ルナとハナをリバーフロントホテルのロビーまで送って、「海」では一旦解散をした。
ハナは、今日ずっと電車ブランコに乗っていて、少しはしゃぎすぎたのかな。Lの腕にしがみついたまま眠ってしまってたので、ナナは交代のために早々に「海」を辞してた。ハナの体に戻って、ホテルまで歩いてもらわないといけなかったので。
「かいさん?の前にー、キクタ、ハンスちゃんに電話しなよー」
ルナに急かされるような形で、ホテルのロビーからハンスに電話をかけた。
明日の午後に「揺り籠」を飛ばしてもらえるようお願いして、僕とルナの下校後、準備が整い次第、あらためて連絡すると約束をして、電話を切った。
電話で話したハンスは、いつも通りの壊れたスピーカーみたいな声で、いつも通りの礼儀正しさだった。
Nの云う、罠にかかった動物?みたいな感じは、少なくとも電話の声からは、僕には感じられなかった。
「では私も、おいとまします」
Mはそう云って席を立ち、去り際に、テラスの端で振り返って、
「明日、彼に連絡をする前に私にもお声がけください。私も、明日はこちらで立ち会います」
そう云って、ふわりとやわらかに微笑んでくれた。
「私も」と云うのは、明日はLとナナが、「海」のテラスで僕とルナを見守ると云ってくれてたので、ふたりと一緒に、という事なのだろう。
「ありがとう」
お辞儀をしたら、Mは微笑みを浮かべたまま小さく首を振って、
「こちらこそ。ロリポリのために、ありがとう、K。それに皆さんも」
丁寧なお辞儀をして、ふわりと去って行った。
ルナはホテルのフロントで、すっかり慣れた感じでルームキーを受け取ると、
「じゃあ、るなも帰るよー」
テラスの椅子に腰掛けたまま、ふわりと姿を消してた。
4人で公園へ戻ると、ちょうど17時のチャイムが鳴り響いてた。
公園から僕は北へ、Jは東へ、Lとガブリエルは西へ、それぞれ家路につくけれど、いつものように、「海」ではつながったままなので、おしゃべりをしながら、家へ帰る。
市の外周道路を渡る横断歩道を歩きながら、
ふと、ある思いが頭に浮かんでた。
いっそ、全部ハンスに話してみたらどうだろう、って。
キクヒコさんの意識は、今もルナのスマホの中にいる。
だから、スマホが直接体に触れる事で、元に戻れる。
体に問題がないのであれば、もう生命維持装置に入っている必要はないし、意識が戻れば、普通に歩ける、はず(ガブリエルのように、しばらくリハビリは必要かもしれないけれど)だよね。
だから、キクヒコさんを連れて帰りたい
そう云ってみたら、どうだろう。
ハンスにそれを断る理由はない、よね。
ついでに、と云うのはおかしいけれど、「輪」で生命維持装置や「揺り籠」みたいな大きな物を「飛ばす」コツを教えて欲しい、と聞いてみたら、それも教えてくれるんじゃないのかな。(そんなコツみたいなものがあるのなら、だけれど)
心の声で、僕はそんな事をとりとめもなく話していたのだけれど、オレンジの海のテラスが、しんと静まり返ってる事に、ふと気づいた。
思わず「振り返る」と、Lはぽかんと口を開けて、
「おまえ、それ、本気で云ってる、んだよね?」
青い眼をまんまるにして僕をじっと見てる。何か初めて見る新種の動物でも発見した人みたいな顔で。
え、いや、ごめん。
そんなに驚くとは思わなかった。
もちろんきちんと考えた上での発言ではなくて、
外を歩きながらなので、あまりその、集中できていなかったし、
なんとなく、ほんの思いつきで、心に浮かぶままの願望を口にしただけ、みたいな。
ガブリエルが前に云ってたような、感じ、かな。
「そうだね、わかるよ」
ガブリエルは困ったような、いや今にもくすくす笑い出しそうな、そんな顔で僕をじっと見るので。
救いを求めるように、僕はJを見る。
ふふふ、Jは魔法の声で笑って、
「それも「キクちゃん、って感じ」だね」
ふわりとやわらかく微笑む。
うーん、とLが何か思案するみたいにひとつうなずいて、
「まず、今のおまえの話には、大事な前提がひとつ欠けてるよね。わざと、なのか、それがないとして、って意味での例え話なのかは知らねーけど。あのさ、まず大前提として、「ハンスが、キクヒコの意識を「渦」で捕えようとした」、その事実は、どう解釈すればいいの、今のおまえの話では」
大事な前提
ハンスが、キクヒコさんの意識を「渦」で捕えようとした
その事実
それは、僕もわかってる、はずだけれど。
「ほう、わかった上で、ハンスに聞いてみようって事か?「キクヒコを連れて帰りたいんだけど」って?おまえ、それ・・・」
Lが言葉に詰まるなんて、めずらしい。
それだけ、僕が、何かとんでもなくとんちんかんな事を云ってる、のだろう、ね。
でも、ハンスがキクヒコさんの意識を「渦」の能力で捕らえようとしたのは、(その理由は僕にはわからないけれど)あくまでハンス側の事情だ。
それとはまた別の話で、僕はキクヒコさんを連れて帰りたい。それはだから、僕の事情、だよね。
つまり、とガブリエルがつぶやくように口を開いて、
「あいつと駆け引きしようって事?こっちの要望をまっすぐぶつけて、あいつがどう出るか、どんな反応をするのかを確かめる、そういう事かな?」
驚いた顔で云うので、僕は少し困惑する。
駆け引き、になるのかな。
そんな、何か計算高そうな、深い意味のあるものではなくて、僕がやろうとしてるのは、ただの子供じみたワガママみたいなもの、じゃないのかな。
初めから交渉をするつもりも何もなくて、ただこちらの要求を一方的に告げるだけ、って事だよね。
ハンスにそれを断る理由がない、と僕が思うのも、あくまでこっちの都合で見た場合は、ってだけの話だ。
キクヒコさんはこちら側の人で、目を覚ませば当然、彼の意思でハンスの元を去り、こちらへ戻って来るはず。
それを引き止める理由なんて、ハンスには何もないよねって、ただそれだけの事。
だから、ルナのスマホを持ってキクヒコさんの意識をハンスの応接室へ連れて行き、彼の体にその意識を戻す。そして、目を覚ましたキクヒコさんを、僕らは連れて帰る。
ただそれだけの事、なんじゃないのかな、と思ったのだけれど。
うん、Jがうなずいて、
「やっぱり、「キクちゃんって感じ」だね」
ふふふ、と魔法の声で微笑む。
はっは、Lがやけくそみたいに陽気な声で短く笑って、
「つまり、ハンスの事情なんて知ったこっちゃねーけど、キクヒコの意識はこっちにあるんだし、それ持ってハンスの所へ乗り込んで「意識持って来たから、戻すね」って体に戻して、「んじゃ、帰るわ」っつって、さっさと連れて帰る、ってコト?」
いやいや、さすがに知ったこっちゃねーとまでは、僕も面と向かっては云わないけれど。まあでも、そういう事になるのかな。
Lが云うのは、僕のその行為自体が、そう云ってるのも同然って事だよね。
「おまえ、天才じゃね」
はっはー、久しぶりに、オレンジの海にLの陽気な笑い声が響いた、気がする。
天才、ではないよね。
ただの子供のワガママ、だもの。
「それが、「キクちゃんって感じ」なの」
どこか呆然としたように、ガブリエルが云う。
「なるほど、「キクタ」恐るべし、だね。ハンスが恐れるのもわかる、気がする」
ハンスが恐れる?
また冗談なのかと思ったけれど、ガブリエルは真剣な顔で、ふむふむうなずいてた。
「あとさ、悪意がないんだろーね、おまえの思考には」
ぴこん、とLが人差し指を立てる。
悪意
ハンスに対して、という事かな。僕にもハンスへの不信感は、少しあるけれど。
Lが、ちっちっと指を振って、
「ハンスに対して、じゃなくてね。おまえの思考の中にいる想像のハンスには、悪意がないんだよ。
オレたちのにはそれがあるからね。「渦」で引き込まれた、なんて聞けば、それでどうするつもりだったんだ?次もまたやられるかも?って、あいつの悪意にばかり意識が行っちゃう。キクヒコもそうだったし、Mちゃんもそう。まあオレもガブリエルもそうだよね。たぶん、ナナちゃんや、今だとルナチャンもそうなのかも。だから、オレたちじゃ、そもそもそんな発想に至れないんだ。意識を体に戻して「連れて帰りたい」って云う?そんなの、また「渦」で引き込まれて、そこから「輪」で脱出して、いたちごっこになるだけじゃん、ってなるよなー。そもそも敵だと思ってるから、どうにかこっそり体に戻してって発想しか、オレたちにはないからね。
けど、おまえは違う。
あいつは敵じゃなくて、まだ信じられるはず、そう思ってるから、正面から堂々とキクヒコの意識を体に戻して「じゃあ連れて帰るね」って云えば、ハンスが「はいどうぞ」って云いそうな気がしてるんじゃね。おまえと、Jのお嬢はね」
悪意
ハンスに悪意があるのかどうか。
意識を体に戻して「じゃあ連れて帰るね」って云えば、「はいどうぞ」って云いそうな気がしてる?
それは、そうかな。Lの云う通りだ。
ハンスが本当に「はいどうぞ」と云うかどうかはともかく、特に何も文句は云わないし、云えないんじゃないのかな、と思う。
そもそも、さっきのはそういう話、だったよね。
ふふふ、Jが何故か楽しそうに魔法の声で笑って、
「もちろん、ハンスさんには、預かってもらったお礼をちゃんと云うよね。「お世話になりました」ってきちんとお辞儀もして、それでキクヒコを連れて帰る、でしょ」
ぴこん、と細くて長い人差し指を立てて、灰色がかった眼を細めて僕を見る。
それは、そう。Jの云う通りだ。
「敵わないねえ」
ガブリエルがようやくいつもの笑顔に戻って、肩をすくめてる。
「な」
Lがニヤリと笑って、
「ナナちゃんがよく云うのが、よーやくわかったわ。何だっけ、「云い出したら梃子でも動かん」だっけ」
はっはー、とまた、陽気な笑い声を「海」に響かせてる。
「ね。そう聞いても、「そうかなあ、Kはちゃんと人の云う事を聞ける、良い子だと思うけど」、ってボクも思ってたんだけれど。ついにわかっちゃったねえ、こういう事だったんだ」
そう云って、ガブリエルはやさしげな眼差しでボクを見て、くすくす笑ってる。
こういう事
子供じみたワガママを押し通そうとする、って事かな。
それは、僕も前から思ってた。
傲慢で身勝手、悪く云えば、そういう事だ。
そんな「キクタ」が、少し嫌だなと思う事もあったけれど、結局それは、自己嫌悪。
僕自身がそうだからで、客観的に見れば傲慢だなと思うけれど、かく云う僕自身が同じような事を云ったりしたりしてる。それも、当たり前なのかもしれない。忘れてしまってるだけで、中身は同じ「キクタ」なのだから。
とは云え、だよね。
さっきのは、ほんの思いつきに過ぎないのは確か。
なので、まさか明日、腹部「揺り籠」を飛ばす時に、その話も試してみる、という訳にはいかない。さすがにそれは、僕にもわかる。
「まあね」
Lがニヤリと笑って、
「まず、キクヒコの体のあるハンスの応接室?あそこへ「飛んで」行くには、ルナチャンかキクヒコを説得しなきゃだぜ?」
ルナは、どうだろう。説得は難しいかもしれない。あの「道具」の一件以来、かなりハンスには疑いの目を向けてる、気がする。
キクヒコさんは、説得できるかどうかはともかく、僕のスマホにも入れるはずなので、そのまま連れて行く事はできそうだけれど。
でも、体に戻れたとして、8年も眠っていた体で、いきなり「輪」の力を使えるのだろうか。
「力を使う事は、問題ないはずだねえ。ボクも8年寝てたけれど「道」を出せたよね。むしろ、すぐには歩けないだろうから、「輪」で飛ぶしかないんだよね」
ガブリエルがそう云うのを聞いて、だったら、ルナは連れて行かなくても、僕のスマホにキクヒコさんのアバターさえ入っていれば、だいじょうぶそう、ではある、かな、と思う。
「そのキクヒコが、大事な「キクタ」にそんな無茶をさせるかね。「ダメだ」とか云って、サーバに引っ込んじゃうんじゃね」
Lが云うのも、わかる。確かに、そんな気もする。
だとすると、まずはキクヒコさんを説得する事が、この話を進める上での最大のハードルになるのかな。
「またおだててみれば?「さすがキクヒコ」とか云ってさ。うれしくなって、ホイホイ出て来るかもよ」
Lはニヤニヤしながら、適当な感じで云うけれど。
ホイホイって、そんな虫や何かじゃあるまいし。
それに、「さすが」なんて云ったら、また恥ずかしがって、余計に出て来なくなりそうな気もするけれど。
「あーね、それもそっか」
はっはー、陽気なハスキーボイスが、暖かな西日の差すオレンジの海に響いてる。
やっぱりここには、Lの笑い声がよく似合う、よね。
月曜の晩、日課の「探索」へ出かけるために、ハナの「海」の記憶の保管庫へ向かう。
ルナはホテル暮らしになってからも、あの日以外は休まず、昨夜も「探索」を続けてた。
さすがにあの日、爆破事件の当日は、初めてのホテルで、ルナとハナが眠るまで「ママ」がずっとそばで見張って?見守って?くれていたらしいので、「探索」はお休みしていた。
僕もあの日は、だいぶ疲れ果てていたので、部屋に戻るなりベッドへ倒れ込んで、そのまま泥のように眠ってた、気がする。
ふわりと姿を現したルナが、上機嫌に鼻歌まじりなのは、今日もホテルの「泡のお風呂」が楽しかったのかな。
「そーねー」
赤い眼を細めて、笑顔で答えるルナの声に被るように、僕の「海」で貝殻の風鈴が鳴る。
誰か来たのかな。「振り返る」と、テラスにルリおばさんが立ってた。何故か、ふてくされたような不機嫌そうな顔で。
「え、おねぇちゃん、来たの?」
心の声で聞かれて、答える間もなく、ふわりとルナがテラスに姿を現す。
「ルリおばさん、どうしたの」
僕もテラスに降り立ちながら尋ねたら、ルリおばさんはふくれたまま、いつもの席に座って、
「どうもこうもないわよ。何なの、あの病院」
えらく憤慨してる、けれど。
「病院ー?おねぇちゃん、病院でいじめられてるのー」
いつもののんきな調子で、ルナが尋ねながらルリおばさんの隣に座る。
ぱちん、と指を鳴らして、3人分のお茶を出して、僕はいつもの席、ルリおばさんの向かい側に腰を下ろす。
さすがに、病院でいじめられはしないでしょ、と思っていたのだけれど、
「いじめよ、あれは。絶対安静とか云って、部屋から一歩も出してもらえないのよ?挙げ句に一日中点滴打たれて、眠くて仕方がないし」
どすんとテーブルに肘を突いて、頬杖をついて、ルリおばさんは云う、けれど。
それはいじめではなくて、普通に治療なのでは。
絶対安静なら病室からは出れないだろうし、治療のために点滴を打たれたら、眠くもなる、よね?
いや、僕は入院した事がないから、よく知らないけれど。
「治療?そう見せかけた、いじめよ。あれはあたしを逃がさないための、病院側の陰謀だわ」
逃がさないための、陰謀?
何でそんな大袈裟な話になるの。
「何でって、前回あたしが入院中に脱走したからに決まってるじゃない。今度ばかりは逃すまいと、病院側もあの手この手で陰謀を巡らせてるのよ」
ものすごく堂々と、理不尽な陰謀論をぶちまけているけれど、ルリおばさん、だいじょうぶかな。
だいぶ、被害妄想が入ってそうな気がする、よね。
とは云え、困ったな、と僕は思ってた。
僕では、ルリおばさんの怒りを鎮められそうにない。
ナナ、もう寝てるよね。
それでも、呼んでみようかな、とハナの「海」を振り返りかけたところで、ブーンとルナの首から提げたスマホが振動して、ふわりとアバターが現れる。
「落ち着け、ルリ。そんなわけないだろ」
機械の声が、淡々と云う。
けれど・・・
いや、これは僕にもわかる。
キクヒコさん、それは逆効果、では。
「はあ?え?」
頬杖をついてふてくされていたルリおばさんが弾かれたように身を起こして、まじまじとルナのスマホをのぞき込む。
「あんた、まさか、え、キクヒコ?なの」
画面に映っているのは、いつものおヒゲの先生のアバター、だけれど。どうしてすぐにわかったんだろう。
昼間の「海」での僕らの会話は、聞こえてた、のかな。
「昼間の?なんにも聞いてないわよ。だから、今日は一日中、点滴のせいでずっと眠らされてたって云ったでしょ」
くわっと牙を剥き出すような顔で僕をにらんで、すぐにルナのスマホに向き直り、がしっとそれを掴まえて、
「ちょっと、何であんたがそこにいるのよ。それ、ゲンゴロウ先生のアバターでしょ」
「そうだが、借りてる。ここにいるのは、俺もサーバーにいるからだ」
淡々と冷静に、機械の声でキクヒコさんが何か云う度に、ルリおばさんの中に怒りのエネルギーが蓄積されていく、ような気がする。
これは、いよいよダメだ。どうにかしなきゃ。
Lは、スクーリング中かな。いつもなら、これだけ「海」で大騒ぎしてたら、すぐに気づくはずだけれど。
見上げると基地のドアはぴったりと閉ざされてる。
かくなる上は、「魔法の声」だ。
スッと僕は人差し指を立てて、以前、Lがやっていたように、Jのお庭の窓の呼び鈴を鳴らす。
からからと、貝殻の風鈴が鳴って、ふわりとお庭の窓が開いた。
「呼んだ?Kかな。あれ、ルリさんもいるの」
窓からJが顔を出して、不思議そうに首をかしげてる。
J、よかった、助けて。
思わず心の声で云ったら、Jは困ったようにはにかんで、
「助けてって、どうしたの、K」
ガブリエルみたいに、くすくす笑いながら、ふわりと窓から降りて来る。
その姿はまるで、光り輝く救いの天使。
「また、大袈裟だなあ」
困った顔で苦笑して、しっかりテラスの下で「お邪魔します」と頭を下げてから、Jがとんとんと階段を駆け上がって来る。
「それで、いったいどうしたの」
僕の隣の椅子を引いて腰を下ろしながら、Jの灰色がかった大きな眼が、僕を見て、ルナを見て、ルリおばさんを見る。
ルリおばさんは、苦虫を噛み潰したような顔で、両手で掴んだルナのスマホをにらみつけてる。
ルナが困った顔でJを見て、
「えーとね、おねぇちゃんが病院のインボーでいじめられてて、キクヒコがそんなわけないだろって」
相変わらず、そのざっくりとした説明は何なの。
「何なのって、じゃーあんたが説明したらいいじゃんー」
ルナまでふくれっつらになるので、僕はますます困ってしまう、けれど。
ひとまず、この状況の説明を、Jにする。
病院の陰謀は、おそらくルリおばさんの被害妄想で。
いきなり登場したキクヒコさんが、ルリおばさんの怒りの火に油を注いでしまって。
そう云ったら、
「俺のせいか」
いま気づいたみたいに、キクヒコさんが機械の声で云う。
え、いや、まあ、うん。
思わず心の声で答えたら、
「なら、俺は消えよう」
云うが早いが、スマホの画面がフッと真っ暗になる。
「あー、こらー、キクヒコー?逃げるなー」
ルナが画面をのぞき込んで云うけれど、スマホはもう、うんともすんとも云わず。
「逃げ足の速さは、相変わらずってわけね」
ルリおばさんがあきれたようにスマホから手を離して、肩をすくめてる。
少し、落ち着いてくれたかな、と僕は恐る恐る、ルリおばさんをちらりと見る。
「キクちゃん、そんな顔しないで。もう大丈夫、あいつがいなくなってくれたから、気が抜けちゃったわ」
ふふん、とルリおばさんは鼻で笑ってる。ご機嫌が直ったようで、何よりだけれど。
「それに、「魔法の声」まで登場しちゃったからね、おかげですっかり怒りも収まったわ」
ルリおばさんはちらりとJを見て、ニヤリと笑う。
「ほら、やっぱりそうでしょ?」
勢い込んで僕が云ったら、
「え、やだ、冗談よ」
ルリおばさんはくすくす笑って、
「ジーンが照れるのがかわいいから、云ってみただけ。キクちゃんの云う「魔法」は、あたしには効かないのかもね?」
僕を見て、あの悪魔の笑みを浮かべてる。
ある意味、ルリおばさんも魔女だから、かな。
だから、Jの魔法が効かないのかも。
揶揄われてふくれてたJが、ぴこんと人差し指を立てて、
「あ、じゃあルリさん、昼間の話は知らないんだね」
そう云って、今日の出来事をルリおばさんに丁寧に共有してくれる。
ふんふんと楽しそうに聞いてたルリおばさんは、最後まで聞き終えると、
「ほら見なさい」
何故か得意げに、僕に云う。何を「見なさい」なのか、僕にはさっぱりわからないけれど。
「今日は月曜でしょ。どうせあんた達、また公園で何かやるでしょ。そう思って、楽しみにしてたのに」
またふてくされそうになるので、僕は慌てて、
「ここで公園の僕らを見物しようとしてたの。昨日のお好み焼きパーティみたいに?」
尋ねたら、子供のように素直に、ルリおばさんがこくんとうなずくので、何だか、急にかわいく思えてしまった。
楽しみにしてたのに、点滴のせいで眠くて起きていられなくて、ふと気づいたらもう夜で、それで、悔しくて陰謀説を思いついちゃったんだね。
「あら、陰謀はあるわよ、絶対。あたし、目を付けられてるんだわ。脱走の前科があるからって」
そう云って、ルリおばさんはルナみたいにふくれっつらで、口を尖らせてる。
「でもー、今日の公園はキクヒコが出て来たんだよー?だから、おねぇちゃんは見てなくて正解だったんじゃなーい?」
ルナのどこかのんきな指摘は、確かにある意味では的を得てる、よね。
「それもそうね」
ほのかに光るオレンジの夜空を見上げて、ルリおばさんはもうふくれっつらを収めてる。
素直だね。(意外と、って云ったら、またふくれるかもしれないけれど)
「あら、だって、素直な方がかわいいんでしょ。キクちゃんにそう云われたら、いつまでもふくれていられないわよね」
そう云ってまた、ルリおばさんはニヤリとあの笑みを浮かべてる。
ふふふ、とJが魔法の声で笑って、
「ルリさんには、「キクちゃん」の言葉の方が「魔法」みたいね」
囁くように云う。いや、この距離なので、もちろんルリおばさんにも聞こえてるだろうけれど。
「効き目で云ったら、そうなのかもね。ほら、キクヒコだって、キクちゃんに云われて素直に帰ったでしょ、今」
さらりとルリおばさんが云うので、驚いた。
さっきのあれは、そういう事なの。
「そりゃそうよ、キクちゃんだもの」
当たり前でしょ、みたいな顔でルリおばさんが云うので、僕は戸惑ってしまう。
そんな、僕みたいな子供の云う事を、素直に聞いちゃっていいの。大人のルリおばさんや、キクヒコさんが?
「見た目は子供でも、「キクちゃん」には違いないでしょ。そりゃ、素直に云う事聞くわよ。あんたがそういう風に育てたんでしょ。何だっけ、三つ子の魂百まで?だから、ね」
そういう風に育てた、の?
僕は、何にも覚えてないのだけれど。
「ナナに云わせると、甘いだけのダメな父親だったみたいだけれどね。だから余計に、じゃない?反抗もせずに、素直に育ったのよね」
ふふん、とルリおばさんは楽しそうに笑ってる。
甘いだけのダメな父親
それは、わかるような気がする。しつけに厳しそうなナナなら、きっとそう云うだろうなって思う。
それで、反抗もせずに素直に?
そういうものかな。
「あんただってそうでしょ。キョウコさんやキイチロウさんに云われたら、わりと素直に云う事聞くんじゃない?それと一緒よ」
そう云われて、なんとなく腑に落ちた。なるほど、そういうものかも。
ぴこん、とJが人差し指を立てて、
「じゃあ、あの話、うまくいくかも」
にっこり笑う、けれど。
あの話、って?
「今日、帰りに話してたでしょ。キクヒコを「説得」する、っていう話」
ああ、その話。
え、でも、それはどうだろう。
不思議そうな顔をしてるルナとルリおばさんに、Jが今日の帰りに僕が話してた「あの話」を説明してくれる。
聞き終えるなりルナが、案の定、ふくれっつらで、
「えー、何なのあんた、お人好し?」
予想通りの反応をしてくれる。まあ、そうだよね、云うと思った。
「それはまた」
ルリおばさんは、ぽかんと口を開けて驚いたような顔をしていたけれど、
「ああでも、「キクちゃん」って感じね」
ふふふ、と困った顔で笑ってた。
「ほら」
ね、みたいに、Jがにっこり微笑む。
そうだね、Jの予想も、大当たりだ。