見覚えのある小学校の、見覚えのない夢を見た。
見慣れた校舎のどこか、なのだろうけれど、その場所がどこにあるのか、僕は知らない。
これもまた、誰かの記憶?
「海」に保管された、つながりのある誰かの「記憶」
Jかな、まさか、Lではないと思うけれど。
ここは校舎の3階、だろうか。
窓から見える風景には高さがあって、校庭を囲む桜並木が低く小さく見える。
3階建ての校舎の3階の階段を上り切ったところ、なのかもしれない。
屋上へとつながるらしいその階段の突き当たりにある踊り場は、物置きのような使われ方をしているみたいだった。
古そうなオルガンが窓の下の壁際に並べて置いてあり、その横には、これもまた古そうな木製の机が2段に重ねて積み上げられている。
視界が高い。
その古いオルガンの上に、夢の主は座って、窓から外を眺めているようだった。
Jではないのかも。
鍵盤の蓋の外れかけた、壊れたオルガンの上に座って、窓から外を眺める、だなんて。そんなお行儀の悪い事を、Jがするとは思えない。
Lなら、もしかしたらそれくらいの事は、(誰の眼もない場所なら、)やるかも知れないけれど。
でも、Lが学校に?
めったに登校しない、という話だったけれど、学校へ行かないわけではない、のかな。
あるいは、最近の「記憶」ではないのかもしれない。
たまたま気が向いて登校してみたけれど、やっぱり面白くなくて、授業を抜け出して誰も来ないような物置きがわりの階段の行き止まりの踊り場で、外を眺めているところ、とか。あり得なくはないのかも。
誰かが階段を登ってくる足音がして、夢の主は振り返る。
下を向くと、階段を上り終えたところに、小柄な男の子が立っていた。
小動物を思わせる、大きな前歯の目立つ、目のくりっとした少年だった。
背はそれほど高くないけれど、5年生か6年生くらいに見える。
ニッと大きな前歯をみせて、少年が親しげな笑顔で云う。
「やっぱりここにいた」
そして、慣れた動作でオルガンの椅子を踏み台がわりにして、ひょいとオルガンに上り、隣に座る。
「ハル」
夢の主が、彼を見てつぶやく。
ハル、というのが彼の名前らしい。
「どうした、また珍しい虫でも見つけたのか」
隣に座る少年を見下ろして、聞き覚えのある甲高いソプラノボイスが云った。
夢の主の、この声、そして、この視界の高さ、
まさか、これは、アイの記憶?
あり得なくは、ないけれど。
アイにも、キクタから分裂したアルカナが入ってる。
ナナは「4人の赤子に」と云ってたので、それは間違いないと思う。
でも、今まで一度もアイとは「海」でつながった事はなかったし、アイに何か「力」があるというのは、見たこともなく、聞いたこともない。
力が使えるかどうか、海でつながって話せるかどうか、そこは問題じゃないのだろうか。
それとは関係なく、つながりのあるアルカナを持つアイの「記憶」は、僕の「海」に保管されている、という事。
たぶん、そうなのだろう。
まさか、アイの記憶を夢に見るなんて、ちょっと、いやかなり、びっくりしたけれど。
ふへへ、とうれしそうにハルと呼ばれた少年はまた大きな前歯を見せて笑い、
「これ見て」
制服の半ズボンのポケットからスマホを取り出して、画面をアイに向ける。
スマホに付けられた、赤いテントウムシのストラップが揺れている。
スマホは、一応、小学校へは持ってきてはいけない決まりになっている。
けれど、GPSによる位置情報の確認とか、安全面から親に持たされてる子は多いらしい。先生たちにもその辺りは、暗黙の了解のようになっていて、校内でランドセルから出さなければ、持っている事自体は咎められたりしないみたいだった。
僕はまだ、スマホ自体持ってないけれど。
アイは、スマホを見て驚くでもなく、自然に画面を覗き込んでいたので、このハルという友人は普段からスマホを持ち歩いていて、アイもそれを承知していたのだろう。
スマホの画面に映っていたのは、画像だった。土と砂利、小石の混じった地面をななめ上から写したような、画像。
「なんだこりゃ、どこだこれ」
アイは首をかしげる。地面しか写っていないように見えるので、角度を変えて見える何かを探してるみたいだった。
僕にも、地面しか見えない。
ん?とスマホ画面を自分の方へ向けてのぞき込んで、
「ああ、ごめん。拡大しすぎちゃった。見せたいものが画面の外にずれちゃってたみたい」
すっすっと指先で画面をスワイプさせ、大きさも調整してくれたらしい、
「これで見えるでしょ、どう」
ハルはもう一度、スマホ画面をアイに向けて差し出した。
さっきよりもやや引いた画像には、草むらの端の地面らしき一帯が写っていて、その中央、雑草の根元と地面の境目のところに、何か金属の塊のようなものが見えた。
「何だよこれ。燃えないゴミか」
遠慮のないアイの感想は、当らずと云えども遠からずといった印象だった。
僕にも、何か加工に失敗した金属の塊か、ひしゃげて潰れたアルミ缶か何かに見えた。錆びた鉄のような色にも見えるので、スチール缶かな。
「えー、ひどいなゴミじゃないよ、よく見て。うーんちょっとピンボケだったかなあ」
ハルは不満げに、もう一度スマホ画面をのぞき込んで、よく見えるようにあれこれ調整してくれているらしい。
その手元に顔を寄せてのぞき込んでいたアイが、
「うわ、何だよこれ。顔があるじゃねーか、キモいな。これ、虫か?」
甲高い声を張り上げて云う。
顔がある
そう云われてみると、金属っぽい丸い表面に人間の目鼻のように見える影か模様のような暗い部分があるけれど。
虫、なのだとしたら、その顔は背中の羽の部分にある、模様なのかな。
丸い、甲虫のように見えなくもない。錆色というか鈍色というか、本当に、錆びた金属のような、くすんだ色なので、虫の形のブローチとか、何かそんな装飾品のようにも見える。だとしても、あまり見栄えの良くない装飾品ではあるけれど。
歪んで潰れたコガネムシみたいな金属製のブローチ?
いや違うか、錆びた金属製の歪んで潰れたブローチみたいな虫、かな。
背中に人の顔みたいな模様のある、気味の悪い錆色の虫。
「うん」
へへへ、とハルは笑う。
ようやく、アイが彼の見せたかったものを見つけてくれたのが、うれしいらしい。
「アイ、黄金虫って知ってる?」
そう、ハルが口にしたので、思わず僕はどきりとした。
黄金虫
この、気味の悪い模様のある、錆びた金属みたいな虫が?
「オウゴンチュウ?知らねえな。それがこいつの名前なのか。ああ、金色の虫って事か。いや、黄金って云うよりは、だいぶ錆びてるみてえに見えるけど」
アイは、怖くないのだろう。スマホ画面に顔を寄せて、しげしげとその虫を眺めるので、僕は思わず眼をそらしたくなった。けれど、これはアイの記憶で、アイの目線なので、僕には逸らすことも眼を閉じることもできなかった。
記憶を見る分には、ある程度こちらの自由は効くはず、とナナは云ってたけれど、夢で見る場合はそうではないのかな。
「これ、大きさはどんなもんだ?この写真だとだいぶちっさく見えるけど」
アイが尋ねると、ハルは何かを思い出すみたいに首をひねって、
「ぼくが見たこいつは、これくらいだったかな」
スマホを持っていない方の手で、親指と人差し指を軽く広げてみせる。
アイほど大柄ではなく、どちらかといえば小柄な少年ではあるけれど、その親指と人差し指を軽く広げたサイズって、10cmくらいあるのでは。
「そんなでかいのか。ヘラクレスの胴体くらいってことか」
そうアイが云うのは、ヘラクレスオオカブトの事なのだろう。長いツノが特徴の、全長が世界最大のカブトムシで、確か20cmくらいあったはず。体のほぼ半分がその長いツノなので、胴体はアイの云う通り、10cm近くあるのかもしれない。
「で、おまえこれどうした。捕まえたんだろ。家にいるのか」
今にも彼の家まで見に行きそうな勢いでアイが云うので、僕は少々面食らった。
捕まえた、家にいる
こんな気味の悪いでっかい虫を?
こんなやさしげな子が?家で飼ってるの
ハルは悔しそうな顔になって、
「さすがに素手で掴むのはどうかと思って。虫網持ってなかったし、何か道具になりそうなものないかなって、その辺探してたら、逃げられちゃった」
そう云ったので、僕はほっとしたけれど。
「マジかよ、残念だなあ」
アイは心底悔しそうに云って、
「これどこだ。放課後、一緒に行こうぜ、虫網持ってよ」
ノリノリでそう云うので、僕は何だかげんなりした。
いや、全然構わないのだけれど。アイがどこで誰と遊ぼうが、どんな虫を捕まえようが、それは僕の知ったことではないのだけれども。
まあ、アイらしくて、いいかな、とも思う。
コワモテで一見怖そうに見えても、根はやさしくて面倒見のいいお兄ちゃんなんだ。
けれど、
「黄金虫・・・気をつけろ」
あのキクヒコさんが残したというメッセージが、気にかかる。
ガブリエルが云うには、「黄金虫」自体は、古い海外の小説のタイトルらしい。
実在する昆虫ではなく、小説に登場するのも、架空の虫だという話だった。
確か、背中にドクロに見える模様があって、それが宝のありかを示すヒントにつながって、とか、そんなお話。
背中に、ドクロ?
ハルの見せてくれた画像の虫にも、背中に人の顔に似た模様があるように見えた。
偶然、だろうか。
小説に出てくる虫によく似た特徴を持つ虫だから、同じ名前で「黄金虫」と呼ばれているのかな。
そう考えれば、別におかしくはないのかも。
たまたま、タイミング的にキクヒコさんのメッセージと重なったので、僕は何だか怪しい気がしてしまったけれど。
そもそも、そのキクヒコさんの云う「黄金虫」が、何を指しているのかも、まだわからないのだし。
「河川敷だよ、ククリ島に渡るビッグブリッジの下辺り」
ハルが云うのは、アイの「これどこだ」に対する答えらしい。
ククリ島に渡る橋、ビッグブリッジって名前だったんだ。確かに大きな橋だけど、あまりにもそのままでは。
それが正式名称かどうかはわからない。小学生がそう呼んでいるだけの通称なのかもしれない。
「あの辺に、こんな土の地面がまだあるのかよ。全部コンクリートの護岸になってんのかと思ってたぜ」
アイのその感想は、僕もそう思った。
あの大きな鉄の橋の上からしか見たことはなかったけれど、河岸はコンクリートで固められている印象だったので、虫取りができそうな土の地面や草むらがあるというのはちょっと意外な気がする。
「橋の上とか川沿いの歩道からは降りれないよ。コンクリートの護岸にフェンスがあるからね。上流から河川敷を川に沿って下って行くんだよ。そしたら、橋柱の周りとかにまだ剥き出しの河原の土の地面が結構あるよ」
ハルは少し得意げにそう説明する。見た目はおとなしそうなのに、意外と行動派の虫取り少年なのかもしれない。
「今日は、って云うか、平日は塾があるから無理だなあ。また週末に行ってみようと思ってたんだけど」
ハルがそう云うと、
「おお、そっか。俺、土曜はバスケがあるからダメだけど、日曜はどうだ。日曜なら朝からでも行けるぜ」
考えるまでもなく、さも当然のようにアイが云うのは、いかにも彼らしいなと思う。
「いいね、じゃあ日曜に一緒に行こう。土曜は、ひとりで下見に行ってみようかな。他にもこいつがいそうな場所を見つけておくよ」
うれしそうにハルもそう答える。
この子は、アイが怖くない事を知ってるんだな、そう思ったら何だかうれしくなった。
当たり前なのだろうけれど、6年生の中にも、ただアイを恐れるだけではなくて、ちゃんと彼の良さをわかってくれる子がいるんだ。
その時、始業のチャイムが鳴り響いて、
「おっとやべえ」
アイが云って、オルガンの上から踊り場へ飛び降りる。
「次、音楽だから、音楽室すぐそこでしょ」
ハルもくすくす笑って、アイの隣に飛び降りた。
なるほど、3階の音楽室の横の階段の上、だったのかな。
5時間目が音楽だから、アイは昼休みをそこで過ごしていた、という事らしい。
そしてハルはそれを知っていて、アイを探しに来た、という事かな。
夢でアイの記憶につながったのは、ちょっと驚きだったけれど。
でも、アイともちゃんとつながってる事がわかった事、それに何より、取り巻きの子分ばかりではなくて、ちゃんとアイを理解してくれて、休日に一緒に虫取りに行くような仲良しの友達がいるのを知った事は、僕にはうれしい発見だったかもしれない。
土曜日、アイが例の医大のバスケ部の練習に参加している頃、そしてアイの友人のハルはきっとひとりで河川敷へあの虫を探しに行ってる頃、
僕は、ハナの灰の海にいた。
「ほう。約束の時間より前に来るとは、殊勝な心がけじゃ」
そう声をかけられて、振り返るとナナが笑顔で灰の砂浜に立っていた。
前の晩に貝殻の風鈴が鳴って、海を「振り返る」と、
「明日、13時でどうじゃ」
そう、ナナの声がした。姿は見えなかったけれど。
土曜日の13時。
だいじょうぶ、我が家の休日は、お昼はきっちり12時なので、13時ならもう食べ終えて部屋に戻ってる時間のはず。
そう答えると、
「うむ。ではの」
短く云って、ナナの気配はすっと消えてた。
そして、今日。
午後から父と買い物に出かけるらしく、母が早々とお昼を用意してくれていたので、12時半には食べ終えて、僕は部屋に戻っていた。
部屋でしばらく食休みをして、少し早いけれど、と思いながら、10分前にハナの海を「振り返って」ふわりと降り立ってみたところ、ナナに褒められた、というわけだった。
ハナは、今日も姿が見えない。
と云うか、ナナはいつもハナの姿だけれど。
ナナの本当の?と云うか、元の?姿には戻ったりしないのかな。
まさかキクヒコさんのように忘れてしまった、というわけでもないのだろうし。
「何が不服か。ハナの姿は、かわいかろ」
ちらっとサングラスの上から灰色の眼で僕をにらんで、ナナは云う。
もちろん、ハナがかわいいのは知ってるし、今日もかわいいハナの姿で出てきてくれてありがとうとは思うけれど、そういう意味ではなくて。
「ならばおぬしも爺いの姿になってみよ。さすれば儂も、いや、待て、止めよ。何が悲しゅうてこの意識空間で老人会の遠足のような真似をせねばならぬのじゃ。やはりこのままで良い」
何だかよくわからないけれど、ナナはLのようにひとりで問いかけをして、ひとりで答えを出したらしい。
どのみち僕は、先代キクタの姿を知らないし。だから、僕も、このままでいいと思うけれど。
「では、参るぞ」
気を取り直したのかな、すっとナナの冷たい小さな手が、僕の右手を握る。
ナナの本当の姿については、何だか上手にごまかされたような気がしたけれど。
なんて考える暇もなく、ふわりと体が浮き上がるような感覚がしたと思ったら、次の瞬間には飛んでいた。
あのひび割れの底のマグマの下、DNAを思わせるねじれた梯子状の構造物の前に、僕らは立っていた。
瞬間移動
本当に一瞬で飛べるんだ。
嘘だと思ってたわけじゃないし、疑ってもいなかったけれど。
本当に、文字通り一瞬で、またたきする間もなかったかもしれない。
意識空間、時間と空間、それから、宇宙?
そんな言葉が脳裏に浮かんで、
「儂に聞くなよ?それは、おぬしが専門じゃからの」
先回りして釘を刺すように、ナナが云う。
なるほど?
ちょっとだけ、わかったかもしれない。
僕が専門?というわけではなく、ナナよりも研究者側、と云うか彼らに近い位置にいたはずのキクタが、という事なのかも。
だから、儂に聞くな、なのかな。
今で云えば、それを聞くべきは、Lだろうか。
と云うか、キクタはそんな事にも詳しい人だったんだ。
「ロクに学校へも行かず、毎日研究者共に専門知識を詰め込まれていたのじゃ。そうもなろう」
すっとつないでいた手を離して、ナナはその手で壁のねじれた梯子に触れる。
梯子がぐにゃりと開いて、アーチ型の穴が口をぽっかりと開けた。
今日は、森の匂いがしない。
これは、地下の匂い、かな。土の匂いと、湿気った少しカビ臭いような匂い。
それからかすかに、鼻をつく薬品のような匂いもするような。
穴の中は暗く、ここからでは何も見えない。
「参るか。はぐれるような事はないと思うが、念のためじゃ」
そう云って、ナナはまた僕の右手をつなぐ。
ひんやりと冷たい手が、とても心地良い。
すーっと滑るように僕らは穴の中へ進む。
地面から、ほんの少し浮き上がっているらしい。
数メートル進んだかどうかという所でふわりと止まり、薄暗い周囲の様子が見えて来た。
振り返ると、後ろにもう入り口は見えなくなっている。
「帰りの心配か?案ずるな、ひとっ飛びで戻れるはずじゃ」
そう云って僕を見上げるナナの姿は、暗いのにはっきりと見えていた。
やっぱり、夢で見たJやアイの記憶とは違って、視界は僕の視界のまま、自由に動かせる。
「ほう、アイの記憶を見たのか。面白い、あとで聞かせよ」
ニヤリとナナは僕を見て笑い、すぐにその笑みを収めて辺りに集中する。
薄暗い、小部屋のような場所だった。
牢獄、だろうか。左手側に鉄の格子が見える。
天井は低く、部屋は狭い。大人が両手を伸ばしたら、左右の壁に届きそうだ。
前後は多少広いけれど、それでも左右の倍ほどだろう。
1.5m×3mほどの、牢獄。
前後と右手の壁、それに天井はコンクリート製、のように見えた。
室内に灯りはなく、左手の鉄格子の向こう、通路の先に黄色っぽい電灯の灯りがあるらしい。
わずかなその光に照らされた檻の中に、僕らはいた。
右手側の壁に、ベッドらしき木製の台があり、そこに男が腰かけている。
低いベッドに座り、右足に右ひじを乗せるようにして、頬杖をつくような形でうつむいている。
ぼさぼさの長い髪がかかっていて、顔は見えないけれど、ヌガノマに違いない。
何故なら、左腕がなかった。
黒っぽいツナギのような服の左の袖も肩から切り落とされていて、左腕があるべき場所には何もない。
左足は、長いズボンを履いているので見えなかったけれど、義足だろうか。
僕が地下で出会った時のヌガノマは、左の膝の上あたりでズボンのすそを結んでいたはず。
「妙じゃの」
ナナが云う。僕を見上げるのに疲れたのか、いつの間にか僕の真横、目線の合う高さに浮かんでいた。
妙、と云うのは、何だろう。
「地下牢のようじゃが、ここはどこじゃ。あの地下施設に、牢屋なぞなかったはず。あったのは研究施設と居住区じゃからの。あの地下ならば、ナガヌマがおったのは病室のはずじゃ。ドアはあっても檻などないぞ」
ナナは首をかしげ、考え込む。
あの地下施設ではなく、別の地下、という事?
あるいは、時期が違うのだろうか。
もっと以前の、戦時中とか。
「それはないの。左腕がなく、左足が義足じゃ。隕石落下後であるのは、間違いない」
そうなのだろうか。隕石落下以前から、左腕と左足がなかった可能性は・・・。
そう考えて、あのMの見せてくれたA-0の記憶を思い返す。担架に乗せられたヌガノマの腕と足には白い真新しい包帯がまかれ、かすかに血がにじんでいたはず。
戦時中に手足を失っていたなら、隕石落下後に真新しい包帯を巻かれ、血がにじむことはあり得ない、かな。
「うむ。レムナント化して間もない時期ならば、傷口が固まりきっておらず、血がにじむのも不思議ではないの。手足を失うほどの傷ならば、完全にふさがって固まるのに数日はかかるじゃろ」
ナナが無意識に、包帯ぐるぐる巻きの手を唇に当てて考え込みながら云う。
だとすると、これは、いつの記憶?
地下施設から脱走した後、どこか別の場所で再び捕らえられ、牢獄に入れられていたのだろうか。
ゆらり、と鉄格子の向こう側の灯りが動いたような気がしたのは、誰かが通路を歩いて来て、灯りの前を横切ったためらしい。
白衣を着た人影が、格子の向こうに立っていた。
逆光で、顔は黒く影になっていて見えないけれど、柔らかいシルエットから、あまり背の高くない女性のように見える。
ヌガノマは、眠っているのだろうか。眼の前に人影が立っても、ぴくりとも反応しなかった。
「ナガヌマ」
囁くような女性の声が、黒い影から発せられた。
かすれているのは、抑えて小声にしているせいかもしれない。
ヌガノマは、動かない。
うつむいたままなので、顔は見えない。
女性らしき影が、鉄格子に顔を寄せて、
「ナガヌマ、ここを出ましょう。私を、一緒に連れ出してくれませんか」
さらに声をひそめて、云う。
「む、此奴」
ナナが云って、すっと鉄格子に近づくので、びっくりした。
「何を驚く。これは記憶じゃぞ。奴らに儂らは見えぬわ」
それは、そうだけれど。
急に動くから、びっくりするでしょ。
鉄格子を挟んで、すぐ目の前に、女性の顔がある。
黒く見えたのは、影になっていたから、だけではなかった。
この人は、いや、この人も、
「うむ、レムナントじゃ」
ナナの云う通り、だった。ハナと同じ、黒い肌。
ぼんやりと黄色く光る通路の灯りを映すその眼は、茶色に見えるけれどどことなく緑がかっているようにも見えた。
「ヘーゼルじゃな」
ナナが云う。
「緑がかった茶色の瞳よ。米国や欧州人に多く見られる、明るさによって2色に色が変わって見える眼じゃ」
そう教えてくれた。
ゆるくウェーブを描く髪は黒、に見えるけれど、黄色い光の加減で茶色っぽくも見える。その長い髪を、首の後ろで無造作にひとつに束ねている。
「ブルネットじゃ。黒髪に近い茶髪、これもヨーロッパ人に多い特徴じゃの」
ナナは、科学や物理は苦手みたいだけれど、人間や動物にはとても詳しい。その道の学者かな、と思えるくらいに。
「これは「学」ではなく、単なる知識じゃ。それこそ、年の功じゃな」
ふふん、とナナは鼻で笑う。
「ナガヌマ」
もう一度、僕らの眼の前で彼女が云う。
ナナの云う通り、あちらからは見えてはいないのだろうけれど、びっくりする。
ヘーゼルの瞳は、目の前の僕らを通り抜けて、座るヌガノマをまっすぐに見下ろしている。
「貴様」
低いしゃがれ声が背後から聞こえて、僕は悲鳴を上げそうになった。
これは、想像以上に、心臓に悪いかもしれない。
「何を云う、小学生が。心臓の弱った爺いでもあるまいに」
かっかっとナナは笑って、僕の手を引いて手前の壁際に下がった。
ようやくヌガノマが動きを見せたので、少し離れて見物しようという事なのだろう、けれど。
思っていた以上に、僕にはあの声がトラウマになってるのかも。
「なあに、すぐ慣れるじゃろ」
ナナは何故か余裕綽々で、楽しそうですらあるけれど。
ヌガノマがゆっくりと顔を上げて、鉄格子の向こうの女性を見る。
「モニカ、とか云ったか。貴様がここを出て、どうする」
掠れた低いしゃがれ声で、けれど、ヌガノマはしっかりと話していた。
あの、片言のような話し方ではなく、流暢に。
「モニカ」
ナナは、ヌガノマの顔から眼を離し、モニカと呼ばれた女性をあらためて見つめる。
「どこかで聞いた名じゃが、はて、どこじゃったか」
また、ナナはふわふわと鉄格子に近づいて、食い入るようにモニカの横顔をじっと見る。
「わかりません。けれど、もうここにはいられません。私は、ここを出たい」
モニカはかぶりを振って、すがるような眼でヌガノマを見つめる。
ふん、と何か汚らわしいものでも見るようにヌガノマはモニカを一瞥して、興味なさそうに、またうつむいた。
「ナガヌマ、あなたは、子供を探しているのでしょう」
意を決したように、少し大きな声でそう云ったモニカの言葉に、全員がぴくりと反応する。
ヌガノマも、僕も、そしてナナも。
子供を探している
「私には、それを手伝う事が出来ます。私は「王」の力を継いでいます。だから」
鉄格子を両手でつかんで、モニカはまた囁くようなかすれ声でそう訴える。
「王」の力?
思わずナナを見ると、ナナも僕を見る。
王の力を継いだ、レムナント
モニカ
この人は、誰なの。
「その「王」の力とやらで」
うつむいたまま、ヌガノマのしゃがれ声が云う。
「見つけられるのか「あの子」を」
そして、モニカがまだ何も答えないうちに続けて、
「それで貴様に一体何の得がある」
錆びたナイフを突き刺すような、一息にとどめを刺そうとするような、そんな云い方でヌガノマは云う。
下を向いたまま、けれど、垂れ下がった長い髪の間から、刺すような鋭い視線で、ヌガノマはモニカをにらみつけている。
「私は」
喉にからまるような、かすれた囁き声で、モニカは云う。
「もうここにいたくありません。あの博士の実験を、私は止めたい」
鉄格子を両手でぎゅっと掴んだまま、モニカはそう云って、ヌガノマの前に跪く。
あの博士の実験
ヌガノマは、ここで実験されているの。
レムナント、実験、その言葉で思い浮かぶのは、
「H・Oの一派か。彼奴らめ、ナガヌマを捕らえておったのか。これはいつの話じゃ」
呟くように云って、ナナは唇に右手をぎゅっと押しつけて考え込む。
「答えになっていない」
地の底から響くようなしゃがれ声が云う。
「それで、貴様は、一体何を得る」
一言ずつ、言葉を刻むように云うヌガノマに、モニカは挑むように正面からその鋭い視線を受け止めて、
「それが答えです。私はここを出たい。そしてあなたを救い、あの子供も救いたい」
きっぱりとそう云った。
さっきまでのかすれた囁き声ではなく、強い意志を感じさせる声。
けれどそれはとてもやさしい、しとしとと降る慈雨のような声。
この声、どこかで聞いた?
ふん、とまたヌガノマは鼻で笑う。
「俺を救う?「あの子」も救う?理解できん。罠か、あるいは貴様、虚言の癖でもあるのか」
吐き捨てるように、ヌガノマはそうつぶやいて、けれど不意に何かに興味を引かれたように、すっと顔を上げた。
「だが面白い」
ニヤリと、白い歯を見せて笑う。長いざんばら髪の下で、失くした左眼の眼窩に暗く燃える炎のようなものが見えたような気がした。
「あの博士との実験ごっこにも飽きた。貴様の「王」の力とやら、見せて貰うとするか」
そう云って、ヌガノマはすっくと立ち上がる。
とても片足が義足とは思えない、自然で無駄のない動き。
それに、背が高い。
低い天井に頭が触れそうなほど、たぶん、アイと同じか、アイよりも長身かも。
ただ、異様に痩せているので、アイほど大きさによる威圧感はないけれど。
そのかわりに、触れれば切れそうな、剥き出しの刃物のような圧がある。
一瞬の間、モニカは跪いたまま、立ち上がったヌガノマを呆然と見上げていた。
彼に何を云われたのかわからなかったのか、あるいは彼がこうも簡単に同意するとは思っていなかったのかもしれない。
はっと息を飲んで立ち上がり、モニカは白衣のポケットから鍵を取り出す。
牢の鍵、なのだろう。
震える手で慌てて鍵を開けるモニカを檻の中から見下ろして、
「貴様、本気でここを出たいのなら、その目立つ白衣は捨てて行け。暗い地下では良い的になる」
ヌガノマは面白くもなさそうに、しゃがれ声でそう云った。
薄暗い天井から、暗い幕が降りるように周囲が暗くなり、ヌガノマの声とその姿が消える。
真っ暗な空間には、浮かぶナナと僕の体だけが見えてる。
場面が切り変わるのかな。
「ふむ。今の記憶はあれで終いのようじゃ」
暗くなった周囲をちらりと見渡して、ナナが云う。
「切れたつながりのようなものは、見当たらんかったの。ま、いきなり当たりという事もないか」
切れたつながり
失くした記憶と、本人の意識とのつながり、
それを元通りにつなぐ事ができれば、記憶が取り戻せるかもしれない、
前にナナが話してくれた、その「切れたつながり」の事だろう。
僕には、それらしき物は、わからなかった。けれど、見落としている可能性は、ないのだろうか。
「それはないじゃろ。本来はつながっているべき物が、切れておる状態じゃ。いわば、王の「海」に異常が発生しておるのよ。それを儂らが見落とすことは、まずあるまい」
そう云われると、そんな気もする。
「しかしまさか、ナガヌマが彼奴らに囚われておったとはの。脱走から、ガブリエルの誘拐までの間のいずれかの時期、それもおそらく、脱走の方に近い時期じゃろうな」
軽く握った右手を、唇に押し当てて、ナナは、ふーむと唸っている。
何かを考える時の、ナナの癖なのだろう。
左手は僕の右手とつないだままなので、自然と唇に押し当てられるのは包帯ぐるぐるの右手になる。
だいぶ見慣れてきたとは云え、やっぱりその包帯が眼に入ると、少しどきっとしてしまう。
それはともかく、ヌガノマとH・O一派との接触は、やっぱりあったのか、というのが正直な感想だった。
ないといいな、と願っていたのだけれど。
時期についても、ナナの予想通り、ヌガノマが地下施設から逃げ出した後、それほど間を開けないうちに、と考えるのが自然な気がする。
ヌガノマは、今と比べるとかなり、何というか、人間らしかった。と云うより、普通の人間に見えた。
特徴的なしゃがれ声はそのままだったけれど、あの女性、モニカとしっかり話ができていたし、思考も明瞭なようだった。
ガブリエル誘拐の時期に近づくほどに壊れていったのだとしたら、さっきのは地下施設を抜け出して、その狂気も少し落ち着いて、人間らしさや冷静さを取り戻していた頃、だったのかもしれない。
「あるいは、彼奴らの実験が原因か。囚われ、おかしな実験に付き合わされるうち、狂気じみた妄執が抑えられ、冷静さを取り戻していたのやもしれぬな」
そうなのかもしれない。
「博士との実験ごっこにも飽きた」とヌガノマは云ってた。
どんな実験にどれくらいの期間付き合わされていたのかはわからないけれど、奴らがレムナントの研究をしていたのだとしたら、ヌガノマは貴重なサンプルだ。
それほど酷い扱いは、受けていなかったのかも。
「貴重な、かどうかはわからぬがな。あのモニカとやらもレムナントじゃ。一派には他にもレムナントがおったのかもしれん。それに、酷いかどうかはわからぬが、少なくともあやつが逃げ出したくなる組織であったのは確かじゃろ」
そうだった。
モニカは再三、「ここにいたくない」「ここを出たい」とヌガノマに訴えていた。「博士の実験を止めたい」とも。
H・O一派の研究施設が、あのモニカという女性にとって居心地の良い場所ではなかったのは、間違いなさそう。
そして、そこで行われていた実験に、彼女が嫌悪感を抱いていたらしい事も、感じ取れた。
「続けるかの。運が良ければ、さっきの記憶とつながる、あの前後の話が見れるかもしれん」
ナナは云う。
確かに、いくつか目新しい情報は手に入ったけれど、まだまだ情報が足りない。
切れたつながり
失くした記憶と、本人の意識とのつながり、
それも、まだ見つけていないし。
「あのモニカなる人物の正体がわかればの。ナガヌマ本人には聞けずとも、あやつを見つける事ができれば、あるいは話は早いかもしれん。今の記憶が何年前の事なのかはわからぬが、レムナントならば、まだ生きておる可能性も高いしの」
ナナはさらりとそう云うけれど、そうなのだろうか。
レムナントなので生きているかも、そこに疑問はないけれど、レムナントだからこそ、今この時代に生きるのは、たいへんなのでは、とも思える。
「さにあらず。ただ隠れて生きるのみなら、今の時代の方がはるかに容易じゃ。現にハナも、上手に隠れて生きておろう。今でこそ跳ねっ返りのおかげで、住処にも恵まれたが、少し前まではあの地下で隠れて暮らしておった訳じゃからの。ナガヌマのような特徴的な体の持ち主はさておき、五体満足で大人のモニカが、どこぞにこっそり隠れて暮らすくらい造作もなかろ。無論、彼奴らに見つからねば、の話じゃがの。既に見つかって連れ戻されておれば、話を聞くも何もないわ」
12年前の大地震によって、軍が正式に撤退した今となっては、地下に隠れて暮らすのも、奴らの目を逃れるのも当時に比べて容易、という事かな。それなら、納得だった。
うむ、と小さくうなずいて、ナナは真っ暗になった空間をふわりと進む。
すぐに霧が晴れるように黒い靄が消え、次の場面が現れた。
今度もまた、暗い地下。見覚えのない、狭い地下道と黄色っぽいまばらな灯り。
地面も左右の壁もむき出しの黒っぽい土で、天井と所々に木材で補強がされている、古そうな地下道だった。
先程の牢獄の先の通路、だろうか。
その地下通路を、ナナは僕の手を引いて、滑るように移動する。
足音が聞こえるけれど、ひとり、だろうか。
すぐに目の前に、地下道を走る後ろ姿が見えてきた。
束ねた長い髪が揺れている、モニカだろう。
ヌガノマに云われた通り、白衣はすでに脱ぎ捨てて、深緑色の軍の作業服のような姿だった。
ヌガノマの姿は、見えない、と思ったら後ろから、
「遅い。捕まりたいのか」
淡々と、しゃがれ声が云う。
足音も立てず、息も切らさずにヌガノマが後方から駆けて来て、すぐにモニカの後ろに並ぶ。
本当に片足が義足なのだろうか。この速さ、そして足音がしない。
「この男、只の徴集された一般兵などではないな。訓練された兵士じゃ」
ナナが呆れたように云う。
確かに、すぐ前を行くモニカとは、走るフォームからして全然違う。
まるで動物のような、と考えてふと思い当たる。Nの走り方に似てる。足音を立てず、動きに全く無駄がない。
「息を切らさぬのは、レムナント故じゃな。元より、呼吸はそれほど必要ない」
ナナが云うので、思わずぞっとした。
ひょっとして、ヌガノマのスタミナは、底なしなのでは。
ん?と僕の顔を見て、すぐに思い至ったらしい、ナナはニヤリと笑い、
「左様、おぬしは正に危機一髪だった訳じゃな。金髪のLが犬の姿で駆け付けねば、いずれナガヌマに捕まっておったろう」
怖い事を、平然と云った。
本当に、あの時Lが来てくれなければ、僕はもう限界だった。けれどヌガノマは、まだまだ余裕だったという事。
しかも、片足で、だ。
「尤も、捕らえられたとて、本当に殺されていたとは限らぬ。記憶もなくだいぶ混濁していたとは云え、探し続けていた「子供」を殺しはせぬじゃろ」
そう、ナナは云うけれど。
実際、その後、二度目に会った時、ルリおばさんの体に入ったヌガノマに、僕は殴り倒されて上から踏みつけられ、首を絞められているのだけど。それでも、殺されはしなかった、のだろうか。
「ふむ、確かにの。一体何が目的じゃったのか。記憶を失くした故か?それだけが理由とも思えぬな」
そう云って、ナナはまた唇に包帯ぐるぐるの右手を押し当てて考え込む。
それにしても、と僕はまた別の事が気になり始める。
この地下道は、どこなのだろう。
あの海沿いのクレーターの下の地下施設や、そこからミドノ原の工事現場の下へと続いていた長い地下道、そしてロリポリのいた地下ホールとは、作りがだいぶ違うように見える。あちらは、どこか共通した、軍の共通規格のような素材の似通ったもので作られていたけれど。
いまヌガノマとモニカが走っているこの地下道は、それらとは似ていない。狭く、天井も低く、作りも粗末で、軍の規格の白っぽいコンクリートボードや、黒い鉄骨がどこにも見当たらない。
軍の眼を逃れて、H・O一派が密かに作った地下の研究所、だから、なのだろうか。
だとしても、軍の物資を流用した方が手間もなく便利だったのでは、と思うけれど。
「流石に、そのまま流用は出来まい。物資の保管なぞは完全に軍の管理下じゃろうからの。施設の拡張に使う部材などを盗めば、即座にバレるじゃろうて。ここは、元々あった古い地下道か何かをそのまま使ったものではないかの」
そうなのかな。僕も市の古い地下道は、あのヌガノマに追われてたどり着いた下水道と、防空壕とその先にあった地下道くらいしか知らないけれど。
それらとも違うように見えるここは、さらに古い地下道なのかも。
むき出しの土の壁と土の地面は、あのマンホールの下の地下道に似ている気がする。こちらは、あれよりさらにひと回りほど狭いけれど。
「大昔、ここいらには銀や何かの鉱脈があっての。ミクリヤの殿様はそれで財を築いたのよ。その当時の坑道を奴らが見つけて、再利用したものかも知れぬな」
大昔、と云いながら、まるでミクリヤのお殿様を見た事があるかのように、ナナは平然と云う。
銀や何かの坑道
この地下道の狭さやうねうねと上下左右にうねりながら進む構造、手作業で掘られたような穴の様子から云えば、確かにそれっぽいと云えなくもないのかも。
「待て」
しゃがれた低い声が云い、すっとヌガノマが足を止める。
モニカは勢い余って前のめりに倒れそうになりながら、ヌガノマよりも二歩ほど先で地面に片手をついて止まる。
5mほど先で、地下道が交差しているのだろうか。左右の土の壁が途切れて、ぼんやりと灯りが漏れているのが見える。
「下がれ」
ヌガノマは短く云って、半歩ほど身を引いて、左側の土の壁にぴたりと身を寄せた。
ちょうど通路が左に蛇行しているので、壁に貼り付けば交差地点からこちらは見えない。
モニカはかがんだまま慌てて回れ右をして、ヌガノマの後ろに隠れるように身を潜める。
ばらばらと土の地面を蹴る音が遠くから聞こえ、ヌガノマはさらに半歩、身を引いた。
ヌガノマの義足に押されるように、モニカも後ろに下がる。
足音の主が、左の壁の途切れ目から姿を見せ、交差する地下道の中心で足を止めて、辺りを見渡している。
ヌガノマと同じくらい背の高い、白衣の男。メガネをかけた白人男性、研究者だろうか。ヌガノマよりも痩せていてひょろひょろでいかにも貧弱そうに見える。その手には黒光りする拳銃が握られている。
ふむ、と声を出さずにヌガノマの右眼が、男の持つ拳銃に注がれる。思案するようにじっと見つめているけれど、身じろぎひとつしない。拳銃を、奪うつもりだろうか。
その時、ぱたぱたともうひとつの足音が聞こえ、「おい!」遠くから、別の男の大声が狭い地下道に反響する。
進行方向、正面の通路に影が差し、別の男が姿を現した。こちらも白衣を着た、背の低い小太りの男。肌が黒く見えるけれど、レムナントではなく、黒人のようだ。
「ふたりは、いないのか」
黒人の研究者が尋ね、
「こ、こちらにはいません」
左手の通路を指しながら、メガネの白人が答える。緊張しているのか、声がかすれて喉に絡まっているよう。
「アンダーソン博士は?」
黒人の研究者がそう尋ねると、メガネの白人は困惑したような顔になる。
「わ、私は、見ていません。ラボにいるのでは」
かすれた聞き取りにくい声で、白人の研究者が云うと、
「ラボ?まさか、知らせていないのか、あのふたりの逃走を?」
黒人の研究者は、苛立ちを隠そうともせずに、彼をにらみつける。
「え、ええ、私はまだ。ふたりの不在に気づいて、すぐに探しに出ましたので」
ずり落ちてくるメガネを直しながら、ボソボソと白人研究者は答える。
かすれ声が小さくなり、さらに喉にこもって、さっきよりも聞き取りづらい。
「ああ、何だって?はっきり喋らんか!」
大袈裟に耳に手を当てて、黒人研究者は大声を上げる。
「博士に知らせもせずに、拳銃まで持ち出して、おまえ、あのふたりを殺す気か?」
そう、黒人研究者に恫喝され、メガネの研究者はしどろもどろに、
「いえ、そんな、まさか。これは、その、威嚇のためで」
慌てて、拳銃を左手に持ち替えたり、白衣のポケットにしまおうとしたり、明らかに狼狽えている。
「だいたいおまえ、撃てるのか。そんなざまで、威嚇も何もないだろう」
はあ、と大げさに肩をすくめて、黒人研究者はメガネの研究者を上から下までじろりと眺めまわしてから、
「もういい。とにかくおまえはまず博士に報告して、指示を仰げ。ふたりも逃がしては、博士の計画、レジデュの抽出予定が大幅に狂ってしまう。ベースに逃げ込まれでもしたら厄介だ。そうでなくとも、人造アルカナは扱いが・・・いや、まあいい」
そう云って、黒人研究者は大きくため息をついて、ばしんと白人研究者の背中を肉厚の平手で叩いた。
「さあ行け。もちろん、拳銃はしまってからな。博士は銃器がお嫌いだ」
ふん、と面白くなさそうに鼻息を荒げる黒人研究者に、
「は、はい」
すっかり意気消沈してしまった白人研究者は力なく答え、しょんぼりと肩を落として元来た左側の道へ引き返して行く。博士のラボ、とやらがそちらにあるのだろう。
その後ろ姿をあきれ顔で見送り、
「まったく、MIT出だか何だか知らんが、あの役立たずこそ早々にレムナント化したらいいんじゃないのか。レジデュの抽出元として使うくらいしか、あいつに使い道はないだろうに」
去って行く背中に聞こえるくらいの大声でぼやいて、黒人研究者はのっそりと右の通路へと消えて行く。
すっとナナが右手を上げる。
ぴりっと周りの空気が緊張するように固まった。
これは、記憶の再生を停止した、のかな。
「うむ。知らぬ用語が出て来た故な。レジデュとは、何じゃ。抽出するとか云うておったの」
ふわりと僕の目線の高さに浮かんで、ナナが首をかしげる。
レジデュ
英語だろうか。残念ながら、僕にも何のことやらわからない。Lだったら、単語の意味くらいは分かったかもしれないけれど。
ふたりもいなくなったら、レジデュの抽出予定、博士の計画が大幅に狂う
黒人研究者はそう云ってた。
あの役立たずこそレムナント化して、レジデュの抽出元として使う、とかも。
文脈から推察すれば、レムナントから抽出する何か、それがレジデュ、なのだろうか。
レムナント化して、というのも物騒な話だ。人を、死にかけた状態にする、という事なのだから。
とても冗談やあんなぼやきで云っていい事とは思えない。
「ふむ。聞き捨てならんの」
ナナは難しい顔で唸っている。
他にも、彼は気になる事を云ってた。
アンダーソン博士、というのは、間違いなく、例の元ナチスのH・O・アンダーソンの事なのだろうけれど。
ベースに逃げ込まれたら、とか。
それから、人造アルカナ?とかも。
「ベースは、おそらくロリポリのホールのある地下施設の事じゃ。軍関係者がそう呼んでいたのを聞いた覚えがある。じゃが・・・」
ナナはそこで一旦、口を閉ざして、
「人造アルカナとは、何じゃ」
そう云って、顔をしかめる。
気持ちは、とてもわかる。
何と云うか、すごく、いやなイメージの言葉だ。
人造アルカナ
人工的に造られたアルカナ、なのだろうか。そんな事が可能なの。
「わからぬ、が。聞き捨てならんの」
また、ナナはそう云って難しい顔になる。
ひとつ、確かなのは、
これは現在進行形の話ではなく、過去のヌガノマの「記憶」だ。
あの黒人研究者の云うベース、ロリポリの地下施設にまだ軍がいて活動していた頃に、彼らはここに隠れて、レムナントの研究を進め、ヌガノマとおそらくモニカから、レジデュとかいう物を抽出していた。
そして同時にここには、人造アルカナなるものが存在していた。
「ベースに逃げられたら厄介だ。そうでなくとも、人造アルカナは扱いが・・・」
あの黒人研究者は、そう云ってた。
人造アルカナは、誰?
扱いが難しいのは、ベースに逃げられたら厄介なのは、
「モニカ、か」
顔をしかめたナナの云う通り、彼の言葉から連想すれば、それは逃げたふたりのどちらか、という事になる。
ヌガノマは、人造アルカナ?ではない。たぶん、だけれど。
「海」でナナとつながっていた、そして今もハナとつながっていて、記憶を見る事ができる点からも、人造ではなく、僕らと同じ、自然の?普通の?アルカナのはず。
人造アルカナも普通のアルカナと変わらず、つながって記憶が保管されるのだとしたら、そうも云い切れないけれど。
でもアルカナが入ったタイミングで云えば、ヌガノマはキクタと同じ、隕石落下時のはず。
だから、H・O一派が施設を離れてから密かに開発したと思しき人造アルカナではあり得ない。
モニカは、レムナントで、王を継いだ者で、人造アルカナ?
要素が多すぎて、わけがわからない。
「続けてみるかの。ふたりが、奴のコメントについて何か教えてくれるかも知れん」
ナナの言葉に、僕もうなずく。
初めて聞く言葉ばかりな上に、情報が少なすぎて、まだ想像すらうまくつながらない。
唇にあてていた右手を離し、ナナがそれを空中でふわりと翻す。
ふっと周囲の空気が弛緩するような感覚がして、記憶の風景が再び動き出す。
ふたりの研究員が去ったのを確認して、ヌガノマはすっと壁を離れた。
そのままネコのように音もなく歩いて、通路の交差点で立ち止まるかと思いきや、迷いもなく左へ曲がった。
「ちょっと」
後ろに続いていたモニカが、大声を出しそうになって慌てて声を潜め、
「どこへ行くのです?出口はそちらじゃありません」
そう、ヌガノマを呼び止める。
左の通路から交差点に立つモニカを振り返ったヌガノマの顔には、何の感情も浮かんでいない。
「ラボ、というのは、あの悪趣味な実験室の事だろう」
淡々と、少しめんどくさそうにヌガノマは云う。
「銃を手に入れる。ついでに、あの哀れな博士とやらに挨拶でもして行くか」
面白くもなさそうに、ヌガノマはそう云って口元を少し歪める。冗談のつもりなのかな。
あっけにとられたように口を開け、モニカはヌガノマを見つめて、それからさっきよりもさらに声を潜めて、
「貴方、何を考えているの。ここを出るのに、銃なんて必要ないでしょう?」
ここを出る、と云いながらモニカはさっき黒人の研究者が歩いてきた正面の通路を指差していた。出口は、そちらなのだろう。わざわざ左へ曲がって博士の研究室へ寄り道をし見つかる危険を冒してまで、銃を手に入れる必要はない、モニカはそう云いたいらしい。
ヌガノマは表情を変えず、冷ややかな黒い右眼でモニカを見下ろして、ゆっくりと口を開く。
「貴様こそ、勘違いをしている。俺がここにいるのは、奴らに捕らえられたからではない。出ようと思えばいつでも出られる。こそこそ隠れて逃げ出す必要はない」
それから、ゆっくりと右手を上げて、その痩せた手を広げ、親指と人差し指で自分の尖ったあごをつまむようにして、少しだけ首をかしげ、
「銃なんて必要ない、か。その点だけ貴様は正しい。あいつら如きに銃は不要だ。だが、ここを出るのに使うのではない。銃を手に入れたいのは、単に俺の趣味だ」
ざらざらするしゃがれた声で、淡々と云う。
捕らえられたからではない
いつでも出られる
「つまりこの男は、わざと捕らえられたのか。何か目的があってここへ来た、捕らわれたふりをしていたと?」
ふむー、とナナが唸っている。
ナナの云うように、ヌガノマがただの一兵卒ではなく、訓練された優秀な兵士なのだとしたら、軍から隠れて怪しげな実験をしているような研究者の集団に、そう簡単に捕らえられるはずがない、という事なのかな。
確かに、動きひとつを比べても、しなやかな野生の獣のように音もなく歩けるヌガノマと、ばたばたと地下道を走り、音の響く狭い通路で大声を上げて仲間を呼んだり、いかにも銃に不慣れな様子の研究者とでは、差がありすぎる。
いつでも出られる、と彼が云うのは誇張でも何でもなく、事実なのだろう、そう思えた。
「あるいは、眠りに陥ったところを捕らえられたのかとも思っておったが、そういう訳でもなさそうじゃな」
ナナも納得したようにうなずく。
「だからと云って、本気でラボへ向かうつもりですか。あの博士が、黙ってあなたの脱走を見過ごすとでも?」
モニカが、抑えたかすれ声でそう訴えるのを、つまらなそうに一瞥して、ヌガノマは背を向ける。
「ならばそこで待て。銃を手に入れてすぐに戻る」
そう云い捨てるなり、モニカの返事も聞かず、ヌガノマは音もなく左の通路を駆け出した。
何度も云うけれど、本当にこの人、片足で、義足なの。
速いし、足音もしなければ服やズボンが擦れる音もしない。
宙を飛んで後を追う僕らと同じように、ヌガノマも宙を駆けているのではと思ってしまうような、そんな走り。
あっという間に、ばたばたと足音高く小走りにラボへと向かう白衣の痩せた背中が見えた、
と思うや否や、ヌガノマがぐんと加速して一気に差を詰め、その勢いのまま素早い手刀を研究者の首に叩き込む。
どすっと鈍い音がして、研究者は声を上げる間もなく。その体が膝からがくりと崩れ落ちる。
スローモーションのように研究者のメガネが前方に飛んで、土の地面に小さく跳ねて落ちる。
そのまま倒れそうになる研究者の体を、ヌガノマは襟首を素早く掴んで止め、ゆるゆると地面に下ろす。
流れるような一連の動きで、彼が手に持っていたはずの拳銃を、いつの間にかヌガノマが右手に握ってしげしげと眺めている。
ふむ、と声に出さずに銃の安全装置か何かを確認して、つまらなそうにそれをズボンのポケットにしまうと、ヌガノマはくるりと向きを変え、元来た道を戻りはじめた。
このヌガノマじゃなくてよかった、と僕は心底ゾッとしていた。
記憶を失い、義足も失くして、かなり壊れていたヌガノマだったから、僕は捕まる事なく地下の下水道まで逃げられた。
あの時、僕を追って来たのがこのヌガノマだったなら、あっという間に捕まっていたに違いない。
「まず、このヌガノマだったなら、おぬしを追い回すような真似はするまいがの。長年探していた子供だとすぐに気づくじゃろうしな」
ナナが冷静にそう云って、あ、それはそうかもと思い至る。
色々な偶然や様々な不運・不幸が重なって、あの日あの時の追いかけっこになった、という事なのかな。
ヌガノマがすぐに地下道の交差点まで戻ると、待ち構えていたモニカがほっと安堵の息をついた。
「あてはあるのか」
先ほどモニカが「ここを出る」と指差した正面の通路の方を眺めて、ヌガノマが問う。
モニカは小さくうなずいて、
「ベースの北の川沿いに、戦時中に防空壕として使われていた洞穴と、そこからつながる地下道があります」
囁くように、そう云った。
モニカが云うのは、あの防空壕なのだろう。ベースの北の川沿い、地下道につながる、という特徴も一致している。
ヌガノマは、ふん、と小さく鼻を鳴らして、
「灯台下暗しか。ベースに近いのであれば、貴様が博士の追っ手に発見される可能性も低い、と」
興味もなさそうな口ぶりで云う。
モニカも元は博士と同様に、地下施設を抜け出してこの秘密の研究所へ来たのだろうか。
それが何か意見の相違か対立があって嫌気がさし、「ここにいたくありません」という状態になった。
だから、博士に見つかってここへ連れ戻されるよりも、ベースの研究者や軍関係者に見つかる方がまだしも、という事なのかな。
モニカはヌガノマの指摘には表情を変えず、
「ベースにいるはずのあの子供を探すなら、そこがいいでしょう。あの場所を見張るにはうってつけです」
冷静な声で、そう云った。
その、どこか懐かしさを感じさせる柔らかな声を包み込むように、周囲の闇が濃くなる。
この記憶は、ここまでのようだった。
舞台の幕が降りるように、真っ黒な闇が落ちてきて世界が暗転する。
辺りは真っ暗だけれど、右手をつないだナナの(ハナの)姿は何故か闇から浮き上がったようにはっきりと僕には見えていた。
ナナは包帯ぐるぐるの右手を唇に当てたまま、闇の空間を見つめて何やら思いに沈んでいる様子だった。
その闇が、ゆるゆると動いて、次の記憶の場面がぼんやりと見えてくる。
水の音がする。それから、風がある。身を切るような、冷たい夜の風。
寒い冬の夜の、川岸だろうか。
それほど広くもない川岸は砂地で、大きな岩がごろごろ転がっている。
その向こうを川が左から右へと流れていた。雨でも降った後なのだろうか、水量は多く、流れも速い。
あの防空壕のある川岸、なのだろう。
モニカは河岸の大きな岩に腰掛けて、空を見上げている。
地下に潜んでいる間は、見る事が叶わなかったであろう、夜の空。
暗い灰色の大きな雲が流れ、隙間から見える黒い夜空には、小さな冬の星々が瞬いている。
辺りには街灯の明かりも見えない、わずかな星明かりだけの暗い夜の川原。
まだニュータウンの開発が始まる前、なのだろうか。
「レジデュとは何だ」
突然、暗がりからひび割れたようなしゃがれ声が云って、びくっと身がすくんだ。
モニカが腰掛けた岩の傍に、影のようにヌガノマが立っていた。
流れる雲間から、月が顔をのぞかせて、白い月明かりが、ふたりのレムナントを冷たく照らし出す。
わずかに微笑むように、その月を見上げていたモニカが、声をかけられて下を向く。
「あなたは、「海」を見た事がありますか。現実の海ではなく、あなたの意識の海、白い灰の降る、ひび割れ涸れた海です」
しっとりと柔らかな声で、モニカはヌガノマにそう問いかける。
ヌガノマは、暗い川面を見つめている。
その顔には相変わらず表情がなく、何を思っているのかは、わからない。
「貴様らの話は、終始それだ。要領を得ない。意識の海、白い灰の降る、ひび割れ涸れた海。そんなものどこにある」
吐き捨てるように、ヌガノマは川面を見つめたまま云う。
ふっと小さくため息をついて、モニカはヌガノマから眼を逸らし、空を見上げる。
半円に近い歪な月の白い光が差して、彼女のヘーゼルの瞳は、今は緑色に見える。
「あるのですよ、あなたの中に。そして」
モニカは言葉を切り、もう一度ヌガノマを見る。
月に照らされた、大きな岩の上から、その傍に立つヌガノマを見下ろす。まるで啓示を与える、黒い天使のように。
「そして、私の中にも」
ヌガノマを見下ろすヘーゼルの瞳が、月の光にきらりと緑色に輝いた。ように見えた。
その瞬間、ぐるん、と視界が回転するような、あの感覚。
ナナがはっと鋭く息を飲み、つないだ僕の手を強く握って引き寄せる。
違う、これは
とっさに僕は、あいた左手をナナの背中に回し、その小さな体を庇うように胸に抱き寄せる。
これは、ぐるぐるの方だ。
引き込まれる。
ぐるんぐるんと視界が回る。夜空の月が回り、岩の上に座るモニカが、その傍に立つヌガノマも回る。
さすがのヌガノマも、驚いた表情で、じっと辺りの様子を窺っている。
あの時、あの地下でMのぐるぐるに引き込まれた時は、立っていられず、思わず尻もちをついていたけれど。
今回は、記憶の中で、浮いていたから、だろうか。体のバランスを崩すような事はなかった。
ヌガノマが、一点を見つめたまま、微動だにせずまっすぐに立っているのは、さすが、と思った。
ぐるぐるがかなりの高速になり、周囲の風景がつながった横線模様にしか見えなくなった頃、
ぴたりと、嘘のように唐突に回転は止まる。
辺りの風景は、一変していた。
云わずもがな、そこは、灰の海。
はらはらと音もなく、白い灰が降りしきる。
あの灰の海だった。
ヌガノマは、動かない。
警戒しているのだろう、黒い眼だけが、ゆっくりと辺りを見渡して様子を窺っている。
モニカは、ヌガノマの横にいた。
あの川原にあった大きな岩がそのままそこにあり、彼女はさっきまでと同じ姿勢で、その上に腰掛けて、ヌガノマを見下ろしている。
「これが、灰の海。私の意識空間です」
しっとりと降るやさしい雨のように、モニカの柔らかな声が云う。
聞いた事があるはずだ、この声、これはMの声。
つまり、モニカ、この女性は、Mだ。
とんとん、と僕は胸を叩かれ、ハッとする。
あ、ごめん
ナナをぎゅっと胸に抱きかかえたままだった。
慌ててナナの背に当てていた左手を離すと、ナナは上を向いて、ぷはあと大きく息をついて、
「咄嗟に儂を庇おうとするとは、おぬしにしては、上出来じゃ」
ふふんと笑って、褒められた。
「して、モニカが、M何某とはの。間違いは、なさそうじゃな。ぐるぐるの能力から云っても」
ふむ、とナナはうなずいて、
「H・Oとの関わりも、概ね儂らの予想通りか。完全に彼奴ら側、という訳ではなさそうじゃが」
じっと岩の上に腰掛けたモニカを見上げる。
ようやく危険はないと判断したのだろうか、ヌガノマは、ふんと小さく鼻息を吐いて、今度はじっくりと、体全体を捻るようにして辺り一帯を眺めている。
「レムナントであるあなたの中にも、これと同じ灰の海があるはずです。あなたの、意識の中にです」
ゆっくりと教え導くように、モニカは云う。
懐かしい声、と思ってしまうのは、あの地下で聞いたMの声や話し方を思い出すからだろうか。
それとも、僕はそれ以前にもどこかで、彼女に会っているのだろうか。
薄暗い灰の海にいるせいか、モニカのヘーゼルの瞳は、今は暗い茶色に見える。
ヌガノマから眼を離し、彼女は暗い海を眺める。すっかり干上がって底に赤黒いひび割れの走る、灰の海。
「その海なら、知っている」
同じ海を眺めたまま、ヌガノマが口を開いた。
「あの長い眠りの間に、幾度か俺はそこにいた。夢か幻覚の類かと思っていたが、意識空間、か」
すっとヌガノマは右手を上げて、手のひらを上に向けた。
ひらひらと舞い落ちる白い灰を、その手で掴もうとするみたいに。
「それで」
ヌガノマはその姿勢のまま、ちらりと黒い眼だけを動かして、岩の上のモニカを見上げる。
「貴様はまだ俺の質問に答えてはいないが」
質問
モニカがMだった驚きで、すっかり忘れていたけれど。
あの川原で、ヌガノマは彼女に質問をしていた。
暗い川面を見つめたまま、ひび割れたしゃがれ声で、
「レジデュとは何だ」と。
海を見ていたモニカの眼が、ふわりとヌガノマに戻って来る。
そして少し可笑しそうに、まるで幼い少女のように小首をかしげ、ヌガノマを見て云う。
「それです。あなたが今、捕まえようとしている白い灰。それがレジデュです」
やさしい慈雨のようなモニカの声に、ヌガノマは、相変わらず微動だにしない。
びくりと反応したのは、僕とナナの方だった。
灰の海に降る白い灰
それがレジデュ
さっきの、黒人研究者の言葉が脳裏に蘇る。
博士の計画、レジデュの抽出の予定が大幅に狂ってしまう
レジデュの抽出元として使うくらいしか、あいつに使い道はない
レジデュの抽出?
白い灰を意識空間から抽出するの。
一体どうやって、何のために。
まるで僕のその考えを読んだみたいに、ヌガノマが云う。
「こんなものを抽出しているのか。どうやって、何のためだ?」
上を向けた右手のひらにはらはらと降り落ちる白い灰を、何の感情も籠らない冷たい黒い眼で見つめながら。
その表情は変わらないけれど、多少は興味を引かれたのだろうか。
ヌガノマは、ちらりと黒い眼だけを動かして、モニカを見る。
上目遣いが三白眼になって、にらみつけているように見えるけれど、にらんでいるわけではないのだろう。
モニカは、ヌガノマと眼が合ったのがうれしいのだろうか、また少し微笑むように表情をゆるめて、
「あの人、ドクターブラウンは、思い違いをしています。元々彼は、専門ではないようですけれど。レジデュが何であるかは、アンダーソン博士しか知りませんし、それを抽出する真の目的も、博士以外が知るはずはありません。おそらくドクターブラウンは、聞きかじりの知識で、若い研究者に虚勢を張りたかっただけなのでしょう」
そう云って、彼女は人差し指をぴんと立てて、それをくるくると回して見せた。
その指の動きに呼応するように、また視界がぐるぐると回り始める。
また?今度はどこへ引き込まれるの。
「儂の予想は外れたかの」
当然のように僕の胸にしがみつきながら、ナナはちっと舌打ちして悔しそうに云う。
僕は左手で、ナナの小さな体を庇うように抱き寄せる。
ナナの予想
ぐるぐるは、すぐには使えない。時間かタイミングか、いずれにせよ、使うのには時間がかかるのでは。
前にそう話していたナナの予想は、確かに残念ながら外れたのかもしれない。
こんなにすぐに、連続して使えるなんて。
あるいは今は、引き込んでいるのがヌガノマひとりだけだから、なのかもしれないけれど。
僕とナナは、あくまでヌガノマの記憶にくっついて、ぐるぐるに巻き込まれているだけなのだろうから。
何度引き込まれても、あまり気分のいいものではない。
眼を閉じてしまいたいけれど、閉じたらどこへ飛ばされるやらわかったものではないので、怖いけれどそうすることもできない。
眼を開けてしっかり見ていたからと云って、安全が保障されるわけではないし、どこへ飛ばされるかわからないのは一緒なのだけれど。
灰の海もそこに立つヌガノマも、岩の上に座ったモニカも、ぐるぐる回る横線模様に変わる頃、さっきと同じように、またぴたりと回転は止まる。
水の流れる音がする。
さっきの夜の川原に、僕らは戻っていた。
雲間から差す冷たい月明かりに、岩の上のモニカが照らされている。
人差し指を立てた右手は、もうくるくると回してはいない。
その細い人差し指を曲げて握りこぶしをつくると、モニカはその手を前にすっと伸ばした。
そしてゆっくりその手をほどくように指を1本ずつ開く。
手のひらから、白い灰が、はらはらと舞い落ちる。
まるで魔法か手品のように、開いたモニカの手の中から、あの白い灰、レジデュが、夜の川原に散る。
何かを告げる黒い天使のように、モニカは口を開いて、
「レジデュを灰の海から抽出できるのは、私だけ。そしてその使用目的を知るのは、アンダーソン博士だけ、です」
淡々と、冷たい声で、そう云った。
ふん、と面白くもなさそうにヌガノマは鼻を鳴らして、
「つまり、あの黒人、ブラウンと云ったか、あいつの云う「レムナントから抽出」というのがそもそも思い違いという事か。あいつは、俺からも抽出できると、俺もあの哀れな博士によってその白い灰を抽出されていると思い込んでいた、という訳か」
どうでもいい、とでも云いたげに、右の肩をすくめて、それからじろりとモニカをにらむ。
「それが貴様の「王の力」というやつか。そんなものでどうやって「あの子」を見つける」
「否定します」
短く云って、モニカは小さく首を横に振る。そして緑がかったヘーゼルの眼でヌガノマを見つめて、
「これは私のアルカナの能力、「渦」です。人の意識を取り出し、私の意識空間へ引き込む力。そしてレジデュは、いわば「意識の死骸」です。死した人の意識の抜け殻、あるいは燃え滓のようなもの。であればこそ、レジデュは意識と同様に「渦」で取り出す事ができます」
そう云って、寂し気に微笑むように口元をゆるめ、夜空を見上げる。
白い月が、流れる灰色の雲に隠れて行く。
「レムナントであるあなたの「海」にも、レジデュはあります。そこに降る白い灰は、死したあなたの「人の意識」です」
夜空を見上げたまま、淡々とモニカは語る。
「死に瀕した人の体にアルカナが入る。死した意識は白い灰となり、アルカナがその人の意識に取って代わるのです。レムナントに、人だった頃の記憶が残っているのは、レジデュに刻まれた記憶の残滓を読み取っているためです。レムナント化した人の記憶は、それ以降は王の「海」に保管されます」
「待て」
やわらかな声音で語るモニカの話を、ひびわれたヌガノマのしゃがれ声が遮って止める。
怪訝な顔で見下ろすモニカを黒い独眼で見上げ、ヌガノマが云う。
「貴様、俺を何だと思っている。あのいかれた研究者どもと一緒にするな」
ふ、とヌガノマはめずらしく薄いため息をついて、
「そもそも、アルカナとは何だ。王とは。いい機会だ、この際、一から説明してもらおうか」
痩せて尖ったあごを挟むように人差し指と親指を当て、モニカをじっと見上げて云う。
モニカはまた、幼い少女のように首をかしげてやわらかに微笑み、
「では、ひとつ昔話をしましょう。私が引き継いだ王A-0の記憶をお見せします」
そう云って、すっと人差し指を立てる。
「ストップじゃ」
まだ僕の胸にしがみついたままだったナナが、慌てて右手をひらりと振って記憶を止める。
「この女、またぐるぐるをするつもりであろ。あれはもうかなわん。眼が回る」
めずらしく、ナナがそんな弱音を吐くので、僕は少し心配になる。
それなら、記憶の再生は一旦ここまでにして、出ようか。
A-0の昔話は、僕はもうすでに見せてもらっているし。
ナナが見たいのなら、もう一度見てもいいかなと思ったけれど、ぐるぐるがつらいなら、今はやめておこうか。
「ふむ。負けを認めるようで癪ではあるが、記憶は逃げぬからの。既に情報過多で頭がパンクしそうじゃ。一旦戻って、整理するとしよ」
そう云うなり、ひらりとナナは包帯ぐるぐるの右手を翻す。
ぱっとテレビのチャンネルでも切り替えたみたいに、一瞬で川原の記憶の風景は消え、何故か僕らは、僕の「オレンジの海」のテラスにいた。
なんでなの。
いろいろ端折りすぎでは。
「暗い地下の穴蔵やら寒々しい夜の川原やら、そんなものばかりで気が滅入るわ。しばしこの癒しスポットで休憩としよ」
そう云ってナナは僕の胸からふわりと離れ、いつもの席に座る。
J先生による素敵なコテージをナナに気に入ってもらえたのはうれしかったし、何より僕にも今のナナの気持ちは良くわかる。
テーブルを挟んでナナの正面に座ると、どっと疲労を感じた。
ずっとふわふわ浮いていただけなので、体は疲れていないはず。意識空間なので疲れるはずもないのだけれど。
暖かな「オレンジの海」の風が心地いい。ほのかに香る柑橘系の匂いが、とてもやさしい。
ぱちんと指を鳴らして、温かいお茶をふたつ、テーブルに出した。
ナナはいつも、水で良いって云うけれど。
「気が利くの。こういう時は、茶の香りが良い。癒されるわ」
余程くたびれたらしい、ナナは両手で湯のみを抱えるように持って微笑む。
そして、立ち上る白い湯気を吸い込んで、ほっと大きなため息をついた。