fly me to the moon

屋根裏ネコのゆううつ II

意識空間のお茶は、いつまでも冷める事がない。
湯呑みを手にした時にそれを思い出して、一口飲んだら少し猫舌ぎみの僕にちょうど良い熱さで、心がほっとする、ような気がした。
ふむ、とナナが両手で包み込んでいた湯呑みから顔を上げて、
「話を戻すぞ。ホワイトの件じゃ」
とん、と左手でテーブルを軽く叩いて云う。
そうだった、まだその話もあったんだ。
うむ、とナナは小さくうなずく。
「ルナがアニーでないなら、「輪」の能力も改造などではなく、御子の「核」による模倣という事になるな。では何故、ホワイトはルナを恐れるのじゃ」
そう云って、ナナはくるりとみんなの顔を見渡して、首を横に振り、
「否。それを子供らの口から云わせるのでは、儂も傲慢と取られかねんな」
何やら、苦い顔になる。
「嫌な話は、儂から云おう。あくまで想像じゃが」
Lの「最強語り」のように、ナナはそう前置きをする。
Lみたいに「聞きたい?」とは云わなかったけれど。
「人造アルカナの材料じゃ」
ナナらしく端的に、ずばりと云う。
「かの博士がその結論に至り、妄執から醒め、計画をやめた。その原因となった必須の材料が「人の意識」であったの」
淡々とそう云ったけれど、僕は思い出してぞっとした。
人造アルカナ
博士が「アルカナ物質」と呼び、何十年もかけて追い求め、最後には諦めたもの。
その理由は、材料としてどうしても「人の意識」が必要だったから。
アンダーソン博士は、それに気づくと妄執から醒め、計画をやめる事を決めて、全ての研究データを廃棄した。そう、ハンスには聞いた、けれど。
Lが神妙な顔でうなずいて、
「ブラウンか。あいつは、諦めてなかった。そして、ハンスによれば、あいつは人造アルカナの完成品を持ってた。実際に作り上げたんだ、人の意識を使って。そのひとつが、ハンスに入ってる。そしてもうひとつは、ハルが拾った黄金虫に入ってた」
僕らの知る限り、完成品はふたつ。
と云うことは、少なくとも、ふたりの「人の意識」が、それに使われてる。
その「意識」を、ブラウンはどこで手に入れたのか。
ブラウンは、誰の意識を、人造アルカナの材料に使ったの。
深いため息をついて、ナナが口を開く、
「そう、金髪の云う通り、あのH何某の中には、完成品の人造アルカナが入っておる。あの男の話では、ハルの黄金虫の中にもおると云うが、それは見えるわけでもなし、確かめようはないの。じゃが、ブラウンが「人の意識」に手を出しておったのは、紛うこと無き事実、であろ」
そう云って、深く大きく息をついて、
「その意識を抜き取られた人物が、「赤い眼の子供」であったなら、という仮定の話よ。意識を奪われたその子が、その後どうなったのかなぞ、想像したくもないがの。ホワイトは、それを知っていた。ゆえにルナを恐れたのではないか」
苦い顔のまま、努めて淡々と無感情に、ナナは云った。
でも、生きた人の意識をその体から抜き出すなんて、そんな事が・・・。
そう考えて、僕は、思い出したくもなかった答えに行き当たる。
人の意識を体から抜き出す事は、できる。
それができる人を、僕はひとりだけ知ってる。
そしてその人は、かつて博士のラボにいた。
「モニカじゃ」
きっぱりと、その人の名をナナが口にする。
「あやつが博士の元を離れたのは、それが原因とは考えられぬか」
そう云われて、僕はあのナガヌマの記憶の、モニカの言葉を思い返す。
「私は、もうここにいたくありません。あの博士の実験を、私は止めたい」
ナガヌマの入れられた牢の鉄格子を両手でぎゅっと強く握りしめて、かすれた声でモニカはそう訴えてた。
「赤い眼の子供」の意識を、モニカがその体から抜き取った、
だから、なの。
いや、抜き取らされた、と云うべきかもしれない。
あのモニカが、軍の看護士であったあの女性が、自らの意志で他人の意識を体から抜き出すなんて、思えない。
アンダーソン博士が、あのおだやかでやさしい眼をした老人が、そんな事をモニカに強いるとも、僕には思えない。
けれど、ブラウンならば、どうだろう。
例えば、モニカを呼び出して、博士の命令だと偽って、あるいは、何か他の手段で脅すとか騙すとかして、それをモニカにやらせたのでは。
だから、モニカは、それまでは研究に協力的だったという態度を一変させて、ナガヌマを伴い地下施設から逃げ出した。
何故なら、彼女さえいなければ、人の意識を抜き取る、そんな非道な実験を彼らが続ける事は、もう不可能になる、はずだから。
「あくまで、想像じゃ」
力なく、ナナはそう云う、けれど。
すっと薄灰色の眼を上げて、僕を見て、口を開く。
「それを確かめる、心当たりが、ひとつある」
ゆっくりと言葉を選ぶように、ナナは云った。
それを確かめる
モニカは、ドーリー?
でも、彼女は、話せない。
「否」
ナナは小さく首を振って、
「最初の王A-0、のちにレムナントとなったモニカの、その「記憶」を海に保管する「次の王」がおろう」
A-0の次の王
それは、最後の王M-0、
あのMだ。
でも、
うむ、とナナはうなずいて、
「あれと「つながる」のはやめておけと、儂は確かにおぬしに云うたの。まだ、モニカやA-0の過去も知らぬ頃の話じゃが。あれから事情が変わった、とは云わぬ。少なくとも、あのM何某は、依然として正体不明のままである事に変わりはない。あれが何を企むやも知れぬ状態で、あの「ぐるぐる」に意識を抜き取られでもしたら、どうなることやらわからぬ」
そう云って、薄灰色の眼を閉じて、また湯呑みに顔をうずめるように近づける。
確かに、あの時のMの真の目的が何だったのか、未だに僕にはわからない。
本当に、ただ僕らにアルカナやロリポリにまつわる「昔話」を聞かせてくれるだけのつもりだった、ようにも思える。
妙な雰囲気になったのは、キクヒコさんが現れてからで、その原因もどちらかと云えば、「おまえは誰だ」と突っかかるように云い出したキクヒコさんの方、だった、ような気も、する。今となっては、だけれど。
「おや、ついにキクヒコ擁護派のKも折れるんだね」
今にもくすくす笑い出しそうな顔で、ガブリエルが何故かうれしそうに云う。
キクヒコ擁護派、だったのかな。
僕は実際に助けてもらった身だし、今でも彼を信頼してるけれど。
でもこれまでの一連のキクヒコさんに関するあれこれを見るに、どうも彼は、早合点と云うか、独り相撲と云うか、そんな所が多少なりとも、あるような。
ルナにゴーグルを用意してあげたのも、キクヒコさんはあの子が「王」だと勘違いしてたのかもしれないけれど、実際には、ルナは王ではないどころかアニーでもなかったわけだし。
最後の王はK-0で、M-0なんて王はいない、と力説してたけれど、MがA-0の記憶を引き継いだ「王」である事は間違いないのだから、キクヒコさんが知らなかっただけで、順番的にはMは最後の王M-0で合ってるのかもしれない。
「自分自身の名前も姿も覚えていない、そんな「記憶」のないあなたに、何がわかると云うのですか」
あの時のMの指摘は、いま思えば、至極真っ当なものに思える。
キクヒコさんは、実際に「記憶」の大半を失くしてる。
あのところどころ途切れて歪んだ梯子状の記憶の保管庫と、砂嵐のように何も映らない記憶の風景。
湯呑みから顔を上げ、ナナが口を開いて、
「理屈で云えば」
薄灰色の眼を細く開いて、云う。
「おぬしはM何某とすでに会っておる、ゆえに「つながる」事はできるはず。じゃが、それはやはり、やめておけ」
どうして?
「どうして、とな」
ナナはあきれた顔をして、ちらりと隣のLを見て、
「金髪、云うてやれ」
何故かLをけしかけてる。
ははっ、と胸に手を当てて、
「ナナちゃんのご指名とあらば」
Lは仰々しいお辞儀をすると、ニヤリと笑って、
「おまえねー、またひとりでのこのこ出かけて行って、「ぐるぐる」で捕まりでもしたらどーすんのよ。今度はもう、キクヒコも助けに来てくれないのよ?Mちゃんの意識空間じゃ、ナナちゃんもつながれないでしょ」
それは、そうかもしれないけれど。
じゃあ、どうするの。
「どうするの?」
ニヤニヤしていたLが、待ってましたとばかりに椅子からすっくと立ち上がって、
「みんなで行くに決まってんだろ。ベースの、ロリポリのホールへ、Mちゃんに会いに」
はっはー、と陽気な笑顔で隣のナナを見下ろして、
「だよね、ナナちゃん」
そう云うけれど、ナナはLとは眼も合わさずに、
「儂は行かぬよ」
しれっと云って、お茶を啜ってる。
「ええ・・・」
残念そうな顔をするLを、ナナはちらりとにらんで、
「おぬし、よもや「カワイイカワイイハナチャン」を、そんな場所へ連れて行くつもりかえ」
そう云われて、
「あ、そっか」
Lは「てへへ」と頭を掻いてた。
「儂はここから見物させてもらう。何かあった場合にも、儂と跳ねっ返りが外におれば、できる事もあろ。もっとも、4人全員で行く事はあるまい、とも思うが、どうせおぬしら、云うても聞かぬじゃろ」
すでにあきらめ顔で云うナナに、ガブリエルが、ふむ、とあごに手を当てて、
「ボクは自分の足で行った事がないからねえ、是非とも行きたいところだけど。でも、ナナちゃんが云う事にも一理あるよね。リスクを分散するなら、ボクらも何人かは外に残るべきかな」
そう云うと、Jがぴこんと人差し指を立てて、
「じゃあ、わたし、クロちゃんで行くよ」
魔法の声で云って、にっこり微笑む、けれど。
Lがあきれ顔で、
「はあ、おまえ何云ってんの。それじゃ意味が・・・、いや、待てよ。戦力的には、その方が強いのか?じゃあ、オレもラファエルで行くわ」
云いかけて、あっという間に手のひらを返して、Jに同調してる。
何でなの。
「いやあ、だっておまえ、その方が絶対強いじゃん。ナガヌマンとクロちゃんとラファエルだよ?負ける気しないよねー」
いや、絶対強いとか、負ける気しないとか、Lはいったい誰と戦うつもりなの。
「じゃあ、ボクはNを借りようかなあ」
ちょっと待って、ガブリエルまで何を云ってるの。
「え、だって、ボクよりNの方が絶対強いよ?ねこパンチ」
まじめな顔で云うけれど、絶対にそれ、心の中ではくすくす笑ってるよね。
「ほう、動物使いの凱旋じゃの。めでたい事じゃ」
ナナまでそんな事を云ってふざけはじめるので、僕は途方に暮れてしまう。
「いつもの事でしょ。真面目な時ほどふざけるの」
ついに堪えきれなくなったみたいに、ガブリエルがくすくす楽しそうに笑い出す。
それじゃあ結局、僕がひとりで行くのと変わらないのでは?いや、そんな事はないか。
確かに、クロちゃんとラファエルとそれにNまで引き連れて行けるのは、ものすごく、この上なく心強い、よね。
しかも、それぞれ中にはみんながいるのだし。
「ふぅん」
不意に軽やかな鈴の音のような声が響いて、全員が一斉に声のした方、海側のテラスの端を見る。
「じゃあ、るなも行くよー」
テラスの手すりにちょこんと腰かけて、足をぶらぶらさせながら、ルナがのんきな声で云う。
え、ルナ?いつからそこにいたの。
「いつからーって、ついさっきだよー。キクタが、キクヒコの悪口云ってた時?歪んでる?とか砂嵐?とか」
さらりと何でもない事みたいにルナは云う。
だとしたら、その前の話は、聞いてなかったのかな。
貝殻の風鈴は、鳴らなかったけれど。
鳴ったのが聞こえなかった?いや、そんなはずはないので、御子の「核」であるルナには、反応しないのかな。
ナガヌマのゴーストやドーリーにも、そう云えば風鈴は反応しないけれど。
いや、それはともかく、
何でルナも行くの?
「えーなんでーって、クロちゃんもNちゃんも行くんでしょ。だったら、るなも行くよー」
当たり前じゃん、みたいな顔で云うけれど。
それはどういう理屈なの。
僕が云うのもどうかと思うけれど、危険がないとは云い切れないし、そんな所へ、ルナみたいな小さな女の子を連れて行くのは、ちょっと。
「ちょっと、何ー?キクタ、あんただって、小さな男の子じゃん。るな、ほんとは15歳だもん。あんたよりおっきいよー」
小さな口を尖らせて、不満げにルナは僕をにらんでる。
それを云うなら僕だって、と何やらすごく不毛な云い争いに発展しそうな気配を、ナナがすっと包帯ぐるぐるの右手を上げて止める。
「まあ待て。ルナの同行は、なしではないかもしれぬ」
子供にやさしいはずのナナがそんな事を云い出すので、僕は驚いてナナを見る。
「心配はさて置き、じゃな」
ナナはそう僕に苦笑をしてみせて、
「もうひとつ、M何某には確かめたい事があろ」
そう云ってみんなを見回して、続ける。
「金色の左眼の、所在じゃ。これまでの例に倣えば、ロリポリ本体の中にあるのじゃろう。が、それを確かめるためにも、御子の「核」であるルナが同行するのは、なしではないのでは、という話じゃ。同じ「核」であっても、まさか揺り籠の中のH・Oを連れて行く訳にもいくまい。それに、万一の場合、ルナがおれば「輪」で飛んで逃げることも出来よう」
それは、そうかもしれないけれど。
「予想通り、左眼が、ロリポリ本体の中にあるのならばそれで良し。もしも「ない」となれば、「探せ」というナガヌマの言葉が、いよいよ重みを増してくる、であろ。それを確かめるためにも、じゃ」
確かに、ナナの云う事にも一理ある。
ナガヌマは、かつてベースを脱走した経緯があるから、なのかな、最後までベースに戻る事はなかった、ような気がする。
軍があそこにいた間はもちろん、撤退後に、もしも戻っていたなら、「キクタ」と出会えていたはずだし。
初めてこの海に姿を現した時、ゴーストのナガヌマは、
「大人になったおまえを、ついぞ見る事は叶わなかったが」
そう云ってた。
だから、脱走して以来、一度もベースには戻っていない、はず。
当然、ロリポリ本体の中に、左眼があるのかどうか、ナガヌマが知る由もない。
それで、「探せ」なのかな、という気もする、けれど。
「いずれにせよ、明日からは学校もあろ。ベースへ行くにしても、この週末以降じゃな」
ナナにそう云われて、急に現実が戻って来る。
そうだった、運動会の代休ももう終わり。
明日からは、いつも通りの日常が待ってる。

火曜日、朝からおだやかな、小春日和だった。
「小春と云っても春じゃないんだよ。春のように暖かで天気の良い秋の日の事さ」
そう教えてくれた、祖母の言葉をなんとなく思い出しながら、教室に入り、席に着く。
頬杖をついて、ぽかぽかと暖かそうな校庭を眺めていたら、前の席のヨッちゃんがくるりと振り返って、
「おはよー、いい天気だねー」
前歯の矯正器具をきらりと光らせて、にっこり笑う。
「おはよ」
頬杖をついたまま、ぼんやりとそう答えたら、僕の方にぐいと身を乗り出して、
「こーんなー小春日和のー、おだやかな日にー?」
何故か歌うようにそう云って、少し間をおいて、
「転校生、来るよー」
じゃーん、みたいに両手を大袈裟に広げて、云う。
転校生
デジャヴュかな。
まさかとは思うけれど、たぶんその、まさか、かな。
「何で」
それをヨッちゃんが知ってるの、と思ったので、そう聞いてみたら、
「さっき、見ちゃった。ナガタ先生とその転校生が職員室に入ってくとこ」
ふっふーん、と得意げに笑う、けれど。
「それ、ほんとに転校生なの。他のクラスの子とか」
あるいは上級生とか、うちのクラス以外の見知らぬ子と、たまたまナガタ先生が一緒に職員室へ入って行くように見えただけ、では。
そう思って、云いかけたら、ふるふるとヨッちゃんはかぶりを振って、
「ううん、違うよ。だって制服がねー・・・」
ヨッちゃんが僕にそう説明しかけた時、
がらがらっとわりと乱暴に教室の後ろのドアが開いて、
「よお」
両手に机を軽々と抱えて、その机の上にはひっくり返した椅子を乗せた大男が、のっそりと教室に入って来る。僕に親しげに挨拶して、にやりと笑いながら。
何でなの。
なんでアイが机を運んで僕のクラスに入って来るの。
ヨッちゃんは、びっくりした顔で固まってる。
それは、そう。アイだからね。
アイはまったく遠慮もなしに、2年生のクラスに机を抱えたままずかずかと入って来ると、
「どっこらせ」
たいして重くもなさそうだけれど、大袈裟にそう云って、僕の席の後ろにその机を下ろした。
「アイ、何してるの」
振り返って、アイを見上げて尋ねると、
「さっき、おまえのクラスの担任の、ナガタ先生?だっけ。あのおばさん先生につかまって、頼まれた。2年1組のスズキ君の後ろの席に運んでくれってさ。転校生だとよ」
軽々と片手で机の上から椅子をひょいと下ろして、席をセットしながらアイは云う。
「おまえのクラス、転校生多いな。なんで?」
ちらりと僕の隣のハナの席を見下ろしながら、アイは不思議そうに首をかしげてる。
なんで、って。
その理由は、たぶん、僕の想像通りなのだとしたら、いや、それは云えないやつだけれど。
「さあ」
あいまいに首をかしげて、肩をすくめる。
「まあいいや。じゃあな、確かに届けたぜー」
運送屋さんの気さくなお兄さんみたいに云って、アイは僕に手を上げると、のしのしと肩で風を切りながら教室を出て行った。
ぽかんと口を開けて眺めてたヨッちゃんが、はっと我に返ると眼をぱちくりさせながら、
「スズキ君、あの人、知り合いなの。6年生でしょ」
びっくりした顔で云うので、
「うん、6年のアンドウアイ。ええと、友達、だよ?」
疑問形になってしまったのは、あらためてアイの事を「友達」と口に出して云うのが、なんとなく照れ臭かったから、かな。
へえー、とヨッちゃんは眼を丸くしたまま、
「リレーでアンカーだった人、だよね。最後、ものすごい速さで逆転してた」
ああ、そんな事もあったね、と思ったけれど、よく考えてみたらそれはつい先日、土曜日の事なんだよね、運動会って。
その後の2日間でいろんな事がありすぎて、運動会はもうはるか昔のような気になってた。
「そうそう」
と答えながら、ものすごい速さで逆転するアイの雄姿を、僕はちゃんと見てなかったのかな、と思う。
あまり、よく覚えてないような。
赤い鉢巻を振り回しながら、大きな声でクラスメイトに声援を送るJの姿は、はっきりと覚えてるのだけれど。

朝のホームルームのチャイムと同時に、教室の前のドアがからからと開いて、ナガタ先生に連れられて、転校生が入って来た。
転校生のルナが。
やっぱり、と思って、ハナの海を振り返って、
「なんで前もって教えてくれないの」
そう云ったら、
「教えたらサプライズにならんじゃろ」
ふふん、とナナに鼻で笑われた。
サプライズ
「明日からはまた平凡な日常じゃと、昨夜おぬしが嘆いておったからの。ささやかなサプライズじゃ」
平凡な日常?
そんなコト云ったかな。
云ったとしても、嘆いてはいなかったと思うけれど。
平凡な日常は、僕の理想とするところなので。
そう云ったら、ふん、とまたナナは鼻で短く笑って、
「まあ良い。ハナの時は勝手がわからぬ故、席順は運任せじゃったのよ。たまたま隣の席になったのは、幸運であったの。今回は、出席番号順にされると、ハナの席がずれてしまうでの。調整させてもらったぞ」
そんな事を云う。
それで、僕の後ろに無理矢理入れたの。
確かに、「ウミノルナ」は、あいうえお順の出席番号で云えば僕やハナよりも前なので、割り込まれてしまうとハナの席がずれて、前まで僕の隣の席だったヒロセさんの席、二つ隣の列の一番前になってしまう、のかな。
と云うか、ハナのためにそこまでするの。
認識の喪失で、そんな細かい微調整までできるんだ。
さすがと云うか、何と云うか。
「ハナのため、であろ。何でもできるに決まっておるじゃろ」
些細な事であろうが、くだらぬ事であろうが、の。
そう云ったナナの顔は、声をつなげてただけなので、僕には見えなかった。
冗談めかしていたけれど、真剣な顔だったんじゃないかなと、僕は思った。
あの笑顔を守るためなら、何でもできると思わぬか
ハナが転校して来たあの日、公園からルリおばさんのマンションへ向かいながら、ナナはそう云ってた。
あの時の話を、僕はふと思い出してたので。
ナナと話してる間に、ナガタ先生がクラスのみんなに転校生の紹介をしてたらしい。
「ウミノるなですー。よろしくおねがいしますー」
いつも通りの、どこか間延びしたようなルナの声が教室に響いて、みんながぱちぱちと拍手で歓迎してる。
はい、みんな、仲良くしてあげてください。少し気取った声でナガタ先生が云って、
「ウミノさんの席は」
そこで2秒ほど固まって、
「スズキ君の後ろですね。スズキ君、よろしくね」
どこかぼんやりとした表情で、棒読みのように云う。
認識の喪失
僕の認識も、ナガタ先生の中ではだいぶ薄まってるに違いないし、その上、ハナとルナとで、二重に認識を消されてる。
クラスのみんなも、さっきまでは、転校生が来た、というどこか浮ついた空気だったのが、いつの間にかその雰囲気も消えてた。
ルナの、ひとりだけ違うススガ丘学園のギンガムチェックの制服姿を、もう誰も気にする事はないのだろう。
特に注目を浴びるでもなく、みんなの間をとことこと歩いて、ルナは僕の席までやって来て、
「なんでよー」
いきなり口を尖らせてる。
「なんでって?」
僕の机の横につっ立ったままのルナを見上げて、僕が尋ねると、
「もっとびっくりするかと思ったのにー」
ふくれっ面でそう云って、「えい」と僕の頭にチョップして、ぷいっとそっぽを向いて、自分の席に着く。
びっくりは、しないよね、残念ながら。
「とは云え、じゃ」
ナナの声が、海で云う。
「ハナの時とは、訳が違う。それは、おぬしもわかっておろうが」
それは、そうだよね。
ハナはただ単に、なかよしの「キクタ」に会うためだけに、「転校」という形で学校へ来てるけれど。
ルナは、きちんとした転校、のはず。
だいじょうぶ、それは僕もわかってる。
ふむ、とナナは満足げに云って、
「ならばよし。ではの、よろしく頼む」
ふわりと気配が消えてた。

よろしく頼まれた、けれど。
ルナは、僕なんかよりもよっぽど普通の、ちゃんとした(?)小学2年生だった。
休み時間になると、早速自分からヨッちゃんの席へ話しかけに行って、サッチンも交えて、あっという間に打ち解けてた。
人懐っこくていかにも面倒見の良さそうな、ヨッちゃんの性格もあるのだろうけれど、素直で物怖じしないルナのキャラクターは、普通にみんなにも受け入れられやすいものだったらしい。
昼休み、ぼんやりと頬杖をついて校庭を眺めるともなく見ていたら、
「ねー」
不意に声をかけられて、振り返ると机の前にルナが立ってた。
「あんた、友達いないのー」
いきなりそう尋ねられて、僕は言葉に詰まってしまう。
「え、いるけど。Jとか、Lとか」
詰まりながらもそう答えたら、
「ふたりとも6年生じゃん。そーじゃなくて、クラスに仲良しの子、いないのー」
あきれ顔でルナが僕を見下ろしてるので、
「クラスに」
いたっけな、と思いながら、辺りを見渡してみたけれど、いるはずもなく。
「いないけど」
答えないのもなんとなく悔しい気がしたので、平気な顔でそう云ってみたら、
「はあ」
ルナは大きなため息をついて、肩をすくめてる。
「あんたねえ」
困った顔で何か云いかけたルナに、
「ルーちゃん、図書室行こー」
教室の前の方、女の子数人のグループの中から、ヨッちゃんがそう声をかけて、
「はーいヨッちゃん、行くよー」
くるりと振り返って、ルナが元気に手を上げてる。
ルーちゃん
初日の昼からもう「ヨッちゃん」「ルーちゃん」呼びなの。
すごいな、と感心しながら見ていたら、ルナがこちらを振り返って眉を寄せてるので、
あ、どうぞ僕にはお構いなく、行ってらっしゃい、と手で女の子グループの方を指す。
ルナは大袈裟に肩をがくんと落として、
「はあ」
困ったもんだ、みたいな顔で僕の顔をのぞき込んで、ため息をついてた。
「じゃあねー」
ひらりと手を振ってギンガムチェックのスカートを翻すと、ルナはみんなの方へ軽やかに駆けて行く。
うん、ルナはだいじょうぶ。
むしろ、僕の方が、だいじょうぶじゃない、のかも、しれない。

帰りのホームルームが終わり、ランドセルを背負って帰ろうとして、ふと振り返ると、
「キクタ」
ちょうど僕に声をかけたらしいルナが、びっくりした顔をしてた。
「えー、呼ぶ前に「聞こえた」?違うよねー」
ニッとネコみたいな顔で笑って、
「あのねー、るな、今朝はおねーちゃんがタクシー呼んでくれて、乗って来たからー」
なるほど
「帰り道がわからない?」
「うんー、「キクちゃんに、通学路を教えてもらったら」って、おねーちゃんが」
ルナがそう云いかけたところへ、ヨッちゃんが、
「ルーちゃん、お家どこなの。方向が同じなら、一緒に帰ろー」
にこにこしながら寄って来る。
「お家、えーと」
どこだっけ、とルナが聞くので、
「ククリ島」
僕が答えると、
「あー、じゃあ南の通学路だねー。残念、あたし北なんだー」
本当に残念そうに、ヨッちゃんが云う。
「って云うか、スズキ君、ルーちゃんのお家、知ってるの」
急にそう尋ねられて、
「あ、うん。おばさんにルナを送るように頼まれてて」
とっさにそう答えたら、どう誤解したのか
「あ、なーんだ。じゃあ安心だねー」
ヨッちゃんはにっこり笑って、じゃあルーちゃん、また明日ねー、ばいばーい、と元気に手を振って教室を出て行く。
「うん、ヨッちゃんありがとー。ばいばーい」
ルナもにっこり笑って、ヨッちゃんに手を振る。
ヨッちゃんが教室を出て行くと、その振ってた手で、僕のランドセルをぽんと叩いて、
「じゃあ「キクちゃん」、よろしくねー」
ネコみたいな赤い眼を細めて、ルナはニッと笑ってた。

玄関で上履きを脱いで、外履きに履き替えてたら、ルナがふと思い出したみたいに、
「キクタ、それ、ずっと着けてるのー」
そう尋ねるのは、ゴーグルとヘッドホンの事かな。
ルナは、キクヒコさんに貰ったという銀のゴーグルを今日も首にかけてるけれど、学校では一度も着けてないみたいだった。
「うん、負荷軽減のためもあるからね」
そう答えながら、ふと疑問を覚える。
ルナは、アニーじゃないのだとしたら、あの「眠り」はないのかな。
アルカナではなく、御子の「核」なら、体に負荷が溜まる事もない、とか。
いや、でも幼い頃は、かなり不規則に長い「眠り」を繰り返してた、ってゲンゴロウ先生は云ってた。
体の成長が何年も遅れるほどの、その「眠り」は、アニーのあの「眠り」とは違うものなのかな。
ルナは下駄箱に上履きをしまいかけた手を止めて、眉を寄せて、
「キクタってさー、時々そーやって難しいコト云うよねー。その、フカケーゲン?って、なあにー」
首をかしげてる。
「ええと、あまり、その、学校の玄関で、堂々と話すような事じゃないのだけれど」
小声でルナにそう答えて、さてどうしたものかな、と思っていたら、
「あー、はいはい」
ルナはふんふんとうなずいて、さっさと上履きを仕舞うと、
「じゃあ「海」で話すよー」
そう云うので、ふと思いついて、
「いや、ルナのお庭で話そうか」
と提案する。
御子が、「王」のつながりを模倣してくれてたとしたら、ルナの草の海で、会えるようになってるかもしれない。
「みこちゃんに用事?そのフカケーゲンの事で?」
うん、急ぐ話でもないけれど、聞けるものなら聞いておいた方がいい、よね。
学校で突然、眠ってしまう可能性も、ないわけではない、かもだし。
ルナと並んで玄関を出て、でもさすがに、外を歩きながら草の海で話をするのは危ないかなと思って、玄関脇の水飲み場の縁石に腰かけて、ルナの草の海を振り返る。
ルナも僕の隣にちょこんと座ってた。
ここなら、玄関を出入りする他の子たちの通行の邪魔にもならないし、ドナドナモードになってても、座ってるのでだいじょうぶ。
金色の草の海は、今日も爽やかな風がゆるやかに吹いて、ススキに似た草の波がさわさわと揺れてる。
辺りを覆う金色の靄が、風に吹かれてゆっくりと漂うように流れてた。
「みこちゃーん、いるー?」
お菓子のお家の門をくぐって、ジュースの噴水のあるお庭へと歩きながら、軽やかに鈴が転がるような声でルナが呼ぶ。
ーー ふふふ
楽しげな笑い声がして、噴水脇のブランコの前に金色の靄が集まると、子供の形でふわりと浮かぶ。
「早速、答え合わせかな」
金色の靄が揺れて、御子が云う。
答え合わせ?
「昨夜のあなたの「海」での、みんなの推察のね。あなたの仲間はさすがに優秀だね、ほとんど正解だよ」
ほとんど
と御子が云うのは、間違ってたところもあった、のかな。
「いいや、間違いと云う程の事でもないよ。「核」がルナの中に居続ける理由は、疑似アルカナを維持するため。そうあなた達は推察してたけれど、そこは少し違ったね。「核」が作り出した疑似アルカナは、ルナの意識として彼女の中でちゃんと機能してる。だからもう、「核」がいなくても問題はないよ」
さらりと何でもない事のように、御子はそう云ってブランコを揺らしてる。
それなら、「核」はどうして、ルナの中に居続けてるの。
そう尋ねたら、御子は、ふむとうなずいて、
「端的に云うと、他に行き場所がないから、だよ。本来の目的だった「ロリポリの尾」は、装置の中で「生きて」いる、でしょ。昨日、あのラボで「腹部」に入る事もできたのだけれど、それは博士に断られてしまった。やんわりとね」
博士に断られた?
それはまた、どうして。
「理由は、わからない。博士とは、あなたやルナのように、会話が出来る訳ではないから。ただ、何か強い意志のようなものを感じた。ロリポリと、揺り籠の中の「子供たち」は、自分が守る、みたいなね。その意思に押し負けるような形で、ルナの「核」は「腹部」に入る事ができなかったんだよ」
意思、と御子に云われて、なんとなく、僕にも博士の気持ちがわかった、ような気がした。
博士は、もうあのまま揺り籠の中で、ロリポリと、その子供たちと添い遂げる、そんな覚悟を決めているのかもしれない。そう思った。
自分自身を「核」として、揺り籠を生かし続ける。だから、もうこれ以上「核」は必要ない。そういう事なのかな。
ふむ、と御子は首をかしげるような動きをして、
「なるほど、覚悟、か。意識ある人の機微、というやつかな。残念ながら、「力」しか持たない「御子」には、その繊細な感情を理解するのは難しいのかもしれない」
淡々と、そう云った。
そしてくるりと軽やかに揺れて、話題を変えるように、
「それと、疑似アルカナの仕様について、かな。負荷軽減のために、あなた達の装置、そのゴーグルを付け続ける必要があるかどうか」
そう問われて、僕はうなずく。
「まず結論から云えば、さっきも云った通り、疑似アルカナは「核」によって作られたものではあるけれど、今はもう「核」とは独立して機能してる。そして、キクヒコのアルカナを模倣して作り出したものである以上、仕様はそれと変わりない。だから同じように負荷は溜まるし、同じように眠りに陥る。発明家であるあなたには、理解しがたい事かもしれないけれど、どんなにすごい「力」であっても、できるのは模倣だけなんだよ。発想や発明は、あなた達「人」だけが持つ「能力」だ。例えばあなたに御子と同じだけの「力」があれば、より便利で快適で効率の良い疑似アルカナを作り出せるのだろうね。体に一切負荷がかからないような、新型の疑似アルカナをさ」
御子の説明は相変わらず端的で、だから素直に納得ができた。
僕がすごい発明家だったのは、何と云うか昔の事で、それは僕自身の事ではないと云うか、僕にはその記憶もなければ、そんな能力もなさそうだけれど。
ふわりと御子が、僕の目線の高さまで浮かび上がって、まっすぐに僕を見て(その顔は、相変わらずぼんやりと金色に輝いていて目鼻がどこにあるのかよくわからないのだけれど)、
「あなたのそのゴーグルについて、だけれど」
あらためて、という感じで云う。
「こういうの、何て云うんだったかな。そう、老婆心、かな。余計なお世話、というやつかもしれないけれど。四六時中、常時着け続けるのは、止めたほうがいいと思う。体への負荷軽減の効果が期待出来るのだとしても、ね」
御子らしからぬ、どこか論点をぼかしたような云い方に、僕は少し違和感を覚える、けれど。
「るなも、そー思うよー」
さらりとルナがいつものように無邪気に云うのは、何でだろう。
「なんでーって、あんたの眼が、こっちからぜんぜん見えないからだよー」
当然、と云うみたいに、ルナは口を尖らせる、けれど。
僕の眼が、見えない?
それが、そんなに大事な事かな?能力による体への負荷を軽減するよりも?
うん、と御子はまっすぐにうなずいて、
「どう云えばいいかな」
またお得意のフレーズを繰り返す。
「印象、かな。あなたが相対する人に与える、あなたの印象。眼を隠されていると、相手にはあなたがどこを見ているのかわからないし、その眼にどんな表情が、どんな感情の色が浮かんでいるのか、わからないよね。あなたにも、覚えがあるんじゃないかな」
そう云って、御子はわずかに首をかしげる。
眼を隠されていると、どんな感情の色が浮かんでいるのか、わからない?
そう聞いて、まず思い浮かぶのは、ハンスだった。
分厚い丸いレンズをいくつも重ねたような、あの奇妙なゴーグルのせいで、ハンスの眼は、僕からは全く見えない。
確かに彼と話している時、何度かその内面の心情がわからなくて、戸惑う、と云うほどではないにしても、ほんの少し不信感と云うか、無理に想像を働かせるようにして、きっとこう思ってるに違いない、とか、そんな風に思った覚えがあるけれど。
うん、とまた御子はうなずいて、
「あなたは、とても素直で正直な人で、それはあなたの美点だよ。そしてそれを最も雄弁に語るのは、あなたのその眼だよ。それを隠しておく事は、得策とは思えないな。それに、あなたほどの発明家が作ったものなら、眼を覆わなくとも、首にかけているだけで負荷軽減の効果はあるでしょ。いや、たぶん、だけれどね」
ふふっと軽やかに御子は笑って、
「例えば今後、あなたが大人になって、何らかの重要な駆け引きや、悪意ある相手と対決しなければならないような時には、逆に眼を隠しておいた方がいいかもしれないけれどね。あなたの眼は、とても素直で正直だから。・・・という、あなたよりほんの少し長生きしてるだけの「擬似意識」からの、ちょっとした老婆心、余計なお節介というやつだよ」
ふふふ、と御子は可笑しそうに笑って、ふわりと揺れる。
「そーそれ。るなも、そー云いたかったの」
ちゃっかり御子に便乗して、ルナはふふんと得意げに鼻で笑ってる。
なるほど。
まるっと納得、というわけではなかったけれど、御子の意見にも一理あるなと思って。
何より、ルナもそう思ってた、という方が、意外と僕には効いたのかもしれない。
ゴーグルとヘッドホンは認識を消された物だから、学校で着けていても、誰にも気づかれる事はないけれど。
誰も気づかないからといって、それを平然と着け続けるというのは、何だか、クラスのみんなの事を僕がどこか軽んじているような、どうでもいいと感じて適当にあしらっているような、そんな驕りというかいやらしさみたいなものが、ある、ような気がした。
たぶん、ルナが云うのも、それなのかな、と感じたので。
僕はゴーグルを外して首にかけ、ヘッドホンも同じように外してみたら、何だかふっと心が身軽になったような、そんな気がした。
ふふふ、と御子が笑って、ルナも
「そーそー、その方がいいよー」
ネコみたいな赤い眼を細めて、満足げにうなずいてた。
そんなルナも僕らと同じように、負荷が溜まるし、眠りにも陥る。
だったら、幼い頃の成長が数年遅れるほどの、不規則な長い眠りというのは・・・
ふむ、と御子は小さくうなずくような仕草をして、
「それは、疑似アルカナであるがゆえ、だね」
さらりと云って、話を続ける。
「神様でも何でもないただの「力」は、生命やそれに類する何かを作り出す事なんてできない。ロリポリを生かす「核」を作れたのは、あくまで、ナガヌママゴイチの半身、つまり生命体をベースにしているからだよ。それの持つ生命力や自然治癒力を膨大な「力」によって凝縮し、それに特化させているだけ。「力」はすごいのかもしれないけれど、仕組みとしては、至極単純なものなんだ。それに比べて疑似アルカナは、云わばひとつの生命体であるアルカナだ。模倣したとは云え、それを1から作り出すなんて、本来はできない事なんだよ。それでも、「生かす」ために作られた「核」は、どうにかしようと試行錯誤を繰り返してた。彼女を「生かす」ためには、意識の代わりとなる疑似アルカナがどうしても必要だったからね。その調整と試行錯誤の時間が、不規則な長い眠りの正体だ」
たいへんだったね、と御子はふわりとルナに笑いかける。
「えー、るなは、妖精さんとお菓子のお家で遊んでただけだから、ぜんぜんたいへんじゃなかったよー」
へへへーとルナは、おどけるように笑ってた。
ルナの疑似アルカナは、キクヒコさんのアルカナを模倣して作られたもの。
御子が作り出した「核」の、生かすための「力」と、数年に及ぶ調整と試行錯誤の賜物。
擬似アルカナを持つ擬似アニー(?)のルナは、当然「王」ではないので、意識空間に「海」はない。
JやLと同じと考えたら、それはおかしくもなんともない。
それなら、ルナは王のいないアルカナ、と同じ扱いになるのかな。
王のいないアルカナを、王は自身の海へつなげる事ができる。
以前、ナナからそう聞いた覚えがある。
ルナは、僕の「海」にすでにつながってる。
それが、王のいないアルカナを、「王」が自身の「海」へつなげたもの、と見做されるのなら、
僕の海の記憶の保管庫に、ルナの記憶、あの白い梯子が加わってるのでは。
ふとそう考えた次の瞬間、僕は白いお花畑に飛んでた。
何故か、ルナと御子もいっしょに。
「わー、何これ、お花畑ー?って云うか、キクタ、あんたのしわざなのー?もー、何か云ってから飛びなさいよー。はーい、飛びますよー、とかー」
ふくれっ面のルナに、もう何度も聞いた事のある同じ台詞で怒られた。
同じ事を云ってたのは、Lと、ルリおばさん、だったかな。
いきなり飛ぶと、みんな同じように怒るのは、何だろう。気持ちは、わかるような気もするけれど。
「へえ、これがアルカナの「王」の記憶の保管庫なの。これはこれは、貴重な場所へご招待いただいてしまったね」
何やら感心しながら、ふわふわと辺りを飛び回っている御子に、僕は慌てて、
「いきなりごめんなさい。ルナの記憶が、ここに保管されるんじゃないかと思って、確かめようと」
思ったらもう飛んでしまって、と頭を下げる。
「気にしないで。それより、この梯子状の大きな構造物が、それぞれのアニーの記憶なんだね。どれどれ、ルナの梯子は、あるのかな」
ふわふわと漂うように壁際を回る御子に、ルナも付いて回りながら、梯子の前の立て札を眺めてる。
ルナの梯子は、と探すまでもなく、僕にはひと目でわかった。
立て札がない、のもそうだけれど、梯子の横木が極端に少ないのが、たぶん、ルナの梯子。
つながる以前の記憶は、保管されないから。
「ふぅん」
いつものように、軽い返事をルナはして、
「じゃあ、キクタ、るなのにも看板だしてよー。みんなみたいに、「るな」って、あー、待ってー、自分で書くー。マジック貸してー」
相変わらず、無邪気で自由気ままなお姫様だな。
苦笑しながら、ぱちん、と指を鳴らして、白い木の立て札を立てて、黒の油性マジックをルナに渡す。
「ありがとー」
ルナはごきげんで何やら鼻歌を歌いながら、ひらがなで「るな」と名前を書いて、三日月みたいなマークとネコチャンみたいなイラストも描き添えてた。
にこにこしながら(光る靄の表情は見えないけれども)ルナを後ろから見つめてた御子が、ぴくりと顔を上げて、
「聞こえた」
つぶやくのとほとんど同時に、ゆらりと白いお花畑に細長い影が立つ。
ナガヌマ
今日も仕官服姿で、金色の左腕。左眼にはLみたいな黒い革の眼帯を嵌めてる。
「やあ、久しぶり?」
何故か御子は、疑問形で、
「元気そうだね」
ふわりとうれしそうに揺れる。
ナガヌマは小さくため息をついて、
「何が元気なものか。もう死んでいる」
しゃがれ声は、やっぱり心の声で、頭の中に響く。
「まだ元気でしょ。こうしてここにいるのだから」
ふふふ、と御子は楽しそうに云う、けれど。
え、話しかけて、だいじょうぶなの。
思わず、そう尋ねたら、くるりと御子は僕を振り返って、
「なるほど、「聞こえた」よ。生命の制約だね。あなたは、確かに、彼とは話せないかもしれない」
そう云って、少し首をかしげるようにして、
「どう云えばいいかな」
いつものセリフで、考え込む。
「生命あるものと、生命のないものには、超えてはならない約束事があってね。それは、何と云うか、宇宙の決まり事と云うか、理(ことわり)のようなもので、誰もそれに反する事はできないんだ」
子供の声で、淡々と、御子は何やら難しい事を云う。
「あなたは、生命あるもの。彼は生命をなくしたもの。だから、話をする事はできない」
さらりと云う。
ナガヌマが難しい顔で、腕組みをして御子をにらんで、
「おまえはどうなる。どちらとも話せるのか」
そう心の声で問う。
それはそう、僕もそう思った。
「どちらとも云えないから、かな。御子は、ただの「力」だ。その点で云えば、生命のない側に属するものだけれど、この「疑似意識」は、ナガヌママゴイチ、あなたの生命を元に作られてる。だから、生命のある側に属する。ちょうど、三途の川の両岸を跨いで立ってるような、そんな扱いなのかもしれないね」
淡々とそう云うので、そういうものなのかな、と思っていたら、
「ふざけた事を」
ナガヌマは肩をすくめて、あきれたような顔をしてた、けれど。
すっと右眼を鋭く細めて、
「ちょうどいい、「左足」も来ている事だしな。聞きたい事がある」
そう云って、ちらりとルナを見て、また御子を見て、すっと左手を上げる。
金色の左手
「左腕は、あの博士の所にあったんだな。概ね予想通りだが」
ひとりごとのようにナガヌマが云うと、御子はふわりと揺れて、
「それ、ほんとに予想してたのかな。あなたは、かつてあの博士の所にいた事もあるそうだけれど」
揶揄うように云う。
ナガヌマは気にも留めない様子で、
「ちぎれた隕石がまだ生きていた。そこに「核」とやらがあるのは明白だろう」
淡々と、低いしゃがれ声で云う。
「まあそうだね。それで、聞きたい事と云うのは、残る左眼の在処かな。それを聞いて、あなたはどうするの」
さらりと御子が問う。
何だろう、このふたりの会話は、お互いにすごく気心が知れた間柄だから、なのかもしれないけれど。
とてもストレートで、あけすけで、だから聞いててハラハラする、と云うか。
決して仲が悪いとか、今にもケンカになりそうとか、そんな感じではないのだけれど。
「どうするもこうするもあるか。死人に口なしだ。俺にはどうする事もできん」
ナガヌマはわずかに肩をすくめて、
「どうするかは、「キクタ」に任せてある。」
ちらりと僕を見る。
あの低いしゃがれ声で、「キクタ」と呼ばれたのは、初めてだったかもしれない。
びっくりして、何だか心臓がどきどきした。
また御子の方を向いて、ナガヌマが
「尤も、モニカによれば、既にキクタは計画を立てていたそうだが」
何かとても重要そうな事を口にし始めたのを、ひらりと御子が手をかざすような動きをして、
「はいストップ。それはまた、別の制約に抵るやつだね」
ナガヌマの心の声を止める。
別の制約にあたる?
うん、と御子は僕にうなずいて、
「さっき話したのと同じ、宇宙の決まり事、世界の理(ことわり)だね」
そう云って、ふわふわと小刻みに揺れるのは、笑ったのかな。それとも、笑いを堪えた感じ、かな。
「あなたは、とても微妙な立場で、何と云うか、非常に危なっかしい位置にいるんだよ」
ゆらゆらと微笑むように揺れながら、御子が何やら物騒な事をさらりと口にするので、どきりとする。
僕が?
とても微妙な立場で、非常に危なっかしい位置にいる、って。
どういう事なの。
「どう云えばいいかな」
お決まりのフレーズを口にして、御子は腕組みをするようなポーズでふわりと浮かぶ。
「本来、人はその生命が終わりを迎え死に至ると、肉体は活動を止め、意識は消滅する。それが人の「死」だね。生命あるものと死したものは、この世界の理によって明確に分けられている。生者が死者に語りかけてはいけない、という様にね。同様に、生命あるものには、他にもいくつかの制約があって、そのひとつが、未来を知る事。さっきのナガヌマの話は、それに抵る(かもしれない)」
未来を知る事
そう聞いて、僕の「とても微妙な立場」や、「非常に危なっかしい位置」というのが、なんとなく想像できてしまった。
たぶん、だけれど、ナナの云う「この世の理に反する」というあれと同じ、なのでは。
つまり、「キクタ」の再生は、やっぱり世界の理に抵触する。故に僕は、とても微妙な立場で、非常に危なっかしい位置にいる、という事。
「心配しないで、それに反したからといって、神の怒りの雷撃を食らう、なんてコトはないはずだから。バチが当たる訳でもなく、呪われたり罪の十字架を背負わされたりすることもない(はず)。けれど、それが「世界の理」である以上、従うべきだし、それと知りながら反するなんて、燃え盛る火の海に飛び込む様なもの。止めておいた方がいい、でしょ。そうでなくともあなたは、もう既に、十分過ぎるくらい微妙な立場にいるのだから」
淡々とそう語る御子を、ナガヌマは細めた鋭い視線でちらりと一瞥して、
「それで?だから「左眼の在処」も教える気はない、おまえはそう云いたいのか」
ため息をつくように云う。
御子は軽やかに身を翻すと、おどけるように肩をすくめて、
「そうだけれど、でもそれは教えるまでもないでしょ。彼らは既に、きちんと予想してるよ。「左眼は、ロリポリ本体の中にあるだろう」ってね。週末に、みんなで確認に出かけるんでしょ」
そう僕とルナに、同意を求めるように尋ねる。
僕もルナも、無言でうなずく。
それは、そう。昨夜みんなで話して、そういう事になってる。
「それは、俺も聞いている」
ふてくされたような顔で、ナガヌマはふっと視線を逸らして、白い花畑の向こう、キクヒコさんの記憶の梯子がある辺りを見るともなしに眺めて、
「カントリーロードだ」
ぽつりとひとりごとのようにつぶやく。
カントリーロード?
何のことだろう、と思ったけれど、それを尋ねる事はできないので、僕は黙ってナガヌマを見つめる。
「かつておまえは、そう呼んでたそうだ」
そうつぶやいて、ふっと僕の方を見ると、ナガヌマがかすかに微笑んだ、ように見えた、そんな気がした。
そのまま、ゆらりと陽炎のように揺らめいて、すーっと周囲の黒い壁に溶けるように、ナガヌマの姿は消えてしまった。
「まったく」
呆れたように大袈裟に肩をすくめる仕草をして、御子が云う。
「相変わらず、人の云うコトは聞かないし、何物をも恐れないし、子供には甘いし、困った将校サンだね」
淡々とナガヌマの文句を云いながら、その姿は、可笑しそうに小刻みに揺れてるけれど。
「あ」
不意に声を上げたのは、学校の1.2年生の玄関の脇、水飲み場の縁石にちょこんと腰掛けたルナ。
「聞こえた。おっちゃんだー」
何やらうれしそうに、云う。
おっちゃん、って。
ふむ、御子もうなずいて、
「あなたに来客みたいだね。ルナの疑似アルカナについての話は、あれでもう済んでいたよね。ついでにここへ来れて、久しぶりにナガヌママゴイチにも会えて、とても楽しかったよ。ありがとう」
ふわりとお辞儀をすると、「またね」と霧のように御子は辺りの風景に溶けて消えた。
「おっちゃんだよー。キクタ、あんたのおじーちゃん、学校の前に来てるー」
ぴょこんと水飲み場の縁石から飛び降りて、ルナは、早く早くと僕を手招きで急かしてた。

ルナと並んで校門を出ると、路肩に停車してる軽トラックが目に入る。
車内から運転席の窓に肘をかけて、こちらを眺めてたスズキの親分が、日に灼けた右手を上げて、白い歯を見せてにっこり笑う。
「キクタ!お、嬢ちゃんも一緒か。もう転校の手続きが済んだんだな、そりゃ良かった」
「おっちゃーん!」
元気に手を振って、ルナが軽トラックに駆け寄る。
なんとなく恥ずかしくなってしまって、僕はうつむいてルナの後からついて行く。
「いいタイミングだったな。ミドノ原の家へ行ったらまだ帰ってない様子だったから、こっちへ来てみたんだ。少し待って出て来ないようなら、職員室で先生に頼んで呼び出してもらおうかと思ってたとこだ」
親分は僕とルナを見比べて、にこにこ笑いながら、そんな事を云う。
それは、ルナが一緒にいてくれて、幸運だったかもしれない。
彼女が「聞いて」気づいてくれてなかったら、入れ違いに僕は家へ帰ってしまってたかも。
「おっちゃん、どーしたの?おしごと?」
ルナが空っぽの軽トラックの荷台をのぞき込みながら尋ねると、
「いやあ、仕事じゃねえよ。俺はもう、気楽な隠居の身だからなー」
がはは、と豪快に笑って、
「こいつを届けに来た」
ほい、と車の中から右手を伸ばして、僕に差し出してるのは、
スマホ?
「あー、キクタのスマホ?おっちゃんもシゴトが早いねー」
がははー、と親分の真似をしてルナは豪快に笑ってる。
「まったく、嬢ちゃんにゃ敵わねえな。キクタ、おまえさん、大丈夫か?やり込められてねえか」
僕にスマホを手渡しながら、心配そうに僕の顔をのぞき込んで、また、がはは、と笑ってる。
「あー、それどーいう意味なのー。るな、ちゃんとキクタと仲良くしてるよー。今だって、通学路を教えてもらうんだよー」
ルナは大袈裟に口を尖らせて、親分の太い腕をこぶしでぽかぽか叩くジェスチャーをしてる。
「へえ、そうなのかい。マンションまで送ってやろうかと思ったんだが、通学路を覚えるんなら、歩いて帰らなきゃだな」
ふむー、と少し考え込むような顔になって、親分はちょいちょいと僕らに手招きをする。
運転席の窓辺に立ってたルナが、少し横へ避けて僕にスペースを作ってくれた。
ふたりで窓辺に並ぶと、親分は声をひそめて、
「例のピエロの面の爆弾魔だが」
そう切り出したので、僕もルナもはっと小さく息を飲む。
「ひとつ、思い出した話があってな。夏祭りの時に、市の老人会で、河川敷にある空き家の倉庫を使って、お化け屋敷をやったんだ。きもだめしってやつだな。まあ、老人会のじいさんばあさんがやるようなやつだ、子供だましの遊びのようなもんなんだが」
そう云って、運転席で自分のスマホを操作して、何やら画面を見せてくれたのは、SNSかな。
親分、SNSとかやってるの。すごいな。
「あ、おまえさん、今、「爺いのくせにSNSなんかやってんのか」って思っただろ」
僕の顔を見て、親分はニヤリと笑う。
「えー、やってるでしょ。ゲンゴローもやってるよー」
しれっとルナが云うと、親分はまた、がははと笑って、
「ゲンゴロウ先生はまだ若いだろ。俺みてえな爺いと一緒にしちゃ、可哀相だぜ」
「ふぅん」
ルナはどうでも良さそうな返事をして、親分のスマホをのぞき込んでる。
なるほど、「ふぅん」はこうやって使えばいいの。
「あ、ピエロ。えー、おばけ屋敷にピエロがいるの」
スマホの写真を見ていたルナがそう云うので、僕も横からのぞき込む。
写真は、そのおばけ屋敷の主催者たち、老人会の皆さんの集合写真、なのかな。
白装束の幽霊や、ホッケーマスクを被った怪人に混じって、ピエロの面を付けた人物も写ってた。
黒いマントを身に纏った小柄な白髪のおじいさん、らしき人物で(お面をつけてるので、もしかしたらおばあさんかもしれないけれど)あの爆弾魔とは、似ても似つかない、けれど。
「おう、何でも外国の映画で、こんなピエロの面を被った怪人が出て来るのがあるらしい。それの仮装って事なんだが、まあそれはともかく、祭りの二日目の晩に、おばけ屋敷に空き巣が入ってな」
老人会が主催する、出し物のおばけ屋敷に、空き巣?
「妙な話だろ。元は空き家の倉庫で、金目の物なんてひとつもありゃしねえ。老人会の出し物だから、無料だしな。置いてある物と云や、張りぼてのおばけ屋敷のセットと、仮装の道具くらいのもんだぜ。だが、夜の間に、倉庫の南京錠がこじ開けられてた。三日目、祭りの最終日の朝に、出て来た老人会の連中がそれに気づいて、大騒ぎよ。だがまあ、盗られるようなもんは置いてねえし、多少は物色されて、荒らされてはいたが、元々、簡単な作りの張りぼてのセットだからな。すぐに直して、その日もおばけ屋敷を始められたんだが、ピエロ役のじいさんが騒ぎ出してな。ピエロの面がどこにも見当たらねえってさ。どうやら、盗まれたらしい」
そう云われて、もう一度、親分のスマホ画面をのぞき込む。
ピエロの面
丸い鼻、大きく笑った口と、右眼に星のペイント。左眼からは頬にぶら下がる涙のペイント。
爆弾魔の仮面と、同じ、だろうか。自信はないけれど。
「防犯カメラの画像を、若様が先生に送ってもらってただろ」
そう親分に云われて、思い出す。
画像を保存して、と「海」で先生にお願いしてたのは、Lだったけれど。
ガブリエルも、それを転送してもらえるよう、先生に頼んでいたのかな。
「だから、若様にこの写真をメールして、確認してもらったんだ。そしたら、「同じに見える」とさ」
困ったような顔で、親分はそう云った。
ガブリエルが「同じに見える」と云うのなら、間違いはないのだろう。
同じデザインのピエロの仮面
全く同じもの、だろうか。
けれど、イメージとしては、合ってる、気がする。
軍や本物のテロリストなどではなく、どこか杜撰で雑な仕事ぶりの爆弾魔が、仮面を手に入れるために、老人会の出し物のおばけ屋敷に空き巣に入る。
そもそも、仮面が目的だったわけではないのかもしれないけれど。
でも、元々が空き家の倉庫で、金目の物や貴重品が置いてあるはずのない場所だ。
南京錠をこじ開けてまで、そこに入り込んだのは、何か目当てがあったのでは、と思えるけれど。
それが、ピエロの仮面?
「理由はさっぱりわからねえがな、時期的には、合ってる。爆弾が届けられたのは、祭りの後、翌週の事だろ」
確かに、それは親分の云う通りだ。
おばけ屋敷から盗まれた仮面が、爆弾魔が犯行時に被っていた仮面である可能性は、高いのかも。
でも、なんで?という思いが、どうしても拭えない。
なんでわざわざ、そんな面倒な事を。
たかが、ピエロの仮面、だよ。
素性を隠すための仮面なのだとしたら、ピエロじゃなくても、何でもいいはず。
それこそ、仮面じゃなくてもいいよね。マスクとサングラスとか、手拭いを被るとかでも、何でも。
うーん、とルナが上を見上げてうなって、
「爆弾は用意できたけどー、顔を隠すものがなかったんだねー。それでたまたまおばけ屋敷を見て、盗みに入ったのかなー」
のんきに云うその説は、とても凶悪な爆弾魔とは思えないどこか長閑なものだけれど、妙に説得力がある。
親分もルナを見て、ふむとうなずいて、
「ばかげた話だが、そうとしか思えねえな。いや、まだそうと決まったわけじゃねえが。しかし偶然にしても、同じようなピエロの仮面が、片方は空き巣に遭って、もう片方は爆弾魔が被ってました?そんな偶然があるかねえ」
親分が云う、その通りだ。
ピエロの仮面それ自体は、どこにでもあるような、いわゆる大量生産されたもので、量販店へ行けば同じ物がいくらでも手に入るはず。
たまたま同じ時期に、片方は空き巣に遭って盗まれ、片方は宅配便を装って爆弾を届けた男が被っていた。
ただの偶然、なのかも知れないけれど、とてもそうは思えない。
「なんかー、不気味だねー」
ルナが云うと、全然不気味そうに聞こえないけれど。
親分はくるりと表情を明るく変えて、右手でルナの頭をぽんぽんとやさしくなでて、
「まあ、仮面を被ってこそこそ動いてるような奴が、昼日中からその辺をうろうろしてるような事はあるまいが。おまえさん達も、あまりひと気のない場所へ入り込んだり、暗くなってから出歩いたりはしない事だな」
やさしいおじいちゃんの顔で、ルナと僕の顔を順にのぞき込む。
「だいじょうぶー、わかってるよー」
いつものように無邪気に云って、ルナは親分を安心させようとするみたいに、にかっと笑ってみせてる。
この子は、どこかのんきでとぼけているように見えて、中身はすごくしっかりしてて、大人なのかもしれない。
実は15歳だから、やっぱり、そのせいなのかな。



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