意識体でも紅茶は飲めるのか。
心がゆっくりとほどけていくような、とても良い香りのする紅茶を、一口飲んでみてそう思った。
ほんのり甘く、温度も舌にちょうどいいくらいに感じた。
「こう云ってしまうと元も子もないかもだけど、まあ「何でもあり」だよね。意識の中の、心象風景だからさ。部屋の天井を青空にして虹を出すのも、美味しい紅茶やミルクを飲むのも」
ふんわりと微笑んで、ガブリエルは云う。
意識の中、心象風景
そうかも知れない、心の中で思い描くのは自由で「何でもあり」だ。
それこそ、素敵なお庭でも、秘密基地でも。
うん、とひとつうなずいて、ガブリエルはあらためて僕を見て、Nを見た。
「さて、ルリさんについて話をするには、8年前の誘拐事件の話をしないといけないんだ。さすがに時間も経っているし、当時ボクは4歳だからね。曖昧なところもあると思うけど」
一旦、ガブリエルはそこで言葉を切る。
事件の話をするというのに、ずいぶんリラックスしているように見える。
聞き手の僕の方が、よほど緊張しているかも知れない。
Nは、と見ると、よくわからなかった。
表情が読めない。ネコだから、というより、元々あまり感情を表に出さないタイプなのかも。
遠くの記憶を手繰り寄せるように、中空を見つめていたガブリエルが、小さくうなずいて、口を開く。
「8年前のちょうど今頃の季節だったよ。8月の上旬、時刻は午後、ボクはミカエルとまだ子犬だったラファエルと一緒に、庭で遊んでた。庭と云っても、半分手付かずの森みたいな、まだ木々が生い茂る場所があってね。今はもう、庭師のおじいちゃんがすっかり手入れをしてくれていて、あの森はないのかも知れないけど」
お屋敷の庭を思い返してみる。
確かに、かつて森や林だったと思われるような木立がいくらか残っていたけれど、手付かずの森、と云えるようなものはなかった気がする。
あの広い庭の、全てを見て回ったわけではなかったけれど。
Nには、僕とラファエルの記憶の風景が見えるらしい。
「ほう、これは立派なお庭ですね」
小さく、感嘆の声をもらしていた。
ガブリエルは小さく微笑みを浮かべる。
Lとは違って、お庭を誉められる事は素直にうれしいらしい。
まあ、Lもうれしくないわけではなく、極端に照れてるだけなのだと思うけれど。
「敷地の柵も、今はあの事件のせいでセキュリティばっちりになっているみたいだけど、当時はただ柵があるだけで、森の木々が深い場所には、柵がない箇所もあったと思う。カメラも門以外には2〜3台あったかどうかってくらいだったはず。だから、カメラにも映らず、柵を乗り越えることもなく、あいつは庭に入り込めたってわけだね。それでも、あいつの能力、「王の力」を見ることができる力、その探知範囲が、そんなに広いとは思えない。ニュータウンの工事現場の地下から、ススガ森のうちの屋敷まで探知できるはずはないよね。有効射程は、おそらく眼に見える範囲くらいのはずだから、たぶん、ボクがどこか市内へ出掛けた時か、保育園への行き帰りの道中とか、郊外の遠足の時とか、何かのタイミングで、事前にあいつに目を付けられていたんじゃないかと思う。あいつだって、人の多い場所を堂々とうろうろできるようなタイプじゃなさそうだしさ」
ガブリエルの言葉に、Nが大きくうなずいて、口を開いた。
「かの「敵」の能力について、アナタの推察はおおよそ正しいと思われます。キクヒコの認識とも合致しています」
ガブリエルはまた微笑んで、Nにうなずき返す。
「庭で、どんな遊びをしていたのかまでは覚えてないな。たぶん、かくれんぼ的なことを、ミカエルとしていたんだと思う。ふと気づいたら、森の中でひとりになってて、近くにミカエルもラファエルもいなかった。突然、後ろからあいつに目隠しと猿轡をかまされて、担ぎ上げられた。手足をばたばたさせて暴れたら、その場で地面に放り出されて、手足も縛られた。そしてまた担ぎ上げられて、そのままどこかへ運ばれた。その時、怖かったとか痛かったとかは、もう覚えてないんだけど、目隠しと猿轡の手拭いみたいな布が、とにかく臭かった。けもの臭っていうのかな。動物園の檻の近くにいるみたいな匂いがして、すごく気分が悪くなったのだけは、覚えてる」
それは、ヌガノマ自身の手拭いだったのだろうか。昨日の懐中電灯のように、その日にどこかで調達したものではなく。
「おそらく?いや、わからないけどね。どこか、途中の農家の納屋とか物置みたいなところから無断で拝借したものかもしれないけど。手足を縛ったロープなんかは、たぶん、そうなんだろうね。その後、少し記憶が曖昧。ずいぶん長い時間、そうして担がれたまま移動してたようにも思える。まあ、あいつが徒歩でススガ森からニュータウンまで移動したんだとすれば、2時間近くはかかるかな。幹線道路沿いは避けて、人目につかない場所を通ったのだろうし、片足だからね」
Nが、発言を希望するみたいに、すっと片手を上げる。
自然すぎて、まるで人みたいな動作だった。
こういうのも、キクヒコさんに習ったのだろうか。
「どうぞ」という風に、ガブリエルはNを手のひらで示してうなずく。
「ありがとう」とNはガブリエルにうなずいて見せてから、僕に
「キクヒコについては、あらためて後ほど」
と云い置いて、
「補足の情報を、いくつかお伝えできるかと思います。「敵」について、です」
そう、ガブリエルに云う。
「うん。ぜひ聞かせて」
Nはコホンとひとつ、喉を鳴らしてから、
「8年前の時点では、あの「敵」の左足には、義足が付いていました。古い木製の義足です。おそらく左足を失う怪我を負ったその治療時に、取り付けられたものと思われます。ですから、歩く速度は今よりも少し速かったものと推察いたします。それから、これは今のガブリエルのお話とは直接関係はないのですが、「敵」について、キクヒコが語っていた事をひとつ、思い出しました。それもお聞きになりますか?」
「うん、お願い」
「はい。それは、あの「敵」の稼働時間についての「情報」です。あの体のせいなのか、あるいは無茶な「力」の使い方をしているため意識の方に問題があるのか、その詳細はキクヒコにもわからないとのことでしたが、あの「敵」は、不特定の周期で活動と睡眠を繰り返しているそうです。そして、その睡眠の時期がおそらく数年から十数年に及ぶ事もあるのではないか、と。その活動期には稼働限界とでもいうべき時間があり、その限界を越えると、「敵」は長い睡眠期に入る。そうキクヒコは云いました」
それは、確かに今の話とは直接関係がないけれど、でもすごく重要な「情報」では。
云われてみれば、一度も考えてみたことがなかったかもしれない、ヌガノマが、今のあの姿になった、その原因について。
事故なのか、事件なのか、何かがあって、あいつは左足を失った。
そしておそらく治療を受け、8年前の時点では、義足を付けていた。
さらに、ヌガノマも「あの眠り」に陥っている。しかも、数年から十数年という長い期間。
冬眠に似た、深い眠り。
眠っている間、成長が止まる、あるいは極端に遅くなる。
いや、すでに成人しているあいつの場合は、成長ではなく、老化だ。
数年から十数年、眠っている間は、ほとんど老化しない、もしそうならば。
そしてその周期を、これまでに何度も繰り返していたのだとしたら、あいつは、本当に旧日本軍の、つまり80年以上前の、戦争時代の生き残り、なのかもしれない。
「うん。片目、片腕は、すごく印象に残ってるけど、云われてみれば、片足がどうなってたか、覚えてない。記憶に残ってないのは、義足でも普通に歩いているように見えていたからなのだろうね、4歳のボクには。それに、睡眠か」
ガブリエルは腕組みをして考え込む表情になっている。
「ボク自身、似たような事をしてたのにね、そこは思い至らなかったなあ。確かにKの推察通り、長い睡眠と短い活動を長年繰り返していたのだとすれば、戦時中の日本兵っていう怪談話が、俄然、現実味を帯びてくるね。怪談としてではなく、リアルな人間としてさ」
心情的に、あいつを、リアルな人間、と呼べるかどうかは、さておき。
ただの架空の怪談話ではなく、実際に起こっている現実の話として、その通りだった。
地下道に棲む片目片腕片足の怪人ヌガノマ、その正体は、80年以上前の軍人。
80年前、
隕石、ミドノ原、
見当たらない隕石の落下跡。
ミドノ原の記憶を消された父と母、
それはおそらくキクヒコさんの「能力」。
キクヒコさんは、ヌガノマと敵対していた。
そして、ルリおばさんも。
「うん。ルリさんの話に戻ろうか」
腕組みを解いて、ガブリエルは云った。
僕もNも黙ってうなずく。
そう、まだ全ての「情報」をつなげるためには、いくつかのピースが足りない。
ルリおばさんの話、8年前の誘拐事件の話で、それがつながるのだろうか。
「あいつは、8年前は今よりも、多少は人間らしかった気がするよ。話す言葉も、あんな片言じゃなかった。薄暗い、地下室みたいなところで、やっと臭い目隠しと猿轡を外されて、あいつの姿が見えた。まあ、実際は暗くてよく見えなかったけど、左腕が肩から下がなくて、左目にも黒い真っ暗な穴が開いてるだけなのは、わかった。怖かったよ。運び込まれた場所は、地下の狭い部屋。地下道の詰め所みたいな、たぶん、あの古い市の下水道の、作業員の控え室か倉庫か何かだったんだと思う。いま思えば、だけどね。当時4歳のボクには、残念ながらそこがどこなのかなんて全然わからなかったよ。暗かったけど顔や姿形がうっすら見えたって事は、どこかに光源があったんだろうな。非常口の灯りみたいな、ね。そこであいつが云ったんだ「おまえ、ミクリヤの子供か?」ってね。誘拐するために庭へ入り込んで、はじめてそこが「あの」ミクリヤのお屋敷だって事に気づいたらしい。だから、最初から身代金目当ての誘拐なんかじゃなくて、あいつの目的は「次の王」であるボクだった。攫ってからミクリヤの子だと気づいて、それならついでに高額な身代金を要求できると考えたんだろうね。実際、うちの父だったら、いくらでも払うだろうしなあ。あいつが8年前は多少人間らしかった、っていうのは、まさにそこ。今のあいつは、お金になんてこれっぽっちも興味なさそうだもんね。でも当時のあいつには、まだお金への執着があったんだ。少しは人間らしい記憶が残っていたんだろうね」
人間らしさ。
お金への執着。
当時のヌガノマは、ガブリエルを攫って、どうするつもりだったのだろう。
多少の人間らしさがあったとしても、「王の力」を呪う、その執念のようなものは今と変わらずあったのだろうか。
あるいは、当時のあいつには「王の力」を求める何か別の目的があって、それは人間性や記憶とともに失われ、ついには呪いに変わってしまったのだろうか。
今となっては、わかりようもない事だけれど。
「あいつの質問に、ボクは「うん」って答えたと思う。残念ながら、気の利いた台詞はひとつも思い浮かばなかったんだ。とにかく、その時はただただ怖かった。そしたらあいつは、嬉しそうにニヤッと笑って、そのまま地下室を出て行った。たぶん、ミクリヤの家に身代金要求の電話をかけるためにね。逃げようと思ったけど、手足はきつく縛られたままだし、唯一の出口の鉄のドアは、あいつが出て行った時にロックする音が聞こえてた。手足の拘束が解けたとしても、ドアの鍵がかけられていたのでは逃げられない。万事休す、ってやつだよ。そう思った途端、あの「道」が出た。でも、実はその時に初めて出たわけじゃなくて、以前から、それを出せるのは知ってた。ただ、何に使うのかもどうすればいいのかもわからなかった。こっそり家でひとりの時にいろいろ試して、「道」の上を移動できることだけはわかってた。ほんの少しだけ体が浮いて、滑るように移動できるんだ」
そう云われてみれば、あの時、地下道でガブリエルが「道」を出して、僕の体が、道の上を滑るように走って、「輪」の中に現れたNの目の前まで飛ぶように移動していた。
「そう、あれだね。ただ、残念なことにただの「道」なので、キクヒコの「輪」みたいに物体や空間を飛び越えたりはできない。地下室で「道」が出て、ドアの向こうへ伸びていたけれど、滑っても体はドアにぶつかって止まっただけだった。あいつがいつ帰ってくるかもわからない、その前にどうにかしてここから逃げ出さなきゃ、って気持ちばかり焦るけど、何もできない。「道」の上にへたり込んで、4歳にして人生の「絶望」ってやつを感じかけたその時、その「道」の上に光る「輪」が現れたんだ。そう、昨日と全く同じようにね」
あの時、ガブリエルは「助けが来た」と云った。嬉しそうに。
そうか、なるほど、8年前と一緒だったんだ。
「うん。「輪」の中に見知らぬ男の人が現れて、足元にへたり込むボクを見て、すぐに素早く周囲を確認してた。あいつがいるかと思ったんだろうね。で、いないとわかると、ホッと息を吐いて、無言でボクを抱き上げた。あ、もちろん、それがキクヒコだよ。暗かったから、顔ははっきり見えなかったんだけどね。で、キクヒコはそのまま「輪」の中へ、飛んだ。って云っても、残念ながら飛んだ瞬間は見えなかったんだ。次の瞬間には、別の場所にいた。その場所のことは、よく覚えてないんだ。どこかのマンションの一室とか、そんな感じだったと思う。そこに、ルリさんがいた。「ルリ、彼を頼む」ってキクヒコは云って、抱きかかえてたボクをルリさんに渡した。「俺は、あいつを見張る」ってキクヒコがそう云うなり、ボクを抱えたルリさんの足元に「輪」が現れた。ルリさんがキクヒコに何か云ってた気がするけど、何を云ってたのかは覚えてない。すぐに飛ばされたから、たぶんキクヒコにも聞こえてなかったと思う。次に飛んだ場所は、アパートの一室だった。狭い部屋だったけど、西日が差して明るかった。洗濯物の、たぶん柔軟剤のいい香りがした。部屋には、優しそうなおばあさんと、ベビーベッドで眠る赤ちゃんがいた。生後2〜3ヶ月くらいの、小さな男の子だった。そう、それがK、キミだよ」
急に名前を呼ばれて、どきっとした。
狭いアパート、優しそうなおばあさん、ベッドで眠る赤ちゃん
つまりそれは、あのアパート、なのだろうか。
祖母と赤ちゃんの頃の僕と、
ルリおばさんと、その腕に抱かれたガブリエル?
キクヒコさんが、ルリおばさんとガブリエルをあのアパートへ飛ばした。
「輪」での移動先には制限がある、ということだったけれど、ある程度は選べるのだろうか。
でも、何故、あのアパートへ?
「キクタ、補足します」
Nがまた、手を挙げている。
「どうぞ、お願い」
ガブリエルが云う。
Nは小さく彼にお辞儀をして、
「キクヒコの「輪」の移動先についての、補足です。概ね、アナタの予想通りです。キクヒコによれば、その時に移動可能な候補が、いくつか頭に浮かぶのだそうです。「条件」と云うのは、それです。そこに現れた候補の中からしか行き先を選べない。逆に云えば、候補に現れさえすれば、どこへでも飛べる、という事にもなります」
行き先の候補が頭に浮かぶ
その候補の中からしか選べない、
候補に現れさえすればどこへでも飛べる
その候補を決めているのは、誰?というか、何?なのだろう。
何を基準にして、候補として選ばれるのかな。
「さて、何でしょうか。キクヒコは「王の意思か何かじゃないか」と云いました。「王の」とは云いましたが、ニュアンスはもっと大きな、「世界」とか「神」に近い概念のようなものを指していたように思います」
王の意思
世界の意思?
神の意思?
ずいぶん、漠然としている気がする。
つまり、運まかせ?
いや、運命、とか、そういう事なのだろうか。
「キクタを助けに行く」
キクヒコさんは、そう云ったとNは教えてくれた。
そう云った時点で、彼の頭の中の「輪」の行き先候補の中に、僕が入っていた、という事なのだろうか。
「おそらくそうでしょう。その意味では、アナタの言葉を借りるなら、彼は「運命」に従って行動している、とも云えましょうか。ガブリエルの場合もそうだったのでしょう。「輪」の行き先候補を見て、それならば自分は残り、ルリを行かせるべき、と彼は判断したのでしょう」
運命。王の意志。
それに従って、キクヒコさんは行動している。
8年前、ガブリエルを助け、昨日、僕を助けた。
「致し方なし、だな」
あの言葉が、何故かずっと耳に残ってた。
運命に従うならば、それも致し方ない、そういう意味なのだろうか。
ガブリエルが、何か云いたそうに僕を見ていたけれど、小さく首を横に振って、そのまま、何も云わなかった。
「失礼いたしました。ガブリエル、続けてください」
Nがガブリエルを見て、云う。
「うん、ありがとう。でも、さんざん引っ張っておいて申し訳ないんだけど、この後、ボクはうろ覚えなんだよね。何せ、半分夢うつつだったからなあ」
半分夢うつつ?
あ、そうか、
誘拐から、わずか半日ほどで発見された。その時にはすでに眠っていた、って。
「そう。その前から「道」の力をひとりでこっそり試したりいろいろしてた上に、どうにかして逃げようと何度も「力」を使ったり、「道」を出したままにしたりしてたからね。ミカエルの云う、「負荷が貯まって」というやつだね。まあでも、そうやって「道」を出しつづけてたおかげで、あんなに早くルリさんに発見してもらえたってのもあるんだと思うけど」
ルリおばさんの「力」?
やっぱり、何か探知能力の高いものなのだろうか。
「はっきり聞いたわけじゃないけど、たぶんそう。能力の使用とかその痕跡を探知できるんじゃないかとボクは思ってる。Kを見つけたのは、たぶんそれ。ほら、キミの「音」は、年中無休でしょ」
年中無休。
そんなファーストフードのチェーン店みたいな素敵なものじゃないけれど、休むことも止まることもないのは確かだった。
ガブリエルは、何か期待を込めた眼でNを見ている。
そうか、Nはルリおばさんの能力を知ってる?
「残念ながら、その詳細まではワタシにもわかりかねます。只、キクヒコが「ルリは探知に長けている」というような発言をしていた覚えはあります」
少し申し訳なさそうに、Nはうつむいてそう云った。
「味方にも能力の詳細を教えないなんて、なんだかかっこいいよねえ」
ガブリエルは、どうもルリおばさん贔屓な気がする。
キクヒコさんは呼び捨てなのに、おばさんの事は「ルリさん」呼びだし。
「ええ?キクヒコはキクヒコって感じでしょ。ボクに云わせれば、Kが「キクヒコさん」って云うのを聞くと、何だかむずむずするけどなあ」
あ、ごめん、まただ。
どうも真面目なテーマを話すときほど、脱線しがちな気がする。
僕のせい、なのかな。
「なごませ系なのかもね。心配性だから、つい「いかん、空気が重い!なごませなきゃ」って思っちゃうんじゃない?」
楽しそうに、ガブリエルがくすくす笑ってる。
こういうところは、Lにそっくりだ。まあ、明るくていいけれど。
「じゃあ話を戻そうか。ルリさんの腕に抱かれて、半分うとうとしかけてるボクを見て、ルリさんもKのおばあちゃんも慌ててた。話の内容までははっきり覚えてないから、ニュアンスだけになるけど、「あいつにこのアパートが見つかるわけにはいかない」とか、ボクは一度あいつに捕まったから、目印?みたいなものを付けられてるかも?みたいな事を云ってた気がする。「ヌガノマに発見されやすくなってる」って事かなとボクは思ってた。アパートが見つかっちゃいけないのは、いま思えば、Kの中に先代「キクタ」がいるから、って事だったのかな」
そう云って、ガブリエルはNを見る。
Nはうなずきながら、
「時期的に考えて、そうでしょう。誘拐が8年前の今ごろなのだとしたら、そのひと月からひと月半ほど前に「キクタ」が亡くなっているはずです」
そう答えた。
ということは、
先代「キクタ」が亡くなったのは、8年前の6月末から7月、
僕が生まれたのは、8年前の5月末だった。
つまり、生まれて1~2か月のころに、先代「キクタ」の意識が、僕の中に入った?
それなら、今ここにいる僕は、誰なの?
「え、キクタじゃないかな」
「キクタです」
ふたりが声を揃えて即答した。
え、ちょっと待って、なんで?僕がおかしいのだろうか?
どうしてふたりの認識が揃っているの。
「うーん、ボクらにはキミが戸惑ってる理由の方が、よくわからないけど、ねえ」
ガブリエルがNと顔を見合わせている。
Nも同意、という顔をして小さくうなずいていた。
「K、そもそもだけど、じゃあ「意識」って何?」
意識。
僕が、僕だと認識しているもの、かな。
「うん。じゃあ、キミはいつ、キミが「キクタ」だと認識したの?」
いつ?
いつだろう、物心がついた頃、かな。
「うん。2歳とか3歳とか、それくらいだよね。それなら、やっぱりキミは「キクタ」に違いないよね」
そうなのだろうか。
生まれて1~2か月の頃の僕に、亡くなった「キクタ」の意識が入った。
元々の僕の意識と、亡くなった「キクタ」の意識、
ひとつの体にふたつの意識が入っている、というわけでは、ない、という事?
「うーん、なんとなく混乱の原因がわかってきたぞ。混乱というより、混同かな。いま、Nの体の中にはボクとKとN自身の意識、つまり三つの意識が入ってる。それと同じことが、8年前、キミに起きたわけじゃないよ?」
そうなのかな?いや、同じでは。
「うーん。もっかい聞くけど、「意識」って何?キミはいつキミが「キクタ」だと認識したの?」
意識は、自己認識。
僕が僕であると認識しているもの。
それは、物心がついた頃に、生まれる?
僕の中に、生まれるもの。
元々の僕の中に、意識はないのか。魂、みたいなものはあるかもしれないけれど。
亡くなった「キクタ」の意識は、記憶を持たない。
それはいわば、意識、という器のようなもの?
生まれて1~2か月の僕に、何らかの方法で亡くなった「キクタ」の意識を移した。
でもそれは、記憶も自我もない、器のようなもの。
亡くなった「キクタ」という老人が、僕の中に、僕とは別に、存在するわけではないんだ。
その「キクタ」の器の中に、2~3年かけて、僕の意識が生まれた。
僕という自我が。
それは、僕だ。
あれ?おかしくないのでは。
「うん。まあ、気持ちはわかる。ボクは長年、キミの中にこっそり居候してた身、だからね。自分の体よりもキミの中にいた時間の方が長いくらいだもの。NはNで、もういろんな人が中に入って来て、慣れっこになっちゃってるのだろうし。キミの場合、いきなりネコの中に入ったかと思ったら、8年前になくなった「キクタ」もキミの中に入ってるとか云われたら、そりゃ混乱も混同もするだろうさ」
うん、いや、なんか本当にごめん。
さっきからガブリエルの話を中断しまくってる気がする。
「いえいえ。実のところ、Kの中に亡くなった「キクタ」を入れてまで、「王の力」を残す意味とか、その方法とかどういう理屈になってるのかとかは、ボクもさっぱりわかってないんだけどね。Nは、わかってるのかな?」
ガブリエルがそう尋ねると、Nは肩をすくめるような仕草をして、
「いいえ、ワタシにも詳細はわかりかねます。ワタシはただのネコですので」
お得意のセリフで返していた。
とにかくごめん。
ガブリエルが大事な話をしてくれているのに、僕が話の腰を折ってばかりで。
以前にも、こんなことがあったような気がする。
「あー、あれは結構面白かったね。Jがめずらしく怒ってたやつでしょ。「もう、キミはどうして、ワタシが真面目な話をしてると、面白い事ばっか云って笑わせようとするの」だったっけ?キミはキミで大真面目なのにねえ」
ガブリエルは、そうか、ずっと僕の中にいたのだから、全部知ってるんだ。
「うーん、まあ全部が全部、ではないと思うけど。ボクはボクで昼寝してたり、部屋の模様替えしてたり、ずっとキミを見てたわけではないからねえ」
部屋の模様替え。
真っ白なのに?
「いや、冗談だけどね?ずっと見られてたら、恥ずかしいのかなと思って」
ふふっとガブリエルはいたずらっぽく笑ってる。
だめだ、Lといい、ガブリエルといい、
どうしても僕には勝てそうにない。
「うん、キミ、Jにもめっぽう弱いしねえ。あ、でもKって、アイには強いよね。あれはすごいと思うよ、ボクやミカエルにはぜったい無理」
それは、喜ぶところ、なのかな。
アイは、ただの人のいいお兄ちゃんだし。
「それ。なんだろうね、その怖いもの知らずな感じ。先代「キクタ」の影響かな」
ガブリエルがそう話を振ると、
「ふむ。あるいはそうかもしれません」
Nまで、まんざらでもなさそうな顔で云う。
「さて、じゃあ先代の話に戻ったところで、続けようか」
脱線しまくっていた話題を、ガブリエルが軌道修正してくれる。
「とにかく一刻も早くアパートを去りたいルリさんと、先代の入った大事な孫を守りたいおばあちゃんの思惑は、一致してたみたいだった。どういう話の流れでそうなったのかはわからないけど、ボクの意識をKの中に隠して、ルリさんがボクの体を抱えてアパートを離れ、安全な場所まで行ってボクの体を警察なり善良な市民なりに発見させる、という事に計画がまとまったみたいだった。どちらが云ってたのか覚えていないけど「先代といっしょにいるのがこの子には一番安全だ」みたいな声を聞いたような気がする。それを後でキクヒコに云ったら、ボクが「次の王」だからだってキクヒコは云ってた。次の王を守るのには、前の王と一緒にいるのが一番いいってことなのかな。そんな感じの云い方だった」
何故その計画にまとまったのか、その理由は、僕にもさっぱりわからない。
ただ、それを決めたのが祖母とルリおばさんの合意の上で、という事なのだったら、わからなくても信じられる、と思った。
というか、祖母は、いったいどこまで何を知っていたのだろう。
もしも元気で長生きしてたのなら、いつか、それを僕にすべて話してくれたのだろうか。
「その後の事は、わからない。おばあちゃんが抱き上げた赤ちゃんの顔が眼の前にあって、そのまま眠りに落ちて、次に気がついたら、ここにいた。この白い部屋に、ね。ルリさんは計画通り、ボクの体を安全な場所へ運んでくれたんだろうね。体はすぐに発見されて、無事にお屋敷へ連れ帰られて、あの温室みたいなガラスの箱に入れられて、今に至るって感じかな」
ガブリエルの意識は、ここに。
この白い部屋に、ずっと、8年も。
寂しく、なかったのだろうか。
「云うと思った」
ニッとガブリエルは笑った。
「うーん、ぜんぜん寂しくなかったよ、って云えば嘘になるかなあ。でも、わりと楽しかったよ。部屋の模様替えしたり?あ、それはもういい?ふふふ。キミの意識が目覚めてからは、特にね、楽しかった。幼少期を別の家と別の視点でもう一度体験できるなんて、そうそうないでしょ。おばあちゃんもお母さんもやさしいし、ルリさんも、たまに顔見せてくれてたし。ちょっと、変な人を演じてたみたいだったけど」
僕の中で、時々、聞こえていた「声」を思い出していた。
だったらどうして、もっと早く、出てきてくれなかったのだろう。
「あ、それにはちゃんと理由があるんだよ。あーその前に、さっきの話にはまだつづきがあるんだった、そっちを先に話そう」
そう云って、ガブリエルはまた片手を上げて、指を鳴らす。
カップやお皿はそのまま、中身が新たに注ぎ直されたらしい。
湯気とともに、紅茶の良い香りと、ミルクの甘い匂いが漂ってきた。
「おや、いつのまにか、Nの体も帰還してるみたいだね」
少し伸びをするような姿勢で窓の向こうを眺めて、ガブリエルが云う。
「はい、無事に帰還しております。報告が遅れまして申し訳ございません」
ぺこりとNが頭を下げた。
振り返ってみると、Nの視界の窓の向こうが屋根裏の風景に変わっていた。
報告が遅れたのは、話の途中で割り込むまいというNの気遣いなのだろう。
さんざん話を中断しまくった僕は、物を云える立場にない。
「無事で何よりだよ。Nの体に、ボクらの存続がかかってるからねえ」
冗談めかしてガブリエルは云ってくれたけれど、冗談ではなく、もし今Nに何かがあれば、たいへんな事になるところだった。
ふふ、とNが笑う。
「心配ご無用です。キクヒコの「輪」ほどではありませんが、ワタシが「敵」に捕らわれる事は、まずあり得ませんので」
確かに、Nの身体能力をもってすれば、ヌガノマに捕まることなどありえないだろうけれど。
だからと云って、昨日の襲撃現場へひとりで行かせるなんて、やっぱり僕は、考えなしにもほどがある。
もっと、慎重にならないといけない、よね。
そう、素直に反省した。
「うん、きちんとわが身を顧みて、すぐに反省できるとこ。キミのそういうとこも、ボクはすごいなあと思うよ。さて、じゃあつづきを話そうか」
淹れ直した紅茶を一口すすって、ガブリエルは口を開く。
「この部屋に来て、1日経った頃。つまり、ボクの体が眠りについて、ボクの意識がKの中に入った、その次の日。あっちのカーテンの向こう側から、誰かに呼ばれているような気がしたんだ」
あっち、とガブリエルが指さしたのは、椅子に座ったガブリエルの背後、つまり僕の正面にあるカーテンのかかった大きな窓だった。
ボクの後ろにある、屋根裏の見えるNの視界の窓のちょうど反対側。
さっき、ガブリエルが「ここはボクの部屋だけどね。Kのは、あっち」と云った、まさにその窓。
「うん。後でカーテンを開けてみたらわかるけど、あっちにはあの「海」がある。つまり、あの「オレンジの海」が、Kの心象風景であり、Kの部屋って事だね」
あの「オレンジの海」が、僕の部屋?
ガブリエルのこの白い部屋や、Jの素敵なお庭、Lの秘密基地、みたいな、僕の心象風景が、あの「オレンジの海」なの?
だとすると、僕はすでに何度もそこへ行ったことがある。
Jが眠りに落ちる直前と、その後にも、夢の中で何度も。
「うん。ミカエル曰く「寝てる時につながりやすい」だっけ。意識空間なのだから、まあそれも納得だよね」
あの「オレンジの海」に、異常が起きていたのは、昨日の晩、いや、今日の晩に目覚める前に見ていた夢、だったろうか。
白い灰が降りしきっていて、オレンジ色の空に黒い斑らの染みがいくつもできていた。
そして、LやJの声が途切れ途切れにしか聞こえなくなっていた。
「うん。ボクもびっくりした。けど、Kの心象風景なんだとしたら、なればこそ、って感じだよね。あいつの襲撃によって、キミの意識がダメージを受けたんだろう。ショック状態というか、文字通り、心が傷ついたのかもしれない。もしかしてあいつに、そういう「能力」でもあるのか、って少し焦ったけど。ほら、何か意識や精神を侵す「毒」のような、さ。そんなのを喰らってしまったのかも?って少し疑ったけど、さっきのぞいてみたら、少しずつだけど回復してるみたいだった。だから、その心配はなさそう。謎の怪人だからって、そんなに幾つも「能力」を持ってるとか、ないよね。ゲームやアニメのボスキャラじゃあるまいし、さ」
回復してる、の。それなら、よかった。
また、JやLと話せるようになれば、そんなにうれしいことはない、よね。
「うん。後で確認してみよう。ひとまず話をつづけると、誰かに呼ばれた気がして、そっとカーテンを開けてのぞいてみた。そしたら、あの「オレンジの海」があって、まあ、びっくりしたよね。とんでもなく広いし、きれいだし、不思議だし。あ、で、まあ、声はそっちから聞こえてた。「ガブリエル、いるのか」って。それが、キクヒコだった。姿は、見えなかったんだけど。そこでようやく、彼の名前がキクヒコで、ボクと同じような「力」を持ってることや、さっきの「次の王」の事なんかを聞いた。キクヒコは焦っているみたいで、「時間がない」とか「最低限必要なことを伝えとく」みたいなことをしきりに口にしてた。こうして「オレンジの海」でつながっていて、いつでも話せるのなら、何をそんなに慌てる必要があるんだろう、もっとゆっくり、時間をかけていろいろ教えてくれたらいいのに、って思った。だから、そう聞いた。そしたら、「ルリが、あいつに捕まった」って、キクヒコは云った」
ルリおばさんが、あいつに。
それが、さっきガブリエルが云ってた「ヌガノマは、以前にも一度、ルリさんの体を奪ったことがある。」その事なのだろうか。
「うん、そう。で、キクヒコは「ルリを救うために、俺はあいつの体を奪う。体を奪われたら、さすがにあいつも元の体へ戻ろうとするだろう」って」
あいつの体を奪う?
確かに、効果的ではあるのだろう。
意識のない、からっぽの本体を、他の誰かに奪われたら、さすがにヌガノマも慌てて元の体に戻ろうとするに違いない。
そして、あいつの意識はルリおばさんの体から、出る。彼女は助かる。
けれど、その方法には大きなリスクが。
「そう。ヌガノマの体を奪うために、キクヒコの意識があいつの体に入れば、キクヒコは、記憶の大半と、あの海とのつながりを失う。だから、その前に、ボクに「最低限必要なことを伝えとく」べきだと、キクヒコはそう判断した。そして、ルリさんを助けに行く前に、最後に「海」につながって、ボクに「情報」を託した。「海とのつながりを失うのは、半分死ぬようなもんだ。ルリも半分死んだ。だがまだ生きてる。おれも今から半分死ぬ。でもまだ生きる」キクヒコは、そう云った。そして、最後に「だからおまえも生きろ、他の子供たちといっしょに。ただ、生きていてほしい、それだけでいい、他はすべて大したことじゃない」そう云って、あの「海」からキクヒコの気配はいなくなった」
ただ、生きていてほしい、それだけでいい、他はすべて大したことじゃない
前にも、どこかで聞いたことがある言葉だった。
でも、どこで?
「それは、「キクタ」の言葉です」
Nが静かに、口を開いた。
「彼が亡くなる前、最後に、ルリとキクヒコに残した言葉。キクヒコから、そう聞いています」
淡々とNはそう云った。
「なるほど。キクヒコのくせに、ずいぶん粋な事を云うなあと思ってたんだ。先代の言葉の受け売りだったのか」
ガブリエルは、ぽつりとそうつぶやくように云う。憎まれ口とは裏腹に、少し、寂しそうに見えた。
そして、キクヒコさんは宣言通り、ヌガノマの体に自身の意識を入れたのだろう。
ヌガノマは体を取り戻すべく、ルリおばさんの体でその場に戻り、奪われた体を取り戻すために自分の体へ意識を戻す。
ルリおばさんは解放され、おそらく、キクヒコさんの「輪」の力で、すぐに別の場所へ飛ばされた。
キクヒコさんは、どうなったのだろう。
自然と、Nを見る。
ガブリエルも、Nを見ていた。
Nは僕を見て、ガブリエルを見て、なぜか少し肩をすくめてみせた。
昨日、僕を助けに来るまでの「長年」の間、キクヒコさんはNの中にいたはず。
Nなら何かを知っているのでは、と考えるのは当然だと思うのだけれど。
「失礼。ガブリエルに倣うわけではありませんが、昔のことですので、記憶が薄れております。ひとつ、わかったことは、アナタに尋ねられた「長年」が「8年」だったということです」
正直で律儀な印象のあるNが、嘘やごまかしを云うとは思えなかった。
本当に、記憶が薄れて思い出せないのだろう。
「はい、申し訳ございません。只、ワタシはキクヒコの体がどこにあるのかを知りません。そこから推察するに、キクヒコは8年前、体を介してワタシの中に入ったのではないようです。もし体を介していたなら、ワタシはその場所を覚えているはずです。従って、何か別の方法、「輪」の力で意識だけ飛ばすとか、あるいは体が限界に達したために意識だけが体から追い出され飛ばされたとか、そのような形で、ワタシの中に入ってきたものと想像します」
通常の方法、僕とN、あるいはLとラファエルがしたような、目の前で鼻に鼻先で触れる形ではなく、何か別の方法、という事なのだろう。
「輪」の力で意識だけを飛ばす
体が限界に達して意識だけが飛び出す
どちらの方法も、実際に見たことはないし、その理屈も仕組みもわからないけれど、Nがそう云うのならば、きっとそうなのだろうと思った。
「恐れ入ります。キクヒコの意識が、ぼろぼろになって入ってきた事は、記憶にあります。その惨状だけが強烈に印象に残っていますので、余計に他が薄れてしまったのかもしれません。何と云えばいいか。キクヒコの言葉を借りるなら、まさに「半分死んだ」にも等しい状態、でした」
海とのつながりを失う
記憶の大半を失う
それは、半分死ぬようなもの
意識へのダメージは、肉体のそれとはまた違った意味で、深刻なものなのかもしれない。
少し首を絞められて、肋骨にヒビが入る程度に痛めつけられた僕ですら、心象風景に灰が降り出し、通話が困難になるほどの影響が出ているのだから。
「はい、それはもう惨憺たる有様でした。只、ガブリエルの云う通り、意識のダメージそのものは少しずつ回復するようでした。失った記憶こそ戻らず、つながりも元通りとはいきませんでしたが、キクヒコも、長い時間はかかりましたが、少しずつ、次第に会話が成立するくらいまでに回復していきました」
それは、本当によかった。
よかった、けれど。
そんなキクヒコさんに、僕はまた、昨日、知らずに無理を強いてしまった事になる。
「キクタ」
ややたしなめるような声で、Nが僕の名を呼んだ。
見ると、小さな頭を横に振ってた。「それはもう、云わなくていい」そう云ってるようだった。
「うん、ボクの話のつづき、キクヒコの件はそれでおしまい。彼から「必要最低限」って引き継いだ情報も、これまでの話の中でほぼほぼ伝えられてると思う。ただまあ、8年前のことだから、もれがあるかも知れないけど。もしあったら、また思い出す都度、共有するよ」
そう云って、ガブリエルはまた紅茶を一口飲んだ。
そしてあらためて僕の方を向いて、
「じゃあ、さっきのKの質問に戻ろうか。どうしてもっと早く、Kに声をかけなかったのか。というか、ここまでの話で、何か矛盾を感じてない?ボクが、Kの中にいることに対して」
そんな、謎かけのような事をガブリエルは云った。
ガブリエルが僕の中にいる
その事に対する、矛盾。
実は、感じていた。
いずれ聞いてみるつもりだった、けれど。
本音をいえば、少し恐くて、避けていたのかも知れない。
その矛盾に対する、答えを聞くことが、だ。
能力者の中に、別の能力者の意識は、入れる。
ルリおばさん、キクヒコさん、そしてヌガノマ。
但し、それには相応のリスクを伴う。
「海」とのつながりを失い、記憶の大半を失う。
キクヒコさんによれば、それは「半分死ぬようなもの」であるらしい。
そうなのだとしたら、
いや、それなら、僕の中に入ったガブリエルは、どうなるの?
「どうなる?ううん、どうなった?」
ガブリエルは真面目な顔で僕をじっと見つめている。
「海」とのつながりは、ある、はず。
これまで、一度もあの「海」でガブリエルの気配を感じたり、声を聞いたりした事は、なかったように思うけれど。
でもさっき、「のぞいてみたら、少しずつだけど回復してるみたいだった」と云ってた。
つながりが切れているのだとしたら、そもそものぞくことすらできないのでは。
記憶も、失っていない、ように思える。
8年前の事件の事を、あそこまで詳細に覚えていた。
「うん、「海」とのつながりは切れてないし、記憶もぜんぜん失ってない。なんで?」
最後の「なんで?」は、Nの方を向いて、ガブリエルは尋ねてた。
Nはまた、小さく肩をすくめてる。
「あ、まさかまた「ワタシにはわかりかねます」かな?ずるいなあ、それ」
ガブリエルは、ぷうっとふくれてみせた。
当たり前なのだけれど、Lと同じかわいい顔、美少年なのだ。
ふくれっ面も、それはかわいいに決まっている。
「じゃあ、ボクらの名探偵Kの推理を聞こう。なんで?何でだと思う?」
矛先が、突然こちらを向いた。
なんでだろう、と考えて、ふと脳裏をよぎったのは、キクヒコさんの例えだった。
王とその臣下、というより、木の幹とその枝葉、というあれだ。
特権的なものとか従属関係とかではなく、つながりの形や、その規模感、を云っているような気がする。
そして、それぞれの大きさ?容量のようなもの?
木の葉と木の葉、それ同士の場合、大きさも容量も一緒なので、中に入れようとすると、無理矢理に入れる事はできるけれども、どこかが壊れる。
では、木の幹に木の葉を入れる場合は?
木の幹は、大きさも容量も桁違いに大きいから、木の葉が1枚入ったところで、何の問題もなく、どこにも不具合は起きない。
いや、そもそも、木の幹とその木の葉はつながっている。
元からつながっているものが、中に入ろうが外へ出ようが、つながりに変わりはない?
という事は、「王」である僕の中であれば、いくらでも入ることができるのでは。
それこそ、JもLも、みんな一緒に、あの、「オレンジの海」のように?
「オレンジの海」は、僕の心象風景。
そこに、JもLもガブリエルも、つながっている。
それが「答え」なのでは。
だから、ルリおばさんとおばあちゃんは、特に躊躇いもなく、ガブリエルの意識を僕の体の中へ避難させたのかも。
それが一番安全だ、と信じて。
「その通りだと思います」
そう云ったのは、Nだった。
ガブリエルは、楽しそうに微笑みながら、Nと僕とを交互に眺めていた。
「いえ、ご存知の通り、ワタシはただのネコですので、正しい答えを知りません。ですが、アナタの仰ることには、何ら破綻や矛盾は感じません。ですから、ワタシもきっとその通りなのだと思います」
いつものように淡々と、Nはそう云った。
Nがお世辞やおべっかを云うはずがない、そうわかっているからこそ、その言葉はすごくうれしかった。
「うん、Jにも見せてあげたいくらいの、名探偵ぶりだったねえ」
ぱちぱちと、ガブリエルは拍手をして、
「ボクも、正解が何なのかは知らないけど。でも、今のKの説を推すよ」
そう云って、笑顔を見せる。
「じゃあ、Kの質問に答えよう。どうしてもっと早く、声をかけなかったのか。それは、今日までずっと、確信が持てなかったから、だよ。最初は、Kの自我が目覚める、つまりKの中に意識が生まれる、その瞬間に、ボクの意識は消えるか、Kの意識に取り込まれるのかなと、漠然と思ってた。そうなれば当然、記憶も消えて、ボクという意識も消えるのだろうな、ってね。ところが、そうじゃなかった。Kの意識が生まれて、すくすく育っていくのを、ボクはボクとして見てた。これは、何とも云えないすごい体験だったねえ。親心っていうのとも少し違う気がする。ボクが育ててるわけじゃないからね。ボクは影からこっそり見てるだけなのに、Kの意識は日々成長していくんだよ。もうそれからは、少しも寂しいとは思わなくなったね。毎日楽しくて仕方なかったよ。だからこそ、だね。もしも、声をかけて、その瞬間にふたりともが「海」とのつながりとほとんどの記憶を失ってしまったら?そんな恐ろしい事は、できなかった。だから、ずっと息を潜めて、Kの意識に気づかれないように、隠れてた。何がトリガーになるかもわからないからさ。もしかしたら、だいじょうぶなのかもって思い始めたのは、ほんとに最近かな。KがJやミカエルと出会って、「オレンジの海」にみんなの声がするようになって、あの「海」そのものが、Kの意識空間なのかもって気づいた時に、じゃあ、だいじょうぶなんじゃないか?ってね。だって、あんなにでっかいんだもの、「王」の意識は」
ありがとう、と僕は心から、ガブリエルにお礼を云った。
僕とガブリエル、ふたりの記憶と「海」とのつながり、それを守るために、ガブリエルの意識がずっと、8年もの間、身を潜めていてくれた事に。
「お礼はいいって。ボク自身のためでもあったんだし。それに、さっきも云ったけど、ほんとに楽しんでたからねえ、この生活を」
それなら、ガブリエルは、戻れるのかな。
自分の体に、何の問題もなく。
「あー、うん。戻れる、よね、たぶん。でもさあ、こっちの方が長いんだよ?今さら「戻れるよ」って云われてもなあ。ちょっと抵抗あるって云うか?何かいろいろ変な器具とかコードとかつながれてるの、こないだKの眼を通じて見ちゃったしなあ。あれ、ちゃんと動くのかな?あのボクの体?」
それは・・・、いや、え、ちょっと待って。そうなの?
まさか、あんまり戻りたくない感じ、なのかな。
だってLは、いやLだけじゃなく、お母さんやお父さん、サモンジさんやシジマ夫妻も、みんなすごく喜ぶと思うのだけれど。
「うーん。それはそうだけど、ねえ」
ガブリエルは、何やら渋い笑顔で三つ編みの金髪をくるくると指先で回してる。
どうして、Lといい、ガブリエルといい、
何だろう、天才児ってそう云うものなの。
「あ、それね。ボクは違うから、あのギフテッド?とかそういうのじゃないからねえ。あれはミカエルだけだよ」
あれ、そうだったの。
てっきりふたりともそうなのかと思ってた。
ガブリエルも、すごくそんな雰囲気あるし、むしろLよりもっと、天才児っぽい気がする。
「あはは、気のせいじゃないかなあ。3歳の時に、あのなんとかいうテスト受けさせられたんだけど、ボクは至って普通の「並の子供です」って結果だったよ。ミカエルは、ぶっちぎりの天才児だったけどねえ」
はっはっはーと高らかに笑って、ガブリエルは云う、けれど。
どうも怪しい気がする。
ガブリエルなら、そのなんとかいうテストすらも見抜いて、わざと並の成績を取ることくらい造作もないのでは、と思った。
今度、Lに聞いてみよう、と密かに心にメモをする。
「うん。ひとまずボクの話したかった事は、これで全部話せたかな。取り急ぎ、って感じだけど。話したいこと全部話してたら、夜が明けて日が暮れてもっかい夜が明けても、まだ終わらないかもだし」
ふふふ、とガブリエルは笑う。
そんなに話があるの。
まあでも、8年分だものね、と思う。
また機会を見つけて、じっくり話を聞こう。
「うん、よろしくね。あーあと、Kにひとつお願いが。いや、ふたつ、ある」
ガブリエルは、Jみたいに人差し指をぴんと立てて、すぐに中指も追加した。
お願い、ふたつ、なんだろう。
聞ける事なら、何なりと、だけれど。
「ひとつは、ボクがKの中にいる事、しばらくミカエルには内緒にしといてほしい。あ、いや、ミカエル限定ってわけじゃなく、みんなには内緒に、かな」
ふむ、それはまた、どうして。
「うーん、Kの体を見つけるのが、まず最優先でしょ。その前に打ち明けてボクの体を起こしたところで、8年も寝てた体だからねえ、何の役にも立たないどころか、ただのじゃまなお荷物でしょ。だったら、ここにいた方がいいかなって。折を見て、ばっちりなタイミングで、ちゃんとみんなには云うから、安心して」
まあ、そう云われてしまうと、わかった、としか云えないけれど。
それで、もうひとつは?
「ありがとう。もうひとつは、あれ」
屋根裏部屋の見えているNの視界の窓をガブリエルは指差して、
「あの、床に置いてあるキクヒコのパソコン。あれを見せてほしい。Kが寝てる時にでも、Nの眼と体を少し借りて、ぱぱっと見ちゃうから。Nも、いいかなあ?」
僕の部屋の屋根裏ではあるけれど、キクヒコさんのパソコンだし、僕に異論はないけれど。
「はい、ワタシもよろしいかと。キクヒコが「必要最低限の情報」を引き継いだガブリエルにこそ、あのパソコンを見てほしいと思います。キクヒコも、それを喜ぶでしょうから。あの中に、最低限以上の「情報」が保存されている可能性もありますし、まあ、何もない可能性も、なきにしもあらずですが」
律儀なNらしい返事だった。何もない可能性も、きちんと伝えるあたり、さすがだ。
「ありがとう。何か新しい「情報」があったら、必ずふたりにも共有するよ」
ガブリエルは、満足そうにうなずいて、にっこり微笑む。
もう一度、僕は振り返って、屋根裏部屋の窓を見る。
さっき見た時、なんとなくうっすらと明るかったような気がした。
「ふむ。夜明けにはまだ少しあるようですが、だいぶ明け方ですね。キクタ、まだお疲れでしょう、回復のためにも、少しお休みになられては」
コンビニで時刻を見た時、21時過ぎだっただろうか。
それから、あの地下道へ行き、ガブリエルが現れて、いろんな話をして、
そして、明け方?
「たいへんだ。良い子はちゃんと寝ないとね、ボクのベッドを使っていいよ。そしたらボクは、早速キクヒコのPCを見せてもらいに行くから」
そう云うが早いが、もうガブリエルは立ち上がって、屋根裏の窓へ向かってる。
途中で振り返って、ぱちんと指を鳴らす。
天井の青空と虹が、パッと夜空に切り替わった。
満点の星空、天の川だ。
「ごゆっくり、おやすみなさい」
Nもぺこりと僕にお辞儀をして、ガブリエルの後についてすたすたと行ってしまった。
意識体にも睡眠は必要なのかな。
あの「海」が傷ついたり回復したりするところから考えても、必要そうには思える。
部屋の天井の空が夜空になり、辺りが暗くなったせいだろうか、急に疲労感と眠気に襲われた。
不思議なものだな、なんて思いながら、白くて大きなガブリエルのベッドに横になった。
忘れていた胸と膝の痛みがよみがえって、ちくりと痛んだような気がしたけれど、眼を閉じると、あっという間に眠ってしまった。
give it back to me
屋根裏ネコのゆううつ