ふわり、とナナが席を立ち、ちょいちょいと無言で僕に手招きして、テラスから砂浜へ降りて行く。
なんだろう、と思いつつナナの後について行くと、あの流木の前で立ち止まり、ナナはふわりと流木のクッションに腰掛けた。
僕を見て、まあ座れ、と流木の隣を手で指して、
「横で儂らが喋っておったら、あのふたりもこちらが気になって、温泉を楽しめなかろ」
そう云った。
なるほど、気配り、というやつかな。
うなずいて、ナナの隣に腰を下ろす。
オレンジの海のやさしい波音がすぐ近くに聞こえる。
「公園の件じゃが」
そう、おもむろにナナは口を開いて、
「あれは位置的には、どうじゃ。ベースと海沿いのクレーターの直線上かの」
そんな事を、僕に尋ねる。
さあどうだろう、航空写真でもあれば、正確にわかるかも知れないけれど。市の図書館へ行けば、それもあるのかな。
イメージ的には、一直線ではなく、公園は少し南寄りにズレているような気がする。3点を線でつないだとしたら、ゆるいV字型になるのかな。
ナナがそう尋ねた意図は、さすがに僕にもわかる。
例のロリポリの腹部の落下地点、だろう。
うむ、とナナはうなずいて、
「このタイミングで公園が閉鎖された、というのが妙に気にかかるのじゃ。思えば、何ゆえあの公園は認識を消されておったのじゃ。何の変哲もない、ただの小ぢんまりとした公園じゃろ」
そう云って、首をひねる。
云われてみれば、その通りだった。
ミドノ原の工事現場も、海沿いのクレーター周辺も、理由があって、認識が消されている、はず。
隕石の落下地点、そして、米軍の研究施設があった。つまり、アルカナにまつわる場所。
でも公園は、ナナの云う通り、ただの小さな公園だ。
工事現場の認識を消したのは、12年前、あの地震の後、あるいは火災の前後、本国からの全軍撤退の命令に従わず、隠れ潜んでいた研究員の一派、H・Oたちによるものと思われる。
そう考えて、ふと思う。
海沿いのクレーターも、おそらく認識は消されているのだろうと僕らは思い込んでいたけれど、その確証は、なかったかも。
あの大規模なクレーターが、これまで街の誰からも気づかれていない事、あの周辺の土地全体が、地震の後、復興もされずそのまま放置されている事、それらの状況証拠から、僕らがそう思った、というだけだった。
ふむ、とナナは唇に手を当てて、云う。
「海沿いに関するおぬしらの推察は、概ね正しかろ。何時なのかは定かでないが、いずれかのタイミングで、あちらの認識も消されておるのじゃろ。それもH・Oらによるものかどうかは、わからぬが。もしそうだとすれば、厄介じゃの。彼奴らのテリトリーは、存外広がっておるのやもしれん」
ナナの言葉に、海沿いの地下を思い返してみる。
灯りは必要最低限ではあったけれど灯されていて、土砂崩れでふさがった北向きの広い地下通路も、崩壊が進まないよう木材や鉄パイプで補修された形跡があった。
今もなお使用されてるという感じはしないまでも、人の手はいまだに間違いなく入ってる、そう思えた。
「小僧め、何故あんな遠回りをして、おぬしらをわざわざ海沿い経由で地下へ招き入れたのか」
そう、ナナが云うのは、あの時、僕らがH・O一派と接触する危険性を、キクヒコさんが考えなかったのか、と云いたいの、かな。あの時はまだ、キクヒコさんも黄金虫やH・O一派の存在を知らなかった、とか。知ってはいたけれど、あちらまで奴らの手が伸びているとは思わなかった、とか、かな。
と云うか、今ナナは「あんな遠回りして」「わざわざ海沿い経由で」って云った?
じゃあ、やっぱり他にもあるんだ。
もっと近くの、あの工事現場の周辺から、直接地下へつながるルートが?
「無論、ある。西と北にの。じゃが、いずれも火災に遭ったエリアを通る事になるがの。よもや小僧め、それを避けたか。あるいは、あの周辺の地下でナガヌマと遭遇するリスクを避けたのやも知れぬが」
ナナは小さくかぶりを振って、
「兎も角、今は公園の件じゃ」
そう云って、話を元に戻す。
「公園がロリポリの腹部の落下地点なのだとしたら、儂の想像の筋書きに多少の修正が必要じゃ」
そう、ナナは云う。
「彼奴らは腹部を発見して何処かへ隠し、地下の古い坑道に手頃な場所を見つけ、秘密の研究所とした。そして腹部をその研究所へと移した。儂はそう云ったが、そうではないのかもしれん」
そうではないのかも
と云うと?
「本体や尾に比べれば小さなサイズかもしれぬが、推定2〜3mのあの隕石が如きロリポリの腹部、じゃぞ。彼奴らにそう容易く隠したり運んだりができたとは思えぬ。軍の工兵などではなく、非力な研究者に過ぎぬ奴らに、の。隠したのはロリポリの腹部ではなく、穴の方ではないか。2〜3mの隕石の破片が、どれほどの穴を開けるのかは知らぬが、海沿いやミドノ原に比べれば遥かに小さな穴じゃろ」
ナナにそう云われ、思い出す。
アイと一緒に市の図書館で隕石について調べた時、ガブリエルが目にして覚えていてくれた、隕石の大きさとクレーターのサイズに関する比率。確か、かける10って云ってた。
隕石が10mなら、かける10でクレーターの直径は約100mになる。それなら、2〜3mの隕石は、かける10でクレーターは約20〜30m、だろうか。
もちろん、おおよその目安であって、隕石の材質や地上に落ちる速度・角度によっても違いはあるのだろうけれど。
直径20〜30m?
あの小さな公園の広さが、ちょうどそれくらいでは。たぶん、公園が中にすっぽり収まるくらいかも。
ふむ、とナナはうなずいて、
「彼奴らの一味が、当時何人おったのかは知らぬがの。せいぜい数人から十人程度の不埒な考えを持つ研究者どもではないか、と想像できよう。それが20〜30mほどの穴と、その底にロリポリの腹部を見つけた。運び出せるか?いや無理であろ。何かで覆い隠す方がよほど楽じゃし早かろうよ。あの辺りは、当時は深い竹林じゃったはず。隕石落下の衝撃やらで、折れた竹が大量にあった事じゃろ。数mもあるような天然の長い竹の木がの。それをかき集めてひとまず穴を覆い隠す。工法としては、ミドノ原のロリポリのホールと同じよ。穴をそのままに、上を塞いでその中を研究スペースとする。彼奴らの中にミドノ原を見ていた者がおったとしたら、同じように真似しようとするのもわかるし、何より手っ取り早い。外から見えぬよう隠してしまいさえすれば、あとはゆっくり時間をかけて天井を塞ぐなり、隕石の研究なり、何なりできるのじゃからの」
淡々と語るナナの説は、一理あるように思えた。
海沿いのクレーターは、落下物であるロリポリの尾が約5m、穴の直径が約50mで、底までの深さは10mくらいだった。
単純に考えて約半分のサイズ、2.5mの腹部があの公園(ナナによると当時は竹林だったらしい)に落ちたのだとすれば、穴の直径は25m、底までの深さは5m、という事になる。
ナナの云う通り、数人の研究者が、その穴から2mもあるロリポリの腹部をどこか別の場所へ運び出したとは考えにくい。
ミドノ原のクレーターの見よう見まねで、周囲に大量にあった折れた竹などを使って穴を塞ぎ、外から見えないようにする。
深い竹林の中であればこそ、応急的に穴を塞ぎさえすれば、外から発見されるのを防ぐ事くらいは容易にできたのかも。
軍の調査隊の本部には、「竹林をくまなく探したが、隕石の落下痕は見当たらなかった」とか、虚偽の報告をしてしまえば、それ以降、竹林に近づこうとする者もいなくなるはず。
そうして人を遠ざけておいて、後は少しずつ、穴の天井を塞いで土をかけるなどして隠してしまえば、秘密の研究所が出来上がる。
あ、でも塞いでしまったら、出入りはどうするの。
「例の地下の坑道が、たまたまその下にあった、としたらどうじゃ。土地勘もない他国の軍の研究者なぞが、この土地の昔の銀の坑道を知るはずもないと不思議に思うておったが、隕石の落ちた場所、おぬしの云う20〜30mほどのクレーターが、たまたま昔の坑道を掘り当ててしまったのならば、納得じゃ。彼奴らにとっては、渡りに船よの。天井の穴を塞いでも、坑道を通って地上から密かに出入りができるという訳じゃ」
淡々と、ナナは云う。
そんな偶然が、と云いたいところだったけれど、僕らはその坑道を、ヌガノマの記憶ですでに見ている。
地下牢に囚われた(フリをしていた)ヌガノマと、そこから彼を逃すモニカ。そして、ふたりを探していたドクターブラウンともうひとりのメガネの痩せた白人研究者。彼らはそこにいた。
そして、あの地下坑道の先には、「博士のラボ」がある、と彼らは云ってた。
その博士のラボが、公園の地下のクレーターに作られたものだった、としたら。
そこに、ロリポリの腹部があった、のだろうか。
あの記憶で、
「ラボ、というのは、あの悪趣味な実験室の事だろう」
「ついでに、あの哀れな博士とやらに挨拶でもして行くか」
そう云ったヌガノマを、モニカは止めていたけれど。
そのまま挨拶をしにラボとやらまで行ってくれていたら、その場所の様子が僕らにも見れたのに、と少々悔しい思いがしなくもない。
「そのラボで、あやつが博士の実験やらを飽きるほど受けておったのなら、いずれその記憶にも当たるかも知れぬがの」
ナナにそう云われ、あ、それはそうかも、と思う。
「嗚呼、其れでひとつ思い出したわ」
ぴこん、とナナが包帯ぐるぐるの右手を上げて、
「あのらせんの梯子じゃが、おぬしの予想通り、記憶の目次になっておったぞ」
ニヤリと笑って、云う。
らせんの梯子、あのハナの灰の海の底、記憶の保管場所の。
「うむ。おぬしの云うように、あの梯子の1本1本に、それぞれ記憶が保管されておるものらしい。じっと手をかざしてみると、まるで映画の予告編のように、頭の中に映像が再生されたわ。その触れた梯子の中に保管された、記憶の一部が見れるようじゃ。入らずともあの場で中身を確認できるなら、目当ての記憶を探すのはだいぶ楽になるの」
それは、別にいつでもいいって云ったのに、ナナは忘れずに調べに行ってくれたらしい。
確かにナナの云う通り、あの入り口の時点で見るべき記憶を取捨選択できるなら、だいぶ効率が良くなりそうだ。
ありがとう、と僕はナナにぺこりとお辞儀をする。
「なんの、大した手間でもなし。とは云え、本来の目的、切れたつなぎ目を探す方には、あまり役には立たなそうじゃがの」
ふふん、とナナは肩をすくめてみせる。
でも、そうかな。予告編では、切れたつなぎ目は、見つからないのだろうか。
あるいは、予告を見るまでもなく、あの梯子そのものに、切れた箇所があるのかも。
僕がそういうと、ナナは、むむっとうなって、
「おぬしどうした。知恵の実でも食べたのか。冴えておるの」
くくっと楽しそうに笑う。
「確かにの、あの梯子ひとつひとつに記憶が保管されておるのであれば、その中に切れた梯子があるのやも知れぬ。次はそれを探してみるとしよ」
それは、今日はじめての良いニュース、だったかもしれない。
ハルの行方不明や公園の閉鎖で、何だか気持ちがどんより沈みがちだったけれど。
「今日はじめて?おぬしをそれを、跳ねっ返りの前で云うなよ?」
苦笑を浮かべたナナに、じろりとにらまれた。
「あら?キクちゃんたら、あたしが眼を覚ましたのは、悪いほうのニュースだったのかしら」
そう云ってあの悪魔の笑みを浮かべるルリおばさんの顔が脳裏を過って、ぞっとする。
「おぬし、いったいどんなトラウマをあやつに植え付けられたのじゃ。可哀想にの」
困ったような顔で、けれどどこか可笑しそうに、ナナはそう云って笑う、けれど。
何だろう、気持ちの上ではわかっているつもりなのだけれど。ルリおばさんが、そんな怖い人じゃないって。
助けてくれたことは、本当に感謝してるし。
あの眼帯と手の包帯を見ると、本当に申し訳ない気持ちで、胸がぎゅっと締め付けられる。
それでも、4歳の僕の心に刻まれたトラウマは、そう簡単には消えない、という事なのかな。
いつの間にか、30分ほど経っていたらしい。
「いやあ、いーい風呂だったぜー」
いつもよりさらにごきげんなLの声がして、リビングの左手の廊下から、みんながさっぱりした顔でぞろぞろと帰って来た。
ふわふわの金髪を大きめの白いバスタオルでごしごしと雑に拭きながら、Lがどっかとソファの僕の左隣に腰を下ろす。
小学校の制服を着て、頭に大きなバスタオルを巻いているので、何だかプールの授業が終わった後みたいにも見えるけれど。
と云うか、Lは温泉に頭から入ったの。どうして髪がそんなに濡れてるの。
Jも制服の肩にバスタオルをかけているけれど、髪は肩口の毛先が少し濡れているくらいだけれど。
「Lちゃんはねー、ひゃっほーっておんせんに飛び込んで、じゃぶじゃぶ泳いでたんだよー」
わははー、と笑いながら、ハナがそう教えてくれた。
リビングの何もない壁がぱかっと開くとそこがクローゼットになっていて、ルリおばさんはその中に入って行き、何やらハナの着替えと替えの包帯らしきものを手にして出て来た。
Lって、どうしてそう、時々フツーの小学生みたいな事するの。
「はあ、おまえ、何云ってんの。温泉だよ?めっちゃでかい岩風呂だよ?そりゃもう、泳ぐでしょ」
やれやれみたいな顔で、Lは云う。
「泳がないでしょ。ちいさなハナちゃんだって見てるのに。恥ずかしい」
Jはまるで自分が何か恥ずかしい事をしてしまったみたいに、頬を染めて下を向き、Lをにらんでいる。
「え、だって、ルリおばさんが泳いでいいって云ったじゃん」
小学生男子みたいな雑な云い訳をして、Lが救いを求めるように、ねえルリおばさん、いいって云ったよね?と声をかけると、リビングの隅でハナの手と足に新しい包帯を巻き直していたルリおばさんが手を止めて、
「云ったけど。ミカエル、あたしのこと、ルリおばさんて呼ぶの止めてってさっき云ったわよね?」
キッとLをにらんで云う。
お風呂で、そんなやり取りがあったの。
え、じゃあ僕もルリおばさんって呼ばない方がいいの、かな。
心の声は聞こえていないはずだけれど、僕がそんな顔をしていたのだろう、ルリおばさんは僕を見て、
「キクちゃんに呼ばれるのは、まあ仕方ないわよ。一応、叔母だし、もう慣れてるからいいけれど。でもミカエルに呼ばれるのは、何だかすごく嫌。だってあんた、ナナの事は「ナナちゃん」って呼ぶじゃない」
また、キッとLをにらむ。
あ、そういう理由なの。
云われてみればだけれど、Jもガブリエルも、ナナの事は「ナナちゃん」って呼ぶけれど、ルリおばさんの事は「ルリさん」って呼ぶよね。
まあ、ふたりは、ルリおばさんのファンだから、かもしれないけれど。
Lが「ルリおばさん」呼びなのは、ごめんなさい、きっと僕のせいだ。
たぶん、僕がきっかけで、Lはルリおばさんを知ったから。
Lはにこにこ笑って小首をかしげて、
「だってー、ナナちゃんは最初からナナちゃんだったもん。じゃあルリちゃん、お風呂で泳いでもいいよねー?」
青い眼をきらきらさせながら、聞く。
「もちろん、いいけれど」
ルリおばさんは、肩をすくめて、
「はあ、この子、ずるいわ」
呆れたような大きなため息をついて、ハナの包帯を巻き直す作業に戻る。
ルリおばさん自身の手の包帯は、お風呂に入る時に外したのか、今は巻かれていなかった。
代わりに、手の甲には大きな白い絆創膏のような、シールみたいなものが貼られている。
右眼の眼帯も、お風呂では外したのだろうけれど、今は真新しいガーゼに替えて、また白い眼帯をしていた。
オレンジの海の星の砂浜で、何やら気配を感じて振り向くと、いつの間にかLが僕の後ろに立っていてニヤリと笑って、流木の僕の隣にどっかと腰を下ろす。
Jも遅れてやって来て、反対側、ナナの隣に座った。
「ふたりともありがと。いいお湯だったよ」
Jが律儀にそう云って、僕とナナにぺこりとお辞儀をする。
「それは何よりじゃ」
ナナは、ほっほ、と笑う。
Lが僕の肩をがしっと組んで、
「ルリちゃんから、キクちゃんに伝言だよー」
ニッと笑って云う。
ルリおばさんから、伝言って、すぐそこにいるのに。
うんうん、とうなずいてから、Lはめずらしく、やさしいおだやかな声で、
「右眼は視力には問題ないって、ちゃんと見えるから安心してってさ。まぶたがざっくり切れちゃってて、縫い合わせた傷がまだ完治してなくて目立つから、治るまでしばらく眼帯してるんだって。あと、両手の傷はほとんどふさがってるけど、かさぶたになったりしてて見栄えが良くないから、治るまで隠してるんだってさ」
一息にそう云って、Lはぽんぽんと僕の肩を叩いた。
そして、Lはオレンジの海を見て、
「いや、ごめん。伝言っていうか、オレがしつこくあれこれ聞いちゃったんだよね。そしたらルリちゃん、答えてくれて、「キクちゃんにもそう云っといてね」って」
そう云って、またぽんぽんと肩を叩く。
ああ、と僕は思う。
どうしてみんな、こんなにやさしいのかな、って。
元はと云えば、僕の考えなしな、勝手な行動が原因だった。
あの時、ここで、白い灰が降りだした「オレンジの海」で、Lは僕のおでこにチョップした。
鼓膜が破れるかと思うくらい、大きな声で「おまえ!」って叫んだ後で。
それからJが、僕の頭をふわふわっとなでた。
ルリおばさんも、僕を助けるために、傷跡が残るほどの大怪我をして、それなのに。
どうして、そんなにやさしいの。
「さての」
寄せては返すオレンジの波を見ながらナナが、
「因果は巡ると云うからの。おぬしが皆にやさしくある故、同じだけやさしさが戻ってくるのではないかの」
淡々と、そんな事を云う。
そうなのかな。
僕は、何も覚えていないのに。
ルリおばさんやキクヒコさんを助けたのも、僕ではなく別の「キクタ」のように感じているし。
JやLにだって、
「はいストーップ」
急にLが大声でそう云って、びっくりした。
「しんみりさせちゃって悪かったけど、まだ終わりじゃないんだなー」
ふっふー、とLは笑って、
「ルリちゃんからお話があるみたいだぜー。コテージ行こ、ナナちゃんに視界の窓つないで見せてあげようぜー」
僕の肩を組んだまま、ほいっと勢いよく流木から立ち上がった。
「聞いたわよ、キクちゃん。ハルの事」
黒に近い紺色の柔らかそうなワンピースの部屋着に着替えたルリおばさんが、お揃いの部屋着を着たハナの手を引いてやって来て、ソファの僕の右隣にハナを座らせ、その横に座りながら云った。
そして遠慮がちにソファの前に佇んでいたJにちょいちょいと手招きして、ルリおばさんの隣に座らせる。
Jはまた恥ずかしそうに頬を染めて、けれどうれしそうにはにかみながらソファに座る。
ハルの事
聞いたのはもちろん、Lから、なのだろう。
例によって、だけれど、本当にLは、話が早い。
左を向くと、Lがニヤリといつもの笑顔を見せる。
「行方不明だなんて、心配ね。もちろん、探すのを手伝ってあげるけれど」
そう云って、ルリおばさんは何か考え込むように、ふっとリビングの高い天井を見上げて、
「キクヒコを探すのは、嫌よ」
切って捨てるように、ぴしゃりと云った。
コテージのリビングで、ソファに座って僕の視界の窓越しにその様子を見ていたナナが、やれやれと肩をすくめてみせる。
「あ、誤解しないでね。別にあいつが嫌いだからじゃないわよ」
くるっと僕の方を向いて、ルリおばさんはひどい事をさらっと云う。
それはつまり、キクヒコさんが嫌いだって云ってるのと同じでは。
「あんたは覚えてないでしょうけれど、あいつはね、トラブルメイカーなの。何でもない簡単な事でも、あいつが絡むと大問題に発展するのよ。だから、嫌よ」
ふいっとまた天井を見上げて、ルリおばさんは云う。
けんもほろろ、と云うのは、この事かな。取りつくしまもない、と云うか。
「キクヒコなんか探すより、ハルを直接探す方が早いでしょ。だから、ハルを見つけましょ」
またくるりと僕の方を見て、ルリおばさんは云う。
ああ、と僕は思う。
何だかとても懐かしい、ルリおばさんだ。そうそう、いつもこんな風だった。
人の事などお構いなしに、自分の思いをひたすら話す。
あの頃は、そんなルリおばさんがすごく苦手だったけれど。
今は、何だろう。何だかすごく、頼もしく感じる。
頼れる大人、という感じがする。それが何だか不思議だった。
「ハルを見つける。そりゃその方が早いけど、ルリちゃん、そんな事もできるの」
Lが尋ねると、
「いっしょでしょ、キクヒコを探すのも、ハルを探すのも。その人の持ち物さえあればいいんだから」
ルリおばさんはそう云って、少し考え込むように首をかしげて、
「本当は、行方不明になったその時に、何か落とし物でもしててくれたら一番いいのだけれど。帽子でも、スマホでも、飲みかけのペットボトルでも、何でもいいわ。そしたら、その落とし物を見つけさえすれば、落とした場所までのその日の記憶が読めるでしょ。あとはキクちゃんが「糸」を辿って」
そう云いながら、僕を見る。
「糸」を辿って、って何だろう。
僕が、何かをするみたいだけれど。
「あら」
僕の表情を見て、ルリおばさんは何かを察したらしい、
「まさかキクちゃん、「能力」まで忘れちゃって、まだ思い出してないの」
あらまあ、みたいな顔で僕を見る。
「能力」
「糸」を辿って?
それはもしかして、
くるりと僕が左を見ると、右を向いたLと眼が合った。
はい、とLが右手を上げて、
「それ、たぶんオレだわ。「線」って呼んでるけど。方向を示す「線」が空中に出るやつ、だよね」
そう、ルリおばさんに尋ねる。
ルリおばさんは、きょとんとした顔をして、
「そう、なのね」
ぽつりとつぶやいた、かと思ったら、はっと息を飲んで、僕を見て、
「キクちゃん、あんたまさか「能力」もなしに、ヌガノマを追いかけてあんな地下まで来たの?」
すごい勢いでそう云われ、僕は無言のまま、反射的にかくかくうなずく事しかできなかった。
「能力」
あの「音」がそうなのかと思っていたけれど、あれはどうやら、違うのだろうか。
あの時は、確かに、あの「音」に導かれるように、ルリおばさんを見つけて、追いかけて行ったのだけれど。
「線」は、僕には見えてなかった。もちろん「糸」も。
数秒、茫然と僕を見つめていたルリおばさんは、キッと右を向くと、
「ちょっとナナ、どうなってるの。どうしてキクちゃんは「能力」を思い出してないのよ」
そう、ハナに詰め寄る。
ハナは何を云われているのかさっぱりわからないようで、きょとんとした顔で、オレンジの眼でルリおばさんを見上げていたけれど、
「やれやれ、面倒じゃの」
オレンジの海のコテージで、ナナがそうつぶやいたと思ったら、ふっとその姿が消えた。
「知らぬ、儂に聞くな」
その声は、ハナの口から聞こえた。さっきまで、オレンジの眼でルリおばさんを見上げていたハナが、今は薄い灰色の眼で、うんざりした顔でルリおばさんをにらんでいる。ナナが交代したらしい。
「知らぬじゃないわよ。あんたは「能力」使えるんでしょ。どうしてキクちゃんは全部忘れちゃってるの」
今はナナだけれど、見た目は小さなハナなので、端から見ると大の大人のルリおばさんが小さな子供に食って掛かっているように見える。
何とも不思議な光景だった。
「儂と此奴では状況が違うわい。じゃから儂は云うたろ、縮めば全て失くすぞと。じゃが、此奴らの証言によれば、道具を使ったキクヒコは、此奴の体で「能力」を自在に使いこなしていたらしいぞ。なれば・・・」
まだ何かを云いかけるナナを制するように、ルリおばさんは悲鳴のように叫ぶ。
「ちょっと待って。ナナ、あんた今なんて云ったの?キクヒコが誰の体で「能力」を?」
ナナは、やかましいの、と云わんばかりに片手で耳を塞ぎ、大袈裟に肩をすくめて、僕を見る。
え、もしかしてまた、「面倒じゃ、おぬしが説明せい」なの。
それは、いやだなあ、と思ったけれど、何も知らないままではルリおばさんも可哀想に思えたので。
あの後、地下道でNに入ったキクヒコさんに助けられた事、そして僕はNの体に入ったまま飛ばされて、僕の体は少しの間キクヒコさんが預かっていてくれた事、そしてそのキクヒコさんに導かれて(その時は、僕の体を取り戻すつもりだったのだけれど)みんなで彼を追いかけて、海沿いのクレーターから、あの地下道を通ってロリポリの地下ホールまで行った事、それからあのMと出会って、ロリポリやアルカナについてひと通りの話を聞いた事まで、全てをルリおばさんに説明した。
ルリおばさんは、険しい表情で今にも何か叫び出しそうにソファの上で体をもぞもぞさせながら聞いていたけれど、僕が話し終わると、しばらく呆然としたように宙を眺めて黙り込んでいた。
けれど、突然雷にでも撃たれたみたいにびくっと全身を震わせて我に返ると、大きく息を吸い込んで、
「あいつ、何考えてるの!」
分厚い高層マンションの強化窓ガラスが砕け散るかと思うほどの大きな声で、そう叫んだ。
そしてそのまま握ったこぶしをぷるぷると震わせて、どこへもぶつけようのない怒りをこらえるように、顔をしかめてリビングの宙をにらみ、何やらうなっている。
「うーん、まあ、そうだよねー。あの時はまだオレも何にも知らなかったからさー。へえ、そうなんだーっていちいち驚いてたけど。今になってMちゃんやナナちゃんにいろいろ聞いてみて、あらためて思うと、キクヒコってだいぶやばいよねー」
あっはっはー、と楽し気にいつもの陽気な声でLが笑う。
本当に、いつも思うけれど、Lのこの陽気さは何にも勝る癒しだ。
空気がおだやかに、ぽっとあたたかな陽だまりのようになる。
「でも結果オーライって云うかさー。海沿いのクレーターから、あの長い地下道と、ロリポリの地下ホールまで、あの日に全部見れたのは、キクヒコのおかげだなーってね」
そうLが云うので、僕も同意するようにうなずく。
それは、そう。キクヒコさんも云ってたけれど、「俺は、ここを、見せようと」って。
鬼のような形相で宙をにらんでいたルリおばさんが、僕を見て、それからLを見て、その陽気な笑顔に毒気を抜かれたように、「はあ」と大きなため息をつく。
「まあ、あんた達が無事で良かったわ。キクヒコは、絶対許さないけれど」
ぐっとこぶしを握り締めて、何か決意するようにルリおばさんは云う。
そして、あらためてハナ(ナナ)を見て、
「じゃあ、キクちゃんの体が「能力」を使える事は、キクヒコが確認済みって事ね」
何だか面白くなさそうに、ふてくされた顔でルリおばさんは云う。
「左様」
ナナの返事は短い。
「あいつ、何様のつもりなの。それで自分の「能力」すらコントロールできないほどくたくたになって、ほんと、莫迦よね」
はあ、と今日だけでもう何度目かわからないくらい、ルリおばさんはまた大きなため息をつく。
「それで、そのMちゃんとかいうのは誰なの。ナナ、心当たりないの」
そうルリおばさんに尋ねられ、ナナはまた肩をすくめて、僕を見る。
面倒じゃ、以下省略。薄灰色の眼がそう語る。
Mの正体。
その話は、また長くなるのだけれど。
「え、何おまえ、Mちゃんの正体知ってんの?」
Lが驚いた顔で、青い眼をきらきらさせて僕を見る。
そう、さっきは、5時間目の授業中だったし、長くなると思ったので。
ヌガノマの記憶の中身まで詳しくは、Lたちに説明していなかった。
それをナナと見に行った、という概要だけで。
「あーね。もうこの際、ぜんぶ云っちゃえば」
ぽんぽん、と僕の肩を叩いて、Lが
「今日は公園が閉まってたおかげで、まだ時間もたっぷりあるしさー」
さあ吐け吐いて楽になっちまえ、みたいにニヤニヤ笑いながら云う。
何だか、まるで僕が隠れて悪い事でもしていて、洗いざらい全部白状しろみたいな流れになってるけれど。
それはともかく、ルリおばさんにハルの捜索を手伝ってもらう以上、知ってる情報は全部共有すべきだよね。
それに、ヌガノマの記憶の話を、LやJにも聞いてもらいたかったのも確かだった。
ガブリエルが、いないけれど。
そう思ったら、からからとトーテムの貝殻の風鈴が鳴って、
「うん、聞いてるよ。残念ながらルリさんの声までは聞こえないけどねえ」
オレンジの海で、ガブリエルの声がそう云った。
確かに残念だけれど、ルリおばさんは「海」とつながっていないので、その声はガブリエルには届かない。
とは云え、ガブリエルも聞いてるのなら、Lの云う通り、いい機会かもしれない。
そう思って、ひと通り、全部を僕は話した。
ヌガノマの記憶で見た事と、さっき、みんながお風呂に入っている間に、ナナと話した公園の推察まで、全部を。
「あー、おまえが全部話すのを躊躇したワケがわかったぜー。こりゃまたすっげー情報量だなー」
はっはっはーと、どこか呆れたように、それでも楽しそうに、Lが笑う。
「ナナちゃんが、今日は何だかお疲れなのは、そのせいだったんだねー」
そう云ってJは、労わるようにナナを見て、手を伸ばしてハナのドレッドの髪をふわりとなでる。
「儂もはじめてだった故な。つい調子に乗って、次々記憶を読み進めてしもうた。あれはなかなか堪える」
年寄り扱いするなと怒るのかなと思いきや、ナナは素直に苦笑して、肩をすくめてみせる。
ふふふ、と何故かJが笑って、
「でも、ちょっと、うらやましいな。私も見てみたい。きっと、Lもそうだと思うけど」
そう云ったのは、少し意外で、驚いた。
Lはきっとそう云うだろうな、と思ってたけれど。そっか、Jもそう思うんだ。
うーん、とJはあごに人差し指を当てて、少し首をかしげて、
「人の記憶を見る、なんて聞くと、何だか覗き見するみたいで、少し後ろめたいような気がするのかなって思ってたけど。ぜんぜん、そんな感じじゃないんだね。Kの話を聞く限りでは、まるで、映画のワンシーンを見るみたいな、そんなイメージなのかなって」
考えながら、一言ずつ言葉をゆっくりと選ぶような、いつものJの云い方で。
確かに、そうかも。当初は僕もJが云うような抵抗がなくはなかったけれど、いつの間にか気にならなくなってた、かな。
「所詮は記憶であるが故な。ある程度は、本人の頭の中で整理されわかりやすく解釈された形で保管されておるのじゃろ。とは云え、本物じゃからの。いわば、ドキュメンタリーじゃ。しかも、あやつのじゃろ、いちいち重くて敵わぬ」
そう、ナナは苦笑する。重たい実感のこもった苦い笑みだ。
はあ、とまた声が聞こえるほど大きなため息をついて、ルリおばさんが、
「あんた達、物好きねえ。あたしは、頼まれたって嫌だわ、ヌガノマの記憶を見るだなんて」
呆れ顔で首を横に振る。
そっか、ルリおばさんにとっては、そうなのかも。あいつはまだ、やっぱり「敵」なんだ。
「でも」
と、ルリおばさんはちらっと僕を見て、
「キクちゃんらしいわね、とっても」
そう云って、ふふっと笑う。
「いろんなこと忘れちゃってても、そこは変わらないのね。安心したわ」
変わらない、キクタの何か。
Nにも前に云われた、「変わらないのですね、やはりアナタは、キクタに違いない」って。
ナナも、「失くした」「忘れた」とさんざん文句を云いながらも、変わらない「何か」を認めてくれているらしい。
それが何なのかは、残念ながら僕にはわからないのだけれど。
「話を戻しましょ。ハルを探す方法ついて。でも・・・」
そう云ってルリおばさんは、何か思案する顔になる。
「今の話を聞いてしまったら、簡単にみんなで探しに行きましょ、ってわけにはいかないかしら」
少し難しい顔をして、ルリおばさんはそう云った。
それは、どうして。
僕が、まだ「能力」を思い出していないから、なのかな。
そう思ったので、そう尋ねると、ルリおばさんは小さく首を横に振る。
「それは、ミカエルにあのゴーグルを返してもらえば解決でしょ。そうではなくて、ハルは、ただ居なくなったんじゃないでしょ。事故や何かじゃない、これは、誘拐よ」
誘拐
ただ居なくなったんじゃない
ハルは攫われたの。
いったい、誰に。
「誘拐と云っても、ガブリエルの時ともまた違うわ。あの時は、「ガブリエルの誘拐」そのものがあいつの目的だったでしょ。でもハルの場合は違う。目的は「ハルの誘拐」じゃない」
そう云って、ルリおばさんはすーっと眼を細める。何もない空中に、何かを見透かそうとするみたいに。
「何故なら、ハルはアルカナを持たない普通の子。それに、こう云っては失礼かもしれないけれど、身代金目当ての誘拐に遭うような家庭環境じゃない、でしょ。あ、それは、ミクリヤ家の御曹司と比べて、って意味よ。ハルの家庭をどうこう云うわけじゃないわ。母子家庭だって立派な家庭よ。あたしに、他人の家庭をとやかく云う資格なんてないし」
そう云って、ルリおばさんはすっと右手を上げる。人差し指をぴんと立てて。
「それからもうひとつ。これはあたしの勘だけど、ハルを誘拐した奴と、その認識を消した奴、犯人は別々でふたりいるわね」
そう云って、ルリおばさんは中指もぴんと立てる。
犯人は別々でふたり
ハルを誘拐した奴と、その認識を消した奴
「勘の理由を説明するわ。なんとなく、似てるのよね、ハナの転校に。ハナを転校させたのはあたし、でもその認識を消したのはナナ。目的や思惑はそれぞれ別々なの。でも利害関係は一致した、だから実行された」
淡々と、少し鼻にかかった甘い声で、ルリおばさんは云う。
「まるで犯人の目星がついとるような口ぶりじゃの」
ちらりと薄灰色の眼でルリおばさんをにらんで、ナナが云う。
ルリおばさんは声に出さず、口元だけで少し笑って、
「云ったでしょう、あたしの勘だって。勘でいいなら、犯人を云えるわよ。ハルを攫ったのはヌガノマ。その認識を消したのはH・O・アンダーソンね」
平然と、何でもない事のように、そう云った。
ハルを攫ったのはヌガノマ
その認識を消したのはH・O・アンダーソン
すごく不思議なのだけれど、そう云われてしまうと、もうそれしかないような気がしてしまう。
あくまで、ルリおばさんの勘、なのだろうけれど。
すっと僕の左側でLが手を上げて、口を開く。
「登場人物てきに云えば、ルリちゃんの云う通りだよねー。ヌガノマは子供を攫う。その目的が何なのかはわかんねーけど、ってか、あいつ自身にもわかってねーよーな気もするけどねー。ガブリエルを攫った前科があるし、Kをしつこく追い回したりもしてる。けど、あいつは「認識を消す力」を使えない。それに、たぶん、そんな事考えもしないよーな奴だよね。実際、ガブリエルの誘拐事件も、Kが追いかけ回された時も、認識は消されてない。それが今回は、消された。しかもわりと早いタイミングで、その上、ご丁寧に公園の封鎖ってオマケまで付けて。じゃあ今回は何が違うのかって云うと、ふたつある」
ぴこん、とLはルリおばさんの真似をして二本指を立てる。
「ひとつ目は、ハルがアルカナ持ちじゃない、普通の子だって点。何をトチ狂ったか、ヌガノマがアルカナのないハルを誘拐した。ふたつ目は、黄金虫。あれがほんとにロリポリの幼虫で、ロリポリの腹部を隠し持ってるのがH・Oなのだとしたら。そして、ハルがあの日、行方不明になった土曜日に、黄金虫を捕まえてしまったのだとしたら。これまで長年に渡ってうまいこと隠れて研究してたのに、ハルの行方不明事件をきっかけに、秘密の研究所がバレる危険が生じた。だから、それを恐れたH・Oが、認識を消した。うん、アリっちゃアリだよねー」
ふむー、と下ろした手で腕組みをして、Lは青い眼をきらきらさせて考え込む。
アリはアリだと思う、僕も。
認識を消すタイミングが良すぎる気もしたけれど、黄金虫をハルが持っていたのだとしたら、何らかの手段でそれを回収しようとしたH・Oがヌガノマによる誘拐を知り、誘拐事件そのものの認識を消した、としても不思議ではないのかも。
公園を封鎖したのは、慌てすぎて馬脚を露しただけのようにも思えるけれど。
「儂らの事など端から眼中にないのであろ。己らの秘密を守るために、誘拐の認識を消す、公園を封鎖する、それに気づく者などおらぬと思うておるか、あるいはおったとて取るに足らぬと思うておるのじゃろ」
ナナがそう云うのを聞いて、何と云うか、それはすごくアルカナっぽい発想だなと気づいた。
秘密を守るために、誘拐の認識を消す、公園を封鎖する
どちらも、とても保守的と云うか、専守防衛、アルカナっぽい。
H・Oは、アルカナではなく、たぶん元ナチスの科学者で、レムナント、なのだろうけれど。
いや、今もH・O本人が生きているのだとしたら、だけれど。
「こっちの事が知られてないのなら幸いだわ。わざわざ教えてあげる事もないし、やっぱりみんなでハルを探すのはナシね。あたしに任せて頂戴」
そう、ルリおばさんは断言する。
また、けんもほろろ、取りつくしまもない云い方で。
「そうは云っても、ルリちゃん、「線」、あ、いや「糸」か、使えないじゃん。どーやってハルの居場所を見つけるの」
取りつくしまがなくても、僕らにはLがいた。物怖じしない無敵のコミュ力の天才美少女が。
べしっとLが、コテージのソファで、僕のおでこにチョップする。
そーいうのやめろ、とLが無言で僕をにらむ。
ルリおばさんは、また声を出さずに口元で微笑んで、Lを見て、
「ハルがダメなら、ヌガノマを探すわ」
歌うように、そう云った。
ヌガノマを探す
それは、余計にダメでは。
「うれしくないけれど、あいつとは腐れ縁なのよねえ。心当たりを探してみるわよ。あ、心配しないで、キクヒコじゃあるまいし、あいつと対決なんかしないから。ハルの救出が最優先。見つけたら、ハルを連れて、とっとと逃げ出すわ」
Lを見て、僕を見て、またLを見て、白い大きな絆創膏を貼った手をひらひらと踊るように翻して、まるでミュージカルスターか何かみたいに、歌うように節をつけて、ルリおばさんは云う。
それは、だめだ。
「ルリおばさん、それは、だめだよ」
僕はルリおばさんを見る。
その手前でナナの薄灰色の眼が、向こう側でJの灰色がかった眼が、僕を見ている。
「あら、キクちゃんたら、あたしを心配してくれるの。それは、叔母ちゃん冥利に尽きるわねえ」
くすくすとルリおばさんは楽しそうに笑って、
「だいじょうぶよ、無茶なんてしないわ。あいつを探す手掛かりに、心当たりもあるし。ほら、あたしが落としたペン、覚えてる?」
突然、そんな事を云う。
ルリおばさんのペン
忘れるはずもない。ねじれて折れ曲がった、あのペンだ。
「血の匂いがします」
Nがそう云って、あの地下道で見つけたペン。
あのペンを握ったのはルリおばさんだったけれど、ヌガノマが意識の主導権を奪った後、あのペンで左手を刺していた。何度も何度も、狂ったように獣のような雄たけびを上げながら。
「あ、ごめん。またそんな顔させちゃった。あれがなくても、懐中電灯かコンビニ袋か、ペットボトルもあったわね。どれかひとつでも見つければ、あいつの直近のねぐらがわかるわ」
困ったような笑顔で、ルリおばさんは僕を見る。
「知られなければいいの?」
そう、僕はルリおばさんに尋ねる。
「僕らの事が、あいつらに知られなければ、ルリおばさんと一緒に、ハルを探しに行ってもいいの」
ルリおばさんは、きょとんとした顔で僕を見て、
「そりゃ、そんな方法があるのならね。でも、ないでしょう?あたしは、海ともつながってないのよ。ああ、さっきあんたがちらっと云ってた、あたしの記憶を取り戻すって話?それは、すごくうれしいしありがたい話だけれど、ハルの捜索は少しでも早い方がいいでしょ。残念だけど、あんたがあたしの記憶を探してくれる間、ただじっと待ってるわけにはいかないわ」
そう、諭すように云うルリおばさんに、僕はかぶりを振る。
違う、そうじゃない。ルリおばさんの記憶は探すけれど、それじゃ間に合わないのは僕もわかってる。
「Nの体で行く」
そう、僕はルリおばさんに云う。
「また探索や追跡が必要な際には、いつでもお声がけください。くれぐれも自身の体ひとつで向かわれる事のないよう、お願いしておきます」
Nは、僕にそう云ってくれた。
Nの体でなら、地下の暗闇でも昼間のように見えるし、N自身も云ってたけれど、あの抜群の運動能力があれば、壊れたヌガノマごときに後れを取るとは思えない。
あの記憶で見た、訓練された兵士のナガヌマではなく、今の壊れたヌガノマなら、だ。
すっと視界の端で手が上がって、
「じゃあオレもラファエルで行くー」
ニヤリと笑いながらLが云う。
「あ、わたし、わたしも、クロちゃんにお願いしてみる」
はい、と元気に手を上げて、Jも云う。
ほっほ、と、さも愉快そうにナナが笑う。
「見よ、跳ねっ返りが、跳ねっ返られて仰天しておるわ。これは愉快じゃの」
「え、ちょっと待って、何よ。ナナ、あんたまで何?ねえ、笑ってないで説明して」
ルリおばさんが本気で困惑しているので、何だか急に申し訳なくなって、
「Nはノワール、黒ネコの。僕はNの体に入って、一緒にハルを探しに行く。ラファエルはLの家の黒犬。クロちゃんはカラスのクロウ。それなら、あいつらに僕らの事が知られる心配もないでしょ?」
そう、僕は説明する。
「それは、そうだけど、ちょっと待って。あんた達、何なの。ねえ、ナナ、これ何なの?」
ルリおばさんは、どうやらNやラファエルやクロちゃんの事がわからなくて困惑していたわけではないらしい。
それは、そうだった。さっき、僕はキクヒコさんに助けられた後の話の中で、Nの話もラファエルの話もクロちゃんの話もしてたはず。みんなで僕の体に入ったキクヒコさんを追いかけて、ロリポリの地下ホールまで行き、そこでMと出会った事まで全部を話していたのだから。
それなら、ルリおばさんはいったい何に対して、そんなにも困り果てているのだろう。
「何とな。ほっほ、儂もいま漸くわかったわ。これじゃ、これが此奴のやりたかった事じゃ」
ナナは何やらひとりで得心の行った顔をして、愉快愉快と大喜びしている。
此奴のやりたかった事
キクタが、これをやりたかったの
これって、何を?
笑いすぎて眼に涙まで浮かべたナナが、ようやく笑いを収めて、
「云うなれば、分身じゃ。ひとりの爺いが4人の爺いになったわけではないと、前におぬしらに話したろ。アルカナの分裂で云えば、それはその通りなのじゃが、此奴の企みは、まさにそれじゃろ。己の分身が如き子供たちを作りたかったのではないかの。無論、コピーやクローンと云った意味ではなくの。それぞれに個性があり、別々の人間でありながら、同じように考え、同じように行動する。気の合う仲間というやつじゃな。真面目くさった顔して何を考えておるやらと思うておったが、こんな子供じみたいたずらのような事じゃったとはの。こりゃ傑作じゃ」
ようやく収めた笑いが、自分で説明して、ナナはまた可笑しくなってしまったらしい。はっは、と膝を叩いて笑っている。
「ああ」
なるほど、みたいな顔で、ルリおばさんは呆れた笑いを浮かべる。
「つまり、キクちゃんが4人に増えたって事ね。あらあら、それは大変だわ」
そう云って、ルリおばさんは困ったような笑顔で僕を見て、
「しかも当の本人は、それを全部覚えてないのでしょ。ねえナナ、これって確信犯ってやつよねえ」
そうナナに尋ねた、と云うよりそれは確認、なのかな。
「さての。それは此奴にしかわからぬが、おぬしの云う通り、此奴自身は全て覚えておらぬからの。全くとんでもない、いたずら爺いじゃの」
ほっほ、とナナはあくまで楽しそうだった。
僕自身全く覚えていない事とは云え、先代「キクタ」がしでかした事で、ルリおばさんを困惑させてしまったのなら、何だか申し訳ない気がするけれど。
ナナがこんなにも楽しそうに笑っているという事は、それは決して悪い事ではないのかなとも思ったり。
それでも、困らせてしまったのは間違いなさそうなので、
「ルリおばさん」
ごめんなさい、と云おうと思ったら、
「もういいわよ、わかったから」
笑顔で、ぴしゃりと止められてしまった。
怒ってるわけではなさそうだけれど。
「そうは云っても、あんた達、学校あるでしょ。昼間は無理ね。もっとも、犬やネコの姿で出かけるのなら、夜の方がいいのかしら、その間、体は眠ってるんでしょ」
唐突にそう、ルリおばさんに云われて、今度は僕らの方が困惑する。
「え、ルリちゃん、じゃあ行ってもいいの」
Lでさえも(という云い方は、Lにちょっと失礼かもしれないけれど)、びっくりした顔で、ルリおばさんにそう尋ねる。いや、話の早さには定評のあるLでさえも、という意味なので、決して失礼には当たらないと思うけれど。
「あのねえ、ミカエル」
ルリおばさんは、もう何度目かもわからない大きなため息をついて、云う。
「キクちゃんが「行く」って云ったら、それはもうあたしにはどうしようもないの。それがいっぺんに3人に増えたのよ。ああ、もう、キクヒコの無神経さが羨ましいやら恨めしいやらだわ」
「えっと、それは、何かごめんね?」
疑問形でLが云い、
「あ、あの、ごめんなさい?」
Jもつられたように、疑問形で云う。
「やめて。あんた達は何にも悪くないの。だから、謝らないで」
ひらひらと大きな絆創膏の貼られた手を振って、困ったような笑顔でルリおばさんは云い、
「もちろんキクちゃん、あんたもよ」
くるりとこっちを向いて、釘を刺されてしまった。
「あ、はい」
そんな様子を、ナナは薄灰色の眼を細めて、楽しげに眺めている。
3週間前は、ルリおばさんが眠ってたからと云って、ふてくされてたくせに。
キクタが子供みたいだとナナは笑ってたけれど、ナナだって子供みたいだ。
「お互い様じゃの」
ご機嫌なナナは、怒りもせずにオレンジの海でそう云って、またかっかっと笑った。
「じゃあ今夜から動きましょ。良い子は何時に寝るのかしら、夜8時でいい?場所は、ニュータウンのコンビニの前ね」
Lもびっくりの話の早さで、ルリおばさんはハルの捜索作戦を一瞬でまとめてしまった。
帰ったら早速天井の扉を開けて、Nに相談しなきゃ、と思った。
「キクちゃんのゴーグルとヘッドホンは、今日は無理ね。ミカエル、早めに返してあげてね。今夜はひとまず、あんたの「線」に頑張ってもらいましょ」
「りょーかい」
そう、ルリおばさんに返事をしつつ、Lはオレンジの海で、
「早めに出てラファエルでおまえんちに届けるよー。どうせなら、練習を兼ねて実地訓練できた方がいいもんねー」
はっはー、といつものように笑う。
それは、ありがたいけれど。急にそう云われると、何だか緊張してしまうかも。練習を兼ねてってLは云ったけれど、いきなり本番なので、それはもはや練習を兼ねていないのでは。
あのアイテムは、意識体でも使えるのかな。ゴーグルとヘッドホンをつけて眠ればいいの。その状態でNの中に入ったら、Nの中でもアイテムを使えるの、だろうか。
あの時のキクヒコさんは、Mの意識空間の中でも、ずっとゴーグルとヘッドホンを付けたままの僕の姿、だったけれど。
「それじゃ、早速行動開始ね。早く帰って宿題を済ませちゃって頂戴」
ぽん、とルリおばさんが手を打って、弾かれたように僕らは立ち上がる。
Jは肩にかけていたバスタオルをきれいに畳んで、「これ、ありがとうございます」とルリおばさんに返していた。
それを見たLも慌てて「ああ」とか云いながら、頭に巻いていたバスタオルを外す。タオルを巻いてたはずなのに何故かライオンのたてがみみたいにぼわんと爆発したふわふわの金髪をまたぐしゃぐしゃっと雑に拭く。
そして、Jの真似をしてバスタオルをきれいに畳もうとしてうまくできずに「あれ?あれ?」とか云ってると、「ああもういいから、そのまま頂戴」と、めんどくさくなったルリおばさんに手を出され、「あ、はい。ありがとー」とぺこりとお辞儀をして、Lは丸めたバスタオルを返す。
そう云えば、ハナはどうしたのかな、と見ると、薄灰色の眼が僕を見て、
「寝ておる」
とナナが答える。
「あ、ハナ?ミカエルとさんざんお風呂ではしゃいでたから、疲れちゃったのね」
ルリおばさんがそう教えてくれた。
「ナナは」
ハルの捜索にきてくれるのかな、と尋ねると、
「何じゃ、行かぬぞ」
あっさり断られた。まだ、お疲れなのかな。だったら仕方ないか。
そう僕は思ったのだけれど。
「え、嫌よ。ナナも来て頂戴。あたしひとりで3人も面倒見る自信ないもの。あんた、キクちゃんの海に行けるでしょ。そこからでもいいから、見ててよ」
ルリおばさんがそう抗議?お願い?する。
「ふむ」
ナナは少し考えて、
「此奴の海からの見学で良いなら、行ってやろう。あのコテージはなかなか居心地が良いでの」
ふふん、と笑って、Jを見上げる。
律儀なJは、ナナに「ありがとう」とぺこりとお辞儀する。
不思議そうな顔のルリおばさんに、
「僕の「海」のコテージは、Jが建ててくれたんだ」
と説明すると、
「あら、そうなのね。それはまた、あたしの記憶が戻るのが楽しみね」
そう云って、ルリおばさんは、Jににっこり笑いかける。
Jは案の定、
「あ、いえ、そんな、わたし、へへへ」
頬を赤く染めて、照れ笑いをしていた。
早々と夕飯を食べ終え、お風呂にも入って2階へ上がると、部屋の窓の外から、「わふ」という独特な犬の声がした。
ラファエルだ。あの子はいつも、「わん」と口を開けて元気に吠えるのではなく、口を半ば閉じたような状態で控えめに吠えるので、「わふ」と聞こえる、気がする。
窓から外を眺めると、家の前の歩道に、見覚えのある大きな黒犬が、街灯の灯りの下にぽつんとひとりで立っているのが見えた。
からからと「オレンジの海」で貝殻の風鈴が鳴って、
「ごめん、こっちで呼べば良かったなー」
基地のドアから、Lの声が云う。
ああ、それは、まあ、そうだね。僕もまだ慣れないので、気持ちはわかるかも。
急いで階下へ降りて、玄関のドアをそっと開けて、外へ出る。
リビングからは父が見ているらしい、何かのスポーツ中継らしいテレビの音が聞こえていた。
お風呂場の灯りがついているので、母はお風呂に入っているらしい。
家の前の歩道に、ラファエルがちょこんとお座りのポーズで待っていた。
首には、例のゴーグルをぶら下げている。
「ヘッドホンは鞄の中だよー」
Lの声が云って、見るとラファエルは、犬用のリュックサックのような、バックパックを背負っていた。
なかなかかわいい。
「だろ」
ふふっとLが自慢げに笑う。
山岳救助犬とか、そういう働く犬みたいにも見える。
ラファエルの頭をなでて、背中のバッグのジッパーを開けると、中にあのヘッドホンが入っていた。
取り出して、空になったバックパックを見て、ふと思いつく。
「L、ちょっと待ってて」
海でそう声をかけて、家に戻る。
キッチンに入り、目当てのものを探す。
母がウォーキング、というか、毎日の徒歩での通勤の際に、持ち歩くために買いだめしていた小ぶりなペットボトルのミネラルウォーターが、あった。箱買いしていたらしい。食器棚の前のダンボールから、そのペットボトルの水を取り出して、外へ出る。
「おお、気が利くねー」
水を見て、ラファエルがニヤリと笑う。本当にラファエルが笑ってるわけではないのだろうけれど。
海から聞こえるLの声に合わせて、ラファエルの表情がほころんだような気がした。
開けたままだったバックパックにペットボトルを入れて、ジッパーを閉じた。
前回、僕の体の捜索の時は、あの真夏の日中に(空は多少曇ってはいたけれど)、キクヒコさんに思いのほか遠くまで歩かされて、途中、廃線の駅の跡でねじれた水道の蛇口から、みんなで水を飲んだりしてた。
今日は夜だし、そんなに遠くまで行くわけでもないけれど、あの地下道に入るなら、たぶん、水を飲めるような場所はなさそうだと思ったので、念のため、だった。
「うん」
Lも声でうなずいて、
「今日のガイドはルリちゃんだからねー。キクヒコみたいな無茶ぶりはしないはずだぜー」
ふっふー、と陽気に笑う。
なんだか僕ももうすっかり慣れてしまってたけれど、みんなの中でのキクヒコさんの扱いが、どんどんひどくなってる、気がする。
「自業自得だよね」
からから、という風鈴の音と同時に、海でガブリエルの声がして、振り返るとテラスの下に立っていた。
「あれ、おまえも行くの」
そう云うLの声は、どこかうれしそうだけれど。
「病院は消灯が早いからねえ。夜は退屈でさ。それに何より、ルリさんと地下の冒険だなんて、こんなチャンス見逃せないでしょ」
ふふふ、とガブリエルもうれしそうに笑う。
「おっけー。んじゃまた後でなー」
そう云って、Lはぶんぶんとラファエルの尻尾を振って、
「あ、K、ゴーグルとヘッドホン、ちゃんと着けて寝るんだぞー。忘れんなよー」
念押しするように、そう云った。
もちろん、忘れてはいないけれど。実際、手にすると、やっぱりちょっと緊張するような。
キクヒコさんに体を返してもらったあの時にも着けてはいたのだけれど、何だか重たいしじゃまだったのですぐに外して、そのままずっと首にかけていたので。
実はちゃんと着けた事は、まだなかった。
何かすごいアイテムなのかな、って思ってただけだったあの時とは違い、キクタの発明品で「能力」を増幅させるアイテム、というその正体がわかってしまったので、余計に緊張するのかも。
ラファエルに手を振って、玄関に入り、ドアをそっと閉じて2階へと上がりながら、あらためて両手に持ったヘッドホンとゴーグルを眺める。
見た目は、やっぱりちょっと古めかしい、レトロな感じの黒くて無骨なヘッドホンと虫の複眼みたいなゴーグル、だけれど。
部屋に戻ると、屋根裏へと通じる梯子の先、開いた扉口にNがちょこんと座って待っていた。
夕方、帰宅して早速天井の扉を開け、扉の裏側に折りたたまれていた梯子を伸ばして下ろし、屋根裏へ上ってみると、ソファで寝ていたらしい、Nがむくりと半身を起こして僕を見ていた。
そこで事の成り行きを伝え、今晩、ハルの探索に付き合って欲しいとお願いすると、Nは快諾してくれた。
「ルリと敵のねぐらへ乗り込むのですか。これはまた剛毅ですね」
ふふん、と鼻を鳴らして、Nは武者震いでもするみたいに、体をぶるぶるっと震わせてた。
梯子を上って手を伸ばすと、Nがひらりと僕の胸に飛び込んで来て、慌てて片手で受け止める。
慌てなくても、Nに限って滑り落ちるような事は間違ってもないのだろうけれど。
「出発しますか」
手を握ったら、Nが早速そう云うので、
「ちょっと待ってね」
と梯子を慎重に降りて、ベッドの上にそっとNを下ろす。
ゴーグルを嵌めて、ヘッドホンをかぶる。
偏光レンズのせいで、視界が暗くなる。ヘッドホンは完全に耳を覆う形なので、周囲の音も遠くなる。
耳の奥で鳴り続ける「あの音」だけは、少し大きくなったような気がするけれど。
ほんとにこれ、そんなすごいアイテムなのかな。
首をかしげながら、ベッドの上のNを見て、ちょっとびっくりした。
Nの頭の上に、ふわふわと小さな灰色の「泡」が浮いている。
ハナのサングラスと同じ、だった。当たり前なのだろうけれど、同じキクタが作った(改造した?)もの、なのだし。
確かキクヒコさんは、ゴーグルの横の辺り、レンズのフレームのところをとんとんと指で叩いていたような。
ふとそんな事を思い出したので、試しに指先で触れてみると、フレームに薄っぺらい小さな突起みたいなものがある。とんとん、と指の腹で叩いてみると、何かのスイッチかボタンのようなかちかちという反応があって、押すごとに段階的に視界の明るさが変わった。
どんな仕組みなのかはさっぱりわからないけれど、偏光レンズの濃度?みたいなのが変わって、視界の明るさが調整できるらしい。
指先に触れるそのボタンのすぐ下に、同じ手触り(指触り?)のボタンがあるのに気づいて、もしやと思い、フレームの逆側をそっと触れてみると、そちらにもボタンがふたつ、付いている。ぜんぶで4つ。
明るさ調整のできた右上のボタンのすぐ下のボタンは、能力の切り替え、らしい。押してみたらNの頭の上の「泡」がうっすらと半透明になり、代わりに「線」がふわりと浮き上がって見えた。さっきまでは、線の方が半透明になっていた、のかな。試しに何度か押してみると、やはりそのようで、「泡」と「線」が交互に見やすくなるみたいだった。
じゃあ左側のふたつは何なの。
そう思い、左上を押すとズームアップ、Nの顔がぐんと近づいた。左下はズームダウン、元の大きさに戻る。
すごい。
すごいけれど、何と云うか、先代キクタって、子供みたいな人、なのかなと思う。
いや、子供にこんなの作れるはずもないので、それはそれは、すごい発明家なのだろう、とは思うのだけれど。
これを、おじいちゃんが楽しそうに作ってるところを想像したら、やっぱり何と云うか、子供っぽいと云うか。
童心、って云うのかな。
何だかとても無邪気な印象だった。
ヘッドホンの方は、よくわからない。
キクヒコさんは、ヘッドホンも指でとんとんしていた覚えがあった。実際、ヘッドホンにも同じようなボタン状の突起がいくつか(いくつも)付いているのだけれど、押してみたものの、特に何か「あの音」に変化があるわけでもなく、違いがわからなかった。何の反応もない、ような気がする。
もしかして、壊れてるのかな。それとも、電池が切れてるとか。いや、そもそもこれが電池で動くものなのかどうかも、僕にはわからないけれど。
首をかしげながらいろいろ試してみたけれど、ヘッドホンはやっぱり反応がない。故障してるのか、それとも僕の使い方が悪いだけなのか、それすらもわからない。
ベッドの上で、じっと興味深げに僕を見上げているNを、いつまでも待たせておくのも悪いので、ひとまずヘッドホンはあきらめて、外して首にかけた。
「ごめん、N、お待たせ」
ベッドに腰かけて、Nの小さな頭をふわふわなでる。
「いいえ、準備はよろしいですか」
そう小首をかしげるNに、
「うん、行こう」
僕はうなずいて、部屋の灯りを消し、ベッドに横になる。
「参ります」
どこかわくわくするような声でNが云って、その鼻先が僕の鼻に触れる。
ぐるん、と視界が回転するようなお馴染みの感覚がして、僕はオレンジの海のコテージにいた。
例の白い操縦席に座っていて、膝の上でNの意識体がぐっと背中を伸ばしている。
「ばれましたか」
くるりと青と琥珀色の眼が僕を見て、Nはしれっと云う。
わくわくしてるのが、かな。
「はい」とNは素直に認めて、
「アナタとの冒険は、心が踊るような感覚になります」
淡々とそう云って、ぺろりと鼻をなめる。
そう云ってもらえると、何だかほっとする。
それと同時に、僕もまたNの体で探索に出かけられる事に、うれしい気持ちがあるのに気づいた。
いやもちろん、今も行方がわからず、もしかしたらヌガノマに囚われたままかもしれないハルの事を思えば、決して浮かれている場合ではないのは、重々承知しているけれど。
「はい。勿論です」
真面目な顔でこくりとうなずいて、「行きましょう」と云うなり、Nの体がひらりと跳んだ。
開けておいた部屋の窓枠に音もなく飛び乗ると、身を翻して飛び降りる。
忘れてた、このジェットコースター的な感覚。
ひゅん、とお腹を冷たい手で掴まれるような感じ。
Nは音もなく、塀の上に降り立つと、間髪を入れずに走り出す。
思わず、両手で操縦席のシートを掴んでしまう。
もちろん、走っているのはNの体で、僕ではないので、間違っても足を踏み外したり滑り落ちたりはしないとわかってる。
頭では、そうわかってはいるのだけれど、やっぱりまだ慣れない。ちょっと怖い。
Nはひらりと家の塀から飛び降りると、風のように通りを駆けて、あっという間にコンビニの交差点に到着する。
風のように、本当に文字通り、風のように。
相変わらず、すごい。いつも何度も云うけれど、すごい。
思わず膝の上のNの意識体をあらためて見下ろして、頭をなでてしまう。
「光栄です」
僕を見上げて、鼻とヒゲをぴくぴくっと震わせて、Nはいつも通り淡々と云う。
からからと、砂浜の貝殻の風鈴がふたつ、ほとんど同時に鳴って、テラスの前にガブリエルが現れ、ナナは直接コテージの中にふわりと姿を現わす。
そっか、今日は助手席が、ふたつ必要かな。
もうひとつ、助手席を追加しようと手を上げると、
「儂は此方で良いぞ」
ナナはコテージの壁際のソファに、まるで我が家のような顔でごろりと横になる。
余程、気に入ったのかな。それはそれでうれしいけれど、ちょっと寛ぎ過ぎでは。
「寛がんで何とする。今宵、儂は高みの見物じゃからの」
ふふん、とナナは鼻で笑う。
まあ、そうなるのかな。オブザーバー的な立ち位置なのかも。
「じゃあ、ボクは遠慮なくこちらに」
テラスからコテージに入ってきたガブリエルが、ナナにぺこりとお辞儀をして助手席に座る。
僕の膝の上のNに手を差し出して、ガブリエルは僕を見て、
「お、ミカエルにアイテムを返してもらったんだね。じゃあ今夜はKの能力デビューも兼ねてるんだ」
そう云われて、思い出す。
そうだった、ゴーグルを嵌めてたんだ。
云われるまで忘れてた、って事は、付けてる事自体は、それほど気にならないのかも。
ヘッドホンは、外して首にかけたまま、だけれど。
「すぐ慣れるわい。ハナも今では、普段はサングラスをかけている事を忘れておるくらいじゃ」
ふっふ、とナナが笑う。
確かにナナの云う通り、最初に付けた時には、何だか重いし視界が暗くて狭い、閉塞感みたいなのを感じたけれど。
今は全く、それを感じない。慣れ、もあるのだろうけれど、それだけではないような気がする。
そういう風に作られてるの、かも。
「自画自賛じゃの。まあ覚えておらぬのじゃから、そうもなるか」
ほっほ、とナナは楽しそうだ。
Nの視界の窓には、昼間のように明るく見える夜の交差点の風景と、東を指す2本の白い「線」、それから南にも青い「線」が1本。
もしかしてこれ、ガブリエルやナナにも見えるの。
「さすがに、そこまで便利じゃないみたいだねえ」
Nを膝の上に乗せて、ガブリエルは苦笑しながら云う。
「あくまで今は、Nの視界の窓だからね。Nの体から出て、キミの視界をこの窓に映せば、それを見てるボクにも「線」が見えるんだろうけれど」
あ、それはそうか。
いま僕に見えている「線」は、Nの視界を見た僕の意識体が、ゴーグルの力を借りて僕の視界に映し出してる、のかな。なんだかややこしいけれど。
南を向いているNの視界の左手、つまり東の方から、ラファエルが姿を現した。
白い線は、ラファエルの中にいるLかな。
じゃあもう1本の白い線は、クロちゃんの体でこちらに向かっているJ、南の青い線は、ルリおばさんだろう。
ハルやヌガノマを指すような線は、まだ見えないけれど。
「ほほーう、順調に使いこなしてるみてーだなー」
基地のドアから、そうLの声がする。
ラファエルの中にいる状態では、こちらに姿を見せるのは難しいのかな。
「うん。意識体だから、行けない事はないんだろーけどね。ラファエルが心配だから、今日は声だけだなー」
確かに、その状態でLの意識がこちらへ来てしまうと、ラファエルへの指示や反応が若干遅れたりするのかも。
「着いたよー。わたしも、声だけかなあ」
お庭の窓が開いて、Jの声が云う。
Nの視界が上を向いて、いつの間にか電柱の上に止まっていたクロちゃんを捉えた。
「あら、もう揃ってるのね。誰も遅刻しないなんて、さすがキクちゃんとその一味だわ」
交差点の青信号を南から渡って来るルリおばさんが、僕らを見てふふっと笑う。
その一味って、何だか悪モノみたいだけれど。
ルリおばさんは、動きやすそうな体にぴったりとした黒っぽいジャージの上下に着替えていて、ぱっと見は、ジョギングかウォーキングでもしている人に見える、かな。
いつもの小さなピンクのバッグを、肩から斜めに襷掛けにしているのが、ちょっぴり違和感だけれど、それは仕方がない。
「いやあ、たまーにそーいう人もいるよね。バッグ持ってジョギングしてる人?」
何故か疑問系で、Lがフォローしてたけれど、それはフォローになってるのかな。
「いや、それを云うなら、あの左腕の手甲みたいなのは何じゃ。あやつ、クノイチにでもなったつもりかえ」
ソファに肘枕で横になったまま、視界の窓を見てナナが云う。
家のリビングでゴロ寝しながら、ナイター中継の野球選手に野次を飛ばすお父さんみたいになってるけれど。
「あ、あれは、クロちゃんの・・・」
慌ててJがフォローしようとすると、ルリおばさんがぐっとNの視界に近づいて、左腕のプロテクターを見せながら、
「聞こえてないけれど、何云われてるのかは大体わかるわ。これはクロウを止まらせるため、よ。キクちゃんが使ってたのを思い出して、引っ張り出してきたの」
ふふっと得意げに笑う。
ナナは「ぐむむ」と悔しげに押し黙り、小声で僕に
「おい、あやつ本当に記憶を失くしておるのか。実はあやつこそ、海とつながっておるのでは」
そんな事を云う。
キクヒコさんには「実は全部覚えてる」疑惑があるけれど、ルリおばさんに関しては、それはない、かな。
実際に、ヌガノマに意識を移されたルリおばさんを、僕もガブリエルも見ているのだし。
うん、とガブリエルがうなずいて、
「何云われてるかわかるのは、勘がいいのかなあ。それとも、それだけナナちゃんを理解してるって事なのかな?」
ソファのナナを振り返ってそう云うと、ナナは無言で大袈裟に顔をしかめて、ぷいとそっぽを向いた。
「さ、それじゃ出発しましょ」
そう云って、ルリおばさんは街灯に照らされた明るい歩道を、北へ向かって歩き出した。
eine kleine nachtmusik v
屋根裏ネコのゆううつ II