受付の灯りも消えた待ち合いロビーは、ほとんどひとけもなく、しんと静まり返っていた。
ルリおばさんの窓が閉じた「オレンジの海」も、今は静かな波音だけが繰り返し聞こえてる。
そんなしばしの静寂を破るのは、いつもの陽気なハスキーボイスだ。
「え、うそ。もう来たの。早くない?キイチロウさん、新車買ったの」
Lの驚いた声に、正面入り口を振り返る。
開いた自動ドアから母が駆け込んで来そうになって、慌てて扉口で立ち止まり、すぐに僕らに気づいたらしい。早歩きでこちらに近づいて来る。
Lの云う新車?は、買ってないよね。自動ドアの向こう、いつものオンボロ軽自動車が駐車場へ向かうのが見えてるでしょ。
「いや、だって、めっちゃ早いからさ。ポルシェでも買ったのかと思って?」
Lはそう云って、楽しそうにニヤニヤ笑ってるけれど。こんな時にも、楽しそうなんだね。いいけれど、Lらしくて。
ボア付きの暖かそうなダウンのコートを着て、つかつかとこちらへ向かって来る母が、驚いた顔で歩く速度を緩めて、まじまじと僕らひとりひとりの顔を見回してるのは、何だろう。
僕とJがふたりで待ってるだけ、と思ってたからかな。
予想外に子供が大勢いたので、びっくりしてるのかも。
「Lちゃん?がぶちゃんも?まさか、みんなでルリちゃんちにいたの」
開口一番、母は驚いた顔のまま、Lにそう尋ねてる。
「ううん、オレとガブちゃんも駆けつけて来たんだよ。ルリちゃんちにいたのは、この4人だけ」
だけ、ではないような気もするけれど、まあ、だけ、かな。
「ええと、ルナちゃん、と?」
母がそう云って、ナナを見る。
ナナが困った顔で、救いを求めるようにちらりと僕を見るので、
「ハナだよ」
僕が云ったら、
「ハナちゃん、はじめまして」
そう云った母の眼が、きらりと輝いたのを、僕は見逃さなかった。
また「ちっちゃくてかわいいー」とか思ってるんでしょ、お母さん。すぐ顔に出る。僕もだけれど。
すぐに母はコホンと咳払いをひとつすると険しい表情になって、僕を見て、
「それで?いったい何がどうなってるの」
詰問するみたいに尋ねるので、僕は今日の午後に起きた出来事を、ぽつりぽつりと説明する。
ルナを見習った、わけではないけれど、ざっくりと。
いつも母の前では僕はそんな感じだし、詳細を話す事はないかなと思ったので。もちろん、ピエロ面のブラウンの事は一切伏せて。
話し始めたところで、駐車場に車を止めてきたらしい父がのっそりと姿を現したけれど、黙って母の隣に並んでたので、構わずにそのまま説明を続けた。
一通り聞き終えると、母は「はあ」と大きなため息をついて、
「じゃあ、ルリちゃんは絶対安静なのね。今日は会えないかしら」
「うん、僕らも、救急車を降りてからは会ってない。今は、薬と点滴で眠ってるって」
「そう」
母は少し寂しそうな顔でうなずいてた。
僕は密かに驚いてたけれど。だって、母がルリおばさんのお見舞いへ行こうとしてた、だなんて。
こんな時に、そんな事で、喜ぶべきじゃないのかもしれないけれど。でも、うれしくて。
父は、ガブリエルが手にしていた新聞の号外に目ざとく眼をとめて、
「ガブちゃん、それ、見せてくれるかい」
「あ、どうぞ」
父の会社の新聞、ではなかったと思うけれど。
誌面にざっと眼を通しながら、
「いや、会社から電話があってね。驚いたよ、あのビルで爆発があったって聞いてさ。スマホに連絡してみたけど、おまえさんは一向につながらないしさ」
苦笑して僕を見るので、「ごめんなさい」とつぶやいてぺこりと頭を下げる。
まあいいさ、といつものように力の抜けた笑みを浮かべて、
「会社からは、「いつでも出れるように待機してくれ」って云われて。まあ結局、休日出勤してた連中でどうにかなったらしくて、その後お呼びはかからなかったんだけど。それにしても、まさかこの街で、こんな事件が起きるだなんてなあ」
父がいつもの調子でのんびりと云ったら、母がイラッとしたように、
「冗談じゃないわよ。いったい、何を考えてるのかしら」
ぷんぷん怒り出すので、困ってしまう。
「ほんとにねー。あたまおかしいんだろーねー、その犯人?」
Lが困った顔で苦笑して、母に同調してるのは、さすが、と思った。
これも、僕には真似できないやつだ。
そのLの声に、母が何かを思い出したように、ハッとこちらへ向き直って、
「それで、ルナちゃんとハナちゃんは、今夜からホテルに泊まるのね」
「うん。おねぇちゃんの名前を云えば、泊めてもらえるからーって」
ルナがいつもの調子でのんびり答えると、
「わかったわ。じゃあ、一緒に行きましょ」
母がキリッとした顔で、ルナとナナにうなずきかけてる、けれど。
「え、何で」
思わずそう、口に出てしまった。
「何でって、小さな子ふたりだけで、ホテルへ帰すわけにいかないじゃない。ルリちゃんはしばらく入院なんでしょ。だったら、あたしが一緒に行くわよ」
いきなり何なの、いや、すごくかっこいいのだけれど。え、うちのお母さんだよね。スズキキョウコだよね?
ふふ、ナナが小さく鼻で笑って、
「おぬしがそれを云うか」
可笑しそうに「海」で云う。
「故に、であろ。そんな彼女を是非にと「母親」に指名したのは、他ならぬおぬしじゃろ」
それは・・・、確かに以前、ルリおばさんからそう聞いてた、けれど。
そういう事なの。
この、なんて云うか、キリッとしたかっこいいところ?
「姉御肌と云うべきか。いや、「義侠心」じゃの。弱きを助ける心。困っている誰かを放っておけず、そのために尽くす。そこに惚れ込んだ故、おぬしは彼女を指名したのであろ」
あらためて、ナナの口から淡々とそう説明されると、何というか、恥ずかしいような、照れくさいような。
「えー、るな、だいじょぶなんだよー。キクタのママは、キクタと帰りなよー」
ルナは珍しく困ったような顔で、そう母に訴えてる。
確かにルナは大丈夫。ハナを連れてホテルのフロントへ行き、「キリノルリ」の名前を出して、部屋の鍵を受け取って、ふたりでスイートルームとやらへ行ける。その姿が目に浮かぶくらい、自然にイメージできる。
それは僕にもわかる、けれど。
「ダメよ、あんな事件が起きたばかりなのに。女の子ふたりだけで、放っておけるわけないでしょ」
そう云って母は、くるりと横を向くと、
「ねえ、キイチロウさん、あたしもふたりと一緒にホテルに泊まるわ。さすがにずっとは難しいかもしれないけれど。とりあえず落ち着くまで、しばらくの間」
父に向かってキッパリと云う。
質問や相談やお願いではなく、それはもう決定事項としてのただの報告、だよね。その口調は、いつものそれだよね。
しかも、泊まるって、しばらくの間?
その間、僕のごはんはどうなるの。いや、違う、ごめん。そんなのどうでもいい事だよね。うちには父もいるのだし。
父は一瞬、きょとんとした顔をしていたけれど、すぐにいつものニヤけた笑みを浮かべて、
「委細承知しました」
あの、不恰好な執事っぽいお辞儀をしてた。
承知しちゃうんだ。いや、しちゃうよね、そう、父はそういう人だもの。
「いやあ、わかるなー。義侠心だねー。キョウコさん、めっちゃかっこいいじゃん」
Lがテラスでニヤニヤしながら、うれしそうに僕を見るので、ますます僕は恥ずかしくなってしまう。
その隣でナナが、あくびを噛み殺しながら、
「さて、儂もそろそろ限界じゃな。もうハナに代わっても、問題ないじゃろ。ハナは彼女と面識もあるしの。もっとも、あちらは覚えておらぬじゃろうが」
眠たそうな顔で云う。
限界って、そっか。今日はもうずいぶん長い間、付き合わせてしまってるよね。
確かにハナは、「キョウコさん?はなちゃんも見たよー」とか云ってたので、会った事はあるみたいだし、覚えてるのだろうけれど。
だいじょうぶかな。母が固まってしまうような事は、ないのかな。
「先程の様子を見る限り、それはなさそうじゃがの。認識が消された上で、別人として認識されておるのじゃろ」
それは、そうなのかも。さっきも固まったりはしていないのだし。
それにハナは、母がハナを忘れている事にも、たぶん驚いたりはしないはず。
僕が「縮んで」いても、ハナの事を覚えていなくても、気にする様子もなく、飛びついて来たり、膝の上に飛び乗ったりしていたくらいだし。
困った顔で何やら考え込んでいたルナが、ふぅん、といつものようにうなずいて、ぴょこんとソファから立ち上がる。
そして、僕と手をつないでいたハナの手をとって、ふたりで母の前に並んで立ち、
「じゃあ、お願いするよー。キクタのママー、よろしくお願いしますー」
ぺこりとお辞儀をしてる。
隣でナナも、ルナに合わせてお辞儀をする。
母は、と顔を見たら、また眼を「きらーん」と輝かせてた。
ほんとに「義侠心」なのかな。かわいい女の子と一緒にホテルに行きたいだけ、なのでは。
なんて、ちょっとだけ疑わしくも思えたけれど、いやいや、そんなはずないよね。
「とにかく、ふたりも疲れてるでしょうし、今日はこのままホテルへ帰りましょ」
母はそう云って、「タクシー呼んでくるわ」ひらりと身を翻して、スマホを手にまた早歩きで外へ出て行った。
「じゃあ、Lちゃんガブちゃん、ジーンちゃんは俺が送るよ。タクシーを見送ってから出ようか」
父は何がうれしいのか、ニヤニヤしながら云う。「あ、これ、ありがとね」と新聞の号外をガブリエルに返して。
「そう心配しなさんな。今日の晩ご飯はもうキョウコさんが作ってくれてるよ。明日からは、俺が作るけど」
僕はそんなに不満げな顔をしてたのだろうか。父は僕の顔をのぞき込んで云うけれど。
明日からは、俺が作る?
それのどこが「心配しなさんな」になるのか、その理屈がわからない。
焦げた目玉焼きくらいしか、父が料理を作ってるの見た覚えがないのだけれど。
「ハナ、るなとキクタのママと一緒に、今日からホテルに泊まるんだよ」
ナナが引っ込んで、ハナと交代したらしい。寝起きでぼんやりした眼のハナに、ルナがそう説明してくれてる。
「キクタのママ?ホテル?」
ハナは首をかしげて、僕を見る。
「うん、僕のお母さん。キョウコさんだよ。ハナ、会った事あるよね」
僕が云うと、ぴこんと何かがつながったみたいに、ハナは包帯ぐるぐるの右手を上げて、
「キョウコさん、はなちゃん知ってるー。キクタのママが、キョウコさんなの」
「そうだよ。おねぇちゃんが、しばらく入院する事になったからね。キョウコさんがハナとルナのそばにいてくれるんだって」
そう云ったら、ふむ、とハナは右手を唇に当てて、少し考える顔をしてから、パッと顔を上げてルナを見て、
「ルナ、よかったねー」
にっこり笑ってくれたので、僕はひとまずホッとした。
眠りに落ちる直前の事を、ハナがどこまで覚えているのか、もしかしたら、パニックに陥ってた事すら覚えていないのか、それはわからないけれど。
今すぐに確かめるような事ではないよね。覚えていないのなら、このまま忘れてしまってもいいようなものだし。
「K」
魔法の声で呼ばれて、何だろうとJを見たら、灰色がかった眼が、困ったように父を見上げてた。
父はどこか宙の一点を見つめたまま、固まってる。
認識の喪失?
でも、どうして。
「たぶん、キョウコさんの話、じゃないかな。ハナちゃんが会った事あるって、Kが云ったところで、固まってた」
Jが困った顔で、説明してくれる。
父はぼんやりしているように見えて、ちゃんと話を聞いてるって事なのかな。こんな時こそ、さらっと聞き流してくれればいいのに。
「いやあ、そりゃ無理でしょ。え、こんなに小さなハナチャンが?いつキョウコさんに会ったの?って思った時点で消されるんだろーね」
同じく困った顔で苦笑しながら説明してくれる、Lの云う通りなのだろう。
固まってるついでだし、と思って、
「ハナ、キョウコさんも僕みたいに、いろいろ忘れてるかもしれないんだよ。だから」
そうハナに説明しかけたら、くるりとオレンジの眼で僕を見上げて、
「はなちゃんわかるよー。だいじょぶー、はなちゃんがおぼえてるもんー」
そう云って、僕を安心させようとするみたいに、またにっこり笑う。
あ、これは、と思う間もなく、テラスのLがスッと消えて、ドナドナモードを解除して、
「ハナチャン、かしこいネー。もうカワイイネーカワイイネー」
いつものLのあれが始まる。
そのLの甲高い鼻声に驚いたのかな、ハッと父が息を吸い込んで、我に返ってた。
まあ、結果オーライ、かな。
自動ドアが開く音がして、母が早歩きでこちらに向かいかけ、目が合うと大きな身振りで手招きしてる。
もうタクシーが来たの。近くにいたのかな。病院の駐車場でつかまえたのかもしれない。
「行こうか」
ガブリエルがみんなに云って、ぞろぞろと全員で病院の入り口ドアへ向かう。
こちらへ向かってきた母が、当たり前のようにスッと手を伸ばしてルナとつなぐ。
ルナは、照れくさいのかな。ちょっぴり恥ずかしそうに俯いて、でもうれしそうにニヤニヤしてる。
Lが気を利かせて、ハナとつないでた手を離してくれる。
母がまた自然に手を伸ばして、ハナも素直にその手をつないでた。
手をつないだ3人に続いて、自動ドアをくぐって病院の外へ出る。
正面玄関の車寄せに、黒いタクシーが横付けされていて、後部座席のドアが自動で開く。
病院から出て来た母の姿を見て、運転手さんが開けてくれたのだろう。
ルナを先に、次にハナを後部座席に乗せ、自分も乗り込んでから、母がこちらを振り返って、
「明日、一旦、荷物を取りに帰るわね。晩ご飯は肉じゃがを用意してあるから、あれを食べて」
父に云う。
「承知しました」
父はまたうれしそうにニヤニヤしながら、あの不恰好なお辞儀をする。
もしかしたらこの人は、母にあれこれ指示されるのがうれしいわけではなくて、こういう時のキリッとした母を見るのがうれしいのかな。
なんとなく、そう思った。
後部座席のドアが閉まって、タクシーがゆるゆると走り出す。
ハナは、母の膝の上に乗せられて、窓から元気に手を振ってた。
その後ろで、ルナもまだ少し恥ずかしそうな顔で、おざなりに手を振る。
タクシーが見えなくなると、父がくるりと僕らを見渡して、
「寒いから、中で待ってて」
云うけれど、Lがちっちっと指を振って、
「もうここまで来ちゃってるし、このまま一緒に駐車場まで行くよー」
はっはー、陽気に笑いながら、ガラガラとキャリーバッグを引いて、ずんずん駐車場へと歩き出す。
やれやれ、と困ったように苦笑して、父は無精髭のあごをかきながらLの後に続く。
僕とガブリエルとJも、並んでその後に続いた。
何か忘れているような気がして、ハッと思い出す。
N。
病院の裏庭で待ってるって云ってたけれど、さすがにもう帰ったかな。
会えなければ、うちの屋根裏で待ってるとの事だったし。
さすがに今からみんなを待たせて、ひとりで裏庭へ確認に行くわけにもいかないか。
冷たい北風がぴゅうと吹いたけれど、何故か心はぽかぽかと暖かいような気がする。
たいへんな事が起きて、たいへんな1日だったはずなのに、こんな風にホッと一息つけたのは、母と父のおかげなのかな。
なんとなく、そんな風に思ってた。
父のオンボロ軽自動車で、Lとガブリエルを西のススガ森のミクリヤのお屋敷まで送り、そこから引き返して今度は東へ、ホタルヶ丘教会までJを送り、家に戻ったのは、夜8時近かった。
途中、母からメールが来て、「無事、ホテルにチェックインしました」との事だったので、ルナとハナもどうやらだいじょうぶそう。
父が温め直してくれた晩ご飯をふたりで食べて、お風呂に入り、2階の部屋へ戻ったのは9時過ぎだった。
さすがにクタクタでベッドへ倒れ込みたかったけれど、ぐっと堪えて屋根裏への梯子を上りかけると、上から青と琥珀色の不思議な眼が僕を見下ろしてた。
手を伸ばすと、ひらりとNが僕の腕に飛び込んで来る。
「ごめんね、遅くなって。病院の裏庭へも行けなくて」
「いえ、お気になさらず。非常時ですし、アナタもそう身軽には動けなかった事でしょう」
さらりと云って、Nは鼻をなめてる。
そのまま両手で抱いて、ベッドに腰掛ける。
「病院へは行きましたが、実は早々に引き上げて来たのです。様子のわからない裏庭で待ち続けるよりも、こちらにいた方がアナタの様子がわかるかと思いまして。ちょうど戻った時に、アナタの母上が大声で電話をしているのが聞こえました」
ああ、なるほど。さすが出来るネコだね。父と母の様子から、僕の状況が予想できると思ったの。
「はい。すぐにおふたりが出掛ける様子でしたので、それならばと、こちらでのんびりお待ちしていました」
ベッドに座って、暖かくてふわふわのNを抱いていたら、このまま眠ってしまいそうだ。
慌ててかぶりを振って、
「N、「海」へ行こうか。たぶん、みんなも来るだろうから」
約束はしていなかったけれど、Lも帰って来たし、ガブリエルも、何か落ち着いてから話そうと云ってた。
Jもあんな事に巻き込まれて疲れてるだろうけれど、だからってこのまま眠れるような気分じゃないはず。
「承知しました。ではワタシの報告も、「海」でしましょう。先に結果だけ云ってしまいますが、「何もなかった」という報告です」
淡々と、Nは云う。
何もなかった
そう聞いても、何故かがっかりはしなかった。むしろ、なくてよかった、とホッとするような気さえしたのが、少し不思議だった。
「何かあったとしても、何もできませんから。ではありませんか」
そうかも知れない。
ブラウンの痕跡や、あいつの所在を示す何かを見つけたとしても、僕には何ができるわけでもない。
「参りましょう」
Nが促すのは、ひとりでモヤモヤと考え込まずに、「海」でみんなを待とう、という事かな。それもそう、だよね。Nはいつも正しい。
部屋の灯りを消して、ベッドに横になる。Nの鼻が僕の鼻先に触れて、ぐるんと視界が回るいつもの感覚。
次の瞬間には、僕は両手でNを胸に抱いて、「オレンジの海」のテラスに立ってた。
やさしい波音と、ほのかに光るオレンジの海に、ホッとする。
ふわりと香る柑橘類の甘い匂いを嗅ぎながら、今日はここで寝ようかな、なんて思う。とても穏やかに、夢も見ずに眠れそうな気がする。
からりと貝殻の風鈴が鳴って、Jのお庭の窓が開く。
「早いね」
かすかに微笑むJも、だいぶ疲れてそうに見える。いや、それは無理もないよね。だって、爆弾だもの。
ひらりと砂浜に降りたJは、いつものように「おじゃまします」とお辞儀をして、テラスへ上がって来る。
「ね、爆弾だもの。いまだに夢でも見てるみたい」
困ったように眉を寄せて、Jは苦笑する。
「座ろ」
促されて、Jと並んでテーブルへ移動する。
Nが腕の中でもぞもぞするので、何だろう、と見下ろしたら、ちらっとJの方を見る。
あ、なるほど。ふわふわネコの癒しパワーをJに、って事だね。
椅子を引いて腰掛けたJに、両手でNを差し出す。
「わあ、いいの」
ようやくいつもの魔法の笑顔になって、つまり僕も癒されるので、これがベストだね。さすがN。
「Lが来る前に、早く」
淡々とNが云うのは、何だろう。冗談、だよね。
Jが広げた両手にそっとNを乗せながら尋ねたら、
「もちろん、冗談です」
Nはペロリと下を出してた。
Nを胸に抱いたJが、あはは、と大きな口を開けて笑う。
魔法の笑い声にたっぷり癒されながら、僕もいつもの席に座って、指を鳴らしてお茶を出す。
夜なので、ハーブティかな。カモミールとか、かもしれない。やさしい香りがした。
カラカラと元気に貝殻の風鈴が鳴って、基地のドアが開く。
ドアからテラスへ、飛び降りて来るのは、もういつものスタイルになりつつあるよね。
「おお、早いね」
ふわふわの金髪をなびかせながらテラスへ着地したLは、くるりと僕らを見渡して、Jが抱いたNを二度見して、いつものアレが始まるのかな、と思ったら、そのままスッといつもの席に座る。
あれ、気づいてないって事はないよね。L、ネコチャンネコチャンは?
指を鳴らしてLの分のお茶を出しながら尋ねたら、
「今日だけ、特別だぞ」
腕組みをして、ニヤニヤしながらJをにらんでる。
「特別?」
重ねて尋ねると、
「Jのお嬢にも、今日は癒しが必要だろ。だから、特別。ネコチャンネコチャンは割愛」
ふふん、なんて鼻で笑ってる。
「さすがです、L」
Nも何やらふむふむうなずいてる。
空気が読める、って事かな。
今日はJもたいへんな目に遭ってるから、Nを取り上げたりはしないよって事?
「左様です。構うのも今日は封印する。デリカシーですね」
淡々とNに云われて、ハッとなる。
これが、デリカシーなの。
僕に何よりも欠けているという、あの。
「欠けてるって事はないでしょ。Kだって、すぐにNちゃんを貸してくれたじゃない」
Jが魔法の声でそうフォローしてくれてるけれど。
いやいや、それはNが教えてくれたからで。
思えばいつもそう。昼間の公園でもそう、Nが合図してくれて、僕はようやく気づいたくらいだった。
「あのね、小学2年生だろ?だいたいみんなそんなもんだって。キクちゃん、気にし過ぎよ」
Lもそう云って、ルリおばさんの真似を交えて慰めてくれるけれど。
でも、たぶん、ルナなら気づくでしょ。
「ルナチャンは、また特別だからねー。実年齢のせいなのか、何なのか、よくわかんねーけど」
そう云えば、いつもなら「海」で僕らの気配がすると音もなくふわりと現れるルナが、今日はまだ来ない。
「さすがに、今日はムリじゃね」
ニヤリとLが笑うのは、何だろう。疲れてるから、という理由ではなさそうだけれど。
「ああ、キョウコさん、かな」
ぴこんと人差し指を立てて、Jが云う。
キョウコさん?
あ、ホテルで母が一緒にいるから、って事かな。
ハナをほったらかして、ひとりでドナドナモードになるわけにもいかないだろうし。
「いやあ、それ逆だよね。キョウコさんが、ふたりをほっとかないでしょ」
なるほど、それでLはニヤニヤしてるの。
「だって、ルナチャン、かわいかったよね。男所帯で育ったからかなー、「ママ」に照れがあるのかもねー」
云われてみれば、確かに。あの何事にも平然として物怖じしないルナが、珍しく母には戸惑ってたみたいに見えた。
ふわりとレースのカーテンが揺れて、
「おや、さすがに今日は静かなのかと思いきや、何やら盛り上がってるね」
くすくす笑いながら、ガブリエルがふわりとテラスへ降りて来る。
僕の隣の椅子を引いて腰掛けながら、
「キョウコさんの話?だったらボクも詳しいよ。たぶん、今夜はふたりが寝るまで、あれこれ構ってくれるだろうねえ」
楽しげにガブリエルは云う。否定は、できないかな、あの母の事だから、ルナがたじろぐくらい、ぐいぐい行きそうな気がする。
ハナは、いつも通りにこにこ笑ってそうな気がするけれど。
ぱちんと指を鳴らして、ガブリエルにもお茶を出す。
ありがとう、と僕にうなずきかけて、
「ははあ、だからルナは、今夜はここへ来れないだろうって話かな。まあそうだろうねえ、キョウコさんだもの」
自信満々にガブリエルが云い切るので、何だか僕の方が照れくさい。
「どうして?いいじゃない、自慢のお母さんで」
Jにまでそんな風に云われて、ますます僕は困ってしまう。
「何でだよ、自分で選んだ「自慢の母」だろー。堂々としてりゃいいじゃん。どーだ、すげーだろ、みたいな顔してさ」
そう云われても、僕は選んだ事すら覚えていないのだし。
やっぱり困惑する、よね。たぶん、「キクタ」もこんな事になるとは予想もせずに、母を選んだのだろうけれど。
もちろん、その事自体に不満はないし、母にも何も文句はないけれど、「キクタ」には少し、恨み言を云いたいような、そんな気がする。
ふふん、とLが小さく鼻で笑って、あらためて一同を見渡して、
「まあそんなわけで、今日はこれで全員かな。ナナちゃんも無理そうだよね」
そう僕に尋ねる。
ナナは、そうだね、だいぶお疲れだったみたいだし、今夜は無理かも。
もしかしたら、姿を見せずにどこかで聞くだけ聞いてるかもしれないけれど。
「ではワタシの報告から、始めてもよろしいでしょうか」
Jに抱かれたNがそう云いかけるのを、Jが右手でNの小さな頭をそっとなでて、
「待ってね、Nちゃん」
ふわりと止める。
「K、ちょっと、試してみたい事があるの。いい?」
魔法の声で、尋ねる。
試してみたい事
何だろう。もちろん、どうぞ。
うなずくと、Jも小さくうなずいて、右手を上げる。
ぱちん、と指を鳴らすと、テーブルの上に現れたのは、視界の窓、かな。画面は真っ暗だけれど。
「うん。前にLが云ってたでしょ。記憶を保管庫から取り出して、ここで再生できたら、口で説明するだけじゃなく、みんなに見れるよねって」
と云う事は、これは視界の窓ではなくて、記憶の窓、というところかな。
保管庫へ行って梯子の横木を開くのではなく、この窓で選んだ記憶を再生できる、かも、という事?
「楽しい記憶じゃないけどね。Lとガブリエルにも、見てほしいと思って」
真剣な顔で、JはLを見て、ガブリエルを見る。
そうか、僕の記憶は、みんなに見せられない(梯子がなく「海」に保管されていないから)けれど、Jの記憶は、この「海」の保管庫、Jの記憶の梯子に保管されてる。
もちろん、今日の記憶も。
「望むところだぜ」
椅子をJの方へ寄せながら、Lが云う。その顔には不適な笑みが浮かんでるけれど、表情は少し、こわばってたかもしれない。
「うん。是非、見よう」
ガブリエルも云って席を立ち、Jの隣の椅子を引いて座り直す。
僕も席を立って、Lの隣、ナナのいつもの席へ移動する。
「じゃあ、始めるよ」
Jが云って、左右の僕らを見て、僕らは無言でうなずく。
立てた人差し指を、見えないラベルを辿るように動かして、最後に何かキーでも叩くみたいに、Jがスッと人差し指を振る。
真っ暗だった窓の画面に、明るい午後のリビングルームが映った。
夢で見る記憶のように、Jの視界で固定されているらしい。
テーブルを挟んだ向かいのソファに、ルナとハナ、ルリおばさんが座ってる。ルナは片手にNを抱いて、もう片方の手でティーカップを持ってた。制服の胸元には、おーちゃんがとまってるのも見える。
ハナが両手で持ったティーカップから顔を上げて、ルナに尋ねる。
「ねー、ルナ、あれもおそうじのロボットなの?」
「えー?」
ルナがカップをテーブルに戻しながら、ハナの視線を追うように窓を見る。
隣で僕も窓を振り返る気配がして、Jの視線も、つられたように窓を振り返る。
そこに見えるものをすでに知っていても、やっぱり、僕は息が止まりそうになる。
Lもガブリエルも、ハッと息を飲むのがわかった。
大きなリビングの強化ガラスの向こう、清掃用のゴンドラの中に佇む、黒いコート姿のピエロの仮面。
間違いない。これはほんの数時間前の、Jの記憶。
今日の午後に、ルリおばさんのマンションで起きた、爆弾魔ブラウンによる襲撃の記憶だった。
消防と救急隊のおじさん達が部屋へ到着し、ルリおばさんが担架に乗せられ、運び出されるところで、スッとJが人差し指を振って記憶の再生を止める。
窓の画面は、電源を切ったモニターみたいに、フッと映像が消えて真っ暗になった。
Lは険しい表情で腕組みをしたまま、ガブリエルもあごに握った拳をあてて暗い画面をじっと見つめてた。
ふう、と小さくため息をついて、
「確かに、話すよりは楽だけど。何度も見るものじゃない、かな」
Jが困った顔で僕らを見渡して、ごめん、と小さく僕に頭を下げる。
ううん、と首を横に振ったけれど。
たぶん、僕はひどい顔をしてたのだと思う。
ーー いやああ!!キクタ!たすけて!!!
ハナの悲鳴が、まだ耳の中に残ってる。
ぐっと唇をかみしめて、オレンジの海を見る。
ほのかにオレンジ色に光る、夜の海。
やわらかな波音が、繰り返し聞こえてる。
「ああ」
ため息みたいな声を出して、Lが大きくかぶりを振って、
「さんきゅ、見れてよかったぜ」
ぐいっと隣のJの肩を抱くようにして、ぽんとやさしく叩く。
「けど、こんなに悔しいとは思わなかったな」
ぽつりとつぶやく声は、Lらしくもなく、弱々しくかすれてた。
うん、とガブリエルが小さくうなずいて、
「本当にね、悔しい。あいつにされた事はもちろんだけれど、その場に居られなかった事が、ね。とても悔しい」
ぐっと握った拳に力を込めて、それを顎に当てたまま、暗い画面をにらんでた。
重く静まり返ってしまったテラスで、コホンと小さく咳払いをするように、ふふんと鼻を鳴らして、
「ではあらためて、ワタシの報告から始めましょうか」
空気を読める賢いNが、そう発言をしてくれる。
「うん、お願い」
Nにうなずきかけて、僕はお茶を一口飲む。
そう云えば、Nの飲み物を出すのを忘れてた。
「では、同じお茶をお願いします。この香りは、とても好きです」
ぱちんと指を鳴らして、Nにも同じハーブのお茶を出す。
小さく僕にお辞儀をして、Nは話し出す。
「ちょうど先ほどの記憶の直後に、ワタシはキクタと別れて、単独で周辺を調べに行きました。具体的に云えば、敵の使用した清掃用のゴンドラやその周辺を、です。何か遺留品や痕跡が残されていないか、そこから敵の侵入および逃走経路などがわかればと思ったのですが、残念ながら、収穫はありませんでした」
淡々と、いつものように冷静に、Nはそう報告してくれる。
その声を聞いているうちに、不思議と僕の気持ちも少し落ち着いてくる気がした。ほんの少し、だけれど。
「言い訳をするつもりはないのですが、何も発見ができなかったのには、探索の時間が十分に取れなかった事も原因としてあります。と云うのは、早々に警察とビル管理会社の警備員でしょうか、大勢の人達が現場に現れ、周辺を封鎖していったためです。その対応の早さには、少々驚かされました」
警察とビル管理会社の警備員が現場に
それは、ルリおばさんからの情報とも一致する、ね。
その話を知らないNに、僕はざっくりと概要を説明する。
「なるほど、そのカムパニーとやらの警備システムによって、敵の行動は概ね把握された、という訳ですね」
Nは少し悔しそうだけれど、その裏付けが取れたのは、警察や管理会社の動きを実際にNが見てきてくれたから、だよね。
「過分なお言葉、痛み入ります」
Nはあくまで、恐縮してるけれど。
ガブリエルがスッと右手を上げて、
「じゃあ次はボク、かな」
僕を見る、その顔は、少し困ったように見えるけれど。
「救急車の中から、だったよね。Kから「海」で連絡をもらって、「ハンスに今日の約束に行けなくなった」と伝えてって頼まれたんだけれど。その時に、ブラウンの襲撃についてもざっと話を聞いてね。ふと思ってしまったんだ、「ハンスはすでに、それを知ってるんじゃないか」ってね。でも、そんな衝撃的な話を聞いた直後だし、ボク自身、冷静ではいられなかったからね。その話はあらためて、お互いに冷静になってからまた話そう、って云ってたんだけど」
そう云って、ガブリエルはまた拳をあごに当てて、難しい顔になる。
「ごめんね。「記憶」を見たら、ますます冷静じゃいられなくなっちゃった?」
Jがさらりと云って、ぺこりと頭を下げる。
「ああ、そうなんだ。いやでも、Jのせいだって云いたい訳じゃないんだよ。「記憶」を見せてもらえた事は、すごくありがたいし、話を聞くだけじゃ、わからないこともあるからね。だけどさ、やっぱり、とても冷静ではいられない、よね」
ガブリエルは云って、難しい顔のまま、俯いてしまう。
「まあ、いいんじゃね。冷静じゃねーガブちゃんの暴論でもさ、この際だから、云っちゃえば」
Lが何だか、軽い感じで肩をすくめて云うのは、ガブリエルが話しやすいように、かな。
その青い眼はきらきら輝いて、一言も聞き逃すまいとしてるみたいだけれど。
「本当に、思いつきなんだ。妄想とも云えないような、ただの思いつきでね。Kが今日、約束の時間にハンスの所へ行けなくなった、それをすでに、ハンスは知ってるんじゃないか、そう思ったんだよ。
何故なら、都合が良すぎるんだ。KがNとゲンゴロウ先生、それからJを伴って、ハンスの部屋を訪問する約束の時間、その直前に、爆弾魔のブラウンがルリさんの部屋を襲撃する。Kはハンスの部屋へ行くどころではなくなる。ハンスが、Kを部屋へ来させたくなかったのだとしたら。もっと云えば、生命維持装置の中で眠るキクヒコに合わせたくなかったのだとしたら。
日時を指定したのは、他ならぬハンスだ。ボクがKからハンスへの連絡を頼まれたのが、週の初め、たぶん火曜日の朝とかだったはず。すぐにボクはハンスにメールをして、あいつから返事が来たのは金曜の朝だ。準備をする時間は、十分にあったんじゃないかな」
本当に、あの時に思いついたそのままを、ガブリエルは一息に話してくれたらしい。
確かに普段の彼らしからぬ、冷静さの感じられない内容ではあったけれど。
ふむ、とLが何やら楽しそうに鼻を鳴らして、
「思いつきの妄想。でも何事も、始まりはだいたいそんなもんだよね」
どっこらせ、と椅子の上に胡座をかいて座り直す。
「今のがぶちゃんの話には、前提がいくつか必要だよね。まず、ハンスはルリちゃんの部屋を知ってる。そして、Kがハンスの部屋へ来る前に、ルリちゃんの部屋へ立ち寄る事も知ってる。まあ、そっちは100%じゃなくてもいいのかもしんない。とにかく、Kが来れなくなりさえすりゃいいんだったら、ね。そして、もうひとつ、ブラウンの動向も知ってて、ある程度、あいつを操るすべを持ってる。でなけりゃ、都合のいい時間に、ゴンドラに乗せて登場させられないからね」
そう云ってLは、ここまでおっけー?と確認するみたいに、僕らをくるりと見渡す。
確かに、ガブリエルの云うように、ハンスが僕をキクヒコさんに合わせたくないが為に、ブラウンをそそのかしてルリおばさんのマンションを襲撃させようとした場合、Lの云う前提は絶対必要になる。
1)ハンスはルリおばさんの部屋を知ってる
2)ハンスは事前に僕がルリおばさんの部屋へ寄る事を知ってる
3)ハンスはブラウンの動向を把握していて、その行動を操作する事ができる
うん、Lはうなずいて、
「1)は、まあ普通にあり得るよね。同じマンションの上と下だし、どこかで見かけたとかさ。そうじゃなくても、あいつはクヨウの顧問、つまりカムパニー側の人間でもある。その立場を利用すりゃ、あのビルの関係者がどこの誰で何やってる人か、どこに住んでるのかくらいは、簡単にわかるだろね。
2)は、一番難しそうだけど、実は一番簡単かもしれない。だって、マンションの入り口は、あの3階のエレベーターホール1箇所だけだからね。自分で日付と時刻を指定してるんだから、それより少し前から、あのロビーの監視カメラをONにしておくだけでいい。ハンスの部屋のインターフォンは鳴らなくても、カメラのマイクもONにしとけば、誰かが来てインターフォンを鳴らせば聞こえるでしょ。だからずっとカメラに貼り付く必要すらない。ONにしといて音が聞こえたらカメラを見るだけ。それでKが来た事はわかる。約束の時間よりだいぶ早く来たんなら、ルリちゃんの部屋に寄るんだろうってのもまあわかるよね。
3)が、一番わからねー。疑い出したらキリがないからね。じゃあ、研究棟に爆弾を届けさせたのも、もしかしたらハンスの差金か?とかね。ブラウンとの関係もそうだなー。さすがに、あのふたりが結託してるとは思えねーし思いたくもねーけど。あの何考えてるのかわからねー爆弾魔を操るのは至難の業だよね。場所を教えるだけで、勝手に爆弾を届けに行くような、そんな単純なもんじゃねーだろーしなー。でも、何らかのつながりはあると見るべきだよね。でなけりゃ、ずっと地下にいたはずのブラウンが、高級マンションの最上階に誰が住んでるなんて、知るはずがないからね。それをブラウンに教えたのは、ハンス。その点だけは、たぶん間違いないはずだぜー」
いつもの陽気なハスキーボイスで(さすがに少し抑え気味ではあったけれど)、そう説明してくれる。
そしてガブリエルの方をちらりと見て、
「いっこ質問。そのKからの断りのメールを入れた後、ハンスから返事はあったの」
「うん。ボクが「ごめん、Kは急用ができて今日は行けなくなった」ってメールをしたら、すぐに返信があったよ。「承知しました。またの機会を楽しみにしております」だってさ」
「その時は、もう約束の時間になってたんだっけ。少し過ぎてたって云ったか。じゃあ、待ってたところへメールが来て、だからすぐ返信した、って事なら別におかしくはねーな」
Lの云う、その通りだと思う。
承知しました。またの機会を楽しみにしております
その返信内容も、いつものハンスらしい、当たり障りのないものだ。
むむ、とLが青い眼を上げて、僕を見る。
「じゃあKは、がぶちゃんの思いつきには、やっぱり賛同しかねるって感じか?」
賛同しかねる
そこまで否定的ではない、けれど。
少なくとも、僕も以前よりは、ハンスに対して不信感のようなものは感じてる。
けれど、正直に云えば、「そこまでするかな」というのが、僕の感想だった。
僕をキクヒコさんに合わせたくない
ただそれだけの理由で、マンションの窓を爆破する?
いや、爆破まで指示したのかどうか、それができるのかどうかもわからないにしても、そんな危険な爆弾魔を、マンションに向かわせる?
キクヒコさんに合わせたくないだけなら、ただのメールひとつで済むはず。
約束しておいて、当日になって「急用ができました」とキャンセルするとか、最初から「忙しいので」と約束すらしなければいいのでは。
そもそも、何故僕をキクヒコさんに会わせたくないの、というのが、まず不審ではあるのだけれど。
あの研究棟から、慌ただしくまるで逃げるようにキクヒコさんを連れ去って、その上、会わせない。
それは、何か後ろめたい事があるから、なんじゃないのだろうか。
僕がそんな風に思ってしまうのは、ルナやみんなの協力のおかげで、キクヒコさんの記憶の梯子が修復され、「海」とのつながりも戻ったはず、それを知ってるから、なのだろうけれど。
だから、なのかな、とも思う。
記憶が戻ったキクヒコさんを、僕らと会わせないため?
でも、どうして?
「うん、わかる。ぐるぐるしちゃうよなー」
Lが困った顔で苦笑してる。
ぐるぐる
僕もまだ、冷静になれないのかもしれない。
ハナの悲鳴が、ずっと耳の奥から離れない。
「いやあ、そりゃあ」
Lが腕組みを解いて、ふわふわの金髪をばさばさかき回して、
「無理もねーって。だって、爆弾だぞ?フツーの小学生が、フツーに冷静でいられるレベル超えちゃってるからねー」
大袈裟なため息をついてる。
「しかもKにとっては、ハナちゃんの悲鳴もキツイよね。あんなの、目の前で、どうしたらいいか」
ガブリエルが労わるような眼で僕を見て、また拳をぎゅっと握りしめて、唇に押し当ててる。
「ルナチャンの想像通り、あいつは放火魔でもあった、って事なんだろーな」
ずっと冷静さを保とうとしてくれてたLだったけれど、ハナの悲鳴を思い出してしまったのかな。「くっ」と悔しげにうめいて、黙り込んでしまった。
また重い静寂が、テラスに満ちる。
やさしいはずのオレンジの海の波音も、今日はどこか遠慮がちに、遠く聞こえる気がする。
思考は、結論の出ない妄想ばかりを追いかけて、ぐるぐると同じところを巡ってる。
どうして、ブラウンは、どうして、ハンスは、どうして・・・