ニュータウンの瀟洒な街灯に照らされた広い歩道を、まっすぐに北へ向かって僕らは進んだ。
前を歩くルリおばさんは、いつか市バスから見かけたあの時のように、楽しげに鼻歌でも唄い出しそうな歩調で、踊るように歩いている。
あの時も思ったけれど、弾むような足取りはまるでミュージカルスターか何かのよう。
ふふん、とナナが鼻を鳴らして、
「四の五の云い乍ら、あやつもおぬしらと出かけるのがうれしいのじゃろ。浮かれておるの」
視界の窓越しに、やさしい眼でルリおばさんの後ろ姿を見つめて云う。
Lが前に云ってた通り、やっぱりナナにとっては、ルリおばさんもまだまだかわいい子供、なのかな、と思ったら、何だか僕までちょっぴりうれしくなった。
けれど、それどころではなかった、と気を引き締める。
ダメだな、みんなで出かけていると、つい楽しい気持ちになって、気が緩みがちかもしれない。
「あ、そうだ」
ニュータウンの分譲地の半ば辺りまで来た所で、そう云ってルリおばさんが足を止め、くるりと僕らを振り返る。
その場で膝を曲げてしゃがみ込んで、
「ノワール、いらっしゃい」
ルリおばさんはそう云って、Nに両手を差し出す。
素直で真面目なNが、云われるまま、ルリおばさんの足元へ向かう、と、両手でひょいっと抱き上げられた。
「ねえ、こうしたら、どうかしら。もしかして、話せたり、しない?」
そう云って、ルリおばさんは、抱き上げたNの額に自分の額をこつんとくっつける、けれど。
ふむ、とナナが真面目な顔になって、ソファから体を起こして、
「そもそも「海とのつながり」が切れておるからの。接触しようが、動物を介そうが、声は届かぬじゃろ」
残念そうに云う。
Nの顔をのぞき込んで、ルリおばさんは耳をすますようにしばらく首をかしげていたけれど、
「はあ、やっぱりダメよねえ」
大きなため息をついて、
「キクちゃんが特別に育てたノワールだから、何かすごい秘密が隠されてたりしないかしら、って思ったのだけれど、そんな事はなかったみたい」
ふふ、と力なく笑う。
キクちゃんが特別に育てたノワール
と云うのは、前にナナが云ってた、キクタが動物使いみたいになってた、というあの話かな。
それとも、Nにはやっぱり何か特別なところがあるの。
振り返ってナナに尋ねると、黙ってかすかに首を振り、知らぬ、という顔をしてた。
それは残念。あとで機会があれば、ルリおばさんに聞いてみよう。
「まあいいわ。しばらく、このまま行きましょ」
そう云って、ルリおばさんはNを胸に抱いたまま、また踊るようなステップで歩き出す。
弾むような足取りで、視界が上下に揺れるけれど、Nは嫌がるそぶりも見せず、大人しく抱かれてる。
しばらく、と云うのは、あの川沿いの崖のけもの道か、その先の、川岸に下りたところにある防空壕の入り口の事かな。
確かにこのまままっすぐ北へ向かう方が、あの日の東回りのルートよりも近いし、少し早いはず。
鼻歌でも唄い出すようにルリおばさんが、
「昼間のキクちゃんの話のお返しに、あの日の事を教えてあげるわ」
そう云って、話し始める。
あの日、と云うのは、もちろんあの夏の日の事だろう。
Lが眼を覚ますのを手伝うためにお屋敷へ行った、あの日。
「バスに乗ってたキクちゃんを見かけたのは、偶然なの。でも帰りのバスで一緒だったのは、必然。待ってたのよ。まさか、ミカエルと一緒に戻って来るとはね、うれしいサプライズだったけれど」
ふふふ、とルリおばさんは笑う。
「駅まで行くのかと思ってたから、病院で降りたのには少し慌てたわ。いま思えば、あれはジーンのお見舞いだったのね。見失ってしまって、ちょっと悔しかったから、あんたが家に帰って来るのを待とうと思って、先にニュータウンへ向かったの。声をかけるつもりはなかったけれど、最近、あの辺りへは行ってなかったし、キイチロウさんのお家の、安全を確認しておこうと思ってね」
じゃあやっぱり、ガブリエルの推理通り、ルリおばさんは以前から父を知っていて、僕らをあの家に引っ越しをさせるために、あんな「変な人」のフリをしていたの。
そう尋ねたかったけれど、声が届かないのがもどかしい。
あるいはルリおばさんは、僕の声が届かないからこそ、この話をしてくれる気になったのかな。
僕からの質問や感想は、一切受け付けない、というつもりで。
「あの時、どうしてあの駐車場へ向かおうと思ったのか、いまだによくわからないのよね。何か予感めいたものがあったような気もするし、ただの気まぐれだったのかもしれない。塀ぎわの草むらに踏み分けられたような跡を見つけて、まさかキクちゃんじゃないわよね、なんて思ったのは覚えてるわ。塀の一部が剥がれかけて歪んでいて、そこに立てかけられていた木の棒を何の気なしに拾ったら、大当たりなんだもの。笑っちゃったわ」
ふふふ、と楽しそうにルリおばさんは笑う、けれど。
楽しいはずは、ないよね。
それは、僕とアイの記憶が残る「伝説の剣」で、おそらくその辺に落ちていたのを、ヌガノマが拾って立てかけておいたもの。
たぶん、僕をおびき寄せるための罠として。
「その後の事はまるで覚えていないの。きっと、そこで後ろからあいつに殴られて、気を失ったのでしょうね。そしておそらく地下へ運ばれ、意識を移された。次に目を覚ました時には、右手であんたの首を絞めていたわ。ごめんなさいね」
そう云ってルリおばさんは、胸に抱いたNに向かって、頭を下げて、またこつんとおでこをくっつける、けれど。
ごめんなさいは、僕の方だ。
僕の気持ちを代弁するみたいに、Nがまっすぐにルリおばさんを見上げて、ふるふると首を横に振ってくれる。
僕があの工事現場へ行こうとさえしなければ。
「ひとりで行くなよ」ってアイに止められてたのに、あのマンホールへ行ったりしなければ。
あの「伝説の剣」に僕の痕跡を残したりしなければ。
「はいストーップ」
基地のドアから、Lが云う。
「まーったくおじいちゃんは、すぐそーやってひとり反省会するだろー。確かにおまえは無茶をしたけど、それはそれ。おまえだけじゃなく、それぞれみんながいろんな事して、それが巡り巡って、こうして今はみんなでハルを探しに行けるし、ルリちゃんの記憶だって探しに行けるわけだからさー」
わふ、とルリおばさんの足元で、ラファエルが小さく吠えている。
「あら、なあに。もしかして、そんな話するなって、ミカエルに諫められちゃったの」
ふふっとルリおばさんは笑って、
「そうね、おかげでまたこうしてみんなとも会えたわけだし、悪い事ばかりじゃないわよね」
かがみこんで、ラファエルの頭をふわふわなでる。
「じゃあ、報告はこれでおしまい。さ、早くハルを見つけてあげましょ」
そう云って、ルリおばさんはNを歩道に下ろす。
いつのまにか僕らはニュータウンの外れまで来ていて、目の前の通りを渡れば、その下に川が見えるはずだ。
通りを渡り、ガードレール沿いを少し東へ進むと、その切れ目に、あの崖下へと続く細いけもの道があった。
ルリおばさんは、ジャージのポケットから細いペン型の懐中電灯を取り出してスイッチを入れ、けもの道を照らす。
ルリおばさんを先頭に、崖ぞいのけもの道を足元に注意しながらゆっくりと下って、狭い川原へ下りる。
大きな岩の間の砂地を縫うように西へ少し進むと、崖沿いの藪の向こうに、あの防空壕の入り口が見えた。
錆びた鉄の檻のような柵がほんの少し開いているのは、あの時、僕が通ったままだから、だろうか。
Nと現場を見に来た時にも、確か同じくらい開いていた気がする。
あるいはしっかりと閉じていなくて、風か何かで開いたのかもしれない。
「おまえ」
Lがそう云って、言葉を探すように黙り込む。
「ここへひとりで入ったのか。剛毅じゃの」
Lの言葉を引き継ぐように、あきれ顔でナナが云う。
それは、前にNにも云われた、よね。
「はい」
Nの意識体が、ガブリエルの膝の上でうなずいて、云う。
「灯りも持たず、ひとりで敵の後を追ってこんな所へ入るとは、剛毅果断ですね、と云いました」
それを聞いたナナが、僕をにらんで、
「おぬしわかっておるじゃろうが、ノワールのそれは皮肉じゃぞ。決して褒めておるわけではないからの」
念押しするように云う。
それは、わかってる。いや、もちろんわかってます、ごめんなさい。
「これは、ちょっと、入るの、躊躇しちゃうね」
少し遅れてクロちゃんが川原の岩の上に降りて来て、防空壕の入り口を見たJがとても彼女らしい素直な感想を聞かせてくれる。
はいその通りです、と思う。
いや、僕だってあの時、決して躊躇しなかったわけじゃなかった、はず。よく覚えていないけれど。
それに、昼間だったので、周りは明るかったから、防空壕もこれほど不気味ではなかったはずだし。
「いやいやいやいや」
もう何の言葉も出てこないようで、Lはそれだけ云って、あっはっはー、といつものように笑った。
僕らのそんなやり取りを知ってか知らずか、ルリおばさんが左腕を真横に上げて、
「クロウ、おいで」
とクロちゃんを呼ぶ。
確かにこの先の地下道は、しばらく狭いから、ちょっと飛ぶのは難しいかもしれない。
クロちゃんを左腕に止まらせて、ルリおばさんがちらりとNを見下ろして、
「こんな所、よく平気で入ったわねえ。さすがと云うか、何と云うか」
ため息まじりのあきれ顔でとどめのように云う。
それはもちろん、僕が、だよね。Nが、ではなく。
って云うか、さっきの話、実はルリおばさんも聞こえてたのでは。
「さて、ルリさんの勘がいいのか、それとも、誰もがみんな、そう思うのかな」
ふふっと楽しそうに、ガブリエルが僕を見て笑う。まるで他人事みたいに。
ガブリエルだって、あの時は僕と一緒に入ったくせに。
「それはまあ、ね。だってあの時、ボクに拒否権はなかったでしょ。でも、「好奇心はネコを殺すかも」って何度か警告はしたと思うけどなあ」
そう云われて、「あ」、と思う。
あれは、てっきり僕の心の声だと思ってたけれど、ガブリエルの声だったの。
「何度かは、ね。Kが自分でそう云ってた時もあったと思うけど」
くすくすと楽しそうにガブリエルは笑う。
まあ、おかげ様で?どうにか無事に帰る事ができて、またこうして、今度はみんなでここに来る事ができて、良かった、けれど。
「あれ、じゃあおまえ、最初にひとりで入って、次にネコちゃんと入って、これで3回目なの。なあんだ、もうベテランじゃん。防空壕のプロじゃん」
また、自分で云って可笑しくなっちゃったらしく、Lはそう云ってわはははー、と大笑いしている。
ベテランはまだしも、防空壕のプロって何なの。そんなプロいないでしょ。
「じゃ、行くわよ」
左腕を曲げてクロちゃんを胸元に引き寄せて、いささか緊張の面持ちでルリおばさんは暗い穴の中を照らす。そして、意を決したように、柵の隙間から防空壕の中へ入る。
そうだった。冗談めかして気を紛らせてはいたのだけれど、
さっき、けもの道を崖下へ下りたところで、僕の視界にいつのまにか「線」が増えていたのに気づいていた。
防空壕の奥の方、南の方角を指し示す、赤い「線」。
「何じゃ、気づいておったのか。ならば良い。気づかずにふざけておるのなら、やれやれ困ったものじゃとあきれるところであったわ」
ニヤリと、あの笑みを浮かべてナナが云う。
「んん?ってことは、ナナちゃんも見えてるの。ハナちゃんが王なのに?」
気にはなってたけれど聞いていいのかどうなのかと思ってた事を、Lがずばっと聞いてくれる。
本当に、Lはこういう時、頼りになる。
「うむ、儂とハナは特例じゃと思うぞ。他の王がどうなのかは知らぬがの。それに儂らには、ハナの「なかよしのメガネ」もあるし、の」
意外にもさらっとナナが答えてくれて、僕はちょっと拍子抜けだった。何かもっとすごい秘密とかがあるのかと思ってたかも。
王を引き継いだレムナント、というちょっと特殊な状況と、キクタのアイテムのおかげ、という事なのかな。
それより、赤い「線」のこと、どうにかしてルリおばさんに伝えられないかな。
地面は土だし、Nに文字で書いてもらう、とか。
「文字、ですか」
さすがに無理では、という顔でNの意識体が僕を見る。
「んんー」
Lがうなって、
「やってみちゃう?一応、オレ、半年間のベテランだからねー」
疑問形だけれど。半年間、ラファエルの体で過ごしていたので、Lならできるかも、って事かな。
「ルリさんに知らせるね」
Jがそう云って、クロちゃんが、ルリおばさんの左腕のプロテクターをくちばしでちょんちょんとつついて注意を促すと、
「あら、クロウ、どうしたの」
ルリおばさんが立ち止まる。
わふ、とラファエルがルリおばさんに小さく吠えて、土の地面を、何やら前肢で掘るような動きをしてる。
「ミカエル?なあにそれ。ここ掘れわんわん?え、違うの」
ルリおばさんが首をかしげて、ラファエルがとんとんと前肢で地面を叩く。
ラファエルが掘り返した土の地面には、前向きの矢印みたいなマークと、ミミズがのたくったような文字で「red」と、かろうじて、僕には読める、けれど。
困ったような顔で、懐中電灯の光を当ててラファエルの手元の地面を見つめていたルリおばさんが、
「あ、わかった、「赤」ね」
ぴこん、と懐中電灯を持った右手の人差し指を立てる。
「赤い「線」が見えたのね。あらまあ、できれば本人はいなくて、ペンの記憶を辿ってねぐらまで行けたらと思ってたのだけれど、そう上手くはいかないみたいねえ」
ふぅー、と鼻でため息をつく。
困った顔はしているものの、思いのほか、困ってはいないように見える、けれど。
心配そうに見上げるクロちゃんを見て、ルリおばさんはふふっと笑って、
「だいじょうぶよ、不意打ちさえ食らわなければね。武器も持ってきたの、ほら」
と、ジャージのポケットから取り出して見せているのは、何やら細長い筒状の、スプレー容器、かな。
「催涙スプレーよ。これ、キャンプ用品なんですって。熊でも撃退できるらしいわよ」
ふふふ、と、ルリおばさんはあの悪魔の笑みを浮かべて云う。
熊でも逃げ出すような催涙スプレーって、山奥のキャンプ場とかで使うのかな。
それが、あのヌガノマに、効くの、だろうか。
「おいおぬし」
ナナが僕に云う。
「どっちのナガヌマを思い浮かべておる。あのナガヌマは、今のナガヌマではないぞ。いま相対しておるのは、ラファエルに噛みつかれてひっくり返ったほうのやつじゃろ」
そうナナに指摘されて、
あ、そうか。そうだった。
と、思い至る。
今のヌガノマは、僕でもどうにか数百メートル逃げる事ができて、懐中電灯の光を当てたらよろめいて金網にしがみつき、ラファエルに足を噛まれて後頭部から地面に倒れるような、そんなヌガノマだった。
あっちのヌガノマとは違う。
「ちょっ、え?そっちのヌガノマがすげー気になるんだけど。記憶の方の?そんなに違うの」
Lが興味津々に聞くので、僕は深々とうなずく。あ、Lは声だけつないでいるので見えないんだった、と、うなずいてから気づいて、あらためて僕は云う。
全然違うよ。
全く足音を立てないし足も速いし何より強い。たぶん、僕なら5秒、いや2秒で捕まると思う。いやいや、2秒も逃げられない。きっと一瞬で捕まる。気づくより先に手刀でとんって気絶させられてあっさり捕まるに決まってる、絶対。
「そんなに?」
ガブリエルが、眼をまんまるにして僕を見る。
「あれは本物の訓練された兵士よ。足が1本なかろうが腕が1本なかろうが、並みの相手では太刀打ちできぬじゃろな。催涙スプレーを発射する隙もないと思うぞ」
ナナまで真剣な顔でそう云って、ガブリエルはごくりと唾を飲んで黙り込む。
「おいおい、そっちじゃなくてよかったなー」
しみじみと、Lが云う。
いや本当にそう。記憶のヌガノマを見た時、僕も心からそう思った。
「ともあれ今は、壊れておる」
ふん、とナナは鼻を鳴らす。
「跳ねっ返りの云う通り、こちらには「線」も見えておるからの。不意打ちを食らう事もなかろうし、正面から相対すれば、催涙スプレーやらをお見舞いする隙も十分にあるじゃろ」
「また足を噛んで引きずり倒してやってもいいし、ねー」
はっはー、とLが陽気に笑う。
「それじゃ、気を引き締めて行きましょ」
ルリおばさんが催涙スプレーをジャージのポケットにしまいながら、
「ミカエル、あんたの「線」でだいたいの距離はわかるのよね。あいつが近づいたら、「わん」でもいいし、あたしのズボンの裾を引っぱるとかでもいいから、とにかく何か合図して頂戴」
ラファエルを見て、云う。
わふ、と小さく吠えて、ラファエルがうなずく。
ルリおばさんが懐中電灯を照らし、真っ暗な防空壕を慎重に歩きだす。
ふと思ったのだけれど、ヌガノマの「線」が「黒」ではなく「赤」なのは、「線」の仕様なのかな。
レムナントを表わす「黒」ではなく、危険を表わす「赤」、の方が優先して表示される、という事?
「であろ。あくまでその「状態」を示すもの、じゃからの」
ナナがうなずくと、Lの声が、
「いっぺんにふたつの色は出せないんだろーね。より重要な方の色が出るって事なら、おまえの云う通り、仕様で間違いないんだろーなー」
そう補足してくれた。
少し先へ進むと、ぼんやりと緑色の灯りが見えてきた。
非常口のドアだ。
あの灯りも、考えてみれば不思議だ。いったい誰がメンテナンスしているのだろう。
非常口のドアの先は、古い市の地下道のはずだけれど。
認識は消されていたとしても、何か、市全体の業務の一環として、市の職員か委託された業者が、定期的に蛍光灯を交換しに来ている、のかな。
「であろうの。認識されない事は無視される事とは違う。あの公園も街灯は点いておったじゃろうし、水飲み場や手洗いの水は流れておったろ」
そう、公園はナナの云う通りだったし、それ以外にも、僕には身に覚えがあった。
Lのお屋敷内での認識を消した僕とラファエルは、それでもシジマ夫人に無視されていたわけではなかった。目の前を通ればきちんとお辞儀をしてくれるし、Lが話しかければ、「お嬢様はいつもこんな風で」と僕に笑いかけてくれてた。
認識されないという事は、存在を忘れられてしまう事とイコールではない。
「ハルの席はあるし、クラスにミハラハルオミってやつがいる事は、みんなわかってる、はず。だけど、なんでハルがいないのか、どうして休んでんのか、それを考えると、固まる。ハルが行方不明になってる、その事を思い出させないように、消してるんだ、誰かが」
そう、アイは云ってた。悔しそうに、顔をしかめて。
ハルは、どこにいるんだろう。
「線」は、赤いのが1本だけ。距離はまだ少し遠いらしく、線の表面のらせんの模様はまだゆっくりと流れてる。
ハルを指し示す「線」は、まだ見えない。
非常口の灯りが近づいて、その下に鉄の扉が見えていた。
閉ざされていた扉を、ルリおばさんがドアノブを掴んで押し開ける。
ほんの少し、きしむような音を立ててドアが開く。
ドアをくぐると、古い煉瓦壁の地下道だ。
この先が、前回の襲撃現場のはず。
土の地面を懐中電灯で念入りに照らしながら、ゆっくりとルリおばさんは地下道を進む。
二度目に来た時、Nが「血の匂いがします」と云って、その匂いを辿って、ルリおばさんのペンを見つけた。
その時は、Nの体だったし、僕はペンには触れていない。
Nも、見つけただけ、だった。拾ったりはせずに、そのままにしておいたはず。
けれど、今回、そのペンは見当たらない。
前方にかすかに緑色の灯りが見えてきて、たぶん、あそこにも非常口のドアがあるのだろう。
前回、僕は、そこまで行っていないけれど。
Nの視界が振り返ると、後ろにも遠くぼんやりとさっき通った非常口の灯りが見える。
この辺りが中間地点。
懐中電灯の罠にかかり、僕がヌガノマに襲われたのも、この辺りのはず、だけれど。
「この辺で、間違いないわよね」
声をひそめて、囁くようにルリおばさんが尋ねる。
僕が、どう返事をしようかと思案するよりも早く、「はい」とNの意識体が答えて、Nはルリおばさんにうなずき返している。
ラファエルも立ち止まって、地面のにおいを嗅ぐようにして、ペンを探している。
「前回は、血の匂いを辿れたので、すぐに見つけられたのですが」
Nの意識体がそう説明して、困った顔で肩をすくめるようなしぐさをしている。
人通りがあるような場所ではないし、ドアが閉まっていたので、野良犬や野良ネコが持ち去るという事も考えにくい気がする。そもそも、食べれるものでもないただのねじれたペンに、犬やネコなどの動物が興味を示すとも思えない。
「あ」
Jが短く声を上げて、ルリおばさんの腕から、ぴょんとクロちゃんが地面に飛び下りる。
「あった、ってクロちゃんが」
Jがそう続けて、クロちゃんは地面をぴょんぴょんと跳ねて、壁際の一角で止まる。
「クロウ、見つけたの?」
ルリおばさんがクロちゃんに近づいて、Nとラファエルもそちらへ向かう。
さすが、クロちゃん。人間の8倍以上の視力は、やっぱりすごい。
壁際も壁際、ほとんど地面と壁の境目くらいの隅っこだった。
あんな場所だったかな。
「移動していますね」
Nが僕を見て、うなずく。
ペンがひとりでに移動するはずはないし、ペンを動かすほどの何か、強い風とか、大量の水が流れたとか、そんな事も考えにくい。
ここを通った誰かが、気づかずに蹴飛ばしてペンがあそこまで飛んで行ったか、あるいは、
「後日ここを通ったヌガノマがペンを見つけて、腹立ちまぎれに放り投げた、とかかな」
ガブリエルがそう云って、やれやれみたいに肩をすくめている。
かもしれない、でも、
あのヌガノマが、そんな事するかな。
「やいおぬし」
ナナが云う。
「おい」が「やい」になってるけれど。
「あのナガヌマは、一旦忘れよ。あれは過去。かつてのナガヌマじゃ」
ふん、とナナはまた鼻を鳴らして、
「確かに「あのナガヌマ」であったなら、そんな余計な事はせぬじゃろ。触れずに捨て置くか、あるいは持ち去るか。いずれにせよ、ただのペンであっても、いかに効果的に使うかを考えるじゃろの。それをせず、蹴飛ばしたか放り捨てたかは知らぬが、わざわざ移動させて放置するなぞ、何の意味もない。その程度に落ちぶれ、壊れておると云う事よの」
つまらなそうな顔で、ナナは云う。
余計な事
何の意味もない
そう云われてみると、そうとしか思えない。
全身が研ぎ澄まされた刃物のような、あのヌガノマ、らしくはない。
考えてみれば、あの懐中電灯の罠も、マンホールを上から閉めたりするのも、「伝説の剣」を塀に立てかけて置く事も、何だかどれもすごく稚拙で、子供じみていて、あのヌガノマらしくはなかった。
もっとも、さっき僕自身が云った通り、あのヌガノマだったら、そんな姑息な手段を使うまでもなく、簡単に僕を捕まえる事が出来たはずなのだ。
記憶を失くし、長年に渡って地下に隠れ住むうちに、そこまで心が壊れてしまったのかな。
「うーん」
ペンを拾ったルリおばさんが、眼を閉じて、何かうなっている。ペンに残された記憶を読んでいる、のだろうけれど。成果が思わしくないのかな。
すぐに、ぱちっと眼帯をしていない方の左眼を大きく開いて、
「あたしも他人の事をあれこれ云えた義理じゃないけれど」
そう前置きして、肩をすくめて云う。
「記憶を失くしてるやつだから、かしらね。大した情報はないわ。何だか狭苦しい地下室みたいな、あいつのねぐらかしら」
ふむ、と顔を上げて、ルリおばさんは地下道の先をじっと見る。
「こっちみたい。行ってみましょ」
そう云って、ペンをジャージのポケットにしまい、クロちゃんに左腕を差し出す。
クロちゃんが腕に飛び乗ると、「ありがとね」とルリおばさんはその小さな頭をなでて、右手の懐中電灯で前を照らして、歩き出す。
大した情報はない
ルリおばさんは残念そうに云うけれど、落ちてたペンに触っただけで、ヌガノマのねぐららしき地下室が見えて、さらにその場所までわかるなんて。
それって、すごい能力なのでは。
ニヤニヤしながらナナが
「今更ながらに、か。あらためて考えれば、確かにの。記憶の大半を失っても尚、物に触れるだけで不自由なく過ごせておるわけじゃからな。この上記憶を取り戻せば、あやつめ、情報の多さに頭がパンクするのではないか。あるいは情報の海で溺れ死ぬのでは」
そう云うのは、もちろん冗談のつもりなのだろうけれど。
「うーん、でも確かに体や意識への負担は大きそうだなー。フツーの人は、そんなにたくさんの事をいっぺんに覚えてたりはしないし、一度に大量に記憶したりはできないもんじゃん。かなり、無理がある気がするよなー。いったいどんな改造をされたんだかって、ちょっと心配になるよねー」
Lの声に、いつもの陽気さがない。
改造、で云えば、キクヒコさんもだ。
「能力」が暴走したように、自分の意思でコントロールできずに飛び回ってるみたいだったと、Nは云ってたけれど。
もしかしたらそれも、記憶を失くした事とか、僕の体で無理して「力」を使ってた事とかが原因なのではなくて、元々の無茶な改造の方が原因なのかも。
ナナがNの視界の窓で、ちらっと前を行くルリおばさんの背中を見て、
「あれの記憶に潜るのも、なかなかに重そうではあるな。いや、ナガヌマや跳ねっ返りに限らず、他人の記憶なぞ、誰であれ多少なりと重いもの、なのかも知れんがの」
そう云うのを聞いて、僕はよくわからなくなる。
ルリおばさんの失くした記憶を取り戻す事は、果たして良い事なのかな。
たぶん、今のルリおばさんが覚えている事は、あのピンクのバッグをキクタからもらって以降の事。
それ以前の記憶は、海とのつながりを失くした時に、その大半をすっかりきれいに忘れてる。
だから、子供の頃にどこかの秘密の研究所に囚われていた事や、そこで何かの実験や改造をされていた事は、一切覚えていないはず。
辛い過去や悲しい記憶をすべて忘れていられるのなら、それは決して悪いことではないのでは。
「それは」
ガブリエルがNの視界の窓を見つめたまま口を開いて、
「ルリさんがそう望むのなら、だね」
ぽつりと呟くように云った。
ルリおばさんは、そうか、昼間のマンションでの話は、ガブリエルは聞いてなかったのか。
いや、聞いてたにしても、ルリおばさんの声は、海で聞いてるガブリエルには届かない。
ハルを探しに行く、という話の時に、ルリおばさんは云ってた。
「さっきあんたがちらっと云ってた、あたしの記憶を取り戻すって話?それは、すごくうれしいしありがたい話だけれど、ハルの捜索は少しでも早い方がいいでしょ。残念だけど、あんたがあたしの記憶を探してくれる間、ただじっと待ってるわけにはいかないわ」
すごくうれしいしありがたい話
あれはきっと、記憶を取り戻すのがうれしいというわけではなく、僕らがそんな相談をしていた事、それ自体が「うれしいしありがたい」という意味、だと思うけれど。
ふむ、とガブリエルは考え込むようにうつむいて、
「たぶんそうだね」
そう云って顔を上げて、
「でもルリさんに、「お願いだからそれはやめて頂戴」って云われなかったんだったら、さっきのキミの心配は、杞憂だね」
僕を見て、ふふっと笑う。
杞憂
僕の、いつもの心配性、って事なのかな。
「だなー」
はっは、とLが陽気に笑う。
「おまえ、Mちゃんの話、覚えてるかー?アルカナの記憶は「王の海」に保管され、いつでも「読むことができる」って云ってたじゃん。海につながった途端、全部の記憶がルリちゃんに流れ込むわけじゃなくて、選んで「読むことができる」ってんならね。おまえの心配するような辛い過去や悲しい記憶は、わざわざ読まなけりゃいいだけ、って事だよねー」
それは、そうかも知れない。
普通の人も、そうだ。辛い過去や悲しい記憶が、どこか頭の片隅にあったとしても、わざわざそれを日常的に思い出したりはしない。そういう事なのかも。
地下道の残り半分を過ぎ、目の前にはまた、非常口の緑色の灯りと灰色の鉄の扉。
懐中電灯を左手に持ち替えて、ルリおばさんが右手でドアノブを掴んで、回す。
今度のドアは、手前に引くタイプだった。
きい、と少しだけ蝶番を軋ませながら、ドアが開く。
ルリおばさんが明かりを向けると、こちら側と同じ煉瓦壁の地下道が続いている。
違うのは、地面がコンクリートで固められているところ。
あの、マンホールの下の地下道の先、下水道に出た所の通路と同じ作り、だと思う。
下水のにおいは、と考えて、Nの体だった事を思い出す。
嗅覚は、切ってくれてる、よね。
「はい。下水のにおいは、かすかにしますが、まだ遠いようです」
そう、Nが教えてくれた。
「赤い「線」は、まだ近付いてないかしら」
ドアを潜り抜けながら、ルリおばさんがラファエルに尋ねる。
線の向きは、南、この地下道の先を示してる。距離は、さっきとそれほど変わらないのかな。まだ近くではなさそう。
「だなー」
Lの声が海でそう云って、ラファエルはルリおばさんに「わふ」と小さく吠えてうなずく。
ふむ、とルリおばさんはうなずいて、
「ねぐらはこの先よ、わりと近いみたいね」
懐中電灯を前に向ける。
暗い地下道には灯りもなく、非常口の緑の灯りがぼんやりと灯っているだけ。
懐中電灯なしで、ここを歩くのは難しいかも。
ここまで進んで来て、あらためて、あの日の僕自身の無謀さを思い知る。
今はNの視界なので、灯りなしでも昼間のように周囲が見えてるし、何の問題もなく自由に動けるけれど。
こんな所までルリおばさんを追いかけて来て、あの時の僕は、いったいどうするつもりだったんだろう。
「この先、右手に階段があるの」
まるで預言者か何かのように、ルリおばさんが云う。
ペンに残されたヌガノマの記憶
ゆっくりと暗がりを進み続けると、程なくして、懐中電灯の灯りにコンクリートの階段が浮かび上がる。
右の煉瓦壁に向かって、5段ほどの短い階段があって、その先に鉄のドアがある。
「ドアの向こうは、短い通路。2mもないわね。その先にもうひとつドアがあって、そこが小部屋になってるわ」
階段の1段目に足をかけながら、ルリおばさんがそう説明してくれる。
「ミカエル、「線」は、まだ向こうなのかしら」
地下道の先、南を懐中電灯で指して、ルリおばさんが尋ねる。
そう、赤い「線」は真っ直ぐに地下道の先、南を差している。
距離は、さっきよりも少し近付いたかも知れないけれど、まだ遠い、かな。
わふ、と小さく吠えて、ラファエルが大きくうなずく。
「あいつはお出かけ中ってわけね」
ほっとルリおばさんは小さくため息をついて、
「どうも、この小部屋は行き止まりっぽいのよ。中には誰もいないのよね?」
そうラファエルに尋ねたのは、ドアの向こうを示す「線」はないのよね?って事かな。
それは、ない。残念ながら、だけれど。ハルが小部屋にいてくれたら、今なら救出のチャンスだった、かも知れない。
ラファエルがまた、大きくうなずく。
「じゃ、あいつが帰って来ないうちに、ささっと中を確認しましょ」
ルリおばさんが云って、階段を上る。
行き止まりの小部屋
もし全員で中に入っている時に、ヌガノマが戻って来たら、逃げ場がない、という事。
ルリおばさんもそれがわかっているから、「ささっと中を確認」と云ったのだろうけれど。
「うん、しんがりはオレが警戒しとくぜー」
はっはー、とLは楽しそうだ。
いや、むしろ、Lこそ真っ先に中へ入って、いろいろ確認して欲しいところだけれど。
そう云ったら、ふふっとLはまた笑って、
「入るには入るから、安心して?ばっちり後ろを警戒しながらね」
疑問形だけれど、でもそうか、行き止まりの袋小路だからこそ、ラファエルが背中を守ってくれるのは頼もしい、よね。
階段を上り、懐中電灯を左手に持ち替えて、ルリおばさんがドアノブに右手を伸ばす。
ここも引くドアだった。
階段の上なのに引くドアなんて、それほど高さがあるわけではないけれど、ちょっと危ない気がする。
通路にも灯りはない、けれど入り口のドアの頭上に非常口の表示があって、緑の灯りが灯っているので中の様子が見える。
本当に短い通路で、ルリおばさんの云う通り、2mもないくらい。
なるほど、ドアが外に開くのは、中の通路が狭いから、か。
ルリおばさんが通路へと進み、Nが後に続く。ラファエルが最後に入って来ると、その後ろで、ドアがばたんと音を立てて閉じた。
見たところ、油圧式のドアではなさそうだけれど、鉄のドア自体の重みで、勝手に閉じてしまうらしい。
「いいわ、閉めておきましょ」
ルリおばさんが云う。
確かにそう。
外へ開くドアなので、開いていたら、戻って来たヌガノマに遠くから気づかれる、かもしれない。勝手に閉じてしまうのなら、それはそのままでいいのかも。
非常口の灯りに照らされた通路は、全体的に緑色に見えるけれど、作りはさっきまでの地下道と同じ、煉瓦壁と丸天井、そしてコンクリートの床だった。
ルリおばさんがドアノブを掴んで捻る。部屋のドアも外側に開く。
理由は、部屋に入るまでもない。室内が狭いからだろう。
部屋は、3m四方くらい、広さで云えば4畳半一間のアパート、みたいなイメージかな。
正面の壁際に、簡易ベッド、なのかな、長椅子がひとつ、その左の壁際には事務机がひとつ、机の前には折りたたみ式のパイプ椅子がひとつ。壁と机の間に、折り畳まれたパイプ椅子がひとつ。机の左手、つまり入り口のドアのすぐ横には、小さなシンクがひとつ。調理をするため、ではなさそう。手を洗ったり、何か道具を洗ったりするのかな。奥の壁の右隅に木のドアがあるのは、トイレだろうか。
部屋の真ん中、天井から裸電球がぶら下がっている。灯りはついていないけれど。
ドアのすぐわきの壁にスイッチがあり、ルリおばさんが押してみたけれど、灯りはつかなかった。
地下道の作業員のための、詰所らしき部屋、かな。
そう考えて、何かが頭をかすめる。
どこかで聞いた事があるような。
「うん、ここは、誘拐されたボクが閉じ込められた部屋、だね」
視界の窓をじっと眺めて、ガブリエルがそう口にした。
いつもの彼らしい、淡々とした口調で。
「ちっ」
と、思わず舌打ちの音を漏らしたのは、Lだった。
顔は見えないので、どんな表情を浮かべているのかは、わからなかったけれど。
「まあ、8年前の事だし、ここにいたのは、ほんの小一時間ほどだったはずだからねえ。実はよく覚えてないんだけど。こんな感じの地下の小部屋、他にもあるのかもしれないし、ね」
ガブリエルのその声が聞こえていないルリおばさんは、ずんずん部屋に入り、真ん中に立ってぐるりと懐中電灯で照らしながら、辺りを眺めている。
あの誘拐の時、ガブリエルを救出に来たのはキクヒコさん。なので、ルリおばさんには、この部屋に見覚えはないのだろう。
Nもそのすぐ後に続いて部屋に入り、ラファエルは、戸口に立って部屋の中を眺めつつも後ろを警戒してくれている。
今も使われている部屋、という感じはしない。何もない、かつての作業部屋、という感じだった。
ただ、ライトに照らされた床や椅子、机の上に、それほど埃が積もっているようには見えない。
きれいに掃除されているわけでは決してないけれど、長年放置されていた、という訳でもなさそうに見える。
ヌガノマが、ここをねぐらとして使っていたのだとしたら、
「あいつがレムナントだとしたら、水さえあれば食事も必要ないんだろうし、寝床もあるし、まあ理想的な住まいだなー」
面白くなさそうに、Lが云う。
「ひどいニオイね。家畜小屋みたい?」
そう云って、ルリおばさんが顔をしかめている。
僕らは、Nが嗅覚を切ってくれているので、そのにおいはわからない。
でも、あのマンホールの下にあった穴ぐらも、そう云えばひどいケモノ臭がしていた。
あそこも、ヌガノマのねぐらのひとつなのだとしたら、ここも同じなのかも。
「待て、ニオイじゃと?レムナントに体臭なぞ、ないはずじゃぞ」
ナナが不満げに異を唱えた。
そうなの。いや、そうだ。ハナは、
「だよね、とっても甘ーいお花の匂いがするよねー」
Lが少し元気な声になって云う。
うむ、とナナがうなずいて、
「レムナントの肉体は、極めてゆっくりと死に向かっておるからの。汗もかかぬし、排泄物もない、云わば、植物のような状態よ。わずかな水と睡眠のみで生き、呼吸も脈拍も極めてゆっくりじゃ。それがケモノ臭なぞ、出るはずがなかろ」
ナナが云うのも、もっとも、なのかも。
けれど、ヌガノマは、
「うん、ボクの記憶では、担いで運ばれてる間も、ここへ閉じ込められてからも、ずっとひどいにおいがしてたのを覚えてる。K、キミもだよね」
ガブリエルにそう聞かれ、僕もうなずく。
闇の中で、背後から懐中電灯を奪われそうになった時、確かにけもののような匂いがした。
それから、あの時、ルリおばさんの体で、首を絞められた時にも。
「おい、おぬし。それはあやつには云ってくれるなよ?意識を移されてにおいまで移るものかどうかはともかく、あれも一応女性じゃからの。デリカシーの問題じゃ」
そう、ナナに釘を刺されて、ルリおばさんに聞こえてなくて良かった、と僕は内心ほっとする。
いや、それはともかく、けもの臭どころか、体臭さえしないはずのレムナントでありながら、どうしてヌガノマは、あんなにおいなのだろう。
下水に近い場所で、長年暮らしていたから、においが染みついてしまった、とか。
「下水と云っても、この辺のは、ほとんど使われていない古い下水道だからね。実際、それほど臭くはなかったよね」
ガブリエルのその指摘には、うなずくしかない。
「うっかり下水に落ちて、運悪くそこで眠りの時期が来て、そのまましばらく眠ってたとかじゃね」
何だかもうどうでもよさそうに、なげやりな感じでLが云う。
確かに、今はヌガノマのにおいについての考察は、どうでもいいかもしれない。
「あら」
机の周辺を懐中電灯で照らしていたルリおばさんが、そう云ってかがみ込む。
机の下に手を伸ばして、何かを拾い上げたようだ。
「スマホだわ。ハルのかしら」
立ち上がってこちらを向き、ルリおばさんは右手に持ったスマホをこちらに見せてくれた。
ちゃりん、と軽やかな音を立てて、ストラップが揺れる。
赤いテントウムシのストラップ。
ハルのスマホだ、間違いない。
僕が云うと、Nがルリおばさんに何度もうなずいてくれる。
「ハルのスマホなのね。電源は、うーん、残念。バッテリー切れみたいね」
あまり残念でもなさそうに、ルリおばさんは云う。
「あやつに電源は不要じゃからの」
ふふんと笑ってナナが云い、あ、そうかと気づく。
バッテリー切れのスマホでも、ルリおばさんの「能力」には関係ないんだ。
記憶は、読める。
やっぱり、すごい能力だよね。
「おぬし、いちいち感心しおって。子供のようじゃの」
ナナはあきれ顔で笑うけれど、僕は子供だし、小学2年の。
わははー、とハナのようにLが笑う。
「だよねー、すっかり忘れてたけど、おまえ、まだ2年生なんだよなー」
しみじみと、あらためて、Lはそんな風に云う。
そうだけど、そんなあらたまって云われると、なんだろう、へんな感じがするけれど。
「ちょっと、どうして」
ハルのスマホを手に、眼を閉じてその記憶を探っていたルリおばさんが、悲鳴のような声と共に眼を開く。
驚いてスマホを取り落としそうになり、慌てて捕まえて、ほっと息をついたけれど、表情は浮かない。
「ハルは、ここにはいないわ」
あらためて、ルリおばさんは云う。
それは、そう。ハルがいないのは、僕らにもわかる、けれど。
「あの子、飛ばされたみたい。キクヒコの「輪」で」
呆然とした表情でそう告げるルリおばさんの声を、僕はどこか遠くの方で聞いていた。
「あいつ、何考えてるのかしら」
じわじわと怒りが湧いてきたのか、ルリおばさんは手にしたハルのスマホをにらみつけて云う。
あいつ、と云うのは、もちろんハルの事ではなく、キクヒコさん。
「ああ、ごめん。説明するわね」
ルリおばさんが、そう云って、Nとラファエルを順に見て、最後に、腕に止まったままのクロちゃんを見て、
「このスマホに残った最後の記憶は、ここで、ハルの足元に「輪」が現れたところだった。「輪」は能力のない人には見えないはずだから、ハルには何が起きたのかわからなかったと思うわ。突然、体が浮き上がるような感覚がして、驚いてスマホを落とした。まあ、おかげで、その場面を見る事ができたのだけれど」
スマホが机の下に転がり落ちたおかげで、体と一緒に飛ばされずに、その時の記憶と共にここに残された、という事かな。
ふう、と自分自身を落ち着かせようとするみたいに、ルリおばさんはひとつ息をついて、続ける。
「それ以前の記憶は、飛び飛びだわ。可哀想に、怖かったんでしょうね。記憶もかなり混乱してるみたい。どこかの川原のような場所で、例の黄金虫、鉄のカタマリみたいな奇妙な虫を見つけて、虫網を使って捕まえていたわ。その後、何か穴にでも落ちたのかしら、突然真っ暗になって、それから、地下でヌガノマに襲われたみたい。気を失って、気づいたらこの部屋にいた、ってところかしら」
スマホを指でなぞりながら、ルリおばさんは淡々とそう告げる。
黄金虫を見つけた
その後、突然真っ暗になった
地下でヌガノマに襲われ、攫われて、この小部屋へ連れて来られた
光る「輪」が現れて、どこかへ飛ばされた
その捕まえた黄金虫は、どこへ行ったのだろう。
この部屋には、いないみたいだけれど。
それに、それが土曜日の出来事なのだとしたら、ハルの行方不明の「認識」を消した人物は、いつ、どこでそれを知ったのか。
「やつらが黄金虫を管理してたんだとしたら、何か発信機てきなものでも付いてたのかも?GPSとかね。でもそれだけじゃ、虫の居場所はわかっても、それにハルが関与してる事や、ヌガノマに攫われた事まではわかんねーよなー」
Lの云う通り、認識を消した犯人がそれを知るためには、どこかでハルと会う必要がある、はず。
黄金虫に発信機てきなモノが付いていたとして、それがどこかへ移動している事に気づいても、見ず知らずの黄金虫を持ち去った人物、というだけの条件では、認識を消す事はできないのでは、と思える。
それに、ヌガノマの行動も謎のままだ。
アルカナを持たないハルを、ヌガノマはどうやって見つけたのか。
たまたま、地下で出くわした?それで、攫った?
いくら壊れたヌガノマでも、そんなのべつまくなしに、子供を攫ったりはしない、と思う。
もしそうなら、これまでにもっとたくさんの子供がヌガノマの被害に遭っていてもおかしくないし。
「黄金虫は、ロリポリの幼虫、なんだよね」
ぽつりとJがそう口にする。
それは、まだ確定ではないけれど、その可能性は高い、と思う。
「ロリポリの幼虫なんだとしたら、アルカナが中に入れるのかも?大人のロリポリと同じ、オレンジの海に似た器官を持ってるんだとしたら、ね」
はっと、僕の隣でガブリエルが息を飲む。
また、Jの天才的発言が、彼を驚かせたらしい。
「うん」
素直にガブリエルはうなずいて、云う。
「ヌガノマは、ハルが持っていた黄金虫の中のアルカナに反応したのかも。そして、アルカナが中に入ってたのだとしたら、それはGPS以上の探知機になるよね。そのアルカナが「海」につながってたとしたら」
王には、そのアルカナがどこにいるのかがわかるし、その記憶も読める。
H・O一派にアルカナの王がいて、黄金虫にはつながりのあるアルカナが入っていた、のだとしたら。
「M何某か。あやつ、やはり彼奴らの元へ戻っておったのか」
ナナの云うのも、わかる。やつらと関係のあるアルカナの王、と云えば、まずMが思い浮かぶ。
あの記憶では、一度は、ヌガノマと共に逃げ出していたけれど。
「ちょっと、あんた達」
ルリおばさんがじろりとNをにらんで、
「あたしに聞こえない所であれこれ相談してるでしょ。それは構わないけれど、ここではやめて。もうこのにおい、耐えきれないわ。ハルもいないし、一旦帰りましょ」
そう、云い終える前に、あの音が鳴る。
僕の耳の奥で、ぴぴぴぴ、という警告音。
そして、視界の隅では赤い「線」が、ぐるぐるとその表面にらせん模様を走らせて、部屋の外、南の方角を指し示している。
「わふ」
ラファエルが短く小さく吠えて、通路に戻り、地下道へ続くドアをにらみつけている。
「嘘でしょ、何てタイミング悪いの」
つぶやいて、通路へ戻りかけるルリおばさんを、ドアの前に立ちはだかったラファエルが振り返り、「来るな」と云わんばかりに「うう」と唸って首を横に振る。
「ちょーっと間に合わねーかなー。いま出たら、地下道で鉢合わせしちゃうかも。あいつはスタミナ底なしなんだろー?だったら追いかけっこするより、ここで一発不意打ちかまして撃退しよーぜ。そーすりゃ、逃げる余裕もできるだろー?」
ふっふー、といつもの声でLは云う。
いや、だいぶ無理して平静を装ってるのは、わかる。
今は大きな黒犬のラファエルの中にいるとは云え、Lだって小学6年の女の子なのだから。
けれど、Lの作戦が、たぶんいま僕らが取れる最善の策なのだろうって事も、わかる。
だから、L、くれぐれも、気をつけて。無理しないでね。
「心配性だねー」
へへっとLは笑う。
「援護します」
Nが云い、すっとルリおばさんの横をすり抜けて、ラファエルの後ろで態勢を低くして身構える。
ぴょん、とクロちゃんがルリおばさんの腕から飛び降りて、Nの後ろに並ぶ。
「あんた達」
呆れたようにルリおばさんはつぶやいて、
「何だかこういう童話あったわよね。動物たちが力を合わせて悪者を懲らしめるの。ブレーメンの音楽隊、だったかしら」
そんな事をぽつりと云う。クロちゃんが下りて自由になった左手に懐中電灯を持ち替えて、右手には、ポケットから取り出した催涙スプレーを構えながら。
その童話の記憶も、ピンクのバッグに入ってたのかな。
なんて、場違いな事を僕が考えていた矢先、
がちゃ、と地下道へのドアノブが回転して、ドアが向こう側へ開く。
黒い、細長い人影が、ドアの向こうに見えた、瞬間、
地面を蹴ったラファエルが弾丸のように飛んで、そのまま人影のお腹の辺りに強烈な頭突きをお見舞いする。
どん、という重い音と「ぐえっ」という割れたような悲鳴が聞こえて、ヌガノマはラファエルの頭突きを食らった勢いのまま、後ろに倒れて階段を転げ落ちる。
ごつん、という嫌な音がして、ヌガノマは後頭部から後ろ向きにコンクリートの床に倒れた。
そのヌガノマの上に飛び乗るように、ラファエルがどすん、とその体を踏んづけてから、ひらりと地下道へ着地する。
ほとんど同時に、眼にも止まらぬ速さで飛び出したNが、倒れたヌガノマに飛び乗ってその顔面にネコパンチを連打する。
鋭い爪を立てたパンチが、執拗にヌガノマの右眼を狙って撃ち込まれるのを見て、僕は他人事ながらちょっとだけヌガノマに同情した。
もう十分と思ったのか、クロちゃんは羽ばたきをして飛び上がると、地下道を北へ向かって、出口の方へと飛んで行く。
「ノワール、どいて」
懐中電灯をヌガノマの顔に向けながら、階段を飛び下りたルリおばさんが、右手に構えた熊でも逃げ出す催涙スプレーを、これでもかとばかりにヌガノマの右眼めがけて噴射する。
ヌガノマはけものじみた叫び声を上げて地面をのたうち回り、右手で右眼の辺りを必死にこすろうとするけれど、触れると痛くてこすれないらしい。悔し気に仰向けに横たわったまま身を捩り、右足で地面や何もない空中を滅茶苦茶に蹴っていた。
「撤収」
ルリおばさんが云って、地下道を北へ、クロちゃんの後を追うように駆け出す。
Nもすぐ後に続き、ラファエルはちらりと振り返ってもう一度ヌガノマの様子を確かめてから、これは追って来れまい、と安心したように「わふ」と小さく吠えて、地下道を北へ走り出す。
いつの間にか、僕の耳の中の警告音は、ぴぴぴ、から風のような音に変わっていて、地下道には、悲し気なヌガノマのけものじみた叫び声だけが、いつまでも響いていた。
「はっはっはー、あーすっきりしたぜー」
すっかりいつもの陽気な声になって、Lがご機嫌に高笑いをしている。
暗い地下道と防空壕を一気に駆け抜けて、川沿いからけもの道を上り、街灯の明るいニュータウンの歩道へ戻ったところで、ようやく僕らは走るのを止め、息をついた。
と云っても、息を切らしていたのは、ルリおばさんだけで、ラファエルもNもけろりとした顔でまだまだ走れそうに見えたし、クロちゃんは電柱の上に止まり、万が一に備えてか後ろを警戒してくれていた。
いくら何でも、あのヌガノマがこんな明るい場所まで、しつこく追ってくるとは思えないけれど。
それにたぶんあの様子では、しばらく目が痛くて涙も止まらないのだろうし(止まらないのかな、レムナントだけれど)、とても僕らを追ってくる事なんてできそうには見えなかった。
前かがみになって両手を膝に当て、はあはあと荒い息を吐くルリおばさんは、しばらく話せそうにない。
ラファエルがルリおばさんの前で地面に腹ばいになり、振り返って背中のバックパックを指して「わふ」と鳴く。
あ、そうだ、ペットボトルの水が入ってるんだ。
Nもすぐに気づいて、ラファエルの横で前肢を伸ばして、バックパックのジッパーに爪を引っかけて開けようと頑張ってくれているけれど、いや、それはさすがに無理では。
「な、なによ、あんた達。え、このカバン、開けるの?ちょ、ちょっと待って」
はあはあ云いながら、ルリおばさんがバックパックのジッパーを開けて、
「あら、水じゃない。なんて気が利くの?ラファエル、あんたかわいいわねえ」
ぱっと表情を輝かせて、水を取り出しながらラファエルの頭をなでようとしてよろめいて、そのまま崩れるようにラファエルの上にへたり込む。
「ああ、もうだめ。さすがに、ここまでは追って来ないでしょ。ちょっと休憩させて、お願い」
まるで自宅のソファにもたれるように、歩道に座り込んでラファエルにもたれかかりながら、ルリおばさんはペットボトルを開けて、おいしそうに水を飲んだ。
しばらくそうして、はあはあと荒い息を整えていたけれど、ようやく人心地ついたらしく、もう一度、ペットボトルに残った水を全部飲み干して、
「はあ、生き返ったわあ」
そうつぶやくなり、くすくすとルリおばさんは笑い出した。
どうしたの、
疲れすぎて、へんなテンションになっちゃったのかな。
「はあ、面白かったわねえ。ヌガノマのあの顔、見た?」
そう云って、またくすくすと笑い出す。
「昼間、ナナが云ってた通りね。キクちゃん、あんた、これがやりたかったのね」
そんな事を、ルリおばさんは笑顔で云う。
Nの顔を、やさしい眼でのぞき込んで。
そうなの、かな。
これがやりたかったの。
「ナガヌマをやっつける事を、ではないぞ。気の合う仲間と力を合わせて、困難を乗り越える事を、じゃな」
まるで学校の先生のような口調で、ナナが云う。
ああ、そういう事。
それなら、そうかも。
頼りになる仲間がいて、本当に良かったと思う。
「よっし、帰りましょ。ね、コンビニまでつき合ってくれる。あたし、そこでタクシー呼んで帰るわ」
よろよろと立ち上がって、ルリおばさんはそう云って歩道を南へ歩き出す。
「わふ」とラファエルが返事をして、ルリおばさんの横に並んで歩く。
Nもすぐ後に続いて、クロちゃんは次の電柱へ飛んで行く。
3人の頼れる仲間、だけではなくて、Nとラファエルと、クロちゃんもいる。
それに、頼りになる大人のルリおばさんとナナもいる。
だからもう二度と、僕はひとりで勝手に突っ走ったりはしない、と思う。
「だといいけど」
ふふふ、とガブリエルが笑って云う。
「うん、知ってるぞ。それがおまえのいつもの手だもんねー。めっちゃ素直に反省してるからさー、よしよしって思って油断してると、すーぐまたひとりで勝手に何かはじめてるんだよなー」
はっはー、とLが陽気に笑って、
「それは、Lのせいでしょ。そうやって、すぐKを煽るようなこと云うから」
そう云って、Jが僕を甘やかすと、Lが「はあ?」といつものようにJに突っかかる。
そっか、キクタは、これがやりたかったの。
ほんの少しだけ、「先代」キクタの気持ちが、僕にもわかった、ような気がした。
コンビニの前の公衆電話からタクシーを呼んで、5分ほどで市街地の方から白いセダン車がやって来るのが見えた。
屋根の上に社名の入った行灯が付いているので、間違いなく、ルリおばさんが呼んだタクシーなのだろう。
コンビニの店内には、アルバイト店員らしき外国人留学生っぽい男の子がひとり、暇そうにレジの中でマンガを読んでいた。
店の外に立つ、ジャージ姿の女性には気づいてすらいないのかも。その横に並ぶ黒犬と黒ネコ、そして交差点の電柱の上に止まったカラスにも、もちろん。
「お疲れ様。ひとまず今夜は、これで解散しましょ」
交差点にタクシーが見えたところで、ルリおばさんが云う。
「どうせあんた達、今から「海」で会議するんでしょうけれど。ほどほどにね、明日も学校あるのよ?」
そう云って、思い出したように、
「あ、そうそう、明日、放課後にウチへ寄ってくれるかしら。それまでに、ハルのスマホの記憶をもう一度じっくり見ておくわ。それと、できれば、アイザック・・・あ、いえ、アイだったわね、あの子に、ハルの家の様子を聞いてみて頂戴。「輪」で飛ばされた先が、ハルの家だったのだとしたら、もう探す必要はないものね」
何か思い悩むような表情で、ルリおばさんは云う。
飛ばされた先が、ハルの家だったのだとしたら
ルリおばさんの見たそれが、いつの記憶だったのか、詳細な日時までは、わからないのだろう。
記憶がだいぶ混乱してる、ともルリおばさんは云ってたし。
信号が青に変わり、ルリおばさんが片手を上げて合図を送ると、交差点の向こうから、タクシーがハザードランプを点けて、コンビニ前の狭い駐車場へ入って来た。
「じゃあまた明日ね」
ルリおばさんが僕らに云って、後部座席のドアが開くと、するりと車内に乗り込む。
ドアが閉まり、タクシーがゆっくりと市内へ向かって走り出すのを、僕らはコンビニの前で見送った。
「さて、帰るかー」
基地のドアが開いて、Lがぴょんと「オレンジの海」の砂浜に降り立ちながら云う。
帰りは、ラファエルに任せてだいじょうぶ、って事かな。
「クロちゃん、お願いね」
お庭の窓からそうJの声がして、窓が大きく開くと、Jもふわりと砂浜に降りてきた。
ナナがコテージのソファにまっすぐ座り直して、左右にスペースを空けてくれる。
ナナの右隣にLが「よっこらしょ」と座り、左隣にはJがぺこりとナナにお辞儀をして座る。
N、僕らも、部屋に戻ろう。
「承知しました」
Nが答えて、視界の窓の風景が家へ向かって動き出す。
僕とガブリエルも、操縦席と助手席から立ち上がり、向かい側のソファに並んで腰を下ろす。
ぱちんと指を鳴らして、ソファのサイドテーブルに、人数分のお茶を出す。
「ハル君、家に戻ってるといいけど」
僕に「ありがと」と云って湯呑みを手に取りながら、Jが云う。
「うーん」
Lは難しい顔で、腕組みをして何やら考え込んでいる。
ハルが飛ばされたのが、今日なのだとしたら、ハルが家に戻っている可能性はあるかもしれない。
けれど、それが昨日か一昨日、日曜か土曜の記憶だったのだとしたら、ハルは家に飛ばされたのではない、という事になる。土日の間に家に戻っていたのなら、そもそも行方不明事件にはならないか、なっても既に解決してる。
「もうひとつ、そもそもですが」
ガブリエルの膝の上で、Nの意識体がヒゲを震わせて云う。
体は、僕の部屋へ向かって大通りの歩道を走っているはずだけれど。相変わらず、器用だなと感心する。
「今のキクヒコに、ハルを救出する事が、果たして可能でしょうか。ワタシにはそうは思えません」
Nが云うのは、記憶の大半を失くし、意識体はノイズまじりの乱れた残像のような僕の姿のままで、「力」を制御できずに、自分の意志に反して飛ばされているような、今のキクヒコさんに、という事だろう。
ふむ、とナナが唇に包帯ぐるぐるの指を当てて、
「小僧以外に、「輪」の能力を使える者か。ノワールよ、おぬし心当たりはあるか」
そう、Nに尋ねる。と云うより、確認だろうか。
「いいえ、存じません」
Nは即座に、首を横に振り、何故かLを見る。
その視線に気づいたLが、だらしなく相好を崩して、
「んん、何だいネコチャン、オレに何か云わせよーとしてるねー?」
うれしそうにニヤニヤ笑っている。
「はい。ひとつの可能性を、Lならばワタシよりも上手く説明してくれるのではないかと」
真面目な顔で淡々と、Nは云う。
ひとつの可能性
キクヒコさん以外に、「輪」の力を使える人がいる、その可能性、かな。
「うん、可能性で云えば、いる、かもしれないよなー」
だらしないニヤニヤ笑いから、いつもの陽気な笑顔に戻って、Lが云う。
「キクヒコは、奴らの秘密の研究所で、何やら改造された実験体だった、って話だよね。どんな理由でかはわかんねーけど、それを知ったキクタが、ルリちゃんとキクヒコを奴らの元から救い出したって。でも、奴らの手元には、研究データは残ってるはず。やろーと思えば、キクヒコと同じ「輪」の能力を持った実験体を、新たに作る事もできたはずだし、まあ、やるだろーね。あんな便利な「能力」、貰えるのならオレもほしいくらいだもんなー」
最後は冗談めかして、ふっふー、と笑っているけれど、たぶん半分は本気、なのかも。
それはさておき、
奴らの一派にそんな奴がいるのだとして、キクヒコさんではなく、そいつが、「輪」の力でハルを飛ばしたのだとしたら、ハルの行き先は「家」であるはずがない、よね。
「どういう事?」
Jが困った顔で僕に尋ねる。
そんな顔を、Jにさせてしまうのは、甚だ遺憾だけれど。
そいつがハルを飛ばした目的は、当然ながら黄金虫の回収、なのでは。
だとしたら、ハルが飛ばされた先は、
「彼奴らの秘密の研究所、じゃの」
ナナがそう続けてくれて、僕はうなずく。
でも、考え様によっては、それは決して悪い事ではないのかも。
奴らの目的が、黄金虫を回収する事、
そして、奴らの研究所の秘密を守る事、なのだとしたら、
黄金虫を無事に回収できさえすれば、ハルは解放されるのでは。
おそらく、黄金虫やヌガノマに関する認識を全て消された上で、だろうけれど。
「ほほお、Kにしてはめずらしく、ネガティブ要素のない、前向きなイイ考察だねー」
Lがニヤニヤしながら云う、けれど。
え、僕はいつもそんなに、ネガティブで後ろ向きな、悲観的な考察ばかりしてるの、かな。
「もう、Lはまたそういう事いう。気にしちゃだめだよ、K。キミが素直でかわいいからって、Lはからかってるだけなんだからね」
JがキッとLをにらんで、そう云ってくれたので、そういう事なら、まあいいのかな、と思うけれど。
Lは肩をすくめて、僕にニッと笑いかけ、
「いやあ、おまえの云う通りだと思うぜー。奴らが、マンガやアニメに出てくるような、悪の秘密結社?みたいな何かそんなのじゃあるまいしさー。攫った子供を実験体にするとか怪物のエサにするとか、そんなのフツーにありえねーだろ。認識を消すっていう便利なチート技も持ってる事だしなー。面倒な事はパッパッと消しちゃって、素知らぬ顔で子供も返して、事なきを得るってのが、あいつらにとってもベストだよねー」
そう云ってくれて、僕は少し安心する。
さっきの僕の考察は、自分で云っておきながら、随分と希望的観測に寄り過ぎな気が、実はしてた。
ハルが無事だといいな、という僕の願望が先に立った考え、というか。
「うん。希望的、とキミが云うのも、わかる気がする」
あごに指を当てて、何やら考え込んでいたガブリエルが、顔を上げて、
「ハルは何も知らなかったとは云え、奴らの秘密に触れてしまった上に、ヌガノマに攫われた子、だからねえ。普通に考えたら、到底無事に済まされるとは思えない。けれど、運良く、奴らの中に「輪」の力を使える人物がいて、黄金虫を回収しつつハルを助け出してくれた。それは、事のついでのようにも思えるけれど、ミカエルが云うように、そうするのが奴らにとってもベストだったのかも。事なきを得る、そのためには、ハルを無事に帰らせる必要が、奴らにもあった、という事だよね」
淡々と冷静に、いつもの声でそう云って、ふふっとやさしげに笑う。
Lとガブリエル、ふたりがそう云って太鼓判を押してくれるのなら、僕も安心、かな。
「水を差すようじゃが」
ナナがちらりと僕を見て、
「おぬしの説が正しいとするなら、彼奴らの中に「輪」の能力を使える者がおるのもまた事実となるの。此度は、たまたま良い結果につながるのかも知れぬが、警戒すべき事であるのに違いはないの。それを忘れぬ事じゃな」
あえて苦言を呈するように、云う。
うん、とナナにうなずいて、初めの頃に、ナナが云ってた言葉を、僕は思い出す。
「儂らに明確な「敵」はおらぬ」
ナナははっきりと、そう云ってた。
その後で、隠れて怪しい研究を続けているというH・O一派の話を聞いた時に、
それならそいつらって、僕らの敵なんじゃないの、と思ったけれど、そうではなかった。
明確な「敵」ではない
その言葉の意味が、今になってようやく、僕にもわかったかもしれない。
決して味方ではないかもしれないけれど、Lの云うような、マンガに出てくる悪の秘密結社、みたいなもの、絶対的な「悪」でもない。
だからと云って、油断はできない。そういう事なんだと思う。
それなら、ヌガノマは。
あいつは、僕らの「敵」なのだろうか。
「そのナガヌマよ」
ナナが話題を変えるように、ソファに座り直して、云う。
「おぬし、あれをどう見る」
そんな漠然とした問いかけを、ナナは僕にする。
どう、って?
「おぬしらの云う、怪談の「ヌガノマ」の。地下をさまよい、子供を攫うというそれは、先程のあやつがモデルなのじゃろ。儂は今宵はじめて、あれを間近に見た訳じゃが」
そう云って、ナナは唇に指を当て、少し何か考えるように首をかしげて、
「あれは、本当にナガヌマなのか?」
そんな不思議な質問をする。
あれは、本当にヌガノマ、だけれど。
ガブリエルを誘拐して、僕を地下道で追いかけ回した、あのヌガノマ。
今日のあいつも、本物の、あのヌガノマだった、けれど。
「さにあらず。儂が云うのは、ナガヌママゴイチじゃ。ハナの海でおぬしと記憶を見た、あのナガヌマ本人が、本当に今宵のあやつなのか?あれは、まるで別人ではないか」
何故か、そのナナの言葉に、何かがぴたりと嵌ったような気がした。
欠けていたパズルのピースが、ぴったりと嵌って、その絵柄が見えたような、そんな感覚。
あれは、まるで別人
あのヌガノマは、ナガヌママゴイチ本人じゃ、ない?
そう考えると、確かに腑に落ちる、かも。
あまりにも、違いすぎる、あの記憶のナガヌマと、怪人ヌガノマ。
地下道を音もなく風のように疾走して、前を行く長身の研究者の首に手刀を叩き込み、一瞬で昏倒させて拳銃を奪い、襟首をつかんでつまらなそうにその体を地面に音を立てずに横たえる、あのナガヌマと。
ドアを開けるなりラファエルの頭突きをお腹に食らって「ぐえっ」とか云いながら大きくよろめき、階段を転がり落ちて後頭部からコンクリートの地下道に倒れ、ラファエルに踏みつけられて、Nのネコパンチの連打を顔面に食らわされた挙句、ルリおばさんには熊も逃げ出す催涙スプレーをこれでもかと右眼に浴びせかけられて、苦し気にのたうち回っていた、あのヌガノマ。
「あー、そう聞いたら確かにぜんぜん違うね?ほんとに別人じゃね」
何だか楽しそうに、Lはくすくす笑って云う、けれど。
ほんとに別人?
そんな事が、あり得るの。
「ねーナナちゃん、あの話、もっかい教えて。地下施設で噂になってたっていう、H・Oの都市伝説てきなあれ」
隣のナナを見て、Lはそんな事を云い出した。
地下施設の噂
H・Oの都市伝説?
ふむ、とナナは首をひねって、
「曰く、元ナチスの科学者で、その技術を買われ、戦後亡命してアメリカ軍に潜り込んだとか。レムナントの研究に執心する余り、自ら手足を切り落としてレムナント化しておるとか。一派にはクローン技術の専門家もおって、実はH・O博士には何人ものクローンがおるとか。そんな、どれも眉唾ものの話じゃが」
淡々と、そう語る。ナナにも、Lの質問の意図がよくわからない様子だった。
僕も、わからない。
それがヌガノマの別人と、どうつながるの。
別人?
クローン?
まさか、あのヌガノマが、ナガヌママゴイチのクローンなの。
「あー、それも面白いねー。でもオレが思ったのは、ちょーっと違うんだなー」
ふっふー、と鼻の穴を広げて、Lはニヤリと笑う。
あ、Lのこの顔は、知ってる。妄想が爆発した顔だ。
「聞きたい?オレが考えた最強の別人ヌガノマ説」
ほら、始まった。
はあ、とJが大きなため息をついて、
「云いたいんでしょ。どうぞ、云って」
お約束のうんざりした顔で云う。
Lはうれしそうにニコニコ笑って、話し出す。
「そもそも噂って、わりと根も葉もない事が多いんだけど、一部には真実が含まれてたりするもんだよねー。その方が面白いし、噂にもより真実味が増すからねー。それに、いくら頭のイカレた博士だからって、自分の手足を切り落としたりはしないでしょ、痛いもんねー。じゃあ、クローンなら?何人もいたのなら、ひとりくらい、実験台にしちゃおうと思ったかもしれないよねー。で、本物のナガヌママゴイチに倣って、クローンの手足を切り落として、左眼も潰して、死にかけたそいつにアルカナを入れて、ナガヌマそっくりなレムナントを作った、としたら、どう?まあ前提として、博士のクローンが、ってか博士が、だな、ナガヌママゴイチと似たような体型で、つまり背が高くてやせ型で、って条件はあるけど。ナガヌマによく似たレムナントになるんじゃね?」
そうLに云われて、記憶を辿る。
ハナの海で見た、記憶のナガヌママゴイチの顔と、ついさっき、地下で見たヌガノマの顔。
暗かったし、黒くてよくわからない、けれど、云われてみれば、違う、ような。
「違うの」
短く、でもきっぱりとナナが云う。
「記憶のあやつは、日本人じゃろ。それにしては掘りの深い顔立ちをしておったが、あくまで、日本人にしては、じゃ。今日のあれは、西洋人、白人ではないかの。肌が黒い故、白人ぽくは見えなんだが、顔の作りは、ヨーロッパ系の顔じゃろ」
ナナは、動物や人にはとても詳しい。そのナナがそこまで自信満々に云うのなら、きっとそうなのだろう、と思える。
でも、じゃあ、あのヌガノマは、偽物なの。
Lはちっちっと指を振って、
「ヌガノマは本物だよねー。「怪人ヌガノマ」は、最初からあいつだよ。ガブリエルを誘拐したのもあいつだし、おまえを地下道で襲ったのも、あいつ。けど、ナナちゃんとおまえが記憶を見たのは、ナガヌママゴイチの方。隕石の落下からキクタを庇ったナガヌマ。その後、ベースから脱走したナガヌマ。あれ?じゃあそのナガヌマは、今どこにいるの」
Lの疑問は、もっともだ。
本物のナガヌママゴイチは、地下施設を脱走した後、ハナの海で見た記憶によると、一度はわざとH・O一味に捕まって、しばらく秘密の研究所にいたはず。そしてそこでMことモニカと出会い、ふたりで研究所から逃げ出した、はず。
その後、ふたりはどうしたのだろう。
Mなら、全てを知ってるの、かな。
「であればよ、海で記憶の切れ目が見つからぬのも道理よな。ナガヌマの記憶は、切れてなどおらぬのじゃろ。跳ねっ返りに意識を移して記憶の大半を失ったのは、あやつではなく「怪人」の方なのじゃからの」
それは、そう。ナナの云う通りだ。
ナガヌママゴイチは、記憶を失っていない。海とのつながりも、失くしていない、はず。
だったら、ハナはナガヌマとつながれるのでは。
つながる事ができないまでも、居場所はわかるのでは。
「それよ」
困った顔で、ナナが僕を見る。
「M何某の話、A-0とやらの昔話、じゃろ。曰く、王はつながりのあるアルカナの居場所がわかる。つながりがなくとも、他のアルカナの居場所がわかる。故に、ロリポリの中にいながら、海沿いにいたキクタとナガヌマを感知できた、というやつじゃな。それは真実かえ?」
そう、ナナに質問で返された。
王はつながりのあるアルカナの居場所がわかる
確かに、Mはそう云ってた。
僕には、わからないけれど。
今、ガブリエルが病院にいて、JとLがそれぞれクロちゃんとラファエルの体で家に向かっているのは知ってる。けれど、それはそう聞いて知ってる、というだけで、わかる、わけじゃない。みんなの居場所を感知しているわけではなかった。
「であろ。あの話の全てが嘘とは云わぬが、どうにもあやふやな点が散見するのも事実じゃの。儂にも、無論ハナにも、ナガヌマが今どこにおるやらなぞ、さっぱりわからぬ」
そう云って、ナナは困った顔のまま肩をすくめる。
「あー、Mちゃん、って云うより、A-0特有の能力って可能性もあるよねー。Kの「音」みたいな感じかなー?実際に、A-0が海沿いのクレーター付近にいたキクタとヌガノマ、いやナガヌマ?の中のアルカナを感知したのは事実なんだろーし。それに、もしMちゃんがその能力を引き継いでるんだとしたら、ハルが持ち去った黄金虫の位置を把握できたのも、やっぱりMちゃんなのかな?って気がするよねー」
Lのその説明は、理解できる。けれど、Mの事が、ますますわからなくなる。
あの記憶がいつ頃のものなのかはわからないけれど、一度はナガヌマと共に、H・Oの研究所を離れたはず。それなのに、今はまた、研究所に戻っているの。いったい何故?
相変わらず、謎めいた存在のMはラスボス候補のまま、なのかもしれない。
いや、もう、ラスボスなのかどうかすら、よくわからないけれど。
希望的観測、という言葉が、さっきから僕の中をぐるぐる回っている。
事実は、まだどうなのかわからない。
全部が、僕らの想像でしかないのだから。
ハルが、無事なのかどうか。
ヌガノマが、ナガヌママゴイチとは別人なのかどうか。
ただ、どちらも
そうであったらいいな、と僕は思った。
eine kleine nachtmusik vi
屋根裏ネコのゆううつ II