静かな午後の公園に、まるで鈴が転がる音のように、僕とJの笑い声だけが響いてた。
「おや、キクタかい」
不意に遠くから、聞きなれた声でそう呼ばれた。
電車ブランコに座ったままきょろきょろと辺りを見渡すと、公園の入り口あたりに、買い物袋を提げた祖母が立っていた。
僕の住む郊外のニュータウンには小さなコンビニが1軒しかなく、祖母は、仕事に出ている母の代わりに、時々市内のスーパーへ買い物に出ていた。
祖母は何歳なのだろう。ちゃんと聞いてみた事がなかったけれど、80近いのだろうか。年の割に足腰はしっかりしていて、歩いて2kmほどあるその道のりも「いい運動になる」と笑っていた。
「え、Kのおばあちゃん?」
Jに聞かれたので、
そう、と心の中で答える。
「じゃあ、ご挨拶しないと」
Jは云って、電車ブランコのベンチから立ち上がりながら、さりげなく僕の右手を離した。
祖母は何故かにこにこ笑いながらゆっくりと公園に入って来て、
「めったに人のいない公園から楽しそうな声がするから、ちょいとのぞいてみたら、うちの子だったよ」
電車ブランコを降りた僕とJの前まで歩いてきて、うれしそうに目を細めながらそう云った。
「学校帰りに寄り道して、いっしょに公園で遊ぶお友達ができたんだねえ、そりゃあよかった」
祖母は僕とJをかわるがわる見て云い、にっこり笑った。
「おばあちゃんこんにちは。わたし、ジョウノジーンといいます」
Jも祖母ににっこりと微笑み返してからそう云い、ぺこりと丁寧にお辞儀をする。
心なしか、少し緊張しているように見えた。
僕よりはるかにしっかりしてるように見えるJでも、初めて会う大人には緊張したりするのかな。
いや、そう云えば僕に声をかけてきた時も、最初はこんな風に少しこわばっていたかな。
「はいこんにちは。じーんちゃん、まあすてきなお名前だねえ。キクタをよろしくお願いしますね」
そう云って、祖母はJに深々と頭を下げる。
今まで聞かれたことはなかったし、特に何にも云われたことはなかったけれど、祖母は僕に友達がいないことを知ってたのだろう。
あの「音」のせいで、僕が年々無口で無反応な子供になっていく事を、一切口には出さなくても、やっぱりどこかで心配していたのかもしれない。
自分のことばかりで、祖母や母がどんな気持ちでいるのかなんて、考えたこともなかったな、と、僕は少し反省してた。
「楽しそうで何よりだ。でもふたりとも、あんまり遅くならないようにね」
そう云ってまた祖母は僕とJを交互に見て、にっこりと笑う。
云われてみれば、だいぶ日が西に傾いてきていた。
すいぶん長い時間、Jと公園にいたんだな、と思う。
「はい」
Jは少しこわばりながらもにっこり笑ってそう答え、もう一度丁寧なお辞儀をした。
僕だけ黙ったままなのも何だか違うなと思ったので、
「うん。おばあちゃんも気をつけてね」
満足げにうなずいて背中を向け、また公園の入り口へ歩き出す祖母に云った。
祖母は歩きながらちょっとだけ振り返り、買い物袋を提げていないほうの手をひらひらと振って、また前を向き、ゆっくりと公園を出て行った。
ブランコの脇に立ったまま祖母の後ろ姿を見送っていた僕の右手を、するりとJの左手がつなぐ。
「やさしそうなおばあちゃんだね」
心の声でJはそう云った。
祖母の背中は、あんなに小さかったかな。歩くのも、あんなにゆっくりだったかな。
そう考えて、この頃の僕が、それだけ祖母のことをきちんと見ていなかったんだなと、少し寂しい気持ちになった。
「K、おばあちゃんの事、大好きなんだね」
うん。
物心がついた頃、何の前触れもなく突然大きくなるあの「音」に驚いて泣き出す僕を、本当に心配してくれたのは祖母と母だけだった。
つたない言葉で「音」のことを訴える僕の話を、きちんと最後まで聞いて信じてくれたのも。
少しずつ大きくなり、いろんな事がわかるようになるにつれ、あきらめて何も云わなくなったのは僕の方で、祖母や母が僕を見放したり何かをあきらめたりしていたわけでは、けっしてなかったんだ。
そんなあたりまえのことを、すっかり忘れていた。
ぎゅっ、とつないでいた手に少し力がこもるのを感じて、僕はすっかり物思いにふけっていたことに気づく。
僕はJと手をつないで、電車ブランコのそばにつっ立ったままだった。
Jは少し困ったような笑顔で、黙って僕を見ていた。
ごめん、ぼんやりして。
ぽつりと云うと、Jはふるふると首を横に振り、
「いろいろあって疲れたでしょ。今日は、そろそろ帰ろっか」
やさしい笑顔で、そう云った。
確かにいろいろありすぎなくらいあった。情報量が多すぎて、たぶん頭の中の整理がまだ追いついてない。
「そうだよね。わたしとLは、最初はまあいきなりだったけど、そのあとはいろいろ相談したり試したりしながら、少しずついろんなことがわかったりわからなかったりだったけど。Kはそれをまとめていっぺんに、だもんね。ほんと、キミがしっかりした子で助かったよ」
ハスキーがかったやさしい声で、Jはそう云う、けれど。
僕は、しっかりなんてしてない。たぶん、「あの音」を避けるあまり、無意識にいろんな何かを閉ざしてるだけなんだと思う。素直さだとか感受性とか、そういう子供らしさみたいなものとかを。
「ふむ」
Jはつないでいないほうの手をあごに当てて、少し困った顔で考え込むポーズになった。
でもだいじょうぶ、今日、勇気をもらったから。
閉ざしてた何かも、これから少しずつ開いていくと思う。
僕がそう云うと、
「そっか、それならよかった」
ほっと息をついて、Jは笑顔に戻る。
あと、魔法の呪文もかけてもらったし。
「またそれなの。わたし、よくわからないんだけど、それ」
口をとがらせて少しふくれてみせ、それからまた「ふふふ」とJは笑った。
僕も笑った。
いつのまにか、噴水のところにいたネコはいなくなっていた。
プレハブ小屋の屋根の上のカラスも姿が見えなくなっている。
ベンチの前の黒犬だけはまだいて、大きなあくびをしていた。
「Lとは、毎週月曜日の放課後にここで会ってたの。学校でももちろん会おうと思えば会えるんだけど、教室や廊下の隅でするような話じゃないから。それに、話すより手をつないだほうが早いから、学校だとちょっと、ね」
公園をぐるりと見渡しながら、Jは云う。
確かにここなら、周りを気にする必要はなさそうだ。
そう云えばここへ来た時に、Jが「穴場なの」と云ってたのは、なるほどそういう意味もあったのかな。
「べつに人に聞かせられないような話してるわけではないし、なにか悪い事してるわけでもないんだけどね。でも「泡」だとか「線」だとか意味のわからない話をしてるのをもし誰かが聞いたら、よけいな心配されたり学校へ連絡されたり、もしかしたら病院へ連れていかれちゃうかもしれないでしょ。これ以上さわぎはごめんだ、ってLは云ってた。そうでなくても十分めんどうなこと抱えてるのに、って」
それはそう、Lの云う通りかも。
「でもほんとはね、Lのシュミだって、わたし知ってるんだ」
ふふふ、といたずらっぽくJは笑う。またチェシャ猫の顔になってる。
「へんなあだ名で呼び合うのとか、毎週月曜日の放課後に公園で、とか。そういう秘密っぽいの、あの子だいすきなの」
くしゅん、とまた静かな公園にくしゃみの音がして、見るとあの黒い犬だった。
風邪でも引いてるのかな。
僕らの視線に気づくと、犬はまたふんと鼻を鳴らしてしっぽを一振りし、そっぽを向いてた。
じゃあ僕らも、次は来週の月曜日かな。
僕がそう云うと、Jはびっくりしたような顔で僕をまじまじと見た。
僕は、何かへんなことを云ってしまったのかな。
「ちがうの、びっくりした。けどうれしい。キミの方からそう云ってくれるなんて」
次の約束は、Jが自分から云いださないと、とか思ってたのかな。
「そう」
でも僕にとっては、ようやくあの「音」の事を普通に話せるし、何なら相談だってできる貴重な機会だ。
それに、Jの「泡」や、Lの「線」の話ももっと聞いてみたい。
今日見たことや聞いたこともまだきちんと整理できていないけれど、来週までにはまた聞きたいことも出てくるだろうし、何か新たに気づくことだってあるかもしれない・・・
J?
急に彼女が黙り込んでしまったので、僕はまたJの顔をのぞき込む、と。
「見ちゃだめ」
彼女のつないでない方の空いた右手がすばやくのびて、僕の両目をそっと塞いだ。
そして、
「3、2、1、はいおっけー」
僕の目が開放され、目の前には笑顔のJがいた。
何が起こったのかわからず、僕はきょとんと笑顔のJを見つめる。
僕は何かへんなことを云ったかな。あるいは何かしてしまったのだろうか。
「だいじょうぶ、じゃあ来週月曜の放課後に、またこの公園で、ね」
つないだJの左手にぎゅっと力がこもった。
うん、来週の月曜日に。
僕が心の声で答えると、Jはにっこり笑ってつないでいた手をそっと離した。
そして、
「じゃあまたね」
ばいばい、と手を振って、Jは公園の入り口に向かって歩き出す。
「ばいばい」
僕も云い、Jのやせっぽちな制服姿の背中に手を振る。
しだいに遠ざかっていく赤いランドセルの後ろ姿を見送っていたら、急に何だかすごく名残惜しいような気持ちがして、僕は思わず小走りに数歩、Jを追いかけて、
「J」
と、今日はじめて、声に出して彼女の名を呼んだ。
びっくりした顔で振り向いた彼女に、
「今日、がんばって僕に声かけてくれて、ありがとう」
とっさに考えたわけではなく、自然とそんな言葉が、僕の口から飛び出した。
無口な僕が口にしたとはとても思えない流暢さで、僕自身ちょっとびっくりして、云ってしまってからすごく恥ずかしくなった。
だから、照れ隠しみたいに、さっきまで彼女とつないでいた右手を頭上で大きくぶんぶん振った。
Jは一瞬、なんとも云えない複雑な表情をしてから下を向き、すぐにあの笑顔に変わって、
「キミってほんとに、あのねえ・・・、こちらこそありがと」
ふふふと笑って、もう一度手を振り、小走りに公園を出て行った。
すっかり西に傾いた夕日に照らされた僕の影が、まるでJの後を追うように公園の入り口へと長く伸びていた。
Jとの出会いは、僕にとってかなり衝撃的な出来事だった。
けれど、だからといってその後すぐに、僕を取り巻く世界が劇的に変化する、とかいうものではないらしい。
ひとりの帰り道はいつもと特に変わりはなく、家に帰ると普段通りの祖母が普段通りに夕食の支度をしていた。
Jについて祖母にあれこれ聞かれるかと思ったけれど、全然そんなことはなく、無意識に身構えていたらしい僕は少し拍子抜けしたくらいだった。
今日はじめて話をしたとは思えないくらい、僕はJとすっかりうちとけていた。
ほんの1〜2時間とは思えないくらい、いろんなものを見ていろんなことを聞いた。
まるでかなり前からの知り合いのように、僕はJをすっかり信頼してしまっている。
けれどよく考えてみると、彼女がどこの誰なのか、そんな基本的な事すらまだ知らなかったことに今さらながら気がついた。
たぶん同じ小学校だろうけれど何年生でどこに住んでいるのか、どんな家の子なのか両親は何の仕事をしているのか、祖母や母に聞かれそうなそういった情報は、ひとつも聞いていなかったなと帰り道の途中で気づいてしまい、もしもふたりから質問攻めにされたら何て答えようかと思案しながら帰宅したのだけれど。
夕方遅くに仕事から帰ってきた母も、いつもと何も変わりはなかった。祖母から何も知らされていないのか、知らされてはいるけれどもあえて素知らぬ顔をしているのか、見た目の様子からは僕にはわからなかった。
いつもと同じ普段通りの我が家の日常がそこにあって、僕は少しだけ、肩透かしをくらったような気がしてた。
夕食を終え、2階の部屋に戻ってベッドに寝転がる。
耳の奥では、いつものあの「音」が変わりなく鳴っていた。
「何の音なんだろう。風かな、それとも砂・・・」
午後の公園での、Jの声を思い出す。
少しハスキーがかった、女の子らしい高くてやさしい声。
僕の中の「音」は、今は少し静かな、遠く空の上のほうから聞こえる風の音みたいに聞こえてた。
天井を見上げていた眼を閉じて、すぐにまた眼を開いてみる。
何も起こらない、いつもの見慣れた僕の部屋の天井が、そこに見えただけだった。
白い天井の隅に、四角く切られた屋根裏への扉が見える。扉には鍵がかかっていて、僕が5年生か6年生になって扉に手が届くようになったら、母からそのカギをもらえることになってた。
耳の奥で鳴るあの「音」以外、何の物音も聞こえない。ほんのかすかに、階下のリビングで母か祖母が見ているらしい、テレビの音が時折聞こえてくるくらいだった。
僕の家は、郊外のいわゆる新興住宅地のはずれにあって、夜はとても静かだった。
20年以上前に、何々ニュータウンとかいう名称でどこかのベンチャー企業の計画のもと大々的に開発が進められていたもの、らしい。けれど、駅や役所や大きな病院のある市の中心街から遠すぎるのが致命的だったようで、残念ながらあまり売れないうちにその会社が倒産してしまい、中途半端なまま開発がストップして、今では半ばゴーストタウンのようになってしまっていた。
だから、家の周りには区画整理された更地ばかりが目立ち、その広々とした空き地のところどころに、灯りのともる家がぽつりぽつりと建っているくらいだった。
終末感というか悲壮感のようなものがそこはかとなくただよう寂れた住宅街なのだけれど、僕はわりと気に入っていた。
道路だけは開発初期に敷かれたものらしく、まだ夢も希望も予算もたっぷりあっただろう事をうかがわせる立派な街灯が左右にずらりと並ぶ広い道だった。2車線の車道の両脇に広めの歩道もあるので、子供やお年寄りも安心して歩ける。それが住宅街(になる予定だった土地)を縦横に走っているのでけっして不便ではなく、ご自慢の街灯のおかげで夜道も明るい。その瀟洒な街灯が、節電のためかひとつおきに消されてしまっている今でも、とくに不自由さを感じたことはなかった。
家の両隣は空き地、というか後ろもその両隣も空き地なので隣接する家はなかった。いちばんご近所なのは、南に2ブロック離れた角のヤマダさんの家で、たしか小学校高学年と中学生の兄弟がいたはずだ。そこからさらに1ブロックほど市街地中心方面に向かえば、住宅街のはずれに小さいけれど24時間営業のコンビニもあった。
僕の家の前、道路を挟んだ向こう側にはひときわ大きな空き地があって、高さ2メートル以上ありそうな白い鉄製の工事用フェンスで仮囲いがされていた。
大型ショッピングセンターを建設予定だったとかで、きちんと計ったことはないけれど200〜300メートル四方はありそうだった。
その広大な空き地を、延々と白い鉄製の高い塀がぐるりと取り囲んでいる。
僕たちがこの家に住むようになって4年ほど経つけれど、残念ながら工事が進んでいる様子はなく、塀の向こうからは物音ひとつ聞いたことがないので、きっと夢のショッピングセンターは永遠に未完成で、夢のままなのだろう。
もともとここは父の家だった。
父は実の父ではなく、僕と血のつながりはない。
もともと父の家だったところへ、4年前に僕と母と祖母が転がり込んだ形だった。
父は市内の地方新聞社に勤めている。新聞記者ではなくて事務方の仕事をしているらしい。
1年生の時に「お父さんの仕事」を聞いて作文を書く、という宿題が出て、母に父の仕事を聞いたところ、そう云っていた。
「総務だか経理だか人事だったかな、とにかく人の良さにつけ込まれて便利に社内のことを何でもやらされる、何でも屋さんのような仕事よ」
宿題の作文に書く、と云って聞いているのに、母はそんな身もふたもないような事を平然と云い放った。
僕から見た父は、一言で云えば「お人好しで能天気」な、とにかく絵に描いたような「いい人」だったのだけれど。
母が云うには、
「人が良すぎて出世も昇進も昇給のチャンスも、ぜんぶ喜んでほかの人に譲ってしまうとってもざんねんなひと」であるらしい。
そんな父は、今日もまだ帰っていないみたいだった。
きっと誰かに残業を押し付けられて、誰もいないオフィスでパソコンのキーボードを黙々と叩いているか、あるいは上司か同僚に飲みに誘われ、断り切れずに延々愚痴を聞かされ続けているのかもしれない。
母も口ではきついことを云うけれど、そんな父の「お人好し」なところをきっと好ましく思っているはずだった。
そうでなければ、4年前のあの時、僕と祖母を連れてこの家に来ることを決心しはしなかっただろう。
僕自身は、あの時から父の事が好きだし、あの4年前の「事件」から僕と母と祖母を救い出してくれたことには、今でも心の底から感謝していた。
僕と母と祖母、3人で穏やかに暮らしていたあの市内の小さなアパートに、気味の悪い笑みを浮かべてやってきたあの「悪魔」から・・・。
noise & bubbles iv
屋根裏ネコのゆううつ