country road ii

屋根裏ネコのゆううつ III

水曜日、夜になっても、スマホには何の反応もなかった。
気になって何度か(いや、何度も)おヒゲの先生のアイコンをタップしてみたけれど、画面には無機質な「オフラインです」というメッセージが表示されるだけ。
ため息をついて部屋のベッドに寝転がり、オレンジの海を「振り返る」。
テラスの手すりの前、いつもナガヌマが海を見ているお気に入りの場所に僕は立って、見るともなしに夜のオレンジの海を眺めてた。
いつもと変わらないやさしい波音が、ゆるやかな風に乗って耳に届いてる。
日課になってたナガヌマの「記憶の探索」だけれど、もう行かなくてもいいのかな、なんて思う。
ルナとは、まだきちんと話をして決めたわけではなかったけれど。
目的だった「カントリーロード」のヒントが、別の思わぬ場所から見つかってしまったので、ひとまずそちらを追うのなら、日課の方には行かなくていいか、とも云えるよね。
それとは別にして、ナガヌマの「記憶」には、通い続けたいな、なんて思いはある。
何の目的もなく、ただの好奇心で。
ナガヌマの子供の頃のことや、モニカと一緒に行動していた時のこと、知りたいことはまだまだたくさんあるので。
直接尋ねたら、教えてくれそうな気もするけれど、いや、でもそれは無理かな。ゴーストであるナガヌマには、話しかけられないものね。
そんな他愛もない事を思いながら、ぼんやりとほのかに光るオレンジの海を眺めてた。
柑橘系の果物に似た風の匂いが、少し濃くなった気がして、なんとなくテラスを振り返ると、視界の端に、ふわりと黒いレースが揺れる。
僕とテーブルの間、テラスの真ん中あたりに、黒いドレスのドーリーが立っていた。
「あ、こんばんは・・・」
思わず反射的に挨拶をしてしまって、彼女にも話しかけちゃいけなかった事を思い出す。
黒いレースのケープの裾をかすかな風に揺らすドーリーは、今日もまるで宙に浮いているように見える。
しっとりとした艶のある黒いドレスを纏った体はまっすぐに海の方を向いているけれど、フードとその下のベールに覆われた顔は、ほんの少し首を傾けるようにして、僕の方を見てる、ような気がする。
からりと遠慮がちに貝殻の風鈴が鳴って、テラスのいつもの席に、ふわりとナナが現れる。
僕が「海」にいた事には気づいてたのだろう、たぶんそれで来たのだろうけれど。
僕の目の前に、まるで見つめ合うみたいにドーリーが立ってるので、ナナは薄灰色の眼を丸くして、一瞬言葉を失ってた。
「これはこれは」
大袈裟に驚いてみせてから、ニヤリとナナはいつもの凄みのある笑みを浮かべる。
「邪魔してしもうたかの。其れなら出直すが」
ふふんと鼻で小さく笑う。
じゃまな訳はないよね、むしろ僕は「助かった」と思ったくらいだったけれど。
直接彼女に話しかける事ができないから、誰かがいてくれた方が話しやすい、よね。
「左様か」
どちらでも良さそうに云って、ふわりとナナは椅子を下り、こちらへ歩いて来る。
ドーリーの脇を通り過ぎて、テラスの手すりの前、僕の隣に並んで立つ。
「座らなくていいの」
体の具合はだいじょうぶなのかな、と思って尋ねたら、
「問題ない。おぬしらも立っておる故な。たまには立ち話もよかろうと思うてよ」
またふふんと笑って、手すりにもたれる。
ところで、と僕を見上げて、
「聞いたぞ」
世間話でもするように、ナナはそう口を開いて、
「小僧め、また姿をくらましたそうじゃな」
云われて、僕は首から提げたスマホを手に取って、条件反射的にアイコンをタップする、けれど。
オフラインです、の見慣れた文字が現れるだけ。
「ノワールは、屋根裏におらぬのか」
ナナの問いに、僕は無言でうなずく。
そう尋ねる理由は、昨日のキクヒコさんの言葉かな。
「急を要する事態だって事はわかってる。ノワールの力を借りるなりして、どうにか考えてみよう」
僕の「説得」を「ダメだ」とあっさり退けて、キクヒコさんはそう云ってた。
まさか昨日の今日で、とも思ったけれど、学校から帰宅して屋根裏を確かめると、Nの姿はなかった。
と云っても、夕方、僕が帰る頃にはいない事も多いので、キクヒコさんに駆り出されたと決めつけるのは早計すぎる気がする。
そう思って、夜まで待ってみて、さっきも屋根裏を確かめたのだけれど、Nはまだいないままだった。
「とは云え、あの高層マンションじゃぞ。ノワールとて、そう易々とは潜入できまい」
ふむ、と軽く腕組みをして、包帯ぐるぐるの右手を唇に当てて、ナナは考え込むポーズになる。
ナナの云う通り、いくら身体能力抜群のNだからって、正面からあのマンションへ入り込むのはまず無理だ。3階ロビーのセキュリティ付きの自動ドアに、エレベーターもある。
キクヒコさんは、自身の「体」が「飛び先」に表示されない以上、「輪」の能力は使えない。
アルカナの知覚が、「あの場所」そのものを危険と判断しているのだとすれば、「体」以外の、例えば生命維持装置に飛ぶ、とかも同様に無理なのだろう。
どうにか、とキクヒコさんは云ったけれど、正直に云って、どうにもならないのでは、と思える。
ハンスの眼に触れることなく、こっそりと「体」に近づくのは、実質不可能じゃないかな。
だから僕の正面作戦しかない、と力説したいわけではないにしても。
でもこうなると、ハンスに正面から聞いてみる、という、子供じみた思いつきに過ぎない僕の作戦しか方法はないんじゃないかな、って気持ちにもなってくる。
ふん、とナナが鼻を鳴らして、
「おぬしが柄にもなく焦っておるのは、「記憶」を見た故か。ルナから聞いたぞ、地下のエレベーターに鉄のドア、そして「Country Road」の金属のプレートか」
云って、ナナは念押しをするように僕をじろりとにらむ。
儂に聞くなよ、かな。
じゃあ、ナナはあのドアを見た事がないの。心当たりもない、そういう事なの。
「左様」
肩を少しすくめて、ナナはちらりとドーリーの方を見ながら、
「概ね、おぬしの想像通りじゃとは思うが、儂はそのような設備は知らぬ。おそらくそれがあったのは、軍の機密レベルの高い、ベースの「東側」であろうの」
さらりと云う。
ドーリーは、もう僕の方は見ていなくて、僕らの話を聞いてる風でもなく、ただじっと海を眺めているように見える。
軍の機密レベル?ベースの「東側」って・・・
「前にも云うたが、ロリポリのホールなんぞは最高レベルの機密よの。儂のような一般人は勿論のこと、軍人や研究者であっても許可された者しか入れぬ。
ホールの外側の通路に関してもそれがあり、北の居住区から、ホールの西側をぐるりと回って西の研究施設へ通じる地下道、儂や跳ねっ返りのような一般人が通れるのは、せいぜいその「西側」のみじゃ。
東側の通路には南北それぞれにゲートがあり、許可された者だけがそこを通る事ができた、という訳よ。おぬしや小僧は、肩書き上はあの施設の「研究員」であるからの、当然、許可された者に含まれる。故に、「東側」へも自由に出入りが出来たという訳じゃ」
だったら、ナナもルリおばさんも、ホールの東側へは行った事がなかったの。
「左様、撤退前はの。撤退後は、ゲートも開放しておったから誰に咎められる事もなく通行はできたが・・・。特に用もないしの。火事の後、物資を探して何度か通ったくらいのもので、エレベーターがあったかどうかすら、覚えておらぬくらいじゃな」
東側、なのだとしたら、今朝のLの推理とも合ってる、事にはなるけれど。
「それも聞いた。件のマンホールじゃろ。ルナの説明ゆえ、だいぶ大雑把ではあったが、概ね理解した」
ふふん、とその話をした時のルナを思い出したみたいに、ナナは可笑しそうに少し笑って、
「とは云えじゃ、鉄の壁に塞がれた上に、それが焼け焦げておったのであろ。であればよ」
まじめな顔になって、僕をじろりとにらむ。
それは、そうかも知れない。
火事の原因が、ブラウンによる放火なのだとしたら、北の居住区と西の研究施設、その両方に火を放った事になるはず。
何故か、ロリポリのホールには火を付けなかった事になるけれど、その理由は僕らには知る由もない。
北と西から燃え始めた火は、地下施設を焼きながら燃え広がるはず。
ロリポリのホールから見て、西側のハッチ周辺は比較的被害が少なかった、とナナから聞いていたし、実際、僕らもその小部屋のひとつに入ったけれど、特に焼けたような跡は見当たらなかった。
北には、僕らもまだ行った事がないので、どの程度の被害状況なのかはわからない。
東は、あの夏の日に、僕の体に入ったキクヒコさんに導かれ、海沿いの地下から長い地下道を通ってロリポリのホールまで歩いた時に通った。その時の地下道が、まさにその「東側」、なのだけれど。
暗かったし、本当に「通った」だけ、なので。
かすかにきな臭い、物が燃えたような臭いが残っていたのは覚えてる。
ホールへ通じるハッチの手前に、南北に延びる通路が(そう云われてみれば)あったような気がするけれど、そちらは真っ暗だったので何も見えなかったし、だからエレベーターにはもちろん気付かなかった。
それに、火は普通、上へと燃え広がるのでは。あの密閉された地下で、どれくらいの勢いで燃えるのか、実際に燃えたのか、想像するのも難しいけれど。
それから、あのマンホール下の行き止まりの鉄の壁は、確かに煤で真っ黒に汚れていたけれど、焼け焦げて?はいなかったような気がする。
火事の炎があの鉄の壁を直接焼いたという感じはなく(つまりあそこまで延焼が及んだわけじゃなく)、地下施設の燃えた大量の煙が逃げ場なく地下空間に止まり、あの辺りまで立ち込めたんじゃないかな。それであの壁が煤に覆われた、のでは。
「ルナの説明じゃぞ。「煤で真っ黒」が「真っ黒焦げ」に変換されたとて、まあ致し方あるまい」
ふふんと優しげにナナは笑う。ルナにもずいぶん甘いんだな思ったけれど、まあそれはそう。
して、とナナはあらたまって、
「小僧に尋ね、「それ」があったならば、どうする」
どうする
それは、もちろん、行ってみる、つもりだけれど。
「おぬしの云う通り、東側がどの程度焼けていたものか、儂にもわからん。火事の後に何度か歩き回った程度のうろ覚えの記憶によれば、さほど焼けていなかったようにも思うが、被害状況を詳しく見て回った訳でもなし、定かではないの。しかも、火災に加えて、この年数じゃ。エレベーターはまず動くまい」
かもしれない。
でも、もしかしたら、動くかもしれない。
動いたとして、「B1」のあのドアへ辿り着く事が出来たとして、ドアが開くかどうか。
開いたとして、中が無事かどうか。
「それでも行く、か」
ふふん、と笑ったナナの顔に「相変わらずじゃの」と書いてある気がする。
その時、ずっと黙って海を眺めていたドーリーが、ふわりと床の上を滑るように僕に近づいて、無言のまま、じっと僕を見下ろす。
甘い果実のような香りがする。
ドーリー
そう呼びかけようとして、ちがう、と思う。
ドーリー(お人形)という呼び名は、たぶんだけれど、ハンスが付けたものだろう。
黒いドレスと、何も話さない(話せない)という彼女の特徴から、なのかな。
考えてみれば、ずいぶん皮肉めいた呼び名だよね。
そんな名で、僕は彼女を呼びたくなかったから、
「モニカ」
自然と、声に出してそう呼んでた。
「どうしたの、何か心配な事でもあるの」
すらすらと、まるで台詞のように続けて口にした僕自身がたぶん、一番驚いてたかもしれない。
「お・・・」
おぬし、と云いかけたのかな、ナナはそこで言葉を飲み込んでた。
ふわりと、まるでダンスでも踊るみたいに、黒いレースの手袋を嵌めたドーリーの左手がゆるやかに上がり、そっと僕の頬に触れる。
ほんのりつめたくて、やわらかい指先が、何か大切なこわれものでも触るみたいに、僕の頬をやさしくなでる。
何か云おうとしたのだろうか、彼女がすっと息を吸い込む音が間近に聞こえた、けれど。
ベールに覆われたその口元から、声は出なかった。
かすかな、何か諦めたようなため息が、ベールの向こうから聞こえた気がした。
触れた時と同様に、舞うような優雅な動きでドーリーの指先が僕の頬から離れる。
頬にはまだ、彼女のやわらかな指先の感触が残ってる気がする。
代わりに右手がふわりと上がって、僕の眼の前に差し出されたのは、表向きのタロットカード。
その絵柄の意味は僕にはわからない。
けれど、見た瞬間その不吉さに、ゾッとした。
真ん中に描かれた人物は、ドクロの騎士、だろうか。
大きな鎌を手にした、古めかしい西洋の甲冑を着たドクロ顔の騎士。
その足元には、倒れている人や、跪いて許しを乞うように胸の前で手を組む人、膝を抱えて座り込む子供が描かれてる。
反射的にカードを受け取ると、隣のナナがぐいっと身を寄せて、僕の手元をのぞき込み、息を飲む。
ふん、とナナは小さく鼻で息をついて、
「おかっぱに尋ねるまでもないの。儂にもわかる。これは「死神」じゃろ」
死神
云われるまでもなく、見るからに、そう、死神だ。
マンガやアニメなんかで描かれるような、死神のイメージそのもの。
でも、どうしてそんなカードを・・・。
顔を上げると、ドーリーは悲しげに僕を見下ろしてた。
フードとベールに覆われたその表情は、全く見えないけれど、彼女の悲しみを、何故か僕は感じ取った気がしてた。
ゆらり、と彼女の右手が動いて黒いレースの手袋の人差し指が、海の彼方を指差す。
ほのかに光る、夜のオレンジの海の彼方。
記憶の保管庫?
わずかに俯いたのは、うなずいたのかな。
そのまま、やわらかな風に押されるように、ドーリーの姿が揺らめいて、ふわりと消える。
僕はただぼんやりと、彼女のいなくなったテラスと僕の右手に残されたタロットカードを見つめてた。

どれくらい、そうしていただろう。
スッとナナが僕の左手をつなぐと、
「参るぞ」
囁くように云って、返事も待たずに飛ぶ。
かすかな水音と足元に咲くたくさんの小さな白い花のぼんやりとした灯り。
記憶の保管庫に、僕らは立ってた。
ぐるりと周囲を見渡したナナが、短く息を吸い込んで、
「見よ」
云うなり僕の手を引いて、丸い広場の壁際へふわりと飛んで行く。
云われて、いや云われるまでもなく、真っ先に眼に入ったのは、その異様な光景だった。
1本の「記憶の梯子」が、黒くまだらに変色している。その上、大きく歪んで、あちらこちらで横木がちぎれ、見るも無惨な有様だった。
これは、
「小僧の梯子か」
目印にと立てておいた立札をちらりと見下ろして、ナナはうめくように云う。
キクヒコさんの「記憶の梯子」
以前は確かに大きく歪んで、横木があちこちちぎれていた、けれど、それはルナが「いたいの飛んでけ」で修復してくれた。
それで僕らは、黄色い「線」の示す「記憶」に入り、切れ目を見つけて修復した。
だから、キクヒコさんの意識は「海」とつながり、記憶も戻ってた、はず、なのに。
どうして。
首に提げたスマホを掴む。親指で、おヒゲの先生のアイコンをタップする。今日もう何度も何度も押した、そのアイコンを。
「オフラインです」
無機質な白いメッセージが画面に浮かぶだけ。これも今日、何度も何度も見た、それと変わらない。
スマホを離し、ゴーグルをかけて、「線」モードに切り替える。
黄色の「線」は、見えない。もちろん、赤や他の色も。
手を伸ばして、目の前にあったかろうじてちぎれていない横木にかざす。
脳裏に浮かぶ映像は、砂嵐だった。
すぐ下のちぎれた横木にも手をかざしてみるけれど、見える映像は変わらない。
その次の横木も同じ。
そのまま横木に手で触れる。
ギシギシと大きく軋みながら、歪んだアーチが開く、けれど。
その中は、一面の砂嵐。
間違いない。
キクヒコさんの「記憶の梯子」は、壊れてる。

「ルナ」
草の海を「振り返り」、僕は彼女を呼んでた。
僕の「海」の記憶の保管庫へ・・・
云いかけるより早く、ふわりとルナが現れる。
赤い眼で僕をにらんで、何か云いかけたルナが固まって、その眼をまんまるに見開いて目の前の「記憶の梯子」を見上げてる。
「ちょ、これって・・・、なんで」
困った顔で僕とナナを見比べてたルナの「左足」が、金色に輝き出す。
あの時と同じ、治療が必要な対象に近づけば、「核」は自動的に反応する。
トランス状態、と云うのだろうか。
「どうしたの、かわいそう。痛いよね」
どこかぼんやりと虚ろな眼になったルナがつぶやき、梯子に近づいて両手をかざす。
ルナの小さな手のひらから、金色の光が溢れ出す。
あたたかくてやさしい、全てを癒すかのような、まばゆい光。
「いたいのいたいの飛んでけ」
魔法の呪文のように、ルナはかすかな囁き声でそう唱える。
何度も何度も。何度も何度も。
やがて梯子全体が、金色の光に包まれて、その光が梯子の中へ吸い込まれるように消えて行く。
「はい、おしまい」
囁いたルナの体が、ゆらりと大きく揺らいで倒れそうになるのを、慌てて肩を掴んで支える。
「あ、ごめん」
いつも通りののんきな声がして、僕は内心ホッと胸をなでおろす。
「なんなのいきなり。これ、キクヒコのハシゴでしょ?こないだ直したのに、なんでまたボロボロになってるの」
いつもののんびりした口調で、けれど僕に食ってかかるように、ルナは云って、梯子を見上げる。
これは、とナナも呟いて梯子を見上げ、
「直ったか」
黒いまだら模様は、すっかりなくなっていて、あちこちちぎれていた箇所も、修復されてつながってる。
歪みも、まだ多少はあるけれど、さっきほど大きくは歪んでいない。
少なくとも、昨日までの状態には戻った、のかな。
いや、でも「線」が、
ゴーグル越しの僕の視界、キクヒコさんの梯子を差す黄色の「線」が、4本、いや5本ある?
そう僕が思った矢先、
ぎぎぎぎぎ・・・
梯子全体が、悲鳴のような軋みを上げて、大きく歪む。
「うそ!なんで?」
ルナの声も、甲高く跳ね上がる。
軋み音とともに、白い梯子の表面に、先程と同じ、墨を落としたような黒い染みが、ぽつりぽつりと幾つもわいて出て、じわじわと侵食するように広がってまだらの模様を描いていく。
これは、いったい、何が起きてるの。
「ああ、痛そうだね。かわいそうに」
囁き声に横を向くと、ルナがまた虚ろな眼で梯子を見上げてた。
さっき消えてた左足の光が、また戻ってる。
「いたいのいたいの飛んでけー」
梯子に両手をかざして、ルナは魔法の呪文を唱え始める。
軋み音が次第に小さくなり、ルナの手元から順に、梯子が金色の光に包まれて行く。
光に包まれた梯子から、黒い染みが徐々に薄れて消える。
まるで、陣取りゲームのよう。あるいは、金色と黒のオセロゲーム、だろうか。
やがて梯子全体が、再び金色の光に包まれると、耳障りな悲鳴のような軋み音は止む。
先程と同じように、金色の輝きが梯子の中へ吸い込まれるように消えると、
「はい、おしまい・・・」
呟いたルナの膝ががくりと折れて、倒れ込みそうになるのを僕は慌てて両手で支える。
「ルナ、だいじょうぶ?」
「だから」
うっすらと眼を開けたルナは、僕をにらむように見上げて、
「なんなのこれ、意味わかんないんだけど」
それは、おっしゃる通り。僕にも何が何やら・・・
跪いてルナを後ろから支える僕の頭上で、またあの音が鳴り始める。
ぎぎぎぎぎぎ・・・
見上げれば、またもや梯子が大きく歪んで、あちこちで横木がちぎれ、悲鳴のような音を上げ続けてる。
白い表面にぽつりぽつりと黒い染みが現れて、みるみるうちに広がって、まだらの模様を描き始める。
これじゃ、
「キリがないの」
ナナがつぶやいて、僕とルナの首根っこを左右の手で掴むと、ふわりと浮かんで広場の中央、テーブルのある場所まで後退してた。
そうだよね、あそこにあのままいたら、またルナの「核」が発動してしまうはず。
「いたいの飛んでけ」で、一旦は治癒ができるけれど、すぐにまた、壊される。
延々、その繰り返しになってしまう。
「まあ座るとしよ」
力なくナナが苦笑して、掴んでいた僕らの襟首を離し、ふわりと椅子へ移動する。
僕らも立ち上がって、それぞれ椅子を引いて座る。
ルナは、もうふらついたりはしていなかったので、さっきのは一時的なものだったのかな。
ぺしっと鳴らない指を鳴らして、ルナが3人分のお茶を出してくれた。
ルナに小さく頭を下げて、ナナは早速湯呑みを両手で抱え込んで湯気を吸い込みながら、
「あれは何じゃ」
くぐもった声で云う。
わからない、けれど。
キクヒコさんの「記憶の梯子」が、壊れてる。
その壊れ方も、以前とは少し、いやかなり様子が違って、より酷くなってるように見える。
少なくとも以前は、一度ルナの「いたいの飛んでけ」をしただけで、すっかり修復されていた。
完全に元通り、ではなかったものの、黄色の「線」が見えるようになり、中の記憶も、砂嵐ではなくなってた。
だから僕らはその中へ入り、記憶の修復ができた、のだけれど。
今回は、それができない。
「いたいの飛んでけ」で修復が終わっても、すぐにまた破壊が始まって、梯子が壊される。
これではとても修復のために記憶の中へ入る事はできない。
それに、さっき一度修復された時に見えた、黄色の「線」は、4本あって、見ている間にそれが5本に増えてた。
4箇所の切れ目を見つけ、修復する事が出来たとしても、その間に次々に切れ目が増えるのだとしたら。
いや、その前に、その4本すら、すべて修復する事はできそうにない。
すぐにまた、梯子の破壊が再開されて、「線」が消えてしまうから。
おそらく、その状態の「記憶」は、また砂嵐に戻ってるのだろう。
それでも構わず砂嵐の中に入って切れ目を見つけ、記憶を修復する事もできなくはないだろうけれど。
「いたいの飛んでけ」の治癒を施しても、数分も経たないうちに元の壊れた状態に戻る、という事は。
「記憶の梯子」は「壊れた」だけではなく、今もまだ「壊れ続けている」のかもしれない。
もしそうだとしたら・・・。
キリがない。
ナナの云う通り、延々終わりのない繰り返しになる。
ルナの左足の「御子の核」、その力も、無尽蔵ではないのだろう。
かつてナガヌマが云ってた「惑星ひとつに匹敵する力」、その言葉の通りなら、ほぼ無限に近いようにも思えるけれど。
それに、「核」の力が保つかどうかよりも前に、ルナの体が負担に耐えられない気がする。
さっきの2回でも、終わった時にかなりふらついていたくらいだから、そう立て続けに何度も使えるものではないのでは。
ふと、ある思いが頭に浮かぶ。
ひょっとして、キクヒコさんが応えないのは、このせいなのかもしれない。
以前のようにサーバーのどこかに隠れているわけではなく、
またひとりで先走ってNの体で何かを企んでいるのでもなく、
「記憶の梯子」が壊されてるから。
応えないのではなく、応える事ができないのか。
「海」とのつながりを再び失って、応えたくてもそれが出来ない状況にあるのでは。
以前と同じなら、おそらくまた「記憶」も失くして。
だとしたら、その原因は?
「以前と同じなら、の。原因も、以前と同じ、そう考えるのが自然じゃな」
つぶやくように云うナナの声は、暗い。
原因も、以前と同じ
だとしたら、それは、
ヌガノマ?
「嫌な想像じゃがの。ヌガノマもまた、あやつが捕らえたままであろ。カムパニーやらの捜査が地下へ及ぶ事をあれほど危惧するあやつの事じゃ。牢に捕らえたヌガノマホワイトを、そのままにしておく訳もあるまい。一先ずマンションへ飛ばすなり、いや、既に飛ばしておった、と考えるべきやもしれぬ。
「揺り籠」を飛ばした後、2日程「輪」を使えなくなるのだとしたらの。先に飛ばしたその場所が、あの応接室であったとしたら?
ヌガノマホワイトが、逃走のために小僧の体を奪おうとして、意識を移したのか。あるいはあやつが、小僧による「体」の奪還を防ぐために、あえてそう仕向けたとも考えられぬか。
ヌガノマに意識を移された人間は、「海」とのつながりと「記憶」の大半を失う。その情報は、あやつも既に知っておるのじゃろ」
淡々と語るナナの「想像」は、どれももっともだと思える。
ヌガノマについて、ハンスは昨日、云っていた。
僕らが何も聞いてもいないのに、「急ぎましょう」としきりに僕らを急かしながらも、
「ブラウンの動向がわからないのはもちろん、ホワイトもまた、未だあの牢につないだままにしています。ぼくにはどうするつもりもないのですが、かと云って解放する理由もありません。水だけは与えていますので、あの場所で餓死するような事はないはずです」
あれは、またお得意の「嘘」なのかな。
僕らへの印象操作?ヌガノマは今もあの地下牢にいると思い込ませるための。
何故ならその前にハンスは、念押しするように、
「今後、もうここへは近づかない方がよろしいかと思います。まあ、「揺り籠」もなくなれば、あらためてここへ来る用事は、あなた方にはないかと思いますが」
とも云ってた。
あれは、僕らをあのラボ周辺の地下道やヌガノマの牢へ近づけないための、牽制だったの。
「やもしれぬ」
ふふん、とナナは鼻を鳴らしたけれど、顔は笑っていない。
「嘘つきは多弁になるとも云うし、の。M某の云う通り、昨日のアレが、全てあやつのシナリオ通りなのだとしたら、その続編が、今のこの状況か」
云われて、僕は何か真っ暗な穴の縁に立たされてるような気がした。
底の見えない、真っ暗な深い穴が、僕の眼の前に、ぽっかりとその大きな口を開けてる。
ずっと手に持ったままだったので、すっかりくしゃくしゃになってしまったタロットカードを見下ろす。
死神
暗示は、なんだろう。
絶望とか、破滅とか、そんなどうしようもない何か、なのかな。
「それは占い、であろ」
ふん、と今度は、面白くもなさそうに、ナナは少し笑って、
「ドーリーがそれをおぬしに渡したのは、この事実を知らせるため、であろうよ。小僧の危機をな。その意味では、警告、じゃの」
ドーリー
彼女がハンスのところにいる事に、Mはひどく驚いていた。
「ドーリーさんは、どうしてハンスさんの所にいるのかな。Kのところではなくて」
Jもそう云って、不思議がってた。
「ドーリーがハンスのそばにいるのは、監視のため、じゃないのかな。親しみや何か情のようなものではなくて」
そう云ったのは、ガブリエル。
その時はまだ、まさか、と僕は思ってた。
ドーリーがハンスのところにいるのは、モニカが幼い頃に面倒を見ていたハンスを気にかけて、なのだろうと。
けれど、今は・・・
少なくとも、今日、僕の「海」に現れて、悲しそうに僕の頬にそっと触れ、「死神」のカードを残して去った、ドーリー、
いや、モニカの意図は、
監視し続けていたハンスに動きがあった事、
それによって、キクヒコさんが危機に陥っている事、
それを、僕に知らせるため。
警告
そうに違いない、と思える。
ふん、とルナが、まるでナナみたいに鼻で笑って、僕をにらむ。
「るなやみんながどれだけ云っても、「それでも僕はハンスを信じたい」の一点張りだったくせにさー。モニカちゃんに云われたら、あっさり「そうに違いない」とか云うの。なんなの、あんた、なんかムカつくー」
全然ムカついてなさそうな、いつもののんきな声で云うので、やっぱりホッと気がゆるんでしまう。
僕からしたら、そんなルナこそ「なんなの」という感じなのだけれど。ほんとに不思議な子だね。
ともあれ、キクヒコさんだ。
「海」とのつながりが切れてしまっているのでは、ハンスの応接室へ乗り込んでも、僕のスマホから「体」へ入ってもらう、という手はもう使えない。
ルナのスマホでもそれは同じ事なので(ルナがそれをしてくれるかどうかはさておき)、それについてはもう考えなくていい。
そうなると、キクヒコさん自身が、「輪」の能力で直接「体」へ飛ぶくらいしか、戻る方法がない事になるけれど、「記憶」が壊れた状態で、そんな事ができるのかどうか、
もし出来たとしても、そもそも「輪」の飛び先に「体」が出てこない、という根本の問題は依然残ってる。
「如何ともし難いの。小僧には、可哀相じゃが」
さらりとナナは云うけれど、薄灰色の眼が、辛そうに曇ってるのは、僕にもわかってる。
決してキクヒコさんを見捨てるとかそんなつもりではない、よね。
でもナナの云う通り、今の僕らには、どうにも手出しができないのは確か。
悔しいけれど、これが本当にハンスのシナリオ通りなのだとしたら、見事としか云い様がないかもしれない。
いや、ハンスが見事な訳ではなくて、ただ僕らが、騙されやすいだけの、世間知らずな子供に過ぎないだけなのかも。
もうひとつ、心配な点は、キクヒコさんの「記憶の梯子」の状態が、以前よりもさらに深刻そうなところだった。
以前と同じ「ヌガノマに意識を移された事」が原因なのだとしたら、その結果も同じになるはずでは。
より酷くなる、というのは、どういう事なのだろう。
まさか「ヌガノマの毒」が、より強力になっている、とでも云うのだろうか。
「はあ」、とあからさまに嫌な顔をして、ナナが大きなため息をつく。
ゆっくりとナナは薄灰色の眼で、僕とルナを見比べるように見て、
「兎角、想像なんぞという物は、悪い方へ悪い方へと際限なく広がっていくものじゃがの」
そう前置きのように云って、また両手で湯呑みを包むように持って、湯気に顔をうずめてから、
「それもあやつの「実験」なのだとしたら?何が目的かなど、知りようもないし知りたくもないが。
あやつがおぬしの云う「ヌガノマの毒」、アニーの体に意識体として入り込む事で、対象の「海」とのつながりと記憶の大半を破壊する、という得体の知れぬ「特性」に目をつけた、のだとしたら。
実験と改造、じゃの。奇しくも、H・O・アンダーソン博士の元で、彼を裏切り、利用していたホワイトやブラウンと、あやつも同じ穴のムジナという訳じゃの。
あるいは、「復讐」やも知れぬ。罪のない子供らに手をかけたヌガノマホワイトに対する、あやつなりの復讐じゃ。ヌガノマホワイト自身を実験体にする、という、な。ある意味、最大の報復となろ。実験体として生み出され、失敗作として捨てられたあやつが、その非道を行った本人であるホワイトを今度は実験体とするのじゃ。悪趣味の極みじゃが、いかにもあやつらしくもあろ」
復讐
ハンスが、ホワイトを実験体として、あの男が持つ奇妙な体質「ヌガノマの毒」を研究して、何かに利用しようとしてる?
まるで海外の映画かドラマに出て来そうな、陰惨な筋書き、だけれど。
悪趣味、とも云い切れないのは、ハンスの生まれ育ちを思えば、かな。だからと云って、同意はできないけれど。
それに、いくらホワイトに復讐するためとは云え、自身の兄弟にも当たるキクヒコさんを利用しようとまでするかな。
それこそ、ナナの云うように、ホワイトやブラウンと同じ、になってしまうよね。
僕の中のハンスのイメージでは、それを彼は最も嫌うんじゃないかな、という気がする。
どんなに復讐したい思いがあったとしても、あいつらと同じ事は、絶対にしないんじゃないのかな。
「あくまで、想像じゃ」
ぽつりと云って、ナナはお茶を小さく一口すする。
あくまで、想像
それはもちろん、そうだ。
これら全部がハンスのシナリオだとしたら、という条件付きの、ただの想像に過ぎない。
目の前に壊れたキクヒコさんの「記憶の梯子」があって、その状態をこの眼で確かめ、朝からずっと彼と連絡がつかない、という事実がある。
それでもまだ、僕は心のどこかで、ハンスを信じたいと思ってた。
実験だとか復讐だとか、そんな酷い事を、あのハンスがするはずはないし、万が一、何かの気の迷いでそれに手を染めてしまったとしても、他ならぬ僕らアニーの仲間を、巻き込むような事はあり得ない、って。
ぱちぱちぱち
ルナがどこか適当な感じで、雑に手を叩いて、
「もうここまで来ると、拍手するしかないねー。あんたのそのお人好し加減に、だよー」
あきれ顔で肩をすくめてた。



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