特に何事もなく日々は過ぎ、7月になり梅雨が明け、夏休みがやってきた。
Lのお見舞いに行ったあの日以降も、僕らは毎週月曜日の放課後に、いつもの公園で会っていた。
特に何事もなく、とは良くも悪くもその言葉通りで、僕らのあの「力」について、目新しい発見は何もなかった。
あの日、バス停で手をつながずに届いた心の声も、あの時以来、一度も再現することはできなかった。
だから、あの時の僕の考察にも、正直に云うと、だんだん自信がなくなってきていた。
「手をつながなくても心の声で会話ができる」のが本来の形で、手をつなぐのは自転車の補助輪みたいなもの、というあれだ。
自転車で云えば、乗り方のコツさえわかれば、ということになるのだろうけれど。
もし本当にそうなのだとしたら、僕らはいったいいつになったら、補助輪を外す事ができるのだろう。
一度それに慣れてしまったら、そう簡単には外すことができなくなってしまうとか?
そういうものなのだろうか。
もうひとつ、「謎の現象」の方も、あれっきりだった。
ナガタ先生に連れて行かれた職員室と、その後の公園でのアイへの実験で起こったあの2回きり、以降は何度試してみても再現はできなかった。
ただ幸いなことに、ナガタ先生は本当にあの時のことを忘れているみたいだった。
次の日以降も教室で毎日顔を合わせていたけれど、まったく今まで通りのナガタ先生だった。
その態度にも僕や他の生徒への接し方にも、良くも悪くも特に変わったところはなく、特別に呼び出されることもなければ、あの日のことを何か聞かれたり肩をぽんぽん叩かれたりすることもなかった。
あの現象のことは、確かに気になる。
けれど、だからと云って、それをナガタ先生にあらためて尋ねる気には、到底なれなかった。
それこそ、やぶへび、というやつにもなりかねない、だろう。
アイに尋ねてみる、という選択肢も、だ。
全く同じ理由で、やっぱりなしだった。
6年生と2年生では、教室も遠いので、学校で彼を見かけることはなかった。
わざわざ出向いたところで、余計なトラブルこそ起こりそうだけれど、それ以外の、建設的な未来はあまり期待できそうにない。
それに、ナガタ先生があの様子ということから想像するに、アイはたぶん、僕を覚えていないのでは、とも思う。
あの公園での出来事がアイの記憶から丸ごと抜け落ちているのだとしたら、それ以前に出会ったことのない僕の記憶は、彼の中にはない、ということになるのでは。
だとしたら、アイが僕を覚えていることはないだろう。
まあともあれ、特に何事もないということは、僕にとっては平和で理想的な日々を過ごせている、ということでもあった。
「あの力」や「謎の現象」の解明には何も進展がなかったとしても、そこに、何か急を要する事情やタイムリミットみたいなものがあるわけでもないのだし。
今が平和であるのなら、平和のままで、のんびり笑って過ごせばいい。
それこそ、Jの云う通りに。
夏休み最初の月曜日、いつもの時間より少し早く、僕は公園に着いた。
夏休みなので、いつもの時間にこだわる必要はなかったのだけれど、なんとなくふたりの間では、いつもの時間にいつもの場所で、ということになっていた。
少し早いのでJはまだ来ていないかと思いきや、壊れた噴水のところにしゃがみ込んでいる後ろ姿を見つけた。
あの場所でいつも昼寝している黒ネコを見てるのかな。
なるべく普段通りに意識をせずに、心の声で「J」と呼んでみたけれど、やっぱり聞こえていないみたいだった。
あのバス停の再現は、なかなか難しい。
僕の説が正しいのだとしたら、なるべく普段通りにとか意識している時点で、すでに補助輪を使わないとダメなことになる。
意識をせずに、心の声を使う。一体どうやって?
例えば心の中に「無意識」と書かれたスイッチがあって、それをぽちっと押すと数秒間無意識状態になれる、とか?
無理すぎて、妄想ばかりはかどる、というのが現状だった。
「J、もう来てたんだ」
あきらめてJの背中に声をかけると、しゃがんだままくるっとJは振り返って、
「あ、今日も失敗かあ。ざんねーん」
僕をなぐさめるように、いつもの笑顔を見せてくれた。
「うん、失敗。J、何してるの。ネコ?」
うなずいて、Jの隣にしゃがみ込む。
ひび割れた噴水の縁石の上で、いつもの黒ネコがいつものようにだらしなく体を伸ばして昼寝していた。
「うん、この子の眼、すごくきれいなんだよ。えーと何ていうんだっけ」
すっと僕の右手を彼女の左手とつないで、Jは心の声で云う。
この子の眼?
ネコは気持ちよさそうにすやすや眠っているので、眼は閉じていた。
暑くないのかなと思ったけれど、ちょうど噴水の影になった縁石の上を選んで寝ているみたいだった。日陰の石は冷たくて気持ちがいいのかもしれない。
「前にここで、あ、Lにさんざん待たされた時だから、あの日かな。めずらしくこの子が起きてたから、一緒に遊んで待ってたんだけど、左右の眼の色が違うの。なんて云うんだっけ?」
左右の眼の色が違う、オッドアイ、かな。
「そうそれ。右眼がLみたいなきれいな青で、左眼が琥珀みたいな黄色?あれ、逆だったかな」
へえ、そうだったの。少し前にひとりでここへ来て、例の「謎の現象」の実験のために昼寝してたこの黒ネコを起こしてしまったことがあったけれど、その時は眼の色までは気づかなかったな。
「あらら、そんなことがあったの。じゃあ今日は起こさないように、ブランコ行こ」
しーっと唇に人差し指を当ててJは云い、立ち上がって僕の手を引いた。
僕も立ち上がり、いつもの電車ブランコへふたりで移動する。
公園の奥にある電車ブランコは、公園を囲む生垣の向こうにある竹林の影になっているので、夏でも日陰で涼しかった。冬は寒いのかもしれないけれど。
そう云えば、僕には「Lみたいなきれいな青」もわからないんだった。Lも眠っていたから、眼を閉じていたし。
「あ、そっか。ふむー、L、早く眼を覚ましてくれるといいねー」
電車ブランコに座りながらJはそう云って、ベンチにもたれると大きく伸びをするようにつないでいない方の右手を上げて、空を見上げる。
もうすっかり、空は鮮やかな青い夏空だった。
わたあめのような白い大きな入道雲が、青空の端の方にいくつか浮かんでる。
病気や体の不調が原因ではなく、本当にただ睡眠が目的なのだとしたら、Lは、いつ目覚めるのだろう。
冬眠の場合は、暖かい春が来れば動物たちは眼を覚ます。
Lの眠りが冬眠のようなものなのだとしたら、いったい彼女は、何を待っているのかな。
動物たちのように季節や時期的なものなのか、それとも体力の回復とか何かLの体に関することなのか。
「あ」
ひとつ思い出したことがあったのだけれど、考え事をしていたせいで、思わず声に出してしまった。
「どうしたの?」とJが心の声で聞く。
Lのお見舞いに行った日に、少し気になることがいくつかあって、後でJに聞いてみようと思ってた。
当日はいろいろと緊張していたり、Jに聞けないタイミングだったりで、そのままにしていたのをいま思い出した、というだけの事なので、たぶん、そんなに大したことではないのだけれど。
「はいどうぞ」
空を見ていたJの眼がふわりと下りてきて、まっすぐに僕を見る。
いや、ほんとにそんな大した事じゃないと思うのだけれど。
もう一度前置きをして、僕は心の声で云う。
Lって、兄弟がいるの?
なんとなく勝手なイメージで、ひとりっ子だと思い込んでたのだけれど。
「ふむ、それはまたどうして?」
思いのほか興味津々にJがそう聞いてくるので、僕は少したじろいでしまう。
あ、いや、あの日に何度か「あれ?」って思う瞬間があって・・・と記憶を辿る。
一番はっきり覚えているのは、庭師のシジマさんの言葉だった。
「Kの坊は、うちの坊と同じくらいかね」とシジマさんは僕に聞いたのだ。
うちの坊、というのがシジマさん自身の子供か孫のことを云っているのかな、ともちらっと思ったけれど、彼はその直前にLのことを「うちのお嬢」と云ってた。「うちのお嬢のお見舞いかね」って。
うちのお嬢=お屋敷のお嬢様、なのだとしたら、
うちの坊=お屋敷のお坊ちゃま?
だから、その時に僕は、Lには男の兄弟がいるのかな、と思ってしまった。
たぶん、シジマさんが「うちのお嬢」と云ったつもりで「うちの坊」と云ってしまっただけの、ただの云い間違いだとは思うのだけれど。
Jは黙ってうなずいてる。何故か、Jが真剣な顔をして聞いてくれるので、何だか僕は少し緊張してしまいながら、続けて。
それから、Lのお母さんが云った言葉に少し違和感があった。そっちは、云い間違いとかではなさそうに思えるのだけれど。
ガラスの仕切りの話で、お母さんが、
「ミカエルも代謝が落ちているから、細菌の感染を防がないとって、お父様が・・・」
そう云ったのが、最初の違和感だった。
Lのお父さんが仕切りを作る時に云ったセリフをそのまま口真似したのだと思うのだけれど、「ミカエルは」ではなく、「ミカエルも」と云ったのが少し気になった。言葉の意味からすれば、L以外にも「代謝が落ちている人がいる」みたいに聞こえたから。
その次に、眠り病の話をしていた時に、
「何年も眠り続けるようなそんな病気は、いまのところ世界にも例がない」って、Lのお母さんは云った。
そこで、「何年も?」あれ?と思った。
Lが眠りについたのは去年の12月で、まだ半年しか経っていないはず。
しかも「前例がない」のであれば、何年も、が例えばの話だとしても文章としておかしい。
「半年も眠り続けるような病気は」でいいはずなのに、どうしてそこで「何年」という言葉が出てきたのか。
L以外に、何年も眠り続けている子が他にもいるのかな、と僕は思ってしまった。
それからその後の、眠り姫の話も。
「いっそ童話みたいに、悪い魔女の呪いが原因って云われたほうが気が楽・・・」というお母さんの言葉。
童話の眠り姫は、悪い魔女に死の呪いをかけられて、その死の呪いを回避するために良い魔女が100年間眠り続ける呪いに変えて、というお話だったはず。
何年どころか100年の眠りの呪いのほうが、いっそ気が楽?そうお母さんは彼女は云うのかな。
なぜなら、いつか王子様が目覚めさせてくれるから?
それなら、目覚めるあてもなく「何年も」眠り続けているのは、いったい誰なのだろう?と僕はその時、思ってしまった。
ただ、あの時は、僕も精神状態がいろいろと緊張したり驚いたり圧倒されたりで不安定だったし、僕のいつもの妄想に拍車がかかっていただけ、なのかもしれないのだけれど。
「ふむー・・・」
最後まで真剣な表情で、黙って僕の話を聞いてくれてたJは、僕が話し終えてもまだしばらく黙り込んでた。
Jの細くて長い人差し指が、とがった白いあごにあてられてる。無意識の、考え込むポーズだ。
「ふむ、結論から云うとね」
Jがゆっくりと話し始める。
「わたしもKと同じ。なんとなく勝手にひとりっ子だと思ってた。思い込んでた。でも本当のところは、きちんと聞いたことがなかった、だから、実は兄弟がいるのかどうか、わからない」
慎重に、ひとつずつ言葉を選ぶように、Jは云った。
「シジマさんの「うちの坊」は、わたしも気づいてた。あれはわたしも、云い間違いだと思ってた。それだけだったら、「やっぱり云い間違いだよね」で、たぶんこの話は終わりだったんだけど」
Jは口をきゅっとすぼめて、片方の眉を寄せてる。何かすっぱいものでも食べたみたいな、また初めて見る新しい表情だった。
「そっか、お母さん、ね。それは気づかなかったなあ。そう云われてみれば前にも、うーん」
今度は寄せた眉に人差し指を当てて、ぴくぴく動かし始めた。これも無意識の、考えるポーズだろうか。
と、何か思いだしたのか、それとも何かひらめいたのか、人差し指がぴこんと立った。
そして、Jは、思わぬことを口にする。
「ね、K、4人の赤ちゃんの話、覚えてる?わたしが自分で「あの話はもういいんだ」って云っておきながら、ぶり返すのもあれなんだけど」
もちろん、覚えてる。12年前の冬に、教会の前に置き去りにされていた4人の赤ちゃん。
JとLと、そしてアイと、もうひとり。
「そう、わたし、Lともうひとりの子は、まだ赤ちゃんのうちに引き取られたって聞いてたの。だから特に理由もなく、それぞれ別々のタイミングで別々のお家に引き取られたんだとばかり思ってたけど。もしかしたら、そうじゃなくて」
ふたりとも同時に、ミクリヤ家に引き取られた?まさか、いやでも、そうだとしたら。
「うん、Lには兄弟が、いることになるよね」
Jは眼を丸く見開いて、僕を見ていた。いや、眼は僕の方を向いていたけれど、たぶん、過去を見ていた。
Lに兄弟がいる可能性、その子も眠り続けている可能性。
その子もあのお屋敷で育ったのなら、シジマさんが「うちの坊」と云ったのは、云い間違いではなく、その子を指していたのかもしれない。
男の子である僕を見て、お屋敷の「坊」を思い浮かべて、同じ年くらいか、と思わず聞いてしまった、とは十分に考えられる。
Jは、Lとは3年生のころから仲良しになったと云ってた。もしもLに兄弟がいるのだとしたら、当然同じ小学校に通っていたはず。けれど、Jはそれを知らなかった。
その子は、小学校には、いなかったのだろうか?
「何年も眠り続けるようなそんな病気は」という、Lのお母さんの言葉。
もしもその子が、Lが3年生になるよりも前から、いや小学校入学前から、眠り続けていたとしたら。
しばしの静寂。
もうすっかり夏だけれど、セミの声はまだ聞こえなかった。
確たる証拠が、あるわけではなかった。
云い間違いかもしれないシジマさんの言葉と、少し違和感を覚えるLのお母さんの云い方。
そこから、僕が勝手に想像を膨らませただけ、ただそれだけの話に過ぎない。
事実である可能性はなくはない、けれど、何の証拠もない。
「そうだね、養子縁組の片方の当事者でもあるうちの父と母なら、間違いなく真相を知ってるはずだけど。ふたりは真面目な人たちだから、当時のこと教えてって聞いても、きっと「約束」があるからって、教えてくれないだろうしなあ」
そう云って、Jはますます口をとがらせてる。
もしも、この場にLがいたら、話は早かった気がする。
Lに直接聞いたら、答えてくれそうな、そんな気がした。
ため息をつきながら「はあ、おまえなに云ってんの」とか、云われるのかもしれないけれど。
「あら、Kもだんだん、Lのことわかってきたねえ」
くるりといつもの明るい笑顔に戻って、Jはくすくす笑い出す。
まあ、わりとわかりやすい天才少女だからね、Lは。
「そうそう、天才美少女、ね」
Jが笑いながらそう云うと、公園の向こうの方から、くしゅんというくしゃみのような音がした。
またあの黒犬かな、と思ったけれど、あのベンチの前には誰もいない。
日なただし暑いので、黒犬は今日もどこかへ避難しているのだろうか。
くしゃみは、噴水の黒ネコがしたのかもしれない。
見ると、日陰が移動して暑くなってしまったのか、黒ネコは起きていて、噴水の縁石の上で大きく伸びをしていた。
ふふっとJは小さく笑って、
「じゃあひとまず、Lに兄弟がいるかどうかは、あの子が目を覚ましたら聞いてみるってことね」
そう云って、また青い空を見上げる。
「うん、そうだね」
僕もうなずいて、一緒に夏色の空を見上げた。
公園の端、物置小屋の屋根の上に、いつものカラスがいつものように、微動だにせずにたたずんでいる。
青空を背景に、黒いカラスは切り絵のようにも見えた。
そういえば、ひとつ、大事なことを忘れてた。
「うん、何?」
空を見上げていたJの視線が、僕の顔に戻ってくる。
うちの母からの、Jへの伝言だった。
「夏休みの最初の日曜日、ジーンちゃんを家に連れてきて。台風の日のお礼をまだちゃんと出来てなかったでしょう。お昼をごちそうするから。あーごちそうって云っても、うちで作るやつだけど」
そう、母に云われていた。
「ええー、お礼なんて、そんな。わたしだって、あの日、お父さんに車で送ってもらったのに」
まじめなJが本気で恐縮しているので、
いや、お礼というのは口実で、実は母がJに会いたいだけなんだと思う。と、ねたばらしをした。
あの日はほら、ジーンちゃんとはゆっくりお話もできなかったからねー、とか母は云ってた。
「お母さんが、わたしに?いやあ、それはそれで、ううん、なんか緊張?と云うか、へへへ、照れるなあ」
まじめなJはまた本気で照れていた。
ふむー。
こういう素直な反応が、母とそして何よりあの父を喜ばせるんだなと、僕は妙に納得してた。
まことに遺憾ながら、ひねくれ者の僕には、到底真似のできないことなのだけれど。
日曜日、約束の時間に、父と一緒におんぼろ軽自動車に乗って、Jを迎えにホタルが丘教会へ向かった。
教会の門の前に軽自動車を止めると、父はさっと車を降り、まだJが家を出てきてもいないのに、車の脇にすっと立ち、御者のようにこうべを垂れて直立してた。
車の音が聞こえたのだろう、間もなく母屋の玄関ドアが開いて、Jと彼女のお母さんが外へ出てきた。
Jだけでなくお母さんまで出てきたのでは、さすがの父も悪ふざけはできまい。
父が門のそばまで行き、「こんにちは」とふたりにお辞儀をしていたので、僕も急いで車を降りて、父の横に行き、同じように「こんにちは」とお辞儀をする。
Jも「こんにちは」と父にお辞儀をして、僕に小さく手を振った。
「こんにちは。今日はジーンがお招きをいただいたそうで、ありがとうございます」
Jのお母さんが父と僕にお辞儀をして、手に提げていた大きな籠を父に差し出す。
「これ、つまらないものですが、うちの畑で採れた野菜です。形はあまりきれいじゃありませんが、無農薬なのでそれなりにおいしいですよ」
そう云って、籠の口を開いて中を見せてくれた。
大きくて真っ赤なトマトや、立派なキュウリ、見るからに瑞々しいレタスなどがたくさん入っていた。
「おお、これは素晴らしい!こんなにたくさん、ありがとうございます」
父は満面の笑みでもう一度お辞儀をして、うやうやしく籠を両手で受け取る。
Jは、家の畑の野菜がほめられたのがうれしいのか、「へへへ」と照れくさそうに笑ってた。
「帰りもきちんとお送りしますので、どうぞご心配なく」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
父とJのお母さんはそう挨拶を交わして、またお互いにお辞儀をする。
挨拶が終わると、「じゃあ、行こうか」と父はさっと車へ駆け寄り、後部座席のドアを開けて、僕とJに「どうぞ」とばかりに手で座席を指し示す。
ふだんの父と比べたら、これでもだいぶ普通と云うかまともと云うか、わりとおとなしい方なのだけれど、それでもJのお母さんは「まあ」と眼をまるくして驚いてた。
真面目なJは「ありがとうございます」と父に丁寧にお辞儀をして、後部座席に乗り込む。
僕だけ不愛想に乗り込んだのでは、Jのお母さんに変な印象を与えてしまいそうだったので、しかたなく僕も「ありがとう」と云って、父にお辞儀をして車に乗り込んだ。
車に乗る時にちらっと眼が合った父は、ニヤッとうれしそうに笑ってた。してやったりという顔だろうか、やれやれ、子供みたいな人だ。
父が運転席に乗り込み、車が走り出す。
Jは開いていた後部座席の窓から顔を出して、「いってきます」と笑顔でお母さんに手を振ってた。
振り返ってリアウィンドウ越しに見ると、Jのお母さんも門の外まで出てきて、車が見えなくなるまで手を振っていた。
以前、Jが云っていた通り、彼女の真面目さとかまっすぐな素直さは、やっぱりあのお母さんのおかげなんだな、とあらためて思った。
「なあに?なんだかにこにこしてる」
すっと手をつないで、Jが心の声で云う。
うん、僕もJのすごさの理由がわかった。
「あ、あの時の話?Kが落ち着いてるのは、お父さんとお母さんとおばあちゃんのおかげ、っていう」
うん。
「そうかあ、うちもそうなんだ。それは、うれしいな」
Jは本当にうれしそうに、ふふっと笑う。
僕は、どうだろうか。うれしいかな。うれしく、なくはない、気がする、けれど。
あ、でもやっぱり、そこで素直に「うれしい」って云えるところが、Jのすごいところ、なのだろう。
僕には、云えない、まだ。
家に帰ると、母はキッチンで大量のキャベツの千切りを作ってた。
「ごちそうするから」って云ってたはずだけど、キャベツの千切りって・・・?
ものすごく、不安になった。
父がJのお母さんからもらった野菜の入った籠を渡すと、母は歓声を上げて喜んでいた。
「すごいじゃない、わあ、こんなにたくさん!ジーンちゃんありがとう」
ここぞとばかりに、母はJをつかまえて、また頭をふわふわとなでる。
「あ、あの、わたし、お手伝いします」
急に頭をなでられてまた眼をくるくるさせながら、Jが母にそう云うと、母は眼をまるくして驚き、
「ちょっと、聞いた?キイチロウさん。ジーンちゃん、お手伝いしてくれるって。私、涙出そうになっちゃった」
と、本当に涙ぐんでる。
母にも意外な弱点があったのだな、とこれには僕も少しびっくりした。
「では僭越ながら、わたくしめもお手伝いを・・・」
父が得意の執事ポーズでお辞儀をすると、
「ちょっと、何云ってるの?そういう意味じゃないでしょ。もうじゃまだからキクタとあっち行ってて」
何故か僕まで巻き添えを食らって、父とふたり、キッチンを追い出されてしまった。
仕方なくリビングのソファに座ると、父も隣のソファに腰かけてリモコンでテレビをつけた。
テレビではお昼のニュース番組が流れていて、どこかの有名な神社の夏祭りの様子が映し出されてる。
そう云えば、僕らの住む市にも夏祭りがある。
たしか、毎年今頃の時期に開催されていたはずだった。
市の南東の港の近くにナナオ神社というわりと古めかしい神社があった。
その参道に出店が並び、境内には太鼓と笛の楽隊も出て、夜には近くの海岸で花火が上がるらしい。
小さな頃に一度だけ、母と祖母に連れられてお祭りに出かけた事があった。
けれど、その日は何故か例の「音」が激しくて、神社までたどり着かないうちに僕は両手で耳をふさいで道端にしゃがみこんでしまった。
今にして思えば、頭の中で鳴り響く「音」に耳をふさいだところで、意味はないのだけれど。
ふさいだ手の向こうから、楽し気な祭り囃子が、かすかに聞こえていたのを何となく覚えてる。
結局その日はそのまま家に連れて帰られ、お祭りには行けなかった。
それ以来、母も祖母も僕をお祭りに連れて行こうとはしなくなった。
だから実は、僕は今までお祭りに行ったことがない。
お祭りの思い出と云えば、市内のアパートに住んでいたころは、遠くから聞こえる笛や太鼓の音をなんとなく聞いていた事と、夜にアパートの窓から、家々やビルの間に切れ切れに見える花火を、母と祖母と一緒に眺めた事くらいだった。
父の家に越して来てからは、遠すぎて祭囃子もほとんど聞こえなくなり、夜の花火も、市街地の街灯りの向こうに小さく見えるのを、2階の自室の窓からなんとなく眺めて、ああ今日はお祭りなんだなあと思うくらいになってた。
別にお祭りが嫌いなわけではないのだけれど、人混みが苦手、というのも少しあったかもしれない。
あれ以来、お祭りに行く機会もなく、一緒に行くような友達もいなかったので、なんとなく行きそびれてしまった感じ、だろうか。
ぼんやりと、見るともなしにテレビを眺めていると、キッチンから何やら楽し気な母の声と、Jの笑い声が聞こえてくる。
何を話しているのかまでは、聞き取れなかったけれど、まあ楽しそうなら、何よりだ。
ふふっ、と隣で父が笑った。
テレビは、お祭りのニュースが終わって、選挙か何かのニュースに変わっていたので、別に笑うようなところではなかったと思うのだけれど。
隣を見ると、父もこっちを見て、
「いやあ、いいもんだなあ」
にやにやしながら、僕に同意を求めている、のかな。
「え、何が?」
笑う理由がわからなかったのでそう聞いたら、
「ふっふっふ、とぼけなさんな。おまえさんだって今、にこにこしてたくせに」
肘で腕をぐいぐい押された。
「ジーンちゃんの笑い声、癒されるなあ」
しみじみと、父はそう云った。
ああ、なるほど、また同じようなこと考えてた、ということかな。
やっぱり親子って、そういうものなのだろうか。
まあでも、Jの笑い声は、
「魔法だからね」
元気になる魔法、勇気がわいてくる魔法。そして、疲れたおじさんを癒す魔法だ。
「おお、おまえさん、なかなか詩的なことを云うね」
父がおどけて、また僕の頭に魔の手を伸ばそうとした絶妙なタイミングで、
「キイチロウさん、ちょっと」
母がキッチンから父を呼んだ。
母の勘の良さも、ある意味、魔法なのかもしれない。
「はい、只今参ります」
父のスイッチを入れる魔法、でもあるのかもしれなかった。
さっきまでにやにや笑っていた父は、スイッチONできりっと表情を引き締め、さっと立ち上がってキッチンへ向かう。
「リビングのテーブルの上を片付けて、ホットプレートを準備してくれるかしら。あ、キクタも手伝って」
僕にもお呼びがかかったので、
「はーい」
返事をしてキッチンへ向かう。
父がリビングのテーブルにホットプレートを2台並べて準備をし、僕は母に指示されるまま、食材やら食器やらをJとふたりで手分けしてキッチンから運んだ。
「今日はお好み焼きよ、お祭りだからね」
お祭りだからお好み焼きを食べるという風習が我が家にあったかどうかは記憶になかったけれど、母は得意げにそう云った。
というか、うちの市のお祭りも、今日だったの。
大量のキャベツの千切りは、お好み焼きの準備だったらしい。
そのまま山盛りで食卓に並ばなくて、本当によかった。
4人でわいわいと楽しくホットプレートを囲んで、母が焼いてくれるお好み焼きを食べた。
Jのお母さんから貰った野菜は、サラダになって登場した。
「サラダは、ジーンちゃんが作ってくれたのよ」
母がうれしそうにそう云うと、
「いえいえ、作ったなんてそんな。切ってお皿に盛っただけなので」
Jはしきりに照れていた。
野菜はどれも瑞々しくて、とてもおいしかった。
父は「うまい、うまい」と連呼しながら、あっという間にたいらげていた。
食事を終え、冷たい麦茶を飲みながらひと休みしていると、
「さてと」
何やら思わせぶりにつぶやいて、母が立ち上がる。
Jが気を利かせて一緒に立ち上がり、
「わたし、お片付け手伝います」
笑顔で云う。
「あ、ううん、ちがうの。片付けは、うちにはプロがいるから」
母が笑いながら、ちらっと父を見る。
父はすかさず立ち上がり、
「はっ、お任せを」
いつもの、あまり格好の良くない執事ポーズでお辞儀をして、片付けを始める。
「ジーンちゃんとキクタは、こっちに来て」
母は廊下へ向かいながら、僕とJを手招きしてる。
そのまますたすたと廊下を奥まで進み、母は祖母の部屋の襖を開けた。
何故祖母の部屋へ?と思いながら後に続いて部屋をのぞくと、衣紋掛けにかけられた着物が眼に飛び込んできた。
涼しげな紺色の地に、鮮やかな黄色の大輪の向日葵が咲いている柄の、浴衣だった。
「わあ、きれい」
思わずJが声を上げてる。
「ふふーん、いいでしょう。私が昔着てたものなんだけどね、おばあちゃんが大事にしまっておいてくれたの」
しみじみと浴衣をながめてから、母はくるりと振り返り、
「ね、ジーンちゃん着てみない?着せてあげるから」
計画的犯行の笑顔でそう云った。
なるほど、台風の日のお礼の食事はやっぱり口実で、Jにこの浴衣を着せてみたい、というのが真の目的だったらしい。
祖母の部屋を片付けていた時に、浴衣を見つけて思いついていたのだろう。
「え、いいんですか。わあ、着てみたい」
母と僕の顔をきょろきょろ見比べながら、Jはうれしそうな笑顔で云う。
僕の顔を見られても、困るのだけれど。
「よし、じゃあお着替えしよ。あ、キクタはその辺で待ってて、あんたのもあるから後で着せてあげる」
何だかおまけのような扱いでそう云われ、母はJを連れて祖母の部屋へ入ると、ぱたんと襖を閉じた。
仕方がないので、開いていた廊下の掃き出し窓に腰かけて、庭をながめて待つことにした。
すぐに襖の向こうから、
「うわ、ちょっと何、ジーンちゃんのこの細い腰、うらやましいわあ」
「お、お母さん、くすぐったいです」
ふたりの楽しそうな声が聞こえてきて、僕は思わずふふっと笑ってしまってから、さっきの父にそっくりな笑い方だなと思った。
まあいいけれど、親子なのだし。
しばらく待っていると、襖がばーんと開け放たれ、
「じゃーん」
大げさな母の声が聞こえたので、縁側に座ったまま振り返る。
「へへへ、似合う?」
照れくさそうに袖を広げてポーズをとるJは、何と云うか、とてもきらきらして見えた。
思わずぼんやりと見とれてしまい、なにも云えずにいたら、
「ちょっと、あんた、何とか云いなさい」
母に笑いながら叱られた。
「あ、うん、似合う」
似合う、と思ったので、そう答えた。
「あーもう、きれいとかかわいいとか、もっとあるでしょ、ほら」
じれったそうに母が云うので、
「あ、うん、かわいい」
そう答えた。
「へへへ、ありがと」
Jは恥ずかしそうに頬を染めて、でもうれしそうに笑ってた。
母はやれやれとでも云いたげに僕に肩をすくめてみせ、それからあらためてJをまじまじと上から下まで眺めて、
「いやあ、よく似合うわ。スタイルがいいからかしら。細いし足は長いし、モデルさんみたいよ」
ふふふ、と満足げに微笑んでいた。
「ありがとうございます。うれしいです」
Jも微笑んで、ぺこりと母にお辞儀をする。
母はにっこり笑ってうなずき、僕の方を見て、
「ほら、あんたもおいで。男の子って、つまんないわよね」
まだ着替えてもいないうちから、トドメを刺してきた。
そこは普通、「女の子は着せ替えが楽しいからいいわよね」とか云うべきでは。
まあ、気持ちはわかるような気がするし、歯に衣着せぬ母らしい物云いだとは思うけれど。
ぱぱっと手早く僕に男の子用の格子柄の浴衣を着せながら、
「これも、おばあちゃんが用意してくれてたのよ」
とだけ、母は云った。
祖母は、この浴衣を着せて、僕とお祭りへ行きたかったのかな。
きっと、そうだったのだろう。
「はい、そんな顔しない。ジーンちゃんといっしょに浴衣を着れるんだから、おばあちゃんありがとって云っときなさい」
ぽんと結んだ帯の上から僕の背中を軽くたたいて母は云う。
「うん、ありがとう」
祖母と、母にも、お礼を云った。
今回は母の「じゃーん」もなく、地味な感じで襖を開けて廊下に出た。
「おおー」
廊下で待っていたJが、僕を見て歓声を上げてくれた。
いえいえ、つまんない男の子ですので、どうぞお構いなく。
そこへ、片付けを終えた父がやってきて浴衣姿のJを見るなり、うひょーとか何とか、よくわからない声を上げた。
「かわいい!いやあ、かわいい!写真撮ろう、写真写真」
すっかり語彙力のないただの写真おじさんになってしまった父が云う。
母が用意してくれていた下駄を履いて、Jとふたりで庭へ出た。
父がカメラを持って庭へ出てきて、Jと並んで写真を撮った。
「キクタ、おまえさんは、なんでいつも写真撮る時そんな仏頂面なの?」
ファインダーをのぞきながら、父がそんな文句を云う。
そんなこと云われても、なんでカメラを構えたおじさんに向かって、愛想をふりまかないといけないのか、僕にはわからない。
横に並んだJが僕の顔をのぞき込んで、
「ほんとだ、なんでそんな難しい顔?ほら、笑ってー」
いつものあの笑顔で云う。
魔法を使うなんて、ずるい。
そう思いながらも、つい笑顔になってしまった。
sounds of silence vii
屋根裏ネコのゆううつ