目の前に立つ、80年前のA-0の記憶の人々に眼が吸い寄せられる。
十数人の人の列の、ちょうど真ん中辺り、白衣の看護士らしき女性に抱かれた、白いおくるみに包まれた赤ん坊。
そして、列の一番右端、担架に横たわる、左半身を包帯でぐるぐる巻きにされた若い男。
赤ん坊の名前は「キクタ」
男の名前は「ナガヌマ」
AIか機械音声を思わせるきれいな声と言葉で、確かにMはそう云った。
赤ん坊の顔は、おくるみに包まれていてほとんど見えない。
健康そうな赤い頬っぺたと、小さな鼻と口元が柔らかそうな白い布の間からのぞいている。
眠っているらしく、静止した記憶の画面から、すやすやと寝息さえ聞こえてきそうだった。
担架の男は、意識があるのかどうかもわからない。
頭のてっぺんから包帯でぐるぐる巻きにされ、わずかに右半分だけ見えている顔色はひどく青ざめて、どす黒くさえ見える。
濃い緑色の、軍服のような丈夫そうな服を着て、背は高そうに見えるけれど、全体的に細く、針金のような印象だった。
Mは「ナガヌマ」と云ったけれど、僕の聞き間違いだろうか。
それとも、よく似た名前の別人、かな。
「ひとつ、いいかな」
じっと目の前に並ぶ人の列を見つめて何やら考え込んでいたLが、めずらしく低いトーンで尋ねる。
何だか元気がないみたいだけれど、だいぶ疲れてきたのかな。
Lはちらっと眼だけ僕の方を向いて、ニッといつもの笑顔を見せる。だいじょぶだぜー、と云うみたいに。
「その外で見つかったアルカナの入った人、なんだけど。赤ん坊が「キクタ」は、一旦置くとして、重傷の男の名前は「ナガヌマ」で間違いない?ヌガノマじゃなくて?」
そう、LはMに尋ねた。
それはおそらく、僕ら全員が同じように抱いた疑問だったと思う。
『肯定します。A-0の記憶にある彼ら、アメリカ軍による説明では、長い戦争が終わったばかりの頃で、当時この国の人々は着衣に名札を縫い付ける習慣があったのだそうです。戦時中の避難時や事故に対応するための知恵、なのでしょう。赤ん坊も重症の男も、二人とも口を利ける状態ではなかったため、赤ん坊は肌着に、男は着ていた軍服の内側に、それぞれ縫い付けられた名札を確認した、と。赤ん坊は「キクタ」、重傷の男は「ナガヌママゴイチ」、それがふたりの名前です」
Mの説明は、変わらず淡々としてわかりやすかった。
そう云われてみると、昔の戦争ものの映画やドキュメンタリーなんかで、服に名札を縫い付けているのを見た事があった気がする。
赤ん坊は「キクタ」
軍服の男は「ナガヌママゴイチ」
名札が示す通りなら、間違いはないのだろう。
「ヌガノマ」ではなく「ナガヌマ」
そもそも「ヌガノマ」という呼び名は、どこから出てきたものなのだろう。
アイは、小学生の間で噂になっている怪談というか都市伝説みたいなもの、と云ってた。
旧日本軍の脱走兵ヌガノマ
あくまでそれは、怪談に出てくる怪人の呼び名であって、彼の本名ではないのかも。
それに、やっぱり別人の可能性もある、よね。
「ヌガノマ」ではなく「ナガヌマ」
担架に寝かされた包帯ぐるぐるの若い男は、「ナガヌママゴイチ」で、「ヌガノマ」じゃないのかも。
「ふむー、なるほどね。ひとまず、続きをお願い」
Lも同じ事を考えたのかな。あっさり引き下がって、Mに話の続きを促す。
「うん、まあ聞いてみよーぜ。続きを聞いたらわかるかも」
そう云って、Lはニヤリと笑う。
僕らの目線の高さで揺れていたオレンジの球が、ふわりと灯ってMがまた話し始める。
『話すことのできないふたりに変わって、病院から同行していた兵士が、ふたりの保護された状況を説明しました。それによると、クレーターの間近の地面に、その男は赤ん坊を庇うように抱いて、倒れていたのだそうです。男は、左足の膝から下と左腕を全て、そして左眼を、隕石落下時の衝撃波により失っていました。それでも、残った右腕でしっかりと、その赤ん坊を守るように抱きかかえていた、といいます。ロリポリが落下した当時、すでにこの国とアメリカとの戦争は終わっていましたので、軍服姿の男は、戦地から帰郷したばかりだったか、あるいは故郷へと帰る途中だったのかもしれない、との事でした』
聞いたらわかるかも、というLの予想は、早くも的中してた。
左足の膝から下と、左腕と左眼を失った軍服の男
たぶん、間違いない、ナガヌママゴイチは、ヌガノマだ。
ヌガノマは、隕石落下の衝撃波から、赤ん坊のキクタを庇い、重傷を負った。
その際に、左脚と左腕と左眼を失った。
でも何故?
どうしてヌガノマが、キクタを庇って?
そう思ったけれど、僕のその疑問に答える事ができる人は、どこにもいないのだろう。
おそらく、ヌガノマ本人以外には。
いや、ヌガノマ自身にも、もう答える事はできないのかもしれない。
沈黙していたMが、誰も手を上げない事を確認して、また話し出す。
『赤ん坊は生後数ヶ月ほどの男子で、男に庇われたおかげで特に目立った外傷もなく、無事でした。けれど不思議なことに、集落の中にはその赤ん坊の家族を名乗る者が誰もいませんでした。救助された住民の中に赤ん坊の両親はおらず、その誰もが、赤ん坊を「知らない」と云ったそうです』
Mがそう云って、話を止める。
僕らが話の内容を頭の中で整理して、理解するための時間を取ってくれるみたいに。
Mのその気遣いはありがたかったけれど、僕はまた、答えの出そうにない疑問にぶつかってた。
3〜4軒ばかりの小さな集落で、赤ん坊がいる事を知らない?そんな事はまずありえない。
十数人の住民の中、だからこそ、全員が顔見知りで、ほとんど家族のようなもの、なのでは。
そんな小さな集落に、誰も知らない赤ん坊がいるはずはない。
つまり赤ん坊は、その集落の子ではなかった、という事になる。
赤ん坊、「キクタ」はどこから来たのだろう。
何かが、心に引っかかるのを感じた、
けれど、もやもやとして形にはならず、ぼやけて消えてしまう。
小さくかぶりを振ると、まるでそれを待っていたみたいに、ふわりとまた、オレンジの光が灯る。
『時間が経つにつれ、ふたり以外にも、外で生きているアルカナが発見され始めました。発見したのは、同じロリポリの中にいた「王」A-0でしたが、感知された場所は、さまざまでした。海沿いのクレーターから、この「本体」落下地点までの間、二点をまっすぐに結んだ直線上です。すぐに彼ら、アメリカ軍の兵士が「王」の示した地点へ向かい、付近の住民を連れてきました。
そうして、連れて来られた人々の中から新たに3人のアルカナが発見されましたが、不思議なことに「王」によってアルカナが感知された人は、すべて1歳未満の赤ん坊でした』
Mの言葉に、全員が同じところでぴくりと反応した。
アルカナが感知された人間は、すべて1歳未満の赤ん坊
まただ、と思った。
また、「赤ん坊」だった。
12年前の冬、教会に置き去りにされた4人の赤ん坊。
隕石の落下から、ヌガノマが身を挺して庇ったのも赤ん坊のキクタ。
そして、A-0によって感知された3人のアルカナは、すべて1歳未満の赤ん坊。
彼らが発見された場所は、海沿いから、ミドノ原までの直線上、つまり、隕石の落下コース上のどこか。
ロリポリは、落下中に体が千切れ、三つに分かれて落ちて来た。
体が落ちた3カ所以外にも、落下しながら、空中でロリポリの体内からこぼれ落ちたアルカナがいた、という事なのだろうか。こぼれ落ちたのか、飛び出したのか、そこまでは、わからないけれど。
人間の意識に入ったアルカナは、瞬時に消滅する。
けれど、赤ん坊の意識に入ったアルカナは、生きていた。
あの時の、ガブリエルとの会話を、僕は思い出していた。
赤ん坊だった僕の中に、先代キクタの意識が入った、という話を聞いた時だ。
混乱する僕に、ガブリエルは云った。
「K、そもそもだけど、じゃあ「意識」って何?」
「キミはいつ、キミが「キクタ」だと認識したの?」
「2歳とか3歳とか、それくらいだよね。それなら、やっぱりキミは「キクタ」に違いないよね」
意識。
僕が僕だという認識、つまり自我。
まだ僕の自我が形成されていない赤ん坊の時に、先代キクタの意識の器(つまり、それがアルカナ?)が僕の中に入った。
やがて僕の中に「僕」という自我が生まれる、それは間違いなく、僕だった。
ロリポリからこぼれ落ちて、赤ん坊の中に入ったアルカナは、消滅する事なく生きていた。
それは、赤ん坊にはまだ自我がないから?
同様にロリポリから飛び出して、大人の人間の中に入ったアルカナは、瞬時に消滅した。
そこにはすでに、その人の自我があるから?
さっきLがMに尋ねた、「アルカナはどうだったの」
その話がここにつながるのだろう。
「無事に助かったのは数えるほどだったんじゃね。で、その助かった数少ないアルカナってのが」
能力者。
つまり、僕は、いや、僕らは。
いやいや、ちょっと待って、それは一旦おいて。
今のMの話で、引っかかったところがある。
アルカナが、人の「海」に入って消滅せずに生き残るための条件、それは対象の人が「1歳未満の赤ん坊」であること。
けれど、それは本当に「助かった」「生き残った」と云えるのだろうか。
赤ん坊の中に入ったアルカナの「意識」は、どうなるのだろう。
80年前、赤ん坊のキクタの中にいたアルカナは、そしてその後から外で発見された3人のアルカナは、A-0と話す事ができたのだろうか。
『K、あなたは』
オレンジの球がぼんやりと灯り、Mはそう云いかけて、口ごもるように言葉を止めた。
二度三度、淡い光が明滅を繰り返した後で、先ほどまでと変わらない柔らかな声で、
『否定します。「キクタ」を含め、人の中で生き残っていたアルカナは、誰もA-0と話す事はできませんでした。彼らの中の意識はまだ幼く、生まれたばかりの赤ん坊のそれと変わりなかったためです。K、あなたの云う通り、それでアルカナが「助かった」と云えるのか、それは私にはわかりません。けれど、「生き残った」事は間違いありません。消滅したわけではなく、彼らは確かに生き残りました』
Mはきっぱりとそう云った。
けれど。
でもそれは、どう云えばいいのだろう。
そう思った時、
半分死ぬのも同然
という言葉が、不意に脳裏に蘇った。
キクヒコさんだ。
「海とのつながりを失う事は、半分死ぬのも同然」
赤ん坊だった僕の中にガブリエルの意識が入った後、ルリおばさんを救うため、ヌガノマとの対決に向かうキクヒコさんは、「オレンジの海」でガブリエルにそう云った。
能力者の意識は、別の能力者の体に入る事ができる。但し、海とのつながりと大半の記憶を失う。
アルカナは1歳未満の赤ん坊の意識に入る事ができる。但し、意識が「生まれたばかりの赤ん坊」の状態になる、つまりアルカナだった頃の意識と全ての記憶を失う、という事では。
オレンジの球が柔らかく瞬いて、Mが云う。
『否定します。能力者については、私にはわかりません。キクヒコがそう云ったのであれば、おそらくそうなのでしょうか。けれど、赤ん坊に入ったアルカナは、記憶を失うことはありません。何故なら、あなたの云う「海とのつながり」、すなわち「王」とのつながりは残っているためです。だからこそ、A-0はキクタや他のアルカナを感知することができたのです』
Mの言葉はとても丁寧で、わかりやすい。
ずっとそう思って僕は聞いていたけれど、ここで初めて、わけがわからなくなった。
きっと僕の理解力が足りないのだろう、そう思う。と同時に、救いを求めるように僕は自然と右を向いていた。
そう、僕の右隣には、頼れるふたりの天才児が
「おいだからそう云うのやめろって」
まるで予測していたみたいな素早さで、Lが僕の心の声を止める。
「ふたりのって。ボクは違うってば」
あはは、とガブリエルは軽く笑い飛ばしてる。
Lが胸の前に小さく手を上げて、
「じゃあMちゃんさー、赤ん坊に入ったアルカナは、記憶が残ってるってこと?例えば、そーだな、キクタでもいいや。彼はアルカナだった頃の事も、ロリポリに乗って宇宙を旅してた事も、ロリポリから落っこちて赤ん坊のキクタの意識に飛び込んだ事も、全部覚えてたって事?」
いつもの陽気な声色でそう尋ねる。
僕がわからないのも、まさにそれだった。
意識が生まれたばかりの赤ん坊のような状態になっていたのなら、記憶もまっさらになってしまっているはず。
その状態で生き永らえたとしても、それはもう別人と同じだ。
でも、生まれたばかりの赤ん坊なのに、記憶が残ってる?
オレンジの球が瞬いている。まるで、微笑んでいるかのように。
Mの柔らかな声が云う。
『肯定します。記憶は残っています。それは、人とアルカナの、体の構造の違いによるものかもしれません』
囁くように、Mの声は続ける。
『全部覚えている、というのは、少し違う気がします。正確には、全部残っている、です。「王」の中に』
「キクヒコに云わせると「半分死ぬのも同然」、けどMに云わせると「半分は生き残ってる」って事かな。解釈と見方が違うだけで、同じ事を云ってるような気がするけど」
いつものおだやかな微笑を浮かべて、ガブリエルが云う。
半分死ぬ、半分は生き残る、
確かに、見ている向きが違うだけで、意味は同じなのかもしれない。
『肯定します。そして、「王」とつながってさえいれば、その記憶を読むことはできます。今、あなた達が見ているA-0の「昔話」のように』
オレンジの球が少し浮き上がり、くるりと円を描いて、周囲の「A-0の記憶」を指し示すように動いた。
「王」の中に、記憶が全部残っている?
「王」とつながって、その記憶を読むことができる?
王の「海」が広いのは、みんなの記憶が、そこに残っているから、という事?
『肯定します。アルカナの「王」は、権力の象徴でもなければ、統治するものでもないのです。「王」は云うなれば、「記憶する者」です。つながりのあるアルカナのすべての記憶を集め、保管する者、それがアルカナの「王」です』
Mの声は、何か神聖なお告げのように、僕には聞こえた。
記憶する者
すべての記憶を集め、保管する者
別の言葉が、脳裏によみがえっていた。
「王と臣下、と云うより、木の幹と枝葉」
それも、ガブリエルがキクヒコさんから聞いた言葉だった。
木の幹、と云うより、王は、巨大な図書館かデータベースのように、僕には思える。
「王」の「海」の中に、つながりのあるアルカナの「記憶」がすべて集められ、保管されてる。
『知らなかったとは云え、キクタを例えに出すのは、少しずるいですね、L。キクタは「王」なので、自身の「海」にすべての記憶は残っているはずです。けれど、人の赤ん坊の中に入り、意識が幼子のようになった状態で、彼がその「記憶」を読むことができたかどうか、それは、キクタ本人にしかわかりません』
くすくすと微笑むようにオレンジの球が揺れている。
「それはごめんね?でも、人の体っていう器に入った状態で、以前と同じように「王」とつながる事ができるものなの?アルカナ同士の場合と、全く同じってわけにはいかなさそうな気がするけど」
Lがそう尋ねたのも、わかるような気がした。
意識生命体であるアルカナと、肉体を持つ人間とでは、後者の方がいろいろと制限が多そうな気がする。あくまで、イメージだけれど。
『否定します。現にあなた達は、こうして私の意識とつながっていますよね。それに、あなた達どうしお互いに「海」を通じてつながっているでしょう。そして「キクタ」は、大人になるにつれ自身の「海」の構造を理解し、かつての自分の記憶も、他のつながりのあるアルカナの記憶も、自在に読むことができるようになっていたそうです。「キクタ」だけが特別という事はないはずですので、人の中に入ったアルカナは「生き残った」と云えると思います。ただ、姿形は変わってしまうわけですから、アルカナがアルカナのまま「助かった」と云えるかどうかは、やはり疑問です。それに、事例がそう多いわけではありませんので、もしかしたらあなたの云うように、何か不都合な点はあるのかもしれません。私たちがそれを知らないだけ、まだ見つかっていないのかもしれないのです。わかっている問題点と云えば、人の意識の「海」に入れる条件は、自我が芽生える前の赤ん坊である事。そして難点を上げるとすれば、入った時に意識がまっさらに幼児化されてしまう事。今のところは、それだけです』
Mの声はおだやかなままだったけれど、僕には、衝撃だった。
王の「海」には、記憶が残っている。
たとえ意識が赤ん坊のようになり、自我がまっさらになってしまっていても、王の「海」とのつながりがある限り、記憶は読むことができる。
もしそうなのだとしたら、僕の「オレンジの海」には、「キクタ」の記憶も残っているの。
もうひとつ、何かもっと大切なものがあったはず、と、また何かが心に引っかかる感じがしたけれど、濁流のようにあふれる別のさまざまな思いに紛れて消えてしまった。
そんな僕の思いをよそに、Mは話を続ける。
『王の話が出た所で、K、昔話の前にあなたがしていた質問に答えましょう。「軍の研究者の確認できていない「王」について」、でしたね。ひとつは、もう答えてしまいました。キクタは、確認されています。もっとも、キクタが「王」であると彼らが確認できたのは、キクタが大きくなって、受け答えができるようになってからでしたので、順番としてはだいぶ遅かったのです。キクタはK-0、11番目の王、と彼らには呼ばれていました。研究記録の上では、です。実際の呼び名はそのまま「キクタ」でしたから』
実際の呼び名はそのまま「キクタ」
あの地下で「キクタ」は、どんな風に過ごしていたのだろう。
研究者や兵士に囲まれて、大きくなり、大人になって、彼は、幸せだったのだろうか。
Mは話し続ける。
『もうひとつの質問、ガブリエルが「次の王」である事は、キクヒコが知っていた以上、研究者たちにも知らされていたのだと思います。まだ王になったわけではありませんでしたので、番号は付けられなかったのでしょう。もし付けられていたとしたら、N-0で、私ではなくガブリエルが「最後の王」と呼ばれていたのでしょうね』
微笑むように、オレンジの球が瞬いている。
Lが手を上げて尋ねる。
「次の王って、具体的にどういう事なの」
『文字通り、次の王、です。王が亡くなった後、その王の記憶を受け継ぐ者です。私はA-0の次の王でした。私がA-0の「記憶」を引き継いでいるのは、そのためです。一点補足すると、受け継ぐことのできる記憶は一代限りです。それは、アルカナが本来持っていた性質で、人に入ってもそのまま同じはずです。王が如何に広い「海」を持っているとはいえ、無限に記憶を留めておけるわけではないのでしょう。私がA-0から受け継いだのは、A-0が王として記憶したものだけで、それ以前の王からA-0が受け継いだ記憶までは、私は受け継いでいません』
肉体を持たない意識生命体であっても、容量には上限がある、という事なのかな。
だとしても、それはかなり膨大な情報量だと思うけれど。
「記憶を読む」という表現をMは何度も繰り返し使ってた。
つねにその膨大な量の記憶を覚えているわけではなくて、必要に応じて取り出して、文字通り「読む」という事なのかもしれない。本当に、図書館かデータベースのように。
オレンジの球が、何故かためらうように沈黙してからふわりと灯る。
『つまり「次の王」ガブリエルは、キクタが亡くなった後、その記憶を受け継いで王になるはずだった、という事です。何故そうならなかったのか、その詳細は、私にはわかりません。キクヒコなら知っていたのでしょうが、「記憶の大半を失くした」のだとしたら、それを話せるのかどうかは不明です。事実として、ガブリエルではなく、Kがキクタのアルカナを受け継いだ。ですから、K、あなたの「海」には、キクタの「記憶」が保存されているはずです。おそらく、ですが』
A-0の記憶を話していた時とは打って変わって、自信なさそうにMは云う。
それは、先代キクタから僕への記憶の継承が、正規の手順を踏んで次の王に引き継がれた形ではなかったから、なのかな。
何故、キクヒコさんは、ガブリエルにキクタの記憶を引き継がせるのではなく、僕にキクタのアルカナを入れる事にしたのだろう。いや、キクヒコさんがそうしたのかどうか、実際のところはわからないけれど。
『肯定します。事例としては、初なのです。アルカナが人の意識に入ったのも、それほど多いわけではありませんが、少ないながらも無事は確認できています。しかし、人の意識の中にいたアルカナが、別の人に入った初めてのケース。それがK、あなたです。とは云え、何も変わりはないのかもしれません。アルカナが人に入るのと、同じなのかも。けれど、そうだと断言することは、やはり私にはできません』
何だか申し訳なさそうにMは云う。Mのせいでも何でもないのに。
さらにMの声は小さくなり、ほとんどつぶやくように云う。
『しかもその特殊なKの中に、次の王であるガブリエルが8年も入っていたなんて。それがお互いの意識にどんな影響を及ぼすのか、何が起こるかは誰にもわかりませんし、何が起きてもおかしくはないのです。全てが初めての事なのですから』
小さなつぶやき声でも、心の声なのでしっかり聞こえているのだけれど。
ふと、思った。
昔、もっと小さな子供だった頃、大人は何でも知っていて、何でもできるのだ、と意味もなく信じていた。
そうではないと気づいたのは、いつだったのだろう。
小学校へ上がる頃には、もう気づいていたのだろうか。
アルカナであるMは、僕らよりもはるかに多くの事を知っている。
そのMでも、「初めての事」は「何が起きるかわからない」と云うのは、だから、すんなり納得はできた。
どうしてわからないの、大人なのに、Mなのに、とは、思わなかった。
キクヒコさんに対しても、同じ事なのだと気づいた。
僕らに、あのクレーターを、この地下施設を、そしてロリポリを見せたかった、と彼は云ってた。
見せた上で、Mが聞かせてくれた昔話を、彼も僕らに聞かせたかったのだろうと思う。
実際に、今のキクヒコさんにそれができたのかどうかは、ともかく。
キクヒコさんも大人で、僕らよりもアルカナや能力については詳しい、詳しかった、はずだけれど。
今、僕らの中に渦巻いているたくさんの疑問、そのすべてに答えられるとは、とても思えなかった。
記憶を失くしているから、だけではなくて、記憶を失くしていなかったとしても、すべてに答えられるはずがないのだと、僕は気づいた。
いや、もうとっくに気づいていたのだろう。たぶん、小学校へ上がる頃には。
『否定します。いいえ、これは私に対する否定です』
申し訳なさそうにMが云う。
心なしか、オレンジの球も少し元気がないように見える。
『私は今の昔話を、まるで見てきたように話しましたが、実際には見ていません。あくまで、最初の王A-0の記憶を、そのままあなた達に伝えていただけです。だからこそ、なのかもしれません。キクヒコが、あなた達にこの話をしようとしているのだとわかった時、そして彼の意識がすでに稼働限界を超えており、今にも眠りに落ちようとしていると知った時、私が彼の代わりに話をしようと思いました。私が話すべきだと、思ったのです』
オレンジの球が、力なくちかちかと瞬いている。
『思った以上に、長くなってしまいましたね。A-0の昔話は、ひとまずここまでにしましょう』
Mがそう云い終えて、沈黙は、数秒もなかった気がする。
「ストップ。Mちゃん、A-0の「記憶」は、そのまま置いといてね?」
さっと素早く右手を上げて、Lが云った。
昔話はここまで、で、Mが「記憶」の映像を消してしまうと思ったのかな。
僕も、同じ事を思ってた。
理由は、Lとは違うかもしれないけれど。
「ふっふー。いやあ、どうかなー?」
Lはちらりと横目で僕を見て、ニヤリと笑う。
「ヌガノマ、いや、ナガヌママゴイチをね、じっくり観察したいなーと思って?」
Lの言葉に、僕は自分の口元が緩むのを感じた。
僕も、同じだった。
あのヌガノマを、じっくり観察できる機会なんて、たぶんない。
「え、ちょっと、だいじょうぶ?」
Jが、ぎょっとした顔で僕とLを交互に見る。
目の前に、まるでそこにいるように見えているとは云え、A-0の記憶の映像だし、だいじょうぶ。
3Dの立体映像みたいなもの、だよね。
映像なので、触れはしないだろうけれど。
いや、別に触りたいわけではなくて、顔を確認するために包帯を外してみたりは、できないだろうという意味で。
「ほんとそのクソ度胸というか、怖いもの知らずだねえ」
いつかのアイの口調を真似て、ガブリエルはそう云ってくすくす笑ってる。
そうなのかな。
今回は運良くキクヒコさんに救われて、逃げ延びる事ができたとは云え、ヌガノマの脅威が消え去ったわけではないのだし。
あいつがいまだどこかの地下に潜んでいるのは間違いないし、いつまたガブリエルや僕を狙って来るとも知れない。
ここで過去のあいつの姿をじっくり観察したからといって、何か対策が思いつくとは限らないけれど、情報は少しでも多いほうがいい。
何も知らずにただ怯えて過ごすよりも、少しでも何かひとつでも、知っておいて損はない、気がする。
「クソ度胸ではなく、「キクタ」ですね」
ふふんとNが鼻を鳴らすと、JがNの体を支えたままの右手で人差し指をぴんと立てて
「あー、おじいちゃんの方ね、なるほど」
よくわからないけれど、納得したらしい。
Lが、ぽんと僕の肩を軽く叩いて、映像の人の列に向かって歩き出す。
僕も並んで、人の列の右端、担架に乗せられたヌガノマに近づいた。
近くで見ると、本当に立体映像のホログラムのようで、うっすらと向こう側が透けて見えている。
包帯でぐるぐる巻きにされたヌガノマは、見るからに痛々しい姿だった。
担架からはみ出しそうな長身、190cm近くありそうだ。恐ろしく痩せているのは、戦地から帰還したばかりだから、なのだろうか。
失った左足の先と左の肩口の包帯には、赤黒く血が滲んでいて、血の匂いまで漂ってくるような気がした。
包帯の隙間からわずかに覗く顔の右半分は、血の気がないどころか土気色、というのだろうか。
死人のような、という表現があるけれど、それに近いのかも知れない。
その顔を色で云うなら「黒」だった。アフリカ系の人のような、茶色がかった健康的な黒ではなく、つやのない墨のような黒。
あの地下でちらっと見えたヌガノマの顔を思い出す。
あの時も顔が真っ黒に見えたのは、暗さや汚れのせいではなく、もともとこんな肌の色だったのか。
いや、もともと、なのか、大怪我を負った事によるものなのか、そこまではわからないけれど。
「前から不思議だったんだけどさー」
まじまじと近くでヌガノマを観察しながら、Lはいつもと変わらない声色で云う。
「どうして、人なの。なんで動物じゃダメなの」
ずばり、そうMに尋ねた。
確かに、以前からLは度々云っていたし、僕自身も何度か思ったことがあった。
ラファエルやN、クロちゃん、動物の体に入る方が、はるかに便利だしいろいろと融通が効く。
何故、わざわざ不便な人間の中に?
しかも、無事に入れるのは、まだ自我の目覚めていない赤ん坊だけ、という制約まである。
動物の中にいる方が、楽だしリスクも少ないと思うのだけれど。
『否定します。だからこそ、です。動物ではなく、人でなければならない』
やさしい声ではあったけれど、きっぱりとMはそう云った。
『最大の違いは、動物の意識とは「共存できる」という点でしょう。けれどそれはあくまで共存であって、アルカナとして生きているわけではありません。動物の体に、寄生しているに過ぎない。本能的に、アルカナはその状態を嫌います。ロリポリの中にいたアルカナたちもそうでした。広くて快適なオレンジの海に似た環境がある、それだけではダメなのです。どんなに快適でも、それはあくまで仮のもの、永住できる場所を見つけるまでの、避難場所に過ぎないのです』
本能、とMは云うけれど、僕にはいまひとつ、ぴんと来なかった。
おそらくLも、そうなのでは。
半年もラファエルの中で過ごしてもなお、「ずっとこのままでもいい」とまで、Lは云ってた。
Mのいう本能と、Lがラファエルの中にずっといたいと思う気持ち、どちらかと云えば、僕にはLの方が理解できる。
動物の意識がいる、その体に共存している、その状態を嫌う?
それって、何というか、ワガママすぎる?プライドが高い?
うまく云えないけれど、そんなイメージだった。
『価値観の違い、かもしれませんね。あなた達には容易に許容できるその事が、アルカナの本能にとっては、耐え難いものなのでしょう。意識生命体として、その「生命」の在り方として、他の動物の中、ではダメなのです』
「もちろん、それを「認めねー」とは間違っても云わないけどねー。そりゃ人だって、生き方はぞれぞれ好き好きだし。意識生命体であるアルカナなら尚の事、全部が全部、人であるオレたちに理解できるとは思えないもん。ははあ、そーいうもんかーって思うくらいかなー」
ふむふむとうなずいて、Lはくるりとオレンジの球の方を向く。
「それなら、ヌガノマは?」
スパーン、と心地良い音を立てそうな、ストレートな質問だった。
余計な前置きも何もない、実にLらしい聞き方だったけれど。
Mは、戸惑うのではないだろうか、と僕はつい余計な心配をしてしまう。
突然話題を変えたように思われるかもしれないけれど、Lの中では一連の質問は、たぶんつながってる。
僕らにはわかるけれど、Mにそれが伝わるかどうか。
『ナガヌマ、あなた達の云うヌガノマは、謎です。その意味では、彼もまた、特殊なケースと云えるでしょう』
それほど考え込むこともなく、すんなりとMがそう答えたので、僕は少し驚いた。
ヌガノマは、謎
Lの短い問いに、そう短く答えたMは、鋭い。
少し怖いくらい、僕はそう感じた。
淡々と、Mは説明を続ける。
『赤ん坊ではなく、成人した人の意識に入って消滅しなかったアルカナ。それが、彼です。入ったアルカナが特殊だったのか、受け入れた側のナガヌマが特異体質だったのか、研究者たちも、かなり熱心にいろいろと調べていたようです』
Lが聞きたかったのも、まさにそこ、だったろう。
成人した人の意識に入って消滅しなかったアルカナ
アルカナが特殊だったのか
ナガヌマが特異体質だったのか
もちろん、それも気になるけれど、僕の心に引っかかったのは、Mの最後の言葉だった。
研究者たちも、かなり熱心にいろいろと調べていた
その言葉に、何か冷たい手で、心をぎゅっと掴まれたような気がした。
研究者たちは、それでいいかもしれない。
赤ん坊以外の大人に入って、生き残った唯一のアルカナ。
それは、是非ともいろいろ調べてみたいと思うのだろう。
けれど、ヌガノマにとってはどうだったろう。
目を覚ますと、大怪我を負って、アメリカ軍の地下施設にいた。
隕石の落下と、キクタを庇った事を、彼は覚えていただろうか。
激しい痛みと苦痛。意識も明瞭だったとは思えない。
自分を取り囲み、好奇の目を向けてくる敵国の研究者たち。
すでに戦争は終わっていたとは云え、少し前まで敵として銃を向け合っていたかつての敵軍の施設で、大勢のアメリカ人に囲まれて、全身に激しい痛み。
それは、まるで、生き地獄のように感じたのでは。
「あいつが壊れた怪物になっちゃったのは、あるいはそんな影響もあったのかもだなー」
めずらしく低いトーンで、Lがぼそりと云った。
壊れた怪物
ガブリエルに対する、異様な執着。
そして、ルリおばさんに対して見せた、どす黒い悪意と殺意。
A-0の記憶のヌガノマは、目の前で担架に横たわり、目を閉じている。
ぐるぐるに巻かれた包帯のせいで表情まではよくわからなかったけれど、きつく右眼を瞑り、強く引き結んだ口元は、半身を苛む苦痛に歪んでいるようにも見える。
僕の心の中に湧き上がるこの感情は、何だろう。
同情でもなく、憐憫でもなく、ただ、悲しかった。
彼が何か悪い事をしたわけではなく、アメリカ軍の研究者や医者だって、彼を虐めたり痛めつけたりしたわけではないだろう。
戦争はもう終わっていたのだから。兵士の格好をしていても、敵ではない。
赤ん坊を庇って重傷を負った、怪我人だ。
きっと彼らは、手厚い治療と看護をしてくれたはず。
Nの話では、8年前、ヌガノマは義足を着けていたという。
保護されたアメリカ軍の地下施設で、しっかりと傷の手当てをしてもらい、失くした左足には義足を着けてもらっていた、という事なのだろう。
それなのに、どうして。
僕の中に溢れてくるのは、そんな、やり場のない悲しさだけだった。
「聞かなきゃよかったか?」
ぽつりと、隣でLが僕に尋ねる。
僕はかぶりを振る。
そんな事はないよ。聞けてよかったと思う。
ぽんぽん、とLが無言で僕の肩を叩いて、映像の列から離れる。
そのまま列の中心まで移動して、赤ん坊を抱く白衣の女性の前でLは足を止めた。
僕もふらふらと歩いて隣に並ぶ。
何だろう、考え過ぎたからだろうか、少し目眩がするような気がした。
「キクタは」
Lが、よろめく僕の体を支えるようにぐっと肩を組んで、云う。
「どこから来たんだろーね」
さっき、僕が思っていた疑問を代弁してくれたのだろうか。
もしかすると、Lも同じように思っていたのかもしれない。
『・・・』
Mは、答えない。
質問の意図がわからない、とは思えなかった。
答えるべき情報がない、という事なのだろうか。
生後数か月の赤ん坊が、ひとりで海沿いの集落へやって来るはずはない。
誰か、大人が一緒に連れて来ていたはず。
救助された住民の中に赤ん坊の両親はいなかった、とMは云った。
その誰もが、赤ん坊を「知らない」と云った、とも。
つまり、消去法で云えば、キクタを連れて来た人は、ひとりしかいない、という事になる。
ナガヌママゴイチ。
その軍服姿の若い男が、キクタを連れてあの海沿いにいた。
そして、隕石(ロリポリの尾)の落下に巻き込まれた。
赤ん坊を連れた若い男。
考えたくはないけれど、そのふたりの関係は、「親子」と見るのが自然なのではないだろうか。
考えたくない、ではなく、考えにくい、というべきかもしれない。
ヌガノマが、キクタの父親?
キクタが、あのヌガノマの息子?
あり得ない、とは僕には云えなかった。ふたりが親子ではない証拠なんて、何もない。
ただ、気持ち的に、少し嫌だった。
嫌、と云うより、受け入れ難い、と云うか。
胸の内側がちくりと痛み、首に重みがよみがえる。
僕はあの「キクタ」本人ではない、けれど。
ヌガノマはあの時、僕をどうするつもりだったのか。
「ふたりは、親子だったの?」
僕の妄想を止めようとするみたいに、きっぱりとMにそう尋ねたのはJだった。
オレンジの球が、少しためらうように瞬いて、
『正確なところは、わかりません』
Mの声音は変わらないままだ。
『研究者たちは、そう考えていたようです。他の住民に家族がいない以上、ナガヌマが、キクタの肉親かそれに近い親族であろうと』
淡々とそう告げられたけれど、それは言葉通りの意味で、それ以上でも以下でもなかった。
正確なところは、わからない
それが全て、なのでは。
Mが言葉を続けている。
『キクタとナガヌマは、海沿いの病院へは戻されず、この地下施設に留め置かれました。建設が進められていた地下の研究所の一角に医療設備が用意され、ナガヌマはそこで傷の手当を受けていたのです』
あらためて、目の前の赤ん坊を見る。
白いお包みにくるまれた「キクタ」は、背の高い白衣の看護士の胸に、大事そうに抱かれている。
その顔はほとんど見えなかったし、顔を見ても、僕の中には特に何の感情も湧かなかった。
会った事もないし、肉親でもない他所の赤ちゃんなので、それはそういうものかもしれないけれど。
Lは満足そうにうなずいて、僕の肩を押して元の場所に戻った。
Jの灰色がかった眼が、心配そうに僕を見つめていて、何だかちょっと心が痛かった。
オレンジの球がゆっくりと明滅しながら、Mの話は続く。
『しかし、傷口がふさがり、失った足に義足が用意され、どうにか自力で歩けるようになると、ナガヌマは、警備の兵士を襲い、銃を奪って施設から逃走しました』
もう何を聞いても驚かないぞ、と思っていたわけではなかったけれど。
ヌガノマの地下施設からの逃走は、特に意外ではなく、それほど驚きもなかった。
もう今日は驚きすぎていて、感覚が麻痺してきているだけなのかもしれない。
あるいは、現在のヌガノマが外にいる事を知っているから、今さら驚くほどの事でもなかったのかもしれないけれど。
「どうやって?まさかあの地下道を通って、じゃないよね?」
Lはそう尋ねたけれど、何となく、Lにはもう答えはわかっていて、僕らのためにあえて聞いてくれたのでは、と思った。
『否定します。当時はまだ、あの地下道は建設中で、海沿いの施設とはつながっていませんでした。こちらの施設も同様に建設中でしたので、まだクレーターの上は塞がれていませんでした。従って、地上へ出るのは今よりも容易だったでしょう。クレーターの斜面をそのまま登れば、どこからでも地上へ上れたはずです。地上のクレーターの外側には、警備の兵士のいる囲いがあったのでしょう。ナガヌマはその兵士から銃を奪って、逃走した、と云うわけです』
なるほど、と思った。
Lの質問の上手さに、驚いた。
今のMの答えで、当時の施設の様子が、大まかにだけれど把握ができた。
それぞれのクレーターは同時に施設の建設が進められていたらしい事。そして、施設間をつなぐ地下道は、後からつながったらしい事。
工事現場は、クレーターの上をそのまま塞いで平らにならしたものらしい事。そしてそれが塞がれるまでの間は、地上への行き来は比較的容易だったらしい事。
工事現場の塀の内側、あの不自然に踏み固められた黒い土の地面は、クレーターの上を塞いで、平らにならされたもの。
なるほど、それならばあの違和感にも説明がつく。
「ヌガノマは、監視されてなかったの?あーまあ、敵軍の捕虜ってわけでもないし、研究対象のただの怪我人だもんねー」
Lがさらに重ねて尋ねる。
『肯定します。彼ら、アメリカ軍、研究者たちは、貴重な研究対象でもあるナガヌマを、丁重に扱ったことでしょう。傷の手当てはもちろん、義足を用意したり等、です。病室にも鍵はかけられていなかったはずです。終始研究員の出入りはあったかもしれませんが、監視されていたわけでもありません。また、彼は逃走する際、施設内のあちこちを物色して回った形跡があったそうです。何か軍事機密のようなものを盗み出そうとしていたのか、という見方もあったようですが、「キクタ」を探していたのでは、という研究者もいたようです』
Mの回答に、僕は少し違和感を覚えた。
逃走する際、施設内のあちこちを物色して回った形跡があった
「キクタ」を探していた
つまり、キクタはヌガノマとは、同じ施設内の別の場所にいた、という事。
研究者たちは「ナガヌマが肉親かそれに近い親族であろう」という見方をしていたにも関わらず、彼らを離れ離れにしていた、のだろうか。
捕虜ではなく、治療を必要とする研究対象と、特に怪我はないとは云え、保護が必要な生後数ヶ月の赤ん坊で、こちらも研究対象ではある。
別々にしておく理由が、何かあったのだろうか。
「広くて場所も部屋数も十分にある大病院ってわけでもないのにな。むしろ逆だろ?だったら尚更、一緒にしといた方が手間なしだよねー。何か、一緒にしておきたくない理由があったのかねー」
質問ではなく、ひとりごとのようにLが云ったからだろうか、Mは何も答えなかった。
ふと、何かにぎゅっと胸を押さえつけられるような感覚がして、思わず胸に手を当てて、眼を閉じる。
ヌガノマに踏まれたところ、ではなく。
そういう物理的な痛みではなくて、何だろう、
いわゆる「胸を締め付けるような」という例えにもあるような、そういう何かだろうか。
ヌガノマは、どこまで正気を保っていたのだろう。
隕石落下の衝撃波から、赤ん坊のキクタを身を挺して庇い、守った。
それがヌガノマの正気だったのだとしたら。
どこから、彼は壊れていったのだろう。
施設を逃げ出そうとした時には、もう壊れていたのだろうか。
それでも、キクタの姿を探して、施設内を物色していたのだろうか。
キクタは、彼の息子、なの。
ぎゅっとまた、胸を潰されるような痛みを感じた。
ああ、これは、僕の中にある「キクタ」の記憶の破片、
それが発する痛み、なのかもしれない。
なんとなく、そう思った。
arcana iii
屋根裏ネコのゆううつ