建物の正面の入り口が見えて来た。
ガラスの自動ドアだけれど、開くのかな。
ドアの横の灰色のコンクリートの壁面に、銀色にピカピカ光る鏡のような素材で、文字が貼られているのは、看板だろうか。
West Bldg.
とあるけれど。
「やっぱり、そうよねえ」
呆れたような、困ったような声でルリおばさんが云う。
やっぱり、って?
「ウェストビルディング、西棟って事でしょ。つまり、全焼なんて嘘って事よ」
西棟
この目の前の建物が?
全焼どころか、どこにも焦げ跡のひとつも見当たらない。
灯りは消えているのかな、玄関にも上階のどこの窓の奥にも、点いてるようには見えないけれど。
「違和感はあったのよ。いつもは遊歩道を歩いて来るから、東から丘を登って来るのよね。だから、最初に着くのが東棟なの。でも、今日は車で来たでしょ。道路は、丘を西から回って登って来るはずなのよ。だから、最初に見えるのは西棟か、その焼け跡のはず、でしょ」
そんなルリおばさんの説明を海で聞きながら、息を切らしてガラス扉へ近づくと、ブーンとかすかなモーター音がして、スーッと扉が左右に開いた。電気は通じてるらしい。
自動ドアの中、玄関ホールに灯りは点いていなかったけれど、入り口側の壁一面がガラス張りなので、外から差す光で、中は十分に明るい。奥の方に、非常口の緑の灯りと、火災設備らしき赤いランプが点ってるのも見えた。
2本の「線」は斜め上を指してる。
階段か、エレベーターはあるのかな。
そう思って、僕は自動ドアをくぐって建物の中へ走りながら、何故か無意識に、抱いてたNを左腕に持ち替えて、右手をヘッドホンに伸ばしてた。
指先がカチリとスイッチに触れて、え、僕いま何をしたの?と思う間もなく、スッと足元に白く光る「道」が現れる。
あ、そうか。あの地下の時と一緒だ。あの時、穴に落ちたハナと手をつないで、出口はどっちだろう、と思って、ヘッドホンに触れたら、「道」が出て進む方向を指し示してくれた。そしてその通りに進んだら、ハンスと会えた。
だから、この「道」の通りに進めば。
まっすぐに伸びた白い道は、玄関ホールの真ん中辺りで左へ直角に曲がり、その先に・・・、
あった、エレベーターだ。
「へえ」
ルリおばさんが感心したように、云う。
「こないだ付けたばかりなのに、もうちゃんと使えてるじゃない。覚えてた?わけはないでしょうから、思い出したのかしら」
うん、覚えては、いないよね。思い出した、と云えるほど、はっきりしっかりわかるわけでもないし、まだ、なんとなく、かな。
左側の壁に、エレベーターの扉は3つ並んでいたけれど、「道」は一番手前の扉を指してる。
迷わずその呼び出しボタンを押すと、エレベーターは1階にいたらしい。すぐにチンとベルが鳴って、扉が開いた。
乗り込んで、何階へ行けばいいんだろう、と思いながら、ほとんど真上を向いてしまった「線」をちらりと確かめて、壁の押しボタンを見る、と「1」と「5」しかない。
1階から5階へ、直通のエレベーターだったらしい。
「道」がこれを示してたという事は、「線」の指す先も、きっと5階なのだろう。
みんなが乗り込んで、「5」のボタンにタッチすると、エレベーターの扉がスッと閉まる。キクヒコさんのマンションとは違って、少しもガタガタ鳴らなかった。
「おまえさん」
荒い息を吐きながら、親分が何か聞きたそうに僕に声をかけてくるけれど、右手を上げて止めて、
「ごめん、後で」
切れる息の間から、喘ぐように僕はそう云った。
実際、息が切れていたので、とても喋れるような状態ではなかったし。
親分は、心配そうな顔で僕を見て、それでも納得してくれたのかな、ひとつうなずいてた。
サモンジさんはいつも通りのやさしい眼で、僕を見て、ガブリエルを見る。
ガブリエルも、大きく肩で息をしてた。
「つまり、「西棟は全焼」、それ自体が嘘の情報、という事だね。いや、もしかしたら、爆発事故も、かな?」
目の前のガブリエルは、エレベーターの壁にもたれるように背を任せて、はあはあ息を切らしてるけれど、海から聞こえるのは、いつもの冷静なガブリエルの声だった。
ガブリエルが云うのは、認識を「消す」だけではなく、さらに偽の情報で書き換えてる、という事?
「そう見えるね。けれど、実際に「力」そのものが「情報の書き換え」まで行なってるとは思えないよね。人為的な操作と、認識の喪失を組み合わせる事で、「消す側」の望む形で、誤情報を作り出してる、という感じかな」
ふむ、とガブリエルは考え込むみたいにひとつ息をついて、
「まず、「西棟で爆発事故が起きた」と消防署に通報する。消防隊と救急隊が出動するよね。そしたら、現場に到着した彼らの認識を消す。通報があったという記録、そして出動したという記録だけが残るね。手間はかかるけれど、それと同じ作業を、新聞社と大学側、それと、警察もかな、要は情報の拡散に使えそうで、できれば公的機関の人達、そんな相手を選んでするんだ。そうすれば、「消す側」は、偽の通報をするだけ、そしてその都度、やって来た人達の認識を消すだけで、狙い通りの嘘のニュースが勝手に出来上がる、という事なんじゃないかな。もちろん、最後にこの周辺の認識を街中から消して、ミッションコンプリート、というわけだね」
いつものように、淡々と云う。
そんな事が、できるの。そんなに都合よく、思い通りに、情報を操作、出来るものだろうか。
「ある程度は、ね。例えば「西棟は全焼」という情報をどこかのタイミングで一緒に通報する。相手は新聞社が望ましいかな。通報内容は記録に残り、実際にここへ来た人の認識は消される訳だから、通報の記録だけが「事実」として残る。実際に事実なのは、「通報があった」という事だけなのだけど、通報内容の真偽を確かめようにも、すでに認識は消されているから、確かめる事はできないし、たぶん、確かめようともしない。何故なら、それが「認識を消される」という事だから、だよ」
確かめる事はできない、確かめようともしない
それは、あの公園や工事現場と同じ。
入る事はできない、入ろうとも思わない
それが、認識を消される、という事。
うん、小さくうなずいて、ガブリエルは続ける。
「だからおそらく、「消す側」は何度か、その内容を修正して通報をし直して、つまり微調整をしたんじゃないかな。サモンジがニュースの事は覚えていたのに、「その記事を見た覚えがない」って云ったのはそのせい。ニュース自体が、「消す側」の都合の良い形になるまで何度か書き換えられてるはずなんだ。誰なのかはわからないけど、「消した人」は、なかなかしたたかな人物だねえ。そうまでして、ここを立ち入り禁止にしたかったって事なんだろうけれど」
そう、ガブリエルが云い終えたのを合図にしたかのように、チンとベルが鳴って、エレベーターが5階に到着し、スッと扉が左右に開いた。
「線」はいつの間にか水平を指している。方向は、右手側。
「道」も開いたエレベーターの扉の先、通路を右へ直角に曲がっていた。
左右に伸びる長い通路に灯りは点いておらず、通路には窓もなく薄暗いけれど、等間隔にいくつか非常口を示す緑の灯りと、遠くに火災報知器の赤いランプがぼんやりと灯ってる。
僕はゴーグルがあるから、外と変わらないくらい、くっきりはっきり見えているけれど。
「気にしないで、真っ暗闇というわけでもなし。キミについて行けばいいんだから、構わず行って」
海でガブリエルがそう云うので、僕は構わずに廊下を右へ、小走りに駆け出す。
「まあ、僕もキミの「道」が見えてるからねえ。たいへんなのは、サモンジと親分かな」
海でそう云って、くすくす笑いかけたガブリエルの声が止まる。
走る僕らの後ろから、懐中電灯の灯りが、足元を照らしてくれてた。
振り返ると、ペンライトを手にした親分が、ニヤリと得意げに笑ってる。
何でそんなの持ってるの。土建屋さんの7つ道具てきな何か、なのかな。
現場を見に行くつもりだったから、そんな道具も持ち歩いてたのかもしれない。
ありがとう、と親分に笑みを返して前を向き、「道」を辿り、「線」を追う。
長い廊下には等間隔に、左右にドアが並んでた。
ドアには縦長の明かり取りの窓がついてたけれど、中も暗いのか、灯りが漏れてるドアはない。
いや、あった。たぶん、目的地もそこ。
「線」が指す左斜め前方、「道」もそのドアに向かってまた90度左に曲がってる。
そのドアの明かり取りの窓からは、青白い灯りが、廊下に漏れてた。
ドアの前にたどり着き、足を止める。
窓自体は磨りガラスで、中の様子は見えない。
窓越しの明かりも、蛍光灯や照明器具などではなく、何かのモニター画面とか、時折ちらついて見えるので、テレビ画面の光、なのかもしれない。
黄色と青の2本の「線」が、ぐるぐると勢い良く回転してるので、目的地はこの部屋の中、すぐそこで間違いなさそう。
ドアは、開くのかな。
鍵がかかっていたら、ここでゲームオーバーだけれど。
L字型のノブに手をかけて、ひねってみたら、かちゃりと軽い手応えで、ドアは何事もなく内側へ開いた。
あまりにもあっけなく開いたので、少し拍子抜けしながらも、そのままドアを押し開けて、部屋の中を覗き込む。
いかにも研究室、といった風の、パソコンのモニターがたくさん並んだ部屋だった。
左右と正面に大人の腰くらいの高さの長い机があって、その上にパソコンのモニターがずらりと並んでいた。
画面には、何かをモニタリングでもしてるのかな、円グラフや棒グラフがいくつも映し出されていて、よくわからない英語のコードみたいな文字列が自動的にずらずらと書き込まれてるような画面も見えた。
正面のそのモニターが並ぶ机の奥は、腰板から上が全面ガラス張りになっていて、薄暗いその向こう側に何かの機材のようなものが並んでるのが見えている。小さな赤や緑のランプがそこかしこで点滅してるので、機械室とか、サーバールームみたいな場所なのかもしれない。
「西棟は、実験室が多くあるって話だったよね。この部屋もそのひとつって事かな」
海でガブリエルが、ひとりごとのようにぽつりとつぶやく。
その声が聞こえたわけではないだろうけれど、
「えー、なんでー?」
突然、部屋の中から、女の子の声が云った。
スピーカーを通して聞こえるような、少し割れた音で。
「なんなのあんたら、やっぱり爆弾魔ぁ?」
さっきの女の子、なのかな。声そのものは、子供の声に聞こえる。
言葉遣いや云ってる事は、かなり子供らしからぬものだけれど。
爆弾魔って、何だろう。そんな、テロリストや何かじゃあるまいし。
「嬢ちゃん、どこにいる?」
親分がそう声をかけて、懐中電灯で照らしながら、ずんずん部屋へ入って行く。
僕らも親分に続いて部屋へ入り、声の出所を探す。
「あーこら、なに勝手に入ってるのー!この爆弾魔ー!帰れー!」
いや、前言撤回、かな。だいぶ子供っぽいかも。
声は、正面の大きなガラスの仕切りの上、天井付近の壁際に設置された古そうなスピーカーから聞こえてるみたいだった。
ガラスの向こう側と、こちら側で会話をするためのスピーカー、のように見える、という事は、
「いました。ガラスの向こうです」
Nの声が云うので、その視線の先を目で追う、までもなく、だった。
2本の「線」はまっすぐにそちらを指してた。
正面のガラスの仕切りの向こう側、中央からやや右寄りの、何か大きな筒状の機械の前に立つ、チェックの制服姿の女の子。
間違いない、さっきのあの子だ。
後ろにある、横にした筒状のカプセルみたいな機械がぼんやりと青白く光っていて、その逆光で影になった彼女の表情は、よく見えない。
と、思ったら、親分もその姿を見つけたらしい。
懐中電灯の光が向けられて、ふくれっ面をした彼女の顔がはっきりと見えた。
「ちょっと、まぶしいー!ばかー!照らすなー!爆弾魔のくせにー!」
両手で顔を覆って、それでも彼女は指の隙間からこちらをにらみつけてる。
「まぶしいったらー!もうー!帰ってよー!爆弾魔ー」
両手で顔を覆って、彼女の声がスピーカーから云う。
どうやら僕らはその、彼女の云う爆弾魔?とやらと勘違いされてるみたいだけれど。
「ちょ・・・っと、あれ、何よ?」
テラスの椅子から身を乗り出して、ルリおばさんが、1オクターブ跳ね上がった声で云って、絶句する。
あれ
ルリおばさんの云う「あれ」が、何のことか僕にはわからない。
「キクタ、あれを。彼女の後ろ、機械の中です」
Nが云う「あれ」も、ルリおばさんの云う「あれ」と一緒なの。
ルリおばさんの声は、Nには聞こえないはずだけれど。
云われるままに、彼女の後ろの、大きなカプセルのような筒状の機械に目をやる。
上側は、透明なガラスなのかな、青白く光るカプセルの内側が見えていて、そこに、人が横たわってた。
カプセルのような機械の中に、人が、まるで、棺のように。
青白い光に照らされた、青白い顔は、白人の男性。
ハンスに似てる、そう思うより前に、僕はたぶん気づいてた。
あれは、
「キクヒコ!」
ガブリエルが叫んで、正面のガラスに駆け寄る、けれど。
ガラスの前には長い机と、その上にはモニターや何かの機材や書類のファイルが雑然と並んでいるので、それ以上ガラスに近づけない。
やっぱりこちら側の声も、向こう側に聞こえてるらしい。
女の子が、両手を広げて懐中電灯の光を避けながら、その隙間から、驚いた顔でガブリエルをじっとにらみつける。
「あー、なんだおまえー!金髪!アメリカ軍?おまえ、アメリカ軍の爆弾魔かー?!」
その声を聞いたガブリエルの顔色が変わり、きれいな青い眼が細められ、彼女を射るようににらみ返す。
「うるさいな、少し黙れよ」
押し殺した低い声で、ガブリエルがそう云うのを聞いた瞬間、僕の体が勝手に動いてた。
左手でNを抱いたまま、ガブリエルに飛びついて右腕で後ろから羽交い絞めするみたいに抱きすくめる。
片腕なので、厳密には羽交い絞めじゃないけれど。
と云うか、何これ、ナガヌマのゴースト?じゃないよね。
「え?」
ガブリエルがきょとんとした顔で、ななめに僕を振り返る。
「どうしたの、K」
青い眼をぱちくりさせてるガブリエルに、Nが彼を見上げて云う。
「ガブリエル、アナタがまた、ご乱心召されるのではないか、と」
淡々と、いつもの冷静な声でNはそう云って、僕とガブリエルの間に挟まれたまま、ぺろりと鼻を舐めてる。
「ご乱心?って、N、キミ、なに云ってるの」
ガブリエルはくすくす笑い出すけれど、Nの言葉で、僕にもわかった。
とっさに僕がガブリエルに飛びついたのも、ナガヌマのゴーストの仕業じゃなくて、まさにそれが理由だった。
「Kまで?ボクがご乱心召されたと思ったの。なんでなの」
ガブリエルは可笑しそうにくすくす笑ってるけれど、僕には笑い事じゃなかった。
だって、ガブリエル怒ってたし、目の前にはガラスの仕切りがあるし、また暴れてそのガラスを割ったり、その辺の機械を壊したりするんじゃないかって・・・。
「ああ、ボクが眼を覚ました時の話?ははあ、ミカエルに聞いたんだね。意外とあの子、おしゃべりだよねえ」
やれやれと肩をすくめて、ガブリエルは苦笑して、
「まあ、あの時の事は、さておき。今のは、ちょっと彼女を脅かそうと思っただけなのに、キミ達が脅かされてどうするの」
心の声で云って、ふふふ、と笑う。
いや、そうは云うけれど、場所が悪いでしょ。ガラス張りだし、へんな機械とかいっぱいあるし、つい、思い出して、ダブってしまって。
僕が云うと、Nもまったくその通りとばかりにうなずいてた。
「ごめんごめん。じゃあ次からは、事前に断ってからキレる事にしようね」
そう云って、ガブリエルはニヤリとLみたいに笑う。
「でも、Kにいきなり抱きすくめられるの、これで二度目だね。しかも前回も、サモンジの眼の前で、だったよ」
云われて、慌てて僕はガブリエルから離れる。
もう今さら遅いだろうけれど。たぶん、サモンジさんには、いきなり抱きつくへんな子、だと、これで完全に思われてしまったに違いないけれど。
おそるおそるサモンジさんを見たら、やっぱりいつものように、やさしい眼で僕らをじっと見てた。
ので、僕は恥ずかしくなって、大慌てで眼をそらした。
ルリおばさんが視界の窓を見つめて、はぁと小さくため息をついて、
「それにしても、この子、いったい何者なの。まさかベースの軍を知ってるの。小学生で?」
テラスで僕らの視界の窓を見てたルリおばさんにも、さっきの僕らの一部始終は見えてたはずだけれど、気を使ってくれたのかな、素知らぬ顔で、話をそらしてくれる。
確かに、ガブリエルの金髪と、異国風の顔立ちを見ただけで、「アメリカ軍」とは、聞き捨てならない。
彼女の云う「アメリカ軍」は、あのベースのアメリカ軍に違いない、とは思うけれど、見た目てきには僕とそう変わらない年齢に見える女の子が、12年前に撤退したベースのアメリカ軍を知ってるはずは、ないと思うのだけれど。
「何ごちゃごちゃ云ってるの。ここは立ち入り禁止だよー。さっさと出て行きなよー、この爆弾魔ー」
まだ顔に向けられた懐中電灯の灯りに両手をかざしたまま、ネコみたいな赤い眼を細めて僕らをにらみながら、スピーカー越しに彼女の声が云う。
「おい、キクタ、若様」
少し声を低めて、親分が僕らを横目でちらりと見て、
「あの妙な機械の中で寝かされてんのが、おまえさん達の探してた「キクヒコおじさん」で間違いねえんだな」
懐中電灯で彼女の後ろの棺みたいなカプセルを照らしながら、そう尋ねる。
僕は迷わずうなずいて、でも、ちょっと待って、と心の中で考える。
なぜなら僕は、実はキクヒコさんには会った事がない。
ハンスに良く似た雰囲気の白人男性、だけれど、あれが本当にキクヒコさんかどうかは、正直に云えばわからない。
海を振り返って、ルリおばさんを見る。
ルリおばさんは僕の視界の窓をじっと見つめながら、
「確かにあいつに良く似てるけれど、別の可能性もあるわよね」
腕組みをして、首をひねる。
別の可能性
「そう、あいつが博士のクローンなのだとしたら、少なくともあとふたり、同じ顔した奴がいるって事よ。1号と、3号、だったかしら」
そう、ルリおばさんの云う通り、だった。
ハンスが「4号」、そして、あのルリおばさんの記憶で、「2号」と呼ばれてたキクヒコさん以外に、他にふたり、博士のクローンはいる、そういう事になる。
あの棺のような機械の中で眠っているように見える人物が、そのふたりのどちらか、という可能性は、ある。
けれど、ガブリエルも、親分を見て、うなずく。
「間違いないよ、キクヒコだ」
呼び捨てに驚いたのか、細い眼を少し見開いてたけれど、親分はうなずいて、ガラスの方を向く。
こほんとひとつ咳払いをして、
「嬢ちゃん、まあ落ち着いて、話を聞いちゃくれねえか。俺たちゃその、おまえさんの云う爆弾魔なんかじゃねえぜ」
ニッと笑うその親分の笑顔は、凄みはあるけれど、父に良く似た親しみを感じさせるものだった。
懐中電灯の灯りが顔から外れたので、両手を腰に当てて、彼女は赤い眼をまんまるにすると、ふん、と偉そうに鼻息を吐く。
「じゃあなんなの。爆弾魔じゃないなら、あんたら誰なのよー」
そう云って彼女は、大袈裟に口を尖らせてる。
わざと間延びしたような、揶揄うような云い方は、別に揶揄ってるわけではなくて、この子は元々こういう喋り方なのかな。
「俺ぁ土建屋をやってる、スズキってモンだ。こいつは俺の孫。そっちはススガ森のミクリヤの若様と、執事さんだ。爆弾魔やら、そんな怪しいモンじゃねえだろ」
親しげな笑顔で、親分は彼女に云う。子供にやさしい、と云うのは、どうやら伊達ではないみたいだ。
「ふぅん」
わかったようなわかってないような、どこかで聞いたような適当な返事を、彼女はする。
そう云えば、どことなく雰囲気が、ルリおばさんに似てるような。
「ちょっとキクちゃん、あんた、なに云い出すのよ。あたしにあんな大きな子供がいるわけないでしょ」
そう云ってルリおばさんは僕に噛みつくけれど、いやいや、ルリおばさんの子供だなんて僕は云ってないでしょ。ただ、なんとなく似てるなって。
「じゃあなに?あたしのクローンだとでも云いたいの。やめてよ、あいつのクローンだけで、もう十分お腹いっぱいだわ。これ以上増えたら、胸やけしそう」
いやいや、クローンだとも僕は云ってないけれど。
ただ、何と云うか、雰囲気が、同じ種類と云うか、何か近いものがあると云うか。
「跳ねっ返りな所、でしょうか」
Nにそう云われて、すとんと腑に落ちた。そうかもしれない。さすが、N。
ふむー、と腰に手を当てたまま、彼女は僕らを順に見て、
「土建屋のおっちゃんとその孫と、ナントカの若様と執事のおっちゃん、ううん、執事のおにーちゃん、か」
そう云うと、上を向いて何やら難しい顔で考え込んでる。
「おや、云い直したね。意外といい子なのかも」
ガブリエルがそう云うのは、「執事のおにーちゃん」の事、かな。
それだけで「意外といい子」っていうのも、何と云うか、甘すぎなのでは。
「まあねえ」
ボク、女の子には基本的に甘いからねえ、とガブリエルは「海」でくすくす笑って、
「でも、キミに云われるのは、心外だけどねえ」
そんな事を云うけれど。
え、それはどういう意味?
僕も女の子には、基本的に甘いって事、なのかな。
そう聞いてみたけれど、ガブリエルは何も答えてくれずに、ルリおばさんは、困った顔で肩をすくめてる。
上を向いて何やら考えてた彼女が、くるりと親分に向き直って、
「それで、おっちゃんらは、何しに来たの。ここは立ち入り禁止だよー。入っちゃダメなんだよー」
びしっと右手の人差し指を立てて、それを左右に振りながら、しかめっ面で云う。
「そりゃ知ってんだけどな。おっちゃんらは、人を探しに来たんだよ」
にこにこしながら、親分は云う。まるで孫に話しかけるおじいちゃんみたいに。
まあ、年齢的にも、どう見てもそうなのだけれど。
「人を探しに来たんだよ?」
オウムのように口真似をして、
「ふぅん、いったい誰を探してるのよー」
立てた人差し指をくるくる回して、それを自分のおでこにぴこんと当てて、彼女は首をかしげる。
間延びしたような話し方は、まるで歌でも歌ってるみたいで、大袈裟な動作やぱたぱたと良く動く手は、ダンスでも踊ってるかのよう。
やっぱりどことなくルリおばさんに・・・、とまた思いかけて、僕はその思いを飲み込む。
「ああ、それなんだがな。嬢ちゃんの後ろにあるその、何だ、カプセルか?その機械みてえな筒のような」
親分がそう云いかけると、彼女はくるりとその場で後ろを向いて、またすぐにこちらを向くと、
「ああこれー?これは、セーメーイジソーチだよー」
ふくれっ面で、間違いを指摘するようにぴこんと人差し指を立てて、そう教えてくれた。
セーメーイジソーチ?
生命維持装置、って事、かな。
何でそんな所に、キクヒコさんが入ってるの。
いや、でも、今のキクヒコさんの意識の状態を考えれば、その体も生命維持装置とかを必要としてる状態だったとしても、不思議ではない、かもしれない。
「生命維持装置、かい」
その言葉の意味するところを想像したのか、一瞬、親分はそう云って言葉に詰まる。
けれど、すぐに気を取り直したように口を開いて、
「その生命維持装置に入ってる人なんだが、「キリノキクヒコ」って名前じゃねえのかい。俺たちが探してる人ってのも、その「キリノキクヒコ」なんだよ」
親分が、「キリノキクヒコ」と口にする度に、僕はまた彼が固まるんじゃないかとヒヤヒヤしてたけれど、どうやら、「キリノキクヒコ」も僕のおじ、つまり親分にとっては「孫のおじ」と、認識が上書きされたらしい。
もう固まる事はなかった。
「ふぅん」
また彼女は、わかったのかどうなのかよくわからない曖昧な返事をして、
「だってさー、ねー聞こえたー?キクヒコを探してるんだってー。なんだよー、爆弾魔じゃなかったよー」
またどこか上の方を向いて、ふくれっ面で彼女は云う、けれど。
誰に話しかけてるのだろう。
どこからも、誰からも、返事はないようだけれど。
彼女はふくれっ面で訴え続けてる。
「ねー、聞いてるー?るな・・・わたし、どーすればいいのよー」
るな、って、いま云いかけたのは、彼女の名前かな。
「ルナちゃんか、かわいい名前だねえ。ラテン語で「月」とか、月の女神の名前でもあるよね」
海でガブリエルがそう教えてくれた。
月とか、月の女神、ってイメージは、どうだろう、今のところ彼女にはなさそうだけれど。
「そりゃあ、キミにとっての月の女神はね、Jなんだろうけど」
ふふふ、とガブリエルは笑ってるけれど、それはまた、別の話だよね。Lが太陽なら、っていう例え話の延長なのだし。
「あら、なあにその話、面白そう。あとで教えてね」
何故かルリおばさんが興味津々な顔で、けれど「あとで」と云うのを聞いて、そうだった、と思い出す。
またいつもの脱線しがちなパターンに嵌ってたけれど、今はそれどころじゃなかった。
「なあ嬢ちゃん、おまえさん、いったい誰と話してるんだ?そっちに、まだ誰かいるのかい」
親分がそう問いかけると、彼女はふくれっ面で首を横に振る。
「こっちにはいないよー。えーと、ゲンゴロー?聞いてるのー?もしかしてまたフリーズしたのー」
そう云うと、彼女はくるりと後ろを向いて、生命維持装置のさらに奥、壁際の何か箱型の機械の扉を開けると、何やら操作をしてる、みたいだけれど、こちらに背中を向けてしまったので、何をしてるのかはわからない。
でも、ゲンゴローって
テラスでルリおばさんがはっと息を飲んで、
「まさか、ウミノゲンゴロウ?」
まさか、とは思ったけれど、考えてみれば不思議ではないのかも。
ここがウミノゲンゴロウ教授の所属する大学の研究棟で、その実験室らしき部屋にある生命維持装置の中で眠っているのが、彼の研究助手でもあるキクヒコさん、なのだとしたら。
「よし、サイキドーしたよー。ゲンゴロー、起きてー」
サイキドー
再起動って事かな。
その彼女の声が、まるで魔法の呪文か、音声認識か何かだったみたいに、僕らの眼の前の、机の上に置かれていたノートパソコンが起動して、モニターが瞬いた。
あれ、このノートパソコンって、キクヒコさんのと同じ?
見覚えのあるリンゴ型のグレーの古めかしいノートパソコン。
「確かに同じ、いいえ、そのものでは」
Nが云う。
ガブリエルがまじまじとそのノートパソコンを眺めて、
「同じ、いや、キクヒコのだ。「N」と「M」のキーのプリントがすり減って薄れてて、どっちがどっちかわからない所と、液晶画面の右上の角が少し欠けてる所も、全く一緒・・・」
云いかけるガブリエルの言葉は、
「ご明察です」
ノートパソコンから聞こえた声に遮られて止まる。
え、ノートパソコンって、喋るの。
「喋らないでしょ」
海でガブリエルが可笑しそうに云う、けれど。
え、でも、今、喋ったでしょ。
ぶーん、とノートパソコンから何か唸るような音がして、暗い画面がちかちか瞬いて、何かが映る。
これは、顔、かな。
何か、四角いポリゴンっていうのかな、古い3Dゲームのキャラクターみたいな、立方体で構成された、髭の生えたおじさんみたいな顔が、画面の真ん中にドンと現れてた。
これは、ひょっとして、おヒゲの先生?
「えー、ゲンゴロー、またその古いPCなのー。もっとちゃんとした新しいPCいっぱいあるのにー」
ガラスの向こうにいる彼女からは、こちら向きに机に置かれたノートパソコンの画面は見えない、はずだけれど。
「ご指摘の通り、これはキクヒコ君のノートパソコンです。そして、生命維持装置で眠っているのは、あなた方がお探しのキリノキクヒコ君です」
コンピューターの合成音声が、ノートパソコンからそう云って、画面では四角いポリゴンのおヒゲの先生が、音声に合わせて四角い口をカクカク動かしてる。
何と云うか、とてもシュールな感じ、だった。
「昔のSF映画みてえだな」
ぼそりと親分がつぶやくと、ぴこん、と四角いおヒゲの先生の顔から「!」マークが飛び出して、
「まさに、それです。古き良きSF映画のような、この味わいがおわかりになるとは」
よくわからないけれど、おヒゲのゲンゴロウ先生は感激してるらしい。
「いや、すまん。よくわかんねえけどよ」
親分は困った顔で、無精髭のあごを掻いて、
「つまり、その、おまえさんがウミノ先生かい」
そう、尋ねる。
画面のおヒゲの先生が、カクカク動いて、にっこり笑顔になって、
「仰る通りです」
機械音声がそう答える。
「それで、おまえさんは今ここにはいなくて、そのパソコンを通じて、どこか別の場所から通信してるって事なのかい」
困った顔で親分が尋ねるのは、たぶん、親分もパソコンやインターネットにはあまり詳しくないのかもしれない。
「概ね、その通りです」
四角いおヒゲの先生が画面でカクカク動いて、機械音声が答える、けれど。
彼女の云う通り、どうしてわざわざこの古いノートパソコンなのだろう。
他にもっと新しくてスペックの高そうなパソコンが、周りにたくさんあるのに。
そちらを使えば、こんなカクカクしたアバターのようなものを映し出さなくても、映像も音声も先生自身の顔と声で、もっとスムーズに普通に話せると思うけれど。
そんな僕の疑問はまるで無視して、ポリゴンのおヒゲの先生はにこやかにカクカクしながら、
「キクヒコ君をお探しの、ミクリヤ家の坊ちゃん、と仰いましたね。ではあなたが、ガブリエル君、でしょうか」
おもむろに、機械の声でそう云ったので、驚いた、けれど。
キクヒコさん、かな。
彼の体がここで眠っていて、彼のノートパソコンもここにある。
それなら、ある程度の話を、キクヒコさんが先生にしていたとしても、不思議ではない、かも。
だとすると少なくとも、おヒゲのゲンゴロウ先生は、キクヒコさんの味方、という事だよね。
「はい。ミクリヤガブリエルです。先生、はじめまして」
ガブリエルは丁寧にそう云って、ぺこりとノートパソコンにお辞儀をする。
いや、ノートパソコンにお辞儀したわけではなく、その画面の中の、四角いおヒゲの先生にお辞儀をしたのだろうけれど。
「ゲンゴロウ先生は、どこまでご存知なの」
あごに手を当てて、探るように、ガブリエルはそう口にする。そして続けて、
「アルカナやロリポリも、知ってるの」
ずばり切り込むのは、さすがだなと思った。いつもの、ガブリエルだ。
「はい、知ってます」
ゲンゴロウ先生の機械音声は、迷いなくそう答えた。
「ひと通りの話は、キクヒコ君から聞いていました。それに、このノートパソコンから、米軍の研究データも全て見せてもらいました。もちろん、ここにある分だけですが」
ここにある分だけ
そうか、キクヒコさんがベースの全てのデータをコピーできていたかどうかは、わからない。
撤退直前に、慌ててコピーして持ち出した、のだとしたら、漏れがある可能性も・・・。
ガブリエルが、隣に立つサモンジさんの腕をとんとん、と叩いて、サモンジさんがはっと息を飲む。
これは、認識の喪失?
アルカナや、ベースの米軍の話を聞いたから?
だとすると、サモンジさんはアニーじゃないの。
「キクちゃん、親分さんも」
ルリおばさんに云われて、はっとなる。
そうだ、親分も。
慌てて、僕も横に立つ親分の腕をとんとん叩く。
はあ、と親分はため息をついて、
「やれやれ、またかい」
苦笑して、肩をすくめてる。
「これは」
画面のゲンゴロウ先生が、また「!」マークを出して、
「執事さんと、スズキさん。おふたりは、認識を消されているのですね。にもかかわらず、ここまで来られるとは」
驚いたように、云う。
いや、とは云っても機械音声なので、実際には声のトーンは変わらないのだけれど。
親分が、ぶんぶんと顔の前で手を振って、
「構わねえ。俺の事は気にせず、先生、どうぞ話を続けてやってくれ」
そう云って、僕の頭をがしがしなでて、
「おまえさんも、ありがとな。だが、ボーッとしちゃいるが、息が止まってるわけじゃねえ。死ぬようなこたねえから、いちいち起こしてくれなくてもだいじょうぶだぜ」
ニヤリと、父にそっくりな笑顔で云う。
いや、父さんごめん。親分の方が、断然かっこいいけれど。
「坊ちゃま、私もです。だいじょうぶですので、どうぞお気遣いなく」
サモンジさんもそう云って、ガブリエルににっこり微笑みかける。
「たいへん、申し訳ない」
機械の声がパソコンからそう云って、画面のゲンゴロウ先生がカクカク頭を下げてる。
本当に、申し訳ないと思ってるのかな。
どうも絵的に、ふざけているようにしか見えないのだけれど。
機械の声は、機械だから仕方ないとは云え、棒読みだし。
「ベースの認識はさておき、この研究棟の認識を消したのは、私です」
カクカクしながら棒読みの機械の声で云うので、つい聞き流しそうになる。
え、ちょっと待って。
この研究棟の認識を消したのは、先生なの。
「いいえ、厳密には、私は「力」を使えませんので、そこにいるルナちゃんにお願いして、認識を消してもらったのです」
淡々と機械の声でそう云われて、僕らの目線が一斉にガラスの向こうの彼女を見る。
いつの間にか、キクヒコさんの眠る生命維持装置の端に腰かけて、退屈そうに足をぶらぶらさせてた彼女、ルナは眼が合うとぎょっとしたような顔をして、慌ててぴょんと機械から飛び下りて、困ったような顔で、ぺこりと僕らにお辞儀をしてた。
彼女の、頭の上の「泡」が、緑になってた。
「線」は、と見ると、こちらも「緑」。並んで見える「青」の線は、キクヒコさんを指すものだろう。
さっきまで、ルナは僕らを「爆弾魔」だと思ってた。つまり敵だと思ってた、だから「黄色」だった、そういう事なのかな。
「その「色」は、あくまで、状態を表わすもの」
ナナは、そう云ってた。その相手の、こちらに対する敵意や悪意、親しみや友愛の情を表わすもの。
だとしたら、今のルナからは、少なくとも敵意はなくなった、という事だよね。
「理由を、教えてもらえるかな」
ガブリエルが、画面のゲンゴロウ先生に尋ねる。
先生が、ルナにお願いして、この研究棟の認識を消してもらった、その理由。
「もちろんです。聞いてください。そしてできる事なら、私達を助けてください」
画面のゲンゴロウ先生は、またカクカクお辞儀をしながら、棒読みの機械の声で云う。
助けてください
そう云ったの。
僕らに、大学の学部長とかの、偉い先生が?
「キクちゃん」
ルリおばさんが呼ぶので、「海」を振り返ると、
「画面のカクカクに惑わされちゃだめよ。絵づらは確かに、ふざけてるようにも見えるけれど、先生は大真面目だわ。真剣に、あたしたちに助けを求めてる。だから、真剣に聞いてあげましょ」
諭すように、どこか自分自身に云い聞かせるように、ルリおばさんは静かにそう云った。
「わかった」
僕はうなずいて、そう答える。
でも僕らに、誰かを助けるなんて、そんな大それた事が、できるのかな。
その思いは、ひとまず心の奥にしまい込んで。
「爆弾が届いたのです」
唐突に、ゲンゴロウ先生は機械の声でそう云った。
「届け先は、この西棟の1階にある、私の実験室宛てになっていました。送り主は、ふもとの学園事務局と書かれていましたが、もちろん偽装でしょう」
爆弾
淡々と機械の声で云われたせいか、それは何だか、まるで現実味のない、テレビや映画の中の話のように、僕には聞こえた。
「みかん箱ほどの大きさの段ボール箱でした。宅配便で届きましたが、おそらく、届けた人物は犯人か犯人に雇われた人物で、本物の宅配業者ではないのでしょう。見た目以上に、ずっしりと重みのある箱でした。箱を開けると、黒っぽいビニールの包みの上に、これ見よがしにデジタル時計の表示窓が貼り付けられていて、刻々と時間が刻まれていました。時限式の爆弾でした」
爆弾魔、と云ったルナの声を僕は思い出してた。
つまりルナは僕らを、爆弾を送り付けた犯人の一味だと思ってたの。
「届いたのは、2か月前。夏休み中とはいえ、平日の午後です。研究棟には、学生もいましたし、何人かの先生もいました。私はとっさに、非常ベルを鳴らしました。とにかくすぐに彼らをここから離れさせるためです。出来るだけ早く、出来る限り遠くへ。そして消防と警察、それから大学の事務局に連絡をしました。「西棟で爆発が起きて、建物が燃えている」と。爆弾が届いた事は、伏せました。何故なら、明らかに狙われたのは、西棟1階の私の実験室だったからです」
淡々と語られるゲンゴロウ先生の話に、僕は違和感を覚えた。
消防と警察へ通報したのなら、爆弾の事も当然話すべきでは。
警察には、爆発物を処理できる専門の人がいるはずでしょ。
だったらその専門家を呼んで、対処してもらうのが何より最善の方法、だよね。
と、小学2年生の僕でもわかるような事が、ゲンゴロウ先生にわからないはずはない。
爆弾の事を伏せた理由を、先生は「明らかに狙われたのは、西棟1階の私の実験室だったから」と云った。
その実験室に、何かがあったの。
爆弾を送られても当然と思えるような何かが?
それとも、警察や消防に知らせられないもの、見られてはいけないようなものが、あった、とか?
「後ほど、ご案内しますが」
まるで僕の疑問が聞こえているかのように、
「この棟の1階にある、大型実験室には、「ロリポリの尾」が、あるのです」
棒読みの機械音声で、ゲンゴロウ先生は、そんなとんでもない事を云い出した。
僕の隣で親分が、ガブリエルの横ではサモンジさんが、また固まってる。
構うなと云われたけれど、放っておくことは、できないよね。
僕はそっと、親分の腕に手のひらを重ねる。固くて温かい、筋肉質の力強い腕だった。
ガブリエルも気づいて、サモンジさんの腕をとんとん叩いてから、もう一方の手を自分のあごに当てて、
「ロリポリの尾って」
呆然と、つぶやくように、
「落下中に空中でちぎれて、海沿いの集落に落ちた、あの「尾」のこと?米軍が回収してたんじゃなかったの」
険しい表情で、思わずそう尋ねてしまうのも、当然だ。
市の東の外れにあるあの海沿いのクレーターと、市の西の端に位置するこのススガ丘とはかなりの距離があるし、方向もまるっきり真逆だ。
何がどう転んでも、ここにロリポリの「尾」が、あるはずはない、と思ってしまうけれど。
「12年前、・・・ああ、失礼、その前に」
云いかけて、ゲンゴロウ先生は話を止めて、
「長い話になると思いますので、どうぞ皆さん、その辺りの椅子におかけください。誠に遺憾ながら、この体ではお茶をお出しする事もできませんが。ああ、ルナちゃんも座って」
そんな事を云う。
ノートパソコンの画面はこちらを向いているので、後ろ側に当たるガラスの向こうのルナの様子は先生には見えないらしい。画面の上に付いたカメラで、こちらの様子を見ているのだとしたら、だけれど。
「はーい。もう座ってるよー」
そう答えるルナは、またさっきみたいに、キクヒコさんの生命維持装置の端にちょこんと腰かけていて、退屈そうに足をぶらぶらさせてた。
ふと眼に留まった白いハイソックスの左足、膝が包帯でぐるぐる巻きだった。
まるで、ハナの右足みたいに。
いや、ルナの場合は、膝までのハイソックスでほとんど隠れて見えないので、ハナほどは目立たない。
ハナは肌が黒いので、白い包帯が余計に目立つ、というのもあるのだろう。
ハナの右手と右足の包帯は、火事で負った火傷のあとを隠すため、だけれど。
彼女も、左足を怪我でもしてるのかな。
ちらっと視界の端をかすめた時に、ほんの少し僕はそんな事を考えていたけれど、すぐにそんな思いの欠片はどこかに紛れて消えてた。
僕らもその辺にあった椅子を引いてきて、ゲンゴロウ先生のノートパソコンの前に囲むように座る。
「ではあらためて」
先生はそう云って、こほんと咳払いは機械の声なのでできないようだけれど、話を始める。
「12年前、大地震による軍の撤退の際に、海沿いのクレーターの底、地下にあった研究施設から、ロリポリの尾は運び出されました。キクヒコ君がこのPCにコピーしてくれていた大量の資料の中に、その際の輸送計画書もあり、私はその詳細を知る事ができました」
という事は、少なくとも12年前まで、あの大地震が起きるまでは、海沿いの地下施設にロリポリの「尾」はあって、そこで研究が続けられていた、という事になる。
それが、地震による撤退で、運び出される事になった。
「計画書によると、当初は地下道を通って北側の断崖の下にあったドックへ運び出し、そこから輸送船に積み込んで、海路で本国へと運ぶ予定であったようです。しかし、相次ぐ余震とそれに伴う津波によってドックが崩壊し、輸送船への積み込みが不可能となったのです。計画は変更を余儀なくされ、既にドックまで運び出されていたロリポリの尾は、クレーンで崖の上へと吊り上げられ、そこから輸送機へ積み込まれる事になったようです。そんな内容の、臨時の指令書が残されていました」
「輸送機?」
ガブリエルが、首をかしげてつぶやく。
「確かに、軍には戦車を何台も運べるような大型の輸送機もあるはずだから、5mほどの「尾」を積み込む事それ自体には、問題はないだろうけど。滑走路はどうするの。そんな断崖の上に、輸送機が離着陸できるような場所・・・」
そう云いかけて、ぴこん、とガブリエルの人差し指が立つ。
「まさか、あのクレーターの外側の」
「はい、ガブリエル君、ご明察です。まさに、その通りです。海沿いのクレーター周辺の地上には、何もない平地が広がっていますが、あれは、有事には滑走路として使用できるよう、整地されたものでした。輸送機はそこへ着陸し、クレーンで運び出された「尾」が積み込まれました。そのまま輸送機は離陸して、空路本国を目指す、その予定だったのでしょう」
云われてみれば、だった。
あの鉄条網の付いた高いフェンスに囲まれたクレーター周辺の土地は、不自然なくらい広く、何もない平らな地面だった。あの僕の家の前の工事現場よりもはるかに広い、見渡す限り何もない平らな地面。あれが、滑走路、そう説明されて、ようやく腑に落ちる思いがした。
「臨時の指令書に書かれていたのはそこまでですので、その後は私の想像になります。「尾」を積み込んで離陸した輸送機は、その直後に何らかのトラブルに見舞われ、市の西の端、ススガ丘の山頂付近に墜落しました。この研究棟の目と鼻の先、何もない雑木林の中に、です。すぐに、軍の地上部隊がやって来ました。彼らは燃える輸送機の中から、巨大なコンテナを運び出すと、当時完成したばかりだったこの西棟へ運び込みました。まずは人目につかない場所へ隠し、後日あらためて何らかの方法で、本国へと回収する算段だったのでしょう。墜落の痕跡を残さないため、でしょうか、輸送機の残骸は工兵隊によって爆破され、林の中に掘られた深い穴に埋められました。研究棟は軍によって封鎖され、我々学園の関係者は近づく事さえできませんでした。おそらくその封鎖は、「尾」が回収されるまで続く事になる、はずだったのでしょう」
ジジジッと画面が乱れて、一瞬、カクカクした先生のアバターが固まったように見えたけれど、すぐに回復したらしい。
先生の機械の声が続けて、
「状況が変わったのは、数日後の事です。ご承知の通り、認識が、消されたのです。この街中から、ロリポリとアルカナに関する全ての認識が、です。研究棟を閉鎖していたアメリカ軍は、いつの間にか隣市の駐屯地へ引き上げていたようでした。認識を消され、目的を失ったのですから、それも当然なのでしょう。そんな事とは知る由もない私は、普段通りに研究室へ出勤して、何故か黄色と黒のテープで封鎖された研究棟を不審に思い、その場で大学の事務局へ電話をしました。何か急な工事の予定でも入ったのかと思ったのです。事務局の返答は淡々としたものでした。そのような予定は何もない、と。それはそうです。認識が消され、軍による閉鎖もその理由も、誰ひとりとして覚えていないのですから。当然、西棟の1階にある私の実験室に運び込まれた、「ロリポリの尾」についても、です。誰からも忘れ去られていました。それから更に数日が経ち、キクヒコ君が、私の元へ、研究助手として働きに来るまで」
抑揚のない合成音声で、変わらず淡々と、ゲンゴロウ先生は僕らにそう話した。
海沿いのクレーターの地下にあったはずの「ロリポリの尾」、
僕らがすでに本国へ回収されたものと思い込んでいたそれが、この西棟の実験室へ運び込まれた経緯については、先生の話で僕にも概ね理解ができた。
輸送機の墜落と、その数日後に認識が消された事。
タイミング的にも、特におかしな点はないように思える。
けれど、何かもやもやとする思いが、僕の心の中にはある。
それが何なのかは、わからない。
何か、まだ濃い霧に視界を覆われているような、そんな居心地の悪さを感じる。
見えるべきものが、見えていないような。
眼に入らないといけないものを、見落としているような、そんな気持ちの悪さ、かな。
「場所を変えましょう」
またおもむろに、機械の声でゲンゴロウ先生が云う。
「今の私の話の証拠に、という訳ではありませんが、ロリポリの尾を、お見せします」
この西棟の1階の大型実験室、さっき先生はそう云ってた。
そこへ移動しよう、という事かな。
「ガブリエル君、申し訳ないのですが、このパソコンをこのまま運んでもらえますか」
てっきり、1階の別のパソコンに通信をつなぎ直すのかと思ったのだけれど、先生も、このキクヒコさんのノートパソコンごと、一緒に移動する、という事らしい。
何て云うか、そんなアナログな感じなの。
ガブリエルも首をかしげながらも、
「はい、わかりました」
答えて、ノートパソコンを開いたままの状態で、両手で抱えるように持ち上げる。
「ルナちゃんは、ここでキクヒコ君を見ていてあげてください」
ガブリエルに抱えられて、先生にもガラス越しにルナが見えるようになったらしい。
パソコンから機械の声で云うと、
「はーい、行ってらっしゃーい。るな、あそこあんまり好きじゃないしー。キクヒコとここで待ってるよー」
生命維持装置にちょこんと腰かけたまま、ルナはガラス越しにひらひらと手を振ってた。
キクヒコって、彼女も呼び捨てなんだ。
そう云えば、ルナは先生の事も、ゲンゴローって呼び捨てだったけれど。
ガブリエルに倣って僕も椅子から立ち上がると、隣で親分も、ふるふると頭を振りながら立ち上がって、
「嬢ちゃんは残るのかい。じゃあ、俺もここに残ろう」
ガラス越しにルナを見て、それから僕を見て、云う。
「危険はねえだろうが、念のためだ。女の子ひとり置いて行くのは、心配だからな」
そう云って、僕にニヤリと笑いかける。
「それに、その大型実験室やらへ付いて行ったところで、また俺は頻繁に消されて固まっちまうだろうから、おまえさんも気が気じゃねえだろ」
「えー、おっちゃん残るのー。るな、ひとりでだいじょうぶなのにー」
ルナは、心配されたのが不服だったのかな、足をぶらぶら振りながら、口を尖らせてる。
「嬢ちゃんがしっかり者なのは知ってるよ。おっちゃんはもう歳だから、行ったり来たりが疲れて敵わねえんだ。ちょっとここで休ませちゃくれねえかい」
そう云って、親分は「どっこらしょ」とまた椅子に腰かける。
「あー、おっちゃん、疲れたのー。じゃあ、るな、自販機でお茶買って来てあげよーか?」
ぴょこん、と生命維持装置から飛び下りて、ルナは部屋の隅の方へ駆けて行く。
見ると、ガラスの向こうとこちらを行き来するためのドアが、部屋の隅にあるらしい。
「では」
私も、と云いかけるサモンジさんに、親分は片手を上げて、
「執事さん、すまねえが、子供たちに付いて行ってやってくれるかい」
そう云って、あの凄みのあるやさしい笑みを浮かべて、小さくうなずく。
サモンジさんも何かを察したようにうなずいて、
「承知いたしました」
そう答えて、親分に丁寧なお辞儀をしてた。
ノートパソコンを抱えたガブリエルと、Nを片手に抱いた僕と、サモンジさんの3人でエレベーターに乗り、1階へ下りた。
「左の通路を、奥まで進んでください」
先生の機械音声の案内に従って、薄暗い廊下を奥まで進む。
何だか、カーナビみたいだな、と思って、妙な気持ちになった。
奥へ進むにつれて廊下は暗くなっていくけれど、僕はゴーグルがあるので云わずもがな、ガブリエルやサモンジさんも、ガラス張りの玄関からの外の明かりと、ノートパソコンの画面からの光で、それほど苦労なく歩けるみたいだった。
「こちらです」
先生の声で、ガブリエルが立ち止まる。
「1C」とプレートの掲げられたドアの前だった。
ドアに付いた細長い明り取りの窓から、さっきの5階の実験室と同じ、ぼんやりとした青白い灯りが廊下に漏れている。
パソコンで両手がふさがっているガブリエルの代わりに、僕がドアノブに手をかけて、ひねると軽い手ごたえで、ドアが内側へ開く。
思った以上に広い空間があって、でもそれはそう、と思い直す。
あの海沿いの地下ホールだって、体育館みたいな高い天井の、広い空間だった。
こちらの実験室も、天井の高さはたぶん、あの海沿いのホールと同じくらいはありそうだった。
この建物の、2階か、もしかしたら3階分くらいまでの高さがあるのかもしれない。
横幅も、ほぼ同じくらいの大きな実験室だった。
その真ん中に、巨大なコンテナ、だろうか。
四角い大きな鉄の箱が置かれていて、その左側面が、青白くぼんやりと光っている。
まるで、さっき見た、キクヒコさんの生命維持装置みたいに。
「これも、生命維持装置なの」
ガブリエルの問いに、
「はい、その通りです」
ゲンゴロウ先生の機械の声が淡々と答える。
「左側へ、回ってください。中が見えます」
云われるまま、ガブリエルが箱の左側へ回り込み、僕とサモンジさんも後に続く。
キクヒコさんの生命維持装置は、上半分が透明なガラスのような素材で、中が見えるようになってたけれど。
この箱は、左の側面に横長の窓のような透明な部分があって、そこから、中が見えた。
はっと後ろで息を飲むのが聞こえて、振り返ると、サモンジさんが固まってた。
僕はサモンジさんの肘のあたりを、とんとんと叩く。
「ああ、ありがとうございます」
そう云って、サモンジさんは苦笑を浮かべて、うつむいて額に手を当てる。
ボーッとしてるだけ、息が止まるわけじゃねえ、親分はそう云ってたけれど。
本当に、苦しくないのかな。
サモンジさんは、額に当てた手のひらの指の間を少しずつ開いて、その隙間から、また青白く光る箱の窓を見ようとしてるみたいだった。
僕の視線に気づくと、照れるように苦笑して、
「親分さんを見習って、どうにかして、認識を消されない、ぎりぎりの所を見極めてみようかと思いまして」
そう云って、縁のないメガネのレンズ越しに、いつものやさしい眼で僕を見る。
「ですので、どうぞ私にはお構いなく」
力強くうなずくサモンジさんは、とても頼もしく思えて、僕は何だかうれしかった。
「はい」
答えて、僕も窓に向き直る。
青白い光の中に、見えるのは、
「尾」と云うより、欠けた岩の塊りみたいだった。
大きな丸い岩が、何か強い力で割れて、3分の1くらいの欠けた球になった、そんな感じ。
ダンゴムシっぽくはなく、虫のようにもぜんぜん見えない。
割れた隕石のかけら、そう見えた。
あのロリポリの本体を見ていなければ、たぶん、この「尾」だけでは、全体の姿はまず想像できないんじゃないかと思う。
それでも認識を消されてしまうのは、姿形は関係ないという事なのかな。
これが何なのか、わからない人には、何も起こらない?
いや、そうではないはず。
これが何なのかわからなくても、「これはなんだろう」と思ったその瞬間に、消される。
そういうものなのだと思う。
あるいは、「これはなんだろう」とすら思わない、思う事が出来ない。
目にも留まらないし、気にも掛からない。普通の人には、そうなのかも。
それが、認識を消される、という事。
僕はそんな事を思っていたのだけれど、ガブリエルは、全く違う事を考えていたらしい。
「ちぎれた「尾」が、まだ生きてるの」
そうガブリエルは尋ねた。
云われて、気づく。
生命維持装置に入れられてる、それはつまり、そういう事になる、よね。
「はい。生かしておく必要があるのです」
先生は、そんな答え方をした。
生かしておく必要がある?
「はい、ロリポリの体は、死ぬと大量の放射線を発生させる、いわゆる放射性物質の塊りになります。人間にとって、それは致死量の放射線です」
機械の合成音声なので当たり前なのだけれど、何の感情もこもらない声で、先生は淡々と云う。
「それも、ロリポリが死んだ瞬間にそうなるわけではなく、死に至る過程で、徐々にそうなります。ちぎれて落ちた海沿いのクレーターの底で、ロリポリの尾は、死にかけていたのでしょう。おそらく、軍の研究者の中にも、大量の放射線に被曝した方が少なからずいたはずです。そこで、急遽このコンテナを改造した巨大な生命維持装置が作られ、ちぎれた「尾」はその中に入れられて、今も生きているという訳です」
先生の言葉に、何かが僕の中に引っかかるのを感じた。
ちぎれた「尾」
死にかけていた
死に至る過程で、放射線を発生させる
僕の中で、何かがつながりそうになってたけれど、その前にガブリエルが口を開いて、
「ベースのロリポリ「本体」と、行方のわからないロリポリの「腹部」については、どうなの。死にかけて、放射線が発生してたりはしないのかな」
そう質問して、僕の中の何かがぴこんとつながった。
まさにそう、それだった。
眠っているという「本体」はさておき、「腹部」も「尾」と同じようにちぎれて落ちている。
そして、あの公園の地下で、H・O・アンダーソン博士は、その腹部のオレンジの海のプール「揺り籠」の中で、今も昏睡状態で眠り続けてるはずだけれど。
「大丈夫です。私は、そのいずれも見た事はありませんが、軍の資料によると、少なくともベースの「本体」からは、放射線は検出されていません。ロリポリの体内に大量に貯蔵されたオレンジの海、それがロリポリを生かし続けている限り、その体が放射性物質に変化する事はないのでしょう」
そう説明されて、心の中でほっと息をつく。
だとすれば、腹部もまだ生きてる。「揺り籠」のオレンジの海が残ってる限りは、だいじょうぶ、という事なのかな。
それがいつまでだいじょうぶなのかは、わからないけれど。
その意味では、ベースの「本体」も同じだ。
体内に残されたオレンジの海が、いつまでもつのかは、わからない。
「ひとつ、さっきからずっと気になってる事があるんだけど」
生命維持装置の大きな窓からもれる、青白い光に照らされたガブリエルが、じっとロリポリの尾を見つめたまま、云う。
「先生は、アニーなの」
ぽつりとつぶやくように。
「アニー」
オウムのように、先生の機械の声が繰り返す。
「あ、そっか。ごめん、アニーは、ボクらが勝手に付けた呼び名だったね。アルカナの入った人の事、ボクらは「アニー」って呼んでるんだけど」
ガブリエルがそう説明するのを聞きながら、僕は首をかしげる。
この研究棟の認識を消したのは、私です
さっき、確かにゲンゴロウ先生はそう云ったけれど、すぐに付け足して、
私は「力」を使えませんので、そこにいるルナちゃんにお願いして、認識を消してもらったのです
そう云ってた。
だから、ルナはアニーだけれど、ゲンゴロウ先生は違う。
なんとなく、僕はそう思ってた、けれど。
実際に、ルナは僕らの眼の前で、ゴーグルを付けて「輪」の能力で飛んで見せた。
だから、ルナがアニーで、しかも「王」である事は、まず間違いがないけれど。
「先生がアニーじゃないと、辻褄が合わないのよね」
ぽつりと、海でルリおばさんが云う。
「撤退の後、認識が消された状態で、キクヒコが大学に戻って、先生のもとで研究助手をしてた。それがおかしいわよね。キクヒコは、認識されないはずでしょ。キクちゃんと同じように、ベースを出て知り合いに会っても「どちら様ですか」って云われるのが普通だわ。認識が消されてるんだから」
確かに、そう。
さっきから、僕の中でもやもやしてたのも、それだったのかも。
「ご明察です」
機械の声がそう答えたのは、ガブリエルの問いに対する返事、だよね。
タイミング的に、海でルリおばさんが云った事に答えたように聞こえたので、僕はちょっと驚いたけれど。
「いいえ、ルリさんへの返事です。キリノルリさん、ですよね。お久しぶりです」
ゲンゴロウ先生が淡々とそう云うので、僕は本当に驚いた。
ガブリエルもびっくりして、パソコンを落としそうになって、慌てて抱え直してた。
「嘘でしょ、何で聞こえるのよ」
ルリおばさんも、テラスでぽかんと口を開けてる。
「何故でしょうか。ガブリエル君にパソコンを抱えてもらってから、聞こえていましたね。あなたの声も、です。キクタさん。キリノキクタさん、でよろしいのでしょうか」
変わらず淡々と、機械の合成音声で先生は云う。
まるで、何もかもすべてお見通し、そう云うみたいに。
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屋根裏ネコのゆううつ II