夢から覚めたらまた夢だった、みたいな心地だった。
眼を開くと、金髪のふわふわの三つ編みが眼の前にあって、びっくりした。
ガブリエルのベッドで寝ていたことを思い出し、横で寝ているのがガブリエルだとわかるまで、数秒かかった。
すやすやと穏やかなガブリエルの寝息が聞こえてくる。
元々、ここはガブリエルの部屋だし、彼のベッドなのだ。
居候してベッドを使わせてもらっていたのは僕の方なので、ガブリエルがどこで眠ろうが僕には異論も文句もあるはずがない。
白い部屋の天井は、まだ夜空のままだったので、一瞬夜なのかと思ってしまうけれど、もうとっくに夜は明けている時間のはず、だよね。
ガブリエルを起こしてしまわないよう、そっとベッドを抜け出して、白い絨毯の敷かれた床に立つ。
起き上がる時に、ほんの少しだけ、まだ胸に痛みがあったけれど、膝の方はもうほとんど気にならないくらいになってた。
少しずつ、少しずつではあるけれど、体の方も回復しているらしい。
毛足の柔らかなカーペットを裸足で踏んで歩き、ベッドの左側の窓辺まで行って、カーテンを開けてみた。
白い灰の舞い落ちる、全体的に白っぽくくすんだ「オレンジの海」がそこにあった。
さっきまでは、夢の中であの波打ち際の星の砂浜の流木に腰掛けていた。
今は眼の前に、ガブリエルの白い部屋の窓の向こうに、その「海」が広がっている。
やっぱり少し、不思議な感じがした。
「オレンジの海」には、もう誰もいない。
3人で座っていた流木が、白い砂浜にぽつんと置き去りにされているのが見える。
「海とのつながりを失うのは、半分死ぬようなもの」
キクヒコさんは、そう云ったという。
その言葉の本当の重みは、きっとまだ僕にはわかっていない、けれど。
まだ「海」がつながっていて、またJとLにも会うことができて、本当に良かった、と思った。
この「海」を、みんなとのつながりを、僕はもっと大事にしないといけない、とも。
「海」の見える窓のカーテンを元通り閉じて、くるりと回れ右をする。
正面の、ベッドの右側の窓はカーテンが開いていて、日が差して明るくなった屋根裏の景色が見えていた。
窓の正面に、昨日はなかった椅子が置かれているのに気づいた。
何か、レーシングカーのコクピットを思わせるような、スタイリッシュでかっこいい白い椅子が、窓の方を向いて置いてある。
昨夜、Nの体を借りてキクヒコのパソコンの中身を確認するときに、ガブリエルが用意した椅子なのだろう。
Nの体を動かすのに、レーシングカーの運転席に座るという発想が、なるほど名案と思った。
近付いてよく見ると、車の運転席と云うよりは、戦闘機の操縦席のような、あるいはアニメのロボットのコクピットみたいな椅子で、何ともかっこいいし、すごくガブリエルらしい。
わくわくしている子が、ここにもいたんだなと、何だかとても微笑ましい気持ちになった。
「ガブリエルは、夜が明けてもまだパソコンに夢中になっていて、つい先程、お休みになったところです」
声に振り向くと、Nの意識体が影のように僕の後ろにちょこんと立っていた。
そんなに?
僕が眠りについたのが、夜明け前だった。
今が昼頃だとしたら、5〜6時間はキクヒコのパソコンに熱中していた、という事になるの。
「はい、おおよそ、そんなところかと」
Nが、小さな頭でこくりとうなずく。
そんなにも、質・量ともにガブリエルを惹きつける「情報」があの中にはあった、という事なのかな。
「さて、どうでしょう。感想としては、特に何も聞いておりません。ワタシには「ありがとう。おやすみ」とだけでした。ただ、確認を終えられて、ベッドで眠りにつく直前に「キクヒコめ」とつぶやいて、苦笑いを浮かべていたようでしたが」
キクヒコめ?
彼から「最低限必要な事」を引き継いだガブリエルだからこその「キクヒコめ」なのだろうか。
その意味は、僕にはわからなかった。
でも、それならNも、ガブリエルに付き合って徹夜した、という事なのでは。
休まなくてだいじょうぶなの。
「はい。ガブリエルが休まれてすぐに、ワタシも少し休みましたので問題ありません。今日は月曜なので、午後は「公園」へ行かれるのでしょう。そう思って、今しがた食事も済ませてきました」
何と云うか、至れり尽くせりで、Nはまるで有能な執事のようだと思う。そう云えば、サモンジさんに少し雰囲気が似ている気がする。
でも、いつも月曜に公園へ行く事なんて、僕はNに話しただろうか。
「アナタから直接は聞いておりませんが、キクヒコが、毎週月曜にあの公園へ行っておりました。最近は、公園で毎週アナタの姿をお見かけしておりましたので、今日も行かれるのかと」
そう云われてみれば、そうだった。
いつも、あの公園の壊れた噴水のところに、Nがいた。
キクヒコさんは、そうしてNの中から、僕らを見守ってくれていた、という事なのかな。
「さて。キクヒコにその意図を尋ねた事はありませんでしたので、見守っていたつもりだったのかどうかまでは、ワタシにはわかりません。彼は「海」につながっていませんので、アナタ方の会話の内容までは、聞こえていませんでしたし」
少し首をかしげて、Nはそう答える。
「海」とのつながり。
そう考えると、同じようにあの公園で、ラファエルの中から僕らを見ていたLとは、少し立場が違うことになる。
Lは、手をつないだ僕とJの「心の声」での会話は、「オレンジの海」を通じて聞こえてたと云ってた。
その時はまだ、「海」にもそのつながりにも気づいていなかったけれど、僕とJは手をつなぐことで「海」とつながっていたし、Lはラファエルの中のL自身の意識空間「秘密基地」で、「海」につながる扉を見つけていたのだろうから。
でもキクヒコさんには、聞こえない。
ただ、僕らの姿を見ていただけ。
「ただ、生きていてほしい」
先代「キクタ」から引き継いだという、キクヒコさんの言葉を思い出した。
僕らが無事に「ただ生きて」いるのを、キクヒコさんは毎週「ただ見ている」だけ、それでも十分に意味はあった、ということなのかな。
「だからおまえも生きろ、他の子供たちといっしょに」
キクヒコさんは、そうも云っていたと、ガブリエルからは聞いていた。
その時は特に疑問には思わなかったけれど、「他の子供たちといっしょに」という言葉が、今になってふと気になった。
他の子供たち、って?
キクヒコさんは、誰のことを云ってたのだろう。
ガブリエルが僕の中にいることは知っていたはずなので、「子供たち」には、僕も含まれてはいるのだろうけれど。
「キクタといっしょに」ではなく、「他の子供たちといっしょに」と云ったところに、何か意味がありそうに感じる。
他の子供「たち」という事は、ふたり以上の子供であるはず。
キクヒコさんは、LやJのことも、知ってたのかな。
それとも僕ら以外に、他にも「子供たち」がどこかにいるのだろうか。
あらためて、彼は何者なのだろう、と思う。
ガブリエルを「次の王」だと知っていて、彼を助け、長い間、Nの中から僕らを見守り、さらには、僕を助けに来てくれた。
何かとても深い縁がありそうだけれど、彼と僕らとの関係は、いったい何なのだろう。
もし、その辺りの「情報」も、あのパソコンの中に残されていたのだとしたら。
ガブリエルが眼を覚まして、「情報」を共有してくれるのが楽しみだ。
ただ、「キクヒコめ」は、少し気がかりだけれど。
僕もあのパソコンをちょっとのぞいてみようかな、とも思ったけれど、それは何だか、信義に反するような気がした。
ガブリエルに対して、だ。
僕がガブリエルを信じていない、なんてことは全くないのだから、彼から「情報」を共有される前に、勝手にこっそりのぞき見るなんて、なんだか失礼な気がする。
彼を信頼して、あのパソコンの中身の確認を任せた以上は、余計なことはせずに、ガブリエルから「情報」が提供されるのをただ待つべきだ、よね。
それに、キクヒコさんが「最低限必要な情報」を託したのも、他ならぬガブリエルなのだから。
ガブリエルならきっと、託された情報とパソコンから得た情報を合わせて、彼なりに整理した上で「共有」してくれることだろう。
さて、少し早いけれど、出かけようか、とNに声をかける。
家の様子も、見ておきたかったし。
「はい」
Nの意識体がそう答えて、座席の横でスタンバイしてくれる。
ガブリエルが用意してくれていたコクピットに座ると、目の前に屋根裏部屋の景色が広がった。
椅子の高さといい、角度といい、ちょうどいい。
まだ視界は切り替わっていないのに、すでに没入感がとても高い。
Nの意識体がぴょんと軽く跳び上がって、僕の足の上にちょこんと乗った。
「参りましょう」
Nの声と共に、視界が切り替わった。
時刻は、お昼を少し回った頃だろうか。
ほぼ真上からの日差しが、ふたつある天窓からほぼまっすぐに暗い床に落ちている。
ひらりと、Nが、飛んだ。
ちょうど天窓を見上げていたところだったので、臨場感が半端ではなかった。
軽く床を蹴るNの脚の感覚と、ふわりと体が宙に浮くような感じ、そして目の前に天窓が迫り、ぶつかる直前にNが前肢で押したのだろう、くるりと90度回転して窓が開いた。
伸ばした前肢を開いた窓枠に引っ掛けて、床を蹴った勢いをそのままに体は窓の外へ出て、屋根の上にふわりと立つ。
Nにとっては、毎日のように繰り返している一連の慣れた動作、なのだろう、けれど。
僕にはまだ、ちょっとしたアトラクションに乗ったような気分だった。
やっぱり、わくわくする。
カラスの「クロちゃん」の体で、空を飛んでいるというJは、いったいどんな気分なのだろう。
想像するしかないけれど、絶叫マシンどころではないくらい、スリル満点のはず。
クロちゃんに入ったのがJだったのは、お互いにとって幸いだったのかもしれない。
絶叫系が苦手だというLや、僕でなくてよかったかも。
僕らが入れる動物との間には、「縁」のようなものも、あるのだろうか。
そんなことをぼんやりと思っているうちに、Nは屋根を滑るように駆け降りて、軒先から庭の塀の上へひらりと飛び降りてた。
「誰かいるようですね」
視界が、庭越しに家の方を向く。
縁側の廊下に、母が座っていた。
母の横には、土曜日、出かける前に僕が取り込んで適当に畳んだ洗濯物が、そのまま積み上げられている。
座る母は、その洗濯物のうちの1枚なのだろう、あまりきれいに畳まれていないタオルを両手で持っていた。
胸が、きゅっと締めつけられるような痛みを感じる。
ヌガノマに操られたルリおばさんに踏まれた所ではなく、もっと胸の内側のどこか、心臓のあたりだろうか。
母は、ぼんやりと見るともなしにそのタオルをじっと見つめてた。
よく眠れていないのだろうか、眼の下に大きな隈ができていて、顔全体が少しやつれているように見える。
いつも明るく元気な母が、あまり見せたことのない、生気の抜けたような表情だった。
月曜なので普段通りならば仕事があるはずだけれど、今日は休んでいるのだろう。
それは、そうだよね。
一人息子が2日前から行方不明だというのに、仕事どころではないはず。
Lによれば、昨日は、アイが来てくれていたということだったけれど、
きっとあの母のことだから、アイの前では気丈に振る舞って見せていたに違いない。
ぼんやりと手にしたタオルを見つめていた母がゆっくりと顔を上げて、庭の端、塀の上にいる僕の方を見た。
いや、正確には、僕ではなくNの方を見た、のだけれど。
母の眼には、庭の塀の上にいる黒い小さな野良ネコ、として見えているはずだった。
もしも、祖母が生きていたとしたら。
祖母が元気で生きていて、縁側の母の横に座っていたりしたら、きっとNの中にいる僕に気づいてくれたのでは。
でも、もしそうだとして、祖母の前にNの姿で現れて、それでどうするの?
祖母とも「海」でつながっているのなら、話せるかもしれない。
話せるとして、何て云えばいいのだろう?
Nの中にいることを伝える?意識だけの存在になっている事を?
そして「体」は行方不明だけれど、意識だけは無事だからどうか安心して、って云うの?
そんなことはできない、よね。
余計に心配させるだけだ。
なんて、
埒もない妄想だけれど。
しばらくそうして、母はNをぼんやりと見つめていたけれど、やがて大きなため息をついて、ふっとうつむき、眼をそらした。
そして、手にしたタオルに顔を埋めて、もう一度、大きなため息をついていた。
泣いていたのかもしれない。
強そうな事を云ったりしたりする母だけれど、案外泣き虫な事を、僕は知っていた。
母がどれほど心配しているのかを、僕は想像することしかできない。
そして想像できたとしても、おそらくそれは、母の本当の心配には遠く及ばないのだろう。
心配かけてごめん、と心の中で母につぶやいて、僕はそっと、その場を離れることしかできなかった。
塀の上を渡って、玄関に回り込むと、ガレージの門は閉まっていた。
けれど、門の内側に父のオンボロ軽自動車はなかった。
僕を探しに出掛けているのか、それとも、母に云われて、父だけは普段通り仕事へ向かったのかもしれない。
きっと、父も仕事どころではないはずだけれど。
ふう、とひとつ、心の中で深呼吸をする。
僕までしんみりしていても、仕方がない。
そう、気持ちを無理矢理にでも切り替えた。
先へ進まなきゃいけない。一刻も早く、僕の「体」を見つけるために。
視線を南へ向けた。大通りを南へ。
N、ありがとう、公園へ行こう。
そう声をかけると、
「承知しました」
いつものようにNは淡々と答えて、歩道を軽快に走り出した。
公園へ来るのは、いつぶりだったろう、と考える。
まだ少し意識にダメージが残っているのかな、記憶がうまく辿れないような気がする。
まさか先代「キクタ」の影響で、そんなところまでおじいさんっぽくなっている、という事はないと思うけれど。
記憶力の良さにはわりと自信があっただけに、あの襲撃後の記憶力の減退は何とも心細い気がした。
先週の火曜日、だっただろうか。
あの駐車場でアイと会ったのが月曜日、その日はふたりで図書館へ行ったはず。
その日の晩に、父と母の「ミドノ原」の記憶の件が判明して、その翌日に、それをアイに話した。
そしてアイが公園での実験を申し出てくれた。だから、やっぱり火曜日だった。
まだ6日ほどしか経っていないのに、もう何週間も前の事のような気がする。
それは、意識のダメージの影響というより、いろいろなことが起こり過ぎたため、なのだと思うけれど。
公園の入り口から中を眺めると、ベンチに制服姿の小学生が腰掛けているのが見えた。
云わずもがな、Lだった。
夏休みだというのに、どうしていつも制服なのだろう。
実は制服が好きなのかもしれない。
あるいは、出かける服を考えるのがめんどくさいだけ、とか、かもしれないけれど。
Lは、足を組んでベンチの背もたれに大きく体を逸らせて座り、まるでギャング映画か何かに出てくるボスみたいな雰囲気を醸し出していた。
ベンチの足元には、大きな黒犬ラファエルを従えているところも、実にボスっぽい。
近づいてよく見ると、長い金髪を頭のてっぺんでまとめて結び、ちょんまげのように結って背中に垂らしていた。
まさかとは思うけれど、ちょんまげで少しでも背を高く見せようとしている、のかな。
あまりにも、天才児とは思えない稚拙な小技すぎるので、まさか、あの孤高の天才ミクリヤミカエルともあろう者が、そんな事は考えないと思うけれど。
「おい、聞こえてるぞー」
急にLの楽しそうな声がして、びっくりした。
コクピットの椅子越しに振り返ると、「海」のカーテンが開いていて、窓のところでガブリエルが僕に「ごめん」のジェスチャーをしている。
目を覚まして「海」の様子を見ようとカーテンを開けたところ、だったらしい。
カーテンを開けると「声」がつながるの。
それは、便利だ。
「まあ、ちょんまげはおまえの予想通りだから、なんも云えねーけどなー」
はっはっはー、とLは声では笑ってみせたけれど、少し緊張しているのかな、顔は笑っていないみたいだった。
それは、相手があのアイだから、なのかな。
「頼む、K、ネコチャンに、ネコチャンに触らせてくれ」
ベンチにふんぞり返ったままの姿で、声だけ懇願するというのは、なかなか面白いね。
Nは、Lに触られてもだいじょうぶだろうか。
念のため確認すると、
「問題ありません。お安い御用です」
Nはそう答えて、とんとんと軽いステップで小走りに公園へ入ると、ベンチに座るLの隣にひらりと飛び乗り座り込んだ。
後ろから、何か気配を感じて振り返ると、ガブリエルが必死の形相で、声を出さずに両手を振り回して僕に何かを伝えようとしてる?
カーテンを閉じて話せばいいのに。
いや、不意に声が途切れたらLが不審に思うから、なのかな。
ひゅん、とガブリエルが「道」で僕のすぐ横まで滑ってきて、
「Nがあぶない」
耳元で小声で囁くので、何事かと振り返ったけれど時すでに遅し、だった。
Lは、Nの小さな体を両脇からがしっと掴まえるなり、Nの背中に顔をうずめて猛烈な勢いで、匂いを嗅いでいる?のかな?
Nの視界は、公園の入り口の方を向いたまま、ゆらゆらと不規則に揺れていた。
後ろから捕まえられているらしく、Lの顔は見えなかったけれど、揺れる視界の下の方に時々、Lの制服のスカートと足が見えていた。
「ネコチャンネコチャンかわいいねーかわいいねー」
聞いたこともないような、甘ったるい声がする。
え、これ、Lの声?なの?
「ミカエルは、犬も好きだけど、ネコは異常に大好きなんだ。8年経っても、変わってなかったかー」
ため息まじりに、ガブリエルがあきれ顔でそう囁いてる。
N、だいじょうぶ、かな。
「問題ありません。これはなかなか、貴重な体験と、云わざるを得ませんね」
こんな時でもNは冷静に、淡々としてた。
ひとしきりNを吸い込んで?満足したらしい、Lは、ぷはあ、と顔を上げたようだった。
Nの視界が上を向くと、満面の笑顔を浮かべたLがどアップになっていた。
まだ、Nを胸の前にぎゅっと抱いたまま、らしい。
なるほど。
Jに「ネコチャン」を待望して勝手に決めつけていたのは、これが理由だったのか。
「よっし、これでもう何も怖くないぜ。アイでもゴリラでも何でも来いってんだ」
台詞だけは威勢がいいけれど、顔はだらしなくゆるんで、胸に黒ネコを抱いているので、あまりかっこよくはない気がする。
その時、頭上からばさばさっと大きな羽音が聞こえた。
次の瞬間、思いのほか大きな黒い影が、Lのちょんまげをかすめるように舞い降りて、目の前の地面に着地した。
黒いカラスだった。
いつも、あの物置小屋の屋根の上に彫像のように佇んでいた、あのカラス、なのだろう。
「ごめん、お待たせ。あー、L、ずるい」
大きなカラスだった。体長だけで云えば、Nより大きいかもしれない。
そのカラスから、Jの声がするのかと思うと、なんだか不思議な気がした。
いや、実際の声は、「オレンジの海」経由で頭の中に聞こえるのだけれど。
「いいなあ、わたしもK、じゃなかった、Nちゃんを抱っこしたい」
そう云えば、Jも以前ここで、Nと遊んでいた事があると云ってたのを思い出した。
「はい、覚えております。もっとも、あの時はキクヒコが珍しく「代わってくれ」と云いまして、交代しておりましたが」
Nは淡々と、キクヒコさんの秘密を暴露した。
ガブリエルは、声を殺して笑っていた。
キクヒコさんの気持ちは、すごくわかるけれど。
僕も、Jに遊んでもらえるなら、Nに代わってもらいたい、かも知れない。
「ちょ・・・、K、キミさ、まじめな顔で、そういうこと云うの・・・やめて」
ガブリエルが身を捩って笑いをかみ殺しながら、僕の耳元で囁いてる。
「ところで、どうしてこんな日なたのベンチ?暑くないの?」
Jの疑問は、もっともだ。
僕は、Nが視線だけをつなげてくれているから、体は少しも暑くはないけれど。
「ここの方が、迫力出るかなって」
Nを抱いたまま、Lが云う。
迫力?
そんな理由だったんだ。
確かに、そこはかとなくボスっぽい雰囲気は出てたけれど、それでも、周りはのどかな公園だし、あまり効果的ではないかもしれない、ね。
「暑いよ、電車ブランコ、行こ。あそこなら日陰だから」
そう云うなり、Jは、いやクロちゃんは、ばさばさっと羽ばたいて、電車ブランコへ飛んで行く。
「いやあ、電車ブランコってさー、いかにも迫力ねーじゃん」
文句を云いながらも、Lも立ち上がって移動を始める。Nを抱いたままで。
迫力迫力と云うわりに、Nを胸に抱いたまま離そうとしないのは、どうなんだろう。
「ワタシは、一向に構いませんが」
Nは、どこまでも冷静だった。
まあ、Nがいいのなら、僕には異論はないけれど。
「キミたちって、本当に愉快だよねえ」
いつのまにか、僕の座るコクピットの横に助手席が現れていて、ガブリエルはそこに座って楽しそうに見物を始めてた。
小声で囁くのが面倒になったのか、ぱちん、と指を鳴らすと僕の耳にインカムが装着された。
「うん。これで気兼ねなく話せるね。あ、キミの声は向こうに聞こえるだろうから、そこは気をつけてね」
イヤホンからガブリエルの声がそう云った。
何だか、緊張した。
「海」が僕の意識空間であるのなら、意識して声の聞こえる先を切り替えることもできそうな気がするけれど、どうすればいいのかわからないし、今それを試すこともできない。
いずれ試してやり方を確かめるにしても、しばらくは、アナログにカーテンの開け閉めで対応するしかない、かな。
ひとまず今は、ガブリエルが気兼ねなく僕に話しかけることができるだけで、ヨシとしよう。
「K、だいじょうぶか?おまえ、なにかひとりでぶつぶつ云ってない?」
いや、だいじょうぶ、Nと話してた。「貴重な体験と云わざるを得ません」って、Nが云ってるよ。
電車ブランコに腰かけて、ようやくLはNを解放してくれた。
「いいなー、オレもネコチャンとお話ししたいなー」
また、甘ったるい声でそんなことを云いながら。
ブランコの向かいのベンチにN、足元の地面にラファエル、クロちゃんは、電車ブランコの上の支柱に止まっている。
迫力には欠けるかもしれないけれど、いや、これはこれで、何だか黒い動物を操る魔女か何かみたいで、かっこいいのでは。
背景が竹林なので、魔女というより仙人とかそんな雰囲気だろうか。
「おお、いいねー。じゃあそれで行こう」
まんざらでもなさそうにLは笑って、また足を組んで電車ブランコのベンチにふんぞり返ってる。
例の「力」の影響で誰も入って来ない公園だからいいようなものの、客観的に見るとすごい絵、だよね。
金髪のちょんまげで、小学校の制服を着た女の子が、大きな黒犬と黒ネコとカラスを従えて、電車ブランコに乗ってるのだから。
「云われてみると、そうだね、なかなか壮観かも?」
Jも楽しそうにくすくす笑ってる。
「あー、グラサンか眼帯でもしてくればよかったなー」
Lのセンスは、よくわからない。
「うん。エキセントリックだよね」
まるで他人事のように、ガブリエルも楽しそうに声をひそめて笑ってた。
自転車の止まる音がして、見ると、公園の入り口にアイが到着していた。
真っ赤な電動マウンテンバイクを降りて公園の入り口に止め、おずおずと公園に入ってくる。
そうだ、アイはこの公園へ入ると「ぞわぞわする」のだった。
「まあ、それくらいのハンデは負ってもらわないとね?」
Lがやや緊張気味な面持ちで、アイをにらみつけながら心の声で云う。
ハンデって、別に今から実際にバトルをするわけじゃあるまいし。
「アイを怖がってないのはキミだけだからね、お忘れなく」
ガブリエルがイヤホンからそう囁く。
そうか、Lは半年前のあの呼び出し以来、Jもお祭りでちらっとすれ違ったけれど、その前にはここでさんざんひどい事を云われて絡まれたのが最後のアイの印象なんだ。
「何かあれば、お声がけください。いつでも飛び掛かれますので」
Nが淡々と怖い事を云う。
ありがとう、N。でも、その心配はないと思うけれど。
スタンドを立てて入り口に自転車停め、公園へ入ってきたアイは、すぐにLを見つけたらしい。ぎょっとした顔で一瞬固まってた。
それはまあ、そうだよね。
半年ぶりに見る同級生が、ちょんまげ頭の猛獣使いみたいになってたのだから。
「ふっ、まず先制パンチは効いたみたいだな」
だから、Lも、どうして対決モードなの。
アイは、なんだか元気がない様子だった。
顔は青ざめていて、眼の下にはさっき家で見た母よりも濃い隈ができていた。明らかに、昨夜は一睡もしていないらしいとわかる。
歩き方も、いつもの堂々とした、のしのしと肩で風を切るようなものではなく、背中を丸め肩をすぼめて、なんだか一回り小さくなったように見える。いや、まあ、それでも大きいのだけれど。
まっすぐにこちらを見ることができないのか、うつむきがちにふらふらとあちこちに視線をさまよわせながら、アイは電車ブランコの前まで来て、そこで足を止めた。
Lは、黙ったまま、腕組みをして電車ブランコのベンチにふんぞり返っている。
所在なさげに電車ブランコの前につっ立ったまま、Lをまっすぐに見ることもできないのか、何故かアイは僕の方を見ながら
「あ、ミカエル、・・・おまえ、め、眼が覚めたんだな、よかったな・・・」
たどたどしくそう云った。
僕の方を見ながらと云っても、正確には、Lの向かいのベンチにちょこんと座った黒ネコのNの方を見ながら、なのだけれど。
「おう、あんときゃ世話んなったなー。救急車、たすかったぜー」
ちらりとアイの顔を見上げて、Lはいつもの口調でそう云う。やっぱり少し、緊張ぎみかな。
「い、いや、俺は、その・・・すまねえ。親父にばれるのが怖くて、救急車が来るのを確認して、その、隠れちまって・・・」
何だか、叱られた子供みたいにしゅんと肩を落として、アイはそう云ってもごもごと口ごもる。
「なーに、ちゃんと呼んで、来るまで見届けてくれたんだろ?ならいいんじゃね。気にすんな」
そう云って、Lは足を組み替えて、
「それより、話ってなんだ?聞かせろ」
電車ブランコの上にいても、立っているアイの方が背が高いから見上げる形になっているのに、Lは何故か上から目線でそう云った。
いや、わかってる、Lはそんな無礼な子じゃない。ただちょっと、まだアイにびびってるだけなんだ、よね。
「あ、ああ・・・」
アイはアイで、黒い動物たちに囲まれたLに何か気圧されているのだろうか。
あるいは、本当に体調がすぐれないのかもしれない。こんなに元気のないアイは、僕も見たことがなかった。
アイの視線が、黒ネコの僕から離れ、ラファエルを見て、次に支柱の上のクロちゃんを見て、最後にようやく、Lを見て止まった。
「ああ・・・、何から、どう云えばいいか・・・」
そう云って、アイはまた口ごもり、下を向いてしまった。
何からどう云えば?
そんなにもいろんな話があるのだろうか。
そんなにも、アイが抱え込むような話っていったい?
「おっけー、じゃあオレから質問するわ。順に答えながら、おまえが抱えてるモンを全部話してくれりゃいいぜー」
Lは、ようやくエンジンがかかったようだった。
好奇心を燃料にして回る、無敵の天才エンジンだ。そうなれば、もう怖いものはない、よね。
組んでいた足も腕組みも解いて、身を乗り出すように座り、まっすぐにアイを見据えている。
「ふふっ」
イヤホンから笑い声がしたので見ると、ガブリエルも助手席から身を乗り出して、食い入るように窓の向こうを見つめている。
その姿も表情もLにそっくりで、あらためて双子だなあと思ってしまった。
「わ、わかった」
アイがそう答えて、丸まっていた背筋を伸ばす。
まだ青ざめてはいるけれど、表情には何か覚悟のようなものが現れているように見えた。
うん、やっぱりアイはその方がいい。堂々と背筋を伸ばしてまっすぐ立っている方が、アイらしい。
「よし、じゃあ昨夜の電話の続きからにしよーぜ。おまえ、Kの家に行ったって云ってたよな。あ、Kってのはキクタのことな。まずそこから聞かせてくれ」
そう云ったLの青い眼が、きらきらと輝いて見えた。一言も聞き逃すまいとするような、眼と耳と脳の機能がフル回転しているような、そんな輝きだった。
「お、おう・・・」
姿勢を正していたアイも、Lのその迫力に圧されたらしい。一瞬、たじろいだように見えた。
「お、一昨日、土曜の晩、21時くらいに、キクタの母さんから、電話があったんだ。あいつがまだ家に帰らない、どこへ行ったか知らないか、って」
ぽつりぽつりと、アイは話し始めた。
Lは、黙ってうなずいて、続きをうながす。
「あいつ、おまえとジーンの、眠り病のこと調べてて、おまえも云ってたろ?あの工事現場、ニュータウンのあの辺に昔、隕石が落ちたって。だから先週、月曜から水曜まで、俺もつき合って一緒にいろいろ調べてたんだ。あいつ、両親には、夏休みの自由研究で隕石を調べてるって話してたらしい。あいつと図書館で調べものした帰りに、あいつの母さんに会った事があったから、それで俺に、何か知らないか、ってさ。けど、あいつの両親は、ああ、なんて云やいいのか、あの工事現場の、記憶が・・・」
青ざめていたアイの顔が、ますます蒼白になっていた。
「ふたりはあの場所「ミドノ原」を思い出すことができない、だろ。それはKから聞いて知ってるぜ」
Lがそう助け船を出すと、アイはほっと息をついて、
「お、おう、そうなのか。なら、よかった。どう説明すりゃいいのかと思ってた。それで、俺、あいつにゃ悪いと思ったけど、緊急時だし、話したんだ。あいつとあの工事現場に入り込んだ事。けど・・・ダメなんだ。まるで、俺の云ったことが、ぜんぜん聞こえてねえみたいに「それで、アイちゃん、何か心あたりないかしら」って、あいつの母さん、何度も同じ事を繰り返し聞いて」
そう云って、言葉が途切れ、アイは辛そうに顔をしかめた。
Lは、表情を変えなかったけれど、心の声で小さく「くっ」とうめくようにつぶやいてた。あの「力」を使った時の、サモンジさんの事を思い出したのかもしれない。
紙に印刷された「ミドノ原」を目にしただけでもダメなのだ。耳から入る情報でも同じことが起きるのは、想像に難くない。
「だから、俺、とにかく明日俺も探しに行くからって、心あたりはあるけど、電話じゃ説明しずらい場所だからって」
一息にそう云って、アイは大きく息をついた。
Lは、黙ってうなずいてた。アイには酷なようだけれど、まだ話は始まったばかりだ。続けてもらわないといけない。
「それで、昨日の昼過ぎに、あいつの家へ行ったんだ。ちょうど車であいつを探しに出てた親父さんも帰ってきてて、ふたりで遅めの昼食をとってた。警察へは、土曜の晩のうちに届け出たらしい。一晩経っても帰って来なかったってことで、今日から本格的に捜索が始まってるって親父さんが云ってた。おまえも聞いたかもしれねえけど、市内のスピーカーで、行方不明の小学生の目撃情報を募る放送が日に何度か流れてる」
神妙な顔でそう告げるアイには悪いのだけれど、僕には「あらー」というのんきな双子の声がステレオ放送みたいに左右から聞こえていた。まあ、僕も「あらら」と思ってたけれど。
そう云われてみれば、以前に何度か聞いたことがある気がする。
市内のどこかの施設にいたお年寄りが行方不明になったとか、そういう市の緊急放送を。
まさか、自分がそんなことになるとは、夢にも思わなかったけれど。
「俺、ダメもとで、もう一度ふたりに云ってみたんだ。目の前で直接云えばもしかしたらって思って。けど、電話といっしょだった。あいつに聞いてた通りだった。「実は工事現場の中に、」って云いかけただけで、ふたりとも固まって。俺、ひどい事しちまった」
いや、アイは悪くない。そうまでしてふたりを遠ざけ、守ろうとした誰かの意に反して、あそこへ入り込んだ僕が悪いんだ。
「おまえのせいじゃねーだろ。気にすんな」
Lにしてはずいぶん素っ気ないなぐさめ方だったけれど、それでもアイにはありがたかったのかもしれない。
「あ、ああ」
アイはうなずくと、また口を開く。
「と、とにかく心あたりを探してみるよ、ってあいつの家を出た。それで、あの工事現場へ行った」
あの工事現場へ
僕は、耳を疑った。まさか、あそこへ、アイが、ひとりで?
アンドウ先生から「禁止だ、二度と行くな」って云われてたのに。
「おまえ、ひとりで?親父さんに禁止されたってKから聞いてるけど?」
僕の疑問を、Lが代弁してくれた。
アイが小さくかぶりを振る。
「親父はどうでもいい。そんなことより、あいつの両親も、他の誰も、あそこへ探しに行けねえんだったら、俺が行くしかねえだろ。前の晩、眠れなかったんだ。あいつが、あのマンホールの下で足でもくじいて動けなくなってて、今も助けを待ってるんじゃねえかと思ったら、俺は、俺は・・・」
ぐっと唇をかみしめて、アイは下を向いてしまった。
ごめん、お兄ちゃん。心配かけて本当にごめん。
心から、僕はそう思った。
「アイ、変わったね」
ぽつりと、Jが云う。
「変わったっていうか、昔に戻ったみたい。子供の頃の、無口で不愛想だけど気の優しいお兄ちゃんに戻った。Kのおかげだね、ありがと」
いや、僕は、何も。
「おまえが消してくれたんだろ。アイの中にあった、「裏返し」になっちゃってた変なわだかまりを」
Lが心の声で云う。
「うん。あれはいい使い方だったね。「力」の理想的な使用法かもね」
イヤホンからガブリエルも云う。
いや、でも、それは偶然、だけれど。
あの時は、ただ厄介で、追い払いたいだけだったし、その上、実験のつもりだった。
こうなると見越して使ったのなら、褒められてもいい事かもしれないけれど、そうではないのだから。
「それでも、だよ。アイが昔のアイに戻ったんだから、やっぱり、ありがとうだよ」
ふふふ、とJが嬉しそうに笑った。
元々、アイはいい子だ。それは、僕も知ってる。
たまたま、あの「力」がいいように働いたのなら、確かに、それは素直に喜ぶべき事、なのかもしれない。
「だなー。あの「力」が、そう簡単にぽんぽん使っていいものじゃねーことも、オレたちわかっちゃったしな」
Lの云う通りかもしれない。
影響力の強い「力」だからこそ、使いどころは慎重に見極めなければいけない。
誰かを守るための「力」が、その誰かを苦しめることにもなるのを、僕らは知ってしまったのだから。
「・・・ああ、すまねえ」
下を向いていたアイが、顔を上げていた。
まだ、顔色は冴えない。というより、さらに青ざめているような気がする。
そんなにも、重たい何かを、まだ抱えているのだろうか。
「いいさ、ゆっくり話してくれ」
Lの方は、もうすっかり緊張も解けたようだった。
アイが怖くないとわかってもらえて、何よりだ。
「あの工事現場の、マンホールの話も、キクタから聞いてるのか?」
顔を上げたアイが、Lに尋ねる。
「ああ、おまえとの探検の話はひと通り聞いてる。全部知ってると思って話してくれていいぜ」
Lが自信満々にそう云うと、アイは驚いた顔をしてた。
また、「天才ってすげえな」とか思ってそうだけれど。
「その、マンホールを見つけた日に、うちの親父にばれちまって、だから、中には入れてねえんだ。けど、あいつは、あの通り、怖いもの知らずだから、中に入りたそうにしてたし、ひとりで行ってるんじゃねえかと思って心配はしてたんだ。それで、俺、昨日は懐中電灯を持って行って、中に入ってみた」
え、中に入ってみた?
僕は、再び耳を疑った。まさか、あそこへ、アイが、ひとりで?
いや、アイならマンホールの蓋を開けるのも、あの縦穴を降りていくのも、体力的には何の問題もなく楽々だろうけれど。
僕が中にいるかもしれない、
その思いだけで、あの怖がりのアイがひとりであの暗闇へ入っていくなんて。
すごい、見直したよ、お兄ちゃん。いや、決して茶化しているわけではなく、本心から。
ぽつりぽつりと、つぶやくようにアイは話を続ける。
「地下は、わりと広くて、縦横2mくらいの横穴が続いてた。下水道とかじゃなく、土の地下道だった。工事現場の中へ向かう方はすぐ行き止まりになって鉄の壁で塞がれてた。だから、反対側へ、進んで、しばらく歩いた。50mか、いや100mくらい歩いたかもしれねえ。そこに、人が、倒れてた」
人が、倒れてた
どきっとした。
何となく、だけれど、「なにもなかった」という話だと思っていた。
けれど、そんなはずはなかった。
なにもなかったのなら、アイがこんなにも憔悴して、青ざめた顔をしているはずがない。
Lでさえ、息をのんでいた。
あの地下道に倒れていた「人」が誰なのか、いやでも想像してしまう。
ヌガノマか、あるいは
「キクタかと思って、慌てて駆け寄って、ライトで照らしてみたら、女の人だった。気絶してるみたいだった。その時は、誰だかわかんなかったけど、両手と顔にもひどい怪我をしてて、だから、肩を叩いて、声をかけたら、意識が戻って」
よかった、ルリおばさん、無事だったんだ。
思わず、ほっと息をついた、けれど
「だから俺、彼女を背負って、そのままマンホールに戻って、ひとまず、キクタの家まで運んだんだ」
続くアイの言葉に、愕然とした。
キクタの家まで運んだんだ?
え、なんで?
なんで工事現場の駐車場で救急車呼ばないの?
なんでルリおばさんを、わざわざ、よりによって僕の家に連れていくの?
「K、落ち着いて」
「K、落ち着け」
また、双子が左右の耳から同時にステレオで囁いた。
「オレん時みたいに駐車場で救急車呼べばよかったんじゃね?なんでKの家まで運んだの」
Lが、淡々と質問を代弁してくれる。
「駐車場で呼んだら、俺はまた逃げて隠れなきゃならねえ。キクタの家で呼んでもらえば、隠れなくて済む。とっさにそう思ったんだ。それに、あの場所で、あの工事現場の地下で倒れてたんだ。しかも「伝説の剣」を手に持って。だから、キクタの失踪と無関係とは思えなかった」
工事現場の地下で
「伝説の剣」を手に持って
なるほど、そうだった。
アイは、観察力が鋭い。
マンホールの地下と、伝説の剣、その関係性に気づいた、って事。
「伝説の、なんだって?」
Lがきょとんとした顔をしてる。
あ、ごめん。さすがに、そこまでは話していなかった。
「探検の時に持ち歩いてた、ただの棒きれだよ。キクタが「伝説の剣」って呼んでたんだ。でもその棒きれの意味を知ってんのは俺とキクタだけのはずなんだ。それを持ってたってことは、キクタの失踪と何か関係あるんじゃねえかって思って」
アイが説明してくれる。
そういうことか。何の考えもなしに、僕の家へ連れていったわけではなかったんだ。
それは、ごめん、お兄ちゃん。
「だから、連れていったんだけど、その人、キクタの両親の知り合いだったんだ」
「ルリおばさん、か?」
Lが云うと、青ざめてどこかうつろだったアイの顔に、一瞬、生気が戻ったようだった。
「なんでわかったんだ?そう、親戚のルリさん、って云ってた。家に着くころにはまた気を失ってたから、ルリさんはキクタの両親の顔を見れなかったんだけど」
アイの顔には「やっぱ天才ってすげえな」と書いてあるようだった。
ともあれ、ルリおばさんが無事で本当によかった。
見つけてくれたのがアイだったのも、考えてみれば幸いだったかもしれない。
アイでなければ、ルリおばさんを背負ってあのマンホールを登るなんて、とてもできないだろうし。
「お手柄じゃねーか。Kは見つからなかったにしても、怪我して倒れてたルリおばさんを発見して、救助までできたんだから。人を背負ってマンホール登るとか、おまえにしかできねーだろ」
Lがそう褒めると、また照れて謙遜するかと思いきや、アイは淡々と
「いや、登る間は意識があって、俺につかまっててくれたから。でなきゃとても登れやしなかった。それと、工事現場のマンホールの中で見つけたなんて云えねえから、あの駐車場の草むらの中に倒れてたって事にしといた。救急隊員や警察には、どこまで信じてもらえたかはわからねえけど」
警察も来たのか。
怪我をして倒れてたのだから、それはそうか。
けれど、手の怪我も、顔の、眼の怪我も、ルリおばさんが自分で自分を刺した事になる、よね。
それを警察がどう判断するか、それに、ルリおばさんが意識を取り戻してどう証言するのかも、僕にはわからないけれど。
たぶん、事件にはならないのだろう。
口惜しいけれど、ヌガノマの罪を、証明することはできないのだから。
「倒れてたのはルリおばさんだけだったのか。周りには他に何も?」
Lがそう尋ねる。念のための確認、だろうか。
まさか近くにヌガノマも倒れてた、なんてことは、まあないだろうけれど。
もしそうだったのなら、アイはまず先にそう云うだろうし。
「そばに小さなピンクのハンドバッグが落ちてて、意識が戻ったから、これあんたのか?って聞いたら、うなずいた。だからそれを拾って、渡したら、「ありがとう」って云って、大事そうに肩にかけてたよ。他には、特に何も。もしかしてキクタがいねえかと思って、念入りに周りを照らしてみたけど、何も見つけられなかった」
何かを思い返すように、アイは眉間にしわを寄せて、下を向いた。
アイが、ヌガノマに出会わなかった事は、幸運だったのだろう。
体格では負けていないし、体力も腕力もおそらくアイの方が強いだろうけれど、アイは、体の大きさに反して気の小さい優しい子なのだ。あのヌガノマと本気で戦えるとは、残念ながら思えなかった。
「ひとつ、聞いていいか?」
おずおずと顔を上げて、アイがそう口にする。
「どーぞ」
短くLが答えると、
「キクヒコ、って人の名前か?おまえ、その人知ってるか?あの工事現場を出て、キクタの家に向かう途中で、また彼女が気を失って、そん時に、うわごとみてえに云ってたんだ「キクヒコめ」って。それを、今、思い出した」
ぽつりぽつりと、記憶を辿るようにアイはそう云った。
キクヒコめ?
僕は思わず、隣にいるガブリエルを見た。
ガブリエルも、僕を見ていて、肩をすくめてみせた。
「キクヒコめ、また何かやらかしちゃったの?」
そう囁いて、ガブリエルは苦笑してる。
どうやら、ルリおばさんにとっても、彼はそういう扱いになるらしい。事情はまったくわからないけれど、何だか、キクヒコさんがかわいそうになってくる。
「あー知ってる、ってほどじゃねーかな。名前くらいは聞いたことある、って感じ。ルリおばさんの古い知り合いらしいよ」
Lがそう伝えると、アイは「そうか」とぽつりとつぶやいて
「キクタとキクヒコ、なんか似てるから、あいつと関係があるのかと思ったけど、違うのか」
残念そうに、また下を向いてしまった。
アイにとっては、たいへんな1日だったことだろう。
前夜からの事も含めれば、1日半、だ。
父と母の消される記憶を目の当たりにし、あの工事現場へひとりで入り込み、さらに真っ暗なマンホールにまで潜って、倒れていたルリおばさんを発見して、救出までしてのけた。
その後の、救急隊や警察の対応の時には、うちの父と母もいたとはいえ、見つけて運んだのはアイなのだから、いろいろ聞かれもした事だろう。
「そしてへとへとに疲れ果てて家に帰ったら、眠っていたはずの孤高の天才児から着信履歴が雨あられだよ。家の電話だから、またお父さんに何やらいろいろ云われるだろうし、ねえ。気の休まる暇もないって、まさにこの事だねえ」
アイの立場に心底同情しているらしい。ガブリエルは労わるようなやさしい眼で、アイを見つめてそう云った。
Lも同じ気持ちだったのかな。
「たいへんだったなー、おつかれ」
上から目線をあらためて、まっすぐにアイの顔を見つめて、やさしい声でそう云ってた。
アイは、その言葉に一瞬気が緩んだのか、下を向いたまま、ほっ、と小さく息をついた。
けれど、すぐに上を向いたその顔は、今までよりもさらに青ざめて、血の気を失って真っ白に見えるくらいだった。
「ちがうんだ、これで、終わりじゃねえ」
絞り出すような声で、アイは云った。
これで、終わりじゃない?
まだ、何かあるの。
Lも眉をひそめていた。
「とても信じられねえ、いまだに夢でも見てたんじゃねえかって思う。昨夜もそれで、眠れなくて」
ぼそぼそとつぶやくように、アイはそう云った。
つまり、アイは土曜からほとんど眠れていない、のか。
それで、こんなにもやつれてるの。
「おっけー、聞こう。話してくれ」
どうやらただ事ではないらしい、
そう、Lにもわかったようだった。さっきよりもさらに身を乗り出して、アイの話を聞く態勢になっている。
青ざめたアイが口を開く。
「ああ、ルリさんが救急車で運ばれて、警察の聴取が終わって、全部片付いたのが、夜の8時くらいだった。キクタの親父さんが気を利かせてくれて、途中で家に電話してうちのお袋に事情を説明してくれてたから、帰りが遅くなることはだいじょうぶだった。親父さんが俺の家まで車で送るって云ってくれたけど、自転車だからって断った。キクタの家までルリさんを背負って行ったから、自転車をあの駐車場に止めたままになってたんだ。だから、キクタの家を出て、通りを歩いて、あの駐車場へ向かった」
昨日の夜8時。
僕がNの体でコンビニへ向かったのが夜9時過ぎだった。
その1時間ほど前、という事になる。
僕が家を出たとき、父の車はなかった。アイを送って行ったのではないとすれば、その時間からまた、僕を探しに出ていた、ということなのだろう。
昨日は、月が出て晴れていたので、大通りはそれなりに明るかったはず。
いや、僕がNの眼で見ていたから、明るく感じた、というのもあるかもしれない。でも通りには街灯もあるし、暗すぎるという事はなかったはず。
「コンビニの前の交差点を、駐車場の方へ渡ろうとしたら、信号が赤だった。夜だし、ほとんど車も通らねえ。疲れてたから、とにかく早く家に帰りたかったし、無視して渡っちまうかと思って、渡りかけたら、通りをはさんだ向かい側、対面の歩道に、誰かいた。子供で、見覚えのあるシャツと半ズボン姿で、思わず足を止めて、見間違いじゃねえかと思って、眼をこすって、もっかい良く見たけど、まちがいねえ」
アイは、震えていた。
震える自分の手を、まるで自分のものではないかのように見つめていた。けれど、その眼は、昨夜の交差点を見ていた。交差点の通りの向かい側に立つ、見覚えのある子供の姿を。
「あれは、キクタだった」
震える声で、けれどアイはきっぱりとそう云った。