翌日の火曜日は、朝からどんよりとした曇り空だった。
昨夜のテレビの天気予想によると、台風が近づいているらしい。僕の住む市は、その予想進路からは少し外れているみたいだったけれど、朝起きて部屋の窓を開けてみると、遠く南の海から運ばれてきたと思しき湿気をたっぷり含んだ生ぬるい風が吹いていた。
窓を閉め、勉強机の上の時間割表を確認しながら今日の授業に必要な教科書を準備して、ランドセルを抱えて階下に下りた。
いつもなら祖母がキッチンで朝食の用意をしてくれているのだけれど、今日はなぜか姿が見えず、父が流しで洗い物を片付けていた。
母はふだん通り、とっくに仕事に出かけたらしい。この家に来て父と一緒に暮らすようになってからも、母は以前の仕事を辞めることなくずっと続けていた。
職場までの距離が遠くなってしまったので、早めに家を出て運動がてら片道2kmの道のりを毎日元気に歩いて通っているらしい。
寂れたニュータウンとはいえ市の中心街へ向かう路線バスもあるにはあるのだけれど、本数自体が少ないようで特に朝夕はどれも満員鮨詰め状態なのだそうだ。
「朝から満員のバスになんか揺られてたら、それだけでくたびれちゃって仕事どころじゃないもの」
そんな母の意見には僕も同意だった。僕もあの「音」のせいで、バスや電車などの公共交通機関が苦手だったから。
「おはよう」
ワイシャツ姿の父の背に声をかけると、
「おう、おはよう。今日の朝食は父特製のスペシャルモーニングだぞ」
タオルで手を拭きながら振り返り、無精ひげの口元を綻ばせて父はニヤリと笑った。
リビングのテーブルの上、いつもの朝食用の白いお皿に、焦げたトーストと形の崩れたハムエッグが、申し訳なさそうに鎮座していた。
「おばあちゃんは?」
父特製のスペシャルなモーニングにはあえてふれずに、リビングの席に座りながら父に尋ねる。
「朝から何だか顔色が悪くてな、具合悪そうだったから、部屋で休んでもらったよ。おまえさん、出かける前におばあちゃんに声かけて、様子見てあげてくれるか」
よれよれのシャツの襟元によれよれのネクタイを引っ掛けながら父はそう言って、鞄と上着を手にキッチンを出て玄関へ向かう。
「わかった」
焦げたトーストに齧り付きながら答えると、リビングの入り口からひょっこり顔だけのぞかせて、
「おう、頼んだぞ」
またニヤリと笑って、父は仕事へ出かけて行った。
祖母が体調を崩すなんてめずらしい。
少し調子が悪いとかは別にして、祖母が風邪や病気で寝込んだ姿は見た覚えがなかった。
そういえば、昨日、公園を出ていく後ろ姿にちょっと違和感を覚えたことを思い出した。つらそうとかではなかったけれど、歩くのがいつもより遅くて、何だか祖母が小さく見えたような。
手早く朝食をたいらげ、キッチンの流しで食器を洗う。
お皿とグラスとフォークを食器カゴに立て、流しの横の冷蔵庫に付けられたタオル掛けのタオルでささっと手を拭く。
ランドセルを背負って、1階の玄関脇の廊下の奥にある祖母の和室へ向かった。
閉じた襖の向こうからは、かすかにテレビの朝の情報番組の音声が聞こえてた。
「おばあちゃん、開けるよ」
襖をノックして、開ける。
テレビはついていたけれど、見ていた様子はなかった。
祖母は寝床に横になって目を閉じていた。
「おばあちゃん?」
もう一度声をかけると、うっすらと眼を開き「ああ、キクタかい」布団の中からぼそぼそと云った。
確かに具合が悪そうだった。声にも眼にもいつもの元気がない。
部屋へ入ろうとすると、祖母は布団の中から片手だけを出して
「たちの悪い風邪かもしれない、キクタにうつしたら困る」
またぼそぼそと云って、手を広げて僕を制した。
その手の動きも、いつもよりも弱々しく感じる。僕の気にしすぎかもしれないけれど。
「うん、わかった」
うなずいて、僕は一歩下がり、廊下から祖母の部屋をのぞき込む形になった。
「台風が来てるらしいから、気をつけるんだよ。傘を忘れずにね」
それだけ云うのも、祖母はずいぶんつらそうだった。
ふと見ると、祖母の枕元にはペットボトルのお茶が2本とお皿に乗せた切ったリンゴが置いてあった。
不揃いで不恰好な切り方を見るに・・・
「ああ、あんたのお父さんだよ。今朝、台所からおばあちゃんをここまで運んでくれて、そのあとで持ってきてくれた」
やはり父特製のスペシャルなリンゴだったらしい。
でも、おばあちゃんを運んでくれて、ってどういうことだろう。まさか祖母は台所で倒れていたのだろうか。それともひとりで歩けないほど具合が悪かったのかな。
心配だったけれど、あれこれ聞いてこれ以上喋らせるのもかわいそうだし。
どうしたものかと迷っていると祖母が、
「そんな顔しなくてもだいじょうぶ。風邪なんだから寝たら治るよ。あんたは元気に学校へ行きなさい」
また布団から片手だけ出して、ひらひらとその手を振った。
「うん、わかった。おばあちゃんはゆっくり休んでね。ちゃんと寝てるんだよ」
手を振り返しながら、僕は云った。
「はいはい、そうさせてもらうよ。台風、気をつけるんだよ、傘を忘れずに」
そう云うと祖母は片手を布団の中にしまい、目を閉じた。
僕はもう一度祖母の寝顔をながめてから、音を立てないよう静かに襖を閉じた。
家を出ると、外は強い風が吹いていた。
さっき部屋から見た時よりもさらに強まっている気がする。
雨は降っていなかったけれど、大きな灰色の雲が、渦を巻くように空を流れていた。
3時間目の途中で、学校は臨時休校になった。
算数の授業中に突然校内放送のチャイムが鳴り、緊急の職員会議をするとかで全教職員は職員室に集まるよう、教頭先生の声が告げた。
担任のナガタ先生は、おそらく事前にある程度は話を聞いていたのだろう、特に慌てる様子もなく「自習してるように」と云い残して教室を出て行った。
5分も経たないうちにナガタ先生は教室に戻ってきて、「警報が出たので、本日休校になります」落ち着いた声で淡々と云った。
先生によると、接近しつつあった台風が急に進路を変え、僕らの市が予想進路の暴風圏内に入ってしまった、とのことだった。
ざわざわと騒ぎ出す子供達を、両手をパンとひとつ打ち鳴らしただけで静まり返らせ、教室をぐるりと見渡してから、
「すぐに支度をして、準備ができ次第それぞれ帰宅してください。なるべく家が近所の子と集まって帰るように」
落ち着いた声でナガタ先生はそう云った。さすがベテラン女性教師の貫禄といったところだろうか。
みんなは一斉に、ランドセルを机に乗せて教科書や筆箱をしまいはじめた。もちろん僕も。
「寄り道をせずにまっすぐ家に帰ること。川や海には絶対に近づかないこと。それから、お家の方にお迎えを頼みたい人は、先生と一緒に職員室へ行きましょう。電話を貸してあげます」
学校中で一斉に帰り支度が始まったためだろう。あちこちから机や椅子を引く音、教室の扉が開く音、小走りに廊下を走る足音などが聞こえ出して、騒然としていた。
「帰りのあいさつだけしましょう。片付け途中でもそのまま、起立、はい、ではみなさんさようなら」
ナガタ先生がそう云うと、みんなそれぞれにばらばらと立ち上がり、ばらばらに「さようなら」を云う。
先生は満足げにひとつうなずいて、出席簿などのファイルを小脇に抱えて教室を出て行った。
全校生徒が一斉に帰宅するとなると、廊下も玄関もなかなかの混雑ぶりだった。
人波に押されるように1・2年生用の玄関まではどうにか向かったものの、あまりの混雑ぶりに躊躇して、僕は渋滞を避け、ひとりトイレへ向かうふりをして一旦玄関を離れた。
僕が人混みや賑やかな場所を極端すぎるくらい苦手なのも、おそらくあの「音」のせいなのだと思う。
その「音」そのものは、なぜか今日は朝からわりとおとなしいので、その点では助かっていたのだけれど。
ひとまず、校舎の中庭に面した階段の踊り場へ避難した。ここからなら玄関とそこに向かう廊下の様子が見えるので、ここでしばらく人が少なくなるのを待ってから帰ろうと思った。
先生は「近所の子と集まって帰るように」云ってたけれど、近所の子といえば1ブロック離れたヤマダさんちの弟の方くらいで、5年生だし、たまに学校ですれ違っても無言で会釈するくらいの関係の薄さだった。
普段から一緒に帰る子もいないので、誰かを待ったり探したりする必要もない。ただ玄関と通学路がもう少しすいてくれれば、それでよかった。
階段に座って、玄関の人波が引いていくのをぼんやりと待っていると、どこからか廊下を小走りに駆けてくる靴音が聞こえてきた。
普段なら、口うるさい先生に見つかれば「廊下を走るな」と叱られるところだろうけれど、この非常時だ。多少は見逃してもらえているのかもしれない。先生たちも今はそれどころではないだろうし。
靴音が近づいてきて、階段の下で止まった。玄関の方を見ていた視線を、階段の下へ動かすと、そこにJがいた。
Jは僕を見上げて、
「K、よかった、まだ校内にいたんだね」
ハスキーがかったやわらかな声で云い、安堵したように微笑む。
あまりにも予想外のことで、僕は一瞬固まってしまっていた。
どうしてJがここに・・・いや、同じ小学校なのだから、校内にいること自体は何も不思議ではないけれど。
それに今の口ぶりは、まるで僕を探していたみたいな・・・。
「いっしょに帰ろ、K」
そう云ってJは、階段の下で僕に手招きしている。
一緒に帰る人なんていない、玄関がすいてくれればいい、なんてさっきまでそんなひねくれた事を考えていた自分自身が、なんだかとてもちっぽけに思えて急に恥ずかしくなる。
そう、僕はうれしかったのだ。
Jが僕を探しに来てくれて「いっしょに帰ろう」と声をかけてくれた事が、とてもうれしかった。
「うん」
断る理由なんてあるはずもない、うなずきながら立ち上がる。
玄関を見ると、人波は引きつつあるみたいだった。さっきよりもだいぶすいている。
「わたし、靴履いて外から回ってくるから。2年生の玄関のところで待ってて」
なんだろう、Jの言葉に、ほんの少し違和感を感じた。
昨日とは違って、少しJの表情が固いような気がする。校内にいるからだろうか、それとも台風のせいかな。
「うん、わかった」
僕がうなずくと、Jもひとつうなずいて小さく手を振り、また元来た廊下へ小走りに駆けて行った。
玄関で外履きに履き替えて、外に出て人通りのじゃまにならないよう、玄関脇の軒下でJを待つことにした。
先ほどの混雑はもうすっかり引いて、あたりの人影はまばらだった。
外は、小雨がぱらつき始めていた。
強い風が横殴りに吹いていて、軒下にいてもななめに吹き込む雨粒が僕の制服のシャツやズボンに小さな水玉模様をいくつも作った。
「お待たせ、ごめんね」
声に目をあげると、水色の傘をさしたJが小走りに駆けて来る。
「だいじょうぶ」
そんなに待ってないから、そう答えるとJは小さく笑い、「行こうか」と僕に手招きをして横に並んで歩き出した。
ふたり並んで歩きながら、校庭の端を通って、校門まで来たところで、どちらからともなく立ち止まる。
校門の前には、子供を迎えにきた保護者たちの車と、迎えを待つ子供が列をなしていて、混雑していた。
すくまでには、しばらく時間がかかりそうだった。ここで待つしかないだろうか。
列の間に隙間を見つけて無理やり通ることもできなくはなさそうだけれど、傘を開いたままだと確実に列で待つ誰かの傘とぶつかるだろうから、傘をたたむべきかな。
思案していると、Jが
「あっちから出ようか」
と校門をはさんで校庭の反対側を指さしている。
そこは、職員専用の通用口だった。
車で通勤する教職員のための出入り口で、校庭の端にある職員たちの駐車場につながっている。
普段は鉄製の門が閉まっていて、職員が出入りする度に開けたり閉めたりしているものだったけれど、非常時のためか、門が開いたままになっているのが見えた。
よく見ると門の外にレインコートを着た教師らしい男性がひとり立っていて、ハンドマイクで外に向かって何やら大声を上げていた。
風の音に消されて何を云ってるのかは聞こえなかったけれど、おそらく、迎えの保護者の車を職員用の駐車場へ誘導しようとしているのだろう。
残念ながらその声は車の中の保護者たちには届いていないようで、しかも校門の前に迎えを待つ子供たちが並んでしまっているので、保護者たちはその中から我が子を探そうと校門前に路上駐車の列が伸びていく、という状況のようだった。
つまり職員通用口の門が開いているのは、保護者たちの車を中の駐車場へ入れるため、だったのだけれど、僕たちはこれ幸いとその門を通って外に出る事ができた。
「先生さようなら」
ハンドマイクの男性教師の横を通り過ぎながら、Jがぺこりとお辞儀をする。僕も一緒にぺこりと頭を下げた。
「お、なんだお前たち賢いな。あっち通れないもんな」
叱られるかと思ったけれどそんなことはなく、若い男性教師はそう云って「はいさよなら、気をつけてな」と笑顔で僕らを送り出してくれた。
Jと僕は、気まぐれに右から左から強く弱く吹き付ける風に、手にした傘を翻弄されながら、しばらく並んで歩いた。
雨は時折強くなったり不意に弱くなったりしながら振り続けていたので、じゃまだけれど傘をたたむわけにもいかない。
とはいえ、僕は意外とこの状況を楽しんでいたかもしれない。
油断すると手を離れて飛んでいきそうになる傘を必死に支えるのもゲームみたいで面白かったし、何より、誰かと一緒に帰るのなんて初めてのことだったから。
だから、Jの様子がおかしいのに気づいたのは、しばらくふたりで通学路を歩いた後で、だった。
大通りの信号待ちで、歩行者用信号が青に変わるのを待ちながら、何気なくJの横顔を見たとき、Jが思い詰めたように前方の一点を見つめ、唇を強く噛み締めているのに僕は気づいた。
何か怖いものとか嫌なものでも見たのかなと思い、Jの視線の先を目で追ってみたけれど、いくら目を凝らしてみても、雨粒が弾ける濡れたアスファルトの路面と時々吹き付ける強い風に波打つ水たまりしか見えない。
「J?」
僕のかけた声は、ちょうどその時にごうと吹きつけた強い風の音にかき消されてしまった。
僕は傘を左手に持ち替えて、あいた右手でそっとJの左手をつないでもう一度
「J?」
今度は心の声で彼女を呼んだ。
ハッと思いのほかJは驚いて、大きく息を吸い込んでからゆっくりと僕を見た。
そんなにも、彼女を深く思いに沈ませる何かがあった、のかな。
「ごめん、K、わたし・・・」
Jが心の声でそう云いかけた時、歩行者用信号が青に変わり、信号待ちをしていた周りの人たちが一斉に歩き出す。
彼らのじゃまにならないよう、僕らも手をつないだまま歩き始める。
横断歩道を渡り終え、大通りから人通りの少ない裏通りに入るまで、Jの心の声は黙ったままだった。
裏通りに入っても風雨は止むことはなかったけれど、ひらけた大通りよりはいくらかましだったかもしれない。
狭い裏通りを並んで歩きながら、ようやくJは心の声で話し始める。
「ごめんね、K。わたし、わたしね・・・」
Jの声は震えてるみたいだった。
事ここに及んで、ようやく僕は、これは本当にただ事ではないと思い至った。
Jはけっして喋りが流暢な方ではないかもしれないけれど、昨日のJの話し方はゆっくりと丁寧で、とてもわかりやすかった。
少なくとも昨日は、こんなふうに、あふれる感情に押しつぶされて何をどう伝えればいいかわからないみたいな、不安そうな話し方は一度もしなかったはず。
どこかで落ち着いて、ゆっくり話を聞くべきかもしれない。
いまこの場所からなら、あの公園も近い。このまま裏通りを少し進んで、もう一度さっきの大通りを渡って向こう側に戻れば・・・
「だめ、こんな日に、あぶない」
震えながら、でもきっぱりとJはそう云って首を横に振る。
そして立ち止まり、僕の顔をのぞき込むようにして、
「K、手をつないでくれてありがと。危ないから、歩きながら話そ」
そう云って、力無く笑った。
無理して笑うような、こわばった笑顔で。
「うん」
わかった、と僕はうなずいて、またふたりで手をつないだまま裏通りを歩き出す。
しばらくは沈黙がつづいた。
僕にはそれが10分にも20分にも感じられたけれど、実際は1〜2分ほどだったはずだ。
裏通りを抜けた三叉路にある信号は赤で、またそこで歩行者用信号が青に変わるのを待っていると、Jがぽつりぽつりと話し始める。
「K、ごめんね、わたし・・・」
それが心の声であっても、口を開くと、言葉といっしょに何かの感情が湧き出てしまうらしい。
Jはあふれ出す感情を必死に抑え込もうとしながら、言葉を続ける。
「わたし、昨日、Kに云えなかったことが、あるの」
僕は黙っていた。黙ったまま頷いてJの灰色の眼を見つめ、彼女の言葉のつづきを待った。
「とっても大事なこと。云おうかどうしようか、とっさに、すごく考えたんだけど、どうしても、昨日は云えなくて」
信号が青に変わった。
他に信号待ちをしている人はいなかったけれど、僕とJは横断歩道を渡る。
信号を渡った先に、バス停が見えた。3人がけのベンチと申し訳程度の屋根もある。
強い風のせいでその屋根は、ほとんど雨よけになっていなかったけれど。
あそこに座って話そう、と僕はJの手を引いた。