unchained melody iv

屋根裏ネコのゆううつ II

火曜日の放課後、
帰りのホームルームが終わり1・2年生の玄関を出て、校門の手前で、立ち止まる。
たぶん、違うクラスの2年生かな、女の子が数人固まって、校門を塞ぐような形で何やらひそひそとおしゃべりをしてる。
声をかけて少し避けてもらって通ればいいのだろうけれど、どうしたものかな、と僕はその少し手前で立ち止まる。
すぐ後ろから、賑やかな男の子達の声が聞こえてきて僕を追い越し、
「おまえらじゃまー、校門ふさぐなよなー」
同じクラスの男子だったのかな。そう親しげに声をかけて、先頭の元気な男の子がどんと軽く女の子のひとりを押しのけて通ろうとすると、
「ちょっと、アックン、待って」
押しのけられた女の子と、その隣にいた女の子が、左右からふたりがかりでアックンと呼ばれた男の子を止める。
「何だよ」
文句を云いかけるアックンに女の子が声を潜めて云う。
「へんな人がいるの。先生呼んだ方が良くない?」
「へんな人?」
アックンの後ろにいた背の高い男の子が、背伸びをして女の子達の向こう、校門の前の道路を見渡す。
「ほら、道の向こう側」
女の子達が左右に分かれ、後ろにいる男の子達のために視界を開けてくれたので、僕にも校門の前の道が見えた。
その道路の向こう側にいる、へんな人?
電動車椅子に乗った、おかしな丸いゴーグルをかけた、白髪の白衣の男。
透明の泡の・・・
ハンス
思わず声に出しそうになって、慌てて口をつぐむと、僕に気づいたのか、彼はウィーンとモーター音を鳴らしながら左手を上げて、ガシャンガシャンとその手をぎこちなく振る。
て云うか、右手を振ればいいのに。どうしてわざわざ機械義手の左手を振るの。
分厚いレンズのゴーグルをかけた彼の視線がどこを見ているのかなんてわかるはずもないのに、何故か校門を塞いでいた女の子達も、そこで引き止められていたアックンと男の子グループも、一斉に僕を振り返る。
「K!」
ガシャガシャと千切れんばかりに左手を振り回しながら、ハンスはにこやかに微笑んで大声で僕を呼ぶ。壊れたラジオのような声で、まるで友達のように。いや、まあ、友達みたいなもの、かな。
その声に、彼の目当てが僕だとわかったらしい、さっと校門の前から女の子達が端へ避けて、男の子達もそれに従い、どうぞお通りくださいみたいな形で、僕の前に道が開けた。
僕は何だかとても恥ずかしくなってしまって、うつむきながらこそこそと彼らの間を急ぎ足ですり抜けて、校門を通って道を向こう側へ渡る。
「あの子、誰?」
「1組の子じゃない?」
「何あれ、ロボ?」
「あいつ、ロボの仲間なの」
まだ校門のところで固まって、何やらひそひそと囁き合う彼らの声が聞こえる。
同じクラスの子達じゃなくて良かったような、そうでもないような。
と云うか、
「ハンス、あなたの認識は、消されてないの」
挨拶もそこそこに、咎めるように僕は小声でそう尋ねてしまう。
ハンスは不思議そうに僕を見て、また校門を塞いでひそひそ話をする彼らをちらっと見て、
「ああ」
何やら納得したように小さくうなずいて、
「ハンス・オスヴァルト・アンダーソン本人の認識は兎も角、ぼく個人の認識は、あなたの仰る通り消されてはいないようです。タイミング的な問題でしょうね。ベースやアルカナの認識が消されたのは、ぼくが軍と共に本国へ撤退した後です。その時点でこの国に残っていたアルカナとそれに関するもの、それらが対象だったのでしょう。つまりぼくは対象から外れているわけですね」
すらすらと、まるで用意してたみたいに云う。まあ、正直に答えてくれてる、という事なのだろうけれど。
ハンスはもう一度、校門の方を眺めて、
「彼らは、ぼくの容姿が珍しいのでしょうか。子供らしい素直な反応で、とてもかわいいですね」
そう云って、彼らに向かってガシャンガシャンと左手を大きく振ってみせる。
囁き合っていた子供達が、一斉にビクッと反応して、逃げ腰になってる。
僕は慌ててハンスに云う。
「とりあえず、場所を変えない?ここにいたら、そのうち通報されちゃうよ」
「通報?」
ハンスはまた首をかしげて、すぐに合点がいったように、
「ははあ、最近は何かと物騒ですからね。変質者や何かと勘違いされては敵いません。あなたの仰る通り、場所を変えましょう」
にっこり笑う。
「この辺りに、どこか落ち着いてお話のできそうな場所はありますか。いえその前に、親愛なるK。あなたのご都合は大丈夫だったのでしょうか。昨日の今日ではありますが、思い余っていきなり学校まで訪ねて来てしまいましたけれども」
非常識なのか常識があるのか、よくわからない人だなと思う。
しかも「思い余って」って何なの。恋する乙女でもあるまいし。
ナナに聞かれたらまた笑われそうな気がする。
とにかく僕は、校門前にまだ固まったままの彼らの視線から一刻も早く逃れたかったので、ハンスを促して通学路を北へ進み、角を曲がる。
まさか、あの子達、追いかけて来たりはしないよね。
そう思いながら、僕の後ろについて来ていたハンスを振り返って、
「この先の、通りをひとつ隔てた所に公園があるんだけど。そこなら誰も来ないし」
そう声をかけたら、
「おや、あの公園をご存知とは。さすがですね」
ゴーグルのレンズをかちゃかちゃ回しながら、ハンスは僕を見てニヤリと笑ってる。
そっか、あの公園を、彼が知らないはずはないのか。
ハルの行方不明事件の時、公園を閉鎖したのも、彼のはず。
「あそこなら、飛べます。どうぞこちらへ」
ニッコリ笑って、ハンスは車椅子の右横を手で示す。
そうか、行ったことのある場所なら、輪で。
そう思いながらハンスの車椅子の隣に立つと、すぐにふわりと体が浮き上がるような感覚。
足元には白く光る輪が一瞬だけ見え、とっさに僕は通りの角を振り返ったけれど、校門前のあの子達が追いかけて来ている様子はなかった。
次の瞬間には、いつもの公園のベンチの前に、僕は立ってた。
「まあ、見られたとしても、一瞬で消えますからね。あの子達には、何が起きたのかすらわからないはずです」
僕の心を読んだみたいに、ハンスはそう云って、にっこり笑った。
僕は体の力が抜けたようになって、ほっと小さくため息をつく。
「それで、今日来たのは、昨日の話の続きをするために?」
どっと疲れを感じて、思わず目の前のベンチに腰を下ろしながら、僕はハンスに尋ねる。
「はい。あなたのご都合さえよろしければ、ですが」
車椅子を器用に操作して、ベンチの正面に向き直りながら、ハンスは笑顔で云う。
僕の都合は全然だいじょうぶだけれど、彼の話を僕ひとりで聞くわけにはいかない、かな。
ひとりで聞いておいて、後で伝えるのでもいいけれど、できれば、みんなにも一緒に聞いて欲しいかも。
「ちょっと待ってね」
そうハンスに声をかけて、僕は海を「振り返って」貝殻の風鈴をからからと鳴らす。
急にごめん、ハンスが来て話したいって云ってるんだけど、今すぐ公園に来れるかな。
ガチャリと基地のドアが開いて、
「え、今すぐってまた急だなー。海で聞いてるじゃダメ?だよな。こっちの声があいつに聞こえないもんなー。ふむー」
何かお取り込み中だったのかな、Lの声が云う。
「いやあ、いま起きて、風呂入ってるとこ。すぐに出てそっち向かうから、ちょーっと待っててくれー」
平然とそう云って、Lの声が遠ざかる。出かける準備に取り掛かってくれた、のかな。
いま起きて、って、もう午後だけれど。
L、いったいどんな生活を送ってるの。
「ごめん、K。わたし、まだ6時間目の授業中で」
お庭の窓からJが云う。
そうだった、6年生だから、月曜以外は毎日6時間授業なんだ。
「聞いてるだけでいい?終わったら、すぐ公園に向かうね」
そのJの声に被せるように、ガブリエルの窓が開いて、
「ボクも同じくだよ」
ふふっと笑う。
同じくって、ガブリエル、今日も学校行ってるの。まさか、またLの制服着て?
「まさかまたって何。だって、学校に席があるの、ミカエルだけだからねえ」
ガブリエルは楽しそうにくすくす笑って、
「今からボクを転入?入学?させるとなると、いろいろ面倒らしいんだよねえ。だから当分はミカエルのふりして通って、中学からちゃんと本人として入学しようかって、父とは話してるよ。その前に、学力が追いつくかが問題だけどねえ」
そうなの。ずっと眠っていたから学校へ行けてなかっただけで、席はあるのかと思ってた。
そう云えば、アイが前に云ってたっけ。双子に会うのを楽しみに小学校へ入学してみたら、ミカエルしかいなかった、ガブリエルなんて影も形もなかった、って。
その時点で、何か特別な手続きがされて、席はあるけど、表には出さない事にでもなってたの、かな。
学力については、ガブリエルだったら何の心配もいらないと思うけれど。
少し学校へ通うだけで、すぐに追いつくのでは。
「キミさあ、ずいぶん簡単に云ってくれるねえ」
ガブリエルはまたくすくす笑って、
「学力で云ったら、今のボクはキミと一緒の2年生レベルだからね?6年生に追いつくには、かなり頑張らないと。まあそんなわけで、ボクも授業が終わり次第、Jと一緒にそっちへ向かうからねえ」
そう云って、ガブリエルの声も遠ざかる。
それは、そう。みんなそれぞれいろいろあるのだし、小学生だからと云って、急に今すぐってわけにはいかない、よね。
「ごめん、ハンス。今日は、あなたの時間はだいじょうぶなの」
目の前で車椅子に座るハンスに、僕はそう尋ねる。
何故かにこにこしながら僕を見ていたらしいハンスは、
「はい、お気遣いに感謝いたします、親愛なるK。今日はゆっくりお話ができるよう、急ぎの仕事は昼までにぱぱっと片付けて来ましたし、後回しにできる仕事は、帰ってからのんびりとやりますので、心配ご無用です」
笑顔のまま、そう云ってうなずいて、
「今のは、王の意識空間「海」でのお仲間とのやり取りですか。すっかり使いこなされているのですね。残念ながらぼくには経験がなく、ベースの資料を見て空想に耽るばかりですが」
淡々と、そんな事を云う。
聞こえてるはずはないので、僕の様子を見て、そう思ったという事、かな。
云われてみれば、いつの間にか自然と使っているけれど、これって使いこなして、いる、のかな。
「まだほんの数ヶ月だから、使いこなせてはいないと思うけれど。ハンスには経験がないの?どうして」
王がいないアルカナ、なのかな。
最近そんな話を聞いた気がするけれど、ナナから聞いたのだったかな。
「左様」
急に「海」からそう返事が聞こえて、びっくりした。
「おぬし、毎度驚くの。いちいち面白いやつじゃ」
テラスのいつもの席に、ナナは頬杖をついて座ってる。今日も眠そうな顔で。
そっか、さっき僕が貝殻の風鈴を鳴らしたから、ナナも来てくれたんだ。
なんとなく、忙しいかなとか、休んでいるかなとか、勝手に思い込んでいたので。
でも、急に声をかけられたから、そりゃびっくりするでしょ。
ぱちんと指を鳴らしたつもりで、僕の視界の窓とお茶をテラスのテーブルに出す。
「休んでおったが、H何某が来たと云うでの。眼が覚めたわ。今、ハナがそちらへ向かっておるぞ」
ナナは淡々とそう云うけれど。
ハナが?昨日の今日だし、ひとりじゃ危ないのでは。
迎えに行こうかな。
「おぬしから「今すぐ公園に」などと呼び掛けられて、ハナがおとなしくしておるはずがなかろ。心配無用じゃ。暇そうな「おねぇちゃん」が一緒じゃからの。タクシーで向かうようじゃ。じきに着くじゃろ」
貝殻の風鈴を鳴らして一斉に呼びかけたら、全員に聞こえるのはもちろん承知してたけれど。
そっか、さっきのはナナにも聞こえるように僕がどこかで意識していたのかも。そして、ナナに聞こえるという事は、当然ハナにも聞こえるという事。
ルリおばさんも一緒なら今日のところは安心だけれど、今後ナナに呼びかける時は、ハナに聞かせても大丈夫かどうか、気をつけないといけないかな。
「相変わらず、心配性じゃの。危険の伴うような話題なら、おぬしとて無意識にハナに聞かせまいとするじゃろ」
まあ、それはそうかも。
ふむ、と機械の左手をあごに当てて、ハンスは少し考えて、
「それでは、まずはぼくの事からお話ししましょうか。先程の彼らの反応を見るに、純真な子供の眼には、ぼくはだいぶ怪しい人物に映るようですし。もしやあなたやお仲間にも、そう思われていたのでは?」
特に気に病む様子もなく、普通のトーンでそう尋ねるので、つい反射的に、僕は素直にうなずいてしまう。
「あ、いや、ごめんなさい。最初だけ、見た目の印象だけ、ね」
慌ててそう付け加えながら、L、早く来て、と僕は心の中で願う。
こういうコミュニケーション的なものはやっぱり、僕では無理だ。
無敵のコミュ力を誇るLにお願いしないと。
「なんだそりゃ。そんなもの、誇った覚えはねーぞー」
はっはー、と基地のドアから陽気に笑い飛ばされた。
ハンスは静かに首を横に振って、
「いいえ、どうぞお気になさらず。このゴーグルに車椅子、機械の左手に、加えてこの声ですからね。どれひとつとしてまともではありませんから、純真な子供であればこそ、不思議に思うのも当然でしょう。そして、生まれつき身体のあちこちに不具合を抱えるのは、クローンの宿命のようなものでしょうね」
さらりと云うので、そのまま聞き流しそうになる。
身体のあちこちに不具合を抱える
クローンの宿命
「じゃあ、あなたは、その」
云い淀む僕に、にっこり笑いかけて、ハンスは云う。
「はい。ぼくは、ハンス・オスヴァルト・アンダーソン博士のクローン人間です」
ほら、やっぱり、と僕は思う。
やっぱり僕じゃダメだ。こんな重大な告白を、さらりとしてのけるハンスに対して、僕はどう応えたらいいのか、さっぱりわからない。
「そう、なんだ」
ぽつりと口からこぼれ落ちたみたいな僕の声はとても小さくて、目の前にいるハンスにさえ聞こえないのではと思った。
ハンスは変わらない笑顔のまま、小さくうなずいて、
「昨日の話のつづきをしましょうか」
何事もなかったみたいに云う。
昨日の話
ハンスのオフィスの応接室で、アラームで中断してしまった話、かな。
それともその前に、地下でヌガノマと対峙していた時に、時も場所もわきまえずについ尋ねてしまったあの話、かな。
「カジモドって何、というのがあなたの質問でしたね」
地下のほうだった。よく覚えてたなあ、と正直感心する。
ヌガノマの云う「がぶ、りえる」を不審に思ったハンスが僕にそれを尋ね、それに答えた僕が、逆にハンスに尋ねた。
「その、かじもど?って云うのは何」
そこでヌガノマが叫んで飛びかかって来たので、話は中断していた、のだけれど。
「はいストーップ!」
話を続けようと口を開きかけたハンスを、陽気なハスキーボイスが止める。
同時に、公園の入り口から猛ダッシュで駆けてきたLが、土煙を上げながら運動靴でスライディングをして、ベンチの前で止まる。
え、早くない?ススガ森から全速ダッシュで、10分足らずで来たの。
「そんなわけねーだろ。家を出たら、ちょうどシジマのじーちゃんが市内へ買い物に出るところでさー。軽トラ出してたから、乗っけてもらってそこで下ろしてもらったの」
公園の入り口を指差しながら、Lは僕にそう説明して、
「ハンスちゃん、こんにちはー」
にっこり笑って、目の前のハンスに元気に手を振る。
「おや、これは本家のおぼっ・・・いえ、お嬢様では。本日はわざわざお呼び立てしてしまい、申し訳ありません」
今日もガブリエルに制服を取られてしまったのだろう、Lは男子の制服の半ズボン姿だった。
その姿に一瞬迷いつつも、ハンスには、ちゃんとLだとわかったらしい。
パーティで一度顔を合わせているとは云え、あの時とは服装も違うし、観察力が鋭いのかな。
「何の観察力じゃ。眼帯であろ」
ナナにそう突っ込まれて、あらためてLを見ると、そうだった、あの日と同じ眼帯を着けてる。
それは、気づくよね。
「いやあ、話を止めちゃってごめんねー。ヌガノマの話は、ぜひ直接聞きたいなーと思ってさー。「海」経由で声は聞こえても、こっちから質問とかできねーからなー」
はっはー、とLはいつものように笑って「どっこらせ」と僕の隣に腰を下ろす。
僕はほっと息をつく。
なんだろう、百人力、というのはこの事かな、と思う。
何をおいても、Lほど頼りになる援軍はいない、よね。
ハンスはLと僕を見て、ゆっくりうなずいて、コホンと割れたスピーカーのような声で咳払いをひとつ。
「カジモドとは、フランス語で「Quasimodo」。不完全、とか、出来損ない、という意味の言葉です。彼のあだ名ですね。名付けたのは同僚のドクター・ブラウン。彼とは犬猿の仲、だったそうです」
不完全、出来損ない
ずいぶんひどいあだ名だなというのが、率直な感想だった。
ヌガノマが狂ったように怒るのも、無理はないかも。
「じゃあ、4号、というのもあだ名なの」
あの時のヌガノマを思い出して、そう、僕は尋ねる。
ヌガノマの「4号」に対して、ハンスがあえて「カジモド」と呼んだように、僕には見えたので。
あいつが嫌がるのを知っていて、わざと。
「あ、おまえ、それ」
Lに、基地のドアからそう云われて、僕はしまった、と思う。
そうか、その理屈で云えば、ハンスもそう呼ばれることはうれしくないはず。
「ごめんなさい。あの、嫌なら・・・」
云いかけると、ハンスは機械の左手を上げて、僕を制して、
「いいえ、大丈夫です。いずれにしても、正体を明かさない事には、ぼくの気が済みませんのでね」
そう云って、にっこり笑う。
「あなたは、こんなぼくを「仲間」と呼んでくれたのですから」
あ、それは、
何と云うか。誤解と云うか、まあでも結果オーライと云うか。
視線に気づいて横を向くと、Lが困ったような笑顔で僕を見て、また海で、
「おまえってさ、素直なんだか大胆なんだか、たまにわかんなくなるよなー」
いつもの陽気な声で云う。
「それが此奴の手口、手練手管よ。とぼけた顔で何を企んでおるやらじゃ」
ナナまでそんな事を云い出して、僕は慌てる、けれど。
まあ、ハンスに「K」と名乗ったのも、それを「仲間内の呼び名」と云ったのも、事実には違いない、よね。
その時は、全然、そんなつもりも何もなかったのだけれど。
そんな僕らの内輪の話など知る由もないハンスは、変わらず穏やかな表情で、
「ぼくは、ハンス・オスヴァルト・アンダーソンの4人目のクローンなのです。だから、「4号」です」
重たい事実を、割れたラジオのような声で淡々と語る。
「そして、そのクローンを作ったのが、カジモド。軍の研究者で、ウィリアム・ホワイトという男です。あなた方には、ヌガノマという名の方がわかりやすいかもしれませんね」
さらりと、そう云った、ので、
一瞬、ハンスが何を云ったのか、僕にはわからなかった。
クローンを作ったのが、カジモド
ウィリアム・ホワイトという男
ホワイトは、クローン技術の専門家だった。
それは、ナナにも聞いてた、けれど。
でも、
カジモドは、ヌガノマ。
つまり、
ハンスを作ったのは、ヌガノマ?
どうして?なんでヌガノマが?
予想外の答えに、僕の頭が悲鳴を上げてる。
だから、「4ごう」?
あんな、憎しみのこもった声で。
自分の作ったクローン人間に向かって。
ウィリアム・ホワイト
ナガヌマの、あの地下道の記憶で見た、彼の姿を思い出す。
背の高い、痩せた白人男性だった。年齢は、20代に見えた。
おどおどとした、自信のなさそうな若い研究者。
威嚇のためと云って拳銃を持ち出し、それをブラウンに咎められ、あたふたしていた。
彼が、クローンを作ったの。
ハンスや、もしかしたら、キクヒコさんも。
そして、彼が、ヌガノマ。
背格好や体格は、確かに近いかもしれないと思えるけれど、印象は、全く違う気がする。
ふむう、とナナが腕組みをして唸っている。
「おぬしの云う通り、イメージは全く違うの。じゃが、体型はほぼ同じじゃな。顔も、思い返せば、同じような気もするが、いずれも薄暗い地下じゃったからの。はっきり同じとは云い切れぬが」
Lが、公園のベンチの僕の隣で、すっと手を上げて、
「ホワイトが、クローンを作った。その目的は何だったの。しかも、よりによってH・O博士のクローン、だろ?それ、まさか博士の命令だったの」
ハンスにそう尋ねる。
「いいえ、お嬢様」
ハンスが静かに首を横に振ると、
「あー」
Lが上げたままだった手をぶんぶん振って、
「そのお嬢様はやめよ?ハンスちゃん、オレたち「仲間」なんだしさー。Lって呼んでよ」
ニヤリと笑う。
ハンスは数秒固まって、あ、始まるぞ、と僕は何かを覚悟する。
そして案の定、ハンス劇場が始まる。
「ああ、何という幸福でしょう。親愛なるL、ぼくは感動の余り、このゴーグルのレンズが曇るのを止められません」
また大袈裟に両手を広げて天を仰ぎ、わけのわからない事を云ったかと思ったら、白衣のポケットからレースのハンカチをひらりと取り出して、ゴーグルをつけたまま、そのレンズをきゅっきゅっと拭いている。
「おい、この男、「4人の子供たち」全員にこれをやらねば気が済まぬのか」
ナナがうんざりした顔で、テラスでお茶を啜っている。
「あー、ごめんねー。少なくともあと1回、Jにはやるだろーねー。ガブリエルはほら、あいつは「お坊ちゃま」って呼ばれるの平気だから。スルーじゃね」
基地のドアからそう云うLの声は、いつも通りどこか楽しそうだ。
ようやく感動が収まったのか、ゴーグルを拭き終えて、またハンカチを丁寧に畳んで白衣のポケットにしまってから、ハンスがあらたまって、
「親愛なるL、質問にお答えしましょう。クローンを作ったのは、あの男の独断です。博士の命令ではありません」
きっぱりと、そう云った。
そして、続けて、
「彼、ウィリアム・ホワイトは、H・O・アンダーソン博士に心酔していました。いいえ、正しくは、H・Oという幻想に、です。元ナチスの天才科学者であり、米軍の研究員でありながら軍を離れ、地下に秘密の研究所を作り、ロリポリの腹部を隠し持つ伝説の「H・O」を、あの男は狂信的なまでに崇拝していました」
いつも通りの芝居がかった話し方、ではあったけれど、でもどこか冷淡にそう語る。
狂信的な、崇拝
だから、クローンを作った?
その理屈も、よくわからない。
「得意なクローン技術で、崇拝するH・O博士に認められたかった、って事かねー。でもだからって、憧れの博士本人のクローンを作るって、だいぶ歪んでるよなー」
Lもしかめっ面で、首をかしげる。
「はい」
ハンスはまっすぐにLを見てうなずいて、それから僕を見る。
「少し話が逸れますが、先に父の話をしてもよろしいでしょうか。ああ、厳密には「父」ではないのですが、ぼくは彼に育てられましたので。H・O・アンダーソン博士、その人について、です」
Lがうなずいて、僕も黙ってうなずく。
「ありがとうございます」
ハンスはかすかに微笑んで、僕らにまた丁寧なお辞儀をする。
ハンスが口を開きかけたその時、
「キクター、はなちゃん来たよー」
公園の入り口から元気な声が響いて、私服のかわいらしいワンピース姿のハナが駆けてくる。
公園に面した路地にはタクシーが停まっていて、ルリおばさんが降り立った所だった。
「ちょっと、ハナ、そんなに慌てて、転ばないでね」
フード付きのパーカーに細身のジーンズというラフな格好をしたルリおばさんが、ハナを追いかけて小走りに公園へ入ってくる。
右眼の白い眼帯と、両手の包帯、そして肩にかけたピンクのバッグは、いつも通りだけれど、それを差し引いたら、おしゃれな休日のマダム、という感じ、かな。
高級ホテルのオーナー様には、やっぱり見えない。
普通の近所の主婦にも、見えないけれど。
「あー、メガネのおにぃちゃんー。あと、Lちゃんもー」
ハナはベンチの前まで来ると、足踏みしながらどこへ行こうか迷うみたいに僕らをぐるりと見回してから、Lの膝にぴょこんと飛び乗った。
「へっへー、オレの勝ちー」
膝の上のハナを両手で抱き上げて頬ずりしながら、Lは何やらご満悦だ。
「これはこれは、かわいらしいお嬢さん。今日もご機嫌麗しく、何よりですね」
ハンスはハナを見てにっこり笑う。
「はなちゃん、ごきげんだよー」
ハナはLに抱かれたまま、振り向いてハンスに「えへへー」と笑顔を見せる。
「キクちゃんの召集だって云うから、何事かと思ったら、これはいったい何の集まりなの」
少し息を切らしながらベンチの前までやって来て、ルリおばさんがため息まじりに云う。
「それは、その」
どう答えたものか、僕はもごもごと口ごもる。
そんな僕にふふっと軽く笑いかけて、ルリおばさんはじろりとハンスを見て、
「へえ、彼が噂の「メガネのおにぃちゃん」ね。あら、やだ、ほんとに似てるわねえ」
そう云って、ためつすがめつ、全く遠慮もなしにじろじろと彼を眺めるので、僕の方が困ってしまう。
いや、実際に困ってるのはハンスの方なのだろうけれど。
「ええと、親愛なるK、そして親愛なるL。こちらの素敵なマダムはどなたでしょう」
ぎこちなく固まったまま、首だけをわずかに動かして、ハンスは僕とLにそう尋ねる。
「Kの叔母さんで、ルリちゃんだよー。ハナちゃんの保護者?みたいな感じ?」
Lが陽気にそう答えると、ルリおばさんはキッとLをにらんで、
「だから、ミカエル、あんたって子はどうしてそう遠慮がないの。キクちゃんの叔母は、まあ仕方ないとしても、ハナの保護者はやめてよ。あたし、こんな大きい子供がいるように見える?」
え、見える?って、それは、見えるのでは。
ハナが2年生だとしたら7歳か8歳、まあ実際はたぶん違うはずで、5〜6歳くらいだとしても、ルリおばさんの年なら、ハナくらいの子供がいてもおかしくないよね。
と云うか、ルリおばさんて何歳なのだろう。
「おぬし」
「それ云うなよー」
海でふたりが同時に僕を止める。
どうでもいいけれど、何でそんなに息ぴったりなの。
Lが大袈裟に、ことさら明るい声で、
「えーだって、ルリちゃんのマンションにハナちゃんが住んでるんだから、保護者で良くない?そりゃ、ルリちゃんに子供がいるようには全然見えないけどさー」
そう云って、へへっと笑う。
あ、なるほど、そう云えばいいのか。
「あんたって、ほんと、まあいいわ」
あきれ顔で肩をすくめながらも、ルリおばさんはどこかうれしそうににやにや笑ってる。
さすが、L。
「いやあ、最近のおまえの無双っぷりの方が、よっぽど怖いよねー」
はっはー、と海でLが笑うと、
「全くじゃ。傍若無人にも程があろ。少しは自省せい」
ナナに怒られた。傍若無人て、そんな暴れん坊みたいな。Lも無双とか云うし、そこまでひどいのかな、僕。
ハナにも聞こえたらしい、また「わはははー」と楽しそうに笑ってる。
そんな僕らの騒ぎなど耳にも入らない様子で、じっとルリおばさんを見つめていたハンスが
「ルリ・・・さん?」
首をかしげて、しばらく固まっていたけれど、突然はっと息をのんで、
「もしや、あなたは、キリノルリさん、では!?」
雷にでも打たれたみたいに、両手を広げて何やら衝撃を受けている、けれど。
「そうだけど。何であんた、あたしのこと知ってるの」
さらりとルリおばさんはそう返す。
別に怒ってるとかそんな風ではなく、ただの素朴な疑問のような聞き方で。
ハンスは弾かれたように居住まいを正して、真っ直ぐにルリおばさんを見て、云う。
「ああ、これはとんだご無礼を。ご容赦ください、キリノルリさん。ぼくはハンス・オスヴァルト・アンダーソンと申します」
云いかけるハンスを、ルリおばさんはめんどくさそうにひらひらと手を振って止めて、
「知ってる。クヨウの顧問なんですってね。この子達から聞いてるから、自己紹介はいらないわよ」
そう云って、包帯ぐるぐるの両手をパーカーのポケットにぐいと突っ込んで、街角のやんちゃな不良少女のようにハンスをじろりと斜めに見下ろす。
「だから、さっさと質問に答えて頂戴。何でそのあんたが、あたしのこと知ってるの」
え、ちょっと待って。何でルリおばさんは、そんなにケンカ腰なの。
いや、これがルリおばさんには普通なの、かな。
僕には、ちょっと怖いのだけれど。
「跳ねっ返り、じゃからの」
ふふん、とナナはどこか楽しそうに笑う。
跳ねっ返りって、そういう意味なの。
てっきり、ナナに対して反抗的とか、生意気とか、そういう意味なのかと思ってたけれど。
「儂のみならず。あやつは世の全てに対して反抗的じゃ。「跳ねっ返り」とは、いわばあやつの生き様、じゃな」
ナナが可笑しすぎて、何かへんな事を云い出したみたいなんだけれど、L、僕はどうすればいいの。
「うん、面白そうだし、黙って見てればいいんじゃね」
Lは海でそう云って、ベンチの隣でハナを抱いたままにやにや笑ってる。
面白そう、なのかな。
さすがにルリおばさんも、いきなりハンス相手にケンカを始めたりはしないだろうけれど。
「勿論です」
ハンスはそう云って、うやうやしく車椅子の上でお辞儀をする。
「ご説明します、キリノルリさん。これもご存知かと思いますが、ぼくはハンス・オスヴァルト・アンダーソン本人として、12年前の撤退時に、軍と共にアメリカへ渡っています」
それは、ハンスから聞いたのではなく、ガブリエルがサモンジさんに調べてもらった彼の経歴から知った、のだったかな。まあ、ご存じな事に違いはないけれど。
「その後、こちらで認識が消された影響でしょう、ベースでの全ての研究データが、軍の内部で忘れ去られ、誰の眼にも触れない状態になっていました。良くも悪くも、です。長きに渡る貴重なアルカナの研究データを、そのまま人知れず、歴史の闇の中へ沈めてしまうわけにはいきません。そこで、僭越ながら、ぼくが回収させていただいたという訳です。勿論、必要とあらば、皆さんには喜んで提供させていただきますので、その点はどうぞご安心ください。それらの膨大なデータの中には、「キクタ」の事も、彼が救い出したふたりの子供の事も、洩れなく記録されておりました。只、プライバシーへの配慮でしょうか、各個人の詳細は、省かれておりましたけれども」
相変わらず、まるで用意してたみたいに、迷う事も口ごもる事もなく、流れるようにハンスはそう説明する。
やっぱり、そうだったんだ。
僕らの予想通り、ベースの研究データは、ハンスが持ってた。
軍の内部では忘れ去られた、アルカナの全ての研究データ。
「ふぅん」
こちらも相変わらず、ルリおばさんは興味があるのかないのかよくわからない返事をする。ポケットに両手を突っ込んだままで。
「そうは云っても、キクタが「どこ」から、あたし達を救い出したのかまでは、さすがに書かれていないのでしょ」
ハンスはうなずいて、
「はい、仰るとおりです、マダム。記録上は、「キクタ」が保護したふたりの子供「ルリ」と「キクヒコ」。そう記載されていたのみです。後は、あなた方の成長段階における、定期的な身体検査の記録などは、詳細に、全て残されておりました」
丁寧に、そう説明する。
「ふぅん。まあ、どちらもそれほど興味はないのよね。覚えてもいないし、思い出す必要も、今のところはないかしら」
ルリおばさんはひとりごとのようにそう云って、もうハンスには興味を失くしたように、ふっとハナを見下ろす。
「ハナ、ブランコに乗りたかったんでしょ。あたしと行きましょ。みんなはまだ、このおにぃちゃんと大事なお話があるんですって」
そう云って、Lの膝の上からハナを下ろして、手をつなぐ。
「ブランコ?乗るー」
ハナはにっこり笑って、それからLを見て、
「だいじなお話がおわったら、Lちゃんもブランコ乗ろーねー」
元気にLに手を振る。
「おーう、ハナちゃんとブランコ乗るー。お話が終わったら行くねー」
Lもにっこり笑ってそう云って、ハナの頭をふわふわっとなでてから、手を振る。
「ごめんなさいね、お話、途中だったんでしょ。あたしはあっちでハナを見てるから、どうぞごゆっくり」
ルリおばさんは僕らにそう云って、ハンスにぺこりと頭を下げると、ハナの手を引いて、電車ブランコへ向かう。
それほど興味はない
覚えてもいないし、思い出す必要も、今のところはない
そう、ルリおばさんは云ったけれど、本当かな。
「さての。跳ねっ返りの心中なぞ、わかるはずもない」
ナナはそう云って、早々に匙を投げる。
「うーん、強がり半分、本音が半分ってとこかなー。オレもわかんねーけど」
仲良く手をつないで公園の奥へ歩いて行くハナとルリおばさんの後ろ姿を見つめながら、Lは海で云う。
強がり半分、本音が半分
そうかも知れない。
思い出したくはない事も、きっとあるのだろうし。
でも、忘れたままでいいとは、思ってない、よね、きっと。
「親愛なるK、ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
じっと、ルリおばさんとハナの後ろ姿を見つめたまま、ハンスがぽつりとそう口にする。
「どうぞ、何?」
僕が云うと、ハンスはくるりとこちらを向いて、
「彼女の云う、「覚えてもいないし、思い出す必要もない」とは、どういう意味でしょう。まさか、文字通り「記憶がない」という意味ではありませんよね」
何か思い当たるフシでもあるのか、ハンスは真剣なトーンで、僕にそう尋ねる。
僕はまた迂闊な事を口にしそうで怖くて、黙ったまま隣のLを見る。
Lは小さくうなずいて、ハンスを見て、
「その通りの意味だよ。ルリちゃんには「記憶がない」、海とのつながりも切れてる。過去に二度、ヌガノマに意識を移されて、ルリちゃんは「記憶」と「海とのつながり」を失くしてるんだよ。今は、キクタの発明品のおかげで、日常生活には支障がない程度の「記憶は持ってる」けどね。以前の記憶は、失くしたまま」
Lがそう云い終えるよりも早く、ハンスはキッと口を引き結び、電車ブランコに乗り込むハナとルリおばさんをもう一度見つめて、それからうなだれるように下を向いてしまった。
「カジモド」
低く、小さな声は壊れたラジオのようにひび割れてる。
「あの男は、呪いなのでしょうか。どこまでもどこまでも、ぼくの人生に影のようにつきまとう。いいえ、ぼく自身については、構わないのです。あの男によって作られたのですから、それが逃れられない運命なのだとしても、仕方がありません。けれども・・・」
そう云って、ハンスはまた、口を引き結ぶ。悔しそうに握りしめた機械の左手が、ぎしぎしと軋むような音を立ててる。
「あー、ハンスちゃん?ルリちゃんの記憶に関しては、安心して。取り戻す手立ては、あるから」
Lが困ったようにこめかみの辺りを指でかきながら、ハンスにそう声をかける。
「それは、本当ですか」
顔を上げたハンスが、Lを見る。ゴーグルに隠れた眼は見えないけれど、大きく見開かれているような気がした。
「うん。海とのつながりは失くしちゃってるけど、記憶は海に保管されてる、はず、だよねー。だから、近々、Kの海にみんなで潜って、ルリちゃんの記憶の「切れ目」を見つけて、つなぎ直すつもり。時間はかかるかもしれねーけど、きっと取り戻せる」
Lがうなずいて、何故か照れくさそうにそう云うと、ハンスは僕を見る。
僕もうなずいて、
「ハナの海で、ナガヌマの記憶に潜って見せてもらった事があるから、だいたいの場所とやり方はわかるよ。あ、ハナも「王」なんだ。ナガヌマとつながりがあって、だから彼の記憶はハナの海にあるんだよ」
そう云うと、ハンスはもう一度、電車ブランコの方を眺めて、
「あのかわいらしいお嬢さんが、ナガヌママゴイチの「王」。何という、それこそ、運命としか・・・」
割れた声が、最後には言葉にならず、雑音まじりのノイズになってしまう。
「あ、ええと、ナガヌマの「王」は、元々ナナで。あー、ナナって云うのは、もうひとりのハナって云うか」
ハンスのノイズに釣られたわけではないのだろうけれど、僕までしどろもどろになってしまった。
「はい、わかります。あの凛々しい方のかわいらしいお嬢さんですね。なるほど、彼女が」
ふむふむとハンスはしきりにうなずいているので、たぶん、わかってくれたらしい。
凛々しい方のかわいらしいお嬢さん
「なんじゃ。何か云いたげじゃの」
ナナが薄灰色の眼を半目にして、僕の視界の窓をにらんでる。
いや、何か云いたいとかでなく、「凛々しい」っていう言葉が、すごくナナに合ってるなと思って。
「世辞はよせ。そんな事より、ヌガノマよ。あれの正体がホワイトなる研究者だったのであれば、跳ねっ返りの名を知っておったのも不思議ではないの。時期的には、合わぬ気もするが」
ナナはそう云って、唇に手を当てて考え込む。
きりのるり、オマエ、イツモ邪魔ヲスル
そうか、ナナがナガヌマの記憶で見たというH・Oの話しの通りなら、ホワイトやブラウンは秘密の研究所ではなくベースにいたはず。
そこでルリおばさんを見ていたのなら、「キリノルリ」というフルネームを知っていても不思議ではない、という事?
でも、時期的に合わぬ、は、確かに。
キクヒコさんとルリおばさんがキクタに救出されたのが20年前だとすると、その頃までホワイトやブラウンはベースにいたの?いや、ホワイトがレムナントなのだとしたら、年齢の問題はクリアできるけれど、ベースにレムナントの研究者がいたら、それは目立つのでは。
「まあそれも、ハンスちゃんに聞いてみりゃいいよねー」
海でそう云ったLが、ふふん、と声に出して小さく笑う。
その声に、何やら物思いに沈んでいたハンスが、はっと顔を上げる。
「すみません、つい、考え事をしてしまいました。ルリさんの記憶が取り戻せるのなら、それは何よりですね。ぼくに協力できる事があれば、どうぞ何なりと仰ってください」
そう云って、ハンスはかすかに微笑む。
さっきの彼の、「カジモド」という低いつぶやきが、まだ僕の耳に残ってる。
逃れられない運命、とも彼は云った。
その重さ、思いの深さは、僕には想像もつかないけれど。

午後の公園は今日も静かだった。
住宅街を隔てた大通りから、かすかに低くバスや車の走り去る音が遠く響いて、ハナとルリおばさんの乗る電車ブランコの錆びついたシャフトが、きいきいと寂しげにゆっくり鳴っている。
楽しそうなハナの笑い声も、どこか遠く聞こえる気がする。
「父の話、でしたね。元ナチスの天才科学者、というのは・・・」
そう口にして、無理して話を続けようとするハンスを気遣うみたいに、Lがまたすっと手を上げる。
「噂の事なら、もう知ってるよ。ナナちゃんがナガヌマの記憶で見た、H・O・アンダーソン博士自身の告白を、オレ達も聞いてるからねー」
ハンスは驚いた顔でLを見て、それから頬をゆるめてほっと大きな息をつく。
「そう、なのですね。それは、とてもうれしい事です」
そう云って、ハンスはまた電車ブランコを眺めて、
「凛々しくもかわいらしいお嬢さん、ナナさんには、感謝しなくてはいけませんね」
しみじみとうなずいて、笑顔を浮かべる。
「そんなものは不要じゃ。さっさと話を続けよ」
ナナはテーブルに頬杖をついて、照れくさそうに露骨に顔を歪めて云う。ハンスには、残念ながらその声は聞こえないけれど。
ハンスはあらためてこちらを向いて、さっきよりも少しだけ晴れやかな顔で、話し始める。
「父に関する様々な噂の大半は、ご存じの通りまったくのでたらめです。けれども、一部の噂は、全く根拠のない、根も葉もない話ではなく、父の取り巻きの研究者たちが、その出どころです。ご想像通り、彼らが自身のやましい行いを隠すための手段として、「H・O」という噂の人物像を作り上げたものだったのでしょう。「人体実験」や「人身売買」、そして「クローンの作成」、それらを実際に行なっていたのが、ドクター・ブラウンと、あのカジモドこと、ウィリアム・ホワイトです」
少し明るくなっていたハンスの顔が、「カジモド」の名でまたにわかに曇る。
「その上、ホワイトという男は、「人殺し」でもあります。同僚であるドクター・ブラウンを殺害し、彼の研究成果である人造アルカナを奪ったのです」
淡々とあくまで落ち着いた声で語るハンスの、「人殺し」という言葉に背筋がゾクッと寒くなる。
ヌガノマの、あの悪意に満ちた眼と声が僕の中によみがえる。
オマエモコロス
あれは、そういう意味だったの。
Lがすっと右手を上げて、云う。
「人造アルカナって、H・O博士は研究をやめたんだよね。それを完成させてたの、ドクター・ブラウンが?」
ハンスは無表情にうなずいて、
「はい。父は、その製造にはどうしても「人の意識」が必要という結論に行き着き、その結果、妄執から醒め、全ての研究資料を廃棄しました。しかしそれ以前に、ブラウンは密かに父のラボから資料やデータを少しずつ盗み出し、集めていたようです。彼の邪な計画への協力を、父に拒まれた腹いせもあったのでしょう。ブラウンは盗んだ資料やデータをこっそりとベースに持ち帰り、自ら研究を進めていたようです」
妄執とは云え、亡くした妻と子供たちを甦らせたい、というH・O博士の願いは純粋なものだったはず。
それらの研究成果やデータを、自らの邪な計画を拒否されたからと云って、盗み出すなんて。
許せない思いはあるのだろうに、ハンスはそれを表情にも声にも出さず、淡々と続ける。
「彼の野望は、人造アルカナ入りの黄金虫を作り出し、それをホワイトのクローン技術を使って大量に複製して、世界中の金持ちに売りつける、という物でした。レムナントという、不老不死の体を手に入れる事ができる奇跡の虫と称して、です。とても科学者とは思えない、浅はかで無知蒙昧な人物。そのくせプライドだけは高く、傲岸不遜で、ホワイトを常に見下していたと聞きます。そんな彼がいったいどうやって、人造アルカナの最後のピースである「人の意識」を手に入れたのか、それは不明です」
浅はかで無知蒙昧
本当に、そう思う。
そんな彼のくだらない自尊心や、いくらかのお金を稼ぐためだけに、ロリポリの幼生体である黄金虫や、人の意識まで道具のように使おうとするなんて、絶対に間違ってる。
「研究そのものはベースで行なっていたようですが、いかに愚かな人物であってもその研究内容を記録に残すほどの間抜けではなかった、という事でしょうか。ベースの記録には、それに該当するようなものはひとつも見当たりませんでした。当時ベースには多くの人がいたはずですが、さすがにベースの人間の「意識」を奪うような危険は冒さなかったはずです。施設内は、軍が常に眼を光らせていますから、やりたいと思ったとしても実行は出来なかった事でしょう。となると、どこか海外から、人身売買などで奴隷同然に連れてきた人を使ったのか、あるいは、まさかとは思いますが、地上へ出て街の人から・・・、いいえ、不毛な想像はやめましょう。兎に角、数はそう多くはなかったようですが、ブラウンは人造アルカナの製造に成功し、複数の完成品を密かに隠し持っていた。それは間違いありません」
淡々と、あえて感情を殺したような声で、ハンスはそう語る。
気の乗らない話だから、なのかな。いつものあの、芝居がかった大袈裟な動きや云い回しもない。
それは間違いありません
そう云い切るからには、ハンスにはきっと確たる証拠があるのだろうけれど。
ひとつ大きく息をついて、ハンスが話を続けようとした時、ぴこん、と僕のヘッドホンが鳴る。
警告音ではなく、通知音のような?
方角は、公園の入り口から、かな。
僕の反応に気づいたらしい、ハンスが公園の入り口を振り返り、車椅子をその場でくるりとターンさせて器用にそちらへ向ける。
小学校の制服を着た、ふたつの人影と、ふたつの白い「泡」が見える。
Jとガブリエルだった。
「お待たせー」
海の窓からガブリエルの声が云う。
ふたりが小走りに駆けて来て、ベンチの前に立つ。
Jはぺこりとハンスにお辞儀をしてた。
「これはこれは。本家のお坊ちゃまと、翠の黒髪の素敵なお嬢さん。本日は急にお呼び立てしてしまい、申し訳ございません」
ふたりを歓迎するように、大仰に両手を広げて、ハンスは車椅子の上で丁寧なお辞儀を返す。
「あー、Jちゃん、がぶちゃーん」
ふたりに気づいたハナが、電車ブランコの上から元気に手を振ってる。
「ハナちゃんこんにちはー、あ、ルリさんも」
ハナに手を振り返して、Jはルリおばさんにぺこりとお辞儀をする。
ルリおばさんはにっこり笑って、ふたりに手を上げて挨拶してた。
「Jちゃん、がぶちゃん」
ハンスがぽつりとつぶやくのを聞いて、Jが、
「あ、ガブリエルは、知ってますよね。ミクリヤガブリエルだから、がぶちゃんで。わたし、ジョウノジーンと云います。だから、Jです」
そう挨拶をするのを聞いて、ナナがテラスで、空を仰いでうんざりしたような顔をする。
Lは海で「きた」とつぶやいて、にやにやしてる。
「え?」
お庭の窓から、Jの不思議そうな声が聞こえるよりも早く、ハンスが機械の左手をがしゃがしゃ鳴らしながら大袈裟に広げ、天を仰いで、云う。
「ああ、翠の黒髪の素敵なお嬢さん、親愛なるJ。あなたのご丁寧なご挨拶に、感激のあまりぼくの機械の左手が震えを止められません」
止められません、って、わざとがしゃがしゃ鳴らしてるよね、それ。
だってさっきまで、そんな音してなかったもの。
「え、え?わたし、何かいけない事、しちゃったの」
突然のハンス劇場開幕に、かわいそうなJはすっかり海でうろたえてる。
「おかっぱ、気にするでない。おぬしの所為ではないわ。この男、少々おつむの具合がおかしいのじゃ」
頬杖をついてそっぽを向いたナナが、何だかひどい事を云ってJを慰めてる。
「へえ、すごいねえ、ハンス。この短時間ですっかり打ち解けてるなんて。キクヒコなんかよりよっぽど優秀なんじゃない?」
ガブリエルまで、どさくさに紛れて何だかひどい事を云ってる気がするけれど。
まあ、ふたりとも海で云ってるだけなので、ハンスには聞こえないからまだしも、かな。
「さ、立ち話もなんだし、ボクらも座ろうか。ほら、ミカエル、詰めて詰めて」
がしゃがしゃいいながら感動に打ち震えるハンスをすっかり無視して、ガブリエルはJを促して僕らの座るベンチに並んで腰を下ろす。
僕とLを真ん中に、Lの隣にJ、僕の隣にガブリエルが座った。
眼の前に並んだ4人を見て、ハンスがまた奇声を上げて震え出す。
「ああ、何という素晴らしい光景なのでしょう。あの「4人の子供たち」が、今ぼくの眼の前に」
うん、いや、そうだけど。一昨日、パーティでも会ったでしょ。
それに、ハンスはずっと誤解してるけれど、実は僕は「4人の子供たち」じゃないんだよね。
「あーまあ、それね。ほんとはおまえじゃなくてアイなんだろーけど。でも、面白いからこのままでいいんじゃね」
Lは無責任に海でそう云って、いつものように、はっはー、と笑い飛ばしてる。
ナナも、ふむとうなずいて、
「アイをここへ巻き込むのは、おぬしも本意ではあるまい」
まだうんざりした顔のまま、ちらりとこちらを見て云う。
それはまあ、そうだけれど。
わざわざその誤解を解いて、アイをハンスに紹介するというのは、何か違う気がする。
アイだって、いきなりそんなこと云われても、何が何やらわからないだろうし。
ひとしきり感動に打ち震えていたハンスが、ようやく落ち着きを取り戻したのを見計らって、
「それで」
とガブリエルが口を開いて、
「海でおおよその話は聞いてたけど、K、まだハンスに、あれを聞いてないんだね」
そんなことを云う。
ハンスに、あれ
云われて、思い出す。赤ずきんちゃん、かな。
「どうしてハンスの「泡」は透明なの?」
思い出して、ついそのまま口に出してしまったら、ハンスが驚いた顔で僕を見た。
「おや、親愛なるK。さすがですね、話を戻してくださるとは」
話を戻して
何の事?
ガブリエルが真面目な顔で僕を見て、
「ドクターブラウンの、人造アルカナの完成品の話、だよね。さすが、K」
そんな事を云って、ふむふむとしきりにうなずいてる、けれど。
「ご明察です」
ハンスが、ぽんと手を叩いて、
「先程云った「複数の完成品」のひとつが、ぼくの中のアルカナです。改造され、「輪」の能力を持った人造アルカナですね。ぼくには見えませんが、人造アルカナの「泡」は、透明なのだそうです」
そう説明してくれて、ははあと納得した。
つまり、僕はガブリエルの誘導尋問に引っかかった、という事かな。
「引っかかった、だなんて、人聞きの悪い。いつものキミの名推理、でしょ」
海でそう云って、ガブリエルはくすくす笑ってる。
そんな裏側はつゆ知らず、感心した顔のまま、ハンスは続けて、
「複数の、と云いましたけれど、ぼくが把握している「完成品」は、ふたつだけ、です。ぼくの中にあるひとつと、もうひとつは、先日、偶然にもハル君の手に渡ってしまった黄金虫の中に入っています」
淡々とそう云った。
「ほらね、さすが名探偵コンビ」
楽しそうにガブリエルが云うので、僕も思い出す。
ルリおばさんがハルのスマホの記憶を読んでくれた時に、Jがぽつりと云った
「ロリポリの幼虫なんだとしたら、アルカナが中に入れるのかも」
という天才的なひらめき発言の事、だよね。
「え、わたし?」
お庭の窓から、Jが云う。
本人は、もうすっかり忘れてるみたいだけれど。
Lがまた、すっと手を上げて、
「ハンスちゃん、ひとつ教えて。黄金虫の位置は、どうやってわかったの。ハルを見つけて、助け出してくれたのは、黄金虫の居場所がわかったから、だよねー?」
そう尋ねると、ハンスはまた、眼を丸くして(丸いゴーグルに隠れて実際にはその眼は見えないけれど、たぶん、丸くして)驚いて、
「いやはや、さすが、「4人の子供たち」と云うべきなのでしょうね。驚きました、そこまでお見通しとは」
ははあ、と大きく息をついて、それからゆっくりと説明を始める。
「人造アルカナは、モニカのレジデュから作られています。レジデュというのは、レムナント化した「王」の海に降る白い灰の事です。レジデュは英語で「residue」、残渣、残留物、残り物、といった意味の言葉です。名付けたのは、ベースの研究者のひとりだそうです。「王」であるモニカは、すでに亡くなっていますが、彼女のゴースト、ドーリーはぼくの元にいます。ドーリーには、モニカがレジデュを分け与えた人造アルカナの位置がわかるのです」
そう、ハンスは云う。淡々と、ひび割れたような、静かな声で。
レジデュの事は、あのナガヌマの記憶でモニカ自身の説明を僕は聞いていたし、そのモニカがすでに亡くなっていて、彼女のゴーストがドーリーである事も、ハンスから聞いて知っていた、けれど。
また、あの胸を締め付けられるような喪失感に襲われそうになって、僕はぐっと唇を噛み締める。
何か察したのかな、Lががしっと僕の肩を組んで、その小さな手が僕の肩をぽんぽんとやさしく叩く。
Lはまっすぐにハンスを見つめたまま口を開いて、
「もしかして、モニカのアルカナって、A-0なの」
めずらしく低いトーンでそう尋ねたので、僕は驚いてLを見る。
A-0?
Mの前の「王」で、亡くなった王。
だから、次の王であるMはA-0の記憶を引き継いだ。
モニカのアルカナって、A-0なの
Lの言葉が、僕の頭の中でぐるぐる回ってる。
モニカのアルカナが、A-0?
それなら、モニカとMは、別人なの。
ハンスは、ぽかんと口を開けて、しばらく言葉を失くしたように、Lを見つめていた。
「いやはや、驚きました」
しばしの沈黙の後、ようやくそれだけ云って、ハンスはまた、大きく口を開けて、息を吸い込む。
まるで、呼吸することすら忘れていたみたいに。
「まさか、A-0をご存じとは。でもいったいどうして、会えるはずは、ありませんよね」
呆然とつぶやくように、ハンスはそう云って、酸欠の金魚みたいに、口をぱくぱくさせて、また大きく息を吸い込んでいる。
「会えるはずがない、とな」
ナナがぼそりと、怖い顔で視界の窓をにらみつけながら云う。
「と云うと?」
さらりと、何でもない事のように、ガブリエルがハンスに尋ねる。
はっと我に返ったように、ハンスはもう一度、短く息を吸い込んで、
「ああ、いえ、失礼しました。A-0が亡くなったのは、70年以上前、ロリポリの研究施設、ベースがひとまずの完成を見た頃と聞いています。70年以上前と云えば、キクタがちょうど、今のK、あなたと同じ年頃ではなかったのでしょうか。当然、あなた方、4人の子供たちは、まだ生まれてもいない頃ですね」
いつもの流れるような話し方ではなく、まだどこかぼんやりと、我を忘れたような口ぶりで、そう答える。
70年以上前
80年前にロリポリが落ちて来て、それからわずか10年足らずの間に、A-0は亡くなったの。
でもそれだと、おかしい。
あのヌガノマの記憶で、モニカは、レムナントだった。
モニカがレムナント化するためには、死にかけたモニカに、A-0が入らないといけないはず。
ぐっと、僕の肩を抱くLの手に力がこもって、Lが静かに云う。
「A-0が亡くなってしまったら、モニカはレムナントになれないんじゃない?」
Lの青い眼が、じっと分厚いレンズ越しに、ハンスの眼を見つめる。
ふうっとため息のような大きな息を吐いて、ハンスは口を開く。
「仰る通りです、親愛なるL。通常は、死にかけた人に、アルカナが入る事でレムナントになるとされています。最初のレムナント、ナガヌママゴイチがそうだったためです。けれど、モニカの場合は、違います。逆だったのです」
モニカの場合は、逆だった?
何かの記憶を思い返そうとするみたいに、ハンスは公園の上の空を見上げる。
秋の空には、のどかなひつじ雲が、僕らの事など知らん顔で、ゆっくりと流れるように浮かんでいる。
「勿論ぼくも、この眼で見た訳ではありません。ベースの記録によると、死期を悟ったA-0が、自らモニカの中へ入ったのだそうです。寿命だったのか、何かアルカナに死をもたらすような病に罹っていたのか、それはわからないようですが、モニカの証言によれば、「双方合意の上」で、死にかけたA-0がモニカの中へ入った。そしてその結果、モニカはレムナント化した。そういう事のようです」
死期を悟ったA-0が、自らモニカの中へ
双方合意の上で、死にかけたA-0がモニカの中へ
胸を締め付けるような痛みと共に、ハンスの割れた声が、僕の頭の中で響く。
ハンスは空を見上げていた顔を下ろして、やさしげな僕を労わるような笑みを浮かべて、静かに云う。
「A-0というアルカナは、とても好奇心旺盛な、記録によれば「まるで幼い少女のような」かわいらしい性格をしていたそうです。ロリポリの中から、見知らぬ星の住人である研究者たちに、真っ先に話しかけてきた事からも、それがわかるような気がしますね。モニカとは特に気が合ったようで、まるで友達同士のように、よくふたりで長々とおしゃべりをしていたと、研究者たちの記録の中にも頻繁に書かれているほどでした。数年間続いたふたりの友情が、A-0の死によって終わりを迎えると知った時に、彼女たちの間で、いったいどんな相談がされたのか、そこまでは、記録には残されていません。モニカ自身も、その詳細までは語らなかったようです。ただ一言、「双方合意の上」とだけ、記録にはそう書かれていました。そしてレムナントとなったモニカは、ベースから姿を消します。彼女が密かに向かった先は、噂に聞く、悪名高きH・Oの秘密の研究所だった、という訳です」
悲しげにその笑みを少し歪めて、ハンスはうつむいて、口を閉ざす。
Mの事を、僕は思い出していた。
アルカナの王、M-0。
そう名乗って、僕らに話しかけてきた彼女は、ひょっとしたら、本当にアルカナだったのかもしれない。
だから、というわけではないけれど、僕には、モニカとA-0の友情は、わかるような気がした。
その相手が、まもなく死んでしまうと知った時に、どうにかして、その記憶や思いを残したいと願う、その気持ちも。
頬杖をついていた姿勢を正して、テラスの椅子にまっすぐに座り直し、ナナがぽつりと、
「賭け、のようなものだったのかもしれぬ」
つぶやいて、そして誰に聞かせるともなく、云う。
「お互い、どうなるかは、わからぬ。ただ事実として、人に入ったアルカナが消滅した事をA-0はその身をもって知っておった。そして、死にかけた人に入りレムナント化したナガヌマという例も、赤子に入って助かったキクタという例も、その眼で見て知っておった。モニカに入る事で消滅したとて、いずれにしろ死ぬ身であれば、同じであろ。ならば、万が一、逆ではあるがナガヌマのようにレムナント化して、灰の海にその記憶だけでも残せるのならと、賭けてみたかったのであろうよ。モニカにとっては、ナガヌマを追うならばレムナント化はむしろ望むところじゃろうしの」
賭け、とナナが云うのは、半身に火傷を負って死にかけたハナの命を救うため、ナナがハナの中に入る事によってレムナント化した、その時の思いと重なったから、だろうか。
「予想などできぬ」と、あの時ナナは云ってた。
一縷の望みに賭けるような思いで、ナナはハナのレムナント化に臨んだ。
モニカとA-0も、おそらくそう。
うつむいていた顔を上げて、ハンスが口を開く。
「ぼくは子供の頃に、モニカには会っています。同様に父のラボで、ナガヌマにも何度か会っているはずです。しかし生まれつき体が弱く、幼い頃はほとんど寝たきりのような生活で、頻繁に高熱を出しては生死の境をさまようような日々でしたので、残念ながら、ほとんど覚えていないのです。後で父に聞いたところによると、看護士だったモニカは、親身になって、ぼくの面倒を看てくれていたそうです。とても恵まれた環境とは云えないあの地下の穴ぐらで、死にかけのぼくが死なずに済んだのは、多分に、モニカのおかげだったのでしょうね」
あの地下で会った時、「こんなところ」で何を、と云った僕に、少し寂しそうな顔を見せたハンスを思い出す。
「こんな暗くて狭い、カビ臭い穴ぐらのような場所、ぼくも嫌いなんです」
あの時ハンスはそう云ったけれど、あれは決して本心ではなかったのだろう。
暗くて狭い、カビ臭い穴ぐらのような場所でも、彼にとっては、生まれ育った思い出のある、大切な場所のはず。
「モニカがナガヌマと共にラボを去って以降、ぼくは彼女に会う事はありませんでした。だから、その後の彼女がどこでどうしていたのか、いつ頃どこで亡くなったのかは、残念ですが、わからないのです。4年前、クヨウの顧問としてこの街に戻ったぼくは、父のラボで、彼女、ドーリーと再会しました。以来彼女は、ぼくのそばにいてくれています。話す事はできませんので、何を思っていてくれているのかは、わかりません。時々、父の様子を見にラボへ行ったり、そうかと思えばパーティについて来たりもします。先日は、Kとナナさんのためにお茶を出してくれましたね。初めての事で、ぼくもとても驚きました」
そう云って、ハンスはかすかに微笑む。
「じゃあ、あのパーティ会場で、僕を「渦」の力で意識空間に引き込んだのは」
思わずそう尋ねると、ハンスはうなずいて、
「ええ、彼女です。あの時あの場所で、何故彼女がそうしたのかは、ぼくにはわかりません。あなたに、あの風景を見せたかったのでしょうか。あれが今の彼女の「海」なのか、それともあの景色に何か特別な意味があるのか、残念ながらそれも、ぼくにはわかりません」
申し訳なさそうに、苦笑する。
僕の肩を抱いていた腕を、急に思い出して恥ずかしくなったみたいに、Lはぱっと離して、その手を上に上げて、
「ちょっと待って、ハンスちゃん。今、ドーリーが「時々、父の様子を見にラボへ行ったり」って云ったの。父って、その、H・O博士は、今もラボにいるの」
怪訝な顔で、そう尋ねる。
確かに、ハンスはさっきそう云ったし、そう聞こえた。
それなら、地下の秘密の研究所で、H・O・アンダーソン博士は、今も生きている?
「はい」
あっさりとうなずいて、ハンスは機械の左手で、足元の地面を指さして、
「ちょうどこの、真下辺りに、ロリポリの腹部が落下したクレーターがあります。この公園の認識が消されているのは、そのためです。中心には父が「揺り籠」と呼び、軍から隠し通したロリポリの腹部が今もあり、それを囲むように、父のラボが作られています。父は今もその「揺り籠」の中で、眠り続けています。110歳を超える高齢ですので、ほとんど昏睡状態で、滅多に話をする事もできませんけれど。4年前、アメリカから戻ったぼくが真っ先にその場所へ確認に向かうと、「揺り籠」で眠る父を見守るように、そばにドーリーが佇んでいたのです」
ハンスの言葉に、はっと息を飲む音がして、横を見るとLの向こう側で、Jが灰色がかった大きな眼を見開いて、涙のしずくをぽろぽろこぼしていた。
そのJの涙を見たからではなく、ハンスの言葉に、僕もぎゅっと胸を締め付けられていた。
だから、Jが泣くのを見ていなかったら、たぶん僕の方が先に泣き出してたかもしれない。
上げていた右手を下ろしたLが、ふんと鼻でため息をついて、今度は左手で、Jの肩をぐいっと少し乱暴に抱き寄せて、ぽんぽんとやさしく叩いてる。
「どうして、と聞くのは、おかしいかもしれないけど。アンダーソン博士は、今もまだ」
そう、尋ねるともなくつぶやいて、ガブリエルが口ごもる。
ハンスはそんなガブリエルを見て、機械の左手を胸に当て、小さくひとつうなずいて、
「お坊ちゃまのやさしさに、感謝いたします。12年前、この地を離れる前に、父はぼくに云いました。「全てを見届けるまで、死ぬに死ねない」と。「全て」と父が云うのは、80年前のあの日、ロリポリの腹部を隠すと決めた自身の選択が招いた結果、その「全て」なのでしょう。その強い意志が、父を未だに生かし続けている」
そう云って、ハンスはかすかに首を振る。
「いいえ、正確には、その意志だけでは、ありません。父が「揺り籠」と呼ぶロリポリの腹部、その中には「オレンジの海」がまだ残されています。「海」と呼ぶにはいささか頼りない、小さなプールか浴槽のようなものですが。その中に半身を浸けるようにして、父は眠っているのです。わずかに残された、ロリポリの子供たち、眠り続ける黄金虫たちと一緒に。ロリポリの栄養源でもある「オレンジの海」には、生命を維持するような何か不思議な力があるのでしょう。そのおかげで、昏睡状態ではありますが、まだ父は生きています。おそらく、彼が全てを見届ける、その日まで」
ハンスはうつむいて、地面を見ている。その下の地下深くにあるという博士のラボ、そこに未だ隠されたままのロリポリの腹部「揺り籠」と、その中で眠り続けるH・O・アンダーソン博士と、黄金虫たちに思いをはせるように。
意志
全てを見届けるまで、死ぬに死ねない
それは、何て強い思いなのだろう。
80年という長い長い年月、途中で「妄執に憑りつかれ」ながらも、それでも博士は一貫して「ロリポリの子供たち」を守り続け、110歳という高齢で、昏睡状態になりながら、今もそれを続けてる。
「天晴れ、大した男よ」
ナナがため息まじりに、感嘆するように云う。
博士はもちろん、だけれど、ハンスもだ。
ハルの行方不明事件の時の、この公園を閉鎖した彼の手際の良さ、判断の早さにも、うなずける。
彼は間違いなく博士の意志を受け継いでいて、この公園を、その地下にあるラボを守ろうとしてる。
あの地下道のあちこちにあるというセンサーと監視カメラも、あの時に彼が云った「たまに迷い込む誰か」の安全のためはもちろんなのだろうけれど、本当の目的は博士のラボを守るため、なのだろう。
そう考えて、ふとひとつの懸念が僕の中に浮かぶ。
ヌガノマ
あいつが我が物顔であの地下道を徘徊していたのは、その正体がかつて博士のラボに出入りしていたホワイトなのだとしたら、それは納得だけれど。
それなら博士に、危険はないのだろうか。
あいつの目的は、未だによくわからないけれど、それが「王」の力を持つ子供「ガブリエル」なのだとしたら、博士やロリポリの子供たちに、危険が及ぶ心配はない、のかな。
「念のため、確認だけど」
ガブリエルが、小さく手を上げて、
「ヌガノマが博士のラボに入り込んだりは、当然できないようになってるんだよね?」
僕の代わりに、ハンスにそう質問してくれる。
ハンスはにっこり微笑んで、
「はい、ご心配いただき感謝いたします。12年前、ぼくがこの地を離れる際に、父のラボは物理的に閉鎖して、誰も入れないように塞いでいました。4年前にぼくが戻った時にその封鎖は解除しましたが、その間に破られたり何者かが侵入したような形跡は見受けられませんでした。その後、最新式の電子ロックを設置していますので、あの男がラボに入り込むことは、まず不可能でしょう」
そう説明してくれる。
「何を考えているのやら、未だにあの男は、あの地下道を徘徊しているようですね。あるいはもはや、何も考えられないほど意識が混濁しているだけなのかもしれませんが」
ハンスの顔から微笑みが消え、何か考え込むように、わずかに首をかしげる。
「全てを見届ける、そう云った父の最後の懸念は、あの男なのでしょう。直接的には、父には何の責任もなく、全てあの男が勝手に行なった事ではありますが、ナチスの噂を否定も肯定もせず、ラボに出入りする彼らを拒絶する事も父はしなかった。その事に、父なりに責任を感じているのかもしれません」
ハンスの言葉を聞いて、それなら、いったいどうしたら、と僕は考えてた。
ヌガノマの問題に決着をつけるには、どうすればいいのだろう。
H・O博士の最後の懸念を払拭して、安心させてあげたいという気持ちはもちろんの事、僕らの安心安全のためにも、どうにかしたいところではあるのだけれど。
前にみんなで話したように、ヌガノマをどうにかして捉えて、警察に突き出すだけで、それで解決と云えるのだろうか。
認識の消されたヌガノマは、その罪を罰せられる事がないというのに。
ただ、留置所なり刑務所なりにあいつを閉じ込める。僕らは、それで安全になるのかもしれないけれど、それで解決、と云えるのかな。
だからと云って、マンガや映画のように、「悪」であるヌガノマを倒すとか、もっと具体的に云えば殺すとか、そんなのが問題の解決になるとは、僕には思えない。
「悪」であろうと「怪物」であろうと、彼がウィリアム・ホワイトという人間である事に変わりはなく、それを殺してしまえば、あいつと同じ「人殺し」になってしまう。
いつの間にか、Jの涙が止まってたのを確認したのかな、Lが左手をその肩から離して、まっすぐ上に挙げる。
「さっきの、ホワイトがドクター・ブラウンを殺害したって話だけど、証拠とかはあるの。いや、そもそも認識が消されてるからね、殺人罪で起訴できる可能性はないに等しいんだろうけど。でも少なくとも、誘拐と違って殺人には時効はないからね。逮捕される可能性はあるかも?って思ってさ」
そう尋ねるLの声に、いつもの陽気さが戻ってる気がする。それでも重い話には違いはないから、いつも通りというわけではないけれど。
ふむ、と機械の左手をぎしぎし鳴らして、その手をあごに当てながらハンスは記憶を辿るように、
「なるほど、仰る意味はわかります、親愛なるL。あの男を殺人の罪で逮捕・拘禁する事ができれば、それをもって一定の解決とする事は、あなたの仰る通り、可能かもしれません。ですが、残念ながら、その証拠となると、難しいかもしれません。30年近く前の話ですから、ぼくも見ていた訳ではありませんし、父もその現場を目撃した訳ではないようですので」
そう云って、コホンと小さく咳払いをして、話し始める。
「父から聞いた事件の概要は、こんな話です。今からおよそ30年ほど前、モニカとナガヌマが父の元を去った、その少し後の事だったようです。当時、父は80歳を超えていたと思います。まだオレンジの海のプールに浸かってはいませんでしたが、モニカとナガヌマが去った寂しさからでしょうか、体調を崩して、ラボで臥せっていたそうです。そこへ、全身血塗れのホワイトがやって来て、ラボのドアを開け、その場にうずくまりながら、父に云ったのです。「ブラウンと揉み合いになり、殺してしまった」と。見れば彼の左腕が無く、黒く焦げた肩口から大量の血が流れていました。「ライフルが暴発して、左腕が吹き飛ばされた。爆発をまともに受けたブラウンは即死した。自分も出血多量で、間もなく死んでしまう」そう訴えるホワイトの左眼には、ライフルの破片と思しき捩じれた鉄片が深々と突き刺さっていたそうです」
左腕が吹き飛ばされた
左眼には、捩じれた鉄片が深々と突き刺さっていた
それなら、自ら左腕を切り落としたとか、左眼を潰したとか云う噂は、全くのデタラメだったの。
「そんなものかも知れぬの、人の噂なぞ」
はっと短いため息をついて、ナナがつぶやく。
「そりゃまあ、ね。だってそんなの、痛いじゃん」
基地のドアから、Lが云う。
それは、そう。
ハンスはうつむきがちに、話を続ける。
「全身血塗れで、左眼と左肩から大量の血を流しながら、ホワイトは父に云います。「オレンジのプールに入らせてほしい」あの男は、そう父に要求したそうです。その目的は、明らかでしょう。眼には見えませんので確かではありませんでしたが、ロリポリの腹部である「揺り籠」、そのオレンジの海には、アルカナが存在しているはず。それが当時の父たちの共通認識だったようです。実際に、アルカナはいました。後に、あなた方のよく知る「キクヒコ」とあちらにいる「ルリさん」、ふたりに入っていたのは、ラボの「揺り籠」にいたアルカナだったと判明した、そう父から聞いています」
だとすると、キクヒコさんとルリおばさんに入ったのは、人造アルカナではなく、普通のアルカナ。
それは、そうだ。ルリおばさんの「泡」は透明ではなく、青だった。
改造やらと云うのは、アルカナが入った後で、何か薬を使ったり体に何かをされたりした、のか。
「あー、遺伝子操作、ゲノム編集ってやつだなー。DNA配列をいじって、つまり足したり引いたり置き換えたり?よくわかんねーけど、何かするやつ。もちろん、違法だけど、それがアルカナの能力の改造に使えるって気づいた点だけで云えば、優秀な学者だったんだね、ホワイトだかブラウンだかしらねーけど」
ぜんぜん楽しくなさそうな声で、Lが海でそう説明してくれる。
確か、遺伝子操作そのものも、将来的には遺伝的な病気などの治療に期待されてるとかって、何かで見たか聞いたような覚えがある。Lの云う通り、今の時点では倫理的な問題で違法だそうだけれど。
「父は、ホワイトのその要求を拒否しました」
淡々と、ハンスは云う。
それは、そう思う。たぶん、僕らは満場一致で、博士の判断に賛成だろう。
さんざん好き勝手に、軍から身を隠した博士の立場を利用しておいて、自分が死にかけたからと云って、「アルカナのいるプールに入らせて」というのは、あまりにも虫が良すぎる。
誰にでもやさしく、どんな相手であっても一度は歩み寄りの姿勢を見せる天使のようなJでさえ、ハンスの言葉に、硬い表情で小さくうなずいてた。
僕らの反応を確かめていたわけではないのだろうけれど、ハンスはそこで大きく息をついて、また話し出す。
「呆然とするホワイトに、「自業自得だ」と、「いずれそんな事になるだろうと思っていた」と、父はそう云って、ラボの入り口でうずくまるあの男の眼の前でその扉を閉め、内側から施錠したそうです。少しの間、扉の外からは何事かを必死に訴えるホワイトの悲鳴のような叫び声が聞こえていたそうですが、それはすぐに止み、静かになりました。まさかその場で死んだのではと思い、父がドアを開けるとそこにホワイトの姿はなく、地下道に点々と血の跡が続いていたそうです。それを辿ると、彼らが倉庫兼研究室として使っていた、地下の小部屋へと続いていました。元々昔の坑道であった地下道において、往時は倉庫として使われていたと思しき、5m四方ほどのスペースで、ホワイトとブラウンが共同で使用していた場所です。ベースから盗み出して来た資材や、ベースには置いておけないような研究の成果物が乱雑に置かれた小部屋でした」
あの地下道が昔の坑道なのだとしたら、その全体の規模はかなりのものになるのだろう。
僕がナナと一緒にナガヌマの記憶で見たのはそのほんの一部、穴に落ちたハナと一緒に歩いた部分を合わせても、まだまだ全体には遠く及ばないに違いない。
「血の跡を辿って父がそこに着いた時、ブラウンの物と思しき引き出しやキャビネットが根こそぎひっくり返され、散乱した資料や物の上に、ホワイトが倒れていたそうです」
そこでハンスは一度言葉を切り、まっすぐにこちらを見て、
「墨のような真っ黒な肌のホワイトが、全身から、けもののような酷い臭いを発して」
そう云って、黙り込む。
墨のような真っ黒な肌は、わかる。レムナントの特徴だ。
いや、けもののような酷い臭いも、わかると云えばわかるのだけれど。
Lが小さく手を上げて、
「たしかにあいつは、けもの臭って云うのかな、酷い臭いをさせてたけど、その理由がハンスちゃんにはわかるの。てっきり、下水のにおいが染みついてんのかと思ってたけど」
そう尋ねると、ハンスはうなずいて、口を開く。
「はい、おおよその予想ではありますが。と云うのは、ブラウンは、いくつかの「成功した人造アルカナ」を隠し持っていましたけれども、他にも多くの、失敗作や試験品を保管していたのです。その中には、「人の意識」ではなく、「動物の意識」を使用したものもあったのでは、というのが、父の推察でした。容易く使う事の出来ない人の意識の代替品として、地下や付近でも手に入るネズミやその他の野生動物を捕らえて、試験的に使っていたのではないかと。あるいは遺伝子改造の材料として、多くの動物のサンプルを保管していたのか、とも。瀕死のホワイトがレムナント化のために使用したのは、そんな試験品のいずれか、あるいは「動物の意識」を元に作られた人造アルカナの失敗作だったのでしょう。もしかすると、それらを複数、まとめて使ったのかもしれません。あの男が全身から発するけもののような匂いと、元MIT出身の科学者とはとても思えないような知能および意識レベルの低下は、それが原因だと思われます。それこそ、「自業自得」と云うべきものでしょうけれど」
淡々と冷静に、むしろそれが残酷に思えるくらい無感情に、ハンスはそう云い切った。
カジモド、「不完全」「出来そこない」というあだ名は、そうなる前のホワイトに対して、ドクター・ブラウンが付けたものだったという事だけれど。
レムナント化の際に、そのブラウンの失敗作を使ってしまうなんて、皮肉と云うか、哀れと云うか。
ただ、だからと云ってあいつをかわいそうだとも僕には思えなくて、ハンスの云う通り、それこそ「自業自得」なのかなと思う。
「それじゃあ、「即死だった」というブラウンの死体は、博士も確認まではしていないんだね。ホワイト自身がそう云った、というだけで」
ガブリエルが尋ねると、ハンスはうなずいて、
「お坊ちゃまの仰る通りです。かつては坑道だったという地下道はかなり広く、元々ラボからほとんど外へ出た事のない父には、知っている道の方が少ないくらいです。あの男が、彼らしか知らないような脇道に死体を隠したか、そもそも犯行現場がそんな場所で、死体はそのまま放置されたのかもしれません。ですので、親愛なるLの云うような、殺人の証拠となると、難しいかと思います」
淡々と、けれど少しだけ残念そうに、そう答える。
「ホワイトの云い分を聞いた限りじゃ、殺人と云えるかどうかも微妙なラインだよね。公選弁護士でも付けば、「ライフル暴発による事故」で通そうと思えば十分通せちゃうだろーしなー。「揉み合いになり、殺した」っていうあいつの証言だけで、死体もないわけだし」
Lは腕組みをして、ふむーとうなってから、
「そんな事より、その後どーなったの。ごめん、そっちの方が、あいつの逮捕なんかより全然気になるんだけど」
しれっとそんな事を云う。
正直なLらしい、率直なご意見だけれど。
逮捕なんかより?かどうかはともかく、僕もその後の話は気になる、かな。
ハンスはLにうなずいて、続きを話し始める。
「父はそんなホワイトをどうする事もできず、レムナント化してしまった事に絶望を感じながらも、その場に放置するしかなかった、と云います。数日後、眼を覚ましたホワイトは、何事もなかったかのように父のラボへやって来て、平然と云ったそうです。「レムナントになった。これで博士の役に立てる」と。どんな思い違いをしていたのか、自分が、ラボを去ったモニカやナガヌマの代わりになれるとでも思っていたのかもしれません。勿論、父がそんなホワイトを傍に置くはずもなく、適当に無視して、すぐにラボから追い払ったそうですが」
レムナントになった
これで博士の役に立てる
その言葉を聞いて、僕は唖然とする、と同時に、何だか薄ら寒いような怖さを感じた。
住む世界が違う、と云うか、価値観や感性が全く違う、と云うか。
どう頑張っても、到底理解し合う事の出来ない、別の生き物?何だかそんな気がした。
「理解し合うなど無理な話よ。何を云おうが通じはせぬ。もはや壊れておるのだからの」
ナナにそう云われて、そうかもしれない、と思う。
ヌガノマに感じた恐怖の正体は、それだったのかも。
そんな僕らの会話は聞こえていないはずのハンスが、
「ホワイトは、怪物になりました」
同じような事を云い出したので、僕は驚いた。
でも、驚くことでもなかったのかもしれない。それが事実なのだとしたら。
「文字通り、それまでのどこかおどおどした気弱な青年ではなく、何者をも恐れず、何も顧みず、ただただ幻想のH・Oを心酔し、崇拝する怪物になったのです。知能や意識は動物並みに低下しましたが、それにより、以前にも増して狂信的になっていったようです。海沿いの軍の物流倉庫に何度も忍び込み、資材を盗み出して、倉庫を不気味な実験室に作り替えました。唯一の救いは、知能が低下したためか、それ以降はクローン人間を作り出せなかった事でしょうか。その分、クローンやどこからか攫ってきたり人身売買で連れて来られた子供たちへのおかしな実験は、過激になっていったのかもしれませんが」
ハンスがそう云うのを聞いて、僕の眼は無意識に、電車ブランコのルリおばさんを見ていた。
単純に同じ場所をゆらゆらと行ったり来たり揺れるだけの電車ブランコを、ハナはいつまでも楽しそうにきゃあきゃあとはしゃぎ声を上げてる。
そんなハナをやさしい眼で見つめながら、ゆっくりゆっくり、ブランコを漕いでいるルリおばさんを。
ハンスは、淡々と話を続けている。
「失礼な話ですよね。あの男は、H・Oに心酔しながら、そのクローンである僕らの事は、ただの実験材料として扱った。ただ己の存在を、幻想のH・Oに認めさせたいがため、そのための道具としか、思っていなかったのでしょう」
「ハンスは」
ガブリエルが、そう口を開く。思わず、口をついて出てしまったみたいに。
「いや、ごめん。その、大丈夫、だったの」
ハンスは小さくガブリエルにお辞儀をするように頭を下げて、少し微笑んで、
「ぼくは生まれつき体が弱く、あちこちに障害を抱えていたため、早々に彼に見捨てられました。それこそ、あの男がレムナント化するよりも以前に、です。そのおかげで助かった、とも云えますね。放置され廃棄されかけていたぼくを、偶然、彼らの研究室兼倉庫の様子を見に来た父が発見し、拾って育ててくれたのです。さっきも少しお話したように、その時にはまだ、モニカもラボにいましたから、おかげで命拾いをした、という訳です」
そう云って、またハンスの顔からは笑みが消える。
「同時に作られたぼくの兄や弟、他のクローン達がその後どうなったのか、ぼくにはわかりません。あの男が云うようにぼくが「4号」なのだとしたら、少なくとも他に3人の兄弟がいたはずです。そのうちのひとり、後に「キクヒコ」と呼ばれる事になる子供は、ルリさんと共に、キクタによってあのおぞましい実験室から救い出されましたが、残りのふたりがどうなったのか、他の子供たちがどうなったのかは、わかりません」
ハンスは小さくかぶりを振って、うつむいて、
「父も、当時の事は、ずっと悔やんでいました。もっと早くに、何か手を打つべきだった、と。ぼくを拾った時点で、他の子供たちも助けるべきだった、と」
割れたスピーカーのような声でそう云って口を閉じ、悔しそうに顔を歪める。
博士はどうして、そうしなかったのだろう。
そうしたくても、できない事情が、何かあったのだろうか。
「力関係、かの」
ぽつりとナナが云う。
力関係
博士の方が、ブラウンやホワイトよりも立場が弱かった、という事?
「であろ。博士には、動かしたくとも動かせぬ、最大の弱点があろ。その事実を抑えられておる以上、人質を取られてるようなものじゃ」
最大の弱点
人質を取られてる
「揺り籠」の事?
「左様。その事実を軍にバラすぞと脅されれば、従わざるを得まい。ブラウンらにしてみれば、脅すまでもないの。博士にそう思わせるだけで、奴らの勝ちじゃ。その足元で奴らが何をしようが、博士は一切口出しできぬ」
そうナナが云うのは、わかる、ような気がするけれど。
でも、それは、
卑怯、だよね。
思わずそうつぶやいたら、ナナはふふん、と鼻を鳴らして、
「いかにもおぬしらしいの」
そう云って、カッカッと笑う。
「だからこそ、であろ。後におぬしは、義賊が如く颯爽と現れ、子らを救って立ち去ったのじゃろ」
え、そうなの。
義賊が如く颯爽と現れ、子らを救って立ち去った?
そう聞くと、何だか昔の時代劇か何かのヒーローみたいだけれど。
でも、そうか。そういう事になるの、かな。
残念ながら、僕は全然、覚えていないけれど。
「ほんに、残念じゃの」
全然残念でもなさそうに、ナナは短くそう云って、いつものあの笑みを浮かべてる。
僕に「キクタ」の記憶がない事は、当たり前の事で、それは仕方がない事。
それはわかっているし、これまでもずっと、そう思っていたけれど。
今度ばかりは、ちょっと、口惜しい、かもしれない。
何だか、もやもやする。
そう思っていたら、Lがまた、無言で右手を伸ばして、僕の肩をがしっと抱いて、ぽんぽんとやさしく叩く。
それ、ずるいな。
Lがちらっと横目で僕を見て、口の端を上げてニヤッと笑う。
「でもまあ、ハンスちゃんが助かって、良かったぜー。モニカちゃん、じゃなくて、今はドーリーちゃんかな。彼女に感謝しなきゃねー」
僕の肩を組んだまま、Lはハンスにそう云って、ふふっと笑う。
物思いに沈んでいたハンスが、はっと顔を上げて、Lを見る。
「親愛なるL、ありがとうございます。あなたのそのやさしい心遣いにも、感謝を」
てっきりまた、あれが始まるのかなと思って僕は少し身構えたけれど、ハンスは機械の左手をそっと胸に当て、Lににっこり微笑んで、丁寧に頭を下げていた。

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