the emperor’s new clothes vi

屋根裏ネコのゆううつ

翌日の木曜日、
昼過ぎに、電話が鳴った。
夏休み中、お昼ご飯は、母が自分と父の分のお弁当を作るついでに、僕の分も用意してくれていた。
キッチンの電子レンジでそれを温めていたら、電話が鳴った。
テーブル脇の電話台から受話器を取り上げると、相手はアイだった。
「あれ?バスケの練習は」
そう聞いたら、
「今、医大の体育館の外の公衆電話から」
アイはそう答えたので、今日は、練習にはちゃんと顔を出しているらしい。
「急に心配になってな。おまえ、ひとりであのマンホール開けようとかすんなよ?絶対無理だからな?」
心配性のお兄ちゃんは、心配そうな声で云う。
電話だと、照れずに「心配」とか云えるんだなって、なんだかとても微笑ましかった。
「おい、聞いてんのか?」
「聞いてる。わかってるよ、心配しないで」
そう、わかってる。
アイが僕を心配してくれているのは、すごくありがたいことだ。
それは、わかってる。
「ならいいけどよ」
アイがそう云う後ろから、「アンドウくん」と誰かがアイを呼ぶ声がした。
アイが受話器を押さえ「あ、はい!今行く!」と大きな声で返事をしてる。
「練習、がんばってね」
「おう、おまえも、ちゃんとおとなしくしとけよ。じゃあな」
「はーい、じゃあね」
僕が云うと、電話が切れた。
しん、と静まり返った家の中、また、なんとも云えない後ろめたい気持ちが、わいてくる。
けれど、と、かぶりを振った。
ごめん、アイ。
僕はまだ、止まれない。
温め終わっていたお弁当をレンジから取り出して、手早くかき込む。
昨日のうちに、ガレージでペン型の懐中電灯も見つけて準備してた。
地下でも方角がわかるように、方位磁針も用意した。
マンホールを降りた先に、何があるのかはわからない。
ただの下水道なのかもしれないし、通信ケーブルなどを通すためのただの横穴なのかもしれない。
万が一、もしもそこに、クレーターや隕石落下の痕跡を示す何かが残っていたとして、それが眠り病とどんな関係があるのかはわからない。
もしかしたら、なんの関係もないのかもしれない。
それでも、ここでやめるわけにはいかない。
アイに嘘をつくことになったとしても、だ。
食べ終えたお弁当箱を流しで洗って、洗いかごに伏せて置いた。
蝉の声が、家の外、遠くから聞こえる。
耳の奥で、今日は送風機のような「音」が鳴っている。いま、その音は、上の方から聞こえてる。
それが何を意味するのかは、相変わらず、わからない。
それでも、
「行こう」
声に出して云って、僕は家を出た。
通りを挟んだ向かい側に、東側の塀が建っている。
その辺りに、入り口があれば、と思わなくもない。
あのマンホールがあるのは、東側の塀の中央あたりから、西へほんの5~6mほどの場所だった。
こちら側に入り口があれば、目と鼻の先の距離、のはずだ。
そう思って、昨日の帰り道、東側の塀をもう一度念入りに見ながら帰ってきたのだけれど、残念ながら、出入口も、塀の破れた個所も、鉄板が緩んだところも、見つけられなかった。
やっぱり南側の、あの駐車場の西の隙間から入るしかなさそうだった。
駐車場でアイと別れた後、塀の隙間に戻って鉄板を押し戻しておいた。
念のため、もあるし、もしも誰かがあそこから中に入って、隙間を広げたままにしていればそれに気づくことができるから、だ。
押し戻した塀に、伝説の剣を立てかけておいた。
もし誰かが入って鉄板を中から戻したとしても、伝説の剣は倒れたままになるはず。
伝説の剣、と云っても、知らない人が見ればただの棒きれだ。
塀に立てかけてあっても、それが倒れても、気に留める人はいないだろう。
駐車場から、西へ草むらをかき分けて進むと、伝説の剣は昨日立てかけたそのままの形でそこにあった。
つまり、塀の隙間は、昨日最後に僕が押し戻した状態のままだった。
少なくとも、その時点から今に至るまでは、誰もここから中へは侵入していないらしい。
伝説の剣を手に取って、先端を塀の隙間に差し込んでゆっくりと手前に引いた。
ぎぎぎと鉄板が軋みながら、隙間が広がる。
今日は、僕だけが通れればいいので、30cmほど広げたところで止めた。
体を横にして、隙間から塀の中へ滑り込む。
塀をくぐった瞬間、やっぱり空気が変わるような感覚がして、耳の中の「音」が変わった。
低く唸る送風機のような音は止み、代わりにかすかな電子音のような、ぴぴぴという連続した音が聞こえ出す。
音が切り変わる瞬間を意識して聞いたのは、初めてだった。
ラジオやテレビのチャンネルを切り替える時のように、ぱっと一瞬で変わってた。
今日は、工事現場の真ん中を通らずに、一直線に東のマンホールへ向かう。
昨日、マンホールから南の塀の隙間までは塀に沿って戻ってきたので、南の真ん中から東の真ん中へ、ななめに進むルートは初めてだった。
とは云え、黒くて固い土の地面が広がるだけの、代わり映えのない風景だった。
何か新たな発見があるかもと少しだけ期待していたけれど、残念ながらなにも見つけられなかった。
マンホールにも、昨日と特に違う点はなかった。
アイが閉じたそのままの形で、蓋が閉じられていた。
塀のそばの草むらへ行き、アイが隠した鉄の棒を探す。
しっかりと隠し場所を見ていたつもりだったのだけれど、同じような草むらばかりで目印もなく、見つけるまでに意外と手こずってしまった。
鉄の棒の先端の鉤爪をマンホールの蓋のくぼみに差し込み、スライドさせてから90度回転させて、ロックを外す。
それから棒を外側に倒して、梃子の原理で蓋を浮き上がらせる、そこまでは順調だった。
あとは、蓋を水平に地面の上を滑らすように引っ張るだけ、なのだけれど。
蓋の重さは、30~40kgとかアイは云っていただろうか。
考えてみれば、僕の体重よりも重いのだ。
全体重をかけて引いたところで、それよりも蓋の方が重いのでは、動かせるはずもない。
あとは腕力、なのだけれど、そんなもの僕にはないに等しい。
アイの電話の声がよみがえる。
「ひとりであのマンホール開けようとかすんなよ?絶対無理だからな?」
それを聞いた時には、やってみなければわからない、とか思ってた。
でも、アイは正しかった、かもしれない。
けれど、
びくともしない蓋を相手に10分以上格闘して、全体重をかけながら勢いよく引けば、ほんの数センチだけれど動かせることに気づいた。
数センチずつでも動くのなら、それを20〜30回も繰り返せば、蓋を穴の半分くらいまでは動かせるはずだ。
半分も開けば、僕ひとりならば十分通れる。
息を切らして汗だくになりながら、トータル30分近くかけて、どうにか蓋を半分までずらしてマンホールに入れる状態になった。
5分ほど、地面にへたりこんで息を整えた。
地面にしたたりおちる汗のしずくをぼんやり見つめながら、アイといっしょに、バスケを習おうかなと本気で考えてた。運動のために。
いや、運動のためっていう云い方が、すでになんというかおじいさんっぽいというか。
自分の体力のなさ、腕力のなさに、少し落ち込んだ。
呼吸はどうにか整ったけれど、日陰もない炎天下では汗が引くこともなく、ここにこうしているよりもさっさとマンホールに入ったほうが涼しいのでは、と思い、立ち上がった。
ポケットから懐中電灯を取り出して、首に下げる。
細長いペン型の懐中電灯で、両手で作業をするためなのだろうか、長めのストラップが付いていた。
半分開いたマンホールをのぞき込んで、懐中電灯のスイッチを入れ、中を照らしてみた。
底は、見えない。
懐中電灯の光は、暗い穴の中を5~6メートルほど照らしていると思うのだけれど、その先に地面らしきものは見えず、真っ暗な闇だった。
足からマンホールに入って、タラップの位置を確かめる。
運良く、蓋が開いている側の壁面にタラップがあったのは幸いだった。
逆側だったら、入る時点でもう一苦労するところだった。
一歩ずつ、次のタラップの位置を足で確かめながら、穴に入る。
マンホールの中は、空気がひんやりとしていた。
目線が地面を通り過ぎ、頭の先まで完全に穴の中に入ると、一気に涼しくなった。
下を見ると、狭くて暗い丸い穴の中で、懐中電灯の光の輪が揺れていた。
底の地面は、まだ見えなかった。
穴の直径が1mほどあるので、圧迫感や息苦しさのようなものは感じない。
涼しさに、汗がしだいに引いていく感じが心地良くすら思えた。
ゆっくり、一歩ずつ、タラップを下りて行く。
どれくらい、下りただろうか。
上を見ると、半分開いたマンホールの口に蓋がかかっていて、明るい空が月のように見えた。
一歩ずつ一歩ずつ、ゆっくりと下りているので、次第に時間の感覚がなくなってくる。
下はまだ真っ暗で、底らしきものは見えない。
少し下りては上を見上げると、月のような空が小さくなっているので、わずかずつでも進んでいるのだとわかる。
かつん、かつん、と鉄のタラップを踏む僕の靴音だけが狭い穴に響いていた。
耳の奥では、ぴぴぴぴというあの「音」が、変わらずかすかに聞こえている。
5メートル以上は、下りただろうか。
ふと、頭上から影が差したような気がして、上を見上げた。
真っ暗な穴の中、ひとつふたつ上にあるタラップとその向こうに三日月のような空だけが、小さく見える。
と思った矢先、ぱらぱらと上から細かい砂粒が降ってきた。
砂の粒が眼に入り、思わず眼を閉じた。
すぐに続けて、ずずっずずっ、という何かを引きずるような音が上から聞こえた。
片手で眼をこすり、どうにか片目を開いて見上げると、マンホールの蓋が閉じていくのが見えた。
頭が真っ白になる。
息が止まり、叫び声を上げそうになるのを、慌ててこらえた。
上に、誰かいる!?
誰かがいて、マンホールの蓋を閉じようとしてる。
「待って」
そう叫ぼうとした。
誰かはわからない、けれど、閉じられてしまったら、僕には中からあの蓋を開けることはできない。
上にいる誰かは、まさか穴の中に小学2年生の子供が入っているとは思わなかったのだろう。
そうとは思わずに、開いたままになっていたマンホールの蓋を閉めようとしているに違いない。
声を上げて、知らせなくては、
とっさにそう考えて、叫ぼうとして、体は、反射的に上へ戻るためにタラップを上ろうと動き出し、
足を滑らせた。
声は、出なかった。
体重を支え切れなかった手がタラップを離れ、バランスを崩した体は背中からマンホールの壁面にぶつかり、そのまま壁を擦るように下へ滑り落ちた。
これは、まずいかも
僕の中で誰かが云う。
頭の中にわずかに残っていた僕の冷静な部分の声、だったのかもしれない。
その途端、どすん、と地面に落ちた。
意外に、穴の底は近かったらしい。
それでも、足とおしりは相当痛かったけれど。
痛みをこらえながら上を見ると、小さく見えていた空が細い月のようになっていて、すぐに真っ暗な闇に消えた。
遅れて、ずんとマンホールの蓋が閉じる低い音が、縦穴に響いた。
今からでも叫ぶべきだろうかと咄嗟に考え、ためらった。
まだ頭の中は半ばパニック状態だったけれど、わずかに冷静な部分が何か違和感を訴えていた。
おかしい。
とっさに想像した今の状況は、
この工事現場の関係者がどこかにある出入り口から点検か何かのために入って来て、半開きになっているマンホールの蓋を発見した、そして危険防止のためにそれをすぐに閉じた、
というものだった。
でも、それはおかしい。
マンホールの蓋が半開きで、蓋を開けるための道具も蓋のくぼみに差し込んだままになっているのだ。
中に誰かいる、
そう考えるのが当然で、蓋を閉じるよりも先に、まず中を確認するのが普通の反応では。
声をかけるなり、自身も中へ下りてみるなり、するのではないだろうか。
マンホールの蓋が開いている→誰か中にいるのかもしれない→すぐに蓋を閉めなくては?
そうはならない。
では、この状況で蓋を閉めようと考えたその意味は?その意図は?その心理は?
悪意、だろうか。
あるいは、敵意?
誰か中にいると知って、あえて蓋を閉じた。
閉じ込めるために?あるいは、あの場所から追い払うために?
罠のようなイメージ、だろうか。
マンホールは獲物をおびき寄せるエサで、中に入ったら重い鉄の蓋を閉じて、捕らえる。あるいは、追い出す。
食虫植物とか、アリジゴクとか、イソギンチャクとか、あるいは、ゴキブリなどの害虫を捕らえて駆除する道具のような、そんなイメージ。
そんな種類の悪意か敵意か、正体不明の違和感を覚えた、だから、僕は声を上げるのをためらった。
上から、僕の姿は見えなかったはずだ。
僕からも上にいる誰かの姿までは見えなかった。
蓋を閉じた人物は、中に誰がいるのかも、それが誰なのかも、まったく確かめる気はなかった、その必要もなかった、ということだろうか。
何かに似ている
そう考えて、すぐに思い至った。
あの公園、そして父と母に起こったあの現象。
入りたくない感じがして、入ることができない公園。
思い出そうとすると、思い出そうとした事そのものを忘れてしまうミドノ原の記憶。
何かを守ろうとして働く「力」、
まさか、これもそうなのだろうか。
僕らは知らずに何かに近づいていた、あるいは触れてしまった?
だから、マンホールの罠が現れて、おびき寄せられ、排除された。
解釈を拡大すれば、昨日、アイの父があの駐車場に現れたことすら、その「力」の一部、と考えることもできる。
結果的に、アイはこの場所の探索が続けられなくなった。つまり、排除された。
そしてついに、僕も。
でも、まだ終わりじゃない。
そう、僕の中で誰かの声がする。
誰もいない、それは僕の声だ。
耳の奥では、まだあの「音」が、ぴぴぴと何かを知らせ続けている。
それらは、あくまで、ひとつの推論にすぎない。
ただの偶然なのかもしれないし、単なる僕の被害妄想なのかもしれない。
だとしても、
感じたままに想像して推察した、ひとつの考え。
だから今は、それを覚えておくだけでいい。
そんな可能性もある、と。
そんな風に、穴から落ちたときに僕は感じた、と。
首に下げた懐中電灯の光が、足元を照らして揺れている。
落ちたときに、どこかにぶつけて壊れたりしなくて、本当によかった。
おしりと足の痛みをこらえ、立ち上がってみた。
だいじょうぶ、僕自身もどこも壊れてはいない。
光に照らされた地面は土だった。
立ち上がる時に手をついた感触は、意外にやわらかかった。
上の工事現場のような踏み固められた土ではなく、穴を掘ったそのままの自然なやわらかい土。
そのやわらかい土が、落下の衝撃を多少はやわらげてくれたのだろう。
下がコンクリートや石畳なんかじゃなくて助かった。
懐中電灯の光で照らして周りを確認すると、周囲は意外に広い空間が広がっていた。
幅2メートル、高さも同じ2メートルくらいの、丸い横穴、という感じだろうか。
直径2メートルのきれいな円形に見えるので、大型の掘削ドリルで掘った穴、なのかもしれない。
横の壁も、丸い天井も、足元と同じ土だった。掘ったそのままの土。
いや、よく見ると、天井は板で補強されているようだった。
数メートルおきに道の左右に太い丸太の木材が立てられていて、丸く弧を描くように張られた天井の板を支えている。
板の材質は木ではなく、コンクリートボードか何かのようで、懐中電灯の光に白っぽく浮かび上がって見える。
落ちてきたマンホールの口は僕の2メートル頭上にあり、コンクリートボードの天井が穴の形に丸くくり抜かれ、そこから、縄ばしごがぶら下がっていた。
なるほど、あそこから落ちたのだろう。
足を滑らせたのではなく、縦穴の終点でタラップがなくなり、縄ばしごになっているのに気づかずにそのまま足を踏み外した、という事だったのかもしれない。
立ち上がった僕のちょうど眼の高さに、縄ばしごの一番下の横木が揺れていた。
それを掴んで2メートル頭上のマンホールの穴まで登るのは、腕力に自信のない僕には、なかなか厳しいかもしれない。
どのみち、蓋を閉じられてしまっているので、登ったところで外に出られはしない。
つまり今は、それを登る必要もないのだから、僕の腕力の心配はひとまず無用なのだけれど。
さらに周囲を灯りで照らすと、横穴は左右に伸びているらしい。
シャツの胸ポケットを探り、方位磁針を取り出した。
これも、壊れていない。
ズボンのポケットに入れなくて正解だったかもしれない。
方角を確かめる。
穴は東西に向かって続いていた。
マンホールの位置から考えると、西は工事現場の中心の方向、東は工事現場の外、住宅街の僕の家の地下方面、ということになる。
耳の奥の「音」は、まだ東から聞こえていた。
出口があるとすれば、東、だろうか。
でも、西へ進んでみようと思った。
何かがあるとすれば、西、工事現場の地下の方、だろう。
「音」に従うなら、東なのだろうけれど。
どちらか一方にしか進めないわけでもなし、西を確かめた後で、あらためて「音」の指す東の方へ進んでみればいい。
地下の空気は冷たく、さっき汗をかいたせいか少し肌寒く感じるくらいだった。
土の匂いがする。
アイが心配していたような、下水の匂いはしなかった。
足元の土は、地上の工事現場よりはやわらかいとはいえ、歩きにくいほどではなかった。
適度に湿気を含んでいるためだろうか、歩いても靴が地面に沈み込むようなことも土がぼろぼろと崩れるようなこともなく、わりと快適だった。
横穴は、ほぼまっすぐに続いていた。
高さも幅も変わらない、掘削ドリルできれいに掘られた丸い2メートルの穴が続いている。
4~5メートルおきに左右に木の柱が立っていて、天井を支えているのも変わらない。
下水道か、通信インフラを通すための地下道か、いずれにしてもそれの建設中に放棄された、という感じだろうか。
20メートルほど西へ進んだところで、穴は唐突に行き止まりになった。
正面は黒い鉄の壁で塞がれていた。
隅々までライトで照らしてみたけれど、鉄の壁に扉らしきものは、見当たらなかった。
拳で軽く叩いてみたけれど、ずいぶん分厚そうな壁だ。重く鈍い音がした。
叩いた指の関節に、黒いものが付着したのに気づき、ライトを当てる。
これは、煤、だろうか。
黒い鉄の壁は、もともと黒く塗装されていたのではなく、煤で真っ黒に汚れているらしい。
顔を近づけると、かすかに鼻をつんと突くような特有の焦げた匂いがした。
地下で火災でも発生して、この鉄の壁で塞いだ?ということなのかな。
周囲を照らしてみると、天井のコンクリート板も黒く煤で汚れている。
汚れ方を見るに、この壁の向こう側で火災があって、こちら側に燃え広がるのを防ぐために、この鉄の壁で塞いだ、のかな。
あるいはもともとこの壁はあって、内部の火災がこの壁で止まった、ということなのかもしれない。
火災?
もしやその原因は隕石?
図書館で調べたときに見た情報によると、大気圏に突入した隕石は、大気との摩擦で超高温になるという話だった。
燃える隕石が落下して、地下で火災が起こったのかな?
そう思いかけ、すぐに気づく。
いや、違う。
隕石が落ちたのは80年前、その時には、まだこの地下道はなかったはず。
この鉄の壁を焦がした火災は、隕石落下当時のものではなく、建設工事の時に起きたものなのだろう。
火災を起こすような何かが、この鉄の壁の向こうにある、あるいは、あった、という事。
何かの施設か、何かの機材か、それが燃えて、この鉄の壁を焦がした。
壁の向こうに何があるのかは、残念ながらわからない。
もう一度、周囲をくまなく照らしてみたけれど、壁の向こうへ進めそうな入り口も横穴も、何も見つけられなかった。
引き返すしかなさそうだ。
回れ右をして、元来た道を戻る。
歩数を数えてみたら、ちょうど50歩で、さっきのマンホールの縦穴の真下に着いた。
僕の一歩が70cmくらいとすれば、あの鉄の壁まで30~40メートルというところだろう。
そこから、今度は東へ向かって進んだ。
周囲の様子は、西側の横穴と同じ、天井を支える丸太の柱が4~5メートルおきに左右に立っていて、地面と壁はむき出しの黒い土、天井は白っぽいコンクリート板だった。
ところどころ、天井のコンクリート板の継ぎ目から、水がぽたぽたと滴り落ちている場所があった。
地下水でも湧いているのか、地面にしみ込んだ雨水が貯まっているのかもしれない。
西から戻る時と同じように歩数を数えていたのだけれど、100歩になったところで、一度立ち止まった。
約70メートルだった。
あのマンホールから、東へ70メートル。
地上で云えば、とっくにあの塀を過ぎ、大通りと僕の家も通り越している。
僕の家よりも東、つまり家の裏手には何があっただろう、と思い出してみる。
区画整理された、空き地がしばらく続いていたはずだ。たしか、2ブロックほど。
そこが住宅街の東の外れ。
70メートルということは、たぶんその辺りか、そこを少し過ぎたところ、だろうか。
その先は、土手があって東の丘につながっていたはずだった。
丘をそのまま1kmほど南へ下れば、Jの家、教会のあるホタルが丘だ。
丘の東側は、防風林になっていて、その先には崖があり、下は海だった。
この地下道は、どこまで続いているのだろう。
ニュータウンの建設工事に伴って作られた地下道なのであれば、住宅街の外れで終わるか、もっと大きな市の下水道につながるのか、なんとなくそう思っていたのだけれど。
すでにその、住宅街の外れ辺りまで来ているはずだった。
直径2メートルの横穴を掘れるような大きな重機が出入りできたのだから、それなりの出入り口があるものと思っていたのだけれど、今のところ、周囲の様子に変化はなかった。
もう少し先、土手を過ぎた辺りか、丘の斜面にでも出入口があるのかもしれない。
気を取り直して、また歩き始める。
地下道は静まり返っていて、土の地面を踏む僕の足音と、耳の中で鳴るあのぴぴぴという「音」以外は何も聞こえない。
20歩ほど進んだ。つまり、マンホールから120歩ほど、だ。
耳の中の音が、少し変わった。
かすかにしか聞こえなかった音が少しはっきりと聞こえるようになり、ぴぴぴの間隔が早くなった。
なんだろう、何を知らせようとしているのかな。
歩く速度をゆるめて、耳をすませる。
前を照らしていた懐中電灯の灯りに、変化があった。
右の壁に、黒い影になった部分が見え、近づいてみると、それは脇道だった。
道幅も狭く、天井も低い。
きれいな円形に掘削ドリルで掘られたらしいこちら側の地下道と違い、人の手でシャベルか何かで掘られたような、細い脇道。
いや、脇道、というより、横穴、と云ったほうが正しい気がする。
幅は1メートルもないくらい、高さは130cmくらいだろうか。
僕の身長でぎりぎり頭がぶつからないくらいなので、おそらくそれくらいのはずだ。
大人が通るには、だいぶ体をかがめなければいけないだろうし、大人ふたりがすれ違うことも難しそうな、何とも奇妙な穴だった。
熊とか、何か動物の巣穴、と云われればそちらの方が近い気もする。
でも、こんなところに熊が住んでいるとも思えない。
懐中電灯の灯りを穴に向けて、少しのぞき込んでみて、驚いた。
耳の中の「音」が穴に反応して大きくなり、ぴぴぴの間隔がますます早くなった。
嘘だ、と思わずつぶやいてしまう。
まさか、ここに何かがあるの。この、穴の中に?
正直に云えば、あまり入りたくない感じだった。
アイの云う、あの公園に「あまり入りたくねえ感じ」、というのはこんな感じなのだろうかと思う。
本当に熊や何かがいるとは思えないけれど、でも何かがいてもおかしくはない雰囲気が、そこはかとなく漂っている。
なんとなく、匂いまで違うような気がする。
しんと静まり返った地下道に、耳の中のぴぴぴぴという音だけが聞こえている。
まるで早く穴に入れと云わんばかりに、僕を急かすように。
まあ、ここまで来て駄々をこねても仕方がない。
たぶん、そんなに深い穴でもないだろうし。さっと入ってさっと出て来よう。
何の根拠もなかったのだけれど、そう決めつけて、少し身をかがめて、穴に入り込んだ。
匂いは、気のせいではなかった。
穴に入った途端、なんとも云えないいやな匂いがした。
けもの臭というのだろうか、動物園の檻の近くを漂う匂いのような。
3~4メートル進むと、穴の中は少し広くなっていて、そこで行き止まりだった。
本当に、何かの巣穴のようだ。
ただ、住んでいるのは、熊ではなさそうだった。
ぼろぼろの、布のようなものが床に敷かれている。
布団のような、毛布のような、ただ長年そこに敷かれていたらしく、泥まみれでひどく汚れている上に擦り切れてあちこち穴だらけで、もはや原型がわからないくらいぼろぼろの布切れのような何かの残骸だった。
周囲の広さは、3メートル四方くらい、だろうか。
円でもなく、四角でもない、いびつに歪んだ小部屋。
ぐるりと灯りでその穴の中を照らしてみたけれど、そのぼろぼろの布の残骸以外は、特に何も見当たらなかった。
まさかとは思うけれど、人、なのだろうか。
人が、ここに、住んでいたの。
でもそれにしては、食料やその食べかすだとか食器類、衣類など、生活の跡は何も見当たらない。
ぼろ布以外には、灯りも水もなく、家財道具みたいなものも、何もない。
じゃり、と僕の靴が何かを踏む音がした。
足を上げて、懐中電灯の灯りを足元に向けると、黒い土の上で何かがきらりと反射した。
星型の金具?
触れるのはどうかと思いつつも、つい好奇心に負けて指先でつまんで拾い上げてみた。
これは、バッジ?
いや、軍服の帽章、と云うのかな?
不意に、アイの言葉が脳裏によみがえる。
「旧日本軍の脱走兵で、片目、片腕、片足の、軍服を着た痩せた男、らしい。「ヌガノマ」って呼ぶとどこまでも追いかけてくるとか・・・」
さすがに、ぞっとした。
いや、そんなまさか、とも思った、けれど。
偶然にしては、できすぎでは。
拾った帽章を元の地面に戻し、回れ右をして、急いで穴を出た。
元の地下道まで戻って、深呼吸をする。土の匂いがした。
アイが一緒でなくて、よかった。心から、そう思った。
冷静に考えれば、そんなわけはない。
怪談は、あくまで怪談だ。
本物のヌガノマとやらが、この穴に住んでいるはずがない。
この地下道が掘られたのは、20~30年前のニュータウン開発の時期のはずだった。
戦争が終わったのは、隕石が落ちるよりも前。80年以上前のはず。
戦争中に脱走した兵士が、50年以上もどこかで隠れていて、30年前にこの地下道が放棄された後に住み着いた?
ありえない。
ぼろぼろの布の残骸しかないあの穴に、人が住んでいた、とも考えにくい。
この地下道を工事していた当時、たまたま、家に帰れずにあそこに布団を持ち込んで仮眠していた作業員がいた、とか、その程度のわずかな生活感しかあの穴にはなかった。
ここが放棄された後、動物が巣穴として使っていた事があった、としたら、あの匂いにも説明がつく。
それなら、星型の帽章は?
怪談を知る誰かの質の悪いいたずらか、偶然にその動物がどこかで拾ってきたか、では。
暗闇は、人の根源的な恐怖心を煽る、とか聞いたことがある。
僕は、怪談もオバケもあまり怖いと思ったことはなかったけれど、長い時間、懐中電灯の灯りしかないこの暗い地下道にいたせいで、知らず知らずに少々、精神的に参っていたのかもしれない。
だいたい、この耳の中の「音」が悪い。
どうしてあんな何もない穴倉に、あれほど反応したのだろう。
あらためて耳をすますと、まだあの「音」はぴぴぴと警告を発していた。
あの穴をのぞき込んだ時とほぼ同じ大きさで、ぴぴぴの間隔もまだ早いままだった。
違うのかもしれない。
「音」が反応しているのは、あの穴ではなく、別の何か?
音の方向は、よくわからない。
あの穴の方からのようでもあり、さっき歩いてきた西の方からのようにも、まだ先へ続いている東の地下道の方から聞こえるようにも感じる。
どういうことだろう。
どちらを向いても、どちらからも音が聞こえるように感じる。
それは、つまり、
音が示している場所が、まさに「ここ」だからなのでは。
何もない、けれど。
あらためて、辺りを見渡そうとして、懐中電灯を持ち直した、その時、
背後の暗闇から、にゅっと何かが伸びて、懐中電灯を僕の手から叩き落した。
棒状の黒っぽい何か。
人間の腕のように見えた。
けものの匂いがした。
懐中電灯は長いストラップで僕の首から下げていたので、地面には落ちず、僕のお腹の辺りにぶら下がって、叩かれた衝撃でくるくる激しく揺れていた。
光の輪が、揺れに合わせて足元の地面でくるくる踊っている。
振り返ると、黒い大きな影に目の前を塞がれた。
暗くて姿かたちはよくわからない。
ふううう、という荒い息の音がして、けもの臭い息が僕の顔にかかった。
また、懐中電灯に腕が伸びてきた。
かつ、と爪の先が懐中電灯をかすめる音がした。
反射的に、僕は背を向けてしゃがみ込み、身をかわした。
大きな影がどすんと僕の背中にぶつかってきて、バランスを崩したそいつが地面に手をつくのが見えた。
影は、僕の背中側、西から来た。
首からストラップでぶら下がったまま地面に転がる懐中電灯を掴んで身を起こし、僕は東へ駆けだした。
走り出しながら振り返って、懐中電灯を背後に向けた。
特に何かを考えてそうしたわけではなかった。
謎の襲撃者の姿を、一目でも確認しておきたかっただけかもしれない。
偶然に、そいつの顔に正面から光が当たったらしい。
「ぐっ」という短いうめき声を上げて、そいつは右手で顔を庇っていた。
ほんの一瞬だったので、まじまじと観察できたわけではないけれど、
そいつは、大人の人間だった。
僕にぶつかって転んでいたらしく、地面に片膝をつき、上体を起こすような姿勢でこちらを向いていた。
黒か、濃い緑色のツナギか作業着のような服を着て、同じ色のつばのある帽子を被っていた。
顔は、光をさえぎるための右手で隠れてほとんど見えなかった。
手も顔も黒っぽく見えたのは、汚れていたためか、それとも黒い肌なのかは、わからない。
身をかがめていたけれど、背は高そうに見えた。身長だけなら、アイと同じくらいはありそうだった。
全体的に線が細く、痩せているように見えた。
そして、けもののような匂いをさせていた。
急に明るい光を向けられてひるんだのだろうか。
そいつが動きを止めていたように見えたので、僕はそのまま東へと走った。
あれが何なのかは、わからない。
けれど、子供の背後からいきなり無言で懐中電灯を奪おうとするような大人は、ろくなものではないだろう。
逃げ切れる自信があって逃げ出したわけではなかった。
大人と子供だ、本気で走ったらあっという間に捕まるだろう。
僕に有利な点があるとすれば、懐中電灯で進む先と足元の地面を照らせるという事だけだ。
けれどあいつは、その灯りを目印に僕を追うことができる。
足元が見えないはずなので全速力とはいかないだろうけれど、灯りさえ見失わなければいいのだから、あちらの方が有利かもしれない。
一度も後ろを振り返らずに、走った。
後ろから、僕を追うあいつの足音は聞こえていたので、確かめる必要はなかったし、そんな余裕はなかった。
まさか、こんなB級ホラー映画みたいな展開になるなんて、想像すらしてなかったけれど。
ぴぴぴぴという警告するような「音」は、まだ耳の奥で鳴り続けている。
まさか最初から、あいつの存在やその接近を知らせていたのだろうか。
だとしたら、あいつは昨日もあの地下にいた、ということになるけれど。
必死に腕を振り足で土の地面を蹴って走りながら、頭の中は次第に冷静になっていくのがわかった。
おそらくあいつは、地下道に住む浮浪者、なのだろう、そう思った。
懐中電灯を奪おうとしたのは、単純に欲しかったから、だろう。
アイの云う「ヌガノマ怪談」のモデルは、あいつなのかもしれない。
ひょっとしたら、懐中電灯をあいつに向かって放り投げてみたら、もう追ってこないのかもしれない。
そうも考えたけれど、とても現実的なアイディアではなかったので即却下する。
たとえそれであいつに見逃してもらえたとしても、懐中電灯を失って、真っ暗な地下道で身動きが取れなくなるなんて、ごめんだった。
荒い息を吐きながら、ばくばくと鳴る心臓の音をこめかみの辺りで聞きながら、
どれくらい走っただろうか。
300メートルか、400メートルくらい走ったような気がする。
水の音が、正面から聞こえてきた。
そして、下水の匂いも漂ってくる。
市の下水道に出るのかもしれない。
そう思った途端、懐中電灯の灯りが照らす視界がぱっと広がって、足元の土がコンクリートに変わった。
目の前には高さ1メートルほどの金網の柵があり、柵に沿って左右に通路が伸びている。
その柵の向こうを下水が流れているようだった。
下水道の幅は、5メートルくらいだろうか。
向こう岸にも同じように金網の柵があり、こちら側と同じ、左右に伸びる通路があるのが見えた。
作業用の通路なのだろう。
古そうな下水道で、壁は煉瓦が積まれていて、丸い天井まで、ぐるりと煉瓦造りだった。
柵にぶつかりそうになりながら、何も考えずに通路を右へ曲がった。
気分の悪くなるような匂いが鼻をつくけれど、息を止めるわけにもいかない。
遠くに、ぼんやりと緑色の灯りが見えた。
非常口を示す灯りだろうか。出口かもしれない。
もう息も上がり、足も棒のようになっていたけれど、最後の力を振り絞って、走った。
やっぱり僕も、バスケを習おう、と、どこか頭の片隅で思ってた。
下水道の通路に入ってから、地面がコンクリートに変わったので、足音がより鮮明に聞こえるようになった。
暗い下水道に反響する、僕の足音と、後ろから僕を追う、あいつの足音。
どこまで追ってくるのだろう。
まさか、外までは追って来ないと思うけれど。
非常口の灯りが近づいてきた。
煉瓦の壁に、灰色の鉄のドアが見える。
コンクリートの地面を蹴って、飛びつくようにドアノブを握り、回した。
開かない。ノブが回らなかった。
鍵がかかっている。
無駄と知りつつも、ドアを引っぱってみたけれど、やっぱり開かなかった。
振り返ると、意外と距離を離していたらしい。20メートルほど後ろに、あいつがいた。
何故かその場に立ち止まって、こちらを見ている。
暗いので表情まではわからない、けれど、驚いたような顔をしている、みたいだった。
「み、くり、や」
しゃがれた声が、そいつの口から絞り出された。
がしっ、と、そいつは右手で金網の柵を掴んだ。
まっすぐに、立てないのだろうか。
それに、金網は左側にあるのに、なぜ右手でつかまったのだろう。
ふううう、と大きく息を吸い込んで、それから真っ黒な口を大きく開けて、そいつは叫んだ。
「み、くりや、がぶ、りえる!」
錆びた金属をこすり合わせるような、耳障りなしゃがれ声だった。
壊れたスピーカーが鳴らすノイズのような・・・
え、
いま、あいつ何て云ったの?
みくりやがぶりえる
ミクリヤガブリエル?
どうして?
なんであいつが、ガブリエルの名前を?
しかも、僕に向かって?
僕は、非常口の灯りの下にいるので、あいつからは僕の姿がはっきり見えているのかもしれない。
けれど、なんでガブリエル?
地下道で暮らしている浮浪者が、どうしてガブリエルを知ってるの。
僕も驚いてしまい、しばし、あいつと無言で見つめ合う形になった。
けれど、すぐに現実が戻ってくる。
非常口は開かない。別の出口を探さなくては。
もう一度、懐中電灯を握り直して、あいつの顔に向けた。
一瞬、顔が見えた。
黒い痩せた顔、片目だった。
黒い右目が懐中電灯の灯りを反射して、左目があるべき場所には、ぽっかりと黒い穴があいていた。
「ぐっ」
あいつはまた短くうめいてひるみ、柵から右手を離して、顔を覆った。
手を離してしまったのでバランスがくずれたのだろうか、そのままふらついて、柵とは反対側の煉瓦の壁にもたれかかっている。
その隙に、僕は走り出した。
すぐにあいつも走り出したらしい。後ろから、かつんかつんという足音が聞こえだした。
また、アイの言葉が耳によみがえっていた。
「片目、片腕、片足の、軍服を着た痩せた男、らしい」
走りながら振り返ると、ちょうどあいつがさっきの非常口の前に差し掛かるところだった。
緑色のぼんやりとした灯りに、浮かび上がる姿。
左足が、ない。左腕も。
左足のズボンのすそは、膝の上あたりできゅっと固く結ばれていた。
そして、左腕は、肩から下がなかった。服の袖も切り落としているらしく、なにもない。
右足だけで、跳ねるように走っている。
しかも、意外と、速い。
気を緩めたら追いつかれてしまうかもしれない。
怪談ヌガノマのモデル、どころか、あいつがヌガノマ本人では。
しかも、ガブリエルを知っている?
でも、顔は、100歳を超える老人には見えなかった。
真っ黒に汚れているのか、煤なのかよくわからないけれど、大人のおじさん、くらいの年齢に見えた、気がする。
それに、100歳を超える老人が、片足であんな速さで、しかもこの長距離を走れるとは思えない。
怪談は、あくまで怪談。
あれは、ヌガノマだ。怪談ではない、本物の。たぶん、地下浮浪者の。
そして、ガブリエルを知ってる。
ますます、捕まるわけにはいかなくなった。
何故かはわからないけれど、あいつは僕を見て、ミクリヤガブリエルと云った。
僕をガブリエルだと思い込んでいる、のかもしれない。
いや、おそらくそうなのだろう。
あの怪人物が、ガブリエルにいったい何の用事があるのかは知らない。
けれど、さっきのは、親しみを込めた挨拶のようには、とても聞こえなかった。
逃げなくては、とにかく、逃げなくては。
息が上がり、足がふらつく。
体が重い。
もう、懐中電灯を投げつけたところで、あいつは止まらないのだろう。
最初はおそらく、懐中電灯を奪うだけのつもりだったはずだ。
それが、あの非常口の灯りの下で、何故か僕をガブリエルだと勘違いした。
今のあいつの目的は、懐中電灯ではなく、ガブリエルだ。
ガブリエルを捕まえて、いったいどうするつもりなのだろう。
いやそれよりもあいつは何故、ガブリエルを知っているのだろう。
小学校にも通っていない、存在を知っていた幼馴染のアイでさえ、どこにいるのかわからなかったガブリエルを、どうして、地下に住む浮浪者が知ってるの。
あいつは、いったい何?
足がもつれ、つまずきそうになった。
慌てて金網の柵を掴んで、体勢を整える。
そしてそのまますぐに走り出す。
かつん、かつん、あいつの足音が後ろから聞こえてくる。
このままでは、いつか追いつかれる。
あいつも、走るペースは落ちているのかもしれないけれど、
明らかに、僕の方が体力がない。
もう限界に近付いてる。
どうにかしなくては、どうにか。
酸欠で鈍る思考をフル回転されて、何か手はないものかと考える。
何か、この絶体絶命のピンチを乗り切る方法は、何か・・・
その時、耳の中で鳴り続けていた警告音が、不意に止んだ。
ぴぴぴという連続音が止み、代わりに遠く上の方から、ぴりぴりというパルスのような音がかすかに聞こえ出していた。
どうして止まるの?
まだ、危機は乗り切れていないのに。
不審に思った次の瞬間、地下道にけたたましく犬の吠える声が響き渡った。
思わずびくっとして、足を止める。
下水道に、犬?
いったいどこから、と辺りを見渡すと、僕の後方10メートルくらいのところであいつも足を止め、警戒するように辺りを見渡していた。
その背後から、大きな黒い影が飛び出した、と思うや否や、あいつの右足に噛みついて、そのまま勢いよく引きずり倒した。
完全に不意打ちだったのだろう。
あいつは受け身も取れずにひっくり返り、後頭部をコンクリートの床にしたたかに打ち付けていた。
ごつん、という鈍い音が僕のところまで聞こえた。
黒犬は、ぺっ、とまるで汚いものでも吐き出すみたいにあいつの足から口を離すと、ぴょんと身軽に倒れたあいつの体を飛び越えて、そのまま僕の足元まで駆けて来る。
この子は、Lの家のラファエル?
それとも、あの公園の黒犬の方だろうか。
「はっはー、危機一髪だったなー、間に合ってよかったぜー」
頭の中で声が聞こえた。
楽しそうな、ハスキーな女の子の声。
え、犬がしゃべったの?
「ばかなこと云ってねーで、さっさと逃げるぞー。あいつが眼を覚まさねーうちになー」
黒犬は、ため息でもつきたそうな顔で僕を見て、すぐにさっと前を向き、とっとっと通路を駆け出した。
ばかなこと
声は、僕の心の中で聞こえる。Jと手をつないだ時みたいに。手は、誰ともつないでいないけれど。
それならこの声は、誰の声なの。
と云うか、僕の声も聞こえてるの、かな。
「当たり前だろ」
心の声で彼女?は、そう云った。黒犬は振り返りもせずに、小走りに先を急いでいる。
当たり前、なの。
そう云われると、何故かそうなのかもしれないという気がしてしまう。
初めて聞く声のはずなのに、どこかで聞いたことがあるような、懐かしい声だった。
「いやあ?おまえに声を聞かせたのは初めてのはずだぜー?あ、でもそっか。おまえ、もう「オレンジの海」とつながってるんだっけ。じゃああっちで聞いたのかもなー」
オレンジの海?つながってる?
小走りに、黒犬の後を追いかけながら、首をひねった。
走りすぎて脳に酸素が足りていないのだろうか、彼女が何を云ってるのか、僕にはさっぱりわからない。
「おっと、ここ渡るぜー」
下水道の上に、通路が橋のように架かっている。向こう側の通路と行き来ができるようにするためなのだろう。
黒犬は迷いなくそこを渡った。この下水道の地理を熟知しているらしい。
あるいは、進むべき「方向」が、まるで「見えている」みたいだった。
橋を渡りながら、振り返る。
あいつが追ってくる様子はない。
かなり勢いよく後頭部を強打していたので、気絶しているのかもしれない。
いや、まさか、しんでは、いないと思うけれど。
「おいおい、あいつの心配かよ。まったくお優しいことで」
あきれるように彼女は云い、
「まあ、しんでもかまわねーと思って手加減なしで思いっきりやったからなー、当分眼を覚まさねーだろ。ここで会ったが100年目ってやつだぜー」
はっはー、と陽気に笑いながら、ものすごいことをさらっと口にする。
でも不思議と、彼女の声でそう云われると、ああそうなんだ、それならしょうがないよね、と思ってしまうのはなぜだろう。
ここで会ったが100年目って
彼女は、あいつに何か恨みでもあるのかな。
「あるぜー。あいつは、オレの一生許さねー奴リストの堂々第1位だからな。しんでも許さねー」
ふはははー、どっちが悪者かわからないような笑い方をしてから、
「って、違う、そんな話どーでもいいだろ。えーと、「オレンジの海」だな。おまえ、あれ、夢だとか思ってるんじゃね。最初は寝てるときにつながりやすいからねー。オレも初めは夢かと思ってたぜー」
彼女は心の声で云う。
小走りに前を進みながら、ちらりと黒犬が振り返って、僕がちゃんと付いて来ているのを確かめてくれてる。
オレンジの海
夢だとか思ってる
そう云われて、思い出す。
オレンジの海の夢なら、見た覚えがあった。
Jが眠りにつく直前と、その後にも、何度か、見たような?
あれは、夢じゃないの。
「うーん、夢か夢じゃないか、で云えば、夢じゃないねー。でも、じゃあ現実か?と云われると、さてどうかなー、って感じだなー。「意識がつながる場所」?じゃねーかなとオレは思ってる。どこにあるのかは、鋭意調査中ってところかなー」
夢じゃない、意識がつながる場所
あのオレンジの海で、僕はJと会った。
Jが眠りにつく直前に、あの海で、僕はJと手をつないで立ってた。
あれは、夢ではなくて、僕が、Jの意識とつながってた、って事?
「そ。能力の交換で、あの「海」にたどり着くなんて、おまえってほんと面白いことするよなー。オレは思いつかなかったぜー」
ふっふー、と楽しそうに彼女は笑う。
「あ、ここ入るぜー」
先を進んでいた黒犬が、足を止める。
煉瓦の壁に、脇道があった。
通路の幅は、1.5メートルほどだろうか。
薄暗いコンクリートの階段が、上へと続いている。
黒犬は、そこをとんとんと軽快に駆け上がって行く。
僕は、もう膝ががくがく震えていて、とてもじゃないけれど走れない。
「あー、ごめん」
黒犬は階段の途中で立ち止まり、心配そうに僕を見下ろしていた。
どうにか僕が追いつくと、
「もうちょい上るぜー、がんばれー」
黒犬が鼻をぺろっとなめながら、彼女の声がそう云った。
階段は、らせんを描くようにぐるぐると折れ曲がりながら続いて、やがて、明るい空が見えた。
まぶしすぎて、眼が眩む。
外へ出た。
木々の緑が、鮮やかに眼に飛び込んで来る。
海岸沿いの、丘の斜面、だろうか。
「お、正解。あの暗闇の中で位置を正確に把握してるなんて、すげーなおまえ」
いや、方位磁針を持ってたし、途中までは歩数も数えてたから。
だから、だいたいの距離と方角から、たぶんこの辺に出るのかなと予想はしてた、のだけど。
丘の東側、崖の上の海側の防風林のどこか、らしい。
通路の出口には扉もなく、申し訳程度のトタンの屋根がかかっているだけだった。
その脇に、物置小屋、だろうか。
傾きかけたプレハブの古そうな小屋が、斜面に張り付くように建っていた。
足ががくがく震えて云う事をきかず、プレハブ小屋の前の草むらに思わずへたり込む。
地下で涼しかったとはいえ、気づけば全身汗だくだった。
まだ、こめかみがどくどくと脈打つのが大きく聞こえ、荒い呼吸の音も、まるで自分のものではないように感じる。
しばらく草むらでうつむいて、息を整えた。
新鮮な森の空気が、とてもおいしいと感じた。
「あの下水道自体が、昔のもので、今は使われてないみたいだなー。市街地から下水を引くには遠すぎるからね。今の中心街を開発するときに、下水も新しく作り直したらしいぜー」
心の声で彼女は云い、傍らにちょこんと腰を下ろした黒犬が、僕に風を送るように尻尾をぱたぱた振って、あおいでくれている。
なるほど。
確かに煉瓦造りでいかにも古そうだったし、下水の量も匂いも、思ったほどじゃなかったのはそういうことだったの。
だったら尚更、あいつが隠れるにはもってこいの場所、ってことでもあるのかもしれない。
「まあ、そうとも云えるなー。あいつがあそこに住んでんのかどーかはしらねーけど」
確かに、そうだった。
あの巣穴は、あいつの住処というより、仮眠場所のようなものだったのかも。
「巣穴?なに、おまえ、あいつの巣穴を見つけたの?」
意外に興味津々にそう聞かれたので、あの横穴のことをざっと説明した。
「うへえ、おまえ、よくそんなところに入ったなー」
黒犬がいやそうに顔をしかめてる。
やっぱり、心の声と犬の反応は連動しているように思える。
いや、そんなことよりも、あいつは、いったい何なの。
「さてなー、オレも実際に会ったのは初めてだぜー。いろいろあって以前から知ってはいたけど、実在するんだかどーだか、って思ってた」
いろいろ
そう云えば彼女は、ここで会ったが100年目とか、一生許さねーリストとか、さっきも云ってた。
あれは、怪談の、ヌガノマなの。
「おまえもそー思った?まあ、外見はそうだったなー。片腕片足で、軍服っぽい服着てて、ほぼ噂の通りだったけど。でも怪談は怪談だからなー。そーいう見た目の変質者か浮浪者みたいなのがやつの正体で、後から怪談ができたんじゃねーかなー。脱走兵とか、ありえねーだろ」
ふふん、と黒犬が鼻を鳴らしている。
それは、そう。
僕もそう思う。
少なくともあいつは、オバケでもなんでもない、生きた人間だった。
だから安心というわけではもちろんなく、危険なやつであることには変わりはないのだけれど。
「まあそーだなー。おまえが無事で何よりだぜー」
黒犬は僕の傍らに座り込んで、親しみを感じさせる眼で、僕を見ていた。
今さらと云えば今さらなのだけれど、やっぱり不思議だった。
「それで、君は誰なの」
と僕は声に出して聞いた。
黒犬の黒くて丸い眼が、まじまじと僕を見る。
「あれれー?もうとっくに気づいてると思ったぜー」
彼女の陽気な心の声は、楽しそうに揺れている。
「あ、なんだ、おまえ、とぼけてんのか?どーしてもそれ、オレに云わせたいの」
にやにやと黒犬が笑っている。
いや、犬なので、にやにやとはしないのだけれど、そう見える。
とっくに気づいてる
と云うより、なんだろう。
いや、気づいてる、という表現が、やっぱり一番近いかもしれない。
確かに「とっくに気づいて」いた、けれど。
あのお屋敷の天蓋付きのベッドで眠っているはずの彼女が、どうして犬の姿で僕を助けに現れたのか。
それが、どう考えてもわからない。
ふふん、と黒犬が鼻を鳴らす。
「そりゃそーだろ。そこまで全部わかってるんなら、おまえがラスボスにちがいねーぜー」
ラスボス
なんだかよくわからない事を云って、彼女は「ふっふー」と笑ってる。
だから、僕は云った。
隣にちょこんと腰を下ろした、黒犬(ラファエル?)の黒くて丸い眼をじっと見つめて。
「はじめまして、L。助けに来てくれて、ありがとう」
黒犬も僕を見て、またふふんと鼻を鳴らして、
「こちらこそ、はじめまして、K。おまえに会えてうれしいぜー」
陽気なLの心の声でそう云って、うれしそうにしっぽを振った。












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