song for someone iv

屋根裏ネコのゆううつ III

火曜日は、どんよりと重たい灰色の雲に覆われた、寒い日だった。
今にも雪が降り出しそうな、体の芯まで凍えるような、そんな寒さ。
もう11月も今日で終わり、明日には12月になるんだものね。
昨日の明日を指定したのは僕らなので、至極当然の事ながら、今日はもうハンスに「揺り籠」を飛ばしてもらう日だ。
なんとなく落ち着かない気分のまま、1日の授業が終わり、あっという間に放課後になってた。
ルナは、いつも一緒に帰るトモちゃん達のグループの所に駆けて行って、何か二言三言交わして、
「じゃあねー、ばいばーい」
ひらひらと手を振って、席に戻って来た。
その表情は、いつも通りのように見える、けれど。
「キクター」
ランドセルを机の上に置き、何故かもう一度椅子に座ってルナは僕を呼ぶ。
てっきり、トモちゃん達への挨拶が終わり次第、一緒に教室を出るものと思っていたので、僕はもうランドセルも背負って帰り支度をして立って待ってたのだけれど。
また座るの。
振り向くと、ルナはランドセルの蓋をぱかっと開けて、制服の胸にとまらせてた黄金虫・おーちゃんをそっと外しながら、
「まずベースのロリポリちゃんのとこへ行って、お迎えの準備ができたら、ハンスちゃんに電話する、って話だったけどー」
歌うように云う。
そうだね、だから、おーちゃんを外す必要はないはず、だけれど。
外してランドセルにしまおうとしてる、ルナのその行動が、そのまま答えかな。
「ラボへ行くの」
僕も自分の椅子を引いて、後ろの席のルナの方を向いて腰掛けながら尋ねる。
「その方が良くない?なんとなく、だけど」
そう云いながら、ルナは開いたランドセルの口の所で、おーちゃんを持った手を止めてる。
ちらりと見下ろしたら、おーちゃんは不安げにルナの顔を赤い眼で見上げてる、ような気がした。
おーちゃんもランドセルに入るの、嫌なのかな。
「そりゃーね、ルナの服にとまってる方がいいに決まってるじゃん。周りも見えるしさー」
それはそう、だね。
ラボへ行くのは、ハンスが「揺り籠」を飛ばす所を、見届けるため、かな。
「揺り籠」はロリポリの腹部だから、元々の体であるロリポリ本体の所へ飛ばす事それ自体は何の問題もないはず。
ハンス自身が「できる」と云ってるので、能力的にもそれはできるのだろう。
その場に立ち会って、作業を見届けたいのは、できるかどうかが心配なわけではないよね。
僕らのいない場所で、誰の目もない状態で、ハンスが「揺り籠」を飛ばす、それ自体に、不安があるのかな。
「うん。んにゃ」
肯定とも否定とも取れるような返事をして、ルナは小さくうなずいて、
「ハンスちゃんが何かするとか、じゃー何するつもりなのとか、そこまでは、るな、わかんないけどー」
小さな口をツンと尖らす。
ハンスがどうこうと云うより、その場を見届けたい、そして見届けた、という安心感かな。それが欲しいのかもしれない。
「揺り籠」が無事にラボから「飛ぶ」のを見届ける。そしてすぐにルナの「輪」でロリポリのホールへ飛ぶ。そうすれば、「揺り籠」が無事に到着した事も確認できる。
「うん、そーね」
ニッと口元に笑みを浮かべて、「おーちゃん、ごめんねー」ルナは止めていた手をそっとランドセルの中へ入れる。
ランドセルの中から、不満げなおーちゃんの声が「きゅ」と聞こえた。
ルナは席を立つと、机の上に立てて置いたランドセルに背中を向けて、揺らさないように、かな、器用にするりと腕を通して背負ってた。
教室の中を見渡すと、今日は寒いので、みんな早く帰るのかな、残ってる子はほとんどいなくなってた。
またひとけのない図工室の前辺りまで行ってそこから「飛ぼう」かと思っていたけれど、これなら誰もいなくなるのを待つ方が早いかも知れない。
教室の前の方、今日の日直さんが日誌を書き終えるのを待っていたらしい、ヨッちゃん達のグループが、椅子を鳴らして立ち上がり、
「じゃーね、ルーちゃん、スズキっちも、ばいばーい」
元気に手を振って、ぞろぞろと教室を出て行く。
「ばいばーい」
ルナが元気に手を振り返すので、僕も一緒に手を振る。
さて、とルナが席を立つ。
「ちょっと待ってね」
僕は「海」を振り返って、Lの基地のドアの呼び鈴を鳴らし、それからハナの「海」に声をかける。
「ナナ、そろそろ行くよ」
ふわりとテラスのいつもの席にナナが現れるのと、Lの基地のドアがいつものように勢いよくバーンと開くのがほぼ同時だった。
ぱちんと指を鳴らして、ふたり分のお茶と、僕とルナの視界の窓をテーブルに出しながら、さっきのルナとのやりとりをナナとLに共有する。
「まあ、そーね」
Lはナナの隣のいつもの席に腰を下ろしながら、
「ハンスが何かするとしても、このタイミングでやるほどマヌケじゃないよね。何かしたけりゃ、これからいくらでもチャンスはある、そー思ってんじゃないかな。Mちゃんがホールを監視してる事は、あいつは知らないからねー」
はっはー、といつものように陽気に笑う。
「好手じゃの」
ナナも両手で湯気の立つ湯呑みをかかえながら、ふふんと笑って、
「あやつに釘を刺しながら、状況も見届けられ、安心できる。悪い事はなかろ」
それはそう、さすが、ルナの発案だね。
「お世辞はいらないよー。キクタは、ゴーグル嵌めないのー。あとキクヒコはー?」
銀のゴーグルを嵌めて、ランドセルを抱え、席から立ち上がったルナが云う。
「ちょっと待ってね」
もう一度云って、僕はゴーグルを装着し、上着のポケットのスマホを確かめる。
画面は暗いままだけれど、キクヒコさん、見えているのかな。
タップしたら、画面にいつものアバターがふわりと現れる。
「聞こえていた。先にラボへ行くんだな。では画面は消しておこう」
機械の声が、スマホから云う。
「それから、基本的に移動はルナの「輪」に任せるぞ。俺の「輪」は緊急避難用と思っておいてくれ」
「はいはーい」
ルナの返事も待たずに、スマホ画面はスッと暗くなってた。
うん、キクヒコさんって感じ、だね。
「おねぇちゃんは、呼ばなくていいの」
ルナに尋ねられ、どうなんだろう、と思う。
特に、昨夜の時点では「呼んで」とは云われてなかった、よね。
なんとなく、今日もキクヒコさんがいるので、呼ばない方がいいのかな、と思ったり、しなくもないけれど。
それに、数日間は安静、との事だったので、今日もまだ点滴をされているのだろうし。
「まあでも、声だけかけとこーぜ」
Lが云って、またテラスで指先をちょいちょいっと振って、ルリおばさんの窓の風鈴を鳴らす。
白い木枠の窓が、少しだけ開いて、
「うーん・・・、今日はなぁに?」
眠たそうなルリおばさんの声が云う。
「ロリポリちゃんの「お腹」の移動だよー。ハンスちゃんが「輪」で飛ばしてくれるのー」
「あ、そ」
短い返事の後、大きなあくびが聞こえて、
「ごめん、無理。死ぬほど眠くて、目が開かないわ」
本当に眠そうなルリおばさんの声を聞いて、病院の陰謀説もあながち間違いではないのかも、と思った。
まさか本気で脱走させないために?ではないとしても、うろうろしがちなルリおばさんを安静に休ませるために、眠くなるようなお薬が投与されてる、って事なら・・・、いや、でもやっぱりそれは陰謀なんかではなくて普通に治療だよね。
「まあ、無理を押して見る程のものでもなかろ」
ナナが云うと、
「そーだね。じゃあルリちゃん、お大事にねー」
Lが窓に向かってひらひらと手を振る。
窓は細く開いたまま、だけれど、もう眠ってしまったのかな、ルリおばさんの返事はなかった。
「おかっぱと三つ編みはまだ授業中か。では、あとは」
ナナがちらりと僕の視界の窓を見る。
そうだね、あとは、Mを呼ばないと。
「M、そろそろ行くよ」
Mの「海」に、そう僕は声をかける。
「先に、ラボへ行く事になったよ」
「では私も予定通り、まずはそちらで見守らせていただきましょう」
声と共に、テラスの下にモニカの姿のMがふわりと現れる。
ぱちん、と指を鳴らして、テーブルの上にモニカの分のお茶を追加する。
うん、準備OKかな。
僕も席を立つ。
「じゃー行くよー」
ルナが教室のドアへ向かうので、
「ここから「飛ぶ」んじゃないの」
尋ねたら、
「上履きのまま?」
あきれ顔で云われて、あ、そうか、と気づく。
それはそうだ。前回は昼休みだったから、良かったけれど。今日も上履きのまま飛んだら、帰りにまた靴を履き替えるために学校へ戻って来ないといけない、よね。
「そーゆーことー」
ルナがまた歌うように云って、ランドセルを揺らさないようにかな、しずしずとドアを開けて教室を出て行く。
1〜2年生用の玄関も、もう人影はまばらだった。
上履きを脱いで下駄箱に入れ、外履きを取り出して履く。
ルナはランドセルの水平を保つため、かな。上半身をまっすぐにしたまま、膝を曲げて下に手を伸ばし、脱いだ上履きを拾い上げようとしてたので、僕がかがみ込んで上履きを取り、ルナの下駄箱に入れる。
ついでに外履きも取り出して、玄関のスノコの先に並べて置いた。
「わあ、ありがと。雪でも降るかな」
ニヤニヤしてるのは、僕がめずらしく気を利かせたから、だよね。
でも僕がそれをしようがしまいが、外は今にも雪が降り出しそうな雲行きだけれど。
今日は朝から、制服の上にダウンの上着を着て来た。
母はまだルナ達とホテル暮らしなのだけれど、日曜に家に戻って来た時に、ちゃんと僕の冬服を準備してくれてたので。
ルナもいつものチェックの制服の上に、可愛らしい赤いフード付きの上着を羽織ってる。
眠り姫と云うより、赤ずきんちゃんみたいだ。
「あ、ママとおんなじコト云ってるー」
外履きをつま先に引っ掛けて、体をかがめずにつま先で床をトントン蹴って履きながらルナがニヤニヤ笑ってる。
おんなじコト
まあ一応、親子なので。感性が似ているのかも、だね。
と云う事は、それも「ママ」に買ってもらったのかな。
「うん。るな、上着持ってなかったからねー。学園にいた頃は、めんどくさいからふもとの小学校まで毎日「飛んで」たし」
へへへー、と悪びれずに軽く笑う、けれど。
毎日通学のたびに「飛んで」いたら、消耗も早かったんじゃないのかな。
「うん、だから、わりと頻繁に「眠り」の時期が来て、しょっちゅう学校休んでたよー。キクヒコからもらったゴーグルに、フカケーゲン?の効果があるなんて、知らなかったもん。だから、学校行く時は着けてなかったんだよー」
「何でだ、説明しただろ」
上着のポケットで僕のスマホが、急に喋り出すのでびっくりした。
キクヒコさん、なのはわかってるけれど、まだ慣れないね。
「説明した?そーだっけ?だって、アレもらったのってだいぶ小さな頃だったし、覚えてないよー。それに、るなが小さすぎて、ゴーグルぶかぶかだったじゃん。今もだいぶユルユルだけどー」
玄関のガラス扉を押し開けて、外に出ると冷たい空気に身がすくむ。
まだ学校の敷地内ではあるけれど、一応、校舎の外に出たので、スマホを出してもだいじょうぶかな、と上着のポケットからスマホを出して、ストラップで首から提げる。
いつまでもポケットの中じゃ、キクヒコさんの視界がまっくらだもんね。
「感謝する」
ボソリと機械の声が云うのって、アニメやSF映画でロボットと話してるシーンみたいで、何だかかっこいいね。
「だろ?いいなー、オレもそれやりたいなー」
そう云えば、Lは最初にゲンゴロウ先生に会った時から、それ云ってたよね。
なるほど、ようやく僕にもその気持ちがわかったかもしれない。
「それじゃー、行きますよー」
1〜2年生用の玄関を出たところで、くるりと辺りを見渡して、ルナが云う。
そうだね、ここならだいじょうぶかな。逆に少し進んでしまうと、上級生の玄関や職員室の窓から見えてしまいそうだし。
周囲にはもう、クラスメイトも同学年の生徒の姿も見えない。
と見るや、ふわりと体が浮き上がる。
足元に白く光る「輪」が現れ、次の瞬間には薄暗い地下空間、のはずが、ラボには明かりが点いてた。
ハンス、もう来てるのかな。
ここへ来てから電話すればいいかと思って、まだ僕からは何も知らせていなかったのだけれど。
「キクタ、あれ」
不審そうに辺りの様子をうかがってたルナが、何かに気づいたらしい。
指差してるのは、「揺り籠」の向こう側、かな。
眼をやって、すぐに気づいた。
壁際の本棚が動いて、隠し通路があらわになってる。
ピリッと耳の奥で警告音が鳴ったような気がしたけれど、気のせいだろうか。
ゴーグルに触れて、「線」モードに切り替える、けれど、赤や黄色の「線」は出ていない。
いや、見えるか見えないかくらいの透明な「線」が、「揺り籠」の向こうを差してる。
「くっ」と短く、うめくような声が聞こえた。
壊れたスピーカーから響くような、ひび割れた声は、ハンス?
僕の位置からでは、ロリポリの腹部「揺り籠」が間にあって、透明な「線」の差す先が見えない。
「ハンス、そこにいるの」
声をかけて、僕はルナを後ろに庇うように、じりじりと「揺り籠」を迂回して前に出る。
大きな岩の塊のような「揺り籠」の向こう側に、まず見えたのは、土の地面に横倒しになった電動車椅子?
ハンス、倒れてるの。
「ハンス、だいじょうぶ?」
慌てて駆け寄ると、車椅子の向こうの地面、仰向けに倒れた長身の白衣の男は、間違いない、ハンスだ。
そばに寄ろうとして、一瞬、足が止まったのは、赤い色が眼に入ったから。
白衣の脇腹辺りに広がる、鮮やかな赤い染みは、血だ。
「ハンス!」
声をかけるけれど、ハンスは意識がないらしい。返事がない。
あの奇妙なゴーグルを着けているので、眼は開けているのかどうかもわからない。
立ち止まったまま戸惑う僕の横をすり抜けるように、ルナがするりと進み出て、迷いもなくハンスの傍に膝をついてかがみ込む。
「ルナ、何を・・・」
慌てて引き止めようとするけれど、僕の体が動くよりも早く、金色の光が、ハンスの脇腹を照らす。
倒れたハンスの上に掲げたルナの両手から、金色の光が広がって、血に濡れた白衣の脇腹を包み込むよう。
「いたいのいたいの飛んでけー」
囁くように歌うように、ルナの口からかすかな声がする。
呆然と、僕はその様子を見つめていたのだけれど、意識の片隅でふと、疑問がわいた。
ルナの左足に入った「御子の核」が、本来の機能である「死にかけた生命を生かす」方の力を発揮するのは、いったいいつなのだろう。
ヌガノマホワイトの時も、キクヒコさんの「記憶の梯子」の時も、そして今も、「核」はルナの中にいて、その対象の体の中へ移動したりはしていない。
ルナの中で光って、「いたいの飛んでけ」の治癒の力だけを発動してる。
つまり彼らは、「核」が移動するための条件を、満たしていない、という事なのだろうか。
ひどい怪我を負ってはいるけれど、「死にかけて」いるわけではない。だから、「核」はルナの体内に残り続けたまま、「いたいの飛んでけ」の力だけを使ってる?
御子は、何と云ってただろう。
そもそも「いたいの飛んでけ」を、御子は「知らない」と云った。
核にそんな機能はない、とも。
特別製のルナだからこそ使える、治癒の力。それが「いたいの飛んでけ」
ルナ自身は、「勝手に動いちゃう」と云ってたので、ルナが意識して、核の力を引き出しているわけではないのだろう。
無意識、だろうか。
ルナの無意識の「痛そう、かわいそう」という思いに、核の力が反応して、近づいた対象を癒してる。そういう事なのかもしれない。
「核」は人の力では取り出す事も動かす事も出来ない、御子はそうも云ってた。
その「核」に作用するルナの「無意識」は、やっぱり「強い」のかも。
そんな事を、僕は心の片隅で、なんとなく思ってた。
こんな時に、場違いだとは思うけれど。
時間にして、1〜2分、だったろうか。
金色の光が小さくなり、やがて消えた。
「はい、おしまい」
ルナがいつもののんびりとした調子で云うのと同時に、ハンスがぴくりと身を震わせて、大きく息を吸い込むのが聞こえた。
「ハンス、だいじょうぶ?」
尋ねた僕の声で、眼の前にいるのがあのハンスだと思い出したみたいに、ルナがさっと身を引いて、僕を盾にするみたいに後ろに下がる。
「ああ、K・・・。ぼくは、いったい」
上体を起こしたハンスが、ゆっくりと左右に首を振りながら、かちゃかちゃと回るゴーグルが、僕の後ろに隠れたルナを見つけたらしい。
「眠り姫?・・・なるほど、あなたの「力」ですね。ありがとうございます、おかげで助かりました」
にっこりと微笑んで、いつものように大袈裟なお辞儀をしてる。
「だって、勝手に動いちゃうんだよ」
ルナは不満げに、心の声で云う。
それはまあ、そうなのだろうけれど、でも、ありがとうだよ。
ハンスは地面に座り込んだまま、血まみれの白衣をめくり、その下のシャツの裾を引っ張り上げて、傷口を確認しているらしい。
「恐るべき治癒力ですね。まるで魔法のようです。もう傷跡すらありません」
あの時、ヌガノマホワイトの撃たれた傷も、ハンスは確認していたはずだけれど、自分の身に起きてみると、あらためて、という事なのだろうか。
「いったい、どうしたの。何があったの」
何か器具か機械の操作でも誤ったか、それとも電動車椅子が故障したのかと、僕は思ってた。
場所が場所だけに、そんな脇腹に大怪我を負うような何かが、他には想像もつかなくて。
けれど、
ハッと何かを思い出したように、ハンスが表情を硬くして、
「こうしてはいられません、急ぎましょう」
云うなり、倒れた車椅子につかまって、立ち上がろうとする。
ガシャンガシャン、両足の義足を鳴らして立ち上がると、倒れた車椅子を両手で押して、起こしながら、
「ブラウンです」
短い一言に、僕は背筋が凍りつくような気がした。
そして思い出す。
そうだった、本棚の隠し扉が、開いていたのだ。
ハンスがあの扉から出入りするはずはない。
血を流して倒れていたのも、機器や何かの事故や、車椅子の故障であるはずがなかった。
「ラボのセンサーが反応しましたので、てっきり、あなた方が来られたのかと思い、ぼくもすぐに「飛んで」来たのです。そして明かりを点けたところ、あの男が「揺り籠」のそばに立っていました。銃を手にして」
そう聞いて、慌てて僕は振り向いて「揺り籠」を確認する。
博士は、いつも通り眠っている、ように見える、けれど。
「父は、無事です。あの男が父をどうするつもりだったのかは、わかりません。まさか、撃とうとしていたのでしょうか。銃を手にしてはいましたが、父に向けて構えていたわけではありませんでした。
咄嗟にぼくは、叫んでいました。「何をしているのです!父から離れなさい!」と」
起こした車椅子に、ハンスは腰を下ろして続ける。
「すると、ブラウンはこちらに銃を向け、ためらう事なく撃ちました。避けようと身を捻りましたが、ほんの3〜4m程の至近距離です。避け切れるはずもなく、脇腹を撃たれ、身を捻った勢いのまま、車椅子ごと地面に倒れました。とどめを刺そうとするかのように、あの男がこちらへ近づくのが見えましたので、ぼくは咄嗟に「通報した!すぐに警察が来るぞ!」と叫びました。もちろん、苦し紛れの嘘です。場所も場所だけに、例え呼んだとしても、すぐに警察が駆けつける事などあり得ないのですが。しかし、あの男には効いたようです。開いていた本棚の隠し扉から、あの男は逃げ去りました」
壊れたラジオのような、雑音混じりの声で淡々と云う。
「それでも、急いだ方が良いでしょう。元より、何を考えているのかもわからないあの男の事です。気まぐれを起こして、すぐに戻って来ないとも限りません。今にして思えば、親愛なるK、「揺り籠」をベースへ移すというあなたの申し出は、父の安全にとってもその方が遥かにいい事です。ブラウンは、(あいつが何を思ってここへ戻って来たのかは、ぼくにはわかりませんが)少なくともあの男は、ベースへ入る事が出来ないのですから」
それは、そう、ハンスの云う通りだ。
「ふむ」
ハンスは何か確かめるように、車椅子の上で姿勢を正して、「揺り籠」をじっと見つめてから、僕とルナを振り返る。
「さすがは、御子の核、ですね。体に問題はないようです、大丈夫、「揺り籠」は問題なく「飛ばす」事が出来ます」
自信たっぷりにうなずいて、「ただし」と右手の人差し指を立てる。
「ひとつだけ、お願いがあります。眠り姫、あなたにです」
「なーにー」
ルナはまだ僕の後ろに半分隠れたまま、けれどいつもの調子でのんきに尋ねる。
ハンスはちらりとまた僕の方を向いて、
「以前にもお話ししました通り、あれほど大きな物を「飛ばし」た場合、しばらくは能力が使えなくなります。ゆえに前回、生命維持装置の時は、ぼく自身も一緒に飛んだのですが、今回はそうはいきません。ロリポリのホールを見せていただきたい気持ちは山々ですが、ぼく自身も「飛んで」しまえば、帰りは徒歩になります。ですから今回は「揺り籠」だけを飛ばし、ぼくはこの場に残るつもりでいたのです。ここからでしたら、歩いて帰れない事もありません。地上へさえ出れば、車を呼ぶ事もできますから。しかし、事情が変わりました。ブラウンが、あの男が戻って来る可能性もあるとなれば、のんびり地下道を歩いて帰るというのは、できれば避けたい」
「ははあ。じゃー「揺り籠」を飛ばしたら、るなに、ハンスちゃんをお家へ「飛ばして」ほしいってコトねー」
「左様です」
ハンスは大きくうなずいて、
「ぼく自身、少々あの男を甘く見ていたかもしれません。あれ程の大騒ぎを起こしてしまったら、しばらくはどこかに身を潜めるか、少なくとも動きにくくなるだろうと踏んでいたのですが。そんな常識の通用するような相手ではない、という事なのかもしれませんね。であればこそ、です。まさかとは思いますが、再びリバーフロントマンションの清掃用ゴンドラに乗り込んで、今度はぼくの部屋を狙わないとも限りません。あそこには今、キクヒコもいますから」
さらりと云われて、例え話とわかっていても、またゾッと背筋が寒くなる、けれど。
「いいよー」
僕の肩越しに、いつもの調子でルナが答えてくれるので、なんだろう、少しホッとする。
ハンスはいつものように車椅子の上で大仰なお辞儀をしてみせて、
「感謝いたします、姫様。あなたはぼくの命の恩人です」
にっこり微笑む。
ルナは心の声で、
「うげー」
うんざり、みたいな感じでつぶやいてた。
「念のため、ですが、親愛なるK、それに姫様」
ハンスが口調をあらためて、
「今後、もうここへは近づかない方がよろしいかと思います。まあ、「揺り籠」もなくなれば、あらためてここへ来る用事は、あなた方にはないかと思いますが。ブラウンの動向がわからないのはもちろん、ホワイトもまた、未だあの牢につないだままにしています。ぼくにはどうするつもりもないのですが、かと云って解放する理由もありません。水だけは与えていますので、あの場所で餓死するような事はないはずです」
また淡々と云う。
ヌガノマホワイトは、云われてみれば、そうだよね。
僕らにしても、それは同じだ。あいつをどうこうするつもりもないけれど、かと云って解き放つ事に賛成はできない。
「云われなくてもわかってるよー。もう来ないから、安心してー」
はいはい、みたいな感じで、めんどくさそうにひらひら手を振りながら、ルナが云う。
そうだね、もうここへ来る事もないはず。
「ありがとうございます」
ハンスは嫌味なくらい深々と頭を下げて、
「そう仰っていただけて、安心しました」
また、やわらかな笑みを浮かべてる。
「では、急ぎましょう」
さっきから、急ぐと云ったり、そうかと思えば何かくどくどと話し始めたり、ハンスは何がしたいのか、よくわからない。
ブラウンの突然の襲撃に、だいぶ混乱しているのは、間違いなさそうだけれど。
急ぐべきなのはもっともで、それでも気がかりな事は云わずにおけない、という感じなのかな。
「参ります」
今度こそ、ハンスは「揺り籠」に向き直り、右手の人差し指を上げて、集中する。
「ところで、ベースのロリポリのホールには、スペースは十分にあるのですよね」
じっと「揺り籠」を見据えたまま、尋ねる。
「うん、だいじょうぶ」
答えながら、腹部である「揺り籠」の「飛び先」として「本体」を選んだら、飛ばされた腹部「揺り籠」は、体にくっつくのかな、なんてふと思う。
キクヒコさんの場合、「飛び先」にNを選んだら、Nの体の中に自然と入るんだよね。
「そうだが、それとは少し違わないか」
ポツリと心の声で、キクヒコさんが云う。
「ロリポリの場合は、自身の体の部位同士だからな。俺とノワールより、関係性で云えばさらに近いだろう。だからこそ、「くっつく」というおまえの意見には、賛成だ。本来あるべき場所へ戻るわけだからな。当然、くっつくだろう。そして「核」とやらの力で、治癒が始まるわけだな」
機械の声で云われると、やっぱりすごく説得力がある。
その場合、博士はどうなるのだろう。
博士自身の意思は、以前、僕も直接聞いて、承知してる、けれど。
腹部である「揺り籠」がロリポリの体にくっつけば、博士の体も、そのままロリポリの体内に取り込まれる、のだろうか。
だとしたら、やっぱりハンスはもう、父である博士には、会う事ができないのでは。
ふわり、と大きな白い「輪」が現れて、「揺り籠」を取り囲む。
次の瞬間、何の物音もなく、巨大な岩の塊が目の前から消えてなくなっていた。
「ふう」
とハンスが小さく息をつく。
本当に、いいのかな、と僕はまだそんな事を思ってた。
育ての親である博士に、もう二度と会えないかもしれないのに、こんなにもあっさりと、別れてしまって、ハンスはそれでいいの。
そんな僕の心の声は、ハンスには届かないのだけれど。
「さあ、お急ぎください。いつまたブラウンが戻らないとも限りませんし、ベースの様子も、ご心配でしょう」
いつものようにスラスラと淀みなく、割れた声で云って、ハンスは急かすようにルナを見る。
「はいはいー」
わかってるよーという顔で、ルナはうなずいて、
「じゃーね、ハンスちゃん。いろいろありがとー」
僕のランドセルの後ろから、ひらひらと手を振ってる。
慌てて僕も、
「ハンス、ありがとう」
それだけ云うのが、やっとだった。
ふわりとハンスが車椅子ごと浮かび上がって、次の瞬間には消えていた。
奇妙なゴーグルの奥の眼には、どんな感情が浮かんでいたのだろう。
微笑みを浮かべた顔が、どこか寂しそうに見えたのは、僕の思い過ごし、なのかな。
「あー」
ルナがまるでいま気づいたみたいに、ぴこんと人差し指を立てて、
「ほんと、キクヒコの云う通りだねー。「飛ばして」すぐまた「飛ぶ」なんて無理だー。ちょっと休憩が必要みたいだよー」
へへへ、と立てた指で頬をかいてる。
「それはそうだ」
当たり前だろ、みたいな口調でキクヒコさんが云う。
「ならここは、俺が飛ばそう」
云うが早いが、まだ返事もしないうちに、ふわりと僕らの体が浮かんで足元に白い「輪」が現れる。
「ちょ・・・、まあいっかー」
ルナののんきな声とともに、僕らは、あのニュータウンの工事現場の地下、ベースのロリポリの前へと飛んでた。







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