西に傾きかけた日がほぼ真横から差し込んで、広いリビング全体が明るく照らされる頃、僕らはルリおばさんの部屋を辞すことにした。
時計は見当たらなかったけれど、17時少し前くらいだったのかな。
ソファから立ち上がり、振り返って壁一面の大きな窓を見る。
まるで映画館のスクリーンのように、海と遠くの空が西日の中きらきらと輝いていた。
ここから見る海に沈む夕日は、さぞ雄大だろうな、なんて想像して、できることなら、それを見てから帰りたいような気もしたけれど。
市の南にあたるククリ島から、北のはずれにあるニュータウンまで、歩いたら小一時間はかかるはず。
のんびり夕日を眺めていたら、家に帰る頃にはきっとすっかり夜になってしまう。
あの事件の認識は消されているとはいえ、(行方不明になったばかりで、また)父と母に心配をかけるわけにもいかない、よね。
そう思ったので、夕日はまたの機会の楽しみに取っておくことにした。
Lは、僕とは別の理由で、つまり、かわいいハナと離れ難かったらしく、いつまでも腰を上げるのを渋っていたけれど。
オレンジの海では、ナナがテラスの椅子からふわりと立ち上がりながら、
「おかっぱよ」
Jの方を向いて、
「このテーブルに、ひとつ小さな花瓶を出してくれぬか」
そんなお願いをする。
白い木の丸テーブルに小さな花瓶
素敵なアイディアだと思うけれど、何かのこだわりかな。
ふむ、とJが細いあごに人差し指を当てて、数秒考えてから、その指を顔の前でぱちんと鳴らす。
白い陶器の丸い小さな一輪挿しが、まるで最初からそこにあった物のように、すっとテーブルの真ん中に現れた。
ナナは満足げに微笑を浮かべてうなずき、
「礼を云う」
そう云って、包帯ぐるぐる巻きの右手をその花瓶に向けてふわりと軽く振った。
魔法のように花瓶に挿されたのは、黄色い小さな花をたくさんつけた小枝。
何の花だろう、という疑問には、ほのかに漂う甘い香りが答えてくれた。
金木犀だ。
「わあ、素敵」
Jが、灰色がかったきれいな眼をまんまるにして微笑む。
ナナがひとつうなずいてから、僕を見て、
「ハナの出欠の目印じゃ」
不思議な事を云う。
ハナの出欠、学校のかな。
「左様」
短く答えて、それで終わりかと思いきや、ナナはめんどくさそうにもう一度口を開いて、
「ハナのたっての希望で、おぬしのクラスへ転入させはしたが、毎日は登校できぬ。普通の子供のように、元気が有り余っておるわけでもないしの」
そう説明を続ける。
Jがうなずいて、
「それに、やっぱり万一の事を考えたら、あまり人目に付かないほうがいいよ、ね」
そう云うと、ナナは苦笑して、
「ハナは毎日でも行きたがるじゃろうがの。折よく、跳ねっ返りも眠っておるし、暫くは、せいぜい週に一度くらいになるかの。登校する日には、ここに花を挿そう。花がなければ、今日は休みじゃと思え」
そう説明してくれた。
それは、助かるかも。登校して、教室にハナがいなかったら、ここを「振り返って」見ればいい。
花瓶にお花がなければ、今日はお休み。お花があれば、ハナは登校する。
わかりやすくていいけれど、ここに花を挿しに来るのなら、その時に僕に云ってくれればいいのでは、登校かお休みかを。
そう考えて、すぐに察した。
面倒じゃ、って事なの。それをいちいち僕に云うのが。
「左様」
すでにめんどくさそうな顔で、ナナは答える。
相変わらず、やさしいのか何なのか、やっぱり僕にはよくわからない。
これも、裏返し、なのかな。
「おお、いいねー」
何故かLが元気に反応して、
「じゃあここにお花があったら、オレも学校行こうかなー、ハナちゃんに会いに」
さも当たり前のような顔で、そう云うけれど。
いやいや、Lは毎日登校するのが当たり前だからね。何故か休むのがデフォルトになってるみたいだけれど、違うから。
しかも理由が、ハナに会いに、って。クラスも違うし、6年生なのに。
まさか、休み時間ごとに僕のクラスへ来るつもりなの。ハナに会うために?
「いやあ、そんなめんどくせーことするよりもだなー、学校から、オレの認識消せばよくね。そしたら、Kの隣にオレがハナちゃん抱っこして座ってても、誰も気づかねーじゃん?」
僕の隣にLがハナを抱っこして座ってるの?そんなの絶対授業に集中できないでしょ、僕が。
僕の苦情など耳にも入らないようで、ひとりごとのように、ぶつぶつとLはそう云って、
「ねーナナちゃんー、オレの認識も消してくれないかなー、学校から」
ナナに向かって云う。
なんで、ナナに?一瞬そう思ったけれど、
いまLは「オレの認識「も」」って云った。
「も」?
じゃあ、ハナを転校させるために「認識の喪失」を使ったのは、ナナ、なの。
ハナをそそのかしたのはルリおばさん、という話だったけれど。
海とのつながりと記憶の大半を失っている以上、ルリおばさんには、その「力」は使えない。認識を消すことはできないはず。
冷静に考えれば、そう。それができるのは、ナナしかいないのだ、けれど。
ナナは、LやJに甘いのと同じように、いやもしかしたらそれ以上に、ハナには甘い、という事?
ナナ自身の思いや、何かを、ハナのためにならば曲げてしまえるほどに?
それは、ちょっと、意外、だった。
「意外とは何じゃ、失礼な。儂は子供には優しいのじゃ、そう云うておろう」
席を立ち、テラスの階段へ向かいながらナナはまた僕をにらんで云う。
そして、Lの椅子の後ろを通りながら、背伸びしてそのふわふわの金髪をちょんとやさしく小突いて、
「とは云え、金髪よ。おぬしの認識を消すのはお断りじゃ。消したくば自分でそうするが良い」
ふふん、と鼻で笑う。
「うぬー」
Lは恨めしそうにナナを見て、腕組みしてうなってる。まさか、本当にやるつもりなの。
半分冗談、半分本気、なのだと思うけれど。
それとは別に、Lが自分であの力「認識の喪失」を使う事に、抵抗がありそうな事はなんとなく察した。
「いやあ?違うねー」
Lはニヤリと笑って、
「花瓶にお花がない日に、このマンションへ遊びに来りゃいいんじゃん。お休みしてるんなら、ハナちゃんは家にいるんだもんねー?」
勝ち誇ったように、はっはー、と高らかに笑う。
何だろう、Lもハナが絡むと、急に普通の小学生みたいになる気がする。
僕がナナに対して、すごくだめな子になるのと同じで。
何と云うか、発想がいつものLっぽくなくて、すごく子供じみてると云うか。
「うん」
反論するかと思いきや、Lはあっさり認めて、
「わかるぜー。オレもおまえも、ハナちゃんにはとことん弱いって事だよなー」
また楽しそうに、はっはー、と笑った。
そういう事なの。
確かにLの云う通り、僕がハナに(と云うよりナナに)弱いのは、間違いないのだろうけれど。
コテージのテラスの端、階段の上でナナは僕らを振り返って、ふふん、と面白くもなさそうに鼻を鳴らし、
「好きにするが良い。ではの」
ひらりと包帯ぐるぐる巻きの右手を振るように翻すと、すっと姿を消した。
気配もすでに消えているので、オレンジの海から去って眠るハナの中に戻ったらしい。
どういう仕組みなのだろう。
僕とつながりのあるJやLのように、窓やドアが開くわけでもなく、片手の軽いひと振りで、すっと消えた。
王は他の王とつながることができる。
そのつながり自体は、JやLとのそれと同じものだと思うのだけれど。
王は、窓やドアを開かなくても、すっと移動ができるのかな。
だとしたら、それは、たぶん僕にもできるの。
ぜんぜん、できる気はしないのだけれど。
眠るハナを起こさないよう、そっとつないだ手を解いて、ソファを揺らさないように立ち上がる。
まだ名残惜しそうにハナの寝顔を見つめているLの制服の袖を、Jがぐいぐい引っ張って、3人でルリおばさんの部屋を出た。
帰りは、外へ出るだけなので、カードキーなしで部屋のドアも3階のエレベータホールのガラス扉もすっと開いた。
来た道を通って、鉄橋を渡り、川沿いのゆるい坂道を上り、商店街を抜けて、電車ブランコの公園へ戻ってきたところで、17時のチャイムが鳴った。
公園からは、僕は北へ、Jは東へ、Lは西へ、それぞれ家へ帰るので、ここでさよならだ。
僕らは公園の入り口で手を振って、それぞれ家路に着いた。
けれど、「オレンジの海」のコテージのテラスに、まだふたりとも座っているので、実際にはここでさよならではないのだけれど。
「ナナちゃんって、何者だ?」
テーブルの上、小さな丸い一輪挿しに咲く金木犀の花をじっと見つめて、Lが云う。
質問というより、ひとりごとのように。
小首をかしげたJが、
「うーん、おじいちゃんや、Kのおばあちゃんと同じ、隕石落下の時に、アルカナが入った赤ちゃん、なのかなあ」
あごに人差し指を当てて云うその意見に、僕もほぼ同意だった。
キクタをよく知る人物であるらしいこと。
それに口調や言葉の使い方が、父や母よりもっと年上の、祖母に近い年齢を感じさせること。
でも、Lの云う「何者だ」には、何か別の含みがあるような。
「お、ナナちゃんのプレッシャーがなくなると、本来の冴えが戻るねー」
ニヤッと笑ったLは、そう、僕を茶化してから、
「ものすっごく、妄想めいた案なんだけどさー」
そんな前置きをして、
「オレの考えた最強のナナちゃん、聞きたい?」
楽しそうに、僕とJを見比べて云う。
最強のナナちゃんって、何。
僕にとってナナはすでに十分すぎるほど最強なので、あれ以上強くしないでほしいのだけれど。
Jは肩をすくめて、
「聞きたい?って、Lがものすごく云いたいんでしょ。どうぞ、云ってみて」
あきれるように云って、Lを促す。
ふっふ、と鼻で小さく笑って、Lは腕組みをして、
「隕石落下の時、っていうアルカナが入ったタイミングは、Jの云う通りだろうねー。おじいちゃんの事をよく知ってる風だし、同じ時期にアルカナが入ったんだろーって考えるのが自然だよなー。じゃあ、どこで?MちゃんのA-0の昔話によると、海沿いの集落で見つかったのは、キクタとヌガノマだけだった、って話だよねー」
そう云って、LはJを見て、僕を見る。
じゃあ、どこで?
Mの「昔話」によれば、ロリポリは、落下の途中で体が3つに分かれて、それぞれ別の場所に落ちた。
頭部を含む一番大きな本体はミドノ原、あの工事現場に。
尾の先端から5mほどの部位が、海沿いの漁村のあった付近に。
その中間の、2〜3mほどの腹部は、海沿いからミドノ原までの間のどこかに落ちた、とされているけれど、それがどこなのかはMにはわからない。A-0の記憶にもないらしいので、アルカナには知らされなかったのだろう、と思われる。
腹部はすでに軍に発見され、回収されているのでは、というのが、Lとガブリエルの推察だった。
Lの云う通り、ロリポリの中にいた王A-0によって感知され、海沿いの集落で発見されたのは、キクタとヌガノマだけだった。
同じ時期にアルカナが入ったのだとしたら、ナナはどこにいたのだろう。
じゃあ、どこで?
そう尋ねるLには、その予想がついてるの、かな。
ふふん、と勿体つけるように、Lは笑い、
「こっから妄想爆発するぜー、覚悟しろよー」
ニヤニヤしながら云う。
Jはあきれ顔で、黙ったまま腕組みをしてLの言葉の続きを待っている。
僕は、少しわくわくしていたけれど。
「ロリポリの落下ルートからは、ちょっとだけ南にずれてんだけど、市内にナナオ神社ってあるよねー」
そんな事を、Lは云い出した。
ナナオ神社って、あの夏祭りの?
思わずJを見ると、Jも僕を見て、怪訝な顔でうなずく。
「結構歴史のある神社らしいね。まず名前からして怪しいんだけど、ナナオ神社とナナちゃんって、ほぼ同じだよね。あと、あそこの御神木っていうの、神様がいるって謂れのある木が、金木犀だった覚えがあるぜ。Kは気づいてると思うけど、ハナちゃんって、すごくいい匂いがするんだよねー。金木犀のお花みたいな、さー」
妄想が爆発したというLは、楽しそうにそう語る。
ナナオ神社とナナ
確かに名前は似てる。
神社の御神木が金木犀
確かにハナの体からは、金木犀のお花のような甘い匂いがする。
妄想が爆発しているからだろうか、Lの云いたい事が、僕にはいまいち掴みきれない。
ひとつひとつ云う事はわかるのだけど、それで、結局何が云いたいの?ってなる。
Jも隣で、僕に同意するように小さくうなずく。
まあ待て、とでも云うみたいに、Lは僕らを見て何度もうなずいて、
「で、その神社まで、ロリポリからこぼれ落ちたアルカナの王が飛んでって、入ったんじゃね。その神社の神様てきなナナちゃんに」
びしっとLは親指を立てて、決めポーズ。自信満々の笑顔だけれど。
ええと?
L、何云ってるの。
いつものLらしからぬ発言に、僕の脳がバグってる、気がする。
Lだよね、アイじゃないよね?
いや、アイでもそんな事を云うだろうか、というくらい、衝撃的な発言だった。
神社の神様てきなナナちゃん
つまり、その、
Lは、ナナが神様だって云いたいの?
僕がおかしいのだろうか、と思わずJを見る。と、Jも同じように思ったのか、僕を見る。
違う、おかしいのは、Lだ。
どちらからともなく、僕とJはそううなずき合う。
「L、キミ・・・」
JはLの方を向き、そう云いかけて、言葉を失ったみたいに黙り込む。
だから、僕が代わりに云う。
どこかで、へんな・・・
「キノコなんか拾って食ってねーぞー」
Lは僕の言葉を先回りしてそう云って、
「証拠、とまでは云えねーけど、そう考えた根拠はいくつかあるぜー」
ニヤリと得意げな笑みを見せて、
「ナナちゃんが、神様てきな何かじゃねーかと、オレが考えるに至った根拠。聞きたい?」
ふふん、と笑う。
「だから、云いたいんでしょ。聞かせて」
あきれ顔を通り越して、少しムッとしながらJが云う。
Jの気持ちは、わかるような気がする。
でも僕はまだ、ちょっとわくわくしていたけれど。
「レムナントの意味を聞かれた時、覚えてるか?ナナちゃんは聖書の一節っぽい一文を、朗々と暗唱してたよね。「曰く、御名を呼び、戒めを守り、証しを護る。不正を行わず、偽りを語らず、真の恵みにより選ばれし残された者」 あんなの、普通云えなくね。聖職者かなってKが思ったのもうなずける。オレもそう思った。地下の街に教会てきなものがあって、キクタおじいちゃんと共に地下で大人になったナナちゃんはそこで働いてた、のかもしれない。おじいちゃんが研究と発明に熱中して行ったように、ナナちゃんは聖書の教えに心を引かれてった、のかも」
Lはそこで一旦言葉を切る。
うん、そこまでは納得できる。
でもそれがどうして、ナナオ神社の神サマになっちゃうのかがわからない。
「うん。おじいちゃんと同じく、身寄りのない赤ちゃんにアルカナが入った人で、地下で育って教会の聖職者になった人。それがひとつ目の候補だったの、オレもね。でもそれだけじゃ説明出来ない点がいくつかあってさー。まず、いちばん気になったのは、キクタ、というか、K、おまえへの接し方だ」
ぴこん、とLの人差し指が僕を指す。
キクタ、というか、僕への接し方
云われてみれば?云われるまでもなく?他の人とは少し、いやかなり、違う。
LやJ、それにハナには、ナナはすごくやさしい。
けれど、僕への接し方は、どちらかと云えば、ルリおばさんに近い、ような。
いや、正直に云えば、ルリおばさんよりもっと、当たりがキツイ気がするけれど。
だって、おばさんは「跳ねっ返り」だけれど、キクタは「モーロクじじい」だよ。
ふふっ、とLが笑って、
「そーだけど、そーじゃねーんだなー。あれは、Jの云う通り、「裏返し」なんだと思う。ナナちゃん自身が云うように、ナナちゃんは「子供にやさしい」んだよ。で、跳ねっ返りのルリおばさんにも、やさしいんだ。だって、文句を云いながらでも、一緒にあの海へJたち教会の家族の様子を見に行ったり、今回だって、ルリおばさんが云い出した「ハナちゃんの転校」を、ブツクサ云いながらも「力」を使って助けてる。ハナちゃんが望んだからってのが大きいとは云え、ナナちゃんから見たら、ルリおばさんやキクヒコもまだまだ子供なんだろーねー」
そーだけど、そーじゃねー
あれは、裏返し
それは、僕にはよくわからないやつでは。
でも、ナナから見ればルリおばさんやキクヒコさんも子供、というのは、なんとなく、わかるような気がする。なんだかんだと文句は云いながらも、結局甘い、と云うか。
「あ」
ぴこん、とJの人差し指が立つ。
何かわかったの。
うん、とJはうなずいて、
「そこだけ、ね。神様はわからないけど」
そう云って、苦笑して、
「同じ0歳でアルカナが入って、一緒に地下で育ったんだとしたら、おじいちゃんはナナちゃんにとって「子供」じゃないはずでしょ。だって、同い年なんだから。それなのに、Kに対する接し方には、だいぶ裏返しだけど、でも子供に対する甘さがある、ってこと?」
人差し指が、Lを向く。
「ほほう、さすがJ先生」
ニヤニヤとLは笑って、
「少なくとも、同い年って感じじゃねーんだよなー。ちょっと年上のお姉さんぶってる、とかでもなくて、明らかに年下の「子供」として見てる、それも10や20じゃなく、大袈裟に云えば100歳くらい年上なんじゃね、ってくらいの貫禄があるよねー。キクタがKになって、つまり、おじいちゃんが小学2年生になってるから、子供扱いなのかなって最初は思ったけど、いやいや、そーいう問題じゃねーな、ってね。たぶん以前からずっと、12年前のあの地震や火災の前後も、ナナちゃんのキクタおじいちゃんに対する接し方は今と同じだったんじゃねーかな、って感じた」
貫禄
10や20じゃなく、100歳くらい年上
JとLの云う、キクタも「子供」として見てる、というのは僕にはよくわからないけれど。
貫禄、というか、得も云われぬ迫力、みたいなものは、僕もずっと感じてた。
100歳くらい年上?
それは、うーん、どうだろう。
実際に100歳年上の人と会った事があるわけではないので、何とも云えないかも。
ただ、僕より70歳以上年上のうちの祖母と比較して、ナナの方が年上、だとしてもおかしくない気はする。
あの威圧感というか凄みみたいなものは、年齢によるものなのかな。
ナナの云う「年の功」というやつ?
それもあるのかもしれないけれど、それだけではないようにも感じる。
年齢だけではない、ナナの威厳の正体、それが「神様てきな」何かなの。
「でも、だからって、神様?」
それはないんじゃない、という顔をJはしてた。
うん、僕も、そう思う、かな。
ふふん、とLはまた楽しそうに鼻で笑う。
「あとふたつほど、根拠はあるけど、そっちは今のより弱いかなー」
ニヤニヤしながら、Lは云う。
「どうぞ、続けて」
興味を惹かれ始めたのか、あきれもせず、ムッともしないで、JがLをうながしたので、僕は少しうれしくなる。
「じゃあ、ナナちゃんは、なんでこの「オレンジの海」に入れるの?」
おもむろに、Lはそんな事を聞く。
何でって、それは・・・、あれ?
「それはもちろん、王だから・・・、あれ?」
Jも気づいたらしい。
そう、ナナは王じゃない。王はハナで、ナナはその前の王。ナナ自身がそう云った。
王が亡くなった時、王の持つ記憶を全て引き継ぐのが、次の王。
Mはそう云ってた。
ナナの記憶は全てハナに引き継がれ、ハナが王になった。ナナはそう云った。
けれど、ナナは生きている。亡くなって、ハナが王を継いだわけじゃない。
ハナの命を救うため、レムナントになる事をナナは選んだ。
死に瀕したハナの体にナナの意識(アルカナ)が入ることで、ハナはレムナントとなって命をつないだ。
王の中に、次の王の意識は入れる。実際、僕の中にガブリエルの意識が入っていたように。
けれど、ハナとナナの場合は、逆だった。
次の王であるハナの中に、王であるナナの意識が入った。
ハナの体は死に瀕していたため、レムナントとなる。
いや、違うのだろうか。順番としては、王の引き継ぎが先なのかな。
ナナは何らかの方法で、ハナに王を引き継いだ。
王であるハナの中に入る分には、何も問題はない。
つまり、ナナは王ではない。
なのに、何故、この「オレンジの海」に入れるの。
「神様てきな何かだから、じゃね」
Lは相変わらずニヤニヤしている。
楽しくて仕方がないらしい。
僕もわりと楽しいから、まあいいけれど。
「うーん」
Jは、あまり楽しくないのかもしれない。
右手の人差し指をあごに当てて、左手で右腕を組んで、考えるポーズ。
「わたし?うーん、楽しくなくはないよ。でも、まだちょっと、もやもやする」
そう云って、
「Lらしくないと云うか。だって神様って、何だろ、答えとしてずるいと云うか、子供っぽいと云うか、ね」
JはLをじっと見る。
Lらしくない
それは、そうかもしれない。
神様、という言葉は、例えば、魔法とか、マンガとか、ゲームとか、何かそんな、科学的な根拠やルールを無視できる便利な言葉、のような印象がある。
Jが「ずるい」と云うのは、そこなのでは。
「ははあ」
ニヤニヤしたまま、Lはふむふむとうなずいて、
「じゃあ、最後のひとつ。根拠とも云えないくらい、ふわっとしてるかもだけど」
そう云って、Lは青い眼をまんまるに見開いて、
「アルカナって何だっけ」
そう、僕に聞いた。
アルカナ
意識生命体。眼には見えない、肉体を持たない、異星から来た生命体。
「じゃあ、Kよ。おまえの云う、神様ってどんなだ?」
そんな事を、Lは僕に聞く。
神様?
僕は、あまり信じていないかもしれない。
お祈りもしたことがないし、うちには、神棚も仏壇もなかったような。
神社へお参りに行けば、お祈りくらいはするけれど、具体的な誰か「神様」に対して祈っているわけではないような。もっと、自然とか地球とか、宇宙?祈りの対象はそんな漠然とした大きなもの、なのかも。
夏祭りの時は、境内までは行けなかったけれど、「Lが早く眼を覚ましますように」って、そんなお願いをしようって、Jと話してた。
神様、という言葉が持つイメージで云えば、人知を超えた存在で、眼には見えなくて、空とか、海とか、大地とか、高い山とか、人が祈りを捧げたくなるようなもの、かな。雨や風や雷みたいな天候だったり、地震とか、津波とか、火山の噴火とか、人の力の及ばないもの、昔の人はそこに神様の存在を感じたのかな、とは思う。
ふむふむ、とLは小さくうなずいて、Jの方を向いて、
「Jは・・・、あー、ごめん。やっぱ、おまえはいいや、教会の子だし。何か、聞いたらまずい事とか云いそうだし」
ふふっといたずらっぽく笑う。
「Lは、神様を信じてるの」
困ったような顔で、Jが聞く。
Lは、少し驚いた顔になったみたいだったけれど、すぐにまたニヤッと笑って、
「オレもKと同じかなー。いわゆる「オーマイガッ」みたいな宗教的な神様ってやつは、あんまり信じてないかも。あーでもだからって、科学が万能だとかも思ってなくってね。人間にわかる事、できる事には、限界があるよなーって思ってる。だから、それを超えるものって意味では、神様てきなものはあるんじゃねーかなって思うぜー。Kの云う、人知を超えた存在。そーいうのは、いるよね、きっと」
ふふっと笑う。そして、
「じゃあもし、そんな人知を超えた存在がいて、そいつがオレンジの海を持ってたとしたら?アルカナは、思わず飛び込んじゃうんじゃね。キクタやヌガノマに、思わず飛び込んじゃったみたいにね?」
ぴこん、とLは人差し指を立てる。
先にLが人差し指を立てちゃったから、ではないと思うけれど、Jは指をあごに当てたまま、
「それが、ナナちゃん?」
灰色がかった眼をまんまるに見開いて、Lにそう云った。
疑問形だけれど、たぶん疑問ではない、Lがよく云う、云い方で。
「そんなに驚くことねーだろ。最初に云ったよねー、ものすっごく、妄想めいた案、だよ。オレの考えた最強のナナちゃん、どう?」
どう?って、これは疑問形。
どうかと聞かれれば、なかなか面白いと思う。
当たってるかどうかは、さておき、と云うか、そもそも妄想なので、それは問題じゃない。
最初に神様、と聞いてびっくりして、Lともあろう者が何を云い出すんだ、と思ってしまったけれど、Lは最初から「神様てきな」と云ってた。
人知を超えた何か、眼には見えない存在が、昔からこの土地に住んでいたとしても、それは不思議ではないのかもしれない。
それは、アルカナのような意識生命体なのかもしれないし、もっと別の、僕らが想像すらつかないような姿形をしているのかも。
Lの云う通り、人間が、何もかもすべてを知っているわけではないのだし。
そんな存在が、いつしか人々から崇められ、神様と呼ばれていたとしても、おかしくはない。
「まあ、かわいい神様だよねー。どっきり仕掛けようとして失敗してふくれてるようなさー。子供にはめっちゃ甘いし、あんな神様なら、オレは大好きだけどなー」
はっはっはー、と、Lはいつものように陽気に笑う。
神様てきなナナだから、オレンジの海に入ることができたのか、それとも、記憶を次の王に引き継いだとしても、王としてつながる能力は失わないのか、それはわからないけれど。
「うん。それに関連する事で、もういっこあったわ」
ぴこん、とまたLは人差し指を立てて、その指でテーブルの上を指さして、
「このお花。これ、どーやって出したの。手品?」
楽しくて仕方がないみたいに、ニコニコしながら云う。
手品
確かに、まるで手品のように、ごく自然にナナが出してみせたので、その時は何も思わなかったけれど。
オレンジの海は、僕の意識空間で、基本的には、ここに物を出したり消したりできるのは、僕だけのはず。
Jがトーテムポールや小さな花瓶を出せるのは、ここの改装に関する権限を僕がJにも持たせているから。
持たせているから?って何だか偉そうだけれど、そういう上から命令的な意味ではなくて、改装のセンスがなさすぎる僕が、Jにそれを全面的にお願いしてお任せしている、という事。
それはナナも承知していて、実際、テーブルに花瓶を出してほしいとナナはJに頼んでいた。
花瓶はJに出してもらう必要があるけれど、そこに挿すお花は、ナナにも出せるの。
見たままで云えば、そういう事になる。
けれど、花瓶であろうが、お花であろうが、ここが僕の意識空間である以上、僕の意に反して、何かを出したりは、普通はできないのでは。
いや、あるいはそれも、絶対ではないのかも。
意識の力、である以上、より強い力であれば、割り込んだり、ちょっと変えるくらいは、できるのかな。
僕の、認識の喪失の「力」に、お屋敷の執事のサモンジさんが、抗ってみせたように。
ひっくり返したり、上書きしたりはできなくても、小さなお花をひとつ出すくらいなら、できる?
より強い意識の持ち主ならば。
あるいは、神様てきな存在ならば?
ふむ、とJがつぶやいて、
「ナナオ神社のナナちゃんだったら、御神木の金木犀を手品みたいに簡単に出せるでしょ、って事?」
Lに尋ねる。
うん、とLはうなずいて、
「それくらいはねー、わけもなくできそうじゃね」
そう云うのは、オレンジの海の仕様だとか、僕の意識領域だとか、意識の強さ云々は関係なく、という事。
神様てきな存在が起こすことのできる、ちょっとした奇蹟とか、そういう類のもの。
神威、という言葉が頭に浮かぶ。神の威光、とかそういう何か。
もちろん、Lの云う「神様てきな」存在というのが、そんな大袈裟なものではないのはわかってる。
Lが云うのは、人智を超えた何か、であって、宗教的な偉大な何か、ではないのだろう。
「人智を超えた」でもまだ少し大袈裟なら、「僕らの知らない」何か、と云い換えてもいいかもしれない。
妄想、と強調しながらも、Lの説は、いつものLらしくとても理詰めで現実的だった。
Lの考えた最強ナナちゃん説に夢中になって、あれこれ考えたり話したりしているうちに、いつの間にか、僕は家の前に着いていた。
大通りの左手から、沈みかけた夕日がオレンジ色の光を盛大に投げかけていて、辺りは夕焼けの一色に染まっている。
「おー、K、家に着いたかー。じゃあ今日はこの辺で、お暇しとくかー」
Lがそう云って、テラスの椅子から立ち上がりながら、Jを見る。
うん、とJもうなずいて、席を立つ。
もしかしてふたりは、僕が無事に家に着くのを確認するために、ここで付き合ってくれていたの。
ふふふ、とJは笑って、
「そういうわけでもないんだけど、Lはそのつもりだったのかも?」
ちらっとLの顔を見る。
Lはテラスの階段の上で僕を振り返って、小さく肩をすくめて、
「まあね?ほっとくと、またひとりで何やらかすかわかんねーおじいちゃんだし」
ニヤリと笑い、
「まあそれは冗談。妄想の最強ナナちゃん説を話したかっただけだぜー」
はっはー、と例によって陽気に笑い飛ばしている。
いつものように、照れてへんなことを云い出したりしなかったので、少なくともナナの話をしたかったのは本当なのだろう。
僕も立ち上がって、テラスの端でふたりを見送りながら、「あ、そうだ」と、ふと思い出す。
このところずっと、Lに会ったら聞いてみようと思いながら、いつも聞きそびれていた事。
「あ、わたしも」
Jも左の階段の上で立ち止まって、右の階段を降りて行くLを見て、
「ね、L、待って」
そう呼び止めて、
「ガブリエルは、どうしてるの。ずっと気になってたんだけど、Lは何も云わないし。あの子、まだ病院なの?」
そう、尋ねる。
僕も、そう。聞きたい事は、Jと同じ、ガブリエルの事だった。
あの日、僕が眠りに落ちるのと同じ日に、8年ぶりに体に戻ったガブリエルは、目を覚ますなり、彼らしからぬ大暴れをして、救急車で僕と同じ大学病院に運ばれていた。
病院では、僕はずっと眠り続けていたので会う事はできるはずもなく、そのまま、退院してしまった。
眼を覚ました後で、Lに聞いてみようと思いながら、なんとなく、いつも聞きそびれていた。
Jが僕の方を向いて、
「Kのお見舞いに行った時に、Lに聞いたの。ガブリエルのお見舞いもしたいんだけど、って。そしたら、「あいつは面会謝絶だ」って、だから、会えなかったの」
そう云った、けれど。
面会謝絶?
それは、僕は初耳だった。
「あっ」と、Jが慌てて顔の前で手を振って、
「違うの、面会謝絶は、体調が悪いとか、お医者さんに止められてとかじゃなく、ガブリエル本人の希望だって」
そう説明してくれて、あ、なんだ、と息をつく。
本人の希望
それなら、なんとなくわかる気がする。
「あいつは、あー見えて意地っ張りなとこあるからねー。リハビリしてるとことか、誰にも見られたくないんじゃね。だから、実を云えばオレもまだ会ってねーよ?」
Lは苦笑して、肩をすくめてみせる。
意地っ張り、なのかな。でも、なんとなく、わかる。
僕でも同じ事をするかも、そう思った。
意地を張るわけじゃないけれど、みんなには、ちゃんと元気になってから会いたいと思うんじゃないかな。それが、意地なのかもしれないけれど。
8年も眠り続けていたのだから、眼を覚まして、すぐに元通りに動けるはずがないのも、わかる。
そのために、リハビリが必要なのだろうという事も。
「うん。だから、あいつはまだ病院だよー。どっか悪いとかじゃなく、リハビリのためだけに入院してるんだろーから、動けるようになったら、しれっと戻ってくるんじゃね」
ふふん、と、いつになく少し寂しそうに、Lは笑った。
だから僕は、それ以上は何も聞けなかった。
「そっか」
Jはうなずいて、テラスの階段を下りて、お庭へ続く窓を開きながら、
「早く元気に、動けるようになるといいね」
祈るように、オレンジの海を見つめて、そう云った。
夜、
明日も学校だし、そろそろ眠ろうかなと部屋の灯りを消して、ベッドに横になった。
窓は開けていたけれど風のない夜で、なんとなく蒸し暑くて寝苦しい。
すぐには寝付けずに、ベッドの上で何度も寝返りを打ったりしていると、物音に気づいた。
何かが、窓ガラスを引っ掻くような、カリカリというかすかな音。
うっすらと眼を開けて、窓辺を見ると、小さな黒い影が、窓の向こうにちょこんと座っているのが見えた。
あれは、N、だよね。
よく見ると、Nらしき影は前肢をちょこちょこ動かして、窓ガラスを引っ掻いている。カリカリいう音は、それだった。Nらしい、控えめな合図だなと、思わずふふっと笑ってしまう。
窓は開いているので、鳴き声を出して呼ぶか、Nだったら、網戸くらい簡単に開けられるだろうに。
あの地下道の、鉄のドアすら器用に開けてしまえるのだから。
起き上がって、灯りは点けずに窓辺へ行ってみる。
やっぱり、Nだった。
暗がりに、青と琥珀色のオッドアイがきらりと光った、ような気がした。
そっと網戸を開けると、Nは僕を見て軽くお辞儀をして、するりと部屋に入ってくる。
屋根裏から、わざわざ一度外に出て、窓から回って僕の部屋へ来るのは、ちょっと面倒なのでは、と思う。
僕の部屋の天井にある屋根裏への入り口を、母に頼んで開けてもらおうかな。
5年生か6年生になったら鍵を開けてくれる、という約束だったけれど、母はそれを覚えているのだろうか。
窓辺から、Nがひらりと軽いひとっ飛びでベッドに跳んだ。
いつ見ても、ほれぼれするような無駄のない動き。相変わらず、物音ひとつ立てない。
感心しながら、僕もベッドの隣に腰掛ける。
Nが僕を見上げて右手をすっと上げたので、お手をするようにその手をそっと握ると、
「夜分に恐れ入ります」
小さなネコらしからぬ、紳士的な挨拶を、Nはした。
Nらしいと云えば、この上なくNらしいのだけれど。
いえいえ、まだ眠ってなかったし、ぜんぜんだいじょうぶだよ。N、どうしたの。そう云えば、今日は公園に来てなかったよね。Jが会いたがってたよ。
ほんの2日ぶりくらいのはずなのに、何だかずいぶん久しぶりに会うような気がして、つい一気に話してしまう。
「はい、その事で、少々込み入った話になりそうです。ワタシの中へ来ていただいても?」
Nにそう云われて、少したじろいでしまう。
眠っていない状態で、僕自身の意思で、Nの中に入るのは、たぶん、初めてでは。
ふふん、とNは鼻を鳴らして、
「もう慣れたものでしょう。横になっていただけますか」
歯科医か、理髪店かな、というくらい、それくらい簡単そうにNが云うので、そんなものかなと思いながら、云われた通りベッドに仰向けに横になる。
すぐにNが枕元に来て、その黒い小さな鼻が、僕の鼻先に触れる。
いつもの、ぐるんと世界が回るような感覚がして、眼を開くと、僕は、オレンジの海の砂浜の流木に腰掛けていた。
僕の膝の上には、Nの意識体がちょこんと座っている。
夜のオレンジの海は、今日もぼんやりとかすかに明るく、幻想的な景色を見せてくれている。
その海の波打ち際に、見慣れた少年が立っていた。
長い金髪を後ろでざっくりと三つ編みにした、痩せた小さな少年。
夏空のような青い眼が僕を見て、はにかむように細められる。
ガブリエルだ。
彼の方こそ、本当にしばらくぶり、だった。
僕が眠りについたあの日以来、だから、3週間以上になるはず。
ガブリエルは、いつものやさしい微笑みを浮かべて、
「ははあ、このかわいいトーテムポールが盗聴防止装置かな?」
Jが立ててくれたトーテムをしげしげと眺めて、
「急に何も聞こえなくなったから、何かあったのかと思って、びっくりしたよ」
ふふっと笑った。
急に何も聞こえなくなった
それは、今日、Jがナナに云われて、トーテムを立てたタイミングから、なのだろう。
じゃあ、ガブリエルはずっと聞いてたの。この、オレンジの海での僕らの会話を?
「え、何て?すごいね、この距離でも、ほんとに何も聞こえないや」
楽しそうに笑いながら、眼に見えない線を飛び越えるように、「えい」とガブリエルはトーテムの内側へとジャンプする。
「うん、ずっと聞いてたよ。リハビリしながら、ラジオみたいな感じで、音だけね」
流木の僕の隣に腰を下ろしながら、ガブリエルは微笑んで、
「あ、今のKの声はほんとに聞こえてなかったよ。「ずっと聞いてたの」ってKの口が動いてたのが見えたからね、そう答えただけ」
何でもない事みたいに、そう云った、けれど。
ガブリエル、読唇術までできるの。
ずっと僕の中にいたのに、いつの間にそんなの習ったの。
「読唇術ってほどでもないでしょ。この距離だもの、見えてたらだいたい何云ってるかくらいわかるよね」
ふふふ、と笑うガブリエルは、以前と全く変わらず、思ったよりもぜんぜん元気そうで、すごく安心した。
相変わらずのガブリエルだった。すごい事を、さも簡単そうに云うところも。
「すごくないってば。それより、夢のあの子に会えたんだねえ。ちょうどあの時、リハビリの先生と話してたから、あんまりちゃんと聞けてなくて、ね。で、気づいたら何も聞こえなくなってるし」
そう笑いながら、ガブリエルは拗ねるように口を尖らせてみせる。
それは、ごめん。
まさかナナも、身内が外で聞いているとは思わなかったのだろう。
「もうひとりの金髪がおらんようじゃが」とかは云ってたので、ナナもガブリエルの事はもちろん知ってたのだろうけれど、入院してるとか、詳しい状況までは、さすがにわからなかっただろうし。
そう思って、ガブリエルに、今日の事をざっくりと説明した。
もっとも、トーテムを立てる前の事は、ほぼ聞いていたらしいので、その後のナナの話、ハナとナナの関係やレムナントについて、それから、ルリおばさんについての話を。
「相変わらず、3人揃うとイベント盛りだくさんだねえ」
ひと通り話を聞き終えると、ガブリエルはそう云ってくすくすと楽しそうに笑う。
僕ら3人が、何か引力みたいなものでイベント事?を引き寄せている、わけではないと思うけれど。
いや、ある意味では、そうなのかもしれない。
アルカナやそれに関する事だから、僕らが集まればそれだけ、そうした何かが起こりやすい、という事はあるのかも。
「云い得て妙だねー。じゃあ、ボクとNが来たのも、それかな」
そう云って、ガブリエルは僕の足の上にちょこんと座ったNを見る。
Nはうなずくとも首をかしげるとも見えるような仕草をして、僕を見上げる。
そうだった。何か込み入った事情があって、とかNは云ってたのでは。
だから、僕にNの中に入って、と。
ふむ、とNは少しだけヒゲを震わせて、
「ワタシの中へ来ていただいたのは、そうすればワタシもこうしてここで、ガブリエルを含めて話ができる為です。ワタシの事情など、今日、アナタの身に起きた極めて稀な邂逅には、及ぶべくもありませんが」
そんな云い方をした。
僕がNの中に入ったこのタイミングで、ガブリエルがこの海へ来る事は、ふたりには予定通りだったのだろう。
それは、なんとなく、そうなのだろうなと察していたけれど。
極めて稀な邂逅って
僕らが、今日ナナに会った事、なのかな。
その後、彼女の住処へ招かれて、眠っていたルリおばさんに再会したことも含めて、かな。
「はい」
Nはうなずいて、ガブリエルを見て、
「では、こちらの話をキクタに共有しましょうか。こちらは、ただの報告だけですが」
そう尋ねる。
「うん、お願い」
ガブリエルもうなずいて云う。
ただの報告
極めて稀な邂逅に比べると、ずいぶん、扱いが軽い気がするけれど。
ふふっと何か含むように笑ったけれど、ガブリエルは何も云わなかった。
「今日、ワタシは公園へ向かいがてら、ガブリエルの病院へ寄っていたのです。裏から庭を覗いたところ、姿が見えたもので」
そう、Nが話し始める。
大学病院の裏の庭
僕にも覚えがあった。LとふたりでJのお見舞いに行った時だ。同じバスに乗り合わせたルリおばさんから逃れるために、バスを降りて病院の裏手へ走り、裏口から入ったところにあった、小さなお庭。ベンチとリハビリ用の遊歩道があったのを覚えている。
「はい、そこです。そのベンチにガブリエルがひとりで座っていました。周囲に医師や看護士の姿は見えませんでしたので、近づいて、声をかけました。とは云え、ワタシは野良ネコですので、病院の敷地に堂々と入るのは憚られます。こっそりとベンチの下に隠れて、ですが」
ふふん、と皮肉っぽくNは鼻を鳴らす。ちょっぴりシニカルな物云いも、Nらしい。
「その時、キクヒコが「飛んで」来たのです。ワタシの中へ、です」
淡々と、Nは云ってくれたけれど、僕はそれでも、どきっとした。
キクヒコさん
あの地下で、Mの「ぐるぐる」に引き込まれそうになったところを、「輪」の力で僕らを飛ばし、ガブリエルを飛ばし、Nを飛ばして、全員を助けてくれて、それ以来、どこにいるのかもわからなかった、けれど。
「飛んで」来た、Nの中へ?
じゃあ、今もNの中にいるの?
咄嗟に僕は流木から腰を浮かしかけ、膝の上にいたNが滑り落ちそうになり、慌てて両手で受け止める。
Nは落ち着き払った声で、
「いいえ、もういません。来たのはほんの一時、おそらく10秒にも満たない短い時間です。入って来た時と同様に、突然消えました。また「飛んだ」のでしょう」
そう説明してくれたので、僕は小さく息をつき、Nを元通り足の上に乗せ、流木に座り直す。
「キクヒコは、あの時と同じ状態でした。覚えていますか、彼がMの拘束を抜け、かの意識空間に現れた時」
Nにそう云われるまでもなく、覚えている。
あの時のキクヒコさんは、僕の姿だった。あの古めかしいヘッドホンとゴーグルを嵌めた、僕の姿でMの意識空間に現れたキクヒコさんは、映りの悪い映像のようにざらざらに歪んでいて、その輪郭が乱れていた。声も途切れ途切れで、ノイズ混じりだった。
Nがうなずいて、
「はい。今日も同じです。いいえ、あの時よりも、状態は悪かったかもしれません。ワタシの中へ「飛んだ」事も、わかっていたのかどうか。意識して飛んだのではなく、「力」をコントロールできていないような、そんな印象を受けました」
いつも通り、淡々とそう云ったけれど、その声にはかすかな不安や心配がにじんでいるように、僕には思えた。
いつでも冷静沈着なNだけれど、その彼が不安を覚えてしまうくらい、キクヒコさんの状態は悪かった、のだろうか。
「力」をコントロールできていない
飛ぼうと思ってNの中に飛んだのではなく、力が勝手に、暴走するような状態になっていて、Nの中へ飛び、またすぐに別の場所へ飛んだ、そういう事なの。
「はい、おそらくは。ただ、キクヒコに意識はあるようでした。「ガブリエル?」と彼が呼びかけるのが、ノイズ混じりに聞こえました。その時、ワタシはベンチの下に手を伸ばしてくれたガブリエルに触れて、つまり、つながって話をしていましたので、ワタシの中に入ったキクヒコにも、ガブリエルの存在が感じ取れたのでしょう」
ガブリエルの事は、キクヒコさんは覚えていた。自分の姿や名前すら忘れてしまったみたいだったけれど。
あの地下のロリポリのホールで、僕の体に入った状態で現れたキクヒコさんは、Nの中にいたガブリエルに「ガブリエル、いるんだろう」って声をかけていたから。
Nはうなずいて、云う。
「ノイズ混じりの、途切れ途切れの声で、彼は云いました。おそらく、ガブリエルに対して、云ったのでしょう。たった一言、「黄金虫・・・気をつけろ」と。そしてすぐに、飛びました。明らかに彼の意思ではなく、「力」に勝手に飛ばされているように、ワタシには見えました」
黄金虫、気をつけろ?
何のことだろう。僕には何も思い当たらないけれど。
ガブリエルを見ると、彼も困った顔で、肩をすくめてみせる。
「報告は以上です」
淡々と、僕の膝の上でNはそう云って、ぺろりと鼻をなめる。
こちらは、ただの報告だけ
確かにさっき、Nはそう云った、けれど。
いやいや、ただの報告、どころではないのでは。
もう一度、ガブリエルを見る。
「ただの報告、ただのキクヒコだよ。いつもの人騒がせな、ね」
肩をすくめて、困った笑顔を浮かべたまま、ガブリエルは云う。
あ、そうだった。と僕は思い至る。
Nとガブリエルは、そうなのだった。キクヒコさんには、すごく、冷淡というか、さめているというか。
けれど、
「黄金虫・・・気をつけろ」
それは、キクヒコさんからの警告、なのでは。
黄金虫が何なのか、僕にはぜんぜんわからないけれど。
ふむ、とガブリエルはあごに指を当てて、考え込むポーズになり、
「キクヒコに云われた時点では、「この人また何か云ってるね」くらいだったんだけど、キミにそう云われると、不思議とそうなのかもって思えるね」
苦笑いを消して、まじめに考える顔になった。
それは、それで、キクヒコさんの扱いが、ちょっとどうなのだろうと思ったけれど。
ひとまず、ガブリエルがまじめに検討してくれる気になってくれたならありがたい、かな。
「黄金虫、か。古い小説のタイトルじゃなかったかな。エドガー・アラン・ポー、だったっけ。海賊の宝を探す話、だね」
記憶を探るように、ほのかに薄明るいオレンジの夜空を見上げて、ガブリエルは云う。
また、何で8年も僕の中にいて、そんな事知ってるの、とは思った。
まさか、4歳の時の知識、ではないよね。
僕の眼に映っていたにも関わらず、僕の中には何も残らなかった物でも、こうしてガブリエルの記憶には、しっかり残っていたという事なのかな。
やっぱり、ガブリエルはすごい。
黄金虫は、古い小説、海賊の宝を探す話?
それに「気をつけろ」と云うのはおかしいので、キクヒコさんが云うのは、小説の「黄金虫」ではないのかもしれない。
「小説に登場する黄金虫は、架空の虫だったはず。甲虫で、背中にドクロみたいに見える模様があって、それが宝のありかを示す暗号に結びついて、みたいな話。だから、ふむ、キミの云う通り、小説とは関係なさそうだね」
空を見上げていたガブリエルの眼がふわりと下りて来て、隣に座る僕を見る。
その小説のタイトルを借りて、黄金虫って呼ばれてる何かがあるのかな。
人とか物とか、場所とか、組織や団体?それに「気をつけろ」って事だろうか。
ふむ、と、ガブリエルは口元に手を当てて、
「あるいは、本当に虫なのかも。単純に、金色の虫だから黄金虫って呼ばれてる、そういう虫がどこかにいるのかもしれないけど」
そう云って、また肩をすくめる。
「やっぱり、ただのキクヒコの寝言なんじゃないかな。無理が祟って「力」の操作もおぼつかないほど疲れ果てて、夢遊病みたいに眠りながら飛び回ってるんじゃない?ほんと、迷惑な人だよね」
やれやれと困った顔で、ガブリエルは笑う。
僕はと云えば、ガブリエルの「本当に虫なのかも」に反応して、体がすくむような気がしていたのだけれど。
ガブリエルは苦笑を浮かべて、
「Kは怖いもの知らずなのに、虫だけはどうも苦手みたいだねえ。ロリポリも、ずっと怖がってたよね」
やさしい眼で、僕を見る。
何か特別に怖い思いをしたとか、虫に嫌な思い出があるとかでもないはずなのだけれど、どうしてなのだろう。
「そう云えば、K、虫を飼ったりしたことないよね。子供なら、普通にトンボやセミを捕ったり、カブトムシを飼ったりするもんじゃない?ボクも小さい頃、庭でシジマのおじいちゃんとクワガタを探したりしたけどなあ」
僕自身、覚えはなかったし、ガブリエルが云うのなら、きっとそうなのだろう。僕が覚えていないような小さな頃の事でも、ガブリエルは僕の中で見ていたはずなのだから。
「先代も虫が嫌いだったの?」
ガブリエルが、Nにそう尋ねる。
Nは首をかしげて少し考えて、
「どちらかと云えば、苦手ではあったようです。只、ワタシの知るキクタは、大人でしたので、怖くても「怖い」とは云わなかったのかもしれません」
何か思わせぶりに、そう答えた。
確かに、Nの知るキクタは、もう老人と云っていいくらいの年齢だったはず。
虫を怖がるおじいさんって、あまりいない、のかな。見た事はない気がする。
いや、Nの云うように、怖くてもそう云えない年齢的な何かがあるのかもしれないけれど。
「ナナは、どうでしたか」
不意にそう、Nが僕に尋ねて、何かつながった気がした。
Nの云う「怖くても「怖い」とは云わなかったのかも」は、そういう事?
「ん、どういう事?」
ガブリエルが首をかしげている。
つまり、Nが今、虫が怖いという話の流れで、「ナナは、どうでしたか」と僕に尋ねたのは、ナナは怖くなかったか、という意味なのかなって。
ナナは、怖くはなかったけれど。
ガブリエルが興味津々な顔でじっと僕を見るので、ナナについて少し詳しく説明した。帰り道に、Lが話した妄想の最強ナナちゃん説も含めて。
「ははあ」
ひと通り話しを聞き終えると、ガブリエルは楽しそうにニコニコ笑いながら腕組みをして、Nを見て、
「じゃあ、Nは知ってるの。ナナちゃんの正体。ほんとに神様なの」
そんな事を聞いた。
まさか、Lの妄想を信じちゃった、わけではないと思うけれど。
ふむ、とNはぺろりと鼻をなめて、
「ワタシが彼女に会ったのはずいぶん前、まだワタシが子供だった頃の事です。彼女は、すでに大人でした。彼女が何者かは、ワタシも詳しくは知らないのです。彼女は、自分からそれを明かしたりはしませんでしたので。只・・・」
そう、言葉を切って、少し考え込むように首をかしげて、
「Lの説は、あながち間違いではないかもしれません。ワタシも当時、彼女はそうした特殊な存在なのかもしれないと思っていた覚えがありますから」
まじめな顔で、そう答えたので、驚いた。
他ならぬ、Nがそこまで云うなんて。
ガブリエルも、笑顔のままで固まって、僕を見ている。
Nは、見た目は小さな黒ネコだけれど、律儀でまじめで、決して嘘をついたりおべんちゃらを云ったりする事はない。そんじょそこらのオトナの人間よりも、よほど信用できる、立派なネコだ。
そのNが、
彼女はそうした特殊な存在なのかもしれない
と云う。その意味、その重みは、計り知れない。
「過分なお言葉、ありがとうございます、キクタ。只、少し大袈裟です」
ふふん、と困ったようにNは鼻を鳴らす。
「ワタシには、Lのような何か具体的な根拠があるわけではないのです。昔の事ですし、ただの勘、です。彼女には、人間にはない、何か特別なものを感じました。アルカナとも違う。むしろ、ワタシやクロウに近いもの、でしょうか。もちろん、彼女はネコでもなければカラスでもありませんが」
膝の上で、僕を見上げて、Nはそう云った。あの老賢者のような、すべてを見通しているかのような、不思議な眼で。
人間にはない、何か特別なもの
アルカナとも違う
ワタシやクロウに近いもの?
なんとなく、Nの云わんとするところは、わかるような、わからないような。
ナナが人間らしくないとか、人間離れした何かを持っているとか、そういうわけではなく。
どちらかと云えば、怒ったりふくれたり皮肉を云ったりするところは、ナナはすごく、人間味がある人だと思う。
それとは別に、どこか風変りな、と云うか、浮世離れした雰囲気、とでもいうようなものは、確かに感じる。
それがどんなものかと云われると・・・
「神様てきな?」
ガブリエルが云って、Nがうなずく。
「神様、というものの定義にもよるのでしょう。それは人によって異なるものでしょうから、当然、その印象の振れ幅は大きい。Lが云うのは、昔から人々の信仰の対象であったナナオ神社に関連する存在で、人知を超えた何か。我々よりも精神や意識の力に精通した、文字通り神懸かった存在、なのでしょう」
Nの説明は、いつもながらわかりやすくて、すとんと腑に落ちる。
ナナオ神社の名前と、御神木の金木犀。
そして、僕のこのオレンジの海で彼女が見せた、不思議な力。
そうなのかもしれない。
ナナの持つ、どこか不思議で独特な雰囲気を言い表すのには、Lの云うその表現が、しっくりくるのかも。
じゃあ神様なの、と云われると、ちょっと違うんじゃないかなと思うのだけれど。
それは、Nの云う通り、神様という言葉に対する定義によるものなのかも。
うん、とガブリエルは小さくうなずいて、
「でも、頼もしいね」
そう云って、微笑んだ。
頼もしい
ナナが?
「あれ、そうじゃない?だって、Nさえ認める特別な何かを持ってる人でしょ。それに何より、オトナだし。あ、見た目は、ちっちゃいハナちゃんに入ってるわけだから、子供なんだろうけど」
ふふふ、とガブリエルはやさしく笑う。
オトナ
云われてみれば、そうだった。
ナナは大人だ。しかも、キクタと同じか、もしかするともっと年上の。
それの意味するところを、ガブリエルに云われてようやく僕は気づいた。
ナナは、僕らの知らないあの地下の昔を知ってる。
アルカナや能力の事を知ってる。
火事やレムナントの事も、教えてくれた。
記憶を失っているキクヒコさんやルリおばさんとは違って、ナナは全部覚えている。
それは、頼もしい。
いろんな事を教えてくれた、という意味では、僕らには、Mの存在も大きかったけれど。
Mは、敵なのか味方なのか、まだよくわからない所も多いし、現に、今どこにいるのかもわからない。
そういう意味では、ナナは、僕らがはじめて出会った、頼れる大人なんだ。
ちょっと、めんどくさがりで、口は悪いけれど。
いや、それはおもに、僕に対してだけ、かな。
JやLにはやさしいし、ナナがどこに住んでるのかもわかってる。そしてそこには、ルリおばさんもいる。
極めて稀な邂逅、というNの表現は、大袈裟でも何でもなく、確かにその通りだった。
ハナが僕のクラスに転校してくる事がなければ、僕らがナナに出会う事はなかった。
あの高級マンションの最上階に隠れ住んだままだったとしたら、僕らには会う機会はなかっただろう。
ルリおばさんが気まぐれに(かどうかはわからないけれど)、ハナをそそのかしてくれたおかげだ。
「うん。ほらね、やっぱりキクヒコの世迷言なんかより、ナナちゃんの方がよっぽど大事でしょ」
くすくす笑って、ガブリエルは云う。
Nも同意するようにうなずいている。
世迷言なんかって、うん、それもなかなかひどいな。
でも確かに、「黄金虫」が何なのかわからない以上、「気をつけろ」と云われても、何をどうすればいいのか。
とりあえず、虫とか何か怪しいものには、みんなで注意しようか、くらいかな。
それよりも、ハナは僕のクラスの転校生で、隣の席だ。
ナナが云うには、毎日は登校しないとの事だったけれど、会う方法がないわけではない。
Lが「マンションへ遊びに行く」と云った時にも、ナナは「好きにするが良い」と云ってた。あまり嬉しくはなさそうな顔をしていたような気もするけれど、「ダメ」「来るな」とは云わなかった。
「黄金虫」についても、ナナに聞いてみたらいいのでは。
知っていれば何か教えてくれるかもしれないし、ナナが知らないと云うのであれば、キクヒコさんのただの寝言、という可能性も高くなるのかも。
「うん、いいね。何かわかったらボクにも教えて」
そう云って、ガブリエルは立ち上がる。
もう帰るの。
「病院は、もうとっくに消灯時間を過ぎてるからねえ。キミだって、明日も学校でしょ、良い子は寝る時間だよ」
ふふっと、ガブリエルはやさしい微笑みを浮かべて、
「ボクも早くナナちゃんやハナちゃんに会いたいからさ、リハビリ頑張るよ」
そう云って、コテージのテラスへ上る階段の左右にある、Lの秘密基地のドアとJのお庭の窓を見る。
ふたりももう寝ているのだろうか。ドアも窓も閉じていた。
「ボクの部屋の窓は、もうちょっと待ってね。リハビリが終わったら、ふたりみたいに出しっぱなしにしよう」
ガブリエルはいつもの笑顔だったけれど、その裏に何か決意のようなものを感じた気がして、僕は黙ってうなずいた。
ガブリエルらしい、自分自身に対する厳しさ、のようなもの、だろうか。
リハビリが終わるまでは、自分自身に甘えを許さない、そんな決意だったのかもしれない。
僕もNを抱いて立ち上がる。
Nがふふん、と鼻を鳴らして、
「慌てずゆっくり行きましょう。まだまだ、先は長いのですから」
また、何か預言者めいた事を淡々と口にする。
ガブリエルが楽しそうな笑顔でNを見て、僕を見る。
うん、ゆっくり行こう。
僕がそう云うと、ガブリエルはいつものやさしい微笑みでうなずいてた。
daydream believer v
屋根裏ネコのゆううつ II