2日前から行方知れずになっていた友人を、夜8時頃に、彼の家の近くの交差点で見かけた。
それは、よろこぶべき事ではないのだろうか。
すぐにでも声をかけて呼び止め、無事を確認する。
「おまえ今までどこへ行ってたんだよ、みんな心配してたんだぞ」
それでいいのでは。
でも、アイの反応は、違った。
違う、どころか、かなり異様だった。
まるで、何か世にも恐ろしいものでも見てしまったみたいに、がくがくと全身を震わせていた。
顔面蒼白で眼を大きく見開いているけれど、その眼は何も見えていないかのよう。
仮に、夜の交差点に佇む僕の姿を発見したのが、アイではなく僕やLだったとしたら?
僕らならば、それに、恐れにも似た感情を抱くのもわかる。
僕の意識が今、自分の体を離れて黒ネコのNの中にいることを、僕らは知っているから。
どこかで眠りについているはずの僕の体、意識のないその体が、目を覚まして夜の交差点に立っている。
何故そんなことが起きているのか。
その体を操っているのは「誰」なのか。
そんな恐怖ならば、あり得るだろう。
けれど、アイはそれを知らない。アイにとって僕は、ただ2日前から行方不明になっているだけ、だ。
僕が目覚めていることに疑問を抱くはずもなく、むしろ探し求めていたその姿をついに見つけたのだから、うれしさこそあれ、恐れを抱く謂れは何もないはず。
それなら何故、アイはこんなにも怯えているのだろう。
震えるほど、アイを恐れさせているものはいったい何なのだろう。
Lは、黙っていた。
黙ったまま、いぶかしむような、何か考え込むような眼で、じっと目の前のアイを見つめ、彼の言葉の続きを待っていた。
震えながら、アイは口を開いた。
「俺は・・・俺は、すぐに声をかけようとして、何故かためらった。なんでかはわからねえ、何か「違う」気がしたんだ」
何か「違う」
違和感、だろうか。
アイは、一見鈍そうなイメージがあるけれど、実は繊細で意外と鋭いところもある。
あの工事現場で、遠くに立つ謎の細長い人影を最初に見つけたのは、アイだった。
黒い土の地面に、前を歩いていた僕よりも先に同じような黒っぽいマンホールがある事に気づいたのも、アイだ。
そんな彼が感じた違和感ならば、信じられる。
それは、ただの勘違いや思い過ごし、ではないのかもしれない。
「あいつは・・・、キクタは、あの駐車場の方から、歩いてきたみたいに見えた。体はこっちを向いていたけど、顔は横を向いて、あの工事現場の塀の方を見てた。顔が横向きだったせいで、いやでも目についたんだけど、でっかい、大人用のヘッドホンみたいなのを頭につけてた。なんだか古めかしいデザインのごつい黒のヘッドホンだ。キクタがそんなもんを付けてるのは、今まで見たことがなかった。違和感の正体は、それかと思って、俺はその場で、大声であいつの名前を呼んだ。「おい、キクタ」って」
震える声で、それでも、できる限り正確に、見たものをすべて、思い出して伝えようとしてくれているのだろう。
じっと震える自分の手を見つめたまま、アイは話し続けた。
「あいつは、すぐにこっちを向いた。くるっと自然な動作で。街灯の灯りがあいつの後ろにあったせいで、顔の表情は影になっててよく見えなかった。信号の赤い光があいつの眼に映ってて、影になった顔の中で、赤い眼だけが光ってるみたいに見えた。その時信号が青に変わって、あいつの眼の中の光も青になった。俺は、迷わず駆けだしたよ、あいつに向かって、横断歩道を。市街地の方から大通りを車が近づいてくる音がして、それでもこっちが青だから、俺は止まらずに走った。念のため、左を向いて、近づいてくる車のライトが、交差点で止まるのをちらっと確認して、すぐに前を向いたら、そしたら、俺の目の前で、あいつが、消えた」
そう云って大きく息を吸い込んで、アイは震える両手で頭を抱え込んだ。
目の前で、消えた?
「その時の距離は?おまえ、どれくらい近づいてたんだ?」
Lがそう聞いた。おまえ、靴のサイズ何センチだ?とでも聞いているみたいに、普段通り冷静なLの声だった。
「二車線の大通りって云ったって、そんなに道幅は広くはねえ。俺は走ってたし、ほとんど渡り終えるくらいまで近づいてた。急に目の前からあいつが消えたのにびっくりして、立ち止まったらもう向こう側の歩道に着いてたくらいだ。だから、ほんとに目の前だ。お互いに、手を伸ばせば、届くくらいの」
震える両手で頭を抱えたまま顔を上げて、アイはそう答えた。
手を伸ばせば、届くくらいの、目の前にいた「あいつ」が消えた
ひょっとして、アイは、幽霊でも見たと思っているのだろうか。
僕がもう既にどこかで死んでいて、迷える霊が彼の前に現れた、とでも。
けれど、それは怖いだろうか?こんなにも怯えて、体の震えが止まらなくなるほど?
人それぞれかもしれないけれど、例えば亡くなった祖母の霊が眼の前に現れたとしても、僕は少しも怖くはないし、むしろうれしいくらいかもしれない。
アイが目の前で見たのは、「キクタ」だ。身長130cmの、小学2年生の、子供だ。
幽霊だと思い込んでいるとしても、そんな小さな子供が、怖いものだろうか?
「怖いもの知らずの人生80年のベテランと比べたらね、彼がかわいそうだ。幽霊だとか何だとか、ではなく、何だかわからないものに対する、恐怖じゃないかな。説明のつかないもの、理解ができない現象に対する、人間の根源的な恐怖というか」
ガブリエルが、小声でそう解説してくれる。
なるほど、それならわからなくもない、かな。
暗闇だとか、何か得体の知れないものに対する、云いようのない恐怖なら、僕にも確かに身に覚えがある。
かすかにふうと息をついて、Lが
「おまえ、相当疲れてただろうしな。前の日もほとんど眠れなかったんだろ?Kを探さなきゃって強い思いが見せた幻覚か、あるいは信号待ちの間に一瞬眠ってたとかじゃねーか?」
アイを労わるような、やわらかな口調でそう云った。
Lの言葉は、アイに逃げ道を提供するためのもの、だったのかも知れない。
疲弊し混乱し怯えきった彼の意識のための逃げ道。
「夢か幻覚だろう」そう思うことで、せめて少しは、アイの疲れ果てた心が救われるかも知れない、そのためのもの。
それに、信号待ちの間に一瞬でもあるいは数秒でも、眠っていたのかもしれないという説には、僕も賛成だった。
なんだか古めかしいヘッドホンをつけてたとか、目の前から消えたとか、どうも夢っぽい感じがしなくもない。
けれど、
「幻覚?眠ってた?いや、そんなんじゃねえ」
がばっと体を起こして、アイはそう云い、激しくかぶりを振った。
そして、何か苦行に耐えるような表情で、頭から離れた両手を、ぎゅっと強く握りしめている。
「俺は確かに呼んだんだ、あいつを。「おい、キクタ」って大声で。そして、あいつはこっちを向いた。あれが、幻覚?俺は、眼を開けたまま、夢でも見てたってのか?」
「それは、オレにはわからねー。見たのはおまえだからな。オレはおまえの話を聞いただけ。話を聞いて、そう思った。それだけ。どっちが正しいとかそういう話じゃねーんだ」
Lが諭すようにそう云うと、アイは「ああ」と力無くつぶやいて、また、下を向いて頭を抱え込んでしまった。
「それで、その後おまえはどーしたんだ?」
Lが静かに尋ねる。
下を向いたままアイはゆっくりと口を開いて、
「俺は、その辺りを探したよ。目の前にいた人間が、パッと一瞬で消えるはずがねえ。どこか灯りの届かない影の中に身を隠したか、その辺の草むらにでも隠れてるんじゃねえかって。でも、交差点の、大通りの歩道だ。あの道は、歩道だけは立派なんだ。広くて、街灯も明るくて、隠れる場所なんてねえ。草むらはたしかにジャングルみてえな深さのがあるにはあるけど、一瞬で身を隠すには距離がありすぎる。俺はあいつの姿を探しながら、大声で何度もあいつの名前を呼んだ。でも、それっきり、あいつはもう、二度と姿を見せなかった」
なるほど、と思った。
アイは、一晩それを抱えて、これほど憔悴していたのか。
その理由には、納得できた。
けれど、
これは、どう捉えるべきだろう。
疲労困憊しきったアイの意識が見せた、「夢や幻」の可能性は確かに高いと思う。
でも、アイが夢と現実の区別もつかないほど、鈍い子だとは僕には思えない。
どんなに疲れ切っていたとしても、夢なら夢だと気づくことができる子だと思う。
そのアイが、これほど憔悴するまでに思い悩むというのは、けっしてそれは夢や幻ではなかった、という事なのでは。
確かな現実感をもって、アイの目の前に立っていた。そして、消えた。
だとすると、ヌガノマ?
あいつが僕の体の中にいて、あの工事現場の駐車場の方から交差点へと姿を現し、あの塀を眺めていた。
そこへ急に大声で呼びかけられ、慌てて姿を隠し、逃げた。
でも、「消えた」というのが、わからないけれど。
そこだけは、アイの見間違い、だろうか。
アイが眼を離して、車道を確認していた隙に、草むらへ身を隠した。
だからアイが視線を戻した時には、もう目の前にはいなかった、とか?
「それで?」
Lが話の続きを促す。
けれど、その後のアイの行動は、僕にはなんとなくわかるような気がした。
「俺は、しばらく辺りを探してるうちに、だんだん、自信がなくなってきた。おまえの云うように、かなり疲れてたのもあるし、妄想の幻覚か、夢でも見たのかとも、その時は、思った。そこからもう一度キクタの家へ戻って、親父さんに知らせるべきかとも考えたけど、そんな夢とも何ともつかねえ曖昧な情報で、あの人たちを振り回すわけにはいかねえ。そう思って、そのまま、自転車を取りに駐車場へ行って、家に帰ったよ。また明日、明るい時間に、探しに来よう、そう思って」
やっぱり、だった。
でも、それでよかったと思うよ、お兄ちゃん、ありがとう、と思った。
そんな曖昧で不確かな情報を伝えて、うちの両親を振り回すようなことを、アイは嫌うだろうと思った。
そうしてひとりで抱え込んでしまったからこそ、このやつれぶりなのだろう、とも。
だから、家に帰ってLからの電話の着信を見た時、アイは救いの手が差し伸べられたと思ったんじゃないだろうか。
あの孤高の天才ミクリヤミカエルなら、このわけのわからない難題をどうにかしてくれるんじゃないか、と。
「おーい、そーやってまたハードル上げるのやめてくんない?」
Lが心の声で苦笑してる。
「だからオレ、夢か幻覚じゃない?って安直に受け入れやすそうなイージーモードを提案したのにさー。こいつ、意外と頑固だよなー」
やっぱり、「夢か幻覚」は、Lなりの優しさだったらしい。
でもアイは、単純な筋肉ゴリラではないからね。
単純なところも確かにあるけれど、見た目に反して意外と繊細で、僕よりはるかに注意深い面も持ってる。
そして、誰よりも仲間を大切に思っている、やさしいお兄ちゃんだ。
だからこそ、
僕の言葉を、ため息まじりにLが引き継いだ。
「夢や幻覚ではありえねー、か。あーあ、厄介だけど、どうやらそう考えた方がよさそうだなー」
厄介
確かに、考えられる可能性の中では、それが一番厄介かもしれない。
僕の体を、いま、あのヌガノマが動かしている、のだとしたら。
「K!L!」
ずっと黙って話を聞いていたJが、不意に大声で僕とLを呼んだ。
ばさばさっと僕らの注意を促すように、電車ブランコの支柱の上で、クロちゃんが羽ばたきをしてる。
思わず上を見上げると、彫像のように動かなかったクロちゃんが大きく羽を広げて、威嚇するように公園の入り口をにらみつけていた。
公園の入り口、止めてあったアイのマウンテンバイクの傍らに、誰かいる。
子供が、立っていた。
あれは?僕では。
一瞬、脳が混乱する。
違う、あれは、僕のように見えるけれど、今は、僕じゃない。
あの日着ていた夏物のシャツに半ズボン、そのままだった。
シャツもズボンもそこら中が泥だらけで、髪も顔も、まるで土の上を転げまわったみたいに汚れていた。
そして、その頭には、古めかしい真っ黒なヘッドホンを付けている。
大人用のヘッドホンが、子供の頭には大きすぎてぶかぶかで、ひどくアンバランスな印象を与える。
Jの声は聞こえていないはずのアイも、突然のカラスの羽ばたきに驚いて上を見上げ、すぐに異常を感じて、公園の入り口へ眼を向けていたらしい。
「あれは・・・、キクタ!」
アイが大声で叫んだ。
真っ赤な電動マウンテンバイクを物珍しそうに観察していた「キクタ」が、その声に気づいたのか、顔をあげてこちらを向いた。
街で友達に声をかけられて振り向いた、ただそれだけのような、ごく自然な動作だった。
夢でも幻覚でもない、ましてや幽霊でもなかった。
「キクタ」は、アイをじっと見て、次に電車ブランコに座るLを見た。
そして、その向かいにちょこんと座ったNに視線を移し、最後に支柱に止まったクロちゃんを見た。
もしや「能力」で見ている?
だとしたら、まずいのでは。Nが見られてしまった。
あいつに「王を見つける力」があるのだとしたら、僕の居場所がばれたことになる。
一瞬の静寂。
誰も動けず、何も云えなかった。
どうする?
ゲーム画面のコマンド表示が頭に浮かぶ。
「たたかう」「にげる」「まほう」「アイテム」
違う、どれでもない。でも、どうすればいいのかはわからない。
あいつは、公園に入れる、はず。
その時、
「キクタ」は、笑った。
何ともこの場には似つかわしくない、ごく普通の笑みだった。
まるで、旧友に再会したみたいな、そんな微笑を、ふっとその顔に浮かべた。
背筋がぞっとした。
アイが動いた。
「キクタ!待ってくれ」
そう叫ぶなり、公園の入り口に向かって走り出していた。
そうだ、唯一、今の状況で動けるとしたら、彼しかいない。
Nは動かせないし、LやJをあいつに立ち向かわせるわけにはいかない。
いや、もうひとり、
ラファエルなら、そう僕が思うよりも早く、
「ラファエル、あいつを捕まえてくれ!」
電車ブランコのベンチから腰を浮かせたLが、素早くそう指示をした。
さっきまでのんびり寝そべっていたラファエルの耳がぴくりと反応して、猟犬としてのスイッチが入ったらしい。
むくっと起き上がるなり、放たれた矢のように飛び出して行った。
「キクタ」は笑っていた。
微笑を浮かべたまま、すっと右手を顔の横まで上げて、人差し指を立てた。
その指先で、とんとん、とヘッドホンを叩いている。
そこから、何かのリズムを、聞いているみたいだった。
あっという間にアイを追い抜いたラファエルが、キクタに迫る。
え?
いや、ちょっと待って、まさか噛みついたり、するの?
「だいじょうぶ、服を噛んで引きずり倒す」
電車ブランコから飛び降りたLが、平然とそう云った。
あ、そうなの。なら、よかった?
その時、
「キクタ」が笑顔のまま、すっと右手を頭上に高々と上げた。
まさか、「認識の喪失」?
いや、でも、あれは、僕らには効かないはずでは。
右手は上げたまま、「キクタ」は、指を鳴らさなかった。
ラファエルが地を蹴って跳んだ。
僕は思わず眼を閉じかけたけれど、だいじょうぶ、噛まれるのは僕だけれど僕じゃない、と眼を見開く。
ラファエルが飛び掛かった場所に、「キクタ」はいなかった。
右手を上げたまま、ふわりと音もなく、2mほど上空に「キクタ」は浮かんでいた。
アイがたたらを踏んで、自分の赤い自転車に激突するようにして止まった。
ハンドルにしがみついて、アイは狼狽えたように左右をきょろきょろ見渡している。
宙に浮いた「キクタ」を見失って、また「消えた」と思っているのかもしれない。
それを空中から見下ろして、「キクタ」は無言で微笑んでいる。
「うそ、どうして、「泡」?」
Jが悲鳴のような声を上げた。
「泡」?
なんでここに「泡」が出てくるのだろう、と思う間もなく、
「あの子、自分の白い「泡」につかまって、飛んでる・・・」
Jがあっけにとられたように、呆然とした様子でそうつぶやいた。
「泡」につかまって、飛んでる?
さっき右手を上げたのは、「泡」につかまるため?
でも、そんな事できるの。
いや、「泡」には干渉できないはずでは。
ううう、と低いうなりを上げて、悔しそうに「キクタ」を見上げていたラファエルが、跳んだ。
止まった姿勢からだったので助走はなかったけれど、それでも垂直に2m以上はゆうに跳んでいる、すごい。
けれど、「キクタ」は空中を水平に移動して、跳び上がったラファエルを悠々とかわした。
おお、という形に口を開いて、跳び上がるラファエルを眺めている。
その表情は、驚いているように見えた。
そのまま、「キクタ」は公園の中へと空中を移動して、故障した噴水の前あたりの地面に、ふわりと着地する。
重力や慣性をまるで無視したような動きだった。
降り立ったのは、いつもNが寝ていた、あの噴水の前だ。
「キクタ」は、まだ笑顔のままだった。
笑みを浮かべたまま、首にかけていた何かをスッと顔に装着した。
昆虫の複眼を思わせるような黒っぽく光る、あれは、ゴーグル、だろうか。
垂直ジャンプを空振りしたものの、ラファエルは、獲物の行方を眼で追っていたらしい。
着地するや否やそのまま間髪を入れず、公園の中へ飛ぶように駆けて、噴水の前に立つ「キクタ」へ飛び掛かった。
すごい運動能力だった。大きな黒い影はまるで黒いつむじ風のよう。
今度こそ、噛まれた、と思った。
わりとお気に入りだったシャツに歯形の穴が開くことを覚悟した、けれど。
まるでフィギュアスケートの選手のように、くるりときれいなターンをして、ラファエルの突進を「キクタ」は軽々とかわした。
そしてそのまま、今度は地面の上を水平に「キクタ」は滑った。速度を落とすことなく、まっすぐに公園の入り口へ向かって、なめらかに滑って行く。
あれは、と云いかけて、慌てて心の口をつぐむ。
「うん。あれは、ボクの「道」の能力だね」
呆然とした様子の、ガブリエルの声がイヤホンから聞こえた。
滑る「キクタ」は、公園の入り口でわずかに速度を緩め、アイの横をすり抜けると、あっけにとられる僕らをまるであざ笑うように、悠々と公園から出て行った。
わざとそうしたのか、たまたま当たったのかはわからないけれど、アイの横を通る時に、自転車にもたれかかるようにかがみ込んでいたその肩を、ぽんと叩いていたように見えた。
なおも「キクタ」を追って駆けだすラファエルに向かって、
「ラファエル、もういい、戻れ」
Lが云うと、ラファエルの足がぴたりと止まった。
獲物を逃した悔しさだろうか、ラファエルはまだ「ううう」と小さくうなりながら、肩を落としてすごすごと電車ブランコの前へ戻ってきた。
電車ブランコを降りていたLが身をかがめて、戻ってきたラファエルの頭をなでた。
しばらく、誰も何も云えなかった。
蝉の声だけが、小さな公園に響いていた。
夢でも幻覚でもなく、僕らの目の前に「キクタ」が現れた。
これ以上ないタイミングで、白昼堂々、余裕の笑みを浮かべながら。
そして、Jの「泡」で空を飛び、
「ボクの「道」で滑って逃げた、だね」
僕が口に出せない部分は、ガブリエルが小声でそう補足してくれた。
「おーい、アイ!おまえ、だいじょぶかー?」
驚きのあまり腰でも抜けてしまったのだろうか、自転車にしがみつくようにもたれかかったまま動けずにいるアイに、Lが声をかける。
「あ、ああ」
ちっともだいじょうぶじゃなさそうに、アイは自転車のハンドルにつかまりながらよろよろと身を起こすと、ふらつくような頼りない足取りでこちらへ戻ってきた。
心労と寝不足と精神的なショックで、アイはもう限界なのかもしれない。
「うん、まあ、その、なんだ」
どう説明したものか、とLは頭をかきながら、
「ひとまず、おまえの見た「キクタ」が夢でも幻覚でもなかったって事が、これで証明されたわけだなー」
困ったような笑顔で云う。
Lは、もう、いつものLだった。少なくとも、表面上は。
すでに彼女の頭の中では、いろんな疑問や推論や考察が猛スピードで飛び交っているのだろうけれど。
アイはため息をつくように
「そう、だけど」
そうつぶやいて、大きく息を吸い込んでから、
「あれ、いったい何だ?キクタじゃねえのか?な、なんで、あんな、と、飛んだり・・・」
またため息をつくように、ほとんど声にならない声で云った。
今にも、頭から湯気でも出しそうな顔を、アイはしていた。
困惑して、混乱して、疲労と睡眠不足も重なって、今にも倒れてしまいそうだ。
Lは小さく肩をすくめて、
「わからねー。隕石のパワーとか?なんかそーいう未知のアレかもしれねーなー」
投げ出すように、云った。
そんな適当な、と思ったけれど、意外にも、アイには効果的だったようで、
「い、隕石?・・・な、なるほど、そうかもしれねえな。・・・さすがミカエルだぜ」
そう云ってアイは、また大きく息をついた。どうやら、納得したらしい。
いや、納得した、というより、もう精神的にも限界で、脳が心を安定させるために、無理矢理にでも納得させた、という感じだろうか。人間って不思議だ。
それに元々、アイはそういうなんとかファイル的な、海外SFドラマのような話が好きだった。それもあって、Lの適当な?隕石パワー説が腑に落ちた、あるいは納得しやすかった、というところなのかもしれない。
「おう。まあそーいうことだから、ひとまず、おまえ、今日はもう帰って休め。おまえがぶっ倒れたらそれこそたいへんだからなー」
Lはアイを見上げてひらひらと左手を振り、
「隕石パワーで少々おかしくなってるとは云え、Kが元気で生きてるのはわかったんだし、一安心だろ。あとはオレに任せろ、ちょっといろいろ調べてみる」
右手で足元に寝そべったラファエルの背中をねぎらうようになでつづけながら、そう云った。
少々おかしくなってる、どころではないのだけれど、元気で生きてる、のはまあ間違いない、よね。
「ああ、でも・・・、いや、おまえの云う通りだな。俺が倒れたら誰も背負って運べねえだろうし、今日はおとなしく帰って休むよ」
疲れ果ててやつれてはいるものの、アイはLの言葉に少し安心したのだろう、わずかにだけれど、表情が和らいだようだった。
「そのかわり、力仕事が必要になったら、いつでも、俺を呼んでくれよな」
今にも倒れてしまいそうなくせに、そんなことを云うアイの眼の奥には、力が込められている。
仲間を守りたい、力になりたい、そんなアイの思いだけが、その両眼の底でまだ燃えているようだった。
本当に、いいお兄ちゃんだ。
それにやっぱり、仲間って大事だなと思った。
ひとりで背負い込める量には、どうあがいたって限界がある。
でも助けてくれる仲間がいれば、疲れ果てていてもまだ勇気が湧いてくる。
「おう、アテにしてるぜー」
そう云ってLはニッと笑って、アイに片手を上げて見せた。
アイもぎこちなく微笑んで、力なく手を上げて見せる。
ふらりとよろめくように、公園の入り口へ向かって歩き出しかけて、アイはこちらを振り向いた。
「あいつ、さっき」
云おうかどうしようか、という風に少し口ごもってから、
「俺の横を通りながら、肩をぽんって、叩いて行ったんだ。なんて云うか「おつかれ」みたいな感じで、軽くぽんってさ。だから、あいつ、だいじょうぶだよな。ちゃんと元通りに帰ってくるよな」
問いかけ、というより、自分自身に云い聞かせるように、そう云った。
「ああ、だいじょぶ。ちゃんと帰ってくるさ」
ふふっと、Lは笑った。
なんだこいつ、いいやつじゃねーか、そう云うみたいに。
「ああ、そうだよな」
アイもそう云って、疲れた顔にもう一度無理矢理笑みを浮かべてた。
そしてまた前を向いて、ふらふらと頼りない足取りで、アイは歩いて行った。
真っ赤なマウンテンバイクに乗り、よろめくように走り去るアイを見送っていると、チャイムが鳴った。
17時のチャイムには、まだ早い時間のはずだけれど。
それに、いつもと少しメロディが違うような、と思いかけ、すぐに理由がわかった。
「ハイノ市警察本部よりお知らせいたします」
女性のアナウンスが云った。
「市内ニュータウンに住む小学2年生、スズキキクタ君の行方がわからなくなっております。キクタ君は身長130cmくらい、デニムのシャツと紺色の半ズボンを履いています。見かけられた方は、お近くの交番、または市警本部までご連絡ください。繰り返し、ハイノ市警本部よりお知らせいたします・・・」
アイから聞いていた、市内の放送だった。
でもまさか、フルネームで呼ばれているとは思わなかった。
「個人情報うんぬんより、人命優先ってことかねー」
困ったような顔で苦笑しながら、冷静にLがそう解説してくれた、けれど。
たいへんな事になってしまった、という感覚は、それはもちろんあるのだけれど、それよりも、なんだろう。
どこか、他人事と云う気がした。いや、本人なのだけれど。
「これ、だいじょうぶかな。もしあの子が目撃されたりしたら、通報?されるよね、きっと」
Jの言葉に、はっとした。
そうだ、僕はここにいるけれど、ここにいる僕は今、Nの中なのだった。
僕の「体」は、あいつが勝手に飛んだり滑ったりしている。
「いや、いくらあいつでも、さすがに人目につくような場所で、飛んだり跳ねたりは・・・してたな、さっき」
Lの顔から苦笑が消える。
あいつが、あの「ヌガノマ」の姿のままなら、当然、人目を避けるだろうけれど、今は違う。
そう考えて、何か違和感に突き当たる。
ヌガノマが人目を避けて地下に潜んでいたのは、ガブリエル、つまり「王」を狙うため、だったはず。
狙う?
狙っていたのは、「王の力」なのだろうか、それとも「王の命」だったのだろうか。
「んー、そこははっきりしてないんじゃなかったか?おまえの話じゃ、あいつはルリおばさんに「オマエモ殺ス」とは云ったけど、おまえを「殺ス」とは云ってないんだよな?おまえと云うか、あいつ的に云えば「ガブリエル」を、ってことになるけど」
Lが険しい顔で指摘する。たとえ仮定の話でも「ガブリエルを」と口にすれば、それは嫌な気分にもなるのだろう。
確かに、あいつには、はっきりそう云われてはいなかった。
胸を踏まれて動けなくされ、首を絞められはしたけれど「殺ス」とは云われていない。
殺意は多分にあったように感じたけれど。
それから、ルリおばさんに云った「オマエモ」という言葉から、僕を殺してルリおばさん「も」殺す、なのだろうと僕が解釈しただけだ。
言葉の意味だけでいえば、ルリおばさんも殺すけれど、他の誰かも殺す、と云っただけで、それは僕なのかもしれないし僕ではない他の誰か、例えばキクヒコさんを指していたとしても意味は通じる。
8年前、ガブリエルを誘拐したヌガノマの目的は、「王=ガブリエル」と「身代金」だった。
その時は、まだ多少は人間性が残っていたため、お金に執着があったのでは、というのがN(ガブリエル)の見解だ。
2日前に僕をあの地下道に誘い込んだ目的は、「王=ガブリエル」だけ。
そしてあいつは、まんまと僕の体を手に入れた。
そう考えると、あいつがほしかったのは「王の力」で、「王を殺す」のが目的だったわけじゃない事になる。
首を絞めたのは、気絶させるなりして、体を奪いやすくするため、なのだろうか。
あいつは、そもそも、意識を移す方法を知らない可能性が高い。
もし知ってるのなら、あの眠りで動物の体に意識が入っても、数週間で自分の体に戻れるはず。何年も、それこそその動物が寿命を迎えるまでじっとその中にいるわけがない。
だから、あいつは独自の勝手なやり方で、今までも能力者を気絶させては、体を奪っていたのかもしれない。
相手が気絶していれば、自分の体を安全な地下に置いた状態で、そこで相手の体に入ることができるはず。
だとすると、やっぱりあいつの目的は「王の力」を手に入れる事だった。
「そして、ついに手に入れた。そんで、それが何しに、オレたちの前にわざわざ姿を現したんだ?」
Lが云う。
そう、まさにそれが、違和感なのだった。
give it back to me iv
屋根裏ネコのゆううつ