give it back to me vi

屋根裏ネコのゆううつ

「オレンジの海」に、白い部屋の窓から入るのは、そう云えば初めてだった。
夢で入るのと、特に何も違いがないことに、少しだけ驚いた。
何と云うか、リアリティみたいなものが、もうちょっと感じられるのかと漠然と思っていたけれど。
夢がリアルではない、という意味ではなくて、そもそもここは、いつ来ても文字通り「夢見心地」だったから。
あまりにも現実ではあり得ない風景だから、かもしれない。
オレンジ色の海と、オレンジ色の空。
今は僕の意識が受けたダメージの影響で、海は表面に浮いた灰のせいで白っぽくくすんでいて、空にはところどころにまだ大きな黒いシミがまだらなマーブル模様を描いている。
いつも降っていた温かい雨ではなく、白い灰が、散りかけの桜の花びらのようにはらはらと舞い落ちる。
空には二重の太陽が、寄り添うように仲良く並んで眩しく輝く。
とても現実とは思えない、夢のような風景だといつも思ってた。
夢の中で見ているから、なのかな、とも。
だから、ガブリエルの白い部屋の窓から、直接ここへ来たら、もう少しこの世界がリアルに感じられるのかと、何となく思っていたのだけれど。
実際には、夢で見るのと違いは感じられなかった。
夢がそれだけリアルだとも云えるし、ここがそれほど夢のような世界だとも云える、のかな。
でも考えてみれば、何も不思議ではないのかもしれない。
ここは僕の意識空間、心象風景であり、夢で見ていたのも同じものなのだから。
裸足で砂浜に降り立つと、白い星砂の尖った感触が、足の裏に心地よかった。素足で歩くのは、もしかして痛いのかもと思っていたけれど、そんなことはなかった。
二重の太陽に照らされて、砂浜全体が温まっているのだろうか。地熱のような温かさを足の裏に感じた。
歩くと、砂を踏む感触とその音が、温かな熱を伴って足から僕の体全体に伝わってくる。
波打ち際へと歩を進めると、オレンジ色の海水が白い泡を立てながらゆるやかに行きつ戻りつしている。
足をつけると海の水は適度に冷たく、気持ちが良かった。
ゆるやかに、海からの風が吹いていた。
風に潮の匂いはなく、ほのかに甘い柑橘系の果物のような香りがする。
海の香りというより、この世界の香り、なのかもしれない。
この世界は、いったい何なのだろう。
今さらだけれど、あらためてそう思ってしまった。
僕の心象風景、僕の意識世界、とは云うけれど、この風景は何をモデルにしているのだろうか。
JやLの場合は、それぞれ理想のお庭であり、かっこいい秘密基地だという話だった。
ガブリエルも、彼なりのこだわりがある白い部屋で、「シンプルで気に入ってる」と云ってた。
では、このオレンジの海は?
きれいで穏やかで、とても素敵な場所だと思うけれど、僕にはこの海が何を意味しているのかわからない。
空も海も、夕日の海よりももっと明るいオレンジ色で、その色は夕方に限らず、いつでも変わらない。
太陽がふたつあって、今は灰が舞っているけれど、以前はいつでもあたたかな雨がやさしく降り注いでいた。
それらの謂れが、僕には何ひとつ覚えがない。
どうしてこれが僕の心象風景なのか、その理由が全く思い当たらない。
僕の深層心理のどこかにある、前世だとか大昔の記憶か何か、なのだろうか。
あるいは、僕ではなく、先代「キクタ」に、何かゆかりのある場所、なのかもしれない。
だとしても、不思議な景色である事に変わりはないけれど。
先代は、何か芸術家肌というか、とても想像力豊かな人だったに違いない。
少なくとも僕には、こんな不思議な風景は逆立ちしても思いつきそうになかった。
波打ち際をのんびり歩いて、いつの間にかあの流木のところへ着いていた。
流木も、その上に置かれたクッションも、変わらずそのままだった。
どこにでもありそうなただの流木なのだけれど、何となく、愛着が湧いてきたような気もする。
あの「特別な」お祭りの日の、Jとの思い出もあるし、思えばあそこから、あの海でJが眠りについたところから、僕のこの冒険の日々が始まったようにも思う。
この流木は、何かの記念碑のように、ここにずっと置いておくのもいいかもしれない。
そんなことを思いながら、流木に腰かけた。
座る時、身をかがめるとまだ胸が少しちくりと痛んだ。
膝はほとんど痛みはないけれど、曲げるとほんの少しだけ、きしむような、引きつるような感覚があった。
体を離れていても、意識は体の痛みを感じているのだろうか。
それならばもし今、あいつがどこかで転んだり、頭を強く打ったりしたら、それも僕の意識は感じるのかな?
それはない、ような気がする。
あくまで、胸の痛みや膝のそれは、僕の「認識」している痛みだから、いまだに感じている、という事なのかもしれない。
少しずつ回復しているような気がするのも、実際にそう、というわけではなく、ただそんな風に「認識」している、というだけなのかも。
だとすれば、Lの云うように、この「認識を外す」事ができれば、いま感じている痛みもなくなるのかもしれない。
認識を外す、どうやって?
「ヒントは、認識と無意識なー」
Lの声がよみがえる。
「無意識」に胸の痛みの「認識を外す」?
また、あの実験の繰り返しのような気がしてきた。
意識した時点で、無意識ではなくなる、というあれだ。
どうも僕は、これが苦手らしい。
こと「無意識」に関しては、やっぱりJが1枚も2枚も上手のようだった。
明日、お庭のピクニックの時に、その辺りの極意を聞いてみよう、と思った。

この海に果てはあるのだろうか。
流木に腰かけて、ゆるやかに吹く風の音と、よせては返す波の音を聞きながら、ぼんやりと、そんなことを思ってた。
オレンジの海の水平線は、はるか彼方で同じ色の空と混じり合っていて、その境目はよくわからない。
白い砂浜も、そしてその境界である波打ち際も、どちらを眺めても果てしなく遠く、ぼんやりとかすむ地平線で空と溶け合うようにつながっている。
果ては、ないのかもしれない。
いや、意識世界とはいえ、容量の限界はあるはずなのでどこかに果てはあるのだろうけれども、少なくとも眼に見えるこの心象風景には、果てはないのでは、と思った。
この意識世界の端のその外側は、おそらく僕の意識の外。
であればこそ、その内側であるこのオレンジの海は、この意識世界の全てを満たしている。端から端まで全てが、この「オレンジの海」、なのかもしれない。
広い。
ガブリエルはこの広さを見て、それが「キクタ」の意識空間なのだと気づいた時に、「だったら、だいじょうぶなのでは」と悟った、そう云ってた。
ガブリエルの白い部屋も、普通の部屋として考えたら、かなり広いけれど。
父の家の2階にある僕の部屋より広いのはもちろん、あのお屋敷のLやガブリエルの部屋よりも倍ほど広い。小学校の体育館、とまではいかないかもしれないけれど、それをひと回り小さくしたくらいの広さはあると思う。
詳しいサイズまでは知らないけれど、バレーボールやバスケットボールのコートが入るくらい、はあるのではないだろうか。
そのガブリエルの部屋が、こぢんまりと小さく狭く感じてしまうくらい、この海はとてつもなく広い。
ガブリエルが「だいじょうぶ」と思えたのも、この広さならば確かにうなずける。
それは僕の、ではなく、僕の中の先代キクタの、意識の器。それがあればこそなのだろう。
意識世界の広さが、意識の容量とイコールなのかはわからないし、そもそも意識に容量があるのかどうかすら、僕にはわからない。
わかるのは、目の前のこの「海」は途方もなく広い事、そしておそらくこれが、僕の心象風景なのだろうという事くらいだった。
「王の力」
それはまぎれもなく、先代「キクタ」に由来するものだ。僕が生まれつき持っていたもの、とかではないのだろう。
僕自身は、ごく普通の子供として生まれてきた、はず。
祖母は「力」を持っていたようで、ルリおばさんがガブリエルの意識を赤ん坊だった僕の中に移す際に立ち会っていた事からみても、「能力」や「王」について、ある程度は理解していたと思える。
ただそれを娘である母に話していたかどうかは、わからない。おそらく、知らせていなかったのではと思う。
母は手をつないでも「心の声」で話せなかった。
だから母は、あの「力」のない、普通の人だ。
父もそう。ふたりとも、ミドノ原にかけられた「力」の影響を受けている事から考えても、ほぼ間違いないだろう。
会った覚えもなければ名前もわからない、実の父がどうだったのかは、さすがにわからない。
ただ、祖母と母を見る限りでは「力」は遺伝しないようなので、その父が「能力」を持っていたとしても、それを僕が受け継いだという事はないのだろう。
受け継いだのは、先代「キクタ」からの「王の力」と「意識の器」、の方だ。
もしかして、先代「キクタ」が、僕の実の父?
ふとそう考えて、まさか、とかぶりを振る。
当時20代だったはずの母が、70代の「キクタ」と結婚するだろうか?
いや、全くないとは云えないかもしれないし、世の中にはそういうご夫婦ももちろんいるのだろうけれども、あの母には、やっぱりありえそうにない。
それに、「キクタ」が実の父なのだとしたら、その子供に同じ名前を付けるだろうか。
ややこしい事この上ない。
海外で云う、○○ジュニア、とかならわかるけれど、「キクタ」の子がキクタ、というのは、さすがに無理がある。
なので、先代「キクタ」が、僕の実の父親という説は、ない。
むしろ、祖母と「キクタ」の方が年齢的には近いくらいだろう。
彼が僕の祖父だというのなら、まだ納得かもしれない。たぶん違うけれど。
祖母の夫、つまり僕の祖父は船乗りで、若いころに海の事故で亡くなったと聞いたことがあった。どこか遠くの南の海で。
だから、祖母が海洋散骨を希望したのには、そんな理由もあったのかなと、僕はなんとなく思っていた。本当のところは、祖母に聞いた事がないのでわからないけれど。
先代「キクタ」と僕に血のつながりはなさそうだけれど、同じ名前という事は、少なくとも何か縁があるのだろう、とは思う。
よくある名前でもないし、わざわざ祖母の知人であるはずの「キクタ」の名前を僕に付けたのには、きっと何かしらの理由があるのだろう。
まさか先代「キクタ」の「王の力」を移す事が最初から、つまり僕が生まれた時から決まっていて、それで同じ名前に?とも思ったけれど、その辺りの詳細はわからない。
Nも、先代が亡くなった事を、キクヒコさんから聞いただけで、その場に立ち会ったとか、居合わせてたわけではないらしい。
ただ、いずれにせよ、それはもう確かめようがないのかもしれない。
その辺りの事情を知っていそうな祖母は亡くなっているし、ルリおばさんなら何か知っているのかもしれないけれど、ヌガノマに二度も意識を移されてしまっているので、知っていたとしても当時の記憶があるかどうかわからない。
あるいはキクヒコさんなら、何か知っているのかもしれないけれど、彼の記憶もルリおばさんほどではないにしても、大半が失われているはずだった。あのパソコンに何かその辺りの情報が、と少しだけ期待していたのだけれど、ガブリエルの話では、個人的なファイルは古い写真やメモ程度で、大半は研究施設の何かのデータ、との事だったのであまり期待はできなさそうだった。
母に僕の名前の由来を聞いてみる、という手もなくはないけれど、そちらも望みは薄そうに思えた。
先代「キクタ」が、というより、そのキクタとつながりの深そうなキクヒコさんが、その理由だ。
あくまで僕の勝手な想像でしかないけれど、父と母を守るためにあの「力」でふたりからミドノ原とそれにまつわる記憶を消したのがキクヒコさんなのだとしたら、彼自身の事も同じようにふたりの記憶から消している可能性が高いと思う。
ミドノ原、そしてキクヒコさん、どちらも認識から消されているのだとしたら、つながりの深い先代「キクタ」も同様に思い出すことができないのでは。
もしそうだとして、僕の名前が、先代「キクタ」に由来しているのなら、それを尋ねた途端、また母が固まってしまう可能性は高いと思う。
そこまでして、どうしても自分の名前の由来が知りたい、先代との関連を何が何でも調べたい、というほどのものでもなかった。
変わった名前で、同じ名前。そこから何となくだけれどつながりを察した。
今のところは、それで十分な気がした。

あの「力」、Lの云う「認識の喪失」。
どうやら僕は、あの「能力」があまり好きではなくなってきていた。もともと大好きだったとかいうわけでもなかったけれど。
確かに、使い方によっては、すごく便利な「力」だとは思う。
実際、僕はそれに救われてもいる。ナガタ先生の時と、アイに初めて会った時に。
守るための力、
誰かを・何かを守るために、人の認識の一部を消す。
Lが最初に云っていた通り、認識の一部を消されたとしても、痛くもかゆくもないし、不幸になるとか、辛い思いをするとかもおそらく、ない。
実際、認識を消されて何かを忘れてしまっている父と母も、辛いとも痛いとも思ってはいないだろう。ただ、何も覚えていない、だから思い出せない、というだけの事なのだから。
けれど、本当にそれでいいのかな、と僕は思ってしまう。
正しいとか間違っているとか、ではなく、それはやっぱり不自然な事なのでは、という気持ちになる。
公園で、行方不明の僕の情報を求めるあの放送を聞いた時に、ふと思った。
あいつから無事に体を取り戻せたとして、日常が戻ってきたら、夏休みが終われば、僕はまた、学校へ行くだろう。
あの放送で街中で探されていた「小学2年生のスズキキクタ君」として。
そしておそらく学校では、しばらくの間、騒がれたり面白がられたりもするのだろう。
上級生や同学年の他のクラスの子たちが教室をのぞきに来たり、話した事もないようなクラスメイトが急に友人づらをしてきたり。
それは自業自得だし、恥ずかしいとも別に思わない。ただ、ちょっとめんどくさいな、とは思う。
けれど、だからといって「認識の喪失」で、僕が行方不明になっていた、という認識を街中から消してしまえばいい、というのは、何だか少し違う気がする。
その認識を消したところで、誰も痛くもかゆくもないし、不幸にも悲しくもならない。
むしろ、父と母から、すごく心配した、不安だった、という思いを消してしまえるのなら、ふたりにとってはもしかしたら、その方が幸せなのかもしれない、けれど。
それで本当にいいのだろうか、と思ってしまう。
じゃあ何がいけないのか、と考えてみても、それはわからないのだけれど。
ひょっとすると、いいのか、いけないのか、ではないのかもしれない。
良い・悪い、ではなく、もっと別の角度、別のベクトルで、どこか不自然で釈然としない何かを感じているような気がする。
それが何なのかは、まだよくわからないのだけれど。
ぼんやりと、そんなことを思いながら、繰り返す波の音を聞いていた。
いつのまにか、流木の上に横になって、ふかふかのクッションを抱えて眠っていた。
まだ、疲れが残っていたのかもしれない。
眠いとも思わないうちに、あっという間に眠りに落ちていた。

灰の海の夢を見た。
海の水は一滴残らずすべて干上がって、かつて海があったその場所は、今は白い灰に沈んでいた。
これは、夢だと思った。
さっきまで、僕はオレンジの海にいた。
白い星砂の浜で、流木に腰かけて。
いま目の前の浜に流木はなかった。
浜には一面に、砕けてくすんだ星の砂が細かな塵となって堆積していた。
空は黒く大きな渦を巻く分厚い雲に覆われていて、辺り一面が夜のように暗い。
やっぱり、夢だと思った。
一瞬でこんなにも、あの海が変わり果てた景色になるはずがない。
以前にも、こんな灰の海の夢を見たことがあったような気もした。
それがいつだったのかは、思い出せないけれど。
どんよりと黒く濁った空からは、真っ白な灰が音もなくしんしんと降りしきっていた。
いつ果てるともなく降り続く大量の灰が、かつて海があったその場所に積もり、覆い尽くしている。
くすんだ灰の海には、ところどころに赤黒い血のようなひび割れが走り、それが時折疼くように鈍い光を放っていた。
大地が、割れているのかもしれない。
赤く光るのは、地下のマグマだろうか。
この灰の海は、いったい・・・

ーー 過去

頭の中で、誰かが云う。
僕の声ではなく、ガブリエルの声でもない。
聞き覚えのない、誰かの声。
JやLの声でもなかったけれど、少し高めの女の子の声のように聞こえた。
今にも消え入りそうな、か細い声だった。
過去?
この灰の海が、過去の何かだと云うのだろうか。
オレンジの海の、過去?
あるいは誰かの、過去?
低く唸るような風の音が聞こえる。
いや、これは風の音、だろうか?吹く風は、僕には感じられなかった。
ひび割れた大地の底から響く、苦悶のうめきのようにも聞こえる。
大地の悲鳴のような、そんな音なのだろうか。
ひび割れが赤く鈍い光を発すると、その度にばりばりと何かを引き裂くような轟音が鳴り響いていた。
天から降る稲妻が、大木を引き裂くような激しい音だった。
大地がうなり、悲鳴を上げ、ひび割れると激しい叫び声を上げている。
これは、まるで、海が・・・

ーー 死

また声が云った。
低いうなりと激しい轟音の中、その声はかき消される事もなく、か細く今にも消え入りそうなのに、頭の中にはっきりと聞こえる。
やはり子供の声のように聞こえた。僕と同じか、もう少し幼い女の子の声のようだった、けれど。
声のか弱さ、その幼さとは不似合いな重い言葉だった。そして、その声音も、冷淡に突き放すような、とても子供らしくない云い方だった。
死?
大地が、死ぬのだろうか。あるいは、海が?それとも、この意識空間が?
足元を見る。
地面が、細かく振動しているように見える。
低く唸るような音は、この為なのだろう。
これは、地震だろうか、僕の体に揺れは感じないけれど。
僕の体?
もう一度、足元を見る。
僕の体は、なかった。
体があるべき場所には、何も見えない。
まるで僕の体が、透明になってしまったみたいに。
あるいは僕の眼だけが、宙に浮いているみたいに。

ーー 夢?

嘲るように、か細い声が云う。
揶揄うような、少し僕を憐れむような感情が、その囁く声に滲んでいる気がした。
これは、夢。
いま見ているものは、僕の夢。
それは僕にもわかっていた、そのつもりだった。
夢だから、体は見えなくても、それがなくても、何も不思議ではない。
そう彼女は僕を笑った、のだろうか。
声をそのまま信じるなら、これは「過去」の夢。
そして、大地かあるいは海か、それとも意識空間が「死ぬ」夢。
どこかで何かが焦げるような匂いがする。
それから、熟しすぎた果実が腐っていくような、甘酸っぱく苦みのある匂い。
低く唸るような音が大きくなり、黒く濁った空が舞台の緞帳のように降りてくる。
その漆黒の夜のようなとばりに覆われて、視界が真っ暗になった。
空気が、濃くなったような気がした。
焦げたような匂いが強くなり、暗闇にぼんやりと非常設備の表示灯のような赤い灯りが見えた。
ここは、別の場所、なのだろうか。さっきまでの灰の海ではないらしい。
低く唸るような音が止み、代わりに遠くで、サイレンか警報のような低い音が連続して鳴り続けているのが聞こえる。
救急車のサイレンのような甲高いものではなく、古い映画であるような空襲警報に似た低く長く響く音。
ぼんやりと赤く浮かび上がる薄闇の中を、駆けてくるふたつの足音がサイレンよりも近くで重なって聞こえる。
ふたりの荒い息遣いが聞こえ、足音が止まる。
目の前でふたつの人影が立ち止まっていた。
暗くて、その顔はよく見えない。
ふたりとも、両腕に何か白い布の塊のようなものを大事そうに抱えていた。
片腕にひとつずつ、つまり、ひとりふたつ、計4つの、白い布の包みのようなもの。

ーー 何処へ?

あの声が囁いた。
僕に、ではなく、目の前に立つふたりの影に向けて。
短く、問い詰めるような囁き声だった。
僕の視点は、声の主のものに変わっているらしい。
ふたりが僕を見ているように感じるのは、僕ではなく、声の主を見ているのだろう。
ふたりは、男女のようだった。
問いかける声に、ふたりは一瞬、ちらりとお互いに眼を見合わせたようだった。
「安全な場所へ」
男性がこちらをまっすぐに見て、云った。
短く、けれどはっきりと強い意思の感じられる声色だった。
声は力強く、20代か30代の大人の男性のようだった。
もうひとり、彼よりも少し背の低い女性の方は、何も云わずにこちらをじっとにらみつけているようだった。
ぼんやりとした赤い非常灯に照らされたその顔には、どこかで見覚えがあった。
誰かに似ていた。
薄暗くはっきりとは見えないので確かにそうだとは言い切れないけれど、この女性は、ルリおばさんでは?
もしもそうだとしたら、僕の記憶の中のルリおばさんより、だいぶ若そうだった。20代前半か、10代にも見える。
もともと、ルリおばさんは若く見える顔立ちをしていたけれど。
目の前に立つこの女性には、若さというよりまだ幼いあどけなさのようなものも伺える気がする。

ーー 安全な場所

囁く声がそう繰り返した。
何の感情もこもらない、機械音声のような単調さで。
そして小さく、ふっ、とため息のような声をもらした。
安全な場所、そんなものが、どこにあると云うのか
そう、自嘲するような、何かを諦めてしまったような、そんな声。
ここは、どこなのだろう。
暗い、地下道のような空間、だろうか。
声が少し、反響して聞こえる気がする。
遠くのサイレンの音も、閉ざされた空間にくぐもって響いているようだった。
息苦しさを感じるくらい、焦げるような匂いが濃い。
辺りの空気に、どこかで何かが燃える煙がうっすらと混じっているようだった。
「そこをどいて」
ルリおばさんに似た女性が、強い口調でそう云った。
語尾が甲高く跳ね上がっていた。
焦りと苛立ちを隠そうともしていない声。
その声に、聞き覚えがあった。
たぶん、間違いない。若かりし頃の、ルリおばさんだ。
声に驚いたのだろうか。彼女が抱えていた布のひとつがもぞもぞと動き、むずかるような泣き声を上げ始めた。
動いて布がずれたのだろう、包まれていた金色の髪があらわになっていた。
金髪の赤ん坊だった。白に近いきれいな金色の髪が、ゆるくウェーブを描いている。
まさか、あれは・・・

ーー 止めはしない

呆れるように声が囁いて、すっと身を引いたらしい。視界が動いた。
ふたりが顔を見合わせ、ほぼ同時にうなずくと両腕に抱いた赤ん坊のおくるみを大事そうに抱え直して、傍をすり抜けて行く。
声の主の視線は、無言のまま、走り去るふたりの後ろ姿を見送っていた。
ぼんやりと赤く灯る薄闇の中へ、すぐにふたりは姿を消した。
どこかで、何かががらがらと崩れ落ちるような音が聞こえた。
どん、と、この地下らしい空間全体を震わせるような、爆発音も遠くから響いていた。

ーー 荊の道を往くか

声がそう囁いて、また、ふっ、と笑ったようだった。
さっきと同じため息のような笑いだったけれど、先ほどのような諦めや自嘲ではなく、何か少し困ったような笑い、かな。
そう、僕は感じた。
若いルリおばさんが抱いていたおくるみの中にいたのは、L、そしてもう片方のおくるみはガブリエル、だったのだろうか。
だとすれば、もうひとりの男性が抱いていたのは、Jとアイ、なのかも。
12年前の冬、教会の玄関に置き去りにされた、4人の赤ちゃん。
4人を教会に置いて行ったのは、ルリおばさんとあの男性、という事になるのだろうか。
この夢は、いったい何?
僕はどうして、こんな夢を見ているのだろう。
そして、声の主は、誰なのだろうか。
夢の画面がフェードアウトするみたいに、サイレンの音が遠ざかりはじめた。
視界のぼんやりとした赤い警告灯の光も、濃くなっていく周りの真っ黒な闇に飲まれるようにして、やがて消えた。

眼を開くと、僕は流木の上で眠っていた。
すでに日が暮れたらしい。空の二重の太陽がいなくなっていて、オレンジの海は薄暗くなっていた。
日が沈んでも、周囲が見えないほどの暗さにならないのは、ここが僕の意識空間だから、なのかな。
体を起こして、流木に座り直す。
風はほとんど止んでいて、ゆるやかに繰り返すやさしい波音だけが聞こえていた。
それからもちろん、僕の耳の奥のあの「音」も聞こえている。
お馴染みの低く唸るモーターのような「音」だった。
その「音」が、夢で聞いた大地の悲鳴のような唸りを思い出させた。
全く同じ音、というわけではなかったけれど、似たような低く唸る音だったから、だろう。
奇妙な夢だった。
灰の海
「過去」とあの声は云った。
過去に、このオレンジの海で起きた出来事、という意味なのかな。
場所は確かに、その姿こそ変わり果ててはいたけれど、この「オレンジの海」に似ていたように思う。
それはいったい「いつ」のことなのだろう。
そしていったい何故、いま僕がその様子を夢で見たのだろう。
夢は、脳が記憶や情報を整理するためのもの、と聞いたことがある。
けれど僕には、灰の海を見たり聞いたりした記憶はない、はずだった。
僕ではないのだとしたら、先代キクタの記憶、だろうか。
でもNの話では「当然、命を落とせば、記憶も全て失うでしょう」という事だった。
とすれば、先代キクタの記憶が僕の中に残っているはずはない、のだけれど。
夢の後半は、さらに奇妙だった。
どこかの地下道らしき場所で、4人の赤ちゃんを抱いたルリおばさんと、もうひとりの男性。
あの男性は、キクヒコさんではないのだろうか。
暗くて彼の顔はよく見えなかったし、もし見えたとしても僕はキクヒコさんの顔を知らないので、残念ながら判別はできないけれど。
12年前のあの日の夢、なのだとしたら、ルリおばさんが今よりもだいぶ若く見えたのにもうなずける。
夢なのに、ずいぶんディテールが細かいというか、正確なのだなと感心してしまう。
あの地下道のような場所か、どこか周辺の施設か何かで、火災のような事故が起きて、ルリおばさんたちは4人の赤ちゃんを「安全な場所」へ運んでいた。
そんな場面に、僕には見えた。
そしてそれを見ていたのが、先代キクタ、だったのだろうか。
声は、女の子のようだったけれど。
それに、海での台詞も、地下道での言葉も、想像していた先代キクタのイメージとは、かなり違う気がした。
なんとなく、だけれど、僕の中では勝手に、やさしいおじいちゃん、というイメージだった。
4人の赤ちゃんを「安全な場所」へ運ぶふたりに出会ったら、一緒について行きそうな気がする。
海に灰が降りしきり、死にかけていたら、どうにかしようと走り回っていそうな気がする。
先代キクタの記憶ではないのだとしたら、あの女の子の記憶、なのかな。
では、彼女は誰?
どうして僕は、見ず知らずの女の子の記憶を、夢で見ていたの?
あの海を知っている、そして、ルリおばさんやキクヒコさんと思しき男性とも顔見知りのようだった、という事は、能力者、なのはおそらく間違いないのだろう。
僕がまだ知らない能力者がこの街にいたとしても、それは何も不思議なことではないけれど。

「お帰り、K」
窓からガブリエルの白い部屋に戻ると、ちょうど昼寝から目覚めたところだったらしく、テーブルでお茶を飲んでいたガブリエルに、そう声をかけられた。
ただいま、と云って僕もテーブルの席に座る。
ぱちん、とガブリエルが指を鳴らして、眼の前に、湯気の立つティーカップが現れた。
「難しい顔して、何か悩み事かな?」
まだ少し眠たそうな眼をしたガブリエルにそう問われ、少しためらった。
他人の夢の話ほどつまらないものはない、と世間一般ではよく云うらしい。
夢の後半は、ガブリエルにも関係している事ではあったけれど、あくまで夢は夢だ。
アイではないけれど、そんなあやふやな情報で、ガブリエルを困らせたくはなかった。
「夢の話かあ。ボクはそれほど嫌いじゃないけどね。それに、ボクも登場するのなら尚のこと」
それほど、と云いながら興味津々な様子で、ガブリエルはテーブルに身を乗り出している。
それなら、と思い、さっきまで見ていた夢の話を、ガブリエルに話した。
テーブルに両肘をついて指を組み、その上にあごを乗せて楽し気に聞いていたガブリエルの表情は、すぐに真剣なものになっていた。
話し終えると、ガブリエルは頭の後ろに手を組んで、椅子の背もたれに大きくもたれかかって、空を見上げる。
昼間の、電車ブランコの上のLと全く同じポーズだったけれど、本人は気づいていないらしい。
見上げた空はまだ青空で、今日も大きな虹がかかっていた。
「いやあ、気軽に聞いてみたものの、何とも興味深い夢だねえ」
虹を見上げたまま、楽しそうにガブリエルは云う。
真剣な表情はもう消えて、いつものやさしげな笑顔に戻っていた。
「「過去」「死」「夢」、それから、「何処へ」「安全な場所」「止めはしない」「荊の道を往くか」、ね。ふむー、何とも思わせぶりだなあ」
ふっと視線を僕の顔に戻して、ガブリエルは、ふふっと笑った。
思わせぶり?
ガブリエルは、何かわかったのだろうか。
「いやあ、ぜんぜん。たぶん、キミが眼を覚まして「いまの夢、何だったんだ?」って考えた感想と、そう変わらないんじゃないかなあ」
そう云われたので、さっきまで僕が思っていた事を話してみた。
にこにこしながら聞いていたガブリエルは、話し終えると大きくうなずいて
「うん。概ねそんな感じだよねえ。前半はあの海のルーツ。もしかすると、僕らの「能力」のルーツなのかもしれない」
そう云った。
あの海のルーツ、あるいは「能力」のルーツ。
あの海が「死ぬ」ことによって、僕らの「能力」が生まれた、という事だろうか。
「うん、本当にその海が「過去」に灰に沈んで「死」を迎えたのだとしたらね。そこから再生するため、あるいは二度とそんな目に合わないようにするために「能力」が生まれたのかもしれないよね。だから、死んだ海はキクタのものじゃなく、もちろんキミのものでもなく、もっと以前の、誰かの「海」なんじゃないかなあ」
なるほど、その誰かの記憶を、夢として見ていた、という事なのかな。
「おそらく?まあそうだとしても、じゃあその「誰か」って誰?というのは、ボクにはわからないけどねえ」
困ったような笑顔で、ガブリエルはそう云って
「で、夢の後半は、ああ、云われてみれば、って感じだよねえ。あ、いや、ルリさんに運ばれてたのを覚えてるってわけじゃないけどね、さすがに当時は0歳児だったはずだし。ボクたち4人を助けて教会に送り届けたのがルリさんとキクヒコなのだとしたら、その後でボクを誘拐犯から助けに来てくれたのも、なるほど納得だねえって事」
しみじみとうなずいた。
確かにそうだ。
ルリおばさんとキクヒコさんは、誘拐されたガブリエルの事を知っていたはずだ。
それは、「次の王」として、というだけではなく、ガブリエルという子をそれ以前から知っていた、という事だ。
キクヒコさんがガブリエルに残したという言葉、「だからおまえも生きろ、他の子供たちといっしょに」
それは、4人の赤ちゃんを知っていたからこその言葉、だったのかもしれない。
「まあそんなふたりに向けて「荊の道」発言をした意地悪な人が誰なのかは、やっぱりわからないけどねえ」
ざっくり三つ編みにした長い金髪の先を指でくるくるともてあそびながら、ガブリエルは軽くため息をつくように云った。
意地悪な人
4人の赤ちゃんを安全な場所へ避難させようというふたりに対して、「荊の道」は確かにあまりやさしくはない。
しかも他に道はないような事をにおわせておきながら、だ。
まあ、ふたりが去ってからひとりごとのように云ってただけなので、意地悪のつもりで云ったわけではないにしても。
「うーん、でもわからないばっかりじゃ面白くないから、ひとつボクの仮説を云おうか。あとで、ミカエルとJにも話して、それぞれの説を聞いてみてよ。答え合わせしよう」
答え合わせ
でもふたりにガブリエルのことを話せない以上、それはガブリエルひとりが楽しいだけの答え合わせなのでは。
「あれ?ミカエルも云ってたけど、キミ、ヌガノマにいじめられてから少しいじわるな子になったね?」
そう云ってガブリエルはくすくす笑ってから、
「ボクの説はね、「一連の夢は、誰かがキミに見せたメッセージなのでは」だよ。夢だけど、夢じゃない。夢のように見せた、キミへのメッセージ、かなとボクは感じた。その「誰か」が誰なのかは、しらないけど」
ぴこん、とJの真似をして人差し指を立ててみせながら、そう云った。
メッセージ
あの、あまり愛想のよくない女の子の声。
夢のように見せた、誰かの記憶の風景。
メッセージなのだとしたら、僕に、何かを伝えようとしたの?
あの海の「過去」と、4人の赤ちゃんの「過去」を?
何のために?
「さあ、それは見せようと考えた本人にしかわからない、という事かなあ。何かの意図はあるんだと思うけどね。あるいは、内容はなんでもよくて、今日のところはキミへのあいさつ代わり、とかかもしれないけど。こんにちはーわたしはこんなこと知ってるのよーふふふー、みたいな」
ガブリエルが妙に楽しそうなのが不思議だったけれど、それはさておき、ひとつ、思いついた事があった。
それは、デモンストレーション、
つまり、昼間の「キクタ」と似ているのだ。
目的はわからない、けれど、その「能力」を見せつけるようにして、去って行く。
あのあまり愛想のよくない声の彼女、と云っていいのかどうかはわからないけれど、その「能力」が、夢のように人の記憶を見せる、というものなのだとしたら、やっていることは昼間の「キクタ」とすごく似ている、気がする。
「ふむ、それ面白い。さすがボクらの名探偵」
茶化すような口ぶりだったけれど、ガブリエルはまた何か考え込む様子だった。
けれどすぐにぱっと顔を上げて
「ほらね、やっぱりミカエルとJの説も聞くべきだよ。そしたらまたキミが何か面白い事ひらめくかもでしょ?」
にこにこ笑いながら、心底楽しそうにガブリエルは云う。
何でこの子は、何事にもこんなに楽しそうなのだろう。
Lのにやにや笑いが脳裏に浮かぶ。
やっぱり僕は、どうしてもこの双子には敵わないらしい、としみじみ思った。

おかしな夢を見せられていたとは云え、わりとたっぷり昼寝をしてしまったので、もう日は暮れて夜になっていたけれど、眠気はあまり感じていなかった。
ガブリエルは、Nに声をかけてノートパソコンの確認作業を始めていた。
横で見学でもさせてもらおうかとも思ったけれど、じゃまになっても悪いかなと思い直し、自分の部屋へ戻ることにした。
部屋、と云っても、海だけれど。
いつまでもガブリエルの部屋に居候しているわけにもいかないし、僕も部屋を用意すべきだとは思う。
この海に、部屋というか、何かコテージとか小屋みたいなものを建てて、と。
思うけれど、なんだろう、あまり乗り気にはなれなかった。
考えるのがちょっとめんどくさいとか、どんな部屋にしたらいいかわからないとか、そんな理由も少なからずあったのだけれど。
一番の理由は、この「オレンジの海」を勝手にいじって改造することに、なんとなく抵抗があったから、だった。
「オレンジの海」は、僕の意識空間。
それは、たぶん間違いないのだろう。
でも、ここがこうして今ある理由、何をモチーフにしているのか、どんな意味を持っているのか、その辺りの事が、僕には何もわからない。
わからないものを、勝手に作り変えてしまって、本当にいいのだろうか、という抵抗感、なのだと思う。
だから、流木を置いて、その上にふかふかクッションをふたつ出して、そこまでにしている。
またいつもの考えすぎかな、という気もしたけれど。
ベッドが必要なら眠る時にだけベッドを出して、起きたらベッドを消せばいいのでは。
そうも思う。
でも、そんな風に雑な扱いをしてしまうことにも、やっぱり抵抗を感じてしまう。
我ながら、めんどくさい性格だな、とも思った。
また流木に腰掛けて、薄暗い海を眺めながら、心地良い波音を聞くともなしに聞いていた。
そしてまた、いつの間にかそのままそこで眠ってしまった。
疲れた僕には、やさしいこの海の波音が、子守唄のように聞こえていたのかもしれない。





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