覚えのあるピンクの小さなバッグが転がっていた。
「あ、おねぇちゃん、だいじなかばんを落としてるよー。なかよしのしるしー」
ハナがピンクのバッグに気づいて床から両手で拾い上げ、ぴょこんとソファに飛び乗る。
小さな手で意外と器用にバッグの肩ひもを伸ばして、眠る彼女の左肩に「んしょ」と引っ掛けた。
なかよしのしるし
おねぇちゃんも、このカバンをキクタにもらったの、かな。
「そうだよー。キクタ、思い出したー?」
にっこり笑って、ハナが僕を見る。
ごめん、思い出せない、けれど。
それなら、このピンクのバッグも、何か特別なアイテム、なのかもしれない。
ズキンと脇腹の辺りに刺すような痛みを感じたのは、たぶん錯覚だろう。
あの時、ヌガノマに意識を奪われたルリおばさんに、体重をかけて膝で押さえつけられた僕の脇腹は、その後の病院での検査によると、特に骨にも異常はなかったとの事だった。
「やれやれじゃ、間が悪いにも程があるの」
舌打ちでもしそうな勢いで、大きなため息とともにナナが云う。
つまりナナは、僕らをルリおばさんに会わせたかったの。
尋ねたら、「否」とナナは首を横に振り、
「この跳ねっ返りに、おぬしらを会わせたかったのよ」
ふん、と鼻息を荒げている。
否?でもそれは、同じでは。
「対象が違うんだぜー。ルリおばさんが主なんだ、ナナちゃんの計画ではねー」
Lがそう解説してくれて、
「左様」
ナナもうなずいている。
つまりナナは、僕らを驚かすためにルリおばさんに会わせたのではなく、ルリおばさんを驚かすために僕らを連れて来た、という事。
けれど何ともタイミングが悪く、ルリおばさんは「あの眠り」に落ちてしまってた。
だから、ただ僕らが驚くだけ、という、ナナにはとても残念な結果になってしまった。
おかげで僕はびっくりしすぎて、思考が全然追いつかないくらいなのだけれど。
ハナの云う「おねぇちゃん」は、ルリおばさんだった。
キクタのおともだち
それは、確かにそうなのだろう。これまでの情報から推察するに、だけれど。
厳密には、ルリおばさんから直接、先代キクタの話を聞いたことがあるわけではなかったので。
それなら、ナナがさっき云ってた「余計な事を云ってハナをそそのかして」僕のクラスに転校するよう仕向けた「跳ねっ返り」は、ルリおばさん。
「左様じゃ」
ナナはため息まじりにうなずく。いや、そんなにがっかりしなくても。
「いやあ、驚いたけど、まあ順当と云うか、予想の範囲内じゃね」
Lがもういつものニヤニヤ笑いに戻って、僕に云う。
順当?、予想の範囲内?
いやいや、僕はまるで予想外だったけれど。Lは予想してたの、ルリおばさんを。
「うーん、登場人物てきに、消去法でなんとなく、おばさんくらいしかいないかなーとね。おじいちゃんの「お友達」で、「跳ねっ返り」ってヒントもあったしなー。あの地下の夢で、ナナちゃんに跳ねっ返ってたよね、おばさん」
またLのよくわからない登場人物理論なの。まあ、今回も当たってたのだけれど。
くすくすとLは笑って、
「あーでも、ルリおばさんが、こんな高級マンションに住んでる大富豪だとは、さすがにオレも思わなかったけどね?」
ぐるりとリビングを見渡して、肩をすくめている。
ソファセット以外、何の調度品も置かれていないシンプルさが、より広さを強調している気がする。
左右の壁にいくつか見えるドアや廊下の向こうには、まだ何が広がっているのかわかったものではないよね。
だって、ビルの1フロア全部、でしょ。
「ドアのむこうはー?えーとねー、おーっきなプールがあるよー。あとはー、ひろーいおんせんもー」
ハナがにこにこしながら僕を見上げて、とんでもない事を云い出したけれど、またまたそんな冗談でしょ、とは僕には云えなかった。
この巨大なビルの1フロア丸ごと、なのだから、大きなプールや広い温泉が部屋に付いてたとしても、少しも不思議ではない、のでは。
「へえーすげーなー、石油王か何かなの?おまえのおばさん」
半ばあきれたように、それでも楽しそうに笑ってLが僕に尋ねる。
石油王は冗談にしても、おばさんが大富豪だなんて、そんな話は、聞いた事がなかった。
僕の記憶にあるルリおばさんは、僕らが住んでいた市内の狭いアパートに、時折思い出したようにふらりとやって来て、おかしな宗教や胡散臭い健康グッズを熱心に勧めてくるだけのへんなおばさん、でしかなかったので。
ルリおばさん贔屓のガブリエルの推理では、それは彼女のお芝居で、あえて「へんな人」を演じていただけでは、との事だったけれど。
あの防空壕の先の地下道で、体を張って僕を助けてくれたルリおばさんには、僕もそれまでの見方を変えざるを得なかったし、あの時のおばさんには感謝しかない。だから、ガブリエルの云う事にも一理あるのかもしれないと、今は思ってる。
思い返せば、ルリおばさんはいつも身ぎれいな格好をしていたので、お金に困っている風には全然見えなかった。かと云って金ピカのアクセサリーやらブランド物の何やらをじゃらじゃら身につけたりしていたわけでもなく、つまりマンガやドラマに出てくるような、いわゆる成金の大金持ちみたいなイメージは全くこれっぽっちもカケラもなかった。
子供心に、何をしている人なのだろうとは思っていたような気もするけれど、あらためてそれを母や祖母に尋ねてみた事もなかった。ある意味、おばさんの話題は我が家ではタブーに近いものだったので。
ただ、それももしかすると、アルカナやあの地下の秘密を守るために、あるいは何も知らない母や僕がそれらに触れることのないように、祖母があえてそのように仕向けていたのかもしれないけれど。

じっと後ろの方から、ソファで眠るルリおばさんを見つめたまま黙りこくっていたJが、
「あの、K、ナナちゃん」
遠慮がちに口を開いて、「海」のテラスで僕とナナを交互に見る。
僕とナナ?何でだろう。
思わずナナを見ると、薄い灰色の眼と眼が合って、慌てて僕は眼をそらす。いや待って、僕は何をそんなに恐れてるの。もう条件反射的に逃げ腰になりつつある、のかな。
「近くで、ルリさんを見ても、いい?」
そんな不思議なお願いを、Jはぽつりと口にする。
近くで、ルリおばさんを見ても?
いいのでは。
別に僕には何の異論もないけれど。眠ってるのだし、減るものでもなし。
「・・・」
視線を感じて眼をあげると、案の定、またナナが僕を無言でにらんでいた。
何でなの。
ふん、と鼻を鳴らして、ナナはJの方を向き、
「構わぬ。穴の開く程眺めてやると良い、いっそ穴のふたつみっつ開けてやるが良いぞ」
にっこり微笑んで怖い事を云った。
Jがテラスでぺこりとお辞儀をして、体はソファの前に歩み寄り、両膝をついて、眠るルリおばさんの顔をじっとのぞき込む。
「おい、おぬし」
ナナがじろっと僕を見て、
「やはり痴呆か病気かの。直近の記憶すら失くしておるようでは、もはや末期やも」
低い声でつぶやくように云う。
直近の記憶?
今の、Jのお願いのこと、なのかな。
でも、Jがルリおばさんを見たがる理由なんて、僕にはさっぱり、思い当たらないけれど。
考えながら、Jの背中を見つめていたら、Lにがしっと肩を組まれた。
「確かに、今日のおまえ、なーんか調子悪いねー。ちっさな勘違いしたり、些細な事を間違えたりさー。まあそれがフツーの小学2年生なんだろーけど、全然おまえっぽくはないよねー」
Jのじゃまをしないように、なのだろう。僕の耳元で、小声で囁くようにLは云う。
それを隣で見ていたハナが、Lの真似をして反対側から僕の腕にがしっと両手で巻きついて、
「キクタ、ちょうしわるいのー?えーと、がんばれー?」
にっこり笑って、応援してくれた。
うん、それはすごく癒されるし、とてもうれしい、でも。
やっぱり、僕には、Jとルリおばさんのつながりは、全くこれっぽっちも見当がつかない。
正面からじっとルリおばさんを見つめていたJが、膝立ちのまま横に動いて、左から、その横顔を真剣なまなざしで見つめてる。
「やれやれじゃな。おぬし、いっそあの流木にでも座ってみたらどうじゃ」
可哀想な子を憐れむような眼で僕を見て、星の砂浜をあごで差しながら、ナナが云う。
いっそあの流木に座ってみたら
砂浜の?
ぴこん、と久々に何かがつながる音を聞いた気がした。いや、ほとんど、ナナのヒントのおかげなのだけれど。
もしかして、あの海で毎年見てたという浴衣のお姉さん、Jの憧れの?
「うん」
確信に満ちた声で、Jがうなずいて、
「やっぱりそうだった、あの浴衣のお姉さんだ」
僕を振り返って、にっこり微笑む。いつもの、魔法の笑顔で。
そんな偶然ってあるの。
Jの憧れのお姉さんが、まさかルリおばさんだったなんて。
「でも、どうして」
そう云って、Jは不思議そうにナナを見る。
確かに、ナナは何故、それを知ってたのだろう。
見ると、ナナは小さく肩をすくめるような仕草をして、
「おかっぱの事情までは儂も知らぬよ。じゃが、あの跳ねっ返りが、頻繁に教会の様子を見に行っておったのは話に聞いて知っておる。それにおぬしら、毎年夏になると、家族そろって教会の崖下の海岸で遊んでおったじゃろ。儂も何度かあやつに連れて行かれた事がある。暑うてかなわん故、儂は浜には下りずにそこらの木陰で涼んでおったがの。それにあの流木。ピンとくるじゃろ」
そう説明して、最後はお約束通り、責めるように僕をにらんでた。
それだけでピンとくるの。いやいや、さすがに勘が良すぎなのでは。
それもあの「年の功」とかいう不思議パワーによるものなのかな。
「さにあらん。アイザッ・・・いや、アイかジーンの、ふたりのうちどちらかは、顔を合わせれば気づくやも知れんと思うておったわ」
ふん、と鼻を鳴らしてナナは云う。
アイは、残念ながら気づかなかったみたいだけれど、あのマンホールの地下で、おばさんを救出した時に。
でも、それは仕方がないかもしれない。あの時のアイはいろいろ必死すぎて、とてもそれどころではなかった事だろうし。
「だいたいじゃ、毎年同じ海岸で、「偶然」に顔を合わせる「浴衣の女」じゃぞ。そんな奴おるかい。わざとらしいにも程があろ」
ナナは鼻息を荒げて、今度はルリおばさんを責め始める。
いやいや、そこは、わざとだとしても、だよ。
それで、Jの印象にばっちり残っていたのなら、ルリおばさんの目論見通りなのでは。
「じゃからよ。いかにも稚拙な、奥ゆかしさの欠片もない、跳ねっ返りの考えそうな事よ」
薄い灰色の眼をカッと見開いて、そのうち牙を剥いて口から火でも吹き出すんじゃないかと思えるような怖い顔をして、ナナは云う。
何と云うか、犬猿の仲てきな何かなのかな。
そんなルリおばさんをびっくり仰天させてやろうと、僕らを連れてわくわくしながら帰って来てみたら、本人は知らん顔ですやすや眠ってしまってたので、ナナは余計に腹の虫がおさまらないのかもしれない。
「会いに、来てくれてたんだね。わたしたちの、様子を見に」
Jはソファの前に膝をついたまま、そう云って、憧れのルリおばさんをじっと見つめている。
考えてみれば、そうなのかもしれない。
4人はずっと、密かに遠くから見守られてた。
だからこそ、ガブリエルは、誘拐からわずか数時間ほどで無事に救出された。
ちょっとだけ、想定外の事が起きて、その後8年ほど眠り続けていたけれど。
「それよ」
キラリ、とナナの眼が光る。
Lが「あちゃー」という顔で僕を見てる。
もしかして、僕、また失言だった?火に油、というやつだろうか。
またルリおばさんと、その件で云えば、うちのおばあちゃんまで?ナナに怒られてしまう、のかも。
くわっと口を大きく開いて、今にも何かわめき出しそうにしていたけれど、
「ふん、まあ良い」
はあ、と大きなため息をついて、ナナは火を吹くことなく口を閉ざした。
思わずほっと、僕とLは同時に安堵の息をつく。
「跳ねっ返りが仰天して腰を抜かし、無様にソファから転げ落ちるのを、指差して笑い飛ばしてやる事ができず、残念至極じゃが」
大真面目な顔で、腕組みしながらナナが云う。
そんなこと考えてたの。何というか、おとな気ない、というか。
と思っていたら、ナナは続けて、
「おかっぱのJの念願が叶って、「浴衣のお姉さん」に再会できた事は、幸甚じゃったの。今日のところは、それで由としよ」
そう云って、Jににっこりと笑いかけた。
「はい」
Jは笑顔でうなずいて、
「ナナちゃん、ありがとう」
ぺこりと、ナナに丁寧なお辞儀をする。
「なんの、礼には及ばぬよ」
ふふっとナナは笑って、
「ハナよ、おぬしもそろそろ、眠たいのじゃろ」
そう、ハナに声をかけた。
そろそろ、眠たい?
2年ほど眠っていて、目覚めたばかりという話だったのでは。
そっちの「眠り」ではなくて、かな。
まだ、日も沈んでいないけれど。
西向きの大きな窓に、だいぶ日は西に傾いていたけれど、夕方にもまだ少し早いくらい、15時すぎか16時前くらいじゃないのかな。
「ハナちゃんは、たくさん寝ないといけないの。まだ小さいから、とかじゃなくて、体質的に?」
Lがナナに尋ねると、
「左様」
短くナナは答えて、
「1日のうち、12時間は睡眠が必要じゃな。無論、あの「眠りの時期」はまた別で、じゃ」
そう、補足してくれた。
僕の腕にしがみついていたハナが、
「ふぬー」
何かに抗うように唸って、僕の手をぎゅっと握る。
「ねむくないー。はなちゃん、まだ、ねむく、ないよー」
そう云いながらも、まぶたはするすると下りて来て、オレンジの眼がとろんと半分くらい閉じかけている。
ルリおばさんが斜めに横たわっているソファは大きくて、まだ左右に大人が2〜3人は座れそうなくらい長い。
Lが組んでいた肩を外してくれて、うん、と無言で僕にうなずきかける。
「あー、今日はいっぱい歩いて疲れたなー。ハナちゃん、K、Jも、みんなでおねえちゃんの横に座らせてもらおーぜー」
そう云ってLは、ソファにふわりと座る。揺らさないように、という気遣いだろう。まあ多少揺れたところで、「あの眠り」に落ちているルリおばさんが目を覚ますことはないのだろうけれど。
「ふぅぬぅー」
口もはっきりしなくなってるようで、何やらもごもご云いながら、ハナがLの隣にぴょこんと座る。
ハナに両手で腕を掴まれたままなので、僕もその隣、ハナを挟んでLの反対側に座った。
「え、いいのかな」
Jは困ったような顔で、ソファを見て、眠るルリおばさんを見て、僕を見る。
空いてる場所は、僕とルリおばさんの間、それか、ルリおばさんの反対側、つまり、どちらもルリおばさんの隣なのだけれど。
「いいんじゃね。「おねえちゃん、ただいまー」って云っとけば?」
Lがソファから、戸惑うJを見上げて、ニヤリと笑う。
「それは、何か、違うよ、ね」
何故かポッと頬を赤らめて、Jはそう云って、俯いたまま、そっと僕とルリおばさんの間に座る。
「キクタ、でんしゃブランコー」
突然、ハナがはっきりとそう云ったので、驚いて見ると、僕の腕にもたれかかって、眼を閉じて、
寝てる。
寝言だったらしい。今日は学校へ行って、たくさん歩いて、ハナも疲れたのかな。
Lが向こう側で、身悶えするように体を捩って、口をパクパクさせていると思ったら、
「あー!ハナチャンカワイイネーカワイイネー!」
オレンジの海で叫ぶので、びっくりした。
体の方で叫ばなかったのは、さすが、気配りのできるお嬢様だけれど。
「そーいうのいらねーから」
しっかり僕に突っ込んでから、Lはふにゃっと顔をゆるめて、
「いやあ、ハナちゃん可愛すぎてたまらんよねー。ここ広いしさー、今日からオレも住んでいいかなー?ひとりくらい全然余裕だよねー」
ここって、もちろん僕のオレンジの海、ではなくて、ルリおばさんの部屋?確かにみんなで住めるくらい、広いけれど。
「あ、Lずるい。じゃあ、わたし、も?」
まさかのJまでそんな事を云い出して、僕は唖然とする。
「なんて、もちろん冗談」
ふふふ、とJは魔法の声で笑う。いつもよりとびきり魔力の高そうな、魔法の声で。
ふむ、とナナが腕組みをして、
「あるいは、初めから其のつもりで、跳ねっ返りはこの部屋を用意したのやもしれぬな」
冗談ではなさそうなトーンで、ひとりごとのように云った。
初めからそのつもりで、ルリおばさんはこの部屋を用意した?33
どういう事だろう。
そのつもりって、どのつもり、だろう。
「正しいかは知らぬぞ。金髪とおかっぱが「ここに住む」と云うのを聞いて、儂が勝手に、ふと思っただけの事よ。あの跳ねっ返りが、こんな大層な部屋にひとりで住んでおるのは、おぬしらに、安全な住処を提供する「つもり」だったのやもしれぬ、とな」
そう云いながら、まだ何か思いを巡らせているのだろうか、ナナは腕組みを解かなかった。
薄い灰色の眼は、星の砂浜の先、あの流木とJが立ててくれたトーテムポールの辺りを、見るともなく眺めている。
ナナの云う、おぬしらは、4人の赤ちゃんの事なのだろう。
ルリおばさんとキクヒコさん、ふたりがあの地下の火災から救い出し、教会へと託した4人の子供たち。
その後もルリおばさんは、頻繁に教会の様子を見に行っていたと云うし。
「でも、わたしたち、それぞれ、お家あるけど」
Jが遠慮がちにそう云うと、ナナはJを見て、ふっと頬をゆるめる。
「勿論じゃ。それは儂も、あの跳ねっ返りも、当然承知しておるよ」
ふふっと笑って、
「わかった上で、用意した。それはつまり、万一の保険じゃ。あのトーテムと同じよ」
やさしい声音で、ナナはそう云った。
「うーん?」
ハナのかわいい寝言にめろめろになって、コテージの椅子にそっくり返ってもたれていたLが、何やら疑問形で云って復活する。
がばっと身を起こすと、僕を見た。
「何か、おかしいねー。おかしい?いやあ、おかしかねーけど。不穏?うん、不穏だねー」
僕の顔を見ながら、Lひとりで自分自身と会話して、結論が出たらしい。
不穏
ナナがふと思ったという、ルリおばさんがこの部屋に住む理由。
4人に安全な住処を提供するため
けれど4人の子供たちには、今やそれぞれ家があり家族がいる。
それは、ナナもルリおばさんも承知している。
わかった上で用意した、万一の保険
そう、ナナは云った。
そして、Lはそこに、不穏なものを感じた。
「さもありなん。そも保険とは、不穏なものじゃろ。保険が役に立つ状況、保険を使わざるを得ぬ場面、いずれも穏やかではあり得まい」
当然じゃ、という顔でナナは云う。
云ってる事は、正しい。少しもおかしくない。
おかしくはないけれど、穏やかではない、不穏な気配がする。
Lの云うことが、なんとなく、僕にもわかる、気がする。
見え方の違い、かな。
ナナには、何かが見えている。訪れるかもしれない危機とか危険。
万一の保険が役に立つ、それを使わざるを得ない、そんな何かが。
僕らには、それが見えない。見えないから、不穏な気配だけを感じる。
そういう事だろうか。
「さにあらず」
ナナは短く、僕に云う。そして、
「未来に何が起きるかなぞ、見える者はおらぬじゃろ。アルカナと云えど、そんな「力」は聞いたことがないの」
淡々と、一言ずつ云い聞かせるように、云った、けれど。
未来は、確かにそうかも知れない。ナナの云う通り、誰にもわからないし見えないものだ。
それなら、過去は。
僕らの知らない、僕らには見えない、過去を、ナナは見ているのでは。
ナナの灰色の眼が、ふわりと漂うように動いて、僕を見る。
そしてわずかに眼を細めて、
「おぬし」
あの凄みのある笑みを、ナナはその小さな黒い顔に浮かべる。
「何も彼も失くしはしたが、揚げ足取りの特技だけは、覚えておったらしいの」
くつくつと喉を鳴らすように、ナナは笑う。心なしか、うれしそうに。
揚げ足取り?
未来に何が起きるかなぞ、見える者はおらぬ
そう云ったナナに、
それなら、過去は
と僕は問うた。
ナナが見ている何か、僕らには見えないそれが、未来ではないのなら、それは、過去なのでは。
そう思った。
それが、揚げ足取り、僕の特技の?
何を云われたのかわからず、あっけにとられる僕に、
「おじいちゃんの、かな」
Jがそう、助け舟を出してくれて、
「左様」
ナナが、ニヤリと迫力のある笑みで応える。
「ああ云えばこう云う、口の減らぬ爺いよ」
憎まれ口を叩きながら、やっぱりナナは、どこかうれしそうに見える。
ナナは、キクタが嫌いなの、嫌いじゃないの。
縮んだの失くしたのとしきりにけなしたり、そうかと思えばうれしそうだったり、よくわからない。
「それ、アイの云う「裏返し」と一緒かも?」
くすくす笑いながら、Jが小声で僕に囁く。
アイの「裏返し」って
仲間だとか何だとか面と向かって云うのが照れくさくて、Jをかまったり暴言を吐いたりしてたあれ?
あの時も、僕はわけがわからなくて、アイにムキになって食ってかかってた。
なんで裏返す必要があるの。あんた、反抗期なの。
確かそんな事も云った。
ナナも裏返しなの。反抗期、ではないのだろうけれど。
でも、じゃあどこが裏でどっちが表なの。
「捨て置け、おかっぱ。此奴は賢いが、己の事となると途端に鈍物となるのよ」
ふふん、とナナが鼻で笑うと、何故かLもぽんと膝を打って
「なるほどなー、それすげー納得だわ。鈍物ねー」
しきりにうなずいて、
「いやあ、でも「鈍物」ってすげーパワーワードだなー」
はっはっはーと、オレンジの海のコテージで高らかに笑う。
もしかして、僕はすごく、けなされてるの?
ここは、怒った方がいいのだろうか。でも理由もよくわからないのに怒る事もできないし。
「うん」
Jがうなずいて、灰色がかったきれいな眼で僕を見て、
「ここは、そうだね、「ふふふ」かなあ」
そう云って、「ふふふ」と笑う。魔法の声で。
「ふふふ」
全然意味がわからないけれど、Jに云われるまま、笑ってみた。
不思議なことに、モヤモヤしていた思いがすっと嘘のように消える。
「ふむ」
あの笑みを消して、ナナは僕を見て何やらうなずいた、けれど、それ以上は何も云わなかった。
「じゃあ」
コテージのテーブルに身を乗り出すようにして、Lが口を開く。
「さっきの「過去」は正解ってことだよねー。ハナちゃんも寝ちゃったし、続きを聞かせてもらえるのかなー」
Lは楽しそうにニヤニヤ笑って、ナナを見る。
「過去」は正解
それなら、ナナにはやっぱり何か思い当たるものがあったの。
Lが感じた不穏さには、過去の何かが関係してる?
「続きを、な」
ナナは、ふんと鼻を鳴らして、
「ハナの火傷の話をした時に、おぬしらにも関わりがある故と云うたじゃろ。金髪の云う「続きは」その話の続きを、じゃろ」
ちらりとLを見る。にらんでいるけれど、眼の奥は笑っているように見えた。
「過去」はそこにつながるの。ハナの火傷の話。
つまり、地下の火事の話?
それは、僕には思い至らなかった。さすがLだ。
「いやあ、おまえが「過去」って云ったから、ぴんと来ただけだぜー。だから、さすがKだ」
ふっふー、といつものようにLは陽気に笑う。
ナナの薄い灰色の眼が、ふわりと漂うように動いて、オレンジの海を見る。
なんとなくその視線の先を追ってから、僕は、あらためて、広いルリおばさんのリビングのソファに、並んで座る僕らを見る。
アイとガブリエルはいないけれど、それにキクヒコさんもそこにいないけれど。
12年前、あの地下からルリおばさんとキクヒコさんが救い出してくれた、4人の赤ちゃんは無事に生き延びて、今日も元気に生きている。
僕の手を握ったまま、すやすやと穏やかな寝息を立てるハナも、こうして元気に生きている。
「ただ、生きていてほしい、それだけでいい、他はすべて大したことじゃない」
そんな言葉が、ふと脳裏を過ぎる。
誰かの、たぶん、子供たちの、無事を願う、ただそれだけの、祈りの言葉。
「おぬし、それを覚えておるのか。いや、まさかの。誰ぞに聞いたか」
ナナが驚いた顔で僕を見て、すぐにふっと眼を伏せ、諦めたような苦笑を浮かべる。
残念ながら、その通り、どこかで聞いたような気はしてたけれど、覚えていたわけじゃなかった。
それは、キクヒコさんがガブリエルに云った言葉だ。
そして、キクタの言葉だと、Nが教えてくれた。
ふん、とナナは鼻を鳴らして、
「なるほど、あの小僧か。Nというのは何奴じゃ」
そう尋ねる。
小僧って、キクヒコさんの事、だろうか。
Nは、と、僕が説明しようとすると
「黒いカワイイネコチャンだよー」
Lがでれっと顔をゆるめて云う。想像だけでその顔になるの、すごいな。
ああ、と納得のいった顔でナナはうなずき、
「ノワールか、奴も息災か。クロウは、先程公園に来ておったの」
さらりと、そう云った。
Jが驚いた顔で、ナナを見て、
「ナナちゃんは、Nちゃんとクロちゃんを知ってるの」
そう尋ねる。
ナナは不思議そうに眉を寄せたけれど、すぐに得心したように表情をゆるめる。
「知っておるぞ、古い馴染みじゃ」
そう云って、ナナはまたあの笑みを浮かべた。
人の言葉を介するNとクロちゃんは、やっぱりただの野良ネコ、野良カラスではないのだろうか。
何か特別な訓練を受けているとか、アルカナの避難場所として、卓越した何かを持っているとか。
なんとなく、ふとそんな疑問が浮かんだけれど、ナナはそれ以上、何も云わなかった。
テーブルの上のグラスを取り、ナナはまた少しだけ水を飲む。
「続きは」
静かにグラスをテーブルに置くと、ゆっくりと口を開く。
「あの火災と、反乱じゃ」
いきなり、そんなおだやかではない事をナナは云う。
反乱?
軍の研究者が、だろうか。でも、誰に?何に対する反乱?
いや、違う。火事の時点では、大地震の影響で、軍や研究者はすでに撤退していたのでは。
うむ、とナナはうなずいて、
「未曾有の大地震が起こり、軍と研究者には本国へ即時撤退するよう命令が出された。じゃが、それに従わぬ奴らがおったのよ。一部の研究者の一派がの」
淡々と、そう語り出す。
「儂らは軍人ではないからの。同じ地下に住んではおったが、特に軍が絡む話となると、常に蚊帳の外じゃった。それはまあ良い。面倒ごとに巻き込まれず済むに越した事はないからの。じゃから、正式に撤退が決まり、親しくしておった幾人かの研究者とは挨拶を交わしたものの、誰々がいつ帰国したなんぞは一切わからぬのよ。あの大地震の影響で、地下施設のみならず、この国全体の様々な施設から、海路、空路、軍の総力を上げてあらゆる手段で、なりふり構わぬ逃げっぷりじゃったからの」
ふと、ナナは何者なのだろう、と思った。
軍の関係者ではないのなら、キクタやうちの祖母と同じように、隕石落下の際に、アルカナが中に入った赤ちゃん、だったのだろうか。
ナナは素知らぬ顔で、話を続ける。
「当時あの地下施設におったのは、総勢200名近くの人間じゃ。顔と名前がわかる者はせいぜい半数程で、中には名は聞いても顔を見た事がない者や、顔を見ても名がわからぬ者なども大勢おった。そんな中、撤退を良しとせぬ幾人かの輩が、混乱に乗じて姿を消し隠れ潜んでおったらしい。おぬしらは見ておらんのじゃろうが、あのアルカナのホールの先には、北には広大な居住区が、西には巨大な研究所があった。数人ばかりの人間が隠れ潜むには十分なほど広く入り組んでおり、そんな者共がおったとて、残された儂らには気づくはずもない。儂らは、全員が撤退したものと思い込んでおったからの」
広大な居住区、巨大な研究所
きらり、とLの青い眼が輝くのを、僕は見逃さなかった。
Lの予想は、概ね正しかったという事。
ナナは構わず、話を続ける。
「火災の具体的な原因については、不明じゃ。地震による何らかの機器の破損やトラブルが最も疑わしいが、その隠れ潜んでおった輩共が、何かをしでかしたのかも知れん。まさか自ら火を放つとは思えぬが、そうではないとも云い切れぬ。何故なら、防火設備が一切作動しなかったのじゃ」
あのロリポリのホールを含む、70年もの長きに渡り拡張が続けられた地下施設、居住区と研究所。
地下であればこそ、当然防火設備は万全なものが用意されていたのだろう。
それが、作動しなかった、と云うのは・・・。
それも地震の影響で故障してたとか、あるいは、まさか、何者かによって故意に壊されていた、とか?
ふむ、と否定とも肯定ともつかない小さな吐息でナナは答える。
「火は、居住区から出た。住人のほとんどが既に本国へ撤退し、ほぼ無人となっておった居住区じゃ。仮に地震による機器の破損や何かが原因で火が出たとて、通常であれば消火装置が作動し、すぐに消し止められるはずのものじゃ。じゃが装置は作動せず、延焼を防ぐための防火壁も一切閉じる事はなかった。逃げ場のない地下で、火はみるみる勢いを増して燃え広がったよ」
その時を思い出したのだろうか。
ナナの顔に暗い影が差す。
苦いものを吐き出すように、淡々とナナは言葉を続ける。
「ハナは、居住区におった。儂らの暮らした家に、ひとりでの。駆けつけた時、見慣れた家はすでに炎に包まれておった。儂は無我夢中で燃える家に飛び込み、床に倒れていたハナを見つけて抱き上げ、すぐにそこから飛び出した。火の手を避けて走りに走り、どこをどう走ったのかまるで覚えておらぬが、あの地下道で足を止めた。その時ハナは、もはや虫の息であったよ」
そこで、同じように逃げて来たルリおばさんたちと出会った、のだろう。
ナナはうなずいて、
「おぬしら4人は、研究所にいたらしい。丁度何かの検診か、検査でもしておったのであろ。4人が揃って同じ場所におり、その場に小僧と跳ねっ返りもおったのは、まことに幸運であったの。研究所にも火は回っていたようじゃが、おぬしらは火に巻かれる事なく、無事に逃げ遂せたというわけじゃ」
そう云って、言葉を切った。
少しの沈黙の後、Lが小さく右手を上げて、
「素朴な疑問なんだけどさ」
いつもの陽気なトーンは抑え、まじめな声で、ナナに尋ねる。
ナナがうなずいて続きを促すと、
「4人はキクヒコとルリおばさんと一緒にいて、他には誰もいなかったの。つまり、親とかね」
Lがいつになく淡々とした声色で、さらっと重い事を口にするので、どきっとした。
他には誰もいなかったの。つまり、親とかね
気にならないとか、特に興味がないような事を、以前にもLは云ってたけれど、そんなはずがないことくらいは、僕にもわかっていた。
どうして、4人の赤ちゃんしかいないのか。親はどこへ行ったのか。
気にならないはずがない。
「うーん?」
そう云って、Lは首をかしげて、僕を見る。
「おまえの云うニュアンスとも、ちょーっと違うんだけどね。気にはなるけど、それは、単純な好奇心って云うかさ、だって不思議じゃん」
単純な好奇心
強がりでもないだろうし、Lはそんな事で虚勢を張るような子ではないので、きっと本当にそうなのだろうけれど。
「うん」
Jもうなずいて、
「わたしも、Lと一緒かな。単純に、不思議。だから知りたい」
そう云って、ナナを見る。
ナナはふたりを見比べて、小さくひとつうなずいて、
「何も隠し立てするような事情でもないしの。さっき云うた、撤退に際して挨拶を交わした研究者というのが、おぬしらの親達よ。軍の命令ゆえ、何やら諸々の手続きのために一旦は帰国するが、すぐに戻るつもりだと話しておったよ。戻ってから状況を見て、この国に残るか赤子を連れて本国に帰るか、その時に決める、とな。いずれにしろ、一時的に赤子を預けて大人たちだけで帰国したのじゃ。何せ、彼らと此奴、それに小僧と跳ねっ返りは、家族ぐるみの付き合いじゃったからの」
此奴、と僕をあごで指して、ナナは云う。
LやJの両親と、キクタとルリおばさん達は、家族ぐるみの付き合いだったの。
云われてみれば、いや云われるまでもなく、それはそうなのかもしれない。
だからこそ、キクタとつながりのあるアルカナが、彼らの赤ちゃん達の中に入ったのかも。
「大事な赤子を預けて一時帰国ができるくらいには、彼らから信頼されておった、という事よの。此奴も、小僧も、跳ねっ返りもな。そして必ず戻ってくるつもりだったのであろ。そう時間をあけず、すぐにでも、の」
時間をあけず、すぐにでも、必ず戻ってくるつもりだった
なのに、それが、できなくなったのは
「彼奴らの反乱の所為よ」
短く、ナナは云った。
反乱
撤退の命令に従わず、姿を消し隠れ潜んだ者たち。
彼らのせいで、戻って来られなかった?
それが、できなくなった?
まさか、
「認識」を消したのは、そいつら?
「思い出した、わけではあるまい。勘の良さは変わらぬか」
ふん、とナナは苦い笑みを浮かべる。
「そう、彼奴らの仕業じゃ、おそらくの」
苦さを吐き捨てるように、ナナは云った。
なんてこと
そう、思った。
あの地下施設の、ロリポリの、アルカナの「認識」を消したのは、守るためだと思ってた。
撤退によって、軍の保護を失った、地下を守るためだと。
けれど
「あー、予想外だったなー」
Lの声からも、いつもの陽気さが消えている。
「じゃあ、帰国した、わたしたちの、両親は」
そう云って、Jは息を飲む。
認識を消された。忘れさせられてしまったんだ。
すぐに戻るつもりだったのに。
大事な子供たちを、生まれたばかりの幼い子を、軍の撤退時の混乱から遠ざけ、信頼のおける人たちに託し、安全な場所に預けて、すぐに戻って来るはずだったのに。
その思いを、記憶を、失くしてしまった。
「認識が消されたのがいつなのか、正確なところは、儂らにはわからぬ」
淡々と、ナナは語る。
「撤退が決まり、実施された、その直後だったのか。あるいは火災が起きたその時だったのか、その後だったのか。儂らに、あの「力」は効かぬからの。気づいたのは、しばらく経ってからの事よ」
云われてみれば、そうだ。
認識が消えた事に気づくのは、認識を消された人を見た時に他ならない。
撤退直後に消されていたとしても、周囲に一般人のいない地下にいたナナ達には、それを知るすべはない。
ナナが僕を見て、小さなあごで僕を指して云う。
「火災が起きた時、此奴は地下を離れておった。軍撤退後の、後ろ盾を失くした地下を守るための伝手を求めて、あちこち動き回っておったらしい。異常に気付いたのも此奴じゃった。小僧と跳ねっ返りから火事の知らせを受け、予定を切り上げて早々に引き上げて来た此奴が、地下に戻るなり云ったのじゃ。「消された」と。市内におった此奴の古い友人や協力者たちに連絡が取れなくなったと。電話は通じるが、話が通じない。「おまえは誰だ」「どちらにおかけですか」と云われる始末だ、と。慌てて、アメリカへ連絡したらしい。おぬしらの両親に。じゃが、結果は市内の連中と同じ。酷い話よ」
酷い
撤退の命令に従わず、隠れた科学者やアルカナたちが、認識を消した目的は、明らかだ。
命令に背いた事に関して、軍の追及を逃れるため。
自分たちの存在を隠すため。
そのために、アルカナとロリポリ、そして地下施設に関する全ての認識を消した。
キクタが友人や知人から忘れられたのは、そのせい。そしてそれは、キクタだけではなく、地下にいた他のすべてのアニーも。当然、4人の赤ちゃんも。
奴らはただ、軍を離れ、身を隠してでも、ひたすら研究を続けたいだけ、だったのかもしれない。
けれど、そのために奴らが使った「力」は、暴力だ。
意図してそうしたわけではないとしても、彼らの計画とは何ら関係のない、親子の絆を消し、友人関係を消した。
そんなつもりではなかったとしても、狙ってそうしたわけではないからと云っても、それは、紛れもなく暴力だ。許しがたい力だ。
「して、何とする」
ナナは云う。
「おぬしはどうしたいのじゃ」
ナナの薄い灰色の眼が、じっと僕を見つめている。
僕は、どうする。
どうしたいのだろう。
彼らを裁きたいわけではなかった。仕返しをしたいとか、恨み言を云ってやりたいわけでもない。
そんな事には何の意味もない。
もっと、他にすべき事、したい事。
消えた認識を、戻す方法は、ないのだろうか。
元に戻すのが無理なら、上書きする事は、できないのだろうか。
「ふむ」
じっと僕を見ていた眼を、ナナはふっとそらして、
「縮んでも本質は変わらぬか。あの時のおぬしも、同じ事を云うておった」
そう云って、少し口を歪める。無理して笑うみたいに。
「ならば、その答えもわかっておろ。消えた認識は戻らぬし、上書きもできぬ。あれは、消す事しかできぬのよ」
わかってる。それでも、何か、できないのかな、そう考えずにはいられなかった。
教えてあげることは?無事を知らせることは?
あなた達の子供は、今も元気に生きていると。
でも、
脳裏を過るのは、あの時の父の姿だった。
隕石落下の新聞記事のコピーを手に、何度も何度も「ミドノ原?」とその記憶を辿ろうとして、消される。消された事にも気づかずに、また記事が眼に入るたびに、繰り返す。
知らせるすべは、ない。失くした認識を、再び認識させることは、できない。
僕は、それを知ってる。
ナナが、薄い灰色の眼で、僕をじっと見ている。
たぶん、僕の中の「キクタ」を、まっすぐに真剣なまなざしで見つめている。
「受け入れよ、とは云わぬ。諦めよ、ともな。抗う事を選び、荊の道を往くと決めたのは、他ならぬ、おぬしじゃ。ならば儂は、其れを見届けるのみよ」
そんな事を、淡々とナナは云った。
その声は、僕の心の中で聞こえた。
オレンジの海、ではなく、そのテラスに座る、僕の意識の中だけに響いた。
荊の道
あの時も、ナナは、そう云った。地下道を走り去るキクヒコさんとルリおばさんを見送りながら。
ふん、と心に響くナナの声は笑う。
「深い意味はない。小僧も跳ねっ返りも、おぬしにそっくりじゃと思うたまでよ」
荊の道
キクタは、何を選んだのだろう。何に抗い、どこへ向かうと決めたのだろう。
今の僕には、それはわからない。
「云うたであろ。縮もうが失くそうが、おぬしの本質は変わらぬ。どこへ向かおうが、それがおぬしの選んだ道じゃ」
ふふ、とおかしくもなさそうにナナは短く笑って、
「いずれにせよ」
と声に出して云う。
「時間が経ち過ぎた、今となっては、の」
諦めと悔しさの入り混じったような、そんな云い方でぽつりと云う。
「小僧と跳ねっ返りがおぬしらを教会へ預けたのも、おそらくは一時的な避難のつもりだったのじゃろ。しかし状況が変わった。認識が消され、軍からも此奴の協力者からも、援助は見込めぬ。帰国した赤子の両親たちが、戻って来る事もない。長年暮らした住処は燃え落ち、何もかも失った上でじゃ。当時の此奴らとて、何もしなかったわけではない。じゃが、できる事は限られておった。此奴ら自身も、被災者だったのじゃからな。持たざる者にできる事はそう多くはない。結果的に、おぬしらを教会へ託しておったのは、正解だったのやも知れぬな」
そう云ってそのまま、ナナはまたオレンジの海を眺めて、黙り込む。
4人の赤ちゃんが、12年前の冬の日に教会に置き去りにされた。
初めてその話を聞いた時、いったい何故と思った。何が起きて、どんな事情で、そんな事になってしまったのだろう、と。4人の赤ちゃんの身元も、それぞれの両親のその手掛かりさえ掴めない、そんな事があり得るのだろうか、と。
4人がいたのは、元々、秘密の地下施設だった、その上さらに、関係者からその認識が消された。
何もわからないのも当然だ、隠されていた上に消されていたのだから。
オレンジの海は、静寂に包まれている。
微かに吹く風の音、やさしく打ち寄せる波音が遠慮がちに遠く響いている。
それらをかき消すように、Lが口を開く。ぱちんと指を鳴らして、
「つながったぜー。それで、保険ってことか。突然、理由もなく振り下ろされる「力」に対抗するための、だねー」
Lはナナを見る。
「儂がそう思っただけ、じゃよ。そんな「つもり」やもしれぬと、の。何せ、あの跳ねっ返りの考える事じゃ、儂の思う通りとは限らぬ」
ナナが困ったように笑うのは、ルリおばさんの「跳ねっ返り」を思って、なのかな。
突然、理由もなく振り下ろされる「力」に対抗するための保険
当時、キクタや4人の赤ちゃんの認識が消されたのは、地下施設に属していたため、なのだろう。
外へ出ていたキクタもその影響を受けたのは、お屋敷からの帰り道に、Lが考察した通りだった。
お屋敷の人々から、僕とラファエルの認識を消す、僕がその力を使ったタイミングで、たまたまお屋敷の外へ出かけていた人がいたとしても、力はその人にも効果を及ぼす。逆に、常にお屋敷の外にいる庭師のシジマさんには、影響は及ぼさない。
隠れた科学者やアルカナたちが、地下施設に関する認識を消す、そのタイミングで地下にいなかったキクタにも、力は効果を及ぼす。逆に、地下施設に属さないアルカナやアニー、例えばうちの祖母には、彼らの力は何の影響も及ぼさなかったはず。
元々地下にいなかった祖母が、帰国した軍関係者に認識されていたのかどうかはわからないけれど、仮に認識されていたにしても、「力」が使われた時点で地下には属さず、地上で一般人として暮らしていた祖母は、何の影響も受けない。
ふむ、と小さくナナがうなずく。
ふと思った。
ナナは、祖母を知っているのだろうか。いや、ずっと地下にいたナナと、キクタやルリおばさんとのつながり以外、地下とは縁のなかった祖母とでは、特に接点もなかった、のかな。
ナナは何も答えない。肯定なのか、あるいは単に答えるのが面倒なだけ、なのかもしれない。
地下に属さないという点で云えば、ヌガノマはどうだろう。
住んでいたのは地下かも知れないけれど、70年以上前にあいつは米軍施設から脱走してる。
もしかすると、ヌガノマにも彼らの「力」は影響しないのでは。
「否」
ナナは首を横に振る。
「その隠れた科学者共こそ、ナガヌマに執着しておった一派よ。故にこそ、ナガヌマに関する認識は真っ先に名指しで消しておろう。レムナントの研究こそ、彼奴らは軍に知られたくないはずじゃからの」
憎らしげに顔をゆがめて、ナナは云った。
「ずいぶん、穏やかじゃない感じだねー。ナナちゃんは奴らと面識があるの?何かされたとか?」
口調はいつも通りだったけれど、心配そうな顔でLが尋ねる。
それはそう。レムナントを研究する一派と聞いては、僕も心穏やかではなかった。
「面識はない。彼奴らの頭目は、元ナチスの科学者で敗戦後、亡命して米軍に潜り込んだという噂の怪しげな男よ。名はハンス・オスヴァルト・アンダーソン博士。地下施設では単にHとかH・Oとか呼ばれておったの。研究者共の噂に名はよく聞いたが、儂は終ぞ会った事はなかったの」
ナナがそう説明してくれる、けれど。
ちょっと待って。
元ナチスの科学者で敗戦後に亡命って、その人、いったい何歳なの。
そう考えて、何かがぴこんとつながる。
旧日本軍の脱走兵で片眼片腕片足の怪人ヌガノマ、という怪談話と、そのHなる怪しい博士、どこか似ているのでは。
「まさか、そいつもレムナントなの?いやあ、そんなわけないか。だったらヌガノマに執着しなくても、自分で自分を研究できるわけだもんなー」
Lはまた、ひとりで質問してひとりで回答する。
ナナは首を振る。
「わからぬ。儂も見た事はないからの。怪談が如き噂話では、己の体を実験と称してレムナントに改造したとかいうのもあったの。自ら腕と足を切り落とし、ナガヌマと同じ状態にしてアルカナを入れたとか、眉唾ものじゃが」
つまらなそうな顔でナナは云う。
自ら腕と足を切り落とした?
ただの噂話とは云え、思わず、ぞっとした。
やっぱり、それはもう怪談なのでは。
「でもその怪談のヌガノマが実在しちゃってるからね?H・Oもありえなくはないんだよなー」
いつもなら何事も楽しそうなLも、ハナの事が心配なのか浮かない顔だった。
本当にそんな奴がいるのだとしたら、僕も気が気ではないけれど。
でも、いるのだとしたら、いったいどこに?あの地下の、火災のあった研究所、だろうか。
ナナが首を横に振る。
「火災の後も、行き場のない儂らはあの地下に住み続けておった。撤退で何もかも持ち出されてはいたが、少なくとも雨露はしのげる。見知らぬ土地で新たな住処を探すような気力もなかったしの。まさに被災地での避難生活じゃ。使えるものが残っておらぬかと、燃え跡をくまなく探し回った。あの地下に、彼奴らは、影も形も見えんかったよ。軍が撤退する以前から、どこぞに彼奴らの秘密の研究所があるという話もあったくらいじゃ。当時もそこに隠れておったのじゃろ。今もそこにおるのかどうかは、わからぬがの」
そう云って、ナナは皮肉っぽい笑みを浮かべて、
「被災者じゃった跳ねっ返り娘が、高級マンションの最上階に住むような時代じゃぞ。同じマンションに彼奴らのアジトがあったとしても、儂は驚かんわ」
とんでもない冗談を、しれっと口にする。
うん、ぜんぜん笑えない。
ふん、とナナは鼻息を荒げて皮肉な笑みを消し、
「いずれにせよ、ハナがレムナントになったのは、火災の時、即ち彼奴らが姿をくらました後じゃ。それに、ハナは、ずっと隠れておったからの。知られてすらおらぬはずよ」
安心せい、とでも云うみたいにうなずいて、
「世の中にはそんな奴らもおる、というだけの話よ。慎ましくまじめに、普段通りに暮らしておれば、そのような者と関わり合いになる心配もなかろ」
淡々と、つまらなそうに云う。
それは、そうなのかもしれない。
この広い世の中には、僕らの知らない世界がたくさんあって、いろんな人がいる。
一生関わり合いになる事のない人たちの方が、間違いなくたくさんいる。
ナナはまた、あの凄みのある笑みを浮かべて、
「おかっぱのJの云う通り、おぬしらには今や家があり、家族がおる。それは何より幸せな事じゃ、大切にすると良い」
やさしげな声色で、僕らの顔をぐるりと見渡して、そう云った。

「さっきの話だけど」
何か大事な事を聞き忘れてたのを思い出したみたいに、Lがぴこんと人差し指を立てて、
「ルリおばさんって、何してる人なの?」
そう、ナナに尋ねた。
素朴な疑問だった。それは、僕もそう。
高級マンションに住む大富豪なのは間違いないのだろうけれど、いったいどうやって、というのが気になる。
「何もしておらぬ」
ナナの返答は、短い。
興味もない、とでも云わんばかりだ。
「何もしてないって、無職なの」
まさか、という顔でLが聞くと、
「左様」
また、どうでもよさそうにナナは云う。
無職
イメージとしては、合ってる、気がする。
いつも決まった時間でも曜日でもなく、思いついたようにふらりとアパートを訪れていたルリおばさんが無職、だとしても何の不思議もない。違和感もない。でも、
「じゃあ、このマンションは何?宝くじでも当たったの」
とても天才少女とは思えないような、小学生みたいな質問をLがする。
いや、小学生なのだけれど。
Lがくるりと僕の方を向いて、
「おい、おまえなー。じゃあどう聞いたらいいの。あー、株でもやってんの、とか?たいして変わらねーだろ」
ナナがちゃんと答えてくれないから、Lの矛先が僕を向く。
「人の所為にするな。儂はちゃんと答えておろう、あやつは何もしておらぬし、無職じゃ」
ふん、とナナは鼻息を荒げて僕をにらむ。
僕はすがるように、Jを見る。
助けて、J先生。
ふふふ、とJは声に出さずに笑って、
「ナナちゃん、教えて。ルリさんはどうやって暮らしてるの。このマンションのお家賃とか、生活費とか?」
そう、ナナに尋ねる。
ふむ、とナナは「初めからそう聞けば良いのじゃ」とばかりに満足げに小さくうなずいて、
「此奴じゃ」
また、その小さなあごで、僕を指して端的に云う。
少々、端折り過ぎだと思うけれど。
此奴って、僕なの。
「Kじゃないでしょ、おじいちゃん?」
Jがすかさず僕に突っ込んで、ナナに重ねて尋ねる。
「左様。この爺いがパトロンよ」
何故か憎々しげに僕をにらんで、ナナは云う。
え、パトロンて何。
僕にはまるで、身に覚えがないのだけれど。
「うん、だから、おじいちゃん。Kにはもちろん、覚え、ないよ?」
Jが困ったように苦笑しながら、僕に云う。
やっぱりだめだ。
何なのだろう、ナナが絡むと、僕は途端にだめな子になる。
いや、普段だってそんなに出来がいいとは思わないけれど。でもこんなにひどくはない、はず。
「じゃから、人の所為にするなと」
ナナがまた、何か僕への文句を云いかけるのを遮るように、
「あー、わかったぜ!」
陽気なハスキーボイスが云って、Lは人差し指を立てた手を高く掲げ、すっくと立ち上がる。
助かった、でも、そのポーズは何。かっこいいけれど。
「発明だよ、特許か何かじゃね。センサーとか、半導体とかかなー」
今度は腰に両手を当てて、どうだ、とばかりにLはナナの顔を見る。
「正解じゃ」
めんどくさそうに、ナナは短くそう答えた。
発明、特許?
センサーとか、半導体とか、何で具体的な内容まで。
どうしてLはそんな事を知ってるの。もしかして、
「おい、アイみてーなこと云うんじゃねーぞ?ちゃーんと説明するからなー」
びしっと僕を指さして、Lはニッと陽気な笑みを浮かべて、
「おまえから預かった、例のヘッドホンとゴーグルだよ。キクヒコがおまえの体で付けてたやつなー」
ふっふー、と鼻息で笑う。
例のヘッドホンとゴーグル
それは、覚えてる。
何か秘密のアイテムかも知れないって、Lが調べてみたいとか云ってたのも。
「うん、それだなー。見た目はレトロなヘッドホンとゴーグルだけど、開けてびっくり、見たこともない精密な機械がびっしり詰まってたぜ。たぶん、センサーと増幅器、かなー。Jが云ってた通り、能力をパワーアップさせるアイテムだったってわけだぜー。正確には、能力の感度をアップさせる、だと思うけど」
青い眼をきらきらさせながら、Lはそう説明してくれた。
見たこともない精密な機械を、見ただけでそれがわかってしまう、Lの方にこそびっくりだけれど。
「うん、Lだから、ね」
Jはそう云って、ふふふと笑う。
また、Jのパワーワード「Lだから」が出た。
不思議と、「Lだから」で納得なのだけれど。
「たぶん、ハナちゃんのサングラスもそうだよなー。ってか、サングラスのどこにそんな機械入れてんの。フレームが丸ごとセンサーなのかなー」
ソファですやすや眠るハナのサングラスを食い入るように見つめながら、オレンジの海のコテージで嬉々としてそう語るLには、たいへん申し訳ないのだけれど。
いやー、どうなんだろう。僕にはぜんぜんわからない。
ふん、とナナがめんどくさそうに鼻を鳴らして、
「左様。跳ねっ返りの鞄もそれよ。そも此奴の生い立ちを考えてみよ。赤子の時から軍の研究所で、科学者やら何やらに囲まれて育ったのじゃ。子供の頃から、おもちゃで遊ぶように、わけのわからぬ研究器具やら兵器やらで遊んでおったのよ。大人になってからも、研究所に籠ってわけのわからぬ機械ばかり作っておった。そのうち、此奴の拵えた発明品やらを見て、仲の良い研究者が特許を取る事を勧めたのじゃ。しかも、国際特許をな。いつか役に立つやも知れぬと云うての。後は金髪、おぬしの想像通り、いくつかのセンサーやら半導体技術やらが大当たりしたのじゃ、此奴が縮んだ後での。その収入は、全て小僧と跳ねっ返りに入るようになっておった、という訳よ」
不機嫌そうに、ナナはそう説明してくれる。
何がそんなに面白くないのだろう。やっぱりキクタが嫌いなの。
「面白くはないの。儂は、そんな機械なんぞには興味もない故な。じゃが、おかげでこうして跳ねっ返りのマンションに居候をさせてもらっておるのじゃ。文句を云うつもりもないがの」
ふふん、とナナはつまらなそうに笑う。
やっぱり、よくわからない。
「いやあ、ただ者じゃねーとは思ってたけど、おまえ、すっげー発明家だったんだなー」
はっはっはー、とLは陽気に笑う。
うん、いや、そうかもしれないけれど。
残念ながら、僕は何ひとつ覚えてないのだけれど。

タイトルとURLをコピーしました