遠くで救急車のサイレンの音が鳴っていた。
風が吹いて、公園の奥にある竹林の竹の葉がさわさわと音を立てて揺れているのが聞こえた。
「スズキキクタくん」
彼女が口を開いて、僕の名前の形にその可憐な口唇が動くのを僕は見ていた。そして、
「キミは何が見えるの?」
それは、魔法の呪文だった。
その言葉を唱えたら秘密の扉が開くとか、古びた壺からいにしえの精霊が現れるとか、そういう類のもの。
あるいは僕みたいな無知で哀れな子供を、物云わぬ石像に変えてしまうような、不思議な魔力を秘めた強い言葉。
彼女の云った言葉の意味もその前後の繋がりも、その時の僕にはまるで理解できなかった。聞いてなかったわけではなく、しっかり聞いていたはずなのに、思考がそれに追いつかない感じだった。
白くて細い彼女の両手が僕に差しのべられ、ゆっくりと開いてから僕の右手をそっと包み込んだ。
魔法の呪文で石のように固まってしまった僕は、彼女のなすがままだった。
彼女の両手は少し冷たくて、やせっぽちで細いのに意外とやわらかだった。
いやちがう。
彼女の手が少し冷たいとか意外とやわらかいとかは、後から思い出した事だ。
その瞬間、不思議な事が起こっていた。
よく晴れた6月の月曜日、放課後の、日暮れまではまだ少し時間のある頃合いだった。
通学路からも大通りからも少し離れた、静かでひと気のない小さな公園の片隅。
「電車ブランコ」に彼女と向かい合って座っていた僕の右手が彼女の両手に包み込まれたその時、
明るい午後の公園の風景が、ぐるりと回転したような気がした。
次の瞬間、僕は僕を見ていた。
僕の頭の上には、まるでマンガの吹き出しのような白いもやもやとしたものが浮いてる。
空に浮かぶ雲のようにも、少し大きめなシャボン玉のようにも見えるそれは、まるでそれ自体が生き物でもあるかのように、ゆらゆらとゆっくり形を変えながら僕の頭の上、触れそうなほどすぐ近くに浮かび、音もなく揺れてた。
全体的には白っぽく見えるその物体は半透明で向こう側の濃い緑の竹林が透けて見え、表面に太陽の光を映してきらきらとシャボン玉のように七色にきらめいていた。
「わたし、人の頭の上に、もやもやした泡みたいなのが見えるんだ」
ついさっき聞いたばかりの、彼女の声が脳裏によみがえってた。
確かに、いま僕の目の前にいる僕の「頭の上」に「もやもやした泡みたいなの」が見えている。
という事は、これは彼女が見ている僕の姿、なのだろうか。
視界の下の方に見える僕の両手は、何故か目の前にいる僕の右手をそっと包み込むように握りしめていて・・・?
ちがう、これは彼女の両手だ。
彼女の両手が僕の右手を握っている様子を、僕は見ている。
つまり僕は、彼女の眼を通してそれを見ている、というのが正しいのでは。
驚いた顔のまま固まった僕を見ているのは彼女の眼で、その彼女の眼が見ているものを、いまの僕は見ていた。
よく眼を凝らしてみると、さらにややこしいことに、いま目の前に見えている僕の眼の中には彼女が映っていて、その彼女の頭上にもきらきらと輝く白い半透明の泡のようなものが浮かんでいる。
つまり僕は彼女の眼を通して、彼女の視界で、彼女の目の前にいる僕自身の姿を見ていた。
「正解だよ」
という彼女の声は、僕の頭の中で聞こえた。
「キミ、ほんと落ち着いてるね、すごく助かるけど。2年生とは思えないなあ」
彼女はほっと安堵の息を吐いたようだった。いまの僕には、石のように固まった僕の眼の中に小さく映る彼女の姿しか見えないのだけれど。
「それと、これはちょっと予想外。キミは「見える」んじゃなくて、「聞こえる」なんだね。「この音」何の音なんだろう。風かな、それとも砂?たくさんの砂が流れる音みたいな・・・」
頭の中で聞こえる彼女の声は、耳で聞くのと同じあの少し高くてハスキーがかった心地良い声だった。
頭の中で・・・聞こえる?
思わず僕は息を飲んだ。
あの「音」が聞こえない。
石のように固まっていた目の前の僕が、はっと息を飲んで大きく眼を見開いてる。
驚いた時の僕ってこんな顔をしてるの。なんだかちょっと、いやだな。
いやちがう、そんなことより「あの音」だった。
延々頭の中で鳴り続けて止むことがなかったあの「音」は、どこへ行ったのだろう。
考えて、いや考えるまでもなく、さっきの彼女の言葉がその答えだった。
「キミは「見える」んじゃなくて、「聞こえる」なんだね」
つまり彼女はいま、僕がいつも聞いているあの「音」を聞いてるの。
僕がいま、彼女がいつも見ている「もやもやした泡みたいなの」を見ているように。
ふう、と彼女が大きなため息をつくのが聞こえた。
不思議なことに、いやちっとも不思議じゃないのだけれど、そのため息は僕自身の耳で聞こえた。頭の中ではなく。
「ごめんごめん。あまりにキミの理解が早すぎて、思わずため息出ちゃった。わたし、そこに至るまでにもっともっと時間かかってたなあって思って」
彼女の声は、相変わらず僕の頭の中で聞こえる。
それによくわからないけれど、なぜか僕はさっきから彼女に褒められてる?みたいだった。
頭の中で彼女の声に褒められ続けるのは別に悪い気はしなかったけれど、それはさておき、僕にはわからないことだらけだった。
そもそも、なんで褒められてるのかもわからない。
「ふむ」
と頭の中で彼女の魔法の声が云う。
小学生の女の子が「ふむ」なんて云うのを初めて聞いた気がした。けれど、なかなか似合っていると思えるのは、彼女の声のせいだろうか。
「んー、予定ではキミにいくつか聞きたいことがあったんだけど、逆にわたしのことをキミに聞いてもらった方が話が早いのかもしれないね。キミの方が理解力ありそうだし」
それは、僕に云っているのかな。それとも、心の声だから、彼女が思っている事まで全部僕に聞こえてしまう、のだろうか。何か返事をしたほうがいいのかな。でもどうやって。
僕が何も答えられずにいる間も、彼女は心の声でつぶやき続ける。
「あー、こんなことならもっと早くキミに声をかけとくべきだったかなあ、そしたら・・・、ううん」
ふるふるっと彼女が何か余計な考えでも振り払うように、頭を左右に振った。
それに合わせて、僕が見ている彼女の視界も左右にふるふる揺れる。
本当に、彼女の眼で世界を見ているのだな、とあらためて思う。
不思議と怖さはなかった。こんなことってあるんだな、とは思ったけれど。
「なんだろうね、その落ち着きっぷりは。達観?って云うんだっけ。何か修行でもしてきた人みたい」
不思議といえば、さっきから、僕の思う事に彼女が頭の中で答えてくれているような気がするのだけど、これは何だろう。いや、不思議ではないのかな、彼女の心の声が僕に聞こえるのなら、僕の心の声も彼女に聞こえてる、という事なのかも。
「ほらまたそういう。キミってあれでしょ、説明書とか読まなくても新しいゲームをさくさく進められちゃうタイプ」
彼女はくすくす笑う。鈴が転がるような軽やかな笑い声が僕の頭の中に響いて、とても心地いい。
「コホン、じゃあ手近なところから説明するね」
少し気恥ずかしそうに、彼女はひとつ咳払いをして、
「まずさっきのキミの想像どおり、いまわたしの「泡が見える」のとキミの「音が聞こえる」のを交換してるの。キミとわたし以外にも同じような子がもうひとりいてね、その子は「線が見える」んだけど。この方法はわたしとその子で発見したの。ただ、どうしてそんな事ができるのかは、まだわからない」
ゆっくりと、一言ずつ言葉を選ぶような彼女の説明は、やっぱりとてもわかりやすい。
乾いた砂地に水が染み込むように、固まっていた僕の頭に情報が流れ込んでくる。
ゲームやアニメでよくあるような、ぼやけて見えなかった画面が少しずつ晴れて、宝の地図が浮かび上がってくるような、そんな感じだった。
なるほど。
他の人には聞こえない音が聞こえる、僕の「これ」が特異体質なのか何なのかはわからないけれど。
同じように、人には見えない何かが見える人がいて、それが「彼女」ともうひとりの「その子」。
「そう。あ、それともうひとつ。わたしたちは、こうやって手をつなぐと、声に出さなくても頭の中で会話ができるの。便利でしょ。考えたことがそのまま頭の中で聞こえる感じかな」
なるほど、さっきから僕の考えと頭の中の彼女の声とで不思議な会話が成立しているように感じてたのは、それなの。
偶然や僕の思い込みではなくて、本当に頭の中で目の前に座る彼女と会話してたってこと?
「そうだよ。これも、そのもうひとりの子と偶然見つけたの。こっちの方が先だったかな。そこから、他にも何かできるかもっていろいろ試してるうちに、さっきの「力」を交換するやつを見つけたの。あ、「力」っていうのは、その子がつけた名前。わたしたちの「これ」、名前がないと不便だよな、って。あの子は「能力」とかも言ってたけど、そっちは何かすごそうでちょっとね。だから、わたしはただ「力」って呼んでるの」
手をつなぐと頭の中で会話ができるの、便利でしょ、
なんてさらりと云われてしまったけれど、それってアニメなんかでよくある、超能力とかそういうあれでは。
言葉にするとまるで現実味はなかったけれど、実際に会話できていたのは間違いなく現実だった。
あまりにも自然にできていたので、驚きも衝撃も、特に何もないのだけれど。
でも考えてみれば、物心ついた時から頭の中で鳴り続けるノイズと否応なしに付き合わされているのだから、それくらいの便利なオプションがひとつくらいあってもいい、かもしれない。
だいぶ、いいわけがましいこじ付け、のような気もするけれど。
「ううん、すてきな考え方だよ。それ、いいと思う」
にっこり笑って肯定されると、不思議なもので「そうなのかも」と思えたりする。
まるで魔法のような、彼女の声とその笑顔。
「だって、人と違うものが見えるとか聞こえるとか、しかもそれが周りの誰にも理解してもらえないとかね。それだけでかなり不利というか損してる感じだもん。少しくらい、便利な特典もなくちゃね」
ふふふ、と彼女は「魔法の声」で笑う。
「それに、これも「力」のひとつだとしたら、その正体に近づくヒントになるのかも、ってL・・・あーもうひとりの「その子」は言ってた」
L?
「うん、そのもうひとりの子のあだ名。わたしのあだ名はJだよ。どっちもその子がつけたの。スパイみたいでかっこいいじゃん、って。LとJ」
J。
不思議なあだ名だけれど、彼女の雰囲気にはすごく似合ってる気がする。
灰色がかった大きな眼、大人びた顔立ち、やせっぽちでお人形のようなシルエットの「J」。
うん、よく似合うと思う。
「ありがと」
ふふふ、と魔法のようにJは笑う。
「あ、すっかり順番がめちゃくちゃだけどわたしの名前、ジョウノジーン。へんな名前でしょ。ジョウノが名字でジーンが名前。だからキミも、Jって呼んでいいよ」
ジーン
じゃあ、やっぱり外国の?
「うん、まあ、その話はまた別の機会に、ゆっくりね。長ーい話になっちゃうから」
ふふっと彼女、Jは何か含むように笑った。
聞いてはいけない話題だったのかな、と思ったけれど、「ふふっ」という彼女の笑い声には、そんなに重たそうな事情や暗い何かを感じなかったので、少しホッとした。
でもへんな名前で言えば、スズキキクタもだいぶ変わってると思うけれど。
「そうかな、キクタって響きがとってもすてきだと思うけど。あーでも、Lに云わせるとキミのあだ名は「K」だって。じつはもう決まってたよ」
あはは、と彼女、Jは楽しそうに笑う。
決まってた
つまり、JとLは以前から僕のことを知ってたの。
Lの云う「力」のことも含めてすでに僕を知っていて、あだ名まで付けていたって事?
「そう、最初にキミを見つけたのはLでね。わたしの「泡」とLの「線」には色がついてるんだけど」
そう云いながら、彼女の視界が動いて、
「えーと・・・、あ、ほら、あのベンチのおじいさん、見える?」
そう僕に尋ねる。
見える?も何も、僕がいま見ているのはJの視界なので。
彼女の視線が目の前の僕を離れ、ぐるりと公園を見渡してベンチのおじいさんを見つけるところまで全部しっかり見えてるけれど。
「あはは、それはそうだね。あのおじいさんの頭の上にも泡があるでしょ」
云われてみれば、おじいさんにも泡がある。
けれど、その泡には色があった。半透明の青。
僕やJの泡は、白だったけれど。
「そう、泡には色があって、人によって色が違うの。青とか緑は安全な人。黄色や赤はあまり近づかない方がいい人」
色の違いで、それがどんな人かがわかるの。じゃあ、あのおじいさんは安全な人?
「たぶん、だけどね。今までわりとそうだった。で、わたしとキミ、あとLだけなの。白くて半透明できらきら虹色に光る泡。Lに会うまでは、わたしだけだった」
さらりと彼女、Jはそう云った。
けれど、想像したら、少し怖くなった。
小さな子供の頃から、自分だけ人には見えない「泡」が見える。
みんなそれぞれいろんな色の「泡」を持っているのに、自分と同じ色の「泡」を持つ人はどこにもいない、だなんて。
「わーごめん、暗くならないで。その色のおかげで、Lはわたしを見つけて、そしてキミも見つけられたんだから」
手をつないでいるので見えなかったけれど、Jは慌てた様子で云う。
「去年の今頃だったかなあ、「新入生の中にひとりいたぞ」って、Lが。でもさすがにね、1年生の子にこんな話をするのはどうかなあって。それに1年生って集団登下校でしょ?班長って言うんだっけ、引率の6年生がいつも一緒だから、こんな風に公園に連れてきたりできないし」
それで、2年生になって僕がひとりで下校するようになるのを待っていた、のかな。
でも、もう6月だけれど。まさか、4月からの2ヶ月間も、どうやって声をかけようかって悩んでた、のかな。
それに、もしそうなのだとしたら、今日、Lはどこにいるのだろう。
100人近くいる去年の新入生の中から僕を見つけて、「K」というあだ名まで付けて、僕が2年生になるのを待っていたのに、どうして今この場にいないのかな。
「ふむ」
また小学生には不似合いだけれど何故かJにはよく似合う「ふむ」が出た。真面目に何かを考える時の口癖みたいなものなのかな。
ベンチのおじいさんの青い泡がふわふわと揺れるのを見るともなしに眺めていたJの視線が、正面の僕の顔にすーっと戻ってくる。
「K、キミって子はほんとに。なんでそう、いちいちするどいのかなあ。うん、6月まで、2ヶ月も迷ってたのは、キミの想像通りだよ」
困ったように、Jはそれでも「ふふっ」と笑った。
「Lのこともね、別に隠そうとしてたわけじゃなくて。ちゃんと話そうと思ってたよ。でも、いきなり初日から云うことでもないかな、って思って」
Jの心の声が小さくなって、口ごもるように止まる。
Lのこと
何か事情があるらしい。
つまりLが今日この場にいないのは、学校で急に居残りを命じられてとか、掃除当番で遅くなっていてとか、ではなくて。
Jは小さくうなずいて、
「うん。半年前、かな。12月だからそうだね。Lはちょっとした、厄介ごと?に巻き込まれたみたいで」
つとめて明るく、普通に話そうとしていたらしいJの心の声は、けれどみるみる小さくなっていく。
「事故・・・っていうか、何ていうか。それで、いまは、簡単には会えないし、話もできないんだ」
事故?
その言葉に、背筋が寒くなる。
まさか、Lは・・・
「え、あ、違うよ。ごめん、誤解させちゃうような云い方だったね。大怪我をしたとか命に関わるようなとか、そういうわけじゃないから、そこは安心して」
そう聞いて、ひとまずほっとする、けれど。
でも、
簡単には会えないし、話もできない
ようやく出会った同じ「力」を持つたったひとりの仲間
そのLと、会うことも話をすることもできない。
半年前、12月
事故
それは、この半年間、Jはひとりで、さぞ心細かったことだろう、と思って、気づいた。
僕に声をかけるまでに2ヶ月かかったのも、Lがいなくて、Jひとりだったから、なのかも。
「う・・・」
Jは、言葉に詰まってしまった。
顔は見えないけれど、もしかしたら、泣いているのかな。
とりあえず今は、Jの視界になっているから、僕には、困った顔の僕自身しか見えないので、よかったけれど。
「うう、K・・・キミ」
Jの声は少し震えて聞こえる、けれど、
あれ、泣いて、るんじゃないのかな。
「キミ、ほんとに小学生?しかも2年生なの?なんだかずるいなあ」
Jのハスキーがかった声は、さっきまでよりも少しかすれて聞こえた、けれど、
「ううう、ほんとにもう・・・」
ふるふるとJがかぶりを振って、視界が左右にふるふる揺れる。
やっぱり泣いてないのかな、
僕の気のせいだったのかもしれない。
それに、僕はJの視界で見ているのだから、もし本当に泣いていたのなら涙でゆがんで見えるのかも。
コホンと小さく咳払いをして、
「とりあえず、Lの話はひとまずここまで。手近な説明を続けるね」
元の声に戻って、Jは、上級生らしいはきはきとした口調で云う。
「ちょっと片手を離すね。視界が戻ると思うから、びっくりしないでね」
そう云って、Jは僕の右手を包んでいた両手のうち、彼女の右手だけをそっと離した。
また、視界がぐるりと回転するような感覚がして、次の瞬間には、心配そうに僕の顔を覗き込むJの顔が目の前にあった。
同時に、懐かしい「あの音」が耳の奥で鳴り始める。心なしか、前よりもいやな感じがしなかったけれど。
なるほど、両手だと「力」の交換+頭の中の便利な会話、で、片手を離すと交換は解除されるの。
まばたきをしてみると、確かに僕は僕の眼で、Jの顔を見ていた。
そして頭の中のあの「音」は、普段通り素知らぬ顔で戻ってきて、ざわざわと耳障りに鳴っている。
もちろん音には顔なんてない。勝手に鳴ってるだけで、そこに意思なんてないのだろうけれど。
「だいじょうぶ」心の中で僕の声がする。僕はいつも通りだった。
ちょっと信じがたい出来事がたて続けに起こっていたけれど、思いのほか、自分が冷静でいられるものだなと、どこか心の奥の方で思ってた。これもまた、何かが鈍ってしまっているだけ、なのかもしれないけれど。
それよりも、すごく今さらなのだけれど、この「音」は一体何なのだろう。
思えば、なぜかこれまで一度も、きちんと考えたことがなかった気がする。
いやたぶん、考えた事もあったのだろうけれど、もう忘れてしまった。
いつの間にか「慣れて」しまった事で、疑問にも思わなくなっていたのかもしれない。
僕にしか聞こえない「音」
誰かにその答えを求める事はできないし、誰にもわかるはずがない。勝手にそう決めつけて、答えを探す事を諦めてしまっていたのかも。
すっかり忘れ去っていたはずのその疑問が、あらためてむくむくと心に湧き上がるのを感じて、自分でも驚いた。
「K、だいじょうぶ?どこか具合が悪いとか、ない?」
片手はつないだままなので、Jの声は頭の中で響く。灰色がかったきれいな眼が、心配そうに僕を見ていた。
だいじょうぶ。
その眼を見て、僕はうなずく。
でもこれは何だろう、あの「音」に対して、今までこんな感情を抱いたことはなかったような。
「なんだろうね、勇気かな」
さらりと、Jが云う。
勇気?
普段使った覚えのない、意外な言葉だった。
ヒーローもののテレビ番組とかではよく聞くけれど、僕には縁のない言葉、だと思ってた。
「そう。今までは何だかよくわからなくて、わからないから、ただ避けてたでしょ、「音」のこと。なるべく考えないように、って」
確かにそうだった。Jもそうだったのかな。
それが、僕以外にもそういう人がいる事がわかって、少し、いや、すごく安心した。
それと同時に、じゃあこれは一体なんなのだろうって、あらためて考えることができるようになった。「音」について。それにまつわる「力」について。そうか、勇気ってこういうのもあるんだ。
「そう。わけのわからない「力」ときちんと向き合う勇気。わたしもそうだったし、Lもそう云ってたよ。ひとりじゃないってわかったら、何か勇気が湧いてくるよなー、って」
Jがにっこり微笑みながら云う。
L、どんな子なんだろう。すごく、会ってみたい。
「ね。わたしもさっきから何度もそう思ってた。キミをLに会わせたいなあって。きっといいコンビになると思うんだけどなあ」
ふふふ、とJが笑うと、どこか向こうのほうで「くしゅん」とくしゃみのような音がした。
あのベンチのおじいさんかな、とそちらを見ると、いつの間にか彼はいなくなっていて、空っぽのベンチと大きな黒犬だけがそこにいた。
あの犬のくしゃみだったらしい。
犬は相変わらず地面に腹這いに寝そべっていて、僕らの視線に気づいたのか億劫そうに首を持ち上げてこちらをちらっと見た。
目が合うと、黒犬は鬱陶しそうにふんと鼻を鳴らしてそっぽを向き、また目を閉じて午睡の続きに戻っていった。
僕とJはどちらからともなく顔を見合わせて、ふたりで声に出して笑った。
noise & bubbles ii
屋根裏ネコのゆううつ