温かな雨のしずくを顔に感じて、眼を覚ました。
オレンジ色の二重の朝日が、水平線から顔をのぞかせ、海面をきらきらと輝かせていた。
空は晴れているのに、温かな雨がぽつりぽつりと降っている。
雨?
ねぼけまなこをこすり、まばたきをしてみる。
「オレンジの海」に、雨が戻っていた。
あの温かなやさしい雨。
空を見上げた。
オレンジの空から、まだらの黒い染みはほとんど消えかけている。
心に嬉しさが湧き上がるのを感じた。
雨が降るのを、こんなにも嬉しく思ったことは、なかったかもしれない。
白い灰は、もう降っていない。
嬉しさがこみ上げて、思わず声に出して「ふふふ」と笑った。
体を起こして、流木の上に座り直し、両手を広げた。
ぽつりぽつりと、温かい雨が僕の手のひらに降る。
不思議なことに、雨粒は僕の手に触れるとすぐに消えていた。
温かな水滴が肌に触れた感触だけを残して、雨のしずくは一瞬で蒸発してしまうみたいだった。
もう一度、空を見上げると、視界の端に、白い天使が飛んでいるのが見えた。
天使?
まさかと思い、目を凝らすと、白い袖なしのワンピースを着た、Jだった。
Jは見る見るうちに僕に近づいて、眼の前にふわりと降り立つ。
本当に、天使みたいだ。
「どうしたの?何だか嬉しそう」
軽やかに微笑んで、Jは小首をかしげてる。
「おはよう」
僕は云って、
「雨が降ってたから」
そう答えたけれど、何だか我ながら答えになっていないかな、と思う。
「おはよ」
Jはにっこりと笑顔を浮かべ、流木の僕の隣に腰かけて
「ほんとだね、雨。戻ってよかったね」
嬉しそうに「ふふふ」と笑う。
そして僕の顔をまじまじとのぞき込んで、
「まさかとは思うけど、K、ここで寝てるの?」
少し心配そうな顔で、そう尋ねる。
「ええと・・・」
昨夜、何となくここで波の音を聞いていたら、いつのまにかそのまま寝てしまってた。
そう答えながら、そう云えば、昨夜は夢さえ見ずに、さっきまでぐっすり眠っていたんだな、と思う。
「ふむー、まあ、ゆっくり休めたならいいけど」
辺りを見渡して、空を見上げて、Jはため息まじりに苦笑してる。
外だし、雨も降っているし、確かにあまり眠るのにふさわしい場所とは云えないかもしれない。
意識だけの存在なので、どこで眠ろうが風邪を引いたりもしないのだろうけれど。
それもまた、便利というか、何というか。
そう云えば、J、もうすっかり飛ぶのにも慣れたみたいだね。
さっきは本当に、天使みたいだった。
そう云うと、Jは急に照れたように後ろを向いて手をぶんぶん振って、
「え、いやいや。だいぶ慣れたけど、天使だなんてそんな、へへへ」
すぐにくるっとこっちへ向き直り、嬉しそうに笑った。
「あ、でもね、Lが戻りたくないって云う気持ち、ちょっとだけわかったかも。空飛ぶの、すごく楽しい」
少し照れ臭そうに、Jは云う。
それは意外、でもないかな?いや、でもやっぱり少し意外、かもしれない。
「もちろん、あの子みたいに半年も寝たりはしないよ?回復したら、すぐ戻るけど。でも、戻ったら、もうあんな風に飛べないんだなあって、残念に思っちゃうかな、ちょっとだけね」
ふふふ、とJは笑う。
でも、戻っても、Jは飛べるのでは。
「泡」を掴んで、ふわふわと。
Jは一瞬、「?」という顔をして、
「あー」
と云って少し笑った。
僕は、また何かおかしなことを云ったのかな。
「ううん、そうじゃなくって」
Jはふるふるとかぶりを振って、
「戻ったらもうあんな風に、って云うのは、クロちゃんで飛ぶ方ね。「泡」で飛ぶ方は、まあ、練習がんばるけど」
クロちゃんで飛ぶのと、「泡」で飛ぶのは、そんなに違うの。
飛ぶことに変わりはないような気がするのだけれど、それは、僕のような飛行未経験者の、何というか、浅はかさ?なのかな。
「うん、ぜんぜん違うよ」
Jが大きな眼をまんまるに開いて、きっぱりとそう云い切ったので、ちょっとびっくりした。
「例えるなら、そうだねー、電車ブランコとジェットコースターくらい違うよ」
ぴこん、と人差し指を立てて、Jはそう力説する。
電車ブランコとジェットコースター?
それって、ぜんぜん違うのでは。
「そう。それくらいぜんぜん違うよ、クロちゃんと「泡」。もっと云えば、自転車と新幹線くらい違うよ」
冗談、かと思ったけれど、Jは真面目な顔だった。
そんなに違うの。
自転車と新幹線って、もはや比較にならないくらい違うけれど。
ふと思い出したのは、はじめてNの体で夜の通りを走った時の、あの疾走感だった。
近所のコンビニまで、Nとしては、軽く走っただけ、だったのだろうけれど、僕には自転車か車で走っているくらいに感じた。
「こんなものではありませんよ」
そうNは云って、ふふんと得意げに鼻を鳴らしていた。
「そうそう。あのね、カラスってすごいんだよ。真上に飛び上がってそのまますーっと上に飛んだり、飛びながらくるって急旋回?できるし、急降下も得意だし、きりもみ?って云うんだっけ、くるくる回転しながら急降下したり、そうかと思えばふわーって浮いてるみたいに飛ぶこともできたり、電線の隙間をひゅーってくぐりぬけたり、ん?K、どうしたの?」
カラスのすごさを熱く語るJに、思わず圧倒されてしまった。
確かにすごい。
すごいけど、想像したら、ちょっと怖い。急降下とか、しかも、きりもみって、目が回るのでは。
「え、あれ?Kも苦手なの?Lといっしょ?あの子、ジェットコースターとかぜんぜんダメなんだけど」
ぜんぜん、かどうかはわからないけれど、僕もあまり得意ではないかもしれない。
聞いてるだけで怖いくらいだし。
「そっかー、残念だねえ」
本当に残念そうにJは云う、けれど。
残念、なのかな。よくわからなかった。
ともあれ、クロちゃんに入ったのがJだったのは、やっぱり幸いだったのだろう。
お互いにとっても、みんなにとっても。
前にもそう思った気がするけれど、入れる動物との相性みたいなものが、本当にあるのかもしれない。
「あー、そうかも。もしLがクロちゃんに入ってたら、たいへんだったよね、きっと」
それはそれで、すぐに目を覚ましてくれたかもしれないけれど。
なんとなく思ったのでそう云うと、Jは盛大に吹き出してた。
「ちょっと、K、キミ、どうしたの?もしかして、アイに鍛えられて強くなったの?」
僕がLに批判的というか皮肉っぽい事を云うのがそんなにおかしかったのかな、眼に涙を浮かべて笑いながら、Jは云う。
それに、アイに鍛えられて?
彼には、別に何も鍛えてもらったりは、してないと思う。
むしろ、最初は僕の方が一方的にケンカ腰で、アイはただただ困惑していたような、そんな覚えがあった。
「ケンカ腰って、あのアイに?どうして?あ、もしかしてあの公園の事で?」
さっきまで笑っていたのに今度はびっくりした顔になって、Jが云う。
Jの百面相もずいぶん久しぶりな気がする。
何だかうれしかった。
そう云えば、アイには、あの公園の事ももちろんあったけれど、僕は、なんであんなに怒っていたんだったろう。
その理由すら忘れていたことに、自分でも驚いた。
ああ、あのお祭りの日だ。思い出した。
一生許さないって誓ったのに、なんで忘れてたのだろう。不覚だった。
「え?なに、なにがあったの?一生許さないって、K、アイに何かされたの?」
Jが心配そうな顔になったので、僕は慌てた。
あ、いや、
僕が何かされたわけでは、なくて。
「だって、あの日、お祭りですれ違っただけだよね?その後のこと?わたしが眠っちゃって、Kがわたしを運んでくれてて、キミを助けるために、Lがアイを連れてきた、って聞いたけど」
不安げなJの灰色かがった眼が、まっすぐに僕を見てる。
困った。
え、これは、云わないといけない感じ、かな。
「ええ、なんなの?云えない事?すっごく気になるけど。じゃあ、Lに聞いてもいい?」
いや、Lは、アイを連れてきて、すぐどこかへ行っちゃったので、たぶん、見てなかったと思うけれど。
「じゃあ、アイに・・・は、さすがに聞けないか。ふむー」
人差し指をあごに当てて、Jは考え込むポーズになっている、けれど。
いや、その、J、
本当に、僕がアイに何かされたわけではなくて、
いや、ある意味、何かされたんだけど。
「・・・」
考え込むポーズのまま、とても不安そうな表情で、Jのきれいな灰色の眼が僕をじっと見つめてた。
本当に僕は、この眼にめっぽう弱い、よね。
云うしかない。覚悟を決めた。
あの日、あの海岸沿いの道を、僕がJを担いで歩いていたら、Lに、ラファエルに追い立てられるようにして、アイがやって来た。
そして、眠ってるJを見るなり「この先の交番で救急車呼んでもらおうぜ」とか云って、僕の背中にいたJをひょいっと軽々抱き上げて、そのまま交番に向かって走り出した。
「?」
Jの顔に「それで?」と書いてあるような気がした。
いや、それだけ、なのだけれど。
あ、ううん、違う。それだけ、じゃない、か。
走っていくアイを必死に追いかけながら、僕は、その背中をにらみつけて誓った。
あいつを絶対、許さないって。
「・・・?」
Jは無言で僕を見つめていた、けれど、その顔にははっきりくっきり「なんで?」と書いてあった。
いや、それは、その、
アイが、僕の背中から、Jを軽々と抱き上げた時に、何かとても大事なものを、すごく簡単にひょいっと取り上げられたような、そんな気がしたから。
何だかよくわからないけれど、それがとても悔しかった。
だから、絶対、いつかあいつを倒す、って思ってた。
次の日に、あの工事現場の駐車場でアイに会った時、まだそんな気持ちがあったから、それに公園でのこともあったし、だから、僕はずっとケンカ腰で話してた。
そしたら、アイが「そこのコンビニ行こうぜ」って云って、コンビニへ行って、アイスをおごってくれた。
「知らねーうちに何かしちまったんなら、すまねえ」って、アイは謝ってた。
それでもまだ、僕はアイを許せないと思ってたけれど、その後もずっと図書館とか公園での実験とか工事現場の探索とか、いろいろ手伝ってくれて、いつの間にか、僕は忘れてた。一生許さないって誓ったこと。
「ふむー」
Jはうなずいて、ほっと小さく息をついて、それからふっと空を見上げた。
温かい雨が、ぱらぱらと降ってくるオレンジ色のやさしい空。
「忘れてたけど、思い出して、今はどう?まだ許せない?」
Jの眼が空から降りてきて、まっすぐに僕を見る。
今は、どうだろう。
アイは、僕にとって、いいお兄ちゃんだった。
昨日も、寝不足と疲労でふらふらになりながら、あの公園まで来てくれた。
突然現れた「あいつ」に向かって、「キクタ、待ってくれ!」って大声で叫んで、迷わず駆け出してくれた。
今にも倒れそうなくらい、ふらふらのくせに。
それに、あの工事現場にも、ひとりで行って、怖がりのくせに真っ暗なマンホールにまで入って、ルリおばさんを助け出してくれた。
だからもう、アイは、嫌いじゃない。
僕の、大好きなお兄ちゃんだ。
「ふふふ」
Jの魔法の笑い声がして、
「それならよかった」
Jはぬいぐるみでもなでるみたいに、僕の頭をふわふわなでた。
ひとしきり僕の頭をなでてから、すっと手を離し、
「いろいろあったんだねえ」
オレンジの海を眺めて、しみじみとJは云う。
「キミとアイの、その冒険、見てみたかったなあ」
そう云って、「ふふっ」と笑う。
そうなの。
云うほど、楽しい冒険でもなかったような?あ、いや、そんなことはないかも。
「ううん、冒険の中身って云うより、いろんなことがあって、ふたりが仲良くなっていくところ、ちょっと見てみたかったなあって」
なるほど?
そういう意味では、ちょっと面白かったかもしれない。
最初は、僕がひとりでギスギスしていて、アイは困ったようになってた。それがだんだん、いろんな事を云い合うようになって、仲良くなって?
僕は、アイと仲良くなっていたのかな。
「え、当然、仲良しでしょ。でなかったら、あのアイがあそこまでしないと思う。アイがそんな風に変われたのも、キミと仲良くなれたから、だよ」
そう云って、Jは、ぴこん、と人差し指を立てる。
何かひらめいたらしい。
「うん。キミが何だか、急にたくましくなったのは、やっぱりアイのおかげかも。アイと仲良くなれたから、何だか強くなったんだよ、きっと」
ふふん、と、Jは、まるでNみたいに得意げに鼻を鳴らしてみせる、けれど。
アイと仲良くなれたから、僕が強くなった?たくましくなった?
その実感は、あまり、というか、ぜんぜんなかった。
なかったけれど、
そう云えば、Lにも云われた。
「あれー?おまえ、そんないじわるな子だったか?」って。
それから、ガブリエルにも同じような事を。
知らず知らずに、僕は、以前よりも何というか強気な発言をするようになってた、という事なのかな。
その理由のひとつが、アイと仲良くなったから?
「自信、みたいなものかなあ。だって、あのアイだよ。小学校の全校生徒の中で一番大きくて、たぶん一番恐れられてるような子だよ。それを仲間にして、手なずけちゃったんだもん。それで、自信がついたんじゃないかなあ」
手なずけちゃった
とてもJらしい、面白い表現を使うなあと思ったけれど、その点は案外その通りなのかもしれない。
確かに、手なずけちゃった、のかもしれない、あのアイを。
でも、自信?
そんな大層なものは、僕にはないように思えるけれど。
ふと、アイに云われた言葉が脳裏に浮かんだ。
「おまえ、ほんとそのクソ度胸というか、怖いもの知らずだよなあ」
怖いもの知らずの度胸は、先代キクタから受け継いだものとばかり思っていたけれど、もしかすると違うのかな。
Jの云う、自信、のようなものがついたことで、僕が自然と身につけたもの、だったの。
「うーん、両方かな」
と、Jが笑顔で云う。
「おじいちゃんも元々怖いもの知らずだったけど、アイを仲間にしてKにも自信がついたから、さらにパワーアップしたのかも」
パワーアップ
そう云われると嬉しいような、いや素直に喜んでいいのかな?という気もするような、複雑な気持ちだった。
自信、という言葉で云うなら、たぶん、僕は少し自信過剰になっていたのだろう。
アイにもLにも「ひとりで行こうとするな」「ひとりでうろうろするな」と云われていたにもかかわらず、ひとりでルリおばさんを追いかけて、今、こんな状況になっているのだから。
強気になるのも怖いもの知らずも、良し悪しというか、程度をわきまえないといけないな、と思った。
「うんうん」
何だか嬉しそうにJは何度もうなずいて、
「そうやって素直に反省できるのが、キミのいいところだもんねー」
魔法の笑顔で、にっこり笑う。
けれど、すぐに眉を寄せて
「あれ?」
と人差し指をあごに当てている。
考えるポーズ、何か気になる事でもあったのかな。
「うん、何だかいつもと逆だね?って思って」
いつもと逆?
何が逆なのだろう。思い当たらない。
Jは、楽しそうに笑ってる。
「いつもは、Kがわたしのこといろいろ褒めてくれるけど、今日はわたしが、Kをいろいろ褒めてるなあって。なんだかちょっと、面白いね」
云われてみれば、そうだった。
強くなったとか、たくましいとか。
でも、いつもと逆?だろうか。
いや、僕はいつも通り、今日もJを褒めていたつもりだったけれど。天使みたいだとか。
「あ、そっか。じゃあわたしだけ逆?んん、でもわたしも、いつもKを褒めてるよ。素直でいい子とか、しっかりしてるとか」
ふむ、確かにそんな気もする。じゃあ、ふたりともいつも通りなのでは。
ふふふ、といつものように笑いかけて、僕は固まった。
Jの座る僕の左側とは逆の、右の耳の後ろに、ふっ、と誰かが笑う声がして、そのかすかな息がかかった。
聞き覚えのある、少し高い女の子の声、か細く幼いあの夢の声だった。
固まったまま、眼だけを動かして、右を見た。
もちろん、そこには誰もいない。
「どうしたの?」
会話の途中で固まってしまった僕を不審に思ったのだろう。
Jが左からそう声をかけてくれて、僕の硬直が解けた。
ゆっくりと息を吸いながら、顔を右に向けて、やはりそこには誰もいない事を確かめる。
そのまますぐ左を向いて、僕の顔をのぞき込むJに「なんでもない」と、笑いかけた。
ぎこちない笑顔に、なっていなければいいけれど、と思いながら。
Jは一瞬、怪訝そうな表情を浮かべかけたけれど、すぐにいつものように微笑んで、
「ふたりともいつも通りなら、まあ、よかったね」
そう云って、ふふふ、と笑った。
いつも通りの、Jの魔法の笑顔だった。
「J、少し早いけれど、お庭へ遊びに行ってもいいかな」
できる限り平静を装って、できる限り自然に聞こえるように、そう云った。
うまくできたかどうか、自信はなかったけれど。
「もちろん、いいよー」
Jは笑顔でそう云って、右手で僕の左手をつないで、立ち上がる。
手を引かれるような形で、僕も立ち上がると、Jは空いている左手を上げて、頭の上の「泡」をそっと掴んだ。
僕にもJの「泡」が見えるのは、ここが「オレンジの海」だから、だろうか。
そう云えば、あの時も、Jが眠りに落ちる直前にここで会ったあの時にも、僕には「泡」が見えていた。
「Kも」
そう、Jに促されて、僕も右手を上げる。
見上げると僕の頭の上にも白い「泡」があって、右手がそれに触れた。
不思議な触感だった。つるつると滑らかなのに弾力があって、手に吸い付くようにぴたりと張り付いた。
「行くよー」
Jが云って、軽くとん、と地面を蹴ると、ふたりの体がふわりと浮いた。
まるで、重力がなくなったみたいな感覚だった。
そのまま2mほど浮かび上がって、すっと水平に進み始めた。
これは、いったいどういう仕組みなのだろう。
くすくすと楽しそうなJの笑い声が、僕の頭の中で響く。
そうか、手をつないだから。
「どういう仕組みなのかは、わたしにもよくわからないかなあ。泡に引っ張られてるわけでもないし、なんだろうねえ、なんとなく、かな」
Jは笑ってる。
確かに、泡そのものに動力があるわけではなさそうだった。
泡は確かに浮いているけれど、ただ、浮いているだけだ。
僕は泡に触れているけれど、落ちないように必死にしがみついているわけでもない。ぎゅっと握りしめてもいない。ただ、触れているだけ。
まるで、僕の体も浮かぶ泡の一部になってしまったみたいな、そんな感覚だった。
でも、だったら、進む方向は?泡に引っ張られているわけではないのなら、どうやって進んでいるのだろう。
「んー」
両手がふさがっているので、Jは人差し指をあごに当てられない。小首をかしげて、考えている。
「クロちゃんで飛ぶ時といっしょかな。進みたい方向を見たら、そっちに進んでくれる。スピードも、頭で思うとその通りになる感じ」
それは、つまり、クロちゃんもベテランなのかな。Nと同じように。
視線の操作をこちらに預けて、その動きを見て進路を決めてくれる。心の声を聞いて、速度もそれに合わせてくれる。
「そうそう、そんな感じ。「泡」で飛ぶのも同じ」
なるほど。
いや、泡で飛ぶ理屈がわかった「なるほど」ではなく、Lが云ってた事に「なるほど」と納得してた。
「ヒントは認識と無意識、かな。たぶん、Jはあっさりできそうな気がするんだよな、あの「泡」で飛ぶやつ」
そう、Lは云ってた。
型にはまった認識にとらわれず、無意識に「飛べる」ことを受け入れられる。
素直でまっすぐなJだからこそ、「あっさりできそう」とLは云ったのだろう。
「んん?じゃああれは、わたしを褒めてたの?Lってほんと、回りくどいなあ」
Jは照れたように苦笑している。
でもLの云う通り、Jはすごい。補助輪なしでいきなり自転車に乗れるようなものでは。
いったいどんな仕組みで?なんて考えている時点で、僕はまだ認識にとらわれている。
補助輪か魔法のアイテムでもなければ、とてもひとりでは飛べそうにない。
僕に気を使って、Jはそれほどスピードを出さずに飛んでくれていたのだろうけれど、それでもあっという間に、Jのお庭の窓に近づいていた。
「お行儀悪いけど、このまま入っちゃおう」
ふふっと笑って、Jは僕の手を引いたまま、開いた窓にするりと飛び込んだ。
眼の前にお庭の緑が広がって、そのままふわりときれいな芝生の上に着地した。
後ろで、ぱたんと窓が閉じた。
「はい、到着。だいじょうぶ?怖くなかった?」
Jが心配そうに、僕の顔をのぞき込んでいる。
ぜんぜん怖くはなかった。けれど、何か余計なことを考えてばかりで、せっかくの空中浮遊を楽しめていなかった気がする。
泡から離した左手を口に当てて「あはは」とJは笑った。
「Kらしいね。いいと思うよ、キミは考える人だもんね」
考える人
あの有名な彫刻の石像が頭に浮かんで、何だか複雑な気がしたけれど。
もう、手離していいよ、とJに云われ、泡に触れたままだったことに気づいた。
右手を泡から離して、下ろす。
「あ、でもこっちの手はつないだままにしよう」
Jはそう云って、つないだままの手を引いて芝生の上を進み、木陰にあるベンチまで僕を連れて歩いた。
「座ろ」
云われるまま、手をつないだままでベンチに腰掛ける。
お庭は、広かった。
Jの教会のお庭よりも広い。
さすがに、Lのお屋敷のお庭ほど広大ではないかもしれないけれど。
きれいな芝生の間に、煉瓦の小径がぐるりと大きく円を描くように敷かれている。
円の中心には、色鮮やかな花々の咲く花壇があり、花壇の真ん中に小さな池と噴水があった。
その向こうには、東屋らしき屋根と、Jの家だろうか、ログハウスの小さなコテージも見えた。
Jらしい、とても素敵なお庭だった。
のんびり歩いて見て回りたいと思ったけれど、残念ながらそれどころではなかった。
Jも察していたらしい、
「で、さっきの、なに?」
僕の隣に並んで腰かけるなり、真剣な顔で僕にそう聞いた。
窓をしっかり閉め、手をつないだまま話しているので、もしかして、とは思っていたけれど。
さすが、J、と云うべきかな。
僕の様子がおかしかったことに、しっかり、気づいてたみたいだった。
「さっき、Jも何か聞こえた?」
そう尋ねてみた。
「何か」
つぶやいて、Jはお庭の片隅に門のように立つ2本の大きな木の間に、ぽつんと浮かぶ大きな窓を見つめる。
「オレンジの海」につながる、Jのお庭の窓。
細くて長い人差し指をあごに当て、何かを思い出そうとするみたいにじっと窓を見つめていたJの眼が、ふわりと僕の顔に戻ってきた。
静かに、首を横に振る。
「おかしなことは、何も。波の音と、Kの声しか聞こえなかった」
ではあれは、何だったのだろう。
僕の空耳、という可能性もなくはない、けれど。
J、夢の話をしてもいいかな。と、念のため、僕は尋ねた。
例の「他人の夢の話ほどつまらないものは・・・」というあれが、どうしても気になってしまうので、念のため、だった。
「うん、聞かせて」
Jが体をこちらに向けて、聞く態勢になる。
あくまで、夢の話なのだけれど。
そう前置きして、僕は昨日の午後に見た夢の話を、Jに話した。
前半は、灰の海と謎の声。「過去」「死」「夢」。
後半は、どこか火災のようなものが起きた場所から4人の赤ちゃんを連れて脱出するふたりの人物。そして、そのふたりに出会った謎の声の人物。
ガブリエルから意見を聞いてほしいと云われたから、というのもあったけれど、それだけではなく、できる限り、僕の考えは入れずにただ見たままを話した。
僕自身も、JやLがあの夢をどう解釈するのか、聞いてみたいと思っていたから。
Jは、終始険しい表情で、黙って僕の話を聞いていた。
話し終わっても、Jはしばらくうつむいて、あごに人差し指を当てたまま、何かを考えているようだった。
やがてゆっくりと顔を上げて、灰色がかったきれいな眼で僕をまっすぐに見て
「不思議な夢だねえ」
心の声で、そう云った。
「夢・・・うーん、それってほんとに夢なのかな」
Jは首をかしげている。
ほんとに夢なのかな
夢らしくない、夢とは思えない、という事だろうか。
「うん。夢って頭の中にあるものを見るって云うでしょ。記憶とか、考えた事とか、そういう頭にあるものを、眠っている間に整理してるって云うよね。でも今のKの夢の話は、どれもキミの頭の中にあったものっぽくないというか。まるで映画かゲームの世界みたいな?あ、もちろんそういう架空の風景とか出来事なんかを、ごちゃまぜにしたような夢を見ることもあるにはあるけど。そういう夢って、時間も場所もてんでばらばらで、つぎはぎみたいになるよね。いかにも、あーこれ夢だなってすぐに気づくくらいに。でもKのは、夢なのに、ううん、夢にしては、お話がちゃんと出来てる気がする。意味はよくわからないけど、お話の筋っていうのかな。ちゃんとそれが一本まっすぐ通ってる、というか。そこが、すごく夢っぽくない、気がするなあ」
一言ずつ、確かめるようにゆっくりと、言葉を選びながら、Jはそう云った。
お話の筋がまっすぐ通ってる
確かにJの云う通り、場面は見覚えのない、映画やゲームの中で見るようなものだったけれど、夢にありがちな、ぎくしゃくしたところはなかった気がする。
前半と後半で場所は違ったし、切り替わりも唐突ではあったけれど、それぞれの内容はきちんとまとめられたもので、お話として成り立っていた。場面の転換にしても、そこはあえて夢っぽく作られた、かのような。
夢っぽく?いや、真っ黒な幕が下りて場面が切り替わるなんて、それこそ映画かゲームのようなのでは。
「うん。Kはどう思ったの?」
Jの灰色のきれいな眼が、きらきらと輝いて僕を見ている。
表情はまだ険しいままだったけれど、眼の奥には何か期待するような、何かを知りたいという好奇心のような、そんな輝きが見えたような気がした。
あ、僕はJのこのきらきらが好きなんだな、と何故か不意にそう思った。
ガブリエルに話したのと同じ、目覚めてすぐに思ったこと、僕の考えたことをJに話した。
先代キクタの記憶かもしれないと思った事。けれど、Nの話によれば、亡くなると記憶は失われるはずという事。
後半は、12年前の冬のあの日の出来事なのかもと思った事、4人の赤ちゃんを抱いたふたりは、ルリおばさんとキクヒコさんのように見えた事。
「うん、前半は誰かの記憶の中の海、なのかもしれないね。Kでもおじいちゃんでもない、別の「過去」の誰か。何かとてもつらい事があって、海があんな風に傷ついてしまった時の記憶、かな。「死」というのは、よくわからないね。だって、もし死んでしまったのなら、もう意識の海はなくなるんじゃないのかな。意識だけが死ぬ?とか、逆に体だけが死んで意識だけが残る?とか、そんな事もあるのかな。それかもっと別の、何か抽象的な意味なのかな」
曲げた人差し指の関節をぎゅっとあごに押し付けるようにして、Jは硬い表情のまま、そう云った。
意識だけが死ぬ
逆に体だけが死ぬ
どちらもあり得る話に思えた。
意識か体か、あるいはその両方か、深いダメージ負って、心象風景が死の海になる。
現に、僕の海にも灰が降っていた。
そんなにも深く傷ついた過去の誰かの記憶、なのかも。
「後半は、うーん、わたし達4人の事、なんだと思う。でもそれは、確かめられないかな?Kのおばさん、ルリさんに話を聞くことができたら」
Jはそう云ったけれど、人差し指は曲がったままあごに押し当てられてた。
ルリおばさんに話を聞く
その発想は、僕にはなかった。確かに、それができるのなら一番確実かもしれない。
けれど、ルリおばさんの記憶は。
「そう、だよね。大半を失うって、どれくらい覚えていられるものなんだろう。名前とか、自分が誰だったのかも忘れちゃうのかな」
僕の知るルリおばさんは、すでに一度、ヌガノマの意識に侵入されていたはずだった。
4年前の時点では、多少変わった人ではあったけれど、自分自身の事も、祖母や母の事も、覚えていた。
再会したルリおばさんも、当時と同じだったはず。
バスの中から歩くルリおばさんを見かけたあの時には、僕を見て僕だと認識していたようだった。
あの地下で僕を襲ったルリおばさんは、二度、ヌガノマに侵入されていた事になる。
あの時は、ヌガノマが体の主導権を握っていたけれど、僕の呼びかけに目を覚ましたルリおばさんは、僕を見てはっきり「キクちゃん」と云っていた。そして、その後、「キクちゃん、逃げて」とも。
詳細はわからないけれど、僕の顔と名前は、まだ覚えているようだった。
それに、ヌガノマの事も覚えていたように見えた。
けれど、12年前の冬の日の事を、果たして今でも覚えているかどうか。
もうひとり、他人の体に意識を移したというキクヒコさんの場合は、また少し違った。
Nの話では、ヌガノマの体に入って戻ってきたキクヒコさんは「惨憺たる有様」だったと云う。
「意識のダメージそのものは少しずつ回復するようでした。失った記憶こそ戻らず、つながりも元通りとはいきませんでしたが、キクヒコも、長い時間はかかりましたが、少しずつ、次第に会話が成立するくらいまで回復していきました」
そう、Nは云っていた。
ヌガノマの意識に侵入されたルリおばさんと、自らヌガノマの体を奪いに行ったキクヒコさんとでは、状況も立場も違うのだから、意識や記憶の状態も全く同じではない、という事なのだろうけれど。
「ふむー。あまり期待はできない、かなあ。でも、聞いてみる価値はあると思う」
少しためらいながら、でもきっぱりと、Jは云う。
うん、僕も、ルリおばさんと話してみたい。
助けてもらったお礼も、きちんと云いたかった。
「ふむー」
Jの人差し指がすっと伸びた。細いあごを指先がとんとんと叩くように動いて、
「じゃあ、さっきKが「聞こえた」っていうのは、その夢の「声」?」
そう、僕に尋ねる。
僕はうなずいた。
声、と云うか、笑い声だった。ふっと鼻で笑うみたいな。
「ふむー」
とんとんとん、Jの細長い指先が、あごを叩いている。
「誰なんだろ、会ってみたいね」
何気ない事のように、さらりとそう口にしたJに、僕はびっくりした。
会ってみたい?
あの、愛想のない声の主に?
「あれ?Kは、会いたくないの?」
Jは人差し指の動きを止め、不思議そうに僕を見ている。
会いたくない?
いや、会いたいとか会いたくないとか、正直、思ってもみなかった。
そもそも、会えるとも思わなかった、と云うのが正直なところ、かな。
「ふむー。Kには、あまりいい印象じゃないみたいだね、夢のあの子。そんなにいじわるな感じだったの?」
Jは眉をひそめてそう聞いた、けれど。
いやいや、いい印象とかいじわるな感じとかそういうことじゃなくて。
夢の内容自体、インパクトが強すぎて、聞こえてきた声の主がどこの誰でどんな子なのか、なんてところまでは、ぜんぜん思い至らなかった、というか。
そう考えて、ひとつ、思い出した。
ガブリエルも、最初は真面目な顔で聞いていたけれど、最後には妙に楽しそうだった。聞いてもいないはずの彼女の声真似までしてみせるくらいに。「こんにちはーわたし、こんなことも知ってるんだーふふふー」とか何とか。
Jは「会ってみたい」と云う。
僕が、おかしいのだろうか。
空耳かもしれないと思いつつも、あのまま海にはいたくなくて、そそくさとJのお庭へ逃げるように移動していた。
なぜだろう。僕は、何かを恐れてるのかな。
あの海、「オレンジの海」は、僕の意識空間。
そこで眠っていたら、夢のような夢ではないような、奇妙な何かを見せられた。
夢の内容うんぬんではなく、僕の意識空間に、見知らぬ誰かが容易に侵入して、夢のような形で僕に干渉できた、という事?
僕は、それを恐れている?のかもしれない。
夢と同じあの声が耳元で聞こえたような気がして、それで怖くなって慌てて逃げだした、という事かな。
「ふむー?それはまた、Kらしくないねえ」
Jは、笑ってこそいなかったけれど、さっきまでの険しい表情はいつの間にか消えていた。
やっぱり、僕がおかしいのかな。何か深刻に考えすぎてる、とか。
「んー。でも、Kもわかってると思うよ、言葉で説明できないだけで。まだちょっと、夢を引きずっちゃってるのかも。そういう意味では、夢のあの子はちょっぴりいじわるだねえ」
Jの顔に、苦笑いが浮かんだ。
僕もわかってる?
いやぜんぜんわかってないけれど。
夢を引きずっちゃってる
それは、そうなのかもしれない。
ぴこん、と、Jの人差し指が立った。
僕は藁をもすがるような気持ちで、その細くて長い人差し指を見つめていた。
「これは、わたしの想像だけど」
Jはそう云って、魔法の笑顔を見せて、
「あの「オレンジの海」は、Kの意識空間。でもKの意識空間は、王の意識空間でもあるでしょ。だから、わたしもLもつながってる。たぶん、どこかで眠ってるガブリエルも。それから、つながりを失う前には、キクヒコさんもルリさんもつながってた、でしょ?」
人差し指をぴこぴこ振る。
僕は、何か捨てられた子犬のような気分で、その指をじっと眼で追っていた。
まるで、天使に救いを求める人のよう、だったかもしれない。
「だったら、わたし達のまだ知らない人がつながってるかもしれない、でしょ。たまたま、あの海に気づいてから、わたしとLしかつながってなかったから、知り合いしかいない感じになってたけど。おじいちゃんが王の頃には、もっといろんな人がつながってたんじゃないかな。だって「王」っていうくらいだし。それに海はあんなにも広いんだし。つながる人が4、5人しかいない、ってことはないでしょ」
いつものことながら、Jの言葉は、乾いた砂漠に水がしみ込むように、僕の心にしみ込んでくる。
王の意識空間
それは、そうだった。
僕の意識空間ではあるけれど、僕がつながる人を選んで、つなげているわけではなかった。
僕らが気づくよりも前からあの「海」は変わらずにあって、つながることができる人なら、誰でもつながることができる状態だったはずだ。今と何ら変わりなく。
王と臣下、と云うより、木の幹と枝葉。
先代キクタから王の器である「海」を引き継いでいる以上、その当時からつながっている人だってきっといる。
「うん。とても不思議な力で、わたし達だってまだ全部を知ってるわけじゃない。だから、夢のあの子は、Kに何かを教えてくれようとしたのかも。それとも、わたし達と同じで、まだつながり方も使い方もよくわからなくて、たまたま夢でつながっちゃっただけなのかも」
そうだった。最初は夢でつながりやすい、Lもそう云ってた。
つまり、「オレンジの海」にいたら、突然、見知らぬ誰かがつながっても、少しもおかしくはないんだ。
僕の意識空間であっても、「つながる」という機能に関して云えば、そこに僕の意志は全く関係ない。
「そう、しかもK、昨日はあの砂浜で寝てたんでしょ。それはもう、つながっちゃっても仕方ないよねえ」
Jはくすくす笑っている。
「今夜からはちゃんとあの白いお部屋で寝ること。あそこなら、窓を閉めたらだいじょうぶでしょ」
あ、そうだった。
Jは、あの白い部屋は僕の部屋だと思ってるんだ。オレンジの海の中に、僕が作った僕の部屋だと。
それは、ちょっと、何だか騙しているようで申し訳ない気がするけれど、ガブリエルの事を云えない以上、しばらくはそのままにしておくしかない、よね。
早く僕の体を取り戻して、ガブリエルからきちんとみんなに話してもらわなくては。
こっそりと、そう思った。
でも、J、僕がわかってると思う、と云ったのはどうしてだろう。
Jに云われるまで、僕はまるでわかってなかったと思うのだけれど。
「わかってたでしょ。だから、わたしのお庭へ行きたいって云ったんでしょ?」
Jは小首をかしげて微笑んでる。
お庭へ行きたいって云ったのは、なんとなく、あのまま「海」にいるのがいやだっただけで、やっぱり、僕はわかってはいなかったと思うけれど。
「なんとなく」
そう云って、ぴこん、とまたJの人差し指が立った。
「それ、それがLの云う無意識だよ」
人差し指をぴこぴこ振りながら、得意げにJは笑顔を見せた。
なんとなく、が、無意識?
無意識に、僕はわかってた、という事なの?さっき、Jが話してくれたことを?
だから、僕は、Jにお庭へ行こう、と云ったの?
本当だろうか。
肯定するように、Jは大きくゆっくりうなずいて、
「どうして「泡」で飛べるの。それも「なんとなく」つまり、無意識、でしょ」
証明終わり、と云うように人差し指を引っ込めて、代わりに形の良い親指をぴっと立ててみせた。
かっこいい。今日はJが名探偵みたいだった。
いや、それはともかく。
なんとなく
Lのお見舞いに行ったあの日、バス停で手をつながずに僕の心の声がJに届いた。
あの時からずっと、事あるごとに考えていた、無意識について。
無意識を意識せずに、使いこなす方法、みたいなものを、ずっと。
その答えが、「なんとなく」?
何とも拍子抜けすると云うか、肩透かしをくらったような、けれど、妙に腑に落ちる、そんな答えだった。
云われてみれば、そうだった。
あの公園でアイ達を追い払うために「認識の喪失」の力を使った時も、なんとなく、できた。
その前に、職員室でナガタ先生から逃れようと思わず力を使った時も、なんとなく、だった。
オレンジの海での会話の切り替えも、僕もLも、特に意識する事なく、なんとなく、できていた。
「さっき、Kも、「泡」に触れているだけで、なんとなく飛べたでしょ。だから、Kが思ってる以上に「なんとなく」は強いのかもしれないね」
そう云って、ふふふ、とJは笑った。
「なんとなく」は強い
何故なら、それが無意識の力だから。
Jは、すごい。
Lが、あの孤高の天才児とアイが恐れるミクリヤミカエルが、何だかんだとぶつくさ云いながらも、Jに一目置いている理由が、よくわかった。
Jは、すごいのだ。
「なあに?さっき、わたしが「いつもと逆」って云ったから、今日はまだ褒め足りないと思っちゃったの?」
照れくさそうに、Jは笑ってる。
いや、Jがすごいことは、僕は前から知ってた。
でも、僕が知っていたよりももっとずっとさらに、Jはすごかった。そういう事なのだろう。
ある意味、ミカエルよりも天才肌かも
ガブリエルのあの言葉は、まちがいない。
今、ほんの短い時間の会話だけで、僕が不安に陥っていたあの夢と声の問題と、ずっと抱え込んでいた無意識の答えを同時に解決してしまうなんて。
Jこそ、本当に名探偵みたいだった。
「うん、わかった。もう止めていい?」
降参するように片手を上げて、本当に照れくさそうに、Jは困った笑顔を浮かべてる。
まだまだ褒め足りない気がしたけれど、Jを困らせるのは本意ではないので、僕は止まることにした。
「じゃあ、あの夢の「声」の事もひとまず解決かな。今日からちゃんとお部屋で寝てね」
ふふっとJは笑って、
「それじゃ、本題のお庭を案内しようかな」
僕の手を引いて、元気にベンチから立ち上がった。
ゆっくり時間をかけてJの自慢のお庭を見学して、噴水の向こうにある東屋でピクニックを楽しんだ。
その後もJのお庭でのんびりとおしゃべりをしながら貴重なお休みを過ごしていたので、時刻はたぶん、夕方近くになっていただろうか。
「おーい、いるかー?」
窓の向こうから、Lの声がかすかに聞こえた。
思わずJと顔を見合わせた。
そうか、と、あらためて思った。僕とJはそれぞれNとクロちゃんの中にいるから自由に行き来ができるけれど、Lは今、自分の体にいるから、そう簡単にはいかない。
こちらからLの体に入ることはもちろんできない。できるけれど、それをしてしまうとたいへんな事になる。
Lの意識がNやクロちゃんの体に一時的に来ることもできない。Lの体が眠ってしまうから。
そう考えると、やっぱり少し変だ。避難所であるはずの動物の体の方が、何かと融通が利くような気がする。
ともあれ、Lが呼んでる。
「なんだろ、行ってみようか」
Jがそう云って、ふたりで「オレンジの海」へつながる窓へ向かった。
Jが大きく窓を開けてくれて、どちらからともなくそれぞれの「泡」に触れて、ふわりと窓枠を蹴って空を飛んでいた。
ひとりで飛ぶのは初めてだったけれど、なんとなく、で案外うまくいくものだった。
ドアから顔をのぞかせていたLが、
「おお、ちゃんといたなー、感心感心」
ふふっと笑って、海へ出てきた。
そのまま、流木へ向かって歩き、また「よっこらしょ」とおじさんみたいな事を云って、Lは流木に腰を下ろす。
「何、ちゃんといるかどうかの確認なの?」
ふわりと流木の前に着地して、Jが尋ねると、
「うん、それもあるけど」
Lはそう云って、僕にニッと笑いかけ、僕とJに手で流木を指している。「まあ座れ」という事らしい。
Lをはさんで、左にJ、右に僕が腰を下ろした。
「あー、ちょっと困った事になってるぞー」
あまり困った風には聞こえないいつもの口調で、Lは僕とJの顔を交互に見て、云った。
困った事?
Lの身に何かが起こったのかな。
それとも、「キクタ」の行方について何か不測の事態が起きた、とか。
「それはどっちも困るけど、どっちもはずれ」
Lはぴっと僕を指さして、その指を左右に振ってみせ、少しだけ真面目な顔になって、
「ルリおばさんが消えた。んで、アイが外出禁止になった」
結論だけを、ずばっと告げた。
Lのそういう端的な話し方は、僕はとても好きだった。だらだらと説明ばかり長いよりも、先に結論を教えてくれる方が、はるかにわかりやすくていい。
そういう点では、Lはちっとも回りくどくはないと思う。
「なんだ?」
Lが不思議そうに僕を見て、Jを見る。突然僕に褒められて、当惑しているらしい。
「うん、こっちの話。どうぞ続けて」
Jが普段の仕返しとばかりに、ちょっといじわるに続きを促してる。
「おまえら、覚えてろよ」
そう云いながらも、Lはどこか楽しそうにふふっと笑い、すぐにまた真面目な顔に戻る。
「救急車で運び込まれてそのまま入院してた大学病院から、今朝突然いなくなってたらしい。アイが、あー、あいつほんと律儀なやつだよな、ルリおばさんの見舞いに行こうとして、親父さんに状況を聞いたらしい。そしたら親父がブチ切れて、当分外出禁止を食らった、ってさ。そりゃ当たり前だよな、「二度と行くな」って云われてた工事現場へ行ってるわけだし。ルリおばさんを救助した事で、まあ人助けをしたんだから、って事で親父も多少は大目に見てくれてたのかもしれねーけど。そこへ「見舞いに行きたい。どんな具合だ?」なんて聞いたら、あの先生のことだ、ブチ切れもするよなー。まあそのおかげで、普段なら絶対に患者の事なんてアイには話さないあの先生が、怒りに任せてあれこれ話してくれたってんだから、ある意味、アイはお手柄だったのかもしれねーけど。アイが先生に聞いたところによると、病院へ何度も警察が来てたらしい。Kの行方不明事件の重要参考人だからね、ルリおばさん。あの日に、ニュータウンのコンビニだとかあの辺でルリおばさんの目撃証言がいくつかあったらしくて、事件への関与を疑われてるってとこだろうね。病院側は、まだ意識が戻らないから、って事でその都度警察を追い返してて、事情聴取まではされてなかったらしいけど。たぶん、実はすでに意識は戻ってて警察が来てる事にもルリおばさんは気づいてたんじゃねーかな。それで、昨夜のうちにこっそり病院から逃げ出して、今朝になっていなくなったのがわかって、病院は大騒ぎだろ。そんな時に「見舞いに行きたい」なんて火に油を注ぐような空気を読まない発言をしてくれたアイって、ほんとにいいキャラしてるよなー。まさにグッドタイミングだぜー」
何ともアイらしい、間の悪さというか、素直で律儀で人の好いところが見事に全部裏目に出てしまっているというか、何というか。
怒られた上に外出禁止とは、アイにとっては災難だったかもしれないけれど、僕らには知りようもない病院内での出来事を知れた事は、確かにLの云う通り、幸運だったと云えるのかも。
それに外出禁止のおかげでゆっくり休めると思えば、アイの体にとっても、かえって良かったのかもしれない。本人の気持ち的には、落ち着かないだろうし、きっとやきもきしているのかもしれないけれど。
それはともかく、ルリおばさんが消えた。
確かにそっちは、困った事だった。
困った事なのに、そんな一大事すらもいつも通り平然と、どこか楽しそうに話すLこそ、いつもの事ながら実に困った子だなと思うけれど。
「じゃあ、アイは当分、家から出られないんだね」
少し寂しそうに、Jがぽつりと云う。
せっかく昔のように仲良くなれたのに、残念という気持ちはもちろん、今のアイの気持ちを思えば、家でじっとしているなんて、かえってつらいだろうし、かわいそうにも思えるのだろう。
「まあ、実際あいつ、だいぶ参ってたからね。療養とでも思ってもらおうぜ」
Lも決して面白がってばかりいるわけではなく、アイを思いやる気持ちも、もちろんあるのだろう。
でも、ルリおばさんまでいなくなってしまうなんて。
Lの予想通り、警察からの追及を逃れるために自分から姿を消したのなら、いいのだけれど。
「んん?他に何かありそうな口ぶりだなー?なんだ?」
Lにそう聞かれた。
具体的に、何って不安要素があるわけではなかった、けれど。
なんとなく、だろうか。
「なんとなく」
そう云って、ぴこん、とJの人差し指が立った。
あ、なんとなく、は無意識の力?
無意識に、僕の中で何かが引っかかっている、のかな。
「うん、そうかも。Lにも話してみて」
Jが人差し指を立てたまま、大きくうなずいて、云った。
話してみて、は、あの夢の話を、なのだろう。
どのみち、Lにも聞いてもらおうとは思ってた。
ちょうどいい機会かもしれない。
L、僕が昨日の昼に見た夢の話なのだけど、
そう云いかけると
「あー、他人の夢の話ほどつまらねーものはねえって云うけど、オレは好きだけどね?ヒトの夢の話聞くの」
Lにそう、先を越されてしまった。
さすがL、と思わず苦笑する。
じゃあ、話すけど、と昨日見た夢の話を、Lにも話した。
Lは腕組みをして、終始無言で、ほんの少し微笑を浮かべたまま、僕の話を聞いていた。
青空のような鮮やかな青い眼が、きらきらと輝いてた。
話し終えると、Lは少しの間だけ眼を閉じて、何かを考えているようだったけれど、すぐにぱっと眼を開いて
「面白え」
短くそう云って、にやりと笑った。
面白い?かな。
予想外の反応に、少しびっくりしたけれど、よく考えてみれば予想外でも何でもなかった。
Lは、何でも面白がれるのだ。何でもかんでもじゃねーよ、とLは云うかもしれないけれど、僕にとっては、ほぼ何でも、だった。
「どう思う?」
JがLに尋ねると、
「どうもこうも、面白えな」
腕組みを解いて何故か左右の腰に手を当て、Lはオレンジの海に向かって、はっはーといつものように陽気に笑った。
Jが困ったような顔で僕を見る。僕も苦笑を返すしかなかった。
「それじゃわかんないでしょ。もっとちゃんとわかるように説明して」
Jがふくれっつらでそう云うと、Lはおどけるように肩をすくめ、
「ええ、ヒトの夢を説明すんの?オレが?そんな無粋なのはやだなー」
ふっふっふ、といつもの不敵な笑い方で笑って、また腕を組んだ。
「ま、夢じゃないけどね、たぶん」
そう云ってまた、Lは「オレンジの海」をじっと見つめてる。
夢じゃないけど
「うん。能力か、それともこの海に関する何か。いや、でも能力かな。人間くさいよね」
人間くさい。
夢ではなく、この海に関する何かでもなく、能力。その見せ方が人間くさい、という事かな。
Lは答えず、いたずらっぽくニッと笑うと、腕組みをしたまますっくと立ち上がった。
そして大きく息を吸い込んだかと思うと、
「おおーい!聞いてんだろー?何とか云えー!」
オレンジの海に向かって、突然大声でそう叫んだので、びっくりした。
Jも、眼をまんまるに見開いて、驚いた顔でLを見つめてる。
Lは、姿なき誰かからの返事を待つように、立ったまま首をかしげて、耳をすましているようだった。
寄せては返す波音だけが、繰り返し聞こえている。
返事は、なかった。
「あれー?フレンドリーな感じなのかと思ったけど、違うのかー」
残念そうにそうつぶやいて、Lはまた「どっこらしょ」といつものように云いながら流木に腰を下ろした。
「あるいは、ほんとに聞いてねーだけかも、かなー」
フレンドリーな感じ
あるいはほんとに聞いてねー
誰が、だろう。
「誰って、そりゃ、Kにその「夢」を見せたやつ?つながってるんだろ、そいつも」
当然、みたいな顔でLはそう云った。
話が早くて助かるのは何よりだけれど、僕はまだ、何も云っていないのだけれど。
今朝の、笑い声の事も、何も。
「笑い声?なんだ、能力てきなもので「夢」を見せられただけじゃなく、声までつながってるの」
驚いた顔でLがそう云ったので、今朝聞こえた笑い声の事も話した。
空耳かもしれないけれど。
「ふーん、そこまでしてくるのに今は返事なし?じゃあやっぱり聞いてねーのかもだなー、残念だぜー」
腕組みをして下を向き、Lは何やら考え込んでいる。
「ははあ、つまり、ルリおばさんがいなくなったのは、そいつが関係してるかもって事か」
顔を上げて、Lはそう云った。
ルリおばさんがいなくなったのは、そいつが関係してるかも?
そうなのだろうか。
「そうなの?」
Jも驚いた顔でLにそう尋ねていた。
「んん?おまえら何云ってんの?寝ぼけてんのか?オレがアイから聞いたルリおばさんの話をしたら、Jが「Lにも話して」とか云って、Kが「夢」の話をしたんじゃねーか。つまり、おまえらも「夢」のやつとルリおばさんの失踪が関係あると思ったってことだろ?なんでそんなにびっくりしてんの」
え、なんで?って、なんとなく。
「なんとなく」
僕とJが口を揃えてそう答えると、Lはぎょっとした顔になって左右に座る僕らを何度も見比べた。
「え、何これ、どんな遊び?面白いの?」
Lは珍しく困ったような顔をして、左右をきょろきょろ見渡している。
偶然とはいえ、天才児を困惑させてしまった事に何だか申し訳ない気持ちになった。
違う、ごめん、L、遊びとかではなくて、まじめな話。
Lがアイから聞いたという、ルリおばさんの失踪の話。
ルリおばさんが警察の追及を逃れるために、自分の意志で病院から逃げ出したのでは、というLの予想。
それを聞いた時に、僕の中で「なんとなく」何かが引っかかった。
でもそれが、何なのかはわからなかった。
Lに云われてはじめて、その可能性に気づいた。
あの夢の声の主と、ルリおばさんとのつながり。
だから、びっくりした。たぶん、Jも。
と、Jを見ると、「そうそう」と云わんばかりに無言で何度もうなずいていた。
「あーね」
ホッと安心したようにLは大きなため息をついた。
「いやあ、ふたりで何かお庭に生えてたへんなキノコでも食ったのかと思ったぜー」
そう云って、Lはいつもの陽気な笑顔に戻る。
「へんなキノコなんて生えてないよ」
Jは口を尖らせてふくれてる。
そんなJをさらりとスルーして、
「確かになー、今の話を聞いたら、ルリおばさんが自発的に姿を隠した、とばかりは云えねーかもしれねーなー。「夢」によれば、どーやら顔見知りみたいだし、そのルリおばさんらしき人と声の人」
Lはまた何やら考え込む表情になる。
あの夢の声の主は、敵ではなさそうだったけれど、味方というわけでもないような、そんな会話をしていた。
突き放すような、あるいは諦めて見放すような、そんな声だった。
「ルリおばさん自身か、ヌガノマか、あるいはあの工事現場の事が、警察沙汰になっちゃまずいと考えた誰かが、こっそりルリおばさんを攫った、とかも、可能性としてはなくはないってことか?いやあ、それは、ないんじゃね」
ぱっと顔を上げて、Lが僕を見る。
ない?
敵とか味方とか、そんなのはない、って事だろうか。
「いや違う。うーん、いや、それもだけど。ルリおばさん自身が逃げ出すならともかく、他の能力者が口止めのためにしろ何にしろわざわざルリおばさんを攫う理由が、ないんじゃね。そんな面倒なことするより」
そう云って、Lは片手を高く上げて、指を鳴らす動きをしてみせた。
認識の喪失。
そうか、ルリおばさんの存在そのものをわざわざ攫ってまで隠さなくとも、警察や目撃者の認識から消せばそれだけで済むはず。
「うん、だよね」
Lがうなずいて、笑顔を浮かべる。
また、僕の心配性か、あるいはいつもの考えすぎ、だったのかもしれない。
「じゃあひとまず、ルリおばさんはおそらく自分の意志で姿を隠した、って事でまあ一安心かな」
Lはそう云ってから、急に声をひそめて、
「でも何、攫うとか敵とか、そんな物騒な「声」だったのか?「夢」の内容はまあ、確かにそんなに陽気なもんじゃなかったかもしれねーけど。それにしてもなー、ただの挨拶みたいなもんだったんじゃね」
僕を励まそうとするみたいに、がしっと僕の肩に腕を回して、そう云った。
「うん、わたしもそう思ったんだけど。Kは何だか、珍しく過剰反応?っていうか、怖がってるみたいな。でも、わたし達は、話で聞くだけだからね。実際に「夢」を見たのはKだけだもん。それくらい、怖い映像だったのかも」
Jが心配そうに僕を見て云う。
「ほほう。怖いもの知らずのうちの「王」を怖がらせるとは。なかなかやるじゃねーか」
ふっふ、と不敵にLは笑って、
「でもなー、この海や「能力」の性質から云っても、まさか敵や悪いやつとはつながるとは思えねーんだよなー。どっちかって云えば、徹底的にそーいうのから逃れる・守る、そういう「力」のはずだろ?一番大事なはずの「海」が怖いやつとつながっちゃったりしたら、それこそ本末転倒っていうかさー」
そう云いながら、僕の頭をもしゃもしゃかき混ぜてる。
確かに、そう、Lの云う通りだった。
それはすごくわかるのに、どうして僕は、何をそんなに恐れているのだろう。
やっぱりまだ、少し疲れているのかな。
「まあ、とは云えだよ。知らないやつからいきなりへんな「夢」見せられたり、聞いたこともない笑い声が急に聞こえたりしたら、そりゃ怖いし、いやだよね。オレだっていやだわ。おまえにもそーいう普通の子供らしいところがあって、良かったと思うよ。何事にも動じない、何者も恐れない、そんな小学2年生がいたとしたら、そっちのほうがはるかに怖いわ」
すっかりもしゃもしゃにかき回した僕の頭を満足げにながめて、Lはそう云ってもう一度僕の肩をがしっと掴んで、ふふっと笑った。
「そうだねー。それに、Kの受け取り方ばっかりじゃなくてね、やっぱり、ちょっといじわるだよね、夢のあの子。わざわざ怖がらせようとしてる、みたいな感じする」
Jは不満げにそう云って、こぶしをぎゅっと握りしめてる。
珍しく、怒ってるらしい。
JもLも、僕にやさしい。
この「オレンジの海」も、やさしい。
何を僕は恐れているのだろう。
へんな「夢」を見せられた
誰かの笑い声が聞こえた
いじわるで、わざわざ怖がらせようとしてる
ひとつひとつ、挙げてみても、何も怖いとは思わなかった。
強がりでも何でもなく、あの「夢」も、あの「声」も、あの時、少しも怖いとは思わなかった。
ヌガノマに首を絞められた時も、あの瞬間は、怖いとは感じなかった。
後で、Nの体で現場を確かめに行った時に、その時になってようやく、本当に恐怖を感じた。
その時、ヌガノマに感じた恐怖は、死だろうか。理不尽に命を奪われる事に対する恐怖。
死
灰の海を「死」とあの声は云っていた。
けれど、あの灰の海を、僕は怖いとは思わなかった。
灰の海に対して感じたのは、悲しさ、だろうか。
やさしかった何か、あたたかかった何かが、すべて失われていく、悲しさ。
何もかもを失くしてしまう、身を切り裂かれるような、深い悲しみ。
僕が恐れるのは、このやさしい人たちとやさしい場所を永遠に失う事、なのかもしれない。
そう思った。
白い部屋に戻ると、ガブリエルはもう起きていて、昨日と同じようにテーブルでお茶を飲んでいた。
「おかえり。どうだった?」
そう云って僕に椅子をすすめ、指を鳴らして僕の分のお茶を用意してくれた。
「ありがとう」と云って椅子に腰かけ、JとLの反応をガブリエルに話した。
ふたりとも、夢ではないと云っていた。
Lは、見知らぬ誰かの「能力」だろうとほぼ断定してた。「人間くさい」とも。
Jは、夢の声の主に「会ってみたい」と云い、Lはいきなり大声で呼びかけていた。
そう話すと、ガブリエルは楽しそうに笑った。
「予想通り、というか、想像以上に面白いね。やっぱりキミ達、最高だ」
そう云って、僕ら3人を称えるようにぱちぱちと拍手をした。
「でも、反応はそれぞれだけど、意見は概ね全員一致って事かな。見知らぬ能力者からの、Kへの挨拶、メッセージ、あるいは情報の共有か、はたまた意図せずつながっちゃっただけ、か」
ふむ、と軽く腕組みをして、ガブリエルは空を見上げる。
今日もこの白い部屋の空には、大きな七色の虹がかかっていた。
「みんなの意見を聞いてあらためて考えてみると、ボクは、「偶然つながっちゃった説」を推したいかなあ」
腕組みを解いてお茶のカップを引き寄せながら、ガブリエルは云う。
ガブリエルは最初、「メッセージ」と云ってたはずだった。
それと承知で送りつけるメッセージと、偶然つながった、とでは、真逆のような気がするけれど、どうしてだろう。
「うん、最初は何か狙いがあるように感じたんだよね。夢の内容にしても、「灰の海」と「12年前のあの日」を選んであえてそれを見せたのかな、ってね。でも、そのふたつのお話を今このタイミングでKに見せる意味がわからない。つながりがある話なのかもしれないけれど、見せられたKにもそれはわからなかったわけでしょ。だったら、メッセージとしての役目を果たしてない事になる。その目的が、ただ怖がらせるとか、困惑させるだけとか、でもない限り、わざわざそれをKに見せる意味がない。そうではなくて、偶然、夢の中で「海」につながったその人物が、その時に見ていた夢、なのだとしたら?その時にたまたま「海」で眠っていたKも、その人物が見ていた夢を同じように見てしまった、だけなのかもしれない」
そう云って、ガブリエルは「どう思う?」とでも云いたげに僕の顔を見て、紅茶を一口飲んだ。
メッセージではなく、誰かが見ていた夢
だとすると、僕が感じたようなデモンストレーションでもない事になる。
確かに、そう考えると、意味のわからない不自然さや何を考えているのかわからない不気味さはなくなる。
もしあれが誰かの夢なら、あの「声」も夢の一部で、夢を見ていたのはあの声の主ではないのかもしれない。
「うん。しかも見ていたのはただの夢ではなくて、誰かの記憶を夢として見る能力、とかなのかもしれないね。ミカエルが「人間くさい」と云うのはそこなのかも。それに、Jが云うように話の筋がまっすぐ通ってる。だから、ただの夢じゃなくて誰かの記憶かもって気がするよね」
誰かの記憶
それを夢として見る能力
もしそうなのだとしたら、その「夢」を見るための材料となる記憶は、僕の中にある必要はない事になる。
僕はただ、その「能力」で見えた誰かの記憶の夢を、たまたまつながった「海」で夢に見ていただけ。
灰の海は、あまりに現実離れしすぎた風景で、いったいあれがいつの、どこの、誰の記憶なのかと思ってしまっていた。
ただそれもJが云っていたけれど、過去に酷いダメージを負った誰かの意識空間、その記憶の風景なのだとしたら、納得はできた。
僕の中にそれがない以上、あれは先代キクタの記憶ではあり得ない、と思っていたけれど、見知らぬ誰かのその「能力」が、すでに亡くなった人の記憶さえも夢に見ることができるのならば、あの灰の海が、先代キクタの記憶という可能性もあることになる。
もちろん、偶然につながって見えただけなのだとしたら、先代キクタではない別の誰か、もっと過去の王の記憶である可能性の方がより大きいのだろうけれど。
「前半は、そうだねえ。でも後半は、偶然にしては出来すぎなくらいピンポイントだよねえ」
ガブリエルにそう云われ、思わず息を呑んだ。
その通りかもしれない。
偶然つながっただけで、12年前のあの日の記憶を夢に見る?確かに出来すぎだった。
それに、後半に関して云えば、誰の記憶なのかもピンポイントだった。
あの声の主だ。視点もそうだし、何よりあのふたりと会話をしていた。
ただ、だからと云ってあの声の主が、あの夢を見ていた能力者とイコールであるとは限らない。
あくまで、あの声の主の記憶を、別の能力者が読み取って、夢で見ていただけ、なのかもしれない。
「案外、世間は狭いのかもしれないねえ」
椅子にもたれて頭の後ろで手を組み、虹を見上げたガブリエルが何やら意味深な事を口にした。
世間は狭い?
「うん、あくまで可能性だけどね。ピンポイントに12年前のあの日の記憶を夢に見る、そんな能力者は意外と身近な人なのかもって思って。例えば、アイとかね」
虹を見上げたまま、さらりとガブリエルはそう云った。
僕は、驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになって、慌ててテーブルにつかまって体を支えた。
アイ?なんで?
「あ、ごめん。そんなに驚くとは思わなかった」
ガブリエルは僕を見て、苦笑を浮かべ頭をかいている。
「あくまで、可能性だよ。後半のあの場面にいて、能力が判明してない人って考えたら、声の主かアイしかいないなあってね」
いや、そうだけど、でもアイは・・・
「うん、泡が白くないし、心の声もつながらない。だから能力はない。本当に?」
ガブリエルの表情から苦笑が消えて、真面目な顔になっていた。
本当に、そうだろうか。
「白くなくても、心の声がつながらなくても、能力が使えるやつはいる」
以前、Lがそう云ってた気がする。
あれは、いつだったろう。
あの時だ、Jのお見舞いに、大学病院へ行った時。
ルリおばさんを指し示すような白い線はなく、青い線が彼女のいた方に出ていた、とLは云ってた。
線なのでJの泡ほど、はっきりとルリおばさん本人のものかどうかまではわからなかったけれど。
あの公園で、Jの視界で見たアイの泡は緑だった。
あの駐車場で、アイと握手をした時、心の声は通じなかった。
だから、能力はない、そう思っていたけれど。
「あくまで、可能性ね」
もう一度、ガブリエルはそう云って、笑顔を見せた。
「白い・白くないの差は、たぶん、あの海につながってるか・つながってないか、だと思う。それにしたって、確証はないけど、たぶん、そう思うってだけで。ルリさんが青でアイが緑なのも、キミの海につながってないから。逆につながってるJもミカエルも、そしてボクも、白。あの「海」本人であるキミも白。ただそれ、わざわざ色分けする意味ある?つながってるのは色を見るまでもなくわかるでしょ、「海」を通して話ができるんだし。あーごめん、話がずれた。ひとまず白いかどうかはそういう事になってる。という事は、以前、「海」とつながってた頃のキクヒコやルリさんは白かった、はず。「海」とのつながりを失って、白くなくなった。じゃあ、アイは?もし、キミの見たあの夢がアイの知られざる能力なのだとしたら、そして偶然にも「海」で眠ってたキミがそれを見たのだとしたら」
まさか、
アイが、「海」につながった?
「かもしれない。云ったでしょ、あくまで可能性。でも、アイが能力者だったとしても何ら不思議はないんだけどねえ。4人のうち、アイだけ違うって方がむしろ不自然というか、なんで?って気がする。明日、探索にアイも来るんでしょ?だったら、Jに「泡」を見てもらえばいい。白くなってるかも・・・ん?」
明日、と聞いて僕の表情が曇ったのを見て何かを察したのか、ガブリエルが言葉を切って、首をかしげている。
そうだった、大事なことをガブリエルにまだ共有していなかった。
ルリおばさんが病院からいなくなった事、アイが父親の怒りを買って外出禁止になった事を、ガブリエルに話した。
「あらら、残念。でもまあ、アイにも休暇は必要かあ」
ガブリエルはすねたように口をとがらせて、そう云った。
アイは、そう、ゆっくり静養してもらうとして、ルリおばさん贔屓のガブリエルとしては、彼女がいなくなった事は心配ではないのだろうか。
「うん、贔屓だからね。ボクが心配するまでもないでしょ。警察の追及の手を逃れて病院を抜け出すなんて、かっこいいよねえ、さすがルリさん」
そう云って、ガブリエルは満足げに笑ってた。
かっこいい、ルリおばさんが?
やっぱり僕には、よくわからなかった。
ガブリエルがNに声をかけてノートパソコンの確認作業へ向かったので、僕も「オレンジの海」へ戻ることにした。
そう云えば今日は朝からずっと自分の事ばかりで、ガブリエルの作業の進捗をすっかり聞き忘れていた事に、「海」へ戻ってから気づいた。
もう一度、白い部屋へ戻って聞いてみるべきだろうか、と少し考えて、やめておこうと思った。
もし何か進展や発見があったら、ガブリエルから共有してもらえることになっていた。
それがなかったという事は、昨夜の作業では何も見つけられなかったのだろう。
彼から何も云ってこないのに、こちらからあれこれ尋ねるのは、何だか急かすようで申し訳ない気がする。
それに、あのパソコンに大量に入れられた情報は、そのほとんどがキクヒコさんの仕事関係の何かの研究データだという。研究機関の仕事のデータが、いまの僕らに役立つとは、正直あまり思えなかった。
「オレンジの海」へ戻ることに、抵抗はなかった。
今朝、Jのお庭へ逃げ込むときに感じていた得体の知れない怖さのようなものは、もうどこにもなかった。
JとLとガブリエルと、いろんな話をした事で、だいぶ気持ちが落ち着いたのかもしれない。
Jには白い部屋で寝るように云われていたけれど、あの部屋で眠るのは、何だか逃げるようで少しいやだった。
「海」で怖い夢を見たから、ガブリエルのベッドで眠らせてほしい
そう頼めば、ガブリエルは決してダメだとは云わないだろうけれど。
夢が怖いのでもなく、「海」が怖いのでもない。
何かを見せられるのが怖いわけでもないし、誰かの笑い声が聞こえるのが怖いわけでもない。
だったら、逃げる必要はないのでは。そう思った。
「海」はすっかり日が暮れていたけれど、相変わらずぼんやりと薄明るい。
温かなやさしい雨は、まだしとしとと降り続いていた。
肌に触れるとすぐに消えてしまう雨粒で、濡れることも風邪を引くこともないのだろうけれど、ここで眠るのなら、屋根は必要かなと思った。
あまり深く考えず、なんとなく、ガブリエルの真似をしてぱちんと指を鳴らすと、見覚えのある東屋が砂浜に、ぽんと現れた。
あの丘のハイキングコースにあった東屋だった。
ラファエルに連れられて地下から脱出した後に、ひと休みした、あの東屋。
ヌガノマから逃れるために暗い地下道を駆け続け、もう体力も限界、というところを間一髪でラファエルに救われて、息も絶え絶えにようやく明るい場所へ出て、頭から水をかぶってようやく人心地がついた、あの時は、天国のように思えた東屋だった。あの時は、ね。
あらためてこのきれいな「オレンジの海」で見ると、とりたてておしゃれでもかっこよくもない、素朴な普通の東屋だった。
確かに、屋根はあるけれど。
自分の想像力のなさがおかしくて、ひとりで声に出して「ふふふ」と笑った。
ご丁寧に、東屋に併設されていたトイレと水飲み場もいっしょに出てきていた。
想像力は残念なくらい足りないけれど、記憶力はわりといいのかもしれない。トイレは、ここでは必要ないけれど。
東屋の中もあの丘のものといっしょだった。木製のベンチと四角い木のテーブルがあった。
ベンチで寝るのは、さすがに体が痛くなりそうな気がする。意識だけだからそんなことはないのかもしれないけれど、だからと云ってなんでもいい、というわけではないよね。
それなら、テーブルの上で寝る?広さ的にはちょうどいいかもしれないけれど、やっぱり違う気がする。
ぱちんと指を鳴らして、テーブルとついでにトイレは消えてもらう事にする。
消すだけのつもりだったのだけれど、無意識になんとなく思っていたらしい、テーブルの消えた場所にベッドが現れていた。
見覚えのある、僕の部屋のベッドだった。
僕の想像力については、もう何も云うまいと思った。
枕と布団も、いつも使っていたおなじみのものだった。
ほんの数日ぶりのはずなのに、ずいぶん懐かしい気がする。
ベッドに腰を下ろすと、母のお気に入りの柔軟剤の香りがした。
不思議とほっとするやさしい香りをかぎながら、早く日常に戻らなくては、と思う。
あの何事もなく平穏無事ないつもの僕の日々に。
ホームシック、ではなかったと思うけれど。
give it back to me vii
屋根裏ネコのゆううつ