片手で傘をたたんでバス停のベンチに立てかけ、僕はポケットからハンカチを取り出して、水の溜まったベンチの座面をささっと拭いた。気休め程度だけれど。
「ありがとう」
一瞬だけ、Jの表情が和らぐ。彼女は少し微笑んで、ベンチに腰を下ろした。
僕も隣に座る。
Jがさしたままだった傘を、僕もその中に入れるようにこちらに傾けてくれた。
ありがとう。
J、ゆっくりでいいから、話してみて。
「うん」
Jはまっすぐに僕の眼を見てうなずいて、
そして話し始めた。
「・・・昨日、わたしの「泡」の説明をした時、色の話、したでしょ」
Jにしか見えない「泡」は人の頭の上にひとつずつ浮かんでいて、それぞれにいろんな色がついてる。
色には意味があって、青や緑は安全な人、赤や黄色は近づかない方がいい人、Jのこれまでの経験からそう分類されてる。
そして、Jと僕、それからL、謎の「力」を持っている僕らだけは、その色が白で表面が虹色に光っている。
それから人間以外の生き物、イヌやネコなどにも「泡」がある。また、「泡」がない生物もいる。「泡」のある・なしは個体ごとではなく、生物の種類ごとに決まっているらしい。人間以外の生物の「泡」の色は全て同じ、薄い灰色をしていて今のところ例外はない。
昨日のJとの会話を思い出しながら、僕は頭の中でそう整理した。「泡」の色について聞いたのは、こんなところだったと思う。
「そう、さすがだね。ちゃんとぜんぶ覚えてる」
Jはうれしそうに、またほんの少しだけど表情をゆるめてくれた。
でも、とすぐに唇を引き締める。
「でも、人の「泡」には、もうひとつ、別の色があるの。・・・その色は、少し、特別で・・・」
そこでJは言葉につまってしまう。
もうひとつ、別の色。
その色は、少し、特別
僕ら以外にも、何か別の条件によって特殊な色を持つ人がいる、という事なのかな。
それがどんな条件なのかは、ちょっと思いつかないけれど。
Jは静かに首を横に振る。
「そういう、意味じゃないの。普通の人、青や緑の人でも、その特別な色に、変わる事が、あるの。それは・・・」
また、Jは口ごもる。
Jがこれほどに云いにくい事って、一体なんだろう。
特別な色だけれど、僕らのように何かの「力」や条件によってその色が決まるわけではない。
普通の人、青や緑の人でも、
特別な色に、変わる事がある?
「泡」の色が変わるの。
でもたしか、Lの「線」にも同じように色があるけれど、「線」は青が赤に変わったりはしない、と聞いてた。
青い「線」が何かのきっかけで赤い「線」に変わることはなく、青い「線」はずっと青いまま、同じように赤い「線」は最初から赤いまま、って。
だから、「泡」の色も変わらないのだろうと思っていたのだけれど。
Jはかぶりを振る。
灰色の大きな眼に、今にもこぼれ落ちそうな涙の雫が浮かんでる。
「Lの「線」も同じかは、わからない。でも「泡」は、昨日まで青かった人が、突然「黒」に、なるの。そして・・・」
Jの心の声はか細く震え、泣いていた。
昨日まで青かった人が、突然「黒」になる、そして・・・
そして?
「死」という言葉が、唐突に僕の頭に浮かんだ。
同時に、Jの灰色がかったきれいな眼に溜まっていた涙がぽろぽろとこぼれて、その白い頬をつたっておちる。
そして「黒」になったその人は、死ぬの。
Jは否定も肯定もしなかったけれど、こぼれた涙がその答えだったのだろう。
昨日まで「青」だった人が、突然「黒」になる・・・
つまり、Jには、人の死期が、見えてしまうの。
「ごめん、K、ほんとにごめんね」
Jはこぼれ落ちる涙をぬぐいもせずにそう云って、おもむろにベンチから立ち上がった。
「早く、早く帰ろう、K」
女の子とは思えない力強さで僕の手を引いて立ち上がらせ、その手をぐいぐいと引いたまま歩き出す。
突然のことに驚きながらも、僕は不意に、何もかも腑に落ちた気がしてた。
昨日、僕らは、「次は来週の月曜日」と約束していたはずだった。
それが今日はまだ1日しか経っていない、火曜日だ。
台風で臨時休校になった校内で、Jは僕を探しに来て「一緒に帰ろう」と云った。
もちろん、台風のせいもあったのかもしれない。
けれど、今日のJはずっと様子がおかしかった。
その理由は、
「泡」の色、人の死期が近づくと変わるという色、「黒」
その話を昨日できなかったから、とJは云った。
「とっても大事なこと。云おうかどうしようか、とっさに、考えたんだけど、どうしても、云えなくて」
そう彼女は云った。
住宅街の外れの小さなコンビニの前を通り過ぎる。
雨と風はますます強くなっていた。
「J、その「泡」が黒くなった人は、その後、どれくらい生きられるの?」
ほとんど小走りに近いスピードで、僕は家へと急ぎながら、彼女に聞いた。
手をつないでいたら、こんなふうに走りながらでも会話ができるんだ、本当に便利だな、なんて場違いな思いが心の片隅に浮かんですぐに消える。
Jはまた、かぶりを振る。
「わからない。そんなに、たくさん、見た事があるわけじゃないの。でも、お隣りのおじいさんは、ある日突然黒くなってるのに気づいて、その次の日には、亡くなってた」
それはそうだろう、と思う。
普通の小学生なのだ。
そんなに人の「死」が身近にあるはずがない。
たとえば街で、偶然に黒い「泡」の人を見かけたとして、それが見知らぬ人だったなら、その人のその後なんてわからない。
たまたま黒い「泡」の人を見かけた、それが近所に住むおじいさんだったから、普段の色と違う事に気づいた。
そして近所に住むおじいさんだったからこそ、翌日亡くなったことも知った。
そうでなければ、わからない。
いったいどれくらい前からお隣のおじいさんの「泡」の色が変わっていたのか、それもわからない。
よほど身近な、それこそ一緒に暮らす家族でもなければ、いつ色が黒くなり、その後どれくらいで亡くなったのかなんて、わかるはずもない。
「ごめん、へんなこと聞いて」
僕が謝ると、Jはまたふるふるとかぶりを振る。
「もうひとつ、・・・」
はっきり聞くべきかどうか、さっきから僕は迷ってた。
迷いながら、昨日のJはきっとこんな風に、ずっと迷ってたのだろうなと思う。
答えはもうわかってる。
台風が近づく中、家に急いでいるのは避難のためじゃない。
「ごめん、やっぱりいい。それより早く帰ろう」
僕はそう云って、つないだ手に力を込める。
昨日、Jは何を見たのか。何を見て、黒い「泡」の事を僕に云うべきか迷ったのか。
わざわざ聞くまでもない、と僕は思った。
今それを問いただして、わざわざJの口から云わせるべきじゃない、と。
昨日、あの公園で祖母と出会った時の、Jのこわばった笑顔を僕は思い出していた。
初めて会う大人だから、緊張しているのかと思ってた。
でもちがう。
Jは、見てしまったのだ、祖母の「泡」の色を。
そしてそれを僕に云うべきかどうか迷い、結局云えないまま昨日はわかれた。来週月曜日の約束だけをして。
昨夜、Jは眠れなかったんじゃないだろうか。
悩んだ末に、やっぱり云うべきだと思い、今日、学校で僕を探しに来た。
たまたま台風の臨時休校と重なったけれど、たとえ臨時休校になっていなくても、台風が来ていなかったとしても、Jは今日、学校で僕を探しに来ていたのだろう。黒い「泡」の話をするために。
そんなやさしいJに、これ以上、僕は何を云わせようというの。
それをJの口から聞くことに、いったい何の意味があるの。なんにもありはしない。
だから、もう何も云わなくていい。
J、知らせてくれて、今日、僕を探しに来てくれて、ありがとう。
振り返ると、Jは泣いてた。大きな灰色のきれいな眼から大粒の涙をぼろぼろこぼしながら。
Jは泣きながら、僕に手を引かれ、よろめき走っていた。もう片方の手には、開いたままの水色の傘が、走りながらどこかにぶつけたのか、それとも強風にあおられたせいか、骨がゆがみあちこちねじ曲がって、ぱたぱたと風にはためいていた。
僕はあわてて足を止め、そっとつないでいたJの左手を離し、右手からJの傘を受け取って、ねじまがった傘を折ってしまわないように慎重にたたんだ。あとで、父に直してもらおう。あの人、たぶんこういうの得意そうだ。
たたんだJの傘と僕自身の傘を右手に持ち、左手でもう一度、そっとJの右手をつないだ。
「ありがとう」
Jはそう云ってくしゃっと困ったように笑い、空いた左手で制服のポケットからハンカチを取り出して、涙を拭いていた。
もう、僕もJも全身びしょぬれで、涙なんだか雨なんだかわからないくらいだけれど。
「ふふふ、ほんとだね」
Jは今日はじめて、あの笑顔で笑った。心がほっとする、あの笑顔で。
「・・・キミ、ほんとに」
Jはそう云いかけて、すぐにううん、とかぶりを振る。そして、唇をきゅっと引き結び、
「早く帰ろう、K」
そう云ってJはまた走り出す。
「うん」
僕もうなずいて、Jの手を引いて走り出した。
気づけば、もうヤマダさんの家の前まで来ていた。
僕の家まで、あと2ブロックだ。
家に着いた時には、ふたりとも息も絶え絶えだったけれど、それに気づいたのはもう少し時間が経ったあとだったように思う。
どれくらい走ったのだろう、たぶん距離的には1kmあまりのはず、2kmはなかったはずだ。
玄関のドアを開け、傘を放り出して、靴を脱ぐのももどかしく、転がるように廊下へと
駆け上がろうとしたところで、後ろ手に手を引かれ僕は立ち止まった。
そうだ、Jと手をつないだままだった。彼女は、玄関の上がり框のところで躊躇していた。
「J、上がって、一緒に来て」
つないだ手にほんの少しだけ力をこめて、僕は云った。
特に何か考えがあったわけではなかったけれど、彼女をひとりで玄関に立たせたまま、僕だけ家に上がるわけにもいかない。
Jはこくんとうなづいて、「おじゃまします」小さくお辞儀をして、開いたままになっていた玄関のドアを静かに閉めた。
そして靴を脱いできちんと揃え、脱ぎ捨てていた僕の靴もそろえてくれた。
まじめなJらしいその姿に、焦っていた僕の気持ちが、少し落ち着いていくのがわかった。
Jがいなかったら、勢いのまま祖母の部屋に飛び込んでいたかもしれない。
ふう、とひとつ深呼吸をして、「行こう」とJに声をかける。
「うん」白い頬をこわばらせたまま、Jは小さく頷いた。
はやる気持ちを抑え、できる限り普段通りに廊下を進んで、祖母の和室の前に立った。今朝僕が出かけた時の状態のまま、襖は閉じている。
襖をノックして声をかけてみた。
「おばあちゃん、ただいま」
返事はない。襖越しにテレビCMの音らしい軽快なBGMがかすかに聞こえるけれど、祖母の反応はなかった。
・・・眠っているのかもしれない。
「おばあちゃん、開けるよ」
もう一度襖をノックして、ゆっくりと開けた。
テレビはついたままになっていたけれど、やはり見ていた様子はなかった。
朝と同じように、祖母は寝床に横になって目を閉じていた。
違いといえば、今は両手を布団から出して、お腹の上で指を組んでいることくらいだった。
「おばあちゃん?」
声をかけても返事はない。僕の足はすくんだようにその場から一歩も動けず、廊下に立ったままだった。
さっきから何度も、とても恐ろしい想像が脳裏に浮かびそうになるのを、僕は必死にかき消していた。
・・・もしかして、眠っているんじゃなくもう・・・
僕はかぶりを振った。
今にも和室に飛び込んで、祖母の両肩をつかんで激しく揺さぶりたい、
唐突にそんな衝動が湧き上がって、僕はもう一度激しく頭を振る。
Jがためらいがちに手を伸ばし、つないでいた僕の手をそっと両手で包み込んだ。
ぐるん、と視界が回転するようなあの感覚がして、僕はJの眼で、祖母を見た。
祖母の頭の上には、「泡」があった。黒い闇夜の空のような不吉な色の「泡」が。
「ごめん」小さくつぶやいて、すぐにJは片手を離した。僕の視界が戻ってくる。
「亡くなった人の「泡」がどうなるのか、消えるのか、それともまた違う色になるのか、わからない。わたし、亡くなった人を見たことがないから。でも・・・」
祖母の頭には「泡」がある。昨日、Jが見たのと同じ、黒い「泡」が。
だから・・・、
「おばあちゃん!」
今度はさっきよりも大きな声で、もう一度、僕は祖母を呼んだ。
祖母の閉じていた眼がゆっくりと開いて、僕を見る。
「ああ、キクタ、おかえり」
かすれたほとんど聞こえないような小さな声で、祖母はそう云った。
そして僕の隣に立つJを見て、
「まあ、じーんちゃん、遊びに来てくれたんだねえ。うれしいねえキクタ、よかったよかった」
顔をほころばせ、今にも消え入りそうな声で祖母は云った。
「おや、あんたたち、ずぶ濡れじゃないのかい。まあまあ、風邪でもひいたらたいへんだ、おばあちゃんが今タオルを、タオル・・・」
祖母の視線が僕とJを離れた。焦点の合わない眼は、中空をさまよっている。
そして、箪笥からタオルを出そうとしているつもりなのだろうか。寝床に横になったまま宙に両手を伸ばして、見えない何かを探っている。
僕はJの手を引いて和室に入り、祖母の箪笥を開けてバスタオルを2枚引っ張り出した。
そして、ふわふわと中空で見えない箪笥を探っている祖母の手に、タオルを1枚ずつ持たせた。
「ああ、ここにあった。ほらあんたたち、これでしっかり拭きなさい。風邪をひかないように」
祖母はにっこり笑ってそう云い、タオルを持った手を僕とJに差し出した。
CMが終わったらしく、テレビから派手な音楽が鳴り響いて何かの番組が始まった。うるさい。祖母の声が聞こえない。
僕はテレビの電源ボタンを押して消し、祖母からタオルを受け取った。
「ありがとう」
Jも祖母の手からタオルを受け取る。昨日と同じ、少しこわばった笑顔で。
僕はJとつないでいた手をそっと離し、頭からバスタオルを被って両手でごしごしと拭いた。
Jも遠慮がちに、濡れた髪や制服の肩をタオルで拭いていた。
「よしよし、ふたりともいい子だ」
満足そうに、祖母は笑っている。
どうしてだろう、テレビは消したのに、祖母の声はほとんど聞こえないくらい小さい。
小さくひとつうなずくと、祖母は横になった姿勢のまま、両手を左右に広げて伸ばした。
そして、上に向けた手のひらを、手招きするようにひらひらと振っている。
タオルを返せばいいのだろうか?
濡れたタオルを差し出すと、「ちがうよ」と小さく首を横に振り、
「キクタ、手を。あんたの手だよ」
左手で僕を手招きするので、僕は祖母の寝床の右側に回り込み、座って祖母の手を握った。
「そう、そうだ」
祖母はかすかにうなずいて笑う。
そして、今度は右手をJに向けてひらひらと振る。
「じーんちゃん、あんたもだ。おばあちゃんの手を、握ってくれるかい」
Jは少し困ったような顔で祖母の手を見て、僕を見た。僕がうなずくと、Jもうなずいて、「はい」と小さく祖母に答え、寝床の左側にひざまずいて祖母のしわだらけの痩せた右手を握る。
「いい子だねえ。ふたりともとってもいい子だ」
祖母は眼だけを動かして、僕とJの顔を交互に見て、満足そうに何度もうなずいた。
「こんないい子たちに、見送ってもらえるなんて、おばあちゃんはしあわせだ」
祖母の声はもうほとんど聞き取れないくらい、小さく弱々しくかすれていた。
乾いた唇の間からもれる空気が、かろうじて声になっているくらいだった。
祖母の枕元には、ペットボトルのお茶が2本と白いお皿にのせられた不揃いに切られたリンゴが、今朝見た時と変わらずに置いてあり、手をつけられた様子はなかった。
「おばあちゃん、お茶飲む?リンゴは、食べれる?」
左手で祖母の左手をにぎったまま、右手を伸ばして枕もとのお茶を取ろうとすると、祖母は小さく横に首を振る。
「だいじょうぶ」
口はそう動いていたけれど、声は聞こえなかった。
開けたままだった和室の襖の外、廊下の掃き出し窓に吹き付ける強い風雨の音がうるさかった。
僕の視線に気づいたのだろう、Jが祖母とつないでいない方の左手を伸ばして、静かに襖を閉めてくれる。
その様子を見ていたのか、祖母の乾いた唇から、「ふふふ」と小さく笑い声がした。
「じーんちゃん、あんたは本当にやさしい子だねえ。まるで、天使様の使いみたいだ」
祖母の眼には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「あんたの頭の上に、光る輪っかが見えるよ。天使様だねえ」
不思議なことに、ほとんど声になっていない祖母の声は、けれどしっかりと僕の耳に届いていた。
Jにも聞こえていたらしい。
祖母の言葉を聞くとJは左手で自分の鼻と口を覆い、ぎゅっと眼を閉じて涙を必死にこらえていた。
「キクタ、あんたには、光る冠が見えるよ。王冠かね、あんたはまるで、王様みたいだ」
祖母は、何かしあわせな幻でも見ているのだろうか。
やさしい笑顔を浮かべて、僕とJを交互に見つめていた。
「おばあちゃん・・・」
僕の中から、何か得体のしれない感情があふれて、声にならない声で僕は祖母を呼んでいた。
「ふふふ、しあわせだねえ。ありがとうねえ、ふたりとも」
声にならない祖母の声。
それが、祖母の最後の言葉だった。
祖母の眼から、きれいな涙があふれてこぼれた。
それっきり、祖母は何も云わなくなった。
「う・・・」
唇が白くなるくらい固く結んで涙をこらえていたJの口から、声にならない声がもれた。
同時に、灰色がかった大きな眼から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「K・・・」
Jはふるえる声で僕を呼び、
「・・・おばあちゃんの「泡」、消えちゃった・・・」
絞り出すようにそう云った。
そしてまた唇をかみしめて、下を向き、涙をぽろぽろこぼしながら、Jは声を殺して泣いていた。
noise & bubbles vii
屋根裏ネコのゆううつ