over the rainbow ii

屋根裏ネコのゆううつ

オレンジの海の夢を見た。
温かな光る雨のしずくが、しとしとと僕の上に降り注いでいる。
冷たい水のしぶきを上げながら、オレンジの波が僕のふくらはぎをくすぐるように、白い泡を残して足元を駆け抜けて行く。
空は明るいオレンジ色に眩しく輝いていて、見上げればふたつの太陽が、中天に仲良く並んで浮かんでいた。
ふわりと、柑橘系の果物のような甘い香りが漂う。
これは僕の夢の中。
オレンジの海に、やわらかな風が吹いてる。
「Lに会えたんだね、よかったあ」
Jのハスキーがかったやさしい声が、聞こえた。
姿は、見えなかったけれど。
うん、会えたよ。
心の声で、僕はJに答える。
「わたし、Kに余計なプレッシャーかけちゃったかもって、すごく心配してたの。だから」
プレッシャー?にはなってないから、だいじょうぶ。
Jから貰ってたのは、勇気の出る魔法だし。
「ごめんね。本当に、Kが無事でよかった」
Lが助けに来てくれたからね。
いろいろ、話も聞かせてもらって・・・
そう云いかける僕の心の声を遮るように、
「L、あの子ったら。Kも聞いたでしょ?もういつでも目覚められるのに「こっちの方が楽だから」って、そんな理由で半年も眠り続けてるなんて、ある?」
めずらしいことに、Jはかなりご立腹らしい。
姿は見えていないのに、握りしめた拳をぷるぷる震わせているJが、眼に浮かぶようだった。
「そう、かなりご立腹だよ。そのせいでKが、真っ暗で危ない地下道なんかに入って、もし何かあったらどうするの?」
Jのあまりの怒りに、オレンジの海全体が震えているようだった。
いやまさか、そんな気がしただけなのだろうけれど。
「だーかーらー、助けに行ったじゃん。間に合ったしKも無事だったんだからさー、もういいだろー?うるさくて寝てられねーんだけど」
Lの元気なハスキーボイスも聞こえて、僕は自然に顔がほころぶ。Lの姿は、やっぱり見えないけれど。
Lもいたんだね。
「いたんだよ。いや、おまえ、いたんだねじゃねーよ。つながってるんだって云ったろ」
ふふん、とLはラファエルみたいに鼻で笑ってる。
オレンジの海、意識のつながる場所、そう確かにLは云ってた。
意識がつながるって、こういうことなの?
これなら、距離は関係ないのでは。
「そ。だから、「どこまで届くの」っておまえの質問の答えは」
どこまでも?
「正解。この「オレンジの海」でなら、って条件付きだけどなー。スマホの通話とか、ネットの音声チャットみたいなもんかな。この海との接続を切れば、当然、聞こえなくなるよ」
海との接続、それは、どこでどうやるのだろう。
いや、不意に切れたらどうしようと思って。僕にはつなげる事もできないし。
「ええ、それ、今オレに説明させたいの?あー、めんどくせーから、それはパスだなー。どうせ眠りゃわかるんだし」
ふっふっふー、と、Lは楽しそうに笑ってる。
「だめ、罰としてちゃんと説明してよ。わたし、いまだによくわからないんですけど」
Jはまだ、ぷんぷん怒っているらしい。
「なんの罰だよ。ってか、おまえまだ見つからねーの?もう何日目だっけ?のんびりし過ぎにもほどがあるんじゃね」
あきれたようにLが云う。
「見つからないよ。ネコチャンなんてどこにいるの?」
Jは、ふてくされているみたいだった。今日は僕の見たことのないJがたくさんいて、なんだか面白い。残念ながら、姿は見えないけれど。
「はあ?あのなー、おまえ何云ってんの?ネコチャンを探すんじゃなくて、んー、まあいっか。じゃあ、Kの予習のために、ちょっとだけ説明するぞー」
コホン、と、Lは小さく咳払いをして、
「まず前提として、意識の中だからなー。見え方?感じ方?は、それぞれ違うはずだぜー。入る動物によっても構造は違うんだろうしなー。オレの場合で云うと、長ーい廊下と、その両側にずらっと並ぶドアだった。秘密基地みたいな感じだなー。で、そのドアを開けると、「オレンジの海」があったり、また別のドアを開けると、ラファエルの意識がいたり、って感じ」
なるほど?
なんとなく、だけれど、Lの云う「どうせ眠りゃわかる」の意味はわかった、ような気がする。
意識だけの状態になって、避難場所の動物の中に入るから、自分自身の意識のカタチ?と云うか全体像?いや全貌?みたいなものが、よりわかりやすくなる、ということなのかな。元の、体の中にいる時と比べて。
つまり、まだ元の体にいる今の僕の意識の状態では、それを見ることも感じることもできない、あるいはできなくはないけれどとても難しい、ということかも。
「そ。いやあ、さすがKの坊は、理解が早くて助かるねー」
にやにやしながら、LがJの方を見ている、ような気がする。姿は見えないけれど。
「で、Jのお嬢は?今どんな状況なの?ここにはつながってるんだから、「海」は見えてんだろ?」
Lの問いかけに、Jの返事が、ない。怒って拗ねてしまったのかな。いや、自分の状況をあらためて確かめてる、のだろう。僕のよく知るJは、そういう子のはず。
「おまえのその崇高なJに対するイメージが、いつかがらがらと音を立てて崩れねーよう、オレは心から祈ってるぜー」
楽しそうにLが云う。本当にこの子は、なんでも楽しめるんだな。うらやましい才能だ。
「えっと、お庭?」
Jの声が、聞こえた。
「とってもきれいなお庭があるよ。すごく広くて、まだ全部は周りきれないくらい。そこに窓があって、「オレンジの海」はその窓の向こうに見えてるよ」
とってもきれいなお庭。
Lは、秘密基地みたいな感じ、と云った。
つまりそれって、それぞれの心象風景てきなもの、なのかな。
なるほど、それなら人によって見え方や感じ方が違うのにもうなずける。
「おい、まさか、Jのお嬢さん?おまえまた「わあ、お庭きれいー」とか云って、いちいち全部見て周ってるんじゃねーだろーなー」
Lの疑問は、僕もそう思った。うん、きっと、そう。
「見るでしょ。こんなきれいなお庭、ぜんぶ見ないともったいないよ」
当然とばかりに、きっぱりとJは云う。
うん、そうだよね、もったいないよ、僕もそう思う。
「おい、K、おまえ、こいつを甘やかすな。頭ん中お花畑なんだから、意識の中もお花畑に決まってんだろ。そうじゃなくて、ネコチャンの意識を探せって云ってるだろ」
「お花畑じゃなくて、お庭だってば。あーまあ、花壇もあるけど。でも、ネコなんてどこにもいないけどなあ」
いや、Lもだよ。なんでまたネコチャンに限定してるの。
J、動物はいないの?
今、Jの意識が入ってる体の、持ち主の意識がどこかにいるはず、持ち主の動物の意識を探して。
「あーなんだ、そういうことか。ネコじゃないかもしれないんだね、わかったー」
で、いいんだよね、L?
「え?だからオレ最初からそう云ってんじゃん。なんでこいつには通じねーの?いちいちKの通訳がいるの?ばかなの?」
「Lの説明は、いろいろ端折りすぎなんだよ。K、ありがとー、お庭を見ながら、動物も探してみるよー」
「だから、なんでお庭を見るのがメインになってんだよ、まず先にネコチャンを探せって、ネコチャンを」
興奮のあまりLまで混乱してるのだろうか。またネコチャンを連呼してる。
動物の意識を、だね。
「あいつって、なんでああも人の話を聞かねーんだ?どーせもう窓開けたまま、お庭の探索に出かけてんだろ。まったく、おまえの冷静さがうらやましいぜー」
そう云って、Lは大きなため息をつく。
そしてすぐに「ふふっ」と笑ってから、
「おっと、おまえ、これ「夢」なんだったな。地下道の大冒険で疲労困憊してるのに、大事な睡眠時間をじゃましちゃ悪いよな。オレもそろそろおいとまするぜー。あ、いっこだけ、まだ云うことあったわ。明日、制服で来てくれー」
Lはそう云った。
明日、制服って、小学校の?
夏休みなのに、なんでだろう。
「んー、小学校の制服着てるのって、どんなやつだ?」
楽しそうにLはそう尋ねる。顔は見えないけれど、にやにやしてる気がする。
なんの謎かけだろう。
小学校の制服を着てるのは、小学生では。
「そ。おまえのことを知らないやつが見ても、小学生だと思うだろ。まあ、背格好とか見た目の年齢とかでもおおよそ想像はできるんだろーけど。制服は、その認識をさらに後押しする小道具ってとこだなー。まあお守りみたいなもん?あー、おまえにとっては、前におまえが云ってた、自転車の補助輪みたいなもん、かもなー」
ぴんと来た。人差し指を立てる。
僕があの「能力」を使うときのため、ってこと、かな。
「そーねー。見た目って意外と重要だと思うんだよなー。想像以上に、無意識に訴えかけるものがありそうな気もするしなー」
僕のため、と云うより、Lがそれを検証したいだけ、のような気もしてきたけれど。
「はっはー。勘のいい賢い子は、オレは好きだぜー。まあオレのためでもあり、おまえのためにもなるんなら、云うことないんじゃね」
Lは陽気に笑ってる。
それはそうかも。ありがとう。
「礼はいらねーよー。じゃあまた明日なー」
そう云って、Lは「ドア」を閉じたらしい。
何も聞こえなくなった。
オレンジの海の白い砂浜に、よせては返す波の音だけが、やさしく響いてた。

翌日、昼過ぎに制服を着て家を出て、駅のバス乗り場から、ススガ森運動公園行きのバスに乗った。
Jと一緒にこのバスに乗り、Lのお見舞いに行ったのが、ちょうどひと月ほど前のことだった。
あっという間だったようにも思えるけれど、まだひと月しか経っていないのか、という気もする。
夏休みとはいえ、平日金曜の午後、バスはすいていて、駅前から乗った人が全員座席に座ってもまだ空席があるくらいだった。
バスや人ごみに対しての、僕の苦手意識は、以前ほどではなくなっているのかもしれない。
全然平気、とはさすがにまだ云えないけれど、苦にはならない程度には、なっている、と思う。
窓際の席に座り、バスがゆっくりと走り出して、流れていく街の風景や歩道を歩く人をぼんやりと眺める。
前回は、手をつながずに心で会話することについて、Jとあれこれ考察していたら、いつの間にか終点に着いていたのだったっけ。
昨日、Lとはずっと手をつながずに心の声で話しが出来ていた。
オレンジの海
意識のつながる場所
Lはそう教えてくれた、けれど。
今日、Lの意識がラファエルの体から出て、元の体に戻ったとしたら、どうなるのだろう。
昨日と同じように、手をつながなくても話ができるのだろうか。
できる。
できる、ような気が、なぜかしていた。
「当たり前だろー」
Lに云われそうなセリフまで、妙にはっきりと心に浮かんでる。
バスは市街地の外れに差し掛かり、街並みから大きなビルが減って、通りを歩く人の姿もまばらになっていた。
市の外周道路の信号待ちで、バスがゆっくりと止まる。
何気なく歩道を眺めていた僕は、思わず、固まってた。
夏物の白っぽいワンピースを着た、ひとりの女性が歩道を歩いていた。
左手に、見覚えのあるピンク色の小さなハンドバッグを下げている。
まさか、と思ったけれど、見間違うはずはない。
あの、ルリおばさんだった。
最後に会ってから4年ほど経っているはずだけれど、見た目はあまり変わっていなかった。
反射的に僕はバスの座席に身を沈めて、制帽を深く被り直した。
ルリおばさんは歩道を左から右へ、バスの後方から前方に向かって歩いていた。
何か嬉しいことでもあったのだろうか、楽しそうな微笑を浮かべて、鼻歌でも唄っているような表情で、スキップするみたいに弾むような足取りだった。
楽しそうなのは、何よりだけれど。
できれば、顔を合わせたくはない。
こちらはバスに乗っているので、万が一おばさんに見つかったとしても、今すぐ何かされる恐れはないにしても、だ。
気づかれずに済むなら、それに越したことはない。
そっと車窓から様子を伺うと、ルリおばさんはちょうど僕の真横を通り過ぎて、バスの前方、交差点の角で足を止めた。
バスと同じ、進行方向へ真っ直ぐ交差点を渡りたいらしい。
やはり何か鼻歌でも唄っているのか、信号待ちをしながら、上体を左右に揺らしてた。
信号が変わり、バスがゆっくりと走り出す。
ルリおばさんもご機嫌に体を揺らしながら歩き出し、横断歩道を渡っている。
バスが走り出したことで、僕は少し油断していたかもしれない。
横を通り過ぎながら、つい、おばさんの顔をのぞき込むように見てしまった。
まるでミュージカルスターか何かみたいに、踊るように横断歩道を渡っていたルリおばさんが、何を思ったのか不意に、くるりとこちらを向いた。
まさか、バスの中からの僕の視線を感じたのだろうか?そんなに鋭い人だった印象は、まったくなかったのだけれど。
約2秒、眼が合った。
ルリおばさんが驚いた顔で口を開いて、何か云ったようだったけれど、もちろんバスの中の僕には聞こえない。
「あら、キクちゃん?」
たぶん、そんな形に口が動いてた気がする。
バスはそのまま加速して、ルリおばさんはすぐに後方へ流れて僕の視界から消えた。
うかつだった。ルリおばさんに、見つかってしまった。
家の近所とかでなかったのは、幸いだったかもしれない。
でも、考えてみれば、同じ市内に住んでいるのだから、いずれどこかで会うこともあっただろう。
もしかしたら、僕が気づいていないだけで、すでにどこかですれ違ったりしていたこともあったのかもしれない。
ルリおばさんが、今どんな暮らしをしているのかはわからないけれど、少なくとも元気で楽しそうなら、まあ、良かったとしておこう。
そう思った。

Lのお屋敷の手前の、あの鉄製の瀟洒な門の前で、ラファエルが待っていた。
しっぽを振っているのは、ラファエル自身なのだろうか、それともLが振っているのだろうか。
「おまえ、妙なところによく気づくよなー。さすがと云うか、恐ろしい子と云うべきか」
そう云って、Lは楽しそうに笑う。
恐ろしい子?
時々、Lはよくわからない表現をする。
「褒めてるんだぜー。ちなみに今しっぽ振ってるのは、オレじゃなくてラファエルだけどなー」
ラファエルにしっぽを振ってもらえるなんて、なんだか嬉しいな。
「うん。オレが権限持って動かしてる時も、こいつの意識は一緒に見てるからねー。感情が同期?っていうか、同調?するのかもだなー」
それは、Lとラファエルの間柄だからこそ、なのかもしれない。
あるいは、「灰色の泡」を持つ動物であれば、相手を問わず、誰でもそれくらい親密になれるものなのかな。
Jは、だいじょうぶだろうか。
ネコチャン、いや、今、Jのいる「避難所」の主、その動物の意識を無事に見つけられたかな。
「さてなー。その辺を検証するとか、そーいう意味でも、あいつにはさっさとネコチャンを見つけてもらいたいんだけどねー。ってか、おまえって、結構神経太いねー。ここへ来てまだ人の心配してるとか、すげー余裕じゃん。なーんだ、制服は必要なかったかなー」
ふふふ、と、Lは笑う。
やっぱり、制服は僕のための補助輪だったの。
L、僕を助けたいのか、それともプレッシャーを与えたいのか、どっちなの。
「はっはー、適度な緊張感は必要かなーと思ってね。じゃあ、早速行ってみよーぜ」
早速
どのタイミングで「力」を使えばいいんだろう。
「それは、おまえ次第だと思うぞ。おまえが使うんだからなー。良きにはからえー」
さらりと丸投げされた。
まあ、でも確かに、事前にあれこれ考えて「こうしてみよう」と決めてから実行する実験は、これまでことごとく失敗だった。
出たとこ勝負、というと言葉はあまり良くないかもしれないけれど、臨機応変にいくのがいいのかもしれない。
そう決めて、何も考えずに、門の脇にあるインターホンを押した。
いきなり押すとは思っていなかったのか、Lが驚いたようになにか云いかけ多様だったけれど、ふっと息を飲んで黙り込む。
「はい」
インターホンから、男性の声がした。サモンジさんだろう。
今かな。
そう、僕の中で誰かの声が云った。
Lの声じゃない、僕の声だ。
すっと左手を上げて、ぱちんと指を鳴らす。
思いのほか、静かな田園に僕の指の音が響き渡った、気がした。
その残響を聞きながら、僕はインターホンに顔を寄せて、
「スズキキクタです。ミカエルのお見舞いに来ました」
特にセリフを考えてたわけじゃなく、思いつくまま、なんとなくそう云った。
もちろん、前回みたいに、事前にJが連絡を入れてくれてたわけじゃない。
不審に思われるのが普通だろう。
沈黙は、2〜3秒だっただろうか。
「キクタさま。どうぞそのままお進みください」
そう、サモンジさんの声がしてインターホンが切れ、鉄の門が静かに開いた。
「ふっふ」と、Lが笑った。ラファエルの口で、声を出して。
そして、心の声で、
「はっはー、おまえ、やるなー。まさか一発で成功するとは思わなかったぜー」
Lはご機嫌な笑い声で云う。
成功、したのかな。
わからない、実感はなかった。
あの職員室の時みたいに、空気がピリッと張り詰めるような感覚も、なかったけれど。
「いやあ、あのサモンジが、知り合いとはいえ予定のない客にいきなり門を開くとは思えねーからなー。ガブリエルのことがあってから、この屋敷のセキュリティはすげー厳しいんだぜー。だから普通なら、まず一旦ここで待たせて家の者に確認しつつ、サモンジが門まで出て来る、とかだろーなー」
そうなの。
なら、よかった、けれど。
L、さっきなんて云ってた?
まさか一発で?成功すると思わなかった?
なんで?
昨日は、当然できるとかできるに決まってるだろとか云ってたのに。
あれはなんだったの。
「いや、だからね、昨日も云ったけど、「認識の喪失」の能力には、犬になってから気づいたからさ、オレ。使ってみたくても使えないんだよね、犬だと」
じゃあ、昨日の、あの自信は何?
どこから来たの。
「理論的に?かな。いやー、犬になってみて、というか、意識だけの存在になってみて、いろいろわかったんだけど、「思い」とか「認識」とかって、なかなか侮れないんだぜー。特にオレたちの「能力」は、「意識の力」だって、わかったのは大きいねー。だったら、当然できるはずだろー?だって、おまえ、できてたんだからさ。でもまさか、一発でいけるとは。何度か失敗して、ここでいろいろ試すことになるんだろーなーと思ってた。まあそれも面白いよなーって。そしたら、おまえ、はっはー」
Lは心の声で楽しそうに笑って、ラファエルが右手を挙げているので、僕はしゃがみ込んで、左手でハイタッチした。「お手」みたいになってたけれど。
開いた門を通って、ふたり並んで屋敷の敷地へ入る。
今日はJがいないので、お庭の見学は、省略。
それよりも、サモンジさんが心配だった。
「心配することはねーだろ。何事もなかったみたいに、仕事に戻ってると思うぞー」
そう、だといいのだけれど。
小走りに広い車寄せを駆け抜けて、大きな玄関扉の前の石段を登る、と。
扉が内側に開いた。
今日は、自分で開けないといけないのだろうと、思ってた。
「力」が成功しているのなら、僕はもうこのお屋敷の認識外の存在のはずだから。
開いた扉の内側で、サモンジさんがきれいなお辞儀をしていた。
どういうことだろう。
「キクタ様、ようこそおいでくださりました」
顔を上げたサモンジさんは、そう云って僕に笑顔を見せる。
「サモンジさん、こんにちは」
僕もあわててぺこりとお辞儀を返す。
サモンジさんは僕にうなずくと、隣にいる黒犬の方を向いて、
「ラファエルも、おかえりなさいませ」
犬にするとは思えないような、丁寧なお辞儀をした。
「キクタ様、ミカエル様のお部屋までご案内いたしましょうか?」
顔を上げたサモンジさんは、僕の方を見て、やさしく微笑む。
「いや、だいじょぶ」
囁くように素早く、Lが心の声で云うので、
「いえ、だいじょうぶ、です」
僕が答えると、サモンジさんはゆっくりうなずいて、
「左様でございますか。では、ラファエル、お客様をよろしくお願いいたしますね」
ラファエルの前で身をかがめて、黒い頭をそっとなでた。
とても大事そうに。とても愛おしそうに。
ラファエルは、いやそうな顔をしながらも、騒ぎ立てるわけにも逃げ出すわけにもいかず、黙ってじっと頭をなでられるがままになってる。
まさかサモンジさん、Lに気づいてるの。
「いやあ、それはない、だろなー。サモンジは普通の人だぜ?」
サモンジさんにふわふわと頭をなでられながら、Lが心の声で云う。
それはそう、だよね。
もしもサモンジさんが僕らと同じ「力」を持つ人なのだとしたら、「色」でわかるLやJが気づかないはずはない、よね。
「いや、それよりこいつ、いつまでなでりゃ気が済むんだ?」
確かに、ずいぶん念入りになでてるけれど、
と、サモンジさんを見て、驚いた。
あの時の、父と同じだ。
あのミドノ原の情報が載った図書館のコピー用紙を見た時の、父と。
認識を奪われてる。
「サモンジさん?」
僕が声をかけると、サモンジさんは、はっと息を吸い込んで、我に返ったようだった。
すっと身を起こして、僕の方を向き、
「キクタ様、これは失礼をいたしました。どうぞ、お進みください」
2階のテラスへとつながる階段を手で指し示してから、サモンジさんは、深々と、僕に丁寧なお辞儀をする。
「ありがとうございます」
ぺこりとお辞儀をして、ラファエルを見ると、
「ああ、ひとまず部屋へ行こう」
めずらしく真面目な声で、Lが囁くように云う。
もちろん心の声なので、サモンジさんに聞こえる事はないはずだけれど。
ラファエルと並んでホールの階段を上り、テラスを通って2階の廊下へ進んだところで、
「ごめん。ちょっと、軽く考えてたかもしれねー」
ラファエルが足を止め、僕を見上げて、ぽつりと、心の声でLがそう云った。
「人の、部分的な認識とほんの少しの記憶を奪うだけ。痛くも痒くもねーはずだし、誰かが悲しむとかいやな思いをするとか不幸になるとか、そんなのも一切ない、はず。そー思ってたし、実際そーなんだろうけど」
Lは、そこで云い淀むように黙り込む。
確かに、昨日Lが云ってた通り、この「力」は、誰も攻撃できない。
ほんの少し、人の認識を消して、誰かを、何かを守る。できるのは、たったそれだけ。
ただ、たったそれだけのことでも、実際に、認識を失った人を、その瞬間を、目の前にしてしまうと。
「うん。あのサモンジが、あんな、まるで人形か何かみてーに、自分が何をしてるのか、何をしようとしてたのかも、忘れて、あんな風になっちゃうなんて、な」
ラファエルが、僕に向かってぺこりと頭を下げる。
「K、ごめん。あれは、軽々しく使っていい「力」じゃなかったな。おまえに、いやなこと、させちまった」
僕はラファエルの丸い眼を見つめ返して、首を振る。
いや、Lは、けっして軽々しく使わせたわけではないよ。
ラファエルの体が心配なのは事実だし、Lの意識が体に戻った時に、ふたりがどうなるかも、実際まだわからないのだから。
万全を期して、Lの部屋で戻るべきだという点が大事なことに変わりはないよね。
それに、この屋敷の中の人々から一部の認識が消されるのは、僕とラファエルだけ。
ラファエルは、もともと家の中で暮らしていたわけではなく、広い庭で暮らしてた。
だから屋敷内での認識が消えても、今後も特に問題はないはず。
僕に関しては、云うまでもない。元より部外者なのだから。
「ああ、いや、そうだな。でも、慎重に使うべきだってことは、身に染みてわかったよ。ありがとな」
Lはショックだったのだろう、だいぶしょんぼりしてた。
気持ちは、わかる気がする。
僕も、知らなかったとはいえ、あの日、父に何度もあの「力」が発動されたのを見た後は、かなり落ち込んだから。
行こう、L。
早く元の姿に戻って、サモンジさんに会いに行ってあげてよ。
「ああ、うん。そーだなー」
Lがうなずいて、また、廊下をふたりで歩き出す。
「え、ちょい待ち。なんか違くね?」
歩きながら、ラファエルがちらりと僕を見上げて、Lがいつものハスキーボイスで
「なんで目覚めて真っ先に会いに行くのがサモンジなの。うざいんだよな、あいつ。重いっていうかさー」
ふふん、と鼻を鳴らす。
そう、それだ。サモンジさん。
さっき、少し引っかかってた。
あの「力」が発動して、僕とラファエルがこの屋敷にいる人たちの認識から除外されたのだとしたら、どうして、サモンジさんはあの場所で僕らを待ってたのだろう。
僕の予想では、玄関の扉は僕自身が開けるまで開かず、玄関ホールには、僕らを待つ人は誰もいない、そう思っていた。
「確かになー。能力で、起こす内容の詳細をコト細かに指定できるわけではないにしても?いや、違うな。能力だからこそ、使ったおまえ自身の認識が反映される、って考えるのが自然だよな。コトこれに関して、使用者であるおまえの意に反する結果が起こるってのは、なんつーか、不自然だし、妙だよなー」
もしかすると、絶対、ではないのかもしれない。
あの「力」は、絶対的な強制力を持つ、というわけではないのかも。
なぜなら、アイは、あの公園に入れた。「入りたくねえ感じ」「なんかぞわぞわする」とは云ってたけれど、無理やり入ることはできた。
「力」による認識の喪失、それよりも強い何か「意志」のようなものがあれば、あの「力」に抗うことはできるのかもしれない、それを無効化することはできないとしても。
「ははーん。「力」の影響を明らかに受けているはずのおまえの親父さんが、それでもあの土地を手に入れて、あそこに住み続けていられるのもそれってことか。「意志」も心とか精神、つまり「意識の力」には違いねーしな。その可能性は大いにあるかもなー。むしろ、絶対ではないって方が自然な感じはするね。意識の「力」なんだとしたら、尚更さ。心が強いやつの「力」の方が、より強い。うん、そうあるべきだよなー」
Lもそう同意してくれたので、安心する。
むしろ、絶対ではないって方が自然な感じはする
そのLの意見に、僕も賛成だった。
「ん、ちょっと待って?じゃあ、サモンジはなんで・・・。あー、やっぱいいや、云うな、なんかきもい。あと、すげーうざい」
ラファエルが、何か苦い物でも口にしたみたいな顔で、ふん、と鼻息を荒げてる。
うん、まあそれは、Lにもわかってるのなら、いいかな。
「Lは極端に照れ屋さんだからね」というJの言葉が頭に浮かんだので、僕はそれ以上、なにも云わないことにする。
長い廊下の先を曲がり、階段をぐるりと上って、3階へ、Lの部屋の前に着いた。
ドアの前に立ち、隣にいるラファエルを見る。
Lも僕を見て、無言でうなずいた。
とんとんとん、とドアをノックする。
すぐにドアが外向きに開いて、部屋の中には、年配のメイドさんが立っていた。
「げ」
Lがへんな声を出して、
「はあ、よりによってシジマのばあちゃんかよ」
ため息まじりに心の声でつぶやく。
シジマのばあちゃん
って、つまり?
「そ。庭師のシジマじいちゃんの奥さんで、メイド長のシジマばあちゃん。うわー、厄介なのが来ちゃったなー」
メイド長、なるほど。確かに前回会った時にもベテランの貫禄みたいなものを感じた覚えがある。
あの、どこかのんびりした庭師のおじいちゃんと、切れ者メイド長のおばあちゃん。
不思議な組み合わせのようにも思えたけれど、考えてみればうちもそうかもしれない。
やたら勘が良く歯に衣着せない母と、いつもにやにやとふざけていて掴みどころのないの父。
大人の男女の関係は、不思議すぎて、ちょっと僕にはよくわからない。
銀縁の丸いメガネをきらりと光らせて、シジマおばあちゃんが僕とラファエルを見た。
一瞬、何もかも見透かされているように感じて、どきっとする。
けれど、すぐに彼女は丁寧なお辞儀をして、無言で後ろに下がった。
認識の喪失。
見えてるけれど、見えてない。
僕とラファエルがここにいることはわかってる、でも彼女は僕らに何もしない、何もできない。
そう、これが予想してた反応だった。
「うん。効いてるみたいだな」
Lは小さく安堵の息をつく。
ということは、やっぱりサモンジさんは、あの「力」に、認識の喪失に、彼自身の意志の力で抗っていた、ということなのかな。
「あー、サモンジはもういいって。ほら行くぞー」
Lはわざと冷淡にそう云って、すたすたと慣れた足取りで部屋へ入っていく。
照れ隠しかな。
慣れた足取りは、まあそれはそう。自分の部屋なのだし。
「あーあ、やっぱりオレもガラス張りかー。あのばか親父めー」
部屋を中央で仕切るガラスの前で立ち止まり、Lは大きなため息をついてた。
やっぱりオレも。
じゃあ、ガブリエルの部屋も?
「あいつの方がもっと厳重だけどなー。あっちは完全に箱だもん、ガラスの。温室栽培でもすんのか?って感じ」
ラファエルの鼻先でガラスの扉をぐいっと押して、Lはずんずん部屋の奥へ入って行った。
ベッドの枕元にラファエルの前肢を乗せて、眠る自分自身をしげしげと観察してる。
「まーたこんなひらひら着せやがって、お袋の仕業だなー。お、でも電気の線はつながれてねーな、それは助かるぜー」
ひらひら。
普段から着てた愛用のパジャマとかじゃなかったの。
「オレがこんなひらひらしたもんを喜んで着ると思うかー?普段はジャージだぜー?」
ふん、と鼻息を荒くして、Lはいまいましげに、ひらひらの大きなフリルがついたかわいらしいパジャマ姿の自分をにらみつけてる。
ジャージ
天蓋付きのベッドですやすやと寝息を立てているLをあらためてながめて、僕は、Lのお母さんの気持ちが少しわかった気がした。
「何が、わかったんだよ」
僕も、かわいいひらひらのを着せたくなると思う。
「ちっ、裏切り者め」
ラファエルに、にらまれた。
「さてと、おふざけはこの辺にしてだなー、ひとつ、問題があるぞー」
ちらりと、ラファエルが部屋の入り口の方を見て云う。
部屋の入り口のドアは閉じられていて、ドアのすぐ脇には、メイド長のシジマ夫人が姿勢よく立っていた。
けれど、その表情はどこかぼんやりとしていて、何もない宙を見るともなく眺めている。
僕とラファエルがここにいる限り、「力」は効果を発揮し続けるようだ、けれど。
何が問題なのだろう。
「部屋にいるのがおまえとラファエルだけなら、おまえの想像通り、「能力」の効果は持続するんだろーね。じゃあ、そこに、もうひとり加わったら?いや、もっと云えば、そこで半年間眠り続けてたやつが、突然目を覚ましたら?」
あ、それは確かに問題だ。
効果が、消えることはないとしても、シジマ夫人も、サモンジさんのような状態になるかもしれない。
「うーん、いや、認識の喪失をうまいこと使えれば」
Lが何か考え込んでる。ものすごい集中力、と思う間もなく、
「うん、なんとかなるかな、オレに任せてくれ」
もう何か思いついたらしい。
すごい、さすが天才美少女。
「おまえな、そーいうの本人の前で云う?やめろ」
素早く怒られた。
わかった、僕はどうしたらいいの。
「大人しくしててくれればいいと思う。ラファエルを頼む、見ててやってくれ。まあこいつがいきなり眠っちまったら、オレとおまえのふたりがかりでも、とても運べるとは思えねーけど」
わかった。
ベッドの脇、ラファエルのすぐ横に、僕も並んで立った。
天蓋の下、ベッドの上には、Lが眠っている。
おだやかな寝息が聞こえる。パジャマの胸元が、かすかに上下してる。
それは、とても不思議な感覚だった。
今、僕が心の声で話しているLは、意識だけの状態で、僕の隣にいるラファエルの中にいる。
目の前ですやすやと寝息を立てているのは、Lの体。
「幽体離脱ってこんな感じかも。これはなかなか、脳がバグりそうになるなー」
こんな時まで、冷静にそんな観察ができるのは、Lらしいと云うかなんと云うか。
「冷静だと?はっはー、おまえにそれ云われたくねーぞー」
ハスキーボイスで笑って、
「なー、K、おまえ、あれ、自分で考えたの?」
急に、Lにそんな質問をされた。
あれ?自分で考えた?
あれってなんだろう。
「ほら、力をつかう時のあれ。公園のアイの時も、さっきの門の前でも、やってたじゃん。手を上げて、ぱちんって指鳴らすやつ」
ああ、あれは・・・、
どうだったろう。何か考えて、あの形になったわけではなかったような。
何か音がきっかけになるのかと最初は思っていた、のかな、それで指を鳴らしてみた、ような気がする。
「へー、そーなのか。まあ、おまえらしいっちゃおまえらしいなー」
ふふっと、Lは心の声で笑った。
「昨日も云った気がするけど、おまえの、そのいつでも冷静で落ち着いてるとこ、すげーうらやましーぜー」
冷静で落ち着いてる?
なぜか、それも最近よく云われる気がする。
でも、これは冷静でも落ち着いてるんでもなくて、
「うん。おまえ、何かあきらめてるようなとこあるよなー。投げてるというか、捨ててるというか。あ、そう云うとすげーネガティブに聞こえるな。違うぞ、おまえはそれを、前向きにできるやつなんだ。前向きに投げてる?前向きに捨ててる?犠牲か。そうそれだ。犠牲になることを恐れてねーんだ。だからおまえは、自分自身を投げられるんだ。何の躊躇いもなく、自分自身を投げ出せる。危なっかしくて見てられねーけど、ちょっと羨ましくもあるなー」
Lの、ラファエルの真っ黒な丸い眼が、優しく僕を見ていた。
僕はその傍にしゃがみ込んで、大きな黒犬の肩を抱くように、腕を回す。
ラファエルは、あたたかい日なたのような匂いがした。
「まー、今回は、オレが実験体第1号ってやつなんで、無事に戻れるよー祈ってくれ」
わざと茶化すような云い方をしていたけれど、Lは緊張してたのだろう。
理論的には、うまくいくはず。でも、何が起こるかはやってみないとわからない。Lだって、怖いだろう。
「うん、だいじょうぶ。うまくいく」
声に出して僕は云い、ラファエルの肩をぽんと叩いた。
「よっしゃ、じゃあ行ってくるぜー」
そう、心の声でLは云い、ラファエルの体をぐいと伸ばした。
眠るLに顔を近づけ、その小さな鼻に、ラファエルの黒い鼻先で触れる。
僕の手の下で、ラファエルの肩が、びくっと少し震えた。
心配そうに、ラファエルが鼻をくーんと鳴らしてLの顔を見つめてる。
これは、ラファエルの意識?
Lは、と見ると、
さっきまで、すやすやとおだやかに眠っていたLの表情が、険しいものに変わってた。
眉間に皺を寄せ、何かうめくような声が口からもれてる。
L?だいじょうぶ?!
「いっててて、痛え・・・」
頭の中で、Lの声が聞こえた。
ぱちっと音が聞こえるくらいに、Lの大きな眼が開いた。
長いまつ毛に囲まれた、青空のように鮮やかな青い眼だった。
その眼がゆっくりと左右に動いて、枕元でのぞき込むラファエルを見て、それから、僕を見た。
「よー、とりあえず、無事成功かなー。でも、痛え、頭が。何これ、寝過ぎた上に二度寝して起きた後みたいな?」
Lの声は、さっきまでと変わらず僕の頭の中で聞こえてた。
心の声、「オレンジの海」でつながってる。
寝過ぎと二度寝の例えは、僕にはよくわからなかったけれど。
「はあ?なんでだよ、うっかり明け方までゲームとかしちゃってさー、そっから寝たら昼過ぎまで寝ちまって、一度目は覚めるんだけどだるくてそのまま二度寝して、次起きたらもう夕方で、しかもめっちゃ頭痛えっていう恒例のあれだよ、あれ」
いや、そんな、皆様お馴染みの「あれ」みたいなこと云われても。
ごめん、わからない。
明け方までゲームとかしたことないし。
「はあ、僕まだ2年生だから、ってか。このやろー、そんな時だけ子供ぶりやがって」
ひとまず、元気そう?なLの声が聞けて、よかった。
僕は、ほっと息をつく。
「あれ、こいつ、眠らねーのか」
Lの白くて小さな手が伸びて、枕元にいるラファエルの頭にそっと触れた。
ラファエルは、嬉しそうに目を細めてLの顔を見つめ、わふ、と小さく吠えた。
だいじょうぶ、と云ってるみたいだった。
Lは眼を細め、何かを確かめるようにじっと宙を見て、
「うん。灰色の「線」はいつも通りみてーだな。点滅もしてねー。じゃあ、あれは、なんだったんだ?」
ラファエル自身の体調の問題ではない、のかも。
もしかすると、避難所には、使用期限みたいなものが、あるのかもしれない。
「はあ?なんだそりゃ。あーでも、云われてみりゃそーかもなー。あくまで、避難所だもんなー」
うん。残念ながら、永住はできないんだろうね。
「さすがに半年は長すぎたかー。ラファエル、ありがとなー」
そう云ってLはにっこりと微笑み、ラファエルの頭をなでた。
ラファエルもうれしそうにしっぽを振って、なでられるにまかせてる。
よかった、ふたりとも無事で。
「さて、と」
そう云って、Lはむくっと上体を起こした。
そんな、いきなり起きてだいじょうぶなの。
確か以前、動物の冬眠を調べた時に見た覚えがある。熊は冬眠から目覚めると、数時間で元通り活動ができるようになる、とか。
けれど、熊でも数時間かかるのだ、熊より体も小さく、長時間眠っていたLがそんなにすぐに動いたら、だめなのでは。
「熊より体が小さい?おまえ、オレがチビだって云ってんのか?小さいからなんだ?だから動けるよーになんのは、でかいやつよりも早いかもしんねーぞ?」
ポキポキと首を左右に振ってどこかの関節を鳴らし、右腕に刺さっていた点滴の針を左手で無造作にほいと引き抜いて、Lはニッと笑った。
でもすぐに下を向き、「うーん」と声に出して唸ってる。
ほら、やっぱり無理しないほうがいいって。
「違う。まずはシジマのばーちゃんをどーにかしねーとだ」
そう云うと、Lはさっきまで点滴が刺さっていた右腕を高々と上げて振り、
「シジマのばあちゃーん、お客が来たー。お茶の用意してー」
大きな声で、部屋の入り口付近に立つシジマ夫人に向かってそう云った。
はっとシジマ夫人が大きく息を吸い込む音が、部屋の奥にいる僕らにも聞こえた。
「お嬢様、承知いたしました。すぐにご用意いたします」
ベッドのLにきれいなお辞儀をしてみせて、シジマ夫人はくるりと身を翻し、部屋を出て行った。
「よし、これで10分、いや15分は稼げたかな」
ふう、とLが息をつく。
いや、さっきLが云ってた、「なんとかなる、オレに任せろ」って、まさか、これ?
なんと云うか、ずいぶん乱暴な。
「ひとまず、ばあちゃんを部屋から出せれば、それでおっけーだろ。よし、じゃあおまえは、ラファエルと廊下で待っててくれ」
ラファエルと廊下で?
この部屋の外の廊下で、かな。
「そ。おまえとラファエルがそこにいれば、誰も部屋には入れねーだろ。部屋の前で認識が消えるんだから」
それは、いいけれど。
Lはどうするの。
部屋にひとり残って、何をするつもりなのだろう。
Lの中ではもう明確なこの後の計画が出来上がっているようだけれど、僕にはそれがさっぱりわからない。
「何っておまえ」
Lはそう云って、大げさに肩をすくめて見せる。
「あのなー、半年間も、ずっと寝てたんだぜ?しかもこのひらひら着せられて、だよ?だから、風呂入って着替えるに決まってんだろ。15分、いや、10分でいいや、廊下で待っててくれ」
風呂入って着替える。
ふむ、なるほど、それは、ごもっとも。
「わかったんなら、ほれ、行った行った」
しっしっ、と犬でも追い払うみたいに、Lは僕とラファエルにひらひらと手を振ってる。
いや、まあ、ラファエルは犬だけれど。
「じゃあ、ラファエル、行こうか」
そう、声をかけると、ラファエルは、くーんと鼻を鳴らして僕を見て、Lを見て、あきらめたようにしぶしぶ立ち上がった。
本当に賢い子だな。
僕も立ち上がり、まだ、しっしっと手を振っているLを見て、
あんまり無茶しないようにね、何かあったらすぐに呼んで。
心の声で、そう云った。
「無茶でもなんでも、オレは風呂に入るぜ。そしてこのいまいましいひらひらを脱ぐ」
キリッと僕を見て、Lは云う。
なんだかずるいな、キラキラの美少女がキリッとした表情で云うと、それだけですごくかっこいい。
云ってる内容はともかく、だけれど。
僕はラファエルを連れて廊下に出た。
どこかしょんぼりしているラファエルの背中をなでながら、静かな廊下でLを待つ。
防音がしっかりしているのだろう、部屋の中からはなんの物音も聞こえない。
お風呂って、部屋にあるのかな。
前に来た時に見た、ベットとは反対側の壁にふたつあったドアを思い出す。
あそこがシャワールームとか、なのかもしれない。
本当に、お屋敷のお嬢様なんだなーとあらためて、思う。
話していると、つい忘れてしまうのだけれど。
5分ほどそこで待っていると、廊下の奥から、何やら物音が聞こえた。
陶器が触れ合うような、かすかな音。それから、何か車輪のようなものが板張りの床を転がるような音。
シジマ夫人だった。
お茶セットを乗せたワゴンを押して、こちらに近づいてくる。
部屋の前で、シジマ夫人は止まった。
ドアの前に立つ僕とラファエルを見て、夫人はきれいなお辞儀をする。
もう長年に渡って身に染みついた、職業意識的なもの、なのだろう。
とても自然な、きれいなお辞儀だった。
顔を上げると、僕の方を見る事もなく、夫人はまたワゴンを押して、そのまま通り過ぎて行った。
ごめんなさい。
僕は心の中で謝り、夫人の後ろ姿に頭を下げた。
Lに云われた「お客が来た」「お茶の用意して」が、僕とラファエルを見ることで彼女の認識から消された、という事なのだろう。
でも、お茶のセットは変わらずに彼女が押している。
どこかで、彼女はそれに気づくだろう。
あの時の父と同じだとすれば、そこでLの「お茶の用意して」を思い出す。
そして、ワゴンを押して、またこの部屋へ戻って来る。
L、早く出て来ないかな、と思ってしまう。
確かに、今、夫人は痛くも痒くもないのだろう。辛くもなく、苦しくもないはず。
でも、だからと云って、このまましばらく廊下を往復させても構わない、という事にはならないよね。
人を騙しているような、何とも云えない後ろめたさは、僕の心から拭いようがなかった。
程なくして、廊下の反対側から、シジマ夫人が戻って来た。
お茶セットを乗せたワゴンを押して、さっきと同じように、僕らの前で立ち止まり、きれいなお辞儀をする。
本当にごめんなさい、と思いながら僕も頭を下げた。
と、そこへ、部屋のドアがガチャリと開く。
まだ濡れたままの金色の髪を大きなバスタオルでごしごし拭きながら、Lが部屋から顔を出す。
「あ、ばあちゃんごめん。お客と一緒に出かける事になったから、お菓子だけ包んでもらえるかなー」
部屋のドアを大きく開いて、一同を部屋の中へ招きながら、Lはシジマ夫人にそう云った。
夫人はにこりと微笑んで、
「まあ、お嬢様は相変わらずせわしない事で。承知いたしました。ご用意いたします。」
ワゴンからお茶菓子の器だけを持って部屋へ入り、隅のテーブルでお菓子を包み始める。
「ごめん、急いだんだけど、その顔。ほんと申し訳ない」
僕の顔をチラリと見て、Lは心の声でそう云って、僕にぺこりと頭を下げる。
ちょうど夫人が戻ってきたところだったから、僕の顔に何かの感情が漏れ出ていたらしい。
いや、それよりLはだいじょうぶなの。
そんな急に起きて、慌ててお風呂に入ったりして。
「意外とね?思ったよりしっかり、体は休めてるみたいだなー。ちょっと関節がぎしぎしするような気がしたけど、風呂入ったら治ったし。寝過ぎで頭痛いのも、シャワー浴びたら多少ましになったかなー」
ふわふわのウェーブを描くきれいな金髪を、わりと乱暴に、まるで雨に濡れた犬でも拭くみたいにごしごし拭きながら、Lは心の声で云った。
ひらひらのパジャマはすでに脱いで、今は部屋着らしい白い無地のブラウスと黒っぽいジャージのショートパンツを履いている。
Lはすたすたとはだしのままでふかふかの絨毯を歩き、部屋の隅のテーブルに向かった。
片手で髪を拭きながら、片手で椅子を引っ張り出して僕にすすめ、もうひとつ椅子を引っ張り出して、そこにどすんと腰掛ける。
我が物顔で、いや、自分の部屋なのだから、それでいいのだけれど。
シジマ夫人がお菓子の包みをテーブルに置き、
「お嬢様、お急ぎでないのでしたら出かける前にお茶を一杯いかがですか。ちょうどよく冷めておりますよ」
にっこり笑ってそう云った。
前回見た時には怖そうなイメージがあったけれど、シジマ夫人もLには甘いのかもしれない。
お茶が冷めているのは、僕が廊下を往復させてしまったせいなのだけど。
「いえね、ミカエルお嬢様は、たいへんな猫舌なんですよ」
僕の心の声が聞こえたわけでは無いのだろうけれど、シジマ夫人は僕にそう囁くように云って、くすくす笑った。
「じゃあもらおっかなー。ばあちゃんありがと」
「はい、只今」
夫人は廊下に止めたままだったワゴンから、ポットとティーカップをトレイに乗せて運んできて、僕らにお茶を注いでくれた。
彼女は、Lが目覚めたことは、どう認識しているのだろう。
「たぶんだけど、今の状況全部が、ばあちゃんにとっては夢うつつなんじゃねーかな。ばあちゃんだけに限らず、今この屋敷にいる全員、かな。おまえとラファエルが屋敷の中にいる限り、「能力」が発動し続けてるんだろーと思うぜー」
Lにそう云われ、思わず腰を浮かしかけてしまう。
なんだか、自分が病原菌か何かになったような気分、だった。
Lが困ったように苦笑を浮かべて、
「まあ落ち着けって。確かに、あんまり上手い手じゃなかった。そこはしっかり反省するとしよーぜ。でもだからって、おまえが責任を感じる必要はねーし、そんな犯罪者みてーにびくびくする必要もねーだろ。あんまり上手くなかった例として、しっかり全部観察しとこうぜ。次は失敗しないよーになー」
明るく、心の声で云う。
確かに、そうかもしれない。
「能力」について、まだまだ僕らはわからないことだらけだ。
「まあ、オレとしては、このまましれっと元の生活に戻れたらそれに越したことはねーんだけど。そー都合良くはいかねーんだろうなー」
Lは苦笑いのまま心の声でそう云って、肩をすくめてる。
それは、そうだね。
Lが目を覚ましたら、それはこのお屋敷にとっては一大事だろう。
Lのお父さんお母さんにとって、だけではなく、サモンジさんや他の大勢のお手伝いさん、そしてシジマさんご夫婦にとっても。
「あー、めんどくせー」
Lはそう云って、かわいい顔を大袈裟にゆがめて見せる。
照れ半分、本気半分、かな。
「さっさとお茶飲んで、おやつ持って出かけよーぜー」
シジマ夫人が入れてくれた紅茶を一気に飲み干して、Lは立ち上がり、すたすた歩いて部屋の左奥のドアを開けた。
中は、広いクローゼットになっていた。
ハンガーにかかっていた制服を取り出して、部屋着の上からさっと着てる。制服のスカートも部屋着のスパッツの上に履いてた。
Lって実は、ものすごくめんどくさがり?
にしても、大雑把すぎでは。
「おい、ぜんぶ聞こえてるぞー。まあ事実だけどなー」
ふっふっふ、と、Lは楽しそうに笑う。
そう云えば、やっぱり心の声は、当たり前のように、Lがラファエルに入っていた時と変わらず、そのまま使えてた。手をつないでいなくても。
「うん。当たり前だなー」
オレンジの海で、つながってるから?
「そ」
L、僕としゃべるのもめんどくさいの。
「何でそーなるの。おまえとしゃべるのは、面白いからぜんぜんめんどくさくねーぞ」
ざっくりと制服を着て、Lはまたすたすたと歩いて戻ってきた。
靴も履いてる。本当にどこかへ出かけるつもりらしい。
でも、いったいどこへ行くの。
「うん。大学病院?」
さらっとLは答えたけれど、何で疑問形なの。
「いや、おまえが、大学病院に行きたいのかなーと思ってね?」
それは、行きたい。
「はっはー、素直だねー。じゃあ行こうぜー、眠り姫2号のお見舞いになー」
そう云って、Lはニヤッと笑った。



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