eine kleine nachtmusik iii

屋根裏ネコのゆううつ II

まるで僕らの帰還を見計らっていたみたいに、星の砂浜のトーテムに下げられた貝殻の風鈴が、からからと軽やかに鳴った。
風を受けて鳴る時の音ではなく、それは、誰かの訪問の合図。
「へえ」
やさしげな微笑みを浮かべて、トーテムを見上げていたのは、ガブリエルだった。
「いい音色だね。これは、呼び鈴かな」
相変わらず、察しがいいというか、勘がいいというか。
ひと目で、貝殻の風鈴の意図に気づくなんて、さすがガブリエルだ。
テラスの階段をとんとんと駆け上がりながら、ガブリエルは「ふふふ」と笑って、
「これでも、キミとはもう8年の付き合いだからねえ。だいたい、考えそうなことはわかっちゃうよね」
そう云って、僕を見て、それからテーブルの奥に座るナナを見て、にっこり笑ってお辞儀をする。
「噂のナナちゃん、かな。はじめまして、ミクリヤガブリエルです」
ほほう、とナナは少し驚いたように眉を上げて、
「さすがに、よく似ておるの。もうひとりの金髪、三つ編みじゃな」
ニヤリといつもの笑みで答えた。
確かに、今日もガブリエルは、長い金髪を後ろでざっくりと三つ編みにしているけれど。
金髪、おかっぱ、そして、三つ編み
何と云うか、ナナのあだ名のセンスって
「なんじゃ、かわいかろうが」
ナナはそう云って、じろりと僕をにらむ。
かわいい、かな。まあ、わかりやすくていいとは思うけれど。
どうぞ座って、と僕はガブリエルに椅子を勧めて、指を鳴らして彼にもお茶を出す。
ありがとう、と椅子に腰かけながら、ガブリエルは僕とナナを交互に見て、
「何だかふたり、お疲れの様子だね。何かあったの?」
そう尋ねる。
何かあったにはあったのだけれど、説明するとちょっと長い話になるよ。
ガブリエルこそどうしたの。何か用事だったんじゃないの。
心の声でそう尋ねると、
「ボク?いやあ、土曜日はリハビリの先生がお休みでね。ひとりでリハビリしてたんだけど、それにも飽きたので、休憩がてら遊びに来ただけだよ」
ふふっといつものやさしい笑みでガブリエルは答える。
「此奴がよ」
ナナは小さなあごで僕を指して、
「ナガヌマの記憶を取り戻したいと云い出しての。さっきまで、ふたりであれの記憶へ潜っておったのよ」
ナナらしく、単純明快な説明をしてくれた、けれど。
いや、まさにその通りなのだけれども、ね。
端的すぎるのでは。
「ヌガノマの「記憶」?え、そこにふたりで潜ってたの」
ガブリエルは青い眼をまんまるにして驚き、くすくすと笑い出す。
「またキミは、すぐそうやって、ひとりで面白そうな事するんだねえ。あ、今回はナナちゃんも一緒だから、ひとりじゃないけど」
そう云ってガブリエルは、「すみませんうちのKがご迷惑を」みたいな顔で、苦笑しながらナナにぺこりと頭を下げる。
いや、まあ、確かに、云い出したのは僕だけれど。
「わかってるよー。ヌガノマが、本当は敵じゃなければいい、っていうあれでしょ。ボクもそう思うって、あの時云ったでしょ」
ふふふ、とやさしく微笑んで、ガブリエルは僕にうなずいてみせる。
「ほう」
ナナが少し驚いたように声を上げ、
「誘拐されたもんと殺されかけたもんで、そんな話をしておったのか。まったくおぬしら、人が好いにも程があるの」
あきれたように、ほっほ、と笑った。
「まあ、それに手を貸す儂も、似たようなもんじゃがの」
ふふん、とナナは自嘲するように云う。
「それでそれで?ヌガノマの「記憶」に、潜る?っていったいどうやって」
すっかり興味津々な様子で、テーブルに身を乗り出してガブリエルは僕とナナを見比べる。
ナナはひらひらと、包帯ぐるぐるの右手を僕に振る。
面倒じゃ、おぬしが説明せい、って事かな。
だんだん、口に出さなくてもジェスチャーだけで、ナナの心の声が読めるようになってきたかもしれない。
事ここに至ったいきさつを、ゆっくり思い出しながら、僕はガブリエルに説明した。
王の「海」には、つながりのあるアルカナの記憶が保管されてる。
それは、いっしょにMの話を聞いたのでガブリエルも知ってるはず。
記憶の大半を失くしてしまったルリおばさんやキクヒコさんの記憶も、僕の「海」のどこかに保管されているはず。
だとしたら、ヌガノマの記憶も、ヌガノマの王に当たるアルカナの「海」に、保管されているのかもしれない。
ここでLとJとそんな話をしていたら、それを聞いていたナナが、僕をハナの「海」の底にある記憶の保管場所へ案内してくれた。
そして、そこに記憶が保管されている、ハナと(かつて王だったナナと)つながりのあるアルカナが、ヌガノマだと教えてくれた。
それで、今日、はじめてふたりで、ヌガノマの記憶に入ってみたのだけれど・・・。

楽しそうににこにこしながら僕の話を聞いていたガブリエルだったけれど、さすがに途中で腕を組んで考え込むような仕草を見せたり、何だか難しい顔でオレンジ色の空を見上げたりもしていた。
そんなこんなで、モニカに二度目のぐるぐるに引き込まれそうになったところで記憶の再生を止めて、一旦ここへ戻って来た。そこに、ガブリエルが遊びに来た、という訳だった。
「いやあ、ボク、すごいタイミングで遊びに来ちゃったんだねえ」
はっはー、とLみたいに陽気に笑って、けれどガブリエルは、すぐに真面目な顔になる。
そして、
「んー、ちょっと待ってね」
僕とナナの顔を順に見て、腕組みをしたまま上を向いて、ゆっくりと眼を閉じる。
まるで何かを、探してるみたいに。
探してる?何をだろう。
「あった、これだ」
ぱちん、と音が聞こえるんじゃないかと思えるくらい、長いまつ毛の青い眼をぱっと開いて、
「モニカ・マクガーフィー。ナースって、看護士かな」
そう、ガブリエルは云った。何かを読み上げるように。
モニカ・マクガーフィー
それは、何、モニカのフルネーム?
ナースって、看護士かな、って?
なんでガブリエルがそんなこと知ってるの。
「おお」
ナナがめずらしく大きな声を出したので、僕はびっくりする。
「それじゃ、軍の看護士じゃ。確かにおったの」
軍の看護士?モニカが?
「いや待て、あやつは、ナガヌマの担当看護士じゃったか。なるほどの、それで「あなたを救いたい」か。ははあ、合点がいったわ」
そう云って、ナナはしきりにふむふむとうなずきながら僕を見る、けれど。
え、そうなの。
いや、でも、だからなんで?
なんでガブリエルはそれを知ってるの。
もしかして、天才なの。
「またそういう。違うってば」
ガブリエルはくすくすと楽しそうに笑って、
「ほら、キクヒコのノートパソコンだよ、キミの部屋の屋根裏にあったあれ。英語のファイルが大量に入ってたって云ったでしょ。残念ながらボクは英語が苦手だからねえ。でも、降参するのは悔しいから、じーっと眺めて、ひたすら暗記してたの。暗記って云うより、絵とか写真として頭に焼き付けてたって感じかなあ。もちろん、全部はとても覚えきれなかったけどねえ。モニカって名前を聞いて、どこかで見たぞと思ってね。記憶の中を探してたの。そしたら、何かの名簿みたいな中にあったよ。モニカ・マクガーフィー、ナースって一行がね」
しれっとそう云う、けれど。
英語のファイルを暗記?って云うか、絵とか写真として頭に焼き付けてた?
そんなことができるの。いやいや、それを天才っていうのでは。
僕には、逆立ちしたってそんな事できないけれど。
「またまたあ、そんなことないでしょ。ちなみにボクは、逆立ちなんてできないからねえ」
ふふふ、と楽しそうにガブリエルは笑う。
この子は、絶対天才だ、間違いない。もしかしたら、Lよりすごい天才なのかも。
「そんなことないってば、ボクは普通の子だよ。ミカエルは、本物だけどねえ」
そう云って、ガブリエルはいつものようにやさしげな笑みを浮かべて、軽く肩をすくめてみせる。
「ならば、そういう事にしよ。何にせよ、お手柄じゃな、三つ編み。M何某の正体がわかったのじゃからの」
にやりといつもの笑みを浮かべて、ナナが云う。
それは、そうかも。
Mは、モニカ・マクガーフィー。
軍の看護士で、当時ヌガノマの担当だった。
ヌガノマがベースを脱走した後、モニカは、ヌガノマを探していたのだろうか。
そのために、H・O・アンダーソンの秘密の研究所に接触したのかも。
軍に隠れて密かにレムナントの研究をしていたH・Oの元へ行けば、逃げたヌガノマの所在や動向がわかるかもしれない、と考えて。
「さもありなん。そしてまんまとナガヌマを見つけ、手に手を取って研究所から逃げ出した。それがあの記憶か」
ふむ、とナナもうなずいている。
手に手を取って?
そんな仲良しな感じではなかったけれど。
「おぬし・・・、まあ良い」
また、じろりとナナににらまれる。
え、だって、あのふたりは全然そんな感じじゃなかったもの。
ヌガノマは終始仏頂面で、そっぽ向いてたし。
「わかった、もう良い。お子様は黙っておれ」
あきれ顔で、ナナに怒られた。
なんでなの。
「まあまあ」
何故かガブリエルは訳知り顔で僕とナナ、ふたりをなだめるようにやさしく微笑んで、
「もしそうなら、ミカエルの云う「Mがラスボス」説もなくなったのかな。ボクらをぐるぐる、じゃなくて、えーと「渦」だっけ、あの能力で引き込んだのは、本当に「昔話」のためだけだったのかも。最後にぐるぐるしたのも、あそこからさらにどこかへ引き込むとかではなくて、単に外へ出そうとしてた、つまり元のロリポリのホールへ戻そうとしただけ、とかね。あるいはじゃまなキクヒコだけを追い出そうとしてたのかもしれないけど」
そう云って、ガブリエルは軽く腕組みをしてまた考え込む表情になる。
そうかもしれない、けれど。
「ふむ、敵ではないかも知れぬが、味方とも限らん」
ずばっと切って捨てるように、短くナナは云う。
「何故なら、あやつはおぬしらに嘘を吐いておる。モニカ・マクガーフィーなる人間でありながら、アルカナのM何某と名乗り、正体を見せておらぬのじゃろ」
確かに、ナナの云う通りだった。
ロリポリの中にいる、アルカナの王「M-0」
そう、Mは僕らに名乗り、あくまでアルカナとして僕らに声を届けて来た。
人であるなら、わざわざ「渦」の能力で意識空間に引き込んだりしなくても、眼の前に姿を現せばいいのでは。
いや、A-0の記憶を見せたかったから、あえて意識空間に引き込んだ、とも考えられなくはないけれど。
それでも、それが人の姿を見せずにアルカナのふりをする理由にはならない。
「あるいは、それが「嘘」とは云えないまでも、ボクらに姿を見せられない理由が、何かあったのかもしれないね」
腕組みをしたまま、ガブリエルがぽつりと云う。
姿を見せられない理由
シンプルに考えれば、まず思いつくのは、レムナントだから、その長い眠りの時期に当たっていて、体はどこかで眠りについていた、とか。
いや、だったらそう云えばいいだけの話じゃないかな。
他ならぬ、僕らなのだから、眠りの時期がある事はすでに承知しているし、Mがそれを隠す意味はない。
確かにあの時の僕らはまだ、レムナントについては、何も知らなかったけれど。
「それでなく、もうひとつの方の可能性はないかの」
ナナが僕をちらっと見て云う。
それでなく、もうひとつ?
「モニカは、レムナントで、王で、もうひとつあるじゃろ」
レムナントで、王で、もうひとつ
人造アルカナ?
うむ、とナナはうなずいて云う。
「それが何を意味するのかは、まだ儂らにはわからぬがの。おぬしらを騙すつもりでなく、姿を見せたくとも見せられぬ状態であったのだとすれば、あるいはそれが理由やも知れぬ」
人造アルカナがいったいどんなものなのか、それはまだ、わからない。
だから、ナナが云うのも、あくまでひとつの可能性として、なのだろうけれど。
「Kの云うように、施設から脱走したヌガノマを探すために、モニカはH・O一派に接触したのだとしたら」
そう云って、ガブリエルは少し云い淀むように、
「いつ、どのタイミングで、その」
云いづらそうなガブリエルに代わって、ナナが、
「死にかけたのか、じゃな」
ずばっと云う。
いつ、どこで、死にかけたのか
つまり、いつ、どこで、レムナント化したのか。
「儂が云うのもおかしな話じゃがの」
少しもおかしくなさそうに、真面目な顔でナナは云う。
「そう簡単なものではないのじゃ。レムナント化するにはの、偶然やたまたまの条件がいくつも重なって、ようやくなれるものじゃ」
確かに、なろうと思って、なれるものではないのだろう。
まず、人の意識が死にかけていなければならない。
すでに死んでいたのでは間に合わず、死なない程度に元気であったら、おそらく入ったアルカナが消滅してしまう。
それに、元となるアルカナがいなければならない。
死にかけた人のすぐそばに、アルカナが存在できる環境、「オレンジの海」がある必要がある。
体内にその貯蔵庫を持つロリポリか、意識の中にオレンジの海を持つ動物が近くにいて、そこにアルカナが入っていなければいけない。
その上、モニカは人造アルカナ?
アルカナですらない、のだろうか。それがどうしてレムナント化するの。
それとも、順序が逆なのかも、人造アルカナが先なのではなく、先にレムナント化したのでは。
いや、それならば人造ではなくモニカは普通のアルカナという事になる。
これじゃあまるで、
「うん、タマゴが先かニワトリが先か、だね」
ガブリエルが云って、困ったような笑顔になる。
そう、レムナントであり、かつ人造アルカナ、というのは、意味の上では、成立しなさそうに思えるけれど。
「ブラウンなる黒人研究者の言葉が、正しいのであれば、じゃがの」
そう、ナナが指摘して、はっと僕も思い至る。
そうだった、彼は「専門ではない」とモニカも云ってた。「聞きかじりの知識で、若い研究者に虚勢を張りたかっただけでは」とも。
その彼が、モニカについて云ったと思しき言葉、
「そうでなくとも、人造アルカナは扱いが・・・」
その信憑性には、疑問符が付く。
彼自身もよくわかっていない事を、若い研究者の手前、それらしく口にしてみせただけ、という可能性は高いのでは。
あるいは、前の文脈とは関係がなく、別の話題として「そうでなくとも、人造アルカナは」と口にしただけ、なのかも。
ガブリエルもひとつうなずいて、
「うん、人造アルカナに関しては、ヒントが少なすぎるね。言葉だけ聞くと、衝撃的だけれど。実は、人工芝とか、人造大理石とか、そんな感じの、それそのものとは似て非なるもの、なのかもしれない」
そう云った。
なるほど、人工芝は、わかりやすい例えかもしれない。
植物の芝に外見だけはよく似た、けれど人工物の芝によく似たもの。
人造アルカナもそれなのだとしたら、
意識生命体であるアルカナに性質のよく似た、けれど人工的に作られた何か、なのかも。
「ふむ。モニカが人造アルカナなのではなく、モニカとナガヌマを逃す事による不都合が、彼奴らが密かに開発する人造アルカナなる「物」にも影響する、とブラウンは云いたかったのか」
ナナも、ひとまず人造アルカナについては、それで納得する事にしたらしい。
まるっと納得、ではないのだろうけれど、ガブリエルの云う通り、結論を出すには、ヒントが少なすぎる。
「モニカがレムナントである事は、あの見た目と、当時から歳を取っていないように見える点からもほぼ間違いないがの。さっきも云うたが、レムナントなんぞ、そうほいほい出て来られては困るのじゃが」
そう、ナナが云うのを聞いて、僕はもうひとつの可能性に思い至る。
モニカが、ヌガノマを探して自分からH・O一派に接触した、のではないのかもしれない。
まだベースにいる間に、何らかの不慮の事故によって彼女が死に瀕したのだとしたら。
あそこには、ロリポリがいる。当時はまだ、その中に残っていたアルカナもたくさんいたのかもしれない。
死にかけたモニカに、ロリポリの中にいたアルカナが入る。
それならば、レムナント化については、ナナが懸念する不自然さはない、のでは。
そしてレムナント化したモニカは、レムナントの研究をしたいH・O一派に目をつけられ、あの秘密の研究所へ、連れて行かれたのか、自ら進んで行ったのか、そこまでは、わからないけれど。
ナナは湯呑みを手に取り、ほんの少し口をつけてから、
「いちいち驚いておっては、キリがないのかも知れぬの」
ふうとため息まじりに、しみじみと云う。
「元より、他人の記憶よ。知らぬ事だらけなのも当然じゃろう。それがあのナガヌマとなれば、余計にの。まだまだ、どんな秘密が飛び出すやらわからぬ。それにいちいち狼狽えて、逃げ帰っておったのでは、目的を達するのが遠のくばかりではないかの」
それは、そうかも。
僕らの本来の目的は、ヌガノマの記憶を取り戻す事。
つながっていたはずの、何かを見つけ出し、つなぎ直す事。
切れたつながり
失くした記憶と、本人の意識とのつながり
それを見つける事。
人造アルカナやモニカ=Mの事実は、あくまでその副産物。
驚く事ような事をいくつも聞かされて、ついついそちらに気を取られてしまったけれど、いちいちそうしていたのでは、ナナの云う通り、本来の目的が遠のくばかりなのかもしれない。
「うん。あらためて、方向性が定まったところで、いざ再突入、かな」
何だか楽しそうにガブリエルは云って、湯呑みのお茶を一口飲む。
ナナが苦笑いを浮かべて、ガブリエルを見て、僕を見る。
僕は、「オレンジの海」の空を見る。
夕方まで、まだ時間はありそうだし、できればもう一度、潜ってみたいかな。
明日も日曜なので、ナナさえ良ければ行ってみたいけれど。
「ほほう、やる気があるのは何よりじゃの」
ナナはニヤリとあの笑顔を見せて、
「行くとするか。あのぐるぐるさえなければ、見ている分にはなかなか興味深いしの」
ふふん、と鼻を鳴らして、お茶を飲む。
「いいなあ、楽しそう。ルリさんの記憶に潜る時は、是非ボクも連れて行ってよね」
ふふっとガブリエルは笑いながら、お茶ごちそうさま、と立ち上がる。
もちろん、と僕もガブリエルに答えて立ち上がる。
ルリおばさんの時は、きっとJも行きたいだろうし、Lだって行きたがるだろうから、みんなで行こう。
ほっほ、とナナは笑って、
「跳ねっ返りも果報者よの。可哀想に小僧の方は、すっかり忘れられておるようじゃが」
ふわりと席を立つ。
「キクヒコは、ねえ」
露骨にめんどくさそうな顔をして、ガブリエルは、
「ラスボス容疑もまだ晴れてないしなあ。記憶も、どうせ失くしてないんでしょ」
ふふん、と苦笑して肩をすくめてる。
それは、まあ、わからないけれど。
でも、記憶は失くしてるんじゃないかな。あれがお芝居とは、僕には思えないけれど。
「うむ、そんな小癪な真似のできるような奴ではないと思うがの。それが、跳ねっ返りなら兎も角な。小僧は、至極単純な奴よ」
ナナがそう云うと、「へえ」とガブリエルは少し驚いた顔をする。
ずいっと包帯ぐるぐるの指で僕をさして、
「あれは、此奴に似て間の悪いところがあったからの。三つ編みや、ノワールなんぞには、そんなところが癇に障るのやも知れんの」
ナナはニヤリと笑う。
何なの、その何もかもお見通しみたいな、神様みたいな何かあれ。
ふふっとガブリエルも笑って、
「ほんとだねえ。ミカエルが云うのもわかる。ナナちゃんってほんとにそれなの。神様てきな?」
さらっと聞くので、僕はびっくりする。
ナナはふいっと眼をそらして、
「はて、何のことやらじゃ。ほれ、参るぞ」
ちょいちょいと僕を手招きする。
「ではの、三つ編み。リハビリも結構じゃが、休息も大事ぞ」
そう云って、ナナはやさしい眼でガブリエルを見て、にっこり笑った。

長い廊下を男が歩いて行く。
ヌガノマの「記憶」の中、
僕とナナは手をつないでふわふわと宙を飛び、男の後をついて行く。
分厚そうなカーペットの敷かれた床のせいか、それとも男の歩き方のせいなのか、足音は全く聞こえない。
薄暗い廊下は広く、右手の壁の高い所に並ぶ明かり取りの窓から、白い外の日差しが左手の壁に斜めの四角形を描いている。
高い天井にも等間隔に、時代がかった作りの精巧なランプが下がっていたけれど、日中なのでそれは灯されていない。
Lのお屋敷の廊下に似ている気がしたけれど、こちらはもう少し古びていて、それがより重苦しさを感じさせる。
窓は明るいけれど、磨りガラスなのかあるいは全体的に薄汚れているのか、白く濁っていて外は見えなかった。
どこか遠くで、かすかにサイレンか警報のような音が響いていたけれど、それもすぐに聞こえなくなった。
男は急ぐでもなく、かと云ってのんびりでもなく、大股でつかつかと長い廊下の真ん中を歩く。
ふむ、と僕と手をつないだナナが小声で
「軍の司令部か、あるいは政治的な建物かの。よもや大本営ではないと思うが」
辺りを見渡しながら、ぽそりとつぶやく。
背の高い男は、ヌガノマなのだろう。
左腕は、ある。左足も、おそらく義足ではないように見える。
髪も先程の地下の記憶のような長いざんばら髪ではなく、さっぱりと切り揃えられ、それを後ろになでつけている。オールバック、というやつかな。
服装もきっちりとした襟付きの軍服、士官服、というのだろうか。
相変わらず痩せていて、針金のような印象だけれど、浅黒く日焼けした肌は、健康的に見える。
だとするとこれは、終戦よりも前、まだ戦時中の記憶、なのかもしれない。
「いずれにしても、20代やそこらの若僧が、おいそれと歩き回れるような場所とも思えぬが。此奴、一体何者じゃ」
黙々と前を行くヌガノマをじろりとにらんで、ナナは首をかしげる。
ヌガノマの足取りに、迷いはなかった。この場所をよく知っていて、向かうべき目的地もわかっている、そんな自信に満ちた歩き方。
左眼もある横顔は、ほんの少し緊張しているようにも見えるけれど、いつも通り、何の感情もその顔からは窺い知れない。
廊下の突き当たりに、両開きの黒い木の扉が現れ、ヌガノマはその前でぴたりと足を止めた。
右手を軽く握り、その手で軽く扉を三度、素早くノックした。
「入りなさい」
分厚い木の扉の向こうから、かすかな声がそう応じた。
男の声に聞こえた。
ヌガノマは豪奢な彫刻の施された鉄のドアノブに手を掛け、両開きの扉の片側だけを開けて、
「失礼します」
ひび割れたしゃがれ声で、しかし意外なくらいはっきりとそう云って、室内にするりと滑るように入り、すぐに後ろ手に扉を閉めた。
部屋は、それほど広くはないけれど、かと云って狭苦しいというほどでもない。
小学校の校長室に似ている気がする。こちらはもう少し広くて、かなり高級な感じがするけれど。
床に敷かれた凝った織模様のカーペットも、黒く艶のある木の腰壁もその上の壁も、高くて真ん中に段差の付いた折り上げ天井も、校長室にはないものだ。
手前に向かい合わせのソファと低いテーブルがあり、奥の壁を背にして、大きな机がある。
その机の向こうに、男が座っていた。
丸メガネをかけ、口髭をたくわえた男。年齢は、30代後半か40代くらいだろうか。
男の後ろ、奥の壁には、大きな国旗が掲げられている。
やっぱりここは軍の司令部、なのかな。
ヌガノマは真っ直ぐにソファの間を通り抜け、机の前に立つと、素早くぴしっと敬礼をした。
軍隊式の敬礼、かな。
男がゆっくりと席を立ち、ヌガノマに軽く敬礼を返してから、ぐるりと机を回り込むように前に出てきた。
小柄でどちらかといえばほっそりしている。
ヌガノマと同じ士官服を着ているけれど、その胸にはいくつも重そうな勲章がぶら下がっているので、きっと軍の偉い人、なのだろう。
威厳はあるけれど、威圧感はない。軍人というより、学校の先生かお医者さんのように、僕には見えた。
男は無言で、ヌガノマに右手でソファを指し、自身もその片方に腰を下ろす。
敬礼していた手を下ろして、ヌガノマは男の方を向いたまま、ソファの横で直立不動の姿勢を崩さない。
「座らないの」
ソファの男がヌガノマを見上げて、穏やかに云う。
「はっ、私はこのままで」
ソファの男と目も合わせず、中空をにらんだままヌガノマは短く云う。
男はかすかに微笑むように、メガネの奥の眼を細めて、
「大丈夫、ここには君と僕しかいないよ」
そう云って、安心させるように小さくうなずき、もう一度右手で向かいのソファを指す。
「では、失礼します」
かしこまった固い声でそう云って、ヌガノマは彼の向かいのソファに浅く腰かけた。
丸メガネの奥の眼を細めたまま、彼は満足げにひとつうなずいて、
「指令には、眼を通してくれたかな」
そう、ヌガノマに尋ねる。
「はい」
ヌガノマの答えは短い。
まっすぐに眼の前に座る小柄な男性を見つめているけれど、その眼には何の感情も浮かばず、表情は変わらないままだった。
「何か質問があれば、どうぞ。僕にしか答えられないからね。だからこうして、わざわざ来てもらった」
おだやかな微笑みを浮かべたままの男の眼が、メガネの奥できらりと光る。
おそらく彼は、軍の中でもかなり階級の高い人物なのだろう。
胸に下げた勲章の数もそうだし、襟元の階級章も、その意味するところはよくわからないけれど、ヌガノマのは赤い地に金のラインが入ったシンプルなものだけれど、彼のそれは全体が金色地で桜か菊のようなお花のマークが並んでいる。
「元帥クラスじゃろうな。普通ならば口を利くこともできぬような相手じゃ」
この場の雰囲気に圧されたように、ナナが小声で囁くように教えてくれた。
その口も聞けないくらい偉い元帥に1対1で呼び出されて、しかも「僕にしか答えられない」事を「質問があれば、どうぞ」と教えてもらえるの。
ヌガノマって、いったい何者なの。
ぴこん、と何かひらめいたのだろうか、ナナが右手を上げて、
「此奴、特高か」
と云う。
特高
初めて聞く言葉だけれど。
「特別高等警察、略して特高じゃ。秘密警察と云えばわかるか?過激派や政治犯を取り締まる事を目的とした組織で、戦前までこの国にもあったのじゃ。特高ならば、特別な訓練を受けていたかのごときあの身のこなしにもうなずけるの」
ふむ、と納得したようにナナはうなずいている、けれど。
秘密警察
それは、海外の映画やドラマなんかでよくある、なんとかインポッシブルてきなやつの事?
「あれはスパイじゃろ。特高はむしろ、あれを取り締まる側よ。あくまで警察じゃからの」
そう云われて、何となく、わかったようなわからないような。とにかく何かすごい警察、なのかな。
それなら、元帥とやらに呼び出されるのも、まあ納得って事?
そう尋ねると、ナナは即座に首を横に振る。
「否、それはまた別の話じゃな。特高のエリートか何か知らんが、元帥直々の指令など、それこそ映画やドラマの世界の話じゃろ。普通はあり得ぬと思うぞ」
ふむ。
つまりヌガノマは、普通ではあり得ない記憶を持っている、何かすごい警察、だったのかもしれない、という事。
「ひとつ、お尋ねします」
沈黙の後で、ヌガノマは重々しく口を開く。じっと上目遣いに、眼の前に座る男の眼をまっすぐに見つめて。
男はその視線に動じるそぶりも見せず、微笑みを浮かべたまま、どうぞ、という風に右手のひらを差し出してヌガノマに質問を促す。
「御子とは、何ですか」
短く、ヌガノマはそう問いかけた。
男の表情は、変わらない。その質問は、想定内だったのだろうか。驚きもせず、おだやかな微笑みを崩すこともなかった。
「御子とは、「子供」だよ。文字通り、尊き子、そのままだね。僕が見た時は、赤子だった」
淡々と、抑揚のない声で男はそう云った。
ヌガノマはほんの少しだけ、眉を寄せて困惑したような表情を見せたけれど、すぐにそれを消し、また無表情に、
「任務は「御子の回収」、そう聞いています。あの島から、「御子」を持ち帰る。私はそう理解しました。間違いないでしょうか」
ゆっくりと一言ずつ、確認するようにそう尋ねる。
男はうなずいて、
「その通り」
そう答えた後、少し身を乗り出し、わざとらしく声を潜めて、
「此処だけの話だが、我が国はこの戦争に負けるよ。もう間もなく、半年か、せいぜい1年の間にね。それは仕方がない、勝負は時の運、とも云うからね」
微笑むようなやさしい顔で、そんな事を平然と云う。
それからさらに小声で囁くように、
「けれど問題は、敵軍の侵攻ルートにあの島がある事だ。戦略上は、それほど重要でもない小さな無人島だよ。無視して通り過ぎてくれれば良し。けれど万が一、そう万が一にもだ、無視して通り過ぎざまに、気まぐれな戦闘機パイロットがあの島に爆弾でも落としたら。」
男は言葉を切り、じっとヌガノマを見る。
いつの間にか男の顔からはおだやかな微笑みが消え、能面のような、無表情な顔がヌガノマを見つめている。
ヌガノマは、ただじっと男の言葉を待つ。
黒い両眼が男の能面のような顔を射貫こうとするみたいに、まっすぐに見据えている。
「この国は終わる」
ゆっくりと、男はそう云った。
ヌガノマは、何も云わない。ただ、ほんの少しだけ、怪訝そうに眼を細める。
それに応えるように、男が言葉を続ける。
「戦争に負けるどころではない。ただ戦争に負けただけなら、それでも国は残るだろう。敗戦国、という言葉もあるくらいだからね。負けた国として、この国は生き残る。だが、御子を失えば、この国は終わりだ。歴史からも地図の上からも、文字通り消えてなくなる」
ヌガノマと同じ怪訝な顔を、きっと僕もしていたと思う。
男の云う事は、わかるようでわからない。何だかふわふわとして、つかみどころがない。
どこかの島に、御子と呼ばれる何か、子供か赤子のような形をした何かがあって、ヌガノマの任務はそれを回収する事。
もしも敵の戦闘機が気まぐれに島の上空から爆弾でも落として、御子を失うような事があれば、「この国は終わる」と男は云う。
戦争に負けるどころではなく、国が終わる、歴史からも地図の上からも消えてなくなる?
失くしただけで国が終わ理、消えてなくなる、御子はそれほどのもの。
国の象徴とか、礎とか、何かそういう精神的なものって意味なのかな。だとしても、そんな大事そうな物、どうして小さな無人島なんかに置いてるのだろう。それに、それを失くしただけで国がおしまい?というのも、よくわからない。
男の言葉は、淡々と続いている。
「爆弾を落とされでもしたら、と例えたけれど、もっと云えば、通信機器でも設置しようと敵軍が島へ上陸などしようものなら。最悪なのは、いいかね、気まぐれな爆弾どころではなく、もっとも避けるべきは、彼らに御子を発見され、それを持ち去られる事だ。もしもそんな事になってしまえば、この国どころではない、世界が終わるかもしれない。この星の人類、そのものがね」
声を潜め、囁くように、ではあったけれど、男の表情は変わらない。仮面のような無表情のまま、身の上話でもするように、淡々とそう云った。
世界が終わる
この星の人類、そのものが?
この人、頭はだいじょうぶなのかな、と僕は心配になる。
何か、誇大妄想的なものに取り憑かれてるとか、そんな事はないのかな。
云う事が、どんどん突拍子もなくなっているというか、話が大きくなって行くばかりな気がするのだけれど。
ヌガノマも同じ感想を抱いたのだろうか、訝しむような表情をもはや隠そうともせずに、じっと眼の前の男を見つめている。
そんなヌガノマを見て、男は、わかっている、とでも云いたげにひとつうなずいて、
「御子とは何かと君は問うたね。これがその答えだ。御子はただ其処にあり「数多を聞くもの」だよ」
眼を上げ、何もない中空に、まるでその御子の姿が見えてでもいるかのように、うやうやしく、そう云った。
御子はただそこにあり「あまたを聞くもの」
どういう意味?
思わず僕は、そうナナに尋ねる。
ナナは困ったような顔で肩をすくめて、
「知らぬ。言葉の意味で云えば、「ただそこにあって、すべてを聞くもの」じゃろ。おぬしの云うように何かの象徴か、神仏の像のようなものかの」
首をかしげて、何か考え込む。
すっとかすかに息を吸い込む音がして、
「ただそこにあり、あまたを聞くもの。それこそ、通信機の類ですか、何か特別な」
ひび割れたしゃがれ声が、ひとりごとのようにそうつぶやいたけれど、それは男へのヌガノマの質問のようだった。
すっと黒い両眼を細めて、ヌガノマは男を見据えている。
怖い。もしも僕があんな眼でヌガノマに見つめられたら、たぶん震え上がってしまうだろう。
そこにあり、あまたを聞く
確かにヌガノマの云う通り、それは何か特別製の超高性能な通信機で、どこかの島にあるそれを使って、世界中の通信を傍受している、とか、なのかも。
男は、その問いかけに何を感じ取ったのだろう。
ヌガノマの顔から眼をそらし、緩慢な動作で、軍服のポケットから白いハンカチを取り出した。
右手にハンカチを持ち、左手で丸メガネを外すと、それを丁寧に拭きながら、ゆっくりと口を開く。
「ナガヌマ君」
ゆるりと視線を上げ、メガネを外した眼でヌガノマをまっすぐに見て、
「君は、神を信じるかね」
おだやかに、男はそう尋ねる。まるで、「明日の天気は雨かね」とでも尋ねるみたいに。
数秒の沈黙。ヌガノマは質問の意図を計るかのように、押し黙り、やがて、
「いいえ」
短く、そう答えた。
ふふ、と小さく男は笑って、拭き終えたメガネをかける。
ハンカチを丁寧にたたみ、軍服のポケットに戻しながら、
「それなら、いい。「島から、『御子』を持ち帰る」、君のその理解で結構だ」
満足げにうなずいて、男はそう答えた。
聞いていて、何だか僕はもやもやしたものを感じていた。
今の答えで「結構だ」なの。そんな事はないのでは。
よくわからないけれど、男の云う「御子」とヌガノマの理解との間には、かなりの差異があるような気がするのだけれど。
「あえて、かの」
ナナが云うので、僕はナナを見る。
「わからんが、ナガヌマは今の短い沈黙で駆け引きをしたのではないか。「御子」とやらが何を指すのかはわからんが、おそらく国家機密じゃ。それをどこぞの島から持ち帰る、それが今回のナガヌマの任務。であればこそ、ナガヌマは「いいえ」と答えた。神なぞ信じぬとな。元帥閣下には、その方が都合がよかろうという、奴なりの計算、ではないかの」
つまり、「御子」というのは、ヌガノマの云うような高性能な通信機などではなく、もっと神懸った何か、という事。
それを信じず、ただ粛々と「御子の回収」という与えられた任務をこなす、自分にはそれができる、とヌガノマは元帥にアピールした、という事なのかな。
「うむ。それで結構、と元帥殿も納得したようじゃしの」
すーっと黒い幕が降りるように、記憶の風景が遠のく。
どうやらこの記憶は、これでおしまいらしい。
密度のある闇に包まれて、僕とナナの体はそこに浮かんでいる。
不思議な感覚を、僕は味わっていた。
ヌガノマに対して、だ。
最初は、アイから聞いた眉唾ものの都市伝説だった。旧日本軍の脱走兵で、片眼片腕片足の怪人ヌガノマ。
実際にあのマンホールの地下で遭遇し、それは実在する存在になったけれど、それでも地下に住む浮浪者か何かだと思っていた。怪談めいた見た目から、都市伝説の怪人にされてしまった、ただの地下浮浪者だと。
けれど、ヌガノマは、ガブリエルを誘拐した犯人だとLから聞かされた。
そして二度目に遭遇した時、ヌガノマはルリおばさんの体に意識を移していて、防空壕の先の地下道で僕を罠にかけ、僕は後ろから殴り倒されて踏みつけられ、首を絞められた。
そのヌガノマと、さっきまで目の前で軍の元帥と思しき偉い人から直接秘密の指令を言い渡されていたヌガノマは、確かに同じ人物なのだけれど、とても同じ人物とは思えない、という思いも僕の中にはある。
見た目の違いも確かに大きいけれど、それは実は瑣末な事で、一番大きな違いを感じるのは、中身、というかヌガノマの意識、なのかなと思う。
ヌガノマも確かに僕と同じ人間で、意識があって意思がある。
あの地下で出会ったヌガノマに、それは感じられなかった。ただただ、暗い怨念というか、妄執みたいなものに突き動かされた存在で、彼に僕らと同じような心があるとは、到底思えなかった。
でも、ヌガノマは、人だった。
まだ、何を考えているのかよくわからないし、常に仏頂面で愛想が良いとはお世辞にも云えないけれど。
それでも、僕らと同じく、ちゃんと意識も感情もある、人だった。
それが、僕にはうれしくて、だから、僕は不思議に思う。
地下の下水道で散々追いかけ回され、防空壕の地下道では襲われて首まで絞められたのに、その相手が、ちゃんと人だったからって、うれしいだなんて。僕は、少しどうかしているのでは、と。
「故に、じゃろ」
ナナがあきれたような笑顔で僕を見て、
「散々な目に遭わされた相手ではあるが、奴にもかつては人の心があり、今まさに、おぬしはそれを取り戻さんとしておる。故にじゃ、奴が人である事がうれしいのは」
ふふん、と鼻を鳴らす。
故に
僕自身が、ヌガノマの記憶を取り戻そうとしている事、それが、かつてのヌガノマの人の心を取り戻すことにつながるかもしれない事、だから?
という事なのかな。
自分自身の事なのに、よくわからない。
「さもありなん。人の心なぞ、そんなものよ。己自身にもようわからぬものじゃ」
また、何もかもお見通しな顔で、ナナは云う。
かと思ったら、ふん、と鼻を鳴らして、
「何もかもお見通しなものかよ。儂にも心なんぞはようわからぬわ」
そう云って、ナナは何だか力の抜けたような笑顔を見せた、けれど。
だいじょうぶ?ナナ、お疲れかな。
そう尋ねたら、
「なんの疲れてなぞおらぬ。漸く面白くなってきた所じゃ」
急に元気になって、ひらりと右手を振る。
辺りの暗闇が、もやもやとうごめいて薄れて行く。
あ、記憶の再生を止めてくれてたのか、とその時になって僕は気づいた。
「左様。おぬしが何やら、ナガヌマについて思い悩んでおったからの」
思い悩んで、と云う程のことでもなかったけれど、それはお気遣いありがとう、だった。
「ところでおぬし」
ふと思いついたように、ナナは顔を上げて僕を見て、
「あの「音」は、今も聞こえておるのか」
急にそんな事を聞いた。ふっと右手を翻して、記憶の再生をもう一度止めながら。
あの「音」
もちろん、聞こえてる。
ずっと鳴り止む事はないので、今この時も、遠くで風の鳴るようなごおごおという騒音が、変わらずに僕の耳の奥で響いていた。
けれど、どうして急に?
「どうと云う事もない。縮んで以降、「音」がどうなっておるのか、そう云えば聞いた事がなかったと思うての、確認したまでよ」
そう云って、ふむ、とナナは少し考えて、
「いや、正直に云えば」
そう、口を開いて、
「あの元帥殿の言葉で、おぬしの「音」を思い出した。「御子はただ其処にあり、数多を聞くもの」。その御子とやらも、おぬしと同様、何か「音」を聞いておるのやも、そう思っての」
そんな事を、ナナは云う。
云われてみれば、だけれど、まさかその御子もアルカナで、僕と同じ「王の力」を持っているの。
いや、そんなはずはないよね。それじゃ、時間軸がおかしい。
ヌガノマが御子の回収に向かおうとしているのは、戦時中だ。まだロリポリは落ちて来ていないので、当然、アルカナもいないはず。
ふむ、とナナはうなずきかけて、待て、と僕を見る。
「王の力、じゃと。おぬし、それもまた思い違いじゃ。あの「音」を聞く力は、おぬし独自のものであって、王の力ではないぞ。儂にもハナにも、あのような力はないからの」
それもまた思い違い?
思えば、僕らは独自の研究と考察で、僕らの力を「おおよそそんなもの」と理解しているけれど、それは正しく誰かに教わったわけじゃない。
あの眠りに陥ると、意識が動物に入る。
それも、ナナに指摘されるまで、僕らはアルカナであれば全員がそうなのかと思っていた。
けれど、まさかこの「音」もなの。
王の力じゃない?
え、じゃあこれももしかして、キクヒコさんやルリおばさんと同じ改造・・・
「否、それはないの。いつ、どこで、誰がおぬしを改造できると云うのじゃ。それこそ、時間軸がおかしい。アルカナの改造なんぞをしておる輩は、かのH・O一派くらいのものじゃ。彼奴らが軍に隠れてコソコソと研究を始めておった頃、おぬしは地下施設の中心におった。軍を除く、研究施設の中心、じゃな。そんなおぬしを、彼奴らが改造できるはずがなかろう。それに何より、かつてのおぬし自身によれば、その「音」は物心ついた頃にはすでに聞こえておったそうじゃ。つまり、改造やらによって後から身につけたものではなく、生まれつき持っていたものである可能性が高い。生まれつきか、アルカナが入ったその時からか、正確なところは、儂にはわからんがの」
そうナナに云われて、ひとまずほっと息をつく。
でも、改造ではなく、王の力でもない、この「音」は、じゃあいったい何なの。
「さての。そう云えば、金髪に預けたあのアイテムはどうした、まだ返してもらわぬのか」
ナナに問われ、思い出す。
ちょいちょい折に触れて思い出してる気がするのだけれど、何故かLに会うと云い忘れてしまって、いまだに返してもらっていなかった。
「呑気じゃの。「音」については、あのアイテムやらを返してもらえば自ずとわかるじゃろ。かつてのおぬしは、ある程度、その「音」を理解しておったようじゃからの」
それは、きっとそう。ナナの云う事は、Nの証言とも一致する。
ただ、N自身は、キクタの「音」が何なのかまでは、理解していないようだったけれど。
「云うまでもないが」
そう云って、ナナはちらっと僕をにらむ。
云うまでもない?
面倒じゃ、儂に聞くなよ、かな。
アイテムやらを返してもらえば自ずとわかる事なら、わざわざナナに説明を乞うまでもない、という事?
ふむ、とナナは満足げにうなずいて、
「それで良い」
ふふん、と鼻で笑って、右手をひらりと翻す。
周囲の闇がふわっとほどけて、また記憶が流れ出す。
水の匂い、これは、雨かな。
そして、潮の香りがする。
風の音がごうごうと鳴っているのは、僕の耳の奥ではなく、ヌガノマの記憶の中。
次の記憶は、嵐の海だった。
降りしきる雨は強い風に煽られて、ほとんど横殴りに吹き付けている。
波も高く、揺れる船の舳先に、黒い長身の男が立って海を眺めている。
黒いのは、肌ではなく、雨に濡れた軍服だった。
濃い緑色の服が、すっかり雨に濡れそぼって、黒く見える。
日中なのだろうけれど、空は渦を巻くような黒雲に覆われていて、周囲は暗い。
「これはたまらぬ」
ナナは僕の手を引いて、ふわりと甲板から浮き上がる。
大波を受けて揺れる船が苦手なの、かな。
「雨に濡れるのも、じゃ」
ひらりと右手を翻すと、眼に見えない膜に覆われたように、僕らの周囲だけ、雨が止んだ。
「記憶に付き合うのは良いが、船酔いや嵐まで体験せずともよかろ」
それは、まあ、そうかも。
小さな、漁船のような船だった。軍の船には見えない。
「将校さーん、おーい、将校さーん」
扉のない操舵室の入り口から、日に焼けたねじり鉢巻きの男が顔を出して、ヌガノマを呼んでいる。
激しい風の音に遮られて、男の声が聞こえないのだろうか。
ヌガノマはしばらく、振り返りもせずに行く手の海を眺めていた。
「ねえ、将校さんてばさー、そんなとこにいたら、風邪引くよー」
前歯の欠けた人の良さそうな船長がしつこく呼ぶので、ヌガノマもついに振り返り、甲板を歩いて操舵室へやって来た。
「狭いけど、椅子あるから、そこ座ってなー。何もこの雨ん中、甲板につっ立ってる事ないさー、ほら、もうびしょ濡れだよー」
前歯のない口でにかっと笑って、船長が云う。
「どのみち、濡れるだろう」
「え?」
「この雨の中、島へ上陸すればすぐにずぶ濡れだ。遅かれ早かれ」
真面目にそう答えるヌガノマがおかしかったらしい、船長は大口を開けてあっはっはーと笑う。
「面白い将校さんだねー。そりゃそうだけど、まあ座って座ってー」
しつこく椅子を勧めるので断るのも面倒になったのだろうか、ヌガノマは長身を折り曲げるように操舵室へ入り、云われるまま、壁面に作り付けの腰かけに座る。
「でも、兵隊さんもたいへんだねー。あんな何もない島へ、何しに行くのさー」
何の気なしに、船長はそう尋ねたのだろうけれど、国家機密に関わるような事と聞いてしまったので、僕は他人事ながらどきっとする。
「何もない島か」
吹き付ける雨と荒れる海面以外は何も見えない前方を眺めて、ヌガノマがぽつりとつぶやく。
それを質問と捉えたのか、船長はうんうんとうなずいて、
「何もないさー。大昔に海底火山が噴火して出来た小さい島だからよー。岩と森以外、何もないねー」
窓から吹き込む雨と海水で濡れた顔を、首に下げた手拭いで雑に拭いながら云う。
「行った事があるのか」
ヌガノマが重ねて問う。
「まさかー、何もないのに、行く用事もないさー」
はっはー、と船長は陽気に笑い飛ばす。ぜんぜん似てはいないのだけれど、この陽気さは、どことなく、Lを彷彿とさせる。何と云うか、ほっとする感じ。
「何もないかどうかを、確かめに行くのだ」
そう、ヌガノマはひとりごとのように云う。自分自身に云い聞かせているようにも見えるけれど、それは船長にそう見せるための演技だったのかもしれない。
「それも将校さんのお仕事かね、ご苦労さんだねー」
船長は陽気にそう云ったけれど、それきり、ヌガノマは何も云わない。
漁船のエンジン音と、吹きすさぶ風の音だけがしばらくの間、その記憶の世界を支配していた。
やがて、島に近づいたらしい。船長が船の速度を緩めながら、ヌガノマを振り返って、
「それで、どうしようかね。迎えは明日の午後でいいって事だったけど」
そう、尋ねる。
「雨も風も止みそうにないし、将校さんの仕事が終わるまで、待っててもいいけどさー?」
ヌガノマは、怪訝そうに船長を見る。
「帰りの心配か。戻れないほどの嵐でもないだろう。予定通り、迎えは明日の午後でいい」
「ああ、もちろんさー。燃料代もたっぷり頂いてるし、帰るには帰れるけど。将校さんが早めに仕事を切り上げるんなら、ここで待っててもいいかなと思ってさー」
人の好い船長なりの、気遣いだったらしい。けれど、ヌガノマは首を横に振る。
「それはない。仕事は仕事だ。雨だろうが嵐だろうが、予定通り明日までこの島に滞在する」
淡々と、しゃがれ声でヌガノマは云った。
「かーっ、真面目だねー。あんたみたいな人がお国を守ってくれてるんだねー。いやーありがたい事さー」
船長はくるりと体ごと振り返って、ヌガノマを拝むように手を合わせる。
かすかに、ヌガノマが笑ったように見えたのは、僕の気のせいだろうか。
「お国を守る、か」
つぶやくように云ったヌガノマの言葉は、強い風の音に紛れて船長の耳には届かなかったみたいだった。

激しい雨と荒れる波の向こうに、いつの間にか黒い山のような影が姿を現したと思ったら、それが目的の無人島だった。
小さな島、とは云うものの、揺れる波間から見えるそれは、想像よりもかなり大きく感じた。
高さはそれほどないように見えるけれど、横幅は近づくほどに視界の左右まで広がり、端から端まで数百mはありそうに見える。
それでも地球規模で云えば、小島には違いないのかもしれないけれど。
ベテランの船長は島の周囲をゆっくりと周り、接岸できそうな岩壁を見つけると、器用に船を寄せて見事な腕前で尖った岩場に舫い綱を投げた。
船が岸壁に横付けされると、ヌガノマは背嚢を岩場に投げ落とし、すぐその脇に飛び降りる。
背嚢を拾い上げて背負い、ヌガノマは岩場に引っかかっていた舫い綱を掴んで、船に向けて投げ返した。
「将校さーん、この場所覚えておいてねー、明日もこの岩場へ迎えに来るからさー」
投げられた舫い綱を両手で受け取りながら、風に飛ばされまいとするかのような大声で船長が叫ぶ。
わかった、と云う風にヌガノマは船長に右手を上げて見せ、くるりと島へ振り返る。
眼前に迫るように広がるのは、ごつごつした岩場と手付かずの深い茂み、そして背の低い捻れた木々の連なる森。
ヌガノマは腰に下げた刃物を鞘から引き抜いて右手に持つ。
刀かと思ったけれど、それは鉈、というのだろうか。刃が幅広で分厚く、ちょっとした枝や蔓くらいなら薙ぎ倒して進めそうだ。
そう僕が思った通り、ヌガノマは鉈をぶんぶんと左右に振り回して深く生い茂った藪を切り開き、道なき道を森の奥へと進み始める。
明日の午後、と船長は云ったけれど、それまでにこの深い森の中から「御子」とやらを見つける事ができるものだろうか。
小さな島、とは云え、見渡す限り前人未踏の深い森、なのだけれど。
そんな僕の不安をよそに、記憶の風景にはまた暗い靄がかかるように闇が降りてくる。
この記憶は、ここまでらしい。
ふむ、と闇の中でナナは鼻を鳴らす。
「あくまで、あやつの記憶であるからの。当たり障りのない、ただの記憶もまああるのじゃろ」
これまで見た記憶と比べると、確かに今回は当たり障りがない。
驚愕の新事実もなく、特に目新しい情報もなかった。びっくりするような登場人物もいなかった。
出て来たのは、人の良さそうな漁船の船長さんだけ。
どこかのんびりとした訛りのある話し方から、南の方の人なのかな、という気はしたけれど。
うむ、とナナもうなずいて、
「元帥殿も云うておったの、敵軍の進路に当たる島じゃと。その点から想像しても、南である事は間違いなさそうじゃな」
そう云い終わらないうちに、辺りの暗い靄が薄れ、次の記憶が始まる。
一転、明るい日差しに眼が眩む。
青い空と青い海、雲ひとつない晴天で、海面がきらきらと眩しく煌めいている。
ヌガノマは、岸壁の岩の上に腰を下ろしている。
おそらく前日に、あの漁船から飛び降りた岩場、のようだけれど、天候が違うだけで、辺りの様子がまるで違って見えた。
船長と迎えの約束をした翌日の午後、なのだろう。
ヌガノマは、眠っているのだろうか。
うつむき加減で、眼を閉じて岩の上に座っている。
何故か背負っていた背嚢を前向きに、胸に抱えるようにしていた。
「御子」は無事に回収したのだろうか。
大事そうに背嚢を胸に抱えているのは、その中に「御子」が入っているから、なのかな。
ふむ、とナナが不満げに鼻を鳴らして、
「何じゃ、記憶が飛んでおるの。「御子」とやらを回収するところを見たかったのじゃが」
ぶつぶつと不満をこぼしている。
それは、まあ僕もそう思うけれど。
記憶を再生する順番は、選べないのかな。
順番だけではなく、ビデオや何かを再生するように、事前にラベルを確かめて、どの記憶、と選んで再生できたらいいのに。
「本人ならば、それも容易くできるのじゃろうがの。あるいは、どこぞに目印のようなものがあるのやも知れぬが、今のところはわからんの。再生順は完全にランダムじゃな」
残念そうに、ナナはため息をつく。
ふと思ったのだけれど、あの記憶の保管庫の入り口にあった、捻れた梯子みたいな構造物。
あれにも、何か意味があるんじゃないのかな。
「ふむ、意味とは」
つまり、あの梯子状の構造物の中に記憶が保管されてるのだとしたら、梯子の横木1本1本がラベルのようになっているとか、そして、触れた箇所に保管された記憶が再生される、とか。
「あの梯子が、本棚のような物という事か。本棚と云うより、目次かの」
そうそう。さすが、ナナは察しがいい。
ラベルというか、目次、見出し、みたいなものかな。
ナナの云う目印も、あの梯子をよく見比べてみたら、そこに付いているのかも。
「有り得るの。意味もなく、あんな奇妙な構造をしておる訳もなし。この後、一度出て確かめてみるとしよ」
そうナナが云うのとほぼ同時に、風の音と波音に混じって、遠く船のエンジン音が聞こえてくる。
あの船長の小さな漁船が、大海原を突っ切るように駆けて、こちらに向かって来る。
船は見る見る近づいて、ねじり鉢巻きの日に焼けた顔がはっきりと見える距離まで来ると、船長は手慣れた動作で舫い綱を投げて、尖った岩場に見事に引っ掛けた。
「将校さーん、ご無事で何よりさー」
にかっと欠けた前歯を見せて船長が笑顔になる。
エンジン音を聞いた時点で眼を開いていたヌガノマは、声をかけられてすっくと立ち上がる。
その姿に、何か違和感を、僕は覚えた。
何だろう、背嚢を前向きに胸に抱くようにかかえているから、かな。
船長が足を船べりに踏ん張るようにして、舫い綱をぐいと両手で引く。
岸壁に横付けされた船体が、ぐいと引かれて岸の岩場にどんと当たる。
船体には、衝突時のバンパー代わりだろうか、古タイヤが並べて貼り付けられていて、実際にどんと鳴ったのはそのタイヤが岩壁に当たった音だ。
ヌガノマは右手で船べりを掴むと、ぐいと体を持ち上げて、ひらりと船に飛び乗った。
相変わらず、すごい身体能力だけれど、両手を使えばもっと楽に乗れそうなものを、どうして片手で。
そう思ってあらためてヌガノマを見て、違和感の正体に気づく。
船長も気づいたのだろうか、
「将校さん、左手はどうなさった。怪我でもしたのかね」
ヌガノマの左手があるべき場所をじろじろと眺めて、そう尋ねた。
左手は、胸に抱えた背嚢の底を支えているのかと思っていたけれど、違った。
背嚢の側面、底に近い辺りが裂けて穴が開いていて、左手はその穴から背嚢の中に差し込まれている。
その左手を庇うように、右手だけを使ってヌガノマは船に上った、そう僕には見えたし、船長にもおそらくそう見えたのだろう。
怪我でもしたのか
だとしても、背嚢に穴を開けてそこから手を差し込むというのは、あまりに不自然では。
「問題ない。気にするな」
短く云って、ヌガノマは身を翻し、船長が何も云わないうちに操舵室へ入って、あの壁に設えられた腰掛けに座る。
心なしか、その声にも力がないように感じる。
疲れているのだろうか、あるいは船長の云うように、どこか怪我でも負っているのか。
そんなヌガノマを目で追って首をかしげながらも、船長は身軽に岩場へ飛び降りて、岩にかかっていた舫い綱を外した。そしてそれを肩にかけると、両手で船べりを掴んで、よいしょと船に飛び上がる。
うん、やっぱりそれが自然な気がする。
片手で上れるにしても、左手を背嚢に突っ込んだままのヌガノマは、やっぱり不自然だしどこかおかしい。
船べりに立ち、片足で岸壁をぐっと蹴るようにして船を岸から離すと、船長は操舵室に戻って来る。
舵輪を握り、船を後退させて器用に向きを変えながらも、船長はちらちらとヌガノマを気にしている。
ヌガノマは俯いて腰掛けたまま、また眼を閉じていた。
首をかしげながらも船の方向転換を終え、船長がエンジンのスロットルを全開にしようとした、その時。
ごう、と唸るような音が響いて、強い風が吹きつけた。
途端に、どこから湧いて出たのか、真っ黒な雲が島の上空にまるで墨を落とすようにみるみる広がり、ぐるぐると渦を巻く。
ぎしぎし、ぎしぎし、と空気が軋むような音を立てて、突風がごうごうと唸りを上げて縦横無尽に駆け巡る。
「ひゃああ、なななんだ、何が起きたの」
船長が悲鳴を上げ、頭を抱えてうずくまる。
何が起きたの
まさに、僕もそう思っていた。
急な嵐とか、天候の激変とか、そんなレベルではない、何か異常な事態が、この小さな島に起きている。
「船を出せ」
いつの間にか、顔を上げていたヌガノマが、短く叫ぶように云う。
その表情は、険しく歪んでいる。
まるで、何か苦痛に耐えるみたいに。
渦を巻く黒雲に覆われ、夜のように暗くなった操舵室の中、ヌガノマが胸に抱えた背嚢が淡く光を放っていた。
背嚢の中にあるもの、それが強い光を放っている。その光が、背嚢の決して薄くはないであろう布越しに、外側へ漏れ出ている。
「将校さん、あんた」
船長が何か云いかけ、心配そうにヌガノマに近づこうとして、その光に気付き、たじろいでいる。
「早く、船を、出せ!」
苦悶に歪む表情のまま、船長をにらみつけてヌガノマが絞り出すような声で、叫ぶ。
「お、おう」
弾かれたように船長の体が跳ねて、操舵輪に飛び付くと、スロットルを全開にする。
突風と空気が軋む音が響く中、船のエンジンが轟音を上げて走り出す。
ばりばりと大気を切り裂くような音と共に、渦を巻く黒雲から、稲妻が走る。
その音と吹き荒れる風の音、そしてぎしぎしと空気が軋むような耳障りな音が重なり、それらに呼応するみたいに、ヌガノマが抱え込んだ背嚢が明滅するような光を放つ。
激しい波しぶきを上げて船は海面を弾むように走り、島から遠ざかるにつれて、それらのやかましい音も遠ざかって行く。
やがて黒雲の下から出ると、そこには嘘のような青空が広がっていた。
つい先程まで、島の上に広がっていたのと同じ、雲ひとつない青い空。
振り返ると、黒雲はまるで島に吸い込まれるように、急速に収束して小さくなり、何事もなかったかのように、忽然と消えた。
空気を軋ませるような、ぎしぎしという耳障りな音も、いつの間にか消えている。
突風も止んでいるようだった。
まだ船は全速力で走っていたので、その風は、吹いていたけれど。
「た、助かったー?」
操舵輪にしがみつくようにそれを両手で握ったまま、船長は腰が抜けたみたいに、その場にへなへなと座り込む。
「おそらくな」
ヌガノマのしゃがれ声も、普段通りだった。
さっきまでの苦しげな表情は消え、いつもの無表情に戻っている。
船長がよろよろと立ち上がり、スロットルを閉じ、エンジンを止めたらしい。
騒音が止み、ゆっくりと船が速度を落として、やがて止まると、辺りには船体を叩くチャプチャプという波音だけがやさしく響いている。
まだどこか呆然とした顔で、船長がヌガノマを振り返り、
「将校さん、あんた、さっき・・・」
云いかけて、云い淀み、はっと短く息を吸い込んで、
「いったい、さっきの、あれは?」
そう問いかけるのを、ヌガノマは右手を上げて制した。
「何も聞くな」
ざらりとしたしゃがれ声で短く云う。それは、命令だった。
「おまえは、何も見ていない。軍の兵士をひとり、あの島へ送り、翌日迎えに来た。ただそれだけだ」
じろり、とヌガノマの黒い眼が、船長を見据える。
「おまえは、何も見ていないし、何も聞いていない。いいな」
銃を向けているわけでもなく、大声で脅しているわけでもなかった、けれど。
「わ、わかった」
船長はそう答えて、くるりと前を向き、船のエンジンをかける。
何だかわからないけれど、尋常ではない何かだ。人が気安く触れてはいけないような、そんな何か。
僕が抱いたのと同じ感想を、船長も抱いたのだろう。
それならもう、逃げ出すしかない。
とっとと逃げ出して、ヌガノマの云うように、何も見ていない、何も聞いていない、そういう事にして、忘れてしまう方がいい。
きっと船長は、そう思ったに違いない。
ヌガノマはしばらくその船長の背中を見つめていたけれど、ふと思い出したように、胸に抱えた背嚢を見下ろす。
もちろん、もう光を放ってはいない。
底に穴が開いていて、そこから左手を突っ込んだままでいる点を除けば、ごくありふれた、軍の支給品の背嚢だった。
ヌガノマは、あの島から何を持ち帰ったのだろう。
背嚢の中には、何が入っているのだろうか。
無表情に背嚢を見下ろすヌガノマの顔から、その中身を想像する事は、僕にはできなかった。
ふわりと闇色の靄が湧いて、すっと幕が降りるように、辺りが闇に包まれる。
この記憶は、ここまでだった。
ナナが右手をひらりと振って、記憶の再生を止める。
丸いサングラスの上から、薄い灰色の眼が僕を見つめているけれど、ナナは何も見ていない。
深く、何か考え込んでいるようだった。
ほんのしばらく、たぶん30秒かせいぜい1分くらいの沈黙のあと、
「戻るか、一度」
ふと思い出したみたいにナナはぽつりとそう云って、ひらりと右手を翻す。
すっと周囲の闇が消え、現れたのは、僕のオレンジの海。
コテージのテラスに、僕らは立っていた。
戻る、と云ったら、ここなのかな。
気に入ってもらえてるのは、うれしいけれど。
「む、何の事じゃ」
ようやく我に返ったように、ナナが僕を見て云う。
心ここに在らず、とはよく云ったものだなと僕は思う。
本当に、ナナの心はさっきまでここになかった。
ナナは首をかしげて、
「じゃから、何の話じゃ。おぬしは何を云うておる」
そう、僕に尋ねる、けれど。
さっきの記憶を止めた後の話、
ナナはしばらく、心ここに在らずって感じだったよ。
僕がそう答えても、ピンと来ないらしい。
「そうじゃったかの」
つぶやいて、首をかしげている。
そもそも、あの記憶が終わったら、一度記憶の保管場所へ戻って、例のらせんの梯子を確認してみる、
あの記憶を見始めた時に、そう話していたはずだけれど、ナナ、忘れてたでしょ。
そう尋ねると、ああ、と、ここでようやくピンと来たらしい。
ナナはうなずいて、
「そう云えば、そんな話をしておったの。すまぬ、抜けておった」
ニヤリとナナはいつもの笑顔を見せる、けれど。
何か気になる事があるのだろう、という事くらいは、僕にもわかった。
ナナが、そんなにも心を奪われるような、何かとても気になる事。
「単にその話を忘れておっただけじゃ。では参るかの、保管庫へ」
右手を返そうとするナナを、僕は左手を上げて止める。
「何じゃ」
そうナナが何か云いかけるのを、僕は左手でもう一度止める。
ナナ、何かとても気掛かりな事を、さっきの記憶で見たんでしょ。
いつでも冷静沈着なナナが「心ここに在らず」になるくらい、気にかかる何か。
だったら、そっちをまず解決して。らせんの梯子の確認は、明日でもまた今度でも全然構わないから。
「むう」
つぶやいて、ナナは上目遣いに僕をにらむ。
あの記憶が、只事ではない事くらいは、僕にもわかる。
あんな風に天候が急変したり、突風があちこちからいっぺんに吹いたり、空気がぎしぎし音を立てたり、どれひとつ取っても、尋常じゃない。普通じゃあり得ない。
僕らが見たのは、映画やドラマではなく、ヌガノマの記憶だ。
過去に、実際に彼の身に起きた出来事だ。
空想や妄想の産物ではないし、ヌガノマの過去の記憶を、誰かが勝手に脚色することなんてできるはずがない。
ヌガノマ自身の妄想や思い込みが、多少は入ったりする事はあるのかもしれないけれど。
それを差し引いて考えても、やっぱりあれは普通じゃない。
何かが起きたんだ、過去にあの島で、ヌガノマの身に。
でも、僕にわかるのはそこまでで、それが何を意味するのか、何に起因するものなのか、そんなのはさっぱりわからない。
けれど、ナナは
ナナには、何か思い当たるフシがあるんでしょ。
だったら、僕には構わずに、どうかそれを確かめてほしい。
それが僕に云えない事なら、教えてくれなくても構わないから。
今は、僕に付き合ってらせんの梯子を見に行ってる場合じゃない、でしょ。
さっきのヌガノマの記憶が、心ここに在らずになるくらい、気掛かりなんだから。
だったら、
「ああもう、わかったわかった。みなまで云うな」
鬱陶しそうに、ナナは顔の前で包帯ぐるぐるの右手をひらひら振る。
そしてまたサングラスの上から、上目遣いに僕を見て、
「何もかも失くしたかと思えば、そういう所は相変わらずじゃの。うれしいやら鬱陶しいやらじゃ」
困ったような顔で、けれどナナはふふんと鼻で笑う。
「おぬしの云う通り、あれは只事ではないの。そして儂には、いくつか思い当たるフシがある。さらに小憎らしい事に、今はそれをおぬしには明かせぬ、という所も、おぬしの云う通り、じゃ」
べしっとナナは包帯ぐるぐるの手で、僕のおでこをチョップする。
痛くはなかったけれど、びっくりした。
なんでチョップするの。
「云うたじゃろ、うれしいやら鬱陶しいやら、小憎らしいからじゃ」
ふん、とナナは鼻息を荒くして、けれどすぐに、ニヤリといつもの笑顔になる。
「じゃが、その気遣いには感謝しよ。おぬしがそう云うのなら、気兼ねなく気掛かりを調べに行けるというものじゃ」
ふふん、と鼻で笑って、ナナはつないだままだった左手を僕の右手から離した。
そして包帯ぐるぐるの右手を上げ、立ち去りかけて、ふと思い出したように僕を見て、
「只事ではないが、過ぎた事じゃ。今さら儂らにはどうする事もできぬ。今の儂にできるのも、せいぜい確認くらいのものじゃろ。然るべき時が来れば、おぬしには全て話す故、あまり気に病まぬようにの」
そう云って、ナナはにっこり笑った。
うん、わかった。ナナも、気をつけて。
うなずいて、僕がそう云うと、
「何も気をつける事などありはせぬ、心配無用じゃ。ではの」
ひらりと右手を翻して、笑顔のまま、ナナの姿はふわりと消えた。

タイトルとURLをコピーしました