砂嵐の夢を見た。
ざあざあと耳障りな雑音が鳴り続け、視界は全て、モノクロの砂嵐。
まるで放送を受信できないテレビ画面のよう。
一面に白黒の点々が小さな虫の集団のように、右へ左へ上へ下へ、不規則にうごめいてる。
これは、夢。
それがわかった瞬間に、何かがつながる。
夢なのだとしたら、これは「記憶」だ。夢で見る、誰かの記憶。
「オレンジの海」の底、記憶の保管庫にある、梯子状の構造物。あそこに保管された、「記憶」。
つながりのあるアルカナを持つ、誰かの。
僕が夢で見ることのできる、誰かの記憶。
それが砂嵐の記憶なら、誰のものかは明らかだ。
キクヒコさん
ヌガノマホワイトとの対決で壊されたのか、あるいは、何度も「認識の喪失」の力を使った事で壊れてしまったのか。
原因は、まだどちらとも云えないし、もしかしたら全く別の理由なのかもしれないけれど。
保管庫にある、キクヒコさんの梯子はぼろぼろだった。
色あせて歪んで、あちこちで横木が途切れて、痛々しいほど。
ちぎれかけた横木の中、保管された記憶は、「砂嵐」だった。
映らなくなったテレビのように、白黒のノイズが動き回るだけの、砂嵐の記憶。
鳴り続けていたざあざあという雑音に、ぶつ、ぶつ、と途切れるような音が紛れ出す。
ずっと変わらない、砂嵐の壊れた記憶、ではないのかな。
ぶつ、ぶつ、という音は、途切れているのではなく、何かにつながりかけているのかも。
ざざざ、と一際大きく画面の砂嵐が乱れて、ぶつ、という音と共に、一瞬、何かの映像が見えた。
真っ暗な、地下道、かな。
それはすぐに消えて、またざあざあとうごめく波のような白黒の砂嵐に埋もれてしまう。
途切れ途切れでも、さっきのような映像がもう少し見えてくれればいいのに。
夢で見る誰かの記憶は、視界が固定されていて、動かす事も眼をそらす事もできない。
ただじっと、眼の前に広がるモノクロの砂嵐を見ている事しか。
ぶつ、とまたノイズが途切れて、砂嵐の映像が乱れる。
砂嵐が乱れる、というのもおかしな表現だけれど。
乱れた状態が砂嵐なのだとしたら、映像が戻る、と云うべきなのかも。
暗闇を、白い光が切り裂く。
眩しさに、思わず眼を閉じたのは、僕ではなくこの記憶の主、キクヒコさんだろう。
ーー 2ゴウ
錆びた鉄板を擦り合わせるような憎しみのこもる声が耳元で聞こえて、背筋がぞっと凍りつく。
ヌガノマ
ではこれは、もしかしたら、ヌガノマホワイトと対決した時の「記憶」?
ぶつ、と今度は明らかに何かが途切れる音がして、視界が砂嵐に戻る。同時に、ざあざあと耳障りなノイズも戻ってる。
この「記憶」を、どうにかして直す事はできないのだろうか。
ルリおばさんの壊れた記憶を、みんなで直した時のように。
あの保管庫から「記憶」に潜って、どうにか。
でも、どうやって?
停止した記憶がひび割れて砕けていたルリおばさんの場合は、パズルのようにそれをみんなでつなげて直す事で修復ができた、けれど。
こんな砂嵐だらけの、短くぶつ切りにされたような「記憶」を、どうすれば元に戻せるの。
画面中を無数にうごめく白黒の点々が、やがて黒い闇に呑まれるように消えて行く。
記憶が終わる。
これは、壊れていない普通の記憶と同じ。
黒い幕が下りるように、闇に呑まれて消える。
ひとつ、わかったのは、映像は砂嵐だけれど、それでもまだ「記憶」として、保管されてる、らしい事。
それからもうひとつ、ほんの少し、ところどころだけれど、断片的に「音」や「映像」が残ってるらしい事。
それだけ、だった。
水曜日は、朝から霧のような冷たい雨が降ってた。
制服の上にウィンドブレーカーを着込んで、傘を差して学校へ向かう。
なんとなく早めに学校へ向かってしまうのは、図書室で借りた「うちゅうのひみつ」を読みたいから。
また今週も、金曜の昼休みがJの図書委員の当番のはずなので、それまでに読み終えて返しに行きたいな、と思って。
「おはよ」
まだどこか遠慮がちにポツリと云いながら教室へ入り、席に向かう。
すでに教室にいた何人かのクラスメイトたちが振り返って、口々に「おはよう」と返してくれるのを聞きながら、ウィンドブレーカーを脱いでロッカーにしまい、ランドセルを下ろして机の横にかけ、席に着く。
早速机の中から「うちゅうのひみつ」を取り出して、しおりを挟んでおいた読みかけの箇所から読み始める。
第5章、宇宙かいたくのれきし
以前、Lに教えてもらった、アメリカとソ連の宇宙開発競争について、子供向けのやさしい文章で詳しく書かれてた。
アメリカが、ソ連の衛星からの監視を避けるために、当時は地下に秘密の施設を作っていた、なんて事までは、さすがに書かれてなかったけれど。
今日もまた、つい夢中になって読んでいたらしい。ガラリと元気に教室の後ろのドアを開けて、「おはよー」といつもの声で挨拶しながら教室へ入って来たルナに、僕は気づいてなかった。
「ねー、キクター」
後ろから声をかけられて、ルナが来てた事に気づき、デジャブかなと思いながら振り返る。
今日もまだ席に着かずに立ったままのルナを見て、思わず僕はぎょっとした。
ルナが両手で胸に抱えた、白くてふわふわの、大きな・・・ネコ?
「びっくりした?」
赤い眼を細めて、楽しそうにニヤニヤしながらルナは僕を見てる。
もちろんびっくり、したけれど。
もう一度ルナを見て、その胸に抱かれてふてぶてしい顔でそっぽを向いてる白いネコを見る。
もしかして、ブランシュ?
Nから「ワタシよりも体が大きいので」とは聞いていたけれど。
ルナがこちら向きに両手で脇から抱えたネコの、だらりと伸ばしたその体は想像よりもさらに大きくて、しっぽの先が床に着きそう、いや、たぶん着いてる、よね。
太ってる、とかではないのだけれど、大きい。単純に、Nの倍くらいありそうに見える。
黒くて毛足の短いNに比べて、白くて長いふわふわの毛に覆われてるから、かもしれないけれど。
いや、毛の長さを差し引いても、やっぱり倍近くあるかもしれない。
「おー、よくわかったねー。前は、ちらっと見ただけって云ってたのにー」
のんきな声でそう云って、ルナは足のつま先で器用に自分の椅子を引いて、ランドセルを背負ったまま、どすんと席に着く。
胸に抱いたブランシュは、ルナの机に両手を乗せるような格好になってるけれど、ふてくされたような仏頂面(?)のまま。
少し毛がしっとりとして見えるのは、雨に濡れたのかな。
えっと、どうしたの。
まるで昨日の再現みたいに、同じような事を僕は心の声でルナに尋ねる。
いや、だって、教室にネコを連れて来ちゃダメだよね、いくら認識を消された転校生だからって。
「どうしたのってー?ブランシュが来たの、るなのとこに」
昨日と同じように、平然とそう答えるルナに、僕はあっけにとられてしまう。
ブランシュが、来た
るなのとこに
また、通学路にひょっこりブランシュが現れた、のかな。
ルナは、何なの。何か動物を呼び集める特技とかを持ってるの。
「何それ」
ルナはあきれたような顔で、両手でブランシュを胸に抱いたまま小さく肩をすくめて、
「お家」
囁くように云って、俯いて、ドナドナモードかな。
お家
ルナの「お菓子のお家」の事だよね。
あ、そっか。このまま「海」で騒いでいたら、今日もまたLを起こしてしまうかもしれないからね。
僕はうなずいて前向きに席に座り直し、念のため、「うちゅうのひみつ」を机の中にしまってから、ルナの意識空間を「振り返る」。
風にそよぐ金色の草の海、その中にポツンと佇む、メルヘンチックなお菓子のお家。
庭のブランコに、ルナは座ってた。膝の上に大きな白ネコ「ブランシュ」を抱いて。
ルナは僕を見上げると、ちらりと隣のブランコに眼をやって、
「どうぞ、座って」
何だか大人みたいな云い方、ルリおばさんの真似かな。勧めてるのがブランコってところが、何ともかわいらしいけれど。
ルナの隣のブランコに腰掛けたら、
「おまえ、本当にキクタか?」
唐突に心の声がそう云って、ドキッとして思わずブランシュを見る。
ルナの声ではなかったし、ブランシュの声に違いない、よね。
なんと云うか、ルナよりもっと大人っぽい、と云うか、はすっぱな?すれっからしな?やんちゃな?声。
「おいおい、いきなりご挨拶だね」
ふん、と鼻でため息をついて、ふてくされたような顔で僕をじろりと見上げてる。
ふわふわの白い毛の、大きなネコが。
おまえ、本当にキクタか?
その問いにも、デジャブを感じる、よね。
「やれやれ、アナタは本当に、キクタなのですか」
初対面のNの第一声がそれだった、けれど。
やっぱり、相当印象は違うのだろう。それはまあそうなのだけれど。
70代の老人の「キクタ」と、小学2年生の今の僕とでは。
「キクタはキクタだよー。ブランシュ、キクタを知ってるのー?」
ルナが赤い眼をまんまるにして、上からブランシュの顔を覗き込んで尋ねる。
「知ってる。けど、こんな無礼なちびっ子じゃないね。それに、あの人は死んだって聞いてる」
無礼なちびっ子
あ、いきなり、すれっからしみたいとかいろいろ云っちゃったから、かな。
それは、ごめんなさい。失礼しました。
僕はぺこりと頭を下げて、尋ねる。
「えーとその、キクタが亡くなったって聞いたのは、キクヒコさんから、かな」
「そうだ」
ルナを見上げてたブランシュが、ちらりとめんどくさそうにこちらを向いて答える。
それなら、Nと同じ、って事かな。
何故かキクヒコさんは、Nにもブランシュにも、「キクタ」は亡くなったという事にしてた、らしい。
ルリおばさんに云わせると、「それはあくまで表向き」であって、「あいつ、何考えてるの。ノワールは身内でしょ」と、だいぶ批判的ではあったけれど。まあ、そうだよね。僕もそう思う。
ふん、とブランシュが鼻を鳴らして、
「なんだ、あれは嘘だったのか」
わりとどうでも良さそうに云う。
キクタが死んでても生きてても、どうでもいいって事なのかな。
なんとなくそうつぶやいたら、
「おいおまえ」
ピクッとヒゲを震わせて、ブランシュが僕をじっとにらんで、
「さっきから何だ。アタシにケンカ売ってるのか。「どうでもいい」ってどういう事だ」
ぐっと身を乗り出すので、思わず僕は身を引いてしまう。
ケンカ売ってる?僕が?
そんなつもりはぜんぜん、全く、これっぽっちもないのだけれど。
ルナがぎゅっと、ブランシュをもう一度自分の方へ抱き寄せて、
「あー、ごめんねー。キクタはねー、ちょっと「困ったちゃん」だからねー」
そう云って、両手でわしゃわしゃと長い毛に覆われた首の周りを指で掻くようになで回してる。
「おい、こら、それやめろ」
ブランシュがキッと上を向いて、フーッとルナに鋭い息を吐くので、僕はドキッとしてしまう。
この子、ちょっぴり怖いかも。
ルナは平然と、えへへー、なんて赤い眼を細めて笑ってるけれど。
「それで、何の用だ」
くるりとブランシュがこちらを向くので、思わずたじろいでしまった。
何の用だ、って、
そもそも、ブランシュがルナのところへ来た、って話だったのでは。
心の声でそうつぶやいたら、ブランシュはツンとあごを上げて、
「ああ云えばこう云う。まったくかわいげのないガキだな」
またふんと鼻でため息をついてる。
ぴこんとまるでいま気づいたみたいに、ルナが顔をあげて、
「あ、そーだった。ブランシュ、どーしたの。なんで、るなのとこ来たの」
尋ねると、ブランシュはため息まじりに、
「どうもこうもあるか。突然いなくなったのは、おまえの方だろ。
キクヒコに時々様子を見るよう頼まれていたからな。少し前に、ふと思い出して行ってみたら研究棟はもぬけのからじゃないか。方々探して、今朝ようやく見つけたんだ」
あきれたように、上目遣いでルナを見上げて云う。
ススガ丘の学園都市から、市内のククリ島まで、方々探して?
それって、ものすごい距離と範囲なのでは。
そう思って、なんとなく、わかったかも。
ブランシュ、この子は、ちょっとLっぽいのかもしれない。
少し乱暴で男前な話し方だけれど、ちゃんとやさしい、気がする。
キクヒコさんに頼まれたルナの様子を見るために、ネコの足ではるばるススガ丘からこの市内まで、ルナを探しに来てくれるのくらいなのだから。
やさしくないはずがない、よね。
「もぬけの?・・・。あー、それはねー」
へへへ、と困ったように苦笑してルナは僕を見る。
その目線の意味するところは、何だろう。
僕のよく知るパターンだと「面倒じゃ、説明せい」って感じ、かな。
ルナはちゃっかりみんなの事をよく見ていて、それぞれの特技を習得するのが上手いよね。
えーと、と僕は口を開いて、
「それは、探させちゃってごめんね。爆弾魔の事があったから、先月引っ越ししてもらったんだよ。ルリおばさんは、知ってるでしょ。彼女のマンションへ。もちろんゲンゴロウ先生も一緒に」
そう説明すると、ブランシュは奇妙なものでも見るような怪訝な顔で僕を見る。
どうしてだろう。僕、何かへんな事を云ったかな。
「おまえ」
云いかけて、云い淀み、ルナを見上げて、またふてくされたような顔で、ため息をついてる。
「まあいいか。とりあえず、ルリの所にいるのなら、キクヒコも安心だろうさ」
そう云うなり、どんな魔法を使ったのか、ブランシュは抱えられてたルナの両手をするりと抜け出して、地面にひらりと飛び下りてた。
「あー」
驚いて金色の草むらを見下ろすルナに、
「じゃあな、アタシは帰る」
さらりとブランシュは云う。
「え、ちょっと待って。帰るって、あのススガ丘のマンションに?」
慌てて僕はブランコから下りて、思わず両手を広げてブランシュの行く手を塞ぐような格好をしてた、けれど、僕に彼女を止められるわけがないのは、もちろんわかってる。
これはなんて云うか、ポーズ?だよね。
「そうだが。他に帰る家もないしな。ベースの地下の扉は、アタシには開けられないからな」
そう云ってまた、怪訝そうな顔で僕を見上げて、
「まだアタシに何か用か?キクタ、を称するガキ」
ふふん、と鼻で笑われた。
キクタ、を称するガキ
概ね間違いではない気がするけれど、何だろう、グサッと胸に刺さる言葉、だね。
ふん、とつまらなそうにブランシュは、
「その言葉が刺さるのは、それが事実だとおまえも認めているからだろ。おまえ自身も、自分がキクタであるかどうか自信がない、だろ。まあアタシにはどうでもいい事だが。何だ、用があるなら云ってみろ。聞くだけ聞いてやる」
正面から相対して、ブランシュにまっすぐに見上げられて、気づく。
この子の眼も、赤い眼だ。ルナのような、明るい赤ではなくて、暗い茶色がかった赤。
まるで、
「血のような、か。さんざん聞き飽きた例えだが、褒め言葉だと思っておいてやろう」
ふふん、とブランシュは鼻で笑う。Nより若い、という話だったけれど、何だろう、確かに若そうだけれど、年老いたネコのような貫禄と云うか凄みもある。ナナみたいな、かな。
「運が良かったな、キクタ、を称するガキ。今日のアタシは、探してたルナをようやく見つけて、すこぶる機嫌が良いんだ。聞きたい事があるなら云ってみろ、答えてやる」
「機嫌がいいの。じゃあ抱っこしてあげるねー」
ブランシュの返事も聞かずに、ルナはぴょんとブランコから飛び下りて、ひょいとルナを抱き上げる。
「おまえ、相変わらずだな。アタシはぬいぐるみじゃないぞ」
文句を云いながらも、抗うそぶりもみせないで大人しく抱かれてるのは、やっぱり機嫌がいいのかな。
それなら、と僕は小さく咳払いをして、
「えーと、じゃあ、キクヒコさんの意識は、ブランシュの中にはいないの」
一番聞きたかった質問を真っ先にぶつけてみる事にする。
僕に会話の駆け引きなんてできるとは思えないし、僕の足りないコミュ力では、いつまたブランシュの機嫌を損ねてしまうかもわからない。
聞けるうちに聞いておかなくちゃ、と思って。
ブランシュは赤い眼を細めて、僕をちらりと見て、
「どうにもその、「キクヒコさん」が気持ち悪いな。その上、ルリは「ルリおばさん」か。むずむずするな」
ぺろりと鼻をなめて、顔をしかめてる。
むずむず
「キクタ」が、彼らをそう呼ぶのがって事なのかな。それなら、云い直した方がいいのかな。
僕にはふたりを呼び捨てにする方が、だいぶ違和感なのだけれど。
「まあいい」
ふん、と機嫌がいいらしいブランシュは鼻をひとつ鳴らしただけで、
「キクヒコがアタシの中にいるはずがないだろ。あいつは・・・」
云いかけて、ちらっと眼だけ動かしてルナを見て、
「ああ、いや、理由は省くが、ノワールの中にしか飛べないぞ」
理由は、めんどくさくなったのかな、結論だけを告げる。
Nの中にしか飛べない
そうなの。
てっきり、意識体の避難先としてブランシュを連れて行ったのかと思ってたのだけれど、じゃあそうではなかったのか。
「アタシを連れて出たのは、ルナの遊び相手として、だろうな。アタシもあの狭苦しい地下にはうんざりしてたから、丁度良かったしな。あいつが自分の体にいないのだとしたら、残る居場所はノワールの中、じゃないのか」
「のわーるって、Nちゃんのこと?」
ルナが僕に尋ねるので、うなずく。
ルナが下を向いて、
「Nちゃんの中にもいないんだよー。じゃあ、キクヒコ、どこにいるんだろー」
ブランシュに尋ねると、彼女はまたぶすっとふてくされたような顔で、
「それなら、自分の体の中だろ。あいつの体は、まだ研究棟の例の装置の中で眠ってるんだろ」
またどうでもよさそうに云う。
なるほど、やっぱりLっぽいのかもしれない。
仏頂面やどうでもよさげな云い方は、たぶん照れ隠しかな。
だとしたら、ブランシュはキクヒコさんを心配しているし、「キクタ」が亡くなった事がキクヒコさんの嘘だったのは、どうでもよくなんかなくてうれしい事だった、という事になるのかも。
「おい、こら、キクタ、を称するガキ。おまえ、何をニヤニヤしてるんだ」
じろりとまた赤い眼でにらまれたので、僕は慌てて首を振って、
「ううん、ごめん。何でもないよ。じゃあ、ブランシュにも、彼の意識体が入れそうな場所は、Nの体と彼自身の体以外には心当たりがないんだね?」
そう尋ねる。
「ないな」
ブランシュは、即答して、
「おまえがキクタなら、「海」でつながれば確かめられるんじゃないか。キクヒコが、自分の体にいるのかどうかくらい、簡単にな。呼びかけには答えないのか」
また怪訝な顔で僕に尋ねる。
どうしたものかな、と僕は教室を「振り返って」考える。
教室の前の時計を見ると、もうあと2~3分で、予鈴が鳴る時間。
さらに5分もすれば、ナガタ先生がやって来て、ホームルームが始まる。
認識を消されているとは云え、さすがに教室で大きなネコを抱いて席に着いてるというのは、まずいよね。
ルナのする事なので、黙ってさえいれば誰にも気づかれない、とは思うけれど、確実にそうとは云い切れない。
お菓子の家のお庭を「振り返って」、
「ごめん、こっちから質問しておいて、なんだけれど、今あまり時間がなくて。簡単に云うと、「海」にはつながってない。だから呼びかけても彼には届かないんだ」
ざっくりすぎるほどざっくりとそう説明すると、ブランシュは露骨に顔をしかめる。
「何だそれは。例の眠りだとしても長すぎるとは思ってたが、あいつは、今どうなってるんだ」
「えーとね、「海」とのつながりが切れてて、「記憶」も失くしてる、だよー。たぶん」
ルナのざっくりすぎる説明も、今はしかたがない、よね。
何か云いかけるブランシュを制して、
「ブランシュ、公園は知ってる?北通りから、1本路地を入ったところにある、小さな公園」
そう尋ねる。時間と場所を変えて、ブランシュとはじっくり話をしてみたい、と思って。
できれば、Lやみんなにもいてほしいけれど。
「知ってる。何故か誰も入って来ない、静かな公園だろ」
「うん。そこへ来てくれないかな。今日の放課後か、来週の月曜日の午後でもいいけれど」
そう聞いてみたら、ふふん、とブランシュは何か可笑しそうに笑って、
「嫌なこった」
さらりと云った。
あまりにもさらっと云われたので、断られたと気づくのに数秒ほど時間がかかるくらいだった。
嫌なこった?
え、いやなの。どうして。
「今は機嫌がいいが、今日の午後がどうかはアタシにもわからん。来週の月曜なんて更にわからんだろ。そんなわからん約束をするのは、嫌なこった」
淡々と、当たり前のように、ブランシュは云う。
そうなの。理屈は通っているような、そうでもないような。
云いながら、Nの言葉を思い出してた。
「あれは、ワタシなどよりも余程ネコらしいネコです。気ままで気まぐれ、何を考えているやら」
そういう事、なの。
「そういう事だ。諦めろ」
有無を云わせぬ、強い声、というのかな。僕には、反論できそうにない。
「じゃー、もし気が向いたらでいいから、来てよー、公園。るな、待ってるから」
へへへー、といつもの無邪気な笑顔で、ルナはブランシュの顔をのぞき込んで云う。
「おまえな、嫌だと云ったろ。勝手に待つな、道草せずにさっさとルリの家へ帰れ」
うんざりした顔でブランシュはルナを見上げて、それから、くるりと僕の方を向いて、
「もう時間だろ。アタシは帰る。窓を開けてくれ、そこから外へ出る」
またさらりと云う。
残念だけれど、仕方がない、よね。
窓を、と云うのは、教室の窓、かな。
ふむ、とブランシュはうなずいて、
「下は校庭だろ。アタシはネコだぞ。わざわざ廊下を通って玄関から出る必要はないだろ」
それは、そう、仰る通りだね。
教室を「振り返って」、ドナドナモードを解除する。
ちょうど予鈴が鳴り響いて、クラスのみんながぱたぱたと席へ着く中、そっと席を立って振り返ると、ルナもブランシュを抱いて席を立つ。
ふたりで窓辺へ向かい、僕が静かに窓を開ける。
すっとブランシュが前肢を僕の手に伸ばして、
「じゃあな。キクタ、を称するガキ。気が向いたら、また会おう」
ふふんと鼻で笑って、ひらりとルナの腕から飛び出す。
とん、と軽く窓枠を蹴って、霧雨に煙る校庭へ、ブランシュの白い後ろ姿は、あっという間に見えなくなってた。
「ブランシュが来た」なんて云ったら、Lがどんなに悔しがるかなと思って、また「0点」を貰いそうな気もして、僕は「オレンジの海」を振り返れずにいた。
もちろん、Lの試験が終わるまではじゃまをしない、というルナの考えに賛同して、というのも、云い訳のひとつとしては用意しつつだけれど。
夜になっても雨は続いていて、何だかもやもやした気分のまま、晩ごはんを食べてお風呂に入り、2階の部屋へ戻って、屋根裏をのぞいたら、暗がりにきらりと光る青と琥珀色の眼と眼が合った。
N、雨降りなので、出かけずに屋根裏にいたらしい。
手を伸ばしたら、すたすたと歩いて来て、ふわりと梯子の上から飛び下りて来るので、慌てて両手で受け止める。
そのまま屋根裏の梯子を下りて、ベッドに腰かけた。
「どうしましたか」
いきなりそう尋ねるのは、僕は何か云いたそうな顔をしていたのかな。
「はい。うずうずしているように見えました」
うずうず
してたかもしれない。
今日、通学途中のルナの所へブランシュが現れて、ルナがそのまま学校へ連れて来た、という一連の話を、僕はNにする。
「あの子は、どうしてあんなに口が悪いの」
話し終えて、まだNが何の感想も述べないうちに、付け足すように僕はついそう云ってしまった。
「何か酷い事を云われましたか」
興味深そうな顔で、Nが僕を見るので、
「うん。「キクタ、を称するガキ」って、僕の事を呼んでた」
そう答えたら、ふふん、とNは吹き出すように鼻でため息をついてた。
「あれは、どこで覚えたのか、言葉が随分と達者ですが、如何せん、品がありません」
どこで覚えたのか
なんとなく、Nのその云い方でぴんと来たけれど。
犯人は、ルリおばさんかな。
いやでも、ルリおばさんもわりとずけずけものを云う人だけれど、あそこまで、なんて云うか、乱暴な言葉遣いではないよね。
「さて」
Nは少し首をかしげて、
「ルリと気が合っていたようなのは、確かですね。彼女が犯人かどうかまでは、ワタシにはわかりかねますが」
ふと思いついたみたいに、Nが顔を上げて、
「今夜も、探索に出かけられるのですか。ハナの「海」の記憶の保管庫へ」
小首をかしげて尋ねる。
今夜も、もちろん行くよ。
はてしない作業なので、日課のように休まず続けないと、いつ終わるかもわからないし。
そう心の声で答えたら、
「では、ワタシもご一緒してもよろしいでしょうか。この雨では、ワタシの日課である夜の散歩へ出かけるのも、少々億劫ですので」
ぺろりと鼻をなめて云う。
それはもちろん、歓迎するよ。ルナも喜ぶだろうし。
ぺこりとNは小さくお辞儀をして、
「そのルナに、尋ねたい事もあります。ナナふうに云えば「埒もない」事ですが」
云うので、僕は首をかしげる。
ルナに、Nが?
とても頼りになる老賢者のようなNが、あの(と云ったら悪いのかもしれないけれど)ルナに尋ねたい事って。
「はい」
意味深にNはうなずいて、もう向かわれますか、と僕に尋ねる。
そうだね、あちらで少し待つにしても、先に行っておこうか。
Nをベッドの上に下ろして、部屋の灯りを消し、僕はごろんとベッドに横たわる。
「参ります」
Nの声と共に、小さな黒い鼻が僕の鼻先にちょんと触れて、視界がぐるんと回るようないつもの感覚が止むと、僕はハナの「海」に立ってた。
ひび割れ枯れた灰の海の底、暗い記憶の保管庫に、両手で胸にNを抱いて。
「ほう」
Nが声を上げるのを聞いて、そう云えば、と思い出す。
僕の「海」の保管庫へはNも行った事があるけれど、ハナの「海」の方は初めてだったかな。
「はい。だいぶ様子が違いますね」
ぐるりと見渡すその空間は、確かにそうだね。
薄暗くて丸い広場のようになっている所と、周囲の壁沿いに大きな白い梯子状の構造物が螺旋を描くように空間を取り囲んでるところは一緒だけれど。
僕の方にある一面の白いお花畑が、こちらにはない。
代わりに(と云うのも変かもしれないけれど)頭上を覆うのは、赤黒く光るマグマの海の底だ。
暗い夕焼け空のようにも見えるそのマグマの赤い光のおかげで、暗い空間だけれど視界はそれほど悪くない。
僕の方は、白いお花がぼんやり光っているので、同じようにほのかに明るいのだけれど。
黒くてつるつるの床と周囲の壁は、薄っすらと水に覆われていて、その水がゆっくりと流れているらしく、流れは眼には見えないけれど、かすかな水音がずっと聞こえてるのは、僕の方も一緒だ。
「それから、梯子の数でしょうか。こちらは、少ない。つながっている人数の違いですね」
Nの云う通り、ハナの「海」につながってるのは、ハナ自身とナナとナガヌマ。3人だけなので梯子は3本。
僕の方は、JとLとガブリエル、それから、アイとルリおばさんとキクヒコさん、そしてひと月ほど前にルナもつながったので、梯子は7本ある。
僕の梯子は、ないけれど。それはまあ、どうでもいい。
ルナはまだ来ていないみたいなので、広場の真ん中にある丸テーブルの椅子にNを下ろして、僕も隣の椅子に座る。
これは、僕の「海」のテラスにある丸テーブルと同じものを、ルナと僕がここで探索を始めた時に、ナナが出してくれてた。
意識体なので座って休む必要もないのだろうけれど、気分、だよね。
「意識であるが故、でしょう。見た目で休めていると感じるのも大事だと思います」
ふふん、と鼻を鳴らしてNが云うのも、なるほどその通りかもしれない。
ぽつん、と水滴の跳ねるような音がして、振り返るとルナが立ってた。
相変わらず、いつものタータンチェックのススガ丘学園の制服姿。ハイソックスの左の膝には真っ白な包帯を巻いてる。
「あれ、早いねー」
いつものようにのんびり云って、薄っすらと水の溜まった床の上を滑るように駆けてくると、
「!」
にゃ、みたいな、ネコっぽい声を上げて、Nの座る椅子に飛びついて、
「Nちゃんだー」
両手で抱き上げて、早速ぐりぐり頬ずりしてる。
これは、Lの真似、と云うより、ルナも同類、という感じかな。
「こんばんは、ルナ。今日もご機嫌ですね」
頬ずりされるがままで淡々と云うNも、いつも通りだね。
「何、キクタ。あんた、るながブランシュでびっくりさせたから?仕返しにNちゃん連れてきたの」
咎めるような事を云うわりに、顔はだらしなくニヤニヤしてるけれど。
「もちろん褒めてるんだよー、キクタにしては上出来じゃん」
へへへー、とルナはご機嫌に笑ってるけれど、キクタにしては、って
やっぱりそういう感じなんだ。
まあいいけれど。
「Nが、ルナに聞きたい事があるって云うから、一緒に来たんだよ」
そう説明したら、ルナは「ふぅん」っていつもの調子で赤い眼をまんまるに見開いて、Nを見る。
「はい。ブランシュの件です。あれを大人しく従わせる事は、かつてのキクタですら難儀で、ほぼ不可能でした。いったいどうやったのか、それをお尋ねしたく思いまして」
青と琥珀のきれいな眼でルナを見上げて、Nは尋ねる。
聞かれたルナは、きょとんとした顔で、
「Nちゃんも、たまにムヅカシイコト云うよねー」
えへへと無邪気に笑う。
「別に何もないよー。学校行こうと思って歩いてたら、雨に濡れたブランシュがとことこ歩いてたんだよ。だから、「ブランシュだー」ってひょいって抱っこして、そのまま連れて来たんだよ」
ブランシュだーってひょいって抱っこして
実に簡単そうにルナが云うのは、実際に簡単だったのだろうと思う。少なくともルナにとっては。
ふむ、とNはしみじみとうなずいて、
「天賦の才、というやつでしょうか。だとすれば、余人には真似できないものなのでしょうね」
天賦の才
まさにそれかも。
わかってない顔でニヤニヤしてるルナも褒められてるのはわかるのかな。
ふんふん、って満足げにうなずいてた。
それとも、ルナの事だから、とぼけた顔してるだけで、実は全部ちゃんとわかってるのかもしれない。
(just like) starting over iii
屋根裏ネコのゆううつ III