いつのまにか、繰り返して流れていた市の放送は終わっていたようだった。
蝉の声と、路地と民家を隔てた向こう側の大通りを走る車の音が聞こえる。
それ以外、何の物音も聞こえない、いつも通りの静かな公園だった。
「やれやれだぜー」
沈黙を破るように、Lがいつもの陽気な調子でそう切り出した。
「とんでもねー宿題を、山盛り出されたような気分だよなー」
そう云ってLは頭の後ろで手を組み、ベンチにもたれて空を見上げる。
宿題?
Lの何気ない例えに、僕は不意に現実を思い出してしまった。
夏休みの宿題、まだ半分も終わらせていない。
「あ、わたしも」
Jもぽつりとそうつぶやいて、黙り込んでしまう。
これもひとつの、現実逃避、だろうか。
にわかには信じがたい眼の前の現実からの、思考の逃避。
終わらない宿題
けれど、僕らに突き付けられた「現実」は、それよりもはるかに難題なのかもしれない。
「はっはー。じゃあおまえらも、仲良くあと半年ほど寝てればいいんじゃね?」
Lはそんな妄想を軽く笑い飛ばしてから、
「まあ、冗談はさておき、さっきのあれ、いったい何なんだ?あいつ、オレたちを挑発してんのかな?」
僕らを現実に引き戻して、ふん、と鼻息を荒げている。
挑発
云われてみれば、確かに挑発のようにも受け取れる。
わざわざ僕ら全員が揃っている場所へ、文字通り白昼堂々、姿を現すだなんて。
そして、あいつは余裕の微笑を浮かべながら、その「能力」を見せつけて悠々と去って行った。
「能力」を、と云うより、「能力の差」を、だろうか。
「お?挑発のように「も」?ってことは、Kは別の見方をしたって事かー?」
Lが興味深そうに顔をこちらに向ける。
別の見方
僕は、何か試運転のように感じた。
デモンストレーション的な、もの、かな。
あの体を使って、どんなことができるのか、まずは試してみた、そんな感じだろうか。
「ふむー。あれが「王の力」なのかな?あんな風に、空を飛んだり、するするっと滑るように移動したり?」
Jの疑問も、もっともだった。
あれが「王の力」
もしそうならば、あいつの目的が、最初から僕の「体」だったとしてもうなずける気がする。
僕の体、と云うより、先代「キクタ」の器、だろうか。
あんなすごい「力」が宿っているのは、明らかに僕の体ではなく先代の器の方だろう。
「試運転、ね。確かになー、あんだけいろいろできるとなったら、そりゃあれこれ試してみたくなるだろーなー」
Lが腕組みをしてうなった。もしも、Lがあんな「力」を手に入れたとしたら、きっとそうなのだろう。僕もたぶん、いや、誰でもそう思うのかもしれない。
でも、それをわざわざ僕らの前で見せつける必要があるだろうか。
試運転だけなら、どこか人目につかない場所、それこそあの塀の中の広い工事現場でも思う存分できるはず。
僕らにあれを見せる意味は、やっぱりLの云うように挑発なのかもしれない。
捕まえてみろと云わんばかりの、あの余裕の笑みもそう。
「それな。ふつーにKの顔で笑ってるだけなのに、なんであんなに憎たらしい感じがすんだろーな。かわいくねーやつだぜー」
ふん、とまたLが鼻を鳴らすと、
「ちょっと、L?Kは憎たらしい顔なんかじゃないでしょ、かわいい顔だよ」
まじめなJが、すかさずまじめに?指摘する。
「いやだから、なんでおまえはそう、人の話をつぎはぎに解釈するんだよ?Kがかわいくねーなんて、オレは一言も云ってねーだろ」
Lはあきれ顔で少し肩をすくめて、またすぐに真顔になって話を元に戻す。
「そう云や、あいつ、何か付けてたよな。アイの云ってたヘッドホンもそうだけど、途中で何か顔に、アイマスクか、グラサン?いや、ゴーグルみてーなもん?なんだありゃ」
Lの云う通り、ヘッドホンとゴーグルのように見えた。
その意味とか意図は、さっぱりわからない。
まさか、変装のつもり、ではないと思うけれど。
ぴこん、と何か閃いたのだろう、Jが云う。
「きっとあれだよ、「能力」をパワーアップさせるアイテム?みたいな」
人差し指を立てるいつものポーズは残念ながら見えないけれど、きっとクロちゃんの中で、いつものあのポーズを決めているに違いない。
「あれを付けると、Kの「音」がもっとよく聞こえるとか、「線」や「泡」がもっとよく見えて、空飛んだり滑ったりするのに使えるようになるとか?」
Jのふんわりとした自由な発想も、今回ばかりはあながち間違いとも云えない気がする。
「王」とはいえ、素のままではすべての「力」を使うことはできないのかもしれない。
あのアイテムを装備することによって、それを可能にしている、とか、なのかも?
「んんー?だとすると、必要なのはKの「体」じゃなくて、あのアイテムってことにならねーか?体は、誰でもよかったってことか?だいたい、そんなインチキアイテム、どっから出てきたんだよ。あいつが元々持ってた?いや、そりゃねーな。だったら最初から使ってそうなもんだし。じゃあ、あれを手に入れるために、「王の力」が必要だった、とかか?」
そうなのかもしれない。
なんとか王の聖剣なんとかカリバーみたいに、正当な後継者のみが手に入れることができる、とか?
あるいは、「王」の体だけが、あのアイテムを使える、とか?
見た目は、なんだか古めかしいヘッドホンと昆虫みたいなゴーグルだったけれど。
「あれ?Kはあんまりいけてない感じ?オレはわりと、いや、けっこーレトロでかっこいいって思ったけど?」
いや、いけてないとかそういう事じゃなくて。
うん、まあ、そんなに気に入ったのなら、もし無事に体を取り戻して、あのアイテムが手に入ったら、僕はいらないからLにあげるよ。
「相変わらずの脱線トリオで、聞いてる分にはとても楽しいんだけど、少し話を戻して整理しようか」
ガブリエルが僕の隣で笑いながら冷静にそう囁いた。
そうだった。つい、いつもの癖?いや、これも現実逃避かもしれない。
受け入れがたい現実から、思考が妄想へと走りがちだった。
ガブリエルの云う通り、話を戻そう。
そう思って、「オレンジの海」へ意識を集中して、コホンとひとつ咳払いをした。
整理してみよう。
僕の体はどこかの地下で「あの眠り」についていたわけではなく、起きて活動していた。
体を中で動かしているのは、おそらくヌガノマの意識、で間違いないのだろう。
あいつが僕の体を奪った理由は、わからない。
けれどあいつは、不思議なアイテムを装備していて、Jの「泡」の「能力」で空を飛んでみせた。
そしておそらく、他にも「力」を使えると思われる。
滑るように移動する「力」と、もしかすると昨夜、アイの目の前から「消えた」のも、何か「能力」を使ったのかもしれない。
ゆえに、あの「アイテム」とパワーアップした「力」を手に入れるために、僕の体を奪った可能性は高い。
手に入れた「力」を使って、あいつが何をしようとしているのかは、不明。
僕らの前から姿を消したあいつが、どこへ向かったのかも、不明。
「ふむー」
Jが、いつもの人差し指をあごに当てるポーズで考え込んでいる姿が眼に浮かぶような気がした。
「さっきの、ほんの1〜2分の間だけの事だから、仕方ないと云えば仕方ないんだけど、肝心なところは全部「不明」だね。こんな状態から、どうやってあの子を探せばいいんだろ。せめて何か、もう少しヒントがあればなあ」
目的も不明、行き先も不明、
確かに、そんなやつをいったいどうやって見つければいいのか、と思ってしまう、けれど。
「うん、「見つける」だけなら、そう難しくねーけどなー」
そう云って、Lは右手の上あたりの空中を指でさしている。そこに「線」が出ているのだろう。
「J以外の、光ってない白い「線」があいつだ、それを追えばいい。ある程度近づければ、あとはJがあいつの白い「泡」を見つけてくれるだろ?」
「あ、そっか。見つけるだけなら、確かにそうだね。じゃあ問題は」
うん、見つけたとして、どうやって僕の体を取り戻すか。
「だなー。空飛べるわ滑れるわって、チート性能すぎじゃね。どうにかうまいことぶん殴って気絶させるとか、身動き取れない状態にしなきゃいけねーわけだけど、なー」
さっきの「キクタ」の動きを思い返すように、Lが公園の入り口から噴水へ、そしてまた入り口へと視線を動かしてため息をついた。
疲労の極みにあったアイはさておき、猟犬であるラファエルの抜群の運動能力をもってしても捕まえるどころか触れることさえできなかった。
そんな相手を、いったいどうやって。
「あ」
ぴこん、とJの人差し指が立った、ような気がした。ひらめいたポーズのJが僕の脳裏に浮かんでいる。
「Lの「線」で縛ってぐるぐる巻きにしちゃう、とか」
「はあ?おまえ、何云ってんの、もうちょっとさー、真面目に考えろよ。ばかなの?」
Lが呆れ顔で肩をすくめて、大きなため息をついた。けれど、
「えー、だって「泡」を掴んで空飛べるんだよ?だったら、「線」で縛るくらいできそうじゃない?」
そう、もしかするとJのひらめきは、案外いい線いってるのかもしれない。
あいつは、ゴーグルやヘッドホンで「能力」が強化されていた可能性も確かにある。
でも、もしそうではないとしたら?
「泡」や「線」には干渉できない。
僕らは、これまでの経験や実験結果からそう決めつけてしまっていたけれど、そうではないのかもしれない。
少し首をかしげたLが、無言でじっとこっちを見る。
そう考えた根拠は、ある。
キクヒコさんの「輪」だ。彼は、あの力を自分の意思で操作、あるいは制御、しているように感じた。
飛びたい時に「輪」を出して、行き先を選んで実行する。
さらにその対象は自分自身だけでなく、僕の意識の入ったNを「輪」の中に入れ、飛ばしたりもしていた。
それに、と心の声を閉じて隣に座るガブリエルを見る。
「うん。ボクの「道」もそう。出そうと思えば出るし、普段はしまっておけるね。人を滑らせたりは、ちょっとやってみたことがないけど、できそうな気はするかなあ」
イヤホンから小声で、ガブリエルがそう同意してくれた。
まじめな顔で僕を見ていたLの表情が、曇ってる。
「ええ、いやいや、だからってオレの「線」で縛るとか、そんな乱暴な」
突然平和主義者みたいになって、Lは胸の前で小さく手を振る。
そんなの無理ですよ、みたいなポーズで。
さっきまで「ぶん殴って気絶させる」とか云ってた同じ口で、「そんな乱暴な」って。
殴るのはアリでも、縛るのはダメなのかな。
Lらしからぬ、根拠が見えない発言だけれど。
「あれ、なんだよ、K。おまえ、そんないじわるな子だったかー?あ、さっき「憎たらしい顔」って云ったからって根に持ってんのかー?」
にやり、とLは笑って、
「まあともあれ、案としたら、確かにアリかもね。「線」で縛れるかどうかは別にしても、「能力」を自由に出し入れできるもんなら、そうしたいよなー。必要ない時は仕舞っておけるんなら、省エネにもなるだろーしなー。うん、試してみる価値はあるかもねー」
右手の上の空中を指先でつつきながら、云う。
「おおー」
「いや、「おおー」じゃねーよ。J、おまえもやるんだよ?まるで他人事みてーに「おおー」とか云って感心してる場合じゃねーから。おまえもちゃんと「泡」で飛べるようになれよ?」
「え、なんで?わたし、もう飛べるよ、クロちゃんで」
「それはクロちゃんが飛べるだけであって、おまえは飛べねーだろ。まず、あいつみたいに「泡」を掴むところからだなー。案外、掴んだら簡単にふわふわーっといけそうな気もするよなー」
楽天的なのか、何か根拠があってそう云っているのか、いつもながらわからないけれど、Lがそう云うと本当に「簡単に」できそうな気がするのが不思議だ。
「ふむー」
クロちゃんが、上を向いて首を傾げている。
Jには自分の白い「泡」が見えているのだろうけれど、クロちゃんにも見えるのだろうか。
「聞いてみりゃいーじゃねーか、ネコチャンに「音」が聞こえてるかどーか?」
なるほど、それはそう。
N、僕の「音」は聞こえてるの?
「ふむ」
Nは難しい顔で、小首をかしげている。聞こえないのだろうか。
「いいえ、聞こえています。思えば、前の「キクタ」の音も聞こえていましたし、キクヒコが中にいる時には彼の「輪」もワタシには見えていました。これまで、当たり前のように「聞こえて」「見えて」いましたので、特に意識した事がありませんでした。只、その「音」の意味するところまでは、ワタシには」
わかりかねます、だね。ありがとう。
聞こえているみたいだ、とLに知らせた。
Jも
「クロちゃんも「見える」って」
と報告してくれた。
「おっけー、じゃあ各自修行開始だなー。2年後に会おうぜー」
ニッとLは楽しそうに笑って云う。
いや、ちょっと待って。2年後うんぬんはいつものよくわからないLの冗談だとしても、
修行って、僕はどうしたらいいのだろう。
Jは「泡」を掴んで飛べるようになる、Lは「線」を操作して縛れるようにする、
でも僕の「音」には、明確な目標がない気がするけれど。
「あれ、そーなの?オレはもう、なんとなくイメージ湧いてるけどね?」
ラファエルの背中をぽんと叩いて体を伸ばし、電車ブランコのベンチへ戻りながらLはいつものにやにや笑いを浮かべてる。
イメージ、
修行の?だろうか。
「そ。ヒントは認識と無意識、かな。たぶん、Jはあっさりできそうな気がするんだよな、さっきの、あの「泡」で飛ぶやつ」
認識と無意識
Jはあっさりできそう?
「え、わたし?」
J自身には、まるでその自覚はなさそうだけれど。
無意識でひとつ思い出したのは、あのお祭りの日、だった。
Jが何度か、僕の頭を無意識にもしゃもしゃした、あれだ。
父からの頭もしゃもしゃ攻撃ならば、僕は、避けるのがわりと得意だった。
けれど、Jの無意識の「頭もしゃもしゃ」を僕は避ける事ができなかった。
何故なら、Jが無意識だったから。
つまり、
「んん?それと、わたしが「泡」で空を飛べるようになる修行に、どんな関係があるの?わたしもKのお父さんの「頭もしゃもしゃ」攻撃を避けれるようにならないといけないの?」
「ちがーう、そっちじゃねーだろ。おまえは、無意識にKの頭をもしゃもしゃ「できる」んだろ?だったら、無意識に「泡」で空も「飛べる」だろ」
認識と無意識。
「泡」や「線」には、手で触ることができない。こちらから干渉することはできない。
それが、僕らの認識だった。そう、思い込んでいた。
手をつなぐと心の声で会話ができる。
それも、僕らの認識だった。手を離すと、心の声はつながらない、そう思い込んでいた。
けれど実際には、手を離しても僕らは心の声で会話ができる。現に、今できている。
何故なら、オレンジの海、つまり僕の意識空間に無意識のうちにつながっているから。
「うん。何かルールは必要だと思うけどな。決まり事というか、目印というか、おまえの云う「補助輪」みたいなもんかな?あの「力」を使う時に「指を鳴らす」とか、そーいうやつ。思い込みの認識を取り払って、無意識にそれを使うための、魔法の呪文みたいなもんかな。「オレンジの海」で云うなら、窓を開けるとつながる、窓を閉じるとつながりが切れる、みたいなもん」
Lの青い眼がきらきら輝いている。Lの中で、何かがぐるぐると高速で回転しているのだろう。そのきらきらには、素敵なおもちゃを見つけた子供みたいに、文字通り「眼を輝かせて」いる、というのも、もちろんあるのだろうけれど。
「ふむー」
Jはきっと、今ごろ彼女の素敵なお庭で、あごに人差し指を当てるいつもの考え込むポーズで、「オレンジの海」につながる窓と自分の頭の上の「泡」をにらみつけているのだろう。
「ひょっとしたら、あいつのあのゴーグルとヘッドホンも、実は魔法のアイテムでも何でもなくて、ただの目印なのかもだなー。あいつがいろんな力を使えるのが「王の力」なのかどうかはさておき、いろんな力を同時に使うための目印、補助輪、魔法の呪文、そーいうもん」
確かに、そっちの方が説得力はあるかもしれない。
あの古めかしいぶかぶかのヘッドホンや昆虫の眼みたいなゴーグルが、すごい秘密のアイテムだとは思えないけれど、ただの目印なのだとしたら、うなずける。
古めかしい?ぶかぶか?・・・大人用?
もしかしたら、あれは、先代「キクタ」の持ち物だったのでは。
どうしてそれを、あいつが持っているのかはわからないけれど。
「はっ」と息を飲むような音が、イヤホンから聞こえて思わず隣の助手席を見た。
驚いた顔のガブリエルが僕を見ていて、目が合うと照れくさそうに笑った。
「あー、ごめん。キミの名推理に思わず息を飲んじゃったよ。先代「キクタ」のもの、かあ。なるほど、十分あり得るよねえ」
囁き声でそう云って、気恥ずかしそうにガブリエルはふっと眼をそらした。
「あーなるほどなー。確かに、相当な年代物に見えたもんなー。だとしたら先代おじいちゃん、なかなかセンスいいよなー」
Lは、何か少し違うところで感心していたけれど。
Nは見たことがなかっただろうか、あのヘッドホンとゴーグルを。
「さて」
とNは何やら考え込む様子だったけれど、やがて小さく首を左右に振った。
「云われてみれば、どこかで見たような気もしますが、はっきりとどこで誰が、とは思い出せません。只、アナタの云う、先代キクタのものかも、という考えには、ワタシも概ね賛同いたします」
常に付けて歩いていた、というわけではなかったのかもしれない。
能力の研究や何かのために、その時だけ付けていた、とか。
だとしても、あいつが何故それを知っていたのか、あるいは覚えていたのかという点は、変わらず疑問のままなのだけれど。
「おおー、K 、L、見てー。わたし、飛べたよー」
Jの楽しげな声が聞こえた。
わたし、飛べた?
クロちゃんはもちろん飛べるのでは?
と、見上げてみたけれど、クロちゃんは電車ブランコの支柱の上に止まったままだった。
「違うぞ、K。海だ、海」
今にも頭を抱えそうな苦い顔でLが云う。
海?と振り返る。
カーテンの開いた窓の向こう、オレンジと黒い染みのまだらに入り混じった空を、何か白っぽいものがふわふわ飛んでいた。
え、あれが、J?
ぱちんと指を鳴らして、ガブリエルが窓を近づけてくれた。
絵的にはすごく奇妙だけれど、向こうの壁から、窓枠だけがこちらに近づいてきて、海の風景がよく見えるようになった。
オレンジの海の砂浜で、片手を上げたJが、ふわふわと楽しそうに空を飛んでいる。
白いワンピースの裾を、ひらひらと風になびかせながら。
「おい、あいつにどう説明すりゃいいんだ?K、あとは頼むぜー」
大きなため息をついて、Lは盛大に匙を投げ出した。
なんで僕に、丸投げするの。
どう説明すればいいのだろう?
L風に云うなら
「はあ?おまえ何云ってんの?意識空間に意識の体で入ってんだから、空くらい飛べるに決まってんだろ」
だろうか。
それは、そう。
意識空間では「なんでもあり」なのだ。
あの海でなら、空を飛ぶことは、Jはもちろん、僕にもLにもできるはず。
そう説明をすれば、Jもきっとわかってくれるだろう。
「あ、なあんだ、そういうことかー」と少しがっかりしながら納得するに違いない。
いや、でもこの際、
説明は、もはや不要なのでは、と僕は思った。
「うわ、どーした?いよいよおまえまで匙投げるのか?まあわかるぜー、あんな年中お花畑みてーなやつには何云っても無駄だよなー」
はっはーとLはヤケ気味に笑い飛ばしたけれど。いや、そういう意味ではなくて。
今、Jの無意識の領域に「わたし「泡」で飛べる」と書き込まれたのだとしたら、それはもうそのままでいいのではないだろうか、と思った。
Jが無意識にそう思えているのなら、もとの体に戻っても同じように無意識に「飛べる」はず。
「ほう、なるほどね。云われてみりゃそーだな。それでお互いシアワセだしなー」
Lは普通にそう云ったのだろうけれど、云われてみて、ふと気になった。
いや、僕は、冷たすぎるだろうか。
お互いシアワセ、丸く収める、そのために、何だかJの純真な心を蔑ろにしているよう、なのでは?
「うーん、気にしすぎじゃないかな。冷たいとは思わないし、Jを蔑ろにもしてないでしょ。ちょっと子供らしくない、どちらかと云えば大人みたいな対応かなとは思うけど」
イヤホンから、ガブリエルがそう云ってくれて、そう、かな、と、多少は気が楽にはなった、けれど。
「それより、K。今の話、Jにはまったく聞こえていないみたいだけど、キミ、何かしたの?つまりその、Jへの通話を一時的に切った、とか?いつの間にできたの?」
ガブリエルの言葉に、ハッとした。
云われてみれば、冷たいうんぬんよりも、今の話がJの耳に届いていることの方が、はるかに失礼な話では。
慌てて窓を振り返ると、Jは空を飛ぶのにも満足したのか、ふわふわと砂浜に降り立ち、自分の窓へと戻っていくところだった。
僕とLの無礼な物云いに腹を立てている風には、少しも見えなかった。
あるいは、空を飛ぶのに夢中で、こちらの話を全然聞いていなかっただけ、なのかもしれないけれど。
「そうなの?キミが無意識に、通話の切り替えができるようになったのか、あるいは最初からできていたのかと思ったけど」
ふふふ、とガブリエルが笑う。
無意識、
もしそうだとしたら、つまり今それが無意識にできていたのだとしたら、それは便利なようで少し不便かもしれない。
今、誰につながっていて、誰と通話を切っているのか、一目でわかるような目印が欲しいような。
例えば、何か、名札のようなものがあってそれぞれランプが付いていて、点灯していたら会話ON、消灯していたら会話OFFみたいに自動的についたり消えたりしてくれるような、そんな目印があれば・・・。
あ、目印。
なるほど、無意識の何かを認識するための目印、だろうか。無意識の認識?ややこしいけれど。
「無意識も意識なのだから、慣れもあると思うけどね。何百人もいるわけでもなし、いま誰とつながっていて、そこから一時的に誰を外して、くらいだったら、慣れればそれほど難しくない気がする」
それは、ガブリエルは天才児だから、
と、つい心の声で云ってしまって、またハッとした。
今度こそ、LやJに聞こえてしまったのでは。
「この意識空間?って便利だねー。イメージトレーニングはバッチリだよー」
海から戻ってきたらしい、Jの明るい声が聞こえた。
意識空間?イメージトレーニング?
あれ、もしかして、J
「あーなんだ、おまえ、練習のつもりだったのね」
Lはそう云って、その後すぐに小声で「K、すまん。オレの早とちりだったわ」と囁いた。
「練習のつもり以外何があるの?Lも基地でやってみるといいよ、「線」で縛る練習」
ふふふ、とJは笑っている。やっぱり、さっきの話も今のLの小声も聞こえていた様子はない。
くすくすとイヤホンからガブリエルの笑い声が聞こえた。
え、つまり、どういう事?
「つまりキミが悩んでる事は、あのふたりにはすでに解決済みって事かな。Jは心配しなくても最初から意識空間で空を飛ぶ「練習」をしてただけだし、ミカエルは誰に云われるでもなく「会話の切り替え」を無意識に使いこなしてる。そしてたぶんキミもね。無意識に、ボクに対する返事をする時にはふたりには聞こえないようにしてるんでしょ。さっきのあれ、ふたりには聞こえてないみたいだし」
云われてみれば、いや、云われるまでもなく、だろうか。
僕はどうも、あれこれ余計なことを考えすぎなのかもしれない。
「まあ、心配性だからねえ」
ガブリエルはそう云ってまたくすくす笑い
「それで、さっきの話に戻るけど、キミの「音」について、どう修行すればいいのか、わかったの?」
そうだった、その話だった。
僕の「音」でいったい何をしたらいいのか。何ができるのか。
「そりゃーおまえ、うーん?さあ、何だろねー?」
Lはまた、あっさり投げ出した。
どうしたの、L?アイみたいに「キクタ」を目撃してどっと疲れちゃったのだろうか。
「いや、違うけど?おまえこそ、アイみてーに「孤高のミカエル様ならなんでも答えてくれる」とか思ってねーだろーな?神サマじゃあるまいし、そんな何でもかんでもお見通しなわけねーだろー?」
Lはいつもの笑顔で肩をすくめて見せる。
「うん、神様ではないけど。でもミカエルなら大抵の事は答えられると思うけどな」
ガブリエルが、聞こえないのにつっこみを入れている。
いや、聞こえないのをいいことに、だろうか。
「音」にできること?何だろう。
すごく、漠然としすぎていて、何も思い浮かばない。
Lがあっさり投げ出す気持ちも、わからなくはないかもしれない。
僕のこの「力」は、どこかの何かの「音」を「聞いて」いる、はずだ。僕が僕の中から「音」を出しているというわけではない。
だから、より厳密に云えば「音を聞く力」で、できること、何ができるか、だろうか。
もしかしたら、「なんでもあり」なのかもしれない。
あの「能力」が、「意識の力」なのだとしたら。
僕らの意識空間が、僕らの思い通り「なんでもあり」なのと同じように、あの「能力」のあり方も、僕らが思い描く通りになる、のでは。
例えば、聞こえた「音」をビームに変換して眼から撃ち出す、とか?
「うーん、面白いけど、それはちょーっと飛躍しすぎだなー。「なんでもあり」には条件があるだろー?」
Lがウィンクみたいに片目を閉じて、ちっちっと指を振っている。
条件
あ、そうか。僕らの意識空間、そのものが条件なのか。
その中でありさえすれば、「なんでもあり」だけれど、
意識の外で「力」を使おうとすれば、当然そうではなくなる。
「うん。「泡」は「泡」のままどうにか使わなきゃだし、「線」も然りだなー。あの「キクタ」も「力」そのものを自由に作り変えられるわけじゃなく、そのままの形でうまいこと使ってる、って感じだったよなー?」
「力」をそのままの形でうまいこと使う
「音を聞く力」をうまいこと使う?
何だか、発想の力とか想像力みたいなものを試されてる感じだ。
「ふむー。いっそ、あの子に聞けたらいいのにね。「音」はどうやって使うのがいいかな、って」
Jがいつもの自由な感じでそうつぶやくと、また隣でガブリエルが息を飲むのが聞こえた。
「ごめん、びっくりした」
ガブリエルはまた、照れたような笑顔で云う。
「Jってほんとに、ひらめきと云うか、天性の何かを持ってるねえ。ある意味、ミカエルよりも天才肌なのかもしれない」
確かに、Jの純真でまっすぐなところは、僕も常々すごいと思っていたけれど。
あの子に聞けたら?
その発想は、なかった。
あいつへの質問が可能かどうかは別にしても、現にあいつは「泡」で空を飛んでみせたのだ。
あの「音」の使い道を知っていたとしてもおかしくはないし、僕らが気づかなかっただけで、実はさっき、すでに使っていたのかもしれない。
「音」を聞いて、あんなにタイミングよく、あの場所へ現れた、とか。
「確かになー。でも、なんであいつがそんなこと知ってるんだ?あらためて今さらだけど、あいつはいったい何なんだ?」
Lの疑問は、もっともだった。
あいつは、80年前の戦争時代の生き残りで、記憶のほとんどを失っていて、ただ「王」への執念のようなものだけで動いている怪人、だったはず。
その執念のようなもので、8年前にガブリエルを誘拐した。
そして、2日前にはルリおばさんを利用して僕を誘い出し、罠にかけた。
それが、今日は、何だか、まるで別人のようだった。
ものめずらしそうにアイのマウンテンバイクを観察して、僕らに友達のような親しげな笑顔を見せた。
そしてラファエルの跳躍力に驚いた顔をして、自転車にしがみついたアイの肩をぽんと叩いて去って行った。
今日のあいつからは、あの暗い執念のようなものが一切感じられなかった。
わけのわからない不気味さはあったけれど、あの時の、殺されるかもしれないと感じるような怖さは、なかったような気がする。
見た目が子供だったから?しかも、僕にとっては誰よりも見慣れた、僕自身の姿だったから、なのかな。
「それも、認識かもなー。見た目がKだった、確かにそりゃ怖くねーよな。片目片腕片足の怪人と半ズボンのちびっこ小学生だぜ。見る側のオレたちの認識もだけど、あいつ自身の認識も変わってんのかもしれねーな。Kの見た目に引っ張られて、暗い執念の部分が、どっか行っちまったんじゃねーか、やつの中でさ」
認識
僕らの勝手な思い込み
あいつが何者なのかについては、ほぼそれだ。
遭遇した時の状況や見た目、そしてN(とガブリエル)に聞いた過去の話から、僕らが想像した「ヌガノマ」という怪しい人物像にすぎない。
直接あいつの話を聞いたわけでも何でもないのだから、あいつが本当はどんなやつで、何を思っているのかは、まだわからない。
いや、本当に記憶をほとんど失っているのだとしたら、もしかしたらあいつ自身にも、もうわからないのかもしれない。
「まあ、あいつの場合はちょっと極端な例だけど、あいつに限らず、みんなそうだけどね?アイだって、今日やっと「案外いいやつじゃね」って思ったけど、それまでは、ただの筋肉ゴリラだと思ってたし。結局、人って自分がわかりやすく理解できる形でしか認識できねーようになってるんだよなー。あーでも、どーにかそれをぶち壊したいんだけどねー、認識の枠を取り払う?みたいな?」
いま思い出したのだろうか、Lは頭のてっぺんでちょんまげに結っていた髪を乱暴にほどいて、ばさばさっと適当にかき回しながら云った。
きれいなウェーブのかかった髪がふわりと広がる。雑に扱われたせいで、少々ぼさぼさになっているけれど、そこは全然気にしていないらしい。
「とは云えだ。あんまりのんびりもしてられねーよなー。ボス戦前にレベルアップはしときたいけど、ほんとに2年も修行するわけにはいかねーしなー」
首を左右に曲げてぽきぽき鳴らしながら、Lは云う。
まさか、
「まさか今すぐあの子を探しに行くつもり?ダメだよ、L」
僕の思ったことは、Jが代わりに云ってくれた。
「今すぐにでも見つけたいのは、わたしも一緒だけど。でも、見つけても何もできないんだったら、意味がないでしょ」
Jの云う通りだった。
Lの「線」とJの「泡」であいつを見つけることはできる。けれど、また空を飛び、地面を滑って逃げられたら、同じ事の繰り返しになる。
Lもきっと、同じ事を思っている。
だからレベルアップしたいし、そのための修行をする時間がほしい、でも、のんびりとはしていられない。
「わかってるよー。気持ちはみんな同じだよなー。だから、どーしたもんか、ってさっきから話がぐるぐる回ってんだよなー」
髪を結んでいたヘアゴムを指先でくるくる回しながら、Lが空を見上げてため息をつく。
本当に?
そう、ふと思った。
本当に、のんびりしていられないのかな。
時間がない、と気持ちが焦るのは、どうしてなのだろう。
何か、喫緊に対応しなければいけないような、そんな重要な事が、僕らにはあっただろうか。
隣でガブリエルが、何を云い出すんだ、という顔で僕をまじまじと見つめてる。
Lも、空を見上げていた顔を下ろして、まっすぐにNを見つめた。Nの中にいる僕を、真剣なまなざしで。
いや、だってひとまず、僕は無事だ。
少なくとも意識はこうして、安全なNの中にいて、元気だ。
「海」も少しずつ回復していて、LやJとのつながりも無事だった。
体も、どこにいるのか全くわからなかった昨日までとは違い、ひとまず無事に五体満足で、元気に動いているのは確認できた。
体がこの公園を出て、どこへ行ったのかは、わからないけれど、探そうと思えば、LとJがいるから、いつでも見つけることはできる。
だったら、何も、慌てる必要はないのでは、と思ってしまった。
もちろん、心配しているうちの父と母には、多少の申し訳なさはあるし、心労で今にも倒れそうなのにここまで来てくれたアイにも、本当に申し訳ないと思う。他にも警察の人とか、よくわからないけれど、市役所の人や消防署の人とか、僕の捜索に力を貸してくれているたくさんの見知らぬ人たちにも、申し訳ない気持ちはある。
でも、だからと云って、
何も今すぐ大慌てであいつの居場所を探して、僕の体を取り戻すために、無謀にも何の策もなく危険を冒してあいつに挑む必要は、全くない。
今日は一見おとなしそうに見えたとはいえ、あいつは、ガブリエルをぐるぐる巻きにして誘拐し、僕の首を絞めて殺そうとしたようなやつだ。
JやL、ラファエルやNをそんな危険にさらしてまで、今すぐそれをしなければいけないとは、僕には思えない。
いやむしろ、僕は、しばらくこのままでもぜんぜんだいじょうぶなくらいだ。
僕はあの日、ラファエルの体で僕を助けに来てくれたLに、「どうしてLは目を覚まさないの」と責めるような事を云ったけれど、今は、あの時のLの気持ちがわかる。
どこにいるのかわからないガブリエルを探すためには、ラファエルの抜群の運動能力と体力がLには必要だったんだ。
だったら、いまの僕も同じだ。
僕は、みんなを危険な目に遭わすくらいなら、ずっとNの中にいたっていいと思う。
それは別に苦行でも我慢でも何でもなくて、僕にとってもその方がはるかにいい事なのだから。
「おい、J、このごちゃごちゃうるせーわがままジジイをどーにかしろ」
真剣なまなざしでNをまっすぐに見つめたまま、Lが怖い顔でそう云った。
「もう着くよ」
Jの声は、何故か後ろから聞こえた。
後ろ?「海」の窓だ。さっき海を飛んでいるJの姿を見ようと、ガブリエルが窓枠をこちらまで移動させてそのままだった。
そう思う間もなく、隣にいたガブリエルが助手席ごとすっと姿を消した。
慌てて椅子を回して振り返る、よりも先に、窓枠からふわりと手が伸びて、僕の頭をもしゃもしゃなで始めた。
Jが左手で白い「泡」につかまって窓際に浮かび、右手を僕の頭に伸ばしてもしゃもしゃかき混ぜてる。
「まったくキミって子は、どうしてそう、時々すごく困ったちゃんになるの?」
Jのハスキーがかったやわらかな声が、尖って、怒っていた。
「怒るに決まってるでしょ?キミがNちゃんの中にずっといたら、みんなが安全だなんて誰が云うと思うの?どこの誰かもわからないような人にキミの体を取られてるのに、どうして慌てる必要がないなんて云うの?」
でも、それは
「でもじゃないでしょ!」
ぴしゃり、とJは云い放った。叩かれたわけではないけれど、叩かれるよりも衝撃があったかもしれない。体がすくみ上がるような衝撃だった。
「K、キミは、わたしの、Lの、大事な仲間なんだよ?そんなに粗末に扱わないで。もっとちゃんと大事にして」
Jは、灰色のきれいな眼に、涙をいっぱいに貯めて、僕の眼をまっすぐに見て、やさしい声でそう云った。
僕の頭をもしゃもしゃかき回しながら。
「そうだそうだー。いやあ、さすがJ、いい事云うねえ」
どこに隠れて見ているのか、イヤホンからしみじみとガブリエルが云う。
「うん。ぜんぶJに云われちゃったから、オレはノーコメントでいいぞー」
ふっふ、とLがいつもの陽気な声に戻って笑ってる。
「わかった、ごめん」
声に出して謝って、眼の前のJにぺこりと頭を下げる。
「うん、素直でいい子だね」
ふふふ、とJはいつもの笑顔になった。
まだ、眼には涙を浮かべていたけれど。
「ね、L見た?わたし、今、あの子より飛ぶの速かったよね?」
照れ隠しのようにふっと上を向いて、Jはいつもの声で明るく云う。
「え、見てないけど。だってオレ、今ずーっとネコチャン見てたし」
照れ屋では負けていないLは、素知らぬ顔でかがみ込んでNに笑顔を向けていた。
「なんで見てないの?もう」
そう云いながら、Jはまだ僕の頭をもしゃもしゃかき混ぜつづけてる。
これももしかして、無意識?なのかな。
「あ、ごめん」
Jは僕の頭からさっと手を離すと、くるりと後ろを向いた。涙を、ぬぐいたかったのかもしれない。
「よし、決めたぞー」
Nのあごの下をひとしきり指でなでてから、Lは身を起こし、
「今日から2日、休もうぜ。あーもう午後だから実質1日半か。まあ明日は丸1日ゆっくり休んで、明後日また始動なー」
そう云って、電車ブランコの上で、バランスを取りながら大きく伸びをした。
明日は休んで明後日始動、
今日が月曜だから、水曜日かな。
「うん。アイにも休息は必要だろうしなー。追跡は体力勝負になるかもだから、水曜はあいつにも声をかけよーぜ。「キクタ」を捕まえるのにも、あの巨漢は役に立つだろ。どーんと立ってるだけでプレッシャーになるだろうしなー」
Lに呼ばれたら、アイはきっと喜んで来てくれるだろう、と思って聞いていたら、
「それに何より、K」
と、Lが云う。
え、僕?
「おまえ、夏休みに入ってから、1日たりとも休んでねーんじゃねーか?」
云われて、はっとした。
いやさすがに1日も休みなしってことは、ないのでは、と思った、けれど。
1日たりとも、とまではいかないけれど、でもあのお祭り以来、どこにも出かけずに家でゆっくり休んだ覚えは、ない、かもしれない。
とても休んでいられるような気分ではなかったし、何かしていないとかえって落ち着かないような。
でも、確かに休みも必要なのかもしれない。
そんなことをぼんやり考えていると、
「せっかくここまで来たし、ね、ちょっとおじゃましていい?」
不意に耳元でJがそう云うのが聞こえ、同時にイヤホンから、またガブリエルが息を飲むのが聞こえた。
「あ、えーと、あの、散らかってる、から?」
我ながら、苦しい言い訳過ぎた。白い部屋は散らかっているどころか、ベッドとテーブルセットと、僕の座るこの椅子以外に家具はない。
「え、きれいに片付いてるけど?おじゃましまーす」
ふふふ、と笑いながら、Jが窓枠を乗り越えて部屋に入って来る。
「なるほどー、窓枠だけ出して「海」とつなげてるのかー」
感心しながら、ふわりと白い絨毯の上にJが降り立った。
どきどきする。
それは、部屋に女の子がいるから、ではもちろん、ない。
ガブリエル、どこに隠れてるの。
尋ねてみたけれど、返事はなかった。
息を殺して身を潜めているらしい。
「ふむふむー、シンプルでいいお部屋だねえ。あ、天井に空が見える、素敵〜」
とてもリラックスした様子で、後ろに手を組んでJは部屋を見渡してる。
僕は、椅子の上でかたまったまま、Jを眼で追うことしかできない。
「あ、なんだ、J、おまえ、Kの部屋に上がり込んでるのか」
窓の向こうには、なぜかLの顔がアップで映ってた。
Nの正面で、顔をのぞき込んでいるらしい。
「うんー、Lも遊びにおいでよー」
邪気のないJの言葉に、ガブリエルの呼吸が止まるのでは、と思った。
「ええ?いや、オレはネコチャンと遊んでるからいいや」
そう云って、LはNの体をひょいと抱き上げたらしい。
窓の視界がぐっと動いて、Lの顔がますます大写しになった。
「わ、L何してるの?どアップになってるよ、だらしない顔が」
Jが口に手を当てて驚き、そそくさと戻って来て、海へ通じる窓に足をかけた。
「Nちゃんがかわいそうだから戻るね、K、おじゃましました」
窓をくぐりながら、僕にぺこりとおじぎをする。
「あ、いえ、お構いもしませんで?」
たどたどしく答えると、Jが窓の向こうから振り返って、
「ね、明日お休みなんだったら、わたしのお庭へ遊びに来ない?ピクニック、しよう」
少し照れたように笑いながらそう云った。
「うん、行く」
間髪を入れず、即答した。
お休みの日にJのお庭でピクニック、
即断即決で「はい」以外の選択肢はない、よね。
「ふふふ」と笑って、Jはうなずき、右手を小さく胸の前で振った。
そして左手を上げて「泡」をつかむと、慣れた動作でふわりと浮かび、そのままオレンジの海を飛んで行った。
「え、何、お宅訪問はもう終わり?もっとゆっくりして来てもいいのよ?」
Lがだらしない笑顔を消して、不満そうに口を尖らせてる。
「Lのふにゃっとしただらしない顔をずっと見せられてたら、Nちゃんがかわいそうでしょ」
もう自分のお庭に戻ったらしい、Jの声が「海」から聞こえた。
ほっと大きなため息がイヤホンから聞こえて、僕の隣に助手席とガブリエルが現れた。
椅子に崩れるようにもたれて、どっと疲れた表情を浮かべてる。
「J、恐るべしだよ。まさか入ってくるなんて。しかもミカエルまで呼ぼうとするし。あの子、実はボクに気づいてるとか、ないよね?」
ため息まじりに云って、ガブリエルは苦笑してる。
気づいてないのが、Jのすごいところな気がする。
ある意味Lよりも天才肌、とガブリエルがいうのもわかる、天性の勘の良さ、とでもいうのだろうか。
それより、ガブリエルはどこに隠れてたの。
僕にはそっちも気になるのだけど。
「隠れてた、というか、透明になってた?もともと意識なんだから眼には見えないはずでしょ。だから、できるだろうって、咄嗟にね」
疲れた笑顔でガブリエルは頭をかいていたけれど、あの一瞬でそれを思いついて即座に実行できるガブリエルも、やはりただものではないのではという気がする。
「いやあ、たまたまでしょ。即断即決で云えば、まだまだキミには遠く及ばないよ」
ふふっとガブリエルは笑い、さて、と椅子から立ち上がる。
「ボクはもう少し休ませてもらうとするよ」
あくびを噛み殺して、そう云った。
そうだった、昨夜は徹夜でパソコンを調べていて、ほとんど寝ていないはず。
ベッドに向かいかけていたガブリエルは立ち止まって、
「うん。それで一眠りしたら、今夜も引き続きNをお借りしてもいいかな。もちろん、キミが寝ている間だけでいいから」
ベッドに向かいかけた足を止めて振り返り、苦笑しながらガブリエルはそう云った。
Nが「承知しました」とうなずく。
僕もそれは一向に構わないけれど、キクヒコさんのパソコンの解読、そんなに難航しているの。
ガブリエルは苦笑したまま、大げさに肩をすくめてみせる。
「想像以上に手ごわいねえ。ある程度整理された「情報」を期待していたボクが甘かったのかもしれないけど」
そう云って少し考え込んで、
「例えで云えば、完成したパズルが何枚か保管されていると思ってたら、複数のばらばらのパズルのピースがひとまとめにされて乱雑に放り込まれてた、って感じ」
ため息まじりに云う。
複数のばらばらのパズルのピースがひとまとめ?
それは、かなり厄介そう。
「うん。キクヒコって、どこかの企業か、大学か、何かの研究機関に勤めてたらしい。その研究レポートやら資料やらが大量に、しかも大慌ててあのノートパソコンに移したらしくて、日付も項目も何もかもがばらばら。さらに、全部英語。やばいでしょ」
研究機関?レポート?資料?
しかも、全部英語?
それは、予想外というか何というか。てっきり、個人用のパソコンなのかと思ってた。中身も、写真とかメモとかそれくらいなのかと。
「ボクもだよ。まあ、個人用には違いないと思う。見るからに、私用で使ってたパソコンに、大慌てで仕事用のデータをまとめて放り込んだ、みたいな感じ。私用の方のデータは大した量じゃなくて、古い写真がいくつかと、SNSか何かのアカウント情報とかのメモ書きが入ってたくらいだった。そっちは、プライバシーもあるだろうし、ささっと眺めて終わりにしたんだけど」
古い写真とメモ書き、たぶん、キクヒコさん個人のもの。確かにそれは、少し気にはなるけれど、のぞき見するみたいであまり気は進まないかもしれない。
「その個人PCへ、研究用のデータを慌てて移したって感じに見える。作業をしてた風ではなくて、一時的に?バックアップ用に?みたいな。そんなデータが、ほんとに大急ぎで適当に放り込みました、って感じでデスクトップを埋め尽くしてた。フォルダだけで100以上あるんだよ。どんなに急いでたのかは知らないけど、それにしても、あまりにも雑すぎる。まるで、地震や何かの災害でも起こって、避難のために最低限必要なデータだけを大急ぎで移しました、みたいな。・・・あれ?」
言葉に出して云ってみて、何かを感じたのだろう。ガブリエルが考え込む。
研究データを慌てて移した、一時的なバックアップ?
何かの災害でも起こって、最低限必要なデータを大急ぎで移した
避難のために最低限必要なデータだけを
最低限必要な?
「それだ、キクヒコめ」
ガブリエルが苦い顔をしてる。
8年前、ヌガノマに体を奪われたルリおばさんを救いに行く前に、キクヒコさんがあの「海」でガブリエルに伝えたこと。
ヌガノマの体を奪う。それで、ルリおばさんは解放されるだろうけれど、キクヒコさんは「海」とのつながりと記憶の大半を失う。だから、「最低限必要なことを伝えとく」そう云って、彼はガブリエルに「情報」を伝えた。
「なんで毎回「最低限」なんだろうねえ。まあ、PCの方はいかにもそう見えるってだけで、実はきちんとパズルを組み立てさえすれば、もしかしたら必要な全部の情報が・・・いや、期待できそうにないなあ」
ダメもとで、ひとつ、思いついたことがあった。
言葉にしようとすると、ガブリエルが
「ダメもとで、わかっちゃったけど、それはボクも考えた。ミカエルでしょ?確かにあの子の力を借りたら、パズルを元通りに組み立てることくらい簡単にできそうだけれど、ねえ。それはダメ」
ガブリエルがうつむいて首を横に振る。
ダメもとだけに、やっぱりダメなのか。
「明日1日休むことにはボクも賛成だけど、それでも今はキミの体を取り戻すことが最優先。キミもJも眠ってる今、ミカエルだけが頼りなんだよ。キクヒコのパソコンの解読は、いつでもできるでしょ。それに・・・」
少し口ごもって、ガブリエルは眼を上げた。
僕の顔を見て、口を開く。
「覚えてる?ヌガノマの「毒」の話。あいつが何か人の精神や意識を侵す「毒」のような能力を持っていて、「海」がダメージを受けたのはそのせいかも、っていうあれ。あの時は、ひとりでそんなにいくつも「能力」を持ってるはずない、って事で「なし」にしてたけど」
はっとした。
あの「キクタ」は、Jの「泡」も、ガブリエルの「道」も使えていた。
「王の力」を手に入れたのなら、そしてその中に「毒」のような能力があるとすれば、それも使えるのでは。
「そう、あくまで可能性だけど、「海」も回復しつつあるからね。その可能性は低いと思う。でも「なし」ではなくなった。だからこそ、キミの体を取り戻すのが最優先って事」
それは、そう。ガブリエルの云う通りかもしれない。
あのパソコンに、何か能力についての詳しい情報や、僕の体を取り戻すヒントになるようなものがあれば、と思ったのだけれど、それを解読している間に、手遅れになったのでは元も子もない。
それにしても、キクヒコさんは、何の研究を仕事にしていたのだろう。
大慌てで乱雑に放り込まれた、100以上のフォルダ、しかも全部英語?
まさか、産業スパイとか、じゃないよね。
ガブリエルは、笑った。
「まさかあ。あんな稚拙で仕事のできない産業スパイは、嫌だなあ。でも、何だろうね。少なくともあのパソコンで作業するためにあの膨大なデータを移した、って事ではないんじゃないかなあ。ほんとに急いで、緊急避難みたいな感じに見える。もとのパソコンが爆発しそうだから、必要なデータを取り急ぎこっちに移して、そのまま持ってきた、みたいな。あるいは、産業スパイじゃないけど、会社のデータをこっそり持ち帰るために、大急ぎでコピーした、とかかもね。だから、正直に云うとまだほとんど中身は確認できてないんだよね。ミカエルだったら、英語もすらすら読めるんだろうけど、ボクはほら、学校も行ってないし」
謙遜かと思ったけれど、そうじゃない。4歳から僕の中にいて、学校へ行ったとしても僕の中で、僕と一緒で小学2年の1学期までだ。英語は、まだ習ってもいない。
Lならばきっと、学校の授業よりも以前に、さっさと独学ですらすらペラペラになっているだろう事は想像に難くない。
「うん。試しにいくつかファイルを開いてみたけど、レポートらしきものでも、前後のつながりもわからないし、数値やグラフがあってもどこをどう見ればいいのか、何のことやらちんぷんかんぷんでね。だからまず、フォルダごとに何となくでも意味の分かりそうなグループと、絶対無理ってグループとを段階的にわけて整理してみた。それだけで夜が明けてたよ。だから、中身の情報については、まだ何にもわかってないんだよね。また今晩もそれに挑むことになるので、Nも引き続きよろしくね。それじゃあボクは、今のうちに少し昼寝させてもらうとするよー」
そう云って、ガブリエルはひらひらと手を振ってベッドへ向かう。
「承知しました。おやすみなさい」
Nの意識がぺこりとガブリエルの背中におじぎをしてた。
ばたんとベッドに倒れ込むガブリエルを見ながら、ふと思う。
研究機関、膨大なデータ、緊急避難、レポートのようなファイル、全部英語、
何だろう、何かが引っかかりそうな気がするのだけれど、まだ、それが何なのかは見えなかった。
「おし、じゃあ休むか」
元気にそう云って、Lが立ち上がり電車ブランコからひらりと飛び降りた。
「ラファエル、帰るぞー」
制服のスカートのポケットから、無造作にぐるぐる巻きにされたリードを取り出してほどき、先端の金具をラファエルの首輪につないでいる。
少し意外な気がした。いつもつながずに歩いているのかと思ってた。
「うん、まあ、いらないんだけどね、こいつ賢いから、勝手にどっか行ったりしないし。これは、なんつーか、建前上?外づら?そんな感じ」
そうかなと思ったけれど、それも含めて、意外な気がした。
Lはあまり、そういう他人の目とかを気にしない子なのかと思ってた。
「うん、全然気にしないけど。強いて云うなら、これも認識だよ、K。大きな黒犬がリードもつながずに歩いてる、そう人に認識させないため、かな」
認識させないため
人目を引かないため?なのだろうか。
「ニュアンス的には近いかな。別にこそこそ隠れなきゃいけないような悪い事するわけでもないけどさ。まあ実験みたいなもん」
実験?
もしかして、夏休みなのに頑なにいつも制服を着つづけてるのも、その実験なの。
「うん。前にもちらっと云ったよね、小学校の制服着てるのはどんなやつだ?っていうあれね」
確かに聞いた。Lを目覚めさせるためにお屋敷へ行った日、だったかな。
あれは、僕が「能力」を使いやすくするための「補助輪」、だけではなく、お屋敷の人たちに対しての認識をサポートするもの、そう云ってた気がするけれど。あの検証がまだ続いていたとは。
「そりゃまあ、ね?ジンセイとはトライ&エラーの連続である、なんて、ジンセイ80年のベテラン相手に云うのもおこがましいけどさ」
ふふふ、とLは冗談めかして笑っていたけれど、なんだろう、Lのすごさの秘密を見たような気がした。
天才に生まれたこと、天に与えられた才能にあぐらをかくのではなく、日々の小さな努力も怠らないすごさ。
優雅に見える水鳥が、水面下で力強く水をかいている、という例えのような。
「うん、おじいちゃんありがと、アタシ頑張る」
Lが小さな子供のように無邪気に云って、かわいいガッツポーズをしてみせる。
またおじいちゃんなの?当分このねたでいじられそうな気がする。
まあ、「おい、やめろ」ってにらまれるよりは、いい、かな。
ふふふ、と陽気な笑顔を見せて、電車ブランコのNとクロちゃんにひらひらと手を振り
「おまえもちゃんと休めよー。ってか、これフラグじゃねーぞ?ほんとに休めよな。まあ、明日はJが見張ってくれるらしいから、だいじょぶだとは思うけど。またひとりでうろうろどっか行ったりしたら、もう知らねーからなー?」
そう云って背を向けると、Lはラファエルを連れて歩き出した。
いや、もう本当にフラグではなく、今日と明日?いやしばらくは?おとなしくしておこうと思った。
これ以上、みんなに心配や迷惑をかけるわけにはいかない。
「ふふふ」とJの笑い声がする。
「ちゃんと反省してるならよろしい。じゃあわたしも行くけど、「窓」開けておくから、何かあったらいつでも呼んでね」
そうか、窓が開いていたら、いつでもつながっているのだから、声をかけるだけでいいんだ。
あらためて、そう考えて、しみじみと嬉しさが込み上げてくるのを感じた。
うん、J、ありがとう。
そう答えると、「ふふふ」と魔法の笑い声を残して、Jの気配が遠ざかるのを感じた。
N、僕らも帰ろう。
そう、Nの意識に声をかける。
僕もだけれど、Nもしっかり休んでおかないと。
Nは今夜もまたガブリエルに付き合わないといけないのだから。
「承知いたしました」
答えて、Nは電車ブランコから飛び降りると、軽快に家へ向かって駆け出した。
give it back to me v
屋根裏ネコのゆううつ