ハナの「灰の海」の底、黒い床が薄っすらと水の膜に覆われた、記憶の保管庫。
周囲を螺旋状に取り囲む、白い梯子状の構造物の名前を、僕は知らない。
だから、最近は勝手に「記憶の梯子」と呼んでた。
そもそも「オレンジの海」や「灰の海」も正式名称ではなくて、なんとなくそう呼んでたらいつの間にかそれが通称になってただけ、だったよね。
ナガヌマの「記憶の梯子」は、ぱっと見てすぐわかるくらい、横木にたくさんのリボンが結ばれてる。
ナナが以前僕に見せようと付けてくれてた目印の黄色のリボンと、ナナが既に中身を確認した印の白いリボン、そして、僕とルナが中身をチェックした横木にはピンクのリボンが結ばれてる。
遠目に見ると、神社のおみくじの結び所?みたいに見えなくもないのだけれど。
近くで見ると何ともメルヘンチックで、ちょっとかわいらしい。
ナガヌマがここへ来る事はまずないので、この梯子を見る事はないのだろうけれど。
もしも彼がこれを見たら、どんな顔をするだろうと想像したら、少しおかしかった。
困ったような苦虫をかみつぶしたような顔か、無表情を装いながらもどこか顔の一部をぴくぴく震わせたりするのかな。
「あんたってほんと、いい性格してるよねー。なんて云うんだっけ、インケン?」
陰険?
リボンの付いてない横木を探して梯子をくるくる回しながら、ルナはニヤニヤしてる。
そう云うルナだって、いま想像してたでしょ、ナガヌマの顔を。だからニヤニヤしてるのでは。
「キクタと一緒にしないで。ルナはインケンじゃなくて、明るい良い子だもんねー」
最後の「ねー」は、片手で胸に抱いたNに同意を求めてるらしい。
Nはいつも通り、全てを見透かしてるみたいな不思議な眼で、じっとルナの顔を見上げてたけれど。
「あ、これにしよー」
リボンのない横木に手をかざしたルナが、ぴこんと人差し指を立ててる。
「マゴちゃんとモニカちゃんが見えたよ。やったね、ついに当たりかもー」
ふひひ、とへんな声で笑いながら。
梯子の横木に手をかざして見える「予告編」の時点で、その「記憶」に映ってる人物が見える事はめったになかった。
だから、ルナが「当たりかも」と期待するのも良くわかる。僕もそう思った。
「じゃあ決まりねー。れっつごー」
ちょん、とルナが横木に手を触れて、梯子状の構造物がぐにゃりとうねってアーチ状に開く。
アーチの中は、夜かな。暗くて、かすかに風が吹いて、潮の香りがする。夜の海かもしれない。
Nを片手で抱き直して、ルナが空いた右手を伸ばして僕の左手とつなぐ。
やっぱり、こうして見るとブランシュはNの倍くらい大きかったよね。
Nは小さなルナの片腕に、すっぽり収まってしまうくらいの小さなネコだけれど。
ブランシュ、あの子は、絶対に片手じゃ抱っこできなさそうだもの。
いやその前に、まず僕ではブランシュを抱っこすらさせてもらえなさそうだけれど。
ふわりとほんの少しだけ地面から浮き上がって、ルナとふたりで記憶のアーチの中へ進む。
ざざあ、と波の音が聞こえる。
海だけれど、僕には見覚えのない海岸だった。
周囲に灯りらしい灯りも見えないので、街から遠く離れた、ひとけのない海なのかな。
空は晴れていて、満点の星空。
月が出ていないので、暗い夜空に白く光る星々がくっきりと見えてる。
岩だらけの海岸で、ひときわ大きな岩の上に、小柄な人影が座って星空を眺めてる。
かすかな海風に、束ねたブルネットの髪がふわりと揺れてた。
モニカだ。
前にも彼女は川岸の岩に腰かけて、夜空の月を見上げてたけれど。
その時は、ナガヌマは岩の下に影のように佇んでた。
今日は、すぐ隣の、少し低い岩の上に腰を下ろしてる。
義足だし、片腕なので、モニカのいる高い岩の上まで登れなかったのかな、とも思ったけれど、ナガヌマに限って、それはないよね。
義足でも片腕でも、岩くらいひょいひょいっと登れそうな気がする。
モニカのいる岩が大きめだったので、僕とルナはモニカの後ろにふわりと浮かぶ。
座れない事もないくらい、岩の上は広かったけれど、表面はゴツゴツしてそう。
意識体だからお尻が痛くなったりはしないのだろうけれど、座りにくそうだったので、僕らは立ったまま岩の上に浮いてた。
「びみょーな距離感だねー」
苦笑しながらルナが云うのは、モニカとナガヌマが、かな。
すぐ隣だけれど、別々の岩の上にそれぞれ座ってる。
距離で云えば、2mも離れてないと思うけれど、それが「びみょーな距離感」なの。
そうかな、恋人同士という訳でもないのだろうから、普通なのでは。
「ふつう」
ルナはオウムみたいに繰り返して、ちらっと僕を見て、小さく肩をすくめてる。
うーん、普通と云うか、適度な距離感と云うか。
仲の良い、大人の仲間同士の、男女の距離感?いや、僕にもよくわからないけれど。
「てきどな距離感」
ルナはまた繰り返して、左手に抱いたNの顔を見下ろして、どー思う?なんて小声で尋ねてる。
Nはいつものように、さて、ワタシにはわかりかねます、みたいな顔でじっとルナを見上げてた。
比較するのもへんかもしれないけれど、うちの両親も、きっとふたりで海を見に行ったら、こんな距離感で座りそうな気がする、かな。
「え?」
ルナがわりと大きな声で云って、赤い眼をまんまるにして、まじまじと僕を見るので、びっくりした。
え?何で。
「え、だって、あんたのパパとママだよね?夫婦でしょ?フツーは同じ岩に並んで座るんじゃないの」
云われて、あ、そうか、と思う。ちょっと例えが悪すぎたかもしれない。
うちの父と母は、子供の僕から見ても、だいぶ変わった夫婦だものね。
比較にならない、と云うか。
「いえ、比較にはなります」
ぽつりとNが云うので、僕とルナはじっとNの顔をのぞき込む。
「だいぶ変わったご夫婦であるアナタのご両親と、モニカとナガヌマは同じような距離感、という事なのでしょう。隣に並んで座るような事はなくとも、少し離れて座っていてもお互いに信頼し合っている、という事なのでは」
淡々と云われて、妙に納得してしまった。
お互いに信頼し合っている
確かに、そうなのかも。
なんだかんだ云いながら、母は父を信頼してるのだろうし、父はもう云わずもがな。絶対的に母を信頼してるはず。
「おおー、Nちゃんすごーい、深いねー。るな、ちょっと感動しちゃったよー」
僕とつないでた手をさっと離して、ルナは両手でNを抱き寄せて、またぐりぐり頬ずりしてる。
「恐れ入ります。只、それが正しいかどうかは、わかりかねます。ワタシはただのネコですので」
熱烈に頬ずりされながらも、いつものように冷静に、淡々と答えるNは、やっぱりさすがだけれど。
しばらくそうして、3人でとりとめのないおしゃべりをしながら、海を眺めてるモニカとナガヌマを見ていた、のだけれど。
「ねー、ちょっとー、会話ないのー?」
ルナが、テレビのお見合い番組に文句を云う主婦みたいな事を云い出して、そう云えば、と気づく。
ふたりとも、黙ったままじっと海を眺めてるけれど、かれこれ30分くらい、会話がない、よね。
「ほんとに仲良しなの。ケンカしてるわけじゃないよねー?」
ルナがふわりと宙を動いて、海側の正面からじっとモニカとナガヌマを見比べてる。
僕もルナの隣へ移動して、同じようにまじまじとふたりの表情を見比べてみた、けれど。
ケンカしてる風には見えない、かな。
ふたりとも、穏やかな表情で、ただただ海を眺めてるって感じ。
そう云えば、ナガヌマのゴーストも、僕の「オレンジの海」へ来ると、決まって海を眺めてる。
海を眺めるのが、趣味なのかな。
「そんな趣味あるの」
大声で云って、慌ててルナは口に手を当てて、
「んにゃ、ダメじゃないけどさー。別にそーいう趣味でもいいけどねー」
言い訳するみたいに云って、ちらちらと、またふたりの顔を見比べてる。
夜空の星を映すモニカのヘイゼルの瞳が、緑色にきらきら輝いていて、とてもきれいだった。
ナガヌマはいつも通りの無表情だけれど、どこか穏やかでやさしい顔をしてた。
「レムナント故、でしょうか」
またぽつりと、Nがつぶやいて、僕とルナはNの不思議な青と琥珀の眼をのぞき込む。
「以前、ナナから聞いた事があります。レムナントは、呼吸も脈拍も人よりもゆるやかで、まるで植物のように静かに生きている、と」
うん、確かに、それは僕もナナから聞いた事がある。
「んん?じゃあ、このふたりはお花や木みたいに、黙ったままお話しができるの」
ルナが何だかとんちんかんな事を云い出したけれど、そうなの。
花や木は、黙ったままお話し?してるの、かな。まるで童話の世界のように?
え、いや、待って。でもそういう意味ではないかもだけれど、僕らだって黙ったまま心の声で話してるよね。
ふむ、と鼻で小さくため息をついて、Nが困ったような顔で僕を見上げてるので、はっと我に返る。
違う違う、そうじゃない。Nが云うのは、そういう事ではなくて、何と云うか、ふたりの生き方とか習慣、みたいな事だよね。
ライフスタイルと云うか、ライフサイクルかな。
ふたりはレムナント故に、植物のように、穏やかにゆるやかに生きてる、そういう話、だよね。
「はい、おそらくは。ナナには、あまりそういった所は見られませんが、それは周りにいるのがアナタやルリ、つまりレムナント以外のアニーなので、そちらに合わせているのではないでしょうか。このふたりは、共にレムナントです。故に、誰にも気兼ねする事なく、レムナントらしくゆるやかに時を過ごしている、という事なのかと」
おお、さすが、僕らの老賢者。そう説明されたら、まるっと納得だった。
ルナもNを抱いたままの手でぴこんと人差し指を立てて、
「あー、そーいえばハナって、すごくのんびりしてるよねー。もうかわいすぎるくらい」
一番身近にいるレムナントであるハナを思い浮かべて、Nの説に納得したらしい。
なるほど。ハナもレムナントだから、あんな風にゆっくりマイペースなのかな。
元々ああいうのんびりした子なのかな、とも思ってたけれど。
「えーでも、ハナはかわいいからいいけどー。るなは、レムナントになるの、ちょっとむりかなー。退屈で眠たくなっちゃいそうだよー」
ふむー、とルナはわりとまじめに、レムナント化する自分を想像して考え込んでるけれど。
そうなのかな。僕は、少しいいな、と思ってた。
植物のように、ゆるやかに穏やかに、静かに暮らせるのなら、それは悪くないかも、なんて。
もちろん、僕もルナもあくまで想像してるだけで、実際にレムナント化するなんて、まず無理な話なのは承知の上で、だけれど。
またしばらくの間、僕らも黙ったまま、海を見つめるふたりを眺めてた。
ルナもおとなしく、じっとモニカとナガヌマを見つめて、何やら考え込んでるみたいだった。
「ナガヌマ」
不意に、やわらかな雨のような、しっとりとしたモニカの声が聞こえて、はっと我に返る。
ナガヌマは返事もしないし、モニカの方を見る事もなかったけれど、聞こえてはいるのだろう。
次の言葉を待ってるみたいだった。
そんなナガヌマをやわらかな微笑で見下ろして、
「島へ行きたくありませんか」
おもむろに、モニカはそう云った。
島へ
ナガヌマはゆっくりと顔を上げて、黒い右眼でじっとモニカを見上げて、
「行ってどうする。何もない島だ」
ぼそりとしゃがれ声で云う。
何もない島
あの無人島の事、なのかな。
それなら、ナガヌマは、あの無人島へ行った時の話を、以前にモニカに話していたのかもしれない。
くすっと小さく口元で笑って、
「そう云うと思いました」
モニカは小さく肩をすくめてる。
あれ、この会話、どこかで・・・
既視感の正体は、すぐに思い出した。
僕とガブリエルだ。
いつだったか、ガブリエルに云われた事がある。
「行ってみたくない?その無人島へ」
その時の僕の反応は、まさにナガヌマと一緒で、
「だって何もない無人島だよ」だった。
それを聞いたガブリエルの
「うん、予想通りの反応だよ。ほんとに興味ないんだねえ」
大袈裟にがっかりした風に肩をすくめて、それでもやさしく笑ってた姿が、今のモニカと被った。
でも、モニカは、どうしてそんな事を云い出したのだろう。
これで会話は終わりなのかな。
モニカはまた穏やかな顔で夜空を見上げて、ナガヌマもすぐに海へと視線を戻してた。
また、しばらく沈黙が続く。
「んぬー」
静寂に耐えかねたみたいに、ルナがへんな声でうなって、
「やっぱ、むりだー。るなは、お花のレムナントにはなれないよー」
くやしげに、ぽつりとつぶやく。
お花のレムナント
ハナみたいに、甘いお花の香りがしそうだ。
うん、でも、ルナは元気なのが似合ってるかも。
心の声で云ったら、ちらっと僕を見て、おどけるように大袈裟にがっくりと肩を落として、ルナは大きなため息をついてた。
「島へ戻れば」
ふわりとやわらかな風がそよぐように、モニカが云う。
「あなたの手足を治せるかもしれません」
それはナガヌマの「行ってどうする」に対する答え。
ああ、と僕は思う。
この人は、どこまでも看護士なんだなって。
ナガヌマの失くした手足を、どうにかして治せないものかと、考えてたの。
ブラウンに意識を奪われたルナの体と、そのルナの意識の入った黄金虫を、ずっと探し続けてたみたいに。
不意に、あの時の記憶が脳裏をよぎる。
Mが僕の「海」へ来たあの時。
「オレンジの海」のテラスで、Mはルナの体を後ろからぎゅっと抱きしめてた。
その姿を思い出して、鼻の奥がツンとした。
Mには、モニカの記憶はないはずだけれど。
それでも、ルナが無事で本当に良かったね、と思う。
ふん、と小さく鼻で笑って、ナガヌマはじっと海を見つめてた。
それきり何も答えなかったけれど、答えはなんとなく想像できた。
たぶん、あの時の僕と一緒だ。
あの時、ガブリエルは僕に云った。
「もしかしたら、島へ帰ったら、キミの器に再び「力」が戻るのかもしれないよ」
冗談めかして、ではあったけれど、たぶん、心の中では本気だったのかもしれない。
でも、いらない、よね。
そんなすごい「力」、どうしたらいいのかもわからないし。
僕は、ガブリエルにそう答えた。
ナガヌマも、たぶん同じ。
いらない
本当はどう思ってたのか、もちろん僕にはわからないけれど。
僕がナガヌマの立場ならきっと、そう云うだろうなって、思った。
ふわりと、視界がにわかに暗くなる。
黒い幕が下りるように、記憶の空間に闇が降りて来る。
「え、ちょっとー、これで終わりなのー?」
悲鳴のようなルナの感想は、僕も半分くらいは、そう思ってた。
延々、海と夜空を眺めるだけの、ふたりのレムナント。
これがもし映画やドラマだったとしたら、たぶん誰でも、ルナと同じ事を云ってしまうよね。
ルナと手をつないで、保管庫の広場へ飛んで戻る。
姫様は、Nをぎゅっと抱いたまま、ふくれっつらだった。
「当たりかと思ったのにー」
つないだ僕の手をぱっと離して、ルナはどすんと椅子に腰かけて、LみたいにNの頭に顔をうずめてる。
「キクタは、満足げですね」
Nが僕の顔を見上げて云う。
満足げ
僕、そんな顔をしてるの。
「はい。まさに満ち足りた顔をしています」
満ち足りた顔
モニカとナガヌマ、あのふたりの過去をもっと見てみたい。
そう思ってたのが、今日は少し叶ったから、かな。
「そりゃーあんたは、モニカちゃんのファンだからいいだろーけどさー」
ルナはそう云って口を尖らせてるけれど。ルナだって、マゴちゃんのファンでしょ。
「そーだけど。でも今日、一言しかしゃべってないじゃんー、マゴちゃんー」
いつものように語尾を伸ばして、ルナは不満を訴えてる。
それはまあ、そうだけれど。ナガヌマは、元々、あんまりしゃべらない人なのだろうし。
「あーね」
ふん、と鼻で短いため息をついて、ルナは小さく肩をすくめる。
それ、Lの真似でしょ。本当にルナは、みんなの事を良く見てるなあと感心してしまう。
特徴を掴むのが得意なのかな。これも、天賦の才?
「へんなことで感心してないでー」
ルナは赤い眼で僕をじろりとにらんで、
「元はと云えば、あんたが考えてた計画でしょー?カントリーロードー?がんばってどーにか思い出せないのー?」
またそんな、唐突に無茶な事を云うね。
「キクタは計画してたそうだが」
確かにナガヌマはそう云ってた。
キクタが計画してた、それが正しいなら、
そして僕がそれを覚えてるものなら、頑張れば思い出せるのかもしれないけれど。
残念ながら、僕はもうすっかり失くしてしまってるから、ね。
木曜日の昼休み、教室の席に座り、「うちゅうのひみつ」を読んでた。
いよいよ最終章なので、明日の金曜には、読み終えて図書室へ返しに行けそうかな。
ぱらぱらと残りのページ数を確認していたら、
「スズキ君」
廊下側の後ろの方から、男の子の声に呼ばれた。
ワカちゃんだけれど、今日は怯えていないみたいだ。
振り返ると、教室の後ろの入り口で、金髪の孤高の天才美少女(の弟のガブリエル)が、僕に右手を振っていた。
今日もLの制服姿なので、スカートを履いて。
昼休みで人の少ない教室内が、それでもかすかにざわめいてるような気がするのは、2年生の教室に、6年生の伝説の天才美少女が姿を現したせい、かな。
ルナは、お友達とどこかへ行ってるようで、教室には見当たらなかったけれど。
昼休みにわざわざ教室へ来るなんて、どうしたんだろう。
用があるなら、「海」で声をかけてくれたらいいのに。
不思議に思いながら読みかけの本にしおりを挟んで閉じ、席を立つ。
「ワカちゃん、ありがと」
声をかけたら、今日のワカちゃんはかすかに微笑んで、安心したように恐竜の図鑑を眺めはじめてた。
よかったね、アイじゃなくて。
心の中でワカちゃんに云って、ガブリエルの前に立つ。
「えーと、どうしたの」
眼の前にいるのに「海」で話すのもいかがなものかと思って、声に出して、ガブリエルにそう尋ねる。
ガブリエルはいつものようにやさしげな微笑みを浮かべて、ちょいちょいと僕に手招きして、くるりと廊下を振り返って歩き出す。
なんだろう、と思いながらガブリエルについて廊下を歩く。
突き当たりの図工室の前でガブリエルはくるりと僕を振り返って、
「K、スマホは家に置きっぱなしなの」
唐突にそんな事を云うので、少し面食らってしまう。
スマホ
確かにガブリエルの云う通り、家の自分の部屋の机の上に、置いたまま、だけれど。
「だって、学校では基本、禁止でしょ。みんなわりと持って来てるみたいだけれど」
「そうだね。ランドセルから出さなければお咎めなし、だっけ。なのに持って来てないの。キミってさ、へんなとこ堅いんだよねえ」
くすくす笑ってる。
ああ、それは、ルリおばさんにも云われた気がする。
キクちゃんって昔から、へんなとこ堅いのよね、って。
でも、へんなとこじゃないよね。基本、禁止なのだから。
ふふん、とガブリエルは困ったように苦笑して、
「ミカエルの試験が終わるまで、「海」での会話は自粛するようお達しがあったからさ。しかたがないからメールしたのに、ぜんぜん応答がないし」
すねたように云うけれど。
Lの試験が終わるまで、「海」での会話は自粛?
「そんな、えーと、お達し?いつのまに出てたの」
「昨日かな、いや一昨日だったかな。ルナからそうメールが来たよ。てっきり、キミも同意の上で、なのかと思ってたけど」
「同意は、同意だけれど」
確かにルナがそんな事を云ってて、僕もその通りだねと思ってはいたけれど。
「じゃあルナは、みんなに云ってるの、かな」
ルリおばさんやナナ、あとは、J。
「Jは、スマホ持ってないからねえ。知らなかったみたいだよ。ボクが聞いたら「そうなんだ」なんて云ってた。ルリさんやナナちゃんには、当然直接云ってるんだろうね。一緒に住んでるんだし」
何と云うか、さすが、しっかり者のルナ、って感じだよね。
僕はせいぜい、気をつけよう、って思うくらいで、みんなに知らせるなんてところまでは、とても気が回らなかった。
「今さら「海」を自粛って、突然云われてみると、案外不便だなあって思ってたけど。もうすっかり慣れて、あるのが当たり前になってるからねえ」
そう云ってガブリエルは、くすっといたずらっぽく笑って、
「でも、これはこれで面白いね。こうして昼休みにKを訪ねたりもできるし。「海」で話せたら、こんな事わざわざしないもんねえ」
不便さもそうしてあっさりと「面白い」って云えるのが、ガブリエルのすごいところだと思う。
Lもそうだけれど、何でも面白がる彼らのスタンスは、本当に見習わなきゃだよね。
「あ、ごめん。だから僕、スマホのメール、見れてない」
「だよね。だから来たんだよ」
くすくすと楽しそうにガブリエルは笑って、
「ハンスから連絡があって、キクヒコの搬送の件、今週の土曜日に決まったよ。スズキの親分にも連絡済み」
云われて、ほっと心がゆるむ感じがした。
キクヒコさん、良かった、ハンスの受け入れ準備も整ったんだ。
「キミも一緒に行きたいって云ってたよね。土曜日、だいじょうぶ?」
「うん、だいじょうぶ。あ、実は、火曜日にハンスに会って、ガブリエルにもよろしくって云われてたんだった。お待たせして申し訳ありませんって」
すっかり忘れていて、順番が逆になってしまったけれど。
「火曜日にハンスに会ったの?何でまた、どこで?」
ガブリエルが不思議そうに尋ねるのも、それはそう、だよね。
このところ「海」で集まってないので、みんなに共有できてなかった。
ルナもさすがに、黄金虫の事までは、メールで知らせたりはしてなかったらしい。
「実は・・・」
火曜日の朝に黄金虫がルナの通学路に現れて、Lにも「海」で相談した上で、昼休みにルナとふたりでラボへ「飛んで」返しに行った事。
それから、昨日、水曜日にはルナを探してブランシュが来て、ルナの「草の海」でつながって少し話した事をガブリエルに共有する。
にこにこしながら聞いていたガブリエルは、聞き終えると小さく吹き出して、
「キミ、まさか、ミカエルに怒られると思って、それで「海」へ行かないわけじゃないよね」
くすくす笑ってる。
ブランシュの事、だよね。
やっぱり、ガブリエルもそう思うんだ。前回、一緒にLから「0点」を貰った仲だから、かな。
「え、違うよ、いや、違わない、かも。でも、Lを試験に集中させてあげようって、そっちがホントの本心で。また0点貰うかも、とか、ちょっとは思ったけれど」
しどろもどろになってしまう。
「まあ、0点は確実だねえ。でもブランシュが来た時点で知らせたところで、どのみち会えなかったのは、学校へ来ないあの子にも責任があるよね」
ふふふ、とガブリエルは笑って、
「それにしても、ブランシュ。噂通りの気難しそうな子だねえ。来週、公園へ来てくれるかどうかは、微妙な所かなあ」
嫌なこった
ブランシュの取り付く島もない返答を思い出して、そうだね、と思う。
「でも、キクヒコの意識がブランシュの中にはいない、ってわかったのは大きいね。そこは、さすがKだ」
そう云って、ガブリエルは慰めてくれるけれど。
「でも、結局どこにいるのかは、またわからくなっちゃったから」
つぶやくように云うと、ガブリエルはあごに手を当てて、
「ブランシュの云う通りなのだとしたら、Nの中にいないのなら、彼自身の体の中にいる、って事になるのだろうけどねえ。今さらだけど、キクヒコをハンスに預けるの、やっぱり気が進まないな。体の中にいるのだとしたら、余計にね。丸ごと全部がハンスの手の中に、っていう状況になるのが、どうにも気に入らないなあ」
ふむー、と天井を見上げてる。
ガブリエルにしたら、そうなのかもしれない。
最初から、ハンスをあまり信用できずに、常に不信感を持って見ているガブリエルにとっては。
誘拐から救ってくれた命の恩人でもあるキクヒコさんを、不信な人間の手にゆだねるしかない、という今の状況は、とても心穏やかではいられないのだろう。
「もちろん、ボクの勝手な思い込みに過ぎないって、わかってはいるんだけどね。ハンスだって、会社にとっては何の得もないのに、善意からキクヒコを受け入れるって云ってくれてるのだろうし」
自分を納得させようとするみたいに、ガブリエルはそう云ったけれど、表情は晴れないままだった。
ハンス、でもうひとつ思い出した。
例のラボにあった「道具」の事。
Lには云わないでね、ってルナに云われてたので、さっき黄金虫を返しに行った話をした時に、ガブリエルにもそこまでは話していなかった。
Lに云わないのは、試験に集中させてあげたいからなので、ガブリエルには、共有しておくべきだよね。
「あの」
云いかけたところで、チャイムが鳴り響く。
「おっと、5時間目が始まっちゃうね。じゃあ土曜日の件は、時間が決まったらまたメールするよ」
ガブリエルはにっこり笑って、僕の肩にぽんと右手を置いて、
「いま云いかけてた事も、土曜日に聞かせて。急ぎじゃないんだよね?」
心の声で尋ねるので、うん、とうなずく。急ぎでは、ないよね。
僕とルナがラボで見た道具と、そこからルナが推察した事の共有、それだけだから。
「たまには「海」の使えない不便さを、身に染みて感じるのもいいのかもね。ありがたみがわかるよねえ」
困ったように苦笑して、
「じゃあまたね」
ぽんと僕の肩を叩いて、ガブリエルは歩き出す。
「うん、またね」
声に出して、手を振る。
そうだね、確かにガブリエルの云う通りかもしれない。
「海」を使わずに、きちんと声に出して云うのは、特に僕にとっては、必要な事なのかも。
木曜の晩、屋根裏をのぞいてみたけれど、Nの姿は見えなかった。
今日は天気がいいので、日課の夜のお散歩へ出かけてるのだろう。
だいぶ冷え込んで来たけれど、Nは寒くないのかな。屋根裏の空気はひんやりとしてる。
日が当たれば、昼間は暖かいのかもしれないけれど。
そう考えてふと、夏は、逆に暑いのかな、と思う。
直射日光の当たる、屋根の真下の狭い空間、だものね。
8月のあの時は、意識体としてNの体の中に入っていたし、Nも視覚だけをつないでくれてたので、僕は少しも暑さを感じなかったけれど。
冬に備えて何か暖かそうな毛布とか、防寒具を用意すべきかも。
それから、来年の夏までに、何か空調設備的なもの?エアコンを取り付けるわけにはいかないだろうけれど、せめて扇風機?サーキュレーターって云うんだっけ、小さな送風機みたいなのが、あるといいかもしれない。
忘れないように、そう心にメモをして、ベッドに腰掛けて、ハナの「海」を振り返る。
かすかな水音の響く、薄暗い広場。記憶の保管庫。
周りをぐるりと螺旋を描いて取り囲む、梯子状の構造物は、3本。
リボンがたくさん付いたナガヌマの記憶の梯子と、少し小さめに見えるハナの記憶の梯子、そして、
ナナの記憶の梯子は、少し歪んで、キクヒコさんほどではないけれど、あちこち横木が途切れた箇所がある。
その事はナナから聞いていたし、その後、ここへ来た時に僕も実際に見ていたけれど、こうしてあらためて見あげてみると、やっぱり少し痛々しい。
その原因は、おそらくだけれど「認識の喪失」の力を使った事。
認識の喪失
僕らがそう呼ぶ、アルカナ由来の力。
ある特定の範囲や対象の「認識を消す」、そんな能力。
僕の場合は、ナガタ先生に連れて行かれた職員室で偶然にその「力」を使って、その後にも何度か使っていたのだけれど。
Mから聞いたA-0の記憶によれば、それはアルカナにとって最後の手段、禁じ手と呼ばれる「力」だった。
アルカナ同士には使えない(使っても効果がなく、効果の対象から除外される)。
そして、消された認識は二度と元には戻らず、やり直しや訂正をすることはできない。
上書きも、同様にできない、という事だったけれど、例外的に別の認識であれば、元の認識は戻らないまでも上書きできる、らしい。
スズキの親分は、ベースのロリポリやアルカナに含まれる「キクタ」の認識を消されてる。
だから最初は、僕を見て「キクタ」を思い出しそうになる度に、認識を消されて固まってた。
けれど、僕が孫の「スズキキクタ」を名乗ることで、かつての「キクタ」ではなく、孫の「キクタ」だと親分の認識は上書きされて、それ以降は固まらなくなってた。
ルリおばさんも、そう。父と母には、「変わり者のルリちゃん」として、認識が上書きされてた。
それから、これはLと僕の推察だけれど、「力」を使った側と、使われた側の「意識」の強さ、精神力の差みたいなもの?で、「認識の喪失」に抗う事ができる、らしい、たぶん。
僕がLのお屋敷で消した僕とラファエルの認識に、執事のサモンジさんは抗ってみせた。普段通りにお屋敷の玄関ホールで僕を出迎え、ラファエルの頭をなでていた。
Mから詳細を聞くまで、僕らは知らずに(特に僕は、わりと気軽に)その「力」を使ってしまってたのだけれど、そんな簡単に使っていいものではなかった。
いや、言い訳みたいだけれど、使いながら、なんとなく嫌な感じは、ずっとしてた。
アルカナにとっての最後の手段、禁じ手、そう呼ばれるのには、それなりの理由があった。
使えるのは、一生に一度だけ。
二度目に使った場合、使用者は代償として「記憶」を失う。
Mはそう云ったけれど、たぶん、より正確に云えば、
二度目に使った場合、使用者の「記憶の梯子」が壊れる(=結果的に記憶を失う)
だから、(これもあくまで想像だけれど)ベースのロリポリやアルカナを含む全ての認識を消したのは、キクヒコさん。
キクタの不在時に、地下の居住区と研究施設が原因不明の火事に遭い、預かっていた大事な「4人の赤ちゃん」を守るために、無意識にキクヒコさんが周囲全ての「認識を消した」
Mの話を聞いた上での、それがLの推理で、僕もおそらくそれで間違いないと、今の時点では思ってる。
ナナは、「キクタ」に会いたがるハナを、転校生として僕のクラスへ通わせるために、認識の喪失の力を使った。
ハバナハナという転校生が、第一小学校の2年1組にいる、その認識だけを残して、それ以外のハナに関する不都合な認識を消した。
ついでに僕の行方不明事件と、それにルリおばさんも関与してるという事実も合わせて、消した。それが1度目。
2度目はつい先月、爆弾魔の一件でゲンゴロウ先生と共に預かる事になったルナを僕のクラスへ転校させるため、ハナの時と同じように「力」を使った。
ナナによれば、ハナが僕の隣の席からずれてしまわないよう「色々と調整させてもらった」との事だったので、転校生のルナのために、ひとりだけ後ろへ飛び出すイレギュラーな形で、僕の後ろに席が用意されたのが、たぶんその事なのだろう。
そんな事のために?と僕は思ったけれど、ナナは子供好きだし、ハナとルナのために万全を期して「力」を使う、というのは、とてもナナらしいと思う。
もちろん、その時は僕もナナ自身も、まさか「記憶」を失う(記憶の梯子が壊れる)事になるなんて、夢にも思わなかった。
その事実がわかった時も、ナナはやれやれと肩をすくめて、「儂の記憶なぞ安いもんじゃ」みたいな事を云ってたのは、決して強がりとかではなく、本心なのだと思う。
でもやっぱり、こうして実際に壊れかけた「記憶の梯子」を目にしてしまうと、本当にだいじょうぶなのかな、と心配になる、よね。
そんな事を思いながら、ナナの記憶の梯子を見上げていたら、
「要らぬお世話じゃ」
不意に後ろから声をかけられて、どきっとした。
振り返ると、テーブルの席に腰掛けて、僕をにらむナナの薄灰色の細めた眼と眼が合った。
今日も小さなハナの姿で、ぶかぶかの小学校の制服を着て、腕組みをして背もたれにふんぞり返ってる。
組んだ足の右の太ももから膝にかけて、薄暗い広場でも眼をひく、真っ白な包帯がぐるぐる巻かれてる。
腕も、上にして組んだ右手の指先から肘までが同じ真っ白い包帯でぐるぐる巻きで、痛々しい。
12年前のやけどの痕を隠してるだけなので、もう全然痛くはないのだろうけれど。
「前にも云うたが、そもそも梯子すらないおぬしに、云われたくはないの」
面白くなさそうな顔で云うナナに、僕は小さく首を振って。
心配になる、って云っただけでしょ。
僕の梯子がないのはともかく、本当にナナの記憶はだいじょうぶなの。何の問題もないの。
テーブルに向かい、ナナの正面の椅子を引いて座りながら、僕は尋ねる。
ふん、とナナが肩をすくめると、ドレッドヘアが揺れて、ふわりと甘いお花の香りが漂う。
「じゃからよ。梯子のないおぬしでも、そうして四の五の屁理屈を並べ立てておるじゃろ。多少壊れたとて、まだ梯子が健在な儂の、何が心配なものかよ」
そう云われてしまうと、そうなのかもと思う、けれど。
「その理屈で云えば、不思議なのは小僧の方じゃろ。梯子の壊れた儂がこうして大した影響もなく済んでおり、梯子すらないおぬしでさえ平然としておると云うに。(つまりアルカナにとって必須な記憶の梯子も、儂らアニーにはそうではないと云えるの。必須ではなく、むしろ無くても不自由はないものなのやも知れぬ)。
であればよ、何ゆえあやつは、あそこまで壊れておるのじゃ。記憶は砂嵐で見れず、体は生命維持装置やらの中で8年も眠り続けたまま。意識に至っては(少し前まではノワールの中に居ったらしいが)、今では行方不明じゃ。いったい何がどうしたら、あそこまで酷い状態になるのじゃ」
小僧、とナナが云うのは、もちろんキクヒコさん。
確かに、Lの予想が正しいとして、ベース周辺の全ての認識を消したのがキクヒコさんで、その後、爆弾が送りつけられた研究棟の認識をルナの代わりに消したのもキクヒコさんだったとしたら。
少なくとも2度、「認識の喪失」を使った事になるので、「記憶の梯子」が壊れていてもおかしくはない、事になる。
実際に僕の「オレンジの海」の記憶の保管庫にあるキクヒコさんの「記憶の梯子」は、見比べてみればナナのよりももっと歪んで、あちこち途切れて、酷い状態に見える。
だから、彼の意識は行方不明になってる?と云うのは、理屈としてはおかしい。
ナナが云うのはそこで、梯子が壊れかけたナナも、そもそもその梯子すらない僕も、キクヒコさんのように意識が肉体を離れて、あてもなくさまよったりはしていない。
キクヒコさんの記憶の梯子が壊れた原因が、予想通り「認識の喪失」を複数回に渡って使用した事、なのだとしても、それが今、彼が陥っている状況の原因とは思えない、という事。
彼の意識が肉体を飛び出し、能力が暴走するようにあちこち「飛び回って」いる事の原因は、認識の喪失ではなく、別にある。
「左様」
短くナナはうなずいて云う。
「その原因としてもっとも疑わしいのは、例のヌガノマホワイトとの対決じゃが、肝心の跳ねっ返りが、「眠っていて何も見ていない」のでは、の」
云われて、あらためて考えて、確かにそうだけれど、他に方法はないのかな、と疑問が湧いた。
時系列で云えば、ヌガノマホワイトとの対決は、8年前、ガブリエルを誘拐から救出した後。
その仕返しと云わんばかりに、ルリおばさんが襲われて、体にヌガノマの意識を移された。
ルリおばさんを救うべく、キクヒコさんは意識のないヌガノマの体に自身の意識を移し(あるいは眼の前で「意識を移すぞ」と脅して)、ルリおばさんの体は解放された、はず。
そこでキクヒコさんとヌガノマホワイトの間で何が起きたのか・起きなかったのかは、わからない。
それを知るのはキクヒコさん自身とヌガノマ、なのだろうけれど。
ヌガノマホワイトは、ハンスによれば、レムナント化するために失敗作や試験品の人造アルカナを使用したと見られ、その影響で著しく知能が低下している、らしい。
実際に何度か対峙した僕の印象で云っても、ハンスの推察は概ね間違いなさそうに思えるので、ヌガノマホワイトに当時の事を尋ねても、答えられるかどうか、果たして覚えているのかどうかも、怪しいと思う。
ひとつ、可能性としてあるとすれば、今、ヌガノマホワイトはハンスが拘束してる、はず。
先日のハンスの取り調べ映像を「悪趣味じゃ」と切って捨てたナナに云うのは憚られるけれど、もう一度ハンスにあいつの取り調べをしてもらう事は、できるかも知れない。
その場に一緒に立ち会うか、また録画してもらって動画で見るか、どちらにしてもあまり気は進まないし、実際にあいつがそれをきちんと覚えていて、正直に答えてくれるかどうかは、さておき。
「さておき、の。愉しくはないな」
嫌そうに顔をしかめて、ナナはポツリと云う。
あとはキクヒコさん、だけれど。
キクヒコさんの記憶は、保管庫で確かめた限りでは、どれも一面の砂嵐で、僕らには見る事ができなかった、けれど。
夢で見た、砂嵐の「記憶」を思い出して、僕はそれをナナに共有した。
「ほう」
聞き終えて、左手は組んだまま、包帯ぐるぐるの右手を唇に当てて、ナナは何やら思案する顔になる。
そしてふわりと椅子から浮かび上がると、ちょいちょいと包帯の手で僕を手招きして、すーっと空中を移動した先は、ナナの壊れかけた「記憶の梯子」。
僕も席を立ち、ナナの後を追う。
「前にも云うたが、儂の記憶も壊れかけて、だいぶ砂嵐が混じっておる。が、あやつほどではなく、画面に時折砂嵐のノイズが混じる程度よ」
説明して、ナナは梯子の横木に手をかざし、いくつか確かめてから、「これでよかろ」小声でつぶやいて、横木に軽く触れる。
ぎぎぎ、と軋むような音を立てて梯子が歪み、アーチ状に開く。軋み音を立てるのもキクヒコさんの梯子と一緒だけれど、ナナの方はまだ軽め、かな。
やっぱり、キクヒコさんの方が痛みがひどく思える。
アーチの中は、石畳の古そうな街並み、かな。
僕は行った事がないけれど、京都とか、古都の路地、のように見える。
「路地とはご挨拶じゃな。これでもメインストリートじゃぞ。昔の街は、大概こんなものよ」
くっくっと喉を鳴らすように、楽しげに笑ってるけれど。
ナナの云う「昔」って、いったいいつの事なの。まさか、江戸時代とかじゃないよね。
コホンとナナは咳払いをして、
「見るべきは其処ではなかろ」
その声に合わせたみたいに、画面にざざっと砂嵐のノイズが走る。
一瞬、画面が歪んだ砂嵐に覆われたけれど、すぐに元の古い石畳の通りに戻る。
確かに、ナナの云う通り、まだ「記憶」の画面は見えてる。
そう思うとまた、ざざざ、と耳障りなノイズが鳴って、画面が乱れ砂嵐になる。今度は少し長い、けれど数秒で消えて、元の画面に戻ってた。
「記憶」が壊れるのは、いっぺんにではなく、段階があるって事なのかな。
時間なのか、「力」を使った回数なのか、あるいはその影響範囲の広さとか、条件はわからないけれど。
2度目に「力」を使った瞬間に全ての記憶が壊れるわけではなくて、段階的に少しずつ壊れて、砂嵐の範囲が増えて?広がって?いくのかも。
僕が夢で見たキクヒコさんの「記憶」は、ほとんど砂嵐で埋め尽くされて、わずかに残った部分だけが、音や映像として残ってた、のかな。
「やも知れぬ」
包帯ぐるぐるの右手を唇に当てたまま、ナナはふむ、とうなって、
「おぬしの云う、条件の。それは、「認識の喪失」とは関係がないのかも知れぬ」
梯子のアーチの向こう、またざらざらと乱れ始めた砂嵐を見つめて、云う。
関係がない
梯子が壊れるのは、認識の喪失を2度目に使った時。
砂嵐の範囲が広がるのは、それとは別、って事?
2度目以降にどれだけ使ったか、あるいは2度に渡って使ったその力の影響範囲の広さや何かは無関係。
アルカナにとっての切り札、奥の手、最後の手段である「力」
一度しか使えない、とされるその禁忌を破った場合のペナルティとして、「記憶の梯子」が壊れる。
罰はそこまでで、終わり。
砂嵐が広がり、増えて、記憶が見えなくなるのは、別の原因。
「比較の対象が、儂のこれしかないゆえな。定かではないの。それを確かめようと、儂が実験のために再度「力」を使うと云えば、おぬしは止めよう?」
ニヤリ、とあの凄みのある笑みで云うけれど、それはお得意のブラックユーモアなの。それにしても今日のは特にひどいけれど。
そんなの、止めるに決まってるでしょ。
砂嵐が増えるかどうか、その後どうなるか、その検証のために、ナナに「力」を使わせるなんて、そんな人体実験みたいな事、
「わかったわかった、みなまで云うな。冗談じゃ」
めんどくさそうに肩をすくめるナナの声にかぶさるように、
「ふぅん」
後ろからのんきな声がして、振り返るとルナが立ってた。いつも通りのチェックの制服姿で。
ざざっと乱れて砂嵐になるアーチの中をのぞき込んで、
「わ、ほんとだー。ざらざらの砂嵐だねー。ナナ、これ、痛くはないのー?」
いつものように、どこか間延びした声で尋ねる。
「痛くも痒くもないぞ。心配無用じゃ」
ふふん、と笑って、ナナはやさしい声音で云う。
「ふぅん、そっか。痛いんだったらー、るなが「いたいの飛んでけー」してあげよーと思ったんだけど。なーんだ、痛くないのかー」
残念そうに云うのは、何だろう。「いたいの飛んでけ」したかったのかな。
「したかった?」
くるん、と人差し指を額に当てて、ルナは首をかしげて、
「ルナが「したいかどーか」じゃないでしょー。痛そうだったらかわいそーだから、「いたいの飛んでけ」するでしょー?」
なに云ってるの、まったくキクタは困ったちゃんだねー、とか何とか、ぶつぶつ云いながら、ルナは赤い眼で僕をにらんでた。
今のも「困ったちゃん」なの。
ルナの云う「困ったちゃん」の定義が、だんだんわからなくなってくる。
何をもって「困ったちゃん」なのか。どうすれば「困ったちゃん」でなくなるのか。
「おぬし」
何か云いかけて、ふふん、と鼻で笑って、ナナは首を横に振る。
それっきり、何も云わないのは、何でなの。
「何でとな。そのままじゃろ、言葉を失う、というやつよ」
あきれたように、ナナは肩をすくめてる。
言葉を失う
僕があきれるほど「困ったちゃん」だから、なのかな。
もうぜんぜんわからない。
「そんな事よりー、マゴちゃんの「記憶」、行かないのー?」
そう云って、ルナはスキップを踏むように楽しげに、リボンのたくさん巻かれたナガヌマの「記憶の梯子」へ駆けて行く。
それはそう、だよね。そのために、ここへ来てるんだもの。
「ナナも一緒に行ってくれるの」
声に出して尋ねたら、ナナは一瞬、きょとんとしたような顔をして、すぐにいつもの笑みに戻る。
「たまにはの。「海」が自粛では、おぬしも寂しかろうと思うてな」
ニヤリと笑う。
それは、お気遣いありがとう、だった。
昼間のガブリエルではないけれど、僕もいつの間にか、「海」のある生活に慣れてしまっていたのかな。
少しの間だけとは云え、あそこで他愛もないおしゃべりができないと思うと、やっぱり寂しいよね。
心の声でそう云ったら、ルナがくるりと振り返って、
「正直に云いなよー、「Lに会えなくて寂しいー」ってー」
ニヤニヤしながら云ったかと思ったら、ふっとまじめな顔になって、
「でもー、今から慣れておかないとでしょー。合格したら、Lはアメリカ行っちゃうんでしょー?」
いつもののんきな感じでそう云われて、ハッとした。
そっか、試験のために来週まで、それは一時的な「海」の自粛期間だけれど、試験に受かって、正式にアメリカの大学への入学が決まったら、Lはアメリカへ行っちゃうんだ。
大学って、何年あるのかな。4年とか5年くらい?大学院とかへ進むのなら、そこからさらに何年も、だよね。
それは、寂しいな。
思わず心でつぶやいたら、ナナがふふんと鼻で笑って、
「何がじゃ。おぬしの「海」に、国境は関係なかろ。アメリカじゃろうがアフリカじゃろうが、「海」で呼べば、いつでも会えるであろ」
さらっと云われて、あ、そうか、と納得する。
試験の邪魔にならないように、来週まで「海」で話すのを自粛する。
でもその後は、ずっと「海」でつながってるし、いつでも会える。
そうだよね、それはそう。
「なんだ、それなら、良かった」
心からホッとして、そう云ったら、ルナがあきれ顔で、肩をすくめてた。
(just like) starting over iv
屋根裏ネコのゆううつ III