土曜日の夜、昼間にも増して、冷たい木枯らしがぴゅうぴゅうと吹きつけて、部屋のアルミサッシがカタカタ揺れていた。
屋根裏をのぞいてみたけれど、Nの姿は見えない。
この寒いのに、日課の夜の散歩は休まないんだ、すごいな。
昼間、学園の研究棟でのハンスの一件で、気持ち的に少し疲れていたけれど、僕の日課も休むわけにはいかない、よね。
そろそろハナの「海」へ出かけようかと思っていたら、カラカラと「オレンジの海」の貝殻の風鈴が鳴る。
ずいぶん久しぶりに鳴ったような気がするのは、ここ数日、ルナによる「海での会話禁止令」が出ていたせいかな。
「振り返る」と、Lの基地のドアが開いていて、ふわふわの金髪がひょっこりと顔を出して、テラスを眺めてる。
「どうしたの、休憩かな」
ふわりとテラスに降り立って、Lを見上げて尋ねる。
「いやあ」
ニヤリと笑って、ふわふわの金髪の頭をかき回しながら、Lがひらりとテラスに降りて来て、
「受験生のいる家庭じゃあるまいしさー」
何やらぶつぶつ云って、困ったように苦笑する。
受験生のいる家庭?
「海」の会話禁止令の事かな。
だってL、来週大事な試験なんでしょ。
だったら概ねその通りで、間違いないのでは。
「だってオレ、そんなガツガツ勉強するタイプに見えるー?」
ルナみたいに語尾を伸ばして、Lはとんとんとテラスを駆けて、いつもの席に「どっこらせ」と腰を下ろす。
ガツガツ勉強するタイプ、には見えない、かな。
心の声で答えながら、僕もテラスの椅子に腰掛けて、パチンと指を鳴らしてふたり分のお茶を出す。
「あー、こらー、キクター?」
いきなり背後から大声で呼ばれて、ビクッとした。
振り返ると、ふわりと飛んで来たルナが、僕の頭にチョップしてる。
ちょうどいいタイミングで振り向いてしまったので、額の真ん中にルナの手がヒットした。
「禁止って云ったじゃんー。ホントに云うこと聞かない「困ったちゃん」だねー」
しかめっつらで、ルナは僕をにらんでる、けれど。
禁止は承知してるよ。でも、貝殻が鳴ったら見に来るし、Lが来てたら放っておくわけにもいかないでしょ。
「ははあ」
Lがニヤニヤ笑いながら、
「ルナチャンの差し金だったのね。てっきり、Jかガブちゃん辺りが何か云ったのかなと思ってたわ」
「サシガネ?よくわかんないけどー、るながみんなに云ったんだよー。Lが来週大事な試験だからー、しばらく「海」で話すの禁止だよーって」
ルナはずいっとLの横に立って、ふわふわの金髪をなでながら、
「でもー、Lの方から来ちゃったのー?だめじゃん、勉強しなきゃー」
娘に甘いお母さんみたいな猫撫で声で云う。
Lにはやさしいんだ。何でなの。
「何でってー?受験生はたいへんなんだよー」
赤い眼をキッと見開いて、ルナは僕をにらみつけてる。
受験生のたいへんさを、何でルナが知ってるの。小学2年生だよね。受験はした事ないでしょ。
「あんただって2年生じゃん」
そうだけど。だから僕は、受験生のたいへんさを知らないし。
「まあまあ、ケンカしなさんなって」
困った顔で立ち上がり、Lが僕らの不毛な云い争いを仲裁してくれる。
「ルナチャンもみんなへの気配りありがとねー。でも、模試の結果も問題ないし、あとは当日までのんびり休んで、体調さえ万全ならダイジョーブだろって、メンターの先生もね、太鼓判押してくれてるよ」
「モシ?モシってなあに」
何なのルナは。受験生のたいへんさを大声で訴えてたくせに、模試も知らないの。
「何だとー?またムズカシイコトばっか云ってー。困ったちゃんのくせにー」
くわっと牙を剥くような怖い顔で、ルナが僕に食ってかかるのを、Lがガシッと横からその黒髪がぴょんぴょん跳ねてるルナの頭を抱き寄せて、
「そんな顔しちゃダメでしょ。もうルナチャンはカワイイカワイイネー」
ここぞとばかりに頬擦りしてる。
「ちょ、もう、L、それやめてってー」
口では嫌がってるけれど、ふにゃっとルナの表情がゆるんでるので、たぶん、まんざらでもないのだろうね。
「模試はね、模擬試験。本番前の練習の試験みたいなやつの事だよー」
「ふぅん。その練習の試験が、バッチリだったの。100点満点って事?」
「さすがに満点じゃなかったけど、まあそーだね。ちなみに満点は100点じゃなくて、1600点かな」
さらっとLが云うと、ルナは赤い眼をまんまるにして、
「1600点?そんなにあるの。それで、Lは何点だったの。その練習で」
「え、いくつだっけ。1580くらいかな。英語のリーディングがちょっと難解でねー。でも先生が云うには、1500点あれば、問題なく先生の大学に入れるし、例のチームでも苦労しないって。1450でもいいって云ってたけど、そこは何か悔しいからね、1500は超えたいじゃん」
超えたいじゃん、なんてさらっと云われても、そうなの?としか云えないけれど。
「1600点満点で1580点って、ほぼ満点じゃんー。さすがLだねー」
ルナはまるで自分の事のようにうれしそうにニコニコ笑って、Lのふわふわの金髪をまたなでてる。
確かに、そうだね。アメリカの大学受験資格?の試験なのだから、本来は高校生レベルの人が受けるもので、当然全部英語でしょ。それでほぼ満点だなんて、さすがと云うか、何と云うか、やっぱり「Lだから」と云うか。
「まあ、そんな事はさておき、ね」
座ろ、とルナを隣の席に座らせて、Lはお茶を一口。
僕はパチンと指を鳴らして、ルナの前にもお茶を出す。
「今日だったんでしょ、キクヒコの搬送。どーだったの」
ルナと僕の顔を見比べながら、Lは青い眼をきらきらさせてる。
答えるのは、僕的には全然オッケーと云うか、むしろそれをLに伝えない方が、Lだって気になっちゃうよね、と思えるけれど。
ちらっとルナを見る。
ルナも僕を見て、むう、と口を尖らせて、
「確かに教えないのも、Lがかわいそうだよねー。じゃあ云うけどー」
そう云って、今日の研究棟での出来事を、ざっくりとLに説明してくれる。
いつものルナらしい、簡略化した説明だったけれど、何故か親分のフォーク付きの台車に3人で乗せてもらった事は、しっかり説明してた。
最後まで聞き終えるとLは、
「なるほどねー。さっきちらっと廊下で見かけたガブちゃんが、何やらふてくされた顔してたのは、そーいう訳ね」
ふふん、と肩をすくめて苦笑してる。
ガブリエル、ふてくされてたの。
それはまあ、そうかな。
「まんまとしてやられた」って云ってたくらいだし。
面白くはないよね、ガブリエルにとっては。
「まんまとね。でも、こっちが「お願い」してる立場だからねー。どーしたって後手に回っちゃうのは、仕方ねーよなー」
じゃあ、Lもやっぱりそう思うの。
ハンスは事前に何度か、研究棟へ行ってる?
「それはほぼ確定だろーね。うがった見方をしなくても、当日バタバタしないように、下見しとくってのは、まあフツーの対応だよね。仕事はそつなく確実なのがハンスちゃん、だろー。しかもあちらは、わりと自由の効く大企業の顧問様だしなー。電気工事だ何だって、結局ひと月くらい待ち時間があった訳でしょ。下見には十分な時間だよねー」
「だったらそー云えばいいじゃん。「下見して、ひとりで運べそうだから、だいじょぶですよー」ってさ。そしたら、おっちゃんがわざわざ休みの日にトラック出す事もないのにー」
「まあね。それは、ルナチャンの云う通り、お芝居なんだと思う。あくまで、こっちの想定通りに動いてますよって思わせるため、かなー。それにしちゃ、ちょっと杜撰だけどね。らしくないよねー」
らしくない
確かに、ハンスらしくないかもしれない。
ハルの誘拐事件の時に見せた、彼の判断の早さ、行動力、冷淡なまでの仕事の正確さ。あっという間に公園を封鎖して、解決するなり何事もなかったかのように封鎖を解除するあの手腕。
最近のハンスには、あの冷静さが感じられない、気がする。
あの時は、博士やラボの秘密に直接関わる事だったから、なのかな。
今回は、そうではないから?
じゃあ、ラボに「道具」を出しっぱなしにするような、迂闊さは、いったい何?
「ラボに「道具」って、なんの話だ?」
Lに問われて、
「あ」
ルナを見たら、赤い眼を細めて、にらんでる。
ごめんなさい。
「ホントにもー、困ったキクちゃんだなー」
ルナはあきれ顔で、大袈裟に肩をすくめて、
「こないだ、おーちゃんを返しに行った時の事、Lの試験が終わるまで内緒ねって云っといたのにー」
僕の方に腕を伸ばしてるので、おずおずと頭を出したら、ふわりとチョップされた。
やれやれと肩をすくめて、ラボにあった「道具」の話も、ルナがLにしてくれる。その後、御子に聞いた「核」の仕様についても、ざっくりと。
「へえ」
Lは青い眼をきらりと輝かせて、
「それは興味深いね。解剖用の電気ノコギリか。そんなの、使い道はそう色々とは、ないよね。ラボにあったのなら、尚更だなー。あいつがすっとぼけてたのは、Kもルナチャンも、そんなもん見たことねーだろって思ったのかもね。何だかわからない道具なら、見られて困る事もないって感じかなー」
ふむー、と腕組みをして、オレンジ色の空を見上げてる。
そしてふと思い出したように僕を見て、
「そう云えばあの時、博士の左手を見て、ハンスちゃん驚いてたよね。知らなかったんだろうな。博士は長袖の白衣着てるし、左手はずっとオレンジのプールの中へ沈んでただろーからね」
あの時、とLが云うのは、博士が「キクタに会いたい」と云い出して、ハンスが僕らをラボに招いた時。
その時まで、ハンスは博士の左手に御子の核が入ってる事を知らなかった。
それはたぶん、そうなのだろう。
揺り籠で眠り続ける博士を、わざわざプールから引き上げるとかしない限りは、金色の左手は、上からでは見えない。
「あぶないな」
ぽつりとつぶやくLの顔から、いつもの陽気な笑みが消えてた。
「あぶないーって?博士が?」
ルナがいつもののんびりした調子で尋ねると、Lはまるでつぶやいた事にさえ気づいてなかったみたいに、ハッと息を吸い込んでた。
「ああ、ごめん。いやあ、妄想だけどね」
ニヤッと無理して笑うみたいに、唇の端を上げて、
「K、覚えてるよね。ガブちゃんの推理。何故、モニカちゃんが狙われたのか」
僕を見て、そう口にするLの顔から、また笑みが消える。
ガブリエルの推理
何故モニカが狙われたのか
もちろん覚えてる。
そのガブリエルの仮説での、容疑者はハンス。
ハンスがモニカを狙う理由、
それは、ハンスにとって都合の悪い何かを、モニカが見てしまったから。
そのための、口封じ。
「何かって、何よ」
ルナが短く僕に問う。
それは、わからないけれど。
「例えば、ラボに置いてあった、何かの「道具」とか」
伏し目がちな青い眼で、じっとお茶のカップを見つめたまま、Lが静かに云う。
ハッと短く、ルナが息を吸い込んで、
「嘘でしょ、そんな事くらいで、あんな、あんなひどい・・・」
口ごもる。
Lがつぶやくように続けて、
「道具どころじゃないのかもね。もっと決定的なものや場面を見てしまった、のかも。だとしたら」
決定的なもの
あるいは、決定的な場面?
例えば、だけれど。
ハンスが博士を殺すところを、モニカが見てしまった、のだとしたら。
育ての父である博士を殺した、その現場をモニカに見られてしまった。
口封じのために、殺すしかない、と思ってもおかしくはない、かも。
「ちょっと、あんた、何云ってんの。だって、博士は生きてるでしょ。あのプールの中で今も眠ってるじゃん」
ルナが僕にくってかかるのは、もっともだ。
ルナの云う通り、博士は今も生きてる。
でも、
博士の体には御子の「核」が入ってる。
「生かす」ための「核」、それが博士の体に入るには、
博士は、過去にどこかのタイミングで、「死にかけていた」はずなんだ。
揺り籠の中で「死にかけた」博士の中に、ロリポリのちぎれた腹部でもある揺り籠を「生かして」いた「核」が入った。
博士と、揺り籠、両方ともを「生かす」ために。
「ちょっと」
ルナは僕をにらんだままそう云って、何も云えなくなってしまったみたいに口を閉じて眼をそらす。
「おっと、ごめんねー。もちろんこれは、ガブちゃんの妄想だよ。ただの妄想の推理に過ぎない。何の証拠もないからね」
がしっと、またルナのくせっ毛の頭を抱え込んで、Lがやさしい声音で云う。
そうだね、確かにその通り。
ただの妄想だ。
ハンスが、博士を殺そうとするはずがない。
彼を拾い育ててくれた、命の恩人である博士を、どうしてハンスが殺さなきゃいけないの。
そんな事をしても、ハンスには何の得もないし、何の意味もない。
「あんたねー、ほんと、性格悪いなー。妄想でも何でも、そんなコト云っちゃダメなんだよー?思っても、口にしちゃダメなのー」
ルナはふくれっつらでそう云うけれど。
僕は思っただけで、口にはしてない、よね。
「あーほらまた、あー云えばこー云う、でしょー。あんたの「思った」は、心の声で全部「海」に聞こえちゃうんだから、一緒じゃん。じゃあもう、思ってもダメ。思うなー」
ルナは真剣に怒ってるのだろう。それは顔を見ればわかる。
わかるけれど、いつもののんびりした口調で云われてしまうと、何だろう、笑ってしまうよね。
Lがふふっと吹き出して、
「それがルナチャンの良いところだからねー。おまえだって、ルナチャンがおまえの事、真剣に心配して云ってくれてるのは、わかってるよね?」
それはもちろん、わかってる。
ありがたいとも思ってる。
でもやっぱり、何だろう、ルナって面白い子だよね。
「おいこらー、キクター!あんたってほんと、どーしたらいいの。何でそんな、困ったちゃんなの」
Lに頭を片手で抱えられたまま、ルナは僕を怖い顔でにらんでる。
「わかったよー、もういい。もう、るなだって云っちゃうからねー。キクタがかわいそーだから黙っててあげたけど、ブランシュの事、Lに云っちゃうよー」
ブランシュの事
え、それは、だめなやつだよね。
「ブランシュって、あの、キクヒコのマンションにいたっていう、白いネコチャンだっけ?」
Lがきょとんとした顔で、ルナに尋ねてる。
ブランシュは、だめでしょ。ルナ、それは反則だよ。
僕の訴えには、聞く耳も持たず、
「そーだよー。おーちゃんが来た次の日だから、水曜日?雨の中、ブランシュが来たの、ルナのとこに」
しれっとルナは云って、僕に、ベーっと舌を出してる。
何なのそれ、かわいいけれど。
ブランシュが来たの
そうつぶやいて、Lが青い眼をきらきらさせて、僕を見て、ルナを見る。
「それで?どーしたの」
「それで、ルナの「草の海」でお話ししたの。ブランシュね、キクヒコに、るなの様子を見るように頼まれてた、って。それで研究棟へ行ったらもぬけのカラ?だったから、探しに来たんだってー」
「おおー」
「それでキクタがね、「キクヒコはブランシュの中にいないの」って聞いたら、「あいつは「のわーる」の中にしか入れないぞ」って、ブランシュが」
「おお、それで?」
「それでね、ホームルームのチャイムが鳴りそうだったから、「放課後、公園に来て」ってキクタが頼んだの。「それか、来週の月曜の午後でも」って。そしたらブランシュが」
「おお」
「「嫌なこった」って」
さらっとルナが云うと、
「おいー」
Lがビシッと人差し指で僕を差す。とても悲しい顔で。
何でなの、僕のせいじゃないよね。
僕はちゃんと、時間と日をあらためて、Lやみんなにもブランシュの話を聞いてほしいなと思って。
「断られてるじゃん。「嫌なこった」って、けんもほろろじゃん。何でなの。おまえこそ、何でなの、だよ」
そんな泣きそうな顔でLに訴えられてしまうと、僕も辛いのだけれど。
「0点だね。ああ、0点だよ、見損なったぜ、K」
そうだよね、それは、覚悟してた。
「何でその時に呼んでくれないの。オレがどんだけブランシュちゃんに会いたかったか、おまえ、ちゃんとわかってるの?」
わかってる、わかってます、ごめんなさい。
本当に申し訳ないと思ってる。
あの時、ルナに怒られてでも、Lを呼べばよかった。ブランシュの声も姿も、Lには届かないとしても。
「届かないって?あ、そっか。「オレンジの海」でブランシュちゃんに会うには、おまえがあの子の中に入らなきゃなのか。あれ、じゃあなんで、ルナチャンの「海」でおまえはブランシュちゃんに会えるの?」
それは、ルナがブランシュを抱いてたからで・・・あれ?
あらためてLにそう云われて、はっとなる。
どういう事だろう。
僕らアニーの意識が動物の体に入った場合、その動物の意識も「海」につながるので、「海」でその動物の意識体と会える。
ルナはブランシュを両手で抱きかかえていたけれど、あの時、眠っていなかった。だからブランシュの中に、ルナの意識が入ってたわけじゃない。
それならどうして、ブランシュの意識体はルナの「海」に入れたの。
「それは、るなだからじゃない?知らないけどー」
どうでもよさそうにルナは云う。
ルナだから
特別製のアルカナだから、なのかな。
だとしたら、ルナがブランシュを抱っこした状態で、ルナの意識が「オレンジの海」へ来れば、ブランシュの意識体も、来る事ができた、のかな。
「たぶんね?じゃあ、やっぱりおまえ、0点だね」
それは・・・、ちょっとひどくない?
だって、そんなルナ自身でさえ知らない仕様なんて、僕にわかるわけがないでしょ。
「それでもだよ、オレを呼ばない時点で0点なの。まったくもう、「困ったちゃん」だねー」
「ねー」
Lと顔を見合わせて、ルナは「してやったり」みたいな顔で僕を見てニヤリと笑う。
「ほら、困ったちゃん、遊んでないで、そろそろ今日のお仕事に行くよー」
Lの腕をするりとほどいて、カップのお茶を一口飲んで、ルナが立ち上がる。
くるりとLを振り返って、
「Lも、モシ?が良かったのはいいけど、ちゃんとゆっくり休むんだよー。試験はいつなんだっけ?」
小首をかしげて、ルナは尋ねる。
ぴこん、とLが人差し指を立てて、席を立ちながら、
「あーそうそう、それ云いに来たんだった。試験は土曜日なんだけど、ちょっと早めに月曜から出かけるんだよ。東京なんてめったに行けないから、あちこち行きたいとこいっぱいあってねー。だから、来週はオレ公園行けないぜー。ハナチャンによろしくねー」
僕にぱちんときれいなウィンクをしてみせる。
試験が土曜日
月曜から出かける
あちこち行きたいとこいっぱい
なるほど了解。で、いつ帰って来るの。日曜日?
「いやあ、試験終わったらそのまままっすぐ帰って来るつもりだから、土曜の夜には帰ってると思うよー」
なるほど、じゃあ来週いっぱいは、「海」の会話禁止令は継続だね。
「いや、あのね、それさ、そう思ってくれるのはすごくありがたいけど、スクーリングの間とか、ましてや試験中なんかは、オレもフツーにドア閉めてるからね。いくら「海」で騒ごうが、こっちが聞こうとしなきゃ聞こえねーんだし、そこまで気を使わなくて大丈夫よ?」
Lは困った顔で苦笑してるけれど、それでも、だよね。Lが頑張ってるのを、じゃましちゃ悪いし、余計な雑音で気を散らしてほしくないもの。
「そーそー、みんなの気持ちだからねー。そーやって勝手に応援してるだけだよー」
勝手に応援、
まあそうなのだけど。ルナは時々、そんな大人みたいな云い方をするのでどきっとする。
「じゃあね。ほら、キクちゃんも行くわよー、早くいらっしゃい」
ルナはLに手を振って、ルリおばさんみたいな口調で僕を呼んで、ハナの「海」へ向かったらしい。ふわりと姿を消した。
さっとLが席を立ち、僕の肩にぽんと手を置いて、
「さっきの話だけどさ、「あぶない」ってやつ。オレの心配しすぎならそれでいいんだけど。念のため、注意してほしい。ルナチャンの事、頼むぜ」
早口に、心の声で云う。
さっきの話、「あぶない」ってやつ
僕とルナが、ラボの「道具」を見てしまった件、だよね。
了解、気をつけるよ。
うなずいて、心の声で答える。
「ハンスちゃんの動きが杜撰になってるのもね。あいつ、何か知らんけど、焦って冷静さを欠いてるとかじゃなけりゃいいけどな」
ぽつりとLは云って、パッと手を離すと、
「いやあ、単にオレがナーバスになってるだけかもだけどねー。試験前でさー、柄にもなくキンチョーしてんのかも?」
はっはー、といつもの陽気な声で笑う。
そうかな、Lでも試験前に緊張したりするの。
それはなさそうな気がするけれど、ともかく注意するよ。何か騒ぎなんて起こってしまったら、それこそLの試験の邪魔どころではないものね。
Lがニヤッと笑って右手を上げるので、僕も右手を上げる。
ぱちん、といい音を立ててハイタッチ。
「よろしくなー」
Lはひらりと基地のドアへ飛び上がると、陽気な笑顔で手を振って、ドアの向こうへと姿を消した。
「チョーシわるいねー。今日はだめな日かなー」
ナガヌマの「記憶」からハナの記憶の保管庫へ戻ると、ルナはふわりとテーブルへ飛んで「休憩しよー」と椅子を引いて座る。
「そうだね」
僕もテーブルに向かい、椅子に座りながらぱちんと指を鳴らそうとして、ここがハナの「海」だった事を思い出す。
さすがにここでは、お茶は出せないよね。
チョーシわるい
ルナがそう云う通り、今日確認したナガヌマの「記憶」は、どれもカントリーロードにはかすりもしないものだった。
さっき「オレンジの海」でLと別れてからここへ来て、すでにふたつ、「記憶」へ潜ってみたのだけれど。
ひとつ目は、軍服姿のナガヌマが、砂浜で走っていた。
周囲に同じように走る兵士らしき若者の姿が見えたので、軍での訓練らしきものの記憶、らしい。
左腕も左足ももちろんあって、左眼もあったので、たぶん戦時中の記憶。カントリーロードよりも、遥かに過去、だね。
ふたつ目は、どこか山の上の小さな村のような場所。夕陽が照らす村外れの小径。すぐ近くに木々の生い茂る大きな山が連なっていて、山の端に夕陽が沈みかけてきれいだった。
ナガヌマの姿は見えなくて、これはいったいどういう記憶なのだろうと思っていたら、
「マゴちゃんいるよ、ほらあそこ」
ルナの指差す小径の脇の小さな祠の前に、坊主頭の子供がしゃがみ込んでいた。
まさか、とは思ったけれど、ナガヌマにだって子供時代はあったはず、だよね。
粗末なカスリの着物を着た子供は、祠に手を合わせて、何かを一心にお祈りしてた。
神も仏も信じないナガヌマも、子供の頃は祠にお祈りをするような純粋な一面も持ってたのだろう。
「坊主頭、かわいいねー。キクタも坊主にしたらー?」
ルナはニヤニヤ笑ってたけれど、すぐに小さくため息をついて、
「これもハズレだねー。戻ろー」
スッと僕の手をつなぐ。
そうだね、ナガヌマの子供時代に、カントリーロードの記憶があるわけはない。
何故なら、それはモニカから聞いた話のはずだから。
それとは別に、子供時代のナガヌマを、できればもう少し見ていたいような気もしたけれど、「キリがない」とナナの云う通り、「記憶」の探索は、寄り道し始めたら本当にキリがない、終わりが見えない、よね。
そうして保管庫の広場に戻り、「休憩しよー」と椅子に座ったところだった。
「休憩なの」
念のため、ルナに尋ねる。
今日はもう終わり、ではなく、まだ探索に行く気はあるのかな。
ルナは少し疲れた顔で、けれど小さくうなずいて、
「明日は日曜だし、もう少し頑張れるよー。キクタ、疲れたの。もう終わりにする?」
「いや、僕も大丈夫。ルナがちょっぴり疲れてそうだったから」
そう云ったら、ルナは力のない笑みを浮かべてる。
「何かねー、今日疲れたよねー。ずっとおっちゃんの車だったからそんなに歩いてもいないし、あっちで何したわけでもないのにねー」
気持ち的に、かな。
確かに僕も体は全然疲れていないけれど、精神的にはだいぶ、疲れてるかもしれない。
ぺしん、ぺしん、
何の音かな、と思ったら、ルナが指を鳴らそうとしてる、のかな。
「む、何だよー。るなだってできるもんねー」
僕は何も云ってないのに、ルナはふくれて、また鳴らない指をぺしぺし鳴らそうとしてる。
こうだよ。
ぱちん、と僕が指を鳴らすと、ルナがキッと僕をにらむ。
「むっかー。何それ、バカにしてるの」
バカになんてしてないよ。もっとこう、勢いよく?指と指を押し付ける感じ、かな。
あんまり考えてやった事なかったので、言葉で説明すると難しいね。
僕は、どうだったっけ。誰かに教わった覚えもないので、最初は、テレビか何かで見て、真似してみたんだったかな。
「ぐむむ、何それ。むかつく」
むかつかれても困るんだけれど、ぺし、ぺし、と乾いた音を出していたルナの指先から、ぱちん、とようやく音が鳴る。
同時にテーブルの上に、湯気の立つ紅茶のカップがふたつ、ふわりと現れてびっくりした。
「え、何で?」
「何でって?るながパチンしたからだよー」
当たり前じゃん、みたいな顔でルナは云う、けれど。
いや、そうではなくて、ここはハナの意識空間だから、ルナや僕にはお茶は出せない、よね。
まさかそれも、特別製?
「トクベツセイ?ちがうよー。えーと、何だっけ、ケンゲン?キクタもナナからもらってるでしょー」
権限、かな。
でもそれは、「記憶」に関する部分だけ、だよね。
それともまさか、ここにテーブルと椅子を用意してくれた時点で、この場所の権限も僕らにもらえてる、のかな。
ここで僕らが一休みして、お茶を出したりできるように?
そう考えて、納得だった。
ナナだものね、それくらいは、何も云わずにしてくれてそう。
ぱちん、と試しに僕も指を鳴らしてみたら、お茶のカップがふたつ、ふわりとテーブルに現れる。
「ちょっとー、いま、るなが出したでしょー?そんなに出してどーするのー」
いやごめん、試してみただけだよ。
謝って、もう一度ぱちんと指を鳴らして、僕が出した分のお茶を片付ける。
カップはスッと消えて、ルナが出してくれた紅茶のカップだけが残ってる。
少し疲れたなんて話してたから、お茶を出してくれたんだよね。
「ありがとう。いただきます」
お礼を云って、カップを手に取る。
意識空間の紅茶なので、熱すぎることもなく、ちょうど良い温度で、飲みやすい。
ふふん、とルナも機嫌を直してくれたようで、カップを持ってお茶を一口。
「そう云えばね、昨日学校で、へんな噂を聞いたよー」
ふと思い出したみたいに、ルナが云う。
「へんな噂、学校で?」
「うんー、ヨッちゃん達のグループで、えーと、「シロヌリを見ちゃった」とか何とか」
シロヌリ?
白塗りの事かな。
「それは、何なの。白い何か?」
車とか?いや、「黒塗りの車」とは云うけれど、「白塗りの車」なんて云わないよね。
「何だろーね、みんなには「シロヌリ」で通じてるみたいだったから、そういう名前か、呼び名の何かかなと思ってた」
「聞いてみなかったの」
「うんー。何となくね、聞きずらくて、聞かなかったよー。ヒソヒソ話してる感じだったし、あんまり人に聞かれちゃだめな話みたいに」
名前か、呼び名
あだ名とか、通称みたいな事かな。
人に聞かれちゃだめな話?
「先生や大人の誰かに、みんなが付けてるあだ名なのかな」
怖い先生や、口うるさい近所のおばさんとか?白塗り、だからきっとお化粧してるんだよね。
「あー、シロヌリってそういう意味なの。るな、てっきり妖怪かお化けの名前かなと思ってた。何かいるよね、ヌリ何とか、みたいな」
妖怪かお化け
ルナが云うそれは、ヌリカベかな。
だとしたら、妖怪の一種だけれど。そんなものが、この街のどこかにいるの。
「それは、どんな感じだったの。その、話してる子の様子というか。それを見たらうれしいの、それとも怖いのかな」
「ヒソヒソ話してるくらいだから、うれしくはないんじゃない?聞いてた子も「えーやだー」みたいな感じだったし」
へんな噂
最初にルナがそう云った通り、それは確かにへんな噂だね。
学校の、たぶん教室の隅とかで、ヒソヒソ話すような噂話の類かな。
「シロヌリを見ちゃった」「えーやだー」
学校の嫌な先生や、近所の怖いおばさんとかではなさそう。
見ちゃっただけで嫌な気分になったりするような、白塗りの何か。
白塗りの顔?
ふと、ひとつ思いついたものがあったけれど、あれも白塗りに入るのかな。本来のあれは白塗りだよね。
僕が想像したのは、それを模したお面だけれど。
ハッとルナが短く息を吸い込んで、
「嘘でしょ、ピエロのお面?」
記憶を辿るように、赤い眼を細めてる。
まさにそう。ピエロは白塗りだし、「見ちゃった」としたら、きっと嫌な気分になる、かな。
「それ、「見ちゃった」のはヨッちゃんじゃないんだよね。何て子?どこに住んでるの」
ヨッちゃんは、僕と同じ、北向きの通学路を通るグループのはず。ルナの家が南の海沿いと聞いて、同じ通学路じゃないのを残念がってたから。
「うん、ヨッちゃんじゃないよー。トモちゃんかな、んん?「やだー」って云ってたのがトモちゃんだったかな。ごめん、ちゃんと聞いてなくて。なんとなく耳に入ってたくらいだから、誰かは覚えてないよ」
ピエロ面のブラウンが、普通の小学生の目に止まるような場所をうろつくはずがない。
それが、僕らのこれまでの共通認識だった、けれど。
もしもそれが間違いだったとしたら?
いや、これまではそうだった、はず。
現にあいつは、ひと目を避けるように、仮面をつけて学園の研究棟へ爆弾を届けに行ってる。
顔を隠すための仮面を、わざわざ川沿いの倉庫から盗み出してまで(それは、証拠がないのであくまで容疑、だけれど)。
でも最近になって、それが変わったのだとしたら?
先月、ヌガノマホワイトの前に姿を現し、彼を銃で撃った。
その目的も行動の理由も、何もわからない。
だからこそ、恐ろしい。何をされるか、わからないから。
「僕、ヨッちゃんに聞いてみるよ」
そう云ったら、ルナは驚いた顔をして、
「え、なんであんたが?ヨッちゃんに何を聞くの」
「シロヌリって、何?って。だって実際に僕はそれを知らないから、ヨッちゃんに聞くのも不自然じゃないよね」
トモちゃんに聞くのでもいいかもだけれど、僕はトモちゃんをよく知らないから、かえって不審に思われそう。
ヨッちゃんだったら席も近いし、ちょっと聞きたい事があって声をかけるのも、おかしくないでしょ。
「だったら、るなが・・・」
そう云いかけてルナは、眼だけ上を向いて何か考え込む。
「トモちゃんに聞く?でもルナは帰りのグループがトモちゃんと一緒でしょ。そんなトモちゃんが「やだー」って云うような話、あらためて聞かない方がいいんじゃないかな。そんな事で気まずくなって、トモちゃんのグループがルナと一緒に帰ってくれなくなると、僕も困るし」
被せるようにそう云ったら、ルナは眉間にシワを寄せて、口を尖らせて僕を見る。
何でなの。僕、へんなコト云ったかな。
「何でって?あんたがそーやってたまにマトモなコト云うの、何でなの。いつもは困ったちゃんのくせに。ずるいなー」
ルナはふくれっつらで僕をにらむ、けれど。
たまにマトモ?
僕はそんなに、普段は困ったちゃんなの。
何故かふと、苦笑しながら肩をすくめるナナの顔が頭に浮かんで、そうなのかも、と思う。
ナナ、もしかしたら今ごろ、本当に肩をすくめてるのかもしれない。
ここはハナの意識空間だから、たぶん、ナナは見ようと思えばいつでもここの様子が見えるはずだよね。
livin’on the edge ii
屋根裏ネコのゆううつ III