んん、と、僕の隣で、Jが声にならない声でかすかにうめいた。
胸に抱いたNとクロちゃんが重いわけでは、もちろんないのだろうけれど。
僕らの間には、ずっしりと重い静けさが立ち込めていた。
その沈黙を打ち破るべく、大きく息を吸い込むLの呼吸音が聞こえた。
その時、
まるでそれを合図にしたかのように、周囲の空間が歪む。
映りの悪いテレビ画面のように、ざざっと全体にノイズが走って像が乱れ、砂粒のように散り散りになってA-0の「記憶」の風景が消えた。
辺りの風景は、最初の灰の海に戻っている。
ノイズの消えた灰の砂浜に黒い影が、うずくまっていた。
さっきまで十数人の人が並んでいた場所に、汚れたデニムシャツに半ズボン、黒い大きなヘッドホンと昆虫の眼のようなゴーグルを嵌めた子供。
「キクヒコ?」
ガブリエルの口から、驚きの声が思わずといった風にもれた。
キクヒコさん?なの。
でもどうして、まだ僕の姿のまま、なのだろう。
地面に片膝をつき、両手で頭を抱えるようにしてうずくまっていた、僕の姿をしたキクヒコさんがよろよろと立ち上がる。
「おまえ達、だいじょうぶか?」
ゴーグル越しの眼は見えなかったけれど、キクヒコさんは僕らを見て、絞り出すような声でそう云った。
ざざっと、先程と同じノイズが走って、キクヒコさんの姿が歪む。
「だいじょうぶかって?あんたの方が全然だいじょうぶじゃなさそうに見えるけど」
ガブリエルが肩をすくめながら、オレンジの球をぐるりと回り込むようにして、キクヒコさんに近づく。
『キクヒコ、眼が覚めたのですか』
オレンジの球が、明滅して驚いたようにMの声が云う。
さっきまでのおだやかで丁寧な口調とはまるで別人のような、固く冷たい声。
キクヒコさんが、いま気づいたみたいにオレンジの球を見る。
「おまえは・・・誰だ?」
電波状況の悪い携帯電話からの音声のように、キクヒコさんの声は途切れ途切れに聞こえる。
姿も、そこだけ無理矢理合成して嵌め込んだように、像の輪郭がギザギザに歪んで見える。
さっきまで見えていたA-0の記憶の風景、それよりもっと、乱れた映像のように、キクヒコさんは見える。
いったい、何が起きているのだろう。
ふわりと、オレンジの球が柔らかく光を浮かべ、呆れたようなMの声が云う。
『私はM-0。アルカナの「王」です。あなたの「記憶」には、残っていないのでしょうけれど』
それを悲しむというより、どこか面白がるような響きがある事に、僕は違和感を覚えた。
はっきり聞いたわけではなかったけれど、キクヒコさんとMは、あまり親しい間柄ではなかったのかな。
ガブリエルがキクヒコさんの手を取り、肩を貸すようにして立ち上がらせながら、奇妙な表情を浮かべてキクヒコさんの顔を覗き込む。
「キクヒコ、あんた」
そう、小さくつぶやくガブリエルには構わず、キクヒコさんはオレンジの球をじっと見つめて
「アルカナの王、M-0、だと?」
雑音混じりの声で、けれどはっきりと云う。
「おれが記憶を失くした事を知る、アルカナの王?そんなやつはいない」
肩を支えるガブリエルの体を、まるで庇おうとするみたいにぐいと自分の後ろに押しのけて、
「もう一度聞く。おまえは、誰だ」
ざざっと声に混じるノイズをかき消そうとするみたいに、きっぱりとキクヒコさんは云った。
オレンジの球が、ゆっくりと明滅する。
何かを考えているような、数秒の沈黙。
『何度聞かれても一緒です。私はM-0。アルカナの「最後の王」です。あなたが、それを知らなかったとしても』
冷たく突き放すような、Mの声。
どこか、憐れんでいるようにも、嘲笑うようにも聞こえる、少し嫌味な感じのする声だった。
本当に、さっきまでのやさしい声とは、まるで別人のよう。
「ずいぶん、杜撰な設定だな。子供たちなら、それで騙せるとでも思ったのか?もう一度云うが、そんなやつはいない」
完全にガブリエルを自分の後ろに庇うように立って、キクヒコさんは云う。
その顔がちらりと動いて、オレンジの球を挟んで反対側に立つ僕らを見た、ような気がした。
『子供たちを騙す?何故私が、そんな事をすると云うのです?自分自身の名前も姿も覚えていない、そんな「記憶」のないあなたに、何がわかると云うのですか』
オレンジの球が明滅して、冷たくMはそう云い放つ。
すっと半歩、Lが近づいてきて左手で僕の右手を握った。
見ると、Lが目配せをしてる。Jをちらっと見て「手つないでくれ」心の声でLが云う。
Lに小さくうなずいて左手を伸ばし、Nの体を抱いているJの右手の指先をそっとつないだ。
Jの灰色がかったきれいな眼と、その胸に抱かれたNの眼が僕を見る。
Nは小さくふんと鼻を鳴らして、キクヒコさんをじっと見た。
「云ったはずだ。・・・おれが「記憶」を失くした事を知るアルカナの「王」はいない」
ノイズ混じりのキクヒコさんは、そう云ってガブリエルを後ろに庇ったまま、じりじりとオレンジの球との距離を詰めている。
「もっと云おうか。・・・自分自身を「アルカナの王」と名乗るアルカナなど、・・・いるはずがない」
キクヒコさんの背後で、ガブリエルがハッと息を飲んでいる。
云われてみれば、そうなのかもしれない。
「アルカナ」も「王」もアメリカ軍の研究者が付けた呼び名、M自身が、そう説明してくれた。
僕らにそれを説明するためならば、あえてそう名乗るのも、それはわかる。
けれど、旧知であるはずのキクヒコさんに「アルカナの王」を名乗るのは、おかしい。
「それに、M-0という名の王もいない。「最後の王」はK-0、11番目の王、キクタだ。おまえじゃない」
キクヒコさんの言葉に、ぞっと背筋が寒くなる。
それなら、Mは、
いや、最後の王「M-0」を名乗るこいつは、いったい誰なの?
オレンジの球が、一際激しく明滅する。
『キクヒコ、あなた、キクタの事はよく覚えているようですね。本当に「記憶」を失くしているのですか?』
Mの顔は見えないけれど、意地悪そうな笑みが目に浮かぶような云い方だった。
その言葉が終わるのとほぼ同時に、ぐるんと視界が回るような感覚に襲われる。
いや違う、これは、ここへ引き込まれた時の「ぐるぐる」の方だ。
またどこか、別の場所へ引き込もうとしているのだろうか。
僕がそう思うよりも先に、ぐるぐるが始まるのとほぼ同時に、NがJの腕を蹴って跳んでいた。
オレンジの球を上から踏みつけるように蹴り落とし、その反動でもう一度跳んでキクヒコさんの肩を飛び越え、ガブリエルの胸に飛び込む。
まるでNが飛んでくるのがわかっていたみたいに、ガブリエルがNの小さな体を胸でしっかり受け止める。
周囲の景色はぐるぐると回り出しながらちぎれ飛び、その向こうにあの地下空間が見えた。
Lが、僕と左手をつないだままぐっと体を伸ばして、右手でラファエルの首輪を掴んで引き寄せるのが見えた。
そうか、地下空間に戻ったのならラファエルもそこにいる。
「おまえ達、逃げろ」
Nが蹴り落としたオレンジの球を片足で踏みつけて、ほとんど消えそうに像の乱れたキクヒコさんが云った。
逃げろって
何から?どこへ?
そう問うまでもなく、手をつないだ僕らの足元に、光る「輪」が現れた。
僕を中心に、左隣のJとその胸に抱かれたクロちゃん、そして右隣のLは、「輪」からはみ出しそうなラファエルをさらにぐいっと引き寄せている。
でも、ガブリエルとNは
それにキクヒコさんも
ぐるぐる回る視界の中、目が合ったガブリエルの口が動いて「またね」と云ってるのがわかった。
声は、聞こえなかったけれど。
ぐるぐると入り混じって横線模様になった視界が、細切れになって千切れ飛ぶ。
唐突に、ぐるぐるが止まり、何かに引っ張られるように、僕はその場にへたり込んだ。
風の音、それから、草のにおいがする。
西に傾いた日差しを顔に感じて、思わず目を閉じる。
けれど、左手につないでいたはずのJの右手の感覚がないことに気づいて、慌てて目を開く。
視界が暗くて、頭が重い。
すぐにそれが、キクヒコさんが僕の体で着けていたあのゴーグルとヘッドホンのせいだと気づき、外してとりあえず首にかけた。
明るくなった目の前には、西日に照らされた、ひび割れたアスファルトの空き地。
さっきまでJがいたはずの左隣には、クロちゃんがちょこんと立っていて、不思議そうに僕を見上げていた。
右手は、Lとつないだままだ。
見ると、アスファルトに尻もちをついて、ラファエルを右手で抱えて半ばその大きな黒い体にもたれるような格好で、Lは顔をしかめている。
「いててて、あいつ、もっとやさしく飛ばせねーのか?」
元気そうな声がして、ほっと息をつく。
「ここどこ?みんな無事?」
クロちゃんの目がくるくる動いて、心の声でJが云う。
ここは、とあらためて周囲を見渡す。
アスファルトの空き地の向こうには、二車線の車道が見える。空き地の左右は、背の高い雑草の生い茂るジャングルだった。
後ろを振り返ると、あの白い鉄の塀。
ここは、工事現場の駐車場だ。
「だなー、なんでここなんだよ、縁起の悪い。もっと安全そうな場所なかったのかー?」
ぱんぱん、とお尻の砂埃を払いながら立ち上がり、ラファエルの頭をぐりぐりなでながらLも辺りを見渡す。
そして、Jの「みんな無事?」に答えて、
「K、ラファエル、おまえとクロちゃんもひとまず無事。ネコチャンとガブリエルは、いねーな。あとキクヒコも」
Lの云う通り、Nとガブリエル、それにキクヒコさんの姿は見えない。
いや、キクヒコさんの姿は、実は僕はまだ知らないけれど、それらしき姿も、見えない。
「輪」の能力で、いっぺんに飛ばすことができなかった、という事なのだろう、けれど。
僕らを飛ばして、その後すぐにガブリエルとNを飛ばす事も、できそうに思える。
「もちろんあいつもそーするつもりだったんだろーね。でも」
そう云って、Lはもう一度、ゆっくりぐるりと周囲を見渡し、何かを待つように黙り込む。
さわさわと風に鳴る雑草の音、そして遠くでヒグラシだろうか、かすかにセミの鳴き声と車の走り去る音がする。
静かな夏の午後の、工事現場の駐車場跡。
ガブリエルとNは、姿を現さなかった。
ふと思いついて、頭の中で「オレンジの海」を「振り返り」、心の声でガブリエルを呼んでみた。
オレンジの海には、誰もいない。
白い星の砂浜に、ガブリエルの部屋へ通じるあの大きな窓も、今は見えなかった。
Jのお庭につながる窓が開いていて、それが砂浜にぽつんと浮かんでいるだけだった。
僕の右手がぎゅっと握られ、見るとLが照れくさそうにそっぽを向きながら、
「もう手離すぞー」
そう云って、すっと手を離した。
そういえばあの時、Lは、キクヒコさんが僕らを「輪」で飛ばそうとしている事に、気づいてたのかな。それで手をつないだの?
「いやあ?何かするつもりかなーと思ったくらいで、いきなり飛ばされるとは思わなかったぜー?とっさに、手をつないどけばおまえとJとは密談できるかなーってね」
肩をすくめてみせ、
「キクヒコもなー、もうちょっと、Mちゃんと建設的な話し合いができるのかなーと思ってたら、なーんかあいつら、いきなりバチバチ火花散らしてたねー」
ふふっと笑う。
もう、Lはいつも通りの楽しそうな笑顔になっている。
そうだ、M。
キクヒコさんの云う通りなのだとしたら、Mは、嘘をついて僕らを騙していた事になる、けれど。
Mが見せてくれたA-0の記憶や、話してくれたアルカナやロリポリの話は、どれも嘘だとは思えなかった。
「うん。嘘つきの常套手段、ってやつかな。上手な詐欺師は、本当の話の中にちょっぴりだけ嘘を混ぜるってよく云うよね。Mちゃんが詐欺師なのかどーかはともかくね」
楽しそうにそう云いながら、Lは何か思考を巡らしているらしい。
Mが「アルカナの王」であるという事、そして、M-0という名前。それが嘘だとキクヒコさんは云っていた。
自分で「アルカナの王」を名乗るやつはいない、と。
そして最後の王はK-0、つまりM-0は存在しないナンバーという事になる。
それなら、Mは、何者なのだろう。
「Mちゃんが何者か。それを考えるにはちょっとまだ材料が足りねーかなー。んじゃ、別の角度からいこう。「アルカナの王」を名乗る事で、Mちゃんにはどんなメリットがあるんだ?オレたちにそう思い込ませると、あいつはどんな得をする?」
Mは、アルカナの王だと名乗り、アルカナとロリポリの話を僕らにした。
単純に考えれば、僕らを信用させるため、だろうか。
Mは、何らかの目的があって、僕らに接触したかった。
そのためには、キクヒコさんが邪魔だった、のかな。
だからあの時、キクヒコさんが僕に体を返すあのタイミングで、「ぐるぐる」で僕らをあの意識空間へ引き込んで、キクヒコさんだけを別の場所に隔離して、眠らせた。
「だろーね、キクヒコが無理して弱ってたのは間違いないんだろーし、Mちゃんは付かず離れず、こっそり隠れて、チャンスを狙ってたんだろーなー」
付かず離れず
そうか、Mが「アルカナの王」ではないのだとしたら、ロリポリの意識の中にいる、というのも嘘なのかも。
実は肉体を持つ人間で、こっそり隠れて僕らの様子を遠巻きに見ていて、あの地下空間まで着いて来ていた、という可能性もあるのかな。
「オレ、扉のパスコードを声に出して云っちゃってたからなー、あれは失敗だったかー?あるいは、オレが云うまでもなく、Mちゃんは最初からパスを知ってた人って可能性もあるか」
鉄の扉は、確かにLがパスを声に出して云ってたので、それを聞いて覚えていれば開けることもできたはず。
あるいは、最初から知ってた可能性?Mの正体は、研究者側の誰か、という事だろうか。
「うん、可能性で云えばね。あいつの目的はわかんねーけど、まあたぶん「王の力」とか、そんなのが妥当なとこかなー。おまえか、ガブリエルのどっちか。もしくは両方確保できりゃ最高、みたいな感じじゃね」
さらっとLが云うので、驚いた。
だとしたら、まずいのでは。
ガブリエルはまだ、Mの手中にある、のかもしれない。
「まずいって?あーネコチャンとガブリエルがピンチってことか?そりゃ、どっちもどっちじゃねーか?」
不思議なことを、Lは平然と云う。
どっちもどっち
どっちの片方はNとガブリエル、なのだとしたら、もう片方のどっちは、僕ら?
僕らもピンチである事には変わりない、という事?
「いや、おまえがあいつらの事を「まずい、ピンチだ」って云うんなら、ね。そりゃオレたちも同じよーなもんだろ。敵が誰で味方が誰なのかもわかんねー。そもそも敵なのかどーかすらわかんねーけど」
Lは微笑んで、肩をすくめてみせる。
僕は無意識に眉間に皺を寄せている。
敵が誰で味方が誰なのかもわかんねー?
敵はMで、味方はキクヒコさん、
じゃないの、かな。
「そんな少年マンガみたいなわかりやすい構図なら良かったんだけどねー。さっきMちゃんが最後に云ってた事も、オレは一理あるような気がするんだよなー」
Lは腕組みをしながらそう云って、また何か考えるような表情になる。
Mが最後に云ってた事。
『キクヒコ、あなた、キクタの事はよく覚えているようですね。本当に記憶を失くしているのですか?』
嘘を指摘された事での動揺か、それとも挑発だったのか、オレンジの球を激しく明滅させながら、冷たい声でMはそう云っていた。
本当に記憶を失くしているのですか
Mは、それがキクヒコさんの嘘だと云いたかったのだろうか。
でも、それこそ、だったらキクヒコさんは何のためにそんな嘘を?
「何のためかは、わかんねー。それも材料が足りないからねー。じゃあ、嘘じゃないって云える、ほんとにキクヒコが「海」とのつながりと記憶の大半を失ってる、その証拠ってあるか?実はないんだよなー。ルリおばさんを助けるために、ヌガノマの体に意識を移す、それはガブリエルが聞いた話だったよな。そして、ヌガノマとの対決に向かい、戻ってきたキクヒコは、「惨憺たる状態だった」それは、ネコチャンの証言だ。あいつがヌガノマに入ったとこは誰も見てない。それと、ガブリエルが「海」で話して以降、実際に、キクヒコが「海」とつながってるところを、オレ達の誰も見た事はない。ゆえにキクヒコは「海とのつながりと大半の記憶を失ってる」?ほんとにそう云い切れるか?ちょーっと弱い気がするんだよねー」
キクヒコさんが、実は「海」とのつながりも記憶の大半も失っていない、そんな事があり得るだろうか。
考えるまでもなく、Lの云う通りだった。
それはあり得る。何のためかはわからないけれど、キクヒコさんが「海とのつながりと大半の記憶を失った」フリをしている、その可能性はある。
実は「海」にもつながれるのかもしれないし、本当はすべて覚えているのかもしれない。
Mは、その可能性を指摘した、という事かな。
知ってか知らずか、あるいは、苦し紛れの云い掛かりだったのかもしれないし、もしかすると確信があっての事だったのかもしれない。
わからない。
「だろ?んじゃ、心配してもしょーがねー。元々、どこにいるんだかもわかんなかったやつだぞ?少なくとも今はネコチャンが一緒なんだから、まあ何とかなるだろ」
くいっと口角を上げて、Lは笑顔を作ってみせる。
ガブリエルのことを云ってるのだろう。
なるほど、わかったかもしれない。
Lは決して、心配していないわけでもなく、平然としているわけでもない。
ここに飛ばされてからの短い時間で、今のような考察をして、Lなりに納得した、という事なのだろう。
だったら、僕が横から口出しして、ピンチだ何だと余計に騒ぎ立てるのは、何と云うか、ナンセンスだ。
「いやいや、そーいう事でもねーんだけど?まあ、おまえがそれで納得できんならそれでいっか」
Lは困ったように苦笑して、肩をすくめている。
「それに、あの場にはキクヒコがいたからね。「輪」でネコチャンとガブリエルをどこか安全な場所へ飛ばしてくれてりゃ御の字だし。Mちゃんに邪魔されるとかして飛ばせなかったんだとしたら、まだあいつら3人一緒にいるって事になるだろ。あの3人なら、まあ大抵の事はだいじょぶだろ」
ふふん、と笑う。
「そんなことより、おまえ、ひとまずこれで「めでたし」じゃね?」
Lが云うと、黙って僕らの話を聞いていたJも
「そうそう、無事に「体」に戻れたんだし。ちょうどお家の近所に出て来れたでしょ」
クロちゃんが、小首をかしげるようにして僕を見上げている。
めでたし
確かにJの云う通り、無事に自分の体には戻れたし、家もすぐそこだ、けれど。
これで「めでたしめでたし」で、家に帰っても良いものだろうか。
「なんで、ダメなのか?」
そう尋ねるLの顔は、何故かニヤニヤしてる。
「ちょっと、L、ダメだからね」
何がダメなのかな、JがLを制して云う。
「何がだよ。オレ何も云ってねーじゃん。こいつが「めでたしで良いのか?」って真剣に悩んでるから、「ダメなのか?」って聞いただけじゃん」
Lはニヤニヤしたまま肩をすくめる。
「だから、そういうのダメだってば。Kには、そういうのは」
Jがそう云うのを聞いて、なんとなく察した。
つまり、このままで良いのか、とか云いながら、僕がまたガブリエルを探しにあの地下空間へ戻ったりするんじゃないかと、Jは心配しているのだ。
そしてたぶん、Lも。
「ほらね、だいじょぶじゃん。ちゃんとわかってるだろ、うちの「王」は賢いからねー」
ふっふー、とLは笑う。
確かに、云われてみれば、だった。
以前までの僕なら、このまま家に帰るなんてとんでもない、とばかりに、あの海沿いのクレーターから、また地下道を通って工事現場の地下へ向かおうとしたかもしれない。
「あーそれなんだけどさ」
Lが、Jの真似をするみたいに、ぴこんと人差し指を立てて、
「あんだけの規模の地下施設が工事現場の下にあって、入り口があの海沿いのクレーターからの長ーい地下道しかない、なんて事は、まあないよね?」
ふふんとNみたいに鼻を鳴らして云う。
「他にも、この辺にも入り口があるかも、ってこと?」
Jが尋ねる。
それは、云われてみれば、Lの云う通り、かもしれない。
キクヒコさんは、僕らに「見せる」ために、あえてあのルートで海沿いのクレーターから、この工事現場の地下のロリポリの前まで行ったのだろうけれど。
普通に考えて、工事現場の地下の施設にいたアメリカ軍の研究者たちが、外へ出るためにいちいちあの1.5kmもある地下道を通って海沿いまで行かなければいけない、というのはあまりにも不便だし効率が悪すぎる。
「あのロリポリのホールの、オレたちが入って行った東側の地下道の扉のちょうど反対側、つまり西側の壁と、ロリポリの右側、北側の壁に、同じような鉄の扉があったんだけど、気づいてた?」
さすが、L、秘密基地マニア、と思った。
僕は、ロリポリにばかり気を取られていて、周囲がどうなっていたのか、そんな扉が他にあった事になんて、気づきもしなかった。
「あ、「あった」ってクロちゃんが。わたしは、見てないけど」
Jが云う。
「おー、視力抜群のクロちゃんにも見えてたんなら、間違い無いよねー」
Lは楽しそうに笑いながら云う。
東側の反対側、つまり西側と、右手側、つまり北側。
地下施設はそちらに続いていて、地上へ通じる出入り口もそのどちらか、あるいは両方にあった、という事なのだろうか。
西と北、その地上には、全く売れずに空き地だらけの、ニュータウンの分譲地がある。
その地下に、Mの云っていた「研究施設」やヌガノマの治療をしていたという病室もあるのかもしれない。
「うん。まあ火事のこともあるからなー、そっち側が無事なのかどうかは、わかんねーけど。それに火事と云えばさー、キクヒコが邪魔してくれたおかげで、Mちゃんが話してくれるはずだった「あなた達の事」を、まるごと聞きそびれちゃってんだよなー」
残念そうに、Lは口を尖らす。
そうだ、Mは云ってた。
『私が、あなた達に伝えたいのは、私達のこと、そして、あなた達のことです』って。
Mのやわらかな声としっとりと耳ざわりの良い物云いが、まだ耳に残っている気がする。
敵かどうかは別として、嘘や悪意のある人物だとは、あの時の僕には思えなかった、けれど。
「まあそれはともかくね。来週にはJも眼を覚ますだろうしさー、そしたらまた行こうぜー、地下の出入り口を探しになー」
ふっふっふーと腰に手を当てて笑い、
「だから、今日のところは、これで「めでたし」って事にしよーぜー」
そう云うなり、Lはひび割れたアスファルトの上にぺたんとお尻をついて座り込んだ。
あらためて空を見て、思う。そうだった、もうたぶん夕方に近い時間なのだ。
Lは、朝から走り通しに走って、その後地下を延々歩いて、その間ほとんど飲まず食わずだった。
あの廃線の駅で、水を少し飲んだだけ。
しかもLは、半年間も眠り続けていて、つい先日目覚めたばかり、いわば病み上がりに近いような状態なのだ。
キクヒコさんより何より、Lの方が限界だったのでは。
「そんな大袈裟な。まあ腹ぺこには違いねーけど」
僕を見上げて、へへへと力なく笑うLが、ぐらりとよろめいた。
「おい」
と思ったのは僕の錯覚で、よろめいていたのは僕だったらしい。
とっさに下からLが支えてくれなければ、アスファルトの上に崩れ落ちていたかもしれない。
「おいおい、おまえこそ、だいじょぶか?ってか、これ、まさか・・・」
そう云って、ずるずると崩れ落ちそうになる僕の体を両脇から抱えるようにして支えながら、Lが言葉を失う。
まさか?
「まさか、K、眠っちゃうの?」
Jが言葉をつないでくれた、けれど。
え、まさか。
そう云えば、キクヒコさんから体を返してもらった直後にもふらついていて、その後にも何度か、眩暈がするような気がしていたけれど。
「あー、キクヒコか。あいつ、おまえの体で飛んだり跳ねたり好き放題に「力」使ってやがったもんなー。とは云え、なんでここで寝るの。やめよ?縁起でもねー」
縁起?はどうだかわからないけれど。
ここで眠ったらLのように半年も眠り続けてしまうかも、という意味かな。あれはLが自分からそう望んで眠り続けていただけでは。
ともあれ、勝手にどんどん閉じてくる眼を、必死に開けようとするだけで精一杯だった。
体からはじわじわと力が抜けていき、Lに申し訳ないと思いながらも、手足に力がぜんぜん入らない。
キクヒコさんが、何のつもりか「泡」で空を飛んだり、「輪」で飛んだり、「道」で滑ったり、さんざん僕の「体」をこき使ってくれていたのは明らかだった、けれど。
それにしても、ほんの数日の事で?
たったそれだけで、眠りについてしまうほどの負荷が貯まるの。
「いやー、その前からじゃね。おまえ、いろいろ実験とかしてたし。それに「音」は常に聞こえてるわけだろ。止めたりできねーもんなー。あーせめてキクヒコに、能力の効率の良い使い方くらいは聞いとくべきだったよなー」
どんどん力が抜けて崩れ落ちていく僕の身体を抱えて、自身も疲労困憊しているのに、Lはまだ、いつもの陽気な声でそんな事を云ってる。
「あ、今のうちに云っとくけど、おまえが眠っちゃったら、おまえはここに置いて、オレひとりでおまえんちに駆け込むからよろしくね。さすがにあそこまで運ぶのはオレには無理だから。ラファエルはここに置いていくし。J、おまえもちゃんと見張っててくれよなー」
ふははー、Lは陽気に笑う。
それはもちろん、構わないけれど。
ラファエルがいてくれるなら安心だし、Jもクロちゃんと一緒に見守ってくれるならさらに心強い。
それにしても、手足に力が入らないどころか指一本すらも動かせない。
こんな眠気と、LもJも戦っていたの。
「いやあ?オレはわりとあっさり降参してたよねー。だって、ほんとに動けねーんだもん。すげーのはJのお嬢だぜー?その状態で海まで行っちゃうんだから」
そうだった。
Jはあの神社から海まで歩いて、しかも海に着くなり「海だー!」って大声で叫んで波打ち際ではしゃいでた。
僕には絶対、あれは無理だ。
「んん?何か引っかかる云い方だねえ。それじゃあまるで、わたし、筋肉ゴリラか何かみたいじゃない?」
Jが真面目に反論したので、思わず吹き出してしまった。
しかも、筋肉ゴリラって、面白すぎる。
「うん、いい笑顔だけど。K、もう眼が開いてないよ?」
くすくすとJが笑う。
その時、
キュッと自転車の短いブレーキ音がした、ような気がした。
何故か突然、Lが盛大に吹き出して、僕を抱えたまま声を上げて笑い出す。
「うそ。アイが来た」
信じられないものを見たみたいに、Jが云う。
Jの声は、やっぱり魔法の声だと思う。
ひらけごま
まるでそう呪文を唱えられたみたいに、僕の眼がすーっと開く。
駐車場の入り口に、驚いた顔のアイが立っていた。
自転車のスタンドを立てるのもままならない慌てぶりで、結局うまく立てられず、自転車を歩道に放り出してこちらへ向かって駆けてくる。
高級そうな真っ赤な電動マウンテンサイクルが、スローモーションのようにゆっくりと、がしゃんと派手な音を立てて歩道に倒れた。
ああ、また自転車を壊したりして、お父さんに怒られなければいいけれど。
なんとなくそうつぶやくと、ツボにはまったらしくLが手を叩いて爆笑する。
こちらへ駆け寄ってきたアイが、そんなLを見てぎょっとした顔で足を止めかけている。
「キクタ!ミカエル!」
それでも足は止めずに、ついに僕らの前までやってきて、アイは従者のようにLの前にひざまずいた。
「おまえ、なに笑ってるんだよ?キクタは無事なのか?」
大真面目にそう尋ねるアイがおかしくて、失礼ながら僕も笑ってしまった。
「いやあ?おまえがまるでマンガみたいなタイミングで現れるから、面白くなっちゃってね?」
ひーふーと息を整えて、ようやく笑いの発作が治まったらしい、Lはあらためてアイを見上げて、
「いやいや、ほんと助かったぜー。悪いけどおまえ、こいつを家まで運んでくれる?」
そう尋ねたけれど、尋ねたというよりそれはもう命令みたいなものでは。
「そ、それは構わねーけど、キクタ、どうしたんだ?どっか怪我でもしてるのか?顔は、元気そうだけど」
元気そうも何も、半目を開けて満面の笑みなので、たぶん、ちょっと不気味なくらいなのではと思った。けれど、まあ、アイの事だから、気を使って「元気そう」と云ってくれたのかもしれない。
「あー、どこも怪我はないんだけど、「眠りそう」なんだよねー」
Lのその云い方で、アイは悟ったらしい。顔色が変わった。
さすがに、LとJと、ふたりの眠ったところを見て来ただけの事はある。
この道のプロかもしれない。どんな道なのかはよくわからないけれど。
「ちょ・・・K、もう、おとなしくして」
さっきからJが黙ったままなのが不思議だったのだけれど、なるほど、声を殺して笑っていたらしい。
別にアイに聞こえるわけでもなし、Jこそ大声で笑ったらいいのに。
「だよな」
Lもうなずいて、ニヤニヤ笑ってる。
「そりゃ、お安い御用だけど。ほんとにおまえら、だいじょぶなのか?」
僕らを見るアイの眼が、何だか奇妙なものを見る眼になっているような気がする。
「だいじょぶだいじょぶ、ちょっとへんなキノコ拾って食っちゃっただけ。嘘だけど」
僕の体をぐいっとアイの方に押しやりながら、ニヤニヤ笑いのLが云うと、ついに心の声でJが盛大に吹き出した。
ころころと転がる鈴の音のような、心地良いJの笑い声が心に響いて、ああ、僕は何てしあわせなんだろうと思った。
「ああん?なに云ってんだ?まあいいけどよ」
怪訝そうな顔のまま、アイがその大きな両手を伸ばして、僕の体を抱き上げようとする。
しあわせな気分が一転、心に警鐘が鳴り響いた。
耳の奥の警告音、ではなく、もっと本能的な警鐘。
こいつまさか、僕を抱っこしようとしているのでは。
しかもあの、Jと同じ、お姫様抱っこ?
「お、おん・・・」
眠気で開かない口に力を込めて、どうにか声を絞り出そうとするけれど、うまくいかない。
抱っこは嫌だ。せめておんぶ、おんぶで。
「あー、おんぶしてほしいって?」
僕の心の声を、Lが代弁してくれる。
「はあ?どっちだっていいだろそんなもん」
ぶつくさ云いながらも、アイはその場でくるりと背中を向けてくれる。
Lが、いってらっしゃいとばかりにぐいっと力を込めて僕の体を押し、もたれかかるように僕はアイの背中に乗せられた。
ぐっと僕の両足をアイの手が支えて、そのままふわりと宙に浮かぶように力強く立ち上がる。
おお、高い。それに、背中が広い。
どっこらせ、とLも立ち上がって、アイと並んで歩きだす。
ばさばさっと羽音がして、クロちゃんが飛び立つのが僕の狭くなった視界の端に見えた。
「こいつ、ほんとにもうだいじょぶなのか?なんでこいつまで、眠っちまうんだ?」
駐車場の入り口辺りまで歩いたところで、遠慮がちにアイはそう口を開いた。
「ああ?えーと何だっけ、隕石のアレ?は消えたから、もう飛んだり跳ねたりはしないと思うぜー。その点はもうだいじょぶ。で、眠っちまう方は、おまえの親父の方が専門だろ?まあ、病気って云うより、疲れて眠っちゃう?みたいな感じだから、しばらく寝たら眼を覚ますと思うぜー」
歩道に倒れたままのアイのマウンテンサイクルのハンドルを掴んで立ててやりながら、Lは云う。
そのまま、押して運ぼうとしたものの、あまりの重さに「おっも」とため息をついて、
「なあ、これここに置いてってもいいか?押して行こうと思ったけど、重すぎ」
と、Lは苦笑している。
「ああ、置いといてくれ。どうせ帰りにここ通るから、構わねー」
アイはそう云って、
「じゃあ、ジーンもか?あいつも、おまえみたいに、半年も寝たら眼を覚ます?」
歩道を東へ、僕の家の方に歩き出しながら、そう尋ねる。
半年
あーあ、ほら、Lがそんな前例を作るから、アイみたいな素直な子はそう誤解してしまうよね。それは仕方がない。
「あー?いや、半年も寝るのはオレくらいじゃね。Jもこいつもまじめだからね?2週間かせいぜい一月も寝たら眼を覚ますと思うぜー」
素知らぬ顔で、隣を歩くラファエルの頭をなでたりしながら、Lはそうとぼけている。
素直なアイは、後ろから見ていてもわかるくらい、ぱっとその横顔を輝かせて、
「そうなのか。そうか、なら、よかった」
ほっと大きく息を吐いている。
「そんな事より、おまえはだいじょぶなのかー?当分外出禁止じゃなかったのかよ」
ばつが悪いものだから必死に話題を変えようとした、わけではないのだろうけれど、Lが思い出したようにそう聞くと、アイは、うっと言葉に詰まる。
ひょっとして、とは思ったけれど、やっぱりこっそり抜け出して来たのか。
「きょ、今日は親父が夜勤で、少し前に仕事に出かけたから、な。もう夕方だけど、その、ちょっとでも何かしてねえと、気持ちが、落ち着かなくて」
しどろもどろになりながら、アイはそう答えた。
「でも、よかったぜ。ほんとに、無事に見つかって、よかった。ミカエル、ありがとな」
アイは歩く速度を緩めて、Lの方を向いて、云う。
面と向かって感謝される、なんて、Lがもっとも苦手とする事では。
「あー、オレじゃねー。こいつ、こいつが見つけた」
あさっての方を向きながら、めんどくさそうにLは横を歩くラファエルを指さして云う。
「そっか、ありがとうなー」
アイは大真面目にラファエルにそう云って、大きな手でラファエルの頭をなでている。
ラファエルは、急に大男に頭をなでられて、きょとんとした顔をしていたかもしれない。
本当に、いいお兄ちゃんだなあ、と僕は思った。
大きくてあたたかい、アイの背中に揺られながら、お兄ちゃん、ありがとう、と僕は心からそう思った。
大通りの交差点を渡り、コンビニの角を左へ曲がる。
ゆっくりと、でも着実に、アイは僕の家に近づいて行く。
アイの背中は広くてあたたかく、歩くのに合わせて揺れるリズムも心地良くて、つい眠気にひきずりこまれそうになるのを、僕は必死にこらえていた。
家に着くまでは、眠るわけにはいかない。
せめて、父と母の顔を見るまでは。
しっかりとふたりの顔を見て、心配かけたことを、そのお詫びを云うまでは、眠ってなんかいられない。
その思いだけで、必死に眼を開いていた、けれど。
がらがら、と懐かしい音が聞こえて、眼を開いた。
と云う事は、少しの間、眼を閉じて、眠っていたらしい。
その音は、ガレージの門が開く音だ。
父が車で出かけようとしているのかもしれない。あるいは、帰ってきて、車をしまったところだったのかも。
「キクタの親父さん!」
思いのほか大きなアイの声が、すぐ近くで聞こえて、びっくりした。
アイの肩越しに、家の前の歩道に立つ、無精ひげの父の姿が見えた。
どこかぼんやりとした顔でこちらを向いた父の眼が、大きく見開かれる。
アイが、背負った僕の姿が父から見えるようにと、歩きながら体を斜めに向けてくれる。
父はぽかんと口を開けて、アイとその背中にいる僕と、横を歩くLとラファエルを順に見て、くるりと踵を返した。
なんで逃げるの、と思ったけれど、違った。
玄関のドアに飛びつくと、ドアノブを引きちぎりそうな勢いでがちゃがちゃひねって回し、勢いよくドアを開けるなり、
「キョウコさん!!」
ご近所中に響き渡るような大声で、家の中に向かって怒鳴った。
ご近所が、空き地だらけでよかった。
もしこれが市内の住宅街だったなら、ご近所中が驚いて顔をのぞかせていたに違いない。
父のただならぬ気配に、何事かと思ったのだろう、ぱたぱたと廊下を走る音が家の外まで聞こえて、父が開けたままのドアから、エプロン姿の母が外へ飛び出して来た。
はだしのままで、だ。
目の下の隈が、ひどい。
あのひどい隈は、僕のせいだ。
アイがガレージの前を通り過ぎたところで、僕はアイに「下ろして」と頼んだ。
声が出ないかもと思ったけれど、ちゃんと聞こえていたようで、アイは玄関の前で体を横向きにして膝を曲げ、ゆっくりと僕を下ろしてくれた。
下ろして、とは云ってみたものの、体に力が入らないのは変わりなく、ふらつく僕を、アイが横から支えてくれた。
眼も、半分ほどしか開いていないので、眼の前の母の顔もよく見えない。
母は何か家事の途中だったのか手に布巾のようなものを持っていて、両手でぎゅっとにぎりしめたそれで、口元を覆っている。
何か叫び出しそうになるのを、必死にこらえている人みたいだった。
「キクタ」
母の口から絞り出すような声がそう云ったけれど、その声は掠れてほとんど出ていなかった。
「ただいま。ごめんなさ・・・」
僕も、ちゃんと声が出ていたのかどうか、自信はなかった。
云い終える前に、母のエプロンで僕の顔は塞がれてしまった。
「キクタ!」
母は僕をぎゅっと抱きしめて、もう一度、今度はちゃんと声に出して僕を呼んだ。
母のエプロンからは、懐かしい柔軟剤の香りがした。
母のお気に入りの、あの甘くてやさしい香りだった。
眼の前が真っ暗になったのは、母のエプロンのせいだけではなかったらしい。
緊張の糸がぷつんと切れたみたいに、あっという間に僕は眠りに落ちていた。
L、ごめん、と思った。
「いやあ?まあだいたい、オレってこういう役だよねー。Jの時もさー」
はっはっはー、というLのいつもの陽気な笑い声が、「オレンジの海」から聞こえていた。
arcana iv
屋根裏ネコのゆううつ