静かな海の底には風もなく、波音もここでは聞こえない。
ほのかに白く光る小さな花々は、風もないのにふわふわと楽しげに揺れているように見えた。
テラスの椅子に座ったまま、気づけば僕はそこにいた。
いや、椅子と僕だけではなく、
えっと、テーブルごと?
「ちょ・・・びっくりした。キクちゃん、あんたね、そういうのは事前に云ってよ。「はい、飛びますよ」とか、何かあるでしょ」
テラスのテーブルと椅子と、それに座った僕と膝の上のN、LとJとガブリエル、それにナナとルリおばさんまで、全員が座ったままあの白いお花畑に飛んでいたので、僕はルリおばさんに怒られた。何故か、あの時のLと同じ台詞で。
それはその、ごめんなさい。あまり深く考えずに、ほんとに「ない」のかどうか、見に行ったらわかるよね、と思って。
そう思ったら、もう飛んでた。
つまり、手をつながなくても、椅子とテーブル丸ごとでも、飛ぶのには何の問題もない、という事かな。
「いやあ、ちょうどよかったじゃん。ここにもテーブルと椅子がほしかったんだよねー?」
一瞬、驚いた顔をしたものの、さすがの適応力で、もうニヤニヤしながらLが云って、席を立つ。
確かに、ここにも椅子があるといいな、とは前に来た時に思ってたけれど。
「それにしても、すごい景色ね。本当に、きれいなお花畑なのねえ」
そう云って、辺りを見渡しながら、ルリおばさんも恐る恐る、水の層に覆われた黒い地面に立ち上がる。
「ふむ、想像とは少し違ったの。もっと能天気なお花畑かと思うたが」
いつもの席に座ったまま、ナナが云うのは、
え、そういう意味だったの。
それで、「お花畑」って話した時に、笑ってたの。僕の意識空間だから、能天気なお花畑って事?
「そんな事より、「記憶」じゃろ」
ふん、と鼻息を荒げて、ナナが僕をにらむ。
そうだった、「キクタ」の記憶、本当にここに保管されて「ない」のだろうか。
「あ、ストップ。ミカエル、待って」
椅子から立ち上がったルリおばさんが、壁際の梯子へ向かって駆け出そうとするLを止めた。
「まさか、1本ずつ確認するつもり?大した数じゃないとは云え、それじゃいちいち順番にひとつずつ中身を見ないとでしょ」
腕組みをして、肩をすくめるようにして、ルリおばさんは、ふふんと笑う。
「ちょうどここには、記憶の持ち主本人が揃ってるからね。まず、自分の記憶だと思うその「梯子」?の前にそれぞれ立って頂戴。そしたら、少なくとも4本は対象から除外できるでしょ。ミカエル、ガブリエル、ジーン、そして、あたしの4本って事ね」
さすがは、記憶を読む事に関してはベテランのルリおばさんだけあって、云う事はもっともだし、すごく説得力がある。
けれど、自分の記憶だと思うその「梯子」?
見ただけで、それが自分のかどうかが、本人ならわかる、って事なのかな。
「ほほーう」
云いながら、周囲の壁際に並んで立つねじれた梯子状の構造物をくるりと眺めていたLが、
「おお、あれじゃね」
右手側の1本に眼を止めて、小走りに駆け出した。
Jとガブリエルも、それぞれに周囲を見渡して、「あ」という顔をして、それぞれ壁際へ向かう。
Lの右隣の梯子にガブリエル、ひとつ飛ばして右隣にJが立った。
ルリおばさんは、Lのちょうど向かい側、対面の壁際にある梯子の前に立つ。
「じゃあ、それぞれ手をかざしてみて頂戴。確認だけよ。まあ、触れて開いても、入らなければ別にいいのだけれど」
そう云って、眼の前の梯子の横木に、ルリおばさんは手を伸ばす。
3人もそれぞれ顔を見合わせてから、梯子に向き直り、横木に手をかざす。
「おお、ビンゴ」
Lが云うと、
「うん」
Jがうなずいて、
「当たりだね」
ガブリエルも云う。
ふと、気になったのだけれど。
ガブリエルの記憶は、どうなってるのだろう。
「どう、って?」
ガブリエルが楽しげに首をかしげて、僕を見る。
4歳までの記憶は、ガブリエル自身の記憶に違いないのだろうけれど、僕の中に入って以降の記憶は、どうなるの。
「うん、キミの眼を通して見た、ボクの記憶だねえ。いま予告編で見えたのもまさにそれだったよ。おばあちゃんに絵本を読んでもらってた」
ふふふ、と楽しそうにガブリエルが笑うので。
つい、「え、いいな、その記憶、僕も見たい」なんて思ってしまって、いや違う違うとかぶりを振る。
今は、それどころじゃなかった。
「これで4本は確定ね。キクちゃん、目印に名札でも付けておいたら」
ルリおばさんがそんな事を云うので、冗談のつもりかな、と思ったけれど、真面目な顔をしてた。
だから僕は、ぱちんと指を鳴らして、それぞれの梯子の手前の床に、立て札みたいな物を出す。
具体的にイメージしてたわけではなかったので、何だか小学校の学級花壇に立ってる「2年1組」みたいな白い木の立て札?が出て来たけれど。
それぞれの札には、黒いマジックで書いたみたいな手描き文字で「L」とか「ルリおばさん」とか書いてある。
相変わらず、僕のセンスって、ひどいな、と思う。
「ま、わかりゃいいんじゃね」
Lは僕を慰めるみたいに、そう云ってふっふーと笑ってくれるけれど。
絶対、後でJ先生に素敵な名札?表札?に変えてもらおう、と僕は心にメモをする。
「残り2本、かしら。この時点で、かなり不穏ね」
ぐるりと周囲の壁を見渡して、ルリおばさんが云う。
2本
不穏、と云うのは、人数的に足りないから、なのだろう。
この海につながってるはずの人で云えば、まずアイは間違いない。
僕は夢でアイの記憶を見ているし。
あとに残るのは僕と、キクヒコさん、だけれど。
「位置的に、ガブリエルとジーンの間が、アイかしら」
ルリおばさんが云うので、僕がその梯子の前に立って、横木に手をかざしてみる。
どこかの体育館みたいな場所で、アイが華麗なダンクシュートを決めようとしてるのが見えた。
間違いない、これはアイの記憶。
小学6年生でダンクシュートって、さすがアイ、という感じだけれど。
「じゃあ、残る1本は」
Lが云うと、
「ワタシが」
Nが僕の腕からひらりと飛び出して、空中をとんとんと駆けて、ルリおばさんの隣の梯子の前でふわりと止まる。
前肢を伸ばして、横木にかざしたNが、首をひねっている。
予告編が、見えないのかな。
「いいえ、何か見えてはいるのですが、これは・・・。何なのか、ワタシには判別できません」
首をかしげて、救いを求めるようにNはナナを見る。
まだいつもの席に座ったままでみんなの様子を眺めていたナナが、
「やれやれ」
つぶやいて、椅子からふわりと飛んで、Nの横に並ぶ。
包帯ぐるぐるの手を伸ばし、横木にかざしながら、
「この梯子、妙じゃの」
ナナも首をかしげてる。
妙、と云うのは。
アイの梯子を離れ、僕もナナの横へ、向かおう、と思ったら、その場へ移動してた。
僕はまた驚いた顔をしていたらしく、ナナが僕の顔を見て呆れてた。
「この梯子よ、横木が、あちこち切れておる。それに、・・・」
云いかけて、ナナは云うよりも見た方が早いと思ったらしい。
少し脇へずれて、僕に横木の場所をあけてくれた。
その梯子の横木に手をかざして、驚いた。
これは、砂嵐?
テレビの電波が受信できていない時の画面みたいな、ざらざらとしたモノクロの点々がランダムに現れては消える映像が、頭の中で再生されてる。
音は、もともと予告編では聞こえないけれど。
試しに、ひとつ下の横木にも手をかざしてみたけれど、そちらも同じ、砂嵐だった。
「それ、入ったらどうなるんだ?」
興味津々な様子でLがそう云って僕の隣へ駆けて来ると、Jとガブリエル、ルリおばさんも集まって来た。
「その前にまず、キクちゃん、それ、あんたの記憶じゃないの」
ルリおばさんにそう聞かれて、僕は彼女を振り返る。
僕の記憶、って感じは全然しない、けれど。
心の声でそう答えると、ルリおばさんはくるりとナナの方を向いて、
「ねえ、王の記憶は、どこか別の場所へ保管されるって事はないの?ナナとハナの記憶は、今どうなってるの」
そう尋ねる。
「それはないの。ハナの海の記憶の保管庫には、此奴も行った事はあるが、梯子は3本ある。ナガヌマと、ハナと、儂の記憶、その3本じゃ」
ナナの言葉に、僕もうなずく。
手をかざして確かめたわけではないけれど、ハナの海に、その保管庫に、ナガヌマの記憶以外の梯子が複数あったのは確かだった。
ナナは痛みを堪えるような顔で、横に立つ僕を見て、
「やはり、おぬしの記憶は、ここに保管されておらぬ」
一言ずつ噛み締めるように、そう云った。
ナナの云う通り、僕の梯子はここにはない。
それは、かつての「キクタ」の記憶も、今の僕の記憶も、という事、なのだろう。
何もかも失くす
そうナナが予想した通り、世の理に背いて、老人から赤ん坊への再生を果たしたキクタは、すべての記憶を失った。
当然、それまで持っていた知識も、80年近い人生経験も、何もかも。
その上、再生した赤ん坊である僕の記憶は、この海に保管されない。
海とのつながりはもちろんあるし、僕の意識空間がこの海である事自体はたぶんそのまま維持されている、けれど。
そこに、僕の記憶は保管されていない。
「予想通り、ではあるが、よもや今の記憶すら保管されぬとはの。予想以上、と云うべきか」
かすれた声で、つぶやくように、ナナが云う、その通り、なのだろう。
「なんで」
振り絞るようにガブリエルが云い、
「どうして」
Jがぽつりとつぶやく。
けれど、
不思議と僕は、そう思わなかった。
なんで、とも、どうして、とも。
ただ、そうなのだろう、と思った。
ナナがよく云う、さもありなん、というやつ、なのかな。
そうなんだ、やっぱり、そうなのか。
そう思ってる僕自身を、不思議と落ち着いた気持ちで、僕はまるで他人事のように見ていた。
たぶん、とっくの昔に、覚悟していたのだと思う。
僕は覚えていないけれど。
キクタは、「赤子になる」と決めた時点で、失うものが多いだろう事は、きっと覚悟してたのだろう。
その失うものが、僕個人のものであるなら、何も問題はない。
この海や、みんなの幸せが脅かされるような事がないのであれば、別にどうという事はない。
だから。
それに、もうひとつ。
まさかこんな事になるとは、キクタはもちろん、誰も予想はしなかったのだろうけれど、
この夏までの僕の過去の出来事は、ガブリエルの記憶として、この海に保管されてる。
祖母との思い出も、ガブリエルの記憶として、見る事はできる。
だったら、何も問題はないのでは。
「おまえ」
Lがそう云いかけて、何を云ったらいいのかわからないみたいに唇を噛む。
そして、ぷいとそっぽを向くと、ふてくされるみたいに口を尖らせてた。
でもね、L。
記憶が保管されないからと云って、僕が記憶喪失になるわけじゃないよ。
アルカナとしての「記憶の保管」がされないだけで、人の体の機能として記憶は頭の中に残ってる。
だから、ひとまずそれはいい。
そんな事より、この梯子が僕の記憶でないのだとしたら、この砂嵐の記憶は、キクヒコさんのもの、だよね。
僕の事より、まず心配すべきなのは、キクヒコさんでは。
ルリおばさんの、ヌガノマに壊された時の記憶とも、状態が違うようだけれど。
「ああ」
まだふくれた顔のまま、Lが目の前の梯子を見て、
「黄色い「線」は出てねー。けど、どう見てもおかしい。壊れてるんじゃね」
もう一度、横木に手をかざしながら、云う。
僕の中へ入ったガブリエルに、海からキクヒコさんが話したという言葉をそのまま信じるなら、
彼は、ヌガノマに意識を移されたルリおばさんを救うため、ヌガノマの体へ入る、そう云ってたはず。
前にも少し思ったけれど、入る方と入られる方で、何か意識や記憶へのダメージの受け方が違うのだろうか。
あるいは、これも前にも思った事だけれど、キクヒコさんが意識や海とのつながりに異常をきたしているのは、ヌガノマとの対決が原因なのではなく、それ以前のホワイトかブラウンによる無理な改造の方に何か原因があるのかも。
「触れてみても、いいかな。中へは入らないまでも、様子を見たいんだ」
遠慮がちに、けれどその声に強い意志をにじませて、そう云ったのは、ガブリエルだった。
「構わぬ。入ったとて、此方が痛い目を見る事はなかろう。所詮、記憶じゃからの」
腕組みをして、じっと梯子を見つめてその前に浮いたまま、ナナがうなずく。
ガブリエルが梯子にそっと触れると、うねるように梯子が湾曲して、アーチ状に開く、けれど。
ぎぎぎ、ぎぎぎぎ。
軋むような、耳障りな音が梯子全体から響いて、梯子自体も歪んでいる。
壊れてる、とLが云うのも、決して大袈裟ではないのかもしれない。
開いたアーチの中は、やっぱり砂嵐だった。
「此れでは、記憶を辿るどころではないの」
ナナの云う通りだ。
保管されたはずの記憶がこの状態という事は、キクヒコさんは・・・、
「ああ、そりゃ名前も自分の姿すらも、思い出せねーわけだよな」
ふくれっつらのまま、Lが云う。
こんな状態で、キクヒコさんは僕を助けに来てくれたの。
それとも、あの時はまだ、ここまで酷くはなかったのだろうか。
「はい。おそらく、ですが。一時は、会話が成立するくらいまで、回復していましたので」
Nが僕を見て、淡々といつものように云う。
「あいつ、いったい何してるの。ひとりで何と戦ってるのよ」
腹立たしそうにルリおばさんが云うのは、心配の「裏返し」なのだろうという事は、僕にもわかった。
「キクヒコの体は、今どこにいるんだろう」
ぽつりと、ガブリエルがつぶやく。砂嵐の広がるアーチの中を、つらそうに見つめながら。
「ルリさんは、知ってるの」
ガブリエルが尋ねると、ルリおばさんはうつむいて、首を横に振る。
「わからないわ。元々、一緒に住んでたわけじゃなかったから。最後に会ったのは・・・、あんたの誘拐事件の時?嘘、あれ以来会ってないのかしら」
自分で云って驚いたみたいに、ルリおばさんは呆然として、記憶を辿るように顔をしかめてる。
「少なくとも、儂は此奴が縮む前に一度、見舞いに来た小僧に会ったきりじゃの。それすらも随分久方ぶりじゃった覚えがある」
と云う事は、ナナがキクヒコさんに会ったのは9年以上前、ルリおばさんが誘拐事件の時だったのだとすれば、8年前。
「そもそもあやつは、何処に住んでおったのじゃ」
ナナがそう尋ねると、
「ススガ丘よ。大学の近くに部屋を借りて、でもほとんど大学の研究棟にこもりきりで、部屋にも戻ってなかったみたいだったけれど」
そう云って、ルリおばさんはガブリエルを見て、それからくるりと僕らの顔を見渡して、
「ああ、ええと、元々は大学を出てベースの研究施設で働いてたのだけれど、軍の撤退後は、あいつ、大学に戻って研究助手みたいな仕事をしてたのよ。学生時代からお世話になってた先生の所でね」
そう説明してくれた。
「ああ、例の山の上の、おヒゲの先生?」
しれっとLが尋ねると、
「そうそう、研究棟のね。って、ミカエル?何であんたが知って・・・、ああ、記憶で見たんだったわね」
これ、心臓に悪いわねえ、とルリおばさんは小声で僕に文句を云って、
「あいつの体があるとしたら、そのススガ丘のマンションじゃないかしら。気になるなら、尋ねてみたら?住所教えてあげるわ、キクちゃんから合鍵も預かってるから、貸してあげる。あたしは、行かないけれど」
しっかり念押しするように、ガブリエルに云う。
「うん、ありがとう。近いうちに行ってみる」
いつものやさしげな笑みでうなずいて、ガブリエルが云うので、
「僕も行くよ」
と云ったら、
「ワタシもご一緒します」
Nと被った。
はっは、とLがようやくいつもの笑顔に戻って、
「男の子チーム、気が合うねー。オレは行かないけど」
そう云って、Jを見る。
「え、わたし?んー、わたしも、行かないけど?」
何故かJは、疑問形だったけれど。
ルリおばさんの記憶が戻り、無事に海につながった幸せな祝勝会ムードから一転、何だかモヤモヤした雰囲気になってしまってたのは確かだった。おもに僕と、キクヒコさんのせいで。
ひとまず、戻ろうか、とテラスに戻ると、なんとなくそのまま、もう夜も遅いし、今日はこの辺でお開きにしよう、という事になった。
「じゃあまたね。みんな本当にありがとう」
ルリおばさんはそう云って、僕らひとりずつの頭をふわふわっとなでて、
「おやすみ」
白い絆創膏の貼られた右手を振って、白い木枠の窓へ消えて行った。
ナナは、僕に何か云いたげな顔をしていたけれど、疲れたようにうつむいて小さなため息をつくと、
「ではの」
短く云って、ふわりといつものように姿を消した。
「それじゃ、キクヒコの部屋へ行く件は、また明日にでも相談しようか」
ガブリエルはいつもの笑顔で僕にそう云って、Nのあごの下をやさしくなでて、
「じゃあね、おやすみ」
僕らに手を振り、ふわりと窓に飛び乗ると、レースのカーテンの向こうへ消えた。
テラスの端、海に面した手すりの前に立つ僕を、右からLが、左からJが、じっと見つめてた。
ふたりは、どうしたの。
まだ帰らないの、かな。
何度か左右を見比べてみると、ふたりは僕を見てると云うより、JはLを、LはJを見つめてる、ような。
「おまえ」
とLが云うのは、たぶんJの事。
やっぱり、そのきれいな青い眼にはJを映してた。
「こいつに、何か云うことないの」
そう云うLのかわいい顔は、けれどまたふくれっつらになってる。
Jは灰色がかった大きな眼でまっすぐにLを見つめ返して、
「ないよ」
あっさりと、魔法の声でそう云って、
「Lこそ、何か云いたい事、あるんじゃないの」
少し怖いくらい真剣な声で云うので、僕はたじろいでしまう。
Lは口を尖らせたまま、困ったみたいに眉間にシワを寄せて黙ったままJをにらんでるし。
するり、とNが僕の腕を抜け出して、テラスの手すりに足音も立てずにすっと立つと、青と琥珀色のきれいな眼で僕を見上げて、
「提案があります」
そう僕に云う。
提案
なんだろう。
僕が首をかしげると、にらみ合ってたJとLもふっと眼をそらして、Nを見てた。
「キクタ、ふたりと手をつないでみては」
少しだけ小首をかしげるような仕草をしながら、Nは僕にそう云って、ぺろりと黒い鼻をなめた。
ふたりと手をつなぐ
僕の親愛なる友にして、いつでも全てを見透かしている老賢者のようなNが、意味のない提案をするはずがない、よね。
そう思ったので、僕は素直にうなずいて、両手を左右に伸ばす。
右手をLに、左手をJに。
Lは怪訝そうな顔をしながら、僕に一歩近づいて、その手を右手でつないでくれた。
Jはどこか楽しそうに眼をまんまるに開いて、僕の隣へ来ると、僕の手を左手でつなぐ。
魔法のようにパッと何かが起きたわけではなかったけれど、不思議と心がぽっと温かくなるのを感じた。
この温かさは、なんだろう。
ふふん、とNは鼻を鳴らして、
「さて。ワタシはただのネコですので」
それはわかりかねます、かな。
Nは首をかしげたまま眼を細めて、眩しそうに僕らを見上げてた。
「ほんとだ、あったかい、ね」
魔法の声でJが云って、ふふふ、と笑う。
ふてくされた顔でそっぽを向いてたLが、顔をくしゃくしゃっと歪めて、あきらめたみたいに「はあ」と短いため息をついて、
「まあね。何を云っても違う気がするから、今日はもういいや」
いつもの陽気な声で云って、ニヤリと笑う。
Lがそう云うのは、さっきのJとの会話の続き、なのかな。
こいつに、何か云うことないの
Lこそ、何か云いたい事、あるんじゃないの
何を云っても違う気がするから、今日はもういいや
そう、Lが云うのは、僕にもわかるような気がした。
僕自身、いまの僕の気持ちを言葉で表そうとしたら、それは、何を云っても違う気がする。
「じゃあ、おやすみ?」
くすっと笑って、Jが云う。また、疑問形だけれど。
「あー、また明日な?」
ニヤニヤしながら、Lも疑問形で云って、ぎゅっと僕の手を握ると、パッと離した。
そしてくるりと、手すりの上のNに向き直って、
「ネコチャンもおやすみー、またねー」
手を伸ばして、Nの首の後ろ辺りをぐりぐりなでて、手を振ってひらりと身を翻す。
基地のドアの前で、Lはもう一度振り返ると、
「夜更かしすんなよー」
僕に向かってそう云って、ニヤニヤしながらドアの向こうへ消えた。
そう云うLはまた、明け方まで何やらしてるのだろうけれど。
ぱたん、と閉じた基地のドアを見上げながら、ふっと小さなため息をついて、
「ほんとはね」
心の声で、Jが云う。
1/fの魔法の声で。
それからすぐに、「あ」っと慌てたように口に手を当ててた。
心の声でも、声に出して云うつもりは、なかったのかな。
それとも、左手をつないでた事、忘れてたのかも。
「ううん、ごめん。何でもないよ」
そう声に出して云って、Jはいつものように「ふふふ」と笑う。
だから、
うん、だいじょうぶ。
左手をぎゅっと握りなおして、僕は云う。
おやすみ、J
「うん。おやすみ、K」
魔法の笑顔でそう云って、Jはすっと左手を離して、ふわりとお庭の窓へ舞い上がる。
窓の前で振り返って、胸の前で小さく右手を振って、Jは窓の向こうへ、消えた。
オレンジの海のやさしい波音が静かに響いてる。
やっぱり、みんな「キクタ」に甘すぎる、よね。
Nが手すりを蹴って飛び、僕の腕にふわりと飛び込んで、
「戻りましょうか」
何事もなかったみたいに、淡々と云う。
うん、戻ろう。
うなずいて、Nの小さな黒い鼻先に僕の鼻の頭で触れて、ぐるんと僕らも部屋へ戻った。
Nにお礼を云って、屋根裏へと梯子を駆け上って帰って行く彼に手を振って見送り、ベッドに横になった。
時刻はもう深夜だった。
部屋の灯りも消していたのだけれど、なんとなくそのまま眠る気になれず、また「海」を振り返る。
砂浜に降り立つ事もなく、記憶の保管庫へ直接飛んでた。
特に何か、この場所に目的があったわけではないけれど。
静かな場所で、ひとりでぼんやりしたかっただけ、なのかもしれない。
テラスのテーブルと椅子は、白いお花畑にまだそのまま置かれてた。
あのテーブルセットがここへ移動したわけではなく、こちらにも同じテーブルと椅子が出ていた、という事らしい。
Lの云う通り、ここにも椅子とテーブルが欲しかったのは確かなので、ちょうどよかった。
仄暗いお花畑は、静かすぎて少し怖いくらいだった。
全くの無音という事はでなくて、水の滴るような、どこかでゆるやかに水が流れるような、かすかな音が低く響いてる。
見上げれば、頭上は暗い海溝の底なので、暗い星のない紺色の夜空のようにも見える。
床一面に咲く小さな白い花がほのかに光っているから、暗すぎるというほどの事はなかったけれど。
静かで、薄暗くて、考え事をするにはぴったりの場所、だと思う。
ひとりでぼんやりと、ここで考えたかった事。
どこかで薄々、勘付いていたのかも、そう思ってた。
僕が、「キクタ」本人である事に。
そして、僕の記憶が、この海に保管されていない事にも。
なぜなら、そう思わないとおかしいくらい、どちらの事実も、僕には何の衝撃も与えなかったから。
今日まで僕は、表面的には、ガブリエルと彼の白い部屋で推察した「キクタの器」説を、信じていた、はず。
でも、そう信じてた心の奥底では、実はすでに知ってたのかもしれない。
それは違う、という事を。
本当は、器や何かを受け継いだ存在ではなく、僕がキクタ本人なのだという事を。
もちろん、何もかも失くしているし、実際ここには「キクタ」の記憶は保管されていない。
だから、覚えているはずはなく、知ってたはずもない。
けれどそれは、記憶や意識とは別のどこか、魂とか何かそんな奥深い場所に、知らないうちに既に刻み込まれていたもの、だったのかもしれない。
あの時、ナナに云われた言葉が、ずっと頭の中で回ってた。
たった一度だけ、ナナが僕の名前を呼んだあの時。
キクタが分裂させた自身のアルカナを4人の赤ちゃんに入れた、という話を聞いた時、
震えながらうつむいて涙をこらえる僕を、ナナは凛とした声で「キクタ」と呼んで、「顔を上げよ」と静かに云った。
そして、
「云うた通り、4人の赤子にアルカナを入れた理由は、儂にはとんとわからぬ。じゃが、他ならぬ、おぬしのした事じゃ。少しは己を信用せい。でなければ、おぬしを信用して、赤子を託した両親たちに申し訳が立たぬ」
薄灰色の眼を細めて、微笑むように、そう云った。
「おぬし、何もかも失くしてでも、守りたかったのであろ、子供たちを。儂にはそう云うておったぞ。何もかも失くすぞと脅した儂に、おぬしはの」
そう云って、ナナは困ったように苦笑して、
「じゃからよ、おぬしも「キクタ」であるからには、それは信じて受け入れよ。でなくば、守るも何もなかろ」
やれやれと肩をすくめてた。
キクタが、いやかつての僕が、どうして自身のアルカナを分裂させたのか、そしてそれを4人の赤ちゃんに入れようと思ったのか、それはいまだにわからない。
僕の個人的な感覚で云えば、その行為こそ「自然の摂理に反する」「世の理に背く」、それに当たる気がして、あの時はただただそれが怖くて、何より、LとJに申し訳なくて、涙と体の震えが止まらなかったのだと思う。
アルカナが入っているとはいえ、ひとりのただの人間でしかないキクタが、自身のアルカナを分裂させて、いわば自分自身の複製とも呼べるようなものを生み出して、それを他人の子に与える、だなんて。
大袈裟な云い方をすれば、神をも恐れぬ、生命への冒涜なのではと、僕にはそう思えた。
ホワイトが自らの野心と、博士に認められたいという歪んだ欲望のためだけに、博士のクローン人間を何体も作り出した、それとキクタがした事とは、どこが違うと云うのだろう。
もちろん、全く一緒だとまでは僕も云わないけれど、思想や願いはどうあれ、やった事それ自体を比べてみれば、それほど大差ないのでは、と思えてしまって、怖くなる。
だから、かもしれない。
自分の命が残り僅かだと知った時に、目の前に「赤ん坊になる」という選択肢がある事にキクタは気づいた。
その方法が、彼には(かつての僕には)わかった。
その時、迷わずそれを「試したい」と思えた気持ち、それが、いまの僕にもわかった、ような気がした。
理に背くと云われても、自然の摂理に反すると云われても、何もかも失くすぞと脅されても、それを「試した」キクタの気持ち。
きっと、ナナに云ったという、その言葉の通り、
「何もかも失くしてでも、守りたかった」んだろう、「子供たち」を。
その行く末を、「見守りたかった」んじゃないだろうか。
もう一度、赤ん坊になって、再生する事で。
それが、4人の赤ちゃんにアルカナを入れた「責任」なのか、あるいは「罪の意識」なのか、何なのかはわからないけれど。
だから僕は、僕自身が再生した赤ん坊で、実は「キクタ」本人だった事に、それほど驚かなかったのだと思う。
僕の中で、そこがようやくつながった、そんな気がしたから。
そして、僕の記憶が「海」に保管されてない事にも。
それほどの事をしたのだから、反動やリスクはあって当然だと思うし、むしろそれだけなの、という気さえする。
記憶を失くし、記憶が保管されない、たったのそれだけでは、軽すぎるくらいだと思う。
例えば、再生した赤ん坊だから、大人にはなれない、10年しか生きられない、と云われても、それは納得できるような気がする。
それくらいの何かペナルティ的なものがあっても、ちっとも不思議じゃない。
あくまで、例えば、だけれど。
本当にあと2年しか生きられないと云われたら、それはそれで、困ると思うけれど。
それから、「キクタ」が再生を選んだ理由が、もうひとつ、僕には思い当たった。
それは、ルリおばさんとキクヒコさんの事。
「何もかも失くしてでも、守りたかった子供たち」には、きっとふたりも含まれていたはず。
キクタが病に倒れた頃には、もうふたりとも成人していて、何も心配はなかったのかもしれないけれど。
それでも、ふたりは、「実験体」で「改造された」子供だった。
だから、心配しないはずはないし、現に今、キクヒコさんは危険な状態にあるのかもしれない。
ヌガノマことウィリアム・ホワイトとの因縁まで、予測していたとはさすがに思えないけれど、実際に、あいつはまだこの街の地下を徘徊していて、ガブリエルを誘拐したり、ルリおばさんの記憶を壊したりもした。
何もかも失くしてしまったけれど、それに、今の僕に何ができるのかはわからないけれど。
「子供たち」を守るために、再生したのが「僕」なのだったら、そのために今できる事をするべき、だよね。
たぶん、それもだいじょうぶ。
記憶はなくても、僕の中のどこかに、しっかり刻み込まれてるはずだから。
このところしばらく、ずっと僕の中のどこかにあって、どうしても消す事のできなかった妙な不安の正体に、ふと気づいた、ような気がした。
ひとつは、キクヒコさんの事。
今どこにいるのかもわからず、能力が暴走して勝手に飛び回っているような状態で、それでもガブリエルに「気をつけろ」と警告を届けてくれた、キクヒコさん。
一時は冗談交じりに「ラスボス候補」なんて云ってたLも、あの砂嵐の記憶を見てしまったからには、きっとその容疑はもう取り消してくれてるのだろう。
あのふくれっつらは、たとえ冗談まじりにでも、キクヒコさんを疑ってしまった事への、やさしいLなりの申し訳なさの現れじゃないかな、と思う。
「近いうちに」とガブリエルも云ってたけれど、明日の日曜か、明後日の月曜も運動会の代休なので、そのどちらかでススガ丘のマンションへ行けるかも。
明日忘れずに、ガブリエルにそう提案してみよう、と心にメモをする。
もうひとつの不安要素は、結局、ベースの認識を消したのが誰なのかがまだわかっていない事。
ナナの話を聞いた時点では、それはH・O一派に違いないと思っていたけれど、ハンスの話によると、どうやら違うらしい事がわかった。
当時、アンダーソン博士の元にいた能力者はハンスひとりだけで、そのハンスが日本を離れるまで、つまり軍の撤退が完了するまでは、認識は消されていなかった、と云う。
レムナント化したウィリアム・ホワイトことヌガノマも、一応はまだ博士の元にいた能力者、とは云えるのだろうけれど、あいつがそこまで正確にアルカナの能力について理解していたのかどうかは、怪しいところだと思う。
それにあいつは、自身の認識が消されているという自覚すらないように思える。
認識されていないと知ってるのなら、もっと堂々と街中を歩き回る事もできたはずなので、その意味では、幸いと云えるのかもしれない。
認識が消されたタイミングは、正確にはまだわからないけれど、軍の撤退が完了した後、かつ、ベースで火災が起きる前、キクタがひとりベースを離れて、協力者たちの元を回っていた間、のはず。
そのタイミングで認識を消した何者か、軍でもなく、H・O一派でもなく、ベースのキクタたちでもない、まだ僕らがその存在すら知らない能力者が、どこかにいる、という事になるのでは。
そんな不安だったのだと思う。
軍でもハンスでもキクタたちでもない能力者、という条件だけで云えば、ナガヌマとモニカ、そしてMもそれに該当する事になるけれど、彼らにはその動機がない。
ナガヌマとモニカが当時何処にいて、何をしていたのかはわからないけれど、わざわざベースの認識を消す必要があったとは思えないし、だいいちそんな事をしても彼らには何のメリットもなさそうに思える。
Mは、その目的もいまだによくわからないので何とも云えないのだけれど。
もしもMが、最初に僕らが想像したような軍関係の人ではなく、本当にアルカナの最後の王、なのだとしたら、ロリポリの中に残された数少ないアルカナの同胞を守るために、認識を消した、というのは、なくはない気もするけれど。
でも、Mがロリポリの中にいたアルカナなのだとしたら、Lが推察していた通り、そこまで正確に軍の動向を把握できるものかな、とも思う。
あるいは、Mに直接聞いてみたら、どうだろう。
ベースやその周辺、海沿いのクレーターに至るまで、あの時に全ての認識を消したのは、Mなの?と。
もしもそうではないのだとしたら、僕らがいまだ知らない能力者がどこかにいる事になる。
でも、Mになら、その居場所がわかるのかも。
MがA-0の能力を引き継いでいるのだとしたら、他の「アルカナの居場所」を感知する事ができるのでは。
ふわり、と何かが視界の端で動いたのが見えた気がして、僕は物思いから覚め、なんとなくそれを眼で追っていた。
黒い、小さな影のような、鳥?かな。
さっき部屋でNと別れた後、そのままベッドに横になったけれど、まだ眠るつもりもなかったので、ゴーグルとヘッドホンは付けたままだった。
だから、ほのかな白いお花の灯りしかないこの保管庫のお花畑でも、視界は良好なはず、なのだけれど。
小さな黒い影は、周囲の黒い壁の色に紛れて、すぐに見えなくなってしまってた。
鳥、ではなくて、黒い蝶かな。
一瞬、ひらりと視界の端をかすめた時の動きは、気まぐれな蝶の羽ばたきのように見えた、気がする。
「此処に居ったか」
不意に、か細く幼い声が聞こえて、どきりとした。
振り返ると、いつもの席にふわりとナナが腰を下ろしたところ。
「前にも云うたが」
ニヤリと唇の端を片方だけ吊り上げて、
「おぬし、いちいち驚くの。いよいよ、「怖がりの王」に改名すべきじゃな」
そう云って、ナナはふふんと鼻で笑う。
こんな静かな場所で、いきなり声をかけられたら、それは驚くでしょ。
それに今は、蝶を探して意識が完全にそちらを向いていたし。
ぱちんと指を鳴らして、ふたり分のお茶を出して、僕はそうナナに云い訳をする。
「蝶じゃと」
小さくお辞儀をして湯呑みを手に取ったナナは、聞き捨てならぬとばかりに顔を上げて僕をにらむ。
さっき、ちらりと視界の端をかすめて消えた、黒い蝶らしきものを見た、気がして。
僕が云うと、ナナは体を伸ばして、サングラス越しに周囲を見渡しながら、
「よもや忘れたとは思えぬが、ここはおぬしの意識空間じゃぞ」
お茶を小さく一口飲んで、じろりと僕を見る。
それは、そうだけれど。
僕が植えた覚えのない白いお花がたくさん咲いてるくらいだから、そこに僕の知らない黒い蝶が飛んでるのも、不思議ではないのかな、って思ったのだけれど。
ふむ、とナナは湯呑みから手を離して、その手を唇に当てて、
「いかにもおぬしらしい屁理屈じゃが、しかし黒い蝶とはの」
何やら難しい顔になる。
意識空間に黒い蝶がいたら、何か具合の悪い事でもあるの。
まさか、黒ネコが目の前を横切るとどうのこうの的なあれ?
何て云うんだっけ、迷信?
そう尋ねたら、はっ、とナナは短く鼻で笑う。
「何じゃおぬし、珍しくご機嫌斜めか。子供のように不貞腐れておるのか」
ナナがそんな事を云うので、別に僕はゴキゲンナナメでもふてくされてもいないけれど、と首をひねる。
なんでだろう、迷信?という云い方が、ひねくれて聞こえたのかな。
「さにあらず・・・」
云いかけたナナが、固まって、僕の後ろ、梯子のある壁際辺りをじっと見つめてる。
振り返ると、そこにひらひらと舞うように飛ぶ黒い蝶がいて。
次の瞬間、それは人の形の影になる。
黒いドレス、黒いフードの、女性。
ドーリー
彼女もここへ来れるの?
と思ったけれど、それは何も不思議ではなかったかもしれない。
ナナもこうして直接ここに来ているのだから、王A-0のレムナントであり、そのゴーストである彼女だって来れるはず。
「これはこれは」
ナナがひとりごとのように云う。
「黒い蝶に化身するとは、なかなか良いセンスじゃの」
ニヤリと笑って、僕に云う、けれど。それは、彼女に云ってるの、かな。
死者に語りかけるな
だから、僕に話しているふうを装って、ナナはドーリーにそう挨拶をしたのかも。
ナナの声が聞こえたのかどうか、わからないけれど、ドーリーはふわりとこちらを向いて、丁寧なお辞儀をしてみせた。
意思の疎通が、できるの。
直接話しかけさえしなければ、僕らの質問に答えてくれるのかな。
「さての。H何某は何と云うたかの。ゴースト化したアニーは、総じて言葉を失う、じゃったか。だが意思の疎通ができねば、攫われたハルの居場所をH何某に教える事も出来まい?」
ナナにそう云われ、納得した。それはそう。ハンスが「輪」で飛ぶにしても、ハルと彼の持つ黄金虫がどこにいるのかは、ドーリーにしかわからない。
何らかの方法で、ドーリーはその場所をハンスに教えたはず。だから、意思疎通はできる、はず。
「そう云えばおぬし、先日のカードはどうした。タロットの「力」のカードじゃったかの」
そう、大きな声でナナが僕に尋ねるのは、あのカードについて、何か新たな情報をドーリーから引き出そうとしてる、のかな。
「あのカードなら、コテージのテラスに置いてあるけれど」
そう云って、僕は言葉につまる。
あのカードの意味を、ドーリーに聞いてみたいけれど、どう聞いたらいいの。
直接聞いたらダメなのでしょ。ナナと話しているように、ドーリーに尋ねるには。
「あれは、何じゃと云うたかの。おかっぱは、何の暗示じゃと云うておったか」
ナナがとぼけた調子で、わざとらしく首をかしげて云うので、
「ええと、確か、「自惚れ」「暴力」とか・・・」
云いかけたら、ふわりと影がさして、僕らの座るテーブルのすぐ傍にドーリーが音もなく立っていたので、僕はどきりとして息を飲む。
「おぬし」
ナナは苦笑して、肩をすくめるけれど。
突然、瞬間移動してくるから、それは驚くでしょ。
ドーリーは静かに、首を横に振る。ゆっくりと、二度。
「それは、カードが逆向きの時の暗示じゃろ。正向きの時は「力・勇気・名誉」、おかっぱはそう云うておったぞ」
ナナが僕に云うと、今度はドーリーは、首を振らない。
肯定、という事、かな。
あの時、カードを僕に渡す前に、彼女はこの海を指差していたけれど。
「力・勇気・名誉」
何かそれにまつわるものが、この海の、記憶の保管庫にある、そういう事なのかと、僕らは思った、けれど。
確かにその後、僕らはここへ来て、ルリおばさんの記憶を修復する事に成功した。
それはとてもうれしいことだったけれど、それが、「力・勇気・名誉」って事?
何だか、ちょっと違うような。
くすっと、ドーリーの口元の空気が揺れた、ような気がした。
そう云えば、あの時も。
笑ったのかな、って思ったような。
ナナも、薄灰色の眼を細めて、テーブルの側に立つドーリーをじっと見つめてる。
彼女の左手がゆっくりと動いて、少しだけ上に上がったけれど、そのまま人差し指を伸ばして、下を指差した。
テーブル?ではなく、そのもっと下、かな。
念のため、僕は椅子から腰を浮かせて、テーブルの下を覗き込んでみたけれど、そこには、周りと同じ、白いお花畑とうっすらと水の層に覆われた黒い床があるだけだった。
「おい」
ナナの声に、テーブルの下から顔を上げると、ドーリーが右手で、僕に何かを差し出している。
これは、また、カードなの。
受け取って、上下の向きをそのままに、カードの表を見る、と。
やっぱり同じ、古めかしいタロットカードだった。絵柄は、前とは違うけれど。
むむ、とナナがテーブルに身を乗り出すので、カードをナナの方に向けてテーブルに置き、ふたりで覗き込む。
これは、太陽かな?
顔のある丸い円が空に輝いていて、周りには放射状に尖った線が伸びてる。地上でそれを見上げてるのは、2頭の犬、かな。
「いや、「月」ではないかの。顔が横顔で、すまし顔じゃろ。下で見上げておるのも、犬ではなく狼では」
ナナにそう云われると、もう「月」にしか見えない、気がする。
すまし顔だから、という理由が何だか可愛らしくて、僕はつい笑ってしまったけれど。
「何を笑う、失礼じゃなおぬし。これはどう見ても「月」であろ・・・」
云いながら、顔を上げたナナが、ふんと鼻でため息をつく。
どうして、と思い顔を上げたら、僕にも理由はすぐにわかった。
ドーリーは、もういない。
気配もないので、たぶん、また蝶になってどこかをひらひら飛んでいる、というわけでもないらしい。
カードを渡して、立ち去った、という事かな。
「あやつめ、もしや、儂らで遊んでおるのではなかろうな」
ナナがそう云うのは、わからなくもない、かな。
どことなく、さっきのドーリーは楽しそうだった。思い返してみれば、前回も、そうだったかも。
「モニカはどうか知らぬが、A-0は「好奇心旺盛な少女が如きアルカナ」だったのであろ。であればよ」
ナナは不満げに云うけれど、言葉とは裏腹に、表情はどこか楽しげだった。
モニカも、あの地下にいる間は緊張してたのか固い印象だったけれど、地下を脱して地上へ出てからは、柔らかな微笑みを浮かべてたような覚えがある。楽しそうに人差し指をくるくる回しながら。
「さにあらん」
ナナは肩をすくめながら、
「いずれにせよ、意思疎通ができそうではあるの。現におぬしの所におるナガヌマは、言葉を話しておったのであろ」
そう云うけれど、どこまで正確に意思疎通ができるのか、できたとして彼らにそこまで明確な意思や意識があるのかは、少々疑問だけれど。
「ほう、そうなのか」
ナナが問うので、僕はうなずいて。
語りかけるな、と云われて、一方的に彼のひとりごとを聞いていただけだったので、余計にそう感じただけ、なのかもしれないけれど。
ナガヌマも、ドーリーも、つまり、僕が出会ったゴーストは、ふたりとも、どこか夢見心地というか、ぼんやりしているというか、心ここに在らずみたいな印象だった、気がする。
だから、それが、どうだ、という事ではないのだけれど。
ただの、僕の印象、だけで。
実際に、ドーリーは何らかの方法でハルと黄金虫の居場所をハンスに伝え、彼がその場へ「輪」で飛ぶ事で、ハルを救出する事ができたのだろうし。
ナガヌマも、2度に渡って僕を助けてくれている。
だから、
「多少ぼんやりしていようが、意思疎通が難しかろうが、彼らが心あるゴーストとして存在している事は確か、と云いたいのか」
何故か困ったような苦笑を浮かべて、ナナは僕を見る。
「おぬし、そろそろ「おねむ」ではないのか。そう云うおぬしの方こそ、ぼんやりとどこか夢見心地のようじゃが」
くっくっと喉を鳴らす様に、ナナは笑う。
そうかな、そんなつもりはなかったし、特にそれほど眠くもない、と思うけれど。
「ははあ、爺いだからと意地になっておるのか。中身は爺いでも、体も意識も小学2年生であろ。無理をせず、良い子は大人しく寝るが良い」
ナナはふわりと席を立ち、テーブルの上のカードを手に取る。
「この「月」か「太陽」のカードについては、またおかっぱに見てもらうとしよ」
そう云って、僕の右手をつなぐと、何も云わずにナナはテラスへ飛んだ。
そして僕の手を引いて、椅子から立ち上がらせる。
云われてみれば、ふらついているような気がする。
眠気を感じないのは、意識のどこかが妙に冴えてるのか、変に緊張でもしてるのかな。
ふむ、とナナは僕をあらためて見上げて、
「思いのほか、平然としているようには見えるな。表面上はの。じゃが、今日知ったのが、おぬしにとって重い事実であった事に違いはなかろ。少しでも眠って、意識を休ませねば、小僧のように壊れて暴走するやもしれぬぞ」
また、そんな事を云う。ナナお得意の、笑えないブラックジョークかな。
でも云われてみれば、キクヒコさんの事もあるし、休んでおかないと、明日動けなくなっては困る。
素直に云う事を聞いて、寝る事にするけれど、その前にひとつだけ。
ナナは、何か僕に用事があって来たんじゃなかったの。
振り返ると、ナナはテーブルの上にさっきドーリーにもらったカードを、前にもらった「力」のカードと並べて置きながら、
「何、大した用でもない」
そう云って、小さく肩をすくめて、
「理に反するの、自然の摂理に背くのと、おぬしに偉そうに云うたが、儂も同じじゃと気づいた故な。ひとつ詫びておこうかと思うたまでよ」
ふふん、と自嘲するように鼻で笑う。
ナナも同じ
だから詫びるの、僕に?
なんで。
「ほれ、もう頭が働いておらぬじゃろ。またにするとしよ、今日はもう寝よ」
かっかっと可笑しそうに笑って、ナナは僕にしっしっと手を振ってる。犬でも追い払うみたいに。
それなら云われた通り、もう寝る事にするけれど、暗い部屋に戻るのはなんだか嫌だな。
Lみたいに、ここで寝ようかな。いや、この椅子ではなくて、中のソファで、だけれど。
「ふむ。それもよかろ」
そう云って、ナナは薄灰色の眼を細めて笑う。
ほら、やっぱり。
みんなちょっと、「キクタ」に甘すぎるよね。
「何の話じゃ。もはや意識まで朦朧としておるのではあるまいな」
ナナに追い立てられて、僕はふらふらとコテージに入り、そのままソファに倒れ込む。
おやすみ、ナナ。
そう声に出して云ったつもりだったけれど、ふかふかのソファの心地良さに眼を閉じた瞬間、もう眠りに落ちていた。
朝、眼が覚めて、部屋を「振り返り」、時刻を確認してから、「オレンジの海」で、呼びかける。
ルリおばさん、まだ寝てるかな。
白い木枠の窓がほんの少しだけ開いて、
「あら、良い子は早起きね。あたしはまだベッドの中だけれど、何かしら」
寝起きにしては随分はきはきと、ルリおばさんはそう答えてくれたので、「ベッドの中」だけれど起きてたのかな、と良い方に解釈して。
いろいろ聞きたい事があるのだけれど、と云いかけたら、
「それは、そうでしょうよ。いいわ、キクヒコの部屋の鍵も渡したかったし、うちへいらっしゃい。またピザでも良ければ、お昼をご馳走するわ」
相変わらずと云うか、何と云うか。
勝手にお昼の予定まで決められてしまったので、「わかった、じゃあまた後でね」と返事をする。
それは、そうでしょうよ、なの、と思いながら。
でもそれは、そうなんだと思う。
なんとなく、昨日はみんなもいたし、あまり細かく突っ込んで聞けなかったのだけれど、僕の、何と云うか家族構成について?
ルリおばさんが「叔母さん」で、母が、いやつまりスズキキョウコ、ではなく、旧姓キミジマキョウコが僕の母で、その当時はキリノキョウコ、になってたのだとしたら。
そして、僕が4歳まで、キリノキクタだったのだとしたら。
僕の父は、いやもちろん今の父はスズキキイチロウだけれど、それ以前に父と呼ばれていた人?というか、父的な役というか、その立場にいた人。本人にその自覚があるのかどうかは、わからないけれど。
もはやその「父」という存在すら忘れ去られかけていたその人は、叔母であるルリおばさんの兄、つまり、キクヒコさん、のはず、だよね。
書類上だけの事なのか、そもそも籍はどうなってるのかなとか、その僕の認識で間違いないんだよね、という確認、だけなので、わざわざ出向くほどの事でもないような気もするけれど。
キクヒコさんの部屋の鍵を受け取る、という理由があるなら、行かざるを得ないと云うか。
あの一瞬で、まんまとルリおばさんの罠に嵌ったみたいな、そんな気がしなくもないけれど、たぶんそれは僕の中の古いトラウマが見せた幻なのだと思う。
階下へ降りると、母が朝食の用意をしてくれていた。
父はもう食べ終えていて、「おはよう」と云いながら、コーヒーカップを手にソファの方へ移動する。
「おはよう」
声をかけてテーブルに着くと、
「あら、呼ばれずに下りて来るなんて、どこかへ出かけるの?」
そう直球でいきなり尋ねられて、この人も相変わらず、何て勘が鋭いのだろうと感心する。
こういう所、なのかな。キクタが「是非に」と母に指名したのは。
「うん。ルリおばさんの家、行ってくる。お昼はご馳走してくれるって」
さらっと云ったらそのまま流してくれないかな、と思ったのだけれど、そんなはずはなく。
がたん、とソファの方から大きな音がして、振り返ると、父がサイドテーブルの上にコーヒーを盛大にこぼしてた。
そんなに驚かなくても。いや、ごめん、驚くよね。
消された認識がどこまでなのか、正確に確かめてはいなかったのだけれど、僕の行方不明事件が丸々消えているのだとしたら、あの時、アイが地下道でルリおばさんを救出して、この家に担ぎ込んで来た事もふたりからは消えてるはず。
だとすると、父と母にとってルリおばさんは、あの僕が4歳の時の「悪魔のルリおばさん」のまま、おかしな儀式に嵌ってたおかしなルリおばさんのまま、なのだろう。
でも、それは、そのままにはしておけないよね。
だって僕は、天使のような笑顔のルリおばさんも、その前に跪いてにっこり笑う父も、横で困ったように苦笑してた母も知ってる。
だから。
「あっつ、あちちち」
「ちょっと、キイチロウさん?大丈夫、やけどしてない?」
「いや、大丈夫。ほら、カーペットにはこぼしてないよ?」
「そんなことあたし一言も云ってないでしょ。ほら、早く手を拭いて」
まじめな顔でコメディドラマみたいな事を云ってるふたりの、ルリおばさんに対する誤解を、どうにか解いてあげたいな、と思う。
とは云え、認識が消されてる以上、アイの話をしてもダメだろうし。
アイの友人であるハルをルリおばさんが助けてくれた、のも事実ではあるのだけれど、残念ながら、その話も認識が消えてるはずなので、できない。
父がこぼしたコーヒーを母が片付けている間に、朝食のロールパンとハムエッグを平らげながら、僕はどうしたものかと頭を悩ませていた。
「それで?なんでまた、あんたがルリちゃ・・・ルリおばさんの家へ行くことになったの」
片付けを終え、母がテーブルの向かいに座り、何故か父まで入れなおしたコーヒーを持ってテーブルの僕の隣に座って、何だか取り調べみたいな格好になってたけれど。もちろん、容疑者は僕で。
ぴこん、と思いついて、
「Jが夏に、浴衣で海に行きたいって云って、僕とふたりで海へ行ったの、覚えてる?」
そう僕は切り出した。
「忘れるわけないでしょ。その後、ジーンちゃんが眠っちゃって、あんたが交番のお世話になって」
母の話が違う方向へ進みそうになるのを、手を上げて止めて、
「その理由、お母さん、Jに聞いてなかった?」
そう、僕は云う。
Jをダシにしてしまうのは何だかちょっと心苦しい気がしたけれど。
でも、ルリおばさんのためなら、きっとJは許してくれる、よね。
「聞いたけど。小さい頃に家族で海へ行くと毎年見かけた、浴衣のお姉さんに憧れてたんでしょ」
母が怪訝な顔で云うので、そこでぴこん、と僕はJ譲りの人差し指を立てて、
「そう。その浴衣のお姉さんが、ルリおばさんだったの。少し前に偶然再会して、JとLと3人で遊びに行ったんだよ」
ふふん、とNみたいに得意げに鼻で笑ってみる。
「まさか、そんな偶然、あるの?Lちゃんも一緒って、いったいどこで再会したのよ」
そんな偶然も半分はルリおばさんの作戦だったらしいけれど、それはともかく。
母の鋭い突っ込みに、僕はついうろたえてしまって、
「え、どこでって、あの、ミクリヤのパーティで?」
疑問形になってしまう。
いや、でも、嘘ではないよね。あのパーティで、ルリおばさんに会ってるし、Lも一緒だったし。
「ミクリヤのパーティって、ルリちゃん、今なにしてるの。ホテルで働いてるの?」
いつもとぼけてるくせに、どうして父は時々鋭いのかな、と思う。
働いてるわけではなく、実はそのホテルのオーナーなのだけれど。
「働いてる?んじゃないと思うけど。パーティには、招待されて来てたお客さんだったから」
オーナーの件は、ややこしくなりそうなので、云わないでおいたのだけれど。
「あ、もしかしたら、お父さんの関係かしらね」
母がまた絶妙に鋭い事を云うので、僕は返答に困ってしまう。
「さあ」
曖昧な返事をして、首をかしげておいた。
こういう時、小学2年生って便利だな、と思う。
Lの云う、「ぼくわかんない」ってやつ、だよね。
「それで、その、あんた・・・」
珍しく母が云い淀んだので、ここだ、と思った。
だから僕は、勢い込んで、云った。
「うん。仲直りしたよ、ルリおばさんと。仲直りって云うか、僕はもうよく覚えてないけど、「キクちゃん、ごめんなさいね」って云ってた。ルリおばさん、昔みたいにへんなこと云ったりしないし、ぜんぜん普通だったよ。JにもLにも、やさしかったし」
キクちゃん、ごめんなさいね、は、ヌガノマに意識を移されて、僕の首を絞めた方に云ってたのだけれど。
そう云ってたのは本当だし。
Jの憧れのお姉さんだったのも本当、やさしかったのも本当、だから。
そんな僕の一言だけで、ふたりが昔のように戻れるとは、さすがに思えないけれど。
でも、誤解を解いてくれる、何かのきっかけにでも、なればいいな、と思って。
「それで、ルリちゃんは、今どこに住んでるの」
母に聞かれて、それはそうだよね、と思う。
どことも云えないような場所へ、小学2年生の子供がひとりで遊びに行くなんて、それはダメだと思う。
「リバーフロントビル?あの、ホテルの下の」
正直にそう答えたら、
「ええーっ!」
また父が、驚いてコーヒーをこぼしそうになって、慌てて両手でカップを抑えてた。
「高級マンションじゃないか。家賃いくらなの」
「ちょっとキイチロウさん?そんなのキクタが知ってるわけないでしょ」
母がじろりと父をにらんで、それから僕に、
「あんたも、ルリちゃんに「家賃いくらなの」なんて聞かないでよ?」
念押しするように、云うけれど。
そんなの聞くわけないでしょ。
いや、でも、いくらなのかな、とは思ってたけれど。
朝食を食べ終えて、2階の部屋へ上がったけれど、お昼前まで何もせずにぼんやりしているのも勿体無い気がして、ちょっと早いけれどルリおばさんの部屋へ出かけようかな、と思い立つ。
のんびり歩いたら、小一時間くらいかかるよね。
あのビルの中で、マンションのエントランスへ辿り着くまでに、たぶん僕は迷子になるだろうし。
出かける支度をして、階下へ降りると、父が見ていたテレビを消して、ソファから立ち上がる。
「もう行くの。車で送るよ」
車のキーを指先で回してチャリチャリ鳴らしながら、父はニヤリと笑ってた。
ここにもいたよ、「キクタ」に甘い人が。
いやまあ、父の場合は、誰にでも甘いのだけれど。
「キクタを送ってくるよ」
庭先で洗濯物を干していた母に、父はそう声をかけてた。
母の返事は、僕のところまでは聞こえなかったけれど。
「いや、マンションの下までね。それとも、挨拶して来ようか?え、ああ、そう。了解しました」
そう云って、父は廊下に向かって、いつものあまり格好の良くないお辞儀をしてた。
なんとなく、あのシーンと被った。
「キョウコさんは?ああ、いやその、キクヒコに伝言、ある?ああ、そう。了解、じゃ」
母のそっけない返答は、聞こえなかったけれど。
こちらを振り返った父は、あの時と同じ、どこかしょんぼりした顔をしてた。
という事は、このパターンは、そう僕が思ったのとほぼ同時に、たたっと廊下から足音がして、
「キイチロウさん、気をつけてね。キクタも、ルリちゃんによろしくね」
そう、母の声が云う。
母の姿は僕からは見えなかったけれど、たぶん、「ちょっとそっけなさすぎたかしら」ってその顔には書いてあったはず。
「はーい」
うれしそうに、またあの日と同じだらしない笑みを浮かべながら廊下を振り返って、父は母に手を振ってた。
変わらないんだな、と思って、僕は何だかうれしくて、ひとりでニヤニヤしてたかもしれない。
yesterday once more
屋根裏ネコのゆううつ II