noise & bubbles viii

屋根裏ネコのゆううつ

「・・・・・・」
僕は、何か云おうと口を開いた、けれど。
何の言葉も出てこなかった。
なんとなく、わかってた。
さっき、祖母の眼からこぼれて落ちた涙の雫を見た瞬間に、
そのきれいな涙の粒が祖母のしわだらけの目尻をつたって落ちるのを見たその時に、
もう二度と祖母の声を聞くことはできないだろうと。
きっとそうなのだろうと、何故か僕にはわかってたんだ。
ぽっかりと胸に穴があいたような、という例えは、この事を云うんだな、と、
そんな事を、心のどこかで思ってもいた。
不思議なことに、涙は出なかった。
悲しいのに、いや、悲しすぎて、僕の中の大事な何かが、ぷつりと切れてしまったみたいだった。
母になんて云えばいいのだろう。
ふとそんな思いがよぎって、現実に帰る。
そうだ、母に知らせなくちゃいけない。
祖母の和室には、テレビの横に固定電話があったはずだ。
母の職場の電話番号は、だいじょうぶ、覚えてる。
妙に体が重かった。
まるでプールで水の中に首までつかって動いているみたいに、ひとつひとつの動作がひどく緩慢としてる。
電話の前に行き、受話器を取る。プッシュホンのボタンを押す。
それだけの動作に、5分も10分もかかっているみたいに感じられた。
3コールほどで事務員さんらしい女性が電話に出た。そのコール音も永遠に鳴り響いているかのように長く感じた。
「もしもし、スズキキョウコをお願いします。僕はスズキキクタといいます」
自分の声が、まるで録音された機械の声のように聞こえる。何の感情もこもらない冷たい声。
「あら、スズキさんの息子さん?少々お待ちくださいね」
事務の女性の明るい声が、今は少し煩わしく感じた。けっして不快な感じではなかったのだけれど。
「はい」
と答える間もなく、保留音に変わった。
短いフレーズがリピートで繰り返される音楽が、僕は苦手だったことを思い出した。
ずっと聞いていると、目が回ってくるような気がするから。
延々と30分はその保留音を聞かされ続けていたように感じたけれど、実際は30秒も経っていなかったはずだ。
「もしもし、キクタ、あんた家にいるの?ああ、台風で休校になったのね」
いつもの母でホッとした。云うべきことは母が先に全部話してくれるので、僕は「うん」と答えるだけでいい。
「で、どうしたの。おばあちゃんいないの?」
「ううん、いるよ」
そう答えたけれど、さすがにこれ以上は、うんとううんだけで済ませられそうになかった。
「ん?」
勘のいい母の事だ、おそらくこの時点で、何かあったのかと察したらしい。僕の次の言葉を待っていた。
「おかあさん」
「はい」
「おばあちゃんが、亡くなったよ」
どう云おうかと考えてはいたけれど、その時まで頭の中に何の言葉も浮かんではいなかった。
それなのに、口を開くと僕は淡々とそう云っていた。
長い沈黙は、10秒くらい続いただろうか。
「わかった」
短くきっぱりと、いつも通りの声で母はそう云った。
「お父さんに連絡して、すぐ迎えに来てもらう。一緒に帰るから」
「うん」
「キクタ、あんたひとりでだいじょうぶ?」
「だいじょうぶ、ひとりじゃないから」
Jがいるからひとりじゃない、というつもりで云ったのだけれど、いかに察しの良い母でもそこまでは思い至らなかったらしい。
祖母がいるからひとりじゃない、という意味に解釈したみたいだった。
「わかった、じゃあすぐ帰るから。おばあちゃんのこと見ていてあげて」
「うん」
母が受話器を置く音が聞こえたので、僕も電話を切ろうとして、一瞬、気が遠くなった。
母への連絡が済んで、気が緩んだのだろうか。
目の前がいきなり真っ暗になり、立っていられなくなってその場にへたり込んだ。
僕の手から受話器が和室の畳の上に落ち、思いのほか大きな音を立てた。
「K!」
その音で僕の異変に気づいたのだろう、Jは飛び上がって僕に駆け寄り、肩を支えてくれた。
Jの手のひらの温かさがとても心地よくて、僕はそのまま気を失った。

小一時間はぐっすり眠ったような気分だったけれど、実際に意識を失っていたのはほんの数十秒のことだったらしい。
眼を開くと、心配そうに僕をのぞき込むJの顔が間近に見えたので、ちょっとびっくりした。
あわてて飛び起きた。
辺りを見回して、すぐに現実が戻って来る。
祖母の和室で、目の前にはJがいて、寝床には祖母がまるで眠っているかのように横たわっていた。
祖母は僕が最後に見た時と同じ、やさしい微笑みを浮かべてしあわせそうに目を閉じている。
Jがそうしてくれたのだろうか、祖母の両手は胸の上で祈るように指を組み合わせていた。
さっき僕が取り落とした電話の受話器は、Jが直してくれたのだろう、あるべき位置に戻されていた。
電話、そうだ。
「J、お家に電話して。後で父さんが帰ってきたら、車で送ってもらうから」
台風で臨時休校になったはずなのに、子供が学校から帰ってこない、という事になれば、家族は心配しているに違いない。
Jは、僕がすぐに眼を覚ましたので安心したのか、放心したようにぼんやりとしていた。
「J?」
もう一度呼ぶと、Jは、はっと我に返った。
無理もない、いろんなことが立て続けに起こって、あげくに目の前で僕が気を失うし。
僕は和室の隅から座布団をふたつ持ってきて、祖母の寝床の足元に並べて置き、そこに座ってJも隣に座らせた。
右手でそっとJの左手をつないで、
「ごめん」と頭を下げる。
「母に連絡したら、気がゆるんじゃったみたいだ。失神するなんて」
Jの眼を見る。灰色がかったきれいな眼は、泣きすぎて真っ赤に充血してた。
Jはゆっくりと首を横に振って、
「キミが、いつでも冷静沈着な、スーパーヒーローじゃなくてよかった。ちゃんと、小学2年生らしいところもあって、よかった」
心から安心したようにそう云われて、僕はどんな顔をすればいいのかわからなくなった。
「そんな、すごい何かなんかじゃないよ。僕は、ただの内気な子供で」
今日だって、台風なんてへっちゃらでひとりで帰れるみたいな顔してたけど、Jが探しにきてくれて、どんなにうれしかったか。
「あのね、ただの内気な子供は、自分のことそんな風に云わないよ」
Jはほんの少し笑ってそう云うと、「電話、借りるね」と立ち上がりながら、つないだ手をそっと離した。
家に電話をかけているJの声を背中で聞くともなしに聞きながら、僕はぼんやりと祖母の手を見つめていた。
何か大事な事を忘れているような気がしたけれど、それがなんだったのか、その時は思い出せなかった。

それから、母が帰って来るまで、30分くらいだっただろうか。電話を終えてまた僕の隣の座布団に座ったJと、手をつないで、何かとりとめのない話をぽつりぽつりとしていたのだけれど、お互いにどこか上の空で、何の話をしていたのかは覚えていない。
外の雨音にまじって、家の前に車が止まる音がした。
すぐに玄関が開き、ばたばたと廊下を走る音がして、母が和室の襖を開けた。父は、車をガレージに入れているらしい。がらがらと車庫の門が開く音が聞こえていた。
「・・・」
母は口を開き、寝床にいる祖母を見て、すぐにその足元で座布団に座る僕とJを見て、云うべき台詞を忘れてしまったみたいに、ゆっくりと息を吸い込んで、口を閉じた。
襖が開くより先にJはすっとつないでいた手を離して、座布団の上に正座してた。何かを思ってそうしたと云うより、反射的に体が動いた、という感じだった。
「おじゃましてます」
Jは正座のまま母の方を向き、ささやくような小さな声でそう云って、丁寧なお辞儀をしてた。
察しのいい母は、すぐに状況を理解したらしい。
「ジーンちゃんかな。キクタを送ってくれたのね、どうもありがとう」
お辞儀を返して、和室に入ってきた、けれど。
いや、待って。察しがいいにもほどがある。
どうしてJの名前を知ってるんだろう、それになんで彼女がJだと見ただけでわかったの。
「キクタも、連絡ありがとね」
そう云って、母は僕とJの頭をふわふわとぬいぐるみでもなでるみたいにやさしくなでた。
僕はいつものことで慣れているからいいけれど、Jは、初対面のおばさんから不意に頭をふわふわなでられて、きょとんとした顔をしてた。
そして母は寝床の祖母を振り返り、「おかあさん、ただいま」いつものようにそう云って、祖母の寝床の右側へ座り込む。
ちょうどそこへ、父が開いたままの襖から顔をのぞかせた。
母がすかさず、
「キイチロウさん、あとでジーンちゃんをお家まで送ってあげてもらえるかしら」
祖母を見て、母を見て、僕とJを見て、何か云おうと口を開けたまま何も云えなくなっている父に、そう声をかける。
母の言葉に、父も状況を把握したらしい。いつものように無精髭の口元に笑みを浮かべて
「心得ました」と恭しく丁寧なお辞儀をする。右手を胸に当て左手を腰の後ろに回す、昔の映画の英国紳士がやるようなやつだ。
僕はいつものことで慣れているけれど、Jはやっぱり眼を丸くして父を見ていた。
僕もきっと初めて見たらヘンだと思うだろうけれど。でも父と母にはこれが普段通りなのだ。
母は父を「キイチロウさん」と呼び、父は母を「キョウコさん」と呼ぶ。人前であろうとなかろうと。
そして父はけっしてふざけているわけではなく、いつでも大真面目にまるで従者か執事のように母にかしずいている。そういう人なのだ。
「キクタ、ジーンちゃん、こっちおいで」
父は和室には入らず、廊下から僕とJに手招きしている。母を祖母とふたりきりにしてあげよう、という事なのだろう。
僕はまだぽかんとしたままのJを促して立ち上がり、ふたりで和室を出て、そっと襖を閉めた。
父は僕らを先導してリビングに入って行った。そして椅子をふたつ引いて傍に立ち、お辞儀をしながら右手でその椅子を指し示す。
「どうぞお掛けを」
母に対しては、けっしてふざけているわけではないと思うけれど、僕に対しては、たぶん父はふざけていると思う。
ふざけているというか、大型犬がじゃれているみたいというか。
「ありがとう」と僕はそしらぬ顔で椅子に座り、また眼を丸くしているJを振り返って「座ろ」と声をかけた。
「あ、ありがとうございます」
まじめなJはまじめに父にお辞儀をして、おずおずと僕の隣の椅子に座った。
父は満足げにひとつうなずいて、キッチンに向かいながら、
「ふたりとも雨にぬれたんだろ、じゃあ温かい紅茶の方がいいかな」と云う。
「うん」いつもの調子で僕はそう答えたけれど、もしやと思いJを見ると、彼女はまた大きな眼をまんまるにしていた。
そっとテーブルの下で手をつないで、
「J、気にしないで。父は、ちょっと変わってるんだ」
頭の中で、僕はそう云い訳する。ちょっと、いや、だいぶ、かな。悪い人ではないのだけれど。
「ううん、すてきなお父さんだねえ。椅子を引いてくれて、お茶まで淹れてくれるなんて」
Jの素直な感想は、逆に僕を驚かせた。そういう見方もあるのか。なるほど、やっぱり僕はまだまだ未熟らしい。
父が戻ってきたので、そっと手を離す。
トレイに乗せたカップをテーブルに並べ、また大袈裟に片手を腰の後ろに当てて、ポットから湯気の立つ紅茶をしずしずと注ぎながら、
「いやあ、噂のジーンちゃんにこんなにも早くお目にかかれるとは。気まぐれな台風に感謝しなきゃだなあ」
父はうれしそうにそう云った。
「噂の?」
いったいどこでJの噂が流れてると云うのだろう。
「昨日、公園でふたりに会ったって、おばあちゃんがうれしそうに話してくれたんだよ」
父はにやりと笑っている。
なるほど、納得した。
昨夜、僕が部屋に戻った後に、祖母が昼間の公園でのことを、仕事から戻った父と母に話していたのだろう。
母がJの名前を知っていたのも、すぐに彼女がJだと気づいたのも、昨夜のうちに祖母から話を聞いていたから、ということだったらしい。
「雨の中、わざわざこんな街外れまで送ってもらって、ジーンちゃん、本当にありがとうね」
僕らの向かい側に腰掛けて、自分の分の紅茶を注ぎながら、父は細い眼をいっそう細くしてうれしそうにそう云った。
噂のジーンちゃんはと云えば、頬を赤く染め、恥ずかしそうに下を向いて
「いえ、そんな、わたし、ぜんぜん・・・」
顔の前で両手を振ってた。
「後でちゃんと車で送って行くからね。あ、先にお家に連絡しといたほうがいいか」
父が壁際の電話台から固定電話を引っぱってテーブルの上に持ってこようとするので、
「あ、さっき電話してもらった」「あ、さっき電話お借りしました」
あわてて云うと、Jとかぶった。
父はそんな僕らを見て、
「おお、息ぴったりだな。仲良しでいいねえ」
またにやにやとうれしそうに笑う。
その時、遠くから救急車のサイレンが聞こえ、だんだん近づいてきて、家の前で止まった。
「来たかな」とつぶやいて、父はにやにや笑いを収め、席を立つ。
玄関の呼び鈴が鳴って、父が「はーい」と返事をしながら玄関に向かった。
二言三言、話し声が聞こえ、白衣に白いヘルメットを被った救急隊員らしい男性がふたり、父に伴われて廊下を通り、祖母の和室へ向かうのが見えた。
父が救急車を呼んだのだろうか、でもいつの間に?
と考えて、そうか、と気づく。
母から連絡を受けて、自分の会社から車で母を迎えに行き、母を乗せて家に帰るまでの間の、どこかのタイミングだろう。
15分ほどで、救急隊員と父は和室を出てきた。廊下を通り、そのまままっすぐ玄関へ向かう。
また二言三言、何やら玄関から話声が聞こえて、すぐにドアが開いて閉じる音がした。
そして、救急車が走り去る音がしだいに遠ざかる。もちろん、サイレンは鳴らさずに。
父は玄関から戻ってきたけれど、リビングには来ず、廊下をまっすぐに和室へと歩いていった。
和室の方から、父と母の話し声が聞こえてきたけれど、会話の内容までは聞き取れなかった。
すぐに、父はリビングに戻ってきた。
「はいお待たせ」
僕とJににっこり笑ってみせ、席には座らずに立ったままさっき入れた自分のカップ取り、冷めた紅茶をゆっくりと飲み干した。
そして、
「よし、ジーンちゃんをお送りしようか」
例のお得意の執事ポーズで、腰の後ろに手を当てている。
「あの、父さん、ごめん、僕、救急車・・・」
父の執事ポーズはスルーして、僕はさっきから気になっていたことを口にする。
救急車を呼ぶ、とか、僕は、そこまでまったく気が回らなかった。
「泡」が消えたこともあったけれど、いやちがう、Jにそれを聞くよりも前に、僕は勝手に、祖母はもう亡くなったと決めつけていた気がする。
「わたしも、ごめんなさい。気づかなくて・・・」
Jも同じ事を思っていたらしい。神妙な顔で父に頭を下げていた。
「おいおい、ふたりとも、なに云ってるんだよ」
父は困ったように頭をかきながら、笑った。
「キクタはすぐにお母さんに連絡して、ジーンちゃんもきちんとお家に電話をかけて、それからしっかりとおばあちゃんを見ててくれたじゃないか。上出来だぞ」
笑いながら父は僕らに歩み寄り、両手で僕らの頭をがしがしなでた。
なんでこの人たちはやたらと子供の頭をなでたがるのだろう。
特に父は、ここぞとばかり遠慮なしにごしごしなでるので、よく母に怒られていた。
「ちょっとキイチロウさん、キクタまであなたと同じもしゃもしゃ頭にするつもりなの?!」と。
「わかった、父さんもうわかったから」
僕はJのまっすぐできれいなさらさらの髪をもしゃもしゃにしている父の魔の手を、両手でつかんでどうにか引き剥がす。
かわいそうなJはまた大きな眼をまんまるにして固まってしまってた。
次いで僕自身は、体をひねって椅子から半ば落ちかけながら父の魔の手をどうにか逃れた。
「おお、我が身を顧みず先にレディを救うとは、おまえさんわかってるねえ」
父はうれしそうに笑いながら、今度は両手を僕の頭に伸ばそうとする。
「もういい、わかったってば」
僕が全力で拒絶すると、
「よし、じゃあ行こうか」
父は満足げににやりと笑い、また例の執事ポーズをとった。
そして、まだ眼をぱちくりさせたままのJに向かって、恭しくお辞儀をしてみせた。

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