まるで、不思議の国に迷い込んだような気分だった。
明るい日が差し込むふかふかの絨毯が敷かれたきれいな部屋で、上品なテーブルに完璧にセットされたお茶会。
僕とJ、そしてLのお母さんは小さな丸テーブルを囲んで座り、室内には紅茶の良い香りが漂っている。
ワゴンを押してきたメイドさんは、作業を終えるとまた丁寧なお辞儀をして部屋を出て行った。
元々部屋にいたマスクをしたメイドさんは、部屋の隅の定位置に戻って静かに待機している。
部屋の奥の天蓋付きの瀟洒なベッドには、金髪の眠り姫がすやすやと眠ってる。
間を仕切るガラスがなければ、本当に童話の世界に入り込んでしまったように思えたかもしれない。
「あのガラス、ほんとに、じゃまよねえ」
まるで僕の心を読んだみたいに、Lのお母さんが口に手を当てて小声でささやく。メイドさんに聞こえないように、ということなのかな。
「ミカエルも代謝が落ちているから、細菌の感染を防がないと、とか何とかって、お父様がね、大げさなの。お医者様は、たしかにそう仰ってたけれど、マスクとうがい・手洗いを徹底して、くらいの意味でしょう?何もお部屋をガラス張りにしなくてもいいと思うのだけれど」
はあ、とため息までついている。
「せっかくお見舞いに来てくれても、ガラス越しで、ごめんなさいね」
申し訳なさそうにそう云われてしまうと、僕もJも、「いえいえ」と、あいまいな笑顔で応えるしかなかった。
やっぱりあのガラスの仕切りは、特注だったらしい。
「キクタさんは、何年生かしら?」
Lのお母さんから、いきなり話題を振られたので、うろたえた。
僕は、かなり人見知りをする方なので。
「に、2年生、です」
こうなると、もう恥ずかしくて上を向けなくなってしまう。
両手で持った紅茶のティーカップを見つめたまま、僕はぼそぼそと答える。
「まあ、そんな小さなお友達もいたのねえ。ミカちゃんのお友達と云うより、ジーンちゃんのお友達なのかしら」
Lのお母さんは、不思議そうに小首をかしげてJを見る。
なかなか勘の鋭いお母さんだ。僕はまだ、実はLとは話したことさえない。
「でも、キクタ君を最初に見つけたのは、ミカエルなんですよ」
ふふふ、と笑ってJが答える。
たしかに最初に僕を見つけたのはLだった、という話だったけれど。
JがさりげなくLの話題に振ってくれたので、僕はようやくカップから顔を上げることができた。
「そうなの?それは少し意外ねえ。あの子、ちゃんと年下の子の面倒を見たりできるのかしら」
ベッドで眠り続けるLを見て、Lのお母さんは信じられないとでも云うように首を左右に振る。
「ミカエルは、えーと姉御肌?って云うんでしたっけ?しっかり者だし、面倒見もいいから」
そうJが答えると、
「あら、そうなのねえ。家でのミカちゃんは、いつもマイペースなお姫様だから、そんな姿は想像できないわねえ」
少し肩をすくめて、Lのお母さんはふんわりと笑う。
マイペースなお姫様・・・
どちらかと云うとその敬称は、Lというより、Lのお母さんに似合いそうだけれど。
「ミカエルの具合は、どうですか?」
Jは紅茶を一口飲んでから、Lのお母さんにそう尋ねる。
「ええ、元気よ。相変わらず、元気にすやすや、良く眠っているわ」
Lのお母さんはそう云って、少し寂しそうに微笑む。
元気、というのは、体調が安定している、ということなのかな。
「眠ることそのものが目的みたい、病気や何か体の不調のせいで眠っているのではなくて、ね」
頬杖をついて、ベッドのLをながめながら、Lのお母さんは云う。
不思議な声色だった。
子を想う母の声というより、なんだろう、もっと客観的な学者か研究者のような。
「そういう病気もあるそうなの、眠り病、という病気。起きていられなくなって、突然眠ってしまうんですって。でも、起きれなくなるわけじゃなくて、10時間とか人によっては20時間とか眠ると、普通に目覚めるそうよ」
淡々と、Lのお母さんはそう語る。けっして冷淡というわけではなく、そこに隠された感情は、疲れとかあきらめ、のようなものかな、と僕は感じた。
眠り病のことは、僕も以前に聞いたことがあった。ナルコレプシーという病名で、症状の重い人になると、歩いていても突然眠ってしまうケースなどもあるらしい。ただ、Lのお母さんの云う通り、目覚めなくなるわけではなく、何時間か眠れば起きることができて、しばらくするとまた突然眠くなる、というのを繰り返すのだとか。
これも確か、おばあちゃんが見ていたテレビのドキュメンタリーか何かだったかな。
「ミカエルは、病気じゃないんですか・・・」
質問というより、ひとりごとのように、Jがぽつりとつぶやく。
「何年も眠り続けるようなそんな病気は、いまのところ世界にも例がないって、お医者様は仰ってたわねえ」
遠くを見るような眼で、Lのお母さんは淡々とそう云った。
ベッドで眠るLよりも向こう、部屋の壁のもっと向こうを見ていたように、なんとなく僕にはそう思えた。
「いっそ童話みたいに、悪い魔女の呪いが原因って云われたほうが気が楽かもしれないわねえ。いつか王子様が現れて、目を覚まさせてくれるはずって、ね」
どこか疲れた表情で遠くを見つめたまま、淡々とひとりごとのように、Lのお母さんはそんなことを云う。
Jも僕も、何と答えたら良いかわからず、テーブルの上のティーカップを見つめて黙り込んでしまった。
明るい日差しの差し込む静かな部屋に、何とも云えない、気まずい沈黙が漂う。
その時、これ以上ないタイミングの良さで、部屋のドアが、とんとんとん、とノックされた。
部屋の隅にいたメイドさんが素早く反応して入口へ行き、内側からドアを開ける。
先ほどのワゴンのメイドさんとはまた別の、年配のメイドさんがそこに立っていた。
長い白髪を頭の上で丸く束ね、丸い眼鏡をかけていた。
ドアを開けたメイドさんが素早く後ろに下がる。まるでニンジャみたいな身のこなしだ。
「失礼いたします」
大きな声ではなかったけれど、はきはきと良く通る声で年配のメイドさんが云い、丁寧なお辞儀をした。
このお屋敷のメイドさんたちのお辞儀はみんなきれいだけれど、この年配のメイドさんのお辞儀はさらに別格だった。非の打ちどころのない、完璧な美しいお辞儀。
そして年配のメイドさんがゆっくりと顔を上げて、
「奥様、アンドウ先生がお見えになられました」
そう云うと、彼女の丸い銀縁のメガネがきらりと光った、ような気がした。
ぼんやりと遠くを見るような眼をしていたLのお母さんは、その声に、はっと現実に引き戻されたようだった。
左手首の金の細い腕時計を見て、
「あら、もういらしたの?まだ20分もあるけれど」
先ほどまでののんびりとしたおだやかな様子とはうってかわって、切れ者の若奥様といった表情で、小声でそうつぶやいて、すっと席を立つ。
そして、僕とJににっこりと微笑みかけて、
「慌ただしくてごめんなさいね、キクタさん、ジーンちゃん。どうぞごゆっくりしていらして」
さっきまでのマイペースなお姫様に戻って、ふんわりと云う。
「はい、ありがとうございます」
まったく動じずにいつものように礼儀正しくお辞儀ができるJを、いつもながら僕は本当にすごいと思う。
あわてて僕も、「は、はい」とだけ云ってお辞儀をする。
Lのお母さんが部屋を出て行き、マスクのメイドさんがドアを閉めて、また定位置に戻った。
こんなに静かな部屋だっただろうか、と思うほど、しんと静まり返ってしまった。
Jがゆっくりと紅茶を飲み干して、
「じゃあ、もう一度、ミカエルの顔を見せてもらって、わたし達もおいとましようか」
声に出して、云う。
「うん」
うなずいて、僕も紅茶を飲み干した。
すっかり、「うん」と「はい」しか云えないダメな子になってしまった、そんな気がした。
Jと並んで、ガラスの仕切りの前まで行き、ベッドのLを眺める。
先ほどとまったく同じ姿勢で、Lはすやすやと眠ってた。
ふと、ひとつ思いついた。
前に家でなんとなく考えていた、眠っているLと手をつないだら、というあれではなく。
このガラス越しでは、どう考えてもそれは無理そうだったし。
そっとJの手をつなぎ、
「J、Lの「泡」は今どうなっているの?」
と思いついたことを聞いてみた。
「あ、そっか」
Jは心の声でそう云って、僕の手を両手で握ってくれた。
ぐるん、と視界がまわるような感覚がして、僕の視界がJの視線に代わった。
僕より背が高いので、ベッドの上のLがよく見えた。
頭の上には、僕らと同じ、白い「泡」がふわふわと浮いてる。
僕らと、同じ?
いや、少しちがう。
「お、さすが。よく気づいたねー」
Jがうれしそうに、心の声で云う。
白いのは同じ、でも、きらきらがない。
そのせいか、白さも少しくすんでいるように見える。
「そうだね。あのきらきらが何なのかはわからないけど、あれがないと、何だか「泡」も元気がなさそうで、ね」
少し寂しそうに、Jは云う。
「だから、お母さんが「病気じゃない、眠ってるだけ」って云う気持ち、わたしも、そうだったらいいなって思う」
「うん」
僕も、そう思う。
Jが片手をすっと離して、視界がぐるんと僕のに戻った。低くなった。いつも通り、なのだけれど、なんだろう。
「ん?どうしたの」
Jが心配そうに僕を見る。灰色がかったきれいな眼で。
ううん、だいじょうぶ。「ふふふ」と笑う。
「なあに?へんなの」
なんだか、自分がすごくちっぽけで、何にもできない、ただの小学2年生なんだなあと、あらためて思い知らされたというか、そんな感じ、かな。
「あー、それは」
ふふふとJは小声で笑って、
「だいじょうぶよ、このお家から出たら、すぐ治るやつだから」
心の声でそう云って、小さくうなずく。
そうなの。
というか、Jでもそんな気持ちになったりするのかな。
「わたし、今、Kのお父さんの気持ち、すっごくわかったかも」
Jは、楽しそうにくすくす笑ってる。
僕の父の気持ち?なんで今。
J、執事ごっこがしたいの?
「ちがう、それじゃなくて。頭をもしゃもしゃーってするほう。わたし、今、Kの頭をすごくもしゃもしゃしたいから」
思わず身構えてしまう。
え、なんで?
なんでJが僕の頭をもしゃもしゃするの。
部屋の隅で、メイドさんがちらっとこちらを見たような気がする。
なんでこの子たちは、さっきからガラスの前でもぞもぞしてるのかしら?って思ってるのかも。
「わ、たいへん、あんまり挙動不審なことばかりしてたら、出入り禁止にされちゃうかも」
Jは小さくコホンと咳払いをして、姿勢を正す。
僕もJにならって、まっすぐにガラスに向き直った。
「じゃあね、ミカエル、また来るよ」
Jは声に出してそう云って、ガラスの向こうのLに向かって大きく手を振る。
「じゃあ、またね」
僕もそう云って、眠り姫に大きく手を振った。
Lはもちろん何も答えなかったけれど、なんとなく、
「うるせーなー、ゆっくり寝かせろ」
とか、云ってそうな気がした。
「ありがとうございます。そろそろおいとまします」
Jがメイドさんにそう声をかけると、「かしこまりました」とメイドさんはお辞儀をして、壁際の電話を取り、どこかに連絡してくれたみたいだった。たぶん、サモンジさんだろう。
電話をかけ終わると、メイドさんはテーブルのところへ行き、先ほどのお茶会の食器やお菓子を片付け始める。
程なくして、とんとんとん、と部屋のドアがノックされて、メイドさんがドアを開けると、サモンジさんが立っていた。
「お待たせいたしました。ご案内いたします」
部屋に入ってくると、サモンジさんはそう云って、また丁寧にお辞儀をした。
メイドさんがテーブルから何か包みを取り、サモンジさんに何かささやきながら手渡した。
サモンジさんはうなずいてそれを受け取り、ガラスの仕切りの前の僕らのところへやってきて、
「お菓子をお包みしましたので、お土産にお持ち帰りください」
そう云って、Jに向かってその包みを差し出す。
なんというか、至れり尽くせりとはこの事かな。
僕はいちいちあっけにとられてしまうのだけれど、Jはたいしたもので、
「ありがとうございます」
特に動じることもなく、素直にお辞儀をしてお菓子を受け取ってた。
メイドさんが定位置に戻ると、サモンジさんが手を小さく上げて、僕とJに何か合図?をしてる。
そのまま?ストップ?
メイドさんからは見えない位置で、僕らにそのまま動かないよう指示しているみたいだけれど。
僕らがガラスの前から動かずにいると、サモンジさんは小さくうなずいて、
「ジーン様、キクタ様、もうよろしいのですか」
あらためて、そう云った。
もうよろしいのですか?
よろしいも何も、よろしいからサモンジさんを呼んだのでは、と思いながら隣のJを見ると、Jは笑いをこらえる顔をしながら、
「あ、じゃあもう一度ミカエルの顔を見ていきますね」
そう云って素直にガラスの方を向いている。
サモンジさんはと云えば、Jの返事を聞かないうちから、ガラス越しにLをじっと見つめていた。
「はい、どうぞ」
そう答えながら、サモンジさんの視線はずっとLにくぎ付けだった。
「あ、じゃあ僕も」
Jにならって、僕もガラスの方を向く。
「はい、どうぞ」
Lをじっと見つめたまま、サモンジさんはそう答えた。
ひとしきり、Lの寝顔を眺めると、
「では、そろそろ参りましょうか」
まだ少し名残惜しそうに、サモンジさんはそう云って、僕らを連れて部屋を出た。
階段を降り、2階の廊下を通ってテラスから玄関のホールへ降りたところで、
「おふたりとも、ご協力ありがとうございます」
深々と、サモンジさんは僕らにお辞儀をした。
「いえいえ、お安い御用です」
Jはにこにこ笑ってた。
「こんな機会でもないと、ミカエル様にはなかなかお会いできませんので」
小さな声で、サモンジさんはそう云って、
「いや、しかしミカエル様はお変わりなく、本日もお可愛いらしく、たいへん安心いたしました」
しみじみとうなずいていた。
「じゃあ、わたし、また来ますね、サモンジさんのためにも」
笑顔のまま、Jが小声でそう云うと、
「いや、それは」
サモンジさんは一瞬口ごもってから、
「いえ、そうしていただけると、たいへん助かります」
また深々とお辞儀をする。
「はい」
Jはとびっきりの魔法の笑顔で、うなずいてた。
サモンジさんに見送られて、Lのお屋敷を後にした。
玄関前の広い車寄せを通りすぎた辺りで振り返ると、ゆっくりと閉じる扉の間から、まだ姿勢よくお辞儀しているサモンジさんの姿が見えた。
玄関扉が閉まるのを確認して、前を向いて歩きだしながら、Jが僕の手をつなぎ、
「サモンジさん、いい人でしょう」
にこにこしながら云う。
うん、最初はちょっと怖い人かと思ったけど、ぜんぜんそんなことなかった。とってもやさしい人だった。
Lのこと、すごく大切に思ってるんだね。
「うん、家族みたいにね。年の離れたかわいい妹みたいな感じなのかも」
まるで自分のことのようにうれしそうに、Jはそう云ってにこにこしてる。
妹、なるほど。
僕には兄弟がいないのでよくわからなかったけれど、Jの云う「大事なかわいい妹」というのは、なんとなくイメージできる気がした。
もしも僕にもそんな妹がいたとしたら、サモンジさんのようになるのだろうか。
あんな風に、眠り続ける妹のことをじっと見つめたり、するのかな。
「うん」
何となくつぶやいたひとりごとを、あっさりとJに肯定されたので少し驚いた。
「Kもきっと、サモンジさんタイプのやさしいお兄さんになると思う」
はっきりとそう断言して、Jはにっこりしてる。
いったい僕のどこにそんな「やさしいお兄さん」要素があるのかと思ったけれど、詳しく聞くのは少しはずかしい気もしたので、それ以上は聞かなかった。
Jは今にもハミングでもしそうなくらいご機嫌で、きれいに手入れされた芝生や古い木立を眺めながら歩いていた。
「おや、どこのお嬢かね」
不意に傍らの茂みの向こうから声をかけられ、見るとツナギの作業着に紺色の半纏を着た小柄な老人がこちらを見ていた。
手には柄の長い刈込鋏を下げ、頭には藍染めの手ぬぐいを巻いている。この人が、庭師さん、だろうか。
「あ、シジマさん、こんにちは」
Jは足を止め、老人の方を向いてぺこりとお辞儀をした。手はつないだままだったので「そうだよ」と頭の中でJの声が答えてくれた。
僕もJにならって「こんにちは」と云って頭を下げる。
「ああ、Jのお嬢か、はいこんにちは。Lのお嬢のお見舞いかね」
日に焼けた顔をくしゃっとしわだらけにして、老人は笑い、
「こちらの坊は、何の坊かね」
と僕を見た。
こちらのぼん?何のぼん?って一体なんだろう。
「こちらはお友達のスズキキクタ君、ええと、Kの坊?です」
Jが云うのを聞いて、ようやく僕も理解した。
Jのお嬢、Lのお嬢、そして、Kの坊、という事かな。
ふむふむ、とシジマ老人はうなずいて、
「Kの坊も、うちのお嬢のお見舞いかね、それはありがとうね」
僕ににっこりと笑って見せた。日に焼けた黒い顔に、白い歯がきらりと光ってる。
云い回しが独特なのは、年齢的なものか、それとも熟練の職人さんだから、なのかな。
なんだかよくわからないけど、かっこいい、と思った。
その時、シジマさんの後ろの茂みががさがさと揺れて、大きな黒い影がのっそりと姿を現した。
大きな黒い犬だった。
「あ、ラファエルもいたんだ、こんにちは」
Jは犬に微笑みかけ、つないでいない方の右手を小さく振った。
犬はちらりとJと僕を一瞥して、すぐに興味なさそうにそっぽを向いた。
この犬、あの公園のベンチのところにいつもいたのと同じ犬かな?見た目はそっくりだけれど。
「え、ちがうちがう、この子はラファエル。Lがお家で面倒を見てる子だよ。と云っても見てるのはおもにシジマさんみたいだけど。そういえば、犬種は同じだね」
そう、Jが心の声で解説してくれた。
ちがう子なの。毛の色も大きさもそっくりなので、同じ犬に見えた。まあ僕には犬の顔の区別はつかないので、並んでいてもどっちがどっちかわからないだろうけれども。
「Kの坊は、うちの坊と同じくらいかね」
シジマさんにそう聞かれ、一瞬混乱した。同じくらい?は、たぶん年齢だとして、うちの坊?うちのお嬢の云い間違いだろうか。
どう答えたものかと思案していると
「Kは2年生だから、わたしやLの後輩ですよ」
Jが助け舟を出してくれた。
「ほう、後輩かね。それはそれは」
そう云ってシジマさんはにこにこしている。
Lは、お屋敷のいろんな人から大事にされているのだな、と思った。
「ラファエル、なんだか元気がないみたいですね」
さっきからずっと犬に手を振り続けていたJが、ついにあきらめて手を止め、シジマさんにそう聞いた。
犬は興味がなさそうにそっぽを向いたまま、その場に腹這いになってた。
「いやいや、こいつは時々こうなるよ。うちのお嬢も時々こうなるじゃろ。飼い主に似るってやつじゃな、気難しいところはそっくりだ」
わははーと豪快にシジマさんは笑う。年齢のせいか、それとも屋敷の外で働いているからだろうか、屋敷にいるサモンジさんやメイドさんたちのようなLに対する遠慮みたいなものが、彼にはあまりないらしい。
遠慮がないぶん、距離も近いのかな。Lがシジマさんになついている、という話も、なるほど納得できる気がする。
「もう、帰るのかね」
僕とJの顔を見比べながら、少し残念そうにシジマさんはそう尋ねる。
「はい、また来ますね」
Jはそう云って、シジマさんとそっぽを向いたままのラファエルに会釈をした。
僕もぺこりと頭を下げる。
「はいはい、気をつけてお帰り。またいつでもいらっしゃい」
シジマさんはしわだらけの顔をしわくちゃにして笑い、鋏を持っていない方の手を振った。
ラファエルはやれやれと言った顔でふんと鼻息を吐きながら立ち上がり、「じゃあな」とでも云うみたいに僕らをちらりと一瞥して、またすぐにそっぽを向いた。
「はい、ありがとうございます」
Jはシジマさんにぺこりとお辞儀をして、「行こか」と僕の手を引いた。
僕もシジマさんにもう一度お辞儀をして、「うん」と答えて歩き出す。
帰りは、あっという間だった。
シジマさんが丹精込めて手入れをしている素晴らしいお庭を再びゆっくり堪能しながら歩き、鉄の柵まで来ると、先ほど来客があったためだろうか、鉄の門は開いたままになっていたので、そのままLのお屋敷の敷地を出た。
雨はもうすっかり上がっていて、曇り空だったけれど気温も高く、歩いていると汗ばむくらいだった。
運動公園の駐車場まで戻ってくると、バス停の屋根の上にある丸い時計は、お昼の少し前を指していた。
「K、このあと何か予定ある?公園でお昼買ってピクニックしない?」
時計を見上げていたJが僕を振り返って、笑顔でそう尋ねる。
予定は、特に何もなかった。
Jの目線の先を見ると、駐車場の奥、バス停とは逆の公園側に、大型のワゴン車を改造した移動販売車が何台も停まって屋台を開いていた。
風に乗って、美味しそうな料理の匂いがここまで漂ってきている。
まだお昼前なので屋台の周りの人影はまばらで、それほど混んでいないみたいだった。雨あがりのせいもあったかもしれない。
「Lのお家でもらったお菓子もあるし、ね」
ふふふ、とJは笑う。
公園で、ピクニック。
耳の奥で、いつもの「音」が鳴っている。今日は甲高く響く風の音に似た音だった。
空の彼方から聞こえるような、地の底から響くような、かすかな「音」が、高く低く僕の中で鳴っている。
「K?」
Jが心配そうに僕の顔をのぞき込んでた。灰色がかったきれいな眼に、ぼんやりとたたずむ僕が映っている。
「ごめん、K、無理しないで。やっぱり何か予定あった?」
あ、いや、ちがう。ほんとに、予定は何もなかった。
こっちこそごめん、ぼんやりしてしまった。
公園でピクニックを、僕は今までしたことがなかった。
どうしてだろう。
人の多い場所を、避けていたからだ。
母も、祖母も、父と暮らすようになってからは、父も、僕を公園に連れて行こうとしたことは一度もなかった。
子供を連れて公園へ行ったことがない親が、果たしてどれくらいいるものだろうか。
もちろん、病気ややむを得ない事情で行く事ができない子供も大勢いるのだろう。
けれど、僕の場合は。
母も、祖母も、そして父も、本当は、僕を公園に連れて行きたかったのかもしれない。
休日に、お弁当を持って、公園でピクニックがしたかったのでは。
「みたいな事を考えて、ちょっとぼんやりしてた、J、ごめんね」
最後は、声に出して僕はそう云った。
Jのきれいな眼を見ながら、そう云って、僕は「ふふふ」と笑った。
うれしかったのだ、Jに公園でのピクニックに誘われたことが。
とてもうれしくて、だから、ちょっとびっくりしてしまった。
心配そうに僕を見ていたJの顔に、ぱっと明るい笑顔が浮かんだ、と思いきや、Jは急にくるりと向こうを向いてしまった。
表情は見えなくなってしまったので、わからない。
黙ったまま、Jは上を向いていた。
J?ごめん、心配かけて・・・と云いかけると、
「ストップ」と心の声で止められた。
J、もしかして、怒ってるのだろうか。
と思いきや、
「3、2、1、はい、おっけー」
くるりとJはこちらを向いた。いつもの、笑顔のJだった。
灰色がかったきれいな眼が、きらきらときらめいて僕を見ている。
そう云えば、前にもこんなことあったような。
「そうだったっけ?ねね、じゃあ何食べる?何屋さんがあるんだろ、見に行ってみよう」
きらきらの魔法の笑顔を振りまきながら、Jは僕の手を引いて走り出す。
一際高く、耳の奥の「音」が鳴った。
僕の中のもやもやした何かを吹き飛ばそうとするような、遥か高い空を行く鳥の声にも似た「音」だった。
sounds of silence vi
屋根裏ネコのゆううつ