ガブリエルからハンスのメールアドレスと電話番号を教えてもらったものの、さてどうしたものかなと僕は少し、いやかなり迷ってた。
日曜の間じゅう、スマホを見る度にずっと思い悩んで、結局メールも電話もできなかった。
云い訳をするわけではないけれど、僕ひとりが勝手に意を決して好きなタイミングで出掛ければいいというものでもない、よね。
ハンスの都合を確かめるのはもちろん、一緒に行くJやN、それからゲンゴロウ先生のスケジュールも確認して、みんなが揃う日時を見計らわないといけないし。
いや、やっぱりそれは云い訳かな。
そんな理由をこじつけて何の行動も起こせずにいたのは、やっぱり僕の心のどこかに、ハンスを避けたい気持ちが少なからずあったから、なのかもしれない。
月曜日、ルナはハナを連れて、ホテルから元気に登校してた。
「ママもお仕事に出かけたよー」
との事だったので、母もどうやら、普段通り出勤しているらしい。
「ホテルのご飯、おいしくてねー。るな、太っちゃうかもしれないよー」
困った顔で、でも幸せそうにルナは笑ってた。
慣れないホテルでの暮らしを、それでも3人がどうやら楽しみながら過ごせているようで、少しホッとした。
教室では、リバーフロントビルの爆破事件がみんなの話題になっていた。
たぶん、僕らのクラスだけではなく、学校中、いや街中が今日はまだその話でもちきりになってた事だろう。
それはまあ、そうだよね。新聞の号外が出るくらいの大事件なのだし。
僕も見たけれど、昨日のテレビやインターネットのニュースでもわりと大きく報じられていた。
けれど、消された認識が影響しているのか、ルナやハナ、それに僕が事件の関係者(と云うか被害者)だとは誰にも気づかれていないみたいだった。
新聞やニュースでも、被害に遭ったルリおばさんの部屋の事は「マンションの一室」としか報じられていなかったし、被害者についての詳細な情報も一切出されていなかった。
それが、認識の喪失のせいなのか、カムパニーが情報を表に出さないようマスコミに圧力をかけてくれているのか、どちらなのかはわからない。あるいは両方、なのかもしれないけれど。
「まあSNSでは、うさんくさいにわか専門家みたいなやつがわいて出て、「写真から爆破現場を特定!」とかいろいろやってるけどねー」
放課後、いつもの公園でハナのためにゆるゆると電車ブランコをこぎながら、Lがあきれたような顔でそう教えてくれて、
「え、それってだいじょうぶなの」
ルリおばさんの部屋だって事が、わかっちゃうんじゃないのかなと思って尋ねたら、
「いやあ、今どき、マンションに表札が出てるわけもなし、わかんないよねー。個人情報保護ってやつだね。騒いでるのは、テキトーなコト云って「いいね!」を稼ぎたいだけの連中じゃね。23階って云い当ててるやつもたまにいたけど、住んでるのはカムパニー幹部の外国人夫妻だとか、芸能人のナントカが別荘として借りてる部屋だとか、それどこで聞いたのって話ばっかりだったぜー」
はっはー、とLはあまり楽しくはなさそうだったけれど、軽く笑い飛ばしてた。
SNSって、そんな感じなんだ。僕は使った事もないし見た事もないので、よくわからないけれど。
「うん。まあ、騒がれるのも1日2日くらいだろうね。すぐにまた違う話題に飛びついて、別の大騒ぎを始めるんだと思うよ」
Lの制服を着たガブリエルが隣で淡々とそう説明してくれて、僕はホッと息をつく。
「いっそ、「犯人はシロヌリだ」みたいなのが出てくりゃ、面白かったんだけどなー」
ちっとも面白くはなさそうな顔で、Lが云う。
「残念ながら、その手の噂はひとつもなかったねー。「シロヌリ」の認識は消されてないはずだから、もしかしたら、って思ってたんだけどなー」
ピエロ面を被った不審者がどこかで目撃されて、って事?
確かに、清掃作業用のゴンドラに乗るために、ブラウンがあのビルに侵入したのだとしたら、どこかで人の目に触れた可能性はあるのかもしれない。いやむしろ、誰にも見られることなく、24階のホテルロビーの外側にあるゴンドラ操作用のクレーンにまでたどり着くのは、不可能なんじゃないかと思う。
だとしたら、ビルの監視カメラにその姿が映ってた、とかもありそうなものだけれど。
「まあそれも含めて、カムパニーが情報の流出を抑え込んでるって可能性もあるけどなー」
Lは肩をすくめて、
「それか、やっぱりあいつが「輪」で直接ゴンドラの上に飛ばしたんじゃね、ブラウンと爆弾を」
どこかなげやりに云うのも、わからなくはない、かな。
あくまで可能性として、だけれど。
ハンスがそれをするかどうかは、ともかく。
ベンチでNを抱いて、Jとクロちゃんと何やら楽しそうにおしゃべりしていたルナが、
「あ、「聞こえた」。ちょっとー、噂をすればだよー」
眉間にしわを寄せて、渋い顔でぴこんと人差し指を立ててる。
聞こえた
噂をすれば?
まさか、と思う間もなく、公園の真ん中、ベンチの前辺りにふわりと白く光る「輪」が現れる。
次の瞬間、車椅子に乗ったハンスが、そこにいた。
「ああ、やはりこちらでしたか。皆さんお揃いで」
仰々しく体を折り曲げて、いつも通り車椅子の上で大袈裟なお辞儀をしてる。
反射的に、僕は電車ブランコから飛び下りて、ベンチのルナとJに駆け寄ってた。
ナガヌマが動いてくれた、わけではなくて、たぶん、僕の意志で。
ハンスはその場で、僕らひとりひとりを確かめるように、まじまじと見渡して、
「どうやら皆さんご無事なようですね。ああ、安心しました」
はあ、と芝居がかった大きなため息をついて、機械の左手で胸をなで下ろしてる。
Nを抱いて後ろへ下がるルナと入れ替わるように、僕は一歩前に出て、
「ハンス、一昨日は、急にごめんなさい」
云いかけると、ハンスがスッと右手を上げて、
「事情は聞き及んでおります、親愛なるK。実は昨日、カムパニーの緊急会合がありましてね。もちろん、議題は一昨日の爆破事件について、です。驚きました、まさか、あのキリノルリさんが、ぼくと同じマンションにお住まいだったとは。しかも、あのホテルのオーナーでいらしたなど、つゆ知らず。こちらこそ、たいへん失礼いたしました」
そう云って、頭を下げられてしまうと、困ってしまう。
こっちだって、それをハンスに内緒にしていた、という後ろめたさも少しあるので。
けれど、違うよね。ここでそれを謝ったりしたら、それこそ「内緒にしてた」と認めるようなものだ。
首にかけてたゴーグルをさりげなく嵌めて、
「じゃあハンス、事件の事は、知ってるの」
どこまで、という言葉を飲み込んで、僕は尋ねる。
「はい。ルリさんが大学病院に入院されている事、そして、彼女と一緒に救急車で運ばれた子供たちの事も、全て聞いています。親愛なるK、それであなたは、あの日、ぼくの所へ来られなくなったのですね」
あっさりと彼がそう認めるのは、少し拍子抜けのような気がした。
それもハンスらしいと云えば、すごくハンスらしいのだけれど。
「事ここに及んではの。下手にとぼけるより、認める方が話は早いと踏んだか」
声にちらりと「海」を振り返ると、いつもの席にナナがふわりと現れたところだった。
ぱちんと指を鳴らしたつもりで、お茶と僕の視界の窓をテーブルに出す。
「犯人は」
かちかちと奇妙なゴーグルのレンズを回しながら、ハンスが僕を見て、
「やはり、ブラウン、なのでしょうか」
苦々し気に云うのは、質問ではなく確認、かな。
「どうしてそう思うの」
自然に僕はそう尋ねる。単純にそれは、疑問だったから。
やはり目撃されていてカムパニーは既にその人物像まで把握しているのか、それとも別の理由でか。
ゴーグルを嵌めていたけれど、僕の表情にそれは現れていたらしい。
「お察しの通りです」
ハンスはそう前置きして、
「ピエロの面を被った不審な人物が、リバーフロントビル周辺で目撃され、館内の防犯カメラにもそれらしき人物が映っていました。カムパニーは容疑者として、あの男の行方を追っています」
「カムパニーが?警察が、ではなく?」
いつの間にか、電車ブランコを降りたガブリエルが僕の後ろ、ルナの隣にいて、ハンスに尋ねる。
横目で振り返ると、Lはまだハナのために電車ブランコをこぎ続けてくれてた。
もちろん「海」経由で、僕らの会話は全て聞いてるのだろうけれど。
「無論、警察に全ての情報を提供した上で、ですよ、ガブリエル坊ちゃま」
ハンスは大きくうなずいて、
「カムパニーの所有するビルで、ホテルオーナーの部屋を狙った爆破事件です。世界規模の複合企業体としては、見過ごす事の出来ない一大事でしょう。ここで対応を誤れば、テロリストどもに恰好の標的と見做され、第2第3の模倣犯を世界各地で呼び起こしかねませんから」
壊れたラジオのようなひび割れた声で、淡々と説明する。
僕はあらためて、思っていた以上の事件の規模の大きさに、あっけにとられるような思いで聞いてた。
ハンスは少し表情をゆるめて、
「そう心配しないでください、親愛なるK。ブラウンの事は、警察とカムパニーに任せておきましょう。あの男が何を考え、どこに潜んでいるのかはわかりませんが、近いうちに身柄を拘束されるか、少なくとも、これほど警戒されていては、もう二度とこの街であのような騒ぎは起こせないでしょうから」
やわらかな笑みさえ浮かべて見せるハンスが、あのブラウンと結託しているとは、やっぱり僕には思えない。
その眼は、相変わらず分厚いゴーグルのレンズに遮られて、どんな表情を浮かべているのかまではわからないけれど。
「ともあれ、皆さんがご無事だったのは不幸中の幸いでした。ルリさんも、入院が必要とは云え、聴力に障害が残るような事は、ないのですよね」
くるりと電車ブランコと、僕の後ろのベンチにいるルナとJ、その脇に立つガブリエルを見渡して、ハンスはホッとしたように云う。
当日、非常ベルやサイレンで事件が起きた事は知っていて、昨日、カムパニーの緊急会議でその詳細を知った。そして今日、月曜の午後は僕らがこの公園にいるはずと思い、様子を聞きに来た、という事なのだろう。
どこにも不自然さはないし、おかしな点も見当たらない。普通の反応で、普通の対応だ。普通過ぎるくらい、普通の。
「それで、親愛なるK」
あらたまった様子で、足の上で軽く手を組みながら、ハンスは僕を見て、
「先日のご来訪の目的は、キクヒコの件、だったでしょうか」
尋ねるので、僕はうなずいて、
「うん。どんな様子かなと思って。もう精密検査は終わったの」
一番気になっていた事を尋ねる。
ハンスはうなずいて、
「はい。体の方は、全く問題ありません。体温がやや低く、心拍、脈拍ともやや少なめですが、異常というほどではありません。状態としてはアニーに特有の「あの眠り」とほとんど同じです」
淡々とまるでお医者さんのように、云う。
彼も医学博士、なのかな。だとしたら、お医者さんのよう、どころか、そのものなのかもしれない。
「ただ」
そう云ってハンスは言葉を切り、組んだ指先を組み替えて、
「キクヒコの意識、アルカナは体の中にいないようです。何故かは、ぼくにはわかりません。体に問題はなく、意識体が「いない」、その理由が思い当たりません」
首をかしげて、探るように僕を見ている(ような気がする。ゴーグル越しの眼は見えないので、どこを見ているのかは厳密にはわからないけれど)。
体は、アニー特有の「あの眠り」に近い状態。にもかかわらず、意識体であるアルカナがその体の中にいない。
僕らはそう聞けば、「じゃあ、どこかの動物の中にいるのでは」と思ってしまうけれど、それは「キクタ」と「4人の子供たち」だけの特例だ。普通のアニーは、あの眠りの間、意識体も体の中で眠っている。
だから、ハンスの反応は、正しい。
やっぱり彼は、僕らが動物の体に意識を移せる事を知らない。何故ならそれは「キクタ」独自の発明で、ベースの研究データにも記されていない事だから。
キクヒコさんがNの中にいた事があるのは、彼が「輪」の能力で意識体だけをNの体の中へ飛ばしていたから、なのだけれど、それが元々できた事なのかはわからない。
あの時、地下の落盤から「飛んで」逃げた際に、最後は力が暴走したような状態になっていたので、もしかしたらそのせいで、偶然できた事だったのかもしれない。
いや、でも、ブランシュは、「あいつは、(理由は省くが)ノワールの中にしか飛べないぞ」とはっきり云ってた。
だとすると、ブランシュは、キクヒコさんがNの中に飛べる事、いた事があるのは知ってた事になるので、あの落盤の時に偶然できたのではなく、前からそれができる事はわかっていたのか。
僕が何も答えなかったからかな、ハンスは腕組みをして、
「あるいはもしかすると、彼が子供の頃に受けた改造に、何か原因があるのかもしれませんが」
ふむ、と首をひねってる。
能力のコントロールが効かず、暴走するように飛び回っている、そう聞いた時に、確かに僕もそれを疑った事はあった。ブラウンによる、遺伝子改造。その副作用か何かが、今ごろになって出ているのかも、と。
もうひとつ、原因として疑わしいのは、ヌガノマの毒、だけれど。
それもおそらく、ハンスは知らないはず。
「とにかく一度、お見舞いに行きたいと思って。それで、訪問の約束をしたんだよ」
ガブリエルがメールで伝えてくれていたはずだったけれど、あらためて、僕は僕自身の口でそうハンスに云う。
その言葉を、ハンスは待っていたのかもしれない。
いや、それは後になってそう思った、というだけの事で、その時には、思う間もなかったのだけれど。
「お見舞いに、なるほどそういう事でしたか。でしたら早速、行きましょうか」
スッと腕組みを解いて、ハンスは笑みを浮かべたまま、人差し指を立てる。
早速、って今すぐ?
尋ねる間もなく、僕とハンスを囲うように、足元に光る「輪」が現れて、体がふわりと浮かぶ。
「え、ちょっとー」
ルナの驚いた声が聞こえて、反射的に振り返る僕の肩越しに、黒い影が飛んで来て、思わず受け止める。Nだった。
次の瞬間には、僕はハンスの応接室に立ってた。片腕に、Nを抱いて。
以前、ナナとふたりで通された広い応接室、だけれど、ソファセットは片付けられていて、代わりに青白い光を放つ軍の生命維持装置が部屋の真ん中に置かれていた。
「おいおい、穏やかじゃないね」
「海」でLの声が云って、基地のドアからひらりとテラスに飛び下りてる。
視界の窓は、ナナのために出してあるので、こっちの様子は、見えるよね。
「最初からそのつもりだったのであろ。全員を、ではなく、おぬしだけを連れて行き、小僧に会わせる。如何にも、あやつの考えそうな手じゃの」
ふん、とナナは面白くなさそうに、鼻でため息をついてる。
とっさにハンスのその行動を見抜いて、僕の所へ飛んで来たNは、さすがだね。
そっとあごの下をなでたら、Nは無言で僕を見上げて、ぺろりと鼻をなめてた。
それにしても、この状況、あの時に似てる、僕はそう感じてた。
ハンスが研究棟から、生命維持装置ごとキクヒコさんを「輪」で飛ばした、あの時。
有無を云わせず、考える暇も与えずに、飛ばす。
「あーね、同じ手だなー」
Lが悔しそうに云うと、テラスの上で、レースのカーテンがふわりと揺れて、
「でも、そうそう思い通りにばかりは行かないみたいだねえ」
テラスに降りて来たガブリエルがくすくす笑ってるのは、何だろう。
「何だろうって?うちには跳ねっ返りの姫様がいるからねえ」
その言葉が終わらないうちに、僕の隣に光る「輪」が現れて、ふてくされた顔のルナと、何故かJまで姿を現すので、びっくりした。
ルナは「ハンスの部屋」へは来た事がないはずなので、「僕」を追って、飛んだのだろうけれど。
「何でなの」
思わず尋ねてしまったら、ルナがふてくされた顔のまま、
「何でって、るなは別に来たくなかったけどー。Jも一緒にお見舞いに行くって話だったでしょー」
そう云って、僕の脇腹をふわりとチョップしながら、ぐいっと僕の手にスマホを押し付けるのは、そっか、ゲンゴロウ先生?
受け取って、ストラップを首にかける。画面は真っ暗だけれど、カメラさえ向けていれば先生にも見えてるはず。
「おや、これはこれは。姫様が、王子を追って来られたのですね」
ハンスは車椅子の上で大袈裟に両手を広げて、けれど歓迎を表わすみたいに、その手を胸に当ててみせる。驚いたような顔をしてるけれど、それはたぶん、演技かな。それほど驚いてはいないように見えた。
「おじゃまします」
Jはいつものように、律儀にぺこりと頭を下げてた。表情は、少し堅いみたいだけれど。
「ようこそ。狭苦しいところで申し訳ありません」
にっこりと微笑んでハンスはJに頭を下げてる。応接室は、決して狭苦しくはないけれど。
ルリおばさんの家の広いリビングに比べたら、さすがに半分以下ではあるけれど、それでも広い。狭く感じてしまうのは、部屋の真ん中に鎮座する、生命維持装置が大きいからだ。
「先程も申しました通り、キクヒコの体には、特に何の問題もありません。それでも装置の電源を入れたままにしているのは、あくまで念のためです。せっかく工事して、業務用電源を引きましたのでね」
工事して、業務用電源を、なんて恩着せがましく云ってるようにも聞こえるけれど、まさかね。
ハンスがそんな事で、僕らに恩を着せようだなんて、思ったりはしないだろう。
どうぞ、という風にハンスが車椅子を後ろに下げて、機械の左手で生命維持装置を差してる。
僕は右手にNを抱いて、首からルナのスマホを提げて、装置に近づく。
ルナも拗ねたような顔のまま、僕の左横に並んでる。
制服の胸にとまらせてたおーちゃんは、誰かに預けて来たのだろう。さすがにつけてなかった。
「あー大丈夫、ルナチャンが「飛ぶ」前にランドセルに入れて、がぶちゃんに渡して行ったからねー。今は、電車ブランコでハナチャンが抱えてくれてるよ」
テラスでLがそう説明してくれて、僕は心の中でホッと息をつく。
Jが僕の右横に並んで、3人で生命維持装置をのぞき込む。
あの記憶の時と同じ、白衣姿のキクヒコさんは、固く眼を閉じて、眠っていた。
こうして近くで見ると、確かにハンスに良く似てる。当たり前なのかもしれないけれど。
装置は透明なガラスの蓋が閉まっているので、キクヒコさんに触れる事はできない。
このままでは、Nが触れるのは無理だ。
開けてほしいと云ったら、ハンスは開けてくれるのだろうか。
「よしんば開けてくれたとして、ネコに触れさせるでしょうか」
Nが云うのも、もっともかもしれない。彼が医者ならば尚の事。それ以前に、何か理由をつけて、開けてくれないかもしれないけれど。
ダメ元で、聞いてみようと思い、
「あの、ハンス、この蓋・・・」
云いかけた時、ブーンとスマホが振動して、装置のガラスの蓋にこつんと触れた。
ルナのスマホ、メールか何かの着信かな、と見下ろすけれど、画面は暗いままで。
何だろう、と隣のルナを見たら、ルナが僕の腕を掴んで、
「見て、キクヒコが」
囁くように云うのと、ほぼ同時に、
「く・・・」
装置の中の、キクヒコさんがうめいた。
眼は閉じたまま、だけれど、眉間にしわを寄せて、身をよじるように、わずかに体を捻ってる。
意識が、戻ったの。
「キクヒコ?!」
ルナが声を上げ、ガラスの蓋を手のひらで叩く。
「ハンス、蓋を開けて。キクヒコさんが・・・」
云いかけると、ハンスは装置に車椅子を寄せて、
「開きます、離れて」
装置のパネルを操作しながら、云う。
僕は半歩後ろに下がって、まだ蓋に張り付いてるルナの腕を引く。
ドーム型のガラスの蓋が、頭側を支点にしてゆっくりと開いていく。
開きかけの蓋をくぐるように、ルナが装置ににじり寄って、キクヒコさんの肩を揺する。
「キクヒコ!起きたの?眼を開けて、返事して」
揺すぶられたキクヒコさんの口から、ため息のような声がもれる。
眉間のしわが消えて、全身の力が抜けたように、ぐったりとして、体はもう動かない。
「キクヒコさん!」
僕も装置の中のキクヒコさんに覆いかぶさるように近づいて、腕に抱いたNが彼の肩口に触れるように前かがみになる、けれど。
「キクヒコ、聞こえますか。聞こえたら返事を。キクヒコ」
Nの呼びかける声が、オレンジの海に響く。
声は届いてる、はず、だけれど。
キクヒコさんからの返事はなく、体も、もうぴくりとも動かなかった。
ハンスが装置の向こう側へ回って、車椅子から立ち上がり、キクヒコさんの右腕の脈を取る。
そっと右手で彼の右の瞼を開いて、左手でペンライトの光を斜めに当てる。
「眠っています。あの「眠り」です」
淡々と、ハンスはそう告げて、車椅子に座り、こちら側へ戻って来る。
そしてパネルを操作すると、装置のガラスの蓋を閉じた。
ただ呆然と、装置の中のキクヒコさんを見つめる僕らに、
「今のは、何でしょうか」
壊れたスピーカーから響くようなハンスの声が問いかける。
そのハンス自身も、どこかぼんやりと、物思いに沈むよう。
今のは、何、とは
どういう意味だろう。
「こっちが聞きたいんだけど」
ふくれっつらのルナが、赤い眼でハンスをにらんでる。
今のは
ほんのわずかな時間ではあったけれど、キクヒコさんの意識が戻った。そう見えた。
かすかなうめき声、そして顔をしかめて、身を捩るように体を動かしてた。
でも、
「彼は答えませんでした。ワタシが触れた時、すでにあの体の中に、彼の意識の存在を、ワタシは感じませんでした」
淡々と、心の声でNが云う。
「でも!」
ルナの悲鳴のような声が、オレンジの海に響く。
「喋ったし、動いたよ!キクタも見たでしょ?」
見たし、僕にも聞こえた。
腕組みをしたLが、じっと僕の視界の窓を見つめて、
「キクヒコの意識が戻りかけた、けど、戻れなかった。あいつが何かした、ってわけでもなさそーだな。見ろよ、あの顔」
云われて、ハンスを見る。
彼は口元を歪め、俯いて、けれど視線は動かしているらしい。かちゃかちゃと忙しく、ゴーグルのレンズが切り替わっている。何を見てるのだろう。
はっと小さく、ハンスが息を吸い込むのが聞こえた。まるで、何かに気づいたみたいに。あるいは、探していた何かを見つけたみたいに?
ぎこちない動きで顔を上げて、口元に奇妙な微笑を浮かべてから、ハンスは口を開いて、
「その黒ネコは、あなたの?」
おもむろに、そう尋ねる。
僕に聞いているのだろう、けれど。
「そーだけど」
赤い眼を細めて、ルナが答える。それがどーしたの、みたいな顔で。
作り笑いを貼り付けたままの顔で、ハンスは余裕を見せるみたいに少し上を見上げて、
「かの「キクタ」は、自身の意識を動物の中へ移す事ができたそうですね。それにより「眠り」の間も、動物の体で動き回る事が出来たのだとか?」
どうしてそれを。
さっき何かに気づいた風だったのは、それなの。
「ふぅん、そーなのー?何でハンスちゃんが、そんなコト知ってるのー?」
赤い眼をまんまるにして、ルナがいつもの調子で歌うように尋ねるので、ハッとした。
そう、ハンスがそれを知るはずはない。カマをかけたんだ。
ルナはとっさに、それに気づいたの。やっぱり、この子、すごいな。
ハンスは、ぎこちなく首を左右に振りながら、顔は奇妙な笑みで固まったまま、
「いいえ、知っている、という程ではありません。単なる噂です。「数多を聞くもの」のような」
肩をすくめるように手を広げる、けれど。
単なる噂
数多を聞く者?
「ハッタリじゃ。吞まれるなよ」
短くナナが云う。
うん、僕もそう思う。
「数多を聞く者?それは、「噂」ではなくて、ナガヌマがかつて博士に話した事、だよね」
だとしたら、余計に違う。例え話としても、おかしい。
ナガヌマこそ「キクタ」が動物に意識を移せる事を知るはずはなく、それを博士に話すはずがないのだから。
ハンスはいつものように、大袈裟に両手を広げて、
「ええ、そうですね。ぼくがこの耳で直接聞いた訳ではない、という意味では、それも「噂」のようなものでしょう」
苦しい云い訳のようにそう云って、すっと顔をそむけて、じっと装置の中のキクヒコさんを見下ろしてる。
「ははあ」
Lがニヤリと不敵に笑って、
「やっぱり、キクヒコの意識が戻ってたんだ、ほんの数秒、だけどね。それはあいつにも想定外だった。で、タイミング的に、Kが何かしたと思ったんだろ。だから、カマをかけた。Kがわざわざこの場に連れて来たネコチャンに、キクヒコの意識が入ってたのかも、って思ったんだろーね。いやあ、その発想は、悪くないよね。さすが、イイ線いってる。残念ながら、ハズレだけど」
そう聞いて、ヒヤッとした。
ルナがいなかったら、僕は普通にうなずいてたかもしれない。
そうだよ、よく知ってるね、それがどうかしたの
そんな風に答えてたかも。
「だとしても、ハズレはハズレだけどね。ひとつわかったのは、キクヒコの意識は間違いなくどっかにいる。どこにいるのかはわかんねーけど、それをあいつも知らないってコトだね」
Lの説明に、ホッとしたのは、キクヒコさんの意識が無事だというのがわかった事、そしてそれを、ハンスがどうにかしてるわけじゃないのがわかった事、だったから、かもしれない。
難しい顔であごに手を当てていたガブリエルが、ハッと顔を上げて、
「待って、またひとつ、嫌なコト思いついちゃったかもしれない」
困ったように右手を上げて、
「ハンスの能力は「輪」だけれど、もうひとつ、「渦」も使えるはずだよね」
確認するように、僕の視界の窓を見る。
ハンスのアルカナは、モニカが偶然に作り出した人造アルカナのプロトタイプで、元になっているのは、モニカA-0のレジデュ。だから、「渦」も使えるはず。
実際に、あのパーティ会場で僕の意識を「渦」で引き込んだのは、ハンスだ。(ハンス曰く、「あれはドーリーの能力」との事だったけれど、それは嘘。モニカであるドーリーが、キクタである僕にあんな事をするはずはない)
「だとしたら、さっきキクヒコの体に戻った意識を、「渦」で引っ張り出す事もできる、よね。何のためかは、わからないけれど」
自分で云った思い付きが信じられないみたいに、ガブリエルは呆然としてる。
できる・できない、の可能性の話で云えば、できる、のだろうか。
ハンスの視点で云うなら、体には何の問題もなく、ただ意識が中にいない状態のキクヒコさんの元へ、黒ネコを連れた僕がやって来た。そして装置の蓋を開け、近づいたらキクヒコさんに意識が戻りかけた。(いや、実際には、装置の蓋が開く前に、キクヒコさんに意識が戻りかけた、のだけれど)
だから慌てて、「渦」の能力でキクヒコさんの体から、彼の意識を追い出した、という事?
何のために?かはわからないけれど、できる・できない、で云えば、できる、はず。
「何のためかは、まあ、今キクヒコに目を覚まされると困る何かが、あいつにはあるんだろーね。何だかしらねーけど」
Lが云う通り、なのだとすると、ハンスが今日、僕をここへ連れて来た理由も見えて来る。かもしれない。
「キクヒコの意識、アルカナは体の中にいない」
ハンスは公園でそう云った。
それを僕に見せるため、なのだとしたら。
ほら、ぼくの云った通りでしょう、彼の中には意識がいない
そう云い切るため、僕にそう思わせるためには、キクヒコさんが今、眼を覚ましては困る、のだろう。
何のために、そんな回りくどい事をするのかまでは、僕にはわからないけれど。
そのハンスのシナリオが、崩れた。キクヒコさんが、一瞬でも眼を覚ましかけた事によって。
だから彼は、とっさに「渦」の力を使って、キクヒコさんの意識を体から追い出したの?
あくまで想像、可能性で云えば、という話だけれど。
はあ、と大袈裟なため息をついて、肩をすくめたハンスが顔を上げて、
「やはりかつての、無理な遺伝子の改造が原因、なのでしょうか。だとしたら余計に、ブラウンの逮捕が待ち望まれますね」
力なく微笑むその顔が、演技なのかいつもの芝居がかった彼特有の仕草なのか、僕にはもう、わからない。
彼の云うように、ブラウンを逮捕したら、全てが解決するのだろうか。
キクヒコさんの意識が今どこにいるのか、そしてそれを体に戻す方法が、ブラウンにはわかる、とは思えない。
体に意識がいない原因、戻る事が出来ない原因が、ブラウンの遺伝子改造によるものかもしれない。そこまでは、わからない事もないけれど。
あのブラウンが全ての原因を知っていて、その対処法もわかっていて、さらにそれを素直に僕らに教えてくれるとでも、云うのだろうか。そんなはずがない、よね。
「ふぅん」
同意とも肯定とも取れるような、あるいはただの相槌のような、いつもの返事をルナがして、まっすぐにハンスを見つめていた赤い眼を、僕に向ける。
「ねー、キクタ、あの話ー」
どこまでもマイペースな、のんびりとした口調で僕に云う。
あの話
「揺り籠」の事、だよね。
心の声で尋ねたら、ルナは赤い眼でうなずく。
今それを云い出すのは、いささか唐突ではあるけれど。
でも、ハンスと直接会って話せる機会が、次はいつになるかわからない。
タイミングも何も、今しか云えるチャンスはないのかもしれない。
「ハンス、ひとつお願いがあるんだけれど」
そう、僕はハンスを見て、口を開く。
僕のゴーグル越しの視界には、微笑みを浮かべるハンスと、彼の頭上の透明の「泡」が見えてる。
「何でしょう。親愛なるK、ぼくにできる事であれば、何なりと」
機械の左手を胸に当てて、ハンスは小さくうなずく。
それは、いつものハンス。僕が知る、アルカナ全体の平穏を願い、博士を父と慕う、あのハンス、のはずだ。
意を決して、すっと大きく息を吸い込んで、口を開く。
「ラボにある「揺り籠」、ロリポリの腹部を、ベースのロリポリ本体の所へ、あなたの「輪」で、飛ばす事はできないかな」
ゆっくりと一言ずつ噛み締めるように、けれど僕は一息に云う。まっすぐに、ハンスの眼の見えない、分厚く重なった丸いゴーグルのレンズを見つめて。
「ほう」
驚いたようにつぶやいたハンスは、思案するように右手をあごに当てて、少し首をひねる。
意外な申し出、だったのだろうか。そんな風に見える。あるいはそれも、演技なのかもしれないけれど。
「まさかとは思いますが、親愛なるK」
あごに手を当てたまま、少しだけ顔を上げて、僕の方を向いて、
「あなたは、ロリポリを修復したいと、そうお考えなのでしょうか」
勿体つけるみたいに、ゆっくりとそう尋ねる。
その聞き方に、批判的な響きはなくて、子供じみた僕の考えを揶揄うようでもない、そんな気がした。
どちらかと云えば、感心したような、どこか面白がるような楽しげな声、だったように思う。
「うん」
だから迷いなく、僕はうなずいてた。
それは事実だし、そこには何の後ろめたさもないから。
ロリポリを治したい。それは文字通り、ただそれだけの、僕の希望だ。
「まっすぐに、うなずかれるのですね。さすが、「キクタ」の名を継ぐ方、と云ったところでしょうか」
満足げに、にっこりと微笑んで、
「なるほど、ロリポリの腹部には、今も御子の「核」が入っています。本体の元へ飛ばせば、「核」の生かそうとする機能が作動して、修復は成されるはず。そうお考えなのですね」
ふむふむとゆっくりうなずきながら、ハンスは淡々と云う。冷静なその口調は、本当に学者かお医者さんのよう。
でも、と僕はもう一度、口を開く。もうひとつ、どうしても聞かなきゃいけない事、
「ただ、あの「揺り籠」の中にはあなたのお父さん、「博士」がいるよね。だから、もし、どうしてもあなたが嫌なら・・・」
云い淀む僕に、ハンスは微笑みながら、
「諦めるのですか」
今度は少し、揶揄うような響き。
「いえ、すみません。あなたの純粋なまっすぐさが眩しくて、つい、意地悪を云ってしまいました」
ふふ、と小さく自嘲するようにハンスは眼をそらす。
そしてもう一度顔を上げ、まっすぐに僕を見て、きっぱりと
「父の事は、どうぞお気になさらず。彼は「揺り籠」と添い遂げる事を望んでいます。とうの昔に、もう覚悟を決めているのです。それは、実際に父に会い、その手に触れたあなたにもおわかりでしょう」
少しだけ寂しげな表情で云う。
それは、そう。博士の意志は、僕も感じてた。
けれど、息子であるハンスの気持ちは、それとはまた別のものだ。それを無視する事なんて、できない、よね。
「あなたのやさしいお気遣いに、感謝いたします。親愛なるK」
ハンスはそう云って胸に手を当て、深々と頭を下げる。
再び顔を上げた彼は、
「現実的な話をしましょう」
そう云って、口調をあらためて、
「まず、「揺り籠」をぼくの「輪」で飛ばす事、それ自体は、可能です。無論、やった事はありません。ですが、感覚的にわかります。この生命維持装置を「輪」で飛ばす事が出来たのと同じです。「揺り籠」も飛ばせる。それが、ぼくにはわかるのです」
自信たっぷりに大きくうなずいて、ハンスは続ける。
「あなたのそのご提案は、今のぼくにとって願ってもない事です。理由は、先程のブラウンの件です。警察、及びカムパニーの捜査部(エージェント、などと社内では呼称されているようですが)、彼らが本気でブラウンを追うとなれば、当然、いずれは地下にもその捜査の手が及ぶ事になるでしょう。それもそう遠くないうちに、です。数週間か、もしかすると数日のうち、かもしれません。認識を消されているとは云え、万が一にも、ラボが彼らに発見されるような事があれば、どうなるか。正直に云えば、ぼくには想像がつきません。認識されず、そのまま見過ごされれば良いのですが、不確実なその可能性に甘んじてすがるわけにもいきません。であればこそ、あなたの申し出は、まさに天の助け、渡りに船なのです」
大袈裟に両手を広げて、云う。
「ほほう、そう来たか」
Lがニヤリと笑って、食い入るように視界の窓を見る。
ハンスの云い分は、わからなくはない、けれど。
でも、少し大袈裟かな、とは思う。
僕がそれを云い出さなくても、そこまでわかっているのなら、ハンスは捜査の手が及ぶ前に、ラボをどうにかするつもりだったはず、だよね。
ごく近いうちに、警察やカムパニーの捜査が地下に及ぶ可能性がある以上、隠ぺいするなり、どこか別の場所へ移すなり、何らかの方法をすでに考えていた、のでは。
「だな。そこへおまえが「ベースへ飛ばしてほしい」と云って来た。あいつにしてみりゃ、まさに渡りに船だよ。ただ乗っかればいいんだからね。別の場所を今から探して確保する必要もないし、あれこれ手を尽くして必死に隠し通す必要もない」
ふふん、とLが陽気に笑って、説明してくれる。その通りなのだろう。
認識の喪失が、どこまで影響を及ぼすのかはわからない。それも、ハンスの云う通りに思える。
クヨウケミカルの顧問である彼が、昔の坑道である古い地下道に秘密のラボを持っていた、あるいはそれに深く関与していた。もしもその事実が発覚すれば、彼自身の立場も危ういものになるのかもしれない。
あるいはそこにロリポリの一部である「揺り籠」がある限り、発見されたとしてもその認識は消され、誰にも気づかれる事はないのかもしれない。けれど、絶対にそうなる、という保証もない。
現に、認識を消されたレムナントであるはずのブラウンが、リバーフロントビル爆破事件の容疑者として警察に追われている。認識を消される事なく、だ。
そのブラウンと関わりのある地下のラボ、という事になれば、同様に認識は消されないのかもしれない。
「ぼくはいつでも構いませんよ。何でしたら、今すぐでも」
まるで厄介事でも片付けるような云い方で、ハンスがさらりと云うので、僕は驚く。
いつでも?今すぐでも?
それが、表情に出てしまってたのかもしれない。
ハンスは僕の顔を見て、安心させようとするみたいに、
「もちろん、父にそれを伝える時間くらいは、いただくつもりです。その点は、ご安心を」
微笑んでうなずく。
「それに、今生の別れ、という訳でもありませんよね。「揺り籠」を飛ばしたとて、その後、ぼくがロリポリのホールへ飛べば、そこにまだ父はいるのですから」
壊れたラジオのようなひび割れた声で、ハンスは微笑みを浮かべたまま、淡々と云う。
どう答えるべきだろう、と僕は迷ってしまってた。
いつでも構いません、今すぐでも
そう平然と云い切ったハンスの勢いに、飲まれてしまっていたのかもしれない。
ロリポリのホールへ飛べば
あらためて彼の口からそう云われた事も、響いていた。
「揺り籠」をベースのロリポリのホールへ飛ばす。
それは、以降ハンスが、ベースへ自由に出入りできるようになる事を意味する。
その事は、僕も承知していた、はずだった、けれど。
あそこには、Mがいる。
「もちろん、今すぐじゃなくてもいいよねー。あまり時間はなさそうだから、なるべく早めにだろーけどー」
ルナがいつもののんきな調子で、けれど僕の袖を掴んでぐいっと引っ張りながら、云う。
その手の強さに、ハッとなる。
ありがとう、と心の声でルナにお礼を云って、
「うん、その時には僕らも、ロリポリのホールで「揺り籠」を待てるように準備したいし。だからハンス、日時はまた相談させて」
云い訳みたいにならないように、できるだけ自然に、そう云ったつもりだったけれど、うまくできたかどうかはわからない。
「もちろんです。では、あなたからの連絡をお待ちしましょう」
微笑みを崩さないまま、ハンスはまっすぐに僕を見てそう云った。
けれど、何かを思い出したようにあごに手を当てて、首をかしげる。
「腹部、「揺り籠」はそれで良いとして。親愛なるK、「尾」はどうされるおつもりですか?」
素朴な疑問のように、僕に尋ねる。
「ぼくはまだ実物を見た事がありませんが」
そう前置きするようにハンスは云ってから、
「軍の資料によると、「尾」は5メートル以上、重さも10トン以上あったはずです。しかも、軍用コンテナを改造した生命維持装置に入っている、のですよね。さすがに「輪」では飛ばせませんが」
腕組みをして、思案するような顔になる。
わざわざ「まだ実物を見た事がありませんが」なんて断りを入れるところが、いかにもハンスらしい。
本当にそうなのだとしても、実は見た事があるのでは、と疑いたくもなる、よね。
Lもガブリエルも、事前に研究棟を下見してすでに見てるはず、と推察してたけれど。
「軍の輸送機は無理としても、大型のクレーンやトレーラーが必要になるのでは」
そう口にしたハンスは、何かに思い至ったらしい。
ハッと息を吸い込んで、「もしや」と僕を見る。
「あなたのおじい様、スズキさんですね。なるほど、建設業をされているなら、クレーンもトレーラーもお持ちなのでしょう」
ずばり云い当てられたけれど、その事自体は、別にショックでも何でもなかった。
何が何でもハンスに隠したいという事ではなかったし、子供の僕でも思いつくような事だ。(僕はただ思いついただけで、親分に云われるまで、本当に運べるとは思っていなかったけれど)
「うん。研究棟から、ニュータウンまでの運搬は、そう。祖父が「出来る」と云ってくれてるよ」
うなずいて、僕は云う。
ただ、運ぶだけ、だけれど。
巨大なコンテナに入った「尾」を、ニュータウンの工事現場へ運ぶ。
いまの僕らに、できるのは、そこまで。
地下数十メートルの深さにいるロリポリ本体の所まで、どうやって「尾」を移動させるのか。
そこは全くの白紙状態だった。
「キクタ」が計画していたという、カントリーロード。
その中に、答えはあるのだろうか。
「いいですね」
しみじみと、ハンスが云う。
「いつか、そう遠くない未来に、修復されたロリポリが再び宇宙へ飛び立つ日が、本当に来るのかもしれません」
割れたスピーカーのような声で、淡々とハンスは云う。
その声音は、まじめでとてもまっすぐで、心からその日が来るのを楽しみにしているように、僕には聞こえた。
子供じみた夢だと茶化す事もなく、無理だと頭ごなしに否定する事もなく。
「うん、いつか」
いつになるかは、わからない。カントリーロードの記憶が、本当に見つかるかどうかも。
もしかしたら、Lがアメリカの大学を卒業する方が早いのかもしれない。
でも、いつか、きっと。
そう思ったので、僕はハンスのゴーグルをまっすぐに見て、うなずいてた。
don’t let me down vi
屋根裏ネコのゆううつ III