yesterday once more iv

屋根裏ネコのゆううつ II

車を降りると、海沿いの住宅街よりも標高が高いせいかな、木々に囲まれた山の空気は少し肌寒く感じられた。
ぴんと張り詰めた空気が辺りに漂っているような気がするのは、道路を塞ぐように並んだ立ち入り禁止の柵のせい、ばがりではないような気がする。
認識が消されているのだとしたら、あの工事現場や海沿いのクレーターと同じはずなので、空気が違って感じられるのも、気のせいばかりではないのかもしれない。
サモンジさんは「行ってみましょう」と云ってくれたけれど、立ち入り禁止の柵の向こうへ、彼は入れるのだろうか。
工事現場やあの公園と同じなのだとしたら、おそらく、入れない、はず。
一歩足を踏み入れるか、踏み入れようとした時点で、認識が消されて、固まる。
車を降りた時から、胸の奥に何かもやもやとした嫌な気分がしているのは、たぶん、そのせい。
認識を消されて、固まってしまう人を見るのは、何と云うか、決して気持ちのいいものではなかったから。
車が通れないように、工事用のウマをバリケード代わりに並べて、簡易的に道を塞いであるけれど、人が通れるくらいの隙間は空いてる。
キーのリモコンで車にロックをして、サモンジさんが柵の前に立つガブリエルを見る。
Nを抱いたガブリエルも、少し緊張した顔をしてたけれど、無言でサモンジさんにうなずいて、柵の隙間を通って立ち入り禁止の区域へ入る。
サモンジさんがその後に続いて、柵の間を通り抜けるのを、僕は後ろから見ていた、けれど。
特に何も起こる事なく、サモンジさんはすっと柵の間を通って、待っていたガブリエルの横に並ぶ。
「嘘、どうして」
海のテラスでルリおばさんがそうつぶやいたのが聞こえたけれど、僕も全く同じ事を思ってた。
どうして?
ここの認識は、消されていないのだろうか。
じゃあ、あのニュース記事は、ただの改ざんと情報操作、だけなの。
いや、「ただの」でも、「だけ」でもないのだけれど。
ニュースの改ざんと情報操作
それだけでも、ただ事でない事には違いないけれど。
つい呆然としてしまっていて、サモンジさんが振り返って、僕を心配そうに見つめているのに気づいて、慌てて僕も柵の間を通り抜ける。
その時、何気なく、だったのだけれど、サモンジさんが両手で腕をさするような仕草をしたので、僕はどきっとした。
あの時の、アイといっしょだった。
あれは暑い真夏の昼間、だったのに、アイは両手で腕をさすりながら「何かぞわぞわする」、そう云ってた。
ガブリエルも、気づいてたらしい。じっとサモンジさんのその仕草を見つめていて、その視線に気づいたサモンジさんが、
「少し、肌寒いですね。標高が高いせいでしょうか」
そう云って、ガブリエルに微笑みかける。
確かに少しひんやりとはする。
僕も車を降りた時に、そう感じたけれど。
「サモンジ、それは、寒いの。もっと何か別の、悪寒とかではなく?」
真剣な顔で、ガブリエルがそう尋ねるので、サモンジさんは少し怪訝な表情になって、
「坊ちゃま、寒く、ありませんか。車に薄手のジャンパーを積んでいますので、お持ちしましょうか」
あくまで、いつも通りの、やさしい執事のサモンジさんなのだけれど。
「ううん、ボクはだいじょぶだけどね。サモンジ、その、へんなコト聞くけどさ」
ガブリエルがめずらしく云い淀むので、
「はい」
サモンジさんは何事かと首をかしげてる。
「その柵を通り抜けた時に、急に悪寒がしなかった?入ってはいけないような、入りたくないような、そんな感じはしなかった?」
ガブリエルの質問は、全くその通りで、僕が聞きたい事も、まさにそれだった。
まっすぐストレートでわかりやすい、いかにもガブリエルらしい質問、なのだけれど。
何も知らないサモンジさんにしたら、それは奇妙な質問、だよね。
ふむ、とサモンジさんは柵を振り返って、少し考え込むような表情になる。
「でも」
じっと僕とガブリエルの視界の窓を見つめながら、ルリおばさんがつぶやくように、
「能力者って事はないわよね。年齢的にも、ロリポリが落ちて来た時には、当然生まれてないでしょうし」
ひとりごとみたいに云う。
それは、そう。
そうなのだ、けれど。
年齢的にも
その、ルリおばさんの言葉が、僕の中で何かに引っかかる。
年齢
32歳、とサモンジさんは云ってた。
ハンスと同じ歳。
ルリおばさんの、ふたつ上。
キクヒコさんも、たぶん、それくらいのはず。
ハンスと、ルリおばさんと、キクヒコさん?
3人ともアニーで、年齢が近い。
そして、3人の共通点は、
あの秘密の地下施設の、「子供」?
そう連想してしまって、僕は自分のその妄想にどきりとする。
はっと音が聞こえるくらい、ルリおばさんが大きく息を飲んで、
「嘘でしょ、執事さんも?まさか、あいつらに、売られた「子供」って事?」
口に手を当てて、そうつぶやいて、テラスのテーブルで固まってる。
いや、あくまで妄想の、ただの僕の思いつき、だけれど。
もしもそうだとしたら、もちろん博士のクローンではなくて、人身売買でどこからか買われて来た子供。
そして、改造された子供で、アルカナが入ってる、かもしれない。
ルリおばさんやキクヒコさんのように、「揺り籠」の中にいたアルカナが。
だとしたら、あの時、
僕とラファエルの認識を消して、お屋敷へ入り込んだ時、サモンジさんは「認識」を消されてなかったの。
サモンジさんの「泡」の色は、青だった。
もしアルカナが入ってるとしても、透明ではないから、ハンスと同じ人造アルカナでは、ないはずだけれど。
「正直に申します、坊ちゃま」
柵から眼を離して、ガブリエルをまっすぐに見て、サモンジさんが云う。
「入りたくない、入ってはいけない、そんな感じは、ありました。今も、それはあります」
ゆっくりと一言ずつ、言葉の意味を確かめ選ぶように、サモンジさんは続けて、
「立ち入り禁止の場所ですから、常識的に、そう感じるのだろうと思っていました。しかし」
そう云って、サモンジさんはくるりとこちらを振り返り、すたすたと迷いなく僕の脇を進み、もう一度柵の間を通りぬけると、停めてある車の前まで戻って、振り返る。
そして、うなずいて、
「やはり、そうですね。悪寒が止まりました。その柵の中へ入ると、悪寒がするようです」
淡々と冷静に、まるで他人事のように、サモンジさんはそう云った。
いっしょ、だった。
あの時、僕の実験に付き合って、あの公園へ入って行ったアイと、いっしょだ。
入れないのかと思ってた。けれど、アイは普通に、公園へ入れた。
公園の中から僕を振り返って、「なんともねえ」と云いながら。
でも、すぐに両腕をさすりながら公園から出て来ると、
「なんともねえ、は、嘘だ。やっぱりあんまりあそこにはいたくねえ」
「なんだろな、なんか、ぞわぞわする」
そう、アイは云った。
アイと同じ、
だとすると、アルカナが入っている、けれど、目覚めていない?
「かもしれない、だよね」
レースのカーテンが揺れて、ガブリエルが「海」で云う。
「まずこの場所の認識が消されている「かもしれない」、それは、まだ確定じゃない。だから、消されてない「かもしれない」、どちらかはまだわからない」
確かにそう、認識が消されているように思える、でもそれは確定じゃない。
実は消されてない、その可能性もある。
ガブリエルは淡々と続けて、
「サモンジの生い立ちは、残念ながらボクにはわからない。ミカエルなら、もしかしたら何か聞いていて、知ってるかもしれないけど。だからひょっとしたら、キミの想像通り、サモンジは、売られた子供だった「かもしれない」、それも確定じゃない。アニー「かもしれない」し、もしもそうなら、アイと同じでまだ目覚めていないだけ「かもしれない」、全部がまだ仮定で、想像でしかない。実は違うのかもしれない。単にボクらの思い過ごしなだけ、なのかも」
そこでガブリエルは、「はっ」と短く、軽めのため息をつく。
笑うような、気を抜くような、そんな調子で。
「キミが、「アイは普通の子だったらいい」って、ずっと云い続けてた気持ち、ボクにもようやくわかったよ。サモンジも「普通」でいい。アルカナも何も入ってない、「普通の人」でいてほしい。やっぱり、そう思っちゃうよね」
ふふ、と短くガブリエルは笑う。無理して笑うみたいな、力のない笑い方で。
ゆっくりと、サモンジさんはまた柵の間を通って、僕の脇を過ぎ、ガブリエルの横に並んだ。
ふむ、と小さくうなずいて、
「やはり悪寒はしますが、それだけです。耐え難いほどではありませんので、だいじょうぶ、問題ありません」
落ち着いたいつもの声で、サモンジさんはそう云った。
うん、ガブリエルもうなずいて、ほんの少しだけ、考え込む。
腕に抱かれたNが、じっとガブリエルを見上げてるのにも、気づかないようで。
そして、意を決したように、ガブリエルは口を開くと、迷いなく云う。
「ある特定の範囲や事柄の「認識を消す」、そういう「力」があるんだよ。まだ確定ではないんだけど、あの柵のこちら側、立ち入り禁止の研究棟の周辺が、その「力」の影響を受けてる可能性があるんだ」
ゆっくりと丁寧に、言葉を選ぶように、ガブリエルはそう説明する。
サモンジさんは真剣な表情で、じっとガブリエルを見つめてる。その言葉を、一言も聞き逃すまいとするみたいに。
「普通の人は、入れない。「認識」が消されているからね。その場所は見えるし、それがある事は知ってる。だから、近くまで行く事もできる。でも、中へ入る事はできない」
ガブリエルが言葉を切って、じっとサモンジさんを見る。「ボクの話、わかる?」そう尋ねるみたいに。
まるでその心の声が聞こえたみたいに、サモンジさんは無言でうなずく。
心の声
アイとは、手をつないでも心の声で話す事はできなかった。
サモンジさんは、どうなのだろう。
「でも、ボクらは入れる。ボクらは、その消された「認識」の影響を受けないんだ。その理由は、ごめん、長くなるので、今はその話は割愛させてほしい。後でゆっくり、ちゃんと説明するから」
そう云って、ガブリエルはいつものやさしげな微笑を浮かべる。
サモンジさんがうなずいて、ガブリエルはまた話を続ける。
「ボクらはその影響を受けないけれど、サモンジは影響を受けるのだろうとボクは思ってた。「認識」を消されるんじゃないかって。だから、柵のこちら側へは入れないんじゃないかってね。でも、入れたね。だから、サモンジもボクらと同じなのかもしれない。消された「認識」の影響を受けない人、なのかもしれない」
そこでまた、ガブリエルは言葉を切って、少し首をかしげてから、云う。
「あるいは、この場所の「認識」が消されてる、というボクらの想像が間違ってるのかもしれない。「認識」は消されていないのかも。だから、サモンジも入れたのかも」
ふっと困ったような苦笑を浮かべて、
「そんな、ふわっとした説明しかできないんだけど。それが、今の状況だよ」
そう云った、ガブリエルの気持ちが、僕にはわかるような気がする。
サモンジさんに、嘘はつきたくない。出来る限り、本当の事を伝えたい。
でも、巻き込みたいわけじゃない。
アイに対する、僕の気持ちと、それはとても似ている気がした。
「ありがとうございます」
いつも通りのやさしい声で、サモンジさんがそう云ったので、僕は、何だろう、少し意表を突かれたような気がした。
「お礼を云われるような事、かな」
ガブリエルも困ったような微笑を浮かべたまま、サモンジさんを見る。
「はい」
サモンジさんは、うなずいて、
「坊ちゃまが、正直にお話しくださった事が、私にはとてもうれしく、何よりもありがたい事ですので」
やさしく微笑んで、云う。
「あらまあ」
そんなのんきな声を上げて、ルリおばさんはテラスのテーブルにドンと肘を置いて、頬杖をつく。
「オトナなのねえ、感心しちゃうわ」
そう、ため息まじりにルリおばさんが云うのは、
何なの。
皮肉とか、ではないよね。
「まさか、あたしそこまでひねくれてないわよ。素直に感心してるの」
ふふん、と鼻で笑う。
そうなの。
だったらいいけれど。
頬杖をついてるのは、いつもの「跳ねっ返り」スタイル、なのかな。
素直に感心してる、けれど、態度はいつも通り「跳ね返ってる」という事?
やっぱりルリおばさんて、僕にはまだわからないところが多い。
ルリおばさんが、と云うより、大人の女性が、かな。
サモンジさんが、ゆっくりと
「正直に云えば、坊ちゃまの今のお話を、きちんと理解できた、とは、私には申せませんが」
そう云って、少しだけうつむいて考え込むような表情になり、またすぐに顔を上げて、
「そういう事なのだと、ひとまず、承知いたしました。ゆっくりと、少しずつ、理解を深めたいと思います」
やわらかく微笑んで、うなずく。
「うん、ありがとう。それで十分だよ」
ガブリエルもうなずいて、いつもの笑みを浮かべる。
はあ、とテラスでまたため息が聞こえて、
「ああもう、何かしらね、この敗北感って云うの?別に、何も、ぜんぜん、ちっとも悔しくはないのだけれど」
頬杖をついたルリおばさんが、ニヤニヤしながら云う。
敗北感って
いったい何に負けたの。
まあ、なんとなく、それは、僕にもわからなくもないような、気がするけれど。

あらためて、研究棟へ向かって、車道を歩き出しながら、気がついた。
見間違い、ではないよね、と思い、ゴーグルに触れて、「線」モードに切り替える。
「あら」
僕の視界を眺めていたルリおばさんも、気づいたらしい。
「これは、「線」ね。しかも青だわ」
その声に、前を歩いていたガブリエルがぴくりと反応する。
「青?」
窓から聞こえるガブリエルの声に、「うん」と答える。
キクヒコさん、かもしれない。
距離はまだ、だいぶ遠そうだけれど。100m以上先、かな。
車道は緩い上り坂で、大きく右にカーブしてる。
道の右側の木立の向こうに、大きな建物の屋根がちらちらと見え隠れする。
あれが東棟、なのかな。
西棟は全焼、らしいので、屋根はきっと残ってないよね。焼け跡に鉄骨くらいは、残ってるのかもしれないけれど。
前を行くガブリエルが足を速めて、息を切らしながら、坂道をずんずん上って行く。
隣を歩くサモンジさんは、ガブリエルのペースに合わせてるけれど、趣味の登山で山道にも慣れてるのかな、少しも息は乱れていなかった。
「ガブリエル、あんた、無理しちゃだめよ。まだ起きたばかりで、やっとリハビリも終わったところなんだから」
上下に揺れるガブリエルの視界に眉をひそめて、ルリおばさんがテラスで心配そうに云う。
「うん、だいじょうぶ」
ガブリエルの窓から聞こえる声も、少し苦しそうだけれど。
坂道を上りきると、視界が開けた。
カーブも終わり、まっすぐに伸びる道路の先に見えたのは、白い塀。
おなじみの、工事現場を囲う、鉄の仮囲いの高い塀だった。
その向こうに、さっきまで木立の先に見えていた灰色の建物と黒っぽい屋根が見えるのが、東棟だろう。
西棟は、見えなかった。
全焼、とは云っても跡形もなく燃え尽きるとは思えないので、
東棟の建物の、その影に隠れた向こう側にあるのかもしれない。
まっすぐに伸びた道路は、30mほど先で、白い鉄の塀に塞がれてた。
建物の周りを囲むように、ぐるりとその白い塀が立っている。
青い「線」は、まっすぐにその道の先を指していて、
「あれは、人かしら」
ルリおばさんの云う通り、道の先、その白い塀の前に、人が立っていた。
青い「泡」の、背の高い人影。
大人の、男の人かな。
キクヒコさんかどうかは、わからない。
こちらに背を向けて、白い塀の方を向いて、立っている。
急ぎ足で近づくと、その姿がだんだんはっきりと見えてきた。
半纏、と云うのかな。
大工さんや職人さんが着ているような、背中に大きな紋の入った藍染の和装。
灰色に見える短い髪は、白髪交じりなのかもしれない。
僕らの足音が聞こえたのだろうか、10mほどまで近づくと、その人はゆっくりとこちらを振り返った。
日に焼けた、体格の良い背の高いおじさん、いや、おじいさんかな。
「おやあ」
眼を細めたその人が、意外に陽気な声で云う。
「おまえさん方、ここは立ち入り禁止だぜ。いったいどこから迷い込んだ?」
くるりと僕らを見回すその人の顔に、僕の眼は釘付けになってた。
右の額から、頬まで走る、古い傷。
そして、半纏の襟に白く染め抜かれた「スズキ組」の文字。
間違いない、
この人は、スズキの親分、つまり、僕のおじいちゃんでは。

前を行くガブリエルとサモンジさんを追い越し、思わず駆け寄って、5mほどの距離を置いて、僕は立ち止まる。
つい、以前からの顔見知りのように、走り寄ってしまったけれど。
何て云って声をかければいいの。
おじいちゃん、はじめまして?
そんな、いきなり?
立ち止まり、口を開けたまま、僕は何も云えずに、スズキの親分をただじっと見上げてた。
ヤクザと云うより、大工さんか工務店の社長さんかな。そう見えたのは、半纏とその下の黒っぽい作業着のせいだったかもしれない。
背が高くて、がっしりしてるけれど、あの記憶で見たスズキの親分ほど怖そうに見えなかったのは、見慣れたせいかな。
子供にはやさしい人、そう父に聞いてたせい、かもしれないけれど。
怪訝な顔で僕を見つめるスズキの親分の口がゆっくりと開いて、
「だん・・・な」
そう小さくつぶやいて、固まる。
これは、知ってる。
認識の喪失だ。
まさか、僕を見て、「キリノの旦那」を思い出しそうになって、認識を消されたの。
いや、そんなはずはないよね。だって今の僕は、親分の知ってる「旦那」ではなく、見知らぬ子供のはず。
でも、今、親分は「だんな」って、云わなかった?
違う、そんな事より、まず固まってしまった親分を何とかしてあげないと。
そう思って、とっさに、
「あの、親分?」
そう云ってしまった。
はっと親分が息を吸い込んで、ぱちぱちとまばたきをして、僕を見る。
「おまえさん」
そう云って、親分は何やら険しい顔になって、僕の後ろに立つサモンジさんとガブリエルを順に見て、また僕を見る。
腕組みをして、眉間にシワを寄せて、僕をにらんでる、わけではなく、何か考え込んでる、のかな。
「おまえさん方は、何者だい」
ゆっくりと、何か慎重に探るように、親分は、そう云った。
「失礼しました」
サモンジさんが一歩前に出て、丁寧にお辞儀をして、
「私はススガ森のミクリヤ家で執事を務めております、サモンジと申します。こちらは当家の坊ちゃまで、ミクリヤガブリエル様です。そしてこちらは、ご学友のスズキキクタ様です」
淡々といつもの執事の声で云う。
「ほう」
ミクリヤ、と聞いて何か感じる所があったのかな。
親分は感心するように云って、少しだけ表情をゆるめた、ような気がした。
でもまだ何か考えるように、腕組みをして、首をかしげて、また僕を見る。
「おまえさん、どこかで・・・」
そう云って、また動きが止まる。
やっぱり、そう。
認識を消されてる。
いや、それは、そうだ。考えるまでもなく、その「認識」は消されてる。
「消された」とキクタが云った通り、あの火事の後で、ベースを含む周辺とその関係者全ての認識は消されてる、はず。
親分は、僕を見て何かを思い出しそうになってる。
だから、固まる。
僕の認識は、いろんな所で消えているはずだけれど、親分が思い出しそうになってるのは、たぶんそのうちのどれでもない。
僕の行方不明事件ではないし、ミクリヤのお屋敷での事でもなく、職員室でもあの公園でもない。
だってそれを、親分が知るはずはない。
だとしたら、親分が思い出そうとしてるのは、やっぱり「キクタ」の事なの。
「親分?」
そう呼びかけると、親分はまた、はっと大きく息を吸い込んで、
「ええい、しゃらくせえな」
吐き捨てるように云って、どすんと道路を踏みつける。
地団駄を踏むみたいに。
そして何故か、くるりと僕らに背中を向けた。
ゆっくりと腕組みをすると、白い塀に顔を向けたまま、
「・・・ある一定の範囲や事柄の「認識を消す」、そういう能力があるんだ」
おもむろに、親分は、そう云った。
はっとサモンジさんが息を飲む。
それは、そう、ついさっき、ガブリエルの口から聞いたばかりの事なのだから。
そして、親分の云うそれは、あの時のキクタの言葉、そのものだ。
「昔、俺にそう教えてくれた人がいた。確かに、いたんだ」
それって、じゃあ、
親分は、それを覚えてるの。
僕らに背を向けたまま、親分は淡々と世間話でもするように、続けて、
「ふた月ほど前に、ここで爆発事故が起きてな。全焼しちまった西棟の解体を、うちの組が請け負った」
そう云って、親分はちらっと顔だけこちらを振り返って、
「ああ、俺はこの辺で土建屋をやってる、スズキってモンだ」
半纏の襟をつまんでこちらに示しながら、そう、サモンジさんに云う。
さっきのサモンジさんの丁寧な挨拶への、それが返事って事かな。
そしてすぐにまた、ふいっと塀の方を向いて、
「ところがだ、ひと月たってもふた月たっても、いっこうに解体工事が進みゃしねえ。何やってんだってうちの若ぇモンをどやしつけたら、どいつもこいつもきょとんとしてやがる。それで様子を見に来てみたら、この通りよ。仮囲いだけで、ひとつも作業が進んでねえと来た。組を預かるモンとして、お詫びかたがた、大学の事務局へ問い合わせてみたが、事務員も先生方も何のことやら、ってなもんよ。妙な事になったもんだと頭を抱えてたところへ、おまえさん方がふらりとやって来た、ってわけだ。そんで、そのおまえさん・・・」
そう云いかけて、ちらっと僕を振り返って、親分はまた固まってる。
「今の話って」
そう、ガブリエルが云いかけて、
「あ、その前にK、親分を起こしてあげて」
そう僕に云うので、
「親分?」
声をかけると、親分ははっと息を吸い込んで、また「ええい」と地団駄を踏んでそっぽを向く。
「やっぱり、ここの認識は消されてるんだね。だから、仮囲いがされただけで、解体工事は進んでない。親分は、何故かそれに気づいていて、ここへも入って来れてるようだけど」
あごに手を当てて、首をかしげたガブリエルが云う。
「じゃあおまえさん、ええと、ミクリヤの若様だったな。おまえさんは、それを知ってんのかい。その「認識を消す」能力やらってのを」
そう尋ねる親分は、今度は固まらない。
まるでどこかにボーダーラインみたいなものがあって、それを越えると固まってしまう、みたいに。
ライン、と云うより、ワードかな。
「ミクリヤの若様」も「認識を消す能力」も、NGワードではない、という事かも。
ガブリエルがうなずいて、
「うん、知ってるよ。全部ではないけれど、おおよその概要は、ってところかな」
そう答えると、ななめにガブリエルの方を向いたまま、「へっ」と親分は小さく笑って、
「おおよその概要、か。ミクリヤの若様は、ずいぶんとまた難しい事を仰るなあ」
大きな手を広げて、太くて長い人差し指で、無精ひげのあごを掻く。
「つまり、この辺り一帯の「認識」が消されてる。解体工事が進まないのはそのせい。若様はそう仰るんだな。認識が消されてるから、解体しようにも、うちの社員共もここへは近づけねえ。そして、大学側の事務員も先生方も、そもそも研究棟の存在すら忘れちまってる、と」
親分のその言葉に、ガブリエルはうなずいて、けれど、すぐに首を横に振りながら、
「最後のは少し違うかな。研究棟の存在すら忘れてる、って事はないはず。研究棟がある事は覚えてるし、立ち入り禁止になってる事も、たぶん承知してると思う。そこまでは、ね。その先が、ないんじゃないかな。それ以降の認識が消えてるんだと思う」
あごに手を当てて、考えながら、そう云った。
たぶん、その通りだと思う。あの公園や、工事現場と同じだとしたら、それがそこにある事は、知ってる。
ただ、そこには入れないし、入ろうとも思わない。
だから、解体工事の話は、先生や事務の人たちには認識されてない。
親分は口元をへの字に歪めて、肩をすくめる。
「まあ、そういう事なんだろうよ。うちの若いモンや、大学の先生方の反応を見る限りじゃ、そうとしか思えねえ。昔、俺にその話を教えてくれた人も、そう云ってた。あれは確か、軍の認識が、って話だったか」
最後はひとりごとのようにつぶやいて、親分はまた腕組みをして、何かを思い出そうとするみたいに、顔をしかめてた。
けれど、ふと何かに思い当たったみたいに、あるいは何かの記憶の破片を見つけたみたいに、ぱっと顔を上げて、僕を見る。
そして、
「やっぱりおまえさん、前にどこかで・・・」
勢い込んで何かを云いかけて、固まる。
僕は、胸を締め付けられるような気分になる。
その認識を消したのは、僕ではないけれど、それでも。
親分、と声をかけようとしたら、彼は何かに抗うように、はっと大きく息を吸い込んで、激しくかぶりを振る。
そう、何かに抗うように
あの時の、サモンジさんのように。
いや、サモンジさんが、もしもアニーなのだとしたら、あの時、認識は消されてなかった事になるけれど。
くるりとまた僕らに背を向けて、親分は目の前の白い鉄の塀を見上げて、「へっ」と小さく、吐き捨てるように笑った。
「手強いねえ。どうあっても、思い出させちゃくれねえのか」
小さな声で、つぶやくように。
そして背中を向けたまま、塀に向かってひとりごとのように話し出す。
「昔、その話を教えてくれた人の事を、俺はどうしても思い出せねえ。忘れてるわけじゃなく、その人の「認識」が消されてるんだろう、たぶんな。その話をした事や、他にもいくつか、たぶんその人と行った場所や、一緒に見た景色、くだらねえ冗談なんかも、覚えてる。だが、肝心のその人の事だけが、真っ白に塗りつぶされちまったみたいに、何も見えねえ。顔も、名前も、声も、何ひとつ、思い出せねえんだよ」
淡々と誰に話しかけるでもない風に、白い塀に向かって、親分はそう語る。
「それが、悔しくてねえ。悔しくて、堪らねえなあと思って、気がついたら、ここに立ってた」
背中を向けた、親分がどんな顔をしているのか、僕には見えなかった。
でもその大きな背中は、とても力強く、まっすぐに前を向いて立ってた。
へこたれて、打ちひしがれているわけではなく、悔しさに打ちのめされているわけでもなくて、まだ強くたくましく、何かに抗おうとしているように、僕には見えた。
「やっぱり、ここもいっしょだったって事かい。だからここへ来て、無意識にそれを思い出してたのかもしれねえな」
そう云った親分の声は、からりと晴れた青空のように、どこかすがすがしく、僕には感じられた、けれど。
だからこそ、かな。
12年前の、あの時、「キクタ」は、全てを諦めてしまった、けれど。
認識が「消された」と知って、親分や他の協力者たちとのつながりを、もう終わったものと、二度と戻らないものと、キクタは諦めてしまった。
大地震と、軍の撤退と、その上あの火事にも遭って、たいへんな避難生活を余儀なくされていたのだから、気持ちの上では諦めたくなかったとしても、現実的には諦めざるを得なかった、きっとそうなのだろうけれど。
それでも、やっぱり諦めるべきじゃなかったのでは、と僕は思ってしまう。
だって、認識を消されても、親分はこうして、まだ「キクタ」を覚えてる。
名前も、声も、何も思い出せなくても、それでもまだ、覚えていて、思い出そうとしてくれてる。
だったらあの時に、「誰だ?」と云われても、何も覚えていなくても、強引に押し掛けてでも、もう一度、つながってみるべきだったのかもしれない。
消された「認識」を取り戻す事はできなかったとしても、もう一度、つながりを作り直してみるべきだったのかも。
なんて、云うは易し、だけれど。
それに、そんな「たられば」には、今となっては何の意味もないけれど。
当時を何も知らない、覚えてもいない僕が、「それでもそうするべきだった」なんて、偉そうな事を云える立場ではないし。
何より、それは、何も覚えてはいないけれど、かつての僕自身がしてきた事、そしてきっと、やりたくてもできなかった事、なのだから。
テラスで小さなため息が聞こえて、
「キクちゃん」
ぽつりと、ルリおばさんがつぶやいてる。
ごめん、ルリおばさん。
へんなこと云って、ごめんなさい。
ルリおばさんが、小さく首を振る。
何か云いかけて、でも何を云ったらいいかわからないみたいに、困ったように苦笑する。
「K」
ふわりと、レースのカーテンが揺れて、ガブリエルが僕を呼ぶ。
「ひとつ、提案があるよ」
いつものおだやかな声で、ガブリエルは云う。
提案
「うん」
ガブリエルはやわらかな声でうなずいて、
「確かに、キミの云う通り、消された認識を元に戻す事は、残念ながらできないよね。だったら、キミの云うように、もう一度、つながりを作り直したらいいじゃない。親分と、ううん、違うね。おじいちゃんと、かな」
どこか楽しそうに、ガブリエルはそう云った。
親分と、ではなく、おじいちゃんと?
「そう、云わば、認識の上書きだね。親分はキミを見ると、何故か「キクタ」を思い出してる。だから、消された認識が邪魔をして、固まってしまう、でしょ。だったら、そこに情報を上書きしてやればいい。「旦那」のキクタではなく、「孫」のキクタっていう情報をね。「旦那」を思い出させる子供だけれど、これは「孫」のキクタだ、そう認識させてあげたら、もう親分は固まらなくなるんじゃないかな」
ガブリエルにそう云われて、ふと思い出す。
認識を上書きする事はできないの。
そう、僕はナナに聞いた事があった。
4人の赤ちゃんの両親たちの話、だ。
大事な子供を一時的に預けて、帰国した両親たちは、ベースやアルカナに関する認識を消されて、何もかも忘れてしまった。
その両親たちに、教えてあげる事はできないのかな、とあの時僕は思った。
「あなた達の子供は、今も元気に生きている」と。
そう、認識を上書きする事は、できないのかな、そう考えた、けれど。
子供がいた事、その子供を預けて帰国した事、それらすべての認識を消されてしまった両親に、「子供が日本にいる」「その子は元気に生きている」そう認識させる事、それ自体が、無理だ。
あの時、消された直後ならまだしも、12年も経って、今になってそう伝えたところで、それは・・・。
そう思ってた、けれど。
親分が「キクタ」を覚えていたように、みんなの両親も「赤ん坊」を覚えているのかもしれない。
認識は消されていても、どこかに、「子供がいた」という思いが、残っているのかも。
「うん、まあ、そうかもね。でもそれは、「今」じゃないよねえ。いやあ、でも今は、「それ」じゃない、かな」
困ったような声でガブリエルにそう云われて、僕ははっと現実に戻る。
そうだった、まずは、目の前の親分だ。
まだ向こうを向いたまま、何か物思いに沈んでいる風な親分の大きな背中。
僕はまっすぐにその背中を見上げて、大きく息を吸い込んで、思い切って声をかける。
「あの、おじいちゃん」
そう口に出して呼んでしまったら、何だか勢いがついて、怪訝な顔で振り返る親分に、僕はそのまま続けて云う。
「僕、スズキキクタです。ええと、スズキキイチロウの息子で、だから、あなたの孫で」
勢い込んで云ってみたものの、しどろもどろだった、けれど。
細い眼をめいっぱい見開いて、親分は驚いた顔で僕を見る。
「おまえさん・・・」
そう云って、固まってる、けれど。
これは、認識の喪失、じゃないよね。
びっくりして固まってる、だけだよね。
そう、僕が心の中で思ったのが、聞こえたみたいに。
まるでその声に、答えるみたいに、
「ああ、こりゃ、驚いたな」
くるりと体ごとこちらを向いて、僕の目の前に僕の目線の高さに、親分はしゃがみ込む。
大きな右手が、僕の頭の上にすっと伸びてきて、わしゃわしゃと僕の髪をかき回してる、けれど。
何でなの。
何で、そんないきなり、父と同じ事するの。
たぶん、親分は無意識なのだろうけれど。
何故なら、僕がその手を避けられなかったので。
「そうかい、おまえさんがキクタかい。何だよ藪から棒に。だったら最初から、そう云えってんだ」
そう云って、僕の頭をわしゃわしゃかき回しながら、親分は、はっはーと豪快に笑った。
そしてちらりと顔を上げると、
「執事さんも人が悪ぃなあ。ドッキリか何かのつもりかい。あんまり年寄りを驚かすもんじゃねえぜ?」
親分はニヤニヤしながらそう云って、サモンジさんを見る。
可哀相なサモンジさんはすっかりうろたえてしまって、
「いえ、私は、その、たいへん申し訳ございません」
ぴしっとしたいつものきれいなお辞儀をする。いや、いつもよりさらにキレがあった、かも。
「まさか、あなたがキクタ様のお爺様とは、全く存じ上げませんでした。たいへん失礼をいたしました」
頭を深々と下げたままそう云って、サモンジさんはぴくりとも動かない。
「はっは、冗談冗談」
からからと楽しそうに笑って、
「執事さん、頭を上げてくんな。俺だって知らなかったんだから、おまえさんが知らねえのは無理もねえさ」
そう云うと、親分はまた僕を見て、細い眼を糸のように細くしてにっこり微笑む。
「いやあ、昼前に何年振りかで、キイチロウの奴が電話かけてきてな。「孫が会いたがってる」なんて抜かしやがるから、てっきり、久方ぶりすぎてバツが悪いもんで、孫をダシにしてんのかと思ってたぜ」
え、父さん、早速電話してくれてたんだ。ありがとう。
そう思ったので、僕は慌てて親分に、
「ううん、違うよ。それは、僕が、おじいちゃんに会いたいって、父さんに云った、からで」
父の名誉を守るべく、そう云ってみたけれど、またしどろもどろだった。
「はっはー、そうかいそうかい。そんでわざわざ、ここまで俺に会いに来た・・・、ってわけじゃねえよなあ」
ふふん、と親分は笑う。
「じゃあ今日ここへ来たのは、たまたま偶然か?そんな事もあるんだなあ」
偶然
全くその通り、よく出来た、偶然だった。出来すぎなくらいの。
「笑ったら、そっくりね。やっぱり親子って感じだわ」
ふふふ、とテラスで、ルリおばさんが笑ってる。
ほんとに、細い眼がなくなっちゃうところとか、父にそっくりだ。当たり前、なのだろうけれど。
それに、
「ガブリエル、ありがとう」
海で、僕は云う。
親分は、僕を見ても、もう固まらない。
「旦那」のキクタではなく、「孫」のキクタだと、認識されたから。
認識が、うまく上書きされたから。
「いやあ」
ガブリエルは、少し照れたように、
「実は、ボクの案じゃないんだよ。キミの親愛なる老賢者がね、そう「提案」してくれたんだ」
ふふふ、と笑う。
N?
振り返ると、Nはガブリエルの腕に抱かれたまま、素知らぬ顔で、ぺろりと黒い鼻をなめてた。
あの、何もかも見通しているような、青と琥珀のきれいな眼で、僕をやさしく見つめて。

「とは云え、厄介なもんだな」
すっかりもしゃもしゃにかき回されてしまった僕の髪からようやく手を離して、親分は笑顔を消して、眉間にシワを寄せる。
「こうなっちまったら最後、二度と元には戻らねえ、と俺はそう理解してるんだが、間違いねえかな、若様」
ガブリエルに、そう尋ねるのは、質問ではなく、確認かな。
すっかり「若様」になっちゃってるけれど。
じゃあもし、親分がLに会ったら、何て呼ぶんだろう。
ミクリヤの・・・
「姫様でしょ」
ニヤニヤしながら、ルリおばさんが云うと、ガブリエルがくすくす笑って、
「ミカエルは、絶対、嫌がるだろうけどね」
そうかな。案外よろこぶかもって僕は思ったけれど。よろこぶと云うか、面白がるんじゃないかな。
あ、でも、どうだろう。「お嬢様」を嫌がるくらいだから、やっぱりダメかな。
「じゃあ、その時を楽しみにしておこうか」
ふふっとガブリエルは海で笑って、親分に、うなずきながら云う。
「うん、ボクらもそう思ってるよ。元に戻す方法が、ない、とまでは、もしかしたら云い切れないかもしれないけれど、今のところ、元に戻った事例は、少なくともボクは見た事がない、かな」
ガブリエルの答えは、とても正確で正直だった。
地球外生命体である、アルカナの持つ未知の「能力」であるとは云え、二度と元に戻せない、とは云い切れない、かもしれない。元に戻す方法が、実はあるのだとしても、不思議ではない。僕らがただそれを知らないだけで。
僕らを含む、この街で「認識を消す」力を使ったアニーの、誰もがそれを知らないだけ。
なのかもしれない。
じゃあ元に戻せるの?
そう、想像してみると、少し怖い気がするけれど。
例えば、僕が夏に行方不明になっていた、その認識はナナによって街中から消されてる。
それが、今この瞬間に、元に戻ったとしたら。
みんなが失くした認識を、一斉に取り戻すのだろうか。
父と母は、あの時の思いを、突然思い出すの。
それ自体も怖いけれど、その力の及ぼす影響力と云うか、その範囲もだ。
ベースの消された認識が、いま突然に元に戻ったとしたら。
この街だけではなく、帰国した米軍の人たちも、ガブリエルやJの本当の両親も、そして目の前にいる親分も、突然、それを思い出すのだろうか。
「戻せるのだとしたら、だけどね」
海で、ガブリエルがぽつりと云う。
「実は、本当に二度と戻せない、そういう「力」なのかもしれない。どちらにしても、怖い事には変わりないけど」
どちらにしても、怖い
厄介なもん、と親分は云った。
確かにそう、どちらにしても、怖いし、厄介だ。
誰も痛くも痒くもないし、辛くもなく悲しくもない。当初、Lがそう云ってたように、一面では、その通りだ。
直接的に、誰かを攻撃する「力」ではないし、まして人や何かを傷つけたり命を奪ったりするような「力」ではない。
認識を消されたからと云って、痛みはないし、辛さもない。
たとえそれを失う事に、悲しさや寂しさがあったとしても、それすらも忘れてしまうのだから、実際には、悲しいとも寂しいとも思わない、はず。
けれど、厄介だ。
いや、それゆえに、かな。
「それで」
親分は、くるりとガブリエルとサモンジさん、そして最後に僕の顔を見て、
「そんな厄介な場所へ、おまえさん方は何をしに来たんだね」
そう、不思議そうに、尋ねた。
それは、そうだよね。
僕らはお互いに眼と眼を見交わして、ガブリエルが小さくうなずいて、口を開く、
「人を探しに来たんだ。あの研究棟にあった、生物学のウミノ教授の研究室で、研究助手をしてた人。名前は」
そこでガブリエルは一呼吸おいて、
「キリノキクヒコ、って云うんだけど」
親分の反応を確認するみたいに、ゆっくりと、そう云った。
ふむふむとうなずきながら聞いていた親分が、「キリノキクヒコ」という言葉にぴくりと反応するのが、僕にもわかった。
また長い指でぽりぽりと無精髭のあごを掻いて、
「キリノ、キクヒコ?」
そうつぶやいて、親分は固まった。
「キリノ」がダメなのか、それとも「キクヒコ」か。
いやでも、親分の名前も「キクヒコ」のはずだから、やっぱり「キリノ」なのかな。あるいは、その組み合わせ、なのかもしれない。
「あの、おじいちゃん?」
とんとん、と固まった親分の腕を叩いて、僕は慌てて云う。
「僕のおじさんなんだ。「キクヒコおじさん」、その人を探しに来たんだよ。ここの大学で研究助手をしてた人」
親分は僕を見て、何か考え込むような顔になった、けれどすぐにぶるぶると激しくかぶりを振って、
「あぶねえ、あぶねえ。これも消されてる「何か」なのかよ、全くめんどくせえ」
ちっと小さく舌打ちをして、ひとりごとのように云う。
そして、ことさら声を大きくして、
「へえ、「キクヒコ」とは、また珍しい名前だな。俺の名前もキクヒコってんだ、すげえ偶然もあるもんだなあ」
棒読みのようにそう云って、はっはっはー、と笑う。
そしてスッと笑いを収めると、
「これは、大丈夫なのか。ふう、何ともこりゃ、綱渡り、いや、落とし穴だらけの道を歩いてるようなモンだな」
そう云って、僕を見て、へへっとやんちゃなガキ大将みたいに笑う。
「踏んだらドカン、だ。ああ、落とし穴じゃなく、地雷原だな」
そんな物騒な事を云うけれど、親分は親分なりに、消される認識の対処法を考えてる、のかな。
コツ、というか。
どこまで思考すると消されて固まる、ここまでならばOK、みたいな感じかな。
「踏んだらドカン、は、わかりやすくていいわね」
ふふっとルリおばさんが笑って、
「消されても消されてもめげない所も、さすが、キイチロウさんのパパだけの事はあるわねえ」
またそんな、皮肉なのか褒めてるのかよくわからない事を云う。
「え、なんでよ。褒めてるでしょ、さすが、って」
でも、確かに、さすが、なのかもしれない。
親分は、諦めない。
だから、認識を消されていても、ここまで入れたのかも。
また、親分の右手が僕の頭に乗り、もしゃもしゃとかき混ぜ始める。
「おまえさんの「おじ」なら、俺にとっちゃ、息子みてえなもんだ。放っちゃおけねえな。名前もお揃いなら、尚更よ。他人事とは思えねえ」
何だかよくわからないおじいちゃん理論を、親分は当然のように云う。
今回の頭もしゃもしゃは、無意識じゃなかったのかな。避けようと思えば避けれたけれど、なんとなく、避けるのも失礼な気がしたので、当分はやらせておいてあげようと思った。
あの「親分」が、小さくなった「旦那」の頭をもしゃもしゃかき混ぜてるなんて、絵的にちょっと面白いし。
「キミさあ」
海でガブリエルが噴き出して、
「たまにそうやって意地悪な子になるの、何だろうね。面白いけど」
くすくす笑うと、ルリおばさんが、
「キクちゃん、って感じよね。シニカル、って云うのかしら。あたしなんかより、キクちゃんの方がよっぽど皮肉屋さんよねえ」
肩をすくめてそう云って、ふふふ、と楽しそうに笑ってる。
ひゅるる、と甲高い音を立てて、ひときわ冷たい秋風が吹く。
どこからか、焦げたようなつんと鼻をつく臭いが漂って来るのは、全焼したという西棟の跡から、なのだろうか。
「冷えて来たな。こんな所で立ち話もなんだ、ふもとの大学構内まで降りて、茶でも飲まねえか」
そう云って、親分がしゃがみ込んでいた膝を伸ばして、「どっこらせ」と僕の前に立ち上がる。
その時、
ぴりぴりぴり、ヘッドホンから警告音が鳴り響いて、僕は飛び上がりそうになった。
「何、どうしたの」
テラスのルリおばさんにも聞こえたらしい。驚いた顔で、視界の窓をのぞき込む。
警告音とほぼ同時に、黄色い「線」が、視界に現れてた。
右斜め前方、白い塀ぞいの、道路から少し外れた、枯れた芝生の辺り。
白い塀の正面は、同じ白い鉄板のゲートになっていた。
工事車両や重機が出入りするため、なのだろう。
ニュータウンのあの工事現場は、そもそも出入りをする事が想定されていなくて、ただ塞いで隠すのが目的のものだったから、ゲートも扉も何もなかったけれど。
こちらは、塀が建てられた時点では、解体工事が行われる予定だったはず。だからそのための、ゲートも出入り口もあるのだろう。
道幅と同じ幅の大きなゲートは、今はぴったりと閉ざされている。
そのゲートの少し右、白い塀に、作業員が出入りするための小さな扉もあった。
鉄の塀に、普通の家やマンションのドアと同じくらいの大きさの切れ目が入っていて、L字型のドアノブが付いている。
黄色い「線」は、そのドアを指していて、警告音も、そこから聞こえる、ような気がする。
「ん?キクタ、おまえさん、どうした」
僕の様子がおかしい事に気づいたのか、親分がそう云って、僕の視線を追うように、白い塀を振り返る。
きい、とかすかにきしむ音を立てて、塀の扉が外側へ開いた。
中から出てきたのは、女の子?
たぶん、僕やガブリエルと同じくらいの背丈の、タータンチェックの制服を着た、女の子だった。
見た事のない制服だけれど、この学園の小学校の、なのかな。
でもどうして、立ち入り禁止の研究棟の塀の中から、小学生の女の子が出てくるの。
まるで自宅マンションの部屋から外へ出るみたいに、何の気なしに出て来た女の子が、僕らに気づいて、驚いた顔で動きを止めた。
黒髪を顔の左右で細いおさげにして垂らしてるけれど、後ろの髪は短めでパーマを当てたみたいに肩の上や首の後ろでくるくる跳ねてる。
切り揃えられた前髪の下で、ネコみたいな大きな眼が、びっくりしてまんまるに見開かれてた。
眼の色は、赤。まるで、赤い月みたいな濃い鮮やかな色。お祭りのリンゴ飴みたいな赤。
ぴりぴりぴりぴり、ドアが開いた途端に大きくなった警告音は、間違いなく彼女から聞こえてる。
その頭の上の泡の色も「黄色」
「わ」
小さくつぶやくと、彼女は扉の中に引っ込んで、さっとドアを閉めた。
「おい、嬢ちゃん、ちょっと待ちな!」
親分が慌てて声をかけるけれど、聞こえたのかどうかはわからない。
どうしよう、と悩む間もなく、
「危険ですね、追いかけましょう」
サモンジさんが云って、塀の扉へ駆け出す。
いかにも、サモンジさんらしい、素早く的確な判断、だけれど。
「おう」
親分も、迷わず後を追う。
僕とガブリエルも顔を見合わせて、
「行こう」
ガブリエルに云われ、僕もうなずいて駆け出した。
サモンジさんが素早く扉を開けて、迷うことなく中へ駆け込む。
親分もすぐ後に続いて、僕とガブリエルも、ドアをくぐって塀の中へ。
ざわっと、風が騒いだような、周囲の空気が変わったような、そんな気がしたのは、僕の気のせいだろうか。
空気がひんやり冷たく感じたのは、高い塀の影になっていたせいかもしれないけれど。
その長い影の中、目の前には道路が続いていて、その先に灰色の大きな建物が立っているのが眼に入る。
5階建てくらいの、校舎と云うより、会社のビルとか何かの工場みたいな、窓の少ない建物。これが東棟、だろうか。
制服の女の子は、塀の影よりも向こう、20mくらい先の道路に立っていて、こちらを振り返って見てた。
タータンチェックのスカートが、吹く風と戯れるようにふわふわ揺れてた。
その表情までは、よく見えなかったけれど。
塀の中まで彼女を追って入って来た僕らを見て、あからさまに、「あーあ」みたいな顔をしてた、ような、気がする。
また逃げ出すのかと思ったけれど、彼女が走り出す事はなく、代わりに、首から下げてた何かを顔に被るように、着けた?
あれって、まさか。
「嘘、ゴーグル?どうして」
ルリおばさんの悲鳴のような声が、オレンジの海に響く。
銀色の、ゴーグルだった。
昆虫の複眼を思わせる偏光レンズが、きらりと光る。
彼女は右手の人差し指を立てると、その指先で、ゴーグルの側面をとんとん叩く。
こちらを向いたままの、その顔には、笑みが浮かんでたように、僕には見えた。
まるで、あの時の「あいつ」みたいに。
「あいつ」は、僕の体に入った、キクヒコさんの意識、だったのだけれど。
ふわり、と彼女の体が浮かび上がり、足元に白く光る「輪」が現れて、次の瞬間、その姿は消えていた。
ヘッドホンの警告音も止み、黄色い「線」もいつの間にか見えなくなってた。

「え、どこ行きやがった?」
親分がたたらを踏むように立ち止まり、辺りを見回して困惑してる。
前にハンスが云ってた通り、「輪」が見えない一般の人から見たら、突然、いなくなるように見えるのだろう。
直前にふわっと、数センチ、浮いているはずだけれど、それも僕らには「輪」が見えていて、その上に浮き上がるのが見えるからそうとわかるだけで、見えない人には浮いてる事さえ気づかないのかもしれない。
さっきまで彼女がいた道路の上で、サモンジさんも立ち止まり、辺りを見渡す。
何もないまっすぐで平坦な道路の上なので、遮蔽物もないし、身を隠すような場所もない。
「まさか、これも「認識」とやらかい。あの子を認識できなくなるとでも?」
親分のその発想は、なかなか鋭いけれど、認識を消しても姿が見えなくなることはないはず。
人の意識の上では、透明人間のような存在にはなるかもしれないけれど、実際に透明になるわけではない。
姿は見えるし、話もできる。少なくとも、Lのお屋敷での僕は、そうだった。
ガブリエルが親分に説明してくれて、親分は苦虫を嚙み潰したような顔になる。
「幽霊の類いにゃ見えなかったがな。ありゃあ、この学園の小学校の制服だぜ。立ち入り禁止の解体現場に小学生が入り込んでるってのは、うまくねえな」
「しかし、ここへは入れないはず、では」
そう、サモンジさんがガブリエルに聞いたのは、
「ああ、「認識」が消えてんなら、普通の子供は、って事か。確かに、違ぇねえ」
親分がそう引き継いでくれた。
「では、あの少女も、坊ちゃまやキクタ様と同じく、消された認識の「影響」を受けない子供、なのでしょうか」
サモンジさんがそう尋ねると、ガブリエルはあごに手を当てたまま、
「かもしれない、だね」
慎重に、そう答える。
子供
親分もサモンジさんも、無意識にそう云ったのだろうけれど。
そう、彼女は「子供」だった。
「なんだい、そりゃ」
少し不安げな、心配そうな顔で、親分が僕に尋ねるのは、サモンジさんの云った「消された認識の「影響」を受けない子供」の事なのだろう。
「ええと、その、なんて云うか、体質的に?」
疑問形で、僕はそう答えた。
ごまかそうとしたわけではなかったけれど、アルカナの話は、親分にはきっとできない。
また、認識が消されて、固まってしまうか、そもそも何を云っても聞こえないか、だろうか。
「そりゃ・・・」
と、何か云いかけて、親分は少し考えて、もしかすると「キクタ」の何かに思い当たったのかもしれない。
ああ、とつぶやいて、
「認識の「消されてる」俺にゃ、聞けねえ話って事だな」
そう云って口元に苦い笑みを浮かべて、僕の頭をかき回してた。
父の父とは思えない勘の良さ、いや、そうでもないかな。父もたまに、びっくりするくらい鋭い。
「あの嬢ちゃんもワケアリって事なら、放っといても危険はねえって事か。いやあ、それでも、子供が遊ぶにゃとても安全とは云えねえ場所だが。しかし、逃げられっちまうんじゃ、どうしようもねえな。下手に追い回したら、余計に危ねえ所へ入り込まねえとも限らねえし」
親分は困った顔で、無精髭のあごを掻いてる。
あの子が、僕らの存在を知ってて姿を現したのだとしたら、話を聞く事もできるのかもしれないけれど。
さっきの様子を見る限りでは、知らずにうっかり出て来てしまって、僕らの姿を見るなり、慌てて逃げて隠れた、という感じだった。
だから、追いかけてもし見つける事ができたとしても、また「輪」で飛ばれて、逃げられてしまうだけ、なのだろう。
「輪」の能力の事といい、あのゴーグルの事といい、聞きたい事はたくさんあるのだけれど。
「うん。まあいずれ向こうから姿を現しそうな気もするよね。こっちが気になってるって事は、向こうも気になってるでしょ。キミのその、ゴーグルとヘッドホンはあの子にも見えただろうし」
ガブリエルが「海」でそう云うと、ルリおばさんが大袈裟なため息をついて、
「ずいぶん楽観的ねえ。それもキクちゃん譲りかしら」
困った顔で苦笑してる。
キクタ譲りかどうかはともかく、ポジティブ思考は悪い事ではないのでは。
それなら彼女の追跡は一旦諦めて、今日のところは撤退かな。
そんな事を思いながら、何気なく目線を道路の先、灰色の大きな建物へ向けて、僕は気づいてしまった。
「線」だ。しかも、2本に増えてる。
東棟と思しき建物を指す、「黄色」と「青」の線。
距離は、そう遠くないので、たぶん、建物の中か、その付近だろうか。
「黄色はあの子ね。じゃあ、青は」
じっと僕の視界の窓をのぞき込みながら、ルリおばさんが首をかしげる。
あの子の仲間、かな。友達か、もしかしたら、親や兄弟とか。
2本の線はぴったりと寄り添うように並んで、ほとんど同じ速度でぐるぐる回転してる。
つまり、距離もほぼ同じ、一緒にいる、ように見える。
「その青い人のところへ、「飛んだ」のかもしれないね」
ガブリエルのその予想は、たぶん正しい。
線を見る限りでは、そう思える、けれど。
どうしよう、何て説明すればいいの。親分と、サモンジさんに。
僕には彼女の居場所が見える、って?
会ったばかりのおじいちゃんに、そんなオカルトみたいなこと云うの?
「K」
ガブリエルが、海ではなく声で僕を呼ぶ。
振り返ると、Nが僕の腕に飛び込んで来た。
慌てて抱きとめると、Nが前肢で僕の手に触れて、
「説明は不要です。このまま、追いましょう」
心の声で、そう云った。
不要って、何の説明もなく無言で?
それこそ、僕、へんな子みたいじゃない?
「オカルトめいた発言をするよりはマシでしょう。無言のまま追い、問い詰められて返答に窮したら、ワタシのせいにしてください」
ぺろりと鼻をなめて、Nはさらりと云う。
Nのせい、って?
「ネコが方向を教えてくれた、とでも。眼に見えぬ「線」が見えるというオカルト話よりは、ネコの言葉がわかるくらいの方が、まだ可愛げがあるのでは」
ふふん、と鼻を鳴らすのは、笑ったのかな。
僕、子供だから、ネコの言葉がわかる、って云うの。
確かに、得体の知れない「線」が、なんて云い出すよりは、可愛げはあるのかもしれないけれど。
ガブリエルは、すでにその策をNから聞いてるのだろう。眼が合うと、口元にいつものやさしい笑みを浮かべて、小さくうなずいてた。
「行きましょう。走って」
Nにそう云われ、えいやあ、で思い切って走り出す。
「キクタ様?」
「おい、おまえさん」
サモンジさんと親分がそう呼びかける声を背中で聞きながら、
「こっち」
振り向かずに短く云って、僕は灰色の建物へ走る。
「行ってみよう」
ガブリエルの声がして、みんなの走り出す足音が、後ろから聞こえた。

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