ずっと耳の奥で鳴り続けている音があった。
頭の芯を震わせるように、低く低く響く、鳴り止まない音。
冷蔵庫やエアコンのモーター音のような、お世辞にも心地良いとは云えないノイズ。
それが、ごおんごおんと絶えることなく、僕の頭の中で鳴り続けてた。
ずっと耳の奥で
絶えず頭の中で
正確には、どこで鳴っている音なのか、よくわからなかった。耳を両手で塞いでみても、聞こえる音の大きさに変わりはなくて。
耳で「聞こえている」感覚は確かにあるけれども、外から聞こえる音ではない。それならきっと、僕の頭の中で鳴っている音なのだろう。いつしか幼心にそう結論づけていたように思う。
音は何の規則性もなく、気まぐれに小さくなったり大きくなったりした。
時にはもうほとんど聞こえない小さな虫の羽音くらいになったかと思えば、突然壊れたスピーカーのように頭が割れて粉々に吹き飛びそうなくらいの大音量で鳴り響くこともあった。
その度に僕は飛び上がり、それが就寝中であれば、実際に飛び起きた事が何度もあった。
まだ小さな子供だった頃には、わけもわからず泣き出して、母や祖母を困惑させる事もしばしばあった。
けれど、
「人はどんなことにでも慣れることができる存在」
そう云ったのは、どこか外国の作家だっただろうか、それとも偉いお医者さんとか有名な科学者だったかな。
日常的に、何度も繰り返されるうちに、次第にそれに慣れてしまう。
いつしか僕も、そして家族も周囲の人々も「そういうもの」なのだと、理由や意味はわからないまま、自然とそう思い込むようになってた。
たとえそれがどんなに奇妙な現象であったとしても、いや理解のできない現象であればなおさら、みんなの意思とは関係のないまるで何かを守ろうとする本能のようなものが、彼ら自身をそう納得させているみたいだった。
そして、かく云う僕自身も、そうした周囲の無反応に、次第に「慣れて」いった。
人はどんなことにでも慣れる
いつ終わるとも知れない不規則で無遠慮なノイズにも、ただ延々とその中に置かれ続けていただけで、いつのまにか、やがて「慣れて」しまうもの。
けっしてそれを心地よく思えることはなかったとしても。
そしてそれがいつまでたっても原因不明のままであったとしても。
その「音」には、朝も夜も区別はなかった。
ときどき消え入りそうなほど音量が下がることはあっても、けっして鳴り止むことはなく、僕の体調や心境がどうであろうと、それにも全くお構いなしだった。
音はそれ自体がまるで僕の中に住み着いた別の生き物でもあるかのように、勝手なボリュームと気ままなリズムで、いつもいつまでも、耳障りな不協和音を奏で続けていた。
そんな騒々しいセカイで、あの頃の僕は、それでもなんとなく生きていた。
みんながそうなのではなく、それが僕の頭の中でしか聞こえない「音」なのだと気づいたのは、いつ頃だっただろう。音に「慣れた」頃には、はっきりとそう意識はせずとも、おそらくはそういうものなのだろうと感じていたように思う。
はっきりとそれを意識して「あの音」と向き合うことになったのは、小学2年の初夏、
「J」という妙なあだ名の、やせっぽちの女の子に出会った日からのことだった。
6月のとある月曜日の下校時間、だった。
梅雨の合い間のよく晴れた午後、いつもの北向きの通学路をいつものようにひとりで歩いていると、不意に後ろから、
「ね、2年1組のスズキくん」
大きな声ではなかったけれど、意外なほど近い耳のすぐ後ろあたりからそう声をかけられた。
驚いて振り返ると、目の前に見知らぬ女の子の笑顔があった。息がかかるほど間近まで接近して声をかけたらしい。
僕より少し背が高い、たぶん知り合いではないはずの上級生。同じ制服を着ているので、同じ小学校の3年生か4年生、かな。
もちろん、500人以上いるであろう全校生徒の顔を僕が全て覚えているはずもなく、僕にとっては見覚えのない生徒の方が大多数だった。それに、人の顔を覚えるのが苦手、というよりその頃は特に積極的に覚える気もなかったくらいだったから、もしも以前に校内ですれ違っていたとしてもきっと覚えていなかっただろう。
それが上級生ともなれば、なおのこと。顔見知りと云えば、家が近所で名前もなんとなくわかる程度の人がひとりいるかな、くらいのものだった。
下校時間なので、通学路には他の小学生の姿もちらほら見えたけれど、声の届く距離にいるのは僕だけだった。
それに何より、2年1組のスズキくんは僕だけだ。2年2組と3組にはそれぞれ別のスズキさんがいるけれどふたりとも女子だった。
僕の聞き間違いでないのであれば、人違いなどではないらしい。
その証拠、ではないけれど、彼女の灰色がかった大きな眼は、まっすぐに僕を見つめていて、仔ネコのような黒目がちなきれいな瞳に、怪訝な顔の僕が映っているのまではっきり見えるよう。
「こんにちは。あのね、ちょっとキミに聞きたいことあるんだ。そこの公園に行かない?」
少しぎこちない笑顔だったのは、下級生とは云え見知らぬ男子に声をかける事にためらいがあったから、だろうか。
不思議と、嫌な感じではなかったけれど。
マンガやアニメなんかであるような、いわゆるヤンチャな上級生の呼び出し、と云うのかな、
「おいてめえ生意気だな、ちょっとそこまでつき合え」みたいな類の何かとは、ほど遠いイメージ。
何より僕自身、上級生に呼び出されるような何かをしたとか云ったとかは、まるで身に覚えがない。
常日頃から、そんな事件性やドラマ的なものには全く縁のない、つつましやかな学校生活を送っていたので、上級生からの急な呼び出しに、不安を抱かなければいけないような心当たりはひとつもない。
それに、彼女のいかにも不慣れな感じ、普段から気さくに人に声をかけるタイプではなさそうな所が、逆に僕には安心感を抱かせたのかもしれない。
だから彼女の第一印象は、けっして悪くはなかったと云っていい。少なくとも嘘や悪意のある人物には見えなかった。
僕が無言のままうなずくと、彼女は心底ホッとしたように表情をゆるめて「じゃ、行こっか」と、僕のランドセルを軽く押しながら歩き出す。
その押し方にも強引さみたいなものは全く感じなかったのだけれども、なんだろう、なんだか逃げられたら困るとでもいうような真摯さとか、ほんの少し焦りのようなものが感じられた、ような気がした。
だから、
「だいじょうぶ」
逃げないよ、並んで歩く彼女の横顔をちらりと見上げながら、思わずポツリとそうつぶやいてた。
彼女は一瞬、はっと息を飲んで、
「え・・・あー、ち、違うの。これは、そういう、何かあれ、じゃなくってね」
と、慌てて僕のランドセルから手を離し、白い頬をぱっと赤く染めて、気まずそうに視線を右へ上へ左へくるくると彷徨わせてから、
「えーと、んんー、あはは・・・」
最後には力なく、ため息とともに苦笑してた。
とっさの感情の変化に合わせて次々に表情を変える彼女の様子は、何というかとても興味深く見応えがあり。
照れ笑いにも卑屈さや嫌味なところが全然なくて、どう見ても嘘をついたり人を騙したりするような人物ではなさそうに思えた。
その恥ずかしそうな笑顔ひとつで、僕の中にあった彼女に対する多少の警戒心やささやかな不審感はほとんど消えてなくなったのは間違いない。
とはいえ、ただの小学2年生の無口な子供でしかない僕に、気の利いた返しなどできるはずもなく、
「うん」
わかった、と小さくうなづきながらもう一度ちらりと横目で彼女を見ると、
「ほんと?よかったあ」
ほっと安堵の息を吐いて、彼女は大きな瞳を糸のように細めて、はにかむように笑った。
何というか、内面の素直さがそのまま表情にあらわれる子なんだな、と思う。たぶん、とても正直でまじめな子なのだろう。
クラスメイトや担任教師から、無口で無表情で何を考えてるかわからない子と思われてるはずの僕とは、対極にいるような子。
ころころとよく動く大きな瞳が、無邪気で嘘のない彼女の内面をそのまま映しているよう。
異国の血でも引いているのかな。少し灰色がかったきれいな眼だった。
よく見ると色白で顔立ちも精巧なお人形のように整っていて、小学生らしからぬ大人びた雰囲気もあるきれいな子だ。
照れ隠しをするように「ふふふ」と彼女はもう一度笑った。
そして遠慮がちにまた僕のランドセルにそっと手を伸ばし、通学路の先にある小さな公園を目指して一緒に歩き出す。
年下の僕を気遣ってゆっくり歩いてくれているらしい彼女の歩調に合わせて、肩口で真っ直ぐに切り揃えられたきれいな黒髪が初夏の風にさらさらと揺れていた。
その公園には、意外なほど人影がなかった。
通学路から通りを一本隔てているとはいえ、下校時間なのだから学校帰りの小学生がたくさん遊んでいるのだろうと思っていたのだけれど、僕のその予想は見事に外れていた。
ベンチに腰掛けてうたた寝している白髪のおじいさんがひとりいただけ。その足元の地面には飼い犬だろうか、大きな黒い犬が眼を閉じてうつ伏せに寝そべっている。寄ってくる羽虫でも追い払っているのかな、時々長いふさふさのしっぽを面倒そうにぱたりぱたりと揺らしてた。
公園の隅にある物置らしきプレハブ小屋の屋根の上に真っ黒なカラスが一羽、青空を背景にくっきりとシルエットを描き、まるでこの小さな公園を見守る守護神か何かの彫像のように、ぴくりとも動かずに悠然と佇んでいる。
あとは、公園の中央に水の止まった噴水があり、その周囲を丸く囲む縁石の上にのんびりとだらしなく体を伸ばして昼寝している黒い小さな野良ネコが一匹、それだけだった。
「ここ、意外と穴場なんだ」
表情から僕の内心を読み取ったのかな、彼女はそう云ってまた「ふふふ」と軽やかに笑った。
「こっち、座ろっか」
公園の奥を指差して、彼女は僕のランドセルをとんとんと軽く指でたたく。
それは、ベンチを向かい合わせに繋ぎ合わせたようなブランコ型の遊具だった。
子供達が「電車ブランコ」と呼ぶその遊具の片側のベンチの真ん中に僕を座らせ、彼女は向かい側のベンチにふわりと腰掛けた。
あらためて向かい合うと、どこを見ていいのかわからず、というより真正面から彼女の顔を見るのがなんだか少し気恥ずかしくて、僕はななめに座り直し、枯れた噴水の向こう側、ベンチのおじいさんと寝そべる犬を見るともなく眺めていた。
「突然ごめんね、ありがと」
彼女は真っ直ぐに僕を見て、律儀にぺこりと頭を下げた。
何と答えたものかわからず、ななめを向いたままなのも失礼な気がして、僕は真っ直ぐに座り直し、
「いえ・・・」
ぽつりと云って、思いつくまま付け足すように、
「・・・どう、いたしまして?」
なんとなく、そう云った。疑問形、だったけれど。
彼女はまた「ふふふ」と笑って、
「よかったあ、スズキくんが思った通りの、しっかりした優しそうな子で」
灰色かかったきれいな眼で、まっすぐに僕を見る。
「・・・」
しっかりした優しそうな子
そんな事は初めて云われた気がして、僕はどう返したらいいのかわからず、黙り込む。
その言葉の意味を解説してくれるみたいに、彼女は続ける。
「知らない人から突然声かけられたりしたらさ、びっくりして泣いちゃったり、いきなり逃げ出しちゃったり、しないかなあって、ちょっと・・・、んーわりと?心配してたの」
彼女は、きっと普段からおしゃべりな子ではないのだろう。決して早口ではなく、むしろゆっくりと言葉を選びながら話す人のように思えた。
同じクラスの子たちのような、声量や勢いにまかせてわめき立てる、そんな話し方でなかったのは、僕には幸いだったかも。
まるで金属製のバケツに投げ込んだや空き缶やペットボトルをかき混ぜるような、そしてそれをコンクリートの地面めがけて一斉に放り出すような、騒々しくにぎやかなおしゃべりが、僕はとても苦手だったから。
たぶん、頭の中のあの「音」のせいなのかもしれないけれど。
彼女の声は、女の子らしい高い声だけれど少しハスキーがかっているせいかとても耳触りが良く、話し方も静かで、まるで祖母と話している時のように気持ちがスッと落ち着く。
「だいじょうぶ」
もっと小さな幼児だった頃はさておき、例の音に「慣れて」からの僕は、急に泣き出したりパニックに陥ったりするようなことはなくなっていた。
よく云えば大人しい落ち着いた子供に見えるのかもしれないけれど、実は何かが摩耗か麻痺かあるいは欠落してしまっていて、全ての物事に対して極端に鈍くなっているだけのような気もする。
「それ」と彼女は僕を指差して、
「さっきも云ってくれたでしょ、「だいじょうぶ」って。あれで本当に、ほっとしちゃった」
さっきと同じ安堵の表情を浮かべて、「あ、ごめんいきなり指差しちゃった」と慌てて指を引っ込め、「へへへ」と無邪気に笑う。
表情の変化が本当に豊かだな、とあらためて思いながら、ああなるほど、とすぐに納得した。
うちの母に、少し似ているのかも。
僕のあの「音」を気づかってか、それとももともとそういう人だっただけなのかはわからないけれど、母は少し大袈裟なくらい言葉よりも表情や身振り手振りで話をする人だった。
彼女の、わかりやすくころころと表情を変えてくれるところが、うちの母にどことなく似てる。すぐに笑ってごまかすところも含めて。
祖母と母、ごく近しい人たちに似た雰囲気をまとっていたから、最初からあまり警戒もせず、特に不安もなく僕は彼女についてきたのかもしれない。
いつの間にか、向かい合わせに座った気恥ずかしさはどこかに消え、ふと気づけば、くるくると変わる彼女の表情を、僕は興味深くただじっと眺めていた。
「あ、そうそう、キミに聞きたいことだよね。それでここまで来てもらったんだ」
じっと彼女を見つめる僕の視線が、何かを促していると誤解したらしい。
でも、その「聞きたいこと」というのが、気になるのも確かだった。
上級生の女の子が、わざわざ下校途中に呼び止め、公園へ連れてきてまで、僕に聞きたいことって、いったいどんな事なのだろう。
彼女はあごに人差し指を当てて視線を落とし、じっと自分の白い運動靴の爪先あたりを見つめ、真剣に何かを考え込む表情になってた。
風の音と、路地と民家を隔てた向こう側にある大通りを行き交う車の音がかすかに聞こえる以外は、何も聞こえない静かな午後の公園。
もちろん、僕の耳の中にだけは、変わらずあの「音」が聞こえ続けている。
今は、遠くで吹く風の音に似た、ごおごおと唸るような音。
「あのね、急にへんなこと云うけど、びっくりしないでね」
じっと爪先を見つめていた彼女の灰色がかった大きな瞳がふわりと浮かんできて、まっすぐに僕を見た。
へんなこと
急にへんなことを云う人はけっして事前に断ったりしない、よね。
それを、僕は8年あまりの短いジンセイ経験からすで知ってた。
その同じ経験から、急にへんなことを云う人には、僕は少なからず耐性がある、と思ってる。
ルリおばさん、という母の義理の妹にあたる人がまさにそれで、急にへんなことを云い、さらに急にへんなことをするまさに「へんな人」だった。幼い頃にかなりひどい目にあわされたおかげで「へんなこと」への耐性には、だからわりと自信がある。別に、何の自慢にもならないし、何の役にも立たないような自信だとは思うけれど。
それはさておき、僕が彼女に云える言葉は、結局ひとつしかない。
「だいじょうぶ」
僕は小さくつぶやくようにそう云った。何か熱のようなものが今にも内面からあふれ出てきそうな、きらきらと輝いて見える彼女の大きな灰色の眼をじっと見つめながら。
「ありがと」
ふふふと、うれしそうに彼女は笑った。
そして、片手を口に当ててコホンと小さく咳払いをしてから、あらためて僕の真正面にまっすぐに座り直す。
ゆっくりと少し身を乗り出して、
「わたし、人の頭の上に、もやもやした泡みたいなのが見えるんだ」
ひとつずつ、大事に言葉を刻むように、彼女はそう云った。
まるで、何かとても神聖な、神様へのお祈りの言葉のように。
あるいは、この日のために特別に用意された、音楽劇か何かの舞台の台詞のように。
いやおそらく、それを云う事こそが彼女の今日の目的で、きっと事前によく考えて、しっかりと準備してきた言葉、だったのだろう。
何の前置きもなく、例えば最近の天気の話や昨夜のTVアニメの話みたいな当たり障りのない話題から入るのでもなく、余計な装飾はすべて外してそのものずばりの核心から話そうと、たぶん彼女は話す前から、いや僕に声をかけるよりも前から決めていたのだろう、そう思った。
それくらい、迷いも澱みもない、まっすぐな言葉だった。
後から思えばそれはとても彼女らしい、嘘やごまかしの一切ない、まっさらで正直な告白だった。
そう、後から思えば、だ。その時の僕には、まだそんなことわかるはずもない。
言葉はまるで、とてもきれいな異国の音楽の1フレーズのように、心地良い残響だけを僕の耳に残して消えていた。
人の頭の上に、もやもやした泡みたいなのが見える
彼女が云った短い言葉の意味が理解ができず、僕はただ黙ったままでいた。息をするのも忘れていたかもしれない。何分もそうしていたような気がするけれど、実際はほんの数秒だったはずだ。
数秒間、僕は黙ったままただじっと、彼女のきれいに切り揃えられた前髪とその下からのぞく仔ネコのような灰色がかったきれいな瞳を見つめていた。
そのまま身じろぎひとつせずに、彼女の言葉のつづきを待っていた。
「スズキキクタくん」
ついに彼女は口を開き、涼しげな鈴の音のような声でおごそかに僕の名を呼び、そして云った。
「キミは何が見えるの?」
noise & bubbles
屋根裏ネコのゆううつ