月曜日の午後、
さよならの挨拶をして帰りのショートホームルームが終わり、ランドセルを背負って教室を出ようとしたところで、
「あ、スズキ君」
同じように教室を出ようとしていた担任のナガタ先生に呼び止められた。
「一緒に職員室へ行きましょう」
やさしげな笑みを浮かべながら、先生は云った。
先生と一緒に職員室へ?そんな用事は僕にはなかったはずだけれど。
少し怪訝に思いながらも「はい」とうなずいて、先生の後に続いて職員室へ向かう。
先週、火曜日に台風で臨時休校になった翌日の水曜から金曜まで、僕はずっと学校を休んでいた。けれど、それは母から学校へ連絡済みのはず。
水木金と計3日間休んだことになるけれど、その事情は先生も既に知っている。だから、あらためて職員室に連れて行かれる理由がそれとは思えなかった。
でも他に思い当たることは何もないのも事実で、僕の顔に怪訝の二文字が浮かんでいたとしてもそれは仕方がないことだったろう。
職員室まで、先生は無言だった。振り返りもしなかったので、どんな顔をしていたのかはわからない。
特に叱られるような覚えもないので、不安や心配はなかったけれど、理由がわからない不審さは僕の心から消えなかった。
職員室の扉を開けると、先生はまっすぐに自分の席に向かってすたすた歩いて行く。
何というか、不思議な自信にあふれた歩き方だった。悪く云えば、少し偉そうな歩き方、というか。
奇妙な違和感みたいなものを、僕は覚えていた。どこがどう、とはわからないのだけれど、全体的になんとなく、だろうか。
できるだけ自然に、僕はいつも通りに「失礼します」と小さく一礼して職員室に入り、先生の後を追う。
他の先生たちの席には、まばらに空席が見えた。まだ半分くらいの先生はホームルームから戻っていないようだった。
あごをつんとあげて背筋を伸ばし、遠くを見るような姿勢でナガタ先生はゆっくりと歩いて、自分の席に座った。
この先生は、いつもこんな風に職員室を闊歩しているのだろうか。
なんだか、舞台演劇の役者のような、妙に芝居がかった動作だった。
心なしか、周りの先生たちもナガタ先生を意識しているように、僕には思えた。
直接彼女を見たりはしないのだけれど、というより、あえて見ないように意識していると云う方が正しいだろうか。
なんだろう、妙な空気だった。
先生たちは皆それぞれ机に向かってノートパソコンを操作したり、何か書き物をしていたりするのだけれど、話し声ひとつ聞こえないというのも、何やら奇妙だった。
職員室ってこんな雰囲気だったかな、と思い返してみたけれど、よく思い出せなかった。
何かの用事で、例えば清掃日誌や何かを先生に提出するとかで何度か入ったことはあったと思うけれど、こんな風に先生に連れられて入ってきたことはなかったかもしれない。
違和感は、きっとそのせいだろうと思うことにした。
先生は自分の席にゆっくりと足を組んで座り、椅子をくるりと90度回して、横に立つ僕の方を向いた。
顔はさっき教室で声をかけられた時と同様、やさしげな笑みをたたえてはいたけれど、表情が少しも変わらず、まるで作り物の仮面のようだと僕は思った。
ナガタ先生は軽く腕を組んで、何か値踏みでもするみたいにじっと僕を見ていた。黙って、仮面じみた笑みを浮かべたまま、だ。
もしも、Jの眼で先生を見たら、頭の上の「泡」は黄色か赤なのではないだろうか、とふと思った。
もしも、僕がLだったなら、黄色か赤の「線」がまっすぐに目の前の先生を指しているのではないか、と。
僕の頭の中では、あの「音」が鳴っている。今日は遠雷の響きに似た低い音だったけれど、相変わらず、それが何を意味しているのかはわからない。
かなり長い時間そうして無言で見つめられていた気がするけれど、実際は5〜6秒くらいだったろうか。
「スズキ君、たいへんだったわね」
唐突に先生は、深いため息をつくようにそう云って腕組みを解き、
「おばあさまの事、お悔やみ申します」
僕に向かって深々とお辞儀をして見せた。足を組んで椅子に座ったまま、だ。
こういう時、何て返事をしたらいいのか、僕にはわからなかった。
わからないので、黙ってただお辞儀を返した。
僕が顔を上げてもまだ先生は頭を下げていたので、仕方なく僕はもう一度頭を下げた。
先生の頭が上がる気配を感じてから、僕もゆっくり頭を上げた。
言葉では丁寧にお悔やみを述べてしつこいくらい長いお辞儀をしておきながら、椅子に座って足は組んだまま、というのはいったい何なのだろう。これもまた違和感だった。
先生はまた、黙って僕を見ていた。顔はずっと仮面っぽい笑みのまま。
そして再び数秒の沈黙。
耳の中の「音」がわずかに小さくなり、代わりに違和感が僕の中でどんどん大きくなっていく。
お悔やみを云うために、先生はわざわざ僕を職員室に連れてきたのかな。
それを云うだけなら、さっき教室を出たところでもよかったのでは。
廊下の隅の方にでも僕を呼んで、周りの生徒に聞こえないように小声で云えばいいだけのこと、だと思うのだけれど。
不意に先生の左手が伸びてきて、僕の右肩にぽんと乗せられた。
「何か困ったことがあったら、いつでも先生に相談してくださいね」
そう云いながら、先生は相変わらず仮面のような笑みを浮かべて、僕の右肩をぽん、ぽん、ぽんと不思議なリズムで何度も叩いた。
強く叩かれてはいないので、痛くも何ともないけれど、けっしてうれしくなるような叩き方ではなく、むしろ少し気味がわるい感じがした。
意味がわからない、不審さと違和感しかない。
その時、ナガタ先生の隣の席の若い女性教師が、何か息苦しそうに小さく咳払いをして、さらに小さな声で「すみません」と誰にともなく謝るのが聞こえた。
ナガタ先生の仮面の眉がぴくりと動いて、眼球がわずかに隣の女性教師の方に動いたけれど、すぐに元の位置に戻った。
違和感の正体に、僕は気づいた、かもしれなかった。
これは、ナガタ先生によるナガタ先生のための舞台、なのでは。
ベテラン女性教師のナガタ先生が、祖母を亡くした可哀想な生徒の心のケアをする、というお話。
だから誰もいない廊下の隅ではダメで、人の眼のある職員室でなければいけないのかも。
周りの先生たちこそが観客で、僕は先生のショーを盛り上げるために舞台に引っ張り出されたエキストラ。だから、実は僕じゃなくてもよくて、つまるところ誰でもいいのだろう、かわいそうな生徒Aでさえあれば。
ナガタ先生は、僕のことを心配しているわけでも何でもなく、他の先生たちに「生徒思いのベテラン教師」である自分の姿を見せたいだけ、なのでは。
祖母に対するお悔やみも、一生徒にお悔やみを述べる出来た教師である自分自身を他の先生に見せたいだけ、だから座ったままだし、観客から見えない足は組んだまま。
でもナガタ先生にとって残念なことは、たぶん他の先生たちには、すでにその手口はバレてしまっていること、なのだろう。
やれやれまたナガタ劇場が始まりましたね、とでも云わんばかりの、何とも云えない微妙な空気が職員室中に漂っているのがその証拠。
いや、実はそんなことはなくて、すべて名探偵気取りの僕の勝手な妄想、なのかもしれないけれど。
「どうしたの?クラスで何か困ったことはないのかしら」
ぽんぽんぽん、妙に間の抜けたリズムで、先生は僕の肩を叩き続けている。
もしかしてこれは、僕がなにか云うまで解放されないお話なのかな。
いったいどんなシナリオを、先生は僕に期待しているのだろう。
実は僕がクラスの誰かにいじめられていて、とか?
いや、それじゃ逆効果、だよね。
優れたベテラン女性教師のナガタ先生のクラスでは、いじめなんてないし何の問題もない、というのが正解、かな。
だとしたら僕の次のセリフは、
「いえ、だいじょうぶです」
おべんちゃらを云うつもりはさらさらなかった。けれど、実際に何もないのだからそう云うより仕方がない。
そんなことよりも早くここから解放されて、あの公園へ向かいたかった。早く、Jに会いたかった。
けれど、残念ながら、僕の回答は不正解だったらしい。
仮面の眉がぴくりと跳ね上がり、ぽんぽんと僕の肩を叩く先生の手に力がこもった。
「そんなことないでしょう。せっかくのいい機会ですから、何でも先生に相談してください」
ぽんぽんぽんぽん、おかしなリズムの肩叩きが続いている。
そんなこと云われても、ないものはないのだけれど。
先生が何を云ってほしいのか、どんな相談をしたらご満足いただけるのか、僕にはひとつもわからない。
それに正直云って、そんな意味のわからない、先生にしか答えのわからない奇妙ななぞなぞを真剣に考えて、ありもしない嘘の答えを無理やりひねり出すのも、何だかばかばかしくてすごく嫌だった。
救いを求めたわけではなかったけれど、僕は目の前のナガタ先生から視線を逸らして、辺りを見回してた。
隣の若い女性教師は、ノートパソコンのキーをぽちぽち叩いているふりをしているけれど、人差し指で同じキーばかりずっと打っていた。
ナガタ先生の向かい側に座る中年の男性教師は、僕と目が合いそうになると慌てて視線をそらし、おもむろに机の引き出しをごそごそし始めた。
なるほど、やはりベテラン女性教師はそれなりに職場では恐れられているらしい。
へたに関わり合いになりたくない、という意味において、かもしれないけれど。
「スズキ君、よそ見しないで、ちゃんとこっちを向いてください」
肩をぽんぽん叩いていた先生の手がいきなり僕の二の腕を掴み、先生の方へ僕を強く引き寄せた。
顔は、あの笑みの仮面のまま。
一緒にするのはどうかと思わなくもなかったけれど、あの時のルリおばさんを、僕は思い出してしまった。
恐ろしい剣幕で僕の靴下を引きはがし、はだしで砂利の地面に立たせたあの悪魔のおばさんを。
狂気じみた妄執、とでもいうか、何かに取り憑かれでもしたのかと思わざるを得ないような変貌ぶり。
ひょっとしたら僕自身に、特定の人を狂気に走らせるような何か特殊な気質でもあるのでは、とふと考えてしまい、少し怖くなった。
あの時は、すべてを諦めて、自分自身の何かを閉じて、ルリおばさんのなすがままになってた。
それは、けっして怖かったからではなく、それが母と祖母を守る術だと思ったからだった。
無力な子供にすぎない僕に、唯一できる手段がそれだったのだ。
では今は?
やはり一緒にするのは、少し違う気がする。
少なくとも、ナガタ先生は「先生」であるからこそ、僕に害をなすことはないはずだ。
他の先生たちの前で「立派なベテラン教師」を演じたいのであればなおさらだった。
それにその先生たちにしても、見て見ぬふりをしていられるのは、きっと大ごとにはならないと踏んでいるからなのだろう。彼らの様子や態度から、またか、とでも云うような奇妙な慣れが感じられるところからしても、これは今日突然始まったことではなく、これまでも手を替え品を替え、日常的に行われてきたことなのだろう。
だったらもう、僕から終わりにしてもいいのでは、と思った。
先生の自己満足ためのお芝居に、付き合わされなきゃいけない義理は僕にはない。
僕は、日々父の魔の手から逃れるために身につけた体の捻りひとつで、腕を掴んでいたナガタ先生の手をするりと外した。
そして、間髪入れずに大きく息を吸い込んで、
「先生」
仮面のような笑みを浮かべ、自身のお芝居に酔ってるみたいに虚ろなナガタ先生の眼をまっすぐに見た。
「僕、約束があるのでもう帰っていいですか」
他の先生にも聞こえるよう、少し大きめの声で僕は云った。
ぴりっと、職員室の空気が張り詰める音が聞こえたような気がした。
一瞬、時間が凍り付くみたいに停止したようにも感じられた。
止まった時間の中、僕の腕を離した先生の左手がゆっくりと開いて、もう一度僕の腕を掴みにくるのが見えたような気がして、反射的に僕は右手の甲で先生の左手を払いのけていた。
ぺちん、と思いのほか大きな音が響いた。
平手打ちをしたような音だったので、しまった、と思った。
手が当たっただけ、とはいえ、生徒が教師の手を音高く払いのけたのだ。校内暴力と云われても否定はできない、かもしれない。
とっさに云い訳を考えたけれど、何も出てこない。
偶然当たった風を装って、とりあえず謝るべきだろうか。
永遠にも思える、一瞬の静寂、そして、
ゆっくりと世界に時間と音が戻ってくるように、僕には感じられた。
先生の顔から、あの仮面の笑みが消えていた。
怒らせてしまったかと思ったけれど、そうではなかった。
先生は視点の定まらない様子で、ぼんやりとしているように見えた。
他の先生たちも、まるでいっせいに夢から覚めたみたいに、ぼんやりしたり、首をかしげたり、辺りを見回したりしている。
あの異質な、ナガタ劇場の奇妙な違和感が、すっかり消えていた。
普段と変わらない、いつもの職員室だった。普通に、先生同士の会話も聞こえ始めていた。
いったい、何が起こったのだろう。
あっけにとられた僕の目の前で、ふわふわと辺りを漂っていたナガタ先生の視線がようやく僕を見た。
「あ、スズキくん。さようなら、気をつけて帰りなさい」
まるで僕には興味のない様子で、ナガタ先生はそう云って自分の机に向き直り、ファイルを開いて何やら書類の整理を始めてる。
先生が自分で僕をここへ連れてきたことなど、すっかり忘れてしまったかのようだった。
まるで、たまたま僕がそこにいたので、普段通りさよならの挨拶をしただけ、とでも云うかのように。
他の先生たちも同様に、僕がナガタ先生に連れてこられた事などまるでなかった事のように、それぞれがそれぞれに仕事を片付けたり、他の先生とおしゃべりをしたりしている。
誰も、何も、異常を感じている様子はなかった。
僕以外には、誰も。
「先生さようなら」
ともあれ、ここに居続ける理由はなかったので、僕は素早く先生にお辞儀をして、くるりと回れ右をした。
「はいさようなら」
ナガタ先生は書類から眼を離すことなく、心ここにあらずといった様子で、僕に気のない返事をしてた。
たぶん、誰に返事をしたのかもわかっていないのではないかと思ってしまうくらい、僕のことなどきれいさっぱり忘れてしまったみたいな生返事だった。
通学路を、あの公園に向かって急ぎながら、何度もさっきの出来事を頭の中で思い返してみた。
本当に、夢でも見ていたのだろうか。
あの場にいた全員、僕もナガタ先生もあの職員室にいた他の先生たちも、全員が一斉に集団催眠のような状態になっていたとしたら?
全員が同じ夢を見ていた?
あるいは、あのナガタ劇場は、僕だけが見ていた白昼夢のようなものだったのかもしれない。
僕以外の人は、それぞれあの場所で別々の夢を見ていた、と考えるほうが自然なのかも?
不自然きわまりない集団催眠なんてものに、自然も何もありはしないとは思うけれど。
いや、もし仮にそうだとしても、いったいどこからが夢だったと云うのだろう。
わからない。
教室を出るところでナガタ先生に呼び止められたのは、間違いなく現実だった。
先生の後について職員室に入ったのも、現実。
その後、お悔やみを云われて、肩をぽんぽん叩かれたのも。
ぜんぶ夢ではないのだとしたら、あの時、いったい何が起こったのだろう。
「先生、僕、約束があるのでもう帰っていいですか」
そう僕は云った。あの場にいたみんなに聞こえるように、少し大きな声で。
その直後、空気がぴんと張り詰めるような感じがした。
僕がナガタ劇場を台無しにしたことで、あの場にいた全員が息を飲むような緊張感に包まれたのかと思ったけれど、そうではなかった。
先生の左手がまた僕の腕を掴みにくるように見えて、反射的に僕は右手の甲でその手を払いのけた。
ペちん、と僕の手が先生の手に当たるその音が、思いのほか大きく職員室に響いて・・・。
きっかけは、あの「音」だったのだろうか。
結果的には、あのおかしなナガタ先生ワールドはそこで唐突に終わりを迎えて、他の先生たちももちろん僕も、無事に解放されたのだけれど。
わからない。
一体あの時に何が起こっていたのか。
「何か」が起こったのは確かなのだけれど、それを起こしたのは「僕」なのだろうか。
わからない、
けれど、今からあの職員室に戻って、あの場にいた先生たちひとりひとりにあの時のことを聞いて回る、なんてことは、とてもできそうにないし、あまりやりたいとも思えなかった。
それが、たとえ、あの「現象」の謎を解明するためだとしても。
できればしばらくは、職員室にもナガタ先生にも近づきたくはない、というのが僕の本心だった。
考え事をしながら歩いていたら、いつの間にか、公園に着いていた。
入り口から公園の奥を見ると、電車ブランコに制服姿の人影が見えた。
Jだ。
彼女は、ブランコの座席に深くもたれるように座って、上を向いて空を眺めていた。
彼女が揺らしているのか、それとも風だろうか、ブランコがかすかに揺れていた。
「J」
駆け寄って、声をかけると、空を見上げていた彼女がくるりとこちらを向いて、にっこりとあの笑顔で笑った。
心が温かくなる、あの魔法の笑顔。
僕はブランコを揺らさないようにそっと飛び乗って、Jの隣に座り、彼女の左手を僕の右手でつないだ。
「おおう、どうしたの、今日はまたずいぶん積極的だねえ」
くすくすと心の声でJは笑った。
J、茶化さないで。話したい事がたくさんあるんだ。
「ふふふ、ごめんごめん。つい、うれしくて、ね」
Jは本当にうれしそうに笑った。
話したい事がたくさんある、とは云ったものの、何から話すべきだろう。
土日の間に、ある程度は整理していたつもりだったのだけれど、さっきの出来事で全部ふっ飛んでしまったようだった。今、僕の頭の中はかなりごちゃごちゃだ。
「ん、なにかあったの?じゃあわたしから話そうか。話しながら、Kの頭が整理されるのを待とうかな」
確かに、その方が良さそうだった。いま僕が話しても、支離滅裂で訳がわからなくなるだけな気がする。
「支離滅裂なKって、どんなだろ。それはそれでちょっと興味あるけどね」
ふふっ、とJはいたずらっぽく笑う。
「それで、あの後、Kはだいじょうぶだったの。雨にたくさん濡れて、風邪引かなかった?」
引いた。Jの家から帰ってそのまま熱を出して、翌日は一日寝込んでた。
Jはだいじょうぶだったの?
「あらあらかわいそうに。わたしはだいじょうぶ。次の日もちゃんと学校行ったよ」
それなら良かった。
心からほっとした。台風の中を家まで送ってもらって、しかも雨の中を走ったりもして、風邪なんて引かせたら申し訳なさすぎる。
「こう見えて意外と丈夫なんだ、わたし。めったに風邪も引かないし、ね」
Jはそう云って、右腕でちからこぶを作るポーズをして見せた。ちからこぶは、出てなかったけれど。
その時、思わぬ方向から人の声が聞こえた。
電車ブランコは公園の奥にあって、入り口からはいちばん遠いのだけれど、そのさらに奥、公園をぐるりと囲む生垣が一部途切れた場所があり、人が通れる小道のようになっていた。
伸び放題の生垣の植物に半ば覆われているので、注意して見なければわからないくらいの、めったに人が通らない獣道といった風の細い道だ。
道の先は、公園の裏の路地に通じているようだった。
電車ブランコとの距離は、5〜6メートルくらいだろうか。
その小道から子供の話し声が聞こえてきたので、僕もJも驚いてそちらを見た。
「なんだよこれ、公園か?こんなとこにこんなしょぼい公園があったのかよ」
あまりお行儀の良くなさそうな男子の声が聞こえ、生垣の切間から茶髪の頭がぬっとのぞいた。
思いのほか、背が高い。子供の声かと思ったけれど、中学生か、もしかしたら高校生かもしれない。
「あれ、誰かいるみたいだぜ」
茶髪の後ろから、刈り上げの少年がこちらを覗き込んでいる。こちらは頭ひとつ半くらい背が低く、ランドセルを背負っているのが見えた。それなら、小学生だ。
「おやおや、誰かと思えば、孤児院のジーンかよ」
茶髪の少年が、甲高い声を張り上げるように、一際大きな声で、こちらに向かってそう云った。
「・・・アイ?なんでこんなところに」
Jが心の声で呟くのが聞こえた。
隣を見れば、彼女はいつになく険しい表情をしている。
知り合いなの?と聞くと、
「うん、同じ学年。クラスは違うけど」
淡々と、Jはそう答える。
いつもやさしいJに、こんな声を出させるような相手、ということは、
まあ、あのマンガに出てくる雑魚キャラみたいな、あまり賢くなさそうな喋り方からしても、お察しだけれど。
「こじいん?」
後ろの刈り上げの少年も茶髪に負けじと大声で聞く。
いつも思うのだけど、どうして小学生男子って声のボリュームを上から上から被せるように上げつづけるのだろう。うるさくて仕方がないのだけれど。
「なんだお前知らねえの?街はずれの丘の上の孤児院だよ。ジョウノジーンはそこの最後の売れ残り」
何がそんなに面白いのか、茶髪のアイとやらはそう云って、ぶわはははとモブキャラっぽい笑い方で大笑いしていた。
身長は、たぶん180cm近くありそうだった。でも声変わりはまだらしく、中学生か高校生みたいな見た目から甲高い小学生男子の声が出てくるのは何ともアンバランスだった。
後ろの刈り上げ少年も、ぎゃはははとこちらも負けじと雑魚っぽい笑い方で盛り上げている。
刈り上げの彼は、アイ、とかいう茶髪ゴリラの子分的なポジション、なのだろう。
雑魚ボスの手下の雑魚A、という感じかな。
「んでそのチビはなんだあ、ジーン。お前、ずっとつるんでたミカエルがあんなことになっちまって、寂しくて今度はそんなチビスケと遊んでるのか?ははっ、カワイソウになあ」
アイはそう云って、何がそんなに楽しいのか、またぶわははーと腹を抱えて下品に笑ってる。
しかし常々不思議に思うのだけれど、こういう雑魚っぽい話し方って、一体彼らはどこで習っているのだろう。マンガやアニメだろうか。それらの影響だとして、何故ヒーロー側のかっこいい物云いでなくて、敵側のしかもすぐやられそうな雑魚の喋りを真似する必要があるのだろう?ぜんぜん意味がわからない。
「ちょ、K・・・」
不意にJに呼ばれて、顔を見る。
Jの表情から先程の険しさは消えて、何かを必死にこらえているような顔になってた。でも何を?
「キミ、その、冷静に、頭の中で分析するの・・・やめて、面白すぎ」
笑いをこらえていたらしい。
僕としては、心外だった。面白いことを考えているつもりなんて僕には毛頭なくて、むしろ僕は彼らに対して、少なくとも怒っていたのだから。
「ふふふ」
Jは声に出して笑って、つないでいない方の右手で、僕の頭をそっとなでる。
びっくりした、けれど、
かっこいい、と僕は思った。
アイとかいう茶髪のゴリラ小学生の失礼な物云いや安っぽい挑発などまるで気にも止めずに、ふふふと笑って僕の頭をふわふわなでてみせたJが、だ。
かっこいい。
Jの方こそ、まるで映画のヒーローみたいだった。
「おいおい、いちゃいちゃしてんじゃねえよ、なめてんのかてめえ」
茶髪ゴリラのアイとやらが、またお約束のモブっぽいセリフで吠えている。
生垣の切れ間から身を乗り出していて、ようやくその巨体の背中にも、僕らと同じ黒いランドセルを背負っているのが見えた。
ああ、たぶん世界一ランドセルが似合わない小学生、かもしれない。
「6年生にもなって、こんなチンケな公園で、下級生のチビスケとおててつないでおままごとかあ?売れ残りはカナシイなあ、ジーンさんよお」
アイの中身のない挑発はつづいてた。いや、中身は、多少なくはないのかも。
挑発的な暴言に混じって、いくつか気になる点もあるような・・・
え、6年生にもなって?
「え?」
僕の心のつぶやきに、Jが心の声で反応する。
いや、今あいつ、6年生にもなって、って云った。
「云ったね」
きょとんとした顔を、Jはしてた。
J、6年生なの?
思わず僕は、そう聞いてしまう。
途端に、Jは怪訝な顔になって、
「ええ、わたし、6年生だけど。え、何?ちょっとK、何年生だと思ってたの、わたしのこと」
思わぬ強い調子で問い詰められて、僕はつい正直に、白状してしまう。
ええと、3、4年生くらいかなって、思ってた、けれど。
「え、なに?これは若く見られてよろこぶところかな?ちがうよね?」
Jのきれいな灰色がかった眼がまっすぐに僕を見て、小首をかしげてる。
え、うん、たぶん?
云い訳をするなら、Jはそんなに背も高くないし、やせっぽちだし、それに童顔だから?かな。
そう、フォローしたつもりだったけれど、云い訳にもなっていなかった気がする。
童顔と云うよりは、Jはどちらかと云えば大人っぽい顔立ちだと思うし。でも、6年生だったとは、
「そ、そうかあ、3、4年生ね・・・。ふむー」
Jはあごに人差し指を当てて、何やら考え込んでしまった。
僕は困ってしまって、やり場のないこの思いを彼らにぶつける事にする。
おのれアイとやら、思わぬところで地雷を踏まされてしまった。
「シカトかあ、おい。それともビビって声も出ねえか、ええ」
雑魚敵マニュアルに則って、マンガでよくありそうなセリフを次から次へと吐き続けるアイとやらには、何というか、ある種の敬意すら覚えるけれど。
僕に同じことをやってみろと云われたら、たぶんひとつもセリフが出てこないだろうから。
それにしても、威勢よく挑発をしているわりに、さっきからアイもその子分の刈り上げ少年も、少しもこちらに近づいて来ないのは、なぜなのだろう。
公園の外、生垣の間の細い道から、ふたりはぎゃあぎゃあ喚き続けるばかりで、公園の中には一歩も入ってこない。
もっと近づいて、例えばこの電車ブランコの乗り口あたりまで来てそこを塞ぎ、僕らをここから出れなくするとか、威圧したいのならその方がよほど効果的だと思うのだけれど。
とは云え、僕もそこまでされたらさすがに怖くなるだろうから、それは、しないでいてくれてありがとうと云うべきなのかもしれないけれど。
まるで、目には見えない境界線みたいなものが引かれていて、彼らはその中には一歩も入れない、というルールでもあるみたいだった。
僕もJも、アイの威圧に対して何の反応も示さず、怖がるそぶりも見せないのが気に入らなかったのだろう。アイはますます声高に意味不明な言葉を大声で喚き続けている。
もはや何を云っているかすらわからないしわかりたくもないけれど、おそらくJを罵り続けているのだろう。
刈り上げ子分も、たぶんひとつも意味がわからないながらも、いちいちボスを囃し立て、声が枯れそうな勢いで笑い続けていた。
飽きればそのうちに諦めてどこかへ行ってくれるのかもしれない、けれど、飽きるまでJの悪口を大声で捲し立てられ続けているのは、たとえ意味はわからなくとも僕にとっては不愉快だった。
J本人はといえば、先程の僕の失言から、「3年生4年生?・・・ふむー」とかぶつぶつ云いながら何やら物思いに沈んでいたので、アイの暴言なんて一切耳に入っていなかったのかもしれないけれど。
ふと、ひとつの考えが僕の中に浮かんだ。
さっきの職員室と、今の状況が少し似ている気がしたのだ。
あの時と同じことが起きれば、彼らを止めるか追い払うか、少なくともあの暴言とばか笑いをやめさせることができるのでは、と思った。
J、ちょっと試したいことがあるんだ。
僕はそう云って立ち上がり、Jの手を引いて電車ブランコをおりた。
「え、ちょっと、K、何するつもり?」
Jは慌ててた。僕が何か危険な手段で彼らを追い払おうとしていると勘違いしたのかもしれない。
だいじょうぶ、危ないことはしないから、心配しないで。
ちょっとした実験というか、何というか。
そう云って、一歩、二歩、生垣の間にいるふたりに近づいていく。
距離は3〜4メートルと云ったところだろうか。手を伸ばしても、実際に届くことはないだろうけれど、それぞれがお互いに伸ばせば、届きそうにも思える距離。
立ち上がってブランコを降りた僕らを見て、アイは一瞬少したじろいだようだったけれど、すぐにそれを恥じるように、さらに大声をあげて何やらまた威圧的に喚き出した。
口の中に唾をいっぱい溜めてわあわあ喚いているので、もうなんて云ってるのかひとつも聞き取れない。
さて、実験とは云ってみたものの、どうしたらいいのだろう。
あの時を再現するのなら、僕が何かを云い、できれば相手の手を払いのけるとかして「ぱちん」と音を鳴らしたいところだけれど。
近くで見ると、アイは見上げるような巨漢だった。
何か運動でもしているのかな、制服の上から見ても、筋肉質の分厚い体躯をしているのがわかる、腕も太くて丸太のよう。
薄笑いの仮面をつけた中年女性教師とは、また違った圧がすごい。
ただ、ひとつ安心材料があるとすれば、彼らはこの公園には入れない。なぜかはわからないけれど。
入れるのならとっくに入ってきているはずだし、今も公園の境界ギリギリのところに立って、鎖に繋がれた犬のようにその場でわんわん吠えているだけだ。
よし、案ずるよりなんとやらだ。彼らに対して何かを云い、何か手で音を鳴らしてみよう、と決めた。
あの時と同じように、大きく息を吸い込む。
Jが僕の隣で、固唾を飲んで僕を見守ってる。
「もういいから、帰って」
思いのほかはきはきと、僕は云った。
職員室の時ほど大きな声ではなかった。すぐ目の前だし、普通に云えばはっきり聞こえるはずだと思ったので。
そして、間髪入れずにJとつないでいない方の左手を高く掲げて、ぱちんと指を鳴らしてみた。
何も起こらない。
職員室の時のように、空気がぱりっと張り詰めるような感覚は、なかった、気がする。
実験失敗、かな。
そう思った、その時、
どこから現れたのか、僕らとアイの間に、黒い大きな犬がのそりと姿を現していた。
あの黒犬だった。公園の外から来たのか、それとも最初から生垣の付近にいたのかはわからない。
まるで時が止まったかのような、一瞬の静寂。
その静けさの中を、黒犬は、周りのことなど気にも留めない様子で、僕らとアイの間を堂々と横切って、公園の中へ歩いて行った。
おそらく、あのベンチの前のお気に入りの場所へ向かったのだろう。
「K、今の、なに?」
Jは、呆然と目の前に立つアイとその子分を見ていた。正確には、ふたりの頭の上の何もない空間を、見てた。
もしかして、ふたりの「泡」かな。
「泡」に何か変化が起こったの。
「うん、色が、変わった」
Jが素早く右手を伸ばして、つないでいた僕の手を両手で包み込んだ。
ぐるん、と視界が回転する感覚、そして、Jの視界でふたりを見た。
緑色の「泡」がふたつ、仲良く並んで浮いていた。いや、アイの方はだいぶ上空にあったけれど。
「さっきまで、ふたりとも、黄色、だった」
Jの声は、少し震えてた。
当のふたりは、あの職員室の先生たちと一緒だった。
まるで今、長い夢から覚めましたと云わんばかりに、ぼんやりと視線を彷徨わせてる。
「あれ、ジーン・・・なんで、俺こんなとこに」
アイは今はじめて目の前に立つJに気づいたみたいに、ぶつぶつ呟いている。
そして急に目が覚めたみたいに、はっと短く息を吸い込むと「ちっ」とひとつ舌打ちをして、
「じ、じゃあな」と僕にともJにともなく、ぶっきらぼうにそう云った。
そしてまだぼんやりしていた子分の刈り上げ頭をぱちんとひとつ叩いて、
「おい行くぞ」と声をかけ、さっさと生垣の間の細い道を歩いて行ってしまった。
叩かれた刈り上げ少年は何が起こったのかわからない様子であたりをきょろきょろと見回し、去って行くアイの後ろ姿を見つけると、もうこちらには目もくれず、慌てて彼の後を追いかけて行った。
「あ、ごめん」
Jがつないだままだった両手のうち右手を離して、ぐるん、と僕の視界が戻った。
「さっきの、あれは、なに?」
まだ少しぼんやりとした様子で、もう一度、Jが僕に尋ねる、けれど。
わからない。とりあえず、座ろうか。
「うん」
Jの手を引いて、電車ブランコに戻り、揺らさないようにそっとふたりで並んで腰掛けた。
こうなった以上は、Jにさっきの職員室での出来事を話さないわけにはいかない、よね。
もちろん話すつもりではいたけれど、もっと僕の中で整理が出来てから、と思ってただけで。
もうこの際、支離滅裂でも何でも、いやちがう、僕の考えや推理は省いて、起こった出来事をできるだけそのまま話した方がいい。
その方が、Jも余計な考えに惑わされずに、彼女なりの素直な感想や意見を聞かせてくれるだろうし。
それに、僕ももう一度、客観的にあの出来事を見つめ直せるかもしれない。
sounds of silence
屋根裏ネコのゆううつ