end of the world iii

屋根裏ネコのゆううつ II

耳が痛くなるような静けさと、宙を漂う無数の記憶の欠片。
まるで、世界の終わりのように、色を失くし割れて砕けた、記憶の風景。
これが、切れ目
切れたつながり
それなら、元通りつなぐ方法は?
自ずとわかる、
そうナナは云ったけれど。
「パズルかなー」
不敵な笑みを浮かべた、ハスキーボイスが云う。
パズル
このばらばらの、モザイクタイルみたいになった記憶の欠片が、パズルのピース、なの?
Lの青い眼が、僕を見てうなずいて、
「シンプルに考えればね。ばらばらになった?それなら、元通りに並べ替えたら?元に戻るんじゃね」
ふっふー、とLは笑って、目の前の記憶の破片を手に取る。
けれど、むむ、と首をかしげる。
どうしたのだろう。云うほど簡単じゃなかった、のかな。
Lが手に触れた破片は、ぴくりとも動かない。
動かせない、のか。
だとしたら、元通りには、戻せない。
「あ」
ぴこん、とJの人差し指が立つ。
「ね、K、もしかしたら、あれと一緒じゃない。砂浜のコテージ。Kが、わたしに権限をくれて、わたしが出した、でしょ。だから、このパズルも」
なるほど、Jの言葉で、僕にもぴんときた。
ここが僕の意識空間である以上、基本的にはここにあるものを動かせるのは、僕だけ。
でも、みんなにもその権限を与えれば。
ぱちん、と僕は指を鳴らす。
「さんきゅー」
Lがニヤリと笑って、記憶の破片を両手に持つ。
今度は、すんなり持てた。さすが、J先生の閃き。
Lが両手で手にしたのは、それぞれ、30~40cmくらいの、歪んだ四角形の破片。
「こうして、こうかな」
表面の絵柄を見比べながら、Lの手元でくっつけた二つの破片に、ふわりと色彩がよみがえる。
そこに映し出されていたのは、
「おお、キイチロウさん、おかえり」
Lがニッと笑う。
その目の前で、くっついた破片にぼさぼさ頭の老けた大学生が、にやけた笑顔で映ってる。
部分的にでもくっつけば、色が戻るらしい。それは、わかりやすくていいかもしれない、けれど。
いや、ちょっと待って、
なんでLは、よりによって、そこから直すの。
ふっふー、とLは陽気に鼻で笑って、
「別にいいでしょ。たまたま、眼についたのが父さんだったの。それに、ルリちゃんから直したら、あいつらのやる気を削いじゃうだろー?」
Jとガブリエルの方をちらりと見て、ニヤッと微笑む。
まあ、それはそうかもしれない。
「あとね、今はわかりやすく手に持ってくっつけたけど、ここは意識空間だからね」
ぴこんと人差し指を立てて、Lはまた不敵な笑みを浮かべる。
「わざわざ手に持たなくても、指さしてちょいちょいでも、何なら念じるだけでも、向きさえ合ってりゃ、くっつくと思うぜー。だって、あの空とかたいへんだろ?飛ばなきゃじゃん」
せっかくいい笑顔だったのに、飛ばなきゃ、でまた、不満げにふてくされてるけれど。
Lの指さす空は、確かに、たいへんかもしれない。
僕らの目の前の、見える範囲が一面、1枚の画像のようになってひび割れ砕けているので、割合でいえば、全体の半分近くが、空だ。
でも、画面の比率的に云えば、遠い空ほど大きな破片になってるはずなので、実際に高高度まで飛び上がる必要は、たぶん、なさそう。
ひび割れているのも正面だけで、左右や背後の記憶の風景は、暗くモノクロに沈んで止まっているだけで、壊れてはいないように見える。
正面の砕けた部分だけを直せば、記憶が元通りつながって、また流れ出す、のかな。
「たぶんねー。ナナちゃんが「自ずとわかる」って云うのも、そういう事なんだろね。おまえが感覚的に「こうかな」ってやり方で、きっと間違ってねーんだと思うぜー。だってここは、おまえの意識空間だからねー」
いつもの事だけれど、Lの自信にあふれた陽気な声でそう云われると、もう絶対にそれで間違いない、という気がしてくる。
ふふふ、とガブリエルも楽しそうに笑って、
「了解だよー。じゃあ、空はボクが担当するねえ。飛ぶの楽しいし。あ、Jも、ルリさん直したら、空を手伝ってね」
そう云って、ふわりと飛び上がる。
じっとルリおばさんのものと思しき破片を見つめていたJが、
「え、あ、うん。わかった、了解」
何故かまたぽっと頬を赤く染めて、照れくさそうにガブリエルに手を上げてみせる。
ふたりの様子をニヤニヤ眺めていたLが、僕の肩をぽんと叩いて、
「じゃあ、K、おまえはほら、母さんから直してあげて」
楽しそうに云う。
なんでなの。まあ、母だけ放っておくのもかわいそうだし、万が一にも、この事が母にバレるような事はないのだろうけれど、それを抜きにしても、勘の良い母には何かを察して絶対に怒られそうな気がしたので、もちろんちゃんと直すけれど。
Jの隣に並んで、苦笑を浮かべたまま固まってる、若き日の母の映る記憶の欠片を手に取る。
指先でちょいちょいでも、何なら念じるだけでも、ってLは云ってたけれど、せめて母の映ってる部分くらいは、きちんと手で持って直してあげたいな、と思って。
「うん」
隣でJもうなずいて、天使のように微笑むルリおばさんの欠片をつなげる。
ふわりと光が灯るように、欠片に色彩が戻る。
母の欠片をそこにつなげて、さっきLが直してくれた父の欠片もつなげる。
ついさっき、記憶の映像で見た3人の微笑ましい姿が、目の前によみがえる。
「おー、いいね。じゃあここを中心に、周りをじゃんじゃん直していこーぜー」
ふっふー、とLが陽気に笑う。
Jがうなずいて、まるで天使のように、ふわりと空へ舞い上がる。
ガブリエルが向かって右側に取り掛かっているのを見て、Jはひらりと身を翻して左へ向かう。
もうすっかり、Jは意識空間で飛ぶのにも慣れてるみたいだ。
夏休みのあの眠りの間も、クロちゃんの体でずっと飛んでいたし、そのせいもあるのかな。
視線を下ろすと、Lは腕組みをして、手は使わずに念力?でパズルに取り組んでいるらしい。
「うん。やっぱり手を使わない方が断然早いねー」
ふっふー、と笑うLの眼の前で、記憶の破片がふわふわ漂って、見る見るうちにつながって、次々に色を取り戻して行く。
確かに、手で持ってひとつずつ合わせて行くより圧倒的に早そうだけれど、いや、それにしても早すぎでは。
「バラバラだけど、シャッフルされてるわけじゃないからなー。だいたい、近いところに浮いてるからね。あとは、なんとなくだなー」
簡単そうに云う、けれど。
実際に僕もやってみると、確かにひとつずつ手で持って、合いそうな絵柄や形のものを探すより、見た目の形や絵柄の雰囲気だけを見て、触らずに意識の上でつなげて行く方が早い。それはわかる。
でも、Lは早すぎる。僕がひとつふたつつなげている間に、もう5個も6個もつなげて、次のエリアへ移動してる。
この差は何なのだろう。
「んー、慣れとか?ざっくり広めの範囲で見て、合いそうなところをぱぱっと探すのが早いかもだぜー。あとは、集中力かなー。これはコツって云うより、訓練とか経験値だからねー。あーでもおじいちゃんの経験値も入れたら、実はおまえの方がすごそうだけどなー」
そんな事を話しながらも、Lの前では次々に破片がつながって、記憶の画面が色を取り戻してる。
慣れ、集中力、経験値、むむむ。
黙々と、僕も眼の前の破片に集中する事にする。
小一時間も経たないうちに、ほぼ全ての破片がつながってた。
ハンスが見たらきっと、「さすが4人の子供たち」と、また褒め称えてくれるかもしれない。
建物とか木とか、対象物の写ってる地上はまだしも、よく晴れた夏空のパズルなんて、どうなる事やらと思っていたのだけれど。
「えー?こういうのはほら、だいたい形でわかるよねえ」
すごい事をさらっと云って、さらっとやってのけるガブリエルと、
「そうそう、なんとなく並べてみたら、つながったりするよね」
天性の何かを持つJ先生のおかげで、難なく元通りにつながってた。
一番もたもたしていた僕の目の前の最後の破片をつなげると、ぶーんと低い耳鳴りのような音がして、同時に記憶の世界に音が戻ってくる。
風の音と、付近を歩く学生たちのざわめき。
暗くモノクロに沈んでいた左右や背後の映像も、音に合わせて明るさと色が戻り、動き出してた。
「臭いもなくなったなー。あいつに一矢報いたんじゃね」
右手を掲げてLが云うので、ハイタッチで応える。
確かに、あのけもの臭もすっかりなくなってる。
「お疲れ。もっと時間かかるかなと思ってたけど、意外と早かったねえ」
ガブリエルがふわりと僕らの前に降りて来て、両手を広げて僕とLそれぞれにハイタッチをする。
「うん、早かったね。パズルみたいで、楽しかったし」
ふふふ、と笑いながら、Jも降りて来て、順番に僕らとハイタッチ。
動き出した記憶では、母が父を見下ろして、
「急にごめんなさいね。その荷物、大丈夫なの」
困った笑顔のまま、そう尋ねる。
だらしないニヤニヤ笑いを少しだけ引き締めてから、父は母の方を向いて、
「これも研究棟の、別の教授からの頼まれものだからね。行き先は一緒、何の問題もないよ」
そう答えてから、もう一度ルリおばさんを振り返って、
「ルリちゃん、キクヒコに何か伝言はある?ついでに伝えてあげるけど」
そう尋ねる。
ルリおばさんは、一瞬きょとんとしたような顔をしたけれど、
「伝言、別にないよー」
どうでもよさそうに即答する。
「ああ、そうなの」
父は苦笑いを浮かべて、「どっこらしょ」と段ボール箱を抱え直して立ち上がる。
「じゃ」と2・3歩進みかけてから、父は思い出したようにふたりを振り返って、
「キョウコさんは?」と尋ねる。
怪訝な顔をする母に、
「ああ、いやその、キクヒコに伝言、ある?」
何だかおどおどしながら、父は尋ねる。
ああ、なあんだ、みたいな顔で、母は、
「ないわ」
そっけなく云う。
何故か少ししょんぼりした顔で、
「了解。じゃ」
父は云って、くるりと踵を返す。
あ、という顔を、母はしてた。
さすがにそっけなさすぎたかしら、って、その顔に書いてある気がする。
「キイチロウさん、足元、気をつけてね」
どことなく寂しそうな父の背中に、母はそう声をかける。
それに便乗するようにルリおばさんも、
「キイチロウさん、ありがとねー、気をつけてー」
ニッコリ笑って、元気に手を振る。
振り向いた父は、「お、おう」とか何とか、よくわからない事を口の中でモゴモゴ云ってた。
うれしそうに、まただらしない笑みを浮かべながら。
立ち去る父の背を見送りながら、何やらこそこそと話す母とルリおばさんの声が、すーっとフェードアウトするように遠ざかる。
映像も周囲から徐々にぼやけて暗くなり、どうやらこの記憶は、ここで終わりらしい。
「いやあ、めでたしめでたしだなー」
Lはご機嫌な笑顔で、ぱちぱちと拍手をしてる。
その手を僕は右手でつないで、左手でJの右手をつなぐ。
察したガブリエルが、Jの左手をつないでくれたので、そのまま、あのお花畑へ飛んだ。
たぶん、あのまま中にいたら、次の記憶が始まるはず。
見始めたらキリがないのは、ナガヌマの記憶で身をもって体験済みなので、ここは一時退散した方がいいかな、と思って、戻った。
「なるほどね。まあ、「切れ目」はつなぎ直せたし、初日の成果としては上々だよねー」
それは、そう。Lの云う通りだと思う。
まさか、いきなり初日で「切れ目」を見つけて、修復までできるなんて、思ってもなかった。
ピンポイントで該当する記憶を示してくれた「線」のおかげ。
もちろん、あの記憶のパズルを短時間で修復できたのは、頼りになるみんなのおかげだった。
何日か前に聞いた、ナナの予言は、当たってた。
「まあ、こういう時の為に、「4人の子供たち」が揃っておるのじゃろ。せいぜい力を合わせて励むが良い。3人寄れば何とやらと云うが、4人も居ればどうとでもなろう」
そう、ナナは云ってた。
「おやおや、あのナナちゃんにそこまで云われるとは。光栄だねえ」
ガブリエルがうれしそうに微笑む。
「それで?一気にコテージまで帰らずに、ここに戻って来たのは、この梯子の状態を見るため、だよねー」
Lが云って、ルリおばさんの梯子に近づく。
まあ、近づくまでもなく、見ただけでそれがルリおばさんの梯子だとわかる時点で、結果もわかってしまうのだけれど。
「うん。まだ元気ないねー。ちなみに「線」は、うーん、また黄色だ。しかもだいぶ上だなこりゃ」
やっぱり、1箇所つなげたら元通り、というわけにはいかなかったらしい。
背伸びして、ぐっと上を向いて、まだまだ届きそうにもなさそうにLは云う。
僕のゴーグルで見える「線」もほとんど垂直に近いような角度で、上を指してる。
「これってさー、移動しないのかね。移動というか、回転というか」
これ、とLが云うのは、梯子が、という事かな。
うなずいて、Lが梯子の縦木に触れて、ちょいと下へ引くと、梯子がうねりながらスルスルと回り出す。
おお、回るんだ、さすがL。
「いやあ、回るよね。でないと、全部を見るのに上から下まで移動しなきゃだもんね。しかも、下はこの地面の中まで埋もれちゃってるから、やっぱりこいつ自体が回転しないとねー」
ふっふー、とご機嫌な笑みを浮かべながら、Lがスルスルと梯子を回すたびに、上を指す「線」の角度がだんだん下へ下がってる。
くるくると早くも手慣れた動作で梯子を回していたLの手が、縦木を掴んでぴたりと止める。
黄色の「線」は、ほぼ水平、Lの目の前の横木を指してる。
その横木にふわりと手をかざしたLが、くるりと僕を振り向いて、
「今日はここまでにしとくか」
ニヤリと笑う。
そうだね、僕もそのつもりだったかも。
明日は運動会で、土曜日だし。
続きは明日の晩でもいいかもしれない。
「ま、明日はおまえとJにその元気があれば、でいいけどね。無理なら明後日の日曜の晩でもいいし。月曜は振替休日だろ、運動会の」
ふふんとLは笑う。
僕はそこまで、運動会に本気で取り組むつもりもないので、疲れ果てるような事はないと思うけれど。
でも確かにJは、リレーも本気で走るのだろうし。
ふふふ、とJは笑って、
「本気で、って云っても、校庭のトラック半周だから、100mだよ。だいじょぶだいじょぶ。じゃあ、続きは明日ね」
ぐっと握り拳で、ガッツポーズを作ってみせる。
Lに云われて思い出したけれど、月曜日は運動会の振替休日でお休みなんだね、ハナに教えてあげないと。
たぶん、月曜にしか学校に来ないから、運動会前後の詳しい日程なんてハナは知らないだろうし。
「だな。月曜日だーって元気に登校したらお休みだった、なんて事になったら、ハナちゃんガッカリしちゃうだろー」
それは、そう。Lの云う通りだ。明日にでも、忘れずにナナに知らせよう。
「じゃ、帰るか」
ほいっとLが僕に手を出すので、ちょっとだけ驚いた。
もちろん、コテージまでひとっ飛びで飛んで帰るために、手をつなぐ必要はあるのだけれど。
照れ屋のLが、すっと自然に手を出したから。
「おまえね、わざわざそういうコト云わなくていいから」
僕が差し出した右手と手をつないで、Lはぷいとそっぽを向く。
てっきり、照れ屋が治ったのか、だいぶ慣れてきたのかなと思ったのだけれど、そうではなかったらしい。
困った顔で微笑むJと左手をつないで、Jがガブリエルと手をつなぐのを確認して、
「はい、じゃあ、行きますよ」
声をかけて、コテージへ飛ぶ。
意識して自分で飛ぶのは初めてだったけれど、ナナと飛ぶのと一緒だった。
まばたきする間もなく、いつものコテージの前に、僕らは並んで立ってた。
できるのが当たり前なのかもしれないけれど、初めてだったので、うまく飛べてよかった。
「いいね、ほんとに一瞬じゃん」
さっとつないだ手を離しながら、Lがニッと笑う。
「うーん、確かに便利だけど、ちょっとあっさりしすぎだねえ」
ガブリエルは不満そうな苦笑い。Jもふふっと笑ってうなずいてる。
まあ、ふたりには、そうなのかも。海の上を飛んで帰る方が楽しいのかもしれない、ね。
Lはさっさと基地のドアに飛び上がって、
「じゃあまた明日なー。運動会ではりきりすぎるなよー」
はっはー、と陽気に笑って、手を振る。
そう云えば、と僕は思い出す。
Lはさっきお花畑で、2本目の横木に手をかざしてたけれど、何が見えたのかな。
それぞれの窓に向かいかけていたJとガブリエルも、気になったのか振り返ってLを見る。
基地のドアに手をかけたLは、僕を振り返って、
「ん?そりゃおまえ」
そう云って、もったいつけるみたいに言葉を切って、ニヤリと笑う。
「ふっふー、次回のお楽しみだなー」
陽気な笑顔でLは云い、ぱちんときれいなウィンクをして、くるりと身を翻すと、ドアの向こうへ消えた。

翌日の土曜日はよく晴れた秋晴れの一日で、小学校の運動会は予定通り開催され、滞りなく終了した。
最後の競技、6年生のクラス対抗リレーは白熱の展開で、アンカーにバトンが渡るまで1位はJのクラスだった。
アイのクラスのアンカーはもちろんアイで、2位でバトンを受け取ると、先行するJのクラスのアンカーを猛追する。
それでも、トラック半周の所までは、Jのクラスのアンカーの男の子が先頭だった。そのまま半周で終わりなら、Jのクラスが勝っていたのだけれど。
アンカーは、トラックを1周するらしい。
それを見越してスタミナを温存していたのか、アイは半周を過ぎた所からぐんぐんスピードを上げて、逆に力尽きたように失速するJのクラスのアンカーをあっさりと追い越して、見事に1位でゴールしていた。
さすが、恵まれた体格に加えて、日頃からバスケで鍛えたお兄ちゃんは、強かった。
Jは1位でバトンを受け取ってそのまま1位で次の男子にバトンをつなぎ、自分の走る番が終わった後、トラックの内側でしゃがみ込んで、クラスの女の子と一緒に応援をしてた。
赤いハチマキを外してそれをぐるぐる振り回しながら、大声で声援を送るJは、何だかとてもきらきら輝いて見えた。
ハルも元気に運動会に参加していて、1位でゴールしたアイの背中に飛びついて、大喜びしてた。
認識が消された影響は、僕から見た限りでは特に何もなさそうだった。
ハル自身の中では、もしかしたらまだモヤモヤする思いはあるのかもしれないけれど、少なくとも表向きは、何か思い悩んでいる風ではなかったので、僕は少し安心した。
時間が経てば、その思いも次第にあいまいになって、いずれは他のたくさんの記憶の中に埋もれていくのだろう。
それでいいのかもしれない、と僕は思う。
たぶんそれでいいのだし、きっとそういうものなのだろう。
父と母が運動会を見に来ていたので、帰りはふたりと一緒だった。
「少し早いけど、どこかで晩ご飯を食べて帰ろう」
父がそんな事を云い出したのは、たぶん、母を気遣っての事だったのだろうけれど。
昨夜、図らずも若かりしふたりの大学生時代の1シーンを垣間見てしまったので、僕は何だか気恥ずかしくて、まともにふたりの顔を見れなかった。
郊外のファミレスで早めの晩ご飯を食べて、家に帰って早々にお風呂へ入り、2階の僕の部屋へ上がる。
屋根裏を覗くと、Nがいたので、そのまま屋根裏へ上って隅のソファに座り、Nを膝の上に乗せて、少しおしゃべりをした。
「ほほう、ルリの記憶をつなげるために、アナタの海の底へ?それはまた、胸躍る冒険ですね」
ふふん、とNは鼻を鳴らす。青と琥珀色のきれいな眼で僕を見上げて、
「今夜は、ワタシもご一緒してもよろしいでしょうか。アナタの意識空間、しかもルリの記憶の中では、ワタシがお役に立てるかどうかはわかりませんが」
そう云って、小さな舌でぺろりと黒い鼻をなめる。
それは予想外だったけれど、うれしい申し出だった。
意識空間とは云え、何が起きるかわからない事もまだまだ多いし、
いつでも冷静で落ち着いた老賢者のようなNが一緒なら、僕もすごく心強い。
Lも喜ぶだろうし。
「パズルは、あまり得意とは云えませんが。それでもよろしければ」
ふふん、とNはシニカルに笑う。
パズルは、僕もあまり得意ではないけれど、他の3人がそれぞれ「天才」だからだいじょうぶ。
ふふふ、と僕も笑う。
「承知しました。もう海へ向かわれますか。まだ少し早いでしょうか」
Nが首をかしげて僕を見る。
さっき部屋で時計を見た時は、7時過ぎだったので、約束の夜8時までにはまだ少し時間があるけれど。
Nさえ良ければ、早めに行こうか。どうせ待つなら、海でのんびりのほうがいいでしょ。
そう云って、僕はNを膝の上から床に下ろして、ソファから立ち上がる。
その前に、Nのキャットフードと水の器だけ、補充して行こうと思って。
Nが床の上で僕を見上げて、ぺこりと丁寧にお辞儀をする。
いえいえ、こちらこそ。度々お世話になってるからね。
カリカリのキャットフードを補充して、水の器はキッチンへ持って降りて洗い、きれいな水を入れ直して持って上がった。
「よし、行こうか」
Nに声をかけて、屋根裏から僕の部屋へ下りる。
Nはとんとんと軽く2ステップほどで、急な梯子を軽々と駆け降りる。いつもながら、見事な身のこなしだ。
部屋の灯りを消して、ベッドに横になる。
Nが枕元にひらりと飛び乗って、その鼻先が僕の鼻の頭に触れる。
ぐるんと視界が回るようないつもの感覚がして、僕はNと並んでテラスの前に立ってた。
一連の流れが、ずいぶんスムーズで、我ながらだいぶ慣れてきたかな、と思う。
「喜ばしい限りです」
ふふん、とNが鼻を鳴らして僕を見上げる。
手を伸ばすと、軽くジャンプして、Nが僕の腕に飛び込んで来る。
そのまま両手でNを抱えてテラスの階段を上る、と、
「おや、これは」
Nが可笑しそうに、ふふんと鼻を鳴らす。
ふわりとオレンジの海のやさしい風が吹いて、白に近い金色の長い髪がふわふわと揺れてる。
Lが、テラスの椅子で眠ってた。
いつの間に来てたのだろう。貝殻の風鈴は、鳴らないという事はないはずなので、たぶん、僕が気づかなかっただけなのだろうけれど。
僕がお風呂に入ってる時とか、かな。それとももっと前から来てたとか。
テラスの椅子にもたれて、腕組みをして、Lはすやすや眠ってる。
その寝顔が、一瞬、お屋敷の天蓋付きのベッドで眠っていたあの時のLの青白い寝顔と被って、僕はどきっとする。
もちろん今は、青白くはなくて、柔らかそうなほっぺたは、健康的なほんのりピンク色だけれど。
「ん・・・おまえ」
聞こえたのかな、Lの口からつぶやくような声がして、きれいな青い眼がうっすらと開く。
ふっふ、寝ぼけまなこで僕を見て、
「誰のほっぺが、何だって?・・・んー、それ、セクハラ?ぎりぎりかもね?」
Lは楽しそうに笑ってる。
ほっぺもセクハラなの。それじゃ迂闊に何も云えないね、と思う。
「いやあ、知らねーけどなー」
ふわあ、と大きく伸びをして、Lはむくっと椅子の背もたれから体を起こす。
「昨夜、ってか、明け方?まで、ちょっといろいろやっててさー。寝坊して遅刻とかかっこわりーかなーと思って、ここ来て寝てた」
ふふん、と笑う。
明け方にここへ来て、そのまま1日中眠ってたの。その、テラスの椅子で?
奥にソファもあるのだし、どうせならそっちで寝たらいいのに。
「あーね、それ思った。途中で何度か目を覚まして、ソファ行こかな、って思って、また寝てたねー」
はっはー、とLはどうでも良さそうに笑い飛ばす。
まあ、意識空間だし意識体なので、どこでどんな格好で寝ようと、休めるのかもしれないけれど。
体の方は、きっと部屋のベッドで眠ってるのだろうし。
「いやあ、どーかなー」
Lはニヤリと意味深に笑って、
「いま何時?もう出発の時間になるの」
そう尋ねるので、僕は首を横に振る。
僕が早めに来ただけで、まだ7時半前だと思うから、出発までは30分くらいあると思う。
「ふーん。じゃあ、一度戻って、風呂入る時間くらいはありそーだなー」
そう云ったLが、はっと息を飲んで、青い眼を大きく見開いたので、僕の方がびっくりする。
どうしたの。何か急用を思い出した?
「違う、おまえ、何を大事そうに抱えてんのかと思ったら、ネコチャンー?!」
ハスキーボイスがうわずって、Lは椅子から飛び上がるなり、僕に駆け寄り、さっと僕の腕からNを奪い取る。
「ネコチャンネコチャン来てたのネー。今日もカワイイネーカワイイネー」
そうだった。これはいつものことなのだけれど。
テラスでLが眠ってるという、ちょっと非現実的な状況にかまけて、すっかり忘れてた。
「おはようございます、L。今日もご機嫌ですね」
ものすごい勢いで頬ずりされながら、Nは気にも留めない様子で淡々と云う。
「ゴキゲンゴキゲンー、ネコチャンに会えたからさらにゴキゲンだネー」
2オクターブほど跳ね上がった裏声でLは云って、Nの頭に顔を擦り付けてる。
喜んでもらえて何よりだけれど、L、さっき、今からお風呂に入るって云ったの。
明け方から眠ってたのなら、今日はどこにも出かけてないんでしょ。
意識空間だし、お風呂は、「記憶」の探索から戻った後でもいいのでは。
そう心の声で云ったら、
「おまえねー」
Nの頭に顔を半分うずめながら、Lは僕をにらむ。
「そーいうコトばっか云ってると、またナナちゃんに怒られるぞー。「デリカシーじゃ」ってねー」
デリカシー
確かにその単語は、何度かナナに云われた気がする。
たぶんそのデリカシーとやらが僕には足りないか欠けていて、何と云うか、ちょっと失礼な感じなのかな、とは思ってたけれど。
「はい。繊細な配慮や気遣い、そんな意味の言葉ですね」
淡々とNがそう教えてくれて、だから余計に、僕はわりとショックだったかもしれない。
繊細な配慮や気遣いが、僕にはない、ああ、なるほど、確かにないのかもしれない。
当たっていただけに、ショックだったのだと思う。
「まあでも、Jに云わせると、おまえのそーいうとこが「素直でかわいい」らしいけどなー。オレも別に、悪いとは思ってねーけど」
はっはっはー、と何やら豪快に笑い飛ばしながら、Lは両手で抱えたNを僕にふわりと渡して、
「んじゃ、風呂入ってくるわー。ネコチャンまたネー」
Nの鼻先をちょんちょんと軽くつついて、ひらりとテラスから飛び降りる。
そのまま振り返りもせずに基地のドアに飛び込んで、Lは姿を消した。
まるで嵐のような、という形容が頭に浮かんで、ちょっと違うかなと思う。
もしLが嵐なら、ずいぶん陽気で楽しい嵐だ。
ふむ、と僕に抱えられたままNが首をかしげて、
「Lは、「お日さま」や「ひまわり」のような印象が、ワタシにはあります。実際の天体としての太陽、植物としての向日葵ではなく、イメージとしての「お日さま」や「ひまわり」でしょうか。温かく、明るく、朗らかです」
そう云うのを聞いて、妙に納得だった。さすが、N。
「いえ。単に印象を述べただけですので、アナタに褒められるような事は、特に何も」
そう云ってNは謙遜するけれど、いやいや、とてもNらしい客観的かつ詩的な表現だと思う。
テラスの椅子に腰掛けながら、ふと気になったので、じゃあ、ガブリエルは?と僕は尋ねる。
「さて」
僕の膝の上で、Nはまた首をかしげて、云う。
「あくまで印象だけで云えば、ガブリエルは「雨」でしょうか。この海に降るような、明るく柔らかな雨ですね。どこか少しだけ寂しげで、いつも何か物思うようなところも、「雨」の雰囲気がある気がします」
ああ、わかる、ような気がする。
なんとなく、捉えどころがないところとか、いつも穏やかで優しげな笑みを浮かべてるところも、この海に降るオレンジの雨に似てるかもしれない。
ふふん、とNが鼻を鳴らして、僕を見上げて、
「この流れで行くと、次はJなのでしょうが、先に云わせていただくと、彼女は、わかりません」
あっさりと降参するみたいに、そう云った。
Jは、わからない?
付き合いが短いから、という事ではないよね。
Nと僕らの付き合いで云えば、僕とガブリエルが少し早かっただけで、LもJも同じ頃だったはず。
Nはぺろりと鼻をなめて、
「質問を質問で返すのはタブーだそうですが、あえてお尋ねします。アナタは答えられるのでしょうか、Jのイメージを」
そう云って、眼を細めて、僕を見る。
表情は、相変わらずよくわからないけれど、N、もしかして笑ってる、のかな。
Lみたいに、ニヤニヤしてる?そんなふうに見えたわけではないのだけれど、なんとなく、そんな気がした。
「さて」
Nは素知らぬ顔で、僕の返事を待ってるらしい。
Jの印象。イメージ?
そう考えて、お庭の風景が頭に浮かんだ。
Jの意識空間のお庭と、Jの家、ホタルが丘教会のお庭。
緑の生い茂る、きれいな芝生と花壇のあるお庭。
そこに佇むJは、あのパーティの時のドレスを着てる。紫とグレーのきれいなグラデーション、裾にレースのお花模様のある、ドレス。
腰に付いてる大きなリボンが、妖精のようにふわりと揺れる。
何故かJは今より背が高くて、髪が長い。黒くてまっすぐなさらさらの髪が、腰の辺りまである。
そしてそのドレスの肩には、1羽のカラスが止まってる。クロちゃんよりも一回りは大きそうなそのカラスの眼が、赤くきらりと光る。
まるで、森に棲む魔女、みたいな。
そんなイメージが、一瞬、僕の頭の中で閃いて、すぐに消えた。
今のは、何?
妄想のイメージにしては、妙にリアルで、ディテールも細かかったような気がするけれど。
固まってしまった僕を、Nが怪訝そうに見上げてる。
その時、からからと、砂浜の貝殻の風鈴が鳴って、僕は思わず身をすくめるほど驚いた。
「あれ、K?今日も早いね」
魔法の声に振り返ると、お庭の窓からふわりとJが降りて来る。
もちろん、ドレスではなく、いつもの小学校の制服姿のJが。
「どうしたの?またそんな驚いた顔して」
テラスの入り口で「お邪魔します」と律儀にお辞儀をして、Jが僕に近づく。
「あ、Nちゃんもいたんだ。こんばんはー」
にっこり微笑んで、Nに小さく手を振って、Jは僕の隣の椅子を引いて、座る。
「K?固まってるの。Nちゃん、Kはどうしたの」
Jが不思議そうな顔で、Nにそう尋ねる。
NはJを見て、困ったように小さく肩をすくめて、僕を見る。
「キクタ」
Nにそう呼びかけられて、僕ははっと息をつく。
「隠し立てするような事でもありませんし、Jにお話しても?」
ああ、そうか、それはそう。
固まったまま黙り込んでるなんて、Jも困ってしまうよね。
僕がNにうなずくと、NはJの方を向いて、
「先程、ワタシとキクタがここへ来ると、Lが眠っていたのです。夜明かしをして、明け方にここへ来て、そのまま寝ていた、とかで・・・」
そう云って、さっきの話を淡々とJに話してくれた。
Jは何だか楽しそうな顔で、
「Lのイメージが「お日さま」「ひまわり」で、ガブリエルが「雨」かあ。Nちゃん、詩人だねー」
ふふふ、と笑う。
「で、わたしのイメージがNちゃんにはわからないから、Kに聞いてみた、そしたら、Kが固まった」
「はい」
Nはうなずいて、
「ほんの暇つぶし、戯れの言葉遊びのつもりだったのですが、キクタには存外、深いテーマだったようです」
そう云って、僕を見る。Nは、困った顔、をしてるのかな。ネコなので、よくわからないけれど。
ふむー、とJがあごに人差し指を当てるいつものポーズをするので、僕は慌てる。
いや、ごめん、本当に、ただ固まってただけで。
お庭のイメージが浮かんだのだけれど、「お日さま」とか「雨」みたいな明確な言葉が思い浮かばなくて。
だからって「お庭」っていうのも何だか違うし。
「なるほどー」
Jはふむふむとうなずいて、
「わかるかも。だって、じゃあKのイメージは?って聞かれたら、わたしも、うーんって固まる気がする。Nちゃんの「お日さま」とか「雨」とかが、上手すぎるから、余計に悩んじゃうよね」
ふふふ、と魔法の声で笑う。
「ははあ」
困ったように、Nは鼻でため息をついて、
「お褒めに預かり光栄です。勿論、ただのネコであるワタシに詩人の才などあるはずもなく、単なる偶然の産物なのですが。キクタが固まったのは、ワタシの所為だったのですね」
申し訳なさそうに、肩をすぼめてる。
いやいや、違うよ。Nは何にも悪くない。
僕の想像力が、何というか貧困なだけで。詩的な趣きだとかそういうのも全然わからないし。
「おや、ふたりとも、早いねえ」
そう、ガブリエルの声がして、からからと貝殻の風鈴が鳴る。
「ボクが一番だと思ったんだけどなあ。もう何か盛り上がってるの」
くすくすと楽しそうに笑いながら、ガブリエルがひらりと砂浜に飛び降りて、テラスに上がって来る。
「あ、Nもいたんだね。それで、何をそんなに楽しそうに話してたの」
Jの隣の椅子に座って、ガブリエルがそう尋ねる。
「実は・・・」
僕は、さっきLがここで寝てた事から、Nが語ったLとガブリエルのイメージ、そしてJのイメージを問われて僕が固まったところまでをガブリエルに説明する。
「へえ、それはまた、面白そうなテーマだねえ」
いつものやさしい笑みでガブリエルは云って、あごに手を当てる。
「その流れで良ければ、ボクにはJとKのイメージが云えるよ。聞きたい?」
そう云って、いたずらっぽくガブリエルは笑う。
Jが僕を見て、肩をすくめて苦笑する。
「云いたいんでしょ、どうぞ云って」
Jはそう、ガブリエルにお約束のフレーズを口にする。Lの時のようにうんざりした顔はしなかったけれど。
「ありがとう」
ふふふ、とガブリエルは笑って、
「Jはね、「お月さま」かな。ミカエルの「お日さま」との対比でもあるけど、実際、いつでも賑やかなミカエルを、常に一歩引いたところで静かに見てるよね。そして時々、みんなが驚くような天才発言をさらりとする。まるで、満月の「お月さま」が静かに煌めくみたいにね」
そう云うのを聞いて、これまた納得だった。
お月さま、確かにそうかもしれない。
「見事ですね」
Nも感心したようにうなずく。
Jは頬を赤く染めて、
「いやあ、そんな、あはは・・・」
顔の前で手を振って、しきりに照れてたけれど。
そして照れ隠しみたいに、Jは細くて長い人差し指でビシッと僕を指して、
「じゃ、じゃあ、Kは?」
そうガブリエルに尋ねる。
ガブリエルは、ふふん、とNみたいに鼻を鳴らして、
「この流れで行くと、Kは「お空」だよね。ミカエルの「お日さま」も、Jの「お月さま」も、ついでにボクの「雨」も、全部を包み込んでる大きな「お空」。この「オレンジの海」と同じでね、広くて、大きくて、安心する。そんな「お空」だね」
そう云って、いつものやさしい笑みを浮かべて、僕を見る。
いや、まあ、イメージの流れ的には、すごくきれいにまとまってて、さすがガブリエル、と思ったけれど。
でも、僕が「お空」というのは、ちょっと無理があるのでは。
確かに、アルカナのつながり的には、王なのでこの「海」は広いし大きいけれど、それは僕の、と云うより、先代キクタのものだし。
「いや、お見事です。さすがですね」
Nは満足げにうなずいて、ぺろりと鼻をなめてる。
「うんうん、ガブリエルも詩人だねー、すごいきれい」
Jはうれしそうに、ぱちぱちと拍手してる。
うん、まあ、そうだよね。
Jの云う通り、ガブリエルにも詩人の才能があるというのは、間違いない。
Nの云う「言葉遊び」が、きれいにまとまった、という意味でも、ガブリエルが本日のMVPなのかも。
「ネコチャンお待たせー!」
元気なハスキーボイスと共に、勢いよく基地のドアが開いて、からからと貝殻の風鈴が鳴る。
Lがそのままドアを蹴ってジャンプして、テラスまで飛んで来たので、僕はびっくりした。
「ネコチャンネコチャンーカワイイネー」
Lは僕の膝の上からひょいとNを抱き上げると、甘ったるい声でそう云って、顔を擦り付けてる、けれど。
いま、L、飛んでたよね。
Jとガブリエルを振り返ると、ふたりも口をぽかんと開けて、驚いた顔でLを見てる。
昨日、あれだけ飛ぶのを怖がってたくせに。
「え、何が。飛んだって、この距離でしょ。下にちゃんと地面もあるし」
Nの小さな頭に顔をうずめたまま、Lはそう云って僕をにらんでる。
地面もあるって、そういう事?Lは足場のない所で飛ぶのが怖かったの。
確かに昨日は、海の上だったり、海の中だったりもしたけれど。
まあ、ゴールにNがいたのが、さっき飛んだ一番の理由なのだろうけれど。
「いやあ、おまえだって、ゴールでハナちゃんが待ってたら迷わず飛ぶでしょ」
ニヤリとLは口の端を上げて笑う。
それは、まあ、飛ぶかな。
ハナの場合、向こうから飛んで来そうだけれど。
そう云ったら、Lはちらっと僕をにらんで、
「あーね。ほんとにおぬし、あー云えばこー云うジジイじゃの」
ナナの真似をしてふんと鼻息を吐いて、ぷいとそっぽを向く。
え、なんでなの。どうして僕が悪いみたいになってるの。
Lに顔を擦り付けられながら、Nが僕を見て、
「まさにナナと一緒です。じゃれているのですよ」
そう云って、眼を細めて笑う。
Lのそれは、じゃれてるのかもしれないけれど、じゃあナナもそうなの。
いや、それはないのでは。あんな凄みのある怖い顔でじゃれてるって云われても、ちょっと信じられないと云うか。
「いやあ、案外そうなのかもねえ」
ガブリエルまでそんな事を云って、楽しそうに笑ってるけれど。
「うん。なんだかんだ云って、仲良しだよね。Kとナナちゃんって」
Jまで魔法の声でそう云うので、僕はもう何も云えなくなる。
仲良しなのかな、ナナと。まあ、仲悪くはないと思うけれど。
「さてどーかなー、「キクタ」の記憶が楽しみだよねー」
そう云って、Lが右手でNを抱いて、
「よーっし、じゃあまずはルリちゃんの2回戦、行ってみよーかー」
ニヤリと笑って僕に左手を出す。
そうだね、じゃれて遊んでる場合じゃなかった。
Jとガブリエルも席を立って、僕とLに並ぶ。
僕はLと右手をつないで、左手をJとつなぐ。
Jがガブリエルと手をつなぐのを確かめて、
「じゃあ、行きますよ」
声に出して云う。
「しゅっぱーつ」
Lの元気な掛け声とともに、僕らは一瞬で、海の底の白いお花畑へ飛ぶ。
「これが、この「海」の底ですか。何とも不思議な景色ですね」
Lに抱かれたNが一面の白いお花畑を見渡して、感嘆の声を上げる。
それから周囲をぐるりと囲むらせん状の梯子を見て、
「そして、この梯子状の構造物が、記憶の保管庫」
ふむー、とうなってる。
そうだよね、僕もいまだにちょっと信じられない思いはあるかも。
Lが僕の手を離して壁際にずんずん進むので、僕もゴーグルを「線」モードに切り替えて後に続く。
黄色の「線」が示す梯子の横木に、Lが手をかざす。
「昨日もちらっと「予告編」見たけど、実は暗くてよくわかんなかったんだよなー」
Lはそう云って、首をかしげてる。
暗くて?夜の記憶、なのかな。
Lに並んで、僕も横木に手をかざして、思わず反射的に、手を離した。
ちらっと見えたのは、黒い鉄の床と、そこに差す斜めの刃物のような細い光。
冷たい鉄の床、白い息、舷を叩く波の音、いや違う、それは夢で見た記憶。
いま見えた予告編では、音は聞こえないし、床が冷たいのもわかるはずはない、けれど。
「K、どした?」
Lが怪訝そうに、僕の顔を覗き込む。
これ、行かないとダメだよね。
それはもちろんそう、黄色の「線」が指してるのだから、昨日と同じように、この記憶にも「切れ目」があるはず。
だけど。
無意識に、僕は振り返ってJを見てた。
ガブリエルと手をつないだJが、不思議そうに首をかしげて僕を見る。
うつむいて、僕は口を開く。
「この記憶、僕は、夢で見た」
絞り出すような僕の声は、かすれて消えそうだった。
「ほう、それで?」
Lが僕に続きを促す。眼帯をしてない方の青い眼を細めて、何かを考え込むように、じっと僕を見る。
「暗くて、寒い船底の倉庫みたいな場所に、3~4歳くらいのルリおばさんと、他にも同じくらいの子供が4人、閉じ込められてた。ウィリアム・ホワイトに、レムナント化した、あいつに・・・」
情けないくらいに声が震えるのは、別に、あいつが怖いからじゃない。
あいつの乾いた笑い声が、今も耳に残ってる。
あいつに物みたいに髪を掴まれて、その手を離され、鉄の床に、ごつんと落ちたあの男の子の頭の音も。
「ごめんな」という幼いキクヒコさんの心の声、
そして、「おにいちゃん」と囁いた、消え入りそうな小さなルリおばさんの声。
「まーたおまえは、そーやってひとりで抱え込んじゃってー」
陽気な声とともに、Lに頭をチョップされた。
顔を上げると、きれいな青い眼がやさしく僕を見て、
「まあね、たまたま夢で見ちゃった「その記憶」が、まさか「切れ目」の大当たりだとは思わねーよなー」
チョップした僕の頭を、くしゃくしゃっと雑になでて、Lは、
「だいぶ辛そうだけど、J、どーする?がぶちゃんも?まあ、聞くまでもねーと思うけど」
ふふんと笑って、Jとガブリエルを見る。
「うん、だいじょうぶ。行こう」
Jの魔法の声がそう云って、僕は思わず、Jを見る。
胸の前でぎゅっと両手で握り拳を作って、Jが僕にうなずいてる。
そうだよね、「聞くまでもねー」って、Lが云う通りだ。
辛い記憶だと聞いて、Jが「じゃあやめとく」なんて云うはずがない。それは、僕にもわかってた。
ガブリエルも、そう。
「うん。まあ、心配性のお父さんとしては、できればボクらに見せたくなかったんだろうけどね。でもそれが「当たり」なら行くしかないよねえ」
ふふふ、とガブリエルがいつものようにやさしく笑う。
右手にNを抱いたまま、Lが左手でがしっと僕の肩を組んで、云う。
「おまえもさー、そーいうのちゃんと云いなさいよ。ひとりで抱えてないで。こんな夢見ちゃった、つらかった、むかついた、ホワイトあのやろー許せねー、とかね。ちゃんと云いなさい?ただの愚痴でも何でもいいんだから。なんでおまえひとりでそれを溜め込もうとするの。前にも云った気がするけど、ってか、云ったけど、ぜんぜんわかってねーみてーだからもっかい云うけど、おまえは、一番ちびっ子なんだからなー。何も無理する必要はねーし、我慢もしなくていーの。わかった?」
いつものLの声で、けれど淡々とそう云われて、いつもよりもさらに説得力があるなと思う。だから、
「うん、ごめん」
僕は素直に、Lにぺこりと頭を下げる。
「まあオレも、つい忘れがちなんだけどね、おまえがちびっ子だって事。だからさ、もっとちびっ子アピールした方がいいと思うぜー。「ぼくわかんない」とかさ、「ぼくできないもん」とかね」
ニヤニヤしながらLがそう云うと、ガブリエルが吹き出して、
「ええ、それはちょっとイヤだなあ。そんなのKじゃないでしょ。Jだってイヤだよね?」
そうJに振る。
「え、わたし?んー、わたしは別に、たまにはいいと思うけどな。ほら、ナナちゃんにガツンと云われて、たじたじになってるKとか、かわいいなあって思うし」
Jは魔法の声で、しれっとそんな事を云う。
そうなんだ。
意外な事を聞いた気がして、ちょっと驚いた。
ははあ、とガブリエルは何やら納得した顔で、
「へえ、女の子って、そうなんだ。そういうちょっと頼りない所が、かわいいーってなるの。ふーん、なるほどねえ。じゃあNは?Nは男子だから、そんなKはイヤだよね?」
今度はNに振る。
まさか自分に振られるとは思ってもいなかったのだろう、Nは眼を丸くして驚いて、
「ワタシですか。ふむ、ワタシは・・・、そう、ですね。ガブリエルの云う通り、それはキクタらしくはない、と思うかもしれません」
難しい顔で、首をかしげながら、律儀に云う。
ふと思い出したのは、初対面のNに云われた言葉だった。
「アナタは本当に「キクタ」なのですか」
あの時の僕は、きっと「キクタらしくはなかった」のだろう。
「だよねえ」
男の子チームの意見がまとまって、ガブリエルは満足げにうなずいてる。
「まあでも、それはともかくね」
ガブリエルは、くるりと僕の方を向いて、云う。
「ルリさんの記憶をつなげる、そのために、彼女の記憶に潜る、って決めた時点で、辛い子供時代の記憶に当たる可能性は、みんな考えて覚悟してるでしょ。Kだって、そうでしょ。覚悟はしてた、でも実際にそれを夢で見てしまった。それは、辛いよね。そんな辛い思いを、みんなにはさせたくない。知らせずに済むのなら、知らないままで終わった方がいい、そう考えたのも、わかるような気がするよ。でも、ミカエルの気持ちもわかる。話で聞くだけじゃ、実際に見たKの辛さは、半分もわからないかもしれないけど。でも、一緒に悔しがる事はできるよね。ホワイトを許せない、ってKと同じ気持ちになる事はできる。実際にそれで、ボクらにあいつをどうにかできるのかっていうのは、また別の話でね」
それは、そう。ガブリエルの云う通りだ。
みんなには知らせたくない、辛い思いをさせたくない、っていうのは、ただの僕のエゴ、自己満足でしかないのだろう。
「でも、ルリさんの記憶を直して、つなげられる、でしょ。それが、わたし達にできる事、だよ」
ぴこん、とJが人差し指を立てて云う。魔法の声が、いつでも僕に勇気をくれる。
ふふん、とLが鼻を鳴らして、
「覚悟はいいみてーだなー。んじゃ、行くかー」
僕の肩を、ぽんと叩く。
うん、行こう。
うなずいて、僕は黄色い「線」の指す灰色の梯子の横木に触れる。
ぐにゃりと梯子が歪んで、アーチ状に開く。
その向こうには、冷たい闇と、潮の匂い。かすかに、水音が聞こえる。
右手にNを抱いたLが、左手で僕の右手をつないで、灰色の梯子のアーチをくぐる。
Jとガブリエルも手をつないで、Jのほんのり冷たい右手が僕の左手をにぎる。
ふわりと僕らは浮き上がって、闇の中へと進む。
背後でアーチが閉じると、暗い鉄色の闇に辺りは覆われる。
天井の隙間から、青白い光が、冷たく黒い鉄の床を細く斜めに切り裂いてる。
あの夢と違うのは、僕は今、ゴーグルを付けてる。
だから、暗い船底の小部屋の様子が、見えた。
お世辞にも清潔とは云い難い、注射器や、何かの破片や、何だかわからないゴミの散乱した床の上に、小さな子供がふたり、横たわっている。
ふたり?
僕が夢で見た記憶では、ルリおばさんの他に4人、全部で5人の子供がいたはず。
「ふたりです、キクタ。ワタシの眼でも、ふたりしか見えません」
Lの腕に抱かれたまま、注意深く辺りを見渡していたNが云う。
それならこれは、あの夢で見た記憶とはまた別の記憶。
他の3人は、どこかへ連れて行かれたのだろうか。
僕はもう一度、横たわるふたりの子供に目を凝らす。
手前にいる小さな子が、たぶんルリおばさん。
その向こうにいるのは、キクヒコさんかもしれないし、別のクローンの子、なのかもしれない。
おなじ白い髪、白い肌なので、キクヒコさんかどうかの判別は、僕にはできなかった。
ふたりとも、横向きに体を丸めてこっちを向いているけれど、眼を閉じて、眠っているように見える。
かすかな寝息が聞こえて、胸が痛くなる。
Jがガブリエルとつないでた左手を離して、その手で口元を覆って下を向く。
「暗くてよく見えねーとは云え、これはキツイな」
心の声で、Lがぽつりとつぶやく。
「うん」
うつむいて、眼を閉じたJが小さくうなずく。
ガブリエルは腕組みをして、じっと横たわるふたりの子供を見つめている。唇をぎゅっと噛み締めて、決して眼を離すまいとするみたいに。
眼を閉じた小さなルリおばさんが、ため息のように大きく息を吐いて、白い息がふわりと闇に浮かんで、すぐに消える。
僕は、奥歯をぐっと噛み締める。知らずに力がこもってた、JとLとつないだ手の力をゆるめながら。
その時、外から物音が聞こえて、幼いルリおばさんが薄く眼を開く。
眠ってはいなかったらしい。
外の音は、足音だろうか、近づいて来たそれが止まると、がしゃがしゃと金属の鎖を解くような大きな音がする。
すぐにガラガラと鉄の引き戸が乱暴に開けられて、青白い外の光が、船室に差し込む。
「いたぞ、子供だ」
男の声が云う。日本語で。ホワイトじゃない?
「ふたり、だけか」
別の男の声が答えるように云って、くっと悔しげな息を漏らすのが聞こえた。
黒い影になったその男たちの顔は、僕には見えない。
大人の男の人、ふたりとも日本人みたいだった。
「これは」
つぶやくように云ったのは、Nだった。
「キクタです」
その声に、僕は反射的に記憶の再生を「一時停止」する。
「おじいちゃん?」
Lが云って、すっと浮いたままふたりの人影にぐいっと近づく。
手をつないだ僕とJも、Lに引っ張られるように、ふたりの前へ移動する。
ひとりは、大柄な中年の男性だった。着流し、というのだろうか、時代劇かヤクザ映画に出てくるような、和服を着た、髪の短いおじさん。
もうひとりは、深緑色の、軍の作業着を着た初老の男性で、白髪交じりの長い髪を後ろでひとつに束ねて、あご髭を生やしている。
不意に、ハナの声が脳裏によみがえる。
「キクタ、おヒゲ、ないねー」
あご髭がある
じゃあ、この人が、キクタ?
「はい」
Lに抱かれたNが、あっさりとうなずく。
心なしかうれしそうなのは、久しぶりにキクタの姿を見れたから、なのかな。
「じゃあこれ、もしかして、救出の時の記憶か?うわ、すっげーな、鳥肌立っちゃった」
Lがそう云って、青い眼をまんまるにして僕を見る。
確かに、そうなのだろう。
キクタがこの場所へ来るという事は、ふたりの子供を助けに来た時、それに違いない。
偶然にしても、出来すぎな気がするけれど。
あるいは、「切れ目」のある記憶は、何か本人にとっても大切な、意味のある記憶だったりするのかも。
ひとり、僕らと少し離れて、和服のおじさんをじっと見つめていたガブリエルが、
「ねえ、このおじさん、誰かに似てない?」
僕らの方を振り向いて、そんな事を云う。
云われて、僕らも近寄って、和服のおじさんをまじまじと眺めてみる。
よく見れば、本当にヤクザなのかもしれない。
和服の帯、左の腰に匕首、と云うのかな鍔のない短刀を差していて、顔の右の額から頬にかけて、古い刀傷のような傷痕がある。
体も大きくがっしりしていて、見るからに強そうな、ちょっと怖い感じのするおじさん。
目付きも鋭くて、尖ったあごに無精髭をまばらに生やしてる。
じっと眼を細めて、何か遠い記憶を探るように和服のおじさんを見上げていたNが、はっと息を飲んで、
「思い出しました。スズキの親分、と呼ばれていた方です。市内の、キクタの協力者のひとり、でした」
淡々と、そう告げる。
スズキの親分
やっぱり、ヤクザなのかな。
「キクタ」の市内の協力者って、ヤクザの親分だったの。
まあ、確かに、頼りにはなるのかもしれないけれど。
この時も、荒事になる可能性も考えて、一緒に連れて来たのかな。
そんな事を考えていたら、
「あ!」
Jが突然大声を上げるので、びっくりした。
人差し指をぴこんと立てて、Jは僕を見る。
「スズキの親分って、もしかして、Kのお父さんのお父さんとか、じゃない?」
僕のお父さんのお父さん
スズキキイチロウのお父さん?
それなら、僕のおじいちゃん、って事?会った事はないけれど。
「あー、似てる似てる。確かに、きりっとしたキイチロウさんって感じじゃね」
はっはー、とLは目の前で大笑いしてる。
まあ、親分からは見えてないので、いいけれど。
きりっとしたキイチロウさん、というのも、正直なLらしいけれど、なかなか手厳しい。
確かに父は、少しも「きりっ」とはしてないので。
それにしても、そんな偶然、あるのかな、と思う。
スズキなんて、よくある名字だし。
「すげーじゃん、おまえのおじいちゃん、ヤクザの親分だったの」
Lにそう云われ、あらためて考える。
そう云えば僕は、父の父にも母にも、つまり父方の祖父にも祖母にも、これまで会った事がない。
そもそも父が、親戚付き合いとかそういうものをまったくしない人なので、父に兄弟姉妹がいるのかどうかも知らない。
父がそれをしないのは、実は家がヤクザで、お父さんがその親分だったから、なの。
それに、スズキの親分、そんなに父に似てるの、かな。
考えてみれば、うちの父が怖い顔をしてるところなんて、たぶん僕は一度も見た事がない気がする。
いつも何だかふにゃっとした、力の抜けたような顔をしてるから。
だから目の前の、見るからに怖そうなスズキの親分に、父の面影は、ぱっと見では、見当たらないように思ってしまうけれど。
云われてみれば、眼の細いところとか、顔の輪郭とか雰囲気は、似てると云えば似てる、ような気もする。
ともあれ、あの夢の記憶かと思って気負っていたのが、キクタとスズキの親分の登場で、すっかり毒気を抜かれてしまってた。
どうなる事かと見守るしかなかったところへ、思わぬ味方が現れたので、安心した、というのが、正直なところかもしれない。
これが本当に救出の時の記憶なのだとしたら、だけれど。
「うん、まあ、そーね。とは云え、「見守るしかない」ってところは変わらねーけどな」
Lはそう云って、苦笑する。
うん。続きを、見守ろうか。
うなずいて、みんなを見る。みんながうなずくのを確認して、僕は記憶の一時停止を解除する。
キクタが素早く船室に入って来て、冷たい鉄の床に横たわるふたりの子供の様子を確認する。
「だいぶ弱ってるが、ふたりとも息はある。この子は、意識があるのか。お嬢ちゃん、だいじょうぶか」
キクタの問いかけに、ルリおばさんは何も答えない。
ぼんやりとうつろな眼で、自分の顔を覗き込むキクタの眼を見つめてる。
後ろを警戒しながら、船室に入って来たスズキの親分が、もうひとりの子供の傍に片膝をついて、
「こんな小さな子を、こんな所に物みてぇに閉じ込めやがって」
歯噛みするように、云う。
それから、くるりと室内を見渡して、
「どうやらここは、ふたりだけだな。どうする、旦那」
そう、キクタに声をかける。
キクタは親分を振り向いて、
「まずはこのふたりを、安全な場所へ運ぼう」
そう云って、まるでこわれものでも扱うみたいに、そっとルリおばさんを両手で抱き上げる。
「よく頑張った。よく、生きててくれたな」
うつろな眼で見上げるルリおばさんに、キクタは囁くように云う。
もうひとりの子供を、スズキの親分が抱き上げようと手を伸ばした、その時、
「******!****!」
遠くから、何か喚くような声が聞こえた。
活舌の悪い声、ウィリアム・ホワイトだろう。
「酷い発音だけど、英語だね。「何で扉が開いてる、誰が開けたんだ」って云ってる」
Lが何か苦い物でも噛んだような顔で、そう通訳してくれた。
僕らは、さっき入り口に立ってたキクタたちの傍へ移動していたので、彼らが室内へ踏み込んでからも、そのまま入り口の壁際にいた。
この船はどうやら座礁したか故障したのかで、浜に打ち上げられて放置されたものらしい。
開いた扉の外に、あるべき船の内部はなく、折れたような船体のすぐ外は、岩だらけの浜辺だった。
その岩の間を、ホワイトがわめき散らしながらこちらへ向かって来るのが見えた。
ちっ、と小さく、スズキの親分が舌打ちして、身をかがめながら扉の脇に張り付いて、外の様子を窺う。
「何だ、ありゃあ」
親分がそう呟いたのは、ホワイトの異様な姿のせいか、あるいは月明かりに照らされた、レムナント特有の黒い肌を見たからかもしれない。
「旦那、そこにいてくれ。相手はひとりだ。銃を持ってる」
振り返らずに親分がそう云うので、僕はあらためてホワイトを見る。
確かに、親分の云う通り、ホワイトは右手に拳銃を握り締めていた。
「わかった。殺さないでくれよ」
キクタがそう云うと、親分は肩をすくめて苦笑する。
「あれが噂のH・Oとか何とかって云う、狂った科学者かい?確かに、おつむの方はあまりマトモにゃ見えねえな」
そう云って、親分は少し身を引きながら、腰の匕首に手をかける。
「さて、どうかな」
つぶやくように云うキクタは、H・Oの噂と真相を、どこまで知っているのだろう。
「****!***!ナンバー・ツー!」
呂律の回らないような口調で叫びながら、ホワイトは岩場を駆けて来る。
「あー、「逃げたのか、子供、2号」って、キクヒコの事か?」
Lがそう通訳して、首をかしげる。
たぶん、そう。あの記憶の夢で、ルリおばさんをじっと見つめてた白い子供、2号。彼がキクヒコさん。
逃げたのか、というのは、どういう意味なのだろう。
あんなに弱った小さな子供が、自力で鉄の扉と鎖の錠を破って、逃げられるはずがない、とは思わないのかな。その程度の判断もできないほど、壊れてしまってるのか。
ホワイトは、船の扉にたどり着くと、足を止めて戸口に立つ。
銃を構えるでもなく、室内を警戒するでもなく、長身を折り曲げるようにして、船室を覗き込む。
ひゅっと風を切るような音がして、スズキの親分の匕首が抜き放たれる。
一瞬、何が起こったのか、僕にはわからなかった。
ガブリエルが素早く反応して、Jの視界を手のひらで塞ぐのが見えた。
体のバランスを失ったように、ホワイトが後ろに倒れるのがスローモーションみたいに見える。
けれど、ホワイトの左足の膝から下は、その場にまっすぐ立っていた。
膝から下の、足だけがそのまま。
どうやったのかは全く見えなかったけれど、親分が匕首で切ったらしい、ホワイトの左足を。
居合、というやつだろうか。
ガブリエルは、それに気づいて、とっさにJの視界を塞いだ、という事か。
倒れるホワイトを追うように、スズキの親分が船室を飛び出す。
どさっとホワイトの体が浜に倒れたと同時に、バンと大きな銃声が鳴る。
倒れた拍子に、驚いて引き金を引いてしまったのだろう。
その音に合わせるように、立ったままだった切られた左足が、ころんと地面に倒れた。
親分は銃を握ったままのホワイトの右手首の辺りを雪駄を履いた足でどんと踏みつけて、匕首の切っ先はホワイトの喉元にぴたりと当てられていた。
「おい、臭えなコイツ」
スズキの親分は、顔をしかめてる。
ホワイトは、痛みを感じないのだろうか。それとも、左足の膝から下を切り落とされた事に、気づいてすらいないのか。
ヒッと悲鳴のように喉を鳴らして、喉元に突き付けられた鋭い刃を怯えた目で見て、
「オ、オマエ、ダレ」
かすれた声で、云う。
「うるせえよ」
そう云って、親分はすっと匕首の刃を押す。
え、それ刺さってるのでは。
「あー、良い子は見ちゃだめなやつかな、これ」
Lが云って、ガブリエルが手のひらでJの視界を塞いだままなのを見て、ほっと小さく息をつく。
当のJは、ガブリエルの手のひらに塞がれた視界の横から隣に立つ僕を見て、無言でうなずいてる。だいじょうぶ、見ないから、って事かな。
「***、******、***?」
船室の中から、キクタが外のホワイトに聞こえるように大声で云う。
英語、ではないみたいだけれど。
「ドイツ語だね。「お名前は何ですか?」なるほどな、さすがおじいちゃん」
ふふん、とLは鼻を鳴らす。
ドイツ語が話せるキクタにもびっくりだけれど、それがわかるLにも、いや、それはさておき。
つまりキクタは、あいつが噂のH・O・アンダーソンかどうかを確かめようとして、ドイツ語で名前を聞いた、という事。
ヒッとまた悲鳴のようにホワイトの喉が鳴る。
「*****、***、*****?」
うわずった声で、ホワイトが喚くように云う。
「今のは英語。あいつ、だいぶビビってるね「あなた、博士の知り合いか?」だってよ」
Lが肩をすくめて云う。
はあ、とキクタの深いため息が聞こえた。
「正体見たり、と云ったところだね。噂のH・Oとやらは、その男ではないらしい。だが、子供たちをこんな目に遭わせたのは、間違いなく、そいつだろうけれどね」
キクタは親分に云う。
「だろうな」
スズキの親分は短くそう答えて、また匕首を握る手に力を込めて、
「おいてめえ、さっき云ったナンバー・ツーってのは何の事だ?それと、てめえはどこの誰だ?」
低い声で云う。
ヒッヒッ、とホワイトの喉が鳴る。
いや、やっぱりどう見ても、刃のその切っ先は喉に刺さってるように見えるんだけれど。
「あいつの、声」
Jの視界を両手で塞いだまま、ガブリエルが云う。
「ひどいしゃがれ声だったよね、ヌガノマの声。原因は、これかな。それに、左足も、だけど」
レムナントの傷は、治癒しない。固まって塞がるだけ。
そう、ナナに聞いたのを思い出す。
「***・・・、******ナンバー・ツー、****。***・・・、****、ウィリアム・ホワイト」
ひゅーひゅーと、どこか空気が抜けるようなかすれた声で、あえぐようにホワイトは云う。
「え、これ訳すの。「子供、博士のクローン、2番目の実験体。私の名前、ウィリアム・ホワイト」って」
そう、Lが訳し終えるよりも早く、
「この外道が」
スズキの親分が吐き捨てるように云って、匕首を握った腕をぐいと押す。
ヒッ、と短い悲鳴を上げて、それきり、ホワイトが黙り込む。
「親分、殺してないよね?」
キクタが尋ねると、親分はため息まじりに、
「旦那、コイツを殺したって、地獄の閻魔様でもお咎めなしだと俺ぁ思うがね。それにコイツ、死なねぇんじゃねえかな。血がちっとも出ねえぜ、切り落とした足の方も、だ」
淡々と、そんな事を云う。
ずいぶんと落ち着き払っているのは、なんだろう、やっぱりヤクザの親分の貫禄、なのかな。
「それでもだよ。殺したら、同じ外道に落ちちゃうからね。血が出ないのは、レムナントの体質かな。不死身ではないから、殺そうと思えば殺せるはずだけれどね」
落ち着いていると云えば、キクタもだけれど。淡々と、そんな事を返してる。
はあ、と特に感慨もなさそうに、スズキの親分はため息をついて、
「それでも、気は失うらしいや。どうする、旦那?ああ、この鎖でふん縛って、船倉に放り込んでやりゃあいいかね」
ぺしっと雪駄を履いた足で、ホワイトの右手の拳銃を蹴飛ばして、云う。
拳銃は、海に落ちたのだろう。どぼん、と何かが水に沈む音がした。
「ああ、頼めるかな」
キクタがそう返事をするより早く、スズキの親分は匕首を腰の鞘にしまうと、鉄の鎖を拾い上げて、ホワイトの体にぐるぐる巻き付けていた。
巻き終えると、汚いものでも持つように鎖の端を握ってぐいと片手で持ち上げる。
そのまま、ずるずるとホワイトの体を引きずって船倉に入って来ると、ぽいと隅っこへ放り投げた。
暗くて冷たい鉄の床に、ごつんとホワイトの頭が落ちる。
因果応報、と云う言葉が、僕の頭に浮かぶ。
自業自得だ、とアンダーソン博士はホワイトに云ったそうだけれど、本当にその通りだと思う。
スズキの親分が、冷たい鉄の床に膝をついて、2号、と呼ばれたキクヒコさんの小さな体を抱き上げる。
「旦那、この子たちは、これからどうなるんで」
ぽつりと、親分はそう尋ねた。腕の中の瘦せこけた白い子供を、痛ましい目で見つめながら。
「うん」
うなずいて、ルリおばさんを抱いて、キクタは立ち上がる。
「僕が育てるよ」
当然のように、そう答える。
「そうかい、そりゃ良かった」
そう云って、親分も立ち上がる。
ふたりの子供抱いたふたりの男は、並んで冷たい船倉から出る。
彼らが浜に下りたところで、あの音が鳴り響く。
ジジッ、ジジジジ、
世界が歪むような雑音が、暗い夜の浜辺に響き渡る。
「もういい?」
Jが云うのは、ガブリエルの手をどけても?という事かな。
「ああ、ごめんね」
ガブリエルが微笑んで、Jの視界を解放する。
ノイズが響く中、僕らの眼の前の、岩だらけの浜に立つキクタとスズキの親分の後ろ姿が、モノクロの1枚の絵のように固まって、モザイク模様を描くみたいにひび割れる。
やがてノイズが止むと、色を失った記憶の世界が、ぱりんと音を立てて、砕けた。
まるで、世界の終わりのような、砕けた記憶の空間。
でもこれは、終わりなんかじゃない。
けもののような臭いがするのは、割れて砕けた記憶のせいなのか、それとも、僕らの背後、船倉の隅に放り込まれたホワイト自身から臭っているのかは、わからない。
「まあ、臭いはどっちでもいいけどね。それより、パズルの難易度上がってね?夜だし暗いし、岩と浜しかないし」
そう云って、Lは苦笑する。
でも、
「うん。燃える、でしょ」
僕の心を読んだみたいに、Jが云うので、驚いた。
「確かにねえ。目の前には、子供たちを救出したキクタと親分がいて、後ろの倉庫には、ぐるぐる巻きにされたヌガノマが放り込まれてる。ボクらがパズルを完成させたら、この記憶がつながって、ルリさんとキクヒコが助け出されてハッピーエンドだよ。これは、燃えるよねえ」
いつもおだやかなガブリエルまで、そんな事を云って、ふふっと笑う。
「おお、いいねー、やる気満々じゃん」
Lもニヤリと笑って、
「そんじゃまあ、いっちょやってみよっかー」
元気なハスキーボイスが、そう云った。



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